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聖典引用 板
570
:
うのはな
:2012/05/02(水) 13:54:51 ID:El6gIMAw
赤ちゃん誕生 『奇跡の教育』 鹿沼景揚 先生著 P146〜
私が戦地から復員してわが家に帰りますと、家族は泣いてよろこびました。
しかし、そのよろこびもニ〜三ヶ月で平静となりますと、これまで、母と娘の二人で
バランスのとれていたところへ、夫が入ってきますと、夫と妻のむすびつきとなり、母が一寸はみ
だすというむずかしい人間関係となりました。
この際、妻が働きにでて、母が留守役にまわるというのが、普通のケースですが、私の場合は、妻は
ながく一人で働いてきたので、この辺で家に留まり、母が働くというすがたとなりました。
しかし、大人三人の生活はなんとなくギシギシしていますので、こういう場合に、赤ちゃんでもできれば、
それに気がまぎれてきっとうまく行くだろうと思いました。そして待望の赤ちゃんが生れました。
これですばらしくなるだろうと期待していましたら、ここに厄介なことがおこりました。
姑と私とが教育意見が全くちがっていたのです。姑は、鉄は熱いうちにきたえよといい、私は、むしろ
ほめよ、たたえよと行きたいところです。
それは、表面上のちがいですが、もっと腹の底を割ってみると、この生れた赤ちゃんの奪いあいのようなものです。
なんとなく幸せでないときに、執着の愛でネバリツイテしまいます。おばあちゃんは淋しいからでしょう、赤ちゃんを抱いて放しません。
赤ちゃんが一人だから奪いあいになるのです。神さま、もっともっと赤ちゃんを下さいと祈っておりましたら、赤ちゃんが生れてくる通路が
大きく開いたのでしょうか。一年十一ヶ月で二番目の子、また一年十一ヶ月すると三番目、また、一年十一ヶ月で四番目が生れそうになりました。
つづく
571
:
うのはな
:2012/05/02(水) 14:16:13 ID:El6gIMAw
570つづき
そのとき一寸不安になりました。
「こんなに規則正しく一年十一ヶ月に生れると、家内の妊娠可能な年齢の間に、
相当に沢山の数となります。神様、この辺でストップして下さい」とひとり言を申しましたら、
何の前ぶれもなく、スーッと流産してしまいました。
私は非常に驚いて懺悔しました。あれほどまでに欲しいと一所懸命にお願いしていたのに、神様の方から、
それではというので三人四人と授けはじめて下さるようになったところを、もう多すぎます、もういりませというのは、
いかにも恩知らずであります。
神様、申しわけありません。これからは何人でも下さるだけいただきます。
赤ちゃんが生れるということは、無秩序にでたらめに生れてくるのではありません。
『生命の實相』霊界篇によれば、高級霊は地上で受くべき運命や、果たすべき使命をしって、それにふさわしい家を選んで
天降ってくるのです。わが家の教育環境はこの父とこの妻とそしてこの姑とがそれぞれの意見をもって教育はどのようにされるかを、ちゃんと
予見して生まれてくるのが、わが家の子供たちであります。
次に、地上のわれわれ夫婦はどのように考えたらよいかと言えば、特に、私について言えば、私は教育者としてできるだけ多くの体験をつむことが
よい指導者となれて、多くの人を救うことができるようになるのです。神様はそのことを承知の上で、私に与えて下さる子どもの性格やら、子供の人数やらを
きめられるのです。私の使命を果す上に大切な役割を果す子どもだけを下さるのです。
そして大事なことは、子供は生れてくるときに、自分の一生の食糧は携えてくるのであります。
ですから、子どもが増えることによって豊かになってくるのであります。
これらのことは、現代人の子どもの産みかたの上に、もっとも基本的な原理であって、
これを外れると本当の人生の意義を見失ってしまうことになります。
終
572
:
ハマナス
:2012/05/02(水) 14:46:13 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
仕事に立ち向かうときの構え (『新版 生活の智慧365章』P.144)
仕事をする時には、(一)先ず心を明るくし、(二)希望をもち。(三)必ずよいインスピ
レーションが来ると信じ、(四)今までの神の導きに対して感謝してから、(五)神の導きが
あるように祈りをし、(六)祈って心が落ち着いた時に想を練り、計画すると、神の智慧の
導きがある。(七)その計画にしたがって撓(たゆ)みなく努力を続ける――この七つの
過剰を一つでも欠いたら事業成就の鎖の円環の一つが欠けることになって効果が薄いのである。
仕事と云うものを、結果としての成績や利潤を挙げるためのみの目的のものだと思っては
ならない。事業は、成績も利潤も大切であるが、もっと必要なのは、その仕事を遂行する
心構えと、その進行中に起る色々の具体的な問題に対応する時に於ける心の練磨による魂の
向上こそ重要なのである。仕事の進行中に起こる問題の処理の仕方で、魂が却って堕落する
人もあるし、それによって大いに心が練れて、魂が向上する人もある。
仕事というものを単に唯物論的に利潤目的のものと考えてはならない。
感謝合掌
573
:
SAKURA
:2012/05/02(水) 22:27:34 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは
■幸福を招く365章
―――今を活かす事は過去未来も活かす―――
今を活かすことが光明生活の一つの重要なるようそである。明日のことを
思い煩うこと勿れ。昨日以前のことも持越苦労することはいらないのである。
一日の苦労は一日で足れりである。今の生活そのものに全力をそそぐとき、
その思い煩いに消耗するところのエネルギ−が、逆に建設的に生かされ、
新しき創造の力となり、過去の業績もそれによって活を入れられ、
生きてくるのである。「今」を生かすとき、過去の蓄積が生きて来て、
大いなる未来が創造される。「今」を生かさないで悩み煩うことに時を費やすとき、
過去はただの醜しい残骸となり、未来も失敗して悲しき末路を
辿るより仕方がないのである。「今」を活かすことはただ努力するだけでは足りない。
神想観して、神の叡智を受けることが必要である。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「今日の言葉」当にその通りに思います。
東京在中の頃、「時間人間になれる事」を、目標にしていました。
〜〜〜が〜〜〜まだ!「時間」を上手に使えてないのです…。
■「今」を活かす事が、前に進む事なんでしょう!!
そう云えば「デイリ−の小川さん」は、勤務時間が何と短いのですが…?
「今日の言葉」で…納得!で〜〜〜す。
■仕事を集中します事は、「今」を活かす事です〜〜〜ョネ!
今を大事に行動します時、“叡智”が、働きだします〜〜ネ!
再合掌
【今を活かす事】とは・・・
【時を活かす事】・・・つまりは「マインド・コントロ−ル!」なのですョ〜〜ネ!
私も此の瞬時“今”を活かす「マインドコントロ−ル」に人間に“変身”です〜〜ネ!
Ps: トキ様へ
ともすれば…過去・現在・未来…この時の流れの内…
「現象世界=現実世界…」思い煩ったり?持越苦労?とり越苦労?…
このようなア〜〜ダ!コ〜〜ダ!其の事柄を捕まえていまいますと…
「時間管理の概念が?」私自身甘いもの〜〜〜?なり
この頃、反省しきりです…。今!この瞬間の時間を大切にと思う次第です…。
「先延ばし組??」にならない様に…「時間管理」をと、思っております。集中!!
トキ様は、“先生の言葉”から、どのような事柄を、関連し思いますかしら〜ン?
574
:
ハマナス
:2012/05/03(木) 08:01:23 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
今日から、出掛けますので、すみません、引用はお休み致します。
連休明けに“お目にかかります。”
どうぞ皆様も、ゆっくりと連休をお過し下さいませ。
相手が昂奮(こうふん)しているとき (『新版 生活の智慧365章』P.145)
こちらは何の悪気もなく言った言葉や、した行為に対して、相手が事情に昂奮して呶鳴りつけたり、
罵倒したりすることがあるならば、相手の「完全な実相」を観て、その激しく昂奮している“悪い姿”
にこちらの心を引っかからせてはならない。人には“虫の居どころ”と云うものがあり、何らかの
悩みがあって神経が過分になっているのであろうから、相手をもっと同情してあげる心になることが
必要である。
相手が昂奮して罵っていても、「神様、この人は屹度何か思いあまったなやみがあるに違いあり
ません。どうぞその悩みを取り除いて実相の完全な姿があらわれてまいりますように」と祈って
あげるがよい。これが相手の「完全な実相」を引き出す力になるのである。
相手の昂奮は、時には自分が、「相手を憎む念(こころ)」をもっている其の念の反映であることも
あるのであるから、こちらが相手を祝福し、相手の幸福を祈る心になる事によって、相手の昂奮が
静まり、敵と見えたものが見方ともなるのである。
感謝合掌
575
:
金木犀
:2012/05/03(木) 11:18:35 ID:wrF1mhWI
田中忠雄先生は『生長の家』誌で「雄峯一膳飯」と
いう連載をされていましたが、けっこう面白い味わい深い文章でした。
以下は昭和57年9月号の文章です。南朝の忠臣菊池氏一族の
精神的支柱であられた大智禅師について書かれています。
五更の残月 田中忠雄先生 (1)
世は挙げてグループぼけ、独りでは何を考え何をすることもできぬ。こんな時勢にこそ、大智禅師の偈頌は生きてくる
香を焚いて独坐す長松のもと
風寒露を吹いて禅衣を湿(うるお)す
有時(うじ)は定(じょう)より起って双澗に下り
瓶(びょう)に五更の残月を汲んで帰る
これは大智禅師作「山居の偈頌(げじゅ)」八首中の一つである。大智は永平道元下、第六代の大善知識である。また古今を通じて第一級の大詩人である。
「山居」というのは、生まれ故郷の肥後の国熊本の斑蛇口山(はんじゃくやま)に住むこと二十一年の時代をいう。そこは肥後熊本の菊池郡穴郷村である。
その頃、わが国は南朝と北朝に分れて長期の戦いがつづいていた。日本中の豪族が二つに分れて戦い、九州では日和見的に強きに与して向背常ならず、自己防衛に汲々たる彼らの姿であった。ところが、ここ肥後の国菊池の一族だけは、両陣営の間をうろうろすることなく、徹頭徹尾一貫して南朝を守護し、逆賊足利の軍と戦ったのである。
南朝の大忠臣、菊池武時は菊池氏第十二代の当主で、狂瀾怒涛のさなかにも大智禅師に帰依し、家の子郎党をひきいて弟子の礼をとり、熱心に参禅した。
大智が菊池郡班蛇口山の深山に住したのは、元徳二年(1330)である。そこに武時の外護で鳳儀山聖護寺(ほうぎざんしょうごじ)が建立され、禅師はその開山第一世となった。禅師四十一歳、武時三十九歳のときだった。
これより二十一年間、武時、武重、武士(たけひと)、武光の四代にわたって、殉忠菊池一族の精神的支柱となったのは、じつに大智禅師であった。大智を開山とする聖護寺(しょうごじ)及び広福寺は今もなお存続している。彼らは戦闘に明け暮れながらも時を盗んで、居城から三里もある幽邃(ゆうすい)な鳳儀山聖護寺に出かけて行って、大智のきびしい鉗鎚(けんつい)を受けた。
576
:
金木犀
:2012/05/03(木) 15:45:35 ID:wrF1mhWI
五更の残月 田中忠雄先生 (2)
二十一年にわたる鳳儀山聖護寺の時代は、文字通り「山居」であり、禅師はこのあいだに一歩も山を出なかったのである。
いまは大智禅師伝の「山居」の事情について、そのあらましだけを述べるにとどめ、以下は専ら、前掲の偈頌一篇を味わって、この比類稀な禅匠の面目を窺うことにする。
香を焚いて独坐す長松の下(もと)
「香を焚く」の「香」は梵語tagara、音訳して多伽羅(たから)、略して伽羅(から、きゃら)、仏前にこの香料を焚いて供養するのである。これを嗅ぐと、眼、耳、鼻、舌、身の五根とその対境が清浄になるとされる。今でも仏前に香や線香をくゆらせるのは、仏教徒の習わしである。
「独坐す長松の下」……松の巨木の緑の下で、ただ独り座禅をする。樹下石上に座して頭で天を衝き、大地に結跏趺坐して微動もしないのだ。ここでは「独坐」の「独」が最も大切である。そこには群衆は存在せぬ。グループを作ってする大衆行動は存在せぬ。たとえ何人並んで坐っていても、坐るのはわれただ一人である。
坐ること自体、すでに自己が自己に成りきることだ。外から雑多な夾雑物を詰め込んだ自己が五官の迷いを去り、先入の思想を捨て、背負い込んだ俗人の荷物を残らずおろし、天上天下ただわれ一人になる。但し、一人といえば一、二、三の数のようだから、やはり「独り」の方がよい。
学徒あり、百丈大和尚(唐代の大哲人)に問う。「如何なるか是れ奇特の事」……めったにない特別に素晴らしいことは、どんなものでしょうか、と。百丈答えて云く、「独坐す大雄峯」……わしがこの大雄峯(百丈山の別名)に、この通り独り坐っていること、これが宇宙で最大の奇特である、と。この「独坐す大雄峯」は、千古不朽の名高い金言であるから、久しくこれに参じた大智禅師が、「香を焚いて独坐す長松の下」という一句を吐いたのは、たくまずして最尊至高の仏行たる坐禅をする姿である。
577
:
トキ
:2012/05/03(木) 19:05:01 ID:Gl6TQvmc
会社の重役をしていた生長の家の先達が言われていたのですが、現役で仕事をしていた頃は
信仰をしている人もしていない人も同じ様に生き生きしているが、さて定年で退職すると、
信仰をしている人は同じく生き生きしているのに、信仰をしていない人はとたんに老けて
しまう、と言われていました。仕事で忙しい時には、信仰をしていなくても「今」を生きて
いるのですが、仕事がなくなると、信仰をしていない人は「今」を生きていないので、
老けるのでしょう。
いそがしい事は、素晴らしい事です。
578
:
SAKURA
:2012/05/04(金) 02:22:56 ID:nzaNcD6I
>>577
「トキ様」本当に、そうです〜〜ネ…!
「定年退職」されました方達は、急に?“老いる”確かに見受けられますかしら〜〜ン?
思いますに、定年になり、今から“再スタート”と言って張りきっていた方がいましたが…
その後、急にふけられまして“ビックリ”なのです?聞きますと、やはりと想う処が…
どうもこの方は、奥様に振り回されている様なのです…。
今までは、仕事の会話で“外に向けての行動でありましたのが…近所の付き合いから…
更に!低次元?の“井戸端会話”に入っていて、少しでも“反論”しますと…
もう〜〜〜それはすごい“反論の洪水が〜〜><”
結局!ふり廻される事になり、何が?どの様に?なって行くとか〜〜ではなく…
何も考えたくなくなる!!そうなので〜〜す。
“振り回されない”その様にするには「ハイ!ハイ!あなたは最高の奥様です…」と、
“毎日!呪文の様に、唱えているそうです…。そうでもしないと食事の準備が〜〜?」
聞いていて大変なのです〜〜〜ネ!
今回!急に“老いる”のも、このような「夫婦の関係」による場合もある様です〜〜〜ネ!
私も、「この年齢???」と成りますと…
「雅春先生の言葉」から、いつも女性も“書物”を読む事と、言っておられましたが…
■「読書の力」というものは非常に大きなものでありまして本を読む事によって、その人の
思想が変わり、人格が変わり、行動が変わるのであります。
或いは悪い本を読めば、悪い感化を受ける。…云々…
良き書物を読みますと、言葉の力が精神に感応して、心の波長が自然に変わって
来るのであります。
谷口雅春著
「女の生き甲斐」より一部抜粋…
再合掌
579
:
志恩
:2012/05/04(金) 02:26:08 ID:.QY5jUA6
トキさま
いいお話をありがとうございます。
ほんとうにトキ様が、おっしゃる通りですね。
私も,毎日、幸せいっぱい、生き生きと生きております。
我が家は夫が、大部前に定年になり年金生活に入っておりますが、
われわれは、いい宗教に入信出来,生長の家に触れる事が出来、幸運だったと、いつも言っております。
私の場合、特に恵まれているのは,家族も全員、親戚,兄弟姉妹も全員、他の宗教に入信している人がいなくて、
見回す限り、温度差はありますが、全員が生長の家であり、いい宗教だと思って下さっていることです。
ですから、善意に溢れた方ばかりに囲まれていますので、いつも心に安心感があるのです。
もちろん、日々晴天ばかりではありません。人間ですから、時には現象から見て、過酷だと思える課題も
与えられる事もございますが、
自然と時間が、解決して下さいます。この教えが、あればこそだと、感謝する日々です。
トキ様、
私は,純子先生著「四季の弁当」(ノーミート)を,アマゾンコムで注文して買って,読んでみました。
上質の紙を使用していて、ノーミート料理の数々が紹介されていて、1000円にしてあるので、これは買い易い値段ですので、
売れると思いました。この本自体は、いい本だと思います。
しかし、これを,テキストにして、本来の生長の家の著書をテキストにしないなんて、本末転倒だと思いました。
私自身、ずっと昔から、たまに肉も食べますが、あとは、もともと、このノーミートの本のような食生活を実践している人間ですから、
尚、そう思いました。
トキ様、
本来の生長の家を知らない人達は、今の教えである《 脱原発、環境、ノーミート、絵手紙》 が、生長の家であると思いますから、
教団本部の皆様も総裁について行くしか,暮らしが成り立ちませんし、教団の人達は、何も考えないようにして、無になって、
総裁ご夫妻をマツリアゲて、このまま、行くんでしょうね。
580
:
志恩
:2012/05/04(金) 02:42:43 ID:.QY5jUA6
定年後に老けないで済む、生き生きと生きていかれるコツは、
勿論、いい信仰を持つことですが、他は、
何か,なんでもいいですから、自分が打ち込むことのできる趣味を持つ事だと思います。
それと、一日一つ、大した事でなくてもいいですから、自分の為でなく,ごく身近な家族のため他人のため、
見返りを求めず、深切にしたり、やさしくしたり、小さいいいことをすれば、自分の心がよろこびますから、
だれでも、生き生きと生きて行かれると思います。
581
:
志恩
:2012/05/04(金) 03:09:46 ID:.QY5jUA6
金木犀様
田中忠雄先生の禅のお話を謹写して下さいまして、ありがとうございます。
これは、ももんが様の得意分野ですね。
私には,難しくて、分った様な分らない様な、というご文章です。
田中忠雄先生は、雅春先生のご信任の厚かった元・生長の家長老・本部講師でいらしたお方。
この田中忠雄先生の
「法燈継承」「法脈」…の考え方を引用されたご文章が、愛国「本流☆…復活」掲示板の(68)に載っていました。
投稿者…一求道者様の文より一部抜粋
田中忠雄先生曰く「何をもって【法燈】となすかー「法脈…」について
常識的な社会通念から考えると、宗教において、開祖の教えを受け継ぐという
「法燈継承」の定義は、
”一杯の盃の水を、一滴の水も零さず、残さず、そのまま次の盃へ移しかえる事です。”」
582
:
金木犀
:2012/05/04(金) 05:20:40 ID:wrF1mhWI
志恩様
「法燈継承」の定義は、
”一杯の盃の水を、一滴の水も零さず、残さず、そのまま次の盃へ移しかえる事です。”」
さすが田中忠雄先生ですね。まさにその通りですよね。
583
:
金木犀
:2012/05/04(金) 05:22:54 ID:wrF1mhWI
五更の残月 田中忠雄先生 (3)
ちなみに、今の質の悪い民主主義社会では、凡夫の凡情がたくさん集って大きい勢力を形成し、この多数者の凡情に従わないやつは、民主主義に反すると言って、むかしの言葉で言うと、まるで「非国民」のようにこれを村八分にする。みんながこうだ、といえば、2と2が5になっても反対できないみたいに横車が押せる世のさまである。
ということは、世は挙げてグループぼけして、独りでは何も考えることができず、何をすることもできないということだ。その変わり、グループで景気をつけて、一斉に同じことを叫び、一斉に腕を突きだして、やるぞ、やるぞと気勢を挙げるときは、一ばんくだらぬ劣等者が生き返ったように元気づく。反面、グループを離れて一人になると、途端にしょんぼりして、やがてうとうとと居眠りしながら、だらだらと涎(よだれ)をこぼす。
最近、小学校に行く子供の一人もあろうかと思われる女の人が、訪ねてきて、反核運動に賛成の署名をして欲しいと言った。今の反核運動には反対だから、私は署名しませんと言ったら、びっくりした様子で、唖然として私の顔を見詰めた、そこで、この運動はソ連を喜ばせるだけなんですよ、と言ったら、なおさら唖然としている。やがて気を取り直すような様子で、つぶやくように言った。「ご近所の皆さんは残らず署名されたのですけれど……」と。この一語を残して、彼女は出て行った。
今の多くの文学者、音楽家、芸能人、そして多くの仏教教団、多くの新宗教教団は、この婦人と本質は同じだ。むかしヒットラーが台頭した頃、これに対抗した反ファッショ人民戦線も国際共産党の戦略戦術だった。京大の勝田吉太郎教授の最近刊『平和病日本を撃つ』を貰ったら、そのへんのことが詳しく立証されていた。同教授は宗教新聞『中外日報』でもこれを痛論し、大多数の宗教教団人は、政治音痴、国際音痴だと断言しておられた。みんなグループを頼り、大新聞におだてられ、平和と反核を訴えるが、中味はそっくり共産党に持っていかれることを知らないお人よしである。
こんな時勢にこそ、香を焚いて長松のもとに独坐せよ。そうして、「独」の一字に参ずべしだ。咄(とつ)。
584
:
志恩
:2012/05/04(金) 05:34:56 ID:.QY5jUA6
金木犀様
583:
五更の残月 田中忠雄 (3)
を拝読して、やっと、(1) (2) (3)で、
田中忠雄先生が述べられた真意を理解することが、できました。
謹写、感謝申し上げます.合掌。
585
:
金木犀
:2012/05/04(金) 07:01:26 ID:wrF1mhWI
志恩様
たしかにそうですよね。途切れ途切れに読むことになるので、
一部では意味不明になることありますよね。
実はまだまだ続くんです。やっと半分に来たかどうかというところです。
田中忠雄先生の文章は、むかしの方だし、禅の研究家のような方なので、
いろいろと現代人が使わない言葉をふんだんに使われますから、
難解なところがあります。
でもそういう言葉を味わうのもまた一興かなと思います。
586
:
志恩
:2012/05/04(金) 07:11:24 ID:.QY5jUA6
金木犀様
あははははっ
未だ,続くのでしたか。すみませんでしたね。いくつも横スレしてしまいまして。
続きを楽しみにしています。謹写、ありがとうございます。
今後,そういうときは、
「長文ですから、私が、おわりですと書くまで 横スレ、ご遠慮ください」と、
一筆、最初に断りを書かれますと、横スレは、ありませんよ。
587
:
志恩
:2012/05/04(金) 07:27:14 ID:.QY5jUA6
聖典引用板でなくても,他の板に普通の会話は,書き込めますから。
よろしくおねがしします。
588
:
金木犀
:2012/05/04(金) 10:02:31 ID:wrF1mhWI
志恩様
そうですね。今度から、つづくときには、つづくと書いておきます。
589
:
金木犀
:2012/05/04(金) 10:04:27 ID:wrF1mhWI
五更の残月 田中忠雄先生 (4)
風寒露を吹いて禅衣を湿(うるお)す
長松下に独坐していると、そよ風が松を渡って、松にやどる露が滴って我が禅衣をうるおす。つまり、自己に雑物の混入がなくて澄みわたると、一夜に一滴の露が落ちても、そのかすかな音が聞こえる。だから、良寛の詩や歌を「音の芸術」と言った人がある。国上山(くがみやま)の草庵に独り坐し独り寝ていると、笹竹の雪をはねる音、松風の音、遠くで鳴く鹿の声などが、静寂の夜を更に一層静寂にして、しんしんと更けてゆくのである。
独りということは、自己が自己になり切ることであり、精神の高貴な人が必ず透過した関門である。それは決して寝そべって暢気にだらりとすることではない。大自然の中で、風寒露を吹いて禅衣を湿(うるお)すのである。寒いから火を持って来いというわけにはいかぬ。明日は晴れそうだなと希望的観測をしても、誰一人共感もせぬし反対もせぬ。自然の運行には恵みばかりでなく、きびしさがあって、われ独りでそれに応対しなければならぬ。のみならず、毒蛇や毒虫がおり、猛禽や猛獣もおる。
おのれだけの宇宙ではないことが、おのれ独りになってみて初めて体験的にわかるのだ。私のような下根劣機は、厚い壁の牢獄にぶち込まれて、一年間留置所で強盗や痴漢や詐欺師と一緒に暮らして後、一年間独房で暮らし、一年間無言の行をやり、寒さで千回も万回も寝返りを打ち、暑さで無風の二畳の中でゆでられ、首や股がひどく爛れても、誰も助けてくれる者がなく、苦痛に同情してくれる者もなくなって、はじめて親の恩、衆生の恩、師の恩がわかり、それがわかっても天地の恩や国王の恩などは、なおわからなかったのである。
小人閑居すれば不善を為す、という言葉があるが、小人の閑居は不善を為す相手がいるからのことで、独りではない。人目のとどかぬところへ逃げて、そっと隠れていても、思うことは意馬心猿で大騒ぎだ。人目がなく、どんな勝手もできるときに独りを慎む人を君子というのだろう。その風光が「風寒露を吹いて禅衣を湿す」というさりげない表現になっている。
つづく
590
:
ももんが
:2012/05/04(金) 10:44:40 ID:XXCuaQns
4日の日捲り
『常に物事を明るく考え、心に良き人生を思い描け』
谷口清超先生『言葉は生きている』
591
:
SAKURA
:2012/05/04(金) 13:39:19 ID:zhRcXJMw
トキ様 へ
こんにちは…
日本では…「ゴ−ルデン・ウイ−ク…」企業に働いていらっしゃいます皆様は、
この時期は?長期ヴァケ−ション期間?と言いましても諸外国と比較しますと…
まだまだ日数的には少ないかもしれません〜〜ネ!
この間の“上手な時間”の使い方…女性の立場で考えてしまいます〜ネ!
■【幸せな女性となるために…】
そのために??只今【読書…】いそしんでいます。(微笑み)
さて!夜中に“投稿”致しましたので…再投稿させて頂きます。
>>577
「トキ様」本当に、そうです〜〜ネ…!
「定年退職」されました方達は、急に?“老いる”確かに見受けられますかしら〜〜ン?
思いますに、定年になり、今から“再スタート”と言って張りきっていた方がいましたが…
その後、急にふけられまして“ビックリ”なのです?聞きますと、やはりと想う処が…
どうもこの方は、奥様に振り回されている様なのです…。
今までは、仕事の会話で“外に向けての行動でありましたのが…近所の付き合いから…
更に!低次元?の“井戸端会話”に入っていて、少しでも“反論”しますと…
もう〜〜〜それはすごい“反論の洪水が〜〜><”
結局!ふり廻される事になり、何が?どの様に?なって行くとか〜〜ではなく…
何も考えたくなくなる!!そうなので〜〜す。
“振り回されない”その様にするには「ハイ!ハイ!あなたは最高の奥様です…」と、
“毎日!呪文の様に、唱えているそうです…。そうでもしないと食事の準備が〜〜?」
聞いていて大変なのです〜〜〜ネ!
今回!急に“老いる”のも、このような「夫婦の関係」による場合もある様です〜〜〜ネ!
私も、「この年齢???」と成りますと…
「雅春先生の言葉」から、いつも女性も“書物”を読む事と、言っておられましたが…
■「読書の力」というものは非常に大きなものでありまして本を読む事によって、その人の
思想が変わり、人格が変わり、行動が変わるのであります。
或いは悪い本を読めば、悪い感化を受ける。…云々…
良き書物を読みますと、言葉の力が精神に感応して、心の波長が自然に変わって
来るのであります。
谷口雅春著
「女の生き甲斐」より一部抜粋…
再合掌
592
:
「訊け」管理人
:2012/05/04(金) 23:44:30 ID:???
『光明道中記』256頁より謹写――
世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。何故かというと普通善人と云うのは自力作善の人ーすなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳のあらわれである。
「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、かえって救われないのである。「悪人成仏」の悪人は、「わたしはこんな悪をしたから救われる」と云うような「罪悪誇り」の人間ではないのである。だから「他力をたのみたてまつる悪人」と親鸞聖人は注釈し給うたのである。「他力をたのみ奉る」とは、「自分には何の力もないのだ。すべての『善』は神力、仏力によるのである」と自己を謙る人を言うのである。自分に何らかの善が行じられるならば、仏力が廻向(えこう)して自分にやらせて頂くのであると知るが故に「自力修善」を誇ることがないのである。
593
:
「訊け」管理人
:2012/05/04(金) 23:47:28 ID:???
『光明道中記』249頁より謹写――
宇宙の本体の中に在する救わずにおかない大慈悲そのものが「弥陀の誓願」であって、それは人間の思慮を超えたるものである。すなわち「誓願不思議」である。その「誓願」が吾々の“いのち”の内部に廻向(えこう)し来って「念仏申さん」という思い立ちが起るのである。
だから吾等が「念仏申そう」という心が起ったとき、その心の中に「救わずにおかない弥陀の誓願」が既に宿っているのであるから、既に「摂取不捨」(すくわずにおかぬ)なのである。
『あなたは自分で治せる』89頁より謹写――
実に祈りが成就する根本は「わが祈れることは、既に成れるがゆえに、我祈るなり」の信念を有たなければならないのであります。
これが聖書にある「神は求むに先立ちてなくてはならぬものを知りたまう」とか「汝ら祈りて何事にても求むるとき、既にそれを受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを輿えられん」と云う祈りの基本法則なのであります。
『光明道中記』267頁より謹写――
念仏を称えたら何故救われるのか、そんな思いは雑念妄想である。如来の誓願こそ救いの本体である。
594
:
金木犀
:2012/05/05(土) 02:59:04 ID:wrF1mhWI
五更の残月 田中忠雄先生 (5)
有時(うじ)定(じょう)より起って双澗(そうかん)に下り
有時は、「有る時は」と読んでもよい。「定」は「禅」のことだ。禅は梵語jhzanaの音訳「禅那(ぜんな)」の略であって、意訳して「定」といい、また「静慮(じょうりょ)」ともいう。世の俗縁に煩わされず心を専らにして動揺させないことである。
長い間坐って「定」の境地にいたが、ある時にはふと「定」から出て座を立ち、双澗に降りて行く。双澗の「澗」は峰と峰との間の渓流のことだから、双澗は渓流が両方から流れて一つになるところ。そこが水を汲むに適している。そこで、有る時は定より起って双澗に下り……
瓶(びょう)に五更の残月を汲んで帰る
瓶は水瓶のこと、元来は菩薩が仏行を行じつつ諸方を往来するとき、身にたずさえていなくてはならないものが十八あって、これを『菩薩戒経』というお経には「十八物(もつ)」と称して三衣(え)、鉢、坐具、錫杖などを十八種あげてあって、その中に「瓶」というのがある。水を汲んで入れる器だ。
だから瓶は、今の人のいう瓶、ビール壜の壜、とはちがって、神仏にお供えする浄水の容器である。だから、ここにいう瓶は、仏教でいう閼伽桶(あかおけ)のことだろう。仏教語はインド産で、シナを経由して日本に来たので、ややこしいが辛抱して一応はわかっておかないと具合がわるい。むかし中学四年のとき鴨長明の『方丈記』の一節を習ったことがある。今でもおぼえているが、その中に「よひよひごとの閼伽の水」という文句がたしかにあった。それを六十年近くも後になってから調べてみるのだから、恥ずかしいやら可笑しいやらである。
梵語でarghaというのを音訳して「閼伽」というそうだ。くわしいことは語学者に聞くよりほかはないが、これは「水」のことらしい。浄水だと、神仏にささげる供物の意味になる。それから、これを入れる器の意味にもなるが、今では専ら仏前やら神前やらに供える浄水のことである。そうすると、『方丈記』の「閼伽の水」は、浄水の水というので言葉がダブって奇怪な日本語である。サンスクリットとシナ語と日本語の「みづ」の三つがチャンポンになっているわけだ。まことに国際的で面白いといえば面白い。
つづく
595
:
金木犀
:2012/05/05(土) 03:00:50 ID:wrF1mhWI
五更の残月 田中忠雄先生 (6)
かくて、瓶とは閼伽(浄水)を入れる桶のことで、この桶を閼伽棚に供え置くのである。「おけ」だの「たな」だのという日本語が附着して、これも国際的で奇妙だけれども、意味はよくわかるのでありがたい。
さあ、そこで、原文に帰る。――定より起って双澗に下り、瓶に五更の残月を汲んで帰る。
この結句のなんと美しいことよ。瓶に五更の残月を汲んで帰る。もうそろそろ、ひんがしの野に陽炎(かぎろい)の立つみえて、今汲む閼伽の水は、かたむく月を宿して、神秘な光を放っている。残(のこ)んの月と谷川の水とを一緒に汲んで、わが草の庵(いおり)に帰る。
何か、こう、大智の運ぶ瓶の中に大宇宙の神秘がこもっているような感じである。
蛇足ながら、五更の残月の「五更」は一夜を五つに分けた総称であり、また初更、二更、三更、四更、五更というときは、五つの時刻の中の第五更をいう。これは寅の刻で、今の人のいう午前四時にあたる。
大智禅師は道場の弟子が開枕(就寝)した後、真夜中に長松の下の石上に、しばしば結跏趺坐されたことがこの偈頌でよくわかる。むかしの禅僧は、これを「夜坐(やざ)」と言っていた。夕刻に坐るのも夜坐といったが、真夜中の坐禅も夜坐といった。夜坐して暁に及び、水を残月と共に汲んで、これを仏前に供えたのである。
瓶の中の水は、月と共に仏前にある。また、余った水は月と共に炊いてお粥にして、これを敬っていただくのである。
おわり
596
:
うのはな
:2012/05/05(土) 11:33:02 ID:El6gIMAw
金木犀さま。 長文おつかれさまでした。貴重な資料を提供いただきありがとうございます。
私も田中先生の「信仰夜話」の書写を一時考えていましたが、長文なので
あきらめていました。貴女のきめこまかさには敬服いたします。
拝
597
:
うのはな
:2012/05/05(土) 11:43:24 ID:El6gIMAw
感謝と喜びをまず与えよ
常に感謝せよ、天に対して、地に対して、日光に対して、すべての生き物に対して、
家に対して、身のまわりの道具に対して、ありとあらゆるものに感謝せよ。
感謝は光の言葉である。感謝するところによきものが集り来たり、よろこびの所に
幸福は集り来たるのである。
今日、今、朝から、喜びの生活を始めようではないか。
すべてのものに感謝して今日の生活を始めよう。
喜びにみたされて今日の生活をはじめよう。
喜びを表現すれば、喜びを与えたことになるのである。
「与えれば与えるほど与えられる」の心の法則に従って吾々の喜びの表現を
万物になげかける時、吾々も世界のすべてのものから喜びを与えられることになるのである。
『 生活応用 健全の真理 』 谷口雅春 先生著 P174
598
:
金木犀
:2012/05/05(土) 11:47:14 ID:wrF1mhWI
うのはな様
そうおっしゃっていただくと、ものすごく嬉しいです。
実は、田中先生の文章は少し難解な部分もあるので、皆様が取っつきにくく
思われて、読んでもらえないかもと、ちょっと心配しながら、書き始めましたので、
志恩様が読んで下さり、励まされた気持ちで書き続け、さらにうのはな様にそう言って
頂き、やった甲斐があります。
私の手元にある、『生長の家』誌の中の田中先生の雄峰一膳飯は
けっこう面白いものは、他で転写利用させてもらい、実は残ったものは私にとって
取っ付きにくかったのですが、今回きちんと読んだら、実に味わい深かったので、
ここに転写させて頂きました。
田中先生の少しやんちゃなご性格と、昔風の一徹な部分など、
近年読むたびに非常に惹かれて来ています。
若いころはそう思わなかったんですが。
599
:
うのはな
:2012/05/05(土) 12:24:22 ID:El6gIMAw
>若いころはそう思わなかったんですが。
いえいえ、今でも金木犀さまも田中忠雄先生も永遠にお若いですよ
日常生活の真理 女性信徒 版 より
600
:
金木犀
:2012/05/05(土) 12:48:28 ID:wrF1mhWI
うのはな様
おお、有難うございます。
全くその通りですね。
601
:
うのはな
:2012/05/06(日) 17:14:58 ID:El6gIMAw
....それは生長の家の最初の原稿を書いた所謂る“発祥の家”で、私と家内とが
互いに向かい合って神想観を実修している時、私の背後に空中に立っていられる
白髪の老翁の神様の姿を拝したというのである。この神姿はその後、他の信徒の
集まりにもあらわれたし、その頃熱心に私の宅へ日参のように来ていられた長尾初枝さんも
見たと言われた。
《 唯今神宮前一丁目ニ三ノ三〇(旧地名“原宿”)にある本部の旧館の正面玄関の上部に安置
せられてある神像は、服部仁郎氏が、家内の霊視せる神姿を詳細に聴き、それによって模型を造り、
家内が「此処はこんなでなかった。此処は斯うであった」といちいち訂正して、家内の霊視した神像に
出来るだけ近づけて創作せられたものである.......》
「神秘面より観たる生長の家四十年史」
602
:
うのはな
:2012/05/06(日) 19:37:09 ID:El6gIMAw
『黙示録』第一章 十二 二十節
われ振り反りて我に語る声を見んとし、振り反り見れば七つの金の燈台あり。
また燈台の間に人の子のごとき者ありて足まで垂るる衣を着、胸に金の帯を束ね、
その頭と頭髪とは白き毛のごとく雪にごとく白く、その目は炎の如く、その足は
炉にて焼きたる輝ける真鍮のごとく、その声は衆くの水の声のごとし。
その右の手に七つの星を持ちその口より両刃の利き剣いで、その顔は烈しく照る日
のごとし。我これを見しとき其の足元に倒れて死にたる者の如くなれり。
彼その右の手を我に按きて言ひ給ふ。
「懼るな、我は最先なり、最後なり、活ける者なり。われかつて死にたりしが、視よ
世々限りなく生く。また死と陰府との鍵をもてり。されば汝が見しことと今あることと、
後に成らんとする事とを録せ。すなわち汝が見しところの我が右の手にある七つの星と
七つの金の燈台との奥義なり。七つの星は七つの教会の使ひにして、七つの燈台は七つの教会なり」
603
:
金木犀
:2012/05/06(日) 23:12:21 ID:WQgf7Y2.
うのはな様
おお、ここにいる全員と同い年の白髪の老翁様ですね。
この白髪の老翁は雅春先生自身は見られていないそうで、それは自分自身の姿は
自分では見られないと言った理由に近いとおっしゃっていましたよね。
604
:
うのはな
:2012/05/06(日) 23:46:48 ID:El6gIMAw
>>603
上記で金木犀さまがいわれている話は、わたしも他の信徒さんから
お聞きしたことがあるのですが、私自身は清超先生の代になってから、
平成になってから生長の家に入ったので実際に雅春先生からお聞きしたことは
ないんです。
605
:
金木犀
:2012/05/07(月) 05:46:44 ID:WQgf7Y2.
うのはな様
私もご著書で読んだ話で、直接雅春先生のご講話とかでお聞きした話ではないのです。
でもうのはな様はお若いから、雅春先生に実際にお会いしていらっしゃらないのは当然ですよね。
いろいろ古い神誌や聖使命新聞を持っていらっしゃるから、なんとなくしっかり昔からの信徒のような
錯覚に陥りそうですね。と言って若いというイメージもしっかりあるから、不思議な存在、不可思議
神秘の雰囲気ですね。
606
:
金木犀
:2012/05/07(月) 08:06:31 ID:WQgf7Y2.
昭和五十七年六月号『生長の家』から「甦る建国の精神」
龍宮住吉本宮で行われた紀元祭の様子
美しい自然と太陽に恵まれた総本山の空は抜けるように青い、樹木の枝には若芽がふくらみ、龍宮住吉本宮の境内地は透き通るような新緑に蔽われていく。太陽の光も揺れて、桜前線が南から北へ進むと、参道の金蓮花は今が盛りと咲き誇っている。明るい総本山の素晴らしい春だ。桜をたずねて野に出る人々が、ひきもきらずに総本山を訪れて来る。此の頃は、龍宮住吉本宮、龍宮住吉霊宮に参拝を済ませたその足で温故資料館を拝観していく人々の数が一日約百名にも達するほどになった。また龍宮横の峰に建立中の「七つの灯台」を仰ぎ見、その威容に賛嘆して、「さすがに生長の家は日本一だ!!」との声も聞かれるようになって来た。
この早春の総本山で、去る二月十一日、地元を中心に一五〇余名の熱烈な愛国者が相集い、紀元祭が厳粛に執り行われた。総本山ではこの日のために、西彼町、琴海町、大瀬戸町の全戸(約八千戸)に、新聞折込チラシ配布の愛行を行って来た。その結果、此の度の紀元祭には、西彼町をはじめ各町民も積極的に参加して、例年にない盛大な紀元祭となった。この日を待ちに待っていた地元の鳥伽老人クラブの人々は、朝早くから駆けつけ、顕斎殿前に置かれている「さざれ石」の前に立って、日本の昔の姿に思いを馳せ、深い感銘を受けながら、晴れの式典に他の人々と共に参列した。
鎮護国家出龍宮顕斎殿の住吉大神の御前で国の誕生日を奉祝できる無上の悦びが、それぞれ参列者の顔に溢れている。午後十時、国歌・君が代斉唱のあと、ただちに式典が始められた。修祓、御扉開扉の儀、招神歌、献饌のあと、宮司が恭々しく祭壇に進む。東方に姿勢を正して「伊勢皇大神宮並びに橿原神宮遥拝式」が、熱烈なる愛国精神の雰囲気の中で執り行われる。続いて宮司より祝詞が奏上され、宇宙浄化の祈りがなされると、皇紀二千六百四十二年の記念すべき日の慶びが、誰の胸にも熱く高まり、荘厳な中にも護国の理念が甦ってくる。さらに、日本書紀神典がよどみなく奉読されると、日本人としての魂の誇りと悦びが沸々と湧き起こり、会場全体が深い感動につつまれていく。なかでも、老人クラブの人々は、甦る建国の魂に我を忘れ、青年に若返ったような輝かしい目をして式典を見守っている。楽しい紀元節奉祝歌の斉唱のひとときには、誰もが童心にもどって声高らかに歌っていた。歌う喜びの中に、天皇仰慕の心がいやが上にも高まり、涙さえ浮かべる人も見られた。式は粛々と進行し、玉串奉奠が来賓及び関係者によってなされたあと、大和理念が地上に悠久であれと、神舞姫の正装で舞う「悠久の舞」があでやかに奉納され、午前十一時四十分式典は滞りなく終了した。
このあと西彼町町長が来賓代表の挨拶に立たれ、
「今日ほど瑞穂の国日本に生れた喜びを感じたことはございません。今の日本の教育は荒廃し切っています。この御教えを教育の中にとり入れ、真の日本人造りのために、正しい教育をすべきだと痛感致しました。私達も龍宮住吉本宮のお膝元で、神聖日本国再建のために頑張ります」と力強く述べられた。
これを受けて、良元宮司は、
「住吉大神より使命を受けられた皆様すべてが、私たちの人類光明化運動に参加して頂き、それぞれの地元で天皇国日本の実現のために、立ち上がって下さい」と、熱烈な挨拶、参列者一同に深い感動を与えた。
「今日はほんとうに素晴らしい一日でした」
「来年はもっと多くの人達を連れて、きっとやって来ます。それまで皆様も頑張ってください」
と、互いにあらためて祖国再建の志を誓い合った総本山の一日であった。
607
:
ハマナス
:2012/05/07(月) 09:37:02 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。魂のお勉強に行って来ました。真理がわかるという事は、
何物にも代えられない喜びですね。生長の家に触れられてありがたいです。
問題を神にゆだねよ (『新版 生活の智慧365章』P.146)
如何なる問題が起こって来ても、常に明るい心を以ってそれに立ち向かうことが必要
である。どんな問題でも、神なら解決できるのである。自分の「我」の力で解決しようと
思うから、解決の方法を失ってどうすることもできないような事になるのである。問題を
神に振り向け、神に肩代わりしてもらうがよいのである。
そのためには、「神は全知全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を神様あなたに委ねます」と繰り返し繰り返し、心に念して祈り、その問題を
神に委ねるがよい。徹底的に神に解決をゆだねたら、神は必ずその問題を解決に導き給うの
である。それは自分に好い考えが思い浮かんで来ることもあれば、誰か、思いがけない
ところから、援助の手を差しのべる人が出てくることもあるのである。充分祈った後に、
誰かがその問題解決について案を示してくれるならば素直にそれに従うがよい。
感謝合掌
608
:
ハマナス
:2012/05/07(月) 10:12:03 ID:u5mC.eb2
ありがとうございます。
『新版真理第8巻』P.270にも、素晴らしいご文章がありました。
本当に神に全托するとは
「神に一切を委(まか)す」のは本当に「神に一切を委す」のでなければならない。
「自分の力で神に委そうと努力する」のであったならば、それでは自力が半分混入して
いると云うことになるから、本当に神に委(まか)したことにならないのである。
まことに神に委すのは、「自分の力で神にまかす」のでなく、自己放棄して、「神の
力で神にまかす」と云うことにならなければならない。「自分の力」で何とか工夫を
しようと考えている限りに於いては、どこまでも完全なる他力にはなり得ないのである。
「放つ」ことは、ただ「放つ」のであって、「放つことを努力する」と云う事ではない。
本当に放ったとき、本当に神の力が完全にあらわれる。病気なども忽然と治り得る所以
(ゆえん)である。
宗教で治るのは斯(こ)うした「自己精神を抜く」ことであって精神力を使うことでない。
感謝合掌
609
:
SAKURA
:2012/05/07(月) 21:33:17 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者に皆様 へ
「ゴ−ルデン連休明け?」ですが…私の“連休”は???と
思う位〜〜〜“いつもの生活”でしたが…
皆様は、この“ゴ−ルデンウイ−ク期間中”如何お過ごしでしたかしら〜〜ン?
では!久しぶりに「今日の言葉」を 【開け〜〜〜ごま〜〜〜♫〜〜〜】念じます。
出ました〜〜「今日の言葉」
■【幸福を招く生活365章】
――――神独在以外の真理は本物ではない――――
あなたを救う真理は、「唯、神のみ実在したまう」と云うことである。
この真理から外れたところのあらゆる論理も学説もあなたを幸福にすることは
出来ないのである。今病気で苦しんでいる人は、また貧乏で苦しんでいる人は、
その他如何なる不幸にでも苦しんでいる人はこの真理から外れて、ほかの真理を
信じている人なのである。或る人は病気や不幸を実在であると信じている。
そして神に対して、「この不幸を取り去り給え」と祈るのである。
そして中々その不幸は癒されないのである。そして時には「不幸」の方が
「神」よりも力が強いのではないかと思う。併し、この人の心が「神」
も信じ、「不幸」も信じている限りそれは二元論であって真理ではない。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「祈る時」…“迷い”は、タブ−です〜〜ネ!もう〜〜【絶対論】でしょうか!
必ず!【願いが叶うと金剛心で祈ります…】
更に!【もう〜〜〜慣れた!そうです“実現出来た!”と断定し祈っていました】が…
■この頃は「神様に委ねる心境」で、
【なすべき道を示したまえ〜〜〜♫〜と云って神の啓示を、待つような状態ですが…】
時としては、不安になる事も?
このような“心境”では、【神と一体】とは云えませんです〜〜〜ヨネ!
更に「祈り」ながら…
「自分は不幸だとか…?“心”でネガティブな感情は一変でも思えば…
その【願いは通じない】のです〜〜〜ョネ!当に!「金剛心…」が必要でしょう!
今回!【心…強く思念する事】だと、新たに思いました…。
■更に“何時も幸せ〜〜〜☆〜”と、心からの【感謝!感謝!】からが…
「神…」に対しましての“絶対論”でしょうかしら〜〜ン?
更に【神の啓示】が来ましたら…忠実に従って【start・me・up……信じて邁進!!】
再合掌
PS; トキ様 へ
今日の“言葉”どの様に?思われますか?【絶対論=神】そうなのですが“とき”と
いたしまして、“雑念=煩悩”が、どうしても入る時がありますが…?
トキ様は?如何でしょうか??
610
:
a hope
:2012/05/08(火) 08:02:44 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
第十章 働きの生かし方
心は常に働く
心は働くようにできています。心は自分が生きているからには働くほかに道はないのです。
身体(からだ)はじっとしていても心は働いています。心を休ませる方法はないのです。
寝ている時にも心は働いています。ただその時には身体や頭を使わないでいて、
心だけで働きますから、頭にはその働きは憶えていませんが、やはり心は働いているのです。
その証拠に皆さんは眠っている間にも夢を見るでしょう。
身体はじっと寝ているのに運動会の夢を見るでしょう、遠足の夢を見るでしょう。
勉強の夢も見るでしょう。しかしそれは「心」だけで働いたので、
「頭」の方は働かなかったからハッキリとは思いだすことができないのであります。
このように「心」は眠っている間も働いているのです。
すべての生きてものは少しも休みなしに働いているのです。
一分間でも働きが止まったら死んだということになるのです。
どんなに獺(なま)けていてもお腹が減るのは、身体が獺けていても心がつまらない事に働いている証拠です。
だから獺けている人は同じように働いていながらも、自分はちょっとも進歩しないし、(ひと)からは「あいつは獺けている」
と憎まれるだけが損なのです。
同じお腹が減るくらいなら、同じ自分働くくらいなら、
「あいつは獺けている」と言っている人から憎まれるようなことをしないで、
自分自身が進歩しながら、人から誉められるような働きようをした方がよいではありませんか。
それには仕事をすることです。それには勉強をすることです。
仕事をし、勉強をしたら、人は喜んでくれます。自分が進歩します。
身体が達者になります。立身出世ができるのです。
(つづく)
611
:
a hope
:2012/05/08(火) 08:08:47 ID:kcv2QXTk
>>610
訂正
獺(なま)ける → 懶(なま)ける
612
:
ハマナス
:2012/05/08(火) 09:06:07 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。今日も、愛いっぱいの、素晴らしい一日でありますように。
相手の攻撃は自分の鏡 (『新版 生活の智慧365章』P.146より)
「与えよ、さらば与えられん」と「ルカ伝」に教えられている心の法則は常に働いて
いるのである。金銭を与えるだけではなく、他の人に対して信頼を与えれば、信頼が与え
返されるのである。愛を与えれば愛が与え返される。賞讃を与えれば賞讃が与え返される。
他の人の攻撃の言葉に対して、攻撃を与え返したのでは、攻撃と争闘とは更にひどくなる
だけである。憎しみに対して、愛を与え、批判に対して感謝を与える雅量をあらわすのが
本当の“神の子”である。もっとも攻撃の手ひどい相手ほど、自分にとってよき反省を
与えてくれる諫言(かんげん)であるのである。
自分の眼が自分自身の眼を見ることができない、自分の眼を見ようと思ったならば
鏡に向かって相対しなければならない。自分を非難し、攻撃する人は自分の鏡となって、
自分の欠点に照明を与えていて下さる人である。時には微細なとるに足りない自分の
欠点を顕微鏡的に拡大して下さる親切な相手もある。素直にそれを忠言として受ける
ことによって、あなたの魂の進歩があるのである。
感謝合掌
613
:
復興G
:2012/05/08(火) 12:06:57 ID:ojEbkDH2
清 寂 の 生 活
(谷口雅春先生『叡智の断片』14〜15頁より)
道は絶対である。絶対には対立がない。道に乗って生きるとは絶対無我の生活になり切ることである。一切の対立がなくなることである。一切の対立がなくなるから一切に和解し、一切を敬(とうと)び、一切が清まり、一切が寂である。これが茶道の清寂であり、そのまま清まる日本の道である。対立する争いをもって生活するが如きは、日本の道ではなかったのである。道は「寂」であり、動くものなくして動いており、その動くや必ず万物を生かすのである。対立のなき動きは全機であり、無にして一切であり、○(ゼロ)であるから一切と調和するのである。それを大和(だいわ)の道と言う。構える心がないから、事を構えず、事を構えないから事が起らないのである。構えることがなければそのままとなり、其のままは実相であり、実相は善ばかりであるから善きことのみが現われる。「私」のはからいがないから、全体の動きとピッタリと「一」である。全機である、全即一であり、一即全である。
本常に明るいと云うのは、全然対立がない「無」になり、無構えになって、天地と一つにとけ合って「寂」となることによって自然に得られる明るさでなければならない。真の明るさは構えた明るさではない。そのまま天地の明るさがあらわれたとき、真に明るくなり、立ち対(むか)うところが悉く明るくなる。
「悪」に抗することなかれ (同上 35〜37頁)
「悪に抗することなかれ」と云うキリストの教えは、生長の家の「汝等天地一切のものと和解せよ」の神示によって完成するのである。悪に抗して悪を一時排斥し得たとしても、それは「悪」の存在をみとめているがゆえに、それは存在するところの悪を抵抗によって一時遠ざけたに過ぎないのであるから、「悪」の存在が消えたのではないのである。それは一時締め出しても、亦あらわれる。厳重な家庭に於ける制裁や処罰や威嚇による強制はこれである。何物に対しても和解せず、単に抵抗によってこれを退けんとする者は、結局、空しく抵抗して何物をも支配することは出来ないのである。其の支配は、天地一切のものと和解することによってのみ得られる。天地一切のものと和解するとき、天地一切のものは汝の味方であり、こちらを生かすためのみに働くからである。「悪」を消滅する道は「悪」をみとめないことより始まる。闇をみとめながら闇を撲滅せんと欲しても、到底それは不可能のことである。
如何に敵対する者も敵だと思わずに味方だと思って愛すればその情愛に感動して、敵と見えていたところの相手が味方にかわるのである。病気の症状に於いても此の事は真実である。熱を敵だと思わずに、味方として愛すれば速かにその熱のために病菌は消滅してその病いは癒えるのである。疼痛、喀血、吐血、発疹、下痢、嘔吐――ことごとく敵だと思わず、治す働きだと――感謝して受けるとき、それは味方となって却って病いを撲滅し健康を回復してくれるのである。凡そ「悪」よりして善徳は生ぜず、「悪」よりして生かす力は生じない。「憎み」は悪であるから「悪」を憎むと云うことは結局は、「悪」に対するに「悪」をもってするに過ぎないのであるから、それは永久循環して再び「悪」は姿を顕わすのである。ただ「善」のみを認め、一切を「善」と信頼して感謝して受ける無抵抗のみが「悪」を消滅する力であるのである。「悪」に抵抗するところの心境に於ては尚「自我」が滅していないのである。ただ相手の利己主義を遠ざけんがために、自己主義の利己を護らんとするに過ぎない。真に「悪」に無抵抗になるときにのみ、それは「自我」さえも滅し去って、ただ「神」のみ、「善」のみ、実相のみが現前するのである。そのとき「真の自我」実相の自我、絶対自我が本当の姿をあらわして自由自在の境地に達するのである。
<つづく>
614
:
復興G
:2012/05/08(火) 12:07:43 ID:ojEbkDH2
<つづき>
叡 智 の 断 片
(谷口雅春先生『叡智の断片』330〜331頁より)
神は人間を裸で生み給うた。人間は獣の様に毛皮で覆われて居ず、鳥の様に羽毛を持っていない。人間が裸で生れたという事は、人間は一定の姿をもたなかったという事であって、人間は自分自身の好む衣裳を身に着ける事が出来るのである。それは神が人間を神の像(すがた)にかたどり給うた万徳の一つの表現(あらわれ)である。「無」からはじめて「凡て」が生ずるのである。人間も亦「無」にして「凡て」である。一切は自分の内にあるのである。
○
「神の前に空(むな)しくなる」とは、自分が空しくなるから神の智慧と愛と生命とが自分の中に流れ入るのである。また自分を放棄して神様の中に自分が飛び込むとも言い得る。かくしてはじめて自分が神の子であり神を実現する「神の宮」であることが出来るのである。
○
男性の尊厳は女性を虐待するところにあるのではない。女性を本当に拝むところにある。
○
凡てのものを神として拝める人は、自分が神であるのである。神のみ神を拝めるのだ。妻を神として拝める良人は神であり、良人を神として拝める妻は神である。
615
:
志恩
:2012/05/08(火) 12:26:18 ID:.QY5jUA6
復興Gさま
謹写してくださいまして、ありがとうございます。
後ほど、落ちつきましてから、熟読させて頂きます。
616
:
復興G
:2012/05/08(火) 13:58:44 ID:ojEbkDH2
『新版 真理』第7巻{悟入篇}
(谷口雅春先生著)より(p.10〜13)
毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)説法の世界
ところが「一個の物体の周囲(まわり)に百万の鏡を按(お)きてこれに相対せしむれば一個もまた百万の姿を現ぜん」と聖経『天使の言葉』にありますように、鏡と鏡とが相対していると一人の人間でも、あちらへ写った姿がこちらへ写り、又こちらへ写った姿があちらへ写りして、ずーっと無限に反映しますと、一個が無限に現れるのであります。平行に立てた大鏡の真中に立って、自分の左右を見ますと、あなたの影が、右の影が左にうつり、左の影が右にうつり、左にうつったのがもう一つ右にうつって、無限にずーっと現れているのでありますが、その無限の個々が実は個々でありながら個々ではなく一つのものである。「一個もまた百万の姿を現ぜん」というわけであります。人類のいのちは、相即相入(そうそくそうにゅう)で、一つのいのちが、ずーっと幾十億の人類となって現じているわけであります。これが唯心所現(ゆいしんしょげん)の世界――心の現すところの世界なのであります。
そういう世界の中に吾々は住んでいるのでありますから、自分の心の思いは、たちまち幾百万の人の心の思いにうつるわけであります。そして吾々が自分で一つ良き考えを起すと、無数の良きものがその波長の類似に随(したが)ってずーっと自然と集るようになっているのです。その代り残念ながら、もし間違った心の思いを起すと、無数の悪いものが集るようになっている。それはNHKの放送の波長と同じ波長を受信機に起すとNHKの番組があらわれて来、KRの放送波長にこちらの受信機の波長を合わすとKRの番組があらわれて来るようなものであります。しかし悪いものは実在ではない。自分の心に起した波動がただ鏡にうつっている自分の迷いの「心の影」であります。善いものは実在の番組の投影である。ともかくそういう世界であって、外にあると見えているものは実は内にある、内にあると見えているものは実は外にある。それですべてのものは物質に非ず皆心の姿であります。
そういう訳であって、それで実在界即ち実相世界というものは、宇宙普遍の大神様――仏教では毘盧遮那仏(びるしゃな)と言う――日本では大日如来(だいにちにょらい)と訳している所のびるしゃな仏の説法の姿であるのであります。説法というと、これも又、対立的なものの考え方になって来ます。聞く人と聞かれる人とがあるのが説法ということになるのでありますけれども、毘盧遮那仏の説法というのは、そう云う対他的説法じゃない、大生命のいのちの波を言葉と言う。毘盧遮那仏のいのちの波が、それ自身絶対者としてひろがっているのを称して説法と言うのであります。この毘盧遮那仏を仏像にしたのが東大寺にあるところの大仏像であります。
私の娘が、まだ小学校の小さい時に、奈良に修学旅行に行った。その時に奈良からおみやげを持って帰って来た。小ちゃいお人形みたいなのを持って来て、
「お父さん、これおみやげ上げます。」
「ホゥ、これ何じゃね。」
「これは小さいけれども大仏です。」と言う。
ほんとうに、それは小さいけれども大仏でありました。大仏と云うのは宇宙に充ち満ちている所の、大いなる毘盧遮那仏、大日如来のその相(すがた)を象徴してそこに現されているものなのです。像の寸法が大きいから大仏と言うんではない。小さくってもそれは宇宙に満ちひろがる所の大日如来の肖像であるから大仏と云うのであります。
<つづく>
617
:
復興G
:2012/05/08(火) 13:59:59 ID:ojEbkDH2
<つづき>
『新版 真理』第7巻{悟入篇}
(谷口雅春先生著)より(p.13〜16)
皆さんが、東大寺へお出でになって大仏の像を御覧になりますと、その毘盧遮那仏の後光の中に無数の仏が安置されてあります。そして大仏の台座の所にも、こう線が引いてあって、色々の世界を区画し、その一々の世界に仏が坐っていらっしゃる有様が、彫刻してあるのであります。これはあらゆる世界にこの毘盧遮那仏の影が映っていることをあらわしております。影というと変でありますが、これはラジオや、テレビや、映画のように一つの根元の世界が各方面の受信装置に映っているのでありまして、一仏一切仏と云う華厳(けごん)の哲学を仏像に表象してあらわしたものであります。一仏一切仏であって、一つの仏さまが、無数の仏様に現れていらっしゃるので、其の荘厳極りなき姿が、あの仏像に現されているのであって、一仏一切仏、相即相入の世界と云うのが実相であります。
そして毘盧遮那仏が説法するというのは、中心座に本仏がましまして、自分の分身の仏様に対して、説法しているというように、現象化して言えば相対的に言うほかないのでありますけれども、もともと、それは一つの仏様のいのちの波が、無数の仏様になっておって、それが別々に相対的に分れてはいないで、互に相即相入して、到る所で説法が行われているのでありまして、そういう荘厳極りなき世界が、実相の世界なのであります。即ち如来説法のコトバの拡がりが、客観的に見れば「世界」なのであります。釈迦牟尼如来が法華経をお説きになりました時にも、そう云うことが書いてあります。
妙法蓮華経の多宝塔品
法華経の中に多宝塔品という所がありまして、釈迦牟尼如来が説法をなさいますと、荘厳きわまりなき多宝塔が空中に忽然(こつねん)と出て来る。そして塔の中に多宝如来が出現せられる。この時に、多宝如来の分身の、即ち分れたるからだの、無限のほとけ様が、一時にそこに集って来られるということが書かれてあるのであります。これがまた一仏は一切仏であることを現しております。そして釈迦牟尼如来が法華経をお説きになる時に、無数の分身の仏様がずーっと来集して来られて、そしてその説法を聞き給うのである、というと、これは話す人と話される人との対立関係みたいだけれども、それは全部自仏の分身の仏様なのです。他仏は何処にもないのであります。
丁度私がここで説法をいたしておりますと、皆さんがここにこうして集って来て、そして、私の説法をお聞きになる、そうすると、話す人と聞く人と対立的に別れているように見えているけれども、実はそうじゃないのであって、互に私と皆さんとは一つなんであります。謂わば釈迦牟尼如来が、こうして説法なさいますと、無数の聖使命菩薩がここに集って来て、その説法を聞き給うのでありまして、菩薩は皆、釈迦牟尼如来の一つのいのちの波の現れであって、諸君は皆その分身の菩薩である、ということになっているのであります。それでその多宝如来が、「釈迦牟尼仏ここに坐し給え」と言って多宝塔の中で半座をわけられると、その半座の上に釈迦牟尼如来がお坐りになる。これは多宝如来と釈迦牟尼如来が互に一体であると云う事をあらわしている。多宝如来という仏様が別の世界から出て来られたところの別の仏様かと思うとそうではないのであって、釈迦牟尼世尊と、多宝如来とが一体であらせられるということがあらわされているのであります。諸仏は互に一体であることがわかりますと、宗派争いと云うようなことも自然になくなるのであります。
菩薩雲集(ぼさつうんじゅう)・光明三昧
それと同じ事が今ここに現れているのでありまして、此処に雲の如く集っているのは皆聖使命菩薩である。そして私の分身である。まことに一仏一切仏の光景をあらわした荘厳極りなき講習会であるのであります。だから私が神想観をしまして、招神歌を歌って手を拍(たた)くと、皆さんが一つも乱れずに、ちゃんとただ一つの手のひらを拍いているように皆んな一度にピタリとお拍きになる。これはつまり一つのいのちが互に共感し共鳴して、一つになっているという所の素晴しい状態があらわれているのであります。一即多・多即一であり、相即相入であり、皆さんのいのちは、私のうちにあり、私のいのちは皆さんのうちにあり、相即相入していることがわかるのであります。これが華厳の真理であり、生長の家の真理でもあり、法華経にもそれが説かれているのであります。
そのように人間の生命の実相は互に一体でありますから、一人が悟ればすべての人が悟るということになっでいるのであります。
618
:
うのはな
:2012/05/08(火) 16:10:09 ID:???
兄弟なかよく育てる鍵
父の臨終のときのうた
わが子らよ 仲よく暮らせと くり返し 言いつつ父は みまかりたまう
ともかく、この我が父は、天才的な教育家であり給うたのです。
学校は小学四年しかでていません。小男で全身から武士のような雰囲気を出していますが、
何とも言えずあたたかいのです。青年のころ、村の大地主の家に小僧で入って使われながら、
金をため、その大地主から愛され、祝福され、藁ぶきの小さな家を建て、そこで母と結婚します。
そして次々と八人の子どもが生れるのです。
この父は、 養蚕の ひまなるときに 死にたしと 春の浅きに 病父は語りぬ
死ぬときも、村の人の迷惑にならないように、あたたかくて、みんながひまなときに死にたいものだと言っていましたが、
その通りになりました。昭和二十七年四月二十七日、養蚕のない日、あたたかい日に眠るように息をひきとりました。
八人の子ども(六男ニ女)が皆丈夫で、先年一人欠けましたが、一番上の兄が八十七歳で、威厳があって愛深く、今も元気いっぱいで
兄弟姉妹の手綱をしっかり握っています。これが父の長幼序ありの教育の成果です。
一番上の兄に一切の権限を託し、次いで二番目、三番目と、それぞれの位置にあって秩序整然たる分限を守るように教育したのです。
この秩序が兄弟仲よく育つ鍵となっています。一番上の兄が父の代理となって一切の兄弟を統率しています。
兄の指揮下にあって、兄弟姉妹全部とその伴侶に至るまで、みんな仲よくすべてが生長の家家族です。
私が河口湖道場の総務をしていますので、この長兄が兄弟家族を一人ずつすべて練成道場へ来てよろこんで練成をうけ、終ると長兄のところへ報告に
行き、こまかい指示をうけることになっています。
父の命日は、この兄の召集で一堂に会してお祭りをします。兄弟姉たち口をそろえて「わが父」を讃嘆します。
地位もなく、名もなく、学もなく、ただ直く清く、父は父の道を歩んでいました。
父の歩んだあとからは後光のような光がさしています。
「父は本当に偉大な高級霊でした」と兄弟たちは異口同音に讃嘆するのです。
黙したる ままにて空を 仰ぎいる 百姓姿の 父のかなしも
十人の 家族ひきいて 小男の 父は畑にて 統べたまいけり
『子育て免許証』 鹿沼景揚 先生著 P32-34
619
:
うのはな
:2012/05/08(火) 17:30:18 ID:???
不思善悪
「神様、この問題をよろしくお願いします。よいお答えを下さい」と、義母の「叱る教育」
と、私の「ほめる教育」の意見のくいちがいのとき、一心に神様にお伺いしていると、神様が
すばらしいアイデアを教えて下さいました。
ある日、突然、天来の声をききました。
“不思善悪!!”これはすごいお答えでした。
この世の中には人間知でおしはかって何が善、何が悪ときまることはできない事がたくさんあります。
どんなに「善」と思うことでも、ある立場に立って、これしか善はないと握ってしまったら、もうそこから
善がなくなっているのです。今までは自分が握っている「ほめる教育」が正しくて「叱る教育」はまちがっていると、ただその
立場にこりかかたまっていたため、すっかり大自在性を失っていたのです。
ほめるばかりでそれでいいとは限らない。このわが家の子どもたちには、親のしつけが行き届かないから、おばあちゃんのしつけが
丁度必要なのであって、これはまさに天の配剤ともいうべきであります。
私の足りない面を補ない、どんな波風にも堪えられるような強い教育をして下さっているのです。
『生命の實相』題14巻の教育篇にはすばらしい強いお言葉があります。
遺伝が良くないといって絶望するな。胎教を過ったといって失望するな。
人間はその最も深いところに実に根強く、神の子としての神性の遺伝を持っているのである。
神性の根強い遺伝に比ぶれば、数代前十数代前くらいからの遺伝の力は太陽の前の星でしかないのだ。
このことを強く信ずるものは幸いなるかな。
諸君よ、われわれが毎日子供の心に対して「この馬鹿者めが!」とか「貴様は実に不良だ!」とか
始終罵声をあびせかけることによって子供の心に「悪い種子」を蒔いてさえも、なおそれほどに実際に馬鹿者が出現せず、
不良が出現しないのは何故であるか。これこそ実に強く神から護られた「神性の遺伝」がわれわれにはたらいていてくれる
証拠であるのである。(一九四頁)
生長の家の教育法の何と行き届いていることであろう。教育に失敗したと言ってどんなに失望、落胆している者にも、限りない
勇気と光明を与えて下さるのであります。
つづく
620
:
うのはな
:2012/05/08(火) 17:42:57 ID:???
619 つづき
さて、静かなる瞑想によって得られたことは、結局、おばあちゃんが悪いということはなかったのであります。
おばあちゃんに何故お叱言が多かったかと言えば、一つにおばあちゃんのお心の中にある、
「みんなから愛されたい。みんなから認められたい。みんなのお役に立ちたい」
という切なる願望に私が気づいていなかったからであります。
また、気づいていても、行きがかり上、「おばあちゃんがいるのでありがたい。これも、あれも、おばあちゃんのおかげです」
というような感謝の表現において行き届いていなかった点が多かったのであります。
更にまた、叱言が次から次へと連続して絶え間ないのは、叱言の奥にある心の中の悩みを理解しようとせずに、ただはねかえすばかりで、
叱言をちっとも受け入れてあげるという寛容の心がなかったからです。
誰だって注意したのに、それをちっとも守ってくれないのだったら、いい気持ちになれるものではありません。
叱言の意義を理解し、叱言に感謝し、それを受け入れて、すっかり頂いてしまったら、叱言のもとがそれだけ吸収されてしまいますから、
次第にその回数が減ってくることになるのであります。
『子育て免許証』 鹿沼景揚 先生著 P68−71
621
:
うのはな
:2012/05/08(火) 19:56:06 ID:???
>>619
訂正します。
生命の實相題14巻 × 生命の實相第14巻 ○
622
:
SAKURA
:2012/05/08(火) 20:34:33 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者様 へ
こんばんは
もう〜〜〜昨日から、私は「半袖スタイル」…初夏の香りが〜〜〜♫
もう大変です〜〜〜ネ!今年は、暑そうにも思えて、今から“夏対策検討中”ですが?
その前に【神の提示…】を! “開け〜〜〜ごま 〜〜〜♫”です。
今日の言葉は…
■【幸福を招く365章】
―――――天地一切のものを感謝せよ―――――
朝めざめたならば、神想観を行い、「神の生命われに流れ入りて、わが生命を
健やかならしめ給う」と念じつつ呼吸を整え、
更に「神の愛われに流れ入りて、光明燦然と輝き給い、われを通して
天地一切のものを祝福したまう」という思念を繰返すことは、
天地一切のものと和解することを如実に実践する上にきわめて善き方法である。
一切の不幸と病いは、自己が天地一切のものと和解していないで、
ある程度又は或る意味に於いて敵対状態にあるから生ずるのである。
然るに上記のような思念をおこなうときには心の中に、こちらから積極的に
天地一切のものと和解する以上に、天地一切のものを祝福することになるのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
毎日の「神想観の行事」を行っていますが…
【天地一切のものを祝福する…】すごくいいです〜〜〜ョネ!
若い頃の私は
■父・母に感謝せぬものは、神の心に叶わぬの…云々…この言葉に、
“がんじがらめに”とらわれ過ぎた時期が、ありました…。
そうなのですョ〜〜ネ!“両親の言う通りにする事”が、【親孝行…】と言われますが?
少し“オカシナ現象…”ではと若い時に思いました。
何故なら「両親でも間違った考え方」があるわけでしょ〜〜〜〜〜?
例えば?失礼ながら仮に“罪を犯した人(前科者の方)の子供が、親の言う通りに、
盗みをしなさいと言われたとしますと…?
しないと“親孝行”になれないといっている様なもので…“感謝”と言う事は、
【自然…】にほとばしる感情の事…その様に解釈しています…。
それで、私の“解釈論”は、【生んでくれてありがとう…】と言う事なのでしょうか?
その様なる“理屈?で【反抗期】”でいましたが…
今にして思えば、やはり【人生の先輩】その様な解釈をしております…。
その様に「両親=親」の立場になりますという事は、やはり!それ以上に
“心構えの責任”が、必要になるのでしょうか???
私も「里親の候補」に、将来は“申し込み”と望んでいますが……
何と言いましても“周りの方達”は、猛反対なのですが……?
「亡くなる直前の母」は、別に“反対”しませんでした…?
■【天地一切のものに感謝…の訓示】が、毎日“言葉”として出来る“聖教…”は
「生長の家」の何ものでもありませんでしょう〜〜♫
日々に於きまして【感謝の訓練】は【神想観…】から始まるものでしょう。
私もいつかは???と思いながら、先ず「里親の申し込み」をして、
【天地一切の調和の訓示…】をと思いますが…・…?
でも!“不思議”な事ですが……
【神想観】後、“不思議に周りの光景がキラ〜〜キラ〜〜☆”と輝いて見えますが…
皆様は、どのように感じられていらっしゃいますでしょうか??
再合掌
PS: トキ様 へ
「今日の言葉」どのように思いになりますか???
この「両親…(父・母)」この部分が?いまだに疑問点なのです???この点は、
いかが考えれば宜しいのでしょうか…?
623
:
うのはな
:2012/05/08(火) 20:58:19 ID:???
黒塗り教科書
昭和二十年、終戦の詔勅を私はスマトラで拝しました。
一年間の捕虜の生活の末、日本に帰還しました。妻は三鷹第三小学校で教員を
しており、六年生の担任をしていました。戦争が終り、何もかも大変動が起りましたが、
教育界の大混乱もその大なるものの一つでした。妻の語るところによると、子供たちに墨を
すらせて、国語、歴史、地理等の教科書にでてくる天照大神、ニニギノミコト、神武天皇をはじめ、
天壌無窮の神勅などを真黒に抹消することが授業として続きました。
これまで最高に尊いものとしてあがめてきたものを、児童を使って消し去るという残酷なことを誰が
考えたのであろうか。先生も子どもも泣きながら、その占領政策に従ったのでした。
これは、ほんの序の口で、次から次へと日本の大きな礎石が破壊され、とり去られて行きました。
私は、まもなく付属中学の校長に任命されました。
夜を徹して、青年教師と語りつつ、これからの教育方針を打ちたてなければなりませんでした。
そして、三つの柱ができました。
第一、これからの教育は科学的でなければならない。やまとだましいと竹槍では、原子爆弾に
立ち向うことはできない。
第二、何でも言える強い人間に、民主主義を土台として平和国家をつくる。
(こうして師範学校は廃止された)
第三、再び、子どもを戦場におくるな.....。
これらの逆風をうけて、非科学的で、戦争のもととなったのが神話的歴史であるとの
攻撃がさかんに行なわれるようになってきました。神話的歴史が消えて考古学が中心となり、
日本は、権力、武力、財力の強大な豪族が勝ちのこり、それが今の天皇の先祖であるという
単純な国の成り立ちとなり、建国の理想もなく、劣等民族の教育が四十年、五十年と続いてきたのです。
こうして、『古事記』『日本書紀』に登場してくる日本建国の大ロマンは教科書から一切消え去り、今や、
神武天皇の名も知らず、天照大神を「てんしょうだいじん」と読み、「日の丸」も「君が代」も、
その意味も教えられずに育った若い世代が人口の過半数を占めるようになっているのであります。
『子育て免許証』 鹿沼景揚 先生著
624
:
a hope
:2012/05/09(水) 08:17:52 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
心の使い方一つで
同じ働きをしながらでも、「心」ひとつの使いようで病気にもなれば達者にもなり、
零落(おちぶ)れもすれば立身出世もするのです。
「生長の家」の本を読んだら病気が治るというのも、本の紙や活字のインキが病気を治すのではありません。
心の持ち方を更(か)えさせて懶(なま)ける心から働く心に更えさせるから病気が治るのです。
懶ける心から勉強する心に更えさせるから成績が良くなるのです。
心を更えさせるのが、生長の家の本の文章の力です。皆さんがこのような真理の本を読んでいたら、
自然に懶けているのが馬鹿らしくなって、自然に働きたくなり勉強したくなるのです。
そして仕事が嬉しくなり、勉強が楽しくて耐(たま)らないようになって来るのです。
これは本当です。皆さんは明日からいっそう働き手になり、勉強家になります。
毎日一層、明日は今日より、明後日は明日よりと自然にそうなってくるのです。
これが言葉の力です。文章の力です。働くといっても嫌々そうなるのではありません。
仕事が楽しくて、勉強が嬉しくてしかたなくて、自然にそうなるのだから結構なのです。
(つづく)
625
:
ハマナス
:2012/05/10(木) 00:11:03 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。
女は女らしく (『新版 生活の智慧365章』P.148より)
私は結婚生活に於て妻が夫の上に支配権をもっている場合、往々にしてその子宮が疾患にかかり、
あるいは潰瘍を起こし、腐爛し、あるいは子宮癌を引き起こすことがあるとして、妻が夫に従順に
従う心になるように指導して治った実例を述べたことがあり、子宮は「女性なるもの」の象徴で
あり、子宮に於ける此等の女性疾患は「女性なるもの」の拒否(女らしさの拒否)の精神が肉体に
具象化したのであるとして、女らしさを恢復し、夫に対して真に従順の徳を発揮することによって、
九〇パーセント腐爛して切除のほかなしと医師から診断された子宮が健康を恢復した症例をも
挙げておいたのであるが、メニンジャ―博士は「“女であること”の拒否」によって、不感症、
悪阻(つわり)、月経障害、子宮出血が生ずることを述べ(メ博士著『こわれたパーソナリテイ』
一八五頁)更に「何人かの権威者たちは、子宮脱や膀胱脱、繊維性筋腫すらも、精神性欲の障害の
身体的な結果であるという証拠を報告しています。そして、そのような精神性欲の障害とは……
〈女であること〉の拒否するものであります」と追加して書いているのである。
「女は女らしくあらねばならぬ」と云うことは決して単なるj封建時代の因習でなく、最新の
精神分析学が証明するところなのである。
感謝合掌
626
:
a hope
:2012/05/10(木) 08:59:30 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
病気の正体は何?
皆さんは、病気とはどんなものだか知っていますか。
病気と言ったら、身体のどこかが懶(なま)けていることなのです。
胃袋がグズグズ不平をいって懶けているのが胃病です。
お腹が懶けて食べ物を選り分けて、血や肉にしてくれないで、
みんな外へ出してしまうのが下痢です、
身体(からだ)全体が熱っぽく懶けているのが風邪引きです。
不平をいい、鼻膨らましてブツブツ言っているのが鼻感冒(はなかぜ)です。
身体中のすべての道具が懶けずに働いていましたら私達は達者なのです。
では身体を達者にしようと思うには、身体に怠けることを教えないようにしなければなりません。
それには皆さんは懶けることは得だという考えを捨てねばなりません。
いつも皆さん自身が懶けておって、身体のあちこちの道具に懶けてらいかんと言っても駄目であります。
身体中のすべての道具を懶けさせずに健康に働かせようと思ったら、
皆さん自身が本当に懶けずによく勉強し、よく仕事のできる人にならねばなりません。
これが病気すなわち「身体の道具の懶ける」ことを防ぐ第一の心掛けです。
(つづく)
627
:
志恩
:2012/05/10(木) 09:51:25 ID:.QY5jUA6
うのはな様
黒塗りの教科書
鹿沼掲揚 先生著『子育て免許証』からの謹写、感謝いたします。
鹿沼先生(本部講師)は、学芸大学付属中学の校長先生をなさってて、その後に、学芸大学教授・理学博士になられた
インテリジェンスの高い先生でしたが、鹿沼先生は、そのような地位とか名誉など、ちっとも鼻にかけることのない、とても謙虚で人格的にもすばらしい先生でしたので、
多くの信徒の方々から愛され
憧れられてた先生でした。
生長の家 新教連・生命学園の講師も兼務されてました。
夏休みに、鹿沼先生が、当時、総務をされてた「河口湖 練成道場」で、生命学園小学生練成会があり、そのとき、私は、3人の子供たちを連れて
練成会に参加しました。親子で参加する練成会でしたので。
そのときの練成会には、学校の教師であり、生命学園の講師でもいらした”野木清司先生”も、ご指導のため参加されてました。
私が、印象に強くのこっておりますのは、野木先生は、ご自分のご講話の時間以外は、練成会の参加に混じってというより、一番後ろのところに
ずっと正座されておられて、神想観のときも真面目に参加されてましたし、鹿沼先生のご講話も、生徒のようなまなざしで、真剣に聞いておられたことです。
早朝に、富士山にバスで登ることもプログラムに、はいっていたのですが、
私は、当時、野木先生には、本部で、有志の皆様とご一緒に、書道を教えて
頂いておりまして、野木先生とは、顔見知りでしたので、富士登山のときは、野木先生のお隣りにずっといて、いろいろとお話させて頂いていました。
そのとき、野木先生は、この生命学園の練成会は、私が最後に参加する練成会なのだ、とおっしゃっておられました。
昔の時代は、このような大物の先生が、いっぱいおられましたよ。
628
:
志恩
:2012/05/10(木) 09:57:30 ID:.QY5jUA6
うのはな様
急用ができ、謹写してくださった肝腎の本の方の感想を書く時間が、なくなりました。夜にでも
書かせていただきます。すみません。
629
:
志恩
:2012/05/10(木) 11:22:53 ID:.QY5jUA6
627,一部訂正
野木清司先生に、ボランティアで、本部に於いて「書道」を教えて頂いていた時期は、
私が、本部在職中の時でした。
結婚後、では、ありませんので、「当時」と書きましたのは。まちがいです。訂正します。
630
:
ハマナス
:2012/05/10(木) 11:48:12 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんにちは。今日も“嬉しい、楽しい、ありがたい”一日でありますように。
自分を赦すこと (『新版 生活の智慧365章』P.149より)
私は『幸福を招く365章』の本の中に、「自分を赦すこと」が大切であると云うことを
書いて置いたが人類の不幸及び災禍を絶滅するためには、人間自身の“自己処罰”を無く
しなければならないのである。その“自己処罰”は自分を赦さないところから生ずるので
ある。メニンジャ―博士は「数多くの病気は――通常、器質的と呼ばれるものも、機能的
と呼ばれるものも――慢性で間接的な自殺という自己破壊の多様な形態とみなすことが
できるが、このような意見をのべることは、おそらく、理論を拡張しすぎることにはなら
ないであろう」と述べているのである。(メ博士著『こわれたパーソナリテイ』二七五頁)
兎も角、人間は“神の子”であり、本来完全であり、神と同じく“無限の力”を自己の
内に有(も)っているのであるから、自己が許さない限りは、どんな災害も受けることが
できないのであり、若し、全能なる者が災害を受けるとしたら、自己が自己を処罰する場合
だけだと言い得るのである。
感謝合掌
631
:
志恩
:2012/05/10(木) 12:27:06 ID:.QY5jUA6
山本富士子さま
淵脇先生の奥様の、旧姓名を、調べて、ここの掲示板に、書かれなくて、いいですからね。
そこまで、身バレされる必要は、ありませんので。
どうぞ、その件は、書き込まれないように お願いします。
632
:
山本富士子
:2012/05/10(木) 19:14:22 ID:vYsrynO.
志恩様
了解しました。
いつもご配慮ありがとうございます。
633
:
志恩
:2012/05/11(金) 00:23:31 ID:.QY5jUA6
うのはな様
627で書きました様に、うのはな様が謹写して下さった『子育て免許証』の著者の鹿沼掲揚本部講師は、
学芸大学教授、理学博士でもいらしのです、その前の時代の付属中学の校長であった、そして先生の奥様は小学校で教員を
されてましたから、
戦後直後、占領政策下のため、その政策に従わざるを得ず、神話的歴史に関わる言葉を「黒塗り」せねばならず、教科書は、
黒塗りだらけになった。
このお話は、私は、鹿沼先生の、ご講演でも拝聴したことがございました
。
実際に生徒に教える立場でいらしたからこそ、尚のこと、神話的歴史が語れなくなったこと、
「古事記」「日本書紀」に登場してくる日本建国の大ロマンは、教科書から一切消え去り、
日の丸も君が代も、その意味も
教えられずに育った若い世代が、人口の過半数をしまるようになっている、ことを痛感されてました。
以前の、生長の家では、新教連が、生命学園をやってましたから、そこで子供たちに、日本建国の大ロマンを
教えていましたが、雅春先生が、亡きあと、「古事記」や「日本書紀」などの愛国を語るという理由で、
生長の家教団から、新教連を追放してしまったことは、
日本国にとって、大きな損失であったと,思われてなりません。
634
:
a hope
:2012/05/11(金) 08:06:28 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
休息の喜びは働きにある
多くの人達の欲しがっている休息すなわち「休み」の快さというものは、
成るべく働かないようにしていることによって得られるものではありません。
本当に働いたものだけが、休息すなわち「休み」の快さを知っているのです。
病人はいつも寝床の中に寝ているから、
さぞ「休み」の快さを毎日毎時間味わっているようにお思いになるかも知れませんが、
いつも休んでいる人には「休息」がないのです。
それは、だるい退屈な仕様のない時間の続きです。
よく働いた日に、夜になって寝床に入って足を伸ばす快さこそ本当の休息です。
働かない人にはこの休息の喜びはわからない。
人間は働くように、仕事をするように、勉強をするように、神から創られているのです。
だから働かない人、仕事をしない人、勉強しない人には、
休息の快さを神様は与えてくださらないのです。
真の休息の快さは働く人にのみあるのです。
毎日休んでいる人には日曜日の楽しさは本当にわかりません。
ただダラダラ遊んでいるだけで、くだらない味のない、楽しさのない、
退屈な日が続くばかりです。
(つづく)
635
:
ハマナス
:2012/05/11(金) 09:44:47 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
他人を赦すこと (『新版 生活の智慧365章』P.150より)
自己が災害を受けないために、自己を赦そうと思っても、自己が他を害そうと云う
悪念が現に動いている限りに於ては、自己の潜在意識の奥底にある“良心”が自己を
処罰するに至って、やっぱり災害を受ける事をまぬがれることはできないのである。
メニンジャ―博士は次のような実例を掲げている。――
「もっと劇的でさえあるような別の実例が、最近私の注意を惹いた。私は新聞である
男のことを読んだが、この男は、自分の鶏を盗もうとする奴を自動的に鉄砲が打つような、
泥棒除けのわなをしかけていたが、彼自身このことを忘れてしまって、一番先に鶏小屋に
入り込み、自分自身のしかけた鉄砲で殺されてしまったのである。私は、これこそ自分で
自分に行った死刑の見事な実例だと思う。・・・二ヵ月ほどして私は、自分の自動車を
守ろうと、自分のガレージにわなをしかけていた男の別の実例を見つけた。彼は、
一月ばかりの旅行に出たが、戻って来た時、自分自身のしかけた泥棒よけのわなで殺
されてしまったのである。私はこの切り抜きをもとっておいたが、更にもっと沢山の
実例を探し始めた。一年ほどのうちに私は、他の男を殺すためにしかけたわなに、
自分自身がひっかかった五人の男の実例を手に入れた。私には、これらの事故が単なる
偶然の一致ということだけで説明できるとは考えられない。自分でしかけた死のわなに
自分がひっかかるような男には、一種の、(無意識的な)罪悪感、おそらくは他人(泥棒)
を殺そうと願ったことから生じた罪悪感という要素が存在していたにちがいない。」
(メ博士著『こわれたパーソナリテイ』二七九頁)
以上のような実例によってわかることは、自分を害そうと思う者や、自分から何かを
奪おうとしている者さえも、吾々は赦さねばならないと云うことである。相手を憎んで
相手を害しようと思うならば自分が害されることになるのである。
感謝合掌
636
:
うのはな
:2012/05/11(金) 18:30:10 ID:???
大聖師御講義『続々甘露の法雨』 谷口清超編纂 はしがき
生長の家の聖経では『甘露の法雨』とその続編の『天使の言葉』とが、まず
谷口雅春大聖師によって書き下ろされた。それから『続々甘露の法雨』が作詩されたが、
これらは「三部経」として大切に日々読誦されている。
そこには生長の家の真理が、流麗な文章で書かれていて、毎日読誦しているそのリズムによって、
知らず知らずのうちに教えの神髄が自覚されてくるものだ。
とくにこの『続々甘露の法雨』は、病人の心を励まし救うところの力強い言葉が満ちあふれているので、
「病気になったら読む」という人もいて、そうした功徳もあるが、実は人生万般の現象すべてをナシと断定する
“真理の言葉”であるから、あれこれと現象を掴まず、ただ「そのままの心」で感謝して拝読するのが一番よいのである。
この点について、大聖師は本文第四話の中で、次のように御教示されている。
『「健康は既に汝を訪れたりと知れ」ここが大切ですね。これから病気を治そうと思うと、病気を心で掴むでしょう。
「既に健康は訪れた」とこう思ったら、心はもう病気を掴まんですよ。「病気を治したい」というのは、「病気がある」という
観念が働いているから、心に念ずるものがあらわれるのですから、それではまずいですね。
「既に健康である」と健康を念ずるがよい。だから神想観をしても「神の生命流れ入って私の病気を今治し給いつつある」と念ずる。
まあこれでも効かんことはないけれども、そう念ずるよりも「神の生命流れ入りて光明燦然と輝いて、病気はどこにも無い既に健康である」と、
その既に健康である相をじーっと観ずる方がいいんです。
“病気を治し給う”じゃ「病気がある」という観念が矢張り働くからまずいですね。
それで、『心を鎮めて平和ならしむるの秘訣は唯「有難う」と一切のものに感謝するにあり』と示されている通りに、
“ありがとうございます。ありがとうございます”と感謝するんです。
本当に感謝の念を起すということが必要であります。しかし、まだ実際に感謝の念が起らないでも“ありがとうございます。
ありがとうございます”と、こう言葉に出して繰返し言っておりますと、“言葉の力”で感謝の念が湧いてくるのであります。』
つづく
637
:
うのはな
:2012/05/11(金) 18:50:18 ID:???
636つづき
その他にこの御講義のなかには、正しい宗教は脅しではなく解放の教えであること、さらに
事業や家庭や夫婦の問題、さらに又教育や子育てに関することなどの解決した実例が、実にさまざまな
角度から引用されている。青年時代、雅春先生が如何にして就職し、さらにそれをやめて「生長の家」を始められたか
という経緯についても、第十話でユーモアを交えて話しておられるから、この御講義はまさに生前の先生のお話を承っている
ときそのままの“雰囲気”を再現していると言えるであろう。
さて最初、この『続々甘露の法雨』についての大聖師の御講義が行われたのは、昭和三十年十一月に秋の記念祝賀講習会が
東京の本部会館で行われた時であった。その部分の収録は第一話から第十話までであるが、その後さらに数多くの追加原稿が、
昭和四十三年一月号から昭和四十八年九月号にかけて「白鳩」誌に連載された。
しかし途中には休載の月もあり、その全部はここに収められてはいない。
即ちこれらを谷口貴康氏が克明に纏めて編集して出来上がったのがこの書物である。
また貴康氏は本書を谷口雅春先生ご生誕百年の記念出版として上梓できるように努力し、
その校閲や装丁にも携わってくれたのであり、ここに厚く感謝の言葉を述べさせて頂く次第である。
勿論いつもの様に、日本教文社の永井光延氏をはじめ編集部の方々には、色々とお世話になった次第であり、
重ねてお礼を申し上げるものである。
平成五年六月十七日 編纂者 謹んでしるす
638
:
SAKURA
:2012/05/11(金) 20:09:30 ID:WTW7YSyM
こんばんは…
今回は【生徒の家…お家騒動】神の御心に?この事は叶うのでしょうか?
■■【谷口雅春先生の…「生命の実相」一部抜粋投稿より】
「ひとりの先覚者が現れてある教義や主義綱領を掲げて民衆の賞賛をはくしていると、
その同じ教義や主義綱領を自分は前から称えていたと言って、その団体の人員を
浚って行ったり、同じ主義綱領をほんの少しばかり変更して自分の方が勝って
いるといって崇拝を自分の方へ集めようとする者がある。
牛後となるより鶏口となれという小才子(こざいし)が多いから
この世は乱れるのである。人間はなぜ大同団結をしないのだろう。
三十年黙って一つの団体の牛後に喜んで真面目に活動しうる人は、ついに
その団体で押しも押されれもせぬ人物になることができるのである。
明智光秀のような才子はいくら多くとも世が乱れるばかりである。ついに
天下をとったものは徳川家康であったことを知らねばならない。」
「生命の実相」より抜粋です!!! 谷口雅春著
639
:
SAKURA
:2012/05/11(金) 20:23:35 ID:WTW7YSyM
<つづく> No.2
今日は谷口雅宣先生の【プログ…】に記載されていますモノを、一部投稿せて頂きます…。
参考になる様に思えますので…【シリーズ中…第4回目】を、投稿します。(特に共鳴…)
■観世音菩薩について…(4)
ここまでの議論では、観世音菩薩についてその“出自”に即して仏教の文脈で考えてきた。
しかし、今年の全国幹部研鑽会に参加した読者はご存知だが、私はこの菩薩に関連づけて
全く別の分野の話もした。それは脳科学(神経科学)の話だった。そこで本欄でもこの分野に
踏み込んで議論を続けたいと思う。つまり、宗教と科学との接点を見出し、考えてみたいので
ある。具体的には、もし観世音菩薩が我々の“内部”にある人間の「本性」だと宗教で
言うならば、脳科学的にはその本性が脳のどの辺に位置しているのか、あるいは
脳のどのような機能として説明できるのかという問題を考えてみたい。もちろん私は
脳科学者ではないから、ここで何かオリジナルな研究成果を発表するつもりはない。
そんなことは不可能である。私にできることがあるとすれば、それは近年の脳科学の
研究成果の中から、人間の「良心」や「宗教心」と関係のありそうなものを紹介するくらいである。そして、すべての人間の脳がそのような特徴的な構造と機能をもつのだから、
「人間は神の子である」あるいは「人間の本性は仏である」という宗教上の主張は、
単なるナイーヴな理想論ではなく、きちんとした科学的な裏づけがあることを示したい。
脳科学的な説明に入る前に、人間の心の素晴らしさと複雑さについて、
谷口雅春先生の御文章から確認しよう。まずは、『新版 光明法語<道の巻>』から
「1月20日の法語」を引用する−−
「吾が全ての願いは吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。
されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。吾と神と一体であるという事を
自覚するが故に如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。
吾は吾が中(うち)に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう。吾に何事でも勧めてくれる人は
神が遣わし給いし天の使(つかい)である。吾は素直に外の導きにも内の導きにも
従うのである。吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。」(同書、p.43)
この本は、引用した箇所ほどの短い文章を毎日読み進めていくことで、読者が
神我一体の自覚を深めていく目的で編まれている。だから、短い文章中のリズムや勢いを
重視する代わりに、論理性や汎用性が犠牲になることもある。引用箇所はその典型で、
「人間・神の子」の自覚がある程度深まった人が読めば、さらに自覚が深まり、
勇気と信念をもってその日を送ることができるに違いない。私が特にこの文章を引用した
理由は、現下のテーマである観世音菩薩と関係が深い表現があるからだ。
それは「吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう」というくだりで、雅春先生はここで
「観世音菩薩の教えは自分の内にも外にも溢れているから、そこから学べ」と仰っている
のである。
しかし、そういう深い意味を読み取るに至らない読者もいる。例えば、自分の選択に
自信がもてず、かつ他の選択肢にも魅力を感じていたり、さらには周囲の人々の意見に
振り回される傾向のある人などは、引用箇所だけを読んだ場合、誤った印象をもつ
可能性がないわけではない。また、自我意識が強く、周囲の人々の意見を無視して物事を
押し進める傾向のある人も、間違った解釈をしかねない。なぜなら、引用の最初の部分を
文字通りに解釈すれば、「自分の希望はすべて神の御心だ」という浅薄な読み方も
できるからだ。さらに引用の最後の文章も、生長の家の教えをよく知らず、
物質的な誘惑に弱い人は、誤った解釈をする可能性を否定できないだろう。
もちろん私は、雅春先生の文章に欠陥があると言っているのではない。
そもそも文章とは、読む人の知識のレベルや心境によって、内容の理解や解釈が
変わってくるものである。学術論文であれば、そういう違いが最小限に留まるだろうが、
宗教や芸術に関わる文章の場合は、読み手の力量が理解度を大きく左右することになる
−−そう言いたいのだ。
谷口 雅宣
640
:
a hope
:2012/05/12(土) 09:50:22 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
働く者の喜び
働く人、仕事をする人、勉強する人の楽しさは、休息の時間や休日が本当に楽しくて、
快いばかりではなく、まだまだ尊い楽しさを与えられます。
自分がする仕事がだんだん捗(はかど)り進行してゆきつつあるのを見る楽しみはその一つです。
仕事の一段を終わる毎に「もう、これだけできた!」という喜び、
勉強のひとくさりが終わる毎に、もうこれだけ自分は進歩したと思い返す喜び。
仕事の中に、勉強の中に、時々刻々の運びの中に進歩があり喜びがあるのです。
皆さんは本を読んで、もう大分読んで、「もうこれだけ進んだ」と思って、読み終わったその本の厚みを、
じっと見てさわやかなホッとした楽しい息をする喜びを味わったことはありませんか。
これは読書の楽しみですが、仕事をすれば、勉強をすれば、
「もうこれだけ進んだ」と振返って考えられるその時の楽しみはまた格別です。
(つづく)
641
:
如月
:2012/05/12(土) 10:52:51 ID:ki/haAjk
昭和60年11月号 『理想世界』 60頁
愛 の 三 十 一 章 愛と祈りの女性となるために⑫ 谷 口 雅 春 先 生
第二十四章 本当の愛は法則の如く峻厳である
真の愛は叡智に導かれた愛でなければならないのである。
愛は煩悩(ぼんのう)に従わず、智慧(ちえ)に従う。
截ち断る(たちきる)べきものは截ち断り、捨離すべきものは捨離する。
猫が猫の仔を舐めるような愛撫(あいぶ)が必ずしも真の愛ではないのである。
真の愛は峻厳(しゅんげん)なものである。
それは法則の如く峻厳である。
斬るべきは斬り、批(う)つべきは批つ。
しかし相手の性を知り。相手の美点を見のがすことなく、明らかに観て、
褒むべき点は容赦なく称揚(しょうよう)するのであり、
それによって相手の、人性に共通なる
「称(ほ)められたい、認められたい、愛されたい」願いを満足せしめつつ、
苟(いやしく)も、愛に狎(な)れて長幼の秩序を失い、尊敬すべきものを
尊敬せざるような過ちを犯さしめないようにするのが本当の愛なのである。
(『白鳩』昭和43年7月27日の箴言より)
642
:
SAKURA
:2012/05/12(土) 22:18:34 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…
この頃、睡眠時間が少ない【SAKURA…】ですが、意外と体力が続いています。
それはやはり祈りです〜〜ネ!益々「神と一体」に“ゴ−!サイン」ですかと?
さぁ〜〜今日も【聖典】を開きます…。此の“書”を開き給いて…
出ました〜!今から“スタ−ト”……>>
■【幸福を招く365章】
――――人から誤解された場合――――
他人から誤解されたからと云って失望してはならない。
自分も多くの人々の美点の総てを見ることに失敗し、時々誤解によって
人々を悪しざまに思ったことがあるからである。
肉体人間は視野が狭いから時々観察を誤るものであると云うことを知って、
誤解した人を宥さねばならない。又どんなに偉い人でも、釈迦でも、キリストでも、
親鸞でも、日蓮でも、誤解されてその時代に容れられなかった
時があるのだと云うことを知って、自分が受けた誤れる批難くらいは
何でもないことだ、と心から捨ててしまう事が必要である。
そして「すべての人は神の子であるから、互いに愛し合い理解し合っていて誤解
し合っている人は一人もない」と実相調和の有様を心に描くことがひつようである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「今日の言葉」は、日常茶飯事にて多々あります〜〜〜ョネ!この頃!
誤解されやすい人は、落ち着きがない人?更に読解力が無い人?つまり…
きちんと読んでない人…それらの人は、必ず!表面上で理解しますから、当然!
「問題」が生じます事は、当然であり、この頃は特に思っていました…。が…
「今日の言葉」では、先生の言葉より…
■「肉体人間は視野が狭いから時々観察を誤るものであると云うこと…」
確かに“決めつける心”でしょうか??私自身“反省”点は、多々あります。
今日も〜〜又!なの?これはどういう〜〜〜事なの〜〜〜? ><?
此の様に、いやな〜〜〜感情が心に芽生えましたら?「誤解…」もできる訳で、
そうなのですョ〜〜〜ネ!「ネガティブな感情」です〜〜〜モノ!
更に!この様な時には【時間管理】が……狂い“一日の予定”の【時間管理】が…
前に進めなくなりますが…!
■「今日の言葉」より時として、私の考え方に賛同の方々?反対論に賛同の方々?
双方が【受け入れなかった事】は、当に!!時として
【肉体人間の現象を超えて、実相調和を描く】この啓示を神から頂いたのでしょうか?
当に「人生劇場」に於きましての“エクササイズ”でしょうか…?
■偉人でも、当時の迫害を、何でもな〜〜〜い!云い切るくらいの【不屈の精神】
これが…【人を…時代を…動かすのでしょう!!】
この精神は“アメリカンドリ−ムの精神”でしょうか〜〜〜?
私も更に「雅春先生の教え」を受け次いで【実相調和の心の映画館】に入って行きます。
「今日の出来事」は、必ず!いえ…更に!私の精神を、正しい方向性に導く…?
この事は【肉体人間…】に必要な“エクササイズ”でしょうか?
「今日は早速」…この問題に近い事を与えられましたが……??
此の与えられた事に…感謝!そして…前に進むべきでしょう〜〜〜♫〜【認識】
再合掌
PS:
トキ様へ
人は“誤解”を受けました時…その対処・又!そこに行きつくまでの段階…原因
この事は反省すべきであり、「時を待つ」事の重要性を感じる次第です。
トキ様に於かれまして、この“誤解”対処法??どの様にお考えでしょうか…?
643
:
ハマナス
:2012/05/13(日) 00:13:59 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
今日から、「第六章 智慧はどうしてくるか」に入ります。
不思議な無限の叡智 (『新版 生活の智慧365章』P.153)
吾々は肉体からいうならば常に死につつあるのである。吾々に肉体を構成する細胞、
それは生れ、組織をつくり、その割り当てられたる仕事をし、やがて死んでいく。
その死んで行った後の椅子を、新しく生れた細胞が埋め、前の細胞が行って来た仕事の
引き継ぎをして、全体として統一ある仕事が行われるのである。新たに生れた細胞は
生きていて、仕事を引き継いで、継続してその任務とする仕事に従事する“引き継ぎ”は
如何にして行われるであろうか。引き継がおこなわれるためには“心”がなければなら
ないのである。細胞から細胞へとその事務引継ぎは行われるのだろうか。それとも、
中枢からの命令が無線伝導で行われるのだろうか。直接その事務引き継ぎが行われるに
しても、中枢からの命令が無線伝導で行われるしても、いずれにせよ、細胞が行きていて、
それに“心”があるからこそ引き継ぎができたり、中枢の命令が感受できるのだといわ
なければならないのである。
或いはそれは“心”によって感受するのではなく、電子計算機のように自動的にその
引継ぎや命令の伝達が行われるのかも知れない。併しなお、問題は残るのである。
この極めて微小な、肉眼で見えないほどに小さな細胞に電子計算機のような複雑な構造が
組み込まれているだろうか。若しそうだったら、そのような微小な中に複雑な構想を組み
込んだところの「創造者」は実に驚くべき叡智を備えた者でなければならない。
それは到底、吾々人間の脳髄の知恵でできることではないのである。脳髄をも造った
ところの不思議なる「無限の叡智」それを神というのである。吾々はどうしても神の存在を
認めなければならないのである。
感謝合掌
644
:
a hope
:2012/05/13(日) 09:09:01 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
仕事と勉強の喜び
最も幸福な人間は、仕事をし、勉強をする喜びを知った人です。
それは世の中に益をを与え、人に益を与えながら、自分も益を与えられ、
心に無限の喜びを味わいつつ、自分自身が進歩する道なのです。
そのほかにも、本当の休息の楽しみや、夜寝床で足を伸ばす、快さや、
日曜日に本当に誰はばからずに、自由に伸び伸びとして時間を得る喜びや、
身体が健康で食べ物の美味しさを与えられる楽しさは、働いた後にこそ来るのです。
これに反して世界で最も気の毒な人は仕事を持たない人です。
病人でも仕事は手先ででき、心でできます。仕事さえあれば、
病気で長く寝ている人も、なお心を楽しませることはできます。
しかし、仕事をすることを知らない人が病気になったら、
ただ苦しみと退屈を味わうばかりで、実に惨めで気の毒だと言わねばなりません。
たいていの病気は、不平を言わずにただ喜んで仕事をするということ―――それだけで治るのです。
私に相談なさった方で、仕事に喜んで精出すという、
ただそれだけのことで病気の治った人はたくさんあります。
リビングストンは「神のために働くとき、額の汗は神経の強壮剤である」と申しました。
「神のために働く」とは世の中のためになる仕事に喜んで働くということです。
一巻(ひとまき)の糸を紡いでも、一足の靴下を織っても、
「この私の力によって、吾々の兄弟である人間が寒さを凌いで喜んでくれるのだ」
と思えば、その仕事が楽しくなってくるのです。
(つづく)
645
:
ハマナス
:2012/05/13(日) 23:18:00 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
新陳代謝と老衰 (『新版 生活の智慧365章』P.154より)
常に新陳代謝の行われている人体は、或る生理学者の説によると、忍耐の柔らかい部分の組織は、
もう二ヵ月もたったら殆ど過去の細胞は死滅して運び出され、新しい細胞によって、再組織せられて
いるということである。(脳細胞だけは別である。) それなのに、その人体の構造や形態が、数ヵ月
前の今日も全く同じき構造をもっているというのは、如何なる理由によるのであろうか。それは
電子計算機のように自動的にそれが計算されて、新しい細胞が自動的に元の位置を占めるからで
あろうか。自動的に、そのような新陳代謝が行われるのだったら、全く同じき変わらない構造を
もっている人体は老衰し、皮膚はしわみ、精力は衰えて行くのは何故であろうか。人体の電子
計算機が不完全な為なのであろうか。それとも、人体は物質であるから、電子計算機でも、
それが物質で出来ている限りに於て長期間使っているうちには全体が摩耗して、ちびて来る
からであろうか。
併し新陳代謝の行われない物質の機械では禿(ち)びて来て長期間には使いものになら
なくなるのは当然だけれども、人体は新陳代謝が行われているから、長期間使用して禿(ち)びて
来て使いものにならない場合は、その部分は、新しい細胞がその組織を再造してくれるから、
それだけでは老衰の原因の説明にはならないのである。
感謝合掌
646
:
ハマナス
:2012/05/13(日) 23:18:30 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
新陳代謝と老衰 (『新版 生活の智慧365章』P.154より)
常に新陳代謝の行われている人体は、或る生理学者の説によると、忍耐の柔らかい部分の組織は、
もう二ヵ月もたったら殆ど過去の細胞は死滅して運び出され、新しい細胞によって、再組織せられて
いるということである。(脳細胞だけは別である。) それなのに、その人体の構造や形態が、数ヵ月
前の今日も全く同じき構造をもっているというのは、如何なる理由によるのであろうか。それは
電子計算機のように自動的にそれが計算されて、新しい細胞が自動的に元の位置を占めるからで
あろうか。自動的に、そのような新陳代謝が行われるのだったら、全く同じき変わらない構造を
もっている人体は老衰し、皮膚はしわみ、精力は衰えて行くのは何故であろうか。人体の電子
計算機が不完全な為なのであろうか。それとも、人体は物質であるから、電子計算機でも、
それが物質で出来ている限りに於て長期間使っているうちには全体が摩耗して、ちびて来る
からであろうか。
併し新陳代謝の行われない物質の機械では禿(ち)びて来て長期間には使いものになら
なくなるのは当然だけれども、人体は新陳代謝が行われているから、長期間使用して禿(ち)びて
来て使いものにならない場合は、その部分は、新しい細胞がその組織を再造してくれるから、
それだけでは老衰の原因の説明にはならないのである。
感謝合掌
647
:
ハマナス
:2012/05/13(日) 23:21:24 ID:u5mC.eb2
トキ様
すみません、2重に書き込みをしてしまいました。
646の削除をお願いいたします。
648
:
a hope
:2012/05/14(月) 08:07:03 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
仕事の面白みを出す法
仕事や勉強は、人間が自分の生命(自分の内にある生きる力)を生かすために、
神がくださったものでありますから、あまり好まない仕事でも、あまり好まない学科でも、
熱心にただやりさえすれば、しまいには面白くなってくるようにできているのです。
仕事や勉強が面白くないのは、ただその理由は、その人がそれを熱心にやらないということだけです。
つとめつとめて無理にでも根限(こんかぎ)りやっているうちには、それがどんな仕事でも、
本当に楽しくできるようになってくるのは、あの本来苦い不味い煙草でも、
無理につとめて喫(す)っているうちには、美味しくて、
とても止められないほどの味がでてくるのでも知れるでしょう。
まことの習慣の力ほど強いものはありません。
苦い酒や煙草でも、美味しく感じさせるのは習慣の力です。
はじめは如何に、仕事が苦しくとも、勉強が辛くとも、
それは「本当のあなた」の現れではありません。
つとめて行えば必ず仕事や勉強に味が出てくるのです。
必ず仕事が楽しくなってきます。勉強が歓ばしくなってきます。
(つづく)
649
:
うのはな
:2012/05/14(月) 18:19:25 ID:???
祈りを有効ならしめるには
何事でも不結果が起ったときには、神に一致しない心があるのであるから、
先ず神に一致する心を起すことが必要である。
神は愛であるから、神に一致した心を起すには、先ず愛の心を起さなければならないのである。
誰かを憎んでいたならば、その憎みを捨て、相手の罪を赦し、心に愛と平和を有たなければならないのである。
次の如く瞑目して静かに念ずるのが好いのである。
「彼(相手の名を念ずる)と私とを神の愛と平和と調和と赦しとが取り巻いている。
私は彼を愛し、彼は私を愛し、私は彼を理解し、その間に何らの誤解もないのである。
愛は憎まない。愛は欠点を見ない。愛は怨まない。愛は相手の立場を理解して決して無理な
要求をしないのである。」
『真理』第八巻 信仰篇 谷口雅春 先生著
650
:
ハマナス
:2012/05/15(火) 00:03:13 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
心と生理作用 (『新版 生活の智慧365章』P.155より)
人体の老衰の原因は、単なる物質的機械のような新陳代謝の出来ないものなら、「使い禿(ち)びる」で
説明されるけれども、新しい細胞が常に古い細胞と置き代っているから、「使い禿(ち)びる」と説明
できないとすれば、如何なる理由によるのであろうか。ここに物資的原因以外に、“心”をその原因者と
して説明に取り入れなければならないことになるのである。“心”というものが吾々人体の生理作用に
非常な影響を与えるものであることを考慮に入れなければならなくなるのである。ちょいと羞恥の感情を
起せば顔は赤くなるし、恐れればふるえるし、悲しめば涙が出る。梅干を見れば唾液が湧く。このように
機械的な電子計算機の調節のほかに、人体には、精神的要素によって生理作用の異なってくる要素がある
ことが明らかである。
老衰の原因も、心の要素を考慮に入れるとき説明し易くなるのである。或る人は心の鑿(のみ)をもって
老衰をきざみ、或る人は心で血行や新陳代謝を盛んならしめて、その老衰をふせぐことができるのである。
『甘露の法雨』には「若しと思う者は忽ち若返り、老いたりと思う者は忽ち老い朽(く)つるも宣(むべ)
なるかな」と示されている。
感謝合掌
651
:
じっそおー
:2012/05/15(火) 05:11:08 ID:vsZYH/3w
a hope 様
初めましてじっそおーです。
>>1962
(トーキングステイックボード板)
ご親切におっしゃってくださって本当にありがとうございます。
そんな風に言って頂いてうれしかったです。(それと訊け様をはじめ、たくさんの人に色々教えて貰いまして有難かったです。
ご返事が遅れて申し訳ありません。
(ご返事を)聖典引用板で書かせていただいた理由は
私は、WEB誌友会に参加できそうにありません。仕事があるのとパソコンを家族で共有していますのです。
で、トーキングスティックボード板(今はWEB誌友板ですね。)に書き込みをしにくいので
ここの板でお礼を書かせてもらいました。
パートのお仕事、がんばって下さいね。
652
:
a hope
:2012/05/15(火) 07:53:38 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
先ず進んで自分からやれ
仕事や勉強を楽しくするには、懶(なま)けている習慣に負けているかぎりは、
仕事や勉強の喜びは味わえるものではありません。
本当に噛み締めて味わわずには、
物の本当の味わいというものは分かるものではありません。
仕事や勉強の楽しさを本当に味わうには、
身を入れてしっかりとその仕事や勉強を一心不乱にやってみなければなりません。
親が上役から、いつでも勉強せよ、仕事をせよと口喧(くちやかま)しく言われるために、
勉強や仕事が嫌になっている人は、親や上役が見ていない時に、知らぬ間に、
この仕事、この勉強をやって置こうと、そういう機会を覘(ねら)って一生懸命に仕事し勉強をしてみて、
自分から進んでする仕事、自分から進んでする勉強の楽しさの味わいを知ってみるのも一方法です。
ともかく、仕事や勉強の味は、先ず思い切って、一所懸命やってみなければ判りません。
仕事や勉強の味が本当に判ってきたら、この世の中に、これほど楽しい爽やかな喜びはありません。
(つづく)
653
:
ハマナス
:2012/05/15(火) 09:53:35 ID:u5mC.eb2
みなさま、おはようございます。
五月十五日 不断の祈り (谷口雅春先生著作集『光明法語』より)
「常の祈り」が大切である。所謂る「不断念佛」「平常業成(ごうじょう)」である。
平生の祈りの業が成就して、現象界に現れるのである。朝起きれば、「寝ている間にも
呼吸をなさしめ給い、血液を循環せしめたまい、夜中自分の生命を護り給うた神よ、
有難うございます」と神に感謝し、「一夜を暖かく眠らせ給うた布団よ有難うございます」と
感謝して起きるのである。今与えられている事に充分感謝しないでいて、次の善きものが
与えられると云うことはあり得ない。感謝する事によってのみ、今与えられたものの充分の
価値を享受出来る。
感謝合掌
654
:
うのはな
:2012/05/15(火) 17:36:39 ID:???
全宇宙は一つの生命体でありますから、例えば、人間の身体にも比ぶべきものであります。
われわれの身体においては、皮膚にある損傷ができますと、皮膚そのものに変化が起こるだけではなく、
全身にその違和が感じられ、全身の血液が環流して、その所の皮膚の傷を癒す成分を送ってくれるのであります。
それと同じことが、われわれ個人の経済状態においても起こるのであります。
われわれが経済状態にあるマイナス状態を生じますと、必ず全宇宙の供給の流れが還流して、そのマイナス状態を
埋めてくれるようになっているのであります。だからわれわれの生活が大宇宙の一つの流れに繋がっているという実相
に目覚める限り、われらには絶対に「貧」ということはありえないのです。
宇宙は無限供給である。その無限供給に繋がっているとき、どうしてわれわれに「貧」ということがありましょうぞ。
すべての富は今すでにわれらに与えられているのであります。われわれは、宇宙の無限供給の富の中心にいるのであります。
『生命の實相』第八巻 観行篇 谷口雅春 先生著 P115
655
:
SAKURA
:2012/05/15(火) 21:10:54 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
■【幸福を招く365章】
――――人間が幸福になるためには――――
人間が幸福になるためには、自分の周囲に光をみなければならない。
この世界を物質の機械作用で、人間の欲望などは踏み躙って勝手に動いている
世界なぞと思ってはならぬ。それは希望のない恐ろしい宿命論だ。
機械的世界観と、宿命的人生観ほど人間を不幸に陥れるものはない。
それは宿命と云う鉄鎖にしばられている囚人の人生観だ。
人間が幸福になるためには、この世界を神の愛に満たされている
世界だと観じなければならぬ。
愛にとりまかれている感じのみが人間を幸福にするのである。
『この世界は神の国である。自分は神の愛ぐし児である』
この自覚が深まれば深まるほど、人間は光にとりまかれ、
幸福感が深まってくるのである。すべての人間を神として観よ。
すべての事物の中に、その動きの中に神の愛が充ち満ちて我等を生かしつつあると観よ。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
現在の「住居」は……TYOに上京する前は、此処の環境は“一等地”でした。
…が?その「イメ−ジ」もあり、此処の“マンション”を「神に祈り」…
当時必死に「神様…」へ、ひたすら一生懸命“思念”して見つかったのですが…?
手前の「ライオンズ M」を勧められた時“物件”を見まして“改装工事”するにしても…?思いながら、最終的には“手前”の現在のマンションを見ながら〜♫
あそこがあいてたらいいなぁ〜〜♫〜と思いながら…
「第一回TYO」に戻りました…。それから“不動産からの連絡”が、2か月後でしょうか?
連絡が入り、手前のMと知らず,此処に決めようと…“ 候補3件”絞って、
最後に、やはり此処を決めたのです。
引っ越しをした当日!正直な話?胸騒ぎもありましたが……?
まだ当初“環境”がいい方でした……ある時!「吸血鬼・ゾンビ達…」が、
住みだしてから“一変…”した次第です…。
今では私の周りは“ミ―ハ―族”ばかりか?“水物”が多くなり、見ていて“気分”
的にはいいものでは無いです〰〜ネ!
此処は「黒田節??」と云いますから?【アル中みたいな人】が〜〜〜
ゴロゴロ増えて、そればかりが“目”につくようになりました…。
もっと“今”と云う時間を大切にしたら〜〜?その様に思います…。
外に出ますと「吸血鬼・ゾンビ…達」が、必ず!出て来ますし、もしくは仲間も!
このような“環境”での戦いは【精神統一…絶対的】にしなさいとの、
「神のお告げ」の様に、最近思えて来ました…。その後の私は【愚痴】を出す前に、
■「すべての事物の中に、その動きの中に神の愛が充ち満ちて我等を
生かしつつあると観よ………」を…
思念して前に前に“steppe・me・up〜〜〜〜!!”
再合掌
PS:トキ様へ
本日の「幸福論」先生の“お言葉”どのように解釈されますでしょうか?
アドバイス頂きますと…幸いです。
656
:
ハマナス
:2012/05/16(水) 00:16:48 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
ありがとうございます。
人類全体の総合された想念 (『新版 生活の智慧365章』P.157より)
機械的な磨滅や使い禿(ち)び以外に老衰の原因が心にあるとすれば、その心は「個人の心」で
あるか、「人類の心」であるかということが問題になってくるのである。その心は「個人の心」
でもあるし、「人類の心」でもある。人類全体の総合された想念が人類意識というのである
。人類意識の中に「人間は幾歳になったらこれほど老衰する」という共通総合の想念がある。
個人の意識は人類意識の黒潮の中を泳いている一尾(いっぴき)の魚みたいなもので、
自由意志もあり、欲する方向に運動する自由もあるのだけれども、やはり人類意志全体の
潮流の方に動かされることは避け得られない。黒潮に乗って一定の方向に黒潮の色と同じの
背の蒼い魚が群れをまして泳いで行くように、人類全体の「人間は必ず老衰する」という
潮流に押し流されながら、人間も群れをなして老衰の方向に進んでいくのである。
ただ潮流の流れを、その人がどの程度「人間は神の子で、老いない」という想念によって
逆泳し得るかによって、その人の若さの持続が異なるのである。
感謝合掌
657
:
a hope
:2012/05/16(水) 07:13:35 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
思いついたら直ぐ始めよ
仕事や勉強が楽しくないのは、何でも思いついた時すぐしないのに依(よ)るのです。
後からそれをしようと思って尻重くしているために、必要なことも思うように進行せず、
「いざしよう」となったときには、あれもせねばならぬ、これもせねばならぬと、
仕事や勉強が溜まっているために、心がアチコチ踏み迷い、どうしたら好いか分からなくなり、
イライラし、急いで来、急ぐために血は逆(のぼ)せ、呼吸はみだれ、
肩は凝っていろいろの病気を惹起(ひきおこ)す原因となるのです。
(つづく)
658
:
a hope
:2012/05/17(木) 07:35:31 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
考えるより実行せよ
「面白くないから仕事ができない、勉強にとりかかれない」と言う人があるかもしれませんが、
事や、勉強は、乾鯣(するめ)を食べるようなものです。
乾鯣はちょっと舐めてみただけでは本当の味というものは出てこないのです。
本当の仕事と勉強との味は、それを乾鯣のように
噛み締め、噛み締めやっているうちに出てくるのです。
仕事は、それをしないでその仕事のことを考えているうちの味と、
実際にやってみる時の味とは異(ちが)うものです。
仕事をせずに、仕事をせねばならぬと考えているだけでも頭を使う。
仕事をせずに頭を使う事は、却って苦しい仕事でありますが、
仕事に実際とり掛かってみますと案外楽で、やっているうちに、
思いも掛けないよい智慧が湧いてくるものです。
仕事は実際始めれば少しも考えたり頭を悩ましたりすることなしに
よい考えが湧いてくるものです。
神は人間を働くように造ったものでありますから、
働いているときには神の智慧が湧いてきて手伝ってくれるものに相違ありません。
(つづく)
659
:
SAKURA
:2012/05/17(木) 20:03:32 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…
今日は、ちょっと…色々考えされてしまいましたが……?
海外のグル−プの「女性ボ−カルの話」なのですが……
今日は「女子会」に、投稿してみようと思います。さて!!
今から「人生の永遠…??」の勉強です。その中から【今日の言葉は…】
■【幸福を招く365章】
――――愛は失敗することはない――――
神と偕に生くると云うことは、神は愛であるから、愛を配達する人になると
云うことである。全世界の人類が配達する人になったときこそ地上に天国が
生じたときである。何事を為すにしても、語るにしても、交渉するにしても、
「神の愛、われを通して貴方を祝福し給う」と愛念を先に送って置いてから
為せば、行く道は平らかとなり、愉快になり、成功多きものとなるのである。
憎しみは失敗することがあっても、愛は失敗することはないのである。
憎しみは争いを起すが、愛は必ず平和を起こすのである。吾々は「愛念」を
実生活の道具として凡ゆる方面に活用することにしなければならぬ
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
「商談…」で、交渉します時は、必ず!黙然して【神想観…】をします。
■【生きとし〜生けるもの〜生かしたまえるみ 親神〜〜〜】と!
“何度も〜何度も〜”唱えて「相手への思念」をしていましたが?そうです〜〜〜ネ!
大体!最後に【愛…絶対の愛…】になるのです〜〜〜ョネ!
“お客様”と接触します時、先ず“お客様”が綺麗に見える様に「思念」します。
そうしますと“フ〜〜〜ット!”アイデアが浮かびまして“お客様”の似会う
“スタイル”が自然に〜〜♫〜
どのように生かすかを「心の目」で見つめていたのでしょう
当時の私は、“売り上げ”より先に!これが優先でした…。気が付きますと
現在では、気が付きますと
何と〜〜〜〜〜何と!売り上げ“優先順位”になりまして、
売り上げより出費がふえて〜〜〜“お金”が逃げてゆくのです〜〜ョネ! ><
「お金を追う?」のではなく「愛を優先に…」
■【世の為…人の為に…どれだけのお役にたつのか…?】が、此処が大事です〜ョネ!
いつの間にか、私の“心の目”が“アキメクラ”になっていましたが…
【真理・光明・絶対の“愛”】なんですョネ〜〜〜〜!
さらに「男女の関係」も、今思いますと、私自信、相手に対しての思いやりは〜と?
何故?そう思うのかと云いますと…
結構!私は思いやりがあるのでは?と…心の奥では思ってたのですが
蓋を開けますと…?そうでは無かったのです〜ネ!
相手の“やさしさ”をくみ取る事より、自分の“要望”を優先でしたかしら〜〜ン?
今!振替ますと、実に恥かしい限りです…。
全て、此の現象界で生きて行く事は「絶対の真理・愛」にまさるものは、
ないのです〜ョネ!今から遅くはないハズです…。
==>気がついたその“瞬間”から、進歩向上の“スタ−ト”です〜〜〜ョネ!
今の私は“スタ−ト・ライン”に、立つています。
「神の愛、われを通して貴方を祝福し給うあらゆる方面に“愛念”をに送って、
必ず!私の希望も失敗する事なく“成就”しますでしょう〜。
■“愛”は広き門…に【入門】です。
■【生命の実相】の巻頭から
「汝ら天地一切のものと和解せよ」と書いてあります。あの「和解」が
“愛”であります。“愛”とは「和解する」すなわち互いに手を繋ぐ事であります。
自他は本来一体でありますから、分れたように見えても本の姿になったならば、
自然手を繋ぎ合うということになるのです。 (谷口雅春著)
■今日の言葉で……“愛”“愛”“愛”〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜“愛”程…
勝るものはないです〜ネ!此の「気づき」に“神への感謝”が…! 再合掌
PS: トキ様へ
本日の「言葉…」どのように思われますでしょうか?
【愛は、全てを癒す…】その様に私は思いますが……?
660
:
トキ
:2012/05/17(木) 21:48:55 ID:UhCo.q7I
>>659
昔、ダイエーの中内功さんが、「売り上げは全てを癒す」と言っていましたが、
結果、彼の会社は倒産間際になり、中内さんも晩年は不遇のうちに亡くなりました。
山を動かすほどの信仰があっても、愛の心がなければ、それは無であります。
あと、男女の間ですが、これは、相手を理解していない事から来る誤解から争いが
生まれると思いますから、理解できない事があっても、相手の悪意を想像するのは
よくないと思っています。
と、これは小生の偏見ですから、あまり気にしないで下さいね。
661
:
ハマナス
:2012/05/17(木) 23:40:12 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
こんばんは。ありがとうございます。
寿命の延長 (『新版 生活の智慧365章』P.157より)
「老衰しない」ということと、その人の此の世の寿命が尽きて霊界に誕生することとは
別であるのである。その人の地上の寿命というものは、その人の魂が、地上の任務に赴任
する時にあらかじめ定められたる赴任期間というものであって、大体その人の赴任期間は、
その人の赴任が発令されたときに定まっているのである。それは会社の社員は外国へ出張
赴任を命ぜられるとき大体その赴任期間が定まっているのとよく似ている。しかし外国で
その社員が予定以上の成績をあげたとき、会社ではその社員を、も少し其処に駐在せしめた
方が会社によって利益だと考えられるときには出張滞在期間が延長されることがある。
それと同じように、その人が地上生活を営んでいるうちに、自己の霊的進歩に成績を
あげると共に、その人の周囲の人々の魂の進歩に一層成績を挙げるとみとめられる場合
には、地上生活の任期は延長せられて、一層長生きを享受せしめられることもある。
感謝合掌
662
:
a hope
:2012/05/18(金) 07:06:44 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
易しい仕事で興味を出して
仕事や勉強をするのに、難しそうな部分からいちいち征服してやってゆく
方法もありますが、それは仕事や勉強がスッカリ好きになってからの事であります。
幾らか仕事や勉強の事を考えるとウンザリするというような人達は、
仕事の中(うち)でできるだけ易しい部分、勉強の中でできるだけ易しい部分から始める事が必要です。
仕事や勉強は喰いつきさえすれば、その中から味が出て来、
神の智慧が一緒に働いてくれますから、仕事や勉強の面倒な部分も自然に易しくなってくるのです。
ですから何よりも先ずどこからでも仕事や勉強に喰いつく呼吸が肝腎(かんじん)なのです。
(つづく)
663
:
ハマナス
:2012/05/18(金) 09:21:47 ID:u5mC.eb2
おはようございます。
皆さまにとって、“嬉しい、楽しい、ありがたい一日”でありますように。
長生きと霊魂の高下 (『新版 生活の智慧365章』P.158)
長生きする者、必ずしも霊魂の進歩が高いと云うにはきまっていないのである。地上の
修行が完了しないために、いつまでも同じ学級にとどまらせられているために、地上生活が
長引いている如き長生きもある。つまり四ヵ年に卒業するはずの大学を七年間もかかって
卒業するのんびりした学生もあるようなものである。長生き必ずしものんびりではない。
十数年間も、或は二十数年間も病苦と闘いながら、その受苦(といっても、それは学課で
あるが)の本当の意義がわからないために、尚寿命が尽きず、苦しみながら此の世の生活を
終え得ない霊魂もあるのである。しかしまた霊魂がみずから進んで苦痛の科目を励むことni
よって、急速に霊魂の進歩を得べく、肢体不完全に生れて来たり、小児麻痺の後遺症で肢体
不自由の中で修行している高級な霊魂もある。ただ一概に、長生きだとか、健康だとかで、
その人の霊魂の高下を判断することはできないし、病苦であえいでいるからとて魂が低いと
いう訳でもないのである。
感謝合掌
664
:
ハマナス
:2012/05/18(金) 09:39:23 ID:u5mC.eb2
光明法語〈道の巻〉 谷口雅春先生著作集第1巻
五月十八日の法語 仕事をなす時の祈り
「わが仕事はわれとわが家族と全人類の福祉のための祈りである」。
常に仕事をなさんとする時には目をつぶりてかく祈りてから始めよ。仕事のあいまに、
「仕事が祈りである。祈りが仕事である」と念ぜよ。かくすれば仕事の質が上がり、
量が殖え、新しき智慧が発現し、仕事に新生面がひらかれるのである。思わぬ間違いが
発見され故障に到らずにすむのである。「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えで
ある」と念ぜよ。かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。
感謝合掌
665
:
aj
:2012/05/18(金) 10:42:14 ID:VckWJuk6
おはようございます。初めましてです。
!仕事が祈りなんだ! へぇぇぇと 今日これから出勤したら
仕事の前に 試してみます。
666
:
SAKURA
:2012/05/18(金) 20:57:09 ID:FEa/NNlc
>>660
>「山を動かすほどの信仰があっても、愛の心がなければ、それは無であります
理解できない事があっても、相手の悪意を想像するのはよくないと
思っています。」<
そうです〜〜ョネ!
「もう一度…巡り会い」ますと?そのようになれる様な“心境”に?
なれる私に“変身”出来る…「イメ−ジ」でしょうか?進行形!!
もう一度“チャンスの女神”到来かしら〜〜〜ン!
■更に「ダイエ−の中内さん」も、最後に気づかれたのでしょうか???
気づかずに“あの世でも金が永遠?”といって、その同じ考えの世界に、
それともいらっしゃいますのでしょうか……?
子供さん達は、余りにも“金に執着”したような事件が、あり…
今!思い出しますと、
■【商いの道】…その心得は?……“愛の心”です〜〜ネ!
そして「恋愛は、相手を信じる事…」でしょうか……??
理解出来ない時は、“ジ〜〜〜〜〜ッ!”と“信じる心”も【愛…】でしょうか?
*素敵な“アドバイス”ありがとうございます。 再合掌
667
:
SAKURA
:2012/05/18(金) 21:33:05 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…
毎日「聖典…」を投稿されていらっしゃいます方々の“文章”拝読!!
そして私自身此処に“投稿”させて頂きますと、こちらまで“気持のいい〜
さわやかな気分“になります…。
もう少し早く“パソコン”に〜〜〜と思いますが?…どうしても遅くなりがちで?
それでも【明日に向けて!!さぁ〜〜今「この本を開き給いて〜〜〜」…神に思念】
「今日の言葉」を頂きました…。では?一緒に参りましょう!!
■【心の宇宙の世界へ〜〜〜♫〜〜〜】
■【幸福を招く365章】
――――他の人の不幸を来たす物を求めるな――――
あなたが神にお祈りになるときに、「此の問題は神が欲したまうものでないかも知れぬ」
と思ってはなりません。そう云う考えがありますと、自分の心で自分の獲得を制限
することになるのであります。神は無限のものを持ち給うのでありまして、
神の子たる吾らに無限に善きものを与えたまうと云うのが神意なのであります。
ただ吾々は自分だけ利益を得て、他の人は損になる云うことや、
自分のみが快楽を得て、他の人は苦痛や不快を得るようなことを望んでは
ならないのであります。神はすべての人類を「吾が児」として生み給うたので
ありますから、他の犠牲において自己のみが幸福を得るようなことに賛成
なさらないのであります。その他のことなら幾ら豊富に求めても過ぎると
云うことはないのであります。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
私も「祈り」ます時、どうかしますと…><
これは“自分の事のみだから〜?ダメ〜〜〜?”と“一瞬”よぎる事があります。
その時「祈り方」を変えるのです…。それでも、迷いの中での“迷想観”に、
なっている時がありますのですが〜〜〜 ><その時!!
■【われは好悪を捨て 私心を去り 我の判断を捨て〜〜〜〜心を空しくして
〜〜〜 云々…】と
唱えて行っているのです。その時は、もう〜〜【神様の叡智】に尋ねているのです。
「今日の言葉」から、モット〜〜モット〜〜強く“思念”して行かないといけません。
その様にこの頃は、痛切に思います…。唯!!!
他人に“苦痛”を与えるような「祈り」この事は「神の御心」に反します〜ョネ!
今日からもっと「強く思念…集中」です!!【一念集中??】で〜〜す。
そして【世の為!人の為!に必ずお役立つ事】でしょうか〜〜?
自分の出来ることから〜〜♫〜〜 始めましょう〜〜♫
■今日は“人様に…小さな”善“を、させて頂きましたが…【夢を与える事】ですが?
遠慮せずに“指導”していまいました…。
今日の私は「即行動派??」少しでも【光明化…】していきたいと思いますが?
再合掌
PS:
トキ様へ
今日の“言葉”頂きました時、フラフラ〜♫ 迷いの「祈り」…は、やはり…
成就することは……そして「神の御心」に叶うモノでなければと…思いました。
トキ様は、“迷い?”その様な時もあられますのでしょうか?
(失礼な質問でごめんなさい…。)
668
:
a hope
:2012/05/19(土) 07:40:10 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著
力の働かせ方
「生長の家」では働けば働くほど無限に力が出てきて達者になると申します。
しかし、力は無駄に働かしては無限に力は殖えるものではありません。
あまりに大切でもないことに時間と力を使っていますと、
肝腎な仕事や勉強をせねばならぬときに時間が足りなくなって来たり、
力が足りなくなってきたりすることがあるものです。
人間の力は使えば使うほど殖えるということについて十分知っていただきたいのは、
「智慧の力」も一緒に十分使わねばならぬということです。
「智慧の力」を十分使えば、くだらない事に使う力を必要なことに使うように廻すことができるのです。
必要なことに力を働かせれば、働かした力以上の結果が生まれてくるのです。
働かせした力以上の結果が出てくることをば、使えば使うほど殖えると言うのです。
力を使えば使うほど殖えるようにするには、無駄に力と時間を使わず尊い仕事に使わねばなりません。
(つつく)
669
:
ハマナス
:2012/05/19(土) 08:51:29 ID:u5mC.eb2
神の子のみなさま
おはようございます。
今日は素晴らしいお天気です。感謝に充ちた一日でありますように。
高級霊にも色々の等級がある (『新版 生活の智慧365章』P.159より)
霊魂の品等には色々の段階があるのであって、高級霊と称せられる者のうちにも色々の
品等がある。まだ受苦を必要とする如き程度の高級霊は、苦痛や業の存在をみとめている
程度の高級さであって、まだ地上の修行を必要とする段階の高級さであるのである。
地上の修行を必要とするからこそ地上生活の受苦を選んでいるのである。
霊魂の高級さが高くなるに従って、もう受苦の必要はなくなるし、また受苦をみずから
進んでしなくなるが、しかし斯くの如き霊といえども、すべて彼らが生きている限りに
於て働く使命があるのである。過去の善業の上に胡坐(あぐら)をかいて働きを怠ることは
許されないのである。若し働きを怠るようなことがあると、摂理の手が再び地上誕生の霊的
流動の上にのせて苦しみつつ働かねばならぬような境遇のところへ生れ変らせることになる
のである。
感謝合掌
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