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聖典引用 板
1574
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:20:55 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (6)
-----------------------
○
「明けましておめでとうございます。『生.長の家』毎月ありがたく拝見いたしております。そしてぜひお礼の手紙を差し上げたい、また差し上げねばならぬと思いながらも、ついつい今日までごぶさたいたしましてなんとも申し訳ございません。
わたしは無線電信の技術者ですが、以前から宗教問題については相当心を留めていましたが、なかなか合掌するようにはなれませんでした。一、二年前から少し信仰しうるようになってまいりました。またわたしは心霊問題等にも興味を持ち知人の紹介にて浅野氏の心霊実験会も実見いたしました。それで『心霊と人生』によりはじめて先生の『生長の家』を知り、さっそく読者になったのでございます。
わたしは生来頑健な身体でもありませんが、内科的疾患のため医者の診療を受けたこともありませんでした。ところが一昨年春ごろより肺を冒され、その後治癒もはかどらず閉口しておりました。昨春ごろは毎日体温計持参にて体温曲線を作っては心配し、常に医師の診療を求めあるいは栄養物だ、やれX光線療法だなどといって高い金を払って苦しんでいました。ちょうどこの時『生長の家』人となり救われました。
前記のような心配はみずから病の雰囲気を作り、その中に籠居するものであることを知り、医師も薬も捨てましたが、その後しだいに健康も回復してまいりまして最近はきわめて元気にて働いています。わたしはこう考えています。いかなる修行もまた健康の回復も階一階と進むので、もし修行を怠たれば還元するであろうと。無限の未来を持つこの身、今後も『生長の家』人として不断に進む考えでございます。」(昭和六年一月七日付、原文保存)
○
この種の感謝状はずいぶんたくさんくるのですが、こんな感謝状を受けるごとに自分は『生長の家』を執筆し「生長の家の生き方」を宣伝し始めて本当に好かったと、みずから顧みて涙がこぼれるほどの嬉しい思いに打たれるのであります。悲嘆に暮れる肺病患者が健康を回復し無限の未来を想望して喜べるということはただ事ではないのであります。
生長の家は「真理」を語る。そして「真理」があなたを癒すのであって、あなたはただ、「真理」を知ればよいのであります。どうぞ皆さん、この医薬も光線療法もはかばかしく効を奏しなかった肺病が『生長の家』を読むだけで、誰に治療を受けるわけでもないのに、このように癒された「生きた事実」を、もう一度深くお考えになっていただきたいのであります。
精神療法家がある短時間思念をこらして「平和の思念」を波及するだけでも、ハブ蛇毒が中毒作用を失い、いろいろの難病が癒されるという確実な証明がある以上、自分自身が心の内に平和を常にたもっていて病気が癒されないという理由はないではありませんか。
他人に精神療法を受けるのは、他の心霊または他人の思念が波及して来るだけですから、間接的であり、それだけまた、その効果も稀薄なわけであります。その上、精神療法において術者の治療を受ける時間は短時間でありますから、自分で真理を悟って、長時間否常に、恐怖心なく心を平和に保つことができれば、それは他人から精神療法を受けるように間接的な緩慢なものではなく、直接的に強烈に、自分の病気を治してしまうのであります。
<つづく>
1575
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:21:29 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (7)
-----------------------
だから、「生長の家」では「あなたは無限の治す力を内にもっているのだから、あなたの病はあなたで治せ」と常にいっているのでありまして、坊間(ぼうかん)の心霊治療家のように「私が術を施してあげるから、宅へ来なさい」といって金をとるなどということはしないのであります。
それは実に知恵の道であるとともに「菩薩(ぼさつ)の道」なのであります。この「菩薩の道」をひろめてくださる方は、またその一人びとりが菩薩なのであります。誰でも「無限の治す力」を自分自身の内にもっている。自覚さえすれば、どれだけでもその治す力が出て来てすぐ治ってしまう。それを自覚しないのが、すなわち病人であります。
ちょうどそれは催眠術をかけられた人が、小さな礫(こいし)を与えられて、「これは非常に重いからとてもお前には持ちきれない」と暗示されたら、その小石が大きな巖のような重さに感じられて持ちきれなくなったと同じで、そういう人は家庭医学書だの病理学書だの、売薬の広告などという催眠術家に催眠術をかけてもらって、「とても病気というものは恐ろしいものだぞ。なかなかおまえ自身の力では持ちきれるものではない。それは解剖してみてもわかるとおり物質的な病的変化を起こしている。こんな形のある物質的変化はおまえ自身の生命力や糟神力などという無形の力で治るものではない。医者にかかれ、物質的薬剤をのめ、光線療法をせよ、滋養物をとれ」などと、八方から暗示してもらって、人間自体の内に宿っている無限の「生命力」「治癒力」「精神力」を、なんでもない病気や、薬などよりも弱いものであると信ぜしめられているのであります。
だからわれわれは無限に治す力をもっていながら、小さな病気一つが治らない。それは小石の目方に比べれば無限大ほどの腕力をもっている人間でも、暗示の力でその小石を持ち上げえないと同じであります。
この「なんじは弱いぞ」という暗示の力を、善き言葉の力によって消滅させてしまい、人間自身の本体が「完全な、無限の生命力」であるという真理を自覚さすようにしますと、もともと外から与えられたのでもなく自分のうちに宿っていた無限の生命力が働き出して来て、「なんだ、いままで持ちあがらないと思ったのは、こんな小石であったのか!」と自分自身の病気をなんの雑作もなしに小石のように捨て去ることができるのであります。
薬の効力は客観的に確証できぬ(p.18)
医家のうちにはいろいろの薬剤につきその一々の効力を力説する人もありますが、薬剤の効果は決して客観的に確証をあげえないのであります。
第一、試験管の中で薬剤がどんな化学的作用を起こそうとも、それは生物の生きた内臓や血管の中へはいれば、生命体は服用した薬剤に抵抗するいろいろの抵抗素を分泌して来るので、その抵抗素と合して試験管内で起こるのとは、ぜんぜんちがう作用を起こすのであります。
そのため医家は動物試験によって、薬剤が生体(いきもの)に及ぼす作用をうかがい知ろうとするのでありますが、モルモットや兎は決して人間と同一の生体ではないのであります。そこに動物試験の根本的誤謬があります。
むろんたびたび動物試験をやってみた結果、ある新薬の注射がある人間の病気に効果があるだろうと信じ、医者がかく信じて人間に注射してみた結果、その新薬が効果をあらわす場合があったにしましても、それはその薬という物質そのものの力のみだとは決めてしまうわけにはゆかないのであります。
ここには医者の信念および新薬注射に対する患者自身の信念の作用が加わっていることをみのがすことはできないのであります。
術者の思念力で、ハブ蛇毒の中毒作用が解消したり、モルヒネ中毒思者に蒸溜水を注射してもモルヒネ注射と同一効力があったりするからとて「蒸溜水はモルヒネと同一効果を常にあらわす」とも[ハブ蛇毒は常に毒性を呈せず」とも結論するわけにゆかないと同じであります。
薬剤が人間に及ぼす効果は、決して「常に何々の効果をあらわす」とはいいえないのであります。それは人間の信念の力(心の力)が多分に加わるからで、どこからどこまでが薬そのものの力とはいいえないのであります。
じっさい薬剤は心の力でハブ蛇毒できえもその毒性が消えたり、蒸溜水でさえも催眠効果をあらわしたりするのであります。
次には無毒の薬が毒性を表わした実例をあげましょう。
<つづく>
1576
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:22:05 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (8)
-----------------------
無毒物が精禎力で毒曲をあらわす(p.19)
それはフランス科学界の耆宿(きしゅく)大天文学者にして同時に心霊学者として有名なフラマリオン博士の大著『未知の世界』のうちにあるものです。
「ある年若い婦人が、除虫粉を服用して自殺をはかりました。そして床につくとそのまま絶命してしまったのでした。死因をたしかめるために死体が解剖されましたが、胃袋に見出された除虫粉を分析してみましても、いっこう人体には無害な物質であることが発見されたのであります。この婦人は、自分は毒薬をのんだという信念によって、そのとおりになって死んだのであります。
また薬でなくとも他の物質でもそれが触れれば死ぬと信じますとその信念で人間は死ぬものです。このフラマリオン博士の友人の父で内臓外科を担任している医師が、ある日胆石症患者の手術を行なうことになりましたが、切開すべき場所の皮膚をアルコールで冷え冷えと拭きますと、まだメスをあてないうちに、患者はアルコールの冷たさでメスが当たったと誤信し、その恐怖の念のために絶息してしまったのであります。」
また同博士の著書のなかには次のような実例もあげられています。
「ある時死刑囚を実験につかいました。まず其の男に目隠しをしまして身体を厳重に椅子に縛りつけ、さて『これからなんじの頸部から一滴ずつ血液をしたたらしてじょじょになんじの全身の血を搾り取ってしまうぞ』と宣告しました。こういう宣告をして恐怖の暗示を与えた後、実験者は囚人の頸部に針のさきをもって微細な傷をつけ、あたかも局所から血がしたたっているかのように、彼の頸部に水を伝わらせて、床の上に一滴ずつ音を立てて落ちるような仕掛けをしておいたのであります。六分間ほど経過して『サアおまえは全身の血液の三分の二を失ってしまった』と暗示しますと、死刑囚はそれを信じて恐怖のあまり絶命してしまったのであります。」
(フラマリオン著『未知の世界』)
また次のような事実は英国のある大学に起こった事件であります。
「その大学の門衛は非常に学生たちから憎まれていたのであります。ある日、いたずら盛りの若い学生連が彼をとらえて一室に監禁し、模擬裁判だといって、学生たちは彼を被告にし、かわるがわる立って彼の罪状を指摘し、ついに彼に死刑の宣告をくだしました。そして彼らは室の中央に材木を並べ、ピカピカ研ぎすました斧(おの)を持ち出し、彼に三分間の猶予を与えて彼に懺悔をさせ、天国へゆく用意をさせました。いよいよ三分間を経過しますと、学生らは恐れおののいている門衛に目隠しをして、むりやりにひざまずかせて材木の上へ頭を乗せさせ、それから一人の学生が背後へ廻って、あたかもその研ぎすました斧を打つかのごとく、冷水の濡手拭(ぬれてぬぐい)でふいに彼の頸部(けいぶ)を打ったものです。その刹那(せつな)門衛はビクリとしたようでした。一同はドッと大笑いをして、『もう許してやるから立て』と命じましたが、もう門衛はグッタリとして身動きもしませんでした。
学生たちはふしぎに思って近よってあらためてみましたが、門衛はもうほんとうに死んでいるのです。彼は頸(くび)を濡手拭で打たれた刹那テッキリ斧で頸を切られて自分は死ぬであろうと信じてしまったものだから、その信念によって死んでしまったのであります。」
(フラマリオン博士『未知の世界』)
<つづく>
1577
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:22:51 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (9)
-----------------------
感覚にともなう連想暗示(p.21)
これらの実例はいったいなにをわれわれに語るのでしょうか。それは人間は感覚というものをもっている。この感覚に付随して起こる連想作用によって人間の信念はいちじるしく動揺せしめられ、その信念によって人間は死にもすれば生きもするということであります。
たとえば若い帰人が除虫菊を毒薬とまちがえてのみくだした時の咽喉の感覚、胆石症患者が施術前にアルコールで皮膚を冷え冷えと拭いた時の皮膚面の刺激、死刑囚の頸部にポタポタとあたかも血潮のようにしたたったなまぬるい水の触覚――その流れ落ちる血潮かと思われる滴々の音、門衛が濡手拭で頸をひっ叩かれた時のゾッとする冷たさ、これらの感覚が伝えたのはみんな危険でもなんでもないつまらない出来事だったのですけれども、その感覚を起こす前に、言葉なり行為なりでいずれもはなはだ大げさな準備的暗示がしてあるのであります。
すべてひとつの感覚は、その感覚の意義を大げさに吹聴して、お前の咽喉にこんな感覚が起こったときにはお前はこんな病気になるとか、こんな感覚が皮膚に起こったときにはお前は斬られてもう死んでいるのだとか、あらかじめいいふらしておいて、その感覚を一定部位に起こすようにしますと、きっと予告しておいたとおりに病気になったり、死んだりするのであります。
一定部位に与える感覚というものは、われわれの精神を多少ともその刹那、一箇所または一つの事柄に集中せしめるのであります。つまり一定場所に限られた感覚に誘導されて精神が一時的に統一してくるのであります。
その精神統一の刹那に、あらかじめ予備的に与えられていたところの「この感じが皮膚に起こったらお前はこうなるぞ!」というような暗示が効果をあらわして、そのとおりの死または症状が肉体に顕われてくるのであります。
一定の形のない病気に形を与える医者(p.23)
ふつうの医者は患者を診察し、脈搏を検し、聴診器で患者の内臓の状態をさぐろうといたします。その病気が深く進行していないかぎり、その病気は一定の形を備えていないのでありまして、何病だか医者自身にもわからないような漠然とした兆候があるのであります。
これに医者が診断して一定の名称をつけますと、たいてい間もなく容体がハッキリした形をとって、そのつけられた名称の病気に断然なって来るのであります。これはいわば言葉の力であります。
天地が渾沌としてまだ形がないときに、神が「光あれ」といい給うたら光ができたというのと同じで、兆候が漠然としてまだ一定の形がない時、医者が「何病」だと宣言すると、その言葉が種子となって、二、三日もすると、いままで漠然としてハッキリしなかった病状がその指名されたとおりの形にかたまって来るのであります。
だから病名を軽率にいう医者というものは多くの場合、病気の名付け親であると同時に、病気の生みの親であります。病気の生みの親の好きな人は、常に医者と仲好しにしていればよいわけであります。
<つづく>
1578
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:23:26 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (10)
-----------------------
風邪を引かぬ法(p.24)
皮膚の一定部位にある刺激を与えながら「お前はこのために死ぬ」と思わせられればその人が死ぬという道理がわかれば、皮膚の一定部位にある刺激を受けた場合「これは風邪をひく」と思ったならば風邪を引くのは当然のことであります。
くしゃみをして風邪を引くと思えば、鼻粘膜の一定部位を異常感覚でくすぐられて瞬間的に精神が統一しているさいですから、その刹那に思うことは必ず成就するわけで、その刹那に「風邪を引く」と思うならばその念(おも)いが成就して風邪を引くのは当然のことであります。
だからこれとは反対にくしゃみをする瞬間に「風邪が出た」と思ったら「風邪を引く」わけのものではありません。
昭和六年世界感冒の流行のさい、わたしは当時会社に勤務していましたが、わたしの会社の友人は『生長の家』の読者である某氏のほか、みんな数日はそれにかかって休まれたのでありますが、わたしは感冒にかからず、一日も会社を欠動しなかったのであります。
病気の自壊作用(p.24)
たいてい、肺結核の方が『生長の家』を繰り返してお読みになり、真理に目覚め、自分の生命の実相を知り、自分の生命が神(大生命)につながる生命で常に大生命の無限生命を供給されているものである、という自覚が深まって来ますと、体温が平温または平温近くなって、しだいに無熱状態になってくるのであります。そのくせ、一時的に咳(せき)や痰(たん)の方は前よりもいくぶんはげしくなってくる例が多いのであります。
これは、エディ夫人がケミカライゼーション(chemicalization)すなわち「心機一転の化学的反応」と名づけたところのものでありまして、心が光明に照らされてくると、今まで「迷い」のやみが「肉体という影」に映し出していたところの病的状態の自壊を促すので病気そのものが自壊する必要上、黴菌(ばいきん)や分泌物を排除すべき痰や咳がいくぶん増加してくるのであって、いっこう恐るべきことではなく、むしろ歓迎すべきことなのであります。
このさい起こる咽喉(のど)の感覚的刺激にて刹那的の精神集中状態になったとき、「これで悪いものが排出されてかえって健康は良くなる」という事実に目覚めるならば、自己暗示として働いて、まず病気を根本的に消滅さし、遠からず痰や咳の分量度数も減じて、本当の全快を来たすのであります。
ところがどうもまだ真理を本当に解っていない人になると、せっかく病気の自壊作用として起こった痰咳の増加を病気の増悪した兆候だと信じて、その自分の誤った信念によって、せっかく治りかけていた病気を逆戻りさせるのであります。
こういう病気の人は咳が頻発して咳入って苦しいときはとても堪らないではありましょうが、その時に「これは悪くなった」と自分で思うものだから、頸部を濡手拭で引っぱたかれて自分の信念で絶命した門衛のように、自分の信念で病気を悪くするのであります。
こういう咳入って苦しい時にこそ咳という感覚的刺激でその方に心が集注して雑念が少なくなっているのですから、これで「病根は一掃されつつある」と信ずればその連想暗示はてきめんにきくのであります。
そんなことをいっても咳が激しく出て苦しいさいに「病気が快くなりつつある」などとはどうして思えよう、といわれるかもしれません。しかし、実際、それで快くなりつつあるのだったら、「快くなりつつある」と思うよりほかにしかたがないじゃありませんか。
先日私の知っている奥さんがある病気を手術してその後敗血症を起こして死なれたのでありますが、手術の傷面を調べてみると、少しもジメジメとした分泌物がなく肉を盛って来ないままで傷面は薄い紫色の皮膚ができて乾いていたそうであります。
専門の外科医の話によりますと、肉を盛らないうちに傷面が乾いて、少しも分泌物がなくなると敗血症の徴候で危険なのだそうであります。
敗血症というと、外へ徽菌が排出されないで血液の中へ黴菌が這入(はい)って血液そのものが腐敗するのだと医者は説明するのであります。
ともかくも、傷口は全然そこが治り切るまではジメジメとして分泌物を出してそれとともに毒素や徽菌を外へ逐(お)い出すようでないと治りつつあるとは見られないのでありますから、その人がもし肺病なら治りかけの時には痰や咳が多くなってこそ本当に治りつつあるのであります。
<つづく>
1579
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:24:01 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (11)
-----------------------
喀血は自浄作用(p.27)
一度でも喀血(かっけつ)したことのある人は、こんなに咳(せき)が出てはその震動でまた喀血しやしないかと心配したがるものですが、人体の組織はそんなに脆弱(ぜいじゃく)にできているものではありません。
医者に聞けば、喀血のある肺病は悪性ではなく治りやすいのだといいます。それは当然のことであります。
喀血は喀痰(かくたん)と同じく一種の自浄作用と認めるべきもので、それがあるのは、病気の自浄作用として黴菌と悪血とを外に流しだす作用の顕著な証拠で、その人の生命力がまだ麻痺(まひ)していない、すなわち自然療能が目覚めている証拠なのであります。
だから皆さんのうちに、もし呼吸器病の方があれば、喀血歓迎、痰咳歓迎、すべてこれらは自然療能の力で起こるのであるから恐るべきことはちっともないと考えるべきであります。
この歓迎すべき喀血や痰咳をば思い誤って、「そのために死ぬだろう」と信じる。そしてわれとわが信念で病気が悪くなって死んでしまうのは、頸部を濡手拭で叩かれて死刑だと思い誤って死んだ彼(か)の門番と同様な愚かさであります。
自然の瀉血(しゃけつ)療法(p.27)
ただ大きな喀血がありますと、血液消失のために死にはしないかと恐怖する人がありましょうけれども、自然の生きる力は実に不思議な力をもっていて、その人間が死ぬほどの分量は決して出血するものではないのであります。
昔から瀉血(しゃけつ)療法といって蛭(ひる)に血を吸わせたり、血管を傷つけたりして血を多量に放出して血液を浄め、かえって新鮮な血液を作らしめて病気を治す方法がありますが、喀血は弾丸で打たれたとか、刀で斬られたとかいうのではありませんので自然の生きる力が自己調節によってこの瀉血療法をやってくれているのですから、必要な時がくれば自然に停まるので決して恐れる必要はないのであります。
小酒井不木(こざかい・ふぼく)博士も「血は出るだけ出て止まる時期が来れば自然に止まるものである。じっさい止血剤を用いなくとも、出るだけ出てしまうと、ぴったりと止まるものであって、いろいろともがくだけ損なわけである」と断言しておられるのであります。
「だけどもあなたはそんな事をいって気休めをいうけれども、どこの何某も誰某も、皆多量に喀血して血液が減って死んでしまったではないか」と反対論を唱えられる方があるかもしれません。
しかし喀血して死んだ人は、百人が百人ながら、決して喀血そのもののために死んだのではありません。喀血したから自分は死ぬであろうという強い信念で気死するか、喀血を恐れて咽喉のところで止めようとして血液が空気に触れて凝結(ぎょうけつ)した結果、窒息(ちっそく)死を招くのであります。
げに、肉体は「信念の影」であって、「死ぬ」という信念さえ強ければ頸部に水滴を一滴一滴流して出血だと思わせても死ぬ実験さえできるのですから、喀血して死ぬ人は、この自分自身の心の動揺を「肉体なる影」に映して死を招くのですから、心さえ安静にして、喀血が来たら「自然の瀉血療法」をしていただくのである、これはありがたいことだと思い、感謝して心を平和にしておれば、必要なだけの自浄作用が終ると、ピタリと血は止まってしまうのであります。
<つづく>
1580
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:24:50 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (12)
-----------------------
生命の本質は無限に生きる力(p.29)
人間の本体は、調節力の無限に自由自在な生命であることを根本的に自覚しなければなりません。
人間を物質でできた機械であると思う人だけが喀血を恐怖するのであります。
肺臓は身体の内部にあってその血管がやぶれたら縫うこともできないから、血をとめるのにさぞや困難を感じるであろうと心に勝手な信念をもっているから、その「信念の影」なるところの肉体に自身の心の信念のとおりのことが起こってきて、瀉血の必要がすんでも血が止まらなかったりするのであります。
これもわれわれに与えられた心の力がいかに肉体を左右するかの証拠にはなるのでありまして、人間の肉体が決して心を離れた物質ではないことを示しているのであります。
元来、われわれの「生命」(生きる力)は神から受けたものであります。そして、われわれの「生命」は常に神とつながっているのでありまして、その神なるものは無限の生命力であると同時に、無限の知恵であり、また同時に無限の愛でありますから、常にわれわれを愛してわれわれよりも賢き知恵をもって、必要に応じて善きようにお計らいがあるのであります。
これを信じうれば、その信念に従って肉体の生理作用も善きように調節されるのは心の力であります。
それにもかかわらず、人間は小賢しき小さき知恵で、喀血が多すぎるから危険であるとか、喀痰が多すぎるから、病気ではあるまいかなどと、存在もしない病気――ただ、自身の「信念の影」でしかない病気――を想像してわれとわが念(こころ)に描き出すがために、その想念の映像(かげ)として「念(こころ)の影」なるわが肉体にその病気が客観化されてあらわれて来るのであります。
すなわちここにも念の力の実証があるわけであります。
「生命」の本質が「心」であることを知らない人は一度喀血しますと、身体を動揺すればまたその血管が破れて大いに出血する恐れがあるように想像して恐れるのですが、心さえ動揺させねば「念(こころ)の影」である肉体の血管が不必要に破れるということはありません。
後ほど外傷から移行した肺病の患者さえ、翻然さとったその日から血がとまった例をあげますが、小酒井医学博士のあげていられる例によりますと、田舎の人などはいわゆる「医学」を知らないから、患者が喀血でもすると、背中をたたいて血を止まらせようとします。それがまた実際大いに効を奏して血がとまるそうであります。
ふつう、医学の方からいいますと喀血は血管が破れているのであるから、その血管が癒着するまでは絶対安静を必要とするのは物理上当然のことであります。それに、絶対安静どころか、かえって背中を叩いて大いに肉体を動揺きせても血がとまるというゆえんは「背中をたたけば血が止まる」という信念が強く肉体に作用する結果でありまして、肉体というものは決して物理的法則に支配されるものではなく、心の法則にこそ支配されるものであること
<つづく>
1581
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:25:24 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (13)
-----------------------
がこれでもわかるのであります。
このように信念を変えれば、肉体が変わる、信念で「善い」と信ずれば、物理的には害のあるような行為もかえって健康によい結果になるのであります。
それではわれわれは、「こうしたらば健康に悪い」とか「よい」とかいう判断を物理的にはしないようにし、心の力によって、いっさいを「健康に善い」と信じ、信念の力によって実際そうならせようではありませんか。
なんの術を施してもらうのでもなし、ただ『生命の實相』や『生長の家』誌を読むだけで肉体の健康状態が一変し不治の病も全快する実証が続々あらわれるゆえんも、真理を書いた本を読めば皆さまの信念が変わるからであります。
おそらく本書のこの一節を一度お読みになっただけでも皆さんの信念は大いに変わられたであろうと思います。
病気の読者はできるならば本書を三度でも五度でも、信念が心の底から大いに変化してくるまで繰り返しお読みになれば、今までの「病的信念の影」であるところの肉体の病的状態は一変して健康状態に化するのであります。
神の子たる人間に病気はない(p.32)
本当のことを申しますと、この本が病気を治すのではありません。神の子たる人間に病気は本来無いのであるから、治すも治さぬもない、本来治っているのであります。
それにあなたが病気だというならば、それはあなたの「信念」にまちがったところがある、そのまちがった「信念」がちょうど活動写真のように影を映して、肉体に病的状態をあらわしているのであります。
皆さんが仮に喀血や胃出血を起こしたならば、物質的に肉体という物質が損じて、その血の流れているパイプに物質的の孔が明いた、どうも手のとどかないところに明いた孔だからふさぎようがなくて困るなどとお考えになる一方に、どうも痰や咳や盗汗(ねあせ)が出て肉体が苦しいとか、胃が痛んで苦しいとかお考えになるのであります。
ところがこの考えには非常な矛盾があるのであります――まずあなたは「肉体は物質であって、その物質に孔があいた」と考えていられますが、肉体が物質であれば、それが単に物質であるというその理由だけで、もう肉体は苦痛を感ずるはずはないじゃありませんか。
物質は苦痛を感ずる性能がない。それだのに肉体が苦しいと感じられる。これこそ肉体が吻質でなくて「念(こころ)の影」(観念的存在)である証拠であります。
念(こころ)が苦しいと感じていられればこそ、その念(こころ)のあらわれなる肉体が苦しいと感じるのです。苦しみは念(こころ)にあって物質にあるわけはないのであります。
こうして肉体が「念(こころ)の影」(観念的存在)だということがわかれば、喀血しても何もあわてることはないのであります。
「心」が映画技師で、喀血と題する映画を、肉体というスクリーンに映し出しているのですから、それを適当の時に止血させるのには、やはり「心」という映画技師を雇って来るほかはないのであります。
実際喀血とかなんとか、大いに身体に変調のある時にこそ「心」を落ちつかせて人間の本体が無限に完全な調節能力をもった「生命」(生きる力)であるという事実を「心」に描くべき時なのであります。こうすれば喀血でも、その他の変調でも、適当に調節されて来るのです。といって、一所懸命心をおちつけ精神を統一しようとして焦ったり力んだりする必要はないのであります。
われわれの生命というものは焦ったり力んだりしなければ、調節が完全にできないようなそんな不完全なものではない。われわれの生命は「神の子」であるからそんなに不調和にはできていない。ただこの真理がわれわれの心の底に「信念」になってさえおれば、その「信念の影」として肉体が調和した完全な調節したものとならねばならぬはずであります。
<つづく>
1582
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:26:04 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (14)
-----------------------
われわれが焦(あせ)ったり力んだりするのは、まだ自分の「生命」(生きる力)が神の生命の「分け生命(いのち)」であって、神そのもののごとくに完全であるという真理(ほんとのこと)を知らないからであります。
焦ることも力むことも何もいらない、肉体は観念的存在(こころのかげ)でありますから、心が正しき真理を知っておちついていると肉体はなんの感じもない、「影」に感じがないのは当然のことだからであります。
だから肉体はどこに胃があるか、心臓があるか、肺臓があるか、感じがない時に一等健康なのであります。
神想観でも坐禅でも鎮魂でもするとその深い境地に入れば肉体があるかないかわからなくなる、これが本来の面目なのであります。
「生命」は全体として調和した渾一体(ひとつ)でありますから、「生命の実相」を自覚したならば、肉体は渾然とした「一つ」として感じられるのが当然で、「ここに肺臓がある」とか「ここに胃がある」とか「ここに心臓がある」とか個々別々にその存在が感じられる時は、「生命」の渾然とした統一感――「真理の自覚」が心に失われた時で、真理を心に自覚し、自己生命の完全な統一感が得られれば、どこに胃があるとか、心臓があるとかいう「統一自覚の分裂」が消えて、肉体は渾然とした調和した生きもの(生々の実在)として感じられて来るのであります。
肉体は激勧しても心が安静なれば血は止まる(p.34)
喀血が起これば医者もびっくりして病人に絶対安静を命じ、本人はもちろん、たいていは家人全体がびっくりしてしまう。しかしこのびっくりすることが何よりも悪い。
この世の中にびっくりせねばならぬことは何一つ無い。眼に見える症状は「念(こころ)の影」であるから肉体が混乱状態におちいっているならば、心が混.乱しているのが映っているのでありますから、肉体そのものを激動させてさえも、心が安静をうれば出血もとまるのであります。
小酒井博士の話に、患者のうちには喀血が起こると登山して止めるという人があります。
登山すれば肉体が激動するばかりか、呼吸を激しくしなければならぬ、呼吸を激しくすれば直接出血部たる肺臓を激動せしめなければならぬ、その上、山上の空気は稀薄で、気圧の開係上ふつうでも出血を促すのであります。しかも、そのために喀血すなわち肺臓の出血が止まるというのはどういうわけでありましょうか。
それは信念が働くからであります。そういう人は、誰からか、ある機会に「喀血したら山へ登れば血が止まる」と聞いたに相違ないのであります。それを聞いたとき「なるほど」と思った。「喀血したら山へ登れば血が止まる」ということがグッと心の奥底にたたみ込まれて信念になっているのであります。
信念ほど強いものはない。肉体は「心の影」であるから、登山して激動し、その上稀薄の空気に触れれば破れた血管はますます破れるという、「物質界の法則」を無視して出血がピッタリと止まってしまうのであります。
信念は「物質界の法則を破壊する」というのはこれで、強い信念の前には「物質界の法則」は降伏してしまうのであります。
医界で難治症または不治症と認められている病気は、胃でも肺でも決して薬をのんで治るものではありません。
というのは、難治症または不治症と定評ある病気は、医者や薬学者がいろいろ医薬を試みても治らず、また病人自身がいろいろ民間薬を試みても治らず、ついに「この病気は薬では治らない」という信念をほとんど皆が皆までもっているのが、この難治症または不治症であるからであります。
だから「こういう病気は薬では治らない」ということが人類的信念になっているのであります。
一人の人の信念でも強く働けばずいぶん偉大な力をあらわすのですから、ほとんど人類全体がその潜在意識に「この病気は薬では治らない」と信じている以上、その全体の信念は総合的力として宇宙に充ち満ちているので、なかなかその信念を破ることは難かしく、したがってそんな病気に薬を用いても治らないのであります。
<つづく>
1583
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:26:36 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (15)
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難病慢性病に薬が効(き)かぬ理由(p.36)
薬が最もよく効くのは、薬に対する人類の信念と、薬を与える医者の信念と、それをもらう患者の信念とがピッタリと合ってクライマックスに達したときであります。
ところが難治病者は、
(1)自分自身にこの薬をのんだら必ず効くという信念なく、
(2)医者自身この薬で彼を治しうるという自信なく、
(3)人類全体が「薬では治らぬ」と信じているのですから、薬の最も良く効く部分(信念)が去勢されてしまっていて何もない。
否むしろ「薬では治らぬ」という人類的信念の心的波動の影響を受けて、薬を用いれば用いるほど治らぬことになるのであります。
だから現代医学の難治症にかかった人は薬をやめた方が、人類的信念から「治らぬ」という精神波動の放送を受けることが少なく、薬を止めただけでもその病状が快方におもむくのが常であります。
それだのに現代医学の難治症にかかった人が、何かの薬をのんでいなければ不安に思い、経済上にいろいろの苦慮煩悶を重ねつつ、薬に親しんでいるのを見るとわたしは実に悲惨な思いがするのであります。
わたしはこういう人たちを救ってあげたい。なんとかして真理(ほんとうのこと)を知らしてあげたい。そんな病気は薬を止めればかえって病気がよくなるという真理を知らしてあげたい。
病人に薬がなくてもすむということがわかれば、病気のために長らく職業を休んで収入も少なく、経済的にも家計にも常に心配の絶えなかった病人の心にとっては、一つの重荷がなくなるのであります。
病人の心から一つの重荷がなくなれば、それだけでもその病気が軽くなる原因となります。すなわち薬を止めて病が軽くなる理由は次のように三重になるのであります。
(1)人類的信念から「治らぬ」という精神波動の放送を受けることが少なくなり、
(2)病人の心のうちから経済的重荷をなくするのであります。
(3)しかしそれにもましてなおなお大きな利益は、人間が自分の運命を「薬」という物質に頼らせず、ひたすら自分の「生命」(すなわち生きる力)にのみ頼って生きぬこうという決心ができることであります。
生長の家に「背水(はいすい)の陣を布(し)いて生きる」という生き方があります。
この背水の陣を布いて生きる生き方はすべての退路と依頼心とを捨てて、進むほかに道がないようにしていやでも応でもまっしぐらに生きてゆくという生き方であります。
この生き方になりきって薬にも注射にも依頼心を起こさず、ただ、自分が治るには「自分の生命力」に頼るほかはないと本当の決心ができて来ますと、いままで自分の内に隠れていて働かなかった無尽蔵の力が働き出して来て今まで不治だと思った病がたちまちケロリと治ってしまうようなことになるのであります。
不治というのも、実に薬に対して依頼心を起こしていたからこその不治であって、ぜんぜん他物に依頼心を起こさず、ひたすら自己自身の生命力にのみ頼るものは、自己の内に隠れている無限生命の源泉(神)に触れるので、「神はみずから助くるものを助く」という千古の金言を如実に味わわしてもらうことになるのであります。
<つづく>
1584
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:27:09 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (16)
-----------------------
われわれは飢饉にでもあい絶食せねばならぬようになって一、二週間も断食しますと、身体の衰弱がはなはだしく健康に非常に有害でありますが、健康法の一種として一、二週間断食しますと非常に身体の健康状態が改善するのであります。
これはなぜであるかと考えてみますと、飢饉のさいには「食べなければ衰弱する」と思いながらも食物がないからやむをえず絶食しているのでその信念のとおり衰弱するのであります。
が、断食療法のさいには「断食していれば健康になる」と信じて断食をしますからその信念のとおり健康になるのであります。同じ「断食」でもこのとおりで、信念の差異によって健康法ともなれば衰弱法ともなるのであります。
薬をやめるのもそれと同じで真理を知って薬をやめますと、先刻申しましたように三重の利益が伴い、かえって病気が全快するのであります。
が、これとは異って、真理を知らないでぜひとも薬がなければ助からぬように思いながら、経済的理由などでやむをえず薬を止めますと、その人の心は今までただひたすら薬にすがりついていたのが、急にすがりつく対象物がなくなり、失望落胆して病気が急に悪くなる事が世間には時々あるのであります。
これは何も、薬をやめたことが病気を悪くしたのではない、患者自身の心が「薬をやめたら病気が悪くなる」と強く強く信じている――その信念の力によって病気が悪くなったのであります。
だからそんなまちがった信念を放下してしまって自発的に薬をやめるならば、薬をやめたために病が悪くなるという恐れは断じてない。それはわたしが請け合っておく。
わたしが請けあうので頼りなければ医学博士でも請け合ってくれる――すなわち『小酒井不木全集』第五巻四十九ページにも「長い間持続した薬剤を廃するときはかえって健康を増進するのである」と明瞭に断言してあるのであります。
『明るい家』という雑誌の昭和六年一月号にも「医学の正道は?」と題して湯本医院の大塚敬節氏が、昼食後の医院の楽屋ばなしを書いていられるのであります。
これは医者自身の漫談なので実際薬剤というものが、現代医学においていかなる立場にあるかを示していて、薬迷信におちいっている病人に反省を与えるのに有益だと思われますので、次にその一節を抜粋することにします。
○
医学士A「学校を出た当時は勉めて、新しい薬をいろいろと使ってみたものだったが、それがすべてむだであったことがこの頃わかって来た。」
医学士B「それは君が大家に近づきつつあるたのもしき現象だ。結核患者を初期から末期まで重曹一方で押し通すだけの胆力がなければ大家とはいえない、といった博士がある。これも一面の真理だといえよう。」
医学士C「薬剤で病気が治るように思うのはすでに迷信だ。しかし迷信を必要とする哀れな民衆が存在するかぎりは薬剤はやはり必要だ。マルキシストがいくら宗教はアヘンなりといって宗教撲滅のために努力しようとも、アヘンを欲求する民衆がこの地上に溢れている現代においては、宗教はそうたやすく滅びはしない。」
医学士D「それらの言葉は西洋医学へのおそろしき爆弾であるかもしれない。西洋医学は民衆のアヘンなり、と僕は叫ぶことができる……屍体(したい)から得た解剖学の知識を生活体に応用するところに西洋医学の根本的の誤謬(ごびゅう)がある。屍体と生活体とが等しきものなりとの証明ができうる日まで西洋医学もまた想像の医学にすぎぬ。」
○
<つづく>
1585
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:27:43 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (17)
-----------------------
皆さんはこの医者の楽屋ばなしを読んでどんな気がなさいますか。
実際、庸医(やぶい)は薬を売るために薬の効果を喋々(ちょうちょう)しますが、名医は薬に付属さして与える「治る」という信念を売るために薬の効果を喋々するのであります。
薬のくだらないことを百も知りながらも、名医は患者自身が「治して欲しい」と思うよりも「薬を欲しい」と思っているものだから薬を与えるのであります。
診察する時の医者の態度、薬を与えるさいの医者の態度、これによって喚起された「治る」という信念を薬に付着させて思者にやる、ここが治病の極意であります。
聖医になってくると薬を与えないで、病的観念を他に転換してしまうだけで病気を治すのであります。
病気は本来無い。神の造り給わないところの病気はぜんぜん無い。
病気とは心に描いた仮想的存在でありますから、その仮想的存在の仮面をはがしてしまって、「それごらんなさい。お前は念(こころ)で描いた仮面を被(かぶ)って、そらあるぞ! と威(おど)しつけているけれども、その『病気の念』という『仮面』を取り去ってみると中味は空っぽで、その実存在しないじゃないか、」といわれてみると、病気の夢を見ていた人が目を覚まされた時のように、今まであると思っていた病気が、どうしてこんなに治ったのだろうと不思議がるような事実もできてくるのであります。
『生長の家』の読者でまだ若いがなかなか精神的に悟りを開いている人があります。
この人が今まで乗っていた船を下りて「土を耕す人」になるべく故郷へ帰る途中で、私の説くところに大いに共鳴したので一ぺんわたしに会いたいといって立ち寄られた。
わたしはあいにく不在だったのでお目にかかれなかったが、家内が私の代りに会って話したのであります。
この人の話を一言もまちがえないで取り次ぐことはできないのでありますが、かいつまんで話すと、この人は外傷性肋膜炎がもとになって肺病にかかり、たびたび多量の喀血をせられたのであります、その時分、この人はずいぶん悲観し煩悶していられたものらしい。
ある日小酒井不木博士に自分の病気の事について相談すべく博士邸を訪れられた。ところが小酒井不木博士はこの人の顔を見ると
「君は煩悶してるな。そんな事でどうする!」
と一喝を浴びせかけた。この人はハッと思った。
「なるほど自分は煩悶している。煩悶しているからこそ、自分自身に宿っている全能の治癒力が働かない。それに違いないと悟った、いかに思い煩うともわが生命を寸陰をも延ばすことはできないではないか、煩悶を捨てよう。」
カラリと秋晴れの空のように、実にきれいさっぱりとこの人は煩悶を捨てられたのであります。
すると昨日まで続いていた喀血がその日から止まってしまったのであります。
わたしは病気は仮想的存在でたとえば白昼に悪夢を見ているようなものだと申しますと、どうも君のいうことはわからない、じっさい解剖してみても物質的病的変化のある病気を、病気は無いだの夢だのといわれて、あまりに高遠すぎて解らない、も少し解るように説明して欲しいといわれる方もあります。
けれども実相を見る目から見て病気は無いのだから、無いと説明するより説明のしかたがない。そして「神想観」によってしだいに実相を見る力を養うよりしかたがないのであります。
<つづく>
1586
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:28:22 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (18)
-----------------------
じっさい「無いもの」を夢に見てその心の状態を肉体に映し出しているのが病気ですから、小酒井博士のように一喝をくらわしたのが動機になってその夢がさめると、忽焉(こつえん)として、喀血の夢も、外傷性肋膜炎の夢も消えてしまう。ここが大切なサトリでありまして、われわれの肉体は、心の影でありますから
「なるほど自分の生命というものは無限に完全なる神の子だ、その生きる力は無限だ。今まで自分の力は有限なものだと思っていたので、外の力――薬や注射や光線療法などに頼っていたけれども、そんな外からの力は、自分の内に宿っている無限の生きる力に比べれば実に太陽の前の星ほどの力もない」
ということがハッキリ判り、他の療法や薬にいっさい頼らなくなって、「内から出て来る生命の無限の生きる力」に打ちまかせて生きるようになると、「解剖的に実際在るではないか」と反対論者の示されるような外傷的肋膜炎でも、喀血でも消滅してしまうのであります。
これも空論ではなんにもならない。実際だから力強い。
こうなると解剖学的に実際存在するという病気も、ちょっとした心のサトリで消えてしまうのだから、実在だかどうだか、すこぶるたよりないものだといわねばなりますまい。
直接体験に立脚した自分の生きる力に任せきれ(p.44)
それだのに病人に限って病気を崇拝している。
そういう人は目に見えない神を信仰する人を指して迷信扱いしがちでありますが、じっさいちょっとしたサトリで消えてしまうようなはかない存在力しかない病気をあたかも無限の力をもっている神のように崇拝し、その前にひざまずき、薬代だの、注射料だの診察費だのと、やたらに多額のお賽銭を捧げている人こそ迷信家ではありませんか。
「生長の家」はこういう病気迷信を撲滅し、真の正しい信仰――自分が生きているという否定しえざる直接体験に立脚し、この自分を生かしている無限の生命力を礼し、敬し、この無限の生命力にまかせきって生きる道を指導するので、それは実に生命の直接体験に立脚しているのであって、頼りない感覚や、その感覚の眼鏡を通して見たらこう見えたというような不確かなものを根拠としているのではありませんから、決して迷信的分子はないのであります。
さっきの湯本医院の楽屋ばなしにありますように、薬剤で病気が治ると思うのが迷信なのであります。
病気を治すのは自分に宿る生命力(神)のみであります。
皆さんのうちには『生長の家』も読み、薬も服(の)み、そのほか、いろいろの治療法も手当たりしだいにやってみてそのどれかが効くであろうと、八方美人式に数多くの治療法に秋波(いろめ)を使っている人があるかもしれませんが、この八方美人主義は他のことにはよい場合があるかもしれませんが、「生命」のことに関してだけは断然いけないのであります。
「生命力」そのものを信じ、礼(らい)し、まかせきるのと、「生命力」以外の力を信じ、礼し、その力にも半分を委ねようとするのとは、決して両立しないのであります。
自分に宿る「生命力」以外のものを信ずる、あるいは、ちょっとでもこの「生命力」以外のものから助けを得ようとするのは、自分の「生命力」に全信頼を捧げないことを意味する。これでは「真理」を知ったということができない。「生命の実相」を悟ったということができない。
宇宙を支配する摂理の手は十方にあまねく自在であり、生命は無限の生きる力をもつのに、何か自分のわたくしのはからいで思い煩い補助しなければならぬであろうと思って、これを行ないに現わすところに「迷い」がある。
この「迷い」は必然肉体に反映して虚弱な身体となるのであります。
<つづく>
1587
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:28:54 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (19)
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他物に頼らざる者はついに勝つ(p.45)
われわれは誰でも自分自身の内に「無限の生きる力」を潜在せしめているのでありますから、この力を完全に発現させればどれだけでも健康になるのであります。
では、これを発現さすにはどうしたらよいかと申しますと、「他物に頼るな」ということであります。純粋にただひとすじ、自分の生命力――自己生命を生かしている無限の力にのみ頼れということであります。
いつかの「智慧の言葉」にも「自分自身の力で立て。他物に頼るな」と書いてあったとおりであります。
そのよい例がわれわれの両足であります。両足のうち片足でも轢(ひ)きちぎられたら、われわれは片足の代りに義足というものを工夫して、この義足に頼るか、松葉杖というものを工夫して、この松葉杖に頼るかするのが、普通であります。そしてたいていの人間は、義足や松葉杖を工夫する発明力も神が与え給うたものであるから、結局、松葉杖や義足を工夫してこれを使うのは人間の特権であるというふうに考えるのであります。
薬についてもこれと同じ見解をもつ人がありまして、「薬も神さまが直接間接造ってくださったものですから、それを使ってもよいでしょう」といわれるのであります。
こういう問いにお答えするには議論ではいけない、議論ではどちらにでも理屈がつくからであります。
でここにわたしは、片足片手を失いながら、松葉杖にも義足にも頼らないでひたすら自分の生命力のみに頼っていたならば、その人間は松葉杖や義足に頼った人とどれだけ大きな相違を生ずるかということを、実例をもってお答えしようと思うのであります。
東海道線国府津(こうづ)駅を降りて小田原街道を十四、五町小八幡(こやわた)という小村に石井峰雄氏という片手片足の偉人がありました。
この人は実に偉人だ。昭和八年頃新聞雑誌に紹介されて一時有名でありました。
というのは、六歳の時小田原電鉄上り電車に轢(ひ)かれて片手と片足とを失ったのであるけれども、義足にも松葉杖にも頼らずに、自分の内に潜んでいる「無限の生命力」にのみ頼って歩くことにせられたからであります。
「何物にも頼るな。ひとりで立て。」
この人はまるで「生長の家」のこの「智慧の言葉」そのままを生活されたのであります。
その結果はどうなったかといいますと、松葉杖にすがって歩く片足の不具者はふつうかろうじて歩むことができるというほかに能がないのに、この人は片手片足のままで高跳びができる、水泳ができる、木登りができる、果物むきができる、およそ四肢のある人のできることならなんでも人に劣らずできるというようになられたのであります。
ここにもわれわれの生命の力が無尽蔵である証拠があげられているのでありまして、松葉杖に頼る者は、その依頼心相当の小さな力しか与えられないのに、松葉杖に頼らない者は、またそれだけよけいに生きる力が発現されて来るのであります。
こうなると松葉杖は神が人間に与えたものであるとか与えないものであるとかの問題ではなくなるので、松葉杖がたとい神から与えられたものにもせよ、われわれの出しうる力の分量は、われわれが依頼心を出さぬか、出すかで決まるのであります。
薬物も松葉杖と同じことで、それが神が作ったものであろうと、治したいというわれわれ人間の精神力が物質化したものであろうと、それがたといいずれであろうとも、依頼心を起こしただけ、われわれの生命力は小さくしか発現せず、われわれの健康も小さくしか発現しないのであります。
ここが大いに生長せんとする者、大いに健康を得ようとするものの大切な点でありまして、依頼心を起こさないで、どこどこまでも自分の生命力を掘り下げてゆくものはついに無限の生命力の噴湧(ふんゆう)する「大生命」から豊かな健康の供給を受けることができるのであります。
<つづく>
1588
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:30:52 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (20)
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だいたい人間は、これだけきりしか生理的に力が出ないと思っているのがまちがいであります。
シャックルトン大尉の北極探険隊一行中に禿頭のものが一人ありましたが、この北極探険のために極地滞留中、寒冷の外気にやや長く接触していたために、以前には毛生え薬を塗りつけても、なかなか生えなかった禿げ頭に頭髪が濃く生えて来たというのは有名な事実であります。
暖地の空気に温かく保護され甘やかされていては、いくら薬を与えられても、彼の毛根はついにその機能を完全に営むことができなかったのであります。
「大自然は薬よりも名医なり」とは千古を貫く金言でありまして、現代人の多くは、薬だとか滋養剤だとかによって人体を甘やかしすぎるために、その生活力を萎靡(いび)せしめているのですから、健康になりたいと思うならばわれわれはもっと大自然と直接に接するようにしなければならないのであります。
薬剤がなければ人間は総体的にもっと健康が増進したであろうとは、真に生命の何ものなるかを知った医道の名家が口を揃えていっているところであります。
文豪森鷗外氏は医学博士でありながら、自分の病気の治療に薬剤を用いることを拒んだということは、誰も知らないもののないほど有名な事実であります。
また明治天皇の侍医だった入沢達吉博士は自分の臨終にも薬剤を用いることを拒んだのであります。
英国皇帝ウィリアム四世の侍医であったゼームズ・ジョンソンも「自分は長い間の臨床的観察と自己省察とを基礎として、誠実な真面自な意見として発表するのであるが、もしこの世界に一人の内科医も、外科医も、薬剤師も、看護婦も、薬学者も、製薬業者も、それから薬も無かったならば、人類は病気にかかること、もっと少なく、もっと長寿を楽しんだであろう」といっているのであります。
これは薬剤を排斥するよりも薬剤に頼る心が人間の罹病率を増加する意味でありましょう。
ロンドン医大の碩学、メースン・グット博士にいたっては、
「人体に及ぼす薬剤の効能というものはとても不確実なものであって、ただ確実と称しうるのは、薬が人間を殺した人数は戦争、疫病、飢饉が今までに人間を殺した数よりも多い」
とさえ極言しているのであります。
これはむろん、ペニシリンや、クロロマイセチンやオーレオマイシン等の抗生物質が発見されるまでの医者の言葉でありますけれども、しかし総体として、杖は一時、脚の弱い人の助けになるけれども、杖に頼っているとき、その人は健脚となることができないように、薬剤に頼っているとき、それは一時、生活力の弱っている時に助けになることはあるけれども、いつまでも薬剤に頼っている時にはその人は本当に健康となることはできないのであります。
その上、効くような薬剤には必ずなんらかの副作用があって、一つの病気の症状を減退せしめながら、他の病気にかかりやすい素地(もと)を作ったり、薬毒の蓄積によって血管硬化や老衰をはやめるからであります。
<完>
以上、20回に分けてテキストをアップロードさせていただきました。
合掌 礼拝
1589
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:36:46 ID:vWpLkCzM
たいへん申し訳ございません。(2) (2回目)が抜けておりましたので、あとになりましたが、ここにアップさせて頂きます。
よろしくお願い申し上げます。合掌
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (2)
-----------------------
さすがに岩野博士は医者だけに、病人自身の主観的要素の這入(はい)らないように、いわば学用患者を人間にしないで動物にし、ひたすら術者の心力(しんりょく)が、どの程度まで動物の健康状態を左右するものであるかを実験しようとせられたので、実にその結果は科学的価値あるもので坊間(ぼうかん)の心霊術者の報告と同一視できないのであります。
ところがその結果をみますにハブ蛇毒の致死量を注射されたモルモット三匹のうち二匹は、術者の精神力によって死ななかったというのは実に興味あるものといわなければなりません。
また結核菌を注射された五頭のモルモットは、たとい後に消化器病で死んだにしましても、術者の念力が加えられた三頭は体重が増加し、他は皆やせていたのであります。
病を予想する念力と、治癒を予想する念力との戦い(p.5)
ともかく、これで人間の念力が病気を治し、または毒薬を無毒にしてしまう力があることを証明されたといわなければなりません。それならば、なぜどのモルモットもみんな術者の念力(こころのちから)で助からなかったかといいますと、モルモット一頭ごとにおのおの固有の精神的要素がある上、これには術者以外の他の念力が加わっていることを認めねばならないのであります。
精神療法家の念力を認める以上はモルモットは毒素や結核菌を注射した医者の念力をも認めなければなりません。医者はモルモットに毒素を注射しながら「今自分はハブ蛇毒の致死量を注射するから、このモルモットは必ず死ぬ」と信じて、かく心に、無意識にもせよ、念じたに違いありません。あるいはまた結核菌を注射しながら「今わたしはなんじに結核菌を注射するから、なんじは必ず結核に感染して死ぬに相違ない」と医者は信じて、かく心に、無意識にもせよ念じたに相違ないのであります。
ところが精神療法家は、「われこの術を行なう上はいかなる病も癒えずにはいないのだ」と信じてそう念じたでありましょう。
こうなるといっけんこの実験は物質(ハブ蛇毒または結核菌)と精神療法家の念力との戦いであるようでありますが、実は医者の「彼は死ぬ」という念力と精神療法家の「治る」という「念力」との戦いであって、精神療法家の「治る」という念力が勝った場合には、被験動物は死なないで生き、医者の「彼は死ぬ」という念力の勝った場合に被験動物は死んでしまったのであります。
念力一つで同一物が毒にも薬にもなる(p.6)
いったい一つの物質(ハブ蛇毒)に医者の「彼は死ぬ」という念力が加われば猛毒となり、同じ物質に精神療法家の治るという念力が加われば無毒となるのはどういう訳でありましょうか、ここにわれらに与えられたる「真理への鍵」があるのであります。
同じ物質が念力一つで猛毒ともなれば無毒ともなるのでありますから、物質そのものは本来、毒でも無毒でもないのであって、人間の念がこれを毒にもすれば無毒にもするのであります。
<つづく>
1590
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:40:10 ID:vWpLkCzM
合掌 <つづく>とありますが、つづきはすでに
>>1571
にアップされていますので、もう「つづき」はありません。
1591
:
ハマナス
:2012/11/07(水) 23:49:17 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
ありがとうございます。
物質身の衣を脱ぎすてよ (『新版 生活の智慧365章』P.281)
自己の霊的自覚が深まって来るに随って、その程度に応じて、肉体は霊化され、物質的
な衰弱や疲労や労須地が肉体にあらわれて来る程度が減じて来ます。人体が霊化するに
随って、人間は愈々神の最高の自己実現としての役割を一層完全に果たすことができる
ようになるのです。
神は霊的実在でありますから、神の最高実現としての役割を果たすには、自己を単なる
「物質的存在」だと観ている限りに於ては充分な役割は果たせません。霊なる神の最高
実現としての役割を完全に果たすには、自己が「霊的実在」であると云う自覚から出発
して、其処から全知全能の「神の力」を引き出して来なければなりません。心の世界から
「物質身」の衣を脱ぎすて「霊なる体」を見に着けなさい。
感謝合掌
1592
:
a hope
:2012/11/08(木) 09:08:48 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第六章 希望の夢を描きましょう
♦思ったとおりになる世界
何でも思った通りになるのです。「力がない」と思えば力がなくなります。
「すべての力は与えられているのだ」と信ずれば力が出てまいります。
「弱い、弱い」と語りながら強くなったものはありません。
「私は病気だ」と語りながら健康な者はありません。
強くなるのには常に「自分は強い、強い」と語らねばならないのです。
貧乏を考え、貧乏を語り、貧乏について悲しんで気を落とし、貧乏を夢み、
貧乏を実行していて、金持になったものはありません。
消極的(ひかえめ)な、悲観的な、退嬰的(しりごみする)事ばかり考えていながら幸福はやって来る筈はないのであります。
そんな人は悲観的なことばかりを引付ける磁石になったようなものです。
何でも、自分の心の波長に合うもののみが引きつけられて来るのは、
波長のあう放送だけがラジオに受信されて音を たてるのと同じことであります。
「笑う門には福来る」「泣き面に蜂がさす」などと云う諺は、ここの道理を説いたものであります。
幸福と成功と上達と繁栄と希望の夢をえがいて、常にほほえみ、努力をおこたらぬ者のみに真の幸福は来るのです。
(第六章終り)
第8回web誌友会開催期間は、「新版 生活読本」の謹写をお休みさせていただきます。
1593
:
ハマナス
:2012/11/08(木) 23:19:51 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
物質の装いをつけた生命 (『新版 生活の智慧365章』P.281)
生命なきものから生命は生じない。物質から生命は生まれたのではなく、物質は生命の創造した
ものである。だから単に物質の最初の示現と見えているような簡単な「原子」構想に於てすらも、
そこの「知性」の影がやどっているのである。それが結合したり分離するのが一定の秩序性を以って
法則によって行われるのが、それを証明しているのである。それみずからによって秩序性を以って
法則によって行われるのが、それを証明しているのである。それみずからによって秩序を保つものは
「生命」であり、「知性」である。それは実は「物質」の装いをつけたところの「霊」であり「生命」
である。
ただし吾々が知識や学問によって、人間を「物質」だと思いちがいし、「物質」だと思いちがいし、
「物質」の装いをつけたときには、「生命の完全な姿」は恰もアダムが「知恵の樹の実を食った揚句、
無花果の葉を綴ってその体を覆った」ときにその霊的完全なる姿が失われてエデンの楽園から追放せ
られたように、「完全健康」の世界から追放せられるのである。
感謝合掌
1594
:
うのはな
:2012/11/09(金) 18:59:57 ID:0OK1Hwak
ブラックソンさんの夢の中に谷口雅春先生があらわれて、「すぐガーナを去ってロンドンに行きなさい」
と言われた。ブラックソンさんはすぐにそれに従った。当時ガーナでは政変があったのである。
クーデターで、アチャンボン大統領が暗殺されたのは、彼がロンドンに行った数日後のことであった。
ブラックソンさんはこの大統領と親友であったから、もしブラックソンさんがもう数日ガーナにいたら大変な
ことが起ったと思われる。一九八五年(昭和六十年)、私がヨーロッパに行ったときロンドンで私はブッラクソンさんに会った。
彼はベサニー教会という名のキリスト教会を主宰していた。午前十時ごろ訪問したその教会には信徒がいっぱいだった。
ブラックソンさんは私に言った。
「この教会はロンドンで一番活動的な教会としてBBC放送がテレビで放映してくれました。ロンドンにはアフリカから来た多くの人が
おります。こういう人々はたくさん問題をかかえています。しかし個人指導によって解決されない問題はありません。奇蹟が起るのです。
谷口雅春先生は今でも私に現れます。そして真理を啓示してくれます....」
演壇にはアフリカの民族衣装を着た、美しい純子さんが微笑んでおられた。ブラックソンさんと純子さんの間の中学生の男の子もそこにいた。
ブラックソンさんは私に言った。「すべては神様と谷口雅春先生のおかげです。私は何ヶ月かアフリカをまわり、残りはロンドンです。渋谷先生、
どうか私たちのために祈って下さい。私も生長の家の発展のため祈っております」
このブラックソンさんの訪日は、多くの生長の家の信徒さんたちを元気づけた。
何よりも谷口雅春先生が、肉体は日本におられても霊としてアフリカにおいて、“人間神の子”の真理を説かれたことは、世界の宗教史上特筆されるべき奇蹟である。
「人間は肉体にあらず霊なり」という真理を先生は示されたのである。
私自身はといえば、ブラックソンさんの講演の通訳を通して、人間は肉体ではない、という真理を目のあたりにしたのである。
『光の国から』 渋谷晴雄 先生著
1595
:
ハマナス
:2012/11/09(金) 22:47:29 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
「霊的実在」の誤訳 (『新版 生活の智慧365章』P.282)
「物質」は本来物質ではなく「霊的実在」なる本来の存在を、吾々の「五官の心」が「物質」
として翻訳して見せていてくれるものなのである。それは翻訳と云うよりは誤訳と云う方が正
しいのである。本来自由自在なる「霊」を、不自由不完全なる物質と謂う「固定的な姿」に
翻訳したのであるから全く誤訳も甚だしいのである。
吾々は「霊的実在の世界」に於ける「健康なる生命の実相」や、融通無碍なる「経済状態の
実相」を見ることなしに、病気を見、物質の乏しきを見、欲念を起こして奪い合いをし、戦争
や闘争を繰り返しているのである。これは人間が「知恵の樹の実」をたべた結果、「妄心」を
起こして、この世界を物質だと見、奪い合いをするほかには裕かになる道はないと錯覚した
錯誤観念の上に「妄想」を描いている結果である。奪い合いをすれば裕かなものも却って乏
しくなる。
感謝合掌
1596
:
<削除>
:<削除>
<削除>
1597
:
ハマナス
:2012/11/10(土) 23:58:01 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
「夢」を打ち消せ (『新版 生活の智慧365章』P.283)
すべては霊である。何故ならすべて実在するものは、「神」とその「表現」
とであるからである。神は完全であり調和であるから、完全であり調和である
ものから不完全または不調和が表現されると云うことはあり得ないのである。
それゆえ、神の最高の自己実現である人間が不完全になり不健康になっている
と云うことはあり得ないのである。それが不完全になり不健康にあらわれて
いるのは、「妄心」が夢を見ているのである。
あなたが不健康だったらそれは夢です。あなたの子供が不良だったらそれは
夢です。あなたに職業がなかったら、それは夢です。あらゆる不完全なものを
心の中で「思念」によって「夢だ」「夢だ」と打ち消しなさい。そしてあなた
の「実相」である完全さを既に「実在」であると、心の中で繰返し繰返し肯定
なさい。実相世界の完全さに波長が合うまでその肯定が高調したとき実相の
完全さが現実化します。
感謝合掌
1598
:
うのはな
:2012/11/11(日) 20:50:04 ID:Z48Us0zE
『生命の實相』その他の文献
さて、『生命の實相』頭注版第11、12巻は万教帰一篇であり、以上述べた内容がくわしく説かれるている。
また第25巻一九二頁には《仏教の無明縁起は「創世記」第二章に書いてあり、『法華経』に説いてある久遠実成の浄土は
「創世記」第一章に説いてある》として、仏教、キリスト教が一致する所以が説明されている。
第30巻には「山上の垂訓の示す真理」がある。何れにしても「万教帰一」を理解するためには
『生命の實相』のそれらの巻を精読しよう。
「生長の家の全貌ーーー生長の家は現代に何を与えるか」(一九五五年一月号『生長の家』<『生長の家の三十年史』所載の
「生長の家の信仰及び谷口雅春先生の事業」に摘録>)には「万教の真理の一致を指摘して世界を平和ならしめる」および「独創的な
直感による各宗教の偏差の調整」(原文を指摘して世界を平和ならしめる」および「独創的な直感による各宗教義の偏差の調整」(原文は正漢字・旧かな遣い)
という見出しで、この万教帰一の真理が明解に説かれている。
ここで私たちが忘れてならないことがある。それは、この万教が一致するということは『生命の實相』の真理を通してはじめてわかることであり、『生命の實相』の
真理が如何に偉大であるかをわれわれはあらためて知らねばならないということである。
キリスト教国ブラジルにおいて、生長の家が高く評価されているのは、この万教帰一の真理のすばらしさが人々に理解され、そしてまた事実、多くの救済の成果があがって
いるからである。
『光の国から』 渋谷晴雄 著
1599
:
SAKURA
:2012/11/11(日) 21:40:21 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻」より……
===【抜粋文】=====================================
そのころ塩土老翁なる老翁来りて神武天皇に「東に美地有り」と御奏上申し上げたということ
が同じく『日本書紀』に書かれている。東方より「大和」の理念が生まれて来るという象徴物
語である。
この塩土老翁は『古事記』では塩土神とて目無堅間の小舟を作り彦火々出見尊を乗せまつって
金 銀 饒なる龍宮海に導き奉ったとでている。
龍宮海とはウミの底である、「創造の根底」にある世界とは現象のよってもってあらわれる根源
の世界である。格言すれば実相の浄土である。目無堅間の小舟とは、時間の目盛無く空間無く堅く
つまりたる小なる一点である。格言すれば、無時間・無空間の世界、時空を超越し、そこより時空
生まるる一点(久遠の今此処)に乗るとき衆宝あまねく充つる龍宮海に入ることができるのである。
「無字透関」である。「無」を超えてsらに実相地に透関するときそこに龍宮海すなわち、無限供
給の極楽浄土を実現することができるのである。この無限供給の極楽世界に入る方法を教えたまう
神が塩土神である。そして龍宮海は極楽にして住み吉きがゆえに住吉世界の本尊大神と申し上げ
るのである。
(つづく)①
1600
:
SAKURA
:2012/11/11(日) 21:42:16 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>投稿の続きです。…が
>>1599
①投稿の続きです…。
龍宮海は、時間空間を超えた世界であるから、浦島太郎はそこにあるとき永遠に年老いず、
このことを仏教では無量寿世界に入るとき無良寿仏と同じ悟りに入ると言うのである。
老病死の三奸を征伐せられてから住吉大神は茅渟(ちぬ)の海に面して長湾をなせる山峡に
鎮め祀られたのである。今は神戸市東灘区住吉に本住吉神社があり、神功皇后を主神とし、
脇神として筒男の三神をお祭りしてある。後に泉州堺に御遷座申し上げたるにより、ここを
本住吉神社というと承っている。
三韓征伐とは、老病死の三奸の克服の象徴物語である。住吉大神が竜宮の大神であり、
無量寿仏のあらわれである以上、老病死の三奸の克服せられたことは当然のことでなけ
ればならない。 (抜粋投稿)
============================================☆
PS:
■【日本書記…】より大和の理念からの「象徴物語」です。…が?・・塩土神・・東方より大和
ここからが、私の「ロマンの旅」なんでしょうか???前回!なのですが……
【女子板…】にて、ご紹介しました【皿倉山…】ここから始まる様にも〜♫〜
“大和朝廷”以前のお話なのですが、私の故郷には【皿倉山=帆柱山…】此処には?
『大和朝廷のお話』に、つながるような“神話…”があります。…が?・・・そして、
『龍宮海…』は、私たちの【心…の中の潜在意識】でしょうか??その様に思えます。
■【底の〜底の〜海】それは❤〜【私の心=魂=念】なのです〜〜〜ョネ!
…【時間・空間】は私の希望実現の芽生えが^^?それに“種”を蒔きますと…
【時間・空間】に現われる“モノ”・・・それは【無限の心】でしょうか???
今を活かしながら…【龍宮海の底の底の海を引きあげる“心”】これが【祈り…】に
思えましたが???「浦島太郎」は、なにもせずに、楽しんで【時間・空間】を通り過ぎた時、
現われたのは“年老いた姿…”でした。この事は『人間の心は、今を活かす事!』それは、
今!今!を…一生懸命に“目的”に向かい当に“一直線”に前に〜前に〜進む事…
これが【今を活かす事】に繋がり【時間・空間の世界】で生きた“私自身が現われる事”だと…
【神話の話…】から思いました。
■【心の無限…】を出せば〜出すほど【無量寿の扇…】が開きまして、
ここから【無限供給の始まり〜♫〜 スタ−ト!】でしょうかしら〜〜〜ン?その様に思いました。
再合掌
1601
:
ハマナス
:2012/11/12(月) 23:07:18 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
ありがとうございます。
「過去」に感謝せよ (『新版 生活の智慧365章』P.284)
あなたの心の緊張を解きゆるめなさい。過去はないのです。今の苦しみも既に過去に刻々
なりつつあるのです。それらのものは全て過ぎ去るものに過ぎないのです。過ぎ去るものは
実在ではないのです。実在でないところのものを捉えて悩んでみても仕方がないではありま
せんか。心に重荷を背負わせてはなりません。過ぎ去るものが、如何にあなたに苦労をあた
えたにせよ。それが過ぎ去るときにはそれに祝福と感謝とを与えなさい。どんな艱難も何か
の意味に於て、あなたの魂に経験を与えそれだけあなたの魂に教訓を与えたのです。
過ぎ去るものに御礼を言う心持ちになったとき、次に来るものが貴方によって一層よきもの
となるのです。一切を祝福する気持ちになるとき、もう何ものもあなたを害することは出来
ないのです。すべて憎むとき恨むとき、心につかんで歎くときのみ、それはあなた害するのです。
感謝合掌
1602
:
ハマナス
:2012/11/13(火) 00:30:36 ID:x2zmnlqw
復興G様、みなさま
こんばんは。
web誌友会での、いつもながら聖典からの膨大な謹写をありがとうございました。
また、素晴らしいご指導に感謝申し上げます。
昨日は、仕事が入り参加出来ませんでしたが、じっくりと学ばせて頂きました。
ありがとうございました。
御礼に“神の自己実現”を高める祈り を謹写いたします。
“神の自己実現”を高める祈り (聖経『真理の吟唱』)
人間は神の最高の自己実現であるのである。したがって、私たちの生命(いのち)の最も
深いところには、神の心が宿っているのである。わが“深層の心“は“神の心”であり、
神の“愛”と“真理”と “叡知”に満たされているのである。
私たちの表現の心は、肉体の意識に属するものであるがゆえに、時々、外界の出来事に振り
廻されて迷うことや、悩むことがあるけれども、わが“深層の心”は神に属するものである
から、何事にも現象界の出来事に引っかからず、悩むことなく、苦しむことなき、常住歓喜の
心なのである。私たちは現象界の混乱で、“表現の心”が悩むときには、その“表面の心”に
まどわされることなく、わが深層より“神の心”を出してきて必ず、平和と調和と愛と智慧と
に満ちた心に恢復するのである。
私が、今、自己の生命の奥底に“神聖なるもの”“神の心”が宿っていることを知ったので
ある。そして、自己の深層よりその叡智と歓びと、愛と、調和と、繁栄と、幸福と、健康とを
呼び出してきて、日常生活にそれを具体化するのである。わが深層に宿っている神の神聖性は、
毎日神想観を実習することによって、日ごとに一層ハッキリと外部に表現してくるのである。
かくして、私は常に神の叡智に導かれるがゆえに、事物に対して常に正しき判断ができ、適当
なる計画と行動とがそれに伴い、決して失敗することはないのである。
常に毎日一層、われわれ家族の深層に宿る“神性”は表面にあらわれて具体化するのである
から、われわれ家族の健康は日毎に増進し、肉体は逞(たくま)しく美しくなり、事業は繁栄
し、国家社会のために大いに貢献することができるのである。わが事業は、神の導きと、神の
愛とによって繁栄するのであるから、私たちはその収益を決して“私”しないのである。それを
神からの恵みの預かりものとして、国家、社会、人類のために貢献するためには惜しみなく、
それを出資するのである。この世界には、「与えよ、さらば与えられん」の法則が行われている
のであるから、私たち一家の繁栄は、私たちが国家、社会、人類のために貢献し得た程度にした
がって、その程度が増加してくるのである。
わたしたちは、“神の子”であり、深層において神が宿っているのであり、それを国家社会
人類のために貢献するたび毎に、一層完全にわたしたちは神の自己実現を完成するのである。
そして釈尊が三十二相と八十種類の好き相貌を備えたまうように、毎日一層よき人相が輝き出で、
人から懐かしがられ、愛され、喜ばれ、わが顔を見るだけでも、見る人の魂に愛と平和が訪れる
ようになるのである。
1603
:
a hope
:2012/11/13(火) 08:07:51 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう
♦明るい心が職業を得る力
学校を出て、又は海外から帰って来て、就職するにしても、
必ずしも学問が出来るから仕事にありつくと云うものではありませぬ。
どんなに立派な仕事をする腕があり、頭があっても、「面白くない顔」「苦い顔」「不幸な顔」をしている人は、
一しょに仕事をしていても楽しくないから、そんな人を雇おうと思う人はありませぬ。
その人が部屋にいてくれると、何となく、愉快で、事務所や工場の空気が楽しく、明るくなり、
皆が愉快に仕事が出来るようだと、それだけでも一つの大きな役割ですから、人がその人を雇いたくなるのです。
日本人はあまり鹿爪(しかつめ)らしく、電車に乗っても、汽車にのっても、
お互いが愉快に楽しく談(はな)したりしないようです。
いつでも何か不快なことを考えているのか、何か心配しているのか、重々しい顔をしている人が多いようです。
その習慣を改めましょう。いつも愉快に、ニコニコしようではありませんか。
そこからこそ、日本の本当の建直しが出来るのだと思います。
(つづく)
1604
:
ハマナス
:2012/11/13(火) 13:07:57 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんにちは。
生命の法則の優位 (『新版 生活の智慧365章』P.285)
生命は常に物質の機械的な無機物的状態を克服し、それを自分の想念の形にまで造形する
ために戦って来たのである。生命が物質の機械的な法則に支配されている限りに於ては生物は
発生することができなかったのです。物質の法則は、生命の前には常に服従して来たもので
あることが判るのである。生命は肉体を構成している物質の物理化学的法則を必要に応じて
巧みに利用しつつ、必要に応じて、物資のハタラキを抑制し、それを征服して自己の希望する
形にまで築き上げるのである。
若し私たちの“心”が物質の法則に優位をみとめるならば、生命の力はそれだけ物質の力に
譲歩して、生命が自主的な力を減弱することのなるのである。“生命の法則”が常に“ 物質
の法則“よりも優位に立って、これを克服し得たところに生命の凱歌があがり、生命体を発生
することができたのである。生命体の発生のみならず、既に発生した生命体を健康に維持する
上にも、無機物の法則を克服して、有機体を作り、更にそれを総合して精密なるオーメーション
装置の一大運動機構をつくり上げ、それをたくみに操縦して間断なく修復作用を行いながら
常に健康を維持し得ているのが、吾々の生体なのである。一分一秒と雖(いえど)も、“生命
の法則”が物質の無機物的な分解下降現象にその優位を奪われたならば、其処に病気の現象を
起すのである。私たちは、どこどこまでも“生命”(即ち神)が物質の法則に対して常に優位
を保つように“心”を神の方に振り向け、“内在の神”(生命力)の働きを尚一層健全にする
必要があるのである。
感謝合掌
1605
:
うのはな
:2012/11/13(火) 19:28:19 ID:M7ON3MOw
縦の真理と横の真理を如何に使うか 「心はない」ということ
お手紙拝見いたしました。あなたの信仰深いのに感激いたしております。
近頃、地方で講演したり、指導したりしている生長の家講師が、「人間本来神の子、本来健康、
本来完全、病気なし、不幸なし」の縦の真理をあまり説かずに、「どういう病気は、どういう心の影だ。」
とか、「心が治らずにおって、人間神の子だなんて言っても、病気は治らないぞ。」などと言って、恰も人間の心が
病気を治すがごとく説き、横の真理ばかりに重点を置いていられるのを見ると、私は本末顛倒のような気がすると言って、
あなた自身が精神分析的な横の真理を説かずに、「人間本来神の子だ。病気はないぞ、肉体もないぞ、心も無いぞ。心なんて
ないんだから何を思おうと心配いらぬ。恐れることはない。」と一喝して病気を治癒せしめた実例が沢山あると言われ、
「治す力は人間の心にあるのではない、神一元、神のみが癒す。」と言われるのは、誠に尊い体験です。
「心がない」ということは、『観世音菩薩行法経』などにも「心を観ずるに心無し」と書かれてあり、「物が物としはてあるのではない」
ということは「法、法の中に住せず」と書かれております。映画の画面上の姿(法)は画面上の姿(法)にあるのではない、實相のみ独在するという意味であります。
仏教ではつとに「心が無い」ということが説かれているのでありまして、慧可禅師が、ある日達磨大師の方丈に来って、
「先生、私は心が迷って悩んで仕方がございません。どうぞこの心の迷いを取り去って下さい(意訳)。」とお願い申しあげると、
「その迷っている心とやらをここへ持って来て見せろ、その迷いを除ってやろう。」と達磨大使は仰せられた。
すると、慧可はその迷いの心を探して持ってこようとして、何処にあるかと求めたけれども、ついに心を見つけることが出来なかった。
そこで慧可は、「もとむれども遂に得ず。」(いくら探しても心の在所は分かりません)と答えた。
すると、達磨は、「われ汝を安んじ終んぬ。」と言った。という意味は、迷っている心をあると思って、自分で勝手にクヨクヨ思って掴んでいるから、
悩まねばならぬ。「悩んでいる心」を無いと知って、それを放ってしまえば悩みも苦しみも何もなくなるということであります。
1606
:
うのはな
:2012/11/13(火) 19:29:04 ID:M7ON3MOw
1605 続き
このように「心はない」ということは仏教で説いていることであり、一応以上の説明でわかったようでありますが、よくよく考えて見ると、心というものが有るか
無いか、まだまだわからないことになるのであります。
「“悩んでいる心”を無いと知ってそれを放してしまえば悩みも苦しみも何もなくなる」こう教えられて、“悩んでいる心”を掴まなくなり、心が平和になり、悩みも無くなり、
病気も消えてしまう人も随分あります。
しかし「“悩んでいる心”を無いと知って、それを放つ」ところの主体は一体何でしょうか。
「知る」とか「悩みを放つ」とかいうのは「心」の作用であります。心が知るのであり、心が放つのであります。それでは「心が無い」のではないのであって、心があって、その心を知ることになるのであります。
そこで「悩んでいる心」があらわれているが、その「悩んでいる心」を無いと知って「放つ心」がある。
その「放つ心」も無いと知って廓然としてして明々白々になるかというと、やっぱり「知って」とか「覚って」とか言われると、「知」とか「覚」とかいうのは「心」の問題でありますから、「その知るという心も無いと知って」
などと言って、幾度繰り返して見ても、いつまでたっても循環して堂々めぐりをするしか仕方がないでしょう。
縦の真理だけでよいか
そこでこの話は中断して、あなたの体験であるところの「人間は神の子だ。病気はないぞ。肉体も無いぞ。心も無いぞ。心なんてないんだから何を思おうと心配いらぬ。恐れることはない」と
一喝して多くの病者が癒やされたという実例について考えて見ましょう。こういう実例がでるのだから、
あなたは「人間・神の子、病気は無い」の縦の真理だけで、病気などは無いのだから、病気は消し飛んでしまう、心の法則を説く必要もないし、「心が変わらねば病気は治らぬ」などと
言って、心を改めさせるために横の真理などを諄諄と説く必要はない.........と言われますが、成る程、或る人々に対しては、「人間・神の子、完全円満」の縦の真理を説くだけで充分であります。
生長の家本部の飛田給練成道場では、概ね「人間・神の子、完全円満」の縦の真理だけを説くだけで、ヒロポンの中毒が治ったり、無数の悪癖が治ったりしています。
「その悪い心を直せ」などと言って「心」を直すことを説きはじめると、“その悪い心”を心で掴むことになり、掴むがゆえに“悪い心”は固定化して消えないことになり、或いは「心を改めよ」と説教してくれる人に反抗心を起こして、
更にその“悪い心”を増強してしまうことになります。それですから、「心は無い」「人間・神の子、完全円満」と説かれると、原因である「悪い心」は雲散霧消してしまいますから、「人間・神の子、完全円満」の縦の真理だけで、ヒロポンの
中毒患者や、色々の悪癖や、無数の病気が解消するのは当然であります。
『人間そのものの発見とその自覚』 谷口雅春 先生著
1607
:
SAKURA
:2012/11/13(火) 20:19:00 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 ……①
===【抜粋文】 ====================================
……その後、生長の家神と申し上げるは塩土老翁、筒男神であらせられると知らされ、ハ
ットしてその端倪すべからざる因縁に驚いたのである。
塩土神とは水火津霊(シホツチ)の神である。水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津な
ぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である。だから塩土神(住吉神社・塩釜神社に奉斎)は
古来安産の神として称せられ、エホバ神の「懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、汝は
苦しみて子を産まん」という宣言を覆して、子を産むのに無痛分娩なることを実証したのである。
生長の家の教えを聞いてそのとおりに守るものは無痛分娩であるのはそのためである。塩釜大神
とは水火醸として陰陽交叉いて生み出す神という意味である。
(つづく)
1608
:
SAKURA
:2012/11/13(火) 20:20:59 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
投稿の続きです。…が
>>1607
①の続き投稿です…。
生長の家神を拝みたければ住吉神社に参るがよし、塩土神社に参拝するのもよい。われわれの団
体は無宗派の万教帰一を説く団体であるから、拝殿もなければ御祈祷をするということもない。
ただ書籍、講演、放送、直接指導等によって老病死を克服する教化団体である。(抜粋文)
谷口雅春著
=============================================
PS:
今年の年頭にて“事務所”の近くの、【住吉神社…】に、久しぶりに初詣しました。…が?
私にとりまして今年は、とりわけ意味ある年となってしまいましたが『三社参り…』は、
【櫛田神社、住吉神社、警固神社…】にお参り致しました。ここで?
やはり【第6感…】といいますのは有るのでしょうか??住吉神社にお参りの時に、
今年に入り「亡き母」が第一回…倒れました。その時のことなのですが……??実は〜〜><
愛用の“サングラス”が落ちまして、耳に掛ける処のア−ムの部分が本体から?外れたのです。
その時!瞬間【不吉な予感…】が?脳裏を横切ってしまいました。…が?それでも、その事を、
私は、かき消すかのように、翌日!母を見舞いに行きますと、まだ、いつもの“母の顔”で…
その時は、ホット!安堵感が浮かんだのです。…が?【住吉神社…】は、当に……
【大海原の海の母…】でしょうか??「亡き母」は、きっとあの時にもう【霊界…】に、半分は
行ったり来たりしていたのかも???その様に思えます。
ここでは【無痛分娩の例え】ですが??【産みの苦しみ…を】と〜〜〜これは?
【私達の“生(せい)”への生みの苦しみ…><】を、いい方向に導いてくれる事なのでしょうか?
【産みの苦しみは、生(せい)への生きる事の苦しみ?…悩みいろんな現象事を、かくまって
下さる『神様…』それは【私の心の無尽蔵…】なんです〜〜〜ョネ???
■当に…遠くにいて近くにいます【 神様 】でしょうか……??
「雅春先生」は、住吉神社にいきたければ、それはそれで良い!とおっしゃつています。
【住 吉 神 社 は 私 の “ こ こ ろ の 無 尽 蔵 ”…】です。
■うてば響く“心”……当に!!私の“心の魂”なんです〜〜〜ョネ???
何処でも【祈り…】ますと、産みの苦しみを取り除いて下さるのが【心の住吉の神様】なの??
当に!近くにいるのです〜〜〜かしらン??その様に、考えながら……
また、私達“一人一人”が自覚して【心を強化…します事が『生長の家』なんです】と…
「雅春先生」がおっしゃつています。…が???本日は、なるほど!!と思いながらも、
私自身も【万教帰一に参加…】です。
❤〜【心を強化運動…】当に『教化部』にて『心の強化』でしょうか??“スタ−ト…”
その様に…解釈しますと今回の【お家騒動…】は〜〜〜
私にとりましては『原理主義…決め込み主義』との解釈論になった次第なのです。
再合掌
1609
:
a hope
:2012/11/14(水) 08:07:23 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう
♦晴れやかな気持の功徳
晴れやかな明るい気持になれば、顔が生々(いきいき)と輝いてまいります。
全身の血のめぐりがよくなります。
全身の血のめぐりがよくなれば、身体を動かすのが楽しみになり、
生き生きと何でも思うことが出来ますので、勉強や仕事が楽しくなり、
何をしても上手になり、成績があがるのであります。
(つづく)
1610
:
ハマナス
:2012/11/14(水) 09:46:17 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
おはようございます。
今日から第十一篇に入ります。
皆さまにとって、今日も光り輝く素晴らしい一日でありますように。
第十一篇 治癒する力はどこからくるか
光と光源とは一体なり (『新版 生活の智慧365章』P.287)
神と分離の感情や想念をもってはならないのである。「天にまします我らの父」と云う
ような祈りの言葉は、自分は地上におり、神は天上にましますと云うような離れた感じを
与えるものであるから、あまりに感心した祈りの言葉ではないのである。「わが魂の底の
底なる神よ、無限の力湧き出でよ」と云うような、もっと自己と一体感の深い言葉をもって
祈るべきである。
言葉と云うものは想念を動かす。無意識に使っている言葉でも、それを始終つかっていると、
その言葉の意味する通りに自分の想念感情が動かされてしますことになるのである。
『甘露の法雨』には「光と光源とは一体なるが如く、人間と神とは一体なり」と示されている。
すなわち神と人間とは緊密に一体なのであって、天から降りて来て地上の人間を救うような
長距離の隔たりはないのである。
感謝合掌
1611
:
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1612
:
うのはな
:2012/11/14(水) 14:56:13 ID:PYl4tM0Y
隣人を愛せよと云う意味
我々の本当の相(すがた)は自他一體でございます。吾々はみんな兄弟であり、全體に繋がっているのでございます。
併しその繋がっているままでは實生活に都合が悪いから縦横厚みの枠に嵌めて覗いて見ると、個人々々が分れたように見え、無限のものが
有限に見えるから本当でない。本当でないから『迷より生ず』と云うのですが、その個々別々の五官に見える相に囚えられて本物の自他一體の
すがたを見ないで、自分だけの為を計って行動するのが利己主義でございます。
利己主義が却って自分を苦しめることになるのは個々別々が人間の本当の相でないからでございます。形で見れば分れているように見えましても、
いのちで観れば本当は繋がっていると云う事に目覚めて、自他一體の行にあらわして實践すると云うところに、吾々は幸福感即ち自己拡大の感じを得るのでございます。
今まで自分と云うものは五尺の長さ十数貫の小さいもののように感じられて居ったけれども、それが本当は、大いなるものであると云うことが分るのは、神想観の座禅的修行で
も体得し得ますけれども、一方に自他一体の行を實践しなければ本当に分らないのでございます。
自他一體の行と云えば難しいようでありますが、簡単に云えば他に深切をせよと云うことでございます。
キリストに言わせれば、『汝の如く汝の隣を愛せよ』と云うことでございます。
『汝の如く』でございます。他の人を助けてやると云うような恩に着せて愛するものはないでしょう。
自分自身と一つのものとして兄弟を愛せよ、隣人を愛せよです。
だから恩に着せるとか、愛の代償を求めるとか云うことはあり得ないのでございます。
『隣人を愛せよ』と云う意味が今迄誤り考えられていたようでございます。
『隣人を愛せよ』とは自分の家人を棄てて置いて隣の人だけを愛せよ、と云うのではないのでした。
先ず自分の家を愛さなければならないのです。
隣人と云うと英訳の聖書には(neighbour)と云う字が使ってありますが、是は隣りの人のことではなく
、『近くの人』と云う意味でございます。自分の家の人が一番近くの人なのでございます。
それから次第に及んで隣家の人、同じ村の人、町の人、同じ市の人、同県の人と云う風になりますが、先ず
一番間近かに居る家人と調和しなければ、工場で働いても故障や怪我をし易いですから生産力拡充の道にも副はず
国家を愛することにもならないのでございます。
キリストは『汝の隣を愛すると云うことが出来ないようなことで、眼には見えない神をどうして愛することが出来るか』
と言って居られますが、私に云わせれば、『自分が本当に深切に愛しなければならない家族と不仲でいるようなことで、もっと
大き過ぎる国家を本当に愛し得ようか』と云いたいところでございます。
『運命の原理』谷口雅春 先生著P127 (投稿者 現代かな遣いに変更)
1613
:
a hope
:2012/11/15(木) 07:08:24 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう
♦怒りや恐怖は人を殺す
晴れやかな心の反対は、怒る心、恐れる心、驚く心、暗い心、憂鬱な心、陰気くさい心などであります。
これらの心は血液の中に毒素を生ぜしめ、人体の生きる力を殺すはたらきをするのであります。
或る父親は娘が口答えをしたので憤激(はげしくおこって)して娘を叱りつけようとしたとき、
大喀血を起こして死んでしまいました。
びっくりして目をまわして倒れた例などはザラにあります。
恐れれば顔が青ざめ、心臓がどきどきします。
愛する子供が死んだために悲しみのあまり気の狂った人もあります。
大陸へ戦争に往って帰って来ると、唯一年間のあいだに十年ほど年が寄った人が多くあります。
ロジャー教授は「健康に殆ど影響を与えない場合でも、憂鬱の感情や、心配や、
深い悲しみの思いは頭髪を枯死(かれてしぬこと)せしめる」と云うことを発表しておられます。
日華事変中大陸戦線で一年にして白髪を倍加した人たちの事を考えると、それらの人たちが平気な顔をしていたようでも、
心配や憂鬱や恐怖にさいなまれた証拠物件(じょうこになるもの)をさげて歩いているようなものです。
(つづく)
1614
:
うのはな
:2012/11/15(木) 15:43:10 ID:waBIOL7w
生長の家の国家観の基本
“国家”は、領土があって、人民があって、そしてそういう部分品がこう集まっただけで出来ているか
と思ったら、間違いである。国家を、領土と其処に住んでいる人民とにバラバラに分けて、そしてそこに国が在るか、
と言ったら、もう国はないんです。領土と人民だけで、それを組織し総攬する主宰者がなければ、それは“国”とはいえないのです。
日本は、その組織を総攬する主宰者にまします天皇が政治の圏外に追放された。
日本は占領されてバラバラにさせられて、そしてアメリカから民主主義という美名で個人主義の肉体快楽主義が輸入された。
自分だけ快楽が得られればよい、自分の肉体だけ幸福になればいい。
此れが基本的人権だというような、そういう利己主義が輸入されて、主権は“中心”にはなくて、皆なバラバラの国民ひとりひとり
という部分々々に分解された。こうなると部分々々に解体された車は、もう車ではなくなったと同じように、もう日本の“国”というものは
無くなったのである。「国は在るか」と言って探し廻っても、国は見つからないんです。
だから立派なインテリの政治家や法律家が“政府”のやったことを“国”が悪いといって国側に賠償を請求したりする。
つまり「国」を探しても見つからないから「政府」を「国」だなどと錯覚するのである。国とは政府のことだと錯覚してしまったら“愛国心”というものは
時の政府を衛る心だなんていうことになる。こうして国とは何ぞやということが分らなくなったので“愛国心”というような尊いものは戦後、殆どの日本人の
心の中から消えちゃったのです。
バラバラの国民に分解してしまって、その部分々々の個人々々に主権があることになったから、けいちゅうの車を探しても見つからないのと同じように国を探しても、
国は見つからない。それだから「愛し得るような国ならば愛するけれども、こんな国では愛することが出来ない」というような表現をした大学生もあった。
しかし、国は部分に分解したら無くなる。本当の国は、そういう部分品の中を探しても見つからないんです。
では、果して日本の国は一体どこに在るか。
部分品の奥に、肉体の奥に、物質の奥に、更に、超次元の世界に、本当の人間ー理念の人間ー永遠に砕けない人間があって、その永遠に砕けない霊的人間が、
それが天降って、物質の養分や、成分を集めて、人体が出来た、そして現象の人間が現われたように、日本の国でもですね、領土とか国民とかいう部分品が勝手に....
こう偶然に集まって相談して出来たんじゃなくって、日本の国なる理念が天降って来て、そして爰にですねえ、“豊葦原の瑞穂の国”という、此の日本国が出来たわけです。
(後略)
『精神科学』昭和四十八年八月号15頁 谷口雅春 先生著
1615
:
うのはな
:2012/11/15(木) 17:37:44 ID:XuKa5ZNI
指導者の心構へ
個人指導をするということは、迷っている凡夫(相手)を、神の子なる自分が指導するのではなく、
あくまでも、神の子(自分)が神の子(相手)を導かして戴く、相手の神の子なる実相を拝ましていただく行であり、
如何に迷い苦しんでいるように見える相手であっても、その迷いの奥にある神の子なる実相を拝み出す行であるのであります。
つまり、自分が指導するのではなく、無我になって相手の実相を拝むときに、自分を通して神の言葉が流れるのが、個人指導であります。
相手を導くのは、常に「自我」ではなく、「我がうちに宿る神」であります。
このことが理解されますとき、指導する人の態度と言うものは、自らわかってくるのであります。
相手が訪れて来て、最初に逢った時に、いきなり相手にいろいろと尋ねるのではなく、先ず、相手を自分の前に坐って貰って、五分間神想観をし、
「唯今より、神の無限の智慧、無限の愛に導かれて、指導をさしていただきます。私の使う言葉は、神の御言葉であり、それによってこの方の実相が
顕現し、神の御栄えが現われますことを感謝いたします」
このように祈って、「我が業は我が為すに非ず、天地を貫きて生くる租神の権能」と深く念じて、それから相手の実相を拝み導き出す聖なる行が始まるであります。
くわえ煙草で、「どうしたんだ!」というような調子や、酒気をおびて指導をすると、たとい口から出る言葉は、どんなにすばらしくても、何か小馬鹿にされたような印象を
相手に与えるもので、それでは宗教的な聖い行としての個人指導という印象を相手に与えることができません。
相手は思い余って、苦しくて来ているのですから、小馬鹿にされたような感じでも、救われたい一念で指導を受けるには受けますが、第一印象に悪い感じを与えておきますと、その
指導した人が嫌われるだけでなく、生長の家の個人指導を受けたのですから、結局、生長の家を嫌うような結果になります。
折角、指導して病気を治しておきながら、その人が生長の家へよりつかない理由の一つに、このような理由もあるのであります。
「尊敬すれば尊敬される」というのは「心の法則」でありまして、相手がどんなに困って憐れな状態にあっても、相手の神の子の実相を拝み、尊敬して指導すれば、その人は自分を長く尊敬
してくれ、延いては生長の家を尊敬し、生長の家からはなれることはありません。
「馬鹿にすれば馬鹿にされる」のは法則です。
生長の家の指導者の個人指導であるということは、普通の人生相談とは違うのでありまして、「相手の実相を礼拝し、導き出す聖なる行」であるということを、深く認識して、宗教的雰囲気の中で
行われなければならないのですから、最初に神想観をして相手と共に神に祈る行から、始めらるべきであります。
この祈りで始まりますと、生長の家を全然知らないで来た人でも、何となく暖い愛情を感じ、指導者に対する態度も、真面目に真剣になり、厳粛な指導ができるのであります。
「個人指導の指針」『生長の家』誌 昭和三十三年三月号 徳久克己教務局長
1616
:
SAKURA
:2012/11/15(木) 21:36:52 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より …… ①
=======【抜粋文】================================
悲しいことがあれば、喜びの初めである。イエス・キリストも「幸福(さいわい)なるかな
悲しむ者。その人の慰められん」と言っている。物質の満足に五官の表層を快く楽しませてい
たような人が、その物質なる富が眼の前から剝落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あ
るいは眼の前から姿を没しようとする時に、その人は悲しむのである。悲しむだけ悲しむがよ
い。涙はその人の心の汚れを淨めるであろう。淨まり淨まったとき、本当の世界は物質の世界
でなかったということがわかるである。淨まり淨まったとき、本当の人間は物質の肉体ではな
かったことを知るのである。「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、死ん
ではいないのであって、彼が生きた程度に従って、より自由に生き通していることをしるのである。
人間は死なない。ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。このことに
ついては、『生命の実相』の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。
肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びる
ものである。陛下のために、国家のために、全国民のために、何を献げて死することができるな
らば光栄これに渦ぐるものはないではないか。 谷口雅春著
===========================================
■この現実世界=現象世界に於きまして【物質…】に恵まれた方は〜〜〜?
確かに!明るい…朗らかな…“顔”です〜〜〜ョネ!!それが、ある日、困窮な状態になり
【天 と 地 が 逆 転】した様な状態になりますと、もうその人の“顔の相”は貧窮そのもに、
なりやすい方が、多いです〜〜〜ョネ!!
私の故郷…FUKは、そのような方が、余りにも多いですかと?思いますネ!!
「やさしさの欠如?」とか…言いわれるかもしれませんが???
【見えッパリ!で…第三者から良く見られたい!感覚】なのでしょうか???それにて“ビックリ”
本当に、帰郷しましてから【整形…がダントツ!ベストテン!】それは、それでいいのですが?
個人の自由でも「参考写真…」にての【尾行…】は、■【法律上…】かと??
更に、今は【整形の材料不足…?なのでしょうか?】ですから“安価な材料”でしていますと、
【後・後〜〜〜後に後遺症…】更に【崩れた顔…】が???
このような状態の時こそ…【反省…】を持つべき事ではと、思う次第なのですが???
ここFUKのシンガ−【涙も?つくり涙…“松田聖子の作り涙”…】で、その当時は、
ごまかして、随分もてはやされた記憶があります。…が?それなりの事が、その人に帰って来る
のです〜〜〜ョネ!!“顔…”も、確かに、ある一定の年齢になりますと、【整形…】しなくても
それなりの【老化…】は有るのです。…が???
(つづく)
1617
:
SAKURA
:2012/11/15(木) 21:39:31 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
投稿の続きです。…が
>>1616
>>①続き投稿です…。
「生命の実相 37巻 より …… ②
■昨日【森 光子さんが亡くなった訃報ニュ−ス】心から、故人の御冥福をお祈り申し上げます。
さて、話はブレイクしますが…これを同じように、考えてしまいました。が??
「亡くなられました森光子さん」は、確か【東京・帝劇のビルの工事?】でしばらく【休業宣言】…
されて、その後の“若作り…”でしょうか??【整形…】されての登場です。
登場されました時は、「可愛い〜お祖母ちゃん風での若者のスタイル」と言いますか?“ビックリ”
でしたが??これもまた「黒幕デザイナ−」に、そそのかされての【整形…】でしょうか……?
失礼ながら、やはり“顔…”は?肉体の老化も含めまして“壊れる”ので、何度も修正です。
観ていて…悲しくなりました。…が?もし【整形…】されずにいたら?肌の状態も良い方でしたし、
モット〜ピチ!ピチ!した印象で【永遠の舞台俳優として…】脳裏に?心に?残ったと思います。
そして「森光子さん」の画像を追っていく内に【デビュ−?遅し?】でしたのでしょうか……??
或る写真をみて“ビックリ”くぎづけで、まるで【私の亡き母の顔】そのものでした。
洋服も「亡き母」の学生時代の洋服に似ていましたから…まるで!まるで!【合成写真…】
でしょうか??この様にしてまで〜〜〜>< あの素晴らしい“笑顔“…その人が「森光子さん」
私の心には存在として残っています。…が?あの好感ある“笑顔の森光子…さん”は〜〜〜
■【霊界世界…】からの考えでは
【整形…】されますと“生まれた時の本来の顔”・“過去の顔”“を抹殺される事では〜〜〜?
ならば【肉体は〜〜〜】???本当に“日本人”としての自覚での【誇り】で亡くなられたら?
本当に、モット!素晴らしいのですが???そこまでの気持ちではなく…
【肉体人間としての執着…】でしたらと、一瞬!考えましたが??後で?【女子会…】で、
「亡き母」に似てる「森光子の写真…」を“投稿”しようかしら〜〜〜ン??
そうこうするうちに、既に…“デリ−ト”かと…??
http://matome.naver.jp/odai/2135293700899758901
(参照URL…)
❤〜 パ−マの“ヘヤ―スタイル”の白黒写真で、冒頭に“宝塚風?”の顔写真
ブレイクしますが「亡き母」は50代になってから、ある人から「若い時は美人だったネ」と、
言われたそうで、当時の母は“ビックリ…”本当に、自覚のない母でしたから〜〜♫〜〜
「もっと!母を取りまく周りの方々が、同じ事を言って下さっていたら?」と、笑って良く
私にもパ−トナ−にも、よく話したものです。…が?その「亡き母」は、いつも“素顔”でした。
…が?■【霊界通信?霊の世界】からの知識を頂くようになりまして、「亡き母」は、今頃は?
手入れされてない“顔”で、私の心の中にある“見なれたいつもの顔”であの世に行きました。
そうです〜〜〜ョネ!あの頃の「亡き母の時代」では【美人像…】
確か?“丸顔”・“ぽっちゃり”…etcが【美人像の条件】でしたかしら〜〜〜ン
「亡き母」の顔は“面長美人”でしたので?当時は受け入れられない時代の背景でしょうかと。
今回の事を踏まえてみまして〜〜〜【整形…も】繰り返しの事なんでしょうかと??
【一つの比喩論…】で、考えた次第です。…が???
■【肉体人間…ではなく霊体人間…との自覚を持つ事が、全ての“物事の始まり〜♫〜”】でしょう。
再合掌
1618
:
ハマナス
:2012/11/15(木) 23:15:43 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
神御自身の自己完成 (『新版 生活の智慧365章』P.288)
人間は神の最高の自己実現であり、神の愛し児であり、神の全内容を完全に具象化したもの
なのである。若し人間が地上に生れなかったならば、神はその創造のみ業(わざ)を、ただ
大自然力にまかせるだけで、それを完成することができなかったに相違ないのである。だから
人間が地上に出現したと云うことは、神の希望の実現であり、目的の達成であり、神御自身
の自己完成であるのである。だからあなたは神にとってまことに尊き存在なのである。
若し人間が地上に生れなかったならば、神は自己完成を遂げることが出来なかったのである。
神は人間を通してのみその理想を地上に投影することができるのである。だからあなたが若し
心を澄まして、神の“声なき声”を聴くべくつとめるならば神は、あなたが如何に行動するが
最もよく、神の理想を地上に実現し得るかを示し給うにちがいないのである。そしてその啓示
に素直に従うとき、あなたに祥福は実現するのである。
感謝合掌
1623
:
ハマナス
:2012/11/16(金) 09:31:36 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
おはようございます。
神と偕に生活する (『新版 生活の智慧365章』P.289)
心を澄まして神の声を聴くには、神想観を為すがよいのである。「衆生、仏を億念すれば、
仏、衆生を億念したまう」と仏典にある通り、私たちが神を億念すれば、神の億念(衆生に
対する愛念と叡智の導き)を感受することができるのである。神は私たちが神を億念しない
時にも億念していられるのであるけれども、私たちの心が神に振り向かない時には、神の
億念を私たちは感受することができないから、神が憶念し給わないのと同じような事なのである。
何事を為すにも、神にそれを訊いてからその通り実行するならば、自力的努力に無駄な時間と
エネルギーとを浪費することなく、物事が順調に運んで行くようになるのである。自力的に刻苦
する時間を神と交通し、神を讃美し、神に感謝し、神との一体感を深めるために費やすならば、
あなたの生活は、もっと明るいもの、豊かなるもの、順調に過ぎ行くもととなるに相違ないのである。
感謝合掌
1624
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うのはな
:2012/11/16(金) 18:31:54 ID:AjOElYbo
ラザロの復活
キリストがラザロを復活せしめられた原理もそれであります。
『聖書』に書いてあるところのキリストが多くの難病を治したと云う奇蹟は、あんなことは
ある筈がない、嘘なんだろう。あれは弟子がキリストを尊敬して、わざと箔をつけるためにあんな
事を書いたんだろうと云う様な人があるかも知れませんけれども、あんな出来事は実際にあり得るのです。
今でも「生長の家」の誌友は、現象を超えて「実相」を完全に観る力が強烈であれば馬場久さんのようにできるのです。
それでキリストはラザロを見て、「死せるに非ず、寝ねたるなり」(ラザロは死んでいるんじゃない、生きているんだ)と、
ラザロの「完全な実相」を見給うて、「起きよ」と言われると、四日間も墓の中に入って腐ったようになって、異臭芬々たるラザロが、
むくむくと起き出して治ったのです。
この場合に注目しなければならないことは、キリストが病気を治された場合にですね、ただの一度も「お前は病気であるから治してやる」と
仰言った事が何処にも『聖書』に書いてないことであります。いつも「床を取り上げて歩め」とか、「起きよ」とか「汝の罪ゆるされたり」とか、
患者の眼に泥を塗って、「汝の目をシロアムの池へ行って洗え、お前は見える」と仰言ったりしているだけで、何処にも病気を治したと云う様な事は
言われていないのであります。
イエスは病気を見なかった。ただ「完全な実相の人間」だけを見られたのです。
病気を見る世界に於いて病気が出て来る。戦を見る世界に於いては戦が出て来る。争いを見る世界に於いて争いが出て来るのであります。
その逆にですね、「争いなんてないんだ」とこの世界を観れば、争いが無くなるのであります。
ですからキリストが生まれつきの盲の少年を癒され時に、ユダヤ人達があんな者が治す筈がないなんて言っている時に、癒され少年は、
「私を治したのは神の子イエスである」と言う。
すると、キリストはユダヤ人たちに、「汝等の見ゆと言う罪は遺れり」と言っていられる。
肉眼がひらいて見えると言っている者は、肉眼で見えているところの世界を、病気のある世界を、争いのある世界を妄想によってアルと見ている。
「自分たちは肉眼がよく見えるんだ」と偉そうに言っている者の方が却って盲なんだ。
これが「汝らの見ゆと言う罪は遺れり」とイエスが言われた意味であります。
現象の争いとか、病気とかは妄想のあらわれに過ぎませんから、そんなものを見ないで、「実相」を深く強く諦かに観たならば、そこには悪いものは
ひとつもないと云う事実があらわれてくるのであります。
『日常生活の真理』無門関・聖書篇 谷口雅春 先生著 P181−182
1627
:
NANCY
:2012/11/16(金) 20:15:44 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
■■【気 付 き 宣 言】……
以前から思っておりましたが〜〜〜?“不思議…”な気分と言いましょうか?
投稿者の方の中に…下記にて【例…】と致しまして、投稿させて頂きました。【オカシイ?】ですネ
■■【嫌がらせ〜〜?】【奥殿に行かせるため〜〜?】……etc なのでしょうかと??
〜〜【抜 粋 例】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
❖名前:<削除> 投稿日: <削除>
<削除>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■変!変!〜〜〜〜〜〜〜 変!です。
1)「投稿者…本人」の【 ID??? 】も記載されていません。
しかも【 投稿 時間 】も……記載されていません。…が???
2)しかも??何も 【 投稿文章…】も?ありません。…が?
3)【最高裁…判決】前に致しましての…当に【嫌がらせ…行為】でしょうかとの判断ですが??
閲覧します上でも…【気分が…??】悪いモノのです。…が?
■■「管理人…トキ様」は、この件を、どの様にお考えなのでしょうか……???
果たして、注意の対象にならないのでしょうか……?
再合掌
1628
:
うのはな
:2012/11/16(金) 20:32:27 ID:9TO4H8Ho
死刑を免れた話
遠藤義雄さんという人が、海南島で戦争中何か役職をしておって、終戦後、戦犯になって
死刑の宣告を受けたという話が『真理は死刑の鎖を断つ』という本に書いてあります。
その遠藤義雄さんは、死刑の宣告を受けて、今日死刑になるか、明日死刑になるかと待っておったが、一遍に
処刑出来ないので、ぼつぼつと順番に死刑になるんですが、或る日のこと、大尉の一人が死刑になるというので、
“もう死刑になるのにこういう書物を持っておっても仕方がない”というので『生命の實相』の第六巻と、ちり紙に鉛筆で
写した『甘露の法雨』とを刑場へ行く道すがら監獄の鉄格子の間からほうり込んでくれたのです。
遠藤さんは、何をほうり込んでくれたかと思って見ると、『生命の實相』の第六巻です。
それは『萬教帰一篇』で、それには、生長の家の教えというものは、一宗一派ではないのであって、万教は「人間は肉体ではなく、
霊的存在である」という一つの真理に帰一するものである、ということがかかれているところでありますが、その『生命の實相』と、
ちり紙に写した『甘露の法雨』とを手に入れた遠藤義雄さんは、監房におっても暇ですから、それを繰り返し繰り返し読んだのです。
そのうちに、人間は肉体にあらず物質にあらず、肉体というものは人間の生命の外套みたいなものであって、この世の中に、ある仕事をする
期間だけ、この肉体はその道具として存在するのである。
肉体というのは私じゃない、自分そのものじゃない、これは自分の外套に過ぎないんだ、そしたらこの外套が死刑になったって私は死なないんだという
自覚を得られたのです。
その『生命の實相』のところどころに「神想観」をやるように勧められてあるが、遠藤さんには神想観のやり方というのがわからんのです。
神想観のやり方は第四巻に書いてあるもんですから、よくはわからんけれども、神想観をしたらなんとかということが、いろいろのところを読んでいると、
何か招神歌をとなえて、真っすぐに坐って合掌するものだということぐらいは想像がつくのでした。ところが『甘露の法雨』のちり紙に写したのに招神歌が書いてあったので
遠藤さんはあれを一心に念じて、瞑目合掌して招神歌三昧になっておったのです。
海南島ってところはあたたかい南方ですから、もう藪蚊がいっぱいいて、坐っていると胡麻を振りかけたように身体に蚊がとまるけれども、神想観をしていると一向螫さんのであります。
神想観をやめて身体を動かすとブーンといって一斉に飛んでゆくけれども、身体にいっぱいとまっていながら、ちっともさしていないのです。
或いは遠藤義雄さんのベッドから南京虫がぞろぞろぞろぞろぞろと、どこかへ集団移動を始めて、もう決し螫さなくなったというのです。
そういう奇蹟的事実もあったのです。しかしこれは奇蹟というよりも、自分の心が変われば、南京虫にさされるという運命も変わってくるという訳です。
遠藤さんは、さて、愈々自分の死刑の順番が廻ってくる頃だと思うのですけれども、死刑の順番が廻ってこないのです。
或る日、看守が..その看守は、遠藤さんが、いつも合掌して敬虔な態度をとっていたのでしたが、神想観をしてから非常に深切になってきていたのです
その看守が、「遠藤さん、あんたはね、死刑にならんよ。」と言うのです。
「死刑にならんと言ったって死刑の判決が下っているんだから。」「しかしね、遠藤さん、私は今まで多勢の死刑になった人を見ているがね、死刑になる人はみな
死相をあらわしているけれども、あんたには死相があらわれていない。あんたは、蒋介石に、自分は無実であると、戦犯になる筈はないという理由を書いて、無罪になる請願書を
出したかね。」と言う。
「いや、軍には出したけれども蒋介石には出さない。」「軍になんか出してもだめだよ。そんなものは途中でにぎりつぶしてしまうから。だから、蒋介石の中央政府に直接出さなければいかん。
私が、それの手続きしてあげるから書きなさい。」
看守は深切にもこう言ってくれまして、いよいよ蒋介石の中央政府へ無罪放免の請願書を差し出したら、それが許可になって、執行される筈の死刑が執行されずに救かって内地に帰ってこられて、
諸方で『生命の實相』の第六巻を自分で一万冊売るという悲願をたてて講演して歩いておられましたが、この遠藤義雄さんの場合なぞも、当り前なら死刑になる運命をもって、既に死刑の判決が下って、今日それが執行されるか、明日執行されるかという瀬戸際に来ていたのです。
明日それが執行されるかという瀬戸際に来ていたのです。それが、心が変化することによって運命が変わってきたものであるということがわかるわけであります。
『人間そのものの発見とその自覚』 谷口雅春 先生著
1629
:
NANCY
:2012/11/16(金) 21:04:42 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
昨日【SAKURAさんの投稿】内容を…まだ閲覧されていらっしゃらない方が…と思い【再投稿…】
===【再投稿文】====================================☆
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より …… ①
=======【抜粋文】================================
悲しいことがあれば、喜びの初めである。イエス・キリストも「幸福(さいわい)なるかな
悲しむ者。その人の慰められん」と言っている。物質の満足に五官の表層を快く楽しませてい
たような人が、その物質なる富が眼の前から剝落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あ
るいは眼の前から姿を没しようとする時に、その人は悲しむのである。悲しむだけ悲しむがよ
い。涙はその人の心の汚れを淨めるであろう。淨まり淨まったとき、本当の世界は物質の世界
でなかったということがわかるである。淨まり淨まったとき、本当の人間は物質の肉体ではな
かったことを知るのである。「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、死ん
ではいないのであって、彼が生きた程度に従って、より自由に生き通していることをしるのである。
人間は死なない。ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。このことに
ついては、『生命の実相』の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。
肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びる
ものである。陛下のために、国家のために、全国民のために、何を献げて死することができるな
らば光栄これに渦ぐるものはないではないか。 谷口雅春著
===========================================
■この現実世界=現象世界に於きまして【物質…】に恵まれた方は〜〜〜?
確かに!明るい…朗らかな…“顔”です〜〜〜ョネ!!それが、ある日、困窮な状態になり
【天 と 地 が 逆 転】した様な状態になりますと、もうその人の“顔の相”は貧窮そのもに、
なりやすい方が、多いです〜〜〜ョネ!!
私の故郷…FUKは、そのような方が、余りにも多いですかと?思いますネ!!
「やさしさの欠如?」とか…言いわれるかもしれませんが???
【見えッパリ!で…第三者から良く見られたい!感覚】なのでしょうか???それにて“ビックリ”
本当に、帰郷しましてから【整形…がダントツ!ベストテン!】それは、それでいいのですが?
個人の自由でも「参考写真…」にての【尾行…】は、■【法律上…】かと??
更に、今は【整形の材料不足…?なのでしょうか?】ですから“安価な材料”でしていますと、
【後・後〜〜〜後に後遺症…】更に【崩れた顔…】が???
このような状態の時こそ…【反省…】を持つべき事ではと、思う次第なのですが???
ここFUKのシンガ−【涙も?つくり涙…“松田聖子の作り涙”…】で、その当時は、
ごまかして、随分もてはやされた記憶があります。…が?それなりの事が、その人に帰って来る
のです〜〜〜ョネ!!“顔…”も、確かに、ある一定の年齢になりますと、【整形…】しなくても
それなりの【老化…】は有るのです。…が???
(つづく)
1630
:
NANCY
:2012/11/16(金) 21:07:29 ID:jH5uEFzM
>>1629
の続き投稿です…。
===【再投稿文】====================================☆
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
投稿の続きです。…が
>>1616
>>①続き投稿です…。
「生命の実相 37巻 より …… ②
■昨日【森 光子さんが亡くなった訃報ニュ−ス】心から、故人の御冥福をお祈り申し上げます。
さて、話はブレイクしますが…これを同じように、考えてしまいました。が??
「亡くなられました森光子さん」は、確か【東京・帝劇のビルの工事?】でしばらく【休業宣言】…
されて、その後の“若作り…”でしょうか??【整形…】されての登場です。
登場されました時は、「可愛い〜お祖母ちゃん風での若者のスタイル」と言いますか?“ビックリ”
でしたが??これもまた「黒幕デザイナ−」に、そそのかされての【整形…】でしょうか……?
失礼ながら、やはり“顔…”は?肉体の老化も含めまして“壊れる”ので、何度も修正です。
観ていて…悲しくなりました。…が?もし【整形…】されずにいたら?肌の状態も良い方でしたし、
モット〜ピチ!ピチ!した印象で【永遠の舞台俳優として…】脳裏に?心に?残ったと思います。
そして「森光子さん」の画像を追っていく内に【デビュ−?遅し?】でしたのでしょうか……??
或る写真をみて“ビックリ”くぎづけで、まるで【私の亡き母の顔】そのものでした。
洋服も「亡き母」の学生時代の洋服に似ていましたから…まるで!まるで!【合成写真…】
でしょうか??この様にしてまで〜〜〜>< あの素晴らしい“笑顔“…その人が「森光子さん」
私の心には存在として残っています。…が?あの好感ある“笑顔の森光子…さん”は〜〜〜
■【霊界世界…】からの考えでは
【整形…】されますと“生まれた時の本来の顔”・“過去の顔”“を抹殺される事では〜〜〜?
ならば【肉体は〜〜〜】???本当に“日本人”としての自覚での【誇り】で亡くなられたら?
本当に、モット!素晴らしいのですが???そこまでの気持ちではなく…
【肉体人間としての執着…】でしたらと、一瞬!考えましたが??後で?【女子会…】で、
「亡き母」に似てる「森光子の写真…」を“投稿”しようかしら〜〜〜ン??
そうこうするうちに、既に…“デリ−ト”かと…??
http://matome.naver.jp/odai/2135293700899758901
(参照URL…)
❤〜 パ−マの“ヘヤ―スタイル”の白黒写真で、冒頭に“宝塚風?”の顔写真
ブレイクしますが「亡き母」は50代になってから、ある人から「若い時は美人だったネ」と、
言われたそうで、当時の母は“ビックリ…”本当に、自覚のない母でしたから〜〜♫〜〜
「もっと!母を取りまく周りの方々が、同じ事を言って下さっていたら?」と、笑って良く
私にもパ−トナ−にも、よく話したものです。…が?その「亡き母」は、いつも“素顔”でした。
…が?■【霊界通信?霊の世界】からの知識を頂くようになりまして、「亡き母」は、今頃は?
手入れされてない“顔”で、私の心の中にある“見なれたいつもの顔”であの世に行きました。
そうです〜〜〜ョネ!あの頃の「亡き母の時代」では【美人像…】
確か?“丸顔”・“ぽっちゃり”…etcが【美人像の条件】でしたかしら〜〜〜ン
「亡き母」の顔は“面長美人”でしたので?当時は受け入れられない時代の背景でしょうかと。
今回の事を踏まえてみまして〜〜〜【整形…も】繰り返しの事なんでしょうかと??
【一つの比喩論…】で、考えた次第です。…が???
■【肉体人間…ではなく霊体人間…との自覚を持つ事が、全ての“物事の始まり〜♫〜”】でしょう。
再合掌
1631
:
神の子さん
:2012/11/17(土) 08:35:29 ID:???
>>1630
故人を勝手な憶測で貶めて恥ずかしく無いのでしょうか?
これが証拠だ!と整形医院のカルテ(ありえませんが)を提示されたとしとも、生長の家の信徒だと名乗る方の行いとは思えません!
そのようなことはそっとしておいてあげるのが、信仰者の姿では?
1632
:
トキ
:2012/11/17(土) 09:40:16 ID:Ejcv9Jp2
>>1630
ご投稿、ありがとうございました。
森光子さんの事、また私も書かさせていただきます。
ただ、整形の話は私も聞いた事がありません。
あと、趣旨から考えると、できれば聖典板よりも部室か別室でお願いをいたします。
せっかくご投稿して下さったのに、注文をつけまして、すみません。
今後とも、ご投稿をお願いいたします。
合掌 ありがとうございます
1633
:
a hope
:2012/11/17(土) 10:23:35 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう
♦何事も積極的に
物事を消極的に考える人は何事も成就するものではありません。
消極的と云うと何でも悲観的に考えることです。
悲観的と云うと、何でも「悪くなるかも知れぬ」と云う方から見て、
物事を引込み思案の考え方をすることであります。
一時の勝ちに乗じて度を過ごすのはよくありませんが、何をするにも、
悪くなるかも知れぬと思って尻込みしているのでは、大きな仕事は出来ようがありません。
原子爆弾でも、そんな巨大(すごくおおきい)なエネルギーが実用になるものかと、
日本が消極的に尻込みしている間に、アメリカはそれを研究してとうとう戦争に最後の勝利を勝ち得たではありませんが。
(つづく)
1634
:
a hope
:2012/11/17(土) 10:27:39 ID:lAQRWvUs
>>1633
訂正 最後の行
勝ち得たではありませんが。→勝ち得たではありませんか。
1635
:
NANCY
:2012/11/17(土) 20:26:31 ID:jH5uEFzM
トキ様 ヘ
観覧者の皆様 ヘ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
私の【再投稿…】が、問題になっているようですが…最終的に申し上げたい事は??
>>1629
>>1630
の投稿に関しましてですが……
❤【信仰…】この根本は“精神の向上…つまりは心の向上”と、申し上げたかったのです。…が?
■■『 生長の家 』の観相学 ≪谷口雅春先生の言葉より抜粋投稿≫
―― 手相よりも人相よりもその人の心である ――
>私たちが信じなければならないのは“形”のもとになっている“心”を如何にもつかという
ことである。心を明るくしてもてば運命も明るくなり、人相も明るくなる。
心が、「あらわれの形」に捉えられて自由を失い、心が暗くなれば運命が暗くなり、人相も暗く
なるのである。< (一部抜粋)
>人の相を観る事を観相学と申します。人の相貌を見てその人の心を占うのであります。そして
心そのものがその人の運命を左右するのでありますから、人相を見れば心がわかり、心がわか
れば、その人の運命もわかるということになるのであります。そのことを引っくるめていえば、
肉体は心の影ということになります。< (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■『信仰者…』としての一番の心構えは??【心!!心!!そのモノの向上】では……
ないのでしょうか?…
ましてや?全く違う【もう一人の顔…その虚像の顔?】この事は、如何なものでしょうかと?
「整形…」とは、自分自身の“欲望…”??からなされますのでしょうかと?
果たして、厳密に申しますと? 外見からの優先しての“信仰…論?”なのでしょうか…??
■■その場合、価値ある本当の【個人指導…?】何処まで出来ますのでしょうか〜〜〜??
余談ですが…
【故人…森 光子さん】あの“素敵な笑顔…”誰よりも!心に残っています一人です。
晩年の彼女の顔…(東京・帝劇…ビル再建)という事で…しばらく?引退の様な状態に、なって
しまいました。…また?あの素敵な“笑顔〜♫”を、映像の中で観る事が出来ますでしょう!
その矢先にでの【訃報…】悲しい限りです。
此処にて、あらためまして故人のご冥福を心からお祈り申し上げます・・・。
再合掌
1636
:
ハマナス
:2012/11/17(土) 20:40:12 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
神の声をきく (『新版 生活の智慧365章』P.290)
今、あなたがどんな困難と見える問題に直面していられようとも、それについてあなたは
心を悩ます必要はないのである。心を悩ますかわりに神の方へ振り向けばよいのである。
「神の方へ振り向く」と言っても、外方へ振り向くのではなく「自分の宿る神」に振りむく
のである。肉体は生命がその波動でつくった“神の宮”である。神が其処で、自己実現し
給う“場”であるのである。神想観に於て内在の神を呼び出し、それに対して話しかけるが
よいのである。
神の声をきくには日常生活が浄くして神が其処の鎮まりますに相応(ふさ)わしくなけ
ればならないのである。だから能(あた)う限り「これは清浄なり」と自己がみとめ得る
生活を送るがよい。投げやりに肉体生活を汚(けが)して置いて、さて“困ったときの
神頼み”では神の子の皆さまの心に波長が合いそうにないのである。常に神と一体の自覚を
持つために生活を清浄にすると共に常に神想観を怠らず、神に波長が合うよう努むべきである。
感謝合掌
1637
:
SAKURA
:2012/11/17(土) 21:33:35 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より ……
=======【抜粋文】================================
素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわい
がられる。素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがられる。夫婦仲が悪いとか、家庭が
おもしろくないという人があるけれども、それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからであ
る。神のみふところに飛びつく者は神に愛される。 谷口雅春著
============================================
PS:【 素直さ?】が一番いいのでしょう〜〜〜かと…?
■例えば…混沌とした現在の社会問題になっています【幼児虐待…】ネガティブな話になりますが?
この様に“両親に虐待された環境に育った子供”は、“素直さ?”より、まず!“怖い…”が
先に優先となりますでしょ〜〜〜か!そのような“環境の子供”は、どうなるのでしょうか??
更に、“素直な子供に育つ事”は、もちろん“環境”更に“両親の愛”も幾分含んでいますから、
今回のこの“表現…言葉”も、捉え方が難しいです〜〜〜ョネ???
特に現代と言います時代背景に於きましては〜〜〜実に“難問”になりますでしょうか?
■更に、学校の教師が、ある子に対しまして“エコひいき…”します〜〜〜ョネ!!
そのような事を、学生が見て生じます“感情論…”ですと、これも“大人”に逆らう事になり、
【素直ではない!!】とか?その学生に対しての“評価”の言葉になるのではないのでしょうか?
■そして【夫婦の問題…】でも、単なる【夫婦間の問題】でしょうが〜〜〜?
よ〜〜〜く考えますと、それを飛び越えた【問題…】がある…例えば、相手の女性に手を上げる
暴力的行為は…果たして?それは女性はそのまま【素直…】に受け入れる問題でしょうか???
この【素直の表現】が、果たして【何処の階級の対象??】なのかを、今いま初めて思うのです。
一歩間違いますと…【表現も素直…】という“対象相手”が〜〜〜?相手の内容によっては、
かなり異なりますでしょうかと??(個人的な体験?経験?も踏まえて…)
「雅春先生」の当時の戦前の階級は、まぁ〜〜〜良家の家庭対象か??知識階級か?及び…
ある程の度富裕族か?…etcこの様な“環境での人達”の【対象論…】でしょうか??
それでも、この【表現…】は“ケ−ス・バイ・ケ−ス”です〜〜〜ョネ???
まず!この様な私の解釈論…同じような解釈をされます方が周りに〜〜〜><世の中ですが???
まず【素直に神様…に、すがる事!!全托!!】でしょうかしら〜〜〜ン???
❤【素直さ…が、祈り】に繋がるのでしょうかと思う次第です。…が?
これについては、【次回!別のボ−ド板】で、【素直〜♫】について“投稿”してみようと思います。
再合掌
1638
:
ハマナス
:2012/11/18(日) 18:40:41 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。
心を神に振り向ける (『新版 生活の智慧365章』P.291)
若し病があるならば、常に神に心を振り向けよ。神は常にあなたの全身に新しき活力を
流れ入らしめ給いつつあるのである。その事を憶(おも)い出して念ぜよ。憶い出して念
ずることは、それに対して波長を合わせることになるのである。人間を物質として取り扱う
健康の法則は、時として「知恵の樹の果」を食して“エデンの楽園”を追い出されたアダム
のように、健康の世界から人間を追い出すことになるのである。不消化な食物を食べたから
胃が痛むとか、不眠が続くから頭痛がするとか言う人があるけれども、物質としての胃も、
頭脳も、それが単なる物質である限りに於て、物質は家具什器と同じようなものであるから、
それが痛いと云う感覚を起こす筈はないのである。
「痛む」と云うのは心が痛むのである。“心が痛む”限りに於て、不消化とか不眠とか
云う肉体的物質的原因そのものが「痛み」の原因ではなくて、不消化とか不眠とか云うもの
に引っかかっていて恐怖する心が「痛む」のである。だから寧ろ病気の原因と認められる
ようなものを心で認めない方が、心がそれに引っかかって痛むことなく痛みが早く治るので
ある。病気の物資的原因を探(たず)ねるひまがあったら、心を神に振り向けよ、そして
神から新しき活力が間断なく流れ入るつつあると云うことを心に念ぜよ。
感謝合掌
1639
:
NANCY
:2012/11/18(日) 20:54:16 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)【NANCY】です。
>>1635
の投稿の続きです。
■■『 生長の家 』の観相学 ≪谷口雅春先生の言葉より抜粋投稿≫…
>人間の心は常に変化するものであります。だからその人の人相も常に変化するもので
ありまして、怒っているときには地獄の相でありますし、笑っているときはエビスの相であり、
極楽の相であります。しかし笑っていても怒っていても、しかしその奥にはその人でなければ
ならない特色ある性格があるのでありまして、その性格というのは一時的な笑いとか怒りとか
ではない―――心が習慣的にある一定の方向に向いているのが性格であります。そこで、一時
的な喜びとか悲しみとかいう心の感情をぬきにして、喜んでも悲しんでもいないときにも、あ
る想いの習慣性が心の底にながれていまして、それがまた人相として象徴(かたち)に現れて
いるのであります。< (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■【人間の心】…常に変化するから?【進歩向上…】へと繋がりますのでしょうかと、思います。
ところが?ある時点で?「後退…」へと…その場合は【ネガティブ感情・思考】でしょうかと?
思えます。
❤〜一般的には、個人の【心の持ち方…習慣性】が、多少は関与しますでしょうと思えます。…が?
精神的に“気落ち”しています場合は、当然の事ながら“鏡の中の私の顔…”覗き込みますと…
そうです〜〜〜ョネ!雅春先生の表現で行きますと【地獄の相】でしょか?
当に【心が形として…表れる】という事でしょう…。“顔の相”反省で〜〜〜す。
❤〜肉体とは……「雅春先生」も、おっしゃつていますが、
「『念』に従って一つの組織を現ぜるもの」・「心の影」・「心の波動の影」「想念の影」……etc
肉体と云いますモノは「現実=現象世界」での五官で見えるモノではなく、あくまでも……
『肉体…心の影』にて、あらわれる事を、おっしゃつています。格言にも「病は気から〜♫〜」かと。
つまりは【心…次第で肉体は?どうにでもなる〜〜〜の?】でしょうかとの判断になります。
■【心…】姿・形として“顔”に表れる…という事は、
ある面では【心の持ち方…最高の医療機関…整形医】でしょうか……??これは普遍でしょうか??
そして、この時こそ、当に【心…魂の向上】へと繋がりますから…ある面では、真の意味での
『人の救済…』が出来る状況になるのではないのでしょうか???
改めまして【心…魂の向上】を、私なりにレッスンして参りたく思います。
再合掌
1640
:
a hope
:2012/11/19(月) 08:17:50 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第七章 明るい心で運命を好くしましょう
♦悪いことを考えるな
「消極的」ということは、引込思案で物をひかえ目にするだけでなく、
病気でも、店の事業でも、「これは悪くなるぞ」という方面から考えたり、
また「悪くなるぞ」と云う言葉を口にしたりすることも「消極的」だと云うのであります。
「景気が悪くなるぞ」「苦難の道が待ってるぞ」「最低生活がやっと出来るほどだぞ」
「屹度(きっと)面白くないことがやってくるぞ」「自分の前途は駄目だ」などと云う考えはみな消極的な考えでありまして、
こんなことを思ったり、言ったりしていたのでは、「思い」の力、「言葉」の力で、破壊的な面白くないことがやってくるのであります。
(第七章 終り)
1641
:
ハマナス
:2012/11/19(月) 10:05:08 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
おはようございます。
心が肉体の主人公 (『新版 生活の智慧365章』P.292)
『人生は心で支配せよ』と云う私の本があるが、“自分の肉体は自分の心で支配施せよ”
である。何故なら、肉体は物質であり、物質はみずからの力にてその位置や構造を変化する
ことができず、その構造する細胞を健全な姿に置き並べ、その病的構造を健全な構造に組み
かえるのは“心”のハタラキであるからである。
その“心”が物質たる肉体に対する“支配者”たることを自覚せず、その “支配者”たる
権利を抛棄(ほうき)して、肉体の病気の物質的原因なるものの前に萎縮して、「こう云う
“物質的原因”があるから、このような病気になる」などと、“物質的原因”を主人公と
みとめて、其の前に拝跪(はいき)するようなことになったならば、“心”の委縮と恐怖
とが、その病的観念を肉体細胞に具象化して、ついに本当に病気を構成し、また新たに病気を
造ることになるのである。併しこの場合も、結局は“心”が主人公であって、その病的観念を
肉体に反映したにすぎないのである。
感謝合掌
1642
:
うのはな
:2012/11/19(月) 12:36:03 ID:cZ3Ym7Bg
仏に遭っては仏を殺し
「仏に遭っては仏を殺し、祖に会っては租を殺す」と禅語にあるのは宗教の師に
遭ったら宗教の師を殺す、そして祖先や父母に会ったら祖先や父母を亡きものにするなどと云う
意味じゃないのであります。
師恩は大切でありますが、本当の師は弟子に何を教えようとしたかと言うと「真理」を教えようと
したのであって、決して恩や愛着を売りつけようとしたのではありません。それなのに「あの先生が止め
たら、私もこの教えを止める」などと云う弟子があるが、これは「愛着」を受けとって「真理」を受け取っていない
のであります。
この「愛着」を断ち切って真理に直参するのが、「仏に遭っては仏を殺し、祖に会っては租を殺す」であります。
家庭に於いても、本当に父母を愛しようと思ったら父母を殺さんといかぬのであります。
こう言っても刀なんかで突いて殺すのではありません。本当に父母を父母たらしめようと思ったならば、父母に対する
愛着を殺さねと父母を父母たらしめることが出来ないのであります。僕でも父母を殺しているのです。
僕は世間的に謂えば、大変親不孝です。九十幾歳の老母を神戸に放ったらかしておるのです。
あれは恩愛の執着を殺しておるのです。恩愛の情を殺して置かぬと父母が父母として本当に生きることが出来ない。
若し私が「最高理想の生活は斯う云う理想の生活だから、お父さんとお母さんこう云う具合いになさい」と言って連れて来て、
そしてその通りにしなさいと言ったらお父さんお母さんは窮屈でとても堪え切れないで、
キッとお困りになるだろうと思うのであります。
一燈園などでは「素恩入無為」と言っています。恩愛の情を一度棄て切って、「無為」即ち、「そのまま」の実相があらわれるのであります。
『日常生活の中の真理』無門関・聖書篇 谷口雅春 先生著
1643
:
NANCY
:2012/11/19(月) 21:01:05 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 ヘ 「観覧者の皆様」 ヘ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
■■『 生長の家 』の観相学 ≪谷口雅春先生の言葉より抜粋投稿≫…
―― 生まれつきの人相はどうして起こるか ――
>また、生れつき帝王になる人相とか、下賤の人相とかいうのがあります。人間はその本質はい
ずれも、神の生命がやどっているのでありますから、その本質においては平等でありますけれど
も、何編も生まれかわって来ているのでありますから、過去世(前世ともいう。この世に生れ出て
来るまでの前の世)において、いろいろ心に思ったことが集積して、それを習慣性の意業として
背負って生れて来ているのでありますから、その心をもっていても死ねばおしまいだから、どん
な心をもっていてもよいというような自暴自棄(ヤケクソ)のことを考えてはならないのであり
ます。
だから、ある意味では、人々は、生まれつき一定の心の習慣(性格)をもっていましたし、そ
の心の習慣にしたがって、一定の人相や体質をもっています。したがって、またその人の運命
もその心の習慣にしたがって大体きまっているともいえるのであります。しかし、大体きまっ
ていましても、心は自由に自分の大決心によっては、どうにでも自分の自由になるのでありま
すから、失望するにあたらない、心の変化にしたがって人相でも体質でも、ある程度変えるこ
とができ、修養の程度にしたがっては、大いに変えることができるのであります。<(抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■先日投稿しておりました「ジュリアの音信」…勿論「仏教」でも?言われておりますが…
『人は生まれかわります…』
しかしこの【生まれかわり…】と云いますのは…例えば「人格…」現在の私自身は、
つまりは「大きな人格…」のほんの一部であって『大いなる自我が限りなく神に近付こうと
進化致しています。やはりかけがえの
ない一個ずつの人格で、同じく神に向かって進化していきます。』
❤〜つまりは【神の生命…神の子たる人格へとの…進化】でしょうか???
そうしますと…当然「神の子…」誰もが「イメ−ジ」としては?柔和な?やさしい目元?…etc
つまり…個人個人で【神の子…としてのイメ−ジ】がありますでしょうから??
その“顔”も当然ながら、それなりの“心の想いが…表れますモノ”と思います。
前回『心は人相にあらわれる』と申しましたが…当に今!与えられていますの【人生劇場…】
に於きましては、この【人格…心の習慣】が、大いに左右するのです〜〜〜ネ!
ネガティブな感情(性格)を何時も心の中に抱いておりますと…確かに“顔…”まで、事実!
暗〜〜〜〜イ“顔”になりますし?これでは“運命”も〜〜〜><ますます下降気味でしょう。
「雅春先生」もおっしゃつていますが
>心は自由に自分の大決心によっては、どうにでも自分の自由になるのでありますから、失望
するにあたらない、心の変化にしたがって人相でも体質でも、ある程度変えることができ、修
養の程度にしたがっては、大いに変えることができるのであります。<(抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
ですから、この【人生…】に於きましての【心の訓練…】です。そうなのです〜〜〜ョネ!
楽しく!明るく!…云々…とか?素晴らし〜〜〜イ!微笑みの顔…モナリザのほほ笑み!とか?
何と申しますか…?私自身が、どの様な“顔…”に「イメ−ジ」出来ますかと…さっそく
毎日!毎日!【心の向上…心のエクササイズ】です。
余談になりますが?【心のエクササイズ…】によります“素敵な顔”…は?
“後遺症”も、ありませんモノ〜ネ!むしろ…【魂も向上】ですから、良いことだらけでしょうか?
■あらゆる宗教の目的は…
キリスト教で申しますと…神の子としての自覚であり……
仏教で言いますと正等覚(さとり)をうることであり……
古神道でいえば『尊(みこと)』としての大自覚であり……
■■人生の目的は、要するにこの世に神の生命を顕現することでります…。と!
『神の子の自覚』…でしょうか?それなりの【行動・雰囲気(表情)…】になりますのではと、
改めて、色々考えてしまいました。…が??
再合掌
1644
:
SAKURA
:2012/11/19(月) 22:01:28 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
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>>1637
>>
投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」がみえて更に人生観が
感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では続き投稿していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より ……
=======【抜粋文】================================
どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。人に嫌われる
のは心に棘があるからである。これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざけるというよ
うな人は、これだけ美しい花がさいているのになぜ人が捨てるのだろうと、みずから疑うバラの
はなようなものである。
とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、その一つ一つを制えようとしてもな
かなか直るものでない。まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。とげとげしい心を捨てるに
は「とげとげしい心」をアリとして制えてもなかなか直るものではない。暗(やみ)は暗をいく
ら押さえてみても消えるものでない。暗を消すには光を持ってくるにかぎる。
とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持ってくるのである。「自分は優しい優し
い人間であって、とげとげしいところはちっともない」と、その反対の念を自分自身にいって
聞かせればよいのである。 谷口雅春著
===========================================
■【バラの花…】の捉え方でしょうか??人それぞれ??
私は【バラの花…】の連想は如何に??なりますでしょうかと??
まず“正しい方向に導く場合”は、時には【棘…】も必要になるとは思うのです。…が?
冷たい中にも、優しさが〜〜〜?含んでるモノ【バラの花…神秘性・気品】その様に思うのです。
「雅春先生」の解説では【バラの花…】の例えは、あまりいい印象が〜><ないのでしょうか?
■【バラの花言葉…】から〜〜〜❤〜
≪バラの花=愛・恋・幸福・乙女・無邪気・清新 バラの葉(希望あり、頑張れ)そして、
バラの茎(不幸中の幸い)〜〜〜≫から連想しますと、やはり!ある意味では、
冷たいところに【愛…❤】があるのです〜〜〜ョネ!!【イギリスの国花…】でもありますモノ!
【バラの茎】からでは、まず!正しい方向に振り向かせるモノが【不幸中の幸い…】と、つい
連想しますから、
【バラの棘…】は、とげとげしい感じに見えるという事は、その反対に…なればいいことでしょう
かと?つまり【心の方向転換…】をすればいいのでしょうか!それは【祈り…】でしょうか??
若い時は、思う通りにならない時、つい周りの“人のせい”にしやすく、これがもしかしますと
【バラの棘…】だったんです〜〜〜ョネ??
今では【私の棘…】は、目の前のビルに、います■【吸血鬼=ゾンビ=叩き男達…】でしょうか??
通勤途中でも、突然の出方で、こちらまで“嫌な気分”になり〜〜〜ついつい“イラ付く”事が?
このような時…【私の心はバラの棘に刺さった気持ち】ですから…
「不幸中の幸いで方向転換」のエクササイズ・トレ−ニング中です〜〜〜ョネ!!
【バラの花…】は、やはり【私の幸せ〰❤】を、授けてくれるものだと思います。…が?
再合掌
PS: トキ様へ
トキ様にとりまして【バラの花…】どの様な連想を抱かれますのでしょうか??
1645
:
ハマナス
:2012/11/20(火) 08:37:05 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
おはようございます。
「心」の自主権を恢復せよ (『新版 生活の智慧365章』P.293)
“心”が自己の唯心所現的な全能力を忘れて病気の物質的原因の前に恐怖し萎縮する
ときは、“心”はその全能力を抛棄(ほうき)し、物質に対する支配権を抛棄して、
物質の権威の前に跪いたことになるのである。本来“自主権”をもつ“心”が、その
自主権と物質支配権とを抛棄した結果は、“心”の本来性と矛盾し、“心”の本来性に
対して不調和となる結果、そこに其の反映として不調和な状態を肉体にあらわる結果と
なるのである。よろしく、“心”の自主権と、物質に対する支配権とを恢復すべし。
感謝合掌
1646
:
うのはな
:2012/11/20(火) 19:22:37 ID:08rsSsiE
心の窓を開く
谷口雅春先生の「天使の声」という詩に、次のような行がある。
或る日、私は心の窓を開いて、
大生命のみ空から光線のように降り濺ぐ生命の讃歌に耳を傾けた。
心の窓を開く、とはどんなことだろうか。よく、「目のうろこが落ちる」という表現が、
さとりの時の経験を述べる宗教家の言葉のなかにあるが、「心の窓を開く」というのもそう容易い
ことではないようである。自分の心の窓が閉じているか、開いているかは、見た世界がどんなふうなのかに
よってわかる。
つまり、いままで知らなかったような、すばらしい実相世界があらわれるとき、それは、自分自身の実相の
自分になるわけである。見られる世界と見る人間とはもともとひとつなのだから、私たちが、現象の自分のなかに閉じこもって
いれば、見られる世界も現象もということになる。
そして、実相とか現象とかいう区別も、もともと深い宗教体験によってはじめて実感として自分のものになるわけである。
実相を観ずることは、五官の世界を去って、はじめてできるが、五官の世界を去るとは、目を閉じなければならないとは限らない。
キリスト教神秘思想家のうちには、目を開いていて、そのまま世界が荘厳な神の国に変貌するのを体験した人たちもすくなくない。
もっとも、実相を観ずることは、神秘といえば神秘だが、逆に、もっとも現実的なものが実相であるから、それは却って、神秘という
「彼方」のものであるより、「いま、此処」という確実で現実的なものであるとも言える。
よく、「実相はすばらしいが、現実はちがう」というように、実相というものを、ただ理想の彼方にある現実の否定概念として考える人がいる。
しかし、実相=実在ということばは、「ほんとうに在るもの」という意味であるから、それは、もともとリアル(現実的)なものなのである。
私たちの目の前にある樹木や、草原や、鳥や、人々というものが誰の目にも同じように物として私たちと無関係にあるのではない。
私たちが、ふつう、物がある、と見たり、思ったりするときは、そうしたものは、私たちが見ても、見なくても同じようにあるように思われがちである。
しかし、ほんとうは物は、私たちに示す、隠れたものの顔のようなものである。
樹や花や山なども、私たちの向きあい方に従って、素早く表情を変える。だから、一本の樹を見るときも、私たちの心の姿勢が曇っていたり、ゆがんでいたりしては、
樹は、ほんとうの姿を見せてはくれない。同じことは、じぶんの子どもたちでもそうである。
自分が子供たちに対するいろいろな要求に泡立っていれば、子どもたちもそれにふさわしい姿で現われる。
生長の家では、それを仏教の「三界は唯心の所現」という言葉で明らかにしている。
谷口雅春先生が、前掲の詩を歌われたのは神啓を受けられたときであった。
そして、その詩のあとに、先生は次のように書いておられる。
≪わたしはついに神を見出し、本当の自分を見出したのであった。三界は唯心の所現である、その心をも、また現ずるところの
現象をも、一切空無と截ち切って、その空無を縦に貫く久遠不滅の大生命が自分であった。それ以来、私の見る景色が変貌した。......≫
(『生命の實相』頭注版第20巻一三八頁)これは窮極の体験とも言える稀有の瞬間であるが、私たちも、心の窓を開くことによって
現象否定の極から実相の開花を体験できることになる。
ひとつの花が開くというのも、これは、永い修練を通して到り得る境であるが、同時に、素直な、明るい、予断のない、無我と感謝の、そのままの
いのちが、自分のうちに開くとき、花の美しいいのちの開花をじかに感じ得るのである。
現実とは、じっさい、途方もない世界なのである。美しく、荘厳で、清らかな、言葉を超えた世界の秩序である。
それを描こうとして本当の画家は、カンバスをひろげる。しかし、そのためには彼は、何らかの意味でその世界をすでに体験していなければならない。
そして同時に、それはこれから開かれるものを持つ、ことになる。
子供の実相を観ずるとは、だから、親の側で、心の窓を開くことなのである。
素直になることである。拝むことである。それは情の問題であるとともに、正しい認識である。
もっとも現実的なものに出会うことなのである。
『光の国から』 渋谷晴雄 先生著
1647
:
うのはな
:2012/11/20(火) 21:25:28 ID:q1/hjc9I
夫の喜壽によせて
結婚して半年ほど経た頃に、私は心臓弁膜症にかかって寝ついてしまった。
それは京都府亀岡町矢田町の新居でのことであった。
六畳と四畳半二間の一戸建ての家だったが、狭い庭に高い土塀が立っていたので、光線が
足りなくて暗い家であった。
人の薦めもあったので転宅することにして、探し当てたのは今なお思い出してもなつかしい余力町の、
四畳半と三畳の家主の離家であって、前も後も見はるかす晴れ晴れとした住居であった。
夫が講習会の時などによく話される二円の家賃で、雨漏の跡に茸が畳に生えた家であった。
そのあたりでは最低の家賃だったが、私たち夫婦は大好きな家であった。
一人暮らしの家主の宮部みのさんは七十五歳の老婆だったが、私たち夫婦を非常に好いて下さったし、
私たちもこのクリスチャンの老夫人と、何を話してもよく気が合って楽しかった。いつまでもこの家に住んでいたいと
願っていたのに、大本教の綾部の本部の仕事をして欲しいと湯浅仁蔡氏が出口王仁三郎師のお使いとして来られたので、
綾部に移転しなければならなくなった。
私たち二人は、綾部のコンニャク屋の二階二室を借りて住むことになったが、二ヵ月ほどしたら、近くの今井楳軒先生の
別宅の留守番の人が去ったから、私たちに住んで欲しいと頼まれて、結婚前に私が住んでいたその家に、再び住むことになった。
その頃、夫は大本教の教に疑問を持ちはじめられ、信仰に動揺があった。
間もなく、大本教の第一次事件が起った。先きに亀岡の矢田町にいた頃、夫の留守中に家宅捜査を受け、天井裏から床下まで調べられたが、
夫の思想や行動に不審な点がなかったので、第一次事件の時は、夫は取調べを受けることはなかった。
それどころか・大阪控訴院から、当時押収された大本教租のお筆先二万冊の内容調査を依頼された三人(谷口、江上、吉田)のうちの一人として、
夫は四十日ほどの間、大阪の控訴院通いをすることになった。
夫の留守の四十日を、一人淋しく暮すよりは、故郷へ帰った方がよいと思い、私は姉に手紙を書いた。
姉にとっても、私が来てくれることは好都合だったらしい。夫は大阪へ、私は富山県高岡市へと、別れ別れに汽車に乗った。
当時、姉の夫はノイローゼになっていた。霊場と言われて、年中修行者の絶えない大岩山へ、義兄を連れて行くことを人から
勧められるが、姉は学校の教員をしていたし、息子たちは中学生だったし、義兄の随行者がいないので決行できなかった時だったので、
早速私がその役を引き受けた。
汽車に乗って、人力車に乗りついで、義兄と私とは大岩山へ登った。
山上のお寺には不動明王が祀ってあり、岩山から流れ落ちる瀧の下には、白衣を着た人たちが瀧に打たれていた。
脳の悪い人、眼の悪い人が多かった。瀧壺の前にお不動様の堂が建っており、その堂の四囲にぐるりと人々が坐り、
各自が鉦を叩きながらお経を唱和するのであった。
つづく
1648
:
うのはな
:2012/11/20(火) 21:26:04 ID:q1/hjc9I
少しも眼を離すことのできない義兄の状態であった。私が見ていないと、いつ山から跳び降りるかも知れないし、
瀧壺で死ぬかも知れないので、義兄の眠っているすきを見ては、私はお堂の前に坐って、他の人たちから習ったばかりの御経を唱和した。
鉦を叩きながら義兄を思い、姉や姉の子供たちのことを思うと、涙があふれて来た。
その私の心中も知らないで、鉦を叩きながら、「やあ、奥さん、よい声ですね」と、實感か、ひやかしか、男の人が、お経にまぜて叫ぶと、
私はよけい情なかった。
義兄が私の眠っている間に飛び出さないかと思うと、夜ごとの眠りも浅かった。
その私の許へ、或る日大阪の夫から手紙が来た。なつかしさいっぱいで、宿の机によって開封した私は、読み終えると机上に泣き伏した。
夫の手紙は私に絶望を与えたのであった。
「....毎日控訴院へ通って仕事にはげんで居るが、相当疲れて来たらしく、夜眠っている時は亀臥の姿勢でいるそうである。同室の江上さんが
僕に『君の亀臥の蚊達で寝ているが、その状態では君の寿命は三年ももたない』と言った。年配の江上さんの経験上そう断言したのだろう....」
という意味のことが書いてあった。
若い私は、そのまま信じたので、山上の宿屋から、高岡市の姉へその通り書き送った。
姉からは世にも悲しい返事が来た。妹の私の不運を憐れみ、姉も私のために涙を流してくれているようであった。
姉と妹とは、たがいの夫の上を思い、手紙の上で泣き合ったのであった。
「義兄さん、しっかりして下さい。貴方は命にかかわりのない脳の病気だけど、雅春さんは三年もたない命なんですよ」
私は義兄に向って、叱るような、はげますような口調で叫んだ。義兄はうつろな眼をして私の言葉を聞いていた。
“控訴院の仕事が予定より少し早く終ったので、綾部へ帰って来たから、貴女もそろそろ帰って欲しい”との夫の手紙を見て、
私は義兄をうながして高岡へ帰った。夫の許へ出発しようとする私に、姉は、「雅春さんはしょんぼりして居られるでしょう。
綺麗にして帰りなさい。丸髷に結ってびっくりさせなさい」と言った。
姉の知り合いの髪結いさんへ行って、丸髷に結って汽車に乗った。姉は関野神社前の出店で、“一口茄子”を買って大袋に入れて私に持たせた。
綾部駅のプラットホームに着いた時、果してそこに出迎えいる夫の姿があった。
汽車から降り立った私は、わざと夫の方へ背を向けて茄子の袋をさわりながら、チラと夫の様子を見ると、期待した妻の姿が見えないので、うろうろして
あたりを見まわして居られた。私は可笑しがりながら、サッサと改札口へ行き、そこに立って、あとからやって来た夫にお辞儀をした。
その時の夫の驚き顔は、いつまでも忘れられない。
二十九歳の時、三年後には死ぬ筈だった夫が、今年は喜壽を祝うことになった。
神様は、壬死できない大きな、重い使命を与え給うたのであった。
(現代字に変更 投稿者) 『人生の光と影』 谷口輝子 先生著
1649
:
NANCY
:2012/11/20(火) 21:48:35 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 ヘ 「観覧者の皆様」 ヘ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>の投稿の続きです。
■■『 生長の家 』の観相学 ≪谷口雅春先生の言葉より抜粋投稿≫…
―― 人間の本体と霊体 ――
人間が本来平等であるという人間の本性は、図解の中心点にある「神の生命」でありまして、これは
万人とも同じ「神の生命」であって、はじめから救われている清浄体であります。それは時間・空間
以前の存在でありますから大いさもないので、「点」をもってあらわしました。本当は「点」でもないので
すから「点」もかく必要がないのですけれども、何も書いても図解はできませんから「点」を書きました。
この「神の生命」は生きていますから動くのであります。動くと、ちょうど、池の中へ小石をほり込んだ
ように波のひろがりができるということであります。これは「神の生命」の最初の第一念の直接波であり
ますから、清浄な、きよらかな「波の体」であります。これを「霊体」と申します。もっとも「霊体」は肉眼
には見えません。 (谷口雅春先生著…一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■前回ですが…「人間は神の生命がやどっている…」という事を、更に「雅春先生」は、
肉体
エーテル体
幽体
霊体
神の生命……
■この【神の生命…】に、至るまでの“説明”を〜〜〜♫〜〜
「湖面に小石を投げました時の“波紋”…これにての説明」を頂き…そうなのです〜〜〜ョネ!と…納得!
【霊界通信…】でも、現世=現実世界での、つまりは五官で見えます【肉体人間…】から〜〜
次なる【世界…霊界】へとの説明が、同様になされていまして、今回!更に、理解ができました。…が?
では?形としてあらわれている【肉体人間…】は?どの様なモノ?なのでしょうか〜〜〜?
■■何度も言います様に【心で変わる!】
そうです!!
❤〜変わる〜変わる〜変わる〜♫〜『こころで変わる……』という事でしょうか??
再合掌
1650
:
うのはな
:2012/11/21(水) 01:29:25 ID:MXfo9tzo
『光明法語』道の巻より 谷口雅春 先生著
酒は飲まぬ方が好い
祈りをする時には茶断ち塩断ちの如き「断ち物」は要らないのである。
祈りは親に会う時であるから憔悴したる顔付きをして見せるな。
寧ろ神の恵みであるすべてのものを豊富にとり、顔を剃り、脂を塗り、髪を
梳って元気な顔をして祈るべきである。
全て明るい心持は明るい事物を引き寄せるのである。
しかし酒は飲まぬ方が好い。
酒を飲むと一時気分を明るくするが、それは麻酔剤であるから一時の心の
暗さをごまかすのであって、次が乱れて来る。
生活に節度がなくなり、節度がない事を豪傑ぶって自慢するようになる。
1651
:
a hope
:2012/11/21(水) 09:07:30 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第八章 斯(こ)うして希望を実現しましょう
♦物事は建設的に明るく考えよ
何でも物を建設して行くことの出来る思想は明るい思想でなければならないのです。
建設と云うのは、毀(こわ)して行く反対です。次へ次へと物をつくって伸びていくことです。
伸びて行くためには明るい心でなければならないのです。
暗い思想は破壊的(こわすこと)で、明るい思想は建設的であります。
破壊的な言葉を使い、破壊的な考え方をしている人には、美しい生活も、幸福な生活も逃げてしまうのであります。
そして親切な協力者は無くなってしまいます。
何故なら破壊的な言葉や、考え方は、「類は類を呼ぶ」「類は友を呼ぶ」法則に従って、
破壊的なもののみを引き寄せるからであります。
伸びる力は、荒々しく怒鳴る言葉や、暗く沈んで行く考えの中にはありません。
だからそういう言葉を使ったり、考えたりしていては事業は失敗し、仕事はうまく行かず、
常に社会の落後者(おちぶれもの)となるのであります。
(つづく)
1652
:
ハマナス
:2012/11/21(水) 10:01:22 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
おはようございます。秋晴れの素晴らしいお天気で気持ちが良いです。
本日から、総本山で秋季大祭が行われます。
神の方に全回転せよ (『新版 生活の智慧365章』P.293)
神が生命の本源者であるから、生命に不調和があらわれたときには、心を神に振り向けて
本源者より健全なる生命の充分なる供給を受けなければならないのである。神に対して心を
振り向けよ。病気のときほど、病気の症状に“心”を振り向けず、神に対して心を振り向けよ。
完全に“心”が神に振り向けば、滔々(とうとう)として癒す力があなたに流れ入るであろう。
感謝合掌
1653
:
SAKURA
:2012/11/21(水) 20:36:54 ID:jH5uEFzM
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こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を
〜♫〜では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より …… ①
=======【抜粋文】================================
常に新しくなるものは老いない。老いるとは常に新しくなれないことの別名である。人体の
細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、結局人間の細胞は永遠に分
裂増殖して死なないものであることが生物学上の実験によって確かめられたという。人間の肉
体が老いて衰え死するということは、細胞が複雑に組み合っているために、常に新しくなれな
いからであって、必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。ただ老衰死
の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。
人間の心もそのとおりである、常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。陳
(ふる)びつつあるものである。
老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、ただ過去の楕力で生きており、過去の楕力
でものを考え、過去の楕力で行為をし、過去の楕力で若い人を推し測るからである。
過去の楕力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。これを称して型にはまる
というのである。型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。
(谷口雅春著 抜粋)
============================================
■【分派の方達…】は「雅春先生の古〰〜イ?本」を、読まれて?投稿されています。…が?
「雅春先生」は、当時は【真理追究…】に、明け暮れていらっしゃいまして、次々に本を、
書かれたのです〜〜〜ョネ!!まるで【小乗経=>大乗経】の様になりますかしら〜〜〜ン?
…そうしますと「雅春先生の書籍本」から見ていきますと“前半”より“後半”の方が、より
理解しやすい表現?ではと…“前半”は難しい言葉が多く、「理解度」としては???
更に!後半の【真理の捉え方…】が、奥が深〜〜〜く!なっていられるのでありますかと?
…これも【お釈迦…】に、例えましても、実に似ています〜〜〜ョネ!
■時代が複雑になり、人間の“心”も複雑で、絡み合っていますから〜〜〜それと同様に、
【真理…探究】も、同じやり方では?果たして…何処まで通用するモノなのでしょうか!!
【仏教。。。】でも「小乗経」・「大乗経」に於けます【真理の方便…】は、より「大乗教の方」
が解りやすく、解説されていますので、一つの【比喩論…】に於きましても、時代の変化に
伴って【お釈迦様の“心”も?変化…では?】そうしますと、これは【進歩…】のみになる
のではないでしょうかと?
つづく
1654
:
SAKURA
:2012/11/21(水) 20:38:39 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>投稿の続きです。…が
「生命の実相 37巻 より …… ②
>>1653
①続き投稿から〜〜〜。
■私達…戦後生まれ…更に!戦後教育のおかげで、より深〜〜く!【真理…追究】します
から、当に!【真理追究への方便…】は、多種多様になっていくように思えます。…が?
…【分派の皆様方達】は、古〜〜〜イ!書籍本の例えに、現実!第三者から見ましても、
しがみついている様に“ムシ”になるのではなく“心”を広げて、相手を認める豊かな
“心…”も、ある面では必要でしょうかと???
“ムシ”のような“心の執着”は、やはりこれも【老人化…】の始まりでしょうか??
いつまでも【進歩…】もなく、同じ“方便スタイル”での繰り返しのように思えます。
今までの投稿内容が【分派の方達…投稿】と致しますと、文体からの【真理追究…】が、
残念ながら見えないのです。少しでも認める“豊かな心”更に【真理…】を正しく把握
して…救済へと導いて頂きたいモノです〜〜〜ョネ!!
この様に、彼らを見ながら、私も【進歩向上へ】と、更に【繰り返しの無い正しい真理追究】
を、唯今!【再発見中…】です!!
「雅春先生の言葉」より、あらたに【新しい真理…】を探し求めていく“私”なのです。
そして、それを活かすのが【生長の家…の宗教】ではないでしょうかと??
【形…】にハマりすぎますと、【固定観念…】で、身動きが出来なくなりガンジガラメ!!
その前に、まず!“自由な心”になる事では??ないのでしょうかと……?
【形に固まらない…モット!モット!自由な明るい「生長の家」になる事であり、この事は
私の“心の羽…”を、大きく羽ばたかせ〜伸ばすモノでしょう……と!!
私も、まだ!まだ!【真理…追究中】で〜〜〜す。 (再合掌)
Ps:「トキ様」は、【形にハマらない!】とおっしゃいながらも【無意識…】にと申しますか、
“ハマっている”のではないでしょうか〜〜〜??
“心を自由に〜♫〜描く…キャンパス”のように、今からいい方向にへと……
“心のキャンパス〜♫〜”を、パステルカラ−に、塗ってみませんか〜〜〜?
1655
:
うのはな
:2012/11/21(水) 21:49:06 ID:shBPIho6
家庭の雰囲気をよくするには明るい表情を
“夫婦げんか”という“憑き物”を『真理の吟唱』によって追い祓うと同時に、
夫婦家族仲良くするには、表情を柔らかくし、愛ふかく深切な感じを常に心懸けることが大切である。
「人間はおかしいから笑うのではなく、笑うからおかしくなるのである。人間は悲しいから渋面をつくるのではなく、
渋面をつくるからかなしくなるのである。」というジェームス・ランゲの法則という心理学上の法則がある。
人間の表情というものは大切なものであって、御自分が鏡に向って、“泣き面”をしてみたら、どんな感じになるか、
にこにこと笑ってみたら、どんな感じになるか実験してみればお分りになると思うのである。
肉体というものは唯の物質の塊ではなく、“心の動き”の表現であるから、無理にでも“楽しい表情”をすると、“心の動き”
の方にそれが反射して行って“楽しい心”を起こすことになるのである。
もし奥様が、常に眉に皺をよせて不快な表情をしていたら、その顔を見ている夫に、その不快感情が伝染して、
夫も不快になり、いらただしくなり、家に帰るのが面白くなくなり、それをまぎらわすためにキャバレーなどに行くようになり、
そこから他の女との関係も起こることもあるので、妻というものは夫の顔を見るとき常に明るい楽しい表情をして、
「わたくし、あなたと一緒にいるのがうれしいの」というような感じを与えるようでなければならない。
『愛はかくして完成す』谷口雅春 先生著
1656
:
a hope
:2012/11/22(木) 07:54:38 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第八章 斯(こ)うして希望を実現しましょう
♦何事をするにも真に「出来る」と思うまで手をだすな
物事を悲観的に考えてはなりません。
悲観的な考え方は人生に希望をなくし、夢を抹殺し、美しいものを萎(しお)れさせてしまいます。
美しいものを生かすには、どうしても物事を楽観的に考えることが必要であります。
何事をするにしても、その力の大部分は自己が成し得ると云う信念にあるのです。
自己が成し得ると考えないでいて何事をなしても真に成功するものではありません。
何事をするにも真に「出来る」と思うまで手を出さぬことです。
自分は「上手に出来る」と思うまでは真に出来るようになるものではありません。
形の世界は心の影であります。
形の世界にそれがあらわれてくるまでには、形の世界にそれを押しだす力が必要なのです。
心の世界に強くハッキリ出来上ったものが形の世界にあらわれてくるのであります。
(つづく)
1657
:
うのはな
:2012/11/22(木) 10:53:18 ID:eorGcccE
当時生長の家本部の理事の一人であった徳久克己博士は、産婦人科の博士で、
満州の興安病院の副院長をしておられた。あの人が儲かる産婦人科の仕事をかなぐり捨てて、
宗教へ飛び込んで来られた心境の変化は、御自身の著書『よろこびの発見』にくわしく出ています。
この本は「科学者が何故宗教を信ずるか」の参考になってよい本です。
この徳久博士が、満州に居られた時分にお書きになった本に『夫と妻との間』と云う本がありますが、
あの本を読んでみると、「原因不明で子供が産まれない時には産婦人科の医者ではこれを“子宮の発育不全”
という名前をつけるのが習慣になっている」と書かれている。
実際、腹をたち割って子宮の発育が不全かどうかみないのですから、本当は分からないのです。
だけれども、そういう風に唱える習慣になっていると云うのであります。
あの徳久博士が僕が初めて満州に講習会に行きました時に、結婚して七年間子供が産まれなかった。
その時、ちょうど生長の家の講習会がありましたので、講習後、私の宿に尋ねて来られて、「先生、私は結婚
して七年になりますが、子供がうまれないんですが、どうしたら子供が産まれますか教えて下さい」と言われた。
「君、産婦人科のお医者さんで、それが専門じゃないか。こちらはそんな、どうしたら子供を妊娠するか知らんよ。
然し心の持ち方なら教えてあげる」と云うことを言ったものです。そしたらその翌年、また満州へ行きましたら、また
夫婦づれでやって来られて、奥さんが妊娠してもう七か月にもなっていられました。
「先生の教えをきく迄はどうしても妊娠しなかったけれど、先生が来られたら一遍に妊娠しましたから、それでこの子供は
先生にこしらえて貰ったようなものですから、名前をつけて下さい」とたのまれた。
その子供が生まれるための心の持ち方と云うのは、結局、夫婦が互いに霊魂に於いて一体だと云うことを知り、互いに相手を快楽の
道具などにせず、一体の悦びを味わうために夫婦生活をすると云うことなんです。
「ともかく、満州と内地とでは名前をつけるのも大変だから、名前を郵便で届ける間に戸籍登録の期間に遅れてしまうといかんから、まあ
自分でつけ給え」と私は言った。
その産まれた子供が、徳久日出一君であります。その子が父の徳久博士に似ていない。
お父さんの色の黒い、その頃は痩せて細長い顔をしていられた。その産まれた子供がお父さんにちいっとも似ていない。
何に似ているかと云うと、私がその時「万徳円満」と書いてあげた掛軸があるのです。
その掛軸を胎教の為に毎日見つめておられたので、その「円満」の“円”という字がまんまるく行書で書いてあった、それを
一所懸命みつめておられたら、その行書の“円”と云う字の通りの丸顔の可愛い顔をして生まれたのであります。
今でも丸顔の可愛い顔をしているのです。こう云う様に、胎教というものは素晴らしく効果があるのであります。
何しろ、人間の卵は鶏の卵みたいに大きくはないのです。直径百二十五分の一吋と云うから、虫眼鏡で見んならん程に小さい。
その一個の卵子が二個に分裂し、二個が四個に分裂し、四個が八個に分裂し、八個が十六個になり、十六個が三十二個になり、三十二個が六十四個になり、
ずうっと分裂して増えて行って、生まれるときには八百匁とかになる。増えるだけでは駄目であります。
単に細胞が増殖しただけではブドウ状鬼胎になる。そこに魂が宿るのです。
つづく
1658
:
うのはな
:2012/11/22(木) 10:54:17 ID:eorGcccE
>1657
即ち“神の子”の理念に随ってずーっと列んで、心臓は心臓に、肺臓は肺臓にとなって、それが組織され配列されて、人体となってオギャーと出て来るのであります。
そうすると、その赤ん坊は小さいので五、六百匁、大きいのでは一貫五百匁というのもあるけれど、
ともかく何十万倍と云う大きさになるのです。この小さい虫眼鏡で見んならん卵子が何十万倍になるから、
一つの卵子が分裂して二個になることを一代として計算すると、何十万代の間、腹の中でそだっていることになるのであります。
その間、腹の中で、母親の精神波動によって、教育されているのであります。
それが胎教であります。
だから胎教位大切なものはないのであります。だから、いい子供をこしらえようと思ったら胎教が非常に大切であります。
妊娠したら、まず夫婦が調和しなければいけないですね。部屋の飾りも、剣やら、槍やら、鹿の角なんかを置いて飾っておくのは
尖った部屋の空気をつくるからいかんですね。部屋のどこかに美しい花の一輪ざしを置いておくとか、可愛い人形を置いておくとか、
私は美しい容貌の子供が欲しいと思ったら、自分の理想とする様な容貌の人形又は写真を飾る。
こういう顔の子供が欲しいと思ったら、そういう写真を置いて、ジィーっと見つめる様にして居りますと、心の描いた通りのものになると
云うのが原則なんですから、夫婦が調和すると、そういういい子が出来るのであります。
私の家内が妊娠して居りました時には私は『聖フランシスの完全の鏡』と云う本にある聖キアーラと云う聖女の壁画の写真を壁に貼り付けて
家内に毎日見詰めさすようにしていましたら、今でも真正面向きの私の娘の顔が、その聖キアーラの肖像によく似ていると思うことがあるのであります。
『日常生活の真理』無門関・聖書篇 谷口雅春 先生著
1659
:
ハマナス
:2012/11/22(木) 13:12:12 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんにちは。
「愛憎の神」を超えよ (『新版 生活の智慧365章』P.294)
神に振り向くと言っても、色々の神々があるのである。個性をもち愛憎の念をもって
活動する個別的神霊の方に振り向くならば、個別的神霊の愛憎の念に吾々は支配され、
その前に跪(ひざまず)くことになるのである。愛憎の念ある個別神霊の前に跪くならば、
愛念を受けるときはご利益を生ずるし、憎念を受けるときはその反対の結果を生ずる恐怖
があるから、その恐怖心が具象化して次なる不幸や病気を具体化することになるのである。
私たちは愛憎の神を超えて、普遍の神、平等の愛の神に振り向かなければならない。
其の時はじめて恐怖心がなくなり、平和が心におとずれ、その心の具象化として、祥福が
実現するのである。
感謝合掌
1660
:
うのはな
:2012/11/22(木) 16:36:42 ID:vkulhJXI
1657,1658
上記は『日常生活の中の真理』無門関・聖書篇 第4章 夫婦は一体である
の中からの途中からの一部抜粋であることをお断りしておきます。
拝。
1661
:
SAKURA
:2012/11/22(木) 21:04:36 ID:jH5uEFzM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1553
>>1554
>>1556
>>1558
>>1562
>>1599
>>1600
>>1607
>>1608
>>1616
>>1617
>>1637
>>1644
>>1653
>>投稿の続きです。…が
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、
更に“人生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜
では“続き投稿”していきます。
「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。…が?
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】でしょうか…??
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
「生命の実相 37巻 より ……
=======【抜粋文】=================================
ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。まだ*双葉*にも開かない前の、あのふっくりとした逞し
い樹の眼を見ていると、本当に若々しい生命に触れた気がする。開き切った葉よりもまだ
開かない新芽の方に力がある。生命は久遠であるが、現象界のものは何物でもまだ完全
に開き切らないものには底力がこもっている。宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ
去る。今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。新しい酒を古き革袋に
いれるときは破れる。 ( 谷口雅春著 )
============================================
■新しい“芽…”は【 現総裁雅宣先生…「生長の家」… 】でしょうか〜〜〜と??
「古い殻」に、閉じ込められたのも〜〜〜いつの間にか??知らず知らずと言いますか??
私の【生長の家の思想…】は、変!変!〜〜変!な具合です。
昨年からのまず【分派…の方達】の言動の現総裁先生への「中傷…」に驚くばかりの昨今でした。
ですが〜〜〜?このような方達が【古い信者???ナノ???】不思議です。
「亡き父の時代」から見ていきますと、異なることばかり〜〜〜ようやく「現総裁雅宣先生」が、最初
の基本に戻るが〜〜〜?という事ですから判断しますと〜〜〜?
■■ > 古い革袋に入れますと破れる…… !!<
これは“古いやり方”も、同様に【再起動…開始!】としますと?果たして〜〜〜><
【進歩向上へ道…】は、ないモノです〜〜〜かしらン!と……その様に思う次第です。
此処で【 破れないため… 】には、当然のことながら【 新しい息吹き… 】が必要ではないでしょうか?
それは、時代に合った【 新しい真理の解釈論 】なので〜〜す!!現代人の心に響く【真理…解釈論】
私は、今回!「現総裁雅宣先生」は【正しい選択・決断!!】された様に、も思えます。…が?喝采!!
そして、古き時代から…そして今!当に、今からが、本当の意味での進歩向上にと……繋がる!
【生長の家の論理観】を……世界に繋ぐ……これが【人 類 光 明 化】でしょうか〜〜〜♫
■【真理の吟唱…】に 記載されています!!
再合掌
1662
:
うのはな
:2012/11/23(金) 09:14:14 ID:i3j8Ep5w
>1647,1648 谷口輝子先生 著 『人生の光と影』 カバー装画 谷口壽美 先生
<夫の喜壽によせて> 、投稿者の独断で現代漢字に変えて書写させていただきました。
光明掲示板 いい夫婦
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=737
1663
:
「訊け」管理人
:2012/11/23(金) 10:19:35 ID:???
『生命の實相』第27巻127頁より謹写――
彼は「事実に面しては」という。しかしその「事実」とは何ぞや。現象のみ、本来無きもののみ。しかもこの「本来無き現象」をありと観るかぎり、彼のごとく実相一如の世界に没入する体験を得るとも、何人も「われらは弱し、われらは完からず」と嘆ぜざるをえないのである。しかし、これを「事実」というのはまちがいであるのである。知れ、事実というは実相のみであるのである。だから実相の実在のみを強調し「弱きものは無し、完からぬもの無し」と、いっさいの悪を空(くう)じ去って、しかして「一切皆善の実相的事実」のみを肯定するとき、われらは現象的事実をも征服しえて、「われらは弱し、われらは完からず」と現象的事実に征服された弱音を吐く必要がなくなるのである。
生長の家はかく「実相皆善」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空じ去る。さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。「現象あり」と観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。「現象も現象として在るのであって、かく本体界のみを主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界とを混同するものである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、われらは本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、われらは現象界無しと自覚するがゆえに、無きものは混同するの恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。
「現象は現象としては在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。生長の家の思想が、かく素晴しい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截(た)ち断り、実相独在を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。
<了>
1664
:
ハマナス
:2012/11/23(金) 22:51:46 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。
神は人間を健康に造った (『新版生活の智慧365章』P.294)
「創世記」には「神その造りたるすべてのものを見給(みたま)いけるに甚だ善かりき」と書かれているし「神の像(かたち)の如く人を造り」とも録(しる)されているのである。神がその完全なる自己の像に肖(に)せて人間を造った以上、人間は完全で善であり健康であるほかはないのである。そして神は、その創造せる一切のものを点検して「甚だ善かりき」と言明していられるのである。何人の力をもってしても、如何なる力をもってしても、神が完全に造ったものを不完全に、不健康に変じ得ることはできないのである。従って人間が病気になった如く見えているのは一種の妄想又は幻覚があらわれているに過ぎないのである。
私たちは、病気や症状の幻覚を見て、その病気を実在だと思ってはならない。どこどこまでも神の善と愛と智慧と完全さと、その力とを信じ、その神よりつくられたところの存在が本当に完全なものであることを信じなければならない。従って人間の完全さ健全さを信じなければならない。それこそが真に神を信ずると言うものなのである。
感謝合掌
1665
:
神の子さん
:2012/11/23(金) 23:02:53 ID:???
>>1663
読みにくい謹写はいらないんだけど。。。
1666
:
a hope
:2012/11/24(土) 06:54:16 ID:lAQRWvUs
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第八章 斯(こ)うして希望を実現しましょう
♦「必ず出来る」と信ぜよ
ものを破壊する感情を心に持ちながら物を完全に建設することは出来ません。
イライラしながら円満に事物(ものごと)を成就することなどは出来ないのです。
自分で自分の心を攪(か)きまわしながら、心をしずかに物事を考えることなどは出来ない相談です。
物事を円満完全に育て上げるには、心の中にどんなイライラしさも、どんな不完全な考えも、
どんな心配もなくする事が必要なのです。
「われこれを成就せんと欲すは、神がこれを成就せんと欲し給うのである」
と信じて物事にとりかかってこそ真にそれを成就することが出来るのです。
私は歩くことが出来ないと考えながら歩き得た人は一人もいないのです。
誰でも歩き得ると考えたときのみ歩くことが出来るのです。
吾々が歩くことが出来るのは、「私は歩くことが出来る」と云う「永遠肯定」(つねにできるとおもうこと)
によってのみ歩くことが出来るのです。
一歩一歩が「歩くことが出来る」と云う肯定によって支えられてのみ歩くことが出来るのであります。
単に「歩く」ことですら此の通りでございますから、
もっと大きな仕事が「吾れ是を成さんとすれば必ず出来る」と云う
「永遠の肯定」に支えられないで、成就することはあり得ないのであります。
(つづく)
1667
:
トキ
:2012/11/24(土) 11:36:33 ID:tLXulRtI
>>1163
個人的には、聖典を熱心に書いて下さったのですから、感謝の気持ちでいっぱいです。
1668
:
神の子さん
:2012/11/24(土) 14:02:59 ID:ssk.Cqhw
>>1663
移すだけなら誰でも出来る。
1669
:
「訊け」管理人
:2012/11/24(土) 14:34:48 ID:???
『叡智の断片』131頁「道場雑話」より謹写――
生長の家の根本の教えは、戦争反対である。「七つの燈臺の點燈者」の神示には「汝ら天地一切のものと和解せよ」とあるし、「天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ。」と示されている。又「神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いとが自壊しているのである。」とはっきりと『生命の實相』第二巻収録の神示には戦争を否定しているのである。
1670
:
通りすがり
:2012/11/24(土) 17:42:23 ID:3Ozkx1gY
>>1669
ご自分のブログで十分
1671
:
トキ
:2012/11/24(土) 17:48:30 ID:tLXulRtI
>>1669
管理人としては、ご投稿に深く感謝しています。
1672
:
ハマナス
:2012/11/24(土) 22:24:15 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
こんばんは。
神を信ずるか、現象を信ずるか
(『新版生活の智慧365章』P.295)
私たちは、日常生活に於て、神の完全さの実在を信ずるか、現象の相(すがた)の不完全さの実在を信ずるか、二者択一の場に立たされているのである。天秤の両側の秤皿の一方に「神」を置き、他方に「現象」を置いて完全に平均せしめて置くとしよう。「神」を信ずるか、「現象」を信ずるか、そのどちらかを信ずるかと云うことによって、天秤は「物質」の方にも傾き、「神」の方にも傾くのである。そして、それが「物質」の方に傾いたとき、人間は物質的法則の支配下に入り、その人の健康度は、物質の影響を信ずる通りに制約せられる。即ち寒冷の空気に触れれば風邪を引き、病菌に触れれば病気にかかると云う風になるのである。
若し天秤の、もう一方の「神」の方に私たちの信仰が深まるならば、その天秤は「神」の方に傾き、その人の健康は、物質の法則に支配される量が次第に減じて、遂に外界の物質的条件を超えて、如何なる場合にも完全に健康なる実相を現身にあらわすことができるようになるのである。
感謝合掌
1673
:
ハマナス
:2012/11/25(日) 12:40:48 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
ありがとうございます。
「縦の真理」と「横の真理」 (『新版 生活の智慧365章』P.296)
病気が症状としてあらわれるときに病気は起ったのではないのである。それよりズッと
以前に、心の中にその病気に就いての知識、症状、恐怖、不安などが培われ、それが次第に
生長して発芽するようになったのである。発芽の直接契機となったように見えるものは、
植物にたとえれば、春雨が一夜(ひとや)降りつづいたことであり、雨あがりの翌朝見ると
水仙が土を割って芽を吹き蕾をもっていることを発見するようなものである。
“春雨が一夜降りつづく”と同じように、其の人が、何らかの感情で一夜心を悩ますこと
があるとすると、その翌日、気がついてみると或る病気があらわれているのである。しかし
その病気が現れるまでには、発芽直前になるまで培われた精神的な病的観念があり、それが
一夜の精神的な悩みで愈々現象化することになったのである。結局、「病気」と云うものの
本体は「人間は老い且つ病むべきもの」だと云う根本的な信念であり、その信念が深く底に
あって、色々の精神的又は感情的なショック又は悩みが誘因となって、その「深く底にある
病念」が表面にあらわれて来るのである。そのために「人間は神の子のである」と云う真理
を充分理会し、「深く底にある」ところの「人間は老い且つ病むべきもの」と云う信念を取
去るか、或は誘因となる精神的感情的悩みを取り去るか、どちらかをすれば一時は病気は消え
去るのである。
「人間は神の子である」と云う実相を知るのは「縦の真理」を知ることである、精神的感情
的な悩みを解きほぐして行くには或は“想念の法則”を説き、“精神分析”をを行うなど相手
に随って色々の方法を用いるのであるが、これは「横の真理」の応用である。
感謝合掌
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