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死刑制度についてひと言お願いします
1944
:
無精髭
:2008/09/08(月) 18:59:51
さて、勝手に話を戻させて戴きますが。
>>1938
シェンロンさん。ご指摘の程、どうもありがとうございます。正直申すと、性善説と
性悪説って、私には良く呑み込めないんですよねぇ。二つの説が結論においても本質的な点でも
同じということは、私も薄々ながら気が付いてはいましたけど。
>>1937
でリンクを張ろう
として結局止めたのですが、こんなのもございました。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/takagish/opinion/iitai1998-1/iitai001.htm
ご覧の通り、教育についてのお話です。二つの説の内、どちらをとるかによって人間の
自然的・生来的な道徳性への見方・解釈が変わるということですから、早い話が、教育
手段さえも異なって来る可能性があるのだそうです。否、現実を見れば、教育の仕事に
従事している人たちは、どちらの説をとっているにせよ、シェンロンさんが仰るように、
「道徳的鍛錬・陶冶によって人は徳を積むことが出来る」ということを前提にして、人に
教えている筈ですから、結局やろうとしていることには大差がないのかも知れませんね。
つまり、人類と言うのは、その個人の本性が善であろうが悪であろうが、集団においては
善を指向する傾向にある、ということでしょうかね。ロックとホッブスは人間本来の道徳性
(自然状態での人間観)について真っ向から対立している訳ですが、社会はその自然状態段階の
人間たちの契約によって生じたという点では同じ結論に達していますからね(理想とする
社会モデルは異なりますが)。共に社会契約説を主張できるということは、立場や主張の相違
以前に、社会とその形成を善とし、そこから必然的に除外される自然という状況を悪とする
(こちらの方は積極的に定義されているとは思われませんが)考えが疑われず、論者の頭の中で
暗黙の内に認められていなければなりますまい。まあ、哲学については、こんな画一的・
図式的な理解というのは本当は好ましいものではありませんが。
http://www.hkg.ac.jp/~sawada/kougi/02/02.htm
↑で解説されておりますように、前提(論証過程外の定義)と結論以外はかなり複雑です。
教育は、個人のためにあるとも言えますし(社会への適応力を付ける点で徳)、社会(又は集団)
のためにあるとも言えますから(社会維持及び発展にとって有用な成員を生み出す点で徳)、
どれだけご都合主義・共犯関係やねん!?、と、ある意味面白いのですが。
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