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聖典引用 板

1トキ:2011/11/23(水) 13:32:46 ID:YRze2u3c
 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。


 上記に関連するテーマなら、広く受け付けます。また、教団、本流復活派、中立派など
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、たとえ違う立場の意見でも、お互いに尊重する寛大さ
をお願いします。

 この掲示板は、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。

 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。

 スレッドのルールと方針は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」を考えると、と同じに
考えております。

160ハマナス:2012/02/03(金) 09:19:22 ID:u5mC.eb2

二 月 三 日     『生命の實相』第37巻P.34より    

争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。失われた一匹の
羊が帰って来ることは、亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるうよりも
嬉しいとイエスは言った。仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。

 争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。『生命の實相』の巻頭に
「汝ら天地一切のものと和解せよ」とある一句を忘れていて病気が治らないと
かこっている人はないか。
 あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に
足りない人である。神はまことである。まことは円相である。○(まる)は
和解のしるしである。・・・・・・・
 
もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、わたしたちは人を
責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。わたしたちは
人を赦すほかに仕方がないのである。
 ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。ただ人と
仲よしになったときのみわたしたちは神と仲よしになることができるのである。
 仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、人と仲が悪くなれる
ものではない。・・・・・・・

 傲慢ということはかかる心持を云うのである。謙虚、へりくだりの心持は
正直に事物をまともに見る心である。まちがっていたと気づいたら素直に
あやまれる心である。放たねばならぬ物は素直に放つ心である。本来ありもせぬ
栄えとか虚名とかを、あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
 
無邪気に気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、こちらに
隔て心があるからである。
 隔てのない心。角のないこころ。仲のよい心。○い心。○はいっさいを包んで
いる。隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。

161うのはな:2012/02/04(土) 21:25:52 ID:El6gIMAw

公邸のすぐ前のところに、旅館と結婚式場を兼ねたお店がありますが、そのあたりから、
最近、大きな工事が始まりまして、聞くところによりますと、そこを「オランダ村」というのにして、
風車を置いて観光地にするということで、大きな建物が建ち始めていました。
父が卒寿の時になさった「人間は生き通しである」というお話の中に出てきます、柿の木の見える二階の
窓から見ますと、風車らしいものがズンズン高くなって行くのが見えるわけですね。

 それで私は“まあ、折角自然の美しいところに、こんなのが建って、いやだわ”と
思いましてね“まあ、どうしてこんなのができてしまったのかしら”などと思っていました。
ところが父は二階へ行きまして、「あれは、何ができるんだ」と言いますので、
「あれはオランダ村だそうです。風車ができるそうです」と言いましたら、
「ああ、オランダ村がねえ。日本からオランダが見えるのかねえ」
と言っておりまして、その窓から見える正面の山には七つの燈台のうち、三つの燈台がちょうど見えるわけです。
その燈台ができる時にも楽しみに見ていらしたわけですが、「ああ、オランダ村。オランダが日本から見えるとは...」
と言って、「ああ、オランダ村にも七つの燈台が照るんだなあ」という風に申しました。(拍手)私はそのとき、
“ああ、素晴らしいなあ”と思いました。

 私は“あんなものが建って、父の家まで見下ろされてしまって、まあ、何ていうことかしら”と
排斥したいような気持ちでおりましたら、父はそのように言って、その工事ができてゆくのを眺めていらっしゃるわけなんですね。
やっぱり万教帰一の生長の家ですから日本にもオランダにも光をあて、それぞれの人たちが栄えてゆくように、あたたかい気持ちで
見てあげなければならないということを、私は教えられたような気がしました。(拍手)


『神さまからのいただきもの』 谷口恵美子先生講話集

162ももんが:2012/02/05(日) 20:56:45 ID:XXCuaQns
安谷老師の『無門関』第5即より

〜さて、谷口雅春氏の『無門関解釈』六四ページには、次のとおりに、書いてある。

《『口に樹枝を噛み、手に枝をよぢず、脚、樹を踏まず、樹下にあつて西来意を問はん……』と云うのが、何故に進退両難であるか。手が枝に触れなかつたら、みづから能動的に手を動かして枝にを握れば好いではないか。枝を握つて口を離して、さてそれから祖師西来意に就て応答すれば好い。何処にも事実上進退両難はないのである。進退両難の原因は『手に枝をよぢず』と自分自身の本有の自由自在の力を限ってしまつたところにある。云云』》


実に面白い解釈である。ちょうど数学の問題で、題意を勝手に変更してしまって、その変更した題意に適合した答えをだしたようなものだから、面白いというのだ。
『手に枝をよぢず、脚、樹を踏まず』という漢文は、『手に枝をよじては相成らん。足にも樹を踏んでも相成らん。』ということを約束しているのであって、自己暗示や、空想上の弄戯ではない。この約束のもとで、立派に西来意に答えることのできる事実を発見させるのが、この公案の要点である。
この要点を逃してしまて、『香厳真の杜撰、悪毒尽限なし』という、無門の評語そのまま正直に受け取っておられるところなどは、谷口氏のお人柄の好いところではあるまいか。〜

163志恩:2012/02/05(日) 22:03:49 ID:.QY5jUA6
ももんがさま

書いてあるところを、教えて下さって、ありがとうございます。

安谷白雲老師著「禅の心髄・無門関」第5 香厳上樹(きょうげん じょうじゅ)

という題の、5頁あるうちの4頁目の、下段のところに書いてあるのでしたね。
私、そこの第5の,
5頁を全部を読んでいるところです.

しかし、すごいことです。。雅春先生が、「無門関解釈」を出版されたと同時くらいに、すぐ読んでくださってたなんて、雅春先生のこと
どういうお方か、すでに、ご存知だったということでもありますものね。

でも、この老師のおかたは、雅春先生のことだけではなく、あちこち叱った文章を,た〜〜くさん書いておられますね、なんか、
安心しましたよ。雅春先生だけ批判されたのかと思っていましたから。
禅仏教という性格は、そういうものなんでしょう。

この、紹介されてる香厳禅師は、人が一を問えば十を答えたという人だそうですが、兎に角、口が悪くて、
「さあ、なんとか言ってみろなどと、鬼のような目をギョロギョロさせれ、修行者をにらんでござるわい」
みたいな人でね。

修行者に、難問題を出しては、修行者たちの目を白黒させた。、、(なんか、ももんがさんみたいな人)

言葉の表面は、ひどく罵倒するが、指導は適切だった、と書いてありますね.

ご親切に、ありがとうございました。感謝、拝。

164ももんが:2012/02/06(月) 01:57:58 ID:XXCuaQns
>>163

志恩様


志恩様、勝手に、解釈してはいけませんよ。


安谷老師は、雅春先生が、『問題の題意を勝手に変更して、それに、答えを着けた 』と言われて、雅春先生を叱っているんす。

こんな事を、言うと、また、怒る人もいると、思いますが、安谷老師は、雅春先生対して、自分の室内に、独参に来て、本当の目を養えと、言われいるように、私には、読みとれます。

安谷老師の親切心でしょ。

私も、良く、同じ様な事を言われて来ましたら。

165志恩:2012/02/06(月) 04:23:36 ID:.QY5jUA6
ももんがさま

勝手に解釈してとは?

私は、雅春先生は、安谷老師に、叱られていない等と、言っていませんよ。
よくお読みになってください。
批判されている、叱られている、という意味のことを、ちゃんと書いています。

だけれど、この老師のお方の、他の文章を拝見しますと、雅春先生だけでなく、
他の方達の事も叱っておられる。

ですから、叱られたのは、雅春先生だけなのかと、思っていましたよ。と書いたのです。

以前、ももんが様が、書かれた雅春先生批判の文章を読みますと、まるで、雅春先生だけにスポットライトを
あてて、安谷老師が、叱っている様に、受け取れたからです。

①「白雲会の安谷白雲老師は、著書の「無門関」の中で、谷口雅春先生の「無門関解釈」の誤りを、手厳しく、
 指摘されてます。雅春先生といえども、過ちは、あるのです。」

②トキ様宛に
 「安谷老師の「無門関」見つかりましたから、雅春先生を批判されている箇所、今度、掲載いたしますので、
  楽しみに、お待ち下さい」

この①②の、あなたの文章を読み、私は、あなたの善意というものが、全く感じられませんでした。
雅春先生が、叱られてる.前にも言いましたよね、。禅関係の人が、雅春先生の本を、糞の役にも立たない本だ、
と言ってたよ、って。
言い方が、いやみっぽくて、雅春先生に対する侮辱としか、とれませんでした。。

でも、この安谷白雲老師の著書を読ませていただいて、わかったことですが、仏教の人は、だいたいが、ものすごく口は悪いけれど、
根は、親切心で、叱っている事が、多いということが理解できたのは、よかったと思っているところです。

貴方の、その口の悪さは、ここの影響では、ないかしら。

話を戻しますが、
安谷老師は、禅仏教の宗教団体「三宝教団」の教祖でおられます。
仏教界の大御所からみたら、仏教本来の解き方があり、それは、ちがうぜ、と思うことも多々あって当然です。

しかし、雅春先生は、著書「無門関解釈」の凡例に、

1、本書は禅宗第一の書「無門関」に、日本的新解釈を与え、、、、、

1、本書は、萬教帰一の日本学的立場から、仏教の各公案を解釈し、更に処々に聖書のイエスの語を引用して、
 東西の真理は、畢竟一に帰する所以(ゆえん)を明らかにして、神仏耶の三教が、派を立てて争うことなく、

 一億一心一真理に帰一して、そのとき、その場、その人、各々持ち場に就いて、国家に尽くしうる原理を
 提供せんとするものである。


というように、私は、日本的新解釈で、書きますからね、と前置きしてから書かれておられるのです。

ですから、安谷白雲老師が、批判してると言われても、それは、そうでしょね。
解釈の仕方が、違うのですからというしか、私には、このことは難しすぎてわかりません。

166志恩:2012/02/06(月) 04:54:52 ID:.QY5jUA6
難しすぎても、そうですが、
著者、雅春先生ご本人でしたら、別の真意のご説明があるでしょうけれど、
私は、ご本人でないから、答えようが無い、という事です。

167志恩:2012/02/06(月) 05:07:42 ID:.QY5jUA6
そして、どうしてこんなにまで
ももんがさんは、雅春先生について、過ちがあるだの、糞の役にも立たない本だと言ってた等、書き込んで
雅春先生の、品格を下げようとしているのか、その真意も、はかりかねます。

168トキ:2012/02/06(月) 10:11:09 ID:xQ8phuq.
 最近、立川談志がなくなられましたが、亡くなる直前、石原慎太郎知事が彼に電話をかけて

「おい、談志、もうすぐ死ぬんだろう。ざまあみろ」

と言ったと電話で話をしたと本人が言っていました。知らない人が聞いたら、何という暴言だと
怒るところですが、二人が永年の親友である事を知っている周囲は問題にしませんでした。

 私は、安谷老師という方には面識が全くないので憶測になりますが、禅の僧侶の中には、そういう
言い方をする人はいるみたいです。赤尾敏氏なども谷口雅春先生の悪口を書いていて、あきれた事が
ありますが、考えてみれば、みんながみんな、谷口雅春先生の真意を理解できる訳ではないと思います。
また、世間には口の悪い人がいて、そういう人の発言が伝聞で伝わると、内容や雰囲気が変わる場合も
あると思います。

 かって、某新聞社が谷口雅春先生の悪口をかき立てた事がありましたが、その後、社主が谷口雅春先生
の真意を知って、わざわざ謝罪に行かれた、という話もあったそうです。

 ただ、安谷老師という方が禅の世界では偉い人だとしても、谷口雅春先生をはじめ、外界の人の批評
ばかりしているようでは、多様性や寛容を要求するこれからの時代には即応できないような印象を
持っています。

 しかし、案外、安谷老師ご本人は好人物で、悪口は言っているけど、それなりに谷口先生を認めているような感想も
あります。

合掌 ありがとうございます

169うのはな:2012/02/06(月) 18:46:18 ID:El6gIMAw

訊け管理人さんの擁護代表 志恩様

 本流復活宣言掲示板 葵 新吾 様の「志恩さんへ」という文章をお読みください。

170うのはな:2012/02/06(月) 19:09:55 ID:El6gIMAw

 教育は国家百年の大計

 私の父親は、今はコスモ石油となっているが当時の大協石油に勤めていた。
市にある製油所長を六年間務めていた。その当時、私は東京で一人住まいをしていたが、
正月には四日市の両親の元に行った。私の母親は、生長の家の谷口雅春師が四日市に講演に
来られた時にお話を聞きに行っており、その折りに母親が『生命の實相』の一巻を購入して
持っていた。
当時、私はその本を読んで感ずるところがあった。それで東京に帰った時、原宿の生長の家本部を
訪れ、『生命の實相』全四十巻を買い、大変感動したのである。この本との出会いによって、私は
これまでの唯物的価値から心を大切にする唯心的価値観に変っていったのである。
そして自己への信頼が深まっていった。中でも次の言葉が私を大きく成長させてくれた。
「日本人は昔より、天照大御神を皇室の始祖と仰いだだけではなく、一人ひとりを天照大御神の息子、
娘として、日子命、日女命と称してきたのである」
 だから、日本人が本来持っていたところの「神の子」観に目覚め、私たち一人ひとりが、その神性を
発揮できるようになれば、大変良い世の中になるのである。政治は、その神性を見詰め努力していける
環境を整えることである。そしてなにより健全な人間観を涵養する教育が大切である。

 教育は国家百年の大計と言われるとおり、極めて大切なことである。
戦後の日本がこのように自国の歴史・文化・伝統を省みない、魂のない国になってしまったのも、
先人、先祖を貶め、愛国心を教えてこなかった日教組リードの戦後教育が大きな原因である。

後略

『平沼赳夫の本懐』 平沼赳夫 先生著  光明思想社

171役行者:2012/02/07(火) 08:26:14 ID:ZtqzBGSY

 >ももんが様、トキ様、志恩さま

 私は、ももんが様の下記投稿文に関しまして、賛同しております。
 安谷老師はするどい指摘をされるなと、ももんが様が投稿する前々から思っていたのです。


 >安谷老師は、雅春先生が、『問題の題意を勝手に変 更して、それに、答えを着けた 』と言われて、雅 春先生を叱っているんす。
  こんな事を、言うと、また、怒る人もいると、思い ますが、安谷老師は、雅春先生対して、自分の室内 に、独参に来て、本当の目を養えと、言われいるよ うに、私には、読みとれます。
 安谷老師の親切心でしょ。<


 ここまで雅春先生に対して酷評はできませんが、
「悟られ、多くの大衆の方々を良き方向に導き、救済運動を展開している日本では一番マトモな新興宗教を、この戦後日本によくここまで定着して下さった」と、既成宗教のなかで深く真理究明に命をかけてきた安谷老師だからこその、謝意も言葉のニュアンスから私は感じ取れました。
 この箇所は前々から、疑問に思っていたところで、見事、ももんが様が指摘くださいましたので、ついつい拙い感想を述べてしまいました。
 


 雅春先生の解釈に対して、安谷老師が評する。以下文章。

 【『口に樹枝を噛み、手に枝をよぢず、脚、樹を踏 まず、樹下にあつて西来意を問はん……』と云うの が、何故に進退両難であるか。
 手が枝に触れなかつ たら、みづから能動的に手を動かして枝を握れば 好いではないか。
 枝を握つて口を離して、さてそれから祖師西来意に就て応答すれば好い。何処にも事 実上進退両難はないのである。
 『進退両難の原因は 手に枝をよぢず』と自分自身の本有の自由自在の 力を限ってしまつたところにある。云云。】


 上記が雅春先生のご文章!
 それに対して、下記ご文章が安谷老師。


 【 実に面白い解釈である。ちょうど数学の問題で、題 意を勝手に変更してしまって、その変更した題意に 適合した答えをだしたようなものだから、面白いと いうのだ。

  『手に枝をよぢず、脚、樹を踏まず』という漢文 は、『手に枝をよじては相成らん。足にも樹を踏ん でも相成らん。』ということを約束しているので あって、自己暗示や、空想上の弄戯ではない。
 この 約束のもとで、立派に西来意に答えることのできる 事実を発見させるのが、この公案の要点である。
  この要点を逃してしまて、『香厳真の杜撰、悪毒尽 限なし』という、無門の評語そのまま正直に受け 取っておられるところなどは、谷口氏のお人柄の好 いところではあるまいか。〜】

 追伸にて;

 今回の解釈に関しては確かに安谷老師の仰るとおりかと私は思っておりますが、イエス然り、釈尊然り、既成宗教にメスを入れ、新しい生命をそそぎ込む役目を担って、文章を更新する場合もあります。

 最終的には、神のみぞ知ることで、如何に人類を救済するか!ということが大切なことと存じています。

           合掌

172志恩:2012/02/07(火) 09:23:57 ID:.QY5jUA6
役行者さま

安谷白雲老師の「無門関」の中で、雅春先生が、雅春先生の著書「無門関解釈」に(171:役行者さまが、貼付)
解釈された公案の回答の,間違いを指摘されてることにたいして、

役所者さまは、今回のことは、安谷老師が、おっしゃる通りと、自分は捉えたと、
教えて下さって、誠にありがとうございました。
私には、この公案は、難しすぎて、わからないと申し上げたのでしたが、
著者「雅春先生」ご本人ではないから、雅春先生でしたら、真意はご説明されたでしょうから、とも
おこたえしたのですが、

数学に例えたら、題を変えてそれについて、回答したような、ことだ、という安谷老師のご批判は、その通りだ
ということですね。

もしかしたら、雅春先生に,安谷老師が、間違いを直接,指摘されたら、雅春先生ご本人でしたら
「そうでしたか。間違いでしたか。」と、素直に認められて,簡単に終わる話なのかもしれませんね

でも、禅関係の方が、雅春先生の「無門関..」他を、「糞の役にも立たない本だ」と言ってたということにたいしては、
どう、思われますでしょう?やはり、その通りなんだろうと、役行者様は,思われますか?
私には、これも、難しすぎて、どう捉えてよいか、判断が、わからないのです。

私は、ももんがさまが、たびたび
禅関係の方々の口を借りて、雅春先生の「過ちがある」ことや、「糞の役にも立たないと言ってた」というように、
雅春先生の悪いところだけの、1点、1点に脚光を当てて、ここへ書き込まれる真意が、分からないのです。

やはり、ももんがさまは、教団派だからだと思うのです.。
1点、1点の雅春先生の過ちだと他の人が言った点だけを指摘し、闇を際立たせ、
そうすることによって、「今の教え」は、正しいのだと主張されたいのだと思うのです。

173志恩:2012/02/07(火) 10:25:14 ID:.QY5jUA6
私は、仏教の教え自体については、以前から、難しい教えですが、
とても好意的に思っているのです。

私の,妹の一人、アメリカで仕事している人間の職場は、
仏教関係の職場ですから、それにより、親近感をいだいているということもあります。

妹は、雅春先生の仏教解釈は、日常生活に活かし易く説かれているし、仏教を分かり易く
書いてくださっているから、その他,生命の實相などからも,学び、多くの生徒さんに教える時も、
すごく、助かっているのよ、と常々私に、電話やメールで、伝えて来ている、事実があるのです。

でも、ももがさまのように、仏教の先達達は,こうも,雅春先生を批判してるとか、繰り返して言いますが、
糞の役にも立たない本だと、酷評している、そのような悪い点のことばかり、書き込まれますと、
不自然さが感じられて、なんだかな〜〜と、いやなきもちに 陥るのです。

174うのはな:2012/02/07(火) 11:25:14 ID:El6gIMAw

大調和の神示や、雅春先生が人を批判するのを許すのかと、光明思想を掲げながら
人を排除する勢力だとでっちあげては、
自分の大義名分で女信者を撃ちまくってくる。そんな男のクズでも、言論の自由、
信徒としての権利のもとにあれこれ言いたい放題に登場している以上、
ももんがさんの自由も認めなくてはならないのではないでしょうか。

175うのはな:2012/02/07(火) 11:26:57 ID:El6gIMAw

 すみません。聖典版に関係ない話を書きました。
 あとで削除をおねがいします。174と175

176志恩:2012/02/07(火) 11:36:06 ID:.QY5jUA6
 172:一行目、一部訂正

×安谷白雲老師の「無門関」の中で、雅春先生が、、
○安谷白雲老師の「無門関」の中で、安谷老師は、雅春先生が、、、

177志恩:2012/02/07(火) 11:47:21 ID:.QY5jUA6
うのはなさん

ももんがさんが、発言される自由は、あるに決まってるでしょう。
でも、雅春先生にかかわる事ですので、悪い点ばかり書き込まれるという疑問点を、発言する自由もあると思います。

疑問点は、疑問点で、言っていますが、
私は、仏教の先達の、ももんがさんに、仏教のことで教えていただこうと思いまして
「正法眼蔵随聞記」も、購入して、読みはじめてもいるのです。

178うのはな:2012/02/07(火) 12:09:44 ID:El6gIMAw
だから、疑問点を書いてよくないとはいってませんよ。

 雅春先生に背教するエージェントがシモネタ漫才をやり続けても、
それはうのはさんに関係しているようだと擁護してやる、生長の家人らしい
思いやりのある人なら、雅春先生についておかしな発言があったからといって
そんなに心配することはないだろうと思ったのです。
雅春先生の真理や正論証拠になる文献はあるわけですから。

179志恩:2012/02/07(火) 12:15:40 ID:.QY5jUA6
うのはなさん

私は、うのはなさんのいうように訊け君に,甘いです。
でもね、うのはなさんに対しても、結構甘いな、ってことが、
他の人が、見た場合、 バレてると思う。

わかってないのは、うのはなさん だけ。

182神の子さん:2012/02/07(火) 14:21:14 ID:PvqmH7IM
この女の人、本当に救いようがないですね。
ここは聖典板、ここでもやるの?そんな話を!
彼は一度謝ってます。

本当に止めてくださいね

183うのはな:2012/02/07(火) 14:38:49 ID:El6gIMAw

ほらほら、また出てきて攪乱してくると思ってましたよ、神の子さん。
神の子さんにいわれるまでもなく、上で、志恩さんに、ここは聖典版だから
他でしましょうとかいていますし、管理人さんに削除するように要請していますよ。

 大人の塗り絵でも買って、脳老化を予防してください。
 お願いします。

 それにわたしの以前からの質問に答えなさいね。

184神の子さん:2012/02/07(火) 14:50:45 ID:8.XS6TuQ
撹乱してんのどっち?バカ?

185トキ:2012/02/07(火) 18:06:57 ID:narRGotc
 お二人とも、ご静粛にお願いします。

by コウモリ

186「訊け」管理人:2012/02/07(火) 19:07:19 ID:JERRDVVQ

神の創造を疑うものは天地一切のものを疑うものである。
疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。
否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。
神を否定し、神と争い、神と調和せず、天地一切のものと和解せぬ者が
幸福でありえないのは当然のことである。

『生命の實相』38巻40項より謹写

 人を心で憎むことと、人の悪口を言うこととは、短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。
 善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。善人よ、みずから省みよ。われわれは人の善悪を測る標準を変えねばならぬ。

『生命の實相』37巻86項より謹写

187うのはな:2012/02/08(水) 16:41:02 ID:El6gIMAw

  生長の家とは

 われわれが子どもに対して、あるいは親に対して、舅姑に対して、あるいは
夫婦互いの間において、常に和やかな言葉を使って、和やかな表情をしておりましたら、
そこに必ず善き家庭というものが出来上がります。それを称してわれわれは
「生長の家」と、こう言っているのであります。

「生長の家」というと、われわれの教団の名前だと思っていらっしゃるか知らんけれども、
それは、本来、宗教を創るつもりで僕が『生命の實相』の本を書いたわけでも、
『生長の家』という雑誌を書いたわけでもなかったわけなんです。

 ただそれを書いた....その文章の力がですねぇ、いろいろ人生を左右し、中には
医者では治らないと言っておった病気が精神転換と同時に治ってしまう、というようなことを起した。
そして「本を読めば病気が治る」っていうような噂がひろがって、「これは奇蹟である」
ということになって、それで「生長の家は宗教だ」と世間の人が認めるようになったのであります。
 別に「生長の家」という一宗一派があるのではないのでありまして、諸宗の、諸々の宗教の神髄を
実践生活に応用することを説いているのが、これが生長の家なのであります。

 白鳩さんのための放送講話 昭和五十五年『白鳩』誌より 谷口雅春 先生

188神の子さん:2012/02/10(金) 19:46:17 ID:kcv2QXTk

人間

吾は『真理』なり、
『真理』より遣わせたる天の使いなり。
『真理』より照りかがやく『光』なり、
迷いを照破する『光』なり。
吾は『道』なり、
わが言葉を行うものは道にそむかず。
吾は生命なり、
吾に汲む者は病まず死せず。
吾は救いなり、
吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相の国土に住せしむ。

まず最初に「吾は真理なり」と書いてありなすが、
この「吾」というのは天使(てんのつかい)のことであります。
「吾は真理なり、真理より遣わされたる天使なり」とある。
天の使は、真理より遣わされたものですから、つまり真理そのものであります。
しかし、真理そのものは目には見えないし、耳にも聞こえない。
それで真理が人格化して天使となり、われわれの目に見え、
耳にも聞こえる姿となって現れるということになるのであります。
どうして真理の姿が人格化して出てくるようになるかといいますと、
仏典に『衆生、仏を憶念すれば、佛(ほとけ)衆生を憶念す』とあるように、
衆生が仏を憶(おも)うと仏が衆生を憶ってくださる。
迷いの人間が、迷いに苦しめられて、ああ苦しい救って欲しいと思った時に、
その救ってほしいという念が真理に感じて、そこに救ってやろうという働きを起こる。
空中電気にマイナスが起こればプラスが起こって中和しようという働きを起こす。
電気そのものは目に見えないがマイナスとプラスとが中和する時にはパチッといって火花が散る、
その火花なら目に見える。
それと同じく、神さまがわれわれの悩みを中和してやろうと顕われる時、
その働きが目に見える姿と化して現わされるということになるのであります。
けれども、それが必ず誰にも見え、誰にも聞こえる姿となるのでもない。
救ってやろうという働きは真理の発した救いの言葉、仏教で言えば弥陀の本願力である。
その本願力が霊眼、霊耳の開けた人に分かって姿が見えるのです。
また姿が見えなくとも、その人が救いの本願力を振り向けられ、真理の言葉を口で語り、
筆に現わしてゆくことにすれば、それによって多くの人が救われるということになってくるというのは、
真理を取り次ぐ人の言葉はもう、肉身(にくしん)の自分が言う言葉ではなく、
真理みずから神みずからが語る言葉であるからであります。
それを霊眼で見れば天使の姿にも見えるのであります。

(つづく)

189a hope:2012/02/10(金) 19:47:56 ID:kcv2QXTk

↑ a hope です。

(つづき)


(中略)

その浅野さんのお嬢さんがなんでも三年ほど前、
まだ生長の家のことを全然御存じないころ大変熱心なクリスチャンであられたのです。
そのころのある晩キリストの夢を見た。
夢で見たキリストは真っ白な裾まで垂れた衣服を着て立っていられ、実に神々しい姿でありました。
あまり印象が深いので浅野さんのお嬢さんはそれをはっきり覚えていられました。
その浅野さんのお嬢さんがこの前わたしの講演会に村井さんに連れられて、
初めてわたしの話を聞きに来られたのです。
その時に、浅野さんのお嬢さんがふとわたしの顔を見られると、
わたしの顔が三年前に夢にみたキリストと同じ顔をしていたというのです。
もちろん着物は異(ちが)います。
わたしはこんな、普通の着物を着ていましたけれども三年前に夢見たキリストは長い白衣の神の姿だった。
けれども、その顔がわたしとそっくり同じだったという話なのであります。
これはわたしの肉体がキリストと同じ容貌をしていたというわけではない。
真理を語りつつあるわたしの内に宿る真理がキリストの姿に現われて見えたのであります。
キリストも天の使であるかと言うと、多少前に言った天の使という意味と違いますが、
キリスト自身「吾は神の子である、天の父より遣わされたものである」と言っていますから、
父から遣わされた神御自身の分身分霊であって、それが取りも直さず、
すなわち神の子であり、天の使であるわけであります。
それでキリストは二千年前においてユダヤ地方の人間に神から遣わされた天の使であったが、
現代においては、天の使がキリストとはまた別な姿をもって現われるともいえるのであります。
神の救いは、衆生が救ってほしいというその時代の相応の姿であらわれるのです。
神は要するに時代に相応して教祖というものを遣わしたまいて、それを通じてわれわれに現われられる。
だから、すべての宗教の教祖は天の使であるとも言えるのです。
肉体はどんな服装をし、容貌をしていましょうとも、真理を語る人には真理がやどっておる。
だから、その「内なる人」は天の使であり、霊眼の見える人が見たら後光が見えたり、
キリストの姿が見えたりするのであります。
いくら神の働き―――神の救いの念波を送られても霊智、心眼の開けていない人にはそれが見えないし、
聞こえもしないのですから、それを聞くことのできる、見ることのできる人を通して、
教祖を通して、時代に相応して救いが現わされるということになるのであります。


頭注版「生命の實相」第21巻 經典篇 P154〜

19065:2012/02/11(土) 18:02:14 ID:jpmvgJz2
最近話題になってる「無門関解釈」の香厳上樹の所を気になって読んでみた。



太平洋戦争中の事である。ある日、私はいつになくAKのラジオのスイッチをひねって見たら、そこに語られている話は航空兵田中曹長の美談であった。
話の前半は聞き洩らしたので何処の戦闘の時であるかは知らない。上官下方准尉の操縦せる飛行機は不幸にしてそのエンジンの一つに敵弾を受けた。
味方の陣地に帰還するには距離が遠いし、予備のエンジン一個のみの力では力が足りずにズンズン機体が下降して行く。下方には敵軍が待ち設けていて、
飛行機が落下したら、それをろ獲し、乗組員を捕虜にしようと待ちかまえている――まことにこれこそ進退両難である。下方准尉は捕虜になり機体を
ろ獲せられるのは残念であるというので、潔く機体と共に自爆せんものと、既に自爆の準備を行っているのが田中機からは見えたのである。
田中曹長はそれを見ると大声で「自爆してはいけない。死するばかりが忠義ではない。生きられる限り生き延びて最後の一分までも自分の任務のために
尽くすのだ。低空飛行をして続く限り味方の陣の方へ引返せ」と呼ぶけれども、それは無論聞こえはしないのである。田中曹長は仕方がないから空中
に大きく字を書いてその旨を合図する。下方准尉はその合図に気が付いたものか自爆を中止して、エンジンが傷ついて浮揚力の少ない飛行機で低空飛行
を続けて味方の陣地へ引返そうとするのだけれども、機体はいよいよ浮揚力を失って、敵陣の中へ滑走状態で墜落した。田中曹長は上空から見ていると、
下方機は道なき道へ滑走状態で墜落したと見る間に、地面のでこぼこに衝突して転覆して破壊した。と、下方准尉は機から這い出て来て機密書類を焼却
していると、敵兵が周囲から集まって来て下方准尉を包囲攻撃する。付近部落の村民まで出て来て敵軍に加勢する。下方准尉は拳銃を以ってそれに防戦
するのであったが、敵は大勢であり、味方は1人であり、拳銃の弾が尽きたら万事休すである。田中曹長はそれを上空から見ていたが、加勢に自分が降
りて行って下方准尉を自分の飛行機に乗せて帰って、その急場を救いたいと思うのだけれども、適当な着陸地点がないから、もし着陸せば下方機と同様
に転覆して、もう再び空中へ舞い上がる事が出来ない。そして味方の重要な飛行機が無駄になるのだ。又たとい無事着陸しても下方准尉を救い帰るには
田中機は一人乗りだ。もし自分が救援に赴かなかったならば、下方准尉はあのまま敵の重囲に陥って戦死してしまう。それでは上官を見殺しにした
のであって、自分の日本魂が満足しない。右するも死、左するも死である。「香厳上樹」の架空的な机上の閑葛藤とはわけが違う。真にこれ如実に進退
両難である。

19165:2012/02/11(土) 18:03:01 ID:jpmvgJz2
それでは上官を見殺しにしたのであって、自分の日本魂が満足しない。右するも死、左するも死である。「香厳上樹」の架空的な机上の
閑葛藤とはわけが違う。真にこれ如実に進退両難である。その時、田中曹長は、この進退両難の世界から飛び出した。そして矛盾のないただ一筋の道
にまくねんとして突き進んだ。(私がこの講話を生長の家本部の道場でしたときに、企画部の星君が私のあとに道場で立上って、田中曹長が生長の家
誌友であって現在内地に無事帰還していて、その体験談を誌友会で述べたということを発表せられた。)かくの如き危急の世界に於いてさえも生長の家
の悟りから見るときには、「進退両難」などというものはないのである。肉体は本来無く矛盾も本来無い。着陸地が無いということもない。
「着陸地が無い」ということは、ただ心の世界に空想に描いた閑葛藤に過ぎないのである。着陸の必要がある限り、着陸地は到るところにあるのである。
田中曹長は空想に描いた「着陸地なし」の閑葛藤を見事に切断して、敵兵の群る頭上へ滑走状態で着陸した。敵兵は逃げまどう。滑走する田中機の
下敷になって戦死する敵兵は無数である。閑葛藤を見事に切断した田中機は、見事敵兵が虚をつかれて退くところを、下方准尉に応援し、既に疲労して
ふらふらになっている下方准尉を「上官殿、私の飛行機に乗って下さい」と負うようにして、その一人乗りの田中機に乗込んでエンジンにスタートをか
けた。もう進退両難などは田中曹長の前にはないのである。「一人乗りの飛行機に二人乗らせては飛行出来ない。飛行出来なかったら戦死か捕虜かどち
らかより仕方がない。この場合どうするか。」――香厳和尚ならば、こんなことを進退両難の葛藤の公案としてひねくりまわすかも知れないけれども、
実は進退両難などは空想上の弄戯に過ぎないのである。二人を乗せた一人乗りの田中機は無事離陸して味方の陣地へ帰還したのである。だから無門が、
こんな進退両難を公案に持出すなど「香厳真の杜撰、 悪毒尽限無し」と酷評したのも無理はないのである。



この「無門関解釈」s39(1964).11.22に掲載されている内容は「太平洋戦争中の事である。」と書かれてあるので最初の版である「無門関の日本的解釈』
1940(s15年)10.20には載っていないのだろうか。また「太平洋戦争中の事である。」という一文は満州版『大道無門』康徳10(s18年).4.25には載って
なく、s39(1964)の版で加筆されたのだろうか。

192うのはな:2012/02/11(土) 19:41:33 ID:El6gIMAw
現代かな変更筆写 投稿者記

  昭和十五年四月九日午後二時より 名古屋公会堂に於ける講演の速記

 昨年議会を通過しました宗教団体法がこの四月一日から実施されることになりまして、
生長の家はこの宗教団体法によって、宗教であると認められて文部省の管轄に入ることになったのであります。
 実は、生長の家は『教化団体生長の家』と云う名前によりまして、もう一年半ばかり前から届書を拵えて当局の
方へ出してあったのであります。東京府を通過いたしまして、文部省へ参りましてから、文部省の見解では、
生長の家は教化団体と云うよりも宗教の団体である、左様に見る、と云うような見解がございまして、そこで暫く
その届書が文部省で滞っておったのであります。

 生長の家本部の副理事長の秋田子爵、それから係の中神学と云う人達が文部省へ参りまして、稲田宗務局長その他の
係の人たちと色々交渉したのであります。
 宗教団体法によりますと、宗教と云うものには一定の『教義』がなければならない、それから
『儀礼』を行うものでなければならない、それから『本尊』がなければならない、本尊として奉斎する神様、又は安置するところの
佛がなければならない、そう云うものがなければ宗教でないと云うようになっておりまして、宗教団体法によるところの届書には、
教義と、儀礼と、奉斎神又は安置佛と云うものを書くべき各欄が設けてあるのであります。

つづく

193うのはな:2012/02/11(土) 19:56:37 ID:El6gIMAw
192続き

 ところが生長の家は、教義と云っても生長の家独特の教義がないのであります。
ないと云うとおかしいけれども、生長の家は佛教の話もする、お釈迦様は斯う云うように被仰ったと
云って、佛教は斯う云うものであると云って話もする。またキリスト教は斯う云うものである、耶蘇はこう被仰ったと
云って話もする。また金光教の教祖は斯う云われた、天理教祖は斯う云われた、日本の『古事記』には
斯う書いてある、老子には斯う云う事が書いてある、孔子は斯う被仰ったと云う風に、色々の教を一つにして説いて、
相手に随って自由無礙に方便自在の説教をしているのでありますから、一定の生長の家の教と云う教義と云うたらどんなものだと
云われると困るのでありまして、生長の家独特の教義と云うようなものがないのであります。

 後略

『超宗教を建つるまで』 谷口雅春 先生著 光明思想普及会 発行

194うのはな:2012/02/13(月) 15:35:30 ID:El6gIMAw

 招神歌の第一首の歌には、『生きとし生けるものを生かし給へる御祖神元津霊ゆ幸へ給へ』
とあります。あの『生きとし生けるものを生かし給へる御祖神』と申上げるのは、これは宇宙大生命で
あります。『古事記』に書かれているところでは天之御中主神であり、光華明彩、六合の内に照り徹らせる大神として
顕現ましましたのが、天照大御神であらせられ、人体を備へ給いて現人神としてお現れ遊ばした神様は、天皇様であらせられます。

 この天之御中主神 天照大御神、天皇様のお三方は一体であって、吾々の、否、生きとし生ける者の御祖神様であらせられる。
吾々はその赤子であって御祖神の子であります。吾々が天皇の赤子であると、申すのは斯う云う意味であります。
吾々、生きとし生けるものが幸福である、サイハヒであるとは、御祖神の大御命の割き生えによってのみサキハエとなるのでありますから、
幸福のことを『サキハエ』と云い、転じて『サイハヒ』と申すのであります。

 吾々の幸福は一に 天皇陛下の御仁徳に懸ってあるのであります。
天皇陛下なしには吾々のサイハヒはないのであります。

195うのはな:2012/02/13(月) 15:51:01 ID:El6gIMAw
194続き

 さて宇宙大生命とは天皇様であらせられることがわかりましたが、『招神歌』の
第四首に『天地の御祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家の大神守りませ』と云う歌があるのでありますが、
天地の御祖神の道、宇宙大生命の道を伝え導いて東道の役目を果す神が生長の家の大神であると云うことが、この
第四首の歌に現れているのであります。

 そういう風に生長の家の神様は御祖神様のお道を明かにし、道案内をし、日本国体を明徴ならしめ、日本の国威を輝かすために
出現せられた神様であらせられ、その神様が支那事変、世界の大動乱に先立って現れいでたと云うことは、日本国が丁度、神武天皇様の
御東征時代とか、神功皇后様の三韓征伐時代とか云うのに匹敵する大事変に際會しているからだと思われるのであります。


『超宗教を建つるまで』 谷口雅春 先生著P401〜  (現代仮名に投稿者変更)

196うのはな:2012/02/13(月) 17:19:22 ID:El6gIMAw

英国の大詩人ブラウニングは、真理に達した人だけあって次のように歌っています。


 叡智と云うものは常に内にある、どんなに外のものを信じようとも
 外のものからは叡智は湧いて来ない。
 吾々にはその内奥の深い処に中心がある。
 その中心に無限の真理が宿る、
 その真理を発掘すること、
 それを吾々は叡智を汲み出すと云うのである。

 神は自己の内に宿る、真理は自己のうちに宿る。自己のうちに、神が、
 叡智が、真理が宿っていないで、神とか、叡智とか、真理とか云うものが
 自己の外にのみあるものならば、人間は永遠に自由になることは出来ないでありましょう。

 神とか真理とかに従うと云うことは、吾々自身が『外』から縛られることになりますので、
 吾々は決して自由になれないのであります。神とか、真理とか云うものが自己の『内』に埋蔵
 されている真性であるからこそ、神に従うと云うこと、真理に従うと云うことが、自己に埋められている
 真性を伸び伸びと外に出すことになるのであります。

『百事如意』 谷口雅春 先生著    (原文は旧仮名)

197うのはな:2012/02/13(月) 19:22:43 ID:El6gIMAw

 感謝行は同時に深切行である。ひとの為に尽したら自分の生命力が減ると思うのは
迷信に過ぎない。誌友某氏は眼病の中でも最も難症だと云われている網膜剥離症に罹って
いられて、聖典『生命の實相』の細かい活字を読むのに、自分の為に読むのだったら、一頁半も
読めば眼底と後頭部とに苦痛を感じて読むに堪えないのである。

 それだのに驚く勿れ、他の病気を癒してあげたいと思って『生命の實相』を他に読んで聞かせる段に
なると、一時的にその眼疾が癒って了って、連続四五十頁を読んでも眼に痛みを感ぜず、
読後また眼の疲労を少しも覚えないのである。『生命の實相』は自分の悟りのために読むのも結構であるが、
他の悟りのために読んで聞かせてあげるのは一層結構である。

 自分のためでない自他一体の無限生命力が発現し、自分のためでない所に自他一体の無限の悟に到達する。
まだ病気が顕れているのは働きに利己主義の心持が混るからである。自分の病気が治ったら他を救ってあげようと思っていては
機会がなく他を救っている間は病気は治っているのである。
永久に他を救っていれば永久に病気はない。

 月刊『生長の家』の巻頭言より 谷口雅春 先生

198うのはな:2012/02/13(月) 20:19:37 ID:El6gIMAw
  「生長の家」誌をよむ

 もう一つの癌の例をあげると、福岡県三潴町玉満に住んでおられる光延普治さん(五十七歳)は
縫製業を営んでいて、昭和五十九年に入信した。それ以前腸閉塞でひどく苦しんだからであった。
昭和五十八年十一月九日に一回目の手術を町内の病院で受け、二回目の手術は同年十二月十九日に
久留米大学病院でうけたのである。
 しかしここではもう直腸癌と診断されていた。本人は二回も腹の手術をするのはいやだったので、
何とか切らずに治してほしいと訴えたが、「奇蹟が起らない限り無理です」と言われて手術した。

 翌年七月になった時、光延さんは病名も腸閉塞から直腸癌に格上げされていたことを知った。
それは大学病院が保険会社に出すための診断書を本人が見たからである。
奥さんが抽斗の奥深くにかくしてあった書類を見て、「癌」と知った時、彼は目の前が真暗になり、早速
「酒を持ってこい、俺はどうせ死ぬとやけん!」とわめきちらした。
以来すっかり絶望的になったので、一時食事がのどを通らなくなり便にも血が混るようになった。
あまりにも家族に当り散らすので、光延さんの枕元には誰も寄りつかず、家全体が真暗闇になった。
あとで分ったことだが、手術した医師は、すでに手遅れであるが、本人には気付かれないようにと注意していた
末期症状で、その後自宅療養をしていたのである。

 しかし光延さんにはまだ良識があった。そこでこんな状態ではいけない、何とかしようと思い立ち、ある日妻子を
枕元に呼びよせてこう言った。
「俺がバカだった。もうクヨクヨせんけん、気を取り直して、元気になって見せる。心配すんな」
しかし内心は果していつまで生きられるか、と大変不安であった。一体元気になるには、どうすればよいのか・・・と
考えた時、フト大川市に住んでいる従兄弟の岡敏巳さんが信仰によって元気になった実例を思い出した。
そこで早速岡さんの話を聞くことにしたのである。すると岡さんはこう言うのである。

 つづく

199うのはな:2012/02/13(月) 20:58:01 ID:El6gIMAw
198つづき

 「何年か前、俺の病気がよくなった時、お前は、神さんで病気が治るはずはないじゃないか。
それは治る時機が来ていたから治ったのだ、といって笑っていたそうじゃないか。俺が話したって、
あんまりよく分らんだろうから、とにかくこの本を読め」
 と言って。くれた本が、「生長の家」誌の五月号であった。それまで光延さんは、生長の家の名前も
噂も全く知らなかった。しかし最後のドタンバに追い込まれていたので、その雑誌を何十回となく繰り返し読んだのである。
すると何とも言えない悦びと力が湧いて来る。人間は神の子で、死なないいのちである。
無限の力が隠されている....そんな言葉が彼の中の潜在力をぐいぐいと引き出してくれるような気がするのであった。

 こうして日が経つうち、不思議なことに、今までの病気に対する恐怖心がなくなってきた。
と同時に、病気は神の作品ではないから、治るのは当り前だ、という気がして来たのである。
そこでその雑誌の九十六頁に書いてあった所番地の中で、一番近くの大牟田の生長の家の道場に電話してみた。
話を聞きに行くから道順を教えてくれとたのんだ。すると、「明日来るくらいなら、今すぐ来なさい」という
適切な返事が返って来た。これは何事にも大切なことで、思い立ったらすぐやることである。
明日、あさって...と延ばさぬことだ。チャンスは常に、今、ここにあるということを知らねばならない。

 そこで光延さんは、早速教えられた道順を通って大牟田の道場に行き、金沢講師に面会して話をきいた。
すると明後日から練成会が始まるからいらっしゃいとすすめられ、手引書をもらった。
そこで念のため、「練成会を受けたら、助かりますか?」ときいてみたのである。
すると金沢先生はニッコリと笑い、「もうあなたは助かっとるじゃなかね。あんたがここに来られたということは、
神の導きによるのです。だからもう既に救われているのです」と答えられた。
光延さんは家に帰り、この旨を岡さんに伝え、「練成会とは、どういうことをするのか?」と聞いた。
「それはよかった。練成会は、行ったら分る。俺もすぐあとから行くよ」と答えてくれた。

 それまで病気で九ヶ月間風呂にも入れず、毎日おかゆばかり食べていたが、練成会へ行って出される食事は
普通食である。それを食べて、風呂にも入った。すると練成会に行くまでは、一日に五回から十回血の混った軟便を
していたのに、練成会の五日間は、全然便が出なくなった。個人指導をうけた結果、それまで全く妻に感謝しておらず、
怒鳴りつけてばかりいたことを深く反省して、ポロポロと涙を流した。
そして度々便所に行っては心から泣いたのである。すると次々に涙があふれて止まらない、
せい一杯泣きつくしたのである。

 そのうち急に便意をもよおし、何年ぶりかで気持ちのよい固形便が一杯出た。
血も何も混ってはいないのである。こうして八ヶ月というもの、どうしても塞がらなかった手術の傷も
塞がり、以来めきめきと健康度を増した。すると毎日がたのしく嬉しく有難い。
生き甲斐が出て来て、無限の力が湧き上がるのである。こうして今では、光延さん一家は家族中で仲よく
大調和し、明るい日々を送りつつ愛行にもはげんでおられるのである。


 『限りなく生きる』 谷口清超 先生著

200うのはな:2012/02/14(火) 15:17:53 ID:El6gIMAw

 想念によって人々を援助することができる

 あなたが現実に金銭や物質を援助することによって人を救けることができないでも、
想念の世界に於いて、その人に神の祝福が雨降るように注ぐことを心に描いて祝福してあげることによって、
あなたは心の世界で、その人を祝福し援助することができるのである。

 それは遠隔治療の一種であって、実際それが現実世界に効果をあらわすことも出来るのである。
私は神想観の時に常に誌友のために祈っているのである。その“救い”又は“祝福”の念波を受信して、
感度の強い人のうちには、肉体ではまだ私の姿を、写真でも実物でも見たことがないのに、
夢の中に私があらわれてその人を祝福する光景を見たりするのである。

 『女は愛の太陽だ』 谷口雅春 先生著 昭和48年初版発行 日本教文社

201うのはな:2012/02/15(水) 16:45:18 ID:El6gIMAw
 この体験は何を教えるか

「私はブラジルに来て、大いに成功するつもりでやって来たけれども失敗しちゃって
無一物になった。死ぬよりほかにしかたがないと思って、リオデジャネイロの海岸であるコッパカバナ浜と
いうところにきた。ここは海水浴で有名ないい景色のところです。そのコッパカバナ浜の一番深そうなところへ
飛び込んで自殺をはかった。それで意識を失ってしまったのでありますが、州の慈善病院のベッドの上で目を覚ました。
そこで看護されて健康を回復したのですが、無一物であるので、病院を出るとき、当座の生活費を恵まれ、街をふらふら歩いて
いると古本屋があった。そこに引きつけられるようにして中に入っていったら、その正面に『生命の實相』という本が目についた」

 これは日本版の僕の本でありますが、「それを見つけて急に買いたくなってそれを買った。そして読んだ。読んで、『人間神の子』という
自覚を得たらたちまち私は大金持ちになっちゃった。今では三つの植民地をもっているんです」

つづく

202うのはな:2012/02/15(水) 17:06:59 ID:El6gIMAw
201続き

 この人は、こういう体験談をして演壇を降りた。『生命の實相』を読んで“神の子”という
自覚を得て一ぺんに大金持ちになって三つの植民地をもっているという。植民地というのは、僕はある
国家がアルジェリアとか、東南アジア方面に植民地をもっているというので僕は驚いたけれども、その話は
まるで手品みたいな話で、一体『生命の實相』を読んで、どうしてそうなったのか、その途中がわからない。
これでは体験談にも何もならんと思っておりました。さて、翌朝、次の講習会場へ行くために、わたしは朝の八時頃
飛行場へでかけました。するとその男がわたしを見送りに来ておりましてわたしと顔を合わせたので、
「君、きのうの話だがね、あのままでは体験談にならんよ。『生命の實相』を読んだら一ぺんに大金持ちになって、
植民地を三つも有ったというのでは良く分らない。だからその本を読んでから植民地をもつまでの詳しいいきさつを
話してくれたまえ」といいましたら、

「『生命の實相』の本は、神がお書きになった本であるから、あれを読むとインスピレーションに従って、私はこのマットグロッソ州の
知事に対して、広大な地面の払い下げの願い書を出したのです。しかし、自殺するほど貧乏なのですから代金も何もないんですね。しかし、
“その時代は三ヵ月後に必ず払います”という誓約書を出したら知事から許可になった」というのです。

 ブラジルは一つの州が日本全国ほどの広さがあって、大体日本の二十四倍ほどの面積なのです。そして各州では、広い原始林みたいなところを
開拓してくれる人間が入ってくることを歓迎しているわけであります。それでそういう計画にサインして、そこに
日本からくる植民をそこに入れて、開拓してくれるなら、安い値段で払い下げようというわけなんでありますね。
こうしてこの人は広大な地面を手に入れたのです。それを日本人にその三分の一ほどを分譲すると、払い下げてもらった値段の十倍ほどの値段になるのです。
そうしたら地代を払ってもあまりがあるのです。

つづく

203うのはな:2012/02/15(水) 17:26:31 ID:El6gIMAw
202続き

「そこで私の持分は、」とその人はいうのです。「三分の一だけ売ったんだから残りの三分のニの地面は私のものである。
まあそういうことで植民地を一つ所有した。次に同じような方法で、また他に二ヶ所の植民地を手に入れ、それが全部私の所有に
なっているのです。ところが、そういう土地は農地にしかならない上に、その三つの植民地は互いに離れているので、それを連絡する道路を
つけたいと思ったけれども、個人の力では道路がつけられない。それで、そのマットグロッソ州の知事に対して、こんどは国道をつけてもらいたいという
請願をしておきましたところ、先生がおいでになったその日に、知事からその請願の許可がきたのであります。
そしたら、今までは、農地にしか使えなかった安い地面が、国道がつくということになると商工業地帯になるものですから、時価が暴騰するということになって、
私は“無限の富者”になるんです」

まあこういうように自覚が変ると人生に失敗して身投げした人が“無限の富者”になるのであります。
だいたい、“富”というものは、吾々が神から智慧を受けて、それを実践に移すとそれが富に変るというわけなのであります。
もっとも、それは神様の智慧であるから、ずるいことをして儲けるとか、例えば、ある大商社が米を買い占めて、米の値段をつり上げて儲けるというような
ものではないのでありまして、国家目的に従って、不毛の地を開拓して、国家のためにもなれば、そこへ植民として入ってくる人のためにもなるし、
自分のためにもなり、みんなを生かす。
これが神様の智慧であるわけなのであります。


『生命の根元を培う新しき教育』 谷口雅春 先生著 新教育者連盟編

204うのはな:2012/02/15(水) 20:30:12 ID:El6gIMAw
 天の岩戸を開く祈り  谷口雅春  日々読誦毎月真理経

 われ今、聖なる神の宝座の御前に坐し、われに尊き使命を授け給えと祈り奉る。
 ここに神われに使命を授け給えり。神は今その神名を明らかにしたまいて
 “われは天照大御神の御出現のみ先祓いとして地上浄めのため、宇宙創生の根元神にまします
 天御中主大神より遣わされたる住吉大神なり”と宣り給う。
 住吉大神は宇宙創生の根元なる創生の底にましますゆえに、われら是を称えて竜宮に在す大神と
 崇め奉る。この大神、宇宙浄めのために一神にて上中底の三神に分れて創造の秩序を明かならしめんが
 ために上筒之男神・中筒之男神・底筒之男神と顕われ給う。
 この大神の御働きにより悪平等の混沌の世界は破れて生命創造の上・中・底の秩序整いて此の世浄まり、
 天照大御神生れましぬ。
 宇宙浄めとは上・中・底の秩序が確立せられることにして“汚れる”とは上中底の秩序がみだれて、底にあるべき
 ヘドロが上に昇り、上にあるべき浄水が底に沈み、上下の秩序失われ、唯、平等に味噌も糞も同じ位置にあることを
 要求し、瀬戸内の海に魚の棲みにくくなるが如く、世界の秩序みだれて生命の中心原理が姿を没し去ることをいうのである。
 かくてひとたびは浄まりたる此の世の秩序みだれ、生命の大海濁りて泥海のごとくなりて、生命の中心原理没し去る時来りぬ。
 これを称して天照大御神の天之岩戸隠れというのである。
 ここに於いて、世界混沌とし、中心は失われ、上下の秩序なく、百鬼夜行のみだれたる姿を顕じ、再び宇宙浄化のため、
 住吉大神出御し給う時が来たのである。されば、住吉大神われに宇宙浄化の使命を授けたまいて、われを全人類に住吉大神所伝の
 真理を放送するための聖なる放送アンテナとならしめ給うたのである。
 われ今、住吉大神に導かれて竜宮無量寿のいのちを授かり、神は善にして、神は渾てにましますが故に悪なる存在はひとつとして
 存在せざる真理を授かり、すべての人間は“神の子”にして互いにみな親子兄弟姉妹なるが故に争いも憎しみも本来なく互いに扶け
 慈しみ合い、愛し合う真理を授かり、それをわが身に於いていま増幅せしめられ、強化せしめられて、人間本来無量寿のいのちの真理と、
 天地の一切皆善の“知”の真理と、人間をはじめ一切の生物ことごとく親子兄弟姉妹なる“愛”の真理とを全人類に対して放送するのである。
 この放送を受くる者、我に頼る者、生長の家に頼る者、神縁ある者、仏縁ある者、人縁あるもの悉くこの放送を受けて心身浄化せられ、今より後、
 病ある者なく、貧しきものなく、悲しみは喜びに変り、欲する善きものは悉く備わりて不足なく、争いと戦いとは止み、人類にことごとく相和し、
 手をたずさえて大神の御許に来詣し大神をたたえ奉る。天之岩戸ひらかれ、再び天照大御神出御ましまして天地ただ歓びの光にみたされ、
 地上に天国生れましぬ。ありがたきかな。ありがたきかな。

205うのはな:2012/02/15(水) 22:32:54 ID:El6gIMAw

あなたが人に与え得る贈り物で最も尊いものは何ですか。
それは物を与えることでも金を与えることでもありません。
愛念を送ることです。祝福の祈りを送ることです。
あなたの愛する人々を心に思い浮かべて、「神の愛があなたを護っておられます。
神の与えたまうた幸福があなたを取巻いています。如何なる禍もあなたには近づいて
来ることはできません。あならは神に護られて平和と歓喜に満たされております」と
祈ってあげなさい。その祈りが深まれば実際その通りになるのであります。
あなたを愛する人たちだけにではなく、あなたの愛していない人々、憎んでいる人にさえも
愛念を送ることは結局愛念をあなた自身が受けることになるのです。

『真理』第七巻332頁 より  谷口雅春 先生著

206うのはな:2012/02/20(月) 14:40:58 ID:El6gIMAw

   『間』に生命が顕れる

 本当の美は、個々にあるのではない。メーテルリンクの戯曲の科白は、言葉と言葉との間(ポーズ)で
魂を語らせたが、何によらず本当の美は『個』(ひとつ)それ自体にあるよりも一層多く個と個とを結び合わす
『間』にあるのである。一個の音韻はそれほど美しいとは云えないが、それが他の音韻と結び合うとき、
一個の音韻それ自身が有たない美が音韻と音韻との『間』に出来上るのである。

色彩でもその通りである。二つ以上の『間』にあり、美術も『間』にあり、人間の生活も『間』にある。
『人間』とは誰が云い始めたのか知らないが、人間の生活は一個人にあるのではない。
個と個とが結び合った『間』に人間の生活があるのである。

 眼が見え、感覚に映ずる肉体の人は皆離ればなれの存在であるが、これは朽ち行く虚假不實の存在であり、
本当の人間ではない。實在である人間は此の感覚に見える現象存在の『間』にのみ顕れるのである。
感覚的存在を通じて實相が見えるのではなく、感覚的存在との『合間』に實相人間があらわれるのである。
此の『合間』を描くのが芸術であり、此の合間を生きるのが『愛』である。

『百事如意』 谷口雅春 先生著 P33

207うのはな:2012/02/20(月) 23:30:29 ID:El6gIMAw
谷口先生は世界の聖者 ビクトリア真理センター牧師 エンマ・スマイリー

 本日(4月20日)は、カナダのこの地域(ビクトリア)がここに最も喜ばしい体験を
持とうとしています。それは二つの国が愛と友情とによって結ばれ様としているからです。
谷口先生は、いついかなる時にも、平和の御使いとしておいでになられる。
現に、今、ここに、こうしてわたくし達の前においで下さっておられます。

 私が幼い頃、母は、日本が世界で最も霊的な国となるであろうと常に予言的に申しておりました。
当時、私は、母の言うことがよく理解できませんでしたが、今は、それがよくわかります。
谷口先生は日本において42年の布教を通じて何百万という人々を教化され少なくとも1200万の人々が
先生のみ教えにふれ、そして世界の人々にも福音を与えておられます。
まことに谷口先生の出現により私の母の予言が実現しつつあると私は信じて疑いません。

 谷口先生は何物も求めず、ただ真理を与えるべくおい出になれれた。
この様な方がおられるでしょうか.....私は神に感謝せずにはおられません。

『真理は民族を超えて』 昭和47年9月1日発行 発行者 中林政吉

208:2012/02/25(土) 20:05:37 ID:UidMI2Xk
>>190-191の話

「昭和十四年一月下旬の某夜八時半頃、」→「太平洋戦争中の事である。ある日、」
「天皇陛下のために尽くすのだ。」→「自分の任務のために尽くすのだ。」
「そして此の陛下の飛行機が無駄になるのだ。」→「そして味方の重要な飛行機が無駄になるのだ。」
「現在内地に昇進帰還してゐて」→「現在内地に無事帰還していて、」



古本屋で入手して見比べたところ書き変えられていることが判明。
「無門関の日本的解釈』(1940昭和十五年)10.20が左側で矢印右側が「無門関解釈」(1964昭和三十九年).11.22。
この話は日中戦争(1937昭和十二年〜)中に中国で起こった出来事のようだ。

209:2012/02/25(土) 20:19:08 ID:UidMI2Xk
>>190-191の話で上記以外は仮名使いなどが違うだけで文章は同一。

210a hope:2012/03/05(月) 15:15:20 ID:kcv2QXTk

本流宣言掲示板の伝統さまの記事「神想観なるかな」より抜粋させていただきます。


―――――――――――――――――――――――――――

聖光録「毎週の反省」〜日曜の反省「光明と暗黒」を掲示し、
今日(日曜日)の反省に生かしたいと思います。


「光明と暗黒」

君は絶えず暗黒を撒いて歩く
不快な人間を見たことはないか、

君は眉をひそめた
悲しい表情の人々に接したことはないか、

君は表情が、
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


悲しい表情をした人間は
悲しみを撒いて歩く、

不快な表情をした人間は
不快を撒いて歩く、

それは黴菌を撒いて歩くよりも
尚大きな罪悪である。


また君は絶えず光明を撒いて歩く
愉快な人間を見たことはないか。

君は絶えずその唇に
幸福な微笑をだだよわし
逢う人毎に
幸福をうつして歩く人間を見たことはないか。

君は表情が
どんなに伝染力の強いものかを
経験したことはないか。


君は与えるものがないことを
嘆いてはならない。

君は与えるものがなくとも
幸福な表情を与えることが出来るのだ。

子供の顔を見るとき
良人の顔を見るとき
妻の顔を見るとき

兄弟の顔を見るとき
姉妹の顔を見るとき

八百屋に挨拶するとき
風呂場で知った人に遇うとき

君が幸福な表情さえすれば
君は幸福を与えて歩く。


幸福な表情をした人間は
幸福を撒いて歩く、

愉快な表情をした人間は
愉快を撒いて歩く

それは物を与えるよりも
一層好い贈り物であるのだ!

―――――――――――――――――――――――――――

わたしは、これを拝読したとき、この「愛行」だったら、お金がなくても、時間がなくてもできる!
と心からうれしくなりました。

そこで、他の曜日の反省も見たくなり、聖光録(平成17年発行)を確認したのですが、
わたしの聖光録には、この「毎週の反省」が見当たらないのです。
日曜の反省があるのなら、月曜の反省〜土曜の反省もあるのだと思うのですが...
どなたか、御存じでしたら教えてください。

211SAKURA:2012/03/05(月) 17:05:29 ID:EUALcDkQ
a hope 様へ

素敵な「日曜日の言葉…」ありがとうございます…。
当に「言葉…神なり」です〜〜ネ!

■【聖光録・・・】 
昭和28年 1月1日 初版発行 
雅春先生時代のものでしたら…月曜日から土曜日までの
【毎週の反省…】に記載されています〜〜〜ヨ!
かなり古い信徒の方々でしたら、おもちの事と思いますが…

月曜日  朝の時間を生かせ…  
火曜日  背水の陣を布け…   
水曜日  生命の兩輪…     
木曜日  生きた生命       
金曜日  「今」を生かせ…   
土曜日  吾既に世に勝てり…  

上記のような項目にて… 先生が指導してあられますが…
(私にて…参考になりましたでしょうか???)

PS:私の手元の聖光録は…昭和42年度版…です。この時代までは…??
  月曜日〜土曜日まである様ですが…??そうそう!!日曜日も…!
  (とりあえず…月曜日…後程…投稿しますネ。)

212SAKURA:2012/03/05(月) 19:13:17 ID:EUALcDkQ
トキ様 へ
皆様〜 へ
a hope様 へ

聖光録
■月曜日の反省
 ――朝の時間を生かせ――

諸君よ、諸君自身が生長の家の人となり諸君の家を「生長の家」としようと
思ふならば朝の時間を巧みに生かせ、凡そ時間を巧みに生かす者は自己の
生命を生かすものである。何故なら吾々の生命は時間的継続そのものであるからである。私のやうに朝の時間を巧みに利用することによって二重に生きることが出来る者は
仮りに五十年の生涯でも百歳を生きたと同様となるであろう。
かりに七十歳を生きれば、百四十歳を生きたと同様の価値を生きることが出来るであろう。
米国の豪商ジェ・ピー・モルガン氏は嘗て友人に語って「自分は自分の生活の一刻を
数千万円の価値あるものだと思っている」と言ったそうである。此れを知る彼にして
始めて世界一の富豪と成り得たのである。諸君はこの貴き刻々を無駄に浪費しつ々
ゐないあろうか。時間の浪費だと言へば、自身に何らかかはりのない「時間」と
云うものが勝手に流れているように感じる人があるかもしれぬが、浪費した時間は自分の貴重な「生命」を無駄に切って棄てた血みどろな死骸なのである。
諸君よ、死にたくない者は時間を巧みに生かさなければならぬ。
特に朝の時間を生かさなければならぬ。
吾が生命なる時間を「死骸」に化して了ひたくない者は特に最も効果多き朝の時間を
巧みに生かさなければならぬ。
モルガン氏は自分の「時間」の刻々をば数千万円の高価に見積もったが、慎の「時間」
の価値は数千万円と云うような安価なものでないのである。
「時は金なり」と云う事があるけれども、時は決して金でないのである。
時は決して金銭のような安っぽいものとは段ちがいで全然比較にならないのである。
若し諸君が金銭を捨てたく思うならば、これを捨てよ。
しかし決して朝の時間を捨てるな。
若し諸君が己が所有する土地、建物、衣装、など捨てたく思うならば、
何ん時でもこれを捨てよ。
併し、如何なる力をもってするも失われたる朝の時間を回復する道はないのである。
諸君が仮りに往来をあるいてゐるとき、手に一杯の金銭を握って、その金貨だけの
値ひのあるものを何一つ得ないでゐながら、その金銭を溝の中へ矢鱈(やたら)に
捨てて歩いてゐる人を見るならば、諸君はその人を屹度気が狂ってゐるに相違ないと
思うであろう。しかし、大抵の人は金銭以上に貴き価値ある時間を両手に一杯
もって捨てて歩いてゐるに人々を見ても気狂いとも思はないのだ。
そして自分自身も、その大気狂いの仲間入りして何とも思はずこの金貨よりも
何十倍貴き寳(宝)を刻々瞬々捨ててあるいてゐるのである。
彼等の生活が「生長の家」の生活を遠ざかること甚だ遠く彼等自身が間断なく
生長し得る人とならず、能力が中途で止まって了ひ、いつまでも碌碌として
常人の水準以上に登ることが出来ないのは当然 のことわりなのである。
                  (『光明の生活法』より) 
      
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
*旧字体と新字体…使っておりますので…(PCソフト…不十分)

■『月曜日の言葉…』何度も拝読いたしましても、心におのずから“変化”が…
そして、今振り返りますと…“宝”私自身、“溝”に捨てていました事を、
再!再!〜〜認識致しました…。

>a hope 様 
本日の「気づき」…深く〜深く〜感謝申し上げます…。
と言いますのは…益々『雅春先生の残されましたし真意」…
読み取ることが、出来ました…。
現総裁先生の考えは、正しいものと判断いたします…。
…が!【信者…】に対しましての“愛念”少し不足しています部分も、
ありますかしら〜〜ン??

『信じて…待つ…!!』 現教団側に…

213a hope:2012/03/06(火) 13:50:22 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

他から見てどう見える

仕事でも、顔でも、店構えでも、事務所の玄関でも、外から見てどう見えるかを調べてから、
他に見せるようにすることが大切です。
仕事をする上からいえば、自分はその仕事をやりとげることに熱心すぎて、
ちょっとぐらいよごれていても、気がつかないことがありがちです。
いかに立派な製品でも、ほんのちょっと手垢がついているために、
つまらないものだと見向きもされないこともあります。

まず自分がお客になって玄関へ入って行くと、どんな感じがするか、
什器(じゅうき)や椅子の並べ方は不快ではないか、応接室で待っているとどんな感じがするか、
何分間待たされるか、待っている間に放っておかれるか、何か出されるか、
その出し方はどんなふうにするか、読物はあるか、最初の面談はどんなふうに始められるか。・・・・・
こんなことでも、自分が客となって見なければわからないのです。

他の事務所や商店と比較してみて、悪いところはできるだけ廃(や)めるようにし、
良いところはできるだけ取入れるようにし、さらによそに見られぬ好い感じを出すようにしなければなりません。

自分の店や自分の事務所ばかりを見ていれば、欠点があっても、
その欠点は慣れてしまってそれが当たり前のような気がして気づかないものです。

臭い空気に慣れてしまっては、その空気が臭い空気だということに気がつきません。
しかし外から入って来たら、「なんてここは臭い空気だろう」と気がつくのです。
客が外から入って来るのですから、一番誰よりもその室(へや)の空気の良し悪しには気がつくのです。
室の空気の好し悪しというのは、鼻から吸う空気だけのことではありません。
心で吸うなんとなきのその室の味です。その室の匂いです。その室の感じです。

その中には人間のようすもあり、微笑もあり、心の思いもあり、椅子や家具の並べ方もあり、
「ああここは気持が好い」と思われるようにしなければなりません。

214SAKURA:2012/03/06(火) 21:26:12 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…

【聖光緑…】
■火曜日の反省
―――――背水の陣を布け――――

「背水の陣」を布けとは本書の『智慧の言葉』の中に見出される金言である。
諸君よ一旦「吾れ此れを為さう」と決して起ち上がったならば、
「吾が行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が是非とも必要である。
逃げ路を豫め(あらかじめ)準備しておいて事にのぞむやうなことでは
何人も全力を発揮することは出来ないのだ。
歴史にこれを見るもジュリアス・シ−ザ−の英国侵入軍が目的地に上陸したとき
彼は將卒に命じて海峡を越えて味方を運んでくれた愛すべき船――
若し味方の戰ひが不利に終ったならば、海峡を越えて逃げ帰る時の
助けとなるであらうところの愛すべき船――
これらの船に悉く火をつけて焼き捨てさせたのであつた。
「進むほかに道なし」の覚悟は吾々に平常の肉体?以上の力を発現させるものである。
それは小さなる我を減して、「無限の生命」から力を汲む一つの方法であるのである。
「吾が行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が大切だと云っても実際心を誘惑する
逃げ路があつては本当の覚悟が出来て来ないものである。
そこで心がまだ本当に定まらない者には是非とも背水の陣が必要となるのである。
「背水の陣を布け」と云う言葉は、英語では
“ Burn your behind you ”  と言ふ。
かえせば、「汝の背後の橋を焼き落とせ」と云ふことである。
一旦渡って来た橋を焼き落として了つたとき吾らはもう退却するにも退却の道が無い。
ただ吾らに残されたる自由は進むことのみとなるのである。
進むほかに道がない!!!!!!
これほど吾らにとつて強いことがあらうか。
一歩でも動けば、それは退歩ではなく進歩であるのだ。
げに「背水の陣」のちには万物が備はつてゐるのである。

                          「光明の生活法」より…
     *一部…旧字体・新字体になっております…。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
当に…「社会事業団・現原宿教団…」此の争論…
譲り合うことなく〜〜批判し合う〜〜これは「共倒れ…論争へ??」

■ 当に…今!時!…が来たのです…。
【背水の陣…】一旦!もつれ合ったお互いの“争点議論内容…??”
もう一度…「信者・光明化運動…」原点に戻りまして…【和解…調和の世界】
「前に進むしか…ナ〜〜〜〜〜〜イ!」のです…。

それは、以前以上に「一人一人の心に…使命感の灯」
と云うことは…【自我を無くし…お互い和解への道…】歩むと…信じ

■ ■ ■ 信 力 ■ ■ ■
                                 合掌

215名無しさん:2012/03/06(火) 21:31:52 ID:tar1vhs2
谷口雅春の人類剪定思想、

お次は、東京直下、東海、東南海ですか、


神は、つぎに剪定する人間を選んでいます。

216a hope:2012/03/08(木) 19:22:05 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

新しくならない物はまずい


汲み立ての水は、味わいも佳く新鮮な感じがしますが、汲み置きの水はちょっと見るとやはり透明で、
別に質が変わっていないようにみえますけれども、飲んでみると味わいがなく新鮮な感じがしません。
店先や事務所の空気もやはりそうです。

その仕事を始めた当時は、感激に満ちて働いていた店員でも事務員でも、
だんだん感激がうすれて面白味がなくなり、ただ機械的に仕事をするようになり、
次第に不平を言い出すのは、勤めている人そのものが日に日に新しくなろうと考えないからです。

ちょっと見ると開店当時と同じでも、それは汲み置きの水と同じように新鮮味を失っているのです。
日に日に新しくならない者は、ちょっと見ると、前と同じような形をしていても、
新鮮味がなくなり味わいがなくなり、そこの空気が悪くなっているのです。

内部の人に判らなくても、外から入ってくればよくわかるのです。
繁盛する店と繁盛しない店は、その店にいる人たちの心が、
日に日に新しくなっているかどうかということできまるのです。

皆さん、日に日に新しく日に日によい考えを生んでゆきましょう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

第5章 終わり、 次回より第6章「疲労を感じない力の生かし方」へ

217神の子さん:2012/03/09(金) 00:41:17 ID:rmOiHONA
>215

次は「オマエ」という神様の声が聞こえぬか!!!

富士山の噴石に当たるのは215だとよ。

218神の子さん:2012/03/09(金) 12:00:44 ID:eWw166D.

しかし・・・和解、和解・・・という虚しい言葉が宙に舞っていますなぁ。

本来この言葉を向けねばならぬお人は、他者への慮りが零とのこと。

下々に何ぼ叫んでも、虚しくこだまするばかり。

このような狂態が続けば、世界の笑いもの。

219a hope:2012/03/09(金) 12:38:15 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

第六章 疲労を感じない力の生かし方

なぜ疲れる人と疲れぬ人とができるのか


心の力、肉体の力、そのほかどんな力でも之(これ)を強め、増し、大きくする秘訣があります。
それは難しいことではありません。それは今ある力を十分使うことです。
人間は、心の力でも、肉体の力でも、仕事をする力でも、勉強する力でも、
使えば使うほど強くなり、増してくるのです。
出せば出すほど出る力、使えば使うほど殖えてくるのが生命の力なのです。

しかし、出せば出すほど力が減り、使えば使うほど神経衰弱になる人もないこともありません。
或る人々は、働きすぎたので疲労して病気になったと言いますし、或る人々は、
心を使いすぎたので神経衰弱になったと言います。

では、なぜ、一方の人は出せば出すほど力が湧いて来、働けば働くほど元気になるのに、
なぜ、もう一方の人は出せば出すほど力が減り、働けば働くほど元気がなくなり、病気になったりするのでしょうか。

ここに人間成功の秘密の鍵があります。皆さんはこの秘密の鍵が何であるか、考え当てることができますか。

懸賞問題です。百円や千円や一万円の端金(はしたがね)が賞金に出るのではありません。
この問題が解けた方には「一生涯の成功」という懸賞がつくのです。

(つづく)

220a hope:2012/03/10(土) 11:09:26 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

二人の答えはどちらが正しい?


Aさん、あなたにはもうこの問題は解けたでしょうね。
解けるのは当たり前です。あなたは、毎号『生長の家』という雑誌を読んでいらっしゃるのですもの。
Bさん、もうあなたにはこの「秘密の鍵」は見つかったでしょうね。
あなたは、先日『生命の實相』を一所懸命読んでいらっしゃいましたから。

この「秘密の鍵」を見出す道は、『生命の實相』や「生長の家」の本のどのページにも書いてあるのです。

では、Aさん答えて下さい。
Aさんは答えます。
「後の人が、出せば出すほど力が減ったり、神経衰弱になったのは、人間を物質であると思っていたからなのです。
前の人が出せば出すほど力が増して強くなったのは、人間を神の子だと思い、硯の上で磨る墨のように、
磨れば磨るほど減ると思っていなかったからなのです。」

「Aさんの答は満点です。ではBさん答えてください。」
Bさんは答えます。
「人間は働けば働くほど力が出るのは、人間は、目に見えないが『無限の力の源』につながっているからなのです。
この『無限の力の源』を神さまというのです。人間は神様から力の泉をいただいているのです。
このことを前の人は知っていたのです。ところが後の人が働けば働くほど疲れて病気になったのは、
恐れながら働いたか、不平に思いながら働いたからです。
その働きに感謝しながら『無限の力の泉』が宿っていることを信じながら働くものには、
疲れるということも、病気になるということもありません。」

Bさん、あなたの答えも満点です。
常に暇あるごとに、私達は次のように吾がたましいに呼び掛けようではありませんか。

「たましいの底の底なる神よ、

無限の力よ、

湧きいでよ。」

常に、かく心に口ずさんで、自己に宿る無限の力に呼びかけるものには、力が無限に湧きでるのです。
疲れたときなど、二、三分間こう心で唱えて無限の力を呼出せば元気がでます。

(つづく)

221SAKURA:2012/03/10(土) 16:32:45 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆様 へ

こんにちは…!今日は朝から気持ちがい〜〜〜〜〜い“一日”に…なりそうな予感?
さて!事務所に昨日からいます〜〜〜〜。
気持ちのいい“春日和”です。もう直ぐ…春ですネ〜〜!
これから皆様も良い事が、起きそうなそんな予感が……「神想観」をしまして…
今日も先生の“テキスト”参考に勉強開始…start

【光明道中記】            谷口雅春著
::::: 四月二十一日  種を蒔くに肝腎の日:::::

兎も角十人の隣人に喜ばれるひとは十人の顧客を有つ者です。神に喜ばれる
人は神を顧客に有つ者です。(『百事如意』)

勤労も好い、奉仕(service)も好い。併しながらそればかりが
成功の全貌ではないのである。
世の中には石川啄木の歌の通り、働けど働けど生活が楽にならない人たちも沢山ある。
勤労は耕作であり、掘鑿であるけれども、いくら耕しても不毛の地では
好い作物は出来ないし、いくら掘鑿しても、鉱物の埋蔵されていない
ところから鉱石が採取される筈がない。
だから成功とは、見えない世界に埋蔵されている「或る物」だと言わなければ
ならないのである。見えない世界に埋蔵されている「或る物」こそ耕作して
花開き実を結ぶ種子であり、埋蔵されている鉱石である。
これは宗教上の語(ことば)で言えば「福田」であり、心理学上の語で言えば
識域下に印象されている観念である。
それは一言で云えば、吾々の先祖と、吾々自信が潜在意識の世界に蓄積
して来た業である。それは意業、口業、身業と云うように三つに
分つことも出来るが、すべての業は念の動かない所に動かないのであるから、
全は「蓄積された念」だと云う事が出来る。
「念」が不幸になるように蓄積されている人は、どんなに耕作しても、
どんなに掘鑿しても、そこは不毛の地だと云うことになる。   
                      

【石川啄木】の書籍を読みましたが…
全ての流れは…啄木の場合「悲しい生活スタイル」なのです。
啄木は、かなり頭脳明瞭…抜群の才能が…なのに?
当時「お寺の息子」として、東京に上京しまして、
更に!「奥さんの節子さん」を、東京に呼び…そこまではいいのですが?
更に!母親が頼ってきまして、あの年で一気に家族を背負います〜〜ョネ!
私の判断から“無理??”な話〜〜〜〜に思えましたが…??

「雅春先生」でも駆け落ちしまして、親の反対を受け、
母親の執拗な邪魔・迫害を受ける状況下にて…、
その時!先生自身も知識はあっても、どうにもならない >< 
更に本人の隠れた才能は…あっても、その隠れた“埋蔵”は???

19歳の時に、確か『ロ−マ字日記…石川啄木』の本を読みました。
その本が〜〜〜〜〜なくなっているんです〜〜〜ョネ!
思い出す限り、どうも『金大一京助は啄木の親友…』と言いますより…
中学の先輩・後輩の関係だったので??
啄木が亡くなる時に、節子夫人「にロ−マ字日記」を破って焼いてくれとう遺言!
啄木の死後、節子夫人は思い出があり…親友の金大一京助に渡す…。
その後!京助は裏切られたと……
どうも京助は、啄木の家計を家財道具を売り払ってまで“お金”に換えて…
啄木を支援…それがその“お金”は全て女郎買いに使われていた事が分り、
その後、啄木の家計は全て亡くなります。
                <つづく>         No.1

222SAKURA:2012/03/10(土) 16:34:18 ID:FEa/NNlc
<つづく>        No.2 

更に!節子夫人は確か慈善団体療養所白人系で
最後の子供を出産、その子供も結核がうつされていたとか書いてありましたが?
啄木の【働けど働けど〜♫〜】 今!思いますと甘えに成ります〜〜ョネ!
でも15〜16歳で一家を背負われるのは…今から“スタ−ト地点”では
どんな人間でも精神力は???先生でも中野時代ですから… この様に
正しい埋蔵を耕作…蒔いた種を増やす努力は精神心からくのではと、思います。

反対に【金大一京助さん】は、アイヌ研究で有名です〜〜ョネ!
此方は“善”そして“明るい”…この二人の対象を比較して「種まき」は大事…!
見えない世界は【心=無現力…花開くまで時間空間をえて実相世界】として、
あらわれる事!【実相=現象】であり更に!種蒔きは…><
『福田……磁石』として引き寄せる“モノ”
【ボディティブな感情=心】ではと、気がつきますと…日頃の行動もあり
更に【神想観】は大事です〜〜ネ!
◆【成功の近道】と言いましても過言では無い様に思えるのです。

更に!今回【a hope 様】の“今日言葉”より…
【真理は、唯!一つ】…方便の多様性…A 或いはBの人の解説は違うが…
どちらの方の方便も〜〜〜〜〜【答は正解!!!】
人それぞれ環境・置かれました立場の相違なりに…etc
「解説・解釈論」が異なりますし、そうしますと【原理主義…】は〜〜〜〜
【本人の尺度で、物事を決めつける事!!!!!】
今日では、通用しないのではと、私自身は思います…。

「楠本神野先生は…素晴らしい方と思いますが〜〜〜〜〜〜〜 ?
変な所で「決めつけ」も、多いように見えますが……?
あなたはこうなのです…。この考えは、間違っています…。……etc
時代背景も考慮しますと… 以前ならばよかったのでしょうが……?
現在社会は複雑!益々進行していくものと思いますと…
◆ 【多種多様なる方便】が出来る…新しいやり方が、時代のニ−ズになるものと!

■「現総裁先生」十分に出来られるものと…私は確信しておりますが?
今!!今!!私も“種”を蒔いていますので…
この先どの様な“芽”が出てくるのかと?今から楽しみで〜〜す。

                            再合掌

223ハマナス:2012/03/11(日) 00:52:08 ID:u5mC.eb2

神の子のみなさま
こんばんは。

SAKURA様が次のように投稿されていましたが・・
>「楠本神野先生は…素晴らしい方と思いますが〜〜〜〜〜〜〜 ?
変な所で「決めつけ」も、多いように見えますが……?
あなたはこうなのです…。この考えは、間違っています…。etc <

私も宇治が好きで、年に数回練成を受けに行っていますが、楠本加美野総務が
そのように仰っているのを聞いたことはありません。
むしろ、我のないお方でして、あまりノーと仰いませんし、質問をしましても、
「そうだね。そういうこともあるね。・・・・神の子だから、大丈夫だよ!」と
いつも的確な素晴らしいご指導をして下さいます。
毎回、心が浄まり生まれ変わった気持ちになって帰ってきます。

先生は、御年90歳になられましたが、とてもお元気で、毎朝3時半に起床され
それぞれのお宮(宇治の境内には、精霊招魂神社、末一稲荷神社、流産児供養塔
、幽斎殿写経奉安礼拝殿があります。)をお参りして、聖経読誦され、4時半からの
幽斎殿の早朝行事、次いで5時10分からの大拝殿での早朝行事をかかさないそうです。
ご自分のお年やお身体のことを考えず、人類光明化と人を救うことを常に考えて行じて
いらっしゃるように見えます。
(私も練成に参加した時は、せっかくに宇治に来たのだからと、3時半に起床してお宮参りをしています。)
まだ、宇治の練成会に参加された事のない方は、是非おすすめです。本当に素晴らしい
練成会です。  (別に、宇治の回し者では、ありませんが・・・)

感謝合掌

224a hope:2012/03/11(日) 12:14:20 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

こんな簡単な方法で


電車で学校へ通うとき、会社へ通うとき、工場へ通うとき、その電車の中で静かに眼をつぶって、

「わがたましいの底の底なる神よ、

無限の力よ、湧きいでよ!」

と呼び掛けて、

「私は無限の力に護られているんだ!疲れない!疲れない!人間は無限力だ」

と、数回心の中で一心に繰返す方法は、我らが疲れなくなる、
そして無限の働く力や無限の勉強する力が湧いて来る、最も簡単な神想観です。

皆さん、やってごらんなさい。
毎日これを続けてごらんなさい。おびただしい自身がついて参ります。
素晴らしい能力が内から湧き出てまいります。
身体が健康になり、記憶力がよくなり、勉強がよくでき、仕事の能率が上がり、
したがって人からは喜ばれ、そこに立身出世の礎(いしずえ)が築かれるのです。

一度や二度やって見て止めるようではなんにもなりません。
毎日、電車の中で往復の時でも好い、毎日机に向かったときの一分間ずつだけでも好い、
常にたゆまず、自分自身の中(うち)に呼びかけるのです。
この習慣をつけておけば、試験場へ出たとき、あるいは工場で難しい仕事にぶっ突かったとき、
ほんの瞬間のあいだ「わがたましいの底の底なる神よ」と呼び掛けることによって精神統一し、
おちつきができ、みごと難関を突破し得るようになるのです。

他人に物を頼むよりも、自分自身の中にある「無限の力」に呼びかける方が、なんぼやさしいことでしょう。
自分の中には無限の力が宿っているものを!
こんな簡単な実行から無限の力が湧いて来るのです。

225a hope:2012/03/11(日) 12:18:39 ID:kcv2QXTk
訂正
>>224
上から20行目
自身→自信

226SAKURA:2012/03/11(日) 23:20:06 ID:qjU6h9ik
トキ様 へ
皆様 へ
こんばんは…

【幸福を招く365章】
―― ❖ 汝の肉体を讃美せよ ❖ ――

あなたの肉体を愛し、その健康を求めるならば、
肉体に小言を云ってはならないのである。
肉体に感謝し、肉体にお礼を云い、肉体の美を讃え、
肉体の健康を祝福しなければならないのである。
こんな不健康な肉体をどうして讃美し祝福することが出来ようと思う人が
あるかも知れないけれども、あなたの肉体の何処かは健康であるであろう。
肺のわるい人も眼は見えるであろう。耳は聞こえるであろう。
手足は健全であるであろう。
然らば何故、その眼を、耳を、手足を讃美し、祝福し、
それに感謝しないのであろうか。
真に神の恵みに感謝したとき、その肺もなおるであろうに。
                          (谷口雅春著)
―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
■【肉体は仮モノ】…と
聖経『甘露の法雨』に……今回「亡き母の御霊」を見ましてからは、
見方が、“変化”してしまいましたかしら〜〜〜ン?
そう!本当の人間は『霊的人間』…「現象世界で肉体は借り“モノ”の姿…」
肉体は“仮モノ”と切実に思います…。
そうしますと、時間〜〜〜♫「時の流れ」は、ストップしないのです…。
■ 永遠なる…時…! 時の流れ … ♫
とまれョ〜〜〜時間 ♫〜と云っても……一瞬にして時間は、過ぎ去る“モノ”…
【肉体人間=霊的人間】 なのですから、今現世で“心”の修行が……大事!
ちょっとしたはずみで「疲れやすいの〜〜ョ」とついつい口癖に云います〜ョネ!
気休めに言ていた“言葉”が…だんだん年を、重ねて行く内に…
“言葉”は、もっと進行して?いつの間にか“日本語…?”深刻な状況??
そうなのです〜〜ョネ!「言葉に変化」を感じられませんか〜〜〜??
              <つづく>         No.1

227SAKURA:2012/03/11(日) 23:21:50 ID:qjU6h9ik
              <つづく>       No.2

若い時は「体が弱いのョ〜〜〜 ><」といい、現在は?「もう年ョ〜〜〜」と
変に納得した“言葉”を使う事?ありませんか……??
“言葉”遊びでしょうが…ちょっとした“言葉”でも健康は遠のいていくのでは?
「今日の言葉」に表されています…。
【肉体は仮モノ…】ですので、この現世で活かす“モノ”ですョ〜〜〜〜ネ!
それは【感謝…】なのでしょう??
今の時代“生まれたままの姿(顔)”で生きている人は…確率は??
いますのでしょうか…?いても〜〜〜ごく少数ではないでしょうか〜〜〜。
化粧の感覚で“整形”…どうにでもなれる“変身術”なのでしょうが……
この頃見ていて複雑になります…。

「亡き法貴先生」が生存中の頃…いつも御講話を聴きにまいりますと…
先生は、必ず!私の“顔”を見まして…「整形は〜〜ダメ〜〜ョ」と口癖のように…
云われましたが……それも最後までなのですモノ…
“私の顔”が、先生にはその様に見えられていたのでしょうか?
たぶん今では“霊界世界”にて「ゴメンネ〜〜〜!」と笑いながらおっしゃって
いる事でしょう〜〜〜〜〜♫

【整形…】がこのように一般に浸透していなければ、私は貴重価値?
生まれつきの“顔”なのですが……自分で言いますのも“オカシイ”です〜〜ョネ!
鼻筋がきれいなので…どうかしますと、若い頃は…“ハ−フぽく”見られて…
中高の頃は、自分の顔は好きではありませんでした…。何故なら?
何をしても目立つんです 〜〜〜ョネ!(濠も深いので…)
このように「天平画…天平美人像」にあこがれておりましたが……
本当に“丸顔…こけしのような顔”憧れていました“私…”

現在!時代の流れにて…「整形=化粧感覚…」若い子がしていますが…
ふと!先日!「ある所で工藤静香さんの顔…」を見まして…
これが現在の“顔”???きっと又!修正されるのでしょうが…?
【肉体は仮のモノ…】と分かっているのかしら〜〜〜ンとつくづく考えてしまい…
ある新聞のカラムにて…
整形しすぎで“白血病?”この事は今では、海外では当たり前ですが…
更に“免疫力が低下”…更に“アルツハイマ−”になりやすいとか…?
確かに「40〜50歳代でも、アルツハイマ−型認知症」が増えてきています〜ネ!
これも“肉体”をおろそかにした結果と思います…。
自分の【肉体への感謝】果たしてあるのでしょうか??
■ 心の〜〜〜魂の向上〜〜〜果たしてあるのでしょうか………??

【生まれた時…そのままの自分の顔が…一番です。そして、
■ 【どれだけ多くの人に〜〜〜世の為・人の為〜〜〜貢献できるの〜〜〜か?】
更に!“肉体への感謝”です〜〜〜ネ!

■ ■ 全ての 事に 物に 感謝 … … 
       この事を教えて頂きました“我が神…”感謝申し上げます。

                             再合掌

PS:見かける度に「整形…」しています人の顔を見ますと…“魂の向上”…
“心の向上…”如何なものでしょうかと…
今の私は…【心を磨いて…こころ美人】に…… トライ!!
トキ様へ…<今日の言葉>どの様にお考えでしょうか…?

PS:第一教区に…まだY教化部長先生が在籍していました時…
素敵な言葉…おっしゃっていましたが……
「最近…年齢の超えた方が整形されている…が?
年齢に応じた“歳の美しさ”が見えなくなり…50代なのに30代に見せ様とする
方が増えて…そんな事よりも“40代・50代・60代・70代…のその時々の
年齢に応じた歳の美しさがあるはずだ…!!」と云っておられましたが…
今!!今日の言葉にて、ふと!思い出してしまいましたが……??
先生と一緒にとった「写真…3人トリオ???」のワンショット…飾って?
やはり信仰心の深い方は…年齢が?見えないように思いますが… ウフフ

228a hope:2012/03/12(月) 09:03:46 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

まず実行です、今日から



まず実行です。この『人生読本』に書いてあることは、できないことはちょっとも書いてないのです。
やって効果のないことはちっとも書いてありません。
『生命の實相』に書いていて多くの人が実行して効果のあった真理を、もっとやさしく、
わかりやすく、短い時間に読めるように、短い時間に実行できるように書いてあるのです。

だから読んだらすぐ実行です。
毎日電車の中での黙然、仕事にかかる前の一分間の黙然
―――黙然というのは口では黙っていて心で念(おも)うのです。
先刻お教えしたように、一分間眼を瞑(つぶ)って、

「わがたましいの底の底なる神よ。

無限の力よ、湧き出でよ!」

と自分自身の魂に呼びかけるのが神想観であり、黙然です。
この呼び掛けが、どんなに力になることでしょう。

(つづく)

229復興G:2012/03/12(月) 16:13:21 ID:ojEbkDH2

>>228
a hope様。

いつもステキな『人生読本』のご文章を紹介してくださり、本当にありがとうございます。
今日の「まず実行です、今日から」も、“そうだ!”と思わせて頂きました。
私はもはや、自分のことというよりは、電車の中でも、乗り合わせた乗客みなさんのことを祈るのが楽しみになり、実行しています。
「わがたましいの底の底なる神よ。無限の力よ、湧き出でよ!」
というのも、「わが」というのは「乗客みなさんの」と祈らせて頂こうと思います。

ところで、「黙然」は「黙念」ではないでしょうか?

230a hope:2012/03/12(月) 16:46:04 ID:kcv2QXTk
>>228
訂正
「黙然」→「黙念」

復興Gさま、ご指摘ありがとうございました。
わたしも、
「わがたましいの底の底なる神よ。無限の力よ、湧き出でよ!」
を、わたしの周りの大切な方々の名前を入れて、さっそく祈ってみます。

復興Gさま、いつも素晴らしいご教示をありがとうございます。

231SAKURA:2012/03/12(月) 21:43:26 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆さま へ
こんばんは……
やはり「気温の較差…」実に沁みますかしら〜〜〜ン??

■【幸福を招く365章】
――❖❖❖  人の悪しき言葉に乗るな  ❖❖❖――
怒りは火事のようなものである。あなたの心を焼きつくし、
地獄の焔の中に投げ込み、
ついに身体までも病気にする力をもっているのである。
誰かが不親切な言葉を発したからとて、
それを自分の心の竃(かまど)の中にほうり込んでならないのである。
不親切な言葉は、
あなたの心の竃の中で燃える地獄の火の燃料となるのである。
不親切に対して親切をもってし、
憎しみに対して愛をもってするのは、
自分の心の中にほり込む燃料に 水を注ぐようなものである。
ひとの告げ口に乗るな。
それは怒りの焔を煽る風のようなものである。
愛語と調和の言葉をふらして、
心の火事をけすことである。常に「平和」を念じて祈れ。
                        ( 谷口雅春著 )
❖     ❖     ❖     ❖     ❖     ❖     ❖

意外と”思い込み”がありますよ〜ネ!〜〜〜今回!各々の「投稿者様」達…
此の方は??此の人は??…「上の方??」かしら〜〜〜ンとか…??
【想像】しますで〜〜〜ショ?
そして、その事が念頭に抱いての“投稿”となりますと…
ことのほか、そちらに”気持ちがに左右”されている様に思いますが…
と云う事は、本人自身が本来の”投稿内容”を、何処まで”投稿”出来ましたかどうか?
そして、相手が…現実的に分りますと〜〜〜><
更に!感情の上で”いい感じの応対”をされない…と思いますと…
【心の隙間〜風〜♫〜】が出て参り〜〜〜寂しい”思い”に…
その様な時は、やはり、先ず!【寄せ付けない位の心】強い”心”が必要でしょうか?
今回!私も【御霊…】を、公開しましたが…

ま〜〜ぁ!人それぞれでしょう〜〜〜〜ネ!ある方が…「キ●ガイ!!」
これを見て?私の事なの〜〜〜〜???と…
つい、私も気持ちの上で引っかかりを感じ、やはり”潜在意識”に、
私自身……今回!公開しましたの【母の御霊は綺麗な白〜〜〜い御霊】です。
どなたでも、あの世に行きますと【御霊】はあります〜〜〜が…
色は???或る宗教は…十界…とか? 七界…とか? 様々です〜ネ!

【母の御霊】は、綺麗なので、人に見せるまでは、随分考えましたが…?
やはり【甘露の法雨】に書かれています(今日で公開…ストップ)
■【人間は霊的人間…】です〜〜〜ョネ!
この世に”生”を受け…一生!あっ〜〜〜〜〜という間に過ぎるのでは?
そう思いますと…今!今!を生かす事が、大事ではと思いますが…
【母の御霊】で、少し時間の使い方とか…今を生かす生き方とか…?あるのでは??
今回!!【2チャンネルの方…】は……
「言葉遣い…」当に!”ネガティブ感情”が文章に現れて、見ていますと…
こちらまで【火の中に放り込まれそう…><】になりましたが……??

やはり【雅春先生の言葉】を、思い出し…
例え…私が【キ●ガイ】と思われていましても…
その人も、逆に〜〜〜そう見ていられ事は、
閲覧されています”第3者の皆様方”がいらっしゃいますと云う事…更に!!
【総裁先生…へ?ルンペン…】此の方この”言葉”を使用する限りは…
現在!!此の方は「ルンペン…?」を経験されたか〜〜?将来!されるのかも??
しれませんので……… 【危ない〜〜〜危な〜〜〜イ!】

この様に、一度!!【悪しき言葉…??】
■「生長の家」では【 言葉は神…言霊 】ですので〜〜〜〜〜 ><
実に!まきこまれないように〜〜”神”にゆだねながら〜〜♫〜〜
【イメ−ジ=神想観】をします…。
【人の悪しき言葉にのるな…!!】当に!そうなのです〜〜〜〜ョネ!!

                             再合掌
PS: トキ様へ
本日の言葉…先生の“言葉”に対する考え…私は納得しておりますが?
トキ様は、どの様に捉えられていらっしゃいますでしょうか・
宜しかったら”アドバイス”頂けますと幸いに存じますが…??

232a hope:2012/03/13(火) 09:05:29 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

時々はまた別の新しい言葉で

必ずしもこのとおりの言葉でなくともよろしい。
時々はまた別の新しい言葉で、自分の内に宿る「神様の無限の力」に呼びかけてもよろしいのです。

ともかくも、自分の内に宿る神に呼びかけることが必要です。

「求めよ、さらば与えられん」です。
神は決して遠いお空のかなたにいるのではない、神は自分の内にいまして応えられます。
「魚を求むる者に蛇を与うるものあらんや。パンを求むる者に石を与うる者あらんや。
いわんや天にまします我等の父は我らになくてはならなぬ物を知り給う」という言葉を、
私は会社へ行っていた頃、出勤の電車の中で繰返していた時代がありました。
すると不思議に、自分の求むることは必ずできるのだという自信が湧いてまいりました。
そしていつの間にか、私の運は好転してきました。

神は吾々が求めなくとも与えてい給うのです。
神は吾々が想い出さなくとも、吾々の中に「すべて」を与えていられるのです。

しかし吾々の中にあるその「すべて」の中から、
要るだけのものを呼び出してくるのは「言葉の力」によるのです。
そして言葉で喚(よ)び起された自信の力によるのです。
ちょうどそれは、吾々の懐(ふところ)の中に、
知らぬ間に神様から入れられていた蟇口(がまぐち)のようなものです。
その蟇口の中には、なんでも欲しい物が買える無限のお金が入っているのですが、
そのことを思い出さないと、欲しいものを買おうにも買う力が出てこないでしょう。

「自分の中に無限の力がある!」こんな簡単な言葉でよろしい。
ともかく、常に自分の内にある無限の力を呼び覚ます意味の言葉を使って、
自分の魂に呼びかけ、自分のたましいの奥にやどっている無限の力
―――何でも買うことのできる「蟇口の中の財(たから)」を思い出すことにしようではありませんか。

(つづく)

233うのはな:2012/03/13(火) 18:03:59 ID:El6gIMAw
 戦争中の私の体験

 戦争中のことでありました。私の宅の庭が全部“かぼちゃ畠”になった事がありました。
あの杜鵑花(つつじ)の枝の上まで一面に“かぼちゃ”の蔓を這わせて食糧増産につとめたものでした。
私は朝五時には必ず薄暗いうちに畠へ出て、一所懸命耕したり、苗を植えたりして夕方、真暗になる頃、星を
頂いて帰ると云う位にやって居たものです。

 そうすると、ずいぶん沢山収穫が得られました。私の宅では戦争中も、終戦直後の配給のない時代も一度も闇米を
買った事がなかった。それは、私のつくった“かぼちゃ”ばっかりを私も家族も食べておったからです。
もう“かぼちゃ”はあんまり出来過ぎて、翌年の正月になっても、まだ南瓜を喰べておった。
三割位のお米に、南瓜が七割入っていると云うような御飯を食べておりましたが、その位たくさん南瓜が出来たものです。

無花果なんかも、何処からか枝を貰って来て挿木をしたら、無数に素晴らしい美味しい果実がみのって食べきれない程でした。
愛と智慧とをはたらかして大いに土を作り、施肥をしたからです。
 ところが、この頃は、食糧が豊富になりまして、買えばあると云うようになって来ました。
そうするともう私も庭を畠にする必要はなくなってしまいまして、庭は普通の植木の植わっている庭になりましたけれども。
果樹だけはそのままに置いてありました。

無花果などもそのまま植わったままに置いてありました。ところが私が雑誌の原稿などに忙しくなって来ましたので、無花果の樹を
毎日世話してやることができず、それに愛念を注がなくなってしまいました。
そうすると、その無花果が、殆んど枯れたようになって、その上、虫がついて、もう殆ど実がみのらなくなったのです。
たまたま実ったかと思っても、小さい貧弱な果実しかみのらない。
たべてみても殆ど味が無いのであります。

 これは私が無花果に愛と智慧と、そして生命とを注がなかったからです。
「与えない」でいて収穫と云うものは出て来ないものなのです。

『日常生活の中の真理』無門関・聖書篇  谷口雅春 先生著

234うのはな:2012/03/13(火) 19:47:03 ID:El6gIMAw
 懸崖から有無を言わせず跳ばせる宗教

 戦争前に「天華」と謂う宗教を創められた渡辺薫美という霊覚者がありました。
横浜あたりにその本部があって、天華洋行という名前で全国にゴム底の靴の販売網を
つくっておられたのであります。生長の家の誌友の方でこの天華洋行の靴の販売店をしていた人が
話していらっしゃいましたが、中々この教えは立派な教えであったそうです。
今は故人でありますが、生長の家へ来て講師となり、禅家の家風があって、よく一喝で人を救われた
野村義隆さんなどもこの天華の教祖の渡辺薫美師の教えを受けられたということで、こんな方面から、
この渡辺薫美の霊能について色々の話を承ったのでありますが、この人はいろいろな奇蹟的なことをやるので野村さん
もびっくりしたそうであります。

 私は見たことがないのですけれども、湯呑に茶を出して気合をかけると、その湯呑の茶が焔になって燃えあがったり、
随分いろいろの不可思議を演ずるのでした。しかし、こんな事は手品でもできますから、大したことはありませんが、
その教えの極意は、仏教もキリスト教も、生長の家も同じことで、一切を捨てるということであります。

つづく

235うのはな:2012/03/13(火) 20:01:49 ID:El6gIMAw
234 つづき

 或る日、信者のお嬢さんが山道を渡辺薫美先生と一緒に歩いていたのです。
真理の話をしながら歩いている。先生は、「一切を捨てる、一切を捨てなかったら、
この道は得られない。貴女は一切を捨てることができますか。」とたずねられる。
「ええ、一切を捨てます。」とそのお嬢さんは答える。

二人が今歩いている山道の一方には千仞の崖があったのでありますが、その時、薫美先生は、
「今この崖から下へ跳べ。」とおっしゃったのであります。
こう言われて跳べぬようなことでは一切を捨てていないのです。本当に一切を捨てて師に従うのだったら
「跳べ」と言われると、跳ばなければならない。躊躇しているようなことでは無我ではないのであります。
その二十歳くらいのお嬢さんは助かったのであります。何もこわいことはない、すべてを捨てたとき、安全に
支えてくれているものが発見される。つかまえているのなら力がいるが、放すのだから力はいらぬ、そして
神力、仏力に支えられるのだから、こんな楽なことはないのであります。


『人間そのものの発見とその自覚』 谷口雅春 先生著 P49−50

236a hope:2012/03/14(水) 10:01:23 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生

何が「無限の力」を邪魔するか


自分の中に宿っている「無限の力」―――この無限の力を称して「神」というのです。
「無限の力」はこのように言葉の力で、また神想観の力で、
黙念(もくねん)の力で呼び出されてくるのですけれども、
その無限の力を呼び出す邪魔となる心の働きがあります。

それは他(ひと)に対する「憎みの心」です。
他に対する呪いの心です。他に対する不平の心です
―――こういう心は、人と人と摩(す)れ合う摩擦の心ですから、
せっかく、内から出て来る無限の力を摩り減らして無駄に消耗(しょうこう)してしまうのです。

皆さんは、機械になぜ油を注ぐか知っているでしょう。
それは機械の摩擦を少なくするためです。
なぜ摩擦を少なくしなければなりませんか。
摩擦は不必要に動力を食うからなのです。
摩擦があるだけ機械の効率が減るからなのです。

人間もやはり同じことです。
せっかく「人間・神の子」の自覚ができて、無限の力が内部から湧いて来ていましても、
摩擦が心の中にあれば、せっかくの無限力も摩擦のために食われてしまうのです。

憎み、呪い、恨み、不平、悲しみ、おしい、ほしい、取越苦労(とりこしくろう)、
持越苦労(もちこしくろう)、―――これらは大なる心の摩擦であります。

では、心の摩擦をなくするにはどうしたらよいでしょうか。
機械の摩擦を防ぐためには、機械に油を塗るでしょう。
それと同じく、心の摩擦を防ぐためには、心に油を塗ればよいのです。

心に塗るべき油とはどんな油か、その油を考えて発明して特許をとったらずいぶんよく売れて、
その人はきっと大金持ちになるでしょう。

(つづく)

237a hope:2012/03/15(木) 10:02:25 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

新発売、心に塗る油


心に塗る油の一種は「感謝油」と申します。
また、「朗(ほがら)か油」という名前の油も売り出されております。
また「愛の油」というのもあります。

どこに、そんな心に塗る油を売っていますか。
よそを探ねるにはおよびません。あなたの心の中に売っているのですよ。
あなたの心の中を掘ればどれだけでも滾々(こんこん)と湧き出て来るのです。

感謝の油は、どういう動力で汲み出すかと言うと、「ありがとう」という言葉の力で汲み出すのです。
なんでも、「ありがとうございます」という言葉を心に思い、また口に出すのです。
ただ「ありがとう」とさえ思えば、その思いは「心」を潤(うるお)す油となって、
人と人との摩擦はなくなり、不平は無くなり、物事は順調にゆくようになります。

その次の油「朗(ほがら)か油」もあなたの心の店で売っています。
これは「どんなに悪く見えることでも、必ずよくなる。自分は運が好いのだから、
必ずよくなるほかはしかたない」と常に考えるようにするのです。
真夜半(まよなか)がきたら、朝になる始めだと考えるのです。
雨が降ったら、これは晴天になる始めだと考えるのです。
夜があるので朝が楽しいのです。雨があるのでお天気が楽しいのです。

「自分は、神の子だもの、神に護られているのだもの、よくなるほかはありえない。」
何か不快なことがあったり、気分が暗くなって来たときには、一分間でも眼を瞑(つぶ)って、
この言葉で自分のたましいに呼びかけるのです。
これが「朗(ほがら)か油」を自分の心に注す方法です。

(つづく)

238a hope:2012/03/16(金) 10:38:59 ID:kcv2QXTk

人生読本 谷口雅春先生著

愛はすべてを癒す


次に人間の心を柔(やわら)げる油に、「愛の油」という素晴らしくよく効く油があります。
「愛の油」を注すと、どんなものでも摩擦がなくなります。

仕事をして、うまくできなかったり、その仕事に故障が起こったり、その仕事で怪我をしたり、
仕事の結果健康を害したりするのは、仕事に対する愛が足りないか、仕事に対して恐怖心が伴っているのです。
愛しさえすれば、仕事はあなたに害を与えるものではありません。

犬でも愛する人には咬みつきはいたしません。恐れる者には犬も咬みつくのです。
この仕事をしたら健康を害するかもしれないとか、こんなに夜業を続けたら、
衰弱して肺病になりはしないかとか、取越苦労が病気の因(もと)です。

恐れずに、仕事と勉強に愛を感じ、働かせてもらうことに、勉強させていただくことに、
喜びと感謝とをもって勇敢に生きて行く時には、人間は働くほど健康になるのです、
元気になるのです、病気だってかえって治ってしまうのです。

愛はすべてを治す力です。傷口に膏薬(こうやく)を貼ればそこが治ってくるように、
愛は心の傷手(いたで)を治し、愛は仕事の苦しみを治し、愛は労務の重さを軽くしてくれるものなのです。
吾々がまだ何か苦しいことがあるならば、自分の愛が少ないことを恥じなければなりません。

子供を愛する母親は、子供を愛するがゆえにこそ、どんな寒中(かんちゅう)にも夜半(よなか)に起きてお乳を温めて、
おしめを取りかえ、そしてそれを苦しいとは思わないのです。

「苦しい」と言いそうになった時には、自分のその仕事に対する愛が、社会に対する愛が、
国家に対する愛が、足りないんだということを反省して、もっと愛深くなろうと決心しなければなりません。

(第六章 終わり 次回から、第七章 生命の生かし方 へ)

239うのはな:2012/03/16(金) 20:36:27 ID:El6gIMAw
.....メキシコのグワダルッペ寺院の創立に関する霊的体験の解釈を書いておきたい。
ファンレイゴ青年が、神様から『赭土の丘である不毛の土地からバラの花を病人の数だけ
摘んできて寺院に供えよ』と命ぜられて、一度は『神様、テペヤの丘にはバラの花など咲いていません』
というが、やがて素直に、赭土の丘に行ってみたら、バラの花が、本当に爤漫と咲いていたので、それを
病人の数だけ摘んで寺院の本尊に供花すると、神様のいわれた通りに村の子供の病気が治っていたという件がある。

ファンレイゴ青年は、その時、現象では赭土の丘に見える処に、実相世界の美しき花爤漫の世界を見たのであった。
即ち法華経の如来寿量品にある『衆生、劫尽きて大火に焼かるると見るときにも、わが此土は安穏にして天人常に充満せり...
天人曼陀羅華を雨ふらして仏及び衆生に撤ず』が其処に実現したのであった。
ファンレイゴ青年は、その花咲く丘のことを村の人に告げると、村の人たちは、まだ“実相花爛漫の世界”を見る心の眼が開いていないので、
ファンレイゴ青年を“嘘つき”だと罵る。それで青年は村人に花咲く丘を見せてやろうと村人をつれて行くが、そこには、バラの花は一つもなく
赭土の丘に過ぎなかった。

これは“常識の眼”が実相の“花咲く丘”を見得ない其の多数者の妄心に、再び青年の“実相を見る眼”がくらまされたことを示している。
青年は悩む。そして神にその悩みを訴える。すると神は、『衆生の眼で見れば、唯の赭土の丘であっても、実相を見よ、ここに花爛漫のテペヤの丘がある。
再び往いて花を摘んで来い』と命ぜられる。

 その時、青年の実相を見る眼が開くのだ。そしてテペヤの丘に往ってみると、群集の眼には唯赭土の丘に過ぎなかった不毛の地にバラの花が爛漫と咲いているのだ。
『わが浄土は壊せざるに、衆は憂怖諸々の苦悩充満せりと見る』である......


『生長の家』誌昭和47年8月号“明窓浄机”より

240SAKURA:2012/03/16(金) 20:56:24 ID:FEa/NNlc
トキ様 へ
皆さま へ
こんばんは…
先日投稿…と思いましたが?今日ここに“投稿”させて頂きます…。

■【幸福を招く365章】
――――❖ 心が原因として起こる病気 ❖――――

多くの病気は、家庭の紛争がおさまると治る。
自分のいたくない室(へや)から移転すると治る。
対人関係や事務処理が旨く行かない仕事を辞めると治る。
誰にも打ち開けられない不幸や悲歎や 憤りを完全に打開けてしまったら治る。
――これは単に生長の家の宗教的説教だとのみ思ってはならない。
サンフラシスコのドワイト・L・イルバ―博士のカンサス市の最 南臨床 協会に
於ける研究発表会のもあるのである。これらの種類の病気は、
自分の心のうちに幽閉して置いた、悲しみや、不平、憤りや…
その他色々の悩みが、ある「形」をもって排泄せられつつあるのである。
想念と云うものはそれが「形」に表現されたら、
その内部に蓄積せられているエネルギ−が消えるのである。
すべての「心の悩み」は強烈なる内部圧力によって
「形」の世界に噴出しようとしつつあるのである。
煙草を吸って煙草をふかす習慣の如きも、
噴出したいある感情が喫煙の煙となって具象して消えつつあるのである。
だから煙をフ−と吹かす毎に心が落ち着くのである…。
                        (谷口雅春著)


今日の文章を読みまして、フ〜〜〜!ピッタリなのでしょうか……?
今朝…朝早く目覚めまして、最近「睡眠時間が短縮」に……
「パソコン」が、無ければ“睡眠時間…”は“3時間”でもいいのです〜〜が??
この頃!TYOのホ−ムドクタ−先生が…
「パソコンは、少なくとも“2時間おき”に、休憩をす事!!更に…!
睡眠は?最低7時間と言われ…>< 」
ど〜〜うしても、忙しい時は“5時間”なのですが…それは、どうしても〜〜〜」と…
云う場合のみ!!と言われまして……それからが……><
私の「時間管理が狂って…」いるのです〜〜〜ョネ〜〜〜♫

「現在総裁先生」に対して…「他の候補者…別の人?」だったらいいとか??
そうしますといい方向に行くとか??その様な“投稿意見”を拝読しながら…

ある方が…私達のような一般(末端)信者は〜〜〜
■■【 下等階級の人間とか〜〜〜挙句は本部講師が一番とか〜〜〜 】
何か“オカシイ”のでは……??
その様に【責任の無い言葉】を…“ポン!ポン!”と述べられてますが??
【誰〜〜誰〜〜がいなければ好くなるとか??】云っていますのは…
その人自身に、現状からの【環境・立場】を脱却したいが為の…“裏…逃避”
その手段的存在が〜〜〜?多少はあるのでしょうか〜〜〜?
非常に???気分の悪い〜〜“言葉”です〜〜ネ!

先ず!!!!ごまかしているのでしょうか〜〜しらんン? 変!!

個々の考え…それぞれでしょうが??
辞めた人!理由はともかく【今の総裁】を追い出す言葉が出ていますし
更に、中には“イヤナ言葉”を投稿していますが……
【悲しみ〜〜憤り〜〜不平〜〜“ネガティブ感情”が渦巻く〜〜♫〜〜】
そのような【エネルギ−・パワ−】が、このような“形”で……
周りの人を、蒔きこんでいくのでしょう〜〜〜〜〜か??
全て!!シャットアウト!!!!!なのでしょうかしら〜〜〜ン

そのような人は、いつまでも〜いつまでも〜それの“繰り返し”で進歩は…?
進む事も……『進歩性!!』もない様に見えますが…。
「今日の言葉」は、更に続きがあり…やはりどうかしようと〜〜思案する間に…
時間だけが過ぎ去り??何も出来ずに、唯!終わるだけなの〜〜〜ですか?
                 <続く>         No.1

241SAKURA:2012/03/16(金) 20:57:34 ID:FEa/NNlc
<続く>         No.2

■先ず!【聞く!相手の人間性を認める心!から始まる】のではと…思います。

「煙草を禁煙に出来ない人」が…いつまでも“ダラダラ〜”
云ってる様なものでしょうか…?
私も今日からは…『時間管理が出来ていませんので、パソコン時間と本来の実務ワ−ク』
のこの両者の両立が課題なので〜〜〜す。フ〜〜〜〜〜ウ><
■上手に「時間管理」が……時間よとまれ〜♫〜です……!!

今日!久しぶりに「現総裁先生夫妻の写真」を拝見しますと……「雅春先生」に似ていらっしゃいます〜〜ネ!!
更に!同様【雅春先生と同じ時期かと思うのですが?今から苦労しながら…
(いろんな意味での苦労)…船出】
確か?戦後もう一度…再建と云う事で…年齢が同じ頃でしたかと思いますが?
「創立者…雅春先生」が、「人類救済と云う事」で行動を…なさったと思います。
必ず!!【素晴らしい真理〜♫〜】を信者に導いて〜書籍を書かれる事と…と思います。
その様に〜〜「今日は“フト!”…神想観」にて、浮かびましたが…

私事!!先ず『一日一日の時間管理…クリア作戦開始!!開始!!』しませんと?
これも【心のクリア病】でしょうか〜〜〜?【 Smileマーク 】

                           再合掌

トキ様>本日の“言葉”どの様に受け止められましたでしょうか〜〜?
(ゆっくりオフ・タイム…にて、時間管理作戦…開始です…)
又、いろいろ…“投稿”させて頂きます…。
「雅春先生の言葉」私に取りまして…やはり“心のスパイス”です…。
この「御教え」に出会いました事に感謝申し上げます…。ありがとうございます。

242a hope:2012/03/17(土) 09:05:12 ID:kcv2QXTk
人生読本 谷口雅春先生著

第七章 生命の生かし方

生きものと死物(しぶつ)との異い


皆さん、あなたがたは自分を大切にしていらっしゃいますか。
自分を大切にするというのは自分をなるべく働かせないように、
大事に箱の中へ閉じ込めておくことではありません。

木偶人形なら一年中箱の中へ閉じ込めておく方が、汚れないでいつまでも綺麗でいるでしょう。
しかし閉じ込めてジッとさせておく方が、汚れもせず毀(こわ)れもしないのは人形は死んでいるからです。
死んでいるものは、使えば使うほど摩り切れてしまうからです。
どんな丈夫な着物でも、帯でも、足袋でも、毎日使っておれば破れてきます。

しかし生きているものは毎日使っても、毎日物に擦(こす)れても、摩り破れるということはありません。
使えば使うほど、擦れば擦るほど生きているものは丈夫になるのです。

冷水摩擦をして、毎日タオルで皮膚を擦っても、
皮膚が摩り禿(ち)びて使えなくなったということは聞いたことがありますまい。
かえって皮膚をこすれば擦るほど丈夫になり風邪を引かなくなります。

足蹠(あしのうら)の皮膚は、毎日身体ぜんたいの重荷を背負って、
土や、床や、畳や、下駄と摩擦して働いていますので、
人体中の皮膚の中(うち)で足蹠の皮膚は、一等太っているのです。

死んでいるものと、生きているものとの相異は、死んでいるものは働かせば働かすほど細るし、
生きているものは働かせば働かすほど太るということです。

(つづく)

243トキ:2012/03/17(土) 10:06:23 ID:cjNjb78g
 SAKURA様、いつもご投稿、ありがとうございます。

 今朝、新聞を見たら、吉本隆明さんが亡くなった記事がありました。
彼は左翼の有名な思想家ですが、晩年は原子力発電を援護し、反原発運動を批判しておりました。
 内容は結構、説得力のあるもので、正直、感心しました。
最近の生長の家が、谷口雅宣総裁の好みで反原発運動を展開しているで、コントラストは面白
かったです。本流掲示板では、原発賛成の意見もあるので、この問題は簡単ではないですね。

 でも、原発に限らず、本当は生長の家の人間と言っても、たくさんいる訳ですから、いろいろな意見
があって良いと思うのです。それが、今までは封じ込まれていた、と思います。
 それが、ネットの誕生で、匿名でも発言ができるようになった。これは大きいと思います。

 ここは毎日、カウンターから計算をすると、1000人以上の人間が閲覧していますから、ある程度の
影響力はあるみたいで、ここで自分の意見を述べてみることが、同じ信徒の人達に影響をあたえると
信じております。
 現在の総裁はたくさんの失敗をしたのは事実ですし、また本流復活派にも批判されるべき点が多々
あるのの事実だと思います。ですが、自分も完全な人間ではなく、ミスをする(あくまでも現象の
話ですが)ことを前提として、議論をするのは、生長の家という組織や信仰をより良くするためにも
必要だと思います。
 特に最近の組織風土として、議論ができない体質があります。それは改善されるべきです。
本部講師も、末端の信徒も、同じ信徒として、発言は大事に扱われるべきだと思います。

 一人の一つの発言は、確かに軽いかもしれませんが、それが重なると重くなるし、影響は
大きいと思います。

 みなさまのご投稿をお待ちする次第であります。

244如月:2012/03/17(土) 11:43:31 ID:ki/haAjk
では、皆様が書き込みしやすいようにレベル1の私がまず書かせていただきます。

個人的には脱原発も、ノーミートも極端で無ければ悪い方向では
無いと考えています。
ただ、それについて団体で意見を統一するのは反対です。

そもそも、雅宣先生が宗教家として発言なさった事に疑問を持ちます。
本人の資質とかでは無く、生長の家が宗教であるとは
雅春先生はおっしゃっていなかったように聞いているからです。

団体で意見を統一する事に反対する理由は
「…でなければならない」という縛りは生長の家に
そぐわないと思うからです。

245如月:2012/03/17(土) 11:51:25 ID:ki/haAjk
ごめなさい。
ここ、聖典引用板でしたね。

246志恩:2012/03/17(土) 12:37:05 ID:.QY5jUA6
《神道と仏教との関係》のことで、別板で論議が、ございました。

これについては、信仰/体験の方に,書き込む方が,ふさわしいと思われますが、
ここ、聖典引用板の方が、出入りが少ないので、ここへ書かせて頂きます。

実は,私の親戚の者に、「神道と仏教」について、専門にでは、ありませんが、
4年間勉強して来た人間がおります。
その人にメールで問い合わせたところ、メールにて、詳細な返信が届きました。

本人に、聞きましたら「匿名」なら、掲示板に掲載しても可。の許可を頂きましたので、
私が、代筆で、書き写させていただきます。

仮名「朝露夜露」様の名で、志恩が、代筆で、書きます。

かなり、長文なので、途中、用事が出来ましたら,中座することもありますので、
すみませんが、”おわり”と書くまで、横スレ、ご遠慮頂ければ,幸いです。

247朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 13:09:21 ID:.QY5jUA6
《神道と仏教との関係》は、私は専門に勉強してきたわけではないのですが、
私が今まで4年間勉強をしてきた上での個人的な感触でいえば、

神社神道と、寺院仏教という組織と組織の関係と、日本人の心情、文化、信仰としての
神道と仏教は、分けて考えた方が良いと思います。

私は、神道と仏教を、あまり対立軸で考えない方がいいと思います。

確かに、神社と寺という組織としては、対立した時期もあるし、今でも対立軸で両者を考える人は
いるのですが、一般人の間では、どちらも対立するものとは考えられてこなかったというのが、
私の感触です。

日本人の歴史の中で、神道的思想と仏教的思想は、非常に長い期間をかけて習合してきたので、
もはや切っても切れない関係になっていると思います。

今でも,ウサギ小屋となった都会の住宅を除けば、日本人の家庭には、普通に仏壇と神棚があるのは、
日本人が,神も仏も同じように受け入れてきた証拠ではないかと思います。

また、日本の仏教は、「日本仏教」とも言われ、インドで生まれた仏教とも、その後、中国で発展した
仏教とも、朝鮮半島やタイなどの仏教とも違う仏教になっています。
つまり、日本化していると言えると思います。

日本では、長い歴史の中で、神道と仏教は、確かにいろいろな経験をしてきましたが、
対立したのは、
政治的な利害が絡んだ時の、支配階級の氏族同士や、時代によって、時の政権による取り扱いがかわった時の
寺院と神社だと言えるのではないかと思います。

それぞれの時代の政権の座についていた一族により、政治的な思惑や、利害などで仏教と神道が対立したことは、
何回もあったと思いますが、
ごくごく単純化すると以下のような経緯があって、今に至っていると言えるのではないかと思います。

   〜つづく〜

248朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 13:46:42 ID:.QY5jUA6
 まず仏教が伝来したのは、公式には538年(ごみや)か、552年(ごごに)と言われ、どちらかは
学者の間でもまだはっきり決着はついていません。

しかし、一般には、6世紀の半ば、第29代欽明天皇の時代に公式に伝来したという意見が多いようです。
公式伝来というのは、その当時、日本がお付き合いをしていた朝鮮半島の百済から外交ルートで経典などを
送ってきたということです。

その頃、百済は、高句麗・新羅に圧迫され、日本に援軍を求めてきていたのだそうです。

この時に、正式に仏教を受容すべきかどうかで、反対派の物部氏と、賛成派の蘇我氏が、対立しましたが、
最終的には、欽明天皇が、あだし神(蕃神)つまり、外来の神の受容を許しました。

仏教は、外来の神とみなされたのです。
つまり、八百万の神々の国ですから、外来の神もあってもよかったのでしょう。
おおらかなものです。

歴史では、物部氏と蘇我氏が戦って、蘇我氏が勝利したので、仏教が勝って、神道が負けたような印象も
与えるかもしれませんが、神道が、なくなったわけではないのは、いうまでもありません。

物部氏と蘇我氏の対立は、政治的なものです。
物部氏は、当時朝廷の祭祀を担当していた氏族ですから、自分の氏の存続が危ぶまれることになりますから、
反対して当然でしょう。

蘇我氏は、外来の氏族の系列だったと思います。
仏教は、公式伝来の前から、非公式には、外国人と共に、日本にすでに伝わってきていたのです。

つまり、日本は、すでに民族的には、とてもひらかれた多様な国で、外来の文化をどんどん受け入れていた国で
あったということです。

    〜つづく〜

249朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 14:30:32 ID:.QY5jUA6
当時、百済が滅びると,日本は、負けて亡命して来た百済のエリート氏族を、そのまま大量に受け入れ、
優遇するということもやったようです。

その人達と共に、外国の進んだ文化も輸入しました。その人達は、やがて日本人と融合していったのでしょう。
日本にはいま、先の大戦前後に日本に来て,今も帰化せずに、日本にいる朝鮮族の人達がいて、その人達のことは、
朝鮮族と言いますが、

そのずっと昔にも、朝鮮からわたってきた人がいたわけですが、その人達を朝鮮系とかいうことがないということは、
面白いとおもいませんか。
アメリカだったら、いつまでも、ドイツ系とかユダヤ系とか言うのにね。

朝廷では、大化の改新(646)のころには、日本の神々と共に、仏教の儀式も行うようになっていきます。

皇族のなかでは、聖徳太子が、最も早く熱心な仏教の信奉者となり、ご自分で三経義疏(さんぎょうぎしょ)と言って、
経典の注釈書をまとめたともいわれるほど、むずかしい仏教経典の研究に熱心でしたし、飛鳥寺も蘇我氏によって、建てられました。

時代が下がって、奈良時代には、8世紀に、奈良の大仏を第45代聖武天皇が、国力をつくして建立しました。

当時は、疫病なども多く、人々の暮らしは、たいへんだったとおもいますが、聖武天皇は、国の民の幸福をいのって、大仏を建立
させたとも言われています。

このような形で、神仏習合が、すすみますが、土着の宗教と外来の宗教の習合というのは、日本だけでなく、色々な国で起こっていることです。

  〜 つづく〜

250朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 14:50:15 ID:.QY5jUA6
一言では説明できませんが、いろいろな政治的思惑も絡んで、護法善神といって、仏教を擁護する神という
思想が生まれ、寺院を守護する鎮守神として、

法隆寺には龍田社が、東大寺には、宇佐八幡宮が勧請されたり、
逆に、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)といわれる「神は仏の化現」という思想がうまれ、

天照大神は、大日如来が、衆生を救うためにその姿で現れたというようなことが、いわれたりします。
神社で神様のために読経がおこなわれるということが、今でもあります。

いつの時代にも、外来のものは、目新しく進んだ文化ととらえられる事は、少なくないでしょう。

仏教が、インドで生まれたのは、日本に到来する1000年も前のことですから、それまでには、様々な
ありがたいお経が、たくさんの僧侶によって書かれ、中国大陸と朝鮮半島を通って、日本に伝わってきた頃には、

非常に洗練された思想体系になっていたと思われますから,当時の日本人にしてみれば、馬で旅行をしている時代に
飛行機が、輸入されたような感覚もあったのではないかという人もいます。

とにかく、今でいえば、進んだ外国の文化とも受け取られたのではないでしょうか。

  〜つづく〜

251朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 15:35:01 ID:.QY5jUA6
一方、神道は、仏教が伝来するまでは、神祀りと言われ、「神道」という言葉もなかったのですが、
仏教の定着に伴って、神祀りを担っていた人々が、日本古来の神祀りについて改めて考えさせられ、
「神の道」であるから「神道」と呼ばれるようになったと言います。

日本人にとって、神祀りは、当たり前のことで、これと何らかの形で対立するもの、それが、仏教だったわけですが、
それが入って来て初めて、その存在を意識したということでしょう。

たとえば、寺と神社ですが、神道では、最初、神社はなく、神は、岩や木に依ると、考えられていました。
神は、同じ場所にとどまる存在ではなく、自然の中に存在し、自由に動き回っていたのでしょう。

何しろ高天原で、人間と同じように生活をしていると考えられていたのですから。
その神様が、地上に降りて来て生まれた子孫が、日本人ですからね。

高天原に住む天の神々(天神)の他に、天から追放されたスサノオ(出雲大社の祭神)や、天孫のニニギノミコトが、
地上に降りてきた時に、地で迎える猿田彦の神に、代表される地上の神々(地祗ちぎ)もたくさんいましたが、日本人は、

いずれの神様も、祭りの時にお呼びして来てもらい、これを迎えたのです。

神を迎えるお祭りは、今も日本各地で行われていますが、神を迎える為に、依り代(よりしろ)を設けて、祈っていました。
神社は、なかったのです。

仏教では、大寺院や伽藍が造られていましたから、ある意味、これに対抗して、神社が造られるようになったのです。

この時には、仏教寺院と差別化を図るために、伊勢神宮の神明造(しんめいつくり)に代表される簡素な、仏教寺院に比べると,
ごく小さな社が造られるようになったのです。

しらきづくりで、木の肌そのものを使った社です。
屋根には、当時の民家のような萱が吹かれました。それが風でとばないようにと屋根にのせたのが、俵のような形をした鰹木(かつおぎ)です。

仏教寺院は、壮麗な瓦を使い、仏像にも金箔を塗ったりしていましたが、神道で、神像が造られるようになったのは、ずっと後のことで、
仏像に影響されてのことです。

神道は、とにかくシンプルで、神は、人間が喜ぶもとと同じものを喜び給うと考えられ、その年とれたての一番美味しいお米や野菜、お酒や肴など、
その土地の特産物が、お供えされたのです。

    〜つづく〜

252朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 15:48:55 ID:.QY5jUA6
神社建築は、その後、色を塗ったり、屋根を伸ばしたり、社を二つに並べて屋根をつなげたりというように、
いろいろなスタイルが、出て来ますが、

神社が寺院より小さく、素朴なのは、一つには、差別化を図るためだったと思われますし、そもそも社は、
なかったんです。
今でも、社のない神社が、あちこちにあります。

奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は、山がご神体です。

神社は、寺院とは別の建築様式で、日本人の美意識を象徴するものになって行ったのではないでしょうか。

いま、われわれが、神社に行ってお祈りするとき、大きい神社の場合は、拝殿の前でお祈りします。
本殿は、その奥に小さいお社があるのが普通で、われわれの目に見えるのは、拝殿ですから、お間違いなく。

 〜 つづく〜

253朝露夜露(代筆・志恩):2012/03/17(土) 16:20:43 ID:.QY5jUA6
とにかく、神仏習合は、長い間かけて進んでいきます。その間には、江戸時代に檀家制度というのができ、
村の住民をすべて、寺の檀家とすることで、一種の戸籍として、住民の把握にあたったため、寺には、そういう役割が
与えられたということもあります。

また、神道は、死を忌み嫌ったため、葬式は、僧侶が担うということになったため、葬式仏教などという仏教にとっては、
ありがたくないレッテルも貼られるようになったりと、色々なことがあって、現在に至っているわけです。

また、明治期の近代化を遂げようという時には、
日本をどう一つに、まとめて行くかという議論となり、キリスト教を国教化するということも、考えられたようですが、

やはり、日本人を、精神的に団結させる中心は、天皇家と神道だろうということになり、神仏分離と称して、廃仏毀釈などが
あった事も事実です。

一方戦後には、GHQの神道指令で、日本人の精神的バックボーンをなきものにしようと、占領軍により、
神道と皇室と日本国民が、精神的に分離されてしまったとも言われています。

それは、アメリカが、日本人の精神的バックボーンは、神道だと正しく見ていたという証拠でもありますから、
日本人は、仏教の教えも日本化して受け入れてきたのだと言ってもよいかもしれません。

神道と仏教徒の間には、それなりの対立がありました。
しかし、今でも、神社で僧侶が、お経をあげ、神宮寺が、お寺をお守りしているところもあるのです。

天皇陛下も、神道の最高の神職として日々、天照大神や歴代天皇の御霊をお祭りしておられますが、
仏教にも、造詣が深くていらっしゃると思います。

日本の信仰体系は、実に面白いですね。

    
        ー おわり ー

254志恩:2012/03/17(土) 16:24:08 ID:.QY5jUA6
天皇陛下が、比叡山に行幸されたニュースを、貼付します。

http://blog.goo.ne.jp/shimizu-jyoshin/e/62a903e89f12d0fcccdeab82057caa76

255_:2012/03/17(土) 17:59:39 ID:MmCIlbok
私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在の生活』を百パーセント完全
に生きることが、生長の家の生き方であるといった。この意味において『戦争』というものが吾々に課せられ
た場合には(現に課せられているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければなら
ないのである。今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働くのであるから、戦争という
ものは魂の修養にならないというような価値判断がはたらいて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれが
あるが、生長の家では出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を練ると
ころの公案となるのである。多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理
解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応なしに左右をいわずに、
ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事なのである。しかも同時に、肉体の『無』を理屈で
なしに実証するところの行事である。かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したとこ
ろの『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じことである。『爆弾を
抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。
宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達
していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、そのその命令者が教
祖という個人である。しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の
命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一
とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て
来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるとこ
ろの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。

「谷口雅春選集」谷口雅春著 潮文閣 1941年発行より

256SAKURA:2012/03/18(日) 01:21:22 ID:dqlvDD0o
トキ様 へ

遅くなりましたが…お返事ありがとうございます…。

別件ですが…ある“投稿文”の処にて
【昨年!青年会の人数…1000人を減少したのは??】…云々
この件は、「現総裁先生」のみへの“責任転換”と言えますでしょう…!

■ 既に15年前以前から…
つまり現在「社会事業団」「ときみつる会」「学ぶ会…」
其処にて現在、活動をなされております元幹部の皆様(元理事の人達・職員の皆様…)
…の【責任…】でもあります…。
皆様の現代時代にも【人数の増やし方】は異常な計算方法でしたが…?
ある方は「実家まで毎回お金を借りに…」「サラ金に借りに…」その様な現象が…
御主人に内緒で保険金解約…既にありましたが……?異常でしょう……?

既に当時!全国大会でも「青年会…」参加の時は、
白鳩会長自らの言葉にて、【人数増員対策の手段】としまして、
一般人(白鳩会員)も参加…可能な事から、
私自身も“参加”させて頂いておりました…。
当然!!当時の「教化部長…」も御存じのはずです…。
と言う事は、その上の幹部クラス「理事…」関係者皆様も、御存じのはずと、
申しても過言ではありません。
つまり現在「社会事業団」「ときみつる会」「学ぶ会」の方々も該当しますが…?

さて!私が感じました頃??すでに8年前位から、目じりに“人数減少…”は、
伺えておりました…。
それに、後半からは、【正確なる人数把握】と言う事で…かなり!チェツクが厳しい
流れになって来たのでは、その結果そのものです。

そして「高齢の信者の皆様」が愛念にて【講習券…購入】をされていました様ですし、
果たして、その方が、当日“講習会場に参加”されたかどうかは?
【購入権枚数…実質参加人数】この対比はどの様になっていますか・本当の数字は?
第三者から見まして、定かではありませんが…?
そして、この年代が…現状(失礼ながら)亡くなられて逝っております。

■ 今回の【現象世界…青年会1000人】これは、
既にかなりの前からの【原因…】が…要因となり、起るべき事が数字として
現れてきただけで…別に驚く“モノ”ではないと思いますが…?

ただ今後の“組織運営…”にこの現状をどの様に対処していくかが問題と思います…。
今後の改善策を「信じて…待つ」この様に思う次第です…。
                                 再合掌

257志恩:2012/03/18(日) 06:38:50 ID:.QY5jUA6
SAKURAさま

貴女は、「社会事業団」「ときみつる会」「学ぶ会」.元理事、元職員の
かたちの事に、この生長の家の信徒が激減したことの責任を、コメントを
書く毎に、罪をなすりつけようと、必死で,書いてますが、

非常に無理があります。宗教組織の実体を知らな過ぎます。
この方達は、組織を「指揮」していた方達では、ありません。
総裁にためを思い、進言して、辞めざるをえなくなったり、総裁の
ためを思って、忠告したら、逆鱗にふれて、信徒の浄財、5億円も
使って、裁判にかけて、追い込まれたり、

そのように、総裁の横暴の鋭い牙に、やられた
お気の毒な方達です。

宗教組織の指揮者は、総裁、ただお一人です。

現総裁は、副総裁のときから加えると、20年間にわたり、生長の家の全
組織のトップの座におり、全組織をお一人で、采配してこられたお方です。

この20年間、どのようにでも、立ち直らせることが。できたはずです
それが、衰退の一途、特に、青年会の参加者が非常に、少ないということは、
やはり、現トップの責任以外のなにものでも、ありません。

258志恩:2012/03/18(日) 07:07:33 ID:.QY5jUA6
SAKURAさま
ここは、聖典引用板です。ですので、上記のような、やりとりは、別の板で、しませんか。

259SAKURA:2012/03/18(日) 07:37:45 ID:thWaIlUo
トキ様 へ
皆様 へ
おはようございます…。

今日も…又!毎日が私自身【真理】の勉強です…。
益々と〜〜“心”が躍ってくるような心境に「生命哲学…」勉強させて頂きます。

■ 【幸福を招く365章】

―――❖非観的な気分になったときは❖―――
時として何の理由もないのに憂鬱な陰気な否定的な気分が
自分の心のうちに湧き起こって来て、
世界が暗澹として何の希望も生き甲斐も感じられなく思われる事があります。
これは、どこかから宇宙に漂う悲観的な精神波動が放送されているのを
貴女がヒョッコリ受信したのであって、
あなたの本物(実相のあなた)が悲観的になったのではありません。
この真理を知ることが、その暗い感じから脱却する第一の門であります。
貴女が此の真理を知り、「今自分にかかってきているのは自分以外の念波であって、
自分は神の子であるから悲観的になったり、憂鬱になったりするものでない。
自分の心は明るいのだ、幸福だ」と一心に念ずることにしますと、
暗い精神波動の波長を外らしてしまうことが出来ます。
                            (谷口雅春著)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ☆

日常的な事でこの様な状態…気分は、誰にでも日常茶飯事に比較的に起き易いです。
例えば「ネットの世界」は、意外と“モノ”が見えない世界ですので、
文章でその人の“価値観”を…それがうまく表現出来ない…場合は、
意外と“ハッキリした行動”が、往々にして出ますでしょう!!
ひと昔前なら…通信関係の「電話」は、当時は顔が見えないので、言いにくい事を…
“ハッキリと言います時”は、「電話」は便利な手段でしたが……><

時代が変わり、今は「電話」でに代わって「パソコン…」が主流となり、
「パソコン・ユ−ザ−間同士」の不協和音は、それはすご〜〜い“念波”でしょうか?
“念波”は、すご〜〜いのではと思います…。
相手が見えないので、かえって“好き放題な文章”で打ち込む事も…しばしば?
その後の問題は?エスカレ−トな関係になり、闘争状態になって……

少し前までは、高校生が自殺に向かう様な【言葉の使用】…更に【言葉遊び】で…
【自殺者】が増えたこともありますよ〜〜〜ネ!!

【パソコンの怖さ】は、自分の考えが“同調”出来ない時に起きる“言葉”の使用で、
嫌な波動が簡単に起きます…。
この様な時、私は、先ず!今の私にとって必要な事なのでしょうかと?
「神…」に向かい聞きます…。それでも、嫌な念派・波動が起きましたら、
更に!その日の仕事に影響します時は、「今日の言葉」を思念しますと…いい方向に!

■【今自分にかかってきているのは自分以外の念波であって、
自分は神の子であるから、悲観的になったり、憂鬱になったりするものでない。
自分の心はあかるいのだ、幸福だ〜〜!】

……と、念じますと、その人の嫌な波動は、反らす事が、出来そうに思えます…。

今日から【想念】
更に!見えない世界も“スム−ズ”に行けるようになりそうですネ!
早々“実行”してみましょう〜〜〜!!!進行形… “ step・me・up!! ” 
さぁ〜〜今日も元気に“スタ−ト”です。
そして、皆様にとりまして“最高の一日”であります事を、お祈り申し上げます…。  
 再合掌

PS:トキ様へ>
    本日の言葉の解釈どの様に捉えられましたでしょうか?
    ”アドバイス“頂きますと、幸いに存じますが…??


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