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1399復興G:2012/10/06(土) 22:18:50 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(2)
       (頭注版 p.196〜199)
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 女学校の生徒などでお腹がしくしく痛いと思っている時に、先生から指名されてある質問をあびせられると、その瞬間、心がその質問に集中して、お腹のことに心がゆかない。すると、その先生の質問に答えている間中お腹の痛みを忘れているなどということはたびたびあるのであります。
 無痛分娩の原理もこれと同じで、「迷いの心」を痛みのところへやらないようにすれば、なんでもないのであります。

 焮衝性(きんしょうせい)のリューマチにかかって、杖の力をかりてもホテルから劇場まで辻二つと歩けなかったある有名な俳優は、自分の出演の時間が来るまでは、ほとんど動けないほど激痛に悩んでいたにもかかわらず、出演のときが来るとぜんぜん健康な別人のような活発な演技ができて、出演中、肉体には少しの痛みも感じなかった実例をマーデンはあげています。

 日本でも名優十五代目市村羽左衛門は七十二歳で病没(昭和二十年)しましたが、楽屋へたずねて行きますと、もう老衰して腰が曲ったヨボヨボしたかっこうでしたが、舞台に出て白井権八などの若衆姿に扮しますと、完全に老衰の状態が消えてしまって溌剌(はつらつ)たる青年のキビキビした演技を見せたものであります。

 「どうも身体が悪い!」と病人はいいますが、それは身体がくるしいのでも痛いのでもありません。「迷いの心」が苦しく、「迷いの心」が痛いのであって、それはだんぜん主観的なものであります。「迷いの心」を肉体から転ずれば、もう苦しみも痛みもなくなるのであります。

 つまり、病気というものは、罪(すなわち包みて生命の円満完全さを自覚せぬこと)から起こるのであって、「心」がわれわれの本来の生命の実相(ほんとのすがた)を自覚せず、「心」の苦しみ、心の痛みは「心」自身で治すことができるものであることを自覚せず、肉体が「心」というものから独立して病苦を感じうるという誤れる信念から起こるのであります。

 病気の苦しさを超越する一つの方法は、まずじっとその苦しみの真相を見つめることであります。肉体の一部が痛めばじっとその痛みを見つめるがよろしい。そしてその痛み、苦しみをば、よく観察して「それははたしてこの肉体が痛がっているのだろうか。肉体は物質だから知性をもたないから『痛い』と感ずるはずがない。そうしたらこの『痛い』と感じているのは『心』だ。『心』は無形のものだから実質的に故障が起こるはずがない。実質的に故障がないのに『痛い』と思うのは『痛い』という夢を見ているのだ」
 こういうふうに肉体の痛みをことごとく観察して、その痛みが肉体に実在しないし、『心』にも実在しないで、ただそれは無いものをあると見ている夢だと宣告を与えて、なおじっとその痛みを見つめていますと、最初その痛みが自分の痛みだと思っていたのに、だんだんそれが離れて観られるようになり、痛みは感じているがその痛みはもう自分の痛みではない、完全円満な自分というものがよそにあってその痛みを第三者として観ている、ちょうど自分が「痛み」というラジオを第三者として聴いているような塩梅(あんばい)になって、自分自身が痛まなくなり、自分自身が痛まなくなると、結局その病気は治ってしまうのであります。

 肉体は物質であるから痛みを感じないといえば、肉体には知覚神経とか神経細胞というものがあるから痛みを感ずるのは当然だといわれる人があるかもしれません。しかし知覚細胞も神経細胞も、一個の物質的装置である点においては変わりはないのでありまして、物質そのものには意識がない。それはラジオの受信機のようなものであります。いくらラジオの受信機があっても、心がこれに痛みを吹き込まず、心が痛みの吹奏を聞かなければ痛みというものを感じようはないのであります。

 だから心がそこにないところの一片の切り落とされた片腕は、知覚神経も神経細胞もそっくりそのまま残っていても痛まないのであります。こんなわけで肉体が痛むの、知覚神経が痛むの、神経細胞が痛むのといっても、皆「心」が痛いと迷うから痛いと感ずるのであって、この「迷い」の心を免職させて実相覚と交替させたら、痛みはなくなり、病気はおのずから消滅するのであります。

1400復興G:2012/10/06(土) 22:19:28 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(3)
       (頭注版 p.199〜201)
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     病気を超越する法

 病気とは心が病み、心が痛むのであって、心の病、心の痛みを「肉体が痛みを感ずる」という不合理な迷信によって、肉体の上に投影し、最後にその心の力によって、肉体の化学的成分、肉体の生理的作用にまでも病的変化を起こすことになるのであります。

 ここの道理がわかって来ますと、われわれはけっして自分の欲しない肉体の状態を、自分の心に想像しないようにしなければならないのであります。肉体を強くしたいと思うものは、かりそめにも、自分の肉体を弱いと思ってはなりません。また「弱い」といつてもなりません。
 世間にはおうおう「わたしの生まれつきは体質が弱いもので」などと口癖のように弱音を吐く人がありますが、言葉は必ずその言葉の意味相応な想念感情をよび起こし、その心の働きに従って肉体もまた弱くなって来るのであります。

 一つの病気が肉体に発生する――それは水仙の球根から芽が出て蕾(つぼみ)ができ、花が咲くようなものであります。水仙に水仙の花が咲いてほかの花が咲かないのは、水仙の心の中に水仙の花の形が貯えられているからであります。
 中耳炎になるとか鼻茸(はなたけ)ができるとかしますと、外科医やふつうの人たちは、ただそれは肉体にだけ病気の部分ができたのであるから、その病気のところを切ってほかしてしまったら、もう病気は無くなるように思っています。けれどもいくたび施術して病気のところを切ってほかしてしまいましても、その施術と同時に心の病気を消滅さすことができなかったものは、いくたびでもその病気が再発するのであります。

 施術しまして病気のところを切ってほかすということはなるほど、一時的には手っ取り早い治療法には相違ない――それは水仙の花の嫌いな人がその「花」だけをことごとくキレイに切ってほかすようなものであります。しかし、その水仙が生きているかぎりは、そのうちに「花」や「蕾」の元になる「念(こころ)」があるから、また「蕾」をこしらえ同じ形の花を咲かせるようになるのであります。

 病気もまたそのとおりで、施術は手っ取り早いが一時的の効果しかない、心から「病気」の素(もと)を取り去るのは、たとえば水仙を根から引っこ抜いてほかしてしまうようなもので、根から引っこ抜いても、水仙の花はしばらくはいきいきとしているかもしれないが、今度こそは根本的にその花が出なくなり枯れてしまうのであります。

 水仙には水仙の花が咲き、梅には梅の花が咲くように、人間にも、おのおのの人に時々咲き出でる病気には一定の型があるのであります。
 耳の悪い人は一時治っていたかと思っても、またしても耳鼻咽喉系統の病気にかかる。
 ずいぶん消化器などは達者なのに、風邪ばかり引いているという性質(たち)の人もある。
 しじゅう胃腸が悪いのに決して耳鼻の病気にならないという人もある。
 このように人間の病気にも一種の「傾向」とか「個性」とでもいいうるような一定の型があるのは、水仙の心から水仙の花ばかりが咲いて他の花が咲かず、梅の心から梅の花が造られて他の花が造られないと同じであって、これは、病気の本源が心にあって心に設計されたプランのとおりに、肉体にその病気が具体化して来てその他にはなりえないという証拠になるのであります。

 で、あらゆる病気にかからぬようになるには、心のうちにあらゆる病気の設計図を描かぬようにしなければならないのであります。つまり決して病気というものを心に思わず、病気の説明の本を読まず、治療法や売薬の広告を読まないようにしなければならないのであります。

1401復興G:2012/10/06(土) 22:20:08 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(4)
       (頭注版 p.201〜204)
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 こう申しますと、なかには「自分は病気のことなど一度も思ったことがないのに、病気にかかっているではないか」と抗弁せられる方もありましょうが、そんな方はまだ「心」というものの研究がたりないのであります。
 海の水を見ていると紺碧に澄みきってその中にはいっけんなんにもないように見えるかもしれない。けれども潜水眼鏡をつけて海の中にはいって眺めて見ますと、いつの間にはいったのか、いろいろのものが沈んでいる、いろいろの生物が泳いでいる、その中には人間にとって有害なものもあれば有益なものもあると同じように、われわれの意識(こころ)の海の中にはいつの間にはいったのか、ふとした新聞広告や電車内広告の記事からでも病的観念が染み込むので、いろいろの観念が泳いでいるのであります。
 このいろいろの観念の中から、われわれの害になる「病気の観念(たね)」だけは病気になりたくない人はぜひとも取り除かなければなりません。それには一種の心的施術が要るのでありまして、今後なるべく病気を思わないようにするというだけの消極的手段だけでは、もうすでに「心」の底にはいり込んでいる「病気の観念」を破壊するにはたりないのであります。

 こちらから進んで積極的に、すでにはいり込んでいる「病気の観念」を攻撃し、破壊するようにしなければならない。
 それには、「病気の観念」を積極敵に攻撃して、「おまえはわたしの心の底にいる権利があるように主張しているけれども、おまえは本当はわたしの心のうちにもどこにも存在する権利はないのだ。神の造らないところのなんじはいかに実在するかのような仮面をかぶっていても、本当は実在しないではないか」という道理を諄々(じゅんじゅん)と自身の病気に説き聞かせてこれを論破する必要がある。

 靜坐と精神統一と信仰とをむすび合わして、「病気の観念」を論破して本来の無に帰せしめる方法が、生長の家道場で毎日実修せしめている「神想観」であります。読書によって自身の「心」に諄々と説いてきかせて「病気の観念」を論破して、本来の無に帰せしめる方法が、『生命の實相』の毎日読誦法であります。『生命の實相』を毎日繰り返し読んでいるうちに病気が治ったとの報告があるのは、ちょっと聞くと不思議な奇跡のようでもありますが、われわれの「意識(こころ)」と肉体との関係を十分研究してみるとそれは当然の科学的結果であります。

     本能的の健康法

 われわれがよく聞くことでありますが、「わたしは皮膚を鍛練するために毎日冷水浴をし、呼吸器を強健にするために戸外で深呼吸をしているのにやっぱり風邪をひいて困る」というような人があります。
 そうかと思うと「わたしは少しも固いものを食べないようにし、お粥やパンやオートミールばかりを食べているのにしじゅう胃が悪くて困る」という人もあります。
 こんな人が健康になれないのは、「健康」すなわち「生命力の充実」は何か物質的方法で来ると思っている根本観念に誤りがあるので、この根本観念に根本的革命を加えればなおるのであります。

 「健康」すなわち「生命力の充実」は「生命」そのものを、順に、自然に、正しい道にのびのびとさせることによってのみえられるのであります。そのためにはまず「心」が「迷い」から解放されて、その自然に帰らねばならないのであります。

1402復興G:2012/10/06(土) 22:21:08 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(5)
       (頭注版 p.204〜206)
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 「生長の家」では、いわゆる「健康法」だの「衛生」だのというものを無視してはしまいますが、わざと不養生をしたり、不衛生をしたりするようにすすめるのではありません。「心」が「迷い」から解放されて自然にかえり、「生命」が順に正しい自然の道にのるようになると、直覚と本能とに導かれて、おのずから生活が本当の自然になります。
 生活が本当の自然になれば、生活全体が健康法にも衛生にも自然にかなうようになって、今まで人為的に生活が健康法に適うようにと心がけていたものが、今度は本能的に健康法に適う生活ができるようになるのであります。

 正しい本能は誤れる人知の小細工よりもわれわれを健康に導いてくれるのであります。鳥獣は、彼らが自然の山野に生活しているかぎり、完全に健康であって決して病気にならないのであります。雪を踏んで歩む熊も、露にぬれて餌をあさる小鳥も、寒さに負けて風邪を引くということはない。それは生活が正しい本能に導かれ、自然に健康法にかなう生活をしているからであります。
 ところが山野の鳥獣を捕獲してきて人間の雰囲気内につれて来ると、いろいろと暖房装置に気をつけてやっているにもかかわらず、ともすれば病気にかかったり風邪をひいたりするのであります。これから考えてみましても風邪をひくというのは必ずしも寒さのためではなく、生活が不自然になったからだということがわかるのであります。

 別所彰善(べっしょしょうぜん)氏の著書のなかにもお腹をこわしてもうほとんど動けないようになった猫をかわいそうに思って、どうせ死ぬなら暖かい柔らかな蒲団の上で死なせてやりたいといたわって柔らかな蒲団の上に寝かせてやると、いつの間にかそこを逃げ出して冷たい土の上へ腹ばいになって、腹を冷やしてジッと死んだようになっている。これではよけい病気に悪いだろうと思って、またまた柔らかな蒲団の上へ連れて来てやると、人の見ている間はそこにジッとしているが、いつの間にかまた冷たい土の上へ腹ばいになってジッとしている。
 ところが、ちょっと人間知では衛生に悪いと考えられるようなお腹を土で冷やすということが、かえって自然な健康法であるということをこの猫は知っていたのであって、この自然的健康法が効果をあらわして、しだいにその猫が元気を回復してきたという実例が書いてあるのであります。

 とにかく、人間は「自然に還る」ということが必要であります。自然的健康法ということが唱えられますが、生活の形式を自然に還すまでに「心」を自然に還す、すなわち「心」から迷いをとり去るということの方がいっそう必要であります。心が自然にかえれば、生活の形式もひとりでに自然に還るようになってきます。

 食物の嗜好(このみ)などもおのずから変わってきて、自然に健康的食物が好きになってくるのであります。『生長の家』を読み出してから、いつの間にか食物の嗜好が、以前には濃厚な肉食が好きであったのが、近ごろはかえって淡白な野菜が好きになったといわれる方もあれば、酒やたばこが前には無くてはたまらなかったが、このごろは喫(の)むまいと思ったら無くてもすむようになったといわれる方もある。以前には甘味品が好きであったが、近ごろは砂糖気のあるものは好まなくなったという人もあります。
 つまり、これは『生長の家』を読んで「心」が実相を悟った結果、実相の反映として、その人の生活が自然に還るようになったのだと思われるのであります。

 どんな修養でも、外から、形の方から「これは悪いことだからやめましょう」というふうに矯(た)め直すばかりで、内から「想念(こころ)」という映源(フィルム)に正しい相(すがた)を描かなかったら、一、二回は無理に抑えて正しい生活をしてみても、その抑えることが苦しくてたまらない。内から「想念」が反発して来て不健全な生活へ誘惑する、そしてついにその誘惑に負けて外の生活の形もやはりまた元の不健全になってしまう、そこがいわゆる世間の修養というものの欠陥であります。

 修養は外から直してゆこうとする。ところが「生長の家」はうちから、心の根本の自覚から変えてゆこうとするのであります。

1403復興G:2012/10/06(土) 22:21:46 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(6)
       (頭注版 p.206〜208)
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     食物療法は仮想

 世の中には断食療法をとく人ももあれば、栄養療法をとく人もあり、なかには大食療法、過食療法までもとく人があります。しかしキリストはいとも明瞭に「なんじら何を食らい何を飲まんと思い煩う勿れ」と、食物を人間ごころで選択する必要のないことを説いていられるのであります。

 何を食べてもよい! しかし、それは時と人とによって必ずしも一定しているものではなく、人間知恵で考えて解るものでもない。心が自然になるとき、腹を土につけて冷やした猫のように本能的に、最も今の自身にとって必用な事がしたくなる。こうして本能がひとりでにつごうがよいよう調節されて来るのであってこそ理想的健康生活であります。

 この境地には「何を食べては悪い」とか「何か食べねばいかぬ」とかいうふうな、外から律する人間知恵に頼っていては達せられない。「心」の根本の持ち方をかえて「生命の実相(ほんとのすがた)」を自覚し、生命は外から養われるものではなく、内から養われるものだということをハッキリ体得してこそ、本能の指示に従い、何を食べても健康によいというふうになるのであります。

     わたしの体験

 わたしの体験で申しますと、わたしはずいぶん以前からたいへん胃腸が弱かったのであります。胃は弛緩(しかん)症で、胃の筋肉の収縮力が弱いのだそうで、何を食べてもなかなか腸の方へは行かないで長時間胃の方に溜っていました。胃の中に食物が停滞している時間が長いので、食べた物が異常発酵を起こして、腸へ行くと腸の粘膜を刺激するのだそうで、毎日下痢ばかりしているのであります。

 医者は、「あなたのように胃の筋肉の弱い者は、胃筋の負担を軽くするためにできるだけ飲料を少なくとらねばならない。食事の時には絶対に飲料をとらぬがよい。それは消化液を薄めるとともに、胃筋肉の負担を重くする。飲料を飲むならば食間に、それも小量ずつ飲んで一時に胃腸に重荷をかけてはならぬ」というのです。

 一時私はずいぶん厳重にそれを励行したものであります。そのころわたしの宅で世話をしていた親類の一青年などは、わたしが食事の時に一滴も飲料をとらないので、自分がお茶を飲みたくても非常に遠慮していて窮屈だったそうで、この事実は私の親類じゅう誰でも知らない人はないくらいであります。

 ところが今ではわたしは食事の時にかなり大きな湯沸しに、一杯の茶をほとんど一人で飲んでしまうこともあります。そうかと思うと一滴も飲まないこともある。飲みたくば飲むし、飲みたくなければ飲まぬし、飲んでも飲まんでもその時の自然の本能にまかせているので、健康法のためにと思ってやってはいませんが、それでいて前には弛緩症だった胃が一升も茶を飲んでも別になんともないのであります。

1404復興G:2012/10/06(土) 22:22:22 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(7)
       (頭注版 p.208〜211)
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 わたしが、こういうふうになぜなれたかと申しますと、以前には胃袋というものは一種の物質の袋であって、ある目方以上のものを入れると、ゴムのように伸びてしまって収縮力を失ってしまうと教えられて、それを信じていましたから、信じたとおりにわたしの胃袋は収縮力を失っていたのであります。
 ところが、わたしは「念(こころ)」と「肉体」との関係を研究しているうちに肉体の状態は念(こころ)の状態を形にあらわしたものであるということがわかってきたのであります。
 「念(こころ)」を抜きにした胃袋そのものは収縮する力も消化液を出す力もない。胃袋を収縮したり消化液を出したりする力は念(こころ)にあるのだ。医者はわたしの胃袋を弛緩症だというが、本当は、食物や飲料を恐怖する念が、自分自身の恐怖心のために胃袋を収縮することを怠っているのである。病気は念にあって胃袋にない。今までわたしは胃病だと思っていたが胃病ではなかった――こういう真理がだんだん明瞭にわたしの念に刻まれてくると共に、わたしはわたしの胃の弛緩症を実在しないものだと信ずるようになり信じたとおりに私の胃病は実在しなくなったのであります。

 このわたしの経験と同じようなことがエディ夫人の著書のなかにもあります。それは消化不良症の一児童にグラハム式摂食法を応用した実例であります。

 この児童は消化不良症を癒すために、パンと野菜のみを食し、飲料はただ少量の水のみに限られていたのであります。しかるにその消化不良症は少しも良くならないでますます悪くなって来ました。で、彼はいっそう厳重に食養生を守ろうと決心して一日一回ただ薄い一片のパンだけを水も何もなしに食べることにしました。医者はまた食後三時間たたなければ、その渇いた咽喉(のど)をうるおしてはならないというのでした。
 こうしてこの児童は数年間ほとんど飢餓のなかで生活しましたけれども少しも彼の胃は丈夫になりません。
 医者はあらゆる手段をつくしたがその胃病を治す術(すべ)を見いだすことができないので、「この病気は死ななければ治りますまい」といったりしました。病人の方でもこんなに苦しい希望のない生活を続けるくらいだったら死んだ方がましだと思いました。

 この時、彼はエディ夫人と相識(し)るようになったのです。
 彼は病苦の数年を経過してもう青年になっていました。エディ夫人は彼に真理をといて聞かせました――病気と苦しみとは人間がわれとわが信念でかってに作った幻である。愛の神、全能の神は決して病気を作りはしないのである。だから病気は「実在の世界」にはないのである。神は決して断食や減食をしなければ健康が維持できないようには人間を不完全には造り給わなかったのである。だから、断食健康法などというものは神の造り給いし「実相の世界」の健康法ではない。そんな健康法は夢の中でお化けに追いかけられてやはり夢の中で走って逃げているのと同じである。夢の中のお化けが恐ろしければ夢の中で走って逃げてもなんにもならない。ただ覚めればよいのである。
 真理に目覚めればすべてのお化けが消滅する。つまり「生命の実相(ほんとのすがた)」がどんなに完全なものであるかを自覚したら、本物でないニセ物の病気はおのずから消滅して人間は健康になるのである。――こう彼はエディ夫人から教えられました。

 この真理が彼の病気を消滅させました。もう彼の胃袋は何を食べても痛みませんでした。また欲するものは何を食べても栄養になったのであります。

 そこで皆さんにはこういうことがわかるでありましょう。食物が肉体に害になったり栄養になったりすることができるのは「迷いの心」――一種の信念――がかくのごとき力を食物に与えるのであって、食物本来の力ではないのであります。

1405復興G:2012/10/06(土) 22:23:00 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(8)
       (頭注版 p.211〜213)
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 食物は本来、人間に害を与える力も栄養になる力もない。ある人には栄養になる食品も、恐怖心をもって食すれば害になります。ある人に害になるような食品も、神から与えられた食物に人間を害するものは決してありえないということを信じて食すれば害になるようなことはないのであります。

     神から与えられた食物

 ここに大切なことはわれわれのとるべきは、何よりもまず「神から与えられた食物」であらねばならぬことであります。私心(わたくしごころ)で、「何を食らい何を飲まんと思い煩うて」えた食物であってはならないのであります。

 神は「全体の渾一的生命」であり調和の統体でありますから、神の力で循環して自分の食膳にのぼる物ばかりを食べていれば自分の健康も調和してくるのであります。
 「形の世界」は「念(こころ)の世界」の映像(かげ)でありますから、念(こころ)が整うて神に一致するようにならねば本当にその人に適する成分を含んだ食品がその人の食膳に運ばれることにならないのであります。
 分析表や栄養料理の解説書を片手に、できるだけ自分にとって適当な食品を選ぼうと思っても、それは学問上では栄養料理ということになっているかもしれませんが、また相当その栄養料理にその人が信仰をもっていましても、栄養料理ぜめで胃腸がますます弱り、体力がますます衰弱していったような実例はたくさんあります。

 元来、その人にとっていかなる食物が適当であるかは、その人の血液検査をして見てもわかるものではありません。むろん、容貌や外観では容易にわからない。同じひとりの人でも、その日、その時間によってその人にとって必要な栄養分は変わってゆくのであります。
 われわれの心の働き、感情の動かし方の相異でわれわれの血液の中にできる毒素、疲労素、興奮素その他いろいろのホルモンのでき方がちがい、その分量も質も変わって来るのでありますから、この分量と質とがことごとくわからねば何をその人に食べさせてよいかは学問ではわからない。
 だからもし今後医術というものが極度に発達して、これら人体中の生成物を完全に知る方法が発見され、またそれに従って相互に調和すべき食物の供給方法が見いだされないかぎりは医者としては患者に「あなたにはどんな食物が適当しています」などという資格はほとんど無いのであります。

 では、われわれは何を標準として食物を選択したら良いでしょうかと皆さまはおたずねになるでしょうが、――だいたい、こんな事を気にしている事からして、われわれが、宇宙の渾一的生命、大調和の統体たる神から離れた感じをもっている証拠であります。

 生長の家の立場から、何よりもまずわれわれが克服しなければならぬのは、この「神から離れたという感じ」であります。われわれは常に神のうちに生きているが故に、神から離れることは絶対にできない、離れたと思っても離れていない、離れたと思うのは「迷いの心」であります。しかし「形の世界」は「観念(こころ)の映像(かげ)の世界」でありますから、「神に離れた」という感じをもっている以上は、「形の世界」のあらゆる事柄も全体的調和を得たように循環してこないのは当然のことであります。

 われわれが栄養分の調和をうる方法には二通りあります。第一は、外から食膳にのぼる料理が自分にとって必要な成分を含んでいるものであるということであります。
 しかし、これは今申しましたように食物成分の分析や栄養学ではわからないのであります。
 それはわれわれが神すなわち「大調和の統体」と一致したとき、必ず必要なものが食膳にのぼるようになり、またその食膳にのぼったもののうちでも必要な食物に対してだけ大いに食欲が動いてくるのであります。
 われわれが、神すなわち「大調和の統体」に一致しますとわれわれは「本能」に従って行動して食物が自分に調和したものをとることができるのであります。正しい「本能」に従うときわれわれは「欲するところに従ってその矩(のり)を超えず」というようになるのであります。

1406復興G:2012/10/06(土) 22:23:38 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(9)
       (頭注版 p.213〜215)
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 この点では人間は「知恵の樹の果」を食べて人知というもので、病理学だの、衛生学だの、栄養学だのという「迷いの学問」を作りあげ、あくまでもその学問の力で食物を選択しようとしていますから、学問を超越した生命自身の選択力――正しい「本能」――を非常に鈍らしているのであります。この点では動物の方が偉い、ひよこでさえ卵の殻を破(わ)って出るとすぐ、何が自分にとって適当な食品であるかを本能的に知っているのであります。

 蚕(かいこ)でも、毛虫でも、どの植物の葉が自分の食品として適当であるかを知っていて誤らない。また食物を子供に当てがってやる毛虫の親にしても必ず自分の子供に適当な食物を与えるのであって、人間のように、親の与えた食物の選択が誤っていたために子供が腸をこわしたなどということはないのであります。
 毛虫の親は蝶でありますが、蝶は必ず自分の子供が孵化して幼虫となった時に食物となるべき植物に自分の卵を生んでおくのであります。こうなると人間最高の知恵の結晶たる大学教授の栄養学よりも、毛虫の「本能」の方がすぐれているといわねばなりません。
 われわれはまた、野生の毛虫が食い過ぎて胃腸を悪くしたという実例を見たことはありません。またわれわれは犬や馬が過淫で神経衰弱になった例に接したこともありません。「正しい本能」に導かれるものは、決して過食することも、過淫することもなくなる。これは正しい「本能」というものが生命自身の選択力、調節力の発現であるからであります。

     本能を正しくする道

 では、「本能」を正しくするにはどうしたらよいか、われわれはエデンの園で人類が一度蛇にだまされて食べたという「知恵の樹の果」をことごとく吐き出してしまって、神の英知(ちえ)を心の中に吸い込んでその導きにおまかせしなければならないのであります。

 では「知恵の樹の果」を吐き出すにはどうしたらよいでしょうか。「生命」を「生命」とせず人間を物質的機械と観ずる在来の「迷の学問」をば、「生命」を「生命」として取り扱う真学問の光りで照破するのが何よりもよいのであります。
 仏典にも、聖書にも、日本の古典にも、「生命を生命として取り扱う真学問」が書いてあるのであります。これらの聖典が尊いのはそれが釈迦の言葉だから尊いの、イエスの言葉だから尊いのというわけではなく、この「真学問」が書いてあるから尊いのであります。
 しかし、仏典、皇典の難解はいうまでもなく、聖書にしましても、表面はかなりやさしいけれども、それは霊感によって書かれたのでありますから、表面の字句だけを読んで、霊感でこれを読むことができなければ、本当の真理がわからず、真理がわからねばせっかく読んでもなんにもならないのであります。だから仏典でも、聖書でも、古典でも、それを読んで病気が治ったという人はめったにない。それは読んでも本当に解らなかった証拠であります。

1407復興G:2012/10/06(土) 22:24:14 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(10)
       (頭注版 p.215〜217)
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 宗教家のうちには、「病気などを自分で治すことは考えていない。そんな現世利益(げんぜりやく)はどうだってよい、自分は霊魂(たましい)の救済を考えているのだ」という方があるかもしれませんが、それはやせ我慢か、でなければ無知かであります。
 「真理の世界」に病気は無いのでありますから、真理を知る以上は病気の夢がことごとく破壊されて、無病なる本来の完全な生命状態が顕れることが当然なのであります。それができなければ真理を知ったということはできません。
 ところが『生長の家』誌を繰り返し本当にわかるまで読んでいる方には、ぞくぞく病気が治ったり、大食癖が治ったり、喫煙癖が治ったりして「生命」本来の完全さを肉体の上に実現せられつつあるのであります。これはなぜかと申しますと、『生長の家』誌には「生命の実相(ほんとのすがた)」(真理、神、道)がいかにも解りやすく書いてありますから、むつかしい仏典、聖書を読むよりも、真理を知りやすく、真理を知るにしたがって、自己の生命の完全な実相がアリアリと肉体の上にも映し出されるからであります。

     島薗内科における西田天香氏の実験

 それはさておき、われわれが栄養物の調和をうる二つの方法のうち、外からわれわれの食膳に上るものは、摂理と本能とによってかくのごとくして調節されるということについては説明を終わりましたから、今度は内からわれわれの生命力がいかに自分の栄養を調節してくれるかということを述べておきたいとぞんじます。

 数年前に京都帝国大学医学部内科の島薗(しまぞの)博士が、脚気の病原を研究するため一燈園の西田天香氏はじめ数名の一燈園同人を、モルモット代わりにして数十日間厳重にビタミンBをぜんぜん含まない食物をとらせて実験せられましたところ、その実験台になった西田氏はじめ数氏とも決して脚気にかからなかったという事実があるのであります。

 この場合はことさらに実験でありますから自然に循環して来る外からの摂理を遮断して、食膳にのぼる食品の種類をわざと不健全なものに限り、本能的嗜好を利用して栄養の不足分が自然的に補われるということもでき難くしてあったのであります。このように外からは摂理も本能も利用することができないけれどもさすがは西田天香氏であり、一燈園の同人であります。心の平和が常人と違う。心に一点の恐怖もない。

 わたしは雑誌『生長の家』第二集第二号に「心の平和の生かす力」という題で、心の平和がいかに絶大な治病力を発揮するものであるかを書きましたが、その真理がこの場合にも実証されたのであります。わざと病気になるように献立された食物、ぜんぜんある種の栄養素を除き去った物ばかりを数十日間食べさせられても病気一つ起こさない――この否定し難き事実は何を語るでありましょうか。それは心さえ平和であるならば、決していかなる食物もわれわれの健康を害することができないという一大証拠があげられたことになるのではありますまいか。

1408復興G:2012/10/06(土) 22:25:29 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(11)
       (頭注版 p.217〜219)
   -----------------------

     食物の小言は禁物

 よく滋養物だの栄養料理だのといって、「知恵の樹の果」の一種なる栄養学にとらわれている方がありますが、そういう方に限って、その日その日の食膳にのぼる食物をなんらの権威のない栄養学の立場から批評して、コレは悪いとか、アレは悪いとかしじゅう小言ばかり云う傾向があるのであります。小言は心の平和が乱れた証拠であります。
 よほど修養のできた人でも、栄養学にとらわれている限りは小言を口でいわないだけで、心の中には「こんな物は滋養にならぬ」とか、「こんな物は胃腸に悪い」とか不平や恐怖をとなえながら食べているものであります。すると食物そのものは決してわれわれの健康を害することがないにもかかわらず、心が平和を欠くために、心でその食物が身体に悪いだろうと予想し恐怖するために、その心の乱れを整理作用に映し出して、その人の健康はしだいに調子を乱してくるのでありまして、食物そのものにわれわれの生命を害する積極的力はないのであります。

 このようにわれわれの肉体の栄養分の調節は、外からは摂理と本能がやってくれ、内からは自然の生命力が調子をとってくれるのでありますから、われわれは何も自分で何を食らい何を飲まんと思い煩う必要はないのであります。
 もし外からの調節ができなくなり、外界からある栄養素をぜんぜん引き抜かれましても、心さえ平和であればわれわれは一燈園の西田天香氏のように病気にならずにいられるのであります。
 だいいち、神の子たるわれわれ人間、創造(つく)られた物のうちでも神のもっとも完全な万徳を賦(あた)えられてすべての多のものを支配する権力を与えられたわれわれ人間が、消化不良といって、食べた物質にアベコベに支配されるというわけはないはずであります。
 だからもし諸君が消化不良であるならば、もし糖尿病であるならば、もし腎臓病であるならば、そのほかおよそ食物に原因するという病気にもしかかっているならば、今後決して、食膳にのぼる食物の成分を考えたり、固さを考えたり、これを食べてはよいか悪いかなどと考えたりしないで、自然の摂理によって食膳に運ばれて来るものを、神から与ええられたる自分にとっての最善の食物として感謝して素直に食べるがよいのであります。
 これが唯一のこの種の病気の心的治療法であります。

 生命や活力やその他なんらかの積極的力が物質そのものにあるという信念――こんな迷いの信念を捨てて、「われこの食物を神より与えられたれば、最善の食物なり」との信念で、いかなる食物をも平和な、素直な恐怖のない心でとるとき、この正しい信念が自分で自分を養うて、その人はいかなる食物からでも人一倍豊富な栄養を吸収することができるのであります。

<完>

1409a hope:2012/10/07(日) 07:21:58 ID:r8H4x9xE
新版 人生読本 谷口雅春先生著

第三章 恐怖の心を捨てましょう
♦恐れないためには


それではどうしたら人間は恐れなくなるかと云いますと、人間は神の子であり、神様がまもっていて下さるのであり、
人間の内部には丁度私の童話の『ファウスト物語』の中にある「黄金(きん)の筥(はこ)」のように、
それをさすって念ずれば、何でも思うものが出て来、何でも思うことが出来る「生命(いのち)の力」が宿っているからなのです。

吾々の内に宿っている「生命の力」は神様が何でもほしいものを引き出すために与えて下さった魔法の「黄金の筥」なのです。
自分の生命の中には目に見えない秘密の「黄金の筥」があって心で念ずれば何でも出て来ると、先ず信じなさい。
(つづく)

1410a hope:2012/10/08(月) 08:04:50 ID:r8H4x9xE
>>1409訂正 一行目
 新版 人生読本 → 新版 生活読本

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第三章 恐怖の心を捨てましょう
♦問題をやさしく解くには


その次には、吾々が恐れているものは、恐れているから、恐ろしい姿でやってくるけれども、
恐れずにいれば、その恐ろしいものは決して出て来ないものだと云うことを知らねばなりません。

犬などでも恐れて逃げると追いかけて来て後から吠えつきます。
だまって静かに平気で側(そば)をあるくと、知らぬ顔をしています。
美味しいお魚の骨でもやって「コイコイ」と云うと、やさしい友達になってなついて来るのです。

何でもこの犬のとおりで、自分がこわがるからこわい形に出てくるのです。
犬と仲よしになるように、すべてのものと仲よしになることです。

学校の学科でも問題を恐れていると、いよいよ恐ろしい、むつかしい問題に見えるのでよう。
これは、やさしい問題だ、問題と仲よしになろうと思って、楽しみながら問題にぶつかると、ふしぎに楽にその問題が解けるのです。

病気にかかったときでも、こんな病気位すぐ治るのだと恐れずにいますと、本当にすぐ治るのです。
「これは大変だ。死ぬかも知れぬ」などと思うと、その恐れる心で身体に毒が出来て中々治らぬことになるのです。

ランニングをしていても競争相手おそれると負けてしまいます。
「私は神の子なんだもの、神様と一しょに走るんだ、神さまが走らせて下さるんだ」と思って一所けんめい走りますと、
不思議によく走れて、一等になれるのです。何をしてもこのコツです。

負けることを恐れる者は負けますし、必ず勝つと信じている者は必ず勝つのです。
(第三章 終り 次回から 第四章 明るい心を持ちましょう へ)

※「第七回 web誌友会」が終了するまで、聖典「新版 生活読本」の謹写をお休みさせていただきます。

1411うのはな:2012/10/09(火) 19:24:17 ID:bZiCwTy.
『運命の原理』 谷口雅春 先生著  (投稿者 現代字に変更)

   法と我とを分離するもの

 法悦と云うものは天地萬物同根だと云う哲学などで殊更にそう感ずるのではなしに、
本当に吾吾の生命は悦びであると云う實感が湧いてくるのでなければなりません。
 若しそれが湧いて来なかったら、何か霞のようなものを隔てて『法』を見ているのであって、
アリアリと『法』に直接接しているのではない。

 一枚の紙があって『法』と『自分』との間に挟まれているようなものであるから、『法』そのもの
は悦びであっても法の本当の悦びと云うものが分らないのであります。ですからこの一枚の紙を剥ぎ取って
了う必要があります。その一枚の紙とは、我見と云いますか理屈と云いますか、兎も角も宇宙全体と一つにならない
ものがあって『法』とぴったりしないことを云うのです。

 『法』とぴったりしなければ『法』そのものが悦びであっても、その間に挟んである紙を透してぼんやりと見たり、
或は三角ガラスを透光するような屈折作用を起して見るものですから、それが歪んで見えることになるのであります。
ですから、どんなに偉い哲学者であろうとも、またどんなに偉い宗教家であろうとも、生活に法悦のない人はまだ本物で
ないのであります。この儘この世界が寂光土と申された方もありますが、寂光と云う言葉ではその悦び満つる世界、法悦の
世界である。

 ですから、『法』そのもの、實體そのものと一つになっていると、生きていることが悦びそのものであると實感的に感じられて来る
筈なのであります。『法』が悦びでありまして、『法』以外のものは何もないのであります。
ここに云う『法』とは所謂實在でありまして、實在そのもの、實在そのものの他に何もないのであります。
そして、實在そのものが悦びなんですから、實在以外の相がどんなに見えようとも、そんなものは無いのです。
それは要するに活動写真を見ているようなものなのであります。

 そこで『法』と云うものと一體になっていると何時でも喜べる、何時でも喜べない人はまだ本物ではないのであります。
釈迦も王宮を飛出した時分はまだ本物ではなかった。三十五歳の十二月の八日暁の明星の光を見て、『みんな救われている、
有情非情悉く皆佛のいのちで悦びそのものである』と悟った。
この時に本物になったのであります。吾々もその境地に達したならば、不平も不満足も癇癪も何も起らなくなる、そして常に
有難く法悦に満たされて生きておられるのであります。

P160〜 昭和二十一年七月一日 初版発行

1412SAKURA:2012/10/09(火) 20:06:52 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 幸福への第一歩 ) 

―――――  ►► 幸福への第一歩 ◄◄ ―――――

|❤しかし、わたしには愛のない人生なんて、とても望めません。

 誰だってそうですよ。愛があるからこそあなたの行動は豊かに、完全なも
のになっているのです。しかし、愛はかならずしもつねに存在するとは限り
ません。そして、あなたの愛を受けとめ、あなたに愛を返してくれるような
人がまわりにいないとき、あなたがどんな気持ちになるか――それは現実に
愛する人を得たときに、愛の体験がいかにすばらしいものであるかというこ
ととかかわってくるのです。

 わたしは大叔母のことを思い出すのです。いま彼女は八〇歳もなかば過ぎ
ており、カリフォルニアの砂漠のはずれに住んでおります。かってわたしは
彼女に「最近はどうですか」と聞いたことがあります。大叔母はこう答えた
ものです。「昼間は十分な時間がなくてね」と、最近、彼女を訪問したとき、
その言葉の意味がようやくわかったのです。

 わたしたち夫婦が彼女の家にいたとき、彼女は読書グル−プの会員をもて
なしていました。毎週、読む本があり、ケ−キを焼いていました。彼女はま
た創作もかいており、そうした文化活動の合間に草花を育てたり、人を訪問
したり、友人や親戚、あるいはラジオのショ−に登場する人などと幅広く交
際しています。
                            (つづく)

1413SAKURA:2012/10/09(火) 20:08:44 ID:jH5uEFzM
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1412投稿の続きです…【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

それでいて、少しも忙しい様子は見受けられません。つまり、
自分のすることをこころから楽しんでいるのです。二、三年前、一人で外国
旅行に出かけました。そして大変楽しんできました。帰りにしばらくわたし
たちのところに滞在していました。それがまた、彼女には楽しみでもあった
のです。わたしたちと一緒に過ごすことをとても喜んでいました。ところが、
わたしたちがちょっと出かけて留守にしているときでも、まったく幸せその
ものだったのです。わたしたちが帰ってきて、相手をしてくれるのを待って
いるといった気配一度も感じさせたことがありませんでした。
 
 「わたしを慰めて欲しい」なんていう表情は一度もしたことはなかったので
す。大叔母はみずから満足させる方法をすでに身につけていたのです。
  
【幸福への第一歩】は終わりました。次回は【自分のメッセージを聞く】に入ります   
                        
PS:トキ様 へ
「亡き母」が、健在でいました頃は、家に帰りますと、直ぐ!口癖のように〜〜><
「仕事…をするように!」と、そればかりでしたかしら〜〜〜ン!80歳の頃は、まだ
顔見知りの近所のおばさんが、健在で多少は、母なりのコミュニケ−ションが〜〜〜?
でした。…が?その後のことですが?叔母さんの息子さんが、栃木に当時居住していま
したので、その息子さんが、ある事情から?当然引き取る様になりまして、その後?
人間関係が一つのきっかけにて【ボケ症状…】が、その叔母さんに出てきましてからは、
娘さんが小倉に住んでいますので、今度は、娘さんが、引き取ると治るだろう
という感じで、その後!ピタッと〜〜〜><簡単に他界されたのです…。

この様に…私自身の亡き母も、ある一定年齢からは“本を読む事!!”もなくなり…?
この頃「亡き母の書物」を、開きますと?母が読んだのでしょう〜〜〜その本のペ−ジ
のある部分に、赤鉛筆でボ−ダ−ラインが〜〜〜><フト!痛々しい感じでしょうか?

字が読みにくかったのでしょうか?いろいろ「亡き母」の健康状態を顧みまして、
いずれにしましても、私もいつかは?“加齢…”です〜〜〜ョネ!今、現在の“信仰”
を携わりながら【心 の 哲 学 の 完 成】更に【心 を 磨 く】には、やはり
“本を読む事”なのでしょうか〜〜〜???

■現在!社会問題としての【認 知 症】この事は、一人一人がもう一度、考える
必要性があるのでは〜〜〜と思います。…が?

作者の【大叔母さん…】は、すごいです〜〜〜ョネ!今!私の身近には、正直申します
と?そのような方は、現在はおらず…という感じが致します。…が?少し前は、
「栄える会…」にて、亡くなられます直前までは「本を読む事」を、なされました方
が、いらっしゃいましたのです〜〜〜ョネ!確か?84歳でしたか…!(永眠)
一人暮らしでいらっしゃいましたが……!本当に、精神面が強い方と……!!更に、
凄い方なのです〜〜〜ョネ!80歳から“誌友会”を発足されましたのです〜〜ョネ!
最後に、息子さんの一人が??“本部講師?職員?”でしたでしょうか??

余談ですが…亡くなる前に一度!意識を取り戻されまして…おっしゃいました“言葉”
❤〜【いつまでも…親がいると思うな〜〜♫〜〜】との“言葉”を……

さて「トキ様」も、このような“人格者の方”が、身近におられますか〜〜〜?
ご高齢で、この様な「人の押しつけもしない感じの方」は???本当に……?
                                再合掌

1414うのはな:2012/10/11(木) 13:10:36 ID:CVNuh5cE
悪とは創造途中の善   『百時如意』 谷口雅春 先生著

 フォード 体験上教えられる点から云えば、消極思想は積極思想よりも教えられる点が多いですね。
 と云うのは人間と云うものは間違いによって教えられ、困難によって反省せしめられるからです。
 吾々が悪と称するものは、要するに私には、暗黒の中で頭を打ち衝けているようなものなのです。
 時には、ひどい頭の打ちようで、これは堪らないと思うこともありましょうが、人間はもっと別の方法で体験
 を得る準備が出来ていなければ斯うして頭をぶつ衝けながら体験を積むほかはないのですよ。
 無論、心の持方の準備さえ出来ていれば、頭を打たないで経験を得る方法もあります。

 トライン それで思い出しました。エマースンが、悪とは今だ『創造されつつある善』であると云いましたっけね。

 フォード 其処です。『間違い』は経験の源であり、智慧の泉である経験の精髄なんです。

 トライン 恐らく人間が此の地球に生を享けたのは、殆ど全く経験のためなんです。

 フォード 私はそれを確信しています。吾々は此の地球上の生活から得られる筈の全ての
 経験を得終るまでは地上に生を享けるのです。

 トライン もう一つ吾々が地上に生を享けている目的があると思います。それはある友人が
 私に話してくれました。貴方もその説は御存知で余程其の方面には興味をお有ちのことだと
 思いますが、ほら地上は、若き霊魂たちが霊魂の休養のために新しい空気を吸いに来る処だと云う
 ことです。これは、彼ら霊魂の特定の時期に極めて重要なことだそうですねえ。

 フォード 若き霊魂たちはその仕事から大いに魂の休養を得るんですよ。

 トライン 若き霊魂たちが或る種の『魂の休養』と云うか、『気晴し』と云うかを得なければ
 ならんのは当然ですが、その『気晴し』が正しいものであれば結構ですが、悪い種類のものであれば
 その結果苦しみを受ける..........

 フォード 人間は自己の一切の行為から経験を積むのです。

 トライン 人間に必要なことよりも間違いを多くやりすぎて犠牲を拂っていやしないでしょうか、
 そして、その度毎に多大の損失をやっている?

 フォード 或は損失をやっているかも知れないが、私の知っている殆ど全ての人は、その人特有の
 そうしたやり方で経験を積み教えられなければならなかった人のようです。
 ジャズを例に引いて見れば、ジャズには随分非難もあるが、私はジャズのことは深く知らないが、ジャズ
 が与える経験を必要とする人だけがジャズの方へ引付けられて行くのではないでしょうか。

 トライン ダンスに就ては一般からその価値が再吟味せられようとしている。
 古典的なものを貴方のお好みになっていることは今更云う迄もないですが、そして本当の味と云うものは
 古典的なものの方にあることは勿論ですが、この方面で貴方は何か霊魂の進歩が得られると云うような希望が
 ありますか、何かそれの利益と云う風なものが?どうお考えですか?

 (投稿者 現代字に変更書き)P99−101

1415ハマナス:2012/10/11(木) 23:53:22 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
ご無沙汰しております。帰って参りました。

今日から『新版生活の智慧365章』の第四部健康の泉に入ります。
「第十篇 肉体の苦痛はどこからくるか」

苦痛は心にある

若しあなたの肉体に苦痛が起ってて来た場合、その苦痛を実在だと思ってはなりません苦痛と云うものは。苦痛と云うものは心の状態なのです。肉体は単なる物質として存在する限り苦痛は感じられない筈です。所謂る「物質」には知覚がないからです。心が苦痛を感じ、心が苦痛を「実在」として感ずる限りに於て苦痛は益々増大するのです。

あなたの腋の下を人にさわらせて御覧なさい。心がそれを気にもとめねば何ともないのです。心がそれを擽(くすぐ)ったいと気にし始めるならば、いくらでも擽ったくてたまらなくなるでしょう。物質的事実はそれを心につかまなければ何ともないのです。心にそれをつかみ始めるとき苦痛や擽ったさがでて来るのです。「病気だ」と思うとき、心がその病気をつかみます。其処から苦痛がはじまるのです。

感謝合掌

1416さくら:2012/10/12(金) 23:37:37 ID:e8ieIrPA
ハマナスさま

お帰りなさい〜お待ちしてました。
…ますます清らかになられましたね、笑。

いつも聖典謹写真の行に励まれ、ありがとうございます。

短くて読みやすいので助かります。

涼しい季節になりましたので、ご自愛ください…。

感謝合掌。

1417ハマナス:2012/10/14(日) 01:53:39 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
さくら様

ありがとうございます。
ただいま! 念願のYale大学とHarvard大学に行ってきました。
まだ、時差ボケしていまして、昨日も投稿できませんでした。すみません・・・

「間違ったレントゲン写真」 (『新版 生活の智慧365章』P.262)

 集団検診で自分の胸部のレントゲン写真をとって貰って、其処に大きな黒い影や空洞が
写っていることを指摘せられます。そして明らかに肉眼で見て、自分は結核に侵されて
いるのだと信じます。すると、今まで元気であった活力が肉体から抜け去り、無限の疲労
感が全身に覆いかぶさって来てほとんど動けなくなります。ところがそのレントゲン写真は、
番号の隣の人のレントゲン写真であって、写真の順序がくるっていたので間違ったのだと
わかった時には、一ぺんに其の人の疲労感や、胸の重圧感はなくなって、活力が全身にみな
ぎって元気になって来ます。

胸を結核菌にやられていると云う考えを捨てなさい。胸を結核菌におかされていると思って
常に胸に心を集中していると、其処に血液は停滞し充血を来して新陳代謝が不完全となり、
若し病菌がいるならば却って病菌が繁殖し易くなるのである。心が病気を作り、心が病気を
治すのです。

感謝合掌

1418さくら:2012/10/14(日) 06:31:22 ID:d3HE6i2s
みなさま。おはようございます。

ハマナスさま

海外だったのですか!ステキですね〜。
大学巡りとはアカデミックな旅ですね、笑、
時差ぼけには、昼間太陽の光をたくさん浴びることがよいですね、

…ここへ来ましたので、島に書いたご文章ですが、
最近繰り返し読ませて頂いている箇所を、短く謹写させて頂きます。

「高く廣く大いなる神の御言葉ー汝等天地一切のものと和解せよ、との七つの燈台の點燈者の神示。
此處に神がましまし、萬教の真髄がこもる。
天地一切和解とは絶対感謝である。
有無を云はずに無条件感謝である。其の儘感謝である。
これが甦りの生命である。
神の子となるとは絶對感謝の誕生である。
有難いと云ふ心の無い處には神は居ない。
絶対感謝の無い悟りは悟りの幽霊であるにすぎない。
天地一切和解とは絶對が誕生することであり、絶對にまみえることである。」

『常楽への道』吉田 國太郎先生著



1419ハマナス:2012/10/14(日) 12:52:14 ID:mR2szZkc

みなさま
おはようございます。

さくら様
アドバイスと素晴らしいご文章をありがとうございます。
「絶対感謝」の言葉、心に響きました。

感謝合掌

1420ハマナス:2012/10/14(日) 23:13:38 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

 無いものはナイ (『新版 生活の智慧365章』P.263)

 心を一転しなさい。現象はどうあろうとも、現象は結局うつり変る姿ですから
気にとめないで、あなたの実相の完全さに心を転じなさい。実相のみ実在であって、
現象は実在でないから現象がどうあろうとも心にかけることは要りません。あなたの
実相は神の子であって、今現に健康なのです。健康のみが実在なのです。

 病気なんてものは、神が作らないから、どんなにアルかの如く見えてもナイのです。
無いものは無いのです。それは夢の中で、病気にかかっている夢を見ているようなもので、
その病気には実体がないのです。実体のない病気を実体があるなどと考えるのは妄想です。

『般若心経』にはナイものをアルと思う「サカサマの想い」を「顛倒夢想」と書いてあり

ます。そんな「サカサマの想い」を捨てなさい。夢の中で物を見る心は、その心もニセモノ
です。ニセモノの心を「妄心」と言います。「妄心」を捨てなさい。

感謝合掌

1421a hope:2012/10/15(月) 08:27:27 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第四章 明るい心を持ちましょう
♦健康を考えて健康を得よ


悪いことや詰まらぬことなど、考えないように致しましょう。
これを食べたらお腹をこわすとか、寒い風にあたったら風を引くとか、つまらぬことを思わないようにしましょう。

思うとおりにあらわれるのが、心の法則なのです。
「わたしは神の子だから常に健康で楽しくて、愉快だ」と考えるように致しましょう。
そう考えると、いつも愉快で達者でいられるのです。

乞食はゴモクの半分腐ったような食べ物をひろって食べても一向に病気にならないのです。
浮浪児は、貰ったオニギリをゴミだらけのきたない手で、鷲づかみにして食べていても一向おなかをこわしません。
布団もなしに、夜露のおりる上野公園でねていながら元気で病気にかかりません。
それは病気なんて思わないからなのです。

ところが、よい家に育った坊ちゃんや、嬢ちゃんは、病気にならせてはいかぬ、
風邪を引かせたらいかぬ、お腹をこわしたら大変だと、始終小さいことに気をつかって、
注意に注意をかさねていても始終病気になっているのが多いのです。

それは何故ですか。
それは「病気」のことを始終思っているからなのです。
「病気になったら大変だ」と始終思っているからなのです。

こう云う人はアメリカではトラブル・シーカー(trouble seeker)と云って軽蔑(みさげる)されています。
病気のない間から、病気が何処かにないかしらと、さがしまわっているようなものなのです。
それだから、病気をさがし当て、小さい病気でも、心で恐れて大きな病気にしてしまうのです。

キリストは「求めよ、さらば与えられん」と申しましたが、こう云う人は、病気を求めて病気を与えられるのです。
それよりも諸君は健康を求めて健康を得たらよいでしょう。
(つづく)

1422うのはな:2012/10/15(月) 12:05:53 ID:JsVayk8A
   自壊作用は魂を磨かれる機会

  先生の御本に“自壊作用がこなくて、全てが整うというような甘い考えを持つな”
というお言葉を拝見したことがございます。私宅にも、「神想観をやり、『甘露の法雨』
を誦げているが何か調子が良くゆかない」という誌友さんがいらっしゃったのでございます。

 長いこと生長の家の本をお読みになっておられるそうですけれども、実はどこを読んでいるのか
分らないような読み方だろうと思います。その場合、その人にそれだけの自壊作用があるということは、
その人の魂を、今ここですばらしく研かれる機会が与えられたのだということを、先生は口がすっぱく
なるほど、私達におっしゃっていただいております。

 私たちはややもすると、目の前の現象が整うことが何よりも良いことかの如く、考えがちでございます。
けれども目の前に良いことが現われたのを良いと思うときは、すでに峠を越したときじゃないかと私は思って
おります。常に私達は、失敗とみえることに直面することによって、すばらしく研かれてゆくんじゃないかと、
“自壊作用”に自分ながら感謝させていただいております。

『實相研鑽』第三集 川野岩五郎氏 P88 谷口雅春 先生監修

1423うのはな:2012/10/15(月) 15:38:25 ID:r.C5sfeA
    生長の家は単なる唯心論ではない

 唯物論を抛棄すると言いますと、その対蹠的な唯心論ということを考える人が
多いのですが、生長の家では「唯神実相論」と言っていまして、「人間の心」が何でも
創造すると云うのではないのであります。

 唯神のみ、実相のみ、実在であって、人間の妄心などみとめないと云うのが、生長の家の
説いている唯神実相論の哲学であります。現象世界というのは、これは神様の造ったものじゃないの
であって、神様の創った“実在の世界”のその表面を、雲の漂うように“心の迷い”をもって蔽いかくして、
もやもやと現している“虚の世界”にしか過ぎないと云うことを、説いているのであります。
実在は満月のように円満完全であるのに、心の曇りがもやんもやとしているから、ハッキリと明るい円満な月が
あらわれないで、薄暗い、斑点のある汚い月が現象として見えている。

その、もやもやっと縺れ紛糾しているこぐらかった心を、さっぱりと、ほどいてしまったら、それが即ち“解脱”であります。
解脱とは一切の束縛から、ほどかれ、脱することで、そうすると、自由自在の本来の実相、実際の状態が現れて来るのです。
これが仏の状態であります。

『涅槃経』には「解脱をもって仏となす」と書かれていますが、私たちは本来の自由自在を奪還して一切の苦厄から解き脱した状態に
なって終うのです。そして人間の「いのちの実相」の円満完全な姿がそこに現れて来るのです。それがエデンの楽園の奪還であります。
楽園を地上に奪い還して、もう一ぺんこの世界を、地上天国的な状態にしようとする運動が、
この生長の家の人類光明化運動であります。

『日常生活の中の真理』 無門関・聖書篇  谷口雅春 先生P167-168

1424SAKURA:2012/10/15(月) 18:14:59 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤ではわたしたちはどうやって、みずからを満足させる方法を身につけ
|ることができるでしようか。どうすればみずからを成長させる方法が会
|得できるでしょうか。

 自分自身に耳を傾ける習慣をつけることが大切です。たいていの人は外の声に自分を合わ
せています。自分のメッセ―ジをはっきりと受け取ることから取りかからなければなりませ
ん。赤ん坊だって空腹のときと痛みを感じたときはわかるのです。しかし、わたしたちが小
さいときには、他人の声の方が自分の声よりもずっと大きく、確かなものに聞こえるもので
す。他人の言葉にしたがっていくのはきわめて容易な方法です。他人の言葉はすでに計算し
ていわれているのですから、子どもはただそのひとつひとつをつなぎ合わせることからはじ
めるわけです。そのうえ、他人様がパンにバタ−をぬってくれるのです。彼のいうことをよ
く聞いていれば、わたしたちはまかないつきの生活ができるのです。こういう他人様と対等
にやっていくためには、自分でなにかをすればいいのでしょうか。子どもとして生き延びて
いくのなら話は別です。しかし、そうでないとすればもう同じことを繰り返していくことも
ないでしょう。
                           (つづく)

1425SAKURA:2012/10/15(月) 18:17:18 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1424投稿の続きです…。

 もう一度自分に目を向けるには、ある訓練を要します。まず勇気を出して大声で自分の考
えていることを話さなければなりません。あまり長い間、自分自身の声に耳を傾けないと、
その声にそのうち聞こえなくなってしまいます。なかばあきらめて放棄してしまうことにな
るでしょう。また、あまり長い間、自分の声にふたをしておくと、しまいには猛烈な怒りを
爆発することになるでしょう。とにかくその声は生きているのです。わたしたちはその声に
チャンスを与えてやるべきです。自分の内部の声に耳をかす方法を会得すれば、わたしたち
はたくさんのことを発見し、多くのすばらしい話を聞くことができるでしょう。
       ―――――――――― * ―――――――――――
PSトキ様 へ
若い時は“他人の言葉”に振り回された時期がありました。これは、今思いますと?他人は
ある程度計算が入りますから〜〜【人のつながりはやはり“心の目”で見る…事?】地元の
故郷に帰郷した頃、ただ職場で現在の“服飾関連”をまだトライ!伸ばしたい!と思い当時
の私は“夜間専門学校”に再チャレンジ!入学!しました。その時の“クラス?”にいたの
が【吸血鬼…男・女達】です。彼らの素状?は、女性を覗いて【男性の方?】は、知りませ
んでしたから、ただ知り合いといっても?全く“話し”をかわした事もない状況で、“クラ
スの人間??”ぐらいとの感覚でした。それが何十年振りに街角で見かけて…そこからです
が〜〜><私は見た“瞬間”どうもふに落ちなく…変!変!逆に“パ−トナ−”はオモシロ
イ?というだけで〜どうしても【神様からの啓示??】すっきり感?が〜〜〜如何してもな
く!腑に落ちない点があり〜〜〜!と私は【警戒状態…】【第6感…直感】がやはり〜〜〜
“的中”しました。…が?この時、私は、何故?人は簡単に認める事をしたのでしょうか?
【後 悔…一言】〜〜〜><今!にして思えば…

“今日の言葉”から〜〜“人間関係”の時は“学生時代”と違いますから、当時の私は
【人 類 は み な 兄 弟】のスロ−ガンとして、単純に人を信頼したモノです。
計算ある付き合いも多い、現在の世では、やはり【自分の心を見詰め直す事…】が大事に思えます。
■【自 分 の 声 を 聞 く ???】そうです。“内なる声…”
これはやはり自分の“本当の心”それは〜〜〜【神想観…実相感!】です〜〜〜ョネ!
自分を見つめ直すには【神想観・瞑想】と思います。「トキ様」は、どうでしょうか?
                                   再合掌

1426うのはな:2012/10/15(月) 18:17:38 ID:PYl4tM0Y
個人指導の実際  この御文章は、谷口雅春先生が昭和三十六年の新年特別教修会に
おいてお話し下さいましたことを録音筆写して『生長の家』誌(同年五月号から九月号まで)に
掲載されましたのをまとめたものであります。

  はじめの言葉

 大体今日集まっておられる方は、生長の家の講師の方、或いは幹部の方、それから
今日講師試験を受ける準備をしておられる方が主でありまして、新しい人は少ないと思うのであります。
それで、現在又は将来、生長の家の講師として人を導く場合に、どういうように導くべきか、ということを
主にして話してゆきたいと思うのであります。

 大体、生長の家は、病気を治すというところではないのであります。
「病気は無い」という哲学を話しているのであります。それで、先ず根本的に知らなければならないことは、
現象と実相との区別であります。たしかに現象としては病気はあるのであります。
けれども、実相としては無いのでありまして、その区別をはっきりしなければならないのであります。

1427神の子さん:2012/10/15(月) 21:12:37 ID:fwBhZpmg
>>1421
a hope様
いつもすばらしいご文章を謹写していただきありがとうございます。
陰ながら感動しながら拝読させていただいています。
このご文章は少し疑問に思いましたので質問させていただきます。
最後から二行目のキリストはというところです。
こう云う人はというのはキリスト様の事になりますよね?
キリスト様が病気を与えるということになってしまわないでしょうか?
私の解釈の仕方がだめなのでしょうか?

1428神の子さん:2012/10/15(月) 21:26:04 ID:fwBhZpmg
>>1422
うのはな様
すばらしいご文章を謹写していただきありがとうございます。
生長の家は「唯神実相論」であると書いてありますが、「現象は自分の心の写しである」と書かれたご文章も他のところで拝読した記憶があるのですが、これは唯心論で、これも生長の家の教えとは言わないのでしょうか?

1429神の子さん:2012/10/15(月) 21:28:53 ID:fwBhZpmg
>>1426
うのはな様
これはとても興味深いご文章です。
今後も楽しみにしております。
ありがとうございます。

1430a hope:2012/10/15(月) 22:53:53 ID:8tjYhMb6
>>1427 神の子さん

うれしいお言葉をありがとうございます。
以前、謹写していた 「人生読本」や今回の「新版 生活読本」は、
谷口雅春先生の、子どもやお年寄りでも生長の家の真理が理解でき、
幸せになれるようにとの愛念から執筆された聖典だとのことが、はしがきに書いててありました。
わたしは、「これを読んでくださる人が、ひとりでも、幸せな気分になってくれたらいいな〜」
と祈りを込めて謹写させていただいています。


ですが、今回の神の子さんの質問は、言われてみれば、ちょっと考えてしまいますね。

>>キリストは「求めよ、さらば与えられん」と申しましたが、こう云う人は、病気を求めて病気を与えられるのです。
>>それよりも諸君は健康を求めて健康を得たらよいでしょう。

ここのところですよね?
わたしは、生長の家の新入生で、講師でもなんでもありません。
ですから、今回の神の子さんのご質問にお答えできるような立場ではないのですが、
これもお勉強なので、自分なりに考えてみました。

キリスト=実相=神の子である。

自分自身に完全円満な健康な姿(キリスト=実相)を求めれば、現象にも完全円満な健康な姿が与えらますよ。
でも、キリストを求めず、現象の不完全な姿(不健康)ばかりを求めていれば、
キリストは顕れることはできないので、代わりに心に思ったままの不完全な姿(病気)が与えらますよ。

こんな意味でしょうか・・・?
うーん。難しいですね。
復興Gさま、トキさま、他の先輩方、ご指導をよろしくお願いたします!

1431a hope:2012/10/15(月) 23:15:53 ID:8tjYhMb6
>>1472神の子さん 

>>こう云う人はというのはキリスト様の事になりますよね?

ここの、「こう云う人」とは、トラブル・シーカー(trouble seeker)つまり、
「病気になったら大変だ」と始終思っている人のことだと思います。

1432ハマナス:2012/10/16(火) 00:47:24 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

心のフィルム (『新版 生活の智慧365章』P.263)

 『観普賢菩薩行 法経』に書かれている句に、「心を観ずるに心なし」と云うのがあります。
また「法、法の中に往せず」とも書かれております。法と云うのは現象のことです。現象は
現象の中には無いと云う意味です。そんなら何処にあるかと言うと心の中にあるのです。
現象は映画のようなものであって、映画の画(え)は映っている映像の中にはなくて、「フィ
ルムの中にある」と云うのと同じです。心に病気を描くから象(かたち)の世界に病気があら
われて来るのです。

 あらわれている映像が嫌いだったら、スクリーンに映っている映像を消そうと思っても駄目
です。心のフィルムにある印画を修正しなければなりません。最も簡単なのは「心のフィルム」を
捨てることです。それが「心を観ずるに心無し」であります。病気の夢を見ていた「心」はさめて
から健康を知る「心」のようには実在ではありません。

感謝合掌

1433NANCY:2012/10/16(火) 03:15:07 ID:3qAmcmTw
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】 さんの“パ−トナ−”です。

今日は?【 SAKURA(大文字) の 投稿“聖典…投稿”…】 夕方にての“投稿”でしたでしょう…か?
いつもより【スピ−ディ−消去】なのでしょうか???
仲間意識で……しょうか??

■まだ!時間帯が早く【 奥殿入り? 】でしたので…閲覧されていない方が?いらっしゃいますでしょうから、
そして、私の知人も??含めまして【 再投稿… 】 した方がいいわよ!…と云うことですから。。。?
                                 
 再合掌

1434NANCY:2012/10/16(火) 03:18:38 ID:3qAmcmTw
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

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|❤ではわたしたちはどうやって、みずからを満足させる方法を身につけ
|ることができるでしようか。どうすればみずからを成長させる方法が会
|得できるでしょうか。

 自分自身に耳を傾ける習慣をつけることが大切です。たいていの人は外の声に自分を合わ
せています。自分のメッセ―ジをはっきりと受け取ることから取りかからなければなりませ
ん。赤ん坊だって空腹のときと痛みを感じたときはわかるのです。しかし、わたしたちが小
さいときには、他人の声の方が自分の声よりもずっと大きく、確かなものに聞こえるもので
す。他人の言葉にしたがっていくのはきわめて容易な方法です。他人の言葉はすでに計算し
ていわれているのですから、子どもはただそのひとつひとつをつなぎ合わせることからはじ
めるわけです。そのうえ、他人様がパンにバタ−をぬってくれるのです。彼のいうことをよ
く聞いていれば、わたしたちはまかないつきの生活ができるのです。こういう他人様と対等
にやっていくためには、自分でなにかをすればいいのでしょうか。子どもとして生き延びて
いくのなら話は別です。しかし、そうでないとすればもう同じことを繰り返していくことも
ないでしょう。
                           (つづく)

1435SAKURA:2012/10/16(火) 03:24:57 ID:3qAmcmTw
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
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|❤ではわたしたちはどうやって、みずからを満足させる方法を身につけ
|ることができるでしようか。どうすればみずからを成長させる方法が会
|得できるでしょうか。

 自分自身に耳を傾ける習慣をつけることが大切です。たいていの人は外の声に自分を合わ
せています。自分のメッセ―ジをはっきりと受け取ることから取りかからなければなりませ
ん。赤ん坊だって空腹のときと痛みを感じたときはわかるのです。しかし、わたしたちが小
さいときには、他人の声の方が自分の声よりもずっと大きく、確かなものに聞こえるもので
す。他人の言葉にしたがっていくのはきわめて容易な方法です。他人の言葉はすでに計算し
ていわれているのですから、子どもはただそのひとつひとつをつなぎ合わせることからはじ
めるわけです。そのうえ、他人様がパンにバタ−をぬってくれるのです。彼のいうことをよ
く聞いていれば、わたしたちはまかないつきの生活ができるのです。こういう他人様と対等
にやっていくためには、自分でなにかをすればいいのでしょうか。子どもとして生き延びて
いくのなら話は別です。しかし、そうでないとすればもう同じことを繰り返していくことも
ないでしょう。
                           (つづく)

1436SAKURA:2012/10/16(火) 03:26:48 ID:3qAmcmTw
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1435投稿の続きです…。
 もう一度自分に目を向けるには、ある訓練を要します。まず勇気を出して大声で自分の考
えていることを話さなければなりません。あまり長い間、自分自身の声に耳を傾けないと、
その声にそのうち聞こえなくなってしまいます。なかばあきらめて放棄してしまうことにな
るでしょう。また、あまり長い間、自分の声にふたをしておくと、しまいには猛烈な怒りを
爆発することになるでしょう。とにかくその声は生きているのです。わたしたちはその声に
チャンスを与えてやるべきです。自分の内部の声に耳をかす方法を会得すれば、わたしたち
はたくさんのことを発見し、多くのすばらしい話を聞くことができるでしょう。
       ―――――――――― * ―――――――――――
PSトキ様 へ
若い時は“他人の言葉”に振り回された時期がありました。これは、今思いますと?他人は
ある程度計算が入りますから〜〜【人のつながりはやはり“心の目”で見る…事?】地元の
故郷に帰郷した頃、ただ職場で現在の“服飾関連”をまだトライ!伸ばしたい!と思い当時
の私は“夜間専門学校”に再チャレンジ!入学!しました。その時の“クラス?”にいたの
が【吸血鬼…男・女達】です。彼らの素状?は、女性を覗いて【男性の方?】は、知りませ
んでしたから、ただ知り合いといっても?全く“話し”をかわした事もない状況で、“クラ
スの人間??”ぐらいとの感覚でした。それが何十年振りに街角で見かけて…そこからです
が〜〜><私は見た“瞬間”どうもふに落ちなく…変!変!逆に“パ−トナ−”はオモシロ
イ?というだけで〜どうしても【神様からの啓示??】すっきり感?が〜〜〜如何してもな
く!腑に落ちない点があり〜〜〜!と私は【警戒状態…】【第6感…直感】がやはり〜〜〜
“的中”しました。…が?この時、私は、何故?人は簡単に認める事をしたのでしょうか?
【後 悔…一言】〜〜〜><今!にして思えば…

“今日の言葉”から〜〜“人間関係”の時は“学生時代”と違いますから、当時の私は
【人 類 は み な 兄 弟】のスロ−ガンとして、単純に人を信頼したモノです。
計算ある付き合いも多い、現在の世では、やはり【自分の心を見詰め直す事…】が大事に思えます。
■【自 分 の 声 を 聞 く ???】そうです。“内なる声…”
これはやはり自分の“本当の心”それは〜〜〜【神想観…実相感!】です〜〜〜ョネ!
自分を見つめ直すには【神想観・瞑想】と思います。「トキ様」は、どうでしょうか?
                                   再合掌

1437SAKURA:2012/10/16(火) 03:32:38 ID:3qAmcmTw
トキ様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1434の投稿は…【NANCY】 の名前で投稿してしまいましたので……“ミス”してしまいました。
お忙しいところ、申し訳ありませんが…【 デリート 】お願い致します…。

                                                  再合掌

1438神の子さん:2012/10/16(火) 06:24:58 ID:YfMozNg.
>>1431
a hope様 ありがとうございます。
本当ですね、二回目よく読みましたらトラブル•シーカーである事がわかりました。
よく読んでから質問をするべきでした。拙い質問にお時間をとっていただき申し訳ございませんでした。今後ともよろしくお願いいたします。

1439神の子さん:2012/10/16(火) 07:16:39 ID:YfMozNg.
>>1432 ハマナス様 ありがとうございます。
以前から毎日楽しみにしながら拝読させていただいておりました。
パソコンに向かう時間が少ない私は、毎日少しずつのご文章がとてもありがたいです。
お礼を言わなければならないと思い今日になってしまったことをお許しください。

最近やっと「心のフィルム」の「存在」を理解していた矢先、
今朝のご文章ではなんと映像を消す最も簡単なのは「心のフィルム」を「捨てる」ことだという。
雅春先生ってすごく思い切ったことを言われるお人なんですね(苦笑)
捨ててしまうと確かに楽に生きられそうです。
今日も幸せになれるエッセンスを紹介していただきありがとうございました。

今後も毎日のご文章を楽しみにしておりますので、よろしくお願いいたします。

1440a hope:2012/10/16(火) 07:37:28 ID:8tjYhMb6
>>1438 神の子さん

>>よく読んでから質問をするべきでした。拙い質問にお時間をとっていただき申し訳ございませんでした。

とんでもありません。 
わたし自身も、たとえ、「こう云う人」がトラブル・シ―カ―であっても、
ちょっと疑問の残る文章だと思ったので、考えてみてよかったです。
 ただ、解釈が正しいかは、不明です(笑)
先輩方のご指導を待ちたいと思います。

神の子さま、こちらこそ、こらからもどうぞよろしくお願い致します。

1441a hope:2012/10/16(火) 07:41:44 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

明るい心を持ちましょう
♦常に希望を失うな


ヘレン・ケラー女史「楽天主義こそ一切を成功にみちびくところの信仰である。希望がなければ何事も成就しない」と云いました。
楽天主義とは、ものの明るい方面ばかりを見てつねに「よくなる」と云う希望を失わない「考え方」です。

今、日本に必要なのは、この「必ずよくなると云う希望」ではないでしょうか。
希望を失わない、愉快な明るい民族は栄えるのです。
発達する国民の奥にはこの愉快な明るい国民性があるのです。
日本人も本来、明るい国民でしたが、いつの間にか暗い陰気な苦が虫かみつぶした顔をしている方が上品だなどと考え出したのです。

暗いところでは大きな樹はそだちません。
人間でも同じです。心に日光をもつことです。

暗い気持ちで物をつくっても、好いものは作れません。
明るい気持ちで物をつくれば好い考えが浮かんでくるでしょう。

考えて御覧なさい。
叱られて暗い気持ちになってから勉強してもよくおぼえられないでしょう。
ほめられて楽しい気持でやったときには、難かしい算術の応用問題でもスラスラと解けるでしょう。
歴史の本や読本をおぼえようと思っても中々おぼえられないのに、面白い芝居を愉快な楽しい気持ちで見ていると、
読本よりも、ズッと長い、むつかしい役者の言葉を「誰が、あの時こう云った」と一つ一つ間違えずに覚えられるでしょう。

これは愉快な気持でおれば、心がよく働くからです。
愉快な気持は、機械に油をさすように、心の運転に油をさすものです。
油を充分差した機械は、どんなに激しく回転しても摩滅(すれてちびる)ことはありません。

それと同じく、「楽しさ」で油をさした心は、どんなに働いても疲れることはありません。
(つづく)

1442ハマナス:2012/10/16(火) 13:17:30 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんにちは。

神の子様
皆さまと共に、真理を学び、お幸せになって頂きたい思いで謹写させて頂いています。
喜んで頂いて嬉しいです。
「心」が大事なのですね。『生命の實相』20巻にも、「心」についてお書き下さって
います
雅春先生は、きっぱりとしかも解り易いご文章で説いて下さっていらっしゃいます。
有り難いことです。

   「潮満の珠 汐干の珠の祈り」
 ナイナイナイナイ みんな無い
 迷いも罪もない何もない
 心もなければ 病気もない
 現象世界は想念の
 描いて 歩んだ 影世界

 ただ本当にあるものは
 神一元の 実相界
 私は神の子久遠のいのち
 宇宙に満つる 無限知恵
 無限生命 無限愛
 すべて善のみ 実相世界
 完全円満 神の子の
 光り輝く 光明身
 うれしい たのしい ありがたい

1443ハマナス:2012/10/16(火) 13:57:57 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
今日は、とても気持ちの良い、秋晴れです。

精神身体医学 (『新版 生活の智慧365章』P.264)

 肉体を普通の物質だと考えてはなりません。上野公園の銅像は、寒い風に当たっても
呼吸器の粘膜に炎症を起こして、風邪を引いたりすることはありません。それには心が
ないからです。ところが肉体が不用意に寒風にさらされると風邪をひきます。時には
重症の肺炎を患って危篤の症状を呈することがあります。鼓膜に炎症を起こしたり、
風邪を引いたりするのは、「心」が恐怖を感じて異常の振動を起こすからです。その
異常振動が肉体的に具体化して喉や気管支の粘膜に炎症や糜爛(びらん)の現象を
起こすのです。

 最近「精神身体医学」が発達しまして、新しい神父的な医師は皆その学説に共鳴して
おりますが、胃腸の潰瘍なども、恐怖や、怒りや憎しみによって内部から発するので
あって、如何に薬剤をもって炎症を治療せしめても、内部(なか)から次から次へと
炎症を作って行けば治すことを得ないのです。

感謝合掌

1444a hope:2012/10/17(水) 07:20:57 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第4章 明るい心を持ちましょう
♦笑い健康法


たとい病気になっても、暗いいやな気持にならずに、常に愉快でおれば早くなおるのです。
わがままを云って、人をこまらせ、自分もしかめ面をして、むりに暗い気持になれるのが、
病人の権利のように思っていては病気などと云うものは中々なおりません。
明るい愉快な気持でおれば、血液の中に元気をよくする成分が沢山つくられるので、早く健康になるのです。

アメリカに、ラーフ・キュアー(Laugh cure)と云う言葉があります。
日本語なら「笑い健康法」とでも云うところでしょう。
いらいらしたり、くよくよしたり、ぶつぶつおもったり、腹を立てたり、心配したりする代りに、
常に愉快に笑う事によって病気を治す新しい方法なのです。

面白からぬ事を見つけ、人の悪口を云ったり、人の欠点をさがしたり、人のアラさがしをすることは決してよい趣味とは云えないのです。
人の性質の「悪」は「悪」と見なければ消えてしまうものなのです。
何故なら人間・神の子で、人の性質の「悪」は本来無いからなのです。
それを心で取上げて「悪」として問題にするといつまでも、その「悪」は消えず、
却って「悪」の捕虜(とりこ)になり、「悪」に制服せられてしまうのです。

機械などの発明なら、どこまでも欠点をさがして、それを益々よいものにすることが必要です。
しかし、人の性質の悪と云うものはないのです。

アメリカで有名な「子供の街」の創設者(はじめてつくったひと)であった故フラナガン教父の教育法は、善いところを見て賞(ほ)める教育です。
フナラガン教父が「この子はよい子だ」とそのよい所を探し出して賞(ほ)めると、みんな立派な「神の子」の坊ちゃん、嬢ちゃんになったと云います。
(つづく)

1445うのはな:2012/10/17(水) 18:44:24 ID:hQDSe4oM
[個人指導の実際] 谷口雅春先生

  現象と実相との区別を知らせること

 それで、実相というものは、どういうものかということ、現象というのはどういうものであるかということをはっきり患者に
知らしてあげる必要があると思うのであります。病気は無い、と頭から言ったって、現にあるじゃないかと言うことになるんですから、
現象と実相の区別、「ある」と「ない」の区別をはっきりしなければならないわけであります。

 そこに難しいところがあるのであります。病気を余り早く治してしまったら、病院と間違ってしまいまして、病気が治ったら病院から退院
するように、生長の家はもう用無しとやめてしまって、また病気になったら来ます、と言うようなことになり勝ちです。こんなことでは、魂の救いにはならんのであります。
生長の家は魂を救うところで、病気が治るのは随伴現象であり、魂を救うための方便なのであります。

 だから、病気は治してあげたいけれども、もっと根本的に治してあげなければならないのは魂の問題、心の問題であるというわけなのであります。

1446うのはな:2012/10/17(水) 20:54:06 ID:SXwG/Idc
妻への手紙  『魂のめぐり遭い』 藤原敏之 先生著

 谷口雅春先生の御講習の方も、順調に進んでいるそうです。
初めての、就任第一回の大行事ですので、何とか盛会にし、先生にお喜びいただこうと、
幹部とともに祈っております。

 貴女もだんだんち覚りが深まり、明るくなられて何よりです。
人生とは、捨てて捨てて、捨て切る修行です。思い煩うことが、いかに無益なことでムダなことであるかを、
ハッキリ覚り、どこにも何事にも執われず、一切を心から放すことが一番肝要です。
 只今あることだけを感謝する生活。そこから幸福は展開します。

 極楽に参りたかったら、極楽はどこにあるか、また、どうすることが極楽に参られる方法であるかを、明確に
することが第一です。どこにあるか、どうすれば極楽に行けるかを知らずに極楽を願っても、無駄です。
今ここを離れて極楽はあり得ません。その外に極楽があるとして、いくら求めても、探しても、どこにもありません。
一切を捨てきり、私もなかったとわからせてもらう時、仏の生命のみある、私と見えるそのままが仏の生命である。

 衆生、本来仏であるとの自覚が一番大切です。仏のまします処は常に極楽であります。
私が、という自我が頭を持ち上げると、仏は眩まされ、迷いとなり、迷いの所産は苦しみと、悩みしかありません。
愛と感謝のみが神を現わすのです。感謝の念が生れたら救われているのです。
誰でも気が付けば感謝できるのです。感謝出来た時、救われ、幸福になるしかないのです。

 (結婚を間近かに控えた娘へ)了子ちゃんに
人間いかなる時にも素直さを失わず、感謝の心を忘れないよう、精進努力すれば必ず幸福になれます。
貴女が幸福である事が相手を幸福にすることです。相手を幸福にすることが貴女の幸福につながるのです。
結婚は“結魂”であり、自分の生命を、相手の生命の中に見い出すことであります。
御精進をお祈りします。

1447うのはな:2012/10/17(水) 20:56:14 ID:YT9aDVnY
訂正 『魂のめぐり逢い』 です。

1448SAKURA:2012/10/17(水) 23:06:31 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1425>>
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤わたしはなにか恐ろしいことも聞くのではないかという気がします。
|わたしたちのこころのなかにはなかなか取り出しにくいものがたくさん
|ひそんでいるのでしょうね。それが表面にあらわれると、あまりに多す
|ぎて扱いにくくなるのでしょうか。そのために精神分析医というものが
|存在して、隠れているものを掘り起こさせ、ふるいにかけ、そして終局
|的には、そこからわたしたちを解放しようというわけですね。

 もちろん、精神分析医は人がなぜ自分自身を虐待そているかという理由を明らかにさせる
という点では、おおいに役に立つことができます。多くの人のなかには自分が自分に害を与
えていることにこころを奪われていながら、その理由がわからない人たちもおります。精神
分析医はそうした人たちの自己破壊的な悪循環を断ち切る方法を提示する唯一の存在です。

 人間の成長期にはいくつかの障害があります。それはときには他人によってすえつけられ
たものもあり、わたしたちがわざわざ努力して保存しておくものもあります。この障害物を
乗り越えさせてくれるのも精神分析医の仕事なのです。
                          (つづく)

1449SAKURA:2012/10/17(水) 23:07:53 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1448投稿の続きです…。


 ですから、精神分析は解放された人生を送るためのひとつのすぐれた方法なのです。はじ
めて患者が寝椅子に横たわったとき、それは人類にとってまことに大きな一歩でした。しか
し、あなたは分析を受けるためにかならずしも、寝椅子に横たわる必要はありません。わたし
は電話による分析に成功したこともあります。また、たとえ分析医にかかっていても、自分自
身でも分析を行なわなければなりません。分析がときどきかなり長期にわたるときがあります
が、その理由は変化というものが本質的に患者自身には必要だということを患者が理解してく
れないからです。なかには、どんなに深い洞察力を体得しても、まだどんなに多くの情緒的な
カタルシスをとげたとしても、変化が生じないことがあるのです。

                    「自分のメッセージ」次回につづきます…。

PS:トキ様…
『悩み相談…』日本の場合は〜〜〜><
一般の方は“哲学的に考える事”をされていませんし、ましてや『迷信深い傾向の方』でしょうか?ですから・・・【精神分析医…】は???「生長の家」で申しますと、私には?
【悩みはすべて練成会…】に!!これが【悩み駆け込み寺…】という事なのでしょうか?

■「相談担当の先生方」は、失礼ながら?社会にもまれてない方の場合の相談は〜〜〜?
正直な話?場合によりましては…それは〜〜それは〜〜【空中論…】になるのでは?
例えば…当時20年ぐらい前でしたかしら〜〜ン“瞬間の私”は、理解したような気持ちになり、
その時は、それで終わるのです。…が?内容は“具体的な言葉…アドバイス”がなく、
いつもの“繰り返しの言葉”… そして、決まりの“言葉…”【最後に…祈り】と言って
終わりますかしら〜〜〜ン!やはり」?『なやみ相談』の時は、具体的なアドバイスが〜〜
(それから?「人格…論」も含まれるのでしょうか?その様に思います。…が?)

“良い事が起きる!”…それだけで【精神=こころの法則】は、なにもなく、果たして???
【魂の向上…心の成長】は、なされているのでしょうか〜〜〜?

そう言います“私自身”もその組でした。何度も!何度も!〜〜〜><気がつくと、単に、
わからず仕舞いなのでしょうか??【祈る…】のです。当時の私は、きっとこの様に、
相手が【精神=心の法則で、人生が決まる事…人生が支配される事】を、理解しなければ、
■【奇蹟・変化は起きない…】と、改めまして、この頃、要約分かり、今は【祈る…】事は、
全てですが〜〜〜
何と言っても【意識=意志=心の法則】なんです〜〜〜ョネ!
「トキ様」も、この件に関しましては、そのような感じられますでしょうか??

                             再合掌

1450ハマナス:2012/10/18(木) 00:16:05 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

病気を起す心  (『新版 生活の智慧365章』P.264)

 今「悲しんでいる心」、それは次の瞬間に「笑っている心」になることがあります。
悲喜交々(ひきこもごも)、もう笑ってる時には「悲しんでいる心」なないのであります。
今あるようでも次の瞬間にないものは「本来無い」のであります。そんな心を「妄心」と
申します。「本来無い心」の動揺によってあらわれている肉体の炎症その他の病気は
「本来無い」と言わなければなりません。

 悲喜交々、恐怖や怒りの交替する其縻(そんな)こころのあらわれである病気を「ある」と
思うことをやめなさい。最初何らかの動機で「妄心」が異常に振動してそれが肉体面に具象化
して病気となってあらわれた現象(症状)を見て、それを「ある」と見て常に恐怖(心の異常
振動)としているから、いつまで経っても病気が消えないのです。病気を放つことです! 
そして、その病気を表現している「心」を放つことです。

感謝合掌

1451a hope:2012/10/18(木) 08:02:49 ID:8tjYhMb6

新版 人生読本 谷口雅春先生著

第四章 明るい心を持ちましょう
♦愉快な子は必ず善い子です


ジョン・ラポック卿は、「教育者が義務と明朗、否明朗と義務とをもっと強調して児童を教育したならば、
人生はもっと愉快に幸福になったであろう」と云うことを云っていますが、
何よりも、諸君が心掛(こころが)くべきことは「善い子」の云うかわりに、
「愉快な子」「楽しい子」にならねばなりません。

「愉快な子」「楽しい子」はお父さん、お母さんを喜ばせ、
近所の人を喜ばせ、友達を喜ばせ、みんなを喜ばせるのです。
そして皆を喜ばせることは「善いこと」なのです。
「愉快な子」「楽しい子」は「善い子」になるのにきまっています。

これに反して、暗い陰気な気むずかしい子は親をこまらせ、女中をこまらせ、
近所の人をこまらせ、みんなに迷惑をかけるのですから、それが、どんなに真面目な子であっても
「善い子」だとは云えないのです。
(つづく)

1452a hope:2012/10/18(木) 08:22:00 ID:8tjYhMb6
>>1451訂正
新版 人生読本 → 新版 生活読本

1453さくら:2012/10/18(木) 08:35:06 ID:e8ieIrPA
みなさまおはようございます。
ハマナスさま
>>1442
ほんとうに、雅春先生は、簡潔な言葉で、深い真理をずばりと説いてくださってるのですすよね・・

・・それにしても、ハマナス様に「神の子のみなさま」といわれると、
「はい」と素直に返事をしたくなるのは、なぜでしょう、笑。
信仰生活は、ふつふつと、おだやかなで幸せな気持ちでありたいですね、。
いつもお仕事終わってからの謹写でしょうか。。
ありがとうございます。

「そのまま常楽

或る日の記。−
今朝、熱海は雨。まばらな松の並木越しに、海と山とのみえている旅館の二階。
部屋には暖かく陽がチンチンと沸つている。おだやかなよい感じである。
未だ誰も来訪者もない早朝の一時、『生長の家』誌の二月号を一日から読みなほす。
自分は幸せだ。こんな気分が、ふーっとこころの中へ湧いて来る。穏やかな静けさである。
然し、その静けさの中に何もかもすべてが入ってゐ様なこの静けさ。ふーっと一点になつて湧き出し自分の中一杯にひろがつたこの穏やかな静けさ。何処から湧いてきたのだらう。かう考へた時、何か合掌したい気分であつた。
 既に自分は幸せである。無限の神が、そのすべての力をそそいで、愛してゐてくれるのだもの、救つてゐてくれるのだもの。いつもいつも、そして、今も、たった今も、繰り返しとなへながら、沁々幸せだと思ふ。
 あんな濁りきつてゐた自分が、よくぞ此処までやつて来られた。助けの力が有難かつた。
自分に自分でお礼を云ひたくなつた朝である。
『神、その創りたる様をみたるに甚だよかりき。』
 かう言葉しながら外をみる。山の眺め、海の眺め、それらをこめて雨足の響き。美しい、何か、目に見えないものに触れた感じである。神がをられるのだなあと思ふ。美しいと感じられた自分がうれしい。自分も亦美しいのだ。繰りかへしてゐると、ずーつと深い処から動き出してくるものがある。粛然と襟を正し、居住ひを革めたくなる様なものである。」

『常楽への道』 吉田國太郎先生 著 P3〜

1454うのはな:2012/10/18(木) 09:26:39 ID:Z.EtH8v.
   『病が消える』谷口清超 先生著 P69

   難病なんかナイ  自然治癒力

 近頃はずいぶん色々なものが作られ、大変便利になって来ましたが、病気にも新種が出てきて、
色々と人を悩ませています。又それにつれて、薬も数多く売り出されていますが、案外と利かないらしいのです。
その証拠に、次々と別な薬が多数出廻ってくるでしょう。これは、「今迄の薬があまり利かなかった」ということを
表しているのではありますまいか。

 第一、風邪薬一つにしても、未だこれといった特効薬はありません。ただ症状を押さえるだけの薬しかないものですから、
ごくありきたりの風邪でも、根本的には人間の“自然治癒力”に頼る他仕方がない有様です。
要するに薬は一時おさえにすぎないのであって、使い方によっては、一時的には役立つこともありますが、決して頼りにはなりません。
どうしても病気そのものをスッカリよくするには、「生命力」が強くわき上がってきて、“自然治癒力”がもりもりと高まってくるようにする他
仕方がないのです。

 ことに、難病や奇病、珍病となりますと、とてもではないが薬や手術にたよることが出来なくなってきます。
そこで「苦しい時の神だのみ」とかで、こんな時人は急に神信心をしてみようかと思ったりするのですが、これも亦変なものです。
だって、そうでしょう、神様をまるで「薬」か「治療法」のように使おうというのですから。

 しかし本当の信仰は、そんな「病気を治すため」というような“手段”であってはいけない。
人間は「神の子」である、それが絶対的に正しいのだという根本信念から、すべてのよいことがあらわれてくるのであって、この「信仰」こそ
が全ての全てです。人間はどうしても「神の子」であり、「完全円満」でなくてはならぬ。
そのことがわかってくると、この「心の影」として、病気もよくなるし、他の凡ゆることがトントン拍子にうまく行くのです。

 人間が「神の子」であり、完全であるということになると、“生き甲斐”が感ぜられます。
私達はすべてすばらしく、完全でありたい。ところが、本当は完全だということになると、その完全さをあらわすことが出来るようになる。
そこに悦びが感ぜられ、生き甲斐が味える。それが「生命力」のたかまりとなり、「自然治癒力」のわき上りとなってあらわれてくるのです。

1455うのはな:2012/10/18(木) 09:31:37 ID:NhCcI7Jo
訂正 『病いが消える』 です。

1456うのはな:2012/10/18(木) 10:46:19 ID:HKwAnRuw
   徳久克己教務局長「生長の家地方講師会報」より

  『生命の實相』に精通し、あらゆる面の適切な指導ができること

 生長の家は、別名「人類光明化運動」といわれています。そして『生命の實相』第一巻の三頁に
「元来生長の家は人類の思想中よりその転倒妄想を去らしめ人類生活の全面を光明化せんがために出現した
ので、病気治療のみを目的に出現したのではありません」と説かれていまして
「人類生活の全面を光明化せんがために出現した」と生長の家の使命、目的が、はっきりと説かれているのであります。

 ですから、生長の家の講師になった、ということは、人類生活の「全面を」光明化しなければやまない、という使命を与えられた
ことになるのです。生長の家の講師は、病気の治療だけでが目的ではないのですから、病人のためには病気を癒してあげるのは勿論ですが、
それ以外に、人間としての生活の全面を、光明化する使命を与えられているのです。

 人類生活の全面ということになりますと、病気以外に、家庭調和、教育、経済、繁栄、政治等々、一切の人生問題の指導をしなければなりません。
このように考えますと、講師という仕事は、なかなか大変なことだと思われます。事実、大変な仕事です。
 しかし、谷口先生は、『生命の實相』全四〇巻の中には、これらの人生問題を、あらゆる方面から解説しておられますので、『生命の實相』を精読しさえすれば
どんな人でも光明化することができるのであります。

 講師である方の、指導をうける人への一言が、その人の人生をかえるだけの、実に大きな力をもっていることは、講師の皆さまは、よく御存知と思います。
相手の運命を変えるような、大きい力をもった指導をする人たちは、それだけに、大きい責任があるわけです。ですから、講師たる者は常に『生命の實相』に学んで
指導をしなければなりません。私が医者になってまもなくのことでした。ある先輩が「君が病人に注射する、その薬をうっかり間違えると、病人が死ぬ場合があるのだから
慎重にしないといけないよ!」といわれたことを、講師になった時に思い出しました。
自分の一言が相手の運命を変える。講師の一言が、相手を殺しも、生かしもする、医者が患者へ注射するようなものなのだな、これは慎重にして、いいかげんなことは、言えない、
とヒシヒシ感じました。

 その時、私は講師となった以上、うんと勉強しないといけないと、感じました。
医者でも、名医といわれる人は、その病気、病気に応じて、適当な時に、適当な処置のとれる人です。
講師でも名講師といわれる人は、相手に応じて、適当な時に、適当な指導ができる人です。ですから、病気の
ことは指導できたが、他のことになると、さっぱり指導できないのでは、魅力がありません。
「人類生活の全面を光明化する」という使命があるのですから、治病のことでも、家庭のことでも、教育のことでも、
繁栄のことでも、政治のことでも、適切な指導のできる講師は、魅力のある講師です。

 こんなふうにいうと、とても、難しいように思う人がありますが、『生命の實相』を精読すれば、一切の問題を解決する、根本原理を教えられますので、
決して難しいことではないことがわかります。

 人生のあらゆる面を、適切に指導できるように、『生命の實相』に精通した講師は、魅力ある講師です。

1457うのはな:2012/10/18(木) 13:50:22 ID:f2bwKGw2
   前世の宿業によって起った寝小便

 業は消えるという問題は、『女性の理想』(日本教文社刊)という谷口輝子と私との共著
の本がありますが、あの本の中に私はアメリカのエドガー・ケイシーという前世的因縁を知る
宿命通の霊能をもって治病をした人のことを紹介して書いておきましたが、その治験例の中に、
寝小便をする子供が生長をしてもう大人になっているけれども、その寝小便が未だに治らないのを
治した實話を紹介してあります。

 普通寝小便する子には、その子共が眠りに入りかけて、覚醒と眠りとの境目位の時点が一番潜在意識が
浮き上がって、暗示に感応しやすい時点なので、その時を見はからって、耳の側で、“貴方は神の子であるから
決して豚のように寝床でおしっこをしないのですよ。おしっこをしたいと思ったら自然に目が覚めて、お便所に
行ってから、用便するのである。お便所へ行かない限りは決して尿道は開かないのである。必ずおしっこしたくなったら
目が覚めて一人で自分で便所に行く。便所に行かない限りは小便は出ないのである”

 ということを繰返し五分間位ずつ、毎晩、眠りかけた時に、その子に対して、力強い語調で暗示してやると、大抵は、その
寝小便は治るものなのですが、この青年は、そういう暗示を与えても、どうしても寝小便が治らないで既に大人になってしまったのです。
ところが、エドガー・ケイシーを訪問して指導を受けると、ケイシーは自己催眠に入ってその寝小便する男の前世の因縁を語り出した。
ケイシーの言うところによると、この寝小便男は、ヨーロッパの中世時代にキリスト教の牧師に生れていた。

 その頃巫女には“悪魔”または、“汚れたる霊”がついているという迷信があり、聖書にはキリストが“汚れたる霊”を逐い出し給うたら、
それに憑かれていた豚の群が海の中にみずから身を投じて大量に死んだというような例が書かれている。
現代では巫女のことを霊媒と請われているが、中世ではその霊媒を皆、“汚れたる霊”即ち“悪霊”がついているものであって、それは神に敵する霊
であるから、そういうものを亡ぼしてしまうのが神様の御心だとこういう風にキリスト教の人たちは考えて巫女を虐殺した時代があったのです。

つづく

1458うのはな:2012/10/18(木) 13:51:52 ID:f2bwKGw2
>1457 つづき

 
  その頃、その人はヨーロッパで牧師に生れて、そういう霊媒なる婦人を“縛り棒”に縛りつけて、それを川の中に押し込んで窒息さして殺しておった。
 それが牧師の役目で、その牧師をしていた男が生れ変って今の寝小便男になっているのである。
 彼は前世に於いて、斯くの如く人を水浸しにして殺しておったその業の報いが形に現れて、その業を解消しつつあるのだと指導したのであった。
 すべて“心の世界”に蓄積したエネルギーは仕事をして、それを形に現したら解消するのであるから、彼は毎日、小便の水浸しの中に浸って、過去に犯した業が
 消えるまでその現れとしての寝小便を続けているのであるというのであった。

 だから、この寝小便は、前世の業との関係で根が深いのであるから、それを治すのには「小便がしたくなったら眼が覚める」なんていうような催眠術的暗示では
治らない。こうケイシーは言って、次のような實相の完全さを語る言葉を唱えて暗示するように教えたのだった。
「汝は神の子であって、完全円満であって誰にでも汝の会う人に対して深切な愛情ある、深切な手助けをしてやるのである。汝は完全円満なものであって決して悪い人間
ではないのである」

 このような意味の實相を念ずる言葉を耳許で暗示してあげなさいと教えられて、それからは、今迄の暗示の仕方を変えて、「貴方は神の子であって完全円満であって、神様の
愛が實現している人である。それ故、貴方の会う全ての人々に行き届いた深切な愛を施してあげる立派な人であって、罪は無い、業は無いのである」という意味を耳許で、たった一度
暗示したのでした。すると、その晩から寝小便がぴたりと止まってしまったというケイシーの霊読の記録があるのであります。

 この事實によっても宿業というものは、いったい何処にあるかと云うと、その人の潜在意識の中にある。
その潜在意識の中にある過去に犯した“罪”や“業”の観念を浄心行や、神想観や、人間は神の子であって業も無い罪も無いという真理の思念や、真理を語る「聖経」の読誦によって消してしまう。
それによって今迄、医学的には不治の難症だと思われていた重病をも不思議に治癒せしめているのが生長の家なのであります。

 これは結局、イエスの「真理は汝を自由ならしめん」と教えたところの真理の治病的方面であるが、人類の戦争の惨禍も一種の人間の“罪”と“業”との展開としてあらわれた自己処罰的病的現象として
見るとき、こも真理の全世界的普及によって、永久平和の至福世界が生じ得ることを知って、アメリカ合衆国は勿論、中南米諸国に強力なる布教体勢を築きつつあるのである。

<「精神科学」昭和46年4月>  『人間無病の原理』 谷口雅春 先生著

1459SAKURA:2012/10/18(木) 22:00:51 ID:3qyBj0qU
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ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
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初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 

―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤しかし、わたしには変化はときには簡単にやってくることがあるよう
|に思われます。わたしにもそういう経験があります。突然、周囲のこと
|がこれまでとまったくちがって見えるときがあるでしょう。たとえば、
|重荷が軽くなる、ドアが開く、いままで苦闘していたものがたちまち楽
|になる、というようなことが起るのです。

 まさに奇蹟が起ころうとしているわけですが、これは大変よいことです。なぜなら、こうした
奇蹟は人が生きていくうえでおおいにプラスになるからです。しかし、そのためにはまず葛藤が
なければなりません。行きづまりがたくさんあることは、奇蹟をつくり出すことに通じます。奇
蹟はその受け入れ態勢ができている人によく起こるのです。

 しかし、人生に変化をもたらすためには、このような突然の飛躍以上のものが必要なのです。
そのためには、ちゃんと自分でそれを意識した行動、自分の人生を自分の手におさめようとする
決断を必要とするのですが、たいていの人はこの決断をあえて行なおうとしないのです。彼らは
精神分析医のことをこれまで夢にも見なかったほどのやさしい父親か母親のように思い、これか
らずっとめんどうをみてもらえると決め込んでいます。それはかならずしも悪いことではないで
しょうが、分析医がもたらしてくれる重要な成果のひとつは、愛情ある配慮ということなのです。
ところが一般の人は、ほんとうによい両親とは、子どもが自分で、自分自身の世話をしていける
ようにしつけてくれるものだということに気がつかないのです。ある人がつぎのようにいいまし
た。「もしあなたがある人に食物を与えれば、その日一日は食べさせることができますが、自分の
食べ物をつくる方法を教えてあげるなら、彼らは一生自分の力で食べていくことができるように
なります」と。
(つづく)

1460SAKURA:2012/10/18(木) 22:04:52 ID:3qyBj0qU
トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424>>1425>>1448>>1459
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。
            ―――――――― * ―――――――
>>1459の続きから〜〜です・・・。

 あなたが自分でみずからの世話をし、自力でやっていく決心ができると、つぎにまた大きな仕事
が待っているのです。悪い習慣を断ち切るときには分別と努力が必要です。いま、あなたのこころ
のどこかであなたがこれから挑もうとしている変化に異議をとなえているとしても不思議ではあり
ません。古い慣習のなかにいれば、きわめて快適ですし、なにもわざわざ変わったやり方で物事を
見たりやったりする気持ちが起こらないからです。しかし、そういうときのあなたのこころは、ま
さにある闘争が展開されるのです。

                   【自分のメッセージを聞く】シリーズつづく


PS:トキ様 へ
■【背水の陣…】そうです〜〜〜ョネ!これ〜〜って“良くなる前触れ??”かしら〜〜〜ン!
良くなる前触れです〜〜〜ョネ???
【行 き 詰 ま っ た 時 に …… 当 に “ 奇 蹟 … ” が 起 き る!!】・・・
そう思いますと、今!私自身の“心”の行き詰まり?は…いい前触れにもなるのです〜〜〜ョネ!
【悪い事は良いこの前触れです。…】と「雅春先生」が、おっしゃっていらっしゃいました。…が?

“落ち込む前”に、もっと!【私自身を好きにならなくては?】この様に“心”の変化に…?
【教団も衰退しているとの事?】を、“週刊文春”が載せられているそうですが、
物事を“開拓する”前には、必ず!でしょうか?■【裏工作…】でしょうか〜〜〜? ><
このような【数字…金額】を、今回!公表されてしまったのです。…が?

まず【奇 蹟 が 起 き る 】のは、その後の事で、今は【現象=現実】との見方を致し、
この【現象=現実】をみとめない“揺るぎない心…”の訓練でしょうかしら〜〜〜ン!

                                     再合掌

1461ハマナス:2012/10/18(木) 23:51:57 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
ありがとうございます。

さくら様
仕事で帰宅が遅いものですから、いつも“日付変更線”ギリギリか過ぎてしまいすみません。
毎日謹写させて頂いていますと、気付きもあります。


妄心の生理作用に及ぼす影響 (『新版 生活の智慧365章』P.267)

 恐怖を感じると顔面が蒼白となり、羞恥を感ずると顔が紅潮します。これは異常な感情が
ホルモンの分泌に異常変化を起させた結果、毛間の一部拡張や一部収縮を起こした結果が
血流に変化を生じたのです。これは肉眼に見える顔面の変化を指摘して諸君にわかりやすく
説明するためでありますが、それと同時に、肺臓や心臓や胃腸のハタラキにも異常変化を
起こしているのです。

 「妄心」はこのようにして人体内の生理作用に影響を与えます。麻酔薬は時として「妄心」の
ハタラキを麻酔せしめて却って「妄心」のあらわれである病気を軽減することがあります。
兎の四肢を縛って天井から五日間もぶらさげると、兎は恐怖と不安のためにホルモンの不調和を
来して死んでしまうが、同じように縛って天井からぶらさげても、その兎に麻酔剤を注射しておくと
「妄心」が麻酔して「恐怖」や「不安」を感じないから死なない。

感謝合掌

1462神の子さん:2012/10/19(金) 06:57:22 ID:YfMozNg.
ハマナス様

 合掌 いつもありがとうございます。

毎朝読ませていただいき、一日の活力をいただいております。
ところでこの謹写は抜粋でございましょうか?
たとえば、1450と1461のご投稿の間に2ページほど開いておりますから、
その間は飛ばされているのか疑問に思いました。
私が見落としていたらごめんなさい。

>>1450
病気を起す心  (『新版 生活の智慧365章』P.264)
>>1461
妄心の生理作用に及ぼす影響 (『新版 生活の智慧365章』P.267)

1463a hope:2012/10/19(金) 07:23:40 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第4章 明るい心を持ちましょう
♦店が繁昌するには


心が楽しく明朗であれば、考えることは自然に正しくなります。すること為すこと軌道に乗ります。
すなわち、汽車がレールの上を滑ってすこしも脱線しないようにスラスラとよい考えが浮び、よい行いが出来るのです。

よい発明も出来れば、店の商品の列(なら)べ方も上手に出来ます。
愉快な人が列べた店の商品は、何となしに愉快な気持がただようていて、その店へはいって買いたくなるものなのです。

はやらない店の主人や番頭や売子はつねに不機嫌な、「楽しくない」顔をしているものです。
はやらぬから「楽しくない顔」をしているのかと思うと、そうではなくて、
「楽しくない顔」をしているから、人がよりつかなくなるのです。

よい運命を招くには、先ず「楽しい心」になることです。
(つづく)

1464うのはな:2012/10/19(金) 20:22:42 ID:a.OcI.Rc

 こうして心の思いを文章という形に現して、書き終ったら、それを佛様或は神の祭壇
に供えて、“神様この私のいやらしい心を浄めて下さい。どうぞ佛様、貴方のお力によってこの汚れている
心を浄めて下さい”と言ってお願いをして、浄化の神力佛力を呼びだすために、それに対して聖経『甘露の法雨』を誦んで、
直ぐそれをおろして焼いてしまうか、何処かへ流してしまうというようにすればね、いままで心の中に固まっていた腹立ちの感情が、
文字という形に現れて、それが焼かれたり流されたりして捨てられて無くなることになるから、その心の痛みが内攻して神経痛に罹っているのが
治ってしまうんですよ」と言って教えてあげたのであります。

 それから一ヵ月程したとき、又、その青木さんがやって来られました。そして言われました。
「先生に教えられた通り、それを詳しく書いて、鎌倉の友達に送ってあげたのです。
そしたらその日のうちに、もう一年間も続いておったその全身の神経痛が治ってしまったのです。それで
今は小学校へ通って、健康でね、幸福な生活を送っておりますという禮状が来ましたので、お禮を申し上げます」と
言われたのであります。

 この話を私は講習会の時に時々するんですが、それを宇治の講習会で私が話した時に、その頃吉田武利講師が宇治に勤めていて、
その話を聴いて、“いい話聴いたなあ”と思ってこれを宇治の道場へ練成に来る人たちに応用してみたら良かろうと考えられた。
生長の家の道場へ練成に来る人たちは随分色々と悩みやらを持っている人が“救われたい”と思って来るのだから、だから集まる人々は
皆心の中に何かの悩みやら不平やら色々持っている。

 そこで練成に来た人にその心の中の悩みや不平や怨みや鬱憤を紙に詳しく書かすことにして、その書いた紙を祭壇に供えて祈り、それを
集めて燃やしながら聖経『甘露の法雨』を誦んで、「聖経読誦の功徳によってこの汚れたる心の迷いの罪も業も悉く消えてしまって、自分の心は
清浄、完全なものになります」という、そういう思いを起こしながら聖経を集団で合誦する。
これによって心が浄まり、その結果として病気が治るにちがいないというので、それを浄心行と称して實行することにした訳であります。

『人間無病の原理』 P111−112 谷口雅春 先生著

1465ハマナス:2012/10/20(土) 00:29:25 ID:x2zmnlqw

神の子様
ご指摘ありがとうございました。仰る通り、ひとつ飛ばしていました。
失礼いたしました。
>>1450
病気を起す心  (『新版 生活の智慧365章』P.264)のページ数が間違っていました。
P.265に訂正いたします。この後に、今日の所が続きます。申し訳ございません。
ありがとうございました。

病気は妄心の現れ  (『新版 生活の智慧365章』P.266)

 病気の話をすれば、達者な人はそれに興味を感じません。しかし病気は「不調和な現象」の
一例として引用されているのであって、「家庭の不調和」でも、「貧乏」や「事業の不振」と
云う「経済上の不調和」でも、みんな「妄心」のあらわすところの現象であって、「妄心」を
放ち去って、「真心」を出してくれば、其処には「真心」の表現としての調和ある状態があら
われて来るのであります。

 「真心」は「神の心」であり、「実相の心」であり、永遠不滅の存在であり、「実相の世界」は
此の「真心」の創造するところであります。随って真心の創造するところの「実相世界」には、
不景気も不調和も、病気も、罪悪も、一切の悪が存在しないのであります。存在しないものを存在
すると観る心を捨て「真心」を出すようにすれば光明方面へと展開するのです。

感謝合掌

1466神の子さん:2012/10/20(土) 07:54:39 ID:YfMozNg.
>>1465
ハマナス様
お手数をおかけました。
今日もありがとうございます。

1467「訊け」管理人:2012/10/20(土) 11:49:12 ID:???

『善と福の実現』158頁より謹写――

 神のつくり給いしこの世界には一切の悪もなく罪もない、吾々はあるべきようにあらしめられるべく、内部の神の催しによって動かされている。自分で「こう生きよう」と力(りき)むときは、〝そのまま〟がくだけ、神の催しがくだける。来るもの、催して来るものは悉く有り難いものだけである。旧(ふる)い道徳的の眼をもって人を批判してはならない、真に民主主義の宗教は、「人を斯くあれ」と縛る宗教ではない。各人の内から催して来るところの催しをいずれも神の催しであると拝んでそのまま受けるとき煩悩もそのまま菩提(ぼだい)である。悩みは「悩み」と云う実在があらわれているのではなく神の実相があらわれようとする陣痛の如きものである。悩みを通じて実相が尚一層輝いて顕現する。しかもその陣痛の如き悩みもお産のときの陣痛が、産婦の心持で無痛分娩となったり、快楽となったりするように、神性があらわれ向上するための魂の陣痛も、それは必至のものではなく、受ける心持の如何によって苦痛が苦痛でなくなるのである。苦痛は本来無いのであって、それは如何にして人生の体験を受けるかの受け方の練習課題としてあたえられる。課題は過ぎ行くべきものであって、いつまでも課題をつかんでいるのでは進級が出来ないのである。あらゆる経験は人生の教科として与えられたる課題である。離婚と云うような人生上の悲劇も、その課題と真剣にとり組んでそれを解決するとき、そのような問題と取組まなかった人よりも其の人の魂は進化するのである。・・・・・罪は罪として掴んでいる間じゅう消えないが、罪は心の中で放ったときに消えてしまう。・・・・・

1468うのはな:2012/10/20(土) 15:49:15 ID:3jb./WYM
  『生命の實相』新修版第一巻序より再録

 宗教の自由が叫ばれ、それが認められるようになってから、ある種の術を施して
病気を治す所謂る「霊術的宗教」の中には、意識的なると無意識的なるとを問わず、一種の
催眠術的暗示によって信者を永久に自己の奴隷として屈従せしめてしまって其の宗教から脱退することに
恐怖心を感ぜしめるに至らしめるものが多いのである。

 しかし、かかる宗教は、その名称は「宗教」と云われているが、一種の「人格侵害」又は「人格の独立性蹂躙」を
行うのであって、それが宗教として甘んじてその横行が許されているのは、其の取締当局が「宗教とは、人間内在の神性、
佛性を開顕して、大宇宙の生命と一體なるところの無限性及び自主性を自覚せしめるものなり」と云う根本定義に想到せず
「医者以外の方法で病気が治るのが宗教だ」とか「何でも信ずるものが宗教だ」とか漠然と考えているから、どんな事でも人を
信ぜしめて人を集めさえすれば、そしてその信じた人たちが運営する結社をつくって登記さえすれば、直ちに宗教法人となると云うのであるから、
凡ゆる心霊療法や催眠術は「宗教」と登記して、税金をまぬがれたり「信仰は自由なり」の標語の下に百鬼夜行の現状を呈するようになったのである。

 しかし法人は登記によって成立するが、宗教と云うものは登記によって成立するものではなく、その内容によって成立するものだと云うことを知らなければならないのである。

 (中略)

 本書は約二〇年前に初版を出したものだが、その間に無数の難治症が全快したと云う治験の禮状を受けた部分である。
實相は不変であるから今も書き直す必要を私はみとめなかった。唯、記述中に出て来る人物の中には、境遇の変った人もあるから、
「先日」とある処も「或る時」と直したり、「何々をしている人」とあるのは「当時何々をしていた人」と云う風に直したりした。
が、そのほかには、最近の医学の発達と抗生物質の発見について言及した点が全く新らしいのである。

 尚、「七つの光明宣言」は現在生長の家教団の宗教法人規則に登載されているものとは多少異なるが、創刊当時の宣言を保持して置くことは
歴史的由来を明らかにする上に必要であるから、当時のままにして加筆しなかったのである。

 昭和二十七年八月一日 『生命の實相』愛蔵版第一巻序にも輯録

1469SAKURA:2012/10/20(土) 18:10:47 ID:rwd7gX3g
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ

こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤わたしはなにか恐ろしいことも聞くのではないかという気がします。
|わたしたちのこころのなかにはなかなか取り出しにくいものがたくさん
|ひそんでいるのでしょうね。それが表面にあらわれると、あまりに多す
|て扱いにくくなるのでしょうか。そのために精神分析医というものが
|存在して、隠れているものを掘り起こさせ、ふるいにかけ、そして終局
|的には、そこからわたしたちを解放しようというわけですね。

 もちろん、精神分析医は人がなぜ自分自身を虐待しているかという理由を
明らかにさせるという点では、おおいに役に立つことができます。多くの人
のなかには自分が自分に害を与えていることにこころを奪われていながら、
その理由がわからない人たちもおります。精神分析医はそうした人たちの自
己破壊的な悪循環を断ち切る方法を提示する唯一の存在です。

 人間の成長期にはいくつかの障害があります。それはときには他人によっ
てすえつけられたものもあり、わたしたちがわざわざ努力して保存しておく
ものもあります。この障害物を乗り越えさせてくれるのも精神分析医の仕事
なのです。

                        (つづく)

1470SAKURA:2012/10/20(土) 18:13:35 ID:rwd7gX3g
トキ様 へ  観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1469からの投稿の続きです…。

 ですから、精神分析は解放された人生を送るためのひとつのすぐれた方法
なのです。はじめて患者が寝椅子に横たわったとき、それは人類にとってま
ことに大きな一歩でした。しかし、あなたは分析を受けるためにかならずし
も、寝椅子に横たわる必要はありません。わたしは電話による分析に成功し
たこともあります。また、たとえ分析医にかかっていても、自分自身でも分
析を行なわなければなりません。分析がときどきかなり長期にわたるときが
ありますが、その理由は変化というものが本質的に患者自身には必要だとい
うことを患者が理解してくれないからです。なかには、どんなに深い洞察力
を体得しての、またどんなに多くの情緒的なカタルシスをとげたとしても、
変化が生じないことがあるのです。

                           つづく
PS;トキ様 へ
今回の様に、自分自身にとって“マイナス要素”のものは、多々なるこじつけにより、
それを受け付けない?仮に受け付けたとしましても…逆に“マイナス”ダウン!ダウン!
転げ落ちて…落ちるところまで落ちる?その様な道しかないのかと…そのように不安材料
にもなりますでしょうか??
しかし、この時だからこそ【信仰…真理…】素なのです〜〜〜ョネ!
【心の法則…】にて、ポジティブなる感情に持っていけるその事を、導くのが…
「生長の家…」の信者の皆様の「使命…」でしょうか?
ですから、以前以上に多々なる条件下でも“救済…”出来ます己自身に成る必要性と、
日々の【真理…探究心】でしょうか??
この点は?如何なるお考えをお持ちでしょうかしら〜〜〜ン??

1471ハマナス:2012/10/20(土) 22:44:15 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんばんは。

苦痛も「妄心」にある  (『新版 生活の智慧365章』P.267)

 胃潰瘍を手術する場合に。患者にクロロフォルムをかがせますと、脳髄を機関として働いて
いる「妄心」が麻酔します。「妄心」が麻酔しますと、もう潰瘍の痛みが感じられなくなります。
肉体に潰瘍はまだ依然として存在しているのに、潰瘍の痛みが感じられないのは、「妄心」が
麻酔しているからなのです。痛みは肉体そのものにはないのであって、「妄心」にあるのだと
云うことがわかります。
 麻酔からさめて「妄心」のはたらきが蘇生(よみがえ)って来ますと、手術した後の痛みが
感じられて来ます。「妄心」を「真心」に置きかへ「真心」が表面にあらわれて、人間の実相が
「神の子」であり、霊的実在であり、未だ嘗て病まざるものであり、これからも病まざるもので
あり、仏身、金剛身、不可壊身であると悟ることがきでるまでは、本当の健康は永続しないので
あります。

感謝合掌

1472ハマナス:2012/10/21(日) 23:19:14 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

エーテル体と妄心(「新版生活の智慧365賞P.268」)

「自分」と普通みとめている「身(しん)」は、物質身ではなく霊身、金剛身、不可壊身であります。それに、「エーテル体」「幽体」等の知覚身、感情身がからみ合い、その表面に知覚と感情によって動かされ行動する「肉体」が包んでおります。エーテル体は物質的自覚を生ずる「妄心」の“座”でありまして、行動便宜上、自分を物質として感ずると同時に、肉体を物質としてあらわしているのであります。そして幽体は感情を生ずる妄心の“座”でありまして、その感情の動揺が肉体面に表現されて病気となります。

肉体を物質としてあらわしているのは、これらの「妄心」でありますから「妄心」の“座”である「エーテル体」や「幽体」が、臨終によって肉体から去りますと、肉体としてあらわしている体は、それを持続する力が去りますから、その姿形が崩壊してしまうのであります。しかし金剛身、不可壊身たる霊身は「本当の自分」であって、肉眼には見えないでも、壊(くだ)けないで永遠の存在であります。

感謝合掌

1473a hope:2012/10/22(月) 07:49:07 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦腹立つ事を止めると胸が丈夫になる


一八七九年、ハーバード大学のゲーツ教授は、或る患者の呼吸から出てくる沈殿物(したにたまるもの)について研究した実験録を発表しました。

その報告によりますと、患者にゴム管をくわえさせ、ゴムの管(くだ)を通して、
或る薬品(ある元素の沃化物〈ヨードとほかのものとのかこいしたもの〉)の液体の中に導き入れます。
そのゴム管は氷をもって冷やして、息の中の瓦斯体が凍って液体となり、薬の水の中へ入れるようにしてあるのであります。

患者の心が静かで気持の好いときには、いくら時間がたってもその薬の液体には何の変化もありません。
ところが、患者が急に怒りはじめたとき、五分間ほどしましたら、その薬の液体の中に褐色の沈殿物が出来たと云うのであります。

この褐色のおりをとって人間や動物に注射しますと、その人間や動物が、怒ったように、興奮したようになったと云うことです。
すなわち、怒ると云うことは、そういう毒素を身体から製造し、息の中からまでも、その毒素がでていると云うことをあらわしております。
その毒気が息から出るとしますと、毒気は肺臓を通って出るのですから、肺臓に害を与えているのは明らかなことであります。
肺を病んでいる諸君、胸が弱いと云う諸君、腹立てていることを止めると胸が丈夫になります。

またゲーツ教授は、愛する子供が死んで非常に悲しんでいる婦人の口に、ゴム管をくわえさせて、
同じような実験をして見ましたところが、薬の液体の中に灰色の沈殿物が生じたと発表しています。

そこでゲーツ教授は、色々の実験の末、次のように申しました。
「腹立ちや、悪意や気鬱(こころがふさぐ)は人体内に害の有る化学薬品をこしらえる。その中には非常に毒性のつよいものもある。
これに反して、楽しい、愉快な感情は、生理作用をととのえ、細胞のはたらきを活発にする栄養剤となる薬品を身体の中で製造する。」
(つづく)

1474ハマナス:2012/10/22(月) 23:49:20 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

病気は夢である  (『新版 生活の智慧365章』P.269)

 人間それ自体は、金剛不壊の存在でありますから、病気は一つの夢にすぎません。薬物で
治ることもあるが、それは「薬で病気が治る」と云う信念で、夢の中で「治ると云う夢」を
見るのです。「夢である病気」が夢によって治ったとて不思議ではありません。しかしまた
夢の中で再び夢を見るのは止むを得ません。何故ならその夢が覚めていないからであります。

 真に自分が「金剛不壊なる霊的実在」であると悟るならば、その悟りにバックされて、
たとい夢を見ても、今後は、病気の夢など見るものでありません。「人間は金剛不壊であって
病気はない」と信じなさい。そして元気を出しなさい。元気を出せば、体力はそれに比例して
元気になります。肉体を動かしているのは「エーテル体」と「感情体」ですから感情が滅入っ
てしまって、元気を出さない限り、肉体は健康になり切れません。

感謝合掌

1475a hope:2012/10/23(火) 07:13:00 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦世の中は自分の心の鏡


『世界は、人々に人々自身の払っただけの貨幣を支払う』と云う諺があります。
あなたが世界に対して微笑(ほほえ)みかければ、世界もあなたに対して微笑みかけるのであります。
あなたが世界に対して渋面(にがいかおつき)すれば、世界もあなたに対して渋面するのであります。
あなたがやさしく世界に対して歌いかければ、世界もあなたに対して歌いかけるのでありましょう。

「もし、もし」と呼びかければ、「え、何ですか」と答えますが、「おいこら」と呼びかければ「え、何じゃ?」と鋭い顔でこたえるでしょう。
「坊ちゃん」と呼べば、「ハイ」と答え、「坊や」と呼べば、「ウン」と答える。
「お前馬鹿だな」と云えば、「お父ちゃんだって馬鹿だよ」と答えます。
売り言葉に買いことば、こちらの出した価(ねだん)だけのものが帰ってまいります。

あなたが世界を愛すれば、世界はあなたを愛してくれるのです。
あなたが世界に貢献(ためになることをする)すれば、世界は貴方によい待遇(もてなし)を与えるでしょう。
この世界をつまらないと見れば、つまらないことが、世界から貴方に帰って来るでしょう。

あなたが人類を愛せば、人類が集まって来ます。
あなたが友達を愛せば友達があなたを愛してくれます。
こちらが世界に何ものもささげないでいて、世界から何か自分に都合のよいものを貰おうと思ってもそうはまいりません。
(つづく)

1476「訊け」管理人:2012/10/23(火) 08:24:50 ID:???
『希望実現の鍵』84頁より謹写――

 天地一切のものと和解するという事は、ただたんに表面の心で、自分は彼を赦しているというような浅い赦しようでは足りないのであります。
 詳しく言えば、赦すなどという観念がすでに相手の悪をみとめていることになっているのであって、それでは、すべての人間が吾が子として愛し給う神の霊波に波長が合わないのである。心の隅のどこかにでも、誰かが自分に悪意をもっているとか自分に害を与えるとかの考えを捨てることができないでいる限りは、神は創造に何かまだ不完全があると信じているということになっているのであるから、それはまだ神と完全に和解しているということができないのである。
 祈りがきかれる為には神と和解しなければならない。神と和解するためにはこの世の中に、赦すべき必要があるような人間をまだかつて神は造り給うたことがないという深い信念にまで到達しなければならないのである。もし「赦さねばならぬ人間」が自分の目の前に現れていて消えないとするならば、それは、神がかくの如き人間を造ったのではなく、自分がまだ神の造り給うたこの世界にそんな不完全な人間があるという迷いを持ち続けている証拠であるから、間違いは自分の方にあるのであって、神の創造に間違いがあるのではないのである。
 だから吾々は相手を赦すどころか自分を赦し給へと祈らなければならないのである。「神よ、吾が信仰浅きを赦し給へ」と祈ったイエスの弟子のように、「神よ吾信仰うすきを赦し給へ、あなたのお造りになりましたこの世界には不完全なものはないのであります。あなたの造り給ひしそのままの完全なる世界が、どうぞ私の目にみえるようにして下さいませ」と祈ってから、しばらく黙して「神の無限の智慧が流れ入り来て一切の悪とみえるものが自分の目の前には消えてしまった」と念じて感謝をもってその祈りを終わるようにすればいいのである。

1477「訊け」管理人:2012/10/23(火) 08:28:15 ID:???

『希望実現の鍵』71頁より謹写――

 数週間の間、何事も順調に進んでいる様に見えました。所が突然、或る日その映画会社の作品を配給していた会社との契約が切れ、その作品のことは継続されませんでした。そこで彼は再び解雇されることになりました。けれども彼は失望しませんでした。素直にその運命を感謝して受け、更に一層よくなる始めであると信じていました。
 所がその映画会社のプロデューサーが一通の紹介状をニューヨークの某映画会社宛に書いてくれたのです。その映画会社は有名な映画会社でした。突然彼の収入は増加し、彼の権威は、彼の位置は益々重要となりました。一年たたない中に彼は嘗て編集者として受けていた最高のサラリーの2倍以上を得るようになりました。3年経たない中に当時の3倍以上となり、年々歳々その収入は増加し、3年経つと最初のサラリーの5倍以上のサラリーとなり、6年経った頃には、小説編集者として解雇された時の10倍以上も収入のあるようになりました。

 そこで皆さん考えてください。この人にとって悪いニュースというのは一体どこにあったのでしょうか?考えて見まするに、すべては尚一層よくなるために神が導いていられる事を見出すのです。

 それは唯偶然と思われるかも知れませんが、それはすべて偶然ではありません。自分の周囲に出てくる所のすべてのものを自分を生かす神の深切なる導きとして感謝して受ける時、すべてのものは好転してくるのであります。子供の教育も矢張りそれと同じことがあるのであります。子供に現はれるどんな悪しき状態でも結局それは、よくなるより仕方がないところの神の導きであると信じて実相を拝んで居れば、きっと子供はよくなるのであります。一見悪と見えることも決して悪と見てはいけません。そのまま素直にそれをうけて、きっとよくなる始めである、神の造り給うたこの世界には決して悪はないのである、神の造り給うた人間は必ずよくなるより外に仕方がないのであると素直に信じて拝んで行けば、如何なる境遇でも運命でも子供でも全部よくなるより仕方がないのであります。

1478「訊け」管理人:2012/10/23(火) 08:29:06 ID:???

『希望実現の鍵』79頁より謹写――

「ユニティ」の1948年10月号の週刊誌より――

 紙の上に一方に人間を描き、一方にその人間に飛びかかろうとしているライオンが描いてあるとする。人間を善であるとし、ライオンを「悪」であるとする。しかし、本来「人間」もなければライオンもないのである。善もなければ悪もないのである。それはただ同じ紙の上に描かれたる絵にすぎないのである。鉛筆で描いた輪郭を消してしまったらライオンも人間も結局同じ本質の紙にすぎないのである。そこで人間がもしライオンの外形を見るならば恐ろしいかもしれないけれども、そのライオンの本質を見てライオンにこう言えばいいのである。
 「私は紙である。キミもまた紙ではないか。ライオンなんて存在しないのである。自分の生命とキミの生命とは本来一つのものである。だから私はキミを恐れたりなどしないよ。キミと私とは本来一体なのだからキミはキミ自身を害することはないし、又私は私自身を憎むことはないのだ。」
 こうわかってしまえば、世の中に恐ろしいものはないのである。すべて世の中に現われている形は吾々が「想念」でその輪郭を描いた所の影にすぎないのである。そしてその本質は皆神の生活であるから、互いに害し害されることはないのである。この真理を知れば如何なる場合にも恐れることはないのであり、あらゆる難問も解決され、憎み、恐怖、嫉妬、猜疑等の如き悪循環は悉く消えてしまうのである。そして一つの兄弟であると感謝できる筈である。この真理をしることが即ち「汝は真理をしらん、真理は汝を自由ならしめん」とのキリストのいい給いし所以である。あらゆる人生の善と福との実現すると否とは、この真理を知ると否とによって別れるのである。

1479SAKURA:2012/10/23(火) 23:40:57 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1238>>1304>>1307>>1319>>1320>>1324>>1331>>1332>>1334>>1339>>1347
>>1358>>1373>>1376>>1378>>1412>>1424に関しましては【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセージを聞く ◄◄ ―――――

|❤しかし、わたしには変化はときには簡単にやってくることがあるよう
|に思われます。わたしにはそういう経験があります。突然、周囲のこと
|がこれまでとまったくちがって見えるときがあるでしょう。たとえば、
|重荷が軽くなる、ドアが開く、いままで苦闘していたものがたちまち楽
|になる、というようなことが起こるのです。

 まさに奇跡が起ころうとしているわけですが、これは大変よいことです。なぜなら、こう
した奇跡は人が生きていくうえでおおいにプラスになるからです。しかし、そのためにはま
ず葛藤がなければなりません。ゆきづまりがたくさんあることは、奇蹟をつくり出すことに
通じます。奇蹟はその受け入れ態勢ができている人によく起こるのです。

 しかし、人生に変化をもたらすためには、このような突然の飛躍以上のものが必要なので
す。そのためには、ちゃんと自分でそれを意識した行動、自分に人生を自分の手におさめよ
うとする決断を必要とするのですが、たいていの人はこの決断をあえて行なおうとしないの
です。彼らは精神分析医のことをこれまで夢にも見なかったほどのやさしい父親か母親のよ
うに思い、これからずっとめんどうをみてもらえると決め込んでいます。それはかならずし
も悪いことではないでしょうが、分析医がもたらしてくれる重要な成果のひとつは、愛情あ
る配慮ということなのです。ところが一般の人は、ほんとうによい両親とは、子どもが自分
で、自分自身の世話をしていけるようにしつけてくれるものだということに気がつかないの
です。ある人がつぎのようにいいました。「もしあなたがある人に食物を与えれば、その日一
日は食べさせることができますが、自分の食べ物をつくる方法を教えてあげるなら彼らは一
生自分の力で食べていくことができるようになります」と。

 あなたが自分でみずからの世話をし、自力でやっていく決心ができると、つぎにまた大き
な仕事が待っているのです。悪い習慣を断ち切るときには分別と努力が必要です。いま、あ
なたのこころのどこかであなたがこれから挑もうとしている変化に異議をとなえているとし
ても不思議ではありません。

古い慣習のなかにいれば、きわめて快適ですし、なにもわざわざ変わったやり方で物事を
見たりやったりする気持ちが起こらないからです。しかし、そういうときにあなたのこころ
は、まさにある闘争が展開されるのです。
                   (つづく)

PS:トキ様 へ
「雅春先生」の言葉より……『人間は努力しただけの分だけ“奇蹟”が起こる』のです。
そして、次のステップの踏み台にも〜〜!!此の“言葉”からも、同様な解釈がありますから
改めまして、悪い時程…良い事の始まり〜♫〜でしょうか。
さらに!【飛 躍 の 前 触 れ 現 象】です〜〜〜ョネ!!私も前以上に引き締めて?
信じて?行動で〜〜〜す。さぁ〜〜〜頑張ろう!!と、ちょっとリズム〜♫〜が出来てきました。
…が?〜〜「トキ様」も如何でしょうか??
素晴らしい文章を読みまして【前向きになれる!】のは〜〜やはり【言葉の力…魔術師??】
でしょうか??
                            再合掌

1480ハマナス:2012/10/23(火) 23:59:59 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
ありがとうございます。

病気に思い軽いはない  (『新版 生活の智慧365章』P.270)

「生命」は物質そのものにはないのであって、「生命」が物質を支配するのである。物質を

生ぜしめ、それを仮に物質として、吾々に感ぜしめているのも「生命」の力である。物質は
「生命」の影であって実体ではないのである。 「生命」は霊的実体であって金剛不壊であり、
細菌やヴィールスに冒されざるものである。それが冒されるようにあらわれるのは、本来の
霊身を「物質身」として翻訳して感ずるところにあるのである。

 自己を「物質身」と見、病み且つ死するものであると見るのは、「妄心」の夢であるのである。
夢は醒めるものであり、「夢の病気」には重いも軽いもないのである。軽い病気が治るならば、
重い病気も、同じ軽さで治る筈である。どちらも夢であるのだから、その夢からさめさえする
ならば、病気に重い軽いはなく、どんな病気でも消えてしまうのである。

感謝合掌

1481うのはな:2012/10/24(水) 00:12:43 ID:mbxezudY

 忘れ得ぬ人 榎さん 『光の国から』 渋谷晴雄 先生著

 榎さんは日に焼けた肌の、骨太いつくりで、顔はつやつやしている。六十歳ぐらいの感じで
とても八十歳とは思えなかった。
 私が榎哲太郎さんとはじめて会ったのは、生長の家本部からハワイ州本部駐在講師を命ぜられて赴任した
一九六五年(昭和四十年)のことである。榎さんは当時。カウアイ島の講師会長であった。
カウアイ島というところは、ガーデン・アイランドともいわれ、美しいハワイのうちで、とくに緑の多い、あまり
文明開化の波をうけないようなのどかなところだった。

 教化部のあるホノルルから、はじめてカウアイ島に巡講に行ったときである。
地元の信徒の方々が大勢で歓迎会を開いてくれた。翌日講演会が終ったあと、講師会長の榎さんが、会場で、私を引きとめて
言った。「先生、私は生長の家のみ教えのお蔭ですばらしい体験をいただきました。先生、ぜひ聴いて下さい」
以下は、榎さんの体験談である。

 数年前榎さんは、身体の調子がわるく、疲れやすく、尿の出る回数がやたらに多くなった。
しかたがないので、病院に行って診察してもらった。しかし、カウアイ島には日本人の医者はいなくて、白人の医師にかかった。
ところが、榎さんは日本からハワイに行って数十年になるのに、英語が満足に出来ない。
そしてその医者はまた日本語がわからない。医者は診断してダイヤベーティズ(糖尿病)だ、といった。
しかし、榎さんにはその病名がわからない。

「ウォチュー ミーン?」(それ、どんな意味ですか?)
「ウェル・・それは、ユウのシーシーからシュガーが出る病気だ」と医者は、おしっこをする身振りをして教えた。
榎さんはシュガーという英語が砂糖だということは知っていた。榎さんは思った。
“なんだ、そんな病気か。おしっこから砂糖が出る病気か。どおりで。それじゃ砂糖を食べればいいんじゃないか”
医者が薬をやる、というのを断って、榎さんは、“なるほどダイヤベーティズ、よくわかりました。センキュウバイバイ”
榎さんは、家に帰る途中で、大きな砂糖袋を二つ買って車のトランクスに入れた。

 家に帰ってから、榎さんは、“砂糖さえ食べればいいんだ”と、コーヒーには砂糖を四杯も五杯もかけ、また、御飯にも砂糖を
かけて食べた。効果はテキメンであった。翌日からぐんぐん元気になった。一ヵ月たって見違えるように元気になった榎さんは、念のために、またその
医者に会った。医者は榎さんの尿の検査をして言った。
「おや、糖尿が全然出ていない。完全に治っている。ところで、きみ、病院はここしかないはずなのに、あんたは、いったいどこへ行って治ったんだ?」
「砂糖をいっしょうけんめい食べた」という榎さんの言葉に医者は大きく眼をむいて絶句した。
糖尿病で砂糖をとるのは、御承知のように医学的にはいちばんわるいのである。しかし、榎さんは“砂糖を食べれば治る!”と堅く信じていたのである。

 この体験談を話し終って、榎さんは私を見てニッコリ笑った。
私は、感動したというよりは、あっけにとられた。これが講師会長である。講師会長といえば、日本では大抵知識人である。医学の常識などは持ち合わせて
いるのが普通である。それなのに......というわけで、私は榎さんの顔をまじまじと見るよりほかなかった。
 しかし、私はここに深い真理があるということを知った。
私たちは医学や科学の常識がありすぎるのではないか。ありすぎるために、これはいけない、こうしなければならない、と、自分自身を束縛している。
自己限定する。そして、いちばんわるいことには恐怖心によって生命力をさまたげている。
“知らぬが仏”というが、何も知らない榎さんは“砂糖を食べれば、糖尿病は治る!”と信じた。
その信ずる力は、医学の法則を上まわった。なぜなら医学の法則というものは生命の働きの痕跡を法則化したものであり、生命というものは、その法則を法則にしている
元のものではないか。だから、一見奇蹟と思われるものも、そこに高次元の生命の法則が働いているのではないか。

 私はハワイに三年いて、日本に帰った。日本で、個人指導のとき、生半可な医学の知識があるために自分の病気が難病だと信じこんでいる人に会うと、ニコニコ笑っている
榎さんの顔を思い出す。そして榎さんの体験談を話すのである。

 榎さんは、その後ずっと元気だったが、やがて九十歳の天寿を完うされて昇天された。
今でも天国でニコニコ笑っている榎さんの顔を私は忘れられないのである。

1482ハマナス:2012/10/24(水) 14:06:14 ID:x2zmnlqw
神の子のみなさま
こんにちは。

実相の覆いを取り除け  (『新版 生活の智慧365章』P.271)

 怒り、憎み、悲しみ、恐怖、悪意、貪欲、嫉妬などは、自己が物質的存在であり、何物かに
奪われたり、傷つけられるかも知れぬと云う予想から、それを防御する感情として起って来る
ものである。従ってそれは「実相」の円満完全さを覆い隠してしまって不完全な肉体を表現
するようになるのである。その覆い隠された状態が病気であるから、その病気を消滅せしめる
方法は、二つの面から考えられる。即ち、一つはその覆い隠しているもの――怒り、憎み、
悲しみ、恐怖、悪意、貪欲、嫉妬などの感情を取り除くことである。

 怒り又は、憎んでいる相と心の中で和解しなさい。「私はあなたを赦しました。私はあなたに
感謝しております。私はあなたを愛しています。」と云う言葉を、目をつぶってその相手の人に
呼びかけるような気持で心の中で繰返し繰返しとなえなさい。

感謝合掌

1483「訊け」管理人:2012/10/24(水) 15:20:09 ID:???

『希望実現の鍵』66頁より謹写――

(脚本家チェーズ氏は、その能力を嫉妬され周囲からのいじめに遭っている)

 彼をとりまくところの彼に好感をもっていない人々は恐らくチェーズがこの四面楚歌の中に憤激し、抵抗し、反抗するだろうと思っていたのに、彼が悶々としてそのまま、それに無抵抗であるのに驚かされました。彼自身は何等憤激することなしに普通に忍耐と機嫌のよさとを以てそれに対していることが、不思議に彼に悪くあたっている人達を沈黙せしめ、不思議がらせているのに驚く程でした。
 ここに他のあらゆる方法が失敗すべき時にも、今まで気にもとめなかった法則・神・無抵抗の真理が、斯くも素晴らしく働くものであるということが解って来たのでした。「悪に抗することなかれ」となぜイエスが山上の垂訓に於いて教えたのであろうか。此は最も科学的な相手に対する征服方法なのです。その結果は実に驚くべき結果があるのです。
 次に述べようとするのはその結果である。そのスタジオの有名なプロデューサーがスターのためにシナリオの続きを書くようにチェーズに申し込んできたのである。此のプロデューサーはあらゆる出来事に神経過敏で色々の批評をする男なのである。チェーズはこれはなかなか大変な仕事であると思ったが、「抵抗するなかれ」の真理を実践するために、それを素直にうけたのである。チェーズの心の中には古い格言が思い浮かんで来た。「汝の最善を尽くせ。しかし、その余は神に委ねよ」此は無抵抗を裏書きするものであったのである。彼は自分自身を忘れて、その映画製作に没頭した。しかしあせりはしなかったのである。すると今まで低迷していた暗雲から一条の光が差してきた。そのプロデューサーがチェーズに向かって言った。「君、君はなんて素晴らしい卵だ。こんな素晴らしい辛抱強い人を見たことはない。君と仕事することは全くうれしい」やがてチェーズの作品はこのスタジオの最も有名なディレクターにも認められた。このディレクターは勿体らしく頭をふって「これは小さな宝石だ。全くの傑作だよ!」と賛嘆したのだった。こうして素直にあたえられたものを無抵抗に受け取るとき自ずから道が開けてくるのである。

1484「訊け」管理人:2012/10/24(水) 15:22:36 ID:???


『希望実現の鍵』58頁より謹写――

 パウロは「神を愛するのは神を霊として愛さなければならない」といったが、人間も「神の子」である以上はそれを霊として愛さなければならないのである。吾らは時として人間を愛する道を誤る。そして彼を肉体として愛する。そこに時として間違いが生じる彼や自己を見るのに肉体として見るのである。吾々の祈りがきかれない場合には、以上に述べた色々の原因が交錯しているのである。

 まづ第一に注意すべきことは、自分或いは自分の子供をその他すべての家族達を神の子として霊としてみているかを反省してみるべきである。もし治らない恐怖心や、死の恐怖があるならば、それは人間を霊として見ていない証拠である。霊は病もなく死もないからである。

 第二には、自分は誰か恨んでいないか、憎んでいないかを反省して見ることである。時とすれば、もう記憶にも残らないほど誰かを憎んだままで赦していないでそのまま忘却していることもあるのである。できるだけ過去を記憶によびもどして、もし不調和な人があるならばその人を赦して彼と和解する事である。憎むべき原因、色々の争い等は本来実相の世界には存在しないのであって、すべての人間は、皆善き人間ばかりなのである。従って憎み恨みということは結局は根拠のないことだと悟って、すべてを赦してしまうことである。それには坐して目をつぶり、目の中に相手の姿を思い浮かべその名前を数回となえて相手を呼び出すような気持ちになり、「私はあなたを赦しました、私はあなたを愛しています。私は貴方に感謝しています。もし私があやまってあなたに気に入らないことをしていましたならばどうぞお赦し下さいませ。あなたと私とは神の愛の中に渾然と溶け込んで互いに一体でございます」というような言葉を心の中で幾回も繰り返し、数十分その思念に精神を集中し、心の世界で相手と和解するのである。

 第三には吾々は業の観念から解放されなければならないのである。過去に何か誤った業をおかしてその報いを受けなければならないというような罪の観念を捨ててしまうことが必要である。多くの不幸・病気・災難等は自己処罰の観念の具象化として現われている事が多いのだから自己処罰の観念を捨てなければならないのである。そのためには瞑目合掌神想観して、「神の光吾に流れ入り給うてすべての過去の罪と業とを浄め給うたのである。今吾は完全に洗い浄められて、本来罪なき所の円満完全清浄無垢なる神の子に生まれ変わったのである。もう自分は如何なる罪の束縛も業の束縛も受けることはないのであって、自分は自由自在である」というような言葉を心の中に繰り返し念ずることが必要である。

1485「訊け」管理人:2012/10/24(水) 15:24:26 ID:???


『希望実現の鍵』82頁より謹写――


 宗教を信じ、神を信じ、神に祈り求めていながらその祈りを成就することができない場合に注意しなければならないのは、人を赦していない場合が多いのであります。祈りがきかれないのは実は自分が神の霊波と波長の合わない心をおこしているからである。キリストは主の祈りに於いて「吾々が人の負債を赦すかの如く、吾が負債をも赦し給へ」と祈れと教えているのであります。もし吾々が人のあやまちを赦さず憎む心をもちつづけているならば、吾々の祈りがきかれないのも無理はないのであります。その実例は日本にも沢山あります。飛田給の生長の家道場に来て練成を受けた青年がこういう体験談を発表せられたことがあります。
 彼はエディポス・コンプレックスに陥って父を激しく憎んでいたすると父は妾を一時に3人もこしらえているので益々憎んでいました。飛田給の練成会に来て、父が他に愛情を求めるのは自分が父を愛しないからで、父を憎む心をすてる様に教えられた。そして私は父を絶対憎むまいと決心した。心では赦す気持ちになっていたのである。ところがどうしても父の前へでるとぴったりしないし、又どうしても父を尊敬する深い愛情が湧いて来ない。従って父の妾狂いは止まらないのである。そこで再び飛田給の練成会へ来た時に練成担当の徳久克己博士に、「どうしたら父と調和できるであろうか」ときいてみた。すると、徳久さんは、
 「それは君父を赦さなければいかん」といはれた。
 「赦しているんですが」
 「赦している積もりでも潜在意識の底では赦していないんだよ。もっと深く赦すことだ、潜在意識の底から赦すことだ。そのためには祈りの部屋へ行って私はあなたを赦しました。あなたも私を赦しました。あなたと私とは神に於いて一体でございます。あなたも私を愛しております。あなたと私とは神に於いて一体でございます。私はあなたに感謝しております。あなたも私に感謝しております。お父さんありがとうございます。お父さんありがとうございます。とこう心の底深く念じて神想観をやんなさい」と教えられた。

 この青年が練成を終えて帰郷した時、その長い間不調和であった父が、息子である其の青年を、上座の床の間に坐らせて、自分は下座に坐って、父は両手を畳の上について低頭して「いままで、わしが悪かった。心得違いをしてすまなかった」といって涙を流して真実溢れて息子に詫びるのでした。青年も「お父さん僕が悪いのです。赦して下さい。」といって、こみあげてくる涙と共におわびをしたというのである。それ以来同君の家庭は天国浄土のような温かい春風駘蕩の家庭になって、いつとなく3人の妾も解消したというのであります。

1486「訊け」管理人:2012/10/24(水) 15:25:55 ID:???


『希望実現の鍵』24頁より謹写――


( 貧しい母親が赤ん坊への乳母車を欲しいと思った。ある日新聞の三行広告に「乳母車」の文字があった。早速広告主に電話したところ「貴女が来るまでに真に欲しくて受け取りに来る人があるならばその人に渡すが、もしそれまでに買い手がつかなかったら貴女に売りましょう」というものだった。 )

 それから彼女は神様に祈った――「神様、もしその乳母車が私に与えられるものでしたら、どうぞ私の手に入りますように。あなたは私に乳母車が必要だと云うことを知っていらっしゃいます。あの乳母車を受け取りにやらせる人が私には見つかりません。もし私の願いが正しゅうございましたら、あの乳母車を手に入れる方法をあなたは知っていらっしゃいます。神様、私はあなたに全てをお委せいたします。」この祈りは誠に典型的な祈りである。だから私は祈りの典型的な実例としてここに引用したのである。この祈りの「乳母車」と云う名称を、他のどんな物の名称に、書籍であろうと、衣服であろうと、装身具であろうと、また「恋人」であろうと、それに置き換えて祈れば好いのである。その祈りになくてはならない要領はすなわち次の5つである。

1、もしそれが私に与えられたものでしたら、
2、あなたはそれが必要だと云うことを知っていらっしゃいます。
3、もし私の願いが正しゅうございましたら、
4、あなたはそれを私のものとする方法を知っていらっしゃいます。
5、あなたに全てお委せいたします。

 「広告主様ありがとうございます。乳母車様ありがとうございます。その持ち主様ありがとうございます。」彼女はこう念じながら眼を閉じて眠ろうとした。

(後略:その後彼女の元に持ち主が車を飛ばして乳母車を持参してきたのであった。何かに突き動かされて持ち主は見ず知らずの彼女の元まで乳母車を持参してきた。)

1487SAKURA:2012/10/24(水) 23:30:57 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ

こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜す。

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
❤〜【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? ベスト・フレンドは哲学になります…
初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自分のメッセージを聞く ) 
―――――  ►► 自分のメッセ−ジを聞く ◄◄ ―――――

|❤わたしたちの多くはどちらかといえば、変化を好まないのがふつうで
|す。しかし、真剣に考えてみると、快適な慣習を変えることよりも、ず
|っと重要な問題があるのです。このことはたしかにそのままに捨てては
|おけません。

わたしたちが話し合ってきたことは、すべて重大な問題です。錯覚や虚構
も世のなかやわたしたち自身について正しいと感じていることも重要な問題
だといえます。深い意味を考えれば、わたしたちはこころのどこかで、いま
自分の存在そのものが脅かされ、自分が生きるための闘いをつづけていると
考えています。しかし、それはそう感じているだけで、じつは誤解なのです。
わたしたちの闘いの相手は、自分がもつ悪い習慣、すなわちわたしたちの人
生をこれまで毒してきた思考と行動の悪循環なのです。

 これを取り除くには多大な忍耐を要します。変化を望むだけでは不十分で
す。変化したいと思うようになろうと、望まなければなりません。変化した
くないことですら変化したいと望まなければなりません。

 それを試みる方法はいくらでもあります。たとえばつぎの格言のような、
一見古めかしい方法もあります。「自由の代償は永遠の警戒」(訳者注――完全
に自由になると、いつも警戒していなくてはならない)とか、「七転び八起き」と
いったものです。それは古くさいけれども、真実を物語っています。あなた
はいま自分がしていることを見つめるべきです。自分を卑下していることに
気がついたら、ただちにその場で立ち止まり、方向転換してみずからを上昇
させなさい。

 現実主義も必要です。人は往々にして完全でありたいと望み、そうでない
とガックリくるものです。そんなことはもうやめなさい。完全という言葉
は人間のためにあるのではなののです。芸術作品にはたしかに完全といわれ
るものが、いくつかあるかもしれませんが、それにしてもかぞえるほどでし
ょう。完全な人間とは、それがどんなものであるにせよ、とうてい耐えられ
ない存在でしょう。あなた自身を超人のものさしで判断することは、みずか
らを傷つけることになります。それはまた同時に、そういう判断のしかたを
あきらめるよい口実となります。あなた自身に判定を下すことはやめなさい。
まず、いまの自分をよしとし、そこから前進すべきです。

                             (つづく)

1488SAKURA:2012/10/24(水) 23:35:49 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
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実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
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|❤それでは、混乱と過失を受け入れなさいというのですか。わたしは混
|乱も過失もいっさいしないようにすることこそ、いま重要だと思うので
|すが。

 もしあなたが、ほんとうにそうするならば、あなたはそのような唯一の人
間になるでしょうね。

 *【自分のメッセージを開く】を終わりました。
次回は【自発的に物事を考える】に入ります。〜〜〜(つづく)

PS:トキ様……
『人生は?“心との闘い”!』です〜〜〜ョネ!【こころの悪循環を断ち切る!】には、
やはり、今現状に置かれています処の私の環境は、やはり【意志=意識】からでしょうか?

“ネガティブな感情”が進入されますと?それを“ボディティブ感情”に切り替えるのも
そうです〜〜〜ョネ『心・・・』ですモノ!
有名“コピ−ライタ−”が言っていましたが・・・【意志=根性】とか?
意志が出来ますと、それにむけて“根気よく”して行くモノ!それが【根性に繋がる!】と…
それと同じく…前に進む事は【今を!やはり、今!を活かす事】でしょうか??
今日もまた“おもしろい事”を、記載されていました。…が???
「トキ様」今回の【自分メ−セ−ジ…】如何思われましたでしょうか〜〜〜??
“アドバイス…”頂きますと、幸いです。…が?
                                 再合掌

1489a hope:2012/10/25(木) 07:43:31 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦絶えず不幸を見出す人になるな


ところで、貴方は世界に対して、良きものを支払っていますか。
微笑みを支払っていますか。悲しみを支払っていますか。
微笑みを支払っているならば、微笑みが周囲からやって来るでしょう。
悲しみを支払っているならば、悲しみが周囲からやって来るでしょう。

大体は、「今日は楽しくない」と思う習慣のある人は常に楽しくないことに取りかこまれるのでありましょう。
そう云う人は、天気が曇りであると云っては鬱(うっ)とうしいと云い、雨が降ると、ジメジメして気持ちが悪いと云い、
晴れていると暑くるしいと云う。

何が来ても不平を云い、面白くないと云う。
御飯が固いと云っては小言を云い、柔らかければお粥のようで不味いと云う。
そして絶えず小言を云っているうちに自分の性格がそこなわれ、人からはきらわれ、
世の中のすべての物は面白くなくなります。

その反対を行いなさい。世の中は屹度(きっと)幸福になります。
雨が降ったら「ありがたいおしめりです。これで水力発電が沢山とれます。畑の作物が喜びます」と云いなさい。
曇っていれば「今日の天気は落着いて宜しい」と云いなさい。
晴れていれば「まことに朗かな快晴(きもちよくはれること)で結構です。気分まで晴ればれします」と云いなさい。

この通りに云わなければならぬのではありません。
これは一例です。何でも好い方面を見て、讃(ほ)めたり、感謝したりするようにしていますと、
しまいには、ほめたり、感謝したりすることばかりがあなたの周囲に集まってくることになるのです。
(つづく)

1490トキ:2012/10/25(木) 11:48:08 ID:9G9F8IBU
 すばらしいご文章を投稿して下さり、感謝申し上げます。

1491SAKURA:2012/10/25(木) 22:31:48 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
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実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
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初歩のかたでも、判り易いのでは〜〜昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

・・◆【ベスト・フレンド】  ( 自発的に物事を考える ) 
―――――  ►► 自発的に物事を考える ◄◄ ―――――

|❤もうひとつ、わたしの悩んでいる問題があります。それは、このよう
|にいつもそれを見つめて取り組んでいるということなのです。もうそれ
|について考えるのもいやですし、どう考えても、楽しいこととはほど遠
|いのです。わたしたちが最初のころに話し合っていたあの情熱はどこへ
|行ってしまったのでしょう。自分からやろうという気持ちはいったいど
|うすれば起きてくるのでしょうか。

 人はすぐ自発的になりたい、感情のままに生きたい、などといいます。そ
ういう人たちは自分を知性の殻のなかに閉じこめてしまって、なにを感じて
いるのかほとんどわからなくなっているのです。ですから、自分の平凡で単
純な感情を体験したくなります。そして、もし自分のこころを外に投げ出し
てしまえたら、さぞかし自由になれるだろうと、考えるようになります。D
・H・ロレンスの考え方と同じ主張です。

 しかし、自由にしても、感情にしても、いずれもそんなに単純なものでは
ありません。わたしたちのこころのなかには、ひとつの引き出しがあって、
そこにはこれまでの人生で見せた反応がちゃんと整理されて入っているので
す。たとえば、叱られたこと、教科書のなかの格言、ノスタルジア、愚かな
迷信などが、わたしたちの本来の感情といりまじって入っているのです。
 
(つづく)

1492SAKURA:2012/10/25(木) 22:34:17 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ  
観覧者の皆様 へ
こんばんは……   ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1491【自発的に物事を考える】シリーズ投稿の続きです…。

ですから、現実問題として考えてみると、あなたのいわれた「自分でつく
り出していく情熱」、つまり自発的というものは、ふつうはこころのなかに
最初に浮かびあがってきたものをとらえて、それがあたかもこころの深層部
から送られてきたメッセージであるかのようにしくんだ作用と考えられてい
ます。しかし、この深層部はかなり汚染されています。そこで、そのメッセ
ージがどこから送られてきたかを見極めるために、表面にあらわれた反応を
吟味しなければなりません。どのメッセージにもとづいて行動したらよいか、
どれが真実の気持ちをあらわしているか、決めなければなりません。
              
 だからといって、一秒の休みもなく自分自身を見つめていなければならな
いということではありません。歩き方を忘れたムカデのように気にする必要
はないのです。しかし、自分自身の真実の感情にもとづいて生きることはか
なりの努力を要します。あなたがすすんでこういう努力をしようとするとき、
真の生きる情熱があなたを訪れるのです。

 人は「解放」されたいといいます。しかし、必要なことは逆に、自分をつ
かまえることです。自分をほんとうにしっかりとつかまえているときにのみ、
あなたは解放されるし、自発性も生まれてくるし、すばらしい人生を期待す
る余裕がもてるのです。おとなの場合、セックスがより充実しているのもこ
のためです。成熟した人間だけが、自己をつきはなす冷静さをもっているし、
またそこから傷つくことなく立ち直ることを知っているのです。これは一見
逆説的に聞こえますが、愛の秘密のひとつなのです。
                             再合掌

PS:トキ様 へ
“感情…”も“意志…力”が入ってきますと当に【夢の一直線…】でしょうか???
“感情”も“意志”に繋いで参りますと〜〜〜そうしますと【感情=意識=意志】に変化して
いきますので??最終的には【私自身の繰り返しの力…】でしょうかしら〜〜〜ン???
【祈り…】も、当然!そうなっていくのです〜〜〜ョネ???

❤〜「アンソニ−・ロビンスの言葉…」から…とても“素敵な言葉”なのです。
「何度も何度も繰り返す。行動を変えるためには繰り返しである。
習慣を変えるためには繰り返しである。」【「反復はスキルの母」】

「トキ様」は、どう思われますでしょうか???

1493ハマナス:2012/10/25(木) 23:52:48 ID:x2zmnlqw

神の子のみなさま
こんばんは。

無い病気の恐怖 (『新版 生活の智慧365章』P.271)

「言葉は神である」と言われている通り、コトバに発したことは、その通りに事物を動かす
力があります。あなたが相手を「赦しました。感謝しています。愛しています」と言葉で
繰返し念じているうちに、実際に相手に対する怒りや憎みの感情がやわらいで来、相手の
立場に立って考えてやる心の余裕ができ、そして本当に相手を愛することができるように
なります。これで病気を起こしていた第一の原因は除かれたのです。

 次には病気に対する恐怖を除くことです。病気の恐怖は、病気を実在すると思うから
起るのです。神は病気を造らないのであるから、病気などは存在しないのです。存在し
ない病気は進行する筈もないのです。「無い病気」があなたの生命(いのち)を奪う
筈もないのです――この真理を繰返し自分の心に言ってきかせるが宜しい。これには
『続々甘露の法雨』を読むか、人から読んで聞かせて貰いなさい。

感謝合掌

1494a hope:2012/10/26(金) 07:42:07 ID:8tjYhMb6
新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦始終、楽しい話をせよ

始終、仕事の景気のよい話をしていますと、屹度しまいには自分の仕事がよく繁昌し、景気がよくなってまいります。
いつも不景気な損する話ばかりしていますと、だんだん仕事がひっそく(せまりふさがること)し、景気がわるくなり、
することなすこと面白く行かなくなります。貧乏の話をしていると、貧乏が集まって来ます。

「僕は屹度えらいものになるのだ」と毎日云うようにしなさい。屹度えらい者になって来ます。
尤も、そのえらいと云う意味は色々ありますが、とも角(かく)世のためになり、世の中の人に喜ばれ、人から、
「あの人がいてくれたので助かった」と云われるような人になるには、毎日、「わたしは、そう云う人になれる」と思うことが大切です。
思うとおりにあらわれるのがこの世界なのであります。
(つづく)

1495るん:2012/10/27(土) 01:41:07 ID:NS71OwS.
>>1457 >>1458
うのはなちゃん

そう、そうですよね。 
どんな時も、結局雅春先生の教えである『実相は完全円満』の自覚が大切なのですよね。

しかし、エドガーケイシーも実相を知っていたのか・・・・(*・○・)ビックリ

1496SAKURA:2012/10/27(土) 02:06:37 ID:xBP3lXis
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

今日はしごとで、やっとパソコンを、時間を見ますと、
深夜ですが、雅春先生の言葉より

■谷口雅春著  『新版 栄える生活365章』より

【神は「自己の努力」の中に 顕れたまう】
魂の底の底なる深き願いは必ず成就するのである。
併し、「屹度、神様が成就させて下さる」 と信じて、それが成就するに必要な

「自己の努力」を棄ててはならない。
「神はみずから助くる者を助く」という古諺があるが、
「あなた自身の努力」のすがたとあらわれて「神の力」が迸り出るのである。

                             再合掌

1497a hope:2012/10/27(土) 07:39:00 ID:8tjYhMb6
>>1496 SAKURAさま

すばらしい雅春先生のお言葉を紹介してくださりありがとうございます。

【神は「自己の努力」の中に 顕れたまう】

座右の銘にしたいと思いました。

感謝 合掌

1498a hope:2012/10/27(土) 07:43:38 ID:8tjYhMb6

新版 生活読本 谷口雅春先生著

第五章 腹立つ思いを捨てましょう
♦人間は怒ると損です


人間は怒ってはならない。悲しんではならない。心配してはならない。暗い気持ちにしずんではならない。
怒りや、悲しみや、心配や、暗い気持は、自分を殺すものであります。自分の身体の中に毒素をつくります。

ある有名な法学博士は京都で講演会があると云うので出掛けましたが、
駅に誰も出迎えていないと云うので腹を立ててカッカになって怒りながらやっと講演会場にゆきましたが、
その講演会場で脳溢血と云う、あたまに血がのぼせて起こる病気で倒れて死んでしまいました。

永い間心配したために、気がついて見ると頭の毛が全部真白になった人もあります。
長い間の嫉妬心(やきもち)が原因でバセドー氏病と云う眼玉のとび出る病気になった人もあります。
グジグジ小さい小言(こごと)や不平を心の中で思っている人には水虫がよく出来ます。
長い間の悲しみをこらえていたために、腹膜炎や、腎臓結核になった人もあります。
このような腹立ちや、心配や、嫉妬心や、不平や、悲しみは人間の生命(いのち)を殺すことになります。

キーツと云う詩人はその作品があまり感傷的だといって激しい批評をせられた為に、心をなやまして死んだと云われています。
モーパッサンは、神を呪う小説を書いているうちに気が狂ったと云われています。
芥川龍之介は、怪畸(かいき)な神経質な小説を書いているうちに、あまりに神経をとんがらせて毒をのんで死んだのです。

心のなやみや、呪いや、神経質的なものはすべて人間を害するものです。
多くの歌よみは、歌と云うものは悲しいことを歌わないと値打ちがないように思って、
悲しいことを常に思うようにしていますので、始終身体が不健康でいるのです。
石川啄木が肺病で死んだのなども其の一例であります。

ショーペンハウエルと云う哲学者は、人生は生きる値打ちがないなどと、
悲しみの哲学を常に考えていましたので、一生涯胃病になやまされていたと云います。
夏目漱石はその小説『道草』にあらわれているような激しい家庭内の心の暗闘(あうらでのあらそう)で
血を吐くような思いをしていたので胃潰瘍をわずらって血を吐いて死んだのです。

死ぬほどでなくとも、心の激動(はげしくうごく)は食欲をなくし、消化をさまたげ、或は冷汗を出させ、
顔を青ざめさせ、溜息や喘ぎをおこさせ、夜眠れなくさせると云うことは、誰でも知っていることであります。
母親の悲しみや心配で、胎(おなか)子供が流産することがあり、またお乳が出なくなったり、お乳の中に乳児脚気を生じたりいたします。
心は常に楽しくしているように心掛けねばなりません。
(つづく)


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