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死刑制度についてひと言お願いします

1boro:2003/03/16(日) 14:16
死刑制度については他のサイトとかで
さんざんやってきたテーマだと思いますが
そのときの犯罪事情によっても意見が
違ってくると思います。そういう意味で
いま現在、どのように思っているかを
簡単でかまわないので意見をきかせてください。
場合によってはテキストを書く上で参考にさせて
いただくかもしれません。よろしくお願いします。

1908Ken:2008/08/13(水) 05:08:45
ぶっちゃけ、付帯私訴制度とかあんまり興味と関心がないんで、思いつくまま
書いてるだけなんで...。紫煙狼さんの「こうあるべきだ」というのはその通りかなあと
思っております。私が書いてるのは「でも実際のところはこうですよね」という
ような話でして...。

被害者側がなおざりにされている、どうにかせにゃならん、というのはおそらく
すべての人が同意できることだと思うのですね。それでたとえば対策として死刑を
含む厳罰化というのがあると思うのですが、ターゲットは被害者側だったはずが
なぜか加害者に摩り替わっているのが、変だというか直接的でないというか矛盾
しているというか。やはり被害者側に直接働きかけるようなのが筋ではないかと。

それで、紫煙狼さんが提案しているのは被害者側の損害を直接和らげることになるわけで、
その点では大変結構なのですが、やり方としては一番お金がかかる方法ではないかなあと。
被害者側には犯罪被害によって経済的苦境に陥るというのも実際ありますし、
まあ、それでもいいんですけどね。ただ、当初の目的は被害者のために何かすること、
犯罪被害から立ち直るたしすることですから、方法はお金以外にもいろいろあるかなあと。
いつも書いてることですけど、起訴や裁判の状況を被害者側に伝える、裁判や
報道で意見を述べる機会を与える、といったところはすぐに思いつくのですが。

あと、髭さんが紹介してくれた付帯私訴の解説記事ですけど、これリバータリアンの
人が国家という枠組みがなくなったらこんな制度も必要だよなあ、という感じで
書いてますよね。それで、紫煙狼さんも刑事裁判が被害者(市民)のためではなく
国家のためにある、というのが議論の出発点になってますよね。そういう観点で
考えると、国家が関わらざるを得ないような大掛かりな制度というのはどうなんすか?
そういう国家Vs.私人というような視点からの提案としてはいまいちかなあと思うのですが。

1909無精髭:2008/08/13(水) 21:08:08
附帯私訴で被害者や遺族の感情が癒されるかどうかは未知数ですよ。民事での
勝利だけでは癒されなかった被害者なり遺族なりが刑事判決に満足がいかない
として、世論や民間団体を通して加害者に対し厳罰を求めるということは
考えられるわけですし。シェンロンさんご提唱の代替刑が実施されたとしても、
同じ事態になる可能性はあって、もしかしたら犯罪被害者団体が中心となって
死刑を復活せよという運動が生まれるやも知れません。

それでも私は、附帯私訴制度は死刑を廃した後に導入されるべきだと思うのです。
附帯私訴に似た制度は日本でも今年中に施行される予定とのことですので、
こんな事を申すのはもう遅いかも知れませんが、いまだ死刑が極刑として
残ったままその制度が導入されることになりますと、今さっき申しましたように、
被害者や遺族が民事を超えて刑事にまでその発言力を強めるであろうことは
確実なので、そうなった場合の社会的影響の大きさを考えますと、死刑も
また、以前にも増して揺ぎ無い制度として国民に支持され続けるのでは
ないでしょうか。死刑が犯罪被害者等の感情慰撫として最良の手段である
という認識をとにかく覆してからでなければ―――その認識は犯罪被害に
遭った者が己の感情に対する認識を変えない限りはその者にとって真実だと
思いますし、本当は変える必要もなく、変えてしまうことは非常に酷なこと
とも思われますが―――死刑廃止など夢のまた夢なのかも知れません。

まあ、上記のような事は私の妄想なので、余り真に受けないで戴きたいのですが、
私が申し上げたい問題とは、遺族感情慰撫の為の手段として、加害者の死を
超えるものが他にあるだろうか、ということです。せっかく片付いた問題を
蒸し返すようで恐縮なのですけれど。しかし、「刑事裁判が被害者(市民)の
ためではなく国家のためにある」(Ken)というシェンロンさんの正論が
国民によって受け入れられ、当然視されなければ―――つまり国民全体の
良識とならなければ、私でなくとも犯罪被害の当事者が本心から問題を蒸し
返すことでしょうね。その遺族感情が社会道徳的にどんなに間違ったもの
であれ、その真の姿が怨恨感情であろうとも、私個人としてはそれを否定的に
捉えることで、犯罪被害者なり遺族なりと対立したいとまでは思わないです

1910無精髭:2008/08/13(水) 21:31:06
う〜ん。思考力が著しく低下しております。

>>1903で問われている件については、とりあえずこちらでの議論が一段落した後にでも、
改めて別のところで議論してみたいものですね。

>罰の内容にもよりますが、罰を受けること自体は贖罪にも何にもならないのですよ。

この辺りは本当に重要ですよ。どんな時でも賞罰を考慮に入れて生きている人間、
つまりある種の功利主義者は、道徳的良心を持つ人間と言えるでしょうかねぇ。
まぁ都合により詳論は出来ませんが、道徳的な問題についてはシェンロンさんとは
アプローチの仕方が若干異なっているように感じますので、もしかしたら意見が
対立する部分もあるかも知れませんね。でも、そんな事は本質的な問題じゃないでしょうが。

1911入江:2008/08/15(金) 12:10:44
お待たせしているところ申し訳ありませんが、なかなか時間が取れません。
お話はどんどん先に進めてくださって構いません。

でもせっかく待っていただいているのが嬉しくて、ちょこちょこと書いてみました。
確かに完全イコールの同害報復で身体で支払えるのは一人分の生命しかありませんね。
親子持ってきたのは失敗でした。失礼しました。

同程度害報復を金銭でもって行う。これいいかな、と一瞬思いましたけど
ビルゲイツなら何人か殺しても日常生活に支障をきたしそうにないですね。
むしろ罰になるのか?ってなもんです。
逆に貧乏人は何人殺しても最終的には寿命でバックレられるし
圧倒的に貧乏な人のほうが多いから
国庫負担の意味では死刑の方が確実に安いので、導入はありえないでしょうね。
税金増やして被害者救済、実に聞こえがよろしい。でも、これもやっぱり偽善じゃないですか?
払えない人が第二第三の犯罪を引き起こす可能性のある制度って正しいんですか、と。
仕事が腐るほどある時代には強制労働も贖罪として有力だったけれども
失業者のあふれる現状において、犯罪者に仕事のパイを奪われるのは正直望ましくないと思われます。
…犯罪者なんかにゃ仕事を与えるのももったいない(これは完全な私見ですのでスルーでお願いします)

民事訴訟を先に行う。実に慧眼です。でも危険すぎます。
借金おっかぶせたいムカツク誰かをあらかじめ監禁しといて、
例えばその人に強盗された、強姦されたと泣いて出ましょう。
その人を民事訴訟完了まで監禁し切っておければ、
ウソ被害者は生涯遊んで暮らせるお金を得られますね。
あとは海外にでも高飛びして名前を変えれば国家相手の完全犯罪完了です。
あ、監禁じゃなくて殺して埋めちゃえば高飛びもいらないか。
洒落にならない制度ですよ、これ。加害者という名の被害者が大量発生です。

1912入江:2008/08/15(金) 12:11:04
>>1879-1881は私も感銘を受けました。最後の5行がなければ完全に白旗揚げていました。
でも、「同類犯罪発生助長未遂罪」なる未遂罪は死刑に値しないと仰る。とんでもないことです。
であれば内乱罪および外患誘致罪が未遂でも死刑なのはおかしいですか?
国家に対する極めて重大な犯罪です。やろうとしただけで悪いんですよ。
「同類犯罪発生助長」は、言い換えれば、たった一つの犯罪から数多くの模倣犯を生んでしまうということです。
未遂であっても死刑として、みせしめとして裁くに十分値すると私は思うのです。
それは数多くの生まれ得る模倣犯を抑えるために必要な予防法であり、
かつ>>1879-1881で仰っていた国家としてのスタンスにも叶うものだと考えます。

恨みについては…ちょっと咀嚼させて下さい。
ルサンチマンという言葉について理解が足りないので調べて考えてみます。
個々人の言葉の使い方の問題なので、私が納得すればいいだけなんですけれどね。

ついでで済みませんが無精髭さん、
>日野OL不倫放火殺人事件スレッドで、Jackal氏に執拗に食い下がった入江さん
これ、私は逆だと思ってますけど(^^;
一人で頑張ってたのはJackalさんだった気がしますよ。
ああいう、言われてやっただけだからオレ悪くないみたいなスタンスは最高に嫌いなので(笑)
できるだけ公平であろうとちょっと丁寧にお話させていただきましたが。
そういえば「贖罪は自覚の問題」っていうこちらで今言われている話題ともリンクしますね。

私としては、自覚して反省しうる犯罪者と、死にたかったんだざまーみろって言い放つ犯罪者を
どう仕分けるかにかかってくるような気がします。現在の話題とずれていたらすみません。
第一級殺人だったら激しくみせしめに、第二級だったらひっそり絞首刑、第三級は無期懲役
みたいな仕分けは日本では難しいものでしょうか。
このあたりKenさんにお伺いしてみたいです。

1913紫煙狼:2008/08/15(金) 13:46:16
>>1911
>同程度害報復を金銭でもって行う(中略)ってなもんです。
刑事罰の代替として支払うのではなく、民事賠償として支払うのであり、
もちろん、国家の治安に対する犯罪として刑事罰にも服してもらいます。
よって、以下 >国庫負担の意味では(中略)正直望ましくないと思われます。
は、民事賠償のために働かせることと刑事罰として働かせることを履き違えられているので、
敢えて私から言及する必要を感じませんが。

>でも危険すぎます(中略)加害者という名の被害者が大量発生です。
これは詐欺罪ですよ?どちらにせよ、犯罪被害救済のために犯罪を利用するという理論は
保険金目当ての殺人や、保険金詐欺が横行している現状から、皆無とは言いませんが、
そういう犯罪も然るべく断罪すればよいだけではありませんか?

まして「お金がかかるから導入はありえない」ということは…。
被害者に国家が金銭的な助力をするのは財政的に困難である。
加害者を殺してやるから我慢しろ!ってことですね。
貴方の死刑論も被害者の立場は深く追求しないことで成り立つわけですね。

まぁ、時間はたっぷりあります(^^)

1914Ken:2008/08/15(金) 13:56:26
米国では処刑は一部の人には公開されてますけど、みせしめのための公開処刑は
さすがにとうの昔に禁じられてるんで...。

死刑は立派な制度で政府にもやましいところが何もないと言うのであれば、日本でも、
たとえば遺族とか、見たい人には見せればいいのと違いますか。

1915紫煙狼:2008/08/15(金) 14:07:05
>>1912
>「同類犯罪発生助長未遂罪」なる未遂罪は(中略)十分値すると私は思うのです。
なるほど、言わんとするところはわかります。私の表現がまずかったですね。

外患誘致や内乱は「その故意がなければ未遂も成立し得ない」罪です。この場合の故意は確信的な
故意を指し、過失や未必の故意などは含みません。過失で外患誘致してしまうなんて有り得ますか?
「外患を誘致すること」や「内乱を起こすこと」を目的として行動するから、未遂罪でも厳罰に
値するというのが適切な解釈ではないでしょうか?
従って「同類犯罪発生助長未遂罪」が厳罰に値するには「同類犯罪の発生を助長する確信的故意」が
成立要件とならない限り、厳罰に処すことはできないと思いますがいかがでしょうか?

そういう意味では「犯行上過失致同類犯罪発生助長未遂罪」ですかね(笑)
これが死刑に値するというのは価値観の違いですから言及する意味は有りませんが、
どちらにせよ、とにかく死刑にしたいだけですよね。誰を救うとか、そういうの、ないですよね。
ただ、悪者を排除して苦しめて殺すのが気分いいってだけですよね。理論武装の必要ないですよ。
むしろ武装すれば武装するほどウソが垣間見えてしまう。。。

時間はたっぷりあります。

1916紫煙狼:2008/08/15(金) 15:19:50
「時間はたっぷりあります」の真意が伝わるように補足しますね。

結論から言って「死刑は簡単には廃止されない」という事です。それは死刑賛成論の方が日本国民の大多数である、
ということとは殆ど無関係で、日本国は「死刑を廃止するよりも先に片付けるべき問題が山積み」ということです。
私を含め皆さんも、死刑云々より先に、まずは景気を回復させろ!とか、官僚による天下り先量産による膨大な
額に上る無駄遣いを何とかしろ!とか、ガソリンをもっと安く!とか、今この瞬間に自分が遭っている憂き目の方が
確実に間違いなく優先順位が高いわけです。

極端な言い方をすれば、じっくりと腰をすえてあらゆる側面から考えた結果として死刑に賛成している人は国民の
1割未満。同じく反対する人も1割未満。考えた結果としてではなく感じた結果として賛成する人が7割、感じた
結果として反対する人が1割。そんな配分でしょう?私が味方に付けるべきは、この7割の方々ですが、この方々が
死刑制度について何かを考え直す必要性が発生するタイミングは「凶悪な犯罪が発生したとき」もしくは、
「死刑執行された元死刑囚が冤罪だと判明した場合」ですからね、世論が死刑廃止に傾くなんて杞憂ですよ(笑)

既存の制度を変更するというのはね、これは大変なことですよ。
労力も必要だし、変更のためのコストもかかる。そこまでして凶悪犯を救う必要なんてありゃしないわけですからね。
死刑賛成の人なんてのは何も努力する必要はないわけですよ。代替制度を考える必要もない。そもそも、今の制度に
不満があるとしたら「もっと、どんどん死刑を執行するべき」とか「もっと死刑の適用範囲を広げるべき」なんて
話であって、死刑が廃止される不安に打ちひしがれる必要はないわけですよ。
それこそ、せいぜい「国連が日本の常任理事国入りの条件として死刑廃止を受け入れること…」なんて馬鹿げたことを
言い出さないように目を光らせていればいいだけなんですよ。あとは菊田某みたいな「ウザい糞厨房追い払う」とか
「出る杭は打つ」ために黙らせる程度の力配分で充分なんですよ。それで安泰なんですよ。その証拠に、街角で、
「死刑反対のための署名運動」と「死刑存続のための署名運動」ではどちらが多く見かけますか?ね?

つまり、死刑制度が存亡の危機に見舞われているわけでもなければ、そうなりそうな兆しもない今、
死刑反対の輩を叩き潰すための名論理を考える時間は腐るほどあるわけですよ。あせる必要はありません。
ならばこそ、底の浅い安易な死刑存続論・死刑賛成論ではなく、練りに練り上げ熟成された極上の死刑賛美論で、
アタシの腐った根性をひねりつぶしてほしいのですなぁ。。。

1917無精髭:2008/08/16(土) 00:45:50
入江さん

「ルサンチマン」という言葉に引っかかってしまったようですねぇ。深いですよぉ〜、この言葉の意味は。
もう既に色々とお調べになっておられるかと思いますので、野暮な説明は致したくありませんが、
皆様もご承知のように、「ルサンチマン」はニーチェ哲学の重要概念の一つですね。で、これは非常に
複雑怪奇・難解晦渋な概念なので、私如きにゃ〜体系的・整合的な解説は、正直申して絶対に不可能です(苦笑)。
もし根気がおありでしたら、ウィキペディアの「ニーチェ」の項目から「ルサンチマン」とか「道徳」などの
キー・ワードを拾い上げて、それらを手掛かりに色々と検索して見て下さい。本当は、それよりもニーチェの
入門書なり基礎的な解説書なりをお読みになった方が好いかも知れませんがね。しかし、原著に直接当たってみる
ことは余りお勧めできませんが...翻訳に余り良い物がない、ということも理由としてありますが。ニーチェも、
アフォリズム形式を多用しているとは言え、一応哲学ですから、非常に観念的ですし、言い回しは冗長だし、
だいたい態度が尊大すぎて鼻につきすぎる、といった理由から好き嫌いが分かれますのでね...。思想としても、
とてもじゃないですが、一般受けし得ない・悪趣味なものですからねぇ、入江さんのような御仁には、悪(?)の
道に染まって欲しくはないのですよ(冗談)。世の中には、公言できないような真理(正しいけど言っちゃいけない
こと)―――真実の認識というものがあります。それは同時に、現実にはあってはならないこと・個人ではやっちゃ
いけないことでもあります。はっきり申すと、そんなことをずけずけ言っちゃう変態なんですよね、ニーチェって。

まあ、ニーチェのことなどはどうでも宜しい(但し、私の拘る「同情」について、他の追随を許さぬような、
極めて穿った(毒のある)洞察が、彼にはありますが)。

私がルサンチマンと申したのは、今思えば軽率だったとも思われますが、しかし、シェンロンさんも>>1882
犯罪被害者なり遺族なりが加害者の死を望むことを「恨み」と一括しておられますように、どんなに美辞麗句で
粉飾して見たところで、被害者感情の根底には社会道徳に反する、余りに私的な怨念と申すか、何かどろどろとした
黒ぉ〜いものも厳然とあるのが分かります、悲しいことに。「人間は感情無しには生きられない」と仰った方が
いらっしゃいましたが、正に至言でして、感情の中には社会性のあるものばかりでなく、恨み辛みや妬み嫉みといった
ごく個人的なものもありますので、そういったものも含めて「人間は感情無しには生きられない」のです。要は、
生きる為に必要なんです。その者のパーソナリティーやアイデンティティーはそれなしにはあり得ないと言って好いほど、
それらを背後から支えているものなんでしょう、きっと。とは言うものの、まぁ、絶対にそうだという根拠などはなく、
個々人が各々で自覚するしか確かめようがないのですが。私の場合、当て嵌まりますけど。

1918無精髭:2008/08/16(土) 01:17:30
ニーチェなら犯罪被害者のそのような復讐心を弱者による嫉妬心として位置づけるでしょうね。この場合、
犯罪者は(相対的に)強者になるというのが、ニーチェ哲学の最低なところですけどね。

被害者サイドは加害者に対して極刑を望むのは当然であるという、私にとっては何故だか良く分からない傾向が
世間一般的に認められているようなので、今度は死刑が自分たちの住む国では極刑だから被害者サイドがその判決を望むのも
同じように当然であるとされているようです。私たちは別に加害者への私的復讐を国家に代行してもらおうと思っている
訳ではなく(つまり怨恨感情など抱いてはおらず)、ただ加害者を厳罰に処することがこの国の正義であるからである、
と被害者サイドが言うのだとしても、やっぱり正義感よりも復讐心の方が本心であって、それを道徳とか常識を持ち出すことで
必死に覆い隠そうとしているのではないかという批判的解釈が成り立ってしまう以上、そのせいで自己の主張を偽善的に
正当化しているというふうに見られもするでしょうから、結局死刑制度を個人における復讐ではなく社会における正義なのだと
言い換えるのも、自己否定としては不味いやり方ではなかろうか、と思われるのです。

あと一つ、アドバイスになるかどうかはわかりませんが、これからもシェンロンさんと指しで議論しようとお考えでしたら、
シェンロンさんの死刑廃止論―――つまり死刑代替刑導入論を部分的に叩いてもあんまり効果ないですよ(笑)。
多分そんなことをしても、せいぜいがシェンロンさんに修正を加えさせる程度のことしか望めないでしょう。それでは、
シェンロンさんの持説をこちらから補足強化してあげているようなものです(笑)。批判すれば批判するほど、
シェンロンさんの死刑廃止論は磐石であるかの観を呈するでしょうね。そこで、入江さんが知っておいて損がないと
思われる論点を、あえてこの場に提供させて戴きたく存じ上げます。もうご存知でしたら、御免なさい。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1211686553/126-138

唐突ですが、私が本来大して興味もない(>>1916で言われているが如き人間です)死刑存廃問題に拘るのは、
刑罰全般に関する疑問を除けば、犯罪被害者や遺族の感情慰撫についての問題をどう考えたらいいのかという
ことに集約されます。思えば、犯罪被害の当事者に対する同情問題やF氏との短いやり取りも、それが要と
なっていたようです。。。

入江さん。シェンロンさんのきつい(笑)切り返しには一々めげないで、根気よくやりましょう。「継続は力なり」

私も含め、こちらのみなさんは全員気が長い人ですから。「時間はたっぷりあります」

1919入江:2008/08/27(水) 21:31:22
確かに死刑廃止になる頃には私は死んでいそうですね。
のんびり一つづつ考えていくことにします。

>極端な言い方をすれば、じっくりと腰をすえてあらゆる側面から考えた結果として死刑に賛成している人は国民の
>1割未満。同じく反対する人も1割未満。考えた結果としてではなく感じた結果として賛成する人が7割、感じた
>結果として反対する人が1割。そんな配分でしょう?
そう思います。この7割に、秋葉原事件が起きた直後に
「今のままじゃヌルいから、刑罰、ちょっと残酷にしちゃおっか?」
って聞けば、なんだかんだで8割くらいの人には賛成を得られそうですもんね。
それはなんだかあまりに衆愚政治なので望むところではないかな。

ただ、私の死刑賛成論にそこまで美しい理論構成はないです。
出来る限りシンプルであろうと努めているので変化がないといわれてしまうのでしょう(^^;
まぁ、ここで個性を出すには簡潔なのが一番ですから(笑)

というわけで、まず一件確認させてください。
前に書いたことですが、特段話題にあがっていなかったので。
「自覚して反省しうる大多数の犯罪者と、
 死にたかったんだざまーみろって言い放つ少数の凶悪犯罪者は
 同じ扱いをするべきか否か」
です。これを切り分けることは制度的にはそこまで難しく思われませんがいかがでしょうか。
ここでいう「扱い」は現行法上での話でお願いします。

私にとってはこの論点がスタートなので、ここで躓いているのなら走る前から棄権です…
お手数をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします。

1920紫煙狼:2008/08/28(木) 02:24:24
>>1919
>「自覚して反省しうる大多数の犯罪者と、
> 死にたかったんだざまーみろって言い放つ少数の凶悪犯罪者は
> 同じ扱いをするべきか否か」
自覚して反省しうる大多数の犯罪者は、反省しうるのですから殺す必要はないですよね?
本人が「死ぬことでしか償えない」と思うなら死刑にならなくても自殺するでしょう?

死にたかったんだざまーみろって言い放つ少数の凶悪犯罪者は死にたがっているのだから、
殺してあげたら却って喜ばれますよね?喜ばせてあげたいですか???
津山30人殺し事件を見ても判るように、死ぬ覚悟が出来ている人間が犯罪を犯すとすれば、
死刑の有無は何の意味も持ちませんよね?「死刑で死にたい」という選択肢がなくなるだけで
自殺の覚悟を持って殺人に走る輩を思い止まらせる術も、反省させる術も我々にはないですよ。
むしろ、死刑さえなければ「自殺する勇気はないが死刑を厭わない犯罪者」は減るかも(笑)

途中経過(監獄内ですごす時間)に差は有れど、結局同じ扱いをするしかないでしょう。
現行法制上、無期懲役ってのは「死ぬまで仮釈放しない」という選択肢もあるわけですし。

逆に、何をやっても死刑にならない世の中を考えたら自分が死にさえしないなら、好き勝手に
凶悪な犯罪を犯すヤツが増えるだろう…って意見は根強いですよね。ただ、こういう人物は、
自分が犯したことが犯罪であるという自覚のある人間だから、逆にまだ矯正のしようがある。
別に殺さないってだけで、何も牢獄で安楽な生活をさせるツモリもサラサラありませんから。
長い時間をかけて矯正教育を施せば反省を引き出せる可能性は充分にある。

むしろ問題は宮崎元死刑囚のように「自分が犯した行為が犯罪である」という認識を持ち得ない人物。
悪いことをしたという意識がないから反省しない。かと言って、自分が死ぬのは絶対に嫌な犯罪者。
でも、実際に宮崎元死刑囚には死刑による犯罪抑止効果は全くなかったのですよね?
自分は死にたくないくせに、死刑判決が出てもおかしくない犯罪を犯す人物ってのが厄介ですね。
「自分は絶対に死刑にならない」って思うこと自体、不思議で仕方がないのですが、宮崎元死刑囚の
場合は「悪いことをしていない」ツモリだから、そりゃ、死刑になるなんて思わないわなぁ…。
で、宮崎元死刑囚は実際に処刑されたわけですが、処刑の恐怖を前に反省したかというと、
これまた、反省の「は」の字も引き出せなかったわけで、まさしくつける薬なし。。。

でも、そういう完全不良品だから破壊して構わない…という問題でもないと思うのですよ。

1921紫煙狼:2008/08/28(木) 02:43:15
入江さんね、前に「盲目の人に色を理解させることが出来るか?」って書いていましたよね。
表現が適切か不適切かはサテ置き、貴方のおっしゃるとおり、そりゃ不可能ですよ。
唯一の方法は「目が見えるようにしてあげる」ってことでね。

ここからは逆説的な話になりますが…。
幸せな家庭というものを味わったことがない者には、幸せな家庭を壊される辛さが判らない。
バナナの美味しさを知らない者には、バナナを取り上げられた悲しみや恨みが判らない。
生への執着がない者には、死の恐怖がわからない。
単に、家庭を壊したり、バナナを取り上げたり、命を奪ってみたところで、
実際のところ、何がどうマズかったのかわかる訳ないと思うのですよ。

まぁ、過去の経歴がばれたら決して実現しないだろうと思うような話ですがね、
酒鬼薔薇君も今やお年頃ですよ。もしかすると奇特な女性と恋に落ちるかもしれない。
上手くいけば結婚できるかもしれない。やがて子供が生まれるかもしれない。

確かに、彼に殺された子供達の事を考えると、そういう人生を彼が送ることは
我々の感情の中で決して快いことではないかもしれませんがね、
でも、彼が自分の行いを本当の意味で自覚して後悔して苦しみ始めるのは、
自分の子供を抱いて、親の愛情というものを自覚してからだと思うのです。
そして、自分が過去に行ったような犯罪が時折発生して、自分の子供が殺されたら…、
自分の子供が自分と同じ道を進み始めたとしたら、その恐怖におののき始めた日から、
その心配に身をやつし始めた日から、彼の本当の意味での贖罪の日々が始まるのだと
私はそう思うのですよ。

某宗教で「奪われたら与えなさい」ってのがあるでしょう?
あれってそういう意味だと私は解釈しているのですねぇ。。。

1922無精髭:2008/08/28(木) 20:57:00
>>1921
シェンロンさん...。
何で、それをもっと早く私たちに言ってくれなかったんですか!
「やけに宗教家的な発言じゃありませんかぁ」っていう皮肉も言えない位、
素晴らしい意見じゃないですか。

でも、現在のこの世にある全ての刑罰にシェンロンさんの思想が反映される
日が来る事はあり得ないだろうなぁ、と思う位、私はニヒリストな訳ですが。

1923紫煙狼:2008/08/29(金) 00:26:33
>>1922
抹香臭い話は嫌いなのさ(笑)

こういう感覚的宗教的な話というのは理詰めよりも拒否反応も誘発しやすいので、
可能な限り排除して話を進めないと「犯罪者が幸せになるのは正義に反する」って
絶対に言い出すでしょう?犯罪者は不幸な日々を慎ましやかに生きる程度の権利しか
持ち得ないってのが大半の人の意見でしょう?それが世間でしょう?
出所してきた犯罪者には石を投げる。刑事で裁けないロクデナシには石を投げつける。
犯罪者を出した家族は一族皆迫害を受ける、犯罪者の子供は幸せを掴む権利を奪われる。
それが皆さんの大好きな日本でしょう?そうやって治安を守っているのでしょう?

だから、言っても空しいのですよ。犯罪者が再犯する理由の一番は
「償おうとまじめに頑張っても決して世間が認めてくれない」ですよね。
それを皆知っていて、そこに「認めてもらおうなんて百年早い」と塩を投げつける
それが我々でしょう?元犯罪者を苛め抜いて再犯させる仕組みを好む民族でしょう?
正直に言って、私にはそういう傾向があるわけですよ。だからこそ、私が口にするのは
自分を棚に上げているようで嫌なんですなぁ。。。

1924無精髭:2008/08/29(金) 00:45:46
>>1923
私にだって仰るような傾向があるのを否定出来やしません。
「偽善者」という意味は良く分からないのですが、
多分、私はそう非難されても仕方がないほど、
言動不一致な人間でしょうね。

しかし、そういった自らの性向に自覚的であるのと、
無自覚的であるのとは、やはり異なるものなのだと
信じていたいものです。

1925入江:2008/09/02(火) 16:18:00
残酷云々は気にしないで、って書いたんだけど…まぁ言い出しっぺが言える立場じゃないですね(^^;
二種類の犯罪者を区別すべきか、という問の意図を下記に述べます。

性善説、性悪説というくくりがありますが、
私は性善説・性悪説の両方を否定しません。どちらかが居ないということは有り得ないと思う。
慈悲によって贖罪の道に入り得るのが前者、慈悲を利用して更に喰い漁るのが後者、と私は認識しています。

紫煙竜さんは、後者を否定し、全ての者に慈悲によって贖罪の道が開けるという意図を述べられました。
(非常に抹香臭い表現になってしまってすみません、さっくり書くとそういうことなので)
私はそうでない者が一定数存在するし、最近更にその数を増やしているとも思います。
バナナを食べさせて「まずくて食えたもんじゃない、だからみんな要らないよね」って言う人、いますよね。
自分の子どもを抱いても、自分に注がれた事のない愛情は自覚できるとは限らない。
虐待の輪廻起こして実子を殺したりしたら?
「見えるようにする」ために瞼を切開しても、視神経がやられていれば、見えないものはやっぱり見えない。

なので、次にお聞きしたいのは
「死刑廃止の論拠は性善説にあり、
 死刑存続の論拠は性悪説にある。」
このスタンスについてご意見をお願い致します。
飛躍してないか心配なため大層まどろっこしくてすみませんが、一歩一歩、でお願いします。
できれば性善説・性悪説について、紫煙竜さん以外からもご意見を頂きたく思います。

1926入江:2008/09/02(火) 16:18:24
ちなみに宗教と罪に絡む私見を書かせていただきます。(大風呂敷すぎますかね…(^^;)
不勉強なので違っていたらご指摘下さい。

贖罪というものは、仏教圏では絶対に一生終わるものではありません。
キリスト教圏では懺悔すると贖罪のための方法を示され、
それを行えばその罪について許される、という一定の筋道が存在しますが
(もちろん贖罪の方法にも色々あるでしょうが、基本的には同じ人間(聖職者)が決めていますね)
仏教圏において罪を許すのはあくまで仏様サイドの話で、
庶民からしてみれば、どうやったら許されるかは一切不明です。
とりあえず現世で頑張りなさい、というおぼろげな指示があるばかり。
「償おうと頑張ったのに!ごめんって言ったじゃん!」って言われても
そんなの知らんよ、俺たちだって頑張ってるのに八つ当たりすんな、と思うのが仏教圏の庶民。
昔の刑罰が一生消えない刺青だったりする国は、基本そういうメンタルなのではないでしょうか。
犯罪者の子どもに対する迫害は、過剰な集団心理のなせる業で大変恥ずかしいことだと思いますが、
そのような自らの性向全体そのものが恥ずかしいことなのか?と問われれば、それは違うと思います。
それが現在の、キリスト教圏で生まれた法制度や正義という概念と矛盾するものだとしても。

罪を許すというスタンスは日頃の修業の高みからの、貴重な大きな言葉です。
それでも私のような庶民は、やっぱり悪いことした奴には塩をぶつけます。
「償おうと頑張ったのに!」は再犯の理由になどなりえない、と。

法が世間の感覚と乖離するというのは、もしかしたらこのあたりも関わっているのかもしれませんね。

1927Ken:2008/09/02(火) 21:48:00
キリスト教的な赦しは仏教にもありますよ。髭さんが挙げた親鸞の悪人正機説とか。

1928入江:2008/09/02(火) 23:18:43
ありましたね。ですがそれもやはり救われるのは死んだ後の話ですので
文意には反しないと思います。

1929紫煙狼:2008/09/02(火) 23:50:57
私自身は、人の性が善であるとも悪であるとも考えていません。むしろ犯罪者の多くは
入江さんの仰るとおり、慈悲を利用する輩の方が多いかもしれないと思いますよ?

人というのは非常に可塑性に富んだ素材です。
つい先日まで善人であった者が、何らかの理由が重なれば罪を犯す可能性があるように、
今、悪人である者も、何らかの条件がそろえば善人になる可能性を否定できません。
それは生来が善であるとか悪であるとか、あまり関係ないように思うのですね。
そういう意味で、死刑存廃と性善・性悪説を絡める理由は私には理解できません。

逆にお伺いしますが、
「慈悲を利用し食い漁る人間は牢獄に閉じ込めておけばいい」ではなく
「慈悲を利用し食い漁る人間は殺してしまえ」と飛躍できる理由が知りたいです。

1930入江:2008/09/04(木) 22:05:16
なるほど。了解しました。
他の方のご意見も伺ってみたいです。

紫煙狼さん(先日はミスタイプ大変失礼いたしました!)の質問に回答します。
閉じこめても何の役にも立たないからです。効果ゼロ。
むしろ無駄飯食いだからマイナスですね。

殺すことで何らかのプラス効果を生むか、プラマイゼロなら殺す方がよいし、
明らかに閉じこめるよりマイナスの効果しかないならば
閉じこめておくべきでしょう。

紫煙狼さんはやはり、それが加害者だとしても命が失われることが
何よりマイナスだとお答えになるのだろうな、と思います。
ただし、それも「生きていれば何かいいことがある」という理念によるものです。
一生を獄に繋がれることが確定した(それが絶対翻ることがない)者に対しても
同じことを言えるだろうか、と私は思います。

1931入江:2008/09/04(木) 22:24:10
そういえば、言い忘れていた気がするんですが
私は従来の無期懲役(釈放有り)とされてきた人たちについてまで
死刑を適用すべきだと言っているわけではありません。
あくまで、従来居なかったパターンの凶悪犯について論じています。
念のため。

1932紫煙狼:2008/09/05(金) 01:44:18
>>1930-1931
2点ほどお聞かせください。

>何の役にも立たないからです。効果ゼロ。
何の役にも立たない…というのはどういう意味でしょう。

「植物状態」と呼ばれる怪我人や病人は「奇跡が起こる可能性を信じて」
命の灯火消える日まで看病することにやぶさかではない筈ですよね?
つまり身動きも意思疎通も出来ない方々より、凶悪犯は役に立たない…。
そこで指す「役に立つ」の具体的内容をお教え願えれば幸いです。

ちなみに私自身は「役に立つ・立たない」という観点がないので、
「植物状態の方々」も「更生不能と思われるような凶悪犯」も、
「奇跡が起こることを信じて」看病・教育することにやぶさかではありません。

次に、
>従来の無期懲役(中略)凶悪犯について論じています。
その中間、従来、死刑とされてきたような凶悪犯についてはいかがお考えですか?

以上2点、お答え願います。

なお…、既にお気づきと思いますが、入江さんが列挙なさるのは全て
「殺しても良い理由」でしかなくて「殺さざるを得ない理由」ではありません。

「殺しても良い理由があれば殺すべき」という論理は「殺しても良い理由」が
圧倒的大多数に支持されることを前提に殺人すら正当化できるという論理です。
つまり圧倒的大多数のドイツ人に支持されれば「ユダヤ人であること」が
「殺しても良い理由となり得る」事を否定できない。幸いにして、ドイツ人より
他の国々の人々の方が多く、それらの人々にとってユダヤ人であることは
「殺しても良い理由となり得なかった」だけの話であり、これを置き換えると、
日本以外の全世界の大多数の人々にとって「日本人であること」が「殺しても良い
理由となり得る」場合(日本人であること即ち犯罪と世界の大多数の人々が認めた場合)
日本人を虐殺することすら正当化される…ということですね?

私は「殺さざるを得ない理由」がない限り、殺人を正当化してはいけないと考えます。
(例えるなら正当防衛の如く、緊急避難的措置が死に至らしめてしまった場合ですね。)

1933紫煙狼:2008/09/05(金) 13:49:41
昨夜は眠かったので少々中途半端な投稿となってしまいました。
おそらく>>1932だけであれば「正当防衛」という理由は「人を殺しても良い理由」なのではないか?
という反論を充分に考慮すべきものであり、結果、紫煙狼も「殺人を正当化しているではないか?」との
誤解を生じさせても仕方のないものであったと考えます。この点、補足させてください。

正当防衛というのは「急迫不正の侵害」に対する「不可避の防衛行動」であることを前提に違法性が阻却されます。
従って、武器を持たない小学生の男の子が、世に名だたる有名格闘家に対し「殺してやる」と言って飛び掛ってきても、
「強い殺意に生命の危険を感じ、不可避の防衛行動として小学生を返り討ちにし死に至らしめた」場合は、
論ずるを待つまでもなく明白な過剰防衛として傷害致死などが適応されなければなりません。
(この小学生が、こともあろうに強力な武器で武装していた場合は、その限りではありませんが(笑))

つまり「他の方法を講じるだけの時間的余裕がない」場合を「急迫」と表現し、その限られた時間内で選択された
方法を「やむを得ずにした行為」と規定すればこそ「その行為」とそれに伴う「行為の結果」の司法性が阻却され
刑事的に不可罰となる。その条件がそろえば「相手を殺しても良い」のではなく「相手が死んでしまったとしても
刑事責任を問うべきではない」というのが私の解釈です。

このように、私は「人を殺しても良い理由は存在し得ない」けれども「殺さざるを得ない状況」は存在しうる。
と考えていますので犯行の現場において警官が犯罪者を射殺することまで否定するものでは有りません。

あくまで「武器を奪われ、社会とは隔絶され、無力化され、裁判に出廷している犯罪者」に対し社会は「急迫」という
状況下で「やむを得ず」死刑を宣告し処刑するのであるか?が私の争点であり、これが正しいとするのであれば、
死刑が執行されるまで急迫の状態が継続していると考えるべきで、それであれば一刻も早く処刑しなければならない。
実際は公判が開始されたときには急迫の状況は既に解消しているのだから、死刑は「やむを得ずした行為」とは
認められないというのが、私の考えです。

1934無精髭:2008/09/07(日) 15:33:32
>>性善説・性悪説について

Kenさんが親鸞の悪人正機説を例に出して、それを私が挙げたと仰いましたが、私がそれ
に言及致したスレッドは、>>1918で挙げさせて戴いたスレッドと実は同じなんです。
もうご承知かも知れませんが。で、そこでの人間魚雷氏との遣り取りで、性善説と性悪説
について少し触れておりますので、挙げさせて戴きますね。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1211686553/119-124
何を以って善・悪となすか、この定義を無視しては性善説・性悪説は論じられないと思います。
あと、その二つの説のいずれをとるかによって、とられなかった方の説は説としての有効性を
失くし、人間の本性として見做されたものと反対の概念だけが後天的或いは経験的に(総じて
アポステリオリに)与えられるものだとか、若しくは環境因子として人間の外部に残されるの
です。性善説をとっても性悪説をとっても、相も変わらず、善悪二元論が疑われないのは
(善悪と言う枠組みが尚も有効であるのは)言うまでもなく、二つの内のどの説も、善悪
二元論における両概念の定義を前提にすることで、初めて主張できる類のものだからです。

1935無精髭:2008/09/07(日) 15:33:56
その二つの説が別々に一元論を目指すものだとしても、二元論的な倫理観を前提としている
以上は、両方とも完全な一元論とはなり得ないのでしょうね。但し、どちらかを選択すること
によって、人間の本性が善であるか悪であるかは、話の上ではとりあえず決まるのですから、
一度、その二つの内の一つを人間の本性として選んでしまったら、残り一つに関しては本性に
組み込むことを断念しなければならないでしょう。そこで、唐突なのですけど、>>1925での
入江さんの発言で気になったことに、

>性善説、性悪説というくくりがありますが、
>私は性善説・性悪説の両方を否定しません。どちらかが居ないということは有り得ないと思う。
>慈悲によって贖罪の道に入り得るのが前者、慈悲を利用して更に喰い漁るのが後者、と私は認識しています。

この部分。特に2行目に関してですが、人間の本性が善悪のいずれであるかを決めなければ、
性善説とも性悪説とも言えないのでして、それでも「両方を否定しません」とか「どちらかが
居ないということは有り得ないと思う」と仰るのは、一体どういうことなのでしょう?
我ながら陰湿な揚げ足取りをしているようにも思われますが、やっぱり入り江さんは性善説と
性悪説の両方を否定しないのではなくて、厳密に言えば性善説も性悪説も定義通りには信じて
いないのではないでしょうかね。だとしたら、失礼を承知の上で申し上げますが、余り意味の
無いご質問だったと思います。

但し、こう言ってしまうと当然返って来るであろう入江さんの反論を先回りして述べさせて
戴きますと、人間はそもそも生来において善悪が決まっている、ということが仰りたかった
のだと思います。勿論、遺伝的素質というものとは違う、人間が生まれてくる際に起きるで
あろう、もっと偶然的な事実(善か悪かの奇跡)を指しておられることと思われます。

1936無精髭:2008/09/07(日) 15:35:14
否、若しかすると、入江さんは人が生まれて来た後のことも考慮に入れることで、かなり広く
性善説若しくは性悪説を捉えておられるのかも知れません。つまり、俗に言う、「人間は3歳
までの環境・経験で全て(安直に言わせて戴きますが)が決まる」というような考えを取り入
れる事で、2つの説を両立させようとなさっていらっしゃるのではないかとお察し致します。
ただ、そうなりますと入江さんが考える「人間」とは、そもそも道徳的本性と言う観点から
すれば、普遍的なものではないということになりそうですが。だって、先のような決定論に
よって道徳的本性が後戻りが出来ないものとして形成されてしまうとされているのですから。
シェンロンさんが仰る可塑性が人間には認められないと主張しているようなものです。それが
優生学とか選民思想ではないのだとすれば、人間が生まれる前後のどこかの時点で、道徳的
本性に個体差がない状態が存在すること(即ちその点で各人に違いがなく皆同じであるという
こと)を指摘する必要がある筈です。でなければ、入江さんは普遍的人間像というものに
懐疑的であると考える他ありません。私としては、その理由を詳しくお聞かせ戴けるので
あれば、その現実性の有無など問わずとも、それでも好いと思いますけれどもね。何故と
言って、私自身が普遍的人間像とやらに懐疑的であるからです。

話が逸れました。私の勝手気ままな理解では、要するに入江さんは人間を贖罪という局面に
限って申せば、明確に2種類のタイプに分けておられるということで宜しいでしょうか?
多分、実社会での生活ではその区別は明確には現れないのでしょうね。

1937無精髭:2008/09/07(日) 16:44:06
・・・これまで味気ない話ばかりして来ましたので、最後に、この度の議論に関係して
面白いと思われました文章をご紹介致します。

1.仏滅上等:「死刑」と「仏教」http://black.no-blog.jp/hone0625fk/2007/07/post_d301.html
2.死刑容認の意見 http://homepage.mac.com/tuyano/iblog/C1653772498/E272651302/index.html
3.宗教と応報刑主義と自由意志と死刑制度に疑問 http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/sikei.html#soutai
4.悪は善である http://www.kit-rg.jp/rep2006/rep6.html
5.ニーチェであそぼ。http://www.geocities.co.jp/Bookend/6404/nietzsche.html

1.は議論の参考に。
2.と5.は暇つぶしに。
3.は特に「死刑への疑問」以下がおススメです。
4.は読む人を選ぶかも知れませんが、これもおススメ。

1938紫煙狼:2008/09/08(月) 01:05:11
>>1935
>厳密に言えば性善説も性悪説も定義通りには信じていないのではないでしょうかね。
それは多分、無精髭サンの方が定義を取り違えていらっしゃると思いますね。

そもそも、性善説・性悪説ともに、結論は同じで
「道徳的鍛錬・陶冶によって人は徳を積むことが出来る」という教えです。
ただし、その道のりに関して性が善であるからこうあるべき、とか
性が悪であるからこうあるべき、という別の道のりが用意されているだけであって、
可塑性を否定するのは先天論や運命論でしかなく「道徳的鍛錬・陶冶」の必要性を
真っ向から否定することにしかなりませんからね。

そういう意味では入江さんは「先天的もしくは運命的に変えようのない悪人が居る」と
主張しているわけで、可塑性を否定せざるを得ない人間が居ることを示唆しているわけです。

つまり、入江さんは人の将来の可能性を否定できるほど詳細に渡って見通す力を持っている。
凶悪な犯罪を犯したものが獄中で悔恨と反省の日々を過ごし、自らの罪を悔い改め、
手記にまとめたものが、多くの若者に善を目覚めさせるかもしれないといった可能性も、
試す前から「生かしておくだけ無駄」と言って切り捨てることが可能なほど、
世界でも類を見ないほど有能な占い師であるか、予言者なのでしょう。

え?そういう犯罪者は更生の可能性がある人だから本件から切り離す?

いや、死刑というのは可能性を試さない、もしくは一定期間内に成果が出ないなら、
その後の可能性を否定するかのどちらかであって、天寿を待たずして生命を奪う以上、
それは可能性を摘み取っているか、間違いなく可能性がないと未来を予言しているかの
いずれかでしかありえませんよ。それが正しいと胸を張って言い切れるのは、
「神から何らかの神秘的で絶対的な力を与えられた極一部の人」だけでしょう。

1939ぎい:2008/09/08(月) 14:46:32
単純な話なんだけどさ…
犯罪の被害者(殺されちゃった人)は、改心する必要もないし将来を奪われる謂われもないのに、すでに全ての可能性を失ってるわけで…
加害者の『改心する(かもしれない)善人になれる(かもしれない』生きる権利と、被害者の『改心するまでもない、加害者より善人になれる確率が高い』生きる権利を同等に比べてはいけないんじゃないかな?


もし加害者にやり直すチャンスを与えるなら、被害者にも当然そのチャンスを与えなきゃ不公平だよ。
しかし…被害者がやり直す事は出来ない。
ならば加害者もやり直す事が許されないのも仕方ないんじゃないかな?

被害者の損害を完全に回復出来ない以上、加害者は被害者と同等の損害をもって償いとするのはアリだと思います。

1940ぎい:2008/09/08(月) 15:04:46
追加です。

生きたいと願い、命乞いをする死刑囚を見殺しにしてもいいのだろうか…

いいんです。
何故なら、被害者も生きたいと願い、彼らに命乞いをしたはずです。
それを足蹴にして殺した加害者の言葉になんの意味があるんでしょうか?
命の尊さを知らない人間の命乞いを尊ぶ必要はありません。
まるで…被害者の命より加害者の命の方が尊いかのような誤解さえ感じでしまいます。
被害者の命ばかりか尊厳まで殺すのはやめてください。

1941無精髭:2008/09/08(月) 17:37:10
>>1939-1940
これは貴殿が>>1835から始まったここ一連の議論をお読みになった上でお書き込みになったもの
であると、無理矢理に理解しても宜しいでしょうか?

加害者にも被害者が生前持っていたものと同等の権利が保障されるか否かについては、死刑存廃
問題においてそれを単なる感情論として退けなければ、特に同害報復論と絡んで主要なテーマで
あると言えるでしょう。同害報復については今までの議論で一応の決着を見たと思っていたの
ですが、若しかすると被害者(死者)の権利や命については論及が足りなかったかも知れません。
被害者遺族の権利については、大方は論じ尽くしたかと思われますけど。

少し気になったところを指摘させて戴きます。

>加害者の『改心する(かもしれない)善人になれる(かもしれない』生きる権利と、被害者の『改心するまでもない、加害者>より善人になれる確率が高い』生きる権利を同等に比べてはいけないんじゃないかな?

ここ一連の議論で、「加害者の(中略)生きる権利」については論じられて来たと思いますが、
「被害者の(中略)生きる権利」については誰一人として論じておらず、死刑存置を主張する
入江さんも直接的には論じて来なかったと思うのですが。つまり、権利論でも生命論でも、
ここで加害者と被害者を同じ俎上に載せて議論した覚えなど誰にもないかと(少なくとも私には
始めからそのような観点はないです)。・・・いや、若しかしたらシェンロン(紫煙狼)さんが
今までの議論の最初の方で、間接的にでも言及していらっしゃるかも知れません。でも、
同害報復の是非に絡めての議論ですから、やっぱり貴殿のご指摘とは今一つマッチしていないようです。

1942無精髭:2008/09/08(月) 17:38:43
<上の続きです>

宜しければ、誰の・何番の書き込みをご覧になって上記のようにお感じになったのか―――元い、
そのように読める書き込みはどれなのかを詳しい解説付きでご指摘戴ければ、幸甚の至りでございます。
ただ、私たちが無自覚にも「被害者の命ばかりか尊厳まで殺」している可能性も否定できませんから、
そこのところも私たちに分かるように明確にして戴ければ、大変助かります。加えて、「命の尊さを
知らない人間の命乞いを尊ぶ」(?)ことが「被害者の命より加害者の命の方が尊い」ということに
帰結するのではないかと仰る部分についても何故そのように思われたのか、ご説明戴ければ嬉しいです。
事件によって被害者の命と加害者の命は対立関係にあって両立し得ないということ、且つ、
尊ぶことと蔑むこととが反意語であるとそれぞれ仮定した上で、加害者の命を尊ぶことが被害者の命を
尊ばない(蔑む)ことを意味するというと、まるで排中律みたいですが。

私個人の意見としては、加害者と被害者の区別には関係なく、人間相互で権利を較べるのは本当は
良くないけれども、そうせざるを得ないのが人間の性なのかも、と思ったりもしております。
ただ、個人(の権利)を比較する場合に、差異を見出すのか、同一性乃至は類似性を見出すのかという
ことを自覚することが、社会的には意味のある行為だと認めることに関しては、吝かではございません。

貴殿は「チャンス」や「損害」(若しかして「利得」も?)についての比較では、権利(命)の場合とは
異なり、加害者と被害者を同列に扱っていらっしゃるご様子。同害報復論者であると、お察し致します。

この件に関して、シェンロンさんの意見は深遠だと思われますので、それを私が代弁するのは荷が重いです。
と申すか、多分無理なので、シェンロンさんのレスをお待ちになってから、その真意を確認し、ここでの
議論の性格について判断をお下しになった方が宜しいかと思われます。貴殿におかれましては、是非とも
書き殴りではなく(ご無礼)、じっくりと腰を据えて議論に参加して戴きたく存じ上げます。

1943紫煙狼:2008/09/08(月) 17:39:49
>>1939
私が「被害者より加害者を重視すべき」と言った事実があったり「被害者にも落ち度があった」などと
申し上げているのであれば、平身低頭つつしんで受け入れるべきごなの指摘ですが、私は以前から
「被害者加害者を問わず、人の命や生きる権利を比較するのは誤りである」と申しておりますので、
ぎぃさんのご指摘が私に対するものであるとすれば失当と言わざるを得ません。

例えば私が「空気は大事だ」といえば「水は大事ではない」と言ったことになるのでしょうか?
同様に「加害者の助命を嘆願」すれば「被害者の尊厳を軽視した」ことになるのでしょうか?
少なくとも私の中には「加害者を殺してはいけない」という気持ちと「被害者はさぞ無念であっただろう」という
二つの気持ちが、相反することなく共存できるのですが何か可笑しなことを言っていますか?

つまり、ぎぃさんは「被害者の生きる権利」と「加害者の生きる権利」を同列比較してはいけないと言いつつ、
「被害者の命」と「加害者の命」を比較することに躊躇しない。むしろ、比較することでしか判断を下せない。
ぎぃさん自身が比較を基準に判断を下しているから、私が「比較する事自体おこがましい」と言っても、
感覚的に理解できないし、実際、貴方はそれを理解する必要も感じていないわけです。

単純な話…加害者と被害者を比較することで被害者の尊厳を傷つけているのは、
実は比較を試みて結論を導き出そうとしている貴方の方なのではないでしょうか?
(もちろん、一般人の目には私の方が被害者を傷つけているように映るのは承知しています。)

1944無精髭:2008/09/08(月) 18:59:51
さて、勝手に話を戻させて戴きますが。

>>1938
シェンロンさん。ご指摘の程、どうもありがとうございます。正直申すと、性善説と
性悪説って、私には良く呑み込めないんですよねぇ。二つの説が結論においても本質的な点でも
同じということは、私も薄々ながら気が付いてはいましたけど。>>1937でリンクを張ろう
として結局止めたのですが、こんなのもございました。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/takagish/opinion/iitai1998-1/iitai001.htm
ご覧の通り、教育についてのお話です。二つの説の内、どちらをとるかによって人間の
自然的・生来的な道徳性への見方・解釈が変わるということですから、早い話が、教育
手段さえも異なって来る可能性があるのだそうです。否、現実を見れば、教育の仕事に
従事している人たちは、どちらの説をとっているにせよ、シェンロンさんが仰るように、
「道徳的鍛錬・陶冶によって人は徳を積むことが出来る」ということを前提にして、人に
教えている筈ですから、結局やろうとしていることには大差がないのかも知れませんね。
つまり、人類と言うのは、その個人の本性が善であろうが悪であろうが、集団においては
善を指向する傾向にある、ということでしょうかね。ロックとホッブスは人間本来の道徳性
(自然状態での人間観)について真っ向から対立している訳ですが、社会はその自然状態段階の
人間たちの契約によって生じたという点では同じ結論に達していますからね(理想とする
社会モデルは異なりますが)。共に社会契約説を主張できるということは、立場や主張の相違
以前に、社会とその形成を善とし、そこから必然的に除外される自然という状況を悪とする
(こちらの方は積極的に定義されているとは思われませんが)考えが疑われず、論者の頭の中で
暗黙の内に認められていなければなりますまい。まあ、哲学については、こんな画一的・
図式的な理解というのは本当は好ましいものではありませんが。
http://www.hkg.ac.jp/~sawada/kougi/02/02.htm
↑で解説されておりますように、前提(論証過程外の定義)と結論以外はかなり複雑です。

教育は、個人のためにあるとも言えますし(社会への適応力を付ける点で徳)、社会(又は集団)
のためにあるとも言えますから(社会維持及び発展にとって有用な成員を生み出す点で徳)、
どれだけご都合主義・共犯関係やねん!?、と、ある意味面白いのですが。

1945無精髭:2008/09/08(月) 19:01:00
性悪説を唱える人が出す例の典型的なものに、アマラとカマラのお話がございますよね。
ヒトは全く社会から隔絶した状態で放って置かれるとそもそも人間にはならないのだ、
というもの。これは、個体に対する生育環境の影響力が人間の可塑性の存在を例示している
とも解釈できますので、非常に興味深い。更に付け加えるならば、人間には同種族集団への
社会性という前段階もあるというわけで、この機会を逸してしまうと、もう手遅れと言うか、
そもそも人間は人間として認められないのではないかという疑問も生まれてくるでしょう。
それでも粘り強い教育によってアマラとカマラは人間への可塑性を多少は見込ませる効果が
得られたのですが。まあ、オオカミ少女のような野生児に関するお話の真相については、
諸説あるみたいです(ご興味のある方は「アマラとカマラ」でご検索下さい)。

また、こどもとおとなの可塑性の違いというのもありますようで。私はこどもとおとなとでは
どちらの方が環境による変化を受けやすいか、自己内発的に悔悟や反省したりする能力に
長けているのはどちらの方か、といった問題は案外一筋縄ではいかないだろうと思います。
―――こどもの感性の柔軟さやその未発達状態という可塑(への可能)性の大きさには
目を見張るものがございますし、他方、おとなにおける自己啓発(自己に対する可塑)
としての意志の力も見逃せません。

私にとっては性善説や性悪説という考えはあんまり面白くないです。そこに道徳や善悪に
対する懐疑が加わればこそ、言い換えれば、道徳とか善悪などが良く分からないからこそ、
俄然面白くなるのであって、そんな風に性善説や性悪説を論じてしまうのが、シェンロンさんが
仰るように私の勘違いだとすれば、これほど興がそがれることはないです。我ながら、
不道徳だとは思いますが。まあ、教育方法を論じる場合には、シェンロンさんが体罰の是非を
問うたように、道徳性とか善悪についての考察を組み入れる余地はありそうなので、ちょっとは
未練があります。

最後にウィキペディアからですけど、私の誤解を晴らしてくれた記述がございましたので、
挙げておきます。

性善説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC
性悪説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%82%AA%E8%AA%AC

1946無精髭:2008/09/08(月) 19:12:04
>>1945訂正。

×更に付け加えるならば、人間には同種族集団への社会性という前段階もあるというわけで、
○更に付け加えるならば、人間には同種族集団への社会性を育む期間という前段階もあるというわけで、

1947Ken:2008/09/09(火) 13:03:00
>>1397
1はダメ。生臭すぎる。もうちょっと仏教用語・概念を丁寧に説明したのが読みたい。
2が一番おもしろかった。アホな意見にまじめに反駁するというのは大人気ないと
いえばそうなのですが...。私と似た意見の方ですね。前から書いてますけど死刑容認に
もっとも有効な議論は被害者感情の慰撫ではなかろうかと。死刑というのは殺人事件遺族にとって
宗教的な心のよりどころ、最後にすがりつくことができる権威なのではないかな。
この人が指摘しているように、全ての遺族がその「救い」にあずかることはできないのですが、
それでも遺族は判決が確定するまでは「殺人犯に死刑を!」と叫ぶことができる、
「望み」を持ち続けることができる。こういう絶対的な存在というのは他ではなかなか
代替できないのではなかろうかと。実際に死刑が廃止された結果、遺族からそういう
よりどころを取り上げてしまうことに私は少々躊躇を感じてしまいます。
3は長すぎる。ちゃんと読んでない。引用が多いのは好感。
4もおもしろかった。このルネッサンス・ジェネレーションという会議に下條信輔氏が
一枚かんでいるのを知ったのも思いがけない収穫。才能のある人はいろいろ仕掛けてきますねえ。
5もいまいち。どちらかというと私はアカデミックなアプローチを好むのかも。

1948Ken:2008/09/09(火) 13:12:43
間違った。私の前の投稿は髭さんの上の投稿に対するコメントです。

>>1940被害者の命ばかりか尊厳まで殺すのはやめてください。

もう、私の言いたいことは皆さんにかわりに言ってもらいましたが、二点ほど。

まず、こういうお願いをしたところでここの掲示板の人は書くこと止めたりしないです。
だから意味がないです。

二つ目はある意見に反論を述べるのは一向に構わない、むしろ奨励されるべきだと
思うのですが、ある意見が自分の意見と異なるからといって、その意見を述べることまで
止めさせようとするのは健全ではないでしょう。特に「尊厳まで殺すのはやめてください」と
いうような一見反論しづらい道徳観を振りかざして。

紫煙狼さんが面識もない被害者遺族に面と向かって彼の死刑廃止論をとうとうと
語りだすのであれば私も面食らいますが、そういう社会的なしがらみから離れて
自由闊達に議論ができるのがこういう匿名掲示板の本領なのですから(無責任な
ことを書いていいという意味ではないです)。

1949入江:2008/09/09(火) 19:15:55
性善性悪についてものすごく話が広がっているようで(^^;
私はどちらのスタンスにも立っていない、と言いました。
で、倫理の授業の遠い記憶を探るに
性善説は元が善いから教育で善いところを伸ばそうね、そんな難しい指導は要らない。
性悪説は元が悪いから教育で悪いところを直そう、たいそう厳しくやらねばいけない。
といったものであったと思います(例によって大づかみですが)。
死刑反対って言うのは教育刑で更正が一定レベルで期待できるって意味だし
死刑賛成って言うのは結局そんな厳しい指導をするのは手に余る、ということなのではないかなと考えたのです。
ご提示いただいた資料を読ませていただき、この問いは一旦棚上げにしてしまおうかと思います。

1950入江:2008/09/09(火) 19:16:36
で、紫煙狼さんのご質問に回答します。
現行の死刑となる人々の大多数については処遇の変更は想定していません。
ただし、釈放の可能性を与えるべきでないという判決を尊重したいと思います。

植物状態の人々は、目覚めれば自由になり得るという点で、
死刑にあたる凶悪犯ではなく、現行の無期懲役の人々と同じ境遇と考えます。
植物状態の人は、いつか目覚めることを信じて生かされています。それは周りの人たちの希望によるものです。
植物状態の人に奇跡が起きれば本人もうれしい、周りもうれしい、病院代ももういらない。
いいこと尽くめですね。めでたしめでたしです。こうなることが望まれていたんですよね。
無期懲役の人が見事更正したら釈放です、釈放ありの刑で良かったね、これもまためでたしめでたし。
(お礼参り殺人なんてものも過去ありましたので、見事な更正って何だろう、とは思いますけど)

私のことを先を見通せるなどと皮肉っていらっしゃったのですが、非常に不思議に思います。
だって、奇跡を信じて凶悪犯を終身刑で生かして、奇跡が起きたらどうなるんですか?
釈放されるの?できませんよね。結局終身刑という結論の出ている状態ですもの。
ものすごい更正がなされたとして、それは本人以外に利するものでしょうか。
むしろ本人はそこから一生消えぬ罪の意識に苛まれるわけだから、
確かに遺族の胸のつかえは多少降りるかもしれません(ざまあみろ、です)が、
それは国家の仕事に非ずと紫煙狼さんは仰っていましたよね。
では、紫煙狼さんの仰る奇跡って、何を待っているんですか?先にどんな未来を見るんですか?
せいぜいが
>凶悪な犯罪を犯したものが獄中で悔恨と反省の日々を過ごし、自らの罪を悔い改め、
>手記にまとめたものが、多くの若者に善を目覚めさせるかもしれないといった可能性
なのでしょうが、それは私が先に述べた、多くの模倣犯が世に放たれる可能性と
どれほど違うものなのでしょうか?

役に立たない、という表現は正しくなかったです。正確には、益にならない。
生きていること自体ではなく、生かしておくことによって得られる利が
限りなくゼロに近い、といっているのです。違いますか?
しかも、大多数の凶悪犯に奇跡は訪れない。しょっちゅう起きるものは奇跡じゃない。
では、生かすべき理由とは「他に」何があるのか?

1951入江:2008/09/09(火) 19:17:45
しまった、せっかく連投したのに省略か!
すみません。あとすこし。

私の主張はあくまで「犯罪を犯した」「個人」に対するもので、
団体や国家、民族への拡大解釈は望むところではありません。
なぜなら、私は確かに「殺してもいい理由」しか述べていません。
「殺すべき理由」なんてものはどこにもないからです。
だから戦争をするべき理由も、虐殺をする理由もありません。
ただし、「『いかなる場合も』その個人を生かすべき理由」について各論反論することは出来ます。
強姦罪のところでは私の未熟ゆえに本来の議論ができる状態ではありませんでしたが
最近は皆様に鍛えられて、少しはマシな反論ができるんじゃないかなと思っています。
本当にその人を生かすことが全てにおいて適切なのか、
それは自分の手を汚したくないが為の理由付けに過ぎないのではないか。
ぎいさんの仰るように、被害者の生きる権利を奪ったのなら加害者の生きる権利も奪われていい
という意見とて、決して少数派ではないはずです。私も元々はそこからスタートしました。
心強い味方を得て原点を思い出すことが出来ましたので、この論点を掘り下げてみたいと思っています。

というわけで、嫌がられても議論だけは続けちゃいますけども。
他では即刻追い出されそうな過激意見ばっかり書いてますので、出て行くところ、ないです(^^;

1952無精髭:2008/09/09(火) 22:13:50
資料として面白いですから、一応、リンクを張り直して置きますか。
『ルネッサンス ジェネレーション '06 [悪 / 善]人はなぜ人を殺すのか』
http://www.kit-rg.jp/rg2006/rep2006.html

>>1950
お疑いの点に関してですけど、シェンロンさんの実現性に乏しい(笑)、死刑代替刑を是非
ご参照下さい。例えば、>>585-593までの遣り取りとか、>>1865とか、ちょっとずれるかも
知れませんが、>>1886-1887>>1892>>1895辺りをご覧になれば、シェンロンさんの仰りたい
ことはお分かりになるかと。因みに、シェンロンさんはどんな凶悪犯からも社会復帰の可能性を
摘み取るべきではない、というスタンスだと思います(国民全体による恩赦ですかね?)。

>>1951
>本当にその人を生かすことが全てにおいて適切なのか、
>それは自分の手を汚したくないが為の理由付けに過ぎないのではないか。

これって、死刑に関しても言えますよね。たとえ前例の無いほどの凶悪犯であっても、それを
殺すことが全てにおいて適切なのか、と。例えば、終身刑によって無力化している場合とか、
途方も無い年月の有期懲役刑を科せられて強制労働を強いられている場合など。こういった場合の
凶悪犯を、その上殺してしまう必要※はあるのでしょうか。被害者遺族ならまだしも第三者が
死刑存置を唱えるなんてことは自分の手を汚さずに駆除欲を満たそうが為の理由付けに過ぎない
のではないか、とはシェンロンさんが以前仰っていることですし。かといって、私的制裁が許された
―――第三者が死刑執行に参加できるようになったとしたら、喜び勇んでリンチ紛いのお祭り(?)
に加わる輩も湧いて出ないというのも保証の限りではありませんが。

※道徳的な問題から離れてみれば、凶悪犯を生かすことの社会的なメリットとデメリットの
有る無しが争点になって来るかと思われますが。あと、死刑と終身刑のコスト問題に関する
議論って大切なんでしょうけど、何だか嫌ですね。

「殺してもよい理由」と「殺さざるを得ない理由」についての微妙な差異について、
イマイチ呑み込めないです。この点、皆様と一緒にもっと深く掘り下げてみたいですね。

1953無精髭:2008/09/09(火) 22:23:00
>>1952補足。
>例えば、終身刑によって無力化している場合とか、
上記は無期禁錮のことですね。

1954紫煙狼:2008/09/10(水) 03:07:12
>>1950
食べ物も、読み物も、良く噛んで消化した方がよろしいですよ(^^)

>私のことを(中略)どれほど違うものなのでしょうか?
確率的に同様だとして、貴方は「その可能性を以って罰すべし」と仰る。
私は「可能性で罰するを得ず」と言っている。それだけですよ?

犯罪に起因するものしないものを問わず、事故によるもの病気によるものを問わず、
幼子の命が失われるというのは無条件に痛ましく悲しい出来事です。こういう悲しい出来事は
少ない方が良いに決まっています。
しかし、そのような不運に見舞われることなく成長した結果が「凶悪殺人犯」という事も
けっして絵空事では有りませんよね?凶悪な殺人犯というのは幸か不幸か、生命的不運に見舞
われなかった者にしか成し得ないわけです。つまり、将来的可能性というのは正の方向にも
負の方向にも働き得るものであって、そのどちらかしか認めないのは誤りです。
私は「生かしている限り更生する可能性も更生しない可能性も存在するが、少なくとも更生する
可能性が残されている限り殺すべきではなく、更生しない限り世に放つべきではない」と
主張しているのに対し、貴方は「更生しない可能性が大きい限り殺すべき」と、方翼しか認めて
いないわけで、自分の想定の方向外に物事が進むことを考慮していません。片手落ちと言います。

ちなみに、この日本には「恩赦」という言葉がございますので、その点もお忘れなく。

>大多数の凶悪犯に奇跡は訪れない。
ここで指す奇跡というのは「現代科学の粋を以ってしても更生教育不可能な凶悪犯が更生する」ことを
意味すると捉えるべきで(それゆえに現代医学の粋を以ってなお覚醒しない患者さんを挙げたのですが)
そういう意味では、しょっちゅう起こるようでは奇跡とは言えないというのは正しいともいえますが、
実は奇跡でもなんでもなく更生可能な凶悪犯に対し「更生不可能」と判断を下している可能性は
排除できるものでしょうか?私が貴方を「稀代の預言者」と表現したのは、更生可能か否かを
正確に把握できる能力を持っている…と認識するからです。そうでなければ、更生不可能を理由に
処刑された者の中に、適切な教育が行われれば更生しただろう者が含まれている恐れは充分にあります。
また、現状では「更生しなかった者」とされる犯罪者に関しても「適切な教育が行われなかった」恐れを
排除することは出来ません。自分の手に余るからと言って「殺すしかない」というのは乱暴です。

つまり、更生不可能という烙印を押すためには未来を予言する能力が必要です。

1955紫煙狼:2008/09/10(水) 03:32:41
>>1951-1952
「生かすべき理由がないから殺すべき」というのは、とんでもなく極端な誤りです。
なるほど「生かす」の反対語は「殺す」なのかもしれませんがね(笑)

「○○すべき理由がない」のであれば「現状を維持させ、様子を見る」のが適切な処置です。
従って「生かすべき理由がない」のであれば現状を維持し「殺さない」が正解ですし、
「殺すべき理由がない」のであれば、やはり現状を維持し「殺さない」が正解です。
「生かさざるを得ない理由」があるのであれば、神の領域を侵すとしても「生かし」。
「殺さざるを得ない理由」があるのであれば、法を恐れることなく「殺す」のみです。

ここからは無精髭さんの疑問に対する答えでもあるのですが、「殺してよい理由」と「殺さざるを
得ない理由」は似て非なるものです。

例えるなら「信号機」ですね。青信号は「進んでも良い」であって「進まなければならない」では
ありません。それも「横断歩道」で考えた方が、より正確に把握できるでしょう。青信号の目の前で
立ち止まっている人が居ても咎められる理由はありませんよね?
(せいぜいが「邪魔臭い」ってだけでしょう。)
しかし、赤信号は「止まらなければならない」であって「止まっても良い」ではありませんから、
現実的か否かは別として、半径100キロ以内に一台の車の存在も認められない状況下でも、
赤信号を渡ってはいけないわけです。(実際は渡りますけどw)また、一時停止の標識も同様に、
絶対に歩行者や横断車の存在がないと予めわかっていても、一時停止しなければおまわりさんに
叱られてしまいます。

従って「凶悪犯を殺しても良い理由」をいくら列挙されたところで、死刑の論拠とはなりえず、
「凶悪犯を殺さざるを得ない理由、殺さなければならない理由」を挙げない限り、死刑賛成の論拠と
しては著しく不備がある、と申さざるを得ません。

1956無精髭:2008/09/16(火) 21:31:06
「殺しても良い理由」と「殺さざるを得ない理由」の違いについて考えている内に、
入江さんの
>被害者の生きる権利を奪ったのなら加害者の生きる権利も奪われていい
と仰るような同害報復論がどういう論拠で主張されているのかが、ちょっとだけ
分かったような気が致します。

被害者が加害者に対し、あまりの恐怖で体が動かなかった為、または不意を突かれた為に、
おそらくは正当防衛権を行使できなかった―――或いは、行使したけれども被害者が
非力だった為に、充分に行使できなかったであろうことを鑑みて、第三者(国家)が
代わりに被害者の権利を行使するというのが、同害報復論者による死刑存置の解釈なのでは
ないかと。つまり、犯行の時点で被害者が殺されたことに、法治国家の管理下における
何らかの不手際※があったことを指摘したいのだと思われます。個人の体力や精神力の
差によって行使された際の権利内容の度合いが変化するというような、そんなその場その場の
自己責任論みたいなものによって見失われてしまった正当防衛権をしゃんと公平に行使される
ものとして再定義する為にも、被害者の保障されなかった(?)生命の権利を要求しているのでしょう。

※例えば、前にも挙げましたが、シェンロンさんは>>614で、国民が国に要求し、国は
それを守るべきであるとされる国民の生きる権利が侵された場合、その殺人犯の行動を
許した責任は国にある、ということを仰っています。

犯人が殺意を以って襲い掛かって来た、そして実際に殺されてしまったという状況を
再構成してみますと、その時点で被害者は加害者に対して「殺さざるを得ない理由(権利)」
を持っていたことは明白かと思われます。けれども、実際には被害者はその急迫的状況に
おいて生じた短い間の権利を行使できなかった。法によって認められていた正当防衛権を行使
できなかった(?)原因を加害者の犯行(残虐とか卑劣とか言われます)に求め、被害者の
無念を社会全体の責任にまで波及させ、それを代わりに国家に晴らせと要求するのが、
同害報復の原理を拠り所とした死刑存置と言う立場であり考え方なのかも知れません。

1957無精髭:2008/09/16(火) 21:31:32
自分の生命を守る以外には殺しは許されない。それは自分の生命を維持する為に必要な
食物を得る以外には無駄な殺生を禁ずるという意味でもあるでしょう。直接的に自分の
生命が危機に晒されなければ、殺人は正当化し得ない―――否、もっと厳密に言えば、
自分の生命を守る行為は認められない、というのがシェンロンさんが仰る「殺さざるを
得ない理由」なのでしょう。それによって自分の生命を脅かす直接的な原因を排除する
ことが許される訳です。無論、客観的にも(第三者にも)その者の生命を脅かす原因で
あったことが(或いは、原因として直接的なものであったことが)追認されなければ、
違法性は阻却されないのでしょうけれど。

生命と生命の剥き出しの生存競争。ただ、そこでは相手を殺すのは自分を生かす為である
というだけで、行為のメリットが必要最低限にしか認められていません。入江さんは
そこに多くのメリットを見出そうとしておられるのでしょう。実際、「殺しても良い理由」
から考えられるメリットの多大さが「殺さざるを得ない理由」から得られる、言わば限定
されたメリットを凌駕していると想像することは容易いことかも知れませんね。まず犯罪者は
社会的に隔離=無力化しなければならないのですが、こうしてしまえばその上更に犯罪者を
殺さざるを得ないなどという状況は考えられないでしょう。だって、「殺さざるを得ない状況を
回避する為に、わざわざ犯罪者を隔離したのだから。」「殺さざるを得ない状況」とは
私たちにとって、そして犯罪者にとっても、生命存続を賭けた危険な状況のことを言うのです。

1958無精髭:2008/09/16(火) 21:32:11
【山口県光市母子殺害事件 遺族の思い】(1) 「妻が殺されています」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/071026/crm0710260934002-n1.htm
↑(4)まであります。

前編:宮崎哲弥×本村洋 対談(08:4/13) 死刑廃止18 - 学問の部屋

http://blogs.yahoo.co.jp/satorukurodawin/7826305.html
↑後編もあります。この「学問の部屋」というブログですが、死刑や終身刑、
犯罪被害等についても、広範囲に亘って精細な考察が為されているように
見受けられます。ご興味がございましたら、瞥見して見るのも宜しいかと。
例えば、↓こんなのとか。
http://blogs.yahoo.co.jp/satorukurodawin/folder/176027.html?m=lc&p=5

以前、私が死刑廃止論者に真に対立するのは同害報復論者ではないかというようなことを
申しましたが、そのとき念頭にあったのは、本村氏のような犯罪被害者遺族でした。
大雑把に申せば、犯罪事件の当事者による死刑論の説得力が死刑廃止論の前提を
根底から覆す(脅かす?)ものだと思われたのです。

1959Ken:2008/09/17(水) 03:21:37
本村氏は同害報復論者なんですか?

この産経に寄せられた手記は私が普段から主張していることとよく符合すると
思うのですが。要するに、犯罪被害者・遺族は警察・司法から省みられなくて
孤立していて、そういう社会的サポートがない中、つもり積もったやり場のない
怒りや不満は犯人に対する死刑の要求にぶつけるほかない。

このインタビューも同害報復とは読めないんですけど。同害報復というのはそれに
よって犯罪被害者・遺族の気持ちが癒されるという遺族中心の考え方ですよね。
本村氏は死刑が遺族以外の社会や犯人に与える影響を議論してないですか?

1960無精髭:2008/09/17(水) 08:05:55
>>1959

>>本村氏は同害報復論者なんですか?
各人の解釈によるのではないかと思うのです。死刑存置を訴える当人の自覚の問題とは別に。
例えば、>>1876-1879を読むと、断定するのも難しく思われます。私個人としては、
秋葉原通り魔スレでも書きましたように、死刑の目的を「正義の回復」に置く点で(誤解かも)
本村氏と同害報復論者とは通底していると思うのです。前に否定的に取り上げましたブログでは、
こう書かれております。

>死刑は廃止してはならない。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、そこに死刑の意義があるのだ、とそのように言っていた。
http://critic2.exblog.jp/3251270/

この後、このブロガーの方はハムラビ法典と本村氏の死刑論を結び付けて論じてますね。
とは申しても、本村氏は同害報復論者である、とまでは私には確言は出来ません。
上で挙げました産経の記事を読んでも分かりますが、裁判を通じて本村氏のスタンスも
変わって来たのだと思いますし。>>1958のように、誤解を招く・間違った連想をさせて
しまう内容を書いてしまうのは、Kenさんが仰ったように無責任だからしてはいけないこと
なのかも知れませんが。

1961無精髭:2008/09/17(水) 08:06:16
>>このインタビューも同害報復とは読めないんですけど。
私が引っかかったのは、

>今わたしがおもっているのは社会の絆だとおもっています。人を殴ってはいけない、人のものをとってはいけない、そういったみんながもっている正義が社会の絆となって社会というものが強いものになるんだという風に思っています。
そういった絆を個人の勝手な欲望とか そういったことで断ち切るような人がまさに法による違反であって、そういったものは厳粛に裁くものだと思います。それが今のわたしの正義感です。

>わたしは、今おもっているのは 死刑というのは命の尊さを、わたしたち国民に知らしめる制度だと思っています。
もしこの国に死刑という制度がなくて、無期だとか終身刑が最高刑だとすれば僕はこれほど、命について考えなかったと思います。死刑という刑罰があるから、たとえわたしの妻と娘を殺した人間であっても本当に国家権力が、命をうばってもいいのかどうなのかということ 、権力と命の関係は何なのかとか、社会契約とは何かとか 主権者とは国家の関係とは何か 一生懸命考えました。
それこそが僕は死刑の意味だと思いますし。
死刑という判決が出れば、わたしは妻と娘と被告の命を背負って生きていかなければいけないとおもっています。

これらの部分です。「死刑が遺族以外の社会や犯人に与える影響を議論して」いても、
「犯罪被害者・遺族の気持ちが癒されるという遺族中心の考え方」を一緒に、しかも優先して
論じることは可能かと思われます。Kenさんはかなり同害報復論を限定して捉えていらっしゃる
ようですね。それとも厳密といった方が好いのか。。。その辺りについて私はかなり好い加減
なのかも知れませんねぇ(苦笑)。

1962無精髭:2008/09/17(水) 08:07:28
因みに、

産経の記事を知ったのは下記のリンクからです。
http://www.egawashoko.com/c011/000241.html

他にもありました。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804221515026-n1.htm

あと、本村氏の考えについてはこちらの方が詳しいです。
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2000/ronbun/06-r3.html

1963Ken:2008/09/17(水) 12:56:40
この江川紹子対本村洋は興味深いですね。

この産経の会見記事ですけど、本村氏は同害報復論者じゃないとは言えないかも
知れないですけど、彼の死刑論の中で同害報復論は大きなウェイトを占めてないですね。
同害報復論とは紫煙狼さんだったと思いますが、江戸時代のあだ討ちがその例ですよね。
社会とは無関係な個人対個人、家対家というような構図です。それを思わせるような
発言は二箇所だけですね。

>>人をあやめた罪は自らの命をもって償う、という正義感は満たされました。
>>人間ですので、あだをとりたいと思いましたが、私の手ではできませんし、司法に委ねるしかありませんでした

それ以外は様々な死刑存置論をほぼ網羅している感じですね。たとえば

>>社会のみなさまにも、どうすれば犯罪も被害者も生まない、死刑という残虐な刑が下されない社会になるのか考える契機にならなければと思います。死刑の存廃が騒がれるようになるかもしれませんが、刑罰がどうすれば社会が安全で平和な環境を作れるか考える契機になることを願います

これはのどまででかかってますけど、死刑による抑止効果を示唆してますね。さらに

>>被害者遺族は司法に感謝し、被告は己の犯した罪に後悔して、社会が正義を再認識し、司法が威厳を保つことが民主主義であり、法治国家が維持されるものと考えますので、こうした判決に心から感謝しています
>>私はこの事件にあって、いわゆる刑法というものは社会正義を維持するための手段だと思っています。

これは死刑が刑法の存在意義にかかわっているという議論ですよね。一般予防論と
言うんですかね。このように本村氏は終始個人と社会という関係の中で死刑が
どのような意味を持つのか議論してますよね。髭さんが好む議論じゃないですかね。
それで、次の引用は彼が同害報復論者ではない証拠です。

>>日本の法律は、1人でも人をあやめたら死刑を科すことができます。今回、過去の判例にとらわれず、個別の事案をきちんと審査して死刑に値するかを的確に判断したこと。今までの裁判であれば、無期で決まりだったが、それを乗り越えたことが非常に重要だし、裁判員制度導入を前にこういった画期的な判決が出ることは意義があると思います。もっと言えば、過去の判例にとらわれず個別の事案を審査して世情にあった判決を出すと言った風土が日本の司法に生まれることを切望します

「罰が犯した罪に見合っているか」というのは刑法で常に肝な部分となりますが、
これは時代背景とともに移り変わる相対的な問題であって、絶対的な尺度ではありません。
これを絶対的な尺度として定義しようとするのが同害報復論者ですよね。要するに
何人をどういう意図の下どういう方法で殺したのか、犯人はどういう精神状態に
あったのか、といった文脈を一切無視して「とにかく人を殺したんだから死刑だ」
というのが同害報復論。本村氏はそうじゃなくてある文脈にある罪にはどういう
罰が見合うのか、社会が常に考え続けなければならない、というふうに主張してように
私には読めますね。

1964Ken:2008/09/17(水) 13:28:07
最後の記事では自分は遺族だ、という表現が何度も出てきて、とにかく遺族の
立場、遺族の気持ちの吐露に終始してるし、同害報復論にあふれてますね。社会の
中で遺族がどういう位置にあるのか、遺族が死刑を求めることにどのような意味が
あるのか、といった客観的な視点に欠けてますね。これは2000年の記事だから、
8年という時間が経って、落ち着いてさまざまな物事の関係が捕らえられるようになった
のが死刑判決での会見の様子なのでしょう。

あと、このインタビュアーは暴走して答えを誘導してますね。最後から二つ目の
質問とか、本村氏が逆にブレーキかけてます。扇情的なだけであまりいいインタビューでは
ないですね。産経は新聞報道はまだ見れるけど雑誌はだめですね。

1965Ken:2008/09/17(水) 20:55:33
一言付け加えておきますけど、本村氏がこうやって遺族の立場を理路整然と訴えたからこそ
様々な法制度が改善されたわけであって、そういう意味ではこの正論のインタビューも
価値があったと思います。

1966無精髭:2008/09/18(木) 00:47:14
>>1963-1965
そうですね。私もKenさんのお考えには基本的に同意します。本村氏の死刑論から窺うことが
出来る、氏の同害報復論者としての一面は看過しても好い位、小さなものなのかも知れませんね。
然しながら、本村氏にとっては同害報復の原理が、数年を得て尚も死刑存置を唱える理由の中核と
なっているのではないか、と私には思われるのですけれどもね。それはともかく、本村氏個人の
法廷闘争(もっと広く言って被害者遺族自らとしての活動)と、社会的・政治的な立場からの
犯罪被害者等の人権擁護の為の発言や働きとの違いについては、よく注意した上で論じるべき
でしょうね。私もKenさんと同じく、最近の本村氏の仕事は後者の方に重点が移っていると思います。

本村氏の死刑存置の根拠が同害報復による社会的正義の回復になっていること、そして、
その同害報復の原理が、犯罪被害者遺族としての本村氏の復讐感情と当然結託しているでしょうから、
第三者の私としては、その真実の姿に正当性を見てしまわざるを得ないのです。

ぶっちゃけて申すと、初期の本村氏の死刑論には、死の恐怖を以って更生させた後、殺してしまう
という奇妙な贖罪論(シェンロンさん曰く、死刑囚リサイクル批判に詳しいですね)に感じる
違和感を差し引いても、否定的な関心ではあれ、私のような能天気・唐変木すらも引き付けて
止まない怪しい魅力を感じますね。

以下、まだまだ読み込みが足りませんが、ご参考に。
http://sokonisonnzaisuru.blog23.fc2.com/blog-entry-575.html
http://www.google.com/search?hl=ja&rls=DAJP,DAJP:2006-42,DAJP:ja&q=+site:charm.at.webry.info+%E6%9C%AC%E6%9D%91%E6%B4%8B%E3%80%80%E5%90%8C%E5%AE%B3%E5%BE%A9%E8%AE%90

1967無精髭:2008/09/18(木) 01:07:23
>>1966
>その同害報復の原理が、犯罪被害者遺族としての本村氏の復讐感情と当然結託しているでしょうから、
あちゃあ、擬人法的な比喩のつもりで書いたにしろ、「結託」って言葉は不味かったですねぇ。
ついノリで書いてしまいました。「結び付いている」とでもいった意味でお読み替え下され。

1968無精髭:2008/09/18(木) 01:33:03
で、本村氏の話はとりあえず脇に置いといて、しつこいようですけど、
まだ腑に落ちないというか、喉に小骨が刺さったような感じがするのが、

>同害報復論とは(中略)社会とは無関係な個人対個人、家対家というような構図です。

の箇所です。要は、釣り合いの取れた関係でなければ同害報復は為されえない(同害報復の原理を
論じることは出来ない)ということなんでしょうが、物分りの悪い私なんかには、そうとは限らない
んじゃないかと思われるのですが。

例えば、

 個人A→(国家・共同体)→個人B
    1   ‖    2
     肩代わり?
     (民主主義体制では、個人間における媒体?)
 
 ※死という同害を国家が反動的に齎す場合、「1→」と「2→」は危害の形(結果)が同じであれば、
  質的には異なっていても(簡易化されていても)構わないと思います(シェンロンさんの仰る同程度害報復)。
 
の様な場合は、死刑の場合にのみ限り、同害報復の原理に従っているとは見做せないものでしょうか?
更に申せば、過去にはハンムラビ法典を掲げたバビロニアも現代における「国家」概念から外れるにしろ、
一応君主が治める「国家」といえるでしょうし、現に同害復讐法(タリオ)を掲げているイランのような
国もあるようですから。もしかすると同害報復というのは、Kenさんご指摘の構図では収まり切らないのでは
ないでしょうか。少なくとも、報復という一連の事象に国家を介在させても(関係させる位なら)、解釈上、
問題がないのではないかと。否、事実上、問題はあるかも分かりませぬが。

因みに、江戸時代の敵討も、決して個人対個人、家対家の関係で万事が処理されたという訳ではなくて、
ちゃんと時の幕府に法制化された上で容認され、敵討の当事者はその細かい決まりごとを守るように
言い渡されていたらしいですね。敵討を当事者間の問題として見るなら、「目には目を、歯には歯を」の
同害報復というよりは、寧ろ西欧の決闘に近い気がします。

1969無精髭:2008/09/18(木) 01:35:16
>>1968
やっぱり、図がズれた...。

シェンロンさんの同害報復についての考察にも、報復の主体は被害者であるべきという前提がありましたから、
やはりハンムラビ法典などの国家が法制化した同害報復とは異なり、決闘同様、かなり私的なものを含むと思われます。
例えば、遺族感情を扱っておられる点。今思えば、同害とか過剰とかの問題ではなくて、あれは当事者の
復讐原理そのものでした。でも、私にとってはまだまだ考察の余地がある問題です。

ハンムラビ法典というのは、中々よく出来たものらしく、ともすれば野蛮なものの代名詞みたいにされがちですけど、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%93%E6%B3%95%E5%85%B8
を読むと、どうもそうでもないらしいですし、他で検索してみると、そんな先入主を覆してくれる記事が結構出てきますよ。

イランの刑法の場合も、「刑罰がフドゥードという固定刑とキサースという応報刑もしくはディーヤの
二つに分かれている」(下記リンクより引用)とのことで、実際に国家が全面的にではなく、部分的に
同害報復を刑罰として採用してもおかしくないみたいです(当たり前なのかも知れませんが)。また、
例えば、「殺人犯に対して、遺族は裁判官(カーディー)の前で、キサースによる死刑かディーヤ(血の
代償金)とよばれる賠償金を取るかのいずれかを選択する権利を与えられる。傷害に対しても、同様の
傷害を負わせるか、ディーヤを取るかのいずれかを選択できる」(同上)らしいです。他の国から見て、
イスラーム刑法がまったく野蛮であるとまでは断言できないでしょう。

>「罰が犯した罪に見合っているか」というのは刑法で常に肝な部分となりますが、
>(中略)
>これを絶対的な尺度として定義しようとするのが同害報復論者ですよね。要するに
>何人をどういう意図の下どういう方法で殺したのか、犯人はどういう精神状態に
>あったのか、といった文脈を一切無視して「とにかく人を殺したんだから死刑だ」
>というのが同害報復論。

細かいようですが、イスラーム法は上掲のKenさんの規定よりは、融通が利く法律ですよね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BA%BA%E6%A8%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A4

ちょいとグロい画像がありますが、これも。
http://amor1029.exblog.jp/1871825/

1970無精髭:2008/09/18(木) 01:39:05
以上、長々と書いてきましたように、同害報復についての理解が私の中ではいまだにすっきりしないですね。
まあ、もうちょっと一人で考えて見たいと思いますが。じっくり時間をかけて、ある程度は纏まりのある理解を得たいですから。

ところで、Kenさんのコメントを見て、ふと変なことを思いついたのですが、
死刑存置論から同害報復的な考えを完全に取り除くことって、果たして可能なのでしょうか。
特に存置論者の方自らが、己の主張に同害報復的なものがないことを説くなんてことは出来ますかね。
存置論を説いても同害報復については一切触れていない、といった事例は除くとして。
まあ、余り意味の無い疑問とも思われますがね。「完全より程度の問題」

1971Ken:2008/09/18(木) 05:38:17
>>ハムラビ法典とキサース

肝はこれでしょう↓

ハムラビ法典
「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」すなわち予め犯罪に対応する刑罰の限界を定めること(罪刑法定主義)がこの条文の本来の趣旨

キサース
イスラーム以前のアラビアでは私的な復讐が普通であり、時には際限ない争いへと発展することもあった。キサース刑は刑罰自体は復讐原理(目には目を、歯には歯を)にのっとっているが、復讐を公権力の監視下に置き、統制する目的があったとされる。

「目には目を」は過剰な罰を防ぎ、罰の上限を客観的に手っ取り早く決めるための
方便でもあったと。

現代の刑法もいっしょですよ。与えることのできる罰の上限を決めること。これは
国家という絶対的な権力が恣意的で気まぐれな法運用しないように制限するために
あるわけです。だから、紫煙狼さんが入江さんに言ったように、生かすべき理由が
なければ国家は国民を殺してもよい、というふうに読み替えては絶対にだめです。
「○○してもよい」はきまぐれに運用される恐れがあるから。そうじゃなくて
国家が国民を殺さなければならないという状況で始めて死刑は適用されるべきなのです。
刑を決めるときは足し算じゃなくて上限からの引き算ですね。ちなみに、本村氏は
過去の判例にとらわれるべきではない、ということも主張してましたけど、これも
一長一短で、その結果国家が似たような罪に対して異なる罰を与える(あるときは
死刑、別のときは無期というような)事態になるおそれもあるわけで、それは
それで法への信頼が損なわれ不正義であるわけです。完全なバランスというのは
ありえなくて、そのときどきで議論すべき程度の問題ですね。

>>同害報復論

「同害」の部分は説明したとおりですけど「報復」。これには報復する主体、
その報復によって報われる主体が必要ですね。報復する主体とは被害者で、被害者が
殺された場合はその遺族になるわけです。殺人の場合、同害報復論とは遺族中心的な
考え方になるわけです。それ以外の死刑存置論、たとえば死刑による犯罪抑止は
社会には死刑という制度が必要だという議論であって、遺族の存在を必要としていない
点で大きく異なると思います。

江戸時代の敵討ちには警察力の代行といった意味合いもあるとは思いますが、
遺族が中心となっているという点では同害報復といっていいと思います。それで
髭さんがいう通り、これは近代国家では死刑として敵討ちを代行しているだけだと
論じる死刑存置派はいます(髭さんが>>1937で紹介した2番で批判されている人とか)。

キサースで死刑の代わりに金銭的補償を求めることができるというのは、それを
決めることができるのは遺族だという点は見逃しちゃならんでしょう。要するに
遺族は加害者の命をそれと等価の金銭で代替させているだけであって、命の代わりに
金銭を受け取ったとしても遺族の主観においては同害報復であることにかわりは
ないと思います。

こういうふうに考えたらいいんですよ。仮に本村氏が死刑のかわりに無期を要求
していたらどうなったか、それが遺族や被害者にとって一番報われる刑罰だと
訴えていたらどうなったか。同害報復論者たちにとっては非常に困ったことに
なったでしょう。だって、中心にあるはずの遺族が死刑を望まないと言ってるんですからね。

1972紫煙狼:2008/09/18(木) 15:27:39
>>1969
キサースやディーヤが出てくるならカッファーラも取り上げていただきたかった(笑)

日本には「民事罰」という言葉が存在しませんが、キサースはまさしく民事罰です。
キサースもディーヤも「凶悪な刑事犯罪に付随する民事賠償」なのです。だからこそ、
選択権は被害者(遺族)にあり、賠償金をもらった上に死刑も実施してもらうというような、
民事賠償の多重請求はできないわけです。(国家は強制力のために介入する。)

それに対して、カッファーラは被害者の感情慰撫・救済・復権を目的としない以上、
国家対加害者のみで被害者(遺族)がクチを挟む余地のない純粋な意味での刑事罰と
いえるでしょう。そして流石のイスラム法でさえ、刑事罰として加害者の命を奪う事は
許していない。その点については少々考えるべきものがあるように思いますね。

1973無精髭:2008/09/18(木) 21:43:04
>>1971
なーるほど。Kenさんのご説明のおかげで、同害報復については、かなりすっきりした理解が
得られました。今回は、私の全ての疑問に答えて戴けたので、非常に嬉しいです。さぞ、
お手数だったことでしょう? 最近の死刑制スレでのKenさんは、その淡白さというか
遠慮っプリが祟ったせいか、一人気炎を吐く(笑)シェンさんとは対照的に、影が薄い観が
否めなかったので、今回のように長文を引き出せたのは我ながら天晴れであると言いたい位ですよ。
この調子で入江さんともどうぞ盛んに議論して下さいませ。あんまり乗り気ではないのかも知れませんが。

Kenさんとシェンさんも、もちろん入江さんとの議論を離れれば、同じ死刑廃止を説くとしても、
考え方なり主張なりが異なってくるのでしょうが、私も自らの疑問をもっと逞しゅうして、珍説・奇説を
捻くり出して行きたいものですね。死刑について、私自らによる主張を確立する日はまだまだ遠いでしょうが、
Kenさんの書き込みを見て、励まされましたよ。

1974無精髭:2008/09/18(木) 21:46:38
>>1972
「かっふぁーら」ですか? それは知りませんでした。私の情報源は、みんなにとって安心・安直たる世界の事典、
信頼度50パーセントのウィキペディアです(爆)。で、シェンさんに触発されたのでもう一度クグったのですが、
「カッファーラ」を検索しても、なんにも引っかからなかったです。なんじゃらほい?
ちなみに、「民事罰」と入れてもみたのですが、「罪刑法定主義」の項目に一つ見られるだけのようです。
以下の引用記事、

>事前に法令で罪となる行為と刑罰が規定されていなければ処罰されない、という原則であり、遡及処罰の禁止などの原則が派生的に導かれる。
刑罰に限らず行政罰や、損害賠償等の民事罰にも適用されると一般的に解される。<

とだけ、出てきます。Googleの検索でも、
http://www.google.com/search?hl=ja&rls=DAJP%2CDAJP%3A2006-42%2CDAJP%3Aja&q=%E6%B0%91%E4%BA%8B%E7%BD%B0&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
こんな感じです。で、カッファーラに至っては、
http://www.google.com/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=DAJP,DAJP:2006-42,DAJP:ja&q=%e3%82%ab%e3%83%83%e3%83%95%e3%82%a1%e3%83%bc%e3%83%a9
二桁(笑)。他に、カタカナ表記の仕方があるんでは? と思ったのですが、
私にはどうすることも出来やしない...(完全に手詰まり状態)。

>>1969で挙げましたウィキペディアの記事には、「フドゥード(固定刑)」というのも出てきましたが、これについては
まだ独立した記事が書かれておりません。シェンさんの分類では、これも刑事罰で好いんでしょうか? Googleの検索では、
http://www.google.com/search?sourceid=navclient&aq=t&hl=ja&ie=UTF-8&rls=DAJP,DAJP:2006-42,DAJP:ja&q=%e3%83%95%e3%83%89%e3%82%a5%e3%83%bc%e3%83%89
こんなです。相変わらずといった感じ。

と申すか、イスラム法って難しすぎ。

1975無精髭:2008/09/19(金) 00:48:50
イスラーム法って、基本、同害報復なんですかねえ? そうしたら、フドゥードだろうがハッドだろうが
個人対個人の構図に入れられることになりそうですね。否、やっぱり違うのかな。
ハッド刑 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%89%E5%88%91

カッファーラについてはこんな記事がありました。

>(前略)殺人の場合,キサースかディーヤの支払を行うが,それだけでは罰は消えず,カッファーラ(罪ほろぼし)を行わねばならない。
コーランの規定(4章94節)により,信仰心篤い1人の奴隷を解放するか,2カ月の断食を行うことが必要である。またそれ以外に,
貧者60人に対して食事をあたえることが求められることもある。<
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F250C100.HTM

とどのつまり、カッファーラとは絶対神アッラーに対する贖罪のようですね。若しくは、
コーランの戒律への信仰心の表れ。国家原理がイスラムの教えによって成り立っている
訳ですから、国家対個人どころか、神対個人の関係から生じる原初的な罪と罰なのでしょう。
いずれにしろ、日本やアメリカでは有り得ない位、宗教的です。抹香臭さ、芬芬たるものですよ(笑)。
これは刑事罰というより、(飽く迄も神の代理人が科す)神罰かと思われます。
但し、シェンさんが区別なされた民事罰から、刑事罰としてのカッファーラへは一続きに
なっているということ、刑事罰が民事罰の延長線上にあるということは、シェンさんが
附帯私訴に言及した際に、被害者や遺族の感情慰撫・被害者等救済の為に民事訴訟を先に
起こせるようにする、といった提案に類似的ですよね。まぁ、良く出来ていると言うか。。。

ところで、またちょっと疑問。上のようなイスラーム圏の国の警察ってどうなっているんでしょうね。
民事罰に相当する犯罪が生じた場合、被害者(または被害者の相続人)の訴えがなければ、
加害者は罰を免れることができるなんてことはないかと。何だか、阿呆なことを抜かしておる
ようですけど。日本じゃ、警察は民事不介入というのが原則でしょう?(でも、少し検索してみると
わかるのですが、その根拠は怪しいものらしいですね)
キサースやディーヤといった応報刑(シェンさん曰く、民事的な刑罰)では、被害者やその遺族に
刑罰の種類を選択させるまでは、ちゃんと国家権力が何から何までお膳立てしてくれるんでしょうね。多分。
加害者に対して徹底的に取り調べて、容疑を固めてその行為が犯罪であると確定させた上で、
拘束しちゃったりなんかして。そこらへんは、どの国の警察とも本質上変わらないのではないかと思われるのですが。

1976紫煙狼:2008/09/19(金) 01:36:40
>>1974
1972って私、自分の生まれ年ゲットしてましたね(笑)

ざっくり言って、民法というのは「ヒトVSヒト」の係争をまるく納めるための法律であって、
どちらかを罰するという概念が希薄なので「民事罰」という講学上の用語はないのですね。
従って検索をかけてもヒットする確率は低いと思います。
それに対して刑法は「ヒトVS国家」のペナルティを規定したものですから、それこそ最初から
「罰する」という明確な概念がありまして、本来「刑事罰」とは罰というものを「行政罰」と
区別するために生み出された用語なのだと思います。(ココはちょっと自信ありません)

上記では「加害者(ヒト)VS被害者(ヒト)」の係争にペナルティという概念を持ち込むものなので、
敢えて講学上の用語としては不適切な「民事罰」という表現を使用しました。

カッファーラというのは厳密には「宗教的な罪滅ぼし」を意味するもので、これはイスラム法を
読むよりコーランを読んだ方が手っ取り早いですかね(笑)例えば断食の月があって、その間は
日中の飲食を禁じているわけですよ。(理由は良くわからないけれど)しかし、まぁ、破る者も
出てきまさぁね?そうするとコーランの中では禁を破ったものに対する制裁まで書かれているよと。
それがカッファーラなるものですね。そういう意味ではカッファーラが刑事罰であるという論法は
厳密に言えば「誤り」なのですが、宗教国家において法典というのは文字通り法律でもあるわけで、
「禁を破った者(ヒト)VS宗教(国家)」という対立関係は日本の刑法に通じるものがあるよという話で
バッサリと「刑事罰」という言葉で一括してしまったので、かなり言葉足らずでしたね(苦笑)

1977紫煙狼:2008/10/09(木) 12:01:07
まず、報道主が「朝日新聞社」であることと、主催者が「死刑廃止団体」であることで、
趣旨から外れた部分で一部の人からは大きく偏った印象を受けるのだろうな…と思いつつ、
気になる記事があったのでご紹介します。

「不満・悔悟・不安… 死刑囚の思い、市民団体が紹介へ」
http://www.asahi.com/national/update/1008/TKY200810080053.html

正直な話、主催団体への予備知識が全くないため、敢えて悪意的な表現を使用するなら、
「主催者側が入場者をどのような手法でどのような結論に誘導するのか」全く未知数です。
ただ「冤罪の疑い」というキーワードを排除した場合、ここで紹介される内容は全て
「けして許されざる凶悪な犯罪を犯した者」かつ「本人の希望とは無関係なタイミングで
強制的に命を奪われるだろう者」の肉筆とのことですから、極刑囚の心境を知るには
得がたい機会であると思います。(残念ながら私用があって行けませんが。)

「死刑は必要。あって当然。凶悪犯は殺されて当然。」と言う考えに一度も疑いを持った
ことがない人は「ご自身のお考えが正しいということを立証するために」行かれてみては?

1978あう:2008/11/21(金) 12:49:17
>>1954
第一次世界大戦に従軍していたヒトラーはソンムの戦いにて下腹部(股間)を
負傷しましたが、軍医(従軍医)のJohan Jambor氏の手によって救われたとの事。
http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/howaboutthat/3481932/Nazi-leader-Hitler-really-did-have-only-one-ball.html
Johan Jambor氏は後にヒトラーの命を救ったことを後悔していたとの証言があります。

ヒトラーがこの負傷で命を落としていたなら、彼は「戦争の被害者」だったであろうと思うと、
あらゆる事件被害者の「明るく正しい未来」だけを強調する風潮に疑問を感じます。
殺人犯人は被害者の(良くも悪くもなりうる)未来を奪ったことではなく、生命の自由を
奪ったことにおいてのみ裁かれるべきなのでしょうか?

1979無精髭:2008/11/21(金) 23:51:37
>>1978
あうさん。さげちゃ駄目でしょう。
紫煙狼さんにレスなさるなら、もっと堂々としなきゃ。

ご掲示のソースに関しては、なんか聞いたことがある。。。
きっと有名な話なんでしょうね。だからといって、失礼ですが、
あうさんが紫煙狼さんの発言のどのあたりに反論なさっているのかが
私には明瞭でないのですけど。否、賛同されている可能性というのも
否定できない(笑)。私の読解力不足は、書き込み欄の余白を埋めたいが
ためのご愛嬌ということで、ご勘弁戴きたい。

いちお、あげときますので。

1980無精髭:2008/11/22(土) 00:29:46
追記。

なるほど、GIGAZINEが情報源ですかw
結構面白いサイトなんで、私も見てますよ。
そういえば、児童ポルノ単純所持規制問題についての記事もあったなぁ。

2008年11月21日 10時55分00秒
アドルフ・ヒトラーにはこう丸が一つしかなかった
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20081121_hitler_did_have_only_one_ball/

1981一言広告募集:2008/12/19(金) 05:28:01
死には価値がある。

1982Ken:2008/12/20(土) 07:58:48
イランであった痛ましい事件なんですけど、ふられた腹いせで硫酸をかけられて
顔が焼け爛れて両目失明までした女性の話なんですけど、裁判では検事がディーヤ
(血の代償金)を勧めたのですが、被害女性は頑としてキサース(応酬刑)を
求めたところ、男に両目に5滴ずつ硫酸をたらすという判決が下されたそうです。
男が上訴しないと刑が執行されるそうです。

イタリアで被害女性の目の治療に当たったお医者さんは複雑な心境みたいで、
失明した人が同じことを他人に求めるのにショックを受けていると同時に、これが
自分の娘だったら自分がどうしたか分かんないって。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/12/13/AR2008121302147_5.html

1983柏木:2009/04/21(火) 20:24:16
>>1750

裁判員制度が5月から始まるが、市民が死刑判決を下す責任を負うならば、死刑執行に関する詳しい情報の開示がますます求められるようになるでしょう。

死刑の実態を知るためには、やはり実際に見てみないとわからないというのは正論です。国によっては(たとえばインドネシア)ネットでその模様を公開することを決定した。ネット上の掲示板でアニメの世界を語るがごとく想像で議論を続けてもまともな結論は出ない。自分の司法についての偏った知識を垂れ流す臭い自慰行為と同じだ。法務省はどうやって死刑を執行するのか(人の息の根を止めるのか)を国民に開示し確り違憲性の不在を説明する責任があるのではないか。本当の事情を国民より知っている法務省が、死刑判決を下す責任を詳細に知らされていない裁判員となった一般国民に転嫁するのは、知られたくない醜い事情があるといわれても仕方がない。憲法で禁止されている「残虐な刑罰」にあたるのか否かを、実際に執行状況を見てみないとやはりわからない。政府はなぜ見せない?死刑の執行の模様が嘔吐を催すようなものと伝えられている。そのこと自体、残虐である可能性があるのではないか。

1984紫煙狼:2009/04/22(水) 11:46:44
>>1983
概ね同意…なんですが。

確かに「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。(憲36)」なのですが、
別スレのhttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1058885208/482
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1058885208/483のように
むしろ「凶悪な犯罪者に対しては残虐な刑罰によって臨むべし」という論調も根強いようです。

次に、現状の日本における絞首刑が目を覆いたくなるような凄惨なものであるとしても、
「法手続に則らず、個人的な欲望のために命を奪われた被害者の受けた残虐性」と
「法手続に則り、法に定めた方法で厳粛に行われる絞首刑の残虐性」は同位に比較すべきものではなく、
かつ、残虐な刑罰を禁止する憲法下で制定された刑罰には残虐なものが含まれるわけがない。
そもそも残虐とは何を以って残虐とするものぞ。凶悪殺人犯が無辜の被害者の命を奪う残虐性に
比較すれば、同程度の苦痛は刑罰にも許されなければならない。という主張もあるようです。
簡単に言えば憲36の解釈として「必要以上に過酷な刑罰」を「残虐な刑罰」と定義し、
「必要と認められる程度の刑罰」は「残虐な刑罰」にあたらず、死刑も必要と認められる
場合においては「残虐と断ずることはできない」という論調ですね。。。

では、逆に安楽死や老衰のように「本人の痛みは知る由もないが、第三者から見る限り、
まるで眠るように死んでいく方法(例えば薬物使用)」で死刑を執行すれば、柏木さんの仰る
「死刑の残虐性」は排除できるのでしょうか???そうなってなお死刑は残虐であるという
主張は世論に受け入れられるでしょうか?

私は現状の死刑執行の瞬間を広く一般に公開することは、死刑の方法の見直しにしか繋がらず、
「死刑という制度の下、犯罪者の命を奪う事の残虐性」という私の考える本質からは、
むしろ遠ざかるような気がします。

1985loveless:2009/05/23(土) 19:18:18
少し亀な話もありますが、、

最近の死刑か無期かという裁判(求刑が死刑のもの)で、
(1)秋田児童殺人事件は、無期が決定
(2)神隠し事件は、無期の一審判決
(3)闇サイト事件は、一人無期、二人死刑の一審判決
(4)毒カレー事件は死刑確定
という結果になりました。

(1)は、殺意は認定、刑事責任ありと判断するものの計画性がないという判断で死刑回避。
(2)は、死体損壊と殺害は分けて考え、殺害方法が残虐でないということで死刑回避。
(3)は、殺害方法が残虐で、かつ社会的影響も大きいということで死刑判断するものの、
主犯格の一人については自供が認められ、刑1つ減刑して無期。
(4)は、状況証拠のみで物的証拠はなく、かつ動機も解明できていないが、
動機解明は裁判の結果に影響しないという判断もあり死刑。

正直、どれも判断難しく、裁判員制度が導入されて、こんな判断が自分にできるかなあ
と思ったりします。

もし、自分が判断するなら、マスコミからの情報しかありませんが、
(1)(2)は死刑、(3)は主犯格のみ死刑、他2人は無期、(4)は事件そのものは無期相当
の気がしますが、裁判の内容を見ると死刑やむなし、かな?

1986紫煙狼:2009/05/27(水) 22:12:08
>>1985
じっくり考えていたら亀レスになってしまいましたが…。

>正直、どれも判断難しく(中略)と思ったりします。
lovelessさんが裁判員に選出されたとして、かならずしもこのような判断を
下す必要は全くないと思います。それこそ
>もし、自分が判断するなら(中略)死刑やむなし、かな?
で大いに結構ではないでしょうか?

同じ事件の裁判でも、一審で無期懲役判決が二審で逆転無罪とか、その逆とか、
担当判事の違いが刑罰の重さの違いに多少なりとも影響を及ぼしているのは
明らかだと思うのです。(ある種の判例に縛られている面も否めませんが)
それでも、判事は自分の良心にのみ従い判決を下すのであって、それこそが
判事の使命なのだと思います。

裁判員もまた、自分の良心に従って審理に加わればよいのではないでしょうか?

最終的な合議の結果が、必ずしも自分の思うものと異なったものになったとしても、
自分の思ったことを思ったとおりに主張しさえすれば、自分の良心に恥じることは
ひとっつもありません。

ただし…。「自分の良心」と「自分の正義感」だけは取り違えないように注意する
必要があるかもしれませんね。正義感は良心の一部でしかないのですから、
正義感の塊にならないように心がける必要はあるかもしれません。
と、言っても…。正義感のみで人を裁いたからと言って、自分の中でそれが正しい
ことなのであれば、それもまた誰に縛られるものでもないと思います。

1987無精髭:2009/06/02(火) 01:04:39
裁判員に選ばれることに不安を感じるのは、人を裁くことの難しさや
責任の重さがあるからでしょうけど、法律用語や裁判の流れについては
要所要所噛み砕いての説明があるでしょうし、実際審理するにあたっては、
裁判官の方が手に手をとってくれるでしょう。
http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=14036&catid=308

そういったことより少々気がかりなのは、犯行の計画性や残虐性とか
状況証拠とか有罪無罪などなど、聞いた覚えがあり意味もなんとなく
分かった気でいるような言葉が、実際の裁判ではそういう日常感覚と
異なって使われている、ということです。

1988無精髭:2009/06/02(火) 01:05:28
たとえば「計画性」ひとつ取ってみても分からないことが多いです。「ご利用は計画的に」みたいな
キャッチコピーしか思い浮かびませんが、、、(いや、消費者金融でお金なんて借りませんけど)
むりやり計画性の有無を争点にした例で考えてみますと、、、

街で、お互いのことを知らない者同士であるAとBが喧嘩になった。(とします。)

(1)Aがその場でBを殺したならば、Aの犯行に計画性がないのはいわずもがな。

(2)AがBの後をつけて、Bが人目がない場所を通っているところを不意打ちした場合はどうか。

Bの行く先をAが知らないなら、Bがどこを通るかもAは知らないわけだから、
せいぜいAは付近一帯の地理からBが通る道を推測するしかない。実際、Aの尾行は
Bの恣意性に委ねられている。ということは、計画性があるとまではいえないことになりそうだけど。。。
初めから不意打ちを狙っているなら、計画性ありということになるのかも。

(3)しかし、Aが付近一帯の地理をもとに、Bはここを通るに違いないと判断できた場合、
たとえば道が一本だったときなどはどうか。

(4)付近一帯の地理に関する知識・Bの進行方向などからBが行く道を予想した上で、
人目がない地点まで先回りして待ち伏せし、Bがそこを通りかかったときに襲い掛かった場合は?

殺意を以って尾行すること自体、計画性ありとされるのなら、(2)〜(4)は無駄な問いでしょうけど。

更に、別ヴァージョン。

(い)誰でもいいから人を殺したいと思った。思い立ったら吉日とばかりに

(ろ)街へ直行し、→(は)or(に)

(は)簡単に殺せそうなやつを選んで殺した。

(に)ちょうど目に付いたホームセンターで人を殺すのに手ごろな得物を買って、→(は)

さて、凶器を事前に準備しておくことは「計画」と言えるでしょうが、
殺す相手を品定めするのは「計画」と言えるかどうか。。。

凶器を準備することは結果的に犯行を引き延ばすことになりますから、
では犯行を引き延ばすことだけで計画性ありと言えるでしょうか。

今日殺すのを止めて、明日殺そう。(で、一日たった後、実際に殺しちゃったと。)

準備を一切しない場合、犯行の先延ばしが明日までだろうが一ヵ月後までだろうが、
計画性はないといえそう。

Cという都市に住むAがDという村に住むBを殺そうと思った。Bに会うために、
AはCからDまで最も早く移動できる方法を考えた。これは計画性の有無に関わるのでしょうか。

1989無精髭:2009/06/02(火) 01:15:45
これまでの話とずれるでしょうが、司法判断と市民感覚とのズレというものを
>>1985の事例に即して書いてみますと、、、(私の意見ばかりではないですが)

(1)殺意十分なのに計画性がないために死刑回避とは??? ※
(2)死体損壊と殺害は分けて考える、って発想についていけない。殺人自体が残虐じゃん。
(3)自供が認められて減刑というのもよく分からないが、死刑から1つ減刑で無期懲役というのにギャップを感じてしまう。
(4)動機解明と殺意認定ってセットで考えるべきでは??? ※※

※豪憲君殺害の動機として、「自分に向けられた彩香ちゃん殺害の嫌疑をそらす」だの
「彩香ちゃんの死が事故ではなく殺人によるものであるとの主張に目を向けさせる絶好の機会は今しかない」だの、
いろいろと言われているようですが、いずれにしてもそう思い立った以上、後先考えずにすぐに豪憲君を殺して
しまったのだとしても、少なくとも彩香ちゃん殺害を隠蔽するための計画性はあったと見るべきではないでしょうかねぇ。

※※そりゃ砒素入れれば人が死ぬってことは誰にでも分かるので、人を殺す目的はどうあれ、
砒素を入れた以上は殺意もあったということになるんでしょうが。。。(未必の故意ですか?)

・・・以上、市民感覚から司法判断を批判する見方しかできませんが。。。
(司法から市民感情を批判するなんてのは起こりえないでしょうけどね。)

1990紫煙狼:2009/06/10(水) 21:38:25
私も司法関係者じゃないので、唯一無二の正答を出せるわけではないですが、
無精髭さんの問題とされる「計画性」について、個人的には以下のように考えています。

「殺意を抱いてから実行までの経過時間と準備の兼ね合い」

よく言う「かっとなって、手元にあったもので殴ったら死んでしまった」というのは
殺意を抱いた瞬間から実行までの時間が極めて短いうえに、準備らしきものを何一つ
していませんよね?そういう意味では、これは計画性を否定できるのではないか、と。

それに対し、常日頃から殺意(あるいはそれに類するもの)を抱いていて、
何かあったときのための武器(とっさの護身の用に供する限度を超えるもの)を携帯すれば
最終的に「かっとなって(いよいよ我慢できなくなって)携帯していたブツで殴った」場合は
計画的犯行と断じても良いのではないでしょうかね?(この際プロの格闘家は肉体そのものが
凶器となり得るものであるとの認識を自覚していたはずなので、コブシひとつも立派に
武器を携帯と表現できると考えます。)

で、無精髭さんの挙げた「場当たり的な通り魔犯罪」については
実行する対象は最終的に一人になると自覚しながら「誰でも良い」という不特定多数を
対象とする殺意をもち、犯行を実行するための準備として街に繰り出し、
「犯行の用に供する目的で」得物を購入するという準備を経て犯行に及んでいる。
これは明白な「計画的犯行」で良いのではないでしょうか?というのも、
国内で重大事件を起こし、政治的圧力として利用しようと考えて無差別爆弾テロを
行うという行為は明白に「計画的な犯行」なのですから、その犯行の目的が何であろうと、
被害を受ける対象が犯行直前まで、もしくは既遂となるまで特定できなかったとしても、
その犯行により人命が奪われるという自覚があり、もしくは、その危険性を認識しつつ、
犯行への着手を断念しないと言う行為は「計画的」と目してかまわないと思うのですね。

1991紫煙狼:2009/06/10(水) 22:02:03
でね?

>今日殺すのを止めて、明日殺そう。(で、一日たった後、実際に殺しちゃったと。)
>準備を一切しない場合、犯行の先延ばしが明日までだろうが一ヵ月後までだろうが、
>計画性はないといえそう。
ここの考え方ですが、紫煙狼説では、こう解釈します
「殺意を抱き、犯行に最適な日を選ぶこと自体が準備に当たる」とね。
準備の着手は不可罰的であったも、犯行の着手は可罰的であると考えるので、
「俺はヤツを憎んでいた。いつも殺そうと思って機会を伺っていたさ。でも先を越された」
なんてドラマでは必ず登場する容疑者の一人…(大体この後、真犯人を強請って殺される)は
準備への着手を済ませたが犯行に着手していないので、殺人未遂には当たらない。
百万歩譲って携帯していたものが銃や包丁なら「銃砲法違反」どまりかな、と。

同様に、
>Cという都市に住むAがDという村に住むBを殺そうと思った。Bに会うために、
>AはCからDまで最も早く移動できる方法を考えた。
これも犯行計画(準備)に着手しているので、これを利用して実際に犯行に着手した場合、
計画性がある、と断じて良いでしょう。でも、時刻表を覗き込んで西村京太郎ごっこを
しているだけなら(つまり犯行に着手していなければ)まったく問題ないですよね?

そういう意味では「刑事犯罪における計画性」というのは犯行に着手した時点から、
問題視されるものであって、それはあくまで情状面で刑罰を決定付けるための要素の一つに
過ぎず「計画性」そのものを罰する意味を持つものではない。逆に「計画性」そのものを
罰するとすれば、実際の犯行以前の行動を遡及的に罰することになるので、法の精神に
そむくものではないかなぁ、と思いますね。

1992紫煙狼:2009/06/10(水) 22:34:23
ようやく>>1989に言及できます(笑)

>(1)殺意十分なのに計画性がないために死刑回避とは??? ※
私にだって殺してやりたいヤツは居ますよ(笑)殺意充分です。
でも、私はソイツを殺すための行動を一切起こしていない。そして、たまたま、待ち構えていたわけでもないのに
神様の悪戯で、犯行にまたとない機会が訪れ、たまたま、手元にあった石で相手を殴り殺した…。
死刑に値するかは別途考慮する余地がありますが、殺意と計画性は、やはりそれぞれ別に考えても良いでしょうね。

>(2)死体損壊と殺害は分けて考える、って発想についていけない。殺人自体が残虐じゃん。
殺人自体は残虐ですが「生きている人を苦しめて苦しめて後、殺害する」のと「遺体(法的にはモノ)を壊す」のは
やはり別物でしょう。例として非常に不適切ですが、生きている動物を解剖して死に至らしめるのと、
死んでいる動物を解剖するのは全く別ですよね?それが「医学の進歩のため」であれば許されるとしても、
単に「解剖したい・切り刻みたい」という目的のためであれば、少なくともその目的のために命を奪うことは
決して許されないはずですから、死体損壊と殺害を分別する考え方は私的にアリ。その後の死体損壊の目的により
犯行の情状面を加減すべきではないですかね?(スーパーで売られている鶏肉を買ってきて切り刻んで捨てても、
それは道義的にいかがなものかとは思うけれど、刑事的に罰するべきものとまでは思いません。しかし、
野生の鳩を捕まえてきて切り刻んで殺して捨てれば、刑事的な罰が待ち構えているでしょう。)

>(3)自供が認められて減刑というのもよく分からないが、死刑から1つ減刑で無期懲役というのにギャップを感じてしまう。
死刑と無期懲役のギャップの大きさを指摘する意見は非常に多いですよねぇ。それ自体は別に不思議でも何でも
ないのですが、無期懲役が終身刑であるという認識がない人は非常に多いですね。終身刑という言葉を聴くと、
一生涯牢獄の中で…と思う感覚はわかりますが、無期懲役は一生涯出所することはなくて、許されるのは
仮出所なんですよ。(シャバに出すなら同じじゃね?って意見も尤もだとおもいますよ?)そして仮出所中は、
軽微な犯罪でも仮出所を取り消され、塀の中に戻される恐れが付きまとうという意味では、シャバに出ても、
皆さんが想像するほど「大手を振って往来を歩く」なんて可能性は低いですねぇ。酔っ払いに絡まれて喧嘩したら
自分が悪くなくても塀の中に戻される可能性があるんですからね。

>(4)動機解明と殺意認定ってセットで考えるべきでは??? ※※
私も普通の殺人事件を見る限り、同じ意見だったんですけど、最近つとに感じるのは
「殺害するのに動機は必要なくて、必要なのは殺意なんだなぁ」ってことです。これは私が精神を患って初めて
感じたことなのですが、理由もなく死にたくなる時があるんですね。どう考えても死ぬほどの理由なんて何一つ
思い当たるフシはないのに、とにかく、死にたくてたまらない時がある。これは「自分に対する殺意」なので、
実際に犯行に着手しても、せいぜい、残された皆さんのお手を煩わせる程度なんですけど、これが外部に向く人も
居たっておかしくないだろうなぁ、と思うのですね。もちろん、そういう人全てを「病気だ」と言う訳でも心神耗弱により
減刑すべきという訳でもないのですが、少なくとも、人の心の動きには「合理的説明がつかない」場合もあるのでは
ないでしょうかね?

1993紫煙狼:2009/06/10(水) 22:49:26
もうひとつ付け加えるなら…。

(4)の例で「動機の解明がされていない」ってところですが、じゃぁ、逆に…。
動機が解明されていれば、物的証拠が殆どなくても状況証拠と推測される動機だけで死刑にして良いのか?
(被告人が犯行を否定している以上、動機も被告人の口から告白されるものではなく、検察側の推測に過ぎない。)
次に、その動機が何とも「ああ、それは、しかたないねぇ…」という万人に同情を得られるようなものであっても、
無差別的に食料に毒物を混入させるという犯行方法に対する判決が死刑未満となりうるか?

ここで、林真須美死刑囚に対する裁判の判決だけに着目すれば
「物的証拠が殆どなくても状況証拠が揃っていて、他に犯行が可能となる合理的な説明がつかない」のであれば、
有罪判決を出すことに躊躇する必要はない。故に有罪判決が出ているわけです。そして、有罪判決を出すことに
躊躇する必要がないのであれば、犯行の方法は、いかなる動機を以ってしても死刑未満となりえない犯行である。
ならば、この場合、動機の如何を問わず、死刑判決に躊躇する必要はない。という事なんでしょうね。

ちなみに、私の心象としては林真須美死刑囚はクロだとおもいますが、物的証拠が余りに乏しいため、
疑わしきは罰せずの原則に従い「限りなく怪しいけど無罪判決」が妥当だったと思いますね。

1994無精髭:2009/06/14(日) 18:47:14
>>1990-1991(亀レス失礼。)

法律家的・優等生的な唯一無二の正答を志向しつつも、ところどころシェンさん独自の解釈が
垣間見られて、好いんじゃないでしょうか。「プロの格闘家は自らの肉体が凶器であると自覚
しているはずだから、何も持たずとも凶器を携帯しているといえる」とか「スーパーで売られて
いる鶏肉を買ってきて切り刻んで捨てても、(後略)」とのことですが、もしシェンさんが裁判員に
選ばれてそのような見解を開陳なさったりしたら、他の裁判員の方々は度肝を抜かれるんじゃない
でしょうかね。

>「殺意を抱いてから実行までの経過時間と準備の兼ね合い」

>そういう意味では「刑事犯罪における計画性」というのは犯行に着手した時点から、
問題視されるものであって、(後略)

ご承知のとおり(というか仰るとおり)、犯罪の実行に着手していなければ(特殊な場合を除いて※)
基本的に罪には問われないんですよね。未遂罪についても実はよく分からないことが多いんですが。。。
裁判員として選ばれる可能性がある一般市民として勉強しなきゃならないこと(知っておかなきゃ
ならないこと)というのは意外に多いですね(苦笑)。

※あんまり詳しいことは分からないのですが、何年か前に共謀罪の是非についてかなり白熱した
議論がなされていた記憶がありますけど、国際的な組織犯罪に適用されるとのことですね。
あと、それ以前からあるのは、シェンさんが無差別爆弾テロという例を挙げてくださったことに関連
しますが、ナントカ予備罪とかナントカ陰謀罪とかですかね。まあ、こういう事件に関しては
裁判員制度下の審理対象とはならないでしょう。

1995無精髭:2009/06/14(日) 18:49:42
「計画性」への該当事例について、あるいは「犯行計画」の可罰/不可罰についてなど、
大体シェンさんが仰ることで納得できるのですが、いざ実際に計画性の有無や程度を判定するのって
すごく難しく思えるんですよね。たとえば、―――また>>1988の例えで恐縮ですが―――
(い)(ろ)(は)(に)のような場当たり的な通り魔犯罪について、被告が犯行の計画性を否定していて、
弁護側が次のようなことを主張している場合なんか特に。

「実は当時被告はフラフラっとホームセンターに寄って何気なく凶器となる得物を買って、
それを見ているうちに人を殺したくなったのです。」

んなバカなっていう話ですが。でも、計画性の有無を確かめるには厄介なことになりそう。
まあ、計画性の有無に関わらず(あえてそこのところを争点とはせずに)、適切に処罰することは
可能かと思われますがね。

ですが、次のことはシェンさんが>>1992で仰った「動機がない殺意」というものもありうるんだよ
とのご指摘に気づかされたのですが、それを考慮に入れると、

「後に凶器となった得物が被告の生活上必要なものであったため(たとえば日曜大工という趣味のため
ハンマーとか錐が必要だったとか、調理用具として包丁が必要だったとかいった事情が考えられます)、
ホームセンターへ出向いたのだが、実際に購入した後、それをまじまじと見ているうちにムラムラと
殺意が沸き起こり、、、」

みたいな場合、そういった弁護側の説明が事実なら計画性はないということになるのでしょうが、
ホントかよー、という疑いは消せませんし、じゃあどうやってそれを確かめたらいいんじゃい(審理の
仕様がないよお)と途方にくれてしまいそうです。和歌山毒カレー事件裁判の事実認定だって、被告が
一貫して無実を主張していたわけですけど、シェンさんと違い推定無罪の原則を採用しない限りは、
有実か無実かと徹底的に審理しようと思えばものすごく難航を極めるであろうことは必至で、それと
同じような(あるいはそれ以上の)困難さを「動機なき殺意」の認定には感じてしまいます。

ナイフとかライフルとかボウガンとか、そういう武器の形状には、ある面実用性を追い求めた美しさって
ものがあると思うのですが、そういう危険な美に魅了(!?)されたから対人的に使用してみたくなった
のだ、といった言い分もそれなりに人間心理の一面を突いているんじゃなかろうかと。


あと、通り魔犯罪の計画性といった例だけでなくて、西村京太郎ごっこ的な犯行計画を認定する・しないも
なかなかに難しいことかと思われます。アリバイ偽装のためじゃなくて、たんに犯罪を円滑に遂行するための
計画を立てたという例を引き合いに出しますと、

「Cという都市に住むAがDという村に住むBを殺そうと思った。Bに会うために、
AはCからDまで最も早く移動できる方法を考えた。これは計画性の有無に関わるのでしょうか。 」

またまた>>1988の例で恐縮ですが、上記の文から「ある時点で明確な殺意を抱いた」的な箇所を
抹消してしまうと、やっぱりシェンさんの「動機なき殺意」あるいは「ポッと出の殺意」とやらの
可能性と、明確な旅行計画のみが残されてしまいます。そうなると、どうやって目的地への最適移動
手段を思案した計画と殺意との関連を見出すのか、言い換えれば旅行計画と犯行計画の境界線を
どこに引くべきか、という問題が浮上することでしょう。

まあ、シェンさんの仰る「動機なき殺意」を認定するには精神鑑定が必須でしょうから、結局のところ
現状における精神疾患の有無、あるいは精神科や神経科への通院記録の有無によっても、その考慮の
対象となるか否かはあらかじめ分かったようなものでしょうけれどもね。


以上が、私が「計画性」という言葉にこだわるところの背景ですかね。それと、単なる計画が
犯行計画として認められた場合、それが何のための計画なのか、によって罪の重さって変わる
のかなという疑問もありますね。たとえば、同じ殺人についての審理でも、アリバイ偽装のための
計画と、殺人の成功を期するため(目的どおりに遂行するため)の計画と、どちらが悪質なのかな、
という疑問ですね(笑)。たぶんこんな阿呆なことを考えているのは日本中で私くらいなものでしょけど。

>>1992-1993については後日レスいたします。

1996紫煙狼:2009/06/14(日) 20:58:26
>>1995
中崎タツヤ氏(漫画家)の「じみへん」という短編集の中で、人が物を使うという本来の
姿をはなれ、モノによって人は使わされる…という実態を暴いた作品があるんですね。

つまり、子供の頃初めて虫眼鏡を手にした、あの時の「使いたくってたまらない」感ですね。
特に必要もないのに、なんでも拡大して見て見たくなる、あの感覚。つまり、モノには
人にそれを「使いたい!」と思わせる魔力がある。ちなみに、その作品のオチは、
「コンドームを持っているが故に、誰彼かまわず異性を抱いて試したい…のは違うな」
という、非常に私好みのオチなのですけれど。。。

で、まぁ、それも確かにあるな、と思うわけです。時代劇に出てくる若殿様が新しい刀を
手に入れてしまい、その魔力に魅入られて、辻斬りを繰り返す…とかね。私自身、LEDの
懐中電灯(光の強いやつ)を買うと、何でも照らさずには居られない(笑)従って、
>「実は当時被告はフラフラっとホームセンターに寄って何気なく凶器となる得物を買って、
>それを見ているうちに人を殺したくなったのです。」
という弁明はありえるし、それが事実である可能性も否定できない。ならばいっその事、
裁判員は「自分の心象を第一に」考えればよろしいのかな…と。この弁明を一笑に付すも、
真剣に事実と受け止めるも、裁判員の心象ひとつに委ねて構わないのではないでしょうか?

また、
>アリバイ偽装のための計画と、殺人の成功を期するため(目的どおりに遂行するため)の
>計画と、どちらが悪質なのか
これも、心象に委ねましょうよ。それこそ「自由心象主義」で宜しいのではないでしょうか?
無理に計画性を認めて刑罰加重する必要も、無理に計画性を認めず情状酌量する必要も、
それこそ、まーーーーーーったく、ないんですよ(笑)

確かに、審理当日は「計画性がある!これは凶悪だ!もっと重い罰を以って!」と考えた裁判員が
後日「いや、あの時は冷静さを欠いていた。あそこまで重い罰を課す必要はなかった」と思うかも
知れませんね。それがイヤで、つまり自分のその時の見解が一生涯変わらぬ見解足るかの自信が
ないため、裁判員になるのを拒む人は多く居るでしょう。自ら望んで判事になるのと、ある日突然
裁判員に選ばれるのではワケが違いますものね。自分が誤った判断を下すのではないかという、
恐怖のため、裁判員制度に反対している人の存在は、私も無理からぬことと思います。

1997カレーライス:2009/06/14(日) 22:51:06
人に勧められてこちらに来ました。
すべてのレスを読んだわけではないですが、10ほどさかのぼって読ませていただいて興味深い書き込みがあったので私からもレスを付けさせていただきます。
犯行の計画性について話をしていたようですが、私は事件が衝動的に行われたかどうかが争点になのではないでしょうか?
例をいくつかあげたいと思います。

ケース1
加害者Aが被害者Bを常日頃殺したいと殺意を持っていたとします。
・ここではまだ殺人を犯していないため何の罪もありません。
加害者Aが被害者Bと口論をして殺害をした。
・ここで初めて殺人という罪を犯したことになりますがまだ計画性があったかどうかはわかりません。
加害者Aは被害者Bにひどくなじられたことに腹を立て、その場でBの首を絞め殺した。
・これはAがなじられたことによって衝動的に殺害したことにより計画性は感じられません。
加害者Aは被害者Bにひどくなじられたことに腹を立て、近くのホームセンターで包丁を買ってその包丁でBを刺し殺した。
・これはAがなじられるまでは同じですが、その場で衝動的に殺害したのではなく、包丁という凶器を用意することでより確実にBを殺そうとしていることから計画性が感じられます。

ケース2
加害者Aはホームセンターに立ち寄り包丁を見たときに誰かを殺したいと感じた。
・ここではまだ殺人を犯していないため何の罪にもなりません。
加害者Aはホームセンターに立ち寄り包丁を見たとき誰かを殺したいと思いそれを手にとって近くにいる人を刺し殺した。
・これは包丁を見たことによって衝動的に殺害を思いついて目の前の人を刺したため計画性は感じられません。
加害者Aはホームセンターに立ち寄り包丁を見たとき誰かを殺したいと思いそれを手に取り、店の外まで出て目についた人を殺した。
・これも上記と同じで衝動的に殺害を思いつき人を探して殺していることで計画性は感じられません。

ケース3
加害者Aは誰でもいいから人を殺したいと思った。
・ここではまだ殺人を犯していないため何の罪にもなりません。
加害者Aは誰でもいいから人を殺したいと思い、目の前にいる人を首を絞めて殺した。
・これは衝動的に誰かを殺したいと思い目の前の人を殺しているため計画性は感じられません。
加害者Aは誰でもいいから人を殺したいと思い、包丁を購入し人を目の前の人を刺し殺した。
・これは包丁を購入することによってより確実に人を殺す方法を考えていることから計画性を感じられます。

殺意を持つと同時に衝動的にその場で人を殺した場合は計画性はありませんが、凶器を用意するなどより確実に相手を殺害する方法を取ることにより計画性が発生するのではないでしょうか?

1998無精髭:2009/06/14(日) 23:34:41
>>カレーライスさんへ

はっきりと書いて下さったから気がついたのですけど、
殺意と衝動性って確かに区別して然るべきことですよね。

で、凶器を選択したり準備したりすることが計画性に当たるというのは
頷けますよ。紫煙狼さんとまったく同じ意見ですからね。

・・・って、ここ最近の流れにレスをお付けになられたか(苦笑)。
死刑存廃議論から滅茶苦茶逸れちゃっているのですけど。。。
まあ、半分以上は私の責任ですがね。

私は>>1995で申し上げたように、紫煙狼さんの>>1992-1993に対するレスを
考えなきゃいけないので、すぐには死刑議論に参加できませんけど、
過去ログのなかで是非とも読んで頂きたい・議論をする上で知って置いた方が
良いレスなどを指示することはできますから、まあ、分からないことがありましたら
聞いて下さい。

ちなみに、こちらの死刑制廃止派の論客はシェンさんこと紫煙狼さんです。
紫煙狼さんは常連さんですし、他のスレッドにも多数レスを書いておられる
方です。もちろん今現在もご健在です。もう一人、Kenさんという方も死刑廃止論者
なのですが、この方も紫煙狼さん同様常連さんだったのですが、今ではなかなか
降臨して下さいません。でもこの方も紫煙狼さんに勝るとも劣らない論客です。

実を申しますと、死刑廃止論者としてこのスレに書き込んでおられる方は
このお二人だけです(苦笑)。


>>シェンさん他、諸賢のみなさまへ

お勧めいたしたのは私です。2ちゃんの死刑関連スレで少しの間お付き合いさせて
いただきました。この方は死刑存置論者で、あちらでのレス内容を見る限り、
誠実な方とお見受けしたので、より有意義な議論をと考えまして、こちらの
掲示板を紹介させていただきました次第です。

1999無精髭:2009/06/14(日) 23:55:25
ちなみに、本当にこちらのbbsは書き込み頻度が低いので(一週間以上更新されない
ということはざらです)せっかく書き込んでもレスが付かないということが珍しく
ありません。ですから、焦って議論を吹っかけるよりも(荒らしでもない限り、
そういう人はたぶん相手にされません)気を長くしていてちょくちょく覗いて見るほうが
好いかと思います。ネットでの活動拠点なら、今までどおり2ちゃんでもかまわないと思います。
ただ、真剣に議論したい場合(見識を深め合いたい場合)はこちらを利用する、というふうに
決めればいいかと。まあ、空いた時間を使って過去ログを読んでみて、気になった書き込みに
レスを付ける、というのが一番ですかな。紫煙狼さんやKenさんの過去の書き込みに的確に
レスを付ければ、十中八九レスが期待できるかと思います。

あと、まあ、今更カレーライスさんに申すのは釈迦に説法ですが、感情的にエスカレートした
表現とか、議論相手を尊重しないような口調は、ここではご法度ですのでお気をつけ下さい。

2000無精髭:2009/06/14(日) 23:58:33
もちろん、私もできる限りカレーライスさんの書き込みにレスを付けたいと思います。
これから色々とご教示いただければと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

2001カレーライス:2009/06/15(月) 16:34:52
>>2000
レス遅くなりました。
スレを全て読んでからレスしようかと途中まで読んでいたのですが…さまざまな人の書き込みで正直頭がパンクしそうになってしまいました。
ですので少し方向性を変えてレスさせていただきます。

ここで私の死刑存置論を発表させていただき、反論などありましたらその都度おっしゃっていただいたり、すでに議論がなされた事柄にはそこを指摘していただければと思います。
前述した通り、私は死刑存置論者です。
ですが私自身は死刑は本来ない方がいいと思っています。
しかし現在の日本では死刑は存置するしかないと思っているため死刑存置論者と言えるだろうと思います。
ここではなぜそのように考えるか、そしてそこに至る経緯を説明させていただき私の存置論とさせていただきます。

Ⅰ 死刑がなぜ存置すべきなのか
 一言でこれを表すならば「死刑廃止後の受け皿が整っていない」です。
 これをいくつかの状況にあてはめて考察してみます。
 

 ①死刑の役割
  まず近代司法においてなぜ死刑という理不尽極まりない刑罰が生まれたのかを考えていただきたい。
  死刑に何を望み、なぜそれを運用しているのか?
  それは一般の刑罰と同じく
  1.目的刑論に示される抑止力
  2.応報刑論に示される報復による被害者及び遺族、社会の感情の沈静化
  の2つになります。
  具体的に取り上げると「1.目的刑論に示される抑止力」とは一般予防と特別予防の2つに分けられます。
  特に死刑に限定した一般予防及び特別予防がなければ死刑を存置する理由にはならないと言われていますがそれがあるかないかを考察してみましょう。
  
  まずは一般予防からですが、一般予防とはアクション(犯罪)に対するリアクション(刑罰)のリスクを課すことでアクションを起こさせないようにすることを言います。
  つまりどのような刑罰であれ、そのリスクを感じなかったり、感じたとしても脅威に思わなかったり、リスクを考えない人には全く意味はありません。
  死刑廃止論で言われる死刑に特別な抑止力はないというのは殺人のような重大犯罪ではその衝動性や欲求の多大な増大、完全犯罪を目論む計画性の上で抑止力が働かないと言われています。
  では、実際に犯罪に対する抑止力はないのでしょうか?
  これを証明することは誰にも出来ません。
  しかしある程度の考察は可能となります。
  
  死刑存置国が死刑廃止国となり、死刑の執行を取りやめたときに必ず起こるのがある種の犯罪の増加です。
  それはマフィアなどと呼ばれる犯罪を管理し、犯罪によって利益を生むことを優先する集団の報復行動及び、殺人とテロリストなどによる警察官や要人の殺人の増加です。
  特に死刑廃止直後はそれが顕著に見られます。
  彼らは犯罪に対する刑罰のリスク管理を集団単位で明確に行います。
  これは個人の利益による犯罪とは異なり、集団の利益で犯罪を犯すため、犯罪を犯した個人が死刑になるようなことはまず行いません。
  しかし、死刑が廃止されると今まで「これは死刑になる」と個人が判断し、行動を起こさなかった者が行動を起こすためです。
  これらは はまの出版「人はなぜ、人を殺すのか?」小田晋著 にも書かれているもので興味がある方は読んでみてください。 
 
  このことにより死刑の一般予防はおそらくあるだろうと考えることができます。
  次に特別予防ですが、特別予防とは1度罪を犯した者に2度と罪を犯させないようにすることを言います。
  これは明確に受刑者が死亡しているため、要件を満たしています。 

  次に「2.応報刑論に示される報復による被害者及び遺族、社会感情の沈静化」ですが、これは日ごろテレビでニュースなどを見ていれば加害者に「死」を与える刑罰として十分にその有用性が見て取れるでしょう。
  特に光市母子殺害事件において被害者遺族である本村さん、オウム真理教「被害者の会」の高橋シズエさん、名古屋OL拉致殺害事件の磯谷さんなど多くの遺族から死刑の声が上がり、その声に社会も同意しています。
  
  また、世界の廃止国でも凄惨な殺人事件、特に子供が犠牲者になるような凶悪な殺人事件が発生した時などは死刑復活の声が上がります。
  オーストラリアで世論調査をを行ったところ、事件の直後は死刑復活の声が60%を超えることもあります。
  また平時であっても子供が犠牲になる事件にでは死刑は復活すべきだという声が約半数あります。
  これは特にオーストラリアに限ったことではなく、他の廃止国でも同じような状況にあります。

2002カレーライス:2009/06/15(月) 16:36:18
 ②死刑の代替案
  現在死刑を廃止した後に死刑の代替案として浮上しているいくつかの刑罰を紹介させていただきます。

  1.絶対的終身刑
   現在、日本において死刑の代替案として最も有力視されているのがこの(絶対的)終身刑です。
   これは死ぬまで刑務所に留め置き、2度と社会復帰をさせない刑罰で、日本の廃止論者のほとんどがこの刑罰を持って死刑を廃止すべきだとしています。

   では実際この絶対的終身刑がどのような刑罰であるかを考察してみましょう。
   どのような国でこの絶対的終身刑が採用されているのか。
   世界の主要国ではアメリカ、中国、イギリス、オーストラリアを含む数カ国しかありません。
   100カ国以上あると言われる死刑廃止国及び死刑停止国ですが、この絶対的終身刑を採用している国はイギリス、オーストラリアを含むたった数カ国しかないことは意外と知られていません。
   1980年代以前には死刑廃止国でもまず絶対的終身刑を採用していました。
   しかし現在では絶対的終身刑を採用している国はほとんどありません。
   その理由が「死刑と同等かそれ以上に残虐な刑罰であり、人権尊重の見地からあってはならない刑罰である」というものです。
   つまり、本来死刑の廃止は人権を尊重するからこその廃止であり、そのあとに絶対的終身刑を採用することは死刑を廃止する意味がないということです。

   ここで1つ考えなくてはならないのが「では人権とはなんだろう?」ということです。
   日本において生存権は「生きる権利」であり、生きていればいい権利だと勘違いされがちです。
   これは生存権とは日本の憲法第13条にある幸福追求権を指すということです。
   人権先進国と呼ばれるEUの各国でも昔は絶対的終身刑が存在していました。
   ところがだれも予想しないところから死刑復活の声が上がりました。
   それはなんと絶対的終身刑受刑者からの声でした。
   イタリア・フランス・カナダではこの絶対的終身刑受刑者から死刑を復活して自分たちを殺してほしいと政府に対して嘆願書が提出されました。
   その理由が「将来に希望がない我々の人生は無に等しく、毎日少しずつ命を削られるような刑ならばいっそ死刑にしてもらうほうがましだ」というものでした。
   
   ではこの絶対的終身刑とは実際どのような刑罰なのでしょうか。
   この刑罰の最大の特徴は仮釈放がないということです。
   つまり一旦収監されると二度と社会に復帰が出来ないため、希望もなくただただ死ぬまで単純な毎日を繰り返すだけとなります。
   ここで一番問題なのが受刑者の心の問題です。
   希望がなく、生きていること自体が無意味に感じるようになり、ストレスから精神に異常をきたし精神病(拘禁ノイローゼ)になる人、人格破壊が起きてしまう人、自殺する人が多数発生しています。
   そして「死刑以上に残虐な刑罰」といわれる所以がここにあります。
   受刑者の体調管理は国の義務となります。
   つまり精神病を患ったり、人格破壊が起こったり、自殺未遂をしたりした場合、国はそれを治療する義務があります。
   そして治療が終わるとまた収監します。
   しかし、たとえ治療をしたとしても彼らの病気の原因が刑罰にあるためまた収監されて同じ病気にかかります。
   治療→収監→再発→治療→収監→再発のスパイラルが死ぬまで永遠に繰り返されることになります。
   途中で自殺が成功するか、意思の疎通さえも不可能な廃人となるか、この刑罰本当に恐ろしいところはここです。

2003カレーライス:2009/06/15(月) 16:36:38
  2.相対的終身刑
   相対的終身刑とは仮釈放が認められた終身刑のことです。
   つまり日本の無期懲役から懲役を取り除いた刑罰だと考えればいいでしょう。
   つまり日本に無期懲役がある以上採用されることはありません。

  3.無期懲役
   現在日本で採用されている懲役刑。
   近年最高有期刑年数が30年となったため仮釈放の期間が大幅に上がって来ています。
   平均でおよそ30年、最高50年を超える受刑者もいるため、他の懲役刑と同様に受刑者の平均年齢が年々上昇してきています。
   これによって新たな問題として獄中死と出所後の社会復帰が不可能となるなどの問題が発生しています。
   これは世界でも同様の問題が発生しており、フランスの新聞で懲役が20年を超えると社会復帰が困難になるという記事が出て世界的に懲役刑の長期化に歯止めをかけるきっかけとなりました。
   確かに30年、40年の服役期間を経て70歳、80歳になって出所してどのように生活するかというのは大きな問題でしょう。
   アメリカでは長期服役を経て出所した受刑者の自殺が社会問題に発展したことすらあります。
   日本では受刑者の数が少なく、出所後どのように生活しているかを発表することがないためどうなっているかはわかりませんが、おおよそまともな社会生活が出来てるとは考えにくいでしょう。
   
  4.長期有期刑
   これは懲役何十年、何百年と呼ばれる刑罰です。
   これも有期ではあるが、生涯刑期が終わらないという意味で仮釈放がなければ絶対的終身刑、仮釈放があれば無期懲役とかわらない刑罰となります。
   
 
 さてここで①死刑の役割を②のいずれかの刑罰によって補うことが可能でしょうか?
 確かに絶対的終身刑であればその内情の悲惨さが社会に浸透することで死刑の役割を補えるかもしれません。
 しかし、人権尊重を名目に死刑を廃止するにあたって死刑と同等かそれ以上に残虐な刑罰と呼ばれる絶対的終身刑を採用するでは本末転倒であり、無意味と言わざるを得ません。
 かといって無期懲役があるのに相対的終身刑を採用する意味はなく、ただ単に死刑を廃止し、無期懲役だけでは軽罰化による犯罪の増加が否めないとともに、これでは被害者及び遺族、社会感情の沈静化を図ることは難しいと言わざるを得ません。
 つまり、死刑を廃止したとしてもその後に続く受け皿となるべき刑罰がないため、死刑を廃止できないという結論に至ります。

2004紫煙狼:2009/06/15(月) 21:55:20
制度を変えるということは、これは大事なワケでして、一般的な会社でも制度を変えるとなると
上を下へのおお騒ぎになるのは必定。しからば国をしておや、というわけで、試しに死刑制度を
廃止する…という不安定極まりない実験的な死刑制度廃止はあってはならないことです。
一事不再理ではありませんが、実験的に死刑を廃止した結果、凶悪な事件が増加し、結果的に
死刑を復活させた…という前例が出来上がれば、未来永劫、二度と死刑が廃止されることはない
でしょう。従って、死刑制度を廃止するとなると、余程に廃止の必要性が高まらない限り、無茶
なのですが、その必要性が高まる兆しがあるかといわれれば…今はないですね。当分は安泰です(笑)

ところで「死刑廃止後の受け皿が整っていない」という言葉が妙に引っかかったのですが、なぜ
「代替刑罰だけで現行の死刑制度によってもたらされているものを補充」しようとするのですか?
カレーライスさんの出す代替案(後に一刀両断に切り捨てられている案)はどれも、刑罰のみに
よって、現行の死刑制度のメリットを補充しようとするからナンセンスになるのではないでしょうか?

そこで、着目すべきは「報復による被害者及び遺族、社会の感情の沈静化」ではないかと思うのです。
もっと部分的に着目すると「報復による」という部分ですね。確かに現在は「報復」によって被害者
感情や社会不安を沈静化させている。それは事実です。しかし、逆に被害者感情や社会不安を沈静化
させる方法は、本当に「報復以外にありえない」「刑罰以外にありえない」のでしょうかねぇ…。

出発点はそこだと思いますよ?そこも併せて考えない限り、死刑に代替できる制度は生まれようもない
とは思いませんか??ついでに、カレーライスさんは死刑制度のメリットを強調していなさるが、
デメリットの部分は皆無でしょうか?そして、メリットを享受するのが第一であり、そのためには
一部のデメリットに目をつぶるべきなのか、逆にデメリットを排除するためには一部のメリットを
諦めなければならないのか。そういう視点で考えてみませんか?

2005紫煙狼:2009/06/15(月) 22:19:13
そもそも…カレーライスさんは近代刑法成立に関しては非常によく理解なさっているが、
其の先の「現代刑法」や「近未来刑法」「未来刑法」についてどのようにお考えですか?
つまり、今後どのようにしてゆくのが望ましいか?ですね。それは必ずしも今すぐの話
ではなく、長い将来を見据えて、どのような形にしてゆくのが望ましいか…です。

私も何度となく投稿していますが「今すぐ死刑を廃止するのは危険だ」と思っています。
そして、その理由の一端が「受け皿」問題であることは、言うを待ちません。私は時間を
かけてでも、デメリットを排除しメリットを享受する方法を整えていくのであれば、
デメリット排除のために死刑を廃止し、メリット享受のために報復ではない社会保障を
充実させなければならない、と考えているのです。
従って、現在死刑を廃止している国が多かろうが少なかろうが、そんなことには無関心だし、
現在死刑を廃止しているような国々が、たいそう立派な制度を拵えている、理想的だ!とも
さらさら思っていないのです。(参考資料の前文を埋める程度の役にしか立たんでしょう)
そして、そんな出来損ないの制度の国々を見て「でも日本よりはマシ」とも思えないですね。
デメリットを無くす為に死刑を廃止してメリットを諦めるならまだしも、また別のデメリット
を抱えてしまったようなアホな国に比べれば、死刑制度が存続している日本のほうが何万倍も
マシなのかもしれないと思いますよ?本当。

ただね…。裁判の主体が誰であるべきか?という問題については、私は永久にカレーライスさんと
平行線をたどりそうな気がしてなりませんね。なので(何度となく言っていることだけれど)今の
うちに私の考える裁判の主体を明確にしておきますと、私は「刑事裁判は被告人のために行われる」
と思っているのです。被害者を主体におくべきだというのであれば、検察官は被害者の代理人として
被告人を断罪すべきである、ともね。
刑法学の偉い先生方は仰いますね、国が被害者の報復感情を代行する。よって検察官は国の代理人と
して、被告人を断罪するのは至極明快なことである…と。国は個人から私的復讐という権利を奪う
代わりに、国が復讐を代行するという社会契約を交わした、なんて表現しますか?

私は、その考えたかを「古臭くてカビの生えた論理武装だ」と感じるわけです。

2006紫煙狼:2009/06/15(月) 22:52:19
たとえば…民事は原告と被告の両者のために存在しますね。私は民法のあるべき姿を
「両者の係争を円滑に、かつ円満におさめ、一定のルールの下で和解を促す」もので
あると考えています。従って、民事なら「喧嘩両成敗」ではないですが、両者とも
一定のリスクを負いながら、それぞれの思うところの権利を主張しあうわけです。

しかし…刑事はいかがでしょう?言い方は悪いですが、リスクを負っているのは
被告人だけではないですか?冤罪を除き、国が刑事裁判においてリスクを抱えている
とは、私にはどうしても考えられないのですね。いや、そのリスクがあるものとして、
被告人と国のどちらがより大きなリスクを抱えているか…と比較で話したほうが良い
でしょうかね?

私は全ての刑事裁判において「被告人の有利に」判決が下されるべきであると考えています。
ただし、現在の司法用語としての「被告人の有利に」とは意味を異にするものですよ?
何でもかんでも「被告人の有利に」の言葉の下、軽罰化していくとすれば、それはあまりに
馬鹿げています。これはね、子供のしつけと一緒で、本当に被告人の将来を考えればこそ、
厳罰を以って臨むべき場合は多々あるはずなんです。ションベン刑の受刑者を見れば、それは
一目瞭然でしょう。満期上等とばかりに、何ら更生せず野に放たれるクズどもを見てみれば、
軽罰化の愚かしさは誰にでも理解できるはずでしょう。私の言う「被告人の有利に」とは
言い方を変えれば「被告人のためになる刑罰を」であり、それは時として、非常に厳しい
罰を以って処断せねば更生できない。更生すらできない刑罰が被告人の有利であるわけがない。

こう考えると、心を入れ替え善に目覚めた囚人ですら野に放つことのできない絶対終身刑や
それを待ってか、待たずしてか命を奪う死刑は、全く以って被告人のためにならない。
これが果たして刑罰と呼べるのだろうか?と思うわけですね。それくらいなら、極端な話、
仮釈放ありの死刑の方がマシかもしれませんね。ところが今度は死刑を執行するタイミングが
非常に難しくなってくるでしょう?善に目覚める可能性まで奪う事になりますから。
いや、逆に、現行の法律に厳密に従って、確定後半年の間に執行する…を守るとか、
つまり更生するまでの猶予期限を明確に決める死刑ならアリかもしれませんよ?そのあたりは
各人の感じ方で結構です。私も「何が何でも死刑を廃止すべし!」と強硬姿勢はとりません。

子供のために子供に罰を与えるのが躾。親の気分や周囲の都合のために子供に罰を与えたら、
それは虐待ですよ。私は刑罰に躾を求めこそすれ、虐待を求めるのは許しがたいのです。
この延長線上には「被害者感情のため」や「社会不安の沈静化」という周囲の都合で、
死刑という罰を与えるのも、単なる虐待でしかない、という結論が待っています。

2007ufloat:2009/06/15(月) 23:00:32
お初にお目にかかります。
この掲示板の高度な議論についていく自信がなかったため、今までは
閲覧にとどめていましたが、カレーライスさんの書き込みに触発されまして、
私も愚考をつづってみることにします。お手柔らかにお願いいたします。
この掲示板はかなり以前から読んでおり、保持されているほとんどの記事にも
目を通しておりますので、過度のお気遣いは無用にてお願いします。

私は特に死刑廃止論者というわけではありませんが、カレーライスさんの
ご意見に対して、どちらかといえば死刑廃止の論調から、少しばかり
愚考をさせていただきました。
紫煙狼さんが言外におっしゃられていることを、一部でも表現できていれば
良いのですが、なにぶん勉強不足ゆえ、意図されたものとは異なることを
書いてしまっているかもしれません。その際はご容赦のほどお願いいたします。
1.一般予防効果について
カレーライスさんが「絶対的終身刑は残酷」とおっしゃられているように、
絶対的終身刑が死刑と同等程度に、あるいはそれ以上に残酷であるのなら、
死刑と同等程度の一般予防効果が実現される可能性は
大いにあるということになります。
少なくとも、死刑より極端に劣ることはないものと、私は考えています。
この仮定が正しければ、一般予防の観点では、絶対的終身刑は死刑の
代替案になりえるといえます。
2.特別予防効果
絶対的終身刑は永久に社会に出さない刑罰であるので、脱走などといった
まれな事情でもない限り、特別予防効果は死刑と同等です。
この点でも絶対的終身刑は死刑の代替案となりえます。
3.応報刑論
遺族や人々の感情は千差万別で、死刑が良いとも絶対的終身刑が良いとも
いえませんし、そもそも応報刑論を重視すべきかも定かではないので、
ひとまず保留とさせてください。
ここまではカレーライスさんのご意見をなぞっているだけですが、私が
大いに主張したいのは、以下の点です。
4.冤罪などに対する耐性
4大冤罪事件などを見ての通り、冤罪と死刑は切っても切れない関係です。
最近でも富山強姦事件などのような冤罪は発生していますし、足利事件は
最近の裁判所なら死刑を下してもおかしくないほどの事件でした。
死刑を執行してしまえば、後で冤罪が判明したとしても、処刑された人を
生き返らせることはできません。終身刑であれば、失われた時間は
取り戻せませんし、刑が長期にわたると獄中死の可能性もあるとはいえ、
冤罪で命を奪い去ることは回避できます。
これを考えると、一概に「絶対的終身刑は代替案になり得ない」とは
いえないのではないでしょうか。


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