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Last Album

1 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 21:14:58 ID:jDTTQVVk0
収録作品

1.墓碑銘(Prelude)
 2014年08月作 01KB

2.涙を流す日
 2011年10月作 83KB

3.午前五時(Interlude 1)
 2013年04月作 03KB

4.雷鳴
 2012年09月作 28KB
 
5.ちぎれた手紙のハレーション
 2014年08月作 31KB

6.聖夜の恵みを(Interlude 2)
 2011年11月作 03KB

7.明日の朝には断頭台
 2014年09月作 28KB

8.壁
 2012年07月作 27KB

9.ジジイ、突撃死
 2014年09月作 26KB

10.ノスタルジック・シュルレアリスム(Interlude 3)
 2014年08月作 03KB

11.葬送
 2012年03月作 78KB

12.最初の小説(Interlude 4)
 2013年04月作 03KB

13.どうせ、生きてる
 2014年09月作 31KB

投下スケジュール
#1〜#2  09月28日夜
#3〜#4  09月30日夜
#5     10月01日夜
#6〜#7  10月03日夜
#8     10月04日夜
#9     10月06日夜
#10〜#11 10月08日夜
#12〜#13 10月10日夜

47 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:03:29 ID:jDTTQVVk0
初めて彼女がこちらに振り返った。愛すべき妻だ。その妻の、ほんの少し暖かみのある表情だ。
私はその姿を、何枚かスナップ写真にして脳裏に貼り付けた。

そこで彼女が投げかけてきた質問は、私の利己意識を少々抉るものだった。

ζ(゚ー゚*ζ「何故ここに来たの? この場所を知った理由は見当がつくわ。
      けれど、それならその後の展開にも感づいているはずよ。それなのに、何故?」

妻は私を真っ直ぐに見つめていた。新婚当時以来かもしれない。

ζ(゚ー゚*ζ「別に責めてるわけじゃ無いのよ。純粋な好奇心みたいなもの」

その目の色には何かが欠けていた。
私は返答と並行してその正体を考え、もしかしたらそれは愛情ではないのかと思いついた。

愛情、とは少々誇張した表現であるかもしれない。
けれどそれに似た諦観が私への表情に埋め込まれているようであるのは否めない。

(´・ω・`)「その質問は分かる。でも、僕にだって言い分があるぞ。
      そもそも、君が先に何の断りも無く家を出て行ったんじゃないか。
      その事を尋ねたいなら、まずは僕の質問に答えるべきだと思うけれど」
 
そのまま見つめ合って数秒、妻は軽く頷いた。

ζ(゚ー゚*ζ「そうね、その通りだと思う。本当、いつも理詰めばっかり得意なんだから」
 
先に質問権を得られたのは喜ばしいが、少々空気が険悪になってしまったような気がする。
普段の口喧嘩と同じようなパターンだ。彼女の感情論に、私が屁理屈のような論理で反論する……。

48 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:06:29 ID:jDTTQVVk0
(´・ω・`)「まず、聞かせて欲しい。君が何故家を出て行ったのか。そして、何故ここに来たのか」
 
その問いは、まさしく核心だった。ほんの少し、私自身が後悔するほどに。
だが私は、どこかでその問いに自らの内にある時間稼ぎの意図を感じていた。

ζ(゚ー゚*ζ「……そもそもの原因は分からないわ。
 
      あの日、いつもより早めに目覚めたとき、不意に頭にイメージが浮かんだ。
      それだけじゃなかったわ、私はまるで、誰かに操られているかのようにメッセージを残し、
      ほんの少しの日用品だけを持って家を出た。そのまま真っ直ぐここへ来たわ。

      お婆さんが出迎えてくれて……」

(´・ω・`)「つまり、君は誰かに洗脳されていると言うわけか。
     拉致誘拐の類いでは無いにせよ、自分の意思でもない……」

ζ(゚ー゚*ζ「当初はね。今は違う。少なくとも、自分の意思でここに滞在していると信じてるわ」
 
雑誌の情報通りだった。
妻にせよ、階下で議論を交わしていた人々にせよ、自らの意思でここに留まり続けているのは確かなようである。

49 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:09:46 ID:jDTTQVVk0
(´・ω・`)「では、何故ここに居続けているんだ?」

ζ(゚ー゚*ζ「……それをあなたに説明するのは難しいわ。だって、あなたにはイメージが見えていないのでしょう?」

(´・ω・`)「イメージというのは? 先ほども言っていたけれど、それが見えたからここに来たわけだ」

ζ(゚ー゚*ζ「それを説明するのも、難しいのよ。
       あくまでも頭の中の存在であって、実際にあるものの記憶というわけではないわ。
       使い古された言葉で表現してもいい?」

(´・ω・`)「例えば?」

ζ(゚ー゚*ζ「深淵がこちらを覗き込んでいる、というような……」
 
確かに聞き慣れた言い回しだが、具体性が伴わない。そもそもイメージとは何なのだろう? 

彼女の口調からは、何かそれが見える者と見えない者の間に絶対的な隔絶があるように感じられる。
そしてそれが、彼女が突然出て行った本質的な理由であるという、一見冗談のような弁明も、
彼女にしてみれば合理的であると思えるらしいのだ。

50 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:12:47 ID:jDTTQVVk0
ζ(゚ー゚*ζ「貴方に何を言っても伝わる気がしない。
       だから私も、他の人と同じように冷めた態度で貴方を追い返すべきなのかもしれない」

妻は、どちらかというと他人事のようにして言った。

ζ(゚ー゚*ζ「いつもはお婆さんも同席するのよ。事務的なお話をするためにね。けれど、私は今特別だから」

(´・ω・`)「特別?」

ζ(゚ー゚*ζ「ええ。お爺さんのお世話をしているの。指名されたのよ」

(´・ω・`)「世話……介護かい。食事を与えたり」

ζ(゚ー゚*ζ「ええ、下のお世話とか、単純な話し相手とか……」
 
私は何とも言えず、淋しいような気持ちに陥った。略奪愛の被害者になった気分だ。

ここまで、自覚できる程度に淡々と物事を見過ごしてきたつもりだったが、
彼女が赤の他人であるはずの実業家をお爺さんと呼び、その介護までもを任されているという事実は、
把握しきれないほどの違和感を頭に生んだ。

(´・ω・`)「実業家は、死にかけているというわけだ」

ζ(゚ー゚*ζ「ええ、もう先は長くないわね……」

51 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:15:23 ID:jDTTQVVk0
妻は何か言おうとして一旦口を噤み、逡巡の後に再び喋り始めた。

ζ(゚ー゚*ζ「ごめんなさい、もしかしたら混乱しているのではないかしら」

(´・ω・`)「ん、何が?」

ζ(゚ー゚*ζ「貴方にとって多くの知らない事実が、ここで吹き込まれたと思うの。
       それは私のことだけじゃなく、もっと大きな範囲での物事が……。
       貴方、まだ来て間もないんでしょう? 頭の整理が追いついていないんじゃないかと思って」

(´・ω・`)「確かに、驚くべき事が沢山あった。でも、然程複雑ではないような気がする。
      君がいなくなったことも、この街に辿り着いたことも、
      一つの線で結ぼうと思えば不可能ではない気がするんだ。

      その延長線上に何があるのかは分からないけれど」

ζ(゚ー゚*ζ「貴方は昔から、考えすぎるほどに考えているのね。大体正解よ。
       全てが繋がっていることも、その先に、根本的な原因があるということも。
       けれど、最もややこしいのは、その原因なのよ」

(´・ω・`)「僕程度の頭じゃ、その原因に追っつかないとでも?」

ζ(゚ー゚*ζ「もうすぐみんな死ぬのよ」

(´・ω・`)「ああ……ん?」

ζ(゚ー゚*ζ「『彩色の奇跡』は走馬燈だった。
       あれを見た人も、見ていない人も等しく、近々やってくる終わりの時に、一斉に死んでしまうのよ。
       ね、追っつかないでしょう?」

※ ※ ※

52 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:17:57 ID:jDTTQVVk0
私たちの間における何よりも大きな齟齬は、もうすぐみんなが死ぬという未来が、
妻には常識的な事実として身体に染みついてしまっていると言うことだ。
いや、彼女だけでなく、この街の住人全てにとって目前の死こそが、唯一にして最大の共通認識なのであろう。
 
もうすぐ死ぬ……当たり障りのない表現だ。
彼女の言葉を鵜呑みにするならば、人類という種そのものが、誇張でも何でもなく絶滅すると言うことになる。

それはどういうことだろう? 
唐突に六十九億全てに想像を巡らせるのは土台無理な話だ。
私はその言葉を、出来る限り最小化して解釈することにした。

(´・ω・`)「と言うことは……死ぬわけだ。君も、僕も」

ζ(゚ー゚*ζ「ええ」

53 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:22:11 ID:jDTTQVVk0
彼女の説明を要約すると以下のようになる。
 
そもそもこの場所へ集まってきた人々は、当初自らの来訪の意義を解明するところから始めなければならなかった。何故自分たちがここへ来たのか分からない。しかし、帰るつもりもない……
自分と、自分以外では何らかの隔たりがある。それだけは確信できていたらしい。
 
集まった全員の頭に、一定のイメージがあった。
ぎこちないやり取りでそれらが共通のものであることが分かり、次にはそのイメージが、
死に関するものであると理解した。

それでも、まさかそれが『彩色の奇跡』に関係し、あまつさえ全世界に影響が及ぶとは考えもしなかったらしい。
更に考察を続けようとしたとき、人々は件の実業家、そしてその昔の愛人であった老婆と邂逅した。
全員の意見を総合し、議論を重ねた上で、最終的に仮説をたてたのは実業家だった。

誰もが等しくそれを受け入れたのは、恐らくイメージという名の超常現象を既に体験していたからだろう。
この辺り、カルト宗教の論理に通ずるところがある。
 
そうして人々は彼らなりの真実を掴むことが出来た。
しかしそれが、自分たち以外の人々に納得できるものではないということも、同時に悟っていた。

だから彼らは決して外部にそれを漏らさぬようにし、ただひたすら世間と隔絶された者として、
この街で最期の時を過ごす決断を下したのである。
 
……ちなみに、雑誌に書かれていた、失踪から電話がかかって来るまでの二ヶ月という期間は、
それらの議論の成熟、また必要な手続き――大半は、諸々の費用を全て実業家が負担するという手続き――
を待っていたためであるそうだ。今では、もう少し早めに全てが済まされるのだという。

54 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:25:14 ID:jDTTQVVk0
ζ(゚ー゚*ζ「お爺さんの具合が急に悪くなって、寝たきりになってしまったのが半月前ぐらい。
       ちょっとした騒ぎになったわ。死の迫力に耐えられなくて、自ら死を選ぶ人も沢山いた。
       やっぱり、頭の中のイメージ以上に、お爺さんの危篤は具体性があったんでしょうね」

(´・ω・`)「もう真実を隠す必要が無いと言われたが、そういうわけだったのか」

ζ(゚ー゚*ζ「うん、だから私は貴方と二人きりで、包み隠さず全部を話せているのよ。
       お婆さんは、もう一ヶ月ももたないと考えているみたいね」

(´・ω・`)「しかし、どうして実業家の危篤がその他大勢の命を脅かすんだい? 
     それとこれとは別の話ではないだろうか」

ζ(゚ー゚*ζ「仮説に含まれているのよ。お爺さんの死こそが、みんなの死であると……。
       何故なら、『彩色の奇跡』を発見したのは、他ならぬお爺さんなのだから」
 
……最早何も驚くことはあるまい。彼女の理屈は、正直なところまったくもって意味不明だったが、
それを彼女が真摯に主張していることは流石に分かる。ならば、私は真実として受け止めざるを得ないではないか。

(´・ω・`)「君たちの頭にあるイメージは、あの『彩色の奇跡』が走馬燈であり、
      それを見つけた実業家の存在にも、運命的な意図があると示しているわけだね」

ζ(゚ー゚*ζ「何より、当時『彩色の奇跡』があんなに評判になったこと自体、他に説明のしようが無いでしょう。
       貴方も観たでしょう? 私も子どもの時に観たわ。なぜだか分からないけど、素晴らしいと思った。
       でも、あれが走馬燈だと思えば、大評判にも説得力がつくと思わない?」

55名も無きAAのようです:2014/09/28(日) 23:26:57 ID:QbMxjcro0
読んでるぞー

56 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:29:05 ID:jDTTQVVk0
(´・ω・`)「……うん、そうだね。そうなんだろうね」
 
私は軽くいなすような返事をする。私のような一般人からしてみれば、
彼女の主張は――例え直近の事実であるとしても――詐欺まがいの言説にしか聞こえない。
何一つ追っつかないのだ。真剣な表情の彼女にも、理解の及ばぬ自分にも、私は等しく苦々しい思いを抱く。

コミュニケーションの不全もここまで過剰であると、劣等感すら覚えられない。
 
私に向かっている妻の表情が、ほんの少し暗くなったような気がした。
無理解に気付いたのだろう。口を尖らせ、肩を落とした。

ζ(゚ー゚*ζ「……やっぱり、分からないのね。そうだろうと思ったけど」

(´・ω・`)「君の真意は、分からないでもないよ。でも、手段が間違っているような気がするんだ。
      君に限らず、街の住人全員の手段がね。もっとスマートなやり口があったろう。
      僕はさっき、階下で変な議論を交わしてきた。その時は意味が分からなかった。

      あんな問題に、真剣に取り組んでいる意味がね。
 
      でも、もうすぐみんな死ぬと、全員が思い込んでいるなら仕方が無い。
      ああいう話をする価値もあるだろう。でもやはり、衒学的過ぎるんじゃないかい。もっとすべきことが……」

57 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:33:06 ID:jDTTQVVk0
不意に私の口から言葉が途切れた。言葉は、妻の奇妙な表情によって掻き消されてしまったらしい。
彼女は、まるで涙を流さずに泣いているようだった。

ζ(゚ー゚*ζ「貴方はいつも正しいわ。私だって、そう思うもの」

彼女はそこで台詞を切り、微かに憂鬱を付け加えた。

ζ(゚ー゚*ζ「でも、そういうものだと思わない? 
       だって、あの子が死んだとき、私は貴方に同じような気持ちだったんだもの」
 
……それは、予想だにしていなかった反撃だった。私は思わず黙りこくった。
預けたままの息子の死への涙を思いだし、それでも不可思議なほど冷静だった。
ただ、声ばかりがつっかえている。
 
無論、彼女が忘れているはずもない。例え世界的な死が待ち受けていると予感したとしても、
息子の死がそれよりも重要であることは言うまでもないのだ。
それを知ると、彼女の顔つきが涙を堪えるものに見えてきた。

58名も無きAAのようです:2014/09/28(日) 23:35:56 ID:LVqR.kvU0
相変わらずがっつりくるな

59 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:37:14 ID:jDTTQVVk0
ζ(゚ー゚*ζ「……ええ、勿論忘れてなんかいない。私は確かにここに住む決断をしたわ。
       貴方に全てを伝えることが無駄だと感じたし、それは今でも変わらない。
       でも、一時たりともあの子を、家族を忘れなかったの。でも、私はここに残り続けている。

       ……ねえ、矛盾しているのかしら。本当に大事なものは、一体なんだったのかしら」

(´・ω・`)「だから君は、二ヶ月の間、僕に何一つ連絡を寄越さなかったんだね。整理がつかないから。
      僕たちと、この街……どちらかに依れば、どちらかが分からなくなってしまうから」

ζ(゚ー゚*ζ「私は、貴方の前でみっともなくあり続けていたわ。だって、泣いてばかりだったもの。
       今だって、まだ泣ける。だから、貴方がまったく泣かないことが理解できなかった。
       怖かったのよ。私はあの時、貴方と同じ価値観を持っていると思っていたから」

(´・ω・`)「泣かない理由は、未だ僕にも分からないよ」

ζ(゚ー゚*ζ「あの頃に戻りたいわ。いえ、その前でも構わないのかもしれない」

(´・ω・`)「そうだね……また一緒に、あの子の写真を撮ったり、
      不器用な食事を作ったり、テレビドラマに文句をつけたり」

ζ(゚ー゚*ζ「愛し合ったり?」

(´・ω・`)「……勿論、それも無いと嘘になる」
 
ちょっとだけ笑う。私たちの間の問題は、何一つ解決していない。
勿論、もうすぐみんなが死ぬと言うなら、それも滞りなく進行するだろう。
しかしそれでも、多少穏やかになれたようだった。

60 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:40:48 ID:jDTTQVVk0
息子について。

懺悔すると、事故のようなものだった。
息子の誕生は、私たちがそれを目的として励んだ結果ではなかったのだ。
私たちは当然のごとく避妊をしていた。しかし悪いことには、この世のあらゆる避妊具は万能ではないのだ。
 
ある日の行為の後、やがて妻となる女性は私に、慣例の日が長らく訪れていないことを告白した。
その時に私が一瞬、呆然となったのは抗えぬ事実である。

当時私はまだ二十五で、大学を卒業して仕事に就いて間もない時合いだった。
経済的にも個人的にも、子どもという概念は想像上にも据えがたいものであった。
そう、だから、一瞬堕胎という単語も過ぎった。
 
しかし、結局はそうならなかった。それから暫く後、婦人科から帰宅した彼女が、懸念の確定を述べたわけだが、
その際に私は、あまり取り乱すこと無く、むしろ自分でも驚くほど冷静に出産を承認した。

彼女の気持ちはどうだったか。多分喜んでいたと思う。
常から子どもの話をしていたのは彼女の方だったし、子育てというものに一種の憧憬を抱いている節もあった。
 
それからは正しく、てんやわんやだった。
人の世では、先立つものが無ければ自然の摂理を果たすのもままならない。
私たちは互いの両親に事情を話した上で、経済的な支援を申し込んだ。

双方とも案外と喜んでくれ、金の心配はいらない、と心強い言葉をかけてくれた。
そして私たちは、実にどたばたと結婚式を挙げた。一通りの事務手続きと儀式を終えると、
最早妻となった彼女のお腹はすっかり膨らんでいた。

その時には子どもが男であると判明しており、親戚一同の援助のおかげで出産への準備も整いだしていて、
妻は子どもの名前をあれこれ考えるのに躍起になっていた。

61 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:44:01 ID:jDTTQVVk0
そして出産の当日、運良く有給を獲得した私は、妻のいる分娩室の前で、阿呆のように口を開けて座り込んでいた。

何も考えていなかった。
これから自分の子どもが生まれることも、妻がそのために命懸けで苦痛を堪えている事も全て忘れ、
ただひたすら空白のような時間に空白のような態度で対抗していた。

その時ですら、私には何だか、子どもというものが想像上の何かであると信じていたのかもしれない。
 
しかしやがて息子が誕生し、その顔を一目見ると、私の中で何やら奇妙なイメージが湧き上がった。
それは、あえて言語化するならば、薄氷のように脆弱なガラス玉が粉砕されるようだった。

次いで、私は何かとんでもないことをしでかしてしまったのかもしれない、という、
こちらは明確な文字情報が脳裏を走った。
初めてその矮躯を抱き上げてもなお、その構図が我ら『親子』であるとは想像しがたかった。
 
とはいえ、これは断言するが、私は決して息子を愛していなかったわけでは無い。
むしろ、息子のためにビデオカメラを購入して容量一杯に家族を記録したり、
休日は彼のご機嫌取りに終始したりするほどには子煩悩だったのだ。

私自身にいくら親の自覚が欠けていたり、或いは実感の湧かぬ家族関係であったとしても、
彼が愛らしく、また保護すべき対象として映っていたのは間違いない。

62 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:47:09 ID:jDTTQVVk0
彼を育てていた五年間は、後にも先にも二度と訪れまい多幸感に日々苛まれたと言っても過言では無い。
そう、だから、私は間違いなく幸せだった。あの頃の私の世界は、まさしく完成形と言っても良いだろう。
愛すべき妻は若く美しく、息子は手がかかるが故に微笑ましく、両親も丁度良い年頃だった。

出来ることならその時、私はほんの少しだけでも時計を止めて、人生におけるちょっとした休憩を満喫したかった。
時間は前に進む。うん、わかってる、だけどちょっと待ってほしい、ここらで一服したいんだ……という具合に。
 
しかし時間は進んだ。息子はみるみるうちに成長し、ほどなくして幼稚園に入った。
息子は可愛らしいままだった。私たちは相変わらず彼を溺愛しており、特に妻はこの頃、
彼のファッションセンスを磨くことに執心していた。

貴方みたいに無頓着になっても困るから。
そう笑いながら、彼女は色々な服を息子に着せてはあれこれと考察していたのだった。

そんな具合で毎日は進んでいた。特筆すべき事は何もなく、だからその日も何の前触れもなく訪れた。
仕事中の私の携帯に妻から着信があった。受話口の彼女は酷く冷静であるように感じられた。
妻は、彼女が少し拗ねているときと同じ低い声で、息子が死んだと言った。
 
その日、自由時間に園庭で遊んでいた息子は、壮大な冒険のために園の外に出てしまったらしい。
それ以上の状況はよくわからない。
息子の友人の一人は、こう言っていた。どーんって、すごくとんだんだ。

息子には友達が居たんだ。そんな安堵を覚えていた。
 
車に撥ねられた息子はアスファルトに叩きつけられて逝った。
それが結果だ。そして、それで全てが終いになった。

※ ※ ※

63 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:50:12 ID:jDTTQVVk0
(´・ω・`)「君はどうして実業家……お爺さん、とやらの介護を任されたの?」
 
実業家の部屋は、その肩書きにふさわしく最上階にあるらしい。
そこへ向かう道すがら、私は個人的に最も気になっていたことを妻に問うた。

ζ(゚ー゚*ζ「指名されたのよ。寝たきりになったとき、本人から直々にね。
       彼、それまではお婆さんと二人で生活していたのだけれど」

(´・ω・`)「ふうん。死にかけてるとは言え、視力は狂っていないようだね」

ζ(゚ー゚*ζ「なに、妬いてるの?」

妻の含み笑いに、私は冗談めかして頷いてみせる。
頭の中で渦巻いているのは、矜持のような、敗北感のような。

とあれ、妻が私への愛情を失っていないことは何よりの僥倖だった。
その愛情が、少しばかり手元から遠ざかっているにしても、私にしてみれば不在でないだけで十分だ。
 
到着したエレベーターを降りたすぐ先にある巨大な扉を妻が押し開く。

あまりにも広々とした室内は、街の風景に似てがらんとしていた。
元々置かれていた調度品の類いは全て片付けられたらしく、
片隅のダブルベッド以外に目立った家具は見当たらない。
 
ダブルベッドの傍の椅子に、老婆が座り込んでいた。

私たちに気付くと重たそうに腰を上げ、部屋を出て行く。
妻の名前を言った時、老婆が見せた複雑な表情の意味が今なら分かる。
妻の方が若く美しいのは、誰から見ても明らかだ。

64 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:53:31 ID:jDTTQVVk0
実業家は、ベッドに身を埋めて真っ直ぐ天井を見つめていた。思っていたよりも遙かにちっぽけだ。
そして、その痩身は確かに死の空気を纏っていた。しかし、黒目ばかりのような双眸が私たちを捉えた途端、
彼の表情にみるみる生気が宿っていった。上体を起こし、私に手を差し伸べる。

/ ,' 3「ようこそ」

枯れたような腕には、意外なほどの力が込められていた。

/ ,' 3「すまないね、君の美しい奥さんを、小間使いのようにしてしまって」

(´・ω・`)「いえ、妻も嫌がってはいないようです」

私はどうしてもこの老人に好感を抱くことが出来ない。

(´・ω・`)「私としては、少々残念なことですがね」
 
無論、信頼など出来ようはずもない。目の前にいる男は、ともすればとんでもない妄想狂であるかもしれないのだ。
そう、私は少しだけ、ほんの少しだけ、この老人を論破出来るかもしれないと思っていた。

私の最低限の条件は妻の顔を一目見ることだが、それが果たされたことで、欲は際限なく膨らみ始めている。
願わくは『彩色の奇跡』にまつわる不可解な噂を覆し、妻との齟齬を埋め合わせて、
一緒に家へ帰るところまで持って行きたかった。

65 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:57:16 ID:jDTTQVVk0
/ ,' 3「私は、これまで君のような一般人をここに呼んだりはしていなかったんだ」

老人は、握手を解いて私に笑いかけた。

/ ,' 3「君を呼んだのは他でもない、私の伝記を誰かに伝えたかったんだよ」

(´・ω・`)「ははあ、伝記ですか」

と、私は言った。

/ ,' 3「出来れば私を信じていない者の方が良い。客観的な議論が出来るだろうからね。
   君、君は私がこの世界を作り、そして終わらせるのだと言えば、信じるかね」

(´・ω・`)「いいえ」

と、私は言った。そして肩を竦めてさえみせた。

66 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/28(日) 23:59:14 ID:jDTTQVVk0
(´・ω・`)「少しよろしいですか、ええと……」

/ ,' 3「何と呼んで貰っても構わないよ。そして、もっと砕けた口調で話してもらって構わない」

(´・ω・`)「ええ、では失礼ですが……貴方のような人間を、世間一般ではこう呼ぶと思うのです。ぼけ老人と」
 
妻は私たちを無表情に見つめていた。
私は少し挫けそうになったが、何とか持ち直して老人を真っ直ぐに見据えた。この勝負に敗れるはずもない。
今までに養ってきた経験や常識が、私に味方してくれているのだから。

/ ,' 3「君に一つ、尋ねたいことがある」

と、老人は言った。

/ ,' 3「あらゆる人にとって、その人が見ている世界はその人のために作られていると思うかね」

(´・ω・`)「そりゃあまあ……そうでしょう。少なくとも、その人にとっては」

/ ,' 3「では、どうだろう。今まさに……発展途上国で、栄養失調の妊婦のお腹から赤ん坊が生まれた。
    彼は物心もつかぬうちに、五十パーセントの確率で餓死することになる。
    彼の人生に意味はあっただろうか。そして彼の世界は、彼なりに形成されていただろうか」

(´・ω・`)「それは極端なたとえですよ」

/ ,' 3「そう思えるのは、私たちが裕福な環境で育つことが出来たからだ。
    巨視的に見れば、私たちはこの国に生まれただけで、ずいぶんな幸福を享受しているのだよ」

(´・ω・`)「貴方などはまさにそうなのでしょうね。何せ、世界一の大富豪だったのだから」

私は、再び訪れた『大きな問題』に頭痛を覚えながらそう言った。

(´・ω・`)「しかし、それは傲慢というものです」

67 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:02:34 ID:NLjW9Fhg0
/ ,' 3「逆に訊くが、この世界が私の世界ではなかったと、どうして言える?」

(´・ω・`)「何ですって?」

/ ,' 3「八十年近く前、私の人生は一般家庭の元で始まった。
    何の変哲もない、しかし這い上がるチャンスのある環境だった。
    私は順調に義務教育を終え、この国で最も高い水準の大学を卒業した。

    そして就職、十年後には独立を果たし、小さな企業を立ち上げた。
    そこから更に十年かけて、一大企業に育て上げた。

    それからしばらくして、例の『彩色の奇跡』を見つけたんだ。
    ここから先は君も知っているだろう。私は偉大なる成功を収めた。
    そしてそこから、偉大なる転落をも経験した。

    私に残されたのは、僅かな財産と孤独と、この街だけだった。
    私はここで死ぬ覚悟を決めた。その時は、私の世界がこの街程度の大きさだと思っていたのだ。
    しかし今、集まってきた人々によって私の世界は大きく広がった」

68 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:05:04 ID:NLjW9Fhg0
(´・ω・`)「妄言ですよ。みんなが死ぬなんて、何の根拠もない。
      現に、貴方の影響力が失われた今になっても、何もかもが平常通りに動いているではないですか」

/ ,' 3「まだ、私が生きているからだよ。そしてそれも、もうすぐ終わる。
    私の人生には何一つ不足が無かった。
    数多の事件を起こし、数多の不始末を残したが、それでも世界は私の思うとおりに廻っていたよ。

    君はどうだね。君の人生に、何一つ不足がないと言えるかね」

(´・ω・`)「確かに、私は貴方のような大物にはなれないでしょうよ。なる気にもならない。
      しかし、個人にはその人なりの生き方があるのです。
      街の片隅で穏やかに過ごすのも、人生の方法の一つではないですか」

/ ,' 3「そんなものは、精神の優しい麻酔に過ぎないよ。
    人生に不足がある限り、誰もが死を怖れなければならない。そして死の根拠を問う。
    それは死に相対し、やっと切れた麻酔の反動で最大化した、不安や不満に塗れてしまっているからだ」

(´・ω・`)「独善的すぎる」

/ ,' 3「そう、その通り」

彼は歯を見せて笑った。

/ ,' 3「それこそが、私にだけ認められた権利だ」

69 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:07:17 ID:NLjW9Fhg0
世界の主人公を自称する老人に、しかし哀れっぽさは微塵も見えなかった。
彼の物語は完成されているのだ。それは私も知っている。

そんな彼に対し、あらゆる人生の素晴らしさを説くことは不可能だろう。
客観的に見て、彼は最上の生き様を味わってきたのだから。
 
だが、私に反論の余地がないわけではない。
彼の、彼だからこそ主張できる思春期のような理論には、一つ大きな穴があった。

(´・ω・`)「ですが、結局は貴方も死ぬわけですよ。満足も不満も、生きていなければ得ることは出来ない。
      それまでの人生がどれだけ素晴らしかろうとも、死んでしまえば全てが終いではないですか。
      貴方が本当にこの世界の主人公であるというのならば、そんなところで寝てる場合じゃないでしょう」

/ ,' 3「生まれがあり、死があるのがこの世界の定義なのだから仕方あるまい。
    私は何も、不老不死の神ではないのだから。君、世界とはよくできた枠に過ぎないんだよ。
    その中で我々が生きていかなければならないとしたら、その好手とは何か。

    幼くして餓死することでもない、不満の残る死に方をすることでもない。
    私の不満を払拭した最大の出来事はね、『彩色の奇跡』なんだ。
    あれは私に、巨万の富を与えてくれた上、この期に及んで私と同時に起こる一斉の死をも約束してくれた。

    誤解が無いように言っておくが、私はここに集まった人々へ何か入れ知恵をしたわけじゃない。
    彼らが自発的に、頭のイメージを、死に結びつけたんだ。
    その証拠に、私の頭にそんなイメージは出ていない」

70 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:10:23 ID:NLjW9Fhg0
……彼が口を動かすたびにその表情に希望を増していくのとは対照的に、私は徐々に憂鬱な気分になっていった。

その一因は、未だ表情を動かさぬ隣の妻にある。どうやら、彼女の意見は変わっていないようなのだ。
僕がこれだけ弁舌を、正論を振りかざしても、何一つ揺らいではいない。私は果たして無力なのだろうか。
それも敗因であろう。しかし、それ以上に不合理な概念が私たちを支配していた。

老人に何を言っても論破は出来まい。
にも関わらず私は彼に屈服するつもりになれないどころか、その理屈を飲み込むことさえ叶わないのだ。
 
このまま引き下がるべきだろうか。それは、公平に見ても敗退ではあるまい。
戦略的撤退とでも表現すべきものだ。しかし、今の私にはどうしてもそう出来なかった。
私はまるで、自分こそが常識へ立ち向かう意固地な少年であるような錯覚さえ感じ始めていた。

(´・ω・`)「……ならば、もう一つだけ伺います。
      私は、貴方がこの世界の主人公であるとどうしても認めることが出来ません。
      常識的にも、そんなことは有り得ないと思うからです。

      そんな私に対して、貴方は一体どのような説得をするのです?」

/ ,' 3「そもそも、私は誰かを説得する義務を持っていない。
    だから、私は全世界の人々にその身の危険を通告したりもしていない。
    だが、君には随分話を聞いて貰っている。そのお礼として言うならば――」
 
私はじっと待ち構えていた。目の前の妄想狂に恐怖し、狭い頭であらゆる予想と反論を立てながら。

/ ,' 3「あらゆる一般的な人々は、死が目前に迫ってきたとき、様々な方法で抵抗する。
    怒りや交渉、頭ごなしの否定などによって……。しかし、最終的にはどうするだろう。
    全てが無意味だと悟り、目前の死が真実でしかないと自覚したとき、最終的には――受容するわけだね。
 
    どうしようもなく、受け入れてしまうのさ。極めて消極的に、死を仕方ないものとして待つことにする。
    頭の中で更なる惨めな言い訳をしながらね。死後の世界は素晴らしいだとか、
    死んでも魂は残留するとか、宗教じみた言説を……。

    それ自体が敗北だ。また、自分が世界の主人公でなかったという証でもある」

71名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 00:11:02 ID:jTE1ADXc0
はよう、はよう

72 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:13:15 ID:NLjW9Fhg0
私は黙って聴き入っていた。彼の言葉は、少なくとも私に限っては酷く正確だった。

/ ,' 3「死とは、物語の完結なのだよ。そしてその物語は、何よりも素晴らしくなければならない。
    そう思えてようやく、自分が世界の中心にいると叫べるのさ。
    私には、私の物語が誰よりも優れているという自負がある。

    そしてそれを、命を賭してまで支持してくれる者が大勢いるんだ。私に一体何の不足がある? 
    私の死が世界の終わりだったとして、何の不自然がある?」

(´・ω・`)「……つまり、貴方のように素晴らしい人生は、後にも先にも二度と現れないと?」

/ ,' 3「その通り。『彩色の奇跡』は、それをますます強固なものにしてくれた」
 
彼の一生を物語にすれば、それはそれは面白いものになるだろう。
ありがちな成長の物語から、『彩色の奇跡』という唯一無二のイベント、
そして最期には、六十九億を抱いて死ぬ……出来すぎた運命だ。伝記に残す価値もある。
 
そう考えたとき、私に最も足りなかったのは、老人が持つような社会的地位や富、身分であるのかもしれない。
それが私から言葉の重みや真実味、あまつさえ対等に議論する立場さえもを奪っている気さえする。
そう考えると、老人の言う人生の格が、正しいようにすら思えてしまう。

73 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:15:42 ID:NLjW9Fhg0
/ ,' 3「……さて、沢山話してしまったな。私は、どちらかというと君の奥さんと話をしたかったのだが」

老人が妻に笑いかけると、彼女はほんの少しだけ応じてみせた。

/ ,' 3「幾何もない身には堪える。また眠ることにしよう」
 
そして最後に、彼は私に向かってこう言った。嫌みではなく、本心からの言葉に聞こえた。

/ ,' 3「君にも、良い時間があることを」

※ ※ ※

74 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:18:23 ID:NLjW9Fhg0
私たちは二十六階の妻の部屋へ戻った。
妻が先に歩いて行くのを、私は惨めな気分でついて行った。他にどうすることも出来なかったのだ。
妻の前で恥をさらしたからというよりも、実業家の言葉で揺さぶられた頭の整理が、今一つついていなかったのだ。

当然、会話は何一つ無かった。
 
部屋に戻り、妻は最初にそうしていたようにベッドへ座った。私はその傍に立っていた。
何か言いたかったが、何も言い出せなかった。そのうち、口火を切ったのはやはり妻だった。

ζ(゚ー゚*ζ「……ねえ、そろそろ教えてくれない?」

(´・ω・`)「何を?」

ζ(゚ー゚*ζ「貴方がここに来た理由」
 
振り返って私を見た妻の無表情は、私にある過去を思い出させた。

彼女と付き合いだして間もない頃、私は彼女の誕生日を、プレゼントを買い忘れたままに迎えてしまったことがある。どのように言い出すべきか迷いながら待ち合わせ場所に行き、そこで彼女と鉢合わせた時、
彼女はしばらく私を眺めた後、今と同じ顔で私に言ったのだ。ねえ、プレゼント、買い忘れたんでしょう。
 
それからもしばしば、彼女には妙に勘の冴える瞬間があった。
そしてそれは、大抵良い意味でも悪い意味でも重大な場面で発揮されてきたのである。
 
だが、今のこの隠し事だけは、彼女に知られたくなかった。
彼女に妙な心配をさせないためにも、この期に及んで未だ居丈高な自意識を守り続けるためにも。

75名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 00:19:36 ID:jTE1ADXc0
やっぱあんたの文章は心地いいわ。
こちらの想像力まで掻き立てられて、自分まで素晴らしい物語が書けそうな気分になる。

76 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:21:48 ID:NLjW9Fhg0
ζ(゚ー゚*ζ「ねえ、貴方、聞いてくれる?」

妻は決して怒ってはいなかった。睦言でも囁くような口調だ。狂気的に優しかった。

ζ(゚ー゚*ζ「お爺さんの話に、少し補足しておきたいの」
 
私は彼女の隣に座った。少しだけ肩が触れた。それまでだ。

ζ(゚ー゚*ζ「お婆さん、いるでしょう。あの人がお爺さんの愛人だったって知ってる?
       ……元々あの人は水商売で働いていた。もう数十年前の話よ。そして、その頃お爺さんと出会った。
 
       でも、その頃にはもう、お爺さんには奥さんがいたの。だから正式な関係にはなれなかったんだけど、
       二人は徐々に仲を深めていって……。それからずっと、関係は続いていたらしいの。
       そして五年ほど前に奥さんが死んだとき、お婆さんはお爺さんと一緒に住むことにしたのよ。

       もう、結婚なんて形式にとらわれる必要も無かった。
       それからの人生を、お婆さんはお爺さんとずっと過ごすつもりだったの……」

何となく話の先が読めた私は、軽く目を閉じた。

ζ(゚ー゚*ζ「でも、その時に色んな人が集まって……お爺さんは、私を世話役に指名した。
       その時、お婆さんは凄く怒ったのよ。当然だと思うわ、お爺さんの行為は、裏切りに近かった。
       でもお爺さんは言った。私には残り少ない人生を、好き勝手に生きる権利があるって。

       私が思うに、お爺さんが、自分が世界を作ったって確信したのはあの辺りだったんだと思う」

(´・ω・`)「ああ、男なら誰だって若い女性と長く過ごしていたいものさ」

77 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:24:33 ID:NLjW9Fhg0
ζ(゚ー゚*ζ「からかわないで。ねえ、貴方に聞いて欲しいのはここからなのよ。
       お婆さんはそれでも諦めきれなくて、最初の頃は、私に数限りない罵倒を浴びせてきたりもした。
       今でも私がいない時にはずっとお爺さんの傍にいるわ。

       そして毎日……洞窟に行くの。昔、『彩色の奇跡』があった場所に。
       そこで、延々と恨み言を呟いているんだって」

(´・ω・`)「誰に聞いたの?」

ζ(゚ー゚*ζ「気になってついて行った人がいたのよ。壁に向かって、ずっと言っているのよ。
       お前さえ現れなければ、お前さえ狂わせなければって……。
       でも、お婆さんは決してお爺さんの主張を疑っているわけじゃないわ。
 
       あれは、どうしようもない運命とか、そういうものに対するささやかな反抗なんだと思う。
       しかも、お婆さんにとって残り少ない人生を、本当にあと僅かしかなかった人生を、
       こんな形で消されてしまった事への悲しみは、相当なものなのよ」

(´・ω・`)「ああ、だろうね。年寄りの呪詛は恐ろしい」

ζ(゚ー゚*ζ「そんなお婆さんの必死さが、さっきの貴方からも感じられた。
       ねえ、貴方は何故あんなに必死だったの。
       貴方はまるで、自分の人生が否定されるのを怖がっているようだったわ」

(´・ω・`)「それは」

ζ(゚ー゚*ζ「貴方が本気でお爺さんの言葉を否定したかったのだとしても、もう少し冷静でいられたはずよ。
       そうでなかったのはどうして? 貴方にはまだ、この先に人生の長い道が残されているっていうのに、
       お爺さんが語る物語の終わりを簡単に受け入れてしまったのは何故なの?」

78 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:26:01 ID:NLjW9Fhg0
私は、黙ったままで彼女を見つめた。だが、心の底では歓喜に打ち震えていたのだ。
こんなにも前向きな涙を流したいと思ったことがかつてあっただろうか。
彼女は私の真意に対して何と誠実であることだろう。彼女は、何と私の妻であることだろう。
 
しかしそれらの感激を全て押し隠したまま、私は自らが肝臓癌を患っており、
余命半年の身であることをただ淡々と語った。

※ ※ ※

79 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:29:09 ID:NLjW9Fhg0
一ヶ月ほど前から微熱が続き、なかなか収まらなかった。食欲もなく、食べようとしても吐き戻すようになった。
それらの諸症状を、私は当初、息子が死んだショックが今頃になってやってきたのだと勘違いしていたのだ。
無論それが悪性新生物の引き金だとは夢にも思っていなかった。

半月以上経っても回復しないので病院に行くと、精密検査に回された。それが先週のことだ。

そして昨日、電話で呼び出された私は沈痛な面持ちの医師から、自身が肝臓癌に冒されていること、
それは大いなる若さによって活き活きと余所へ転移し、病期で言うところのステージ4に至っていること、
余命が半年程度であることなどを告げられた。

すぐにでも入院をしなければならないという段になり、私は必要な荷物をまとめるためだけに家へ帰された。
しかし私はその足を、自宅ではなく駅に向けた。そして電車に乗った。最果ての街へ、妻に会うために。

(´・ω・`)「最初から、君をどうこうしたいとは思っていなかった。
      ただ、このまま君を見ずに人生を済ませてしまうことがどうしても耐えられなかった。
      それだけだったんだよ」
 
だが、その思いもどこかでとち狂ってしまったらしい。
今の私は妻をどうしても連れて帰りたいと思っていたし、
それが不可能であることを見越して早くも抑鬱に陥っていた。

日常的な時間の、何たる残酷さ……。

80 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:32:11 ID:NLjW9Fhg0
ζ(゚ー゚*ζ「私に貴方を責める権利はないわ。
       私だって自分のために、貴方に何もかもを隠していたんだから。
       貴方が貴方のために今まで黙っていたとしても、文句一つ言えやしない」

(´・ω・`)「でも、それはあまりに哀しいじゃないか。
      お互いの、踏み込んじゃいけない領域が、この期に及んで益々拡大しているような気がして……」

ζ(゚ー゚*ζ「仕方が無いのよ。結局、私と貴方の間にある高い壁は、取り去れるような類いのものじゃないんだから」

(´・ω・`)「耄碌爺さんの話に、一つどうしても共感せざるを得ない部分があったんだ。
      僕の人生は、まるっきり不足していたさ。何よりもまず、涙が足りなかった。
      そして、命の尺も足りていなかったみたい。

      こんな人生が、実際のところ世界の主人公たる者の生涯では有り得ないんだ」
 
私を取り巻く、死という名の波状攻撃はあまりにも過剰だった。
少なくとも、息子を殺す理由はどこにも無かったはずだ。

しかしそれも、かの実業家という主人公を支える装置の働きであると考えれば、
幾らか合理的であるような気がする。少しは、救われる気もするではないか。
舞台の暗がりで蠢く群衆の一人ぐらいに、その手の悲壮が訪れねば退屈ではないか……。

81 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:35:42 ID:NLjW9Fhg0
私は、吹っ切れた気分を取り繕っていた。それを理性の端から頭へ、表情へ、全ての動作へと滲ませていく。
道化と言うほど完成されてはいまい。しかし、よく知る妻を欺ける程度には化けられたはずだ。
 
だから、妻の嘆息に似た問いにも、間髪入れずに応じられた。

ζ(゚ー゚*ζ「貴方は、これからどうするの?」

(´・ω・`)「帰るさ。当初の目的は果たしたんだから」
 
妻はその時、初めて頭を垂れて黙り込んだ。私たちを包むやるせなさは、余りにも重厚だった。
私は、誰にも反論させないほどに妻を愛している。
妻だって、きっと。しかし、それだけ似ている私たちの頭の中身は、今や完全に違う構造を呈してしまっているのだ。

歩み寄れる類いのものではない。土下座して承認されるものでもない。
少し昔、妻がよく言っていた言葉を思い出す。貴方に甲斐性があれば……。
そう、私に甲斐性があれば、今だってきっと。いや、しかし。

ζ(゚ー゚*ζ「……癌と闘って、余命半年を宣告されたのに何年も行き続けている人の話をよく聞くわ。
      だから、まだ可能性がないわけじゃないわよ」

(´・ω・`)「そうだとしても、もうすぐみんな死ぬんだろう? 同じ事だよ」

ζ(゚ー゚*ζ「でも、貴方には生きていて欲しいのよ」

(´・ω・`)「僕だって、君には長生きして欲しい」

ζ(゚ー゚*ζ「ねえ、愛してるのよ」

(´・ω・`)「僕だって」

ζ(゚ー゚*ζ「なのに、何故こんなにも違うの?」
 
分からない……。どうしようもないことを言うならば、妻にイメージなど浮かばなければ良かったのだ。
息子の弔いに艱難辛苦を舐めながら、それでもなお日常へと修正しようとしていく穏やかな生活の中で、
ある日突然死にたかった……。

82 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:37:16 ID:NLjW9Fhg0
私は立ち上がって彼女に背を向けた。私には、もうすぐ彼女が泣き出すと分かっていたのだ。
また涙を共有できぬ前に、出て行くことにした。

(´・ω・`)「それじゃ、また……。いや、さようなら」
 
少なくとも今、私たちは完全に自由だった。自由意思で、別離を選択したのだ。
それは、鼓動も速まらぬほどに息苦しかった。

※ ※ ※

83 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:38:31 ID:NLjW9Fhg0
私について。

……特に何も。

※ ※ ※

84 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:41:15 ID:NLjW9Fhg0
外に出ると、既に夜明けが始まっていた。街は来たときと同じような色で静まりかえっている。
沈む世界の突端にあるこの街は、特定の人々以外には見向きもされずに、このまま幕引きを迎えるのだろう。
あまりにも芸術的な話だ。しかし、あまりにも身勝手な話だ。
 
駅に入り、改札へ向かう途中に、私はぼんやりと立ち尽くす老婆の姿を発見した。
彼女は私に気付くと、口を曲げてあからさまに不機嫌そうな顔をした。

('、`*川「もう帰るのかね」

(´・ω・`)「ええ、早くしないと医者に怒られますので」

('、`*川「別にここに居ても構わんのだぞ」

(´・ω・`)「遠慮しておきます。お言葉に甘えるには、私はあまりにも惨めになりすぎました」

言ってから、私は、自らに残留する矜持に苦笑する。
私がここを去る理由はそんなものではない。私は再び、遁走するだけの話だ。

(´・ω・`)「ねえ、お婆さん」

そのまま私を見送ろうとする老婆に、少し意地の悪い質問をぶつけてみる。

(´・ω・`)「人生って、何だと思いますか」

('、`*川「そんなこと、分からん」

老婆は突っ慳貪な物言いで返してきた。

('、`*川「死んでから考えることにしよう」

(´・ω・`)「なるほど、それは名案ですね」
 
私たちは、傷をなめ合う者同士の笑いを笑った。そして、別れた。

85 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:43:40 ID:NLjW9Fhg0
改札に立つ守衛は、昨夜の二人とは別人だった。
私は努めて穏やかに、「失敗したよ」と声をかける。
片方の男が、眠たげに「そりゃ、お気の毒に」と答えてくれた。
 
寂れたプラットホームで始発をひたすら待った。その間は何も考えていなかった。
やがてやって来た電車に、薄い感慨だけを持って乗り込んだ。
 
走馬燈の街を離れていく電車が、徐々に朝と生気に向かっていく途中、不意に私の両眼から多くの涙が溢れた。

しばらく、何が起こったのか分からなかった。
頬を伝い、足下へこぼれ落ちていく雫を、私は屍体を眺めるように訝しげに見下ろしていた。
それが涙だと理解してもなお、私は呆けて垂れ流し続けていた。

86 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:45:50 ID:NLjW9Fhg0
私はさっき、彼女に一つだけ嘘をついた。
実はついさっきまで、私は私が世界の主人公であるという思いを払拭できずにいたのだ。
 
すなわち、人生はこのようなものだと考えていたのだ。

最初から悲哀に偏って設定されていたのならば、私の人生こそそれにふさわしい。
だから、老人への敗北感に苛まれることもなかった。
私はただただ卑屈に開き直ってみせただけなのだ。それが本心であると、自己暗示できるほどの名演だったと思う。
 
しかし、それならばこの涙は何なのだろう。決まっている。私はやはり私の悲しみを認められずにいたのだ。
この涙には、多くの意味が含まれているに違いない。息子の死、妻との別れ、自分の余命、世界の……
いや、それは別に構わない。私には、そんなことまでは分からない。

そう、私の涙は、全人類の終わりに捧げる涙などではなく、
自分の中で複雑に絡み合った問題を解きほぐすためだけの涙だ。

87 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:48:30 ID:NLjW9Fhg0
ようやく私は人間としてのスタートラインに立ったのだろうか。
悲しみの涙は、自分に自意識が舞い戻ってきた証だ。
ならばこれから、私はあらゆる大きな問題について考えていかねばならない。
 
遅い、遅すぎるじゃないか。残された限られた時間で、私に何が出来ると言うのか。
何より、私は人類の終わりとは切り離された自分自身の近しい死に整理をつけられるのか。

涙腺は次々に新しい涙を供給し続けている。
こんなことなら、もう少しあの部屋に留まって妻と共に泣き明かせばよかった。
 
私は自分の死を認めない。そんなはずはない、何かの間違いだ。
それを受け入れさせようとする現実からは孤立を決め込もう。そして、再び取り引きを持ちかける。
妻に会いたい、妻に会いさえすれば、死ねる気がする。

それから、更に人間らしい反応を……無理だ、とても間に合わない。
懸命に深淵の海でもがいて、もがいて、もがいて……。
それだけしても最後には死を、消極的に受容する道しか残されていないのか。

私は物語の完成を、万端整えて見守ることが出来ない。そしてその素晴らしさに、保証も持てない。

人生の終端の辺りで、次から次に後悔の残渣が見つかっていく。
目を瞠ればキリがない。私はまだまだ泣き続けた。

※ ※ ※





88 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/29(月) 00:49:41 ID:NLjW9Fhg0
次は9/30の夜に投下します。
これは一種の短編集なので作品同士の関連は殆どありません。
あらかじめご了承ください。

では。

89名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 01:05:02 ID:4k1oG.jo0
おつ
やっぱりあんたすごいわ。もうすごいとしか言いようがない

90名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 01:10:11 ID:Egr4HY1s0

よかった。この話の続きはないの?

91名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 01:50:09 ID:bUFown2s0

面白かった以外の言葉が思いつかないくらいに衝撃を受けた
この次の作品たちもwktkして待ってる

92名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 04:06:28 ID:In1q7xO20
おおー!タイトルが印象的だったから覚えてる!
期待支援

93名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 05:12:19 ID:2IIGlX7c0
よくわかんなかった

94名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 07:48:14 ID:4GYhL2ps0
何だかんだアンタが戻ってきてくれるとホッとするよ
いつも楽しみにしている

95名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 08:16:43 ID:K6waV.4.0
おつです
意外と読みやすかったし面白かった
名もない(´・ω・`)のなんとも言えない感情が最後に見れてよかった

>>30
の「探してきてやろう」の台詞は('、`*川が正しい?

96名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 12:19:54 ID:Smz9n.qo0
また読めるとはwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

97名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 12:22:18 ID:HwQIeaOQ0
Lastコン部もクル━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!⁇?

98名も無きAAのようです:2014/09/29(月) 15:04:04 ID:z9toAL2.0
初っ端から濃厚だなあ
おつ

99 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:39:35 ID:9BaR2n0c0
>>90
ないです。各短編は全て単品モノです。

>>95
そうです、失礼しました。

100 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:40:48 ID:9BaR2n0c0
3.午前五時(interlude 1) 20130403KB

始発列車が到着した先に降り立った男は、そこで初めて自分が記憶を喪ってしまっていることを漠然と理解した。
対面のホームでしばし待っていれば元の駅に戻ることができるのかもしれない。

しかし男は自分の乗車駅を把握していない。手元にあるのは具体的な切符ではなく抽象的なICカードだ。
駅員に訊けば正確なことが分かるだろうか。しかし生憎と男にはそれを実行するだけの勇気が無かった。

だから男は真っ直ぐ歩いて改札にカードをかざし、駅を出た。
カードが入っているのは茶色の、年季が入っていると思われる二つ折りの財布で、
現金はやや潤沢に準備されているようだった。

男は改札前にある支柱に身を預けながら財布の中をまさぐる。
小銭入れの中には、小銭ではなく小さな鍵と三桁の数字が記されたメモ用紙が入れられていた。

外に出た男は自分が尋常では無い眠気に襲われていることに気付いた。
始発電車に乗るということは昨晩、碌に眠っていなかった可能性が高い。

そもそも男はどこで何をしていたのだろうか。
毛玉の纏わり付いたコートやシャツは会社へ通うそれではなく、つまり私用であったと推測できる。
頭の鈍痛は過度な飲酒のせいと思える。では、胸を灼く焦燥感の正体は何であろう。

101 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:43:51 ID:9BaR2n0c0
いずれ男は歩き出した。
駅の前は閑散としていて、温度も相まって寒々しい。
遠近感の定まらない目線を左右へ走らせると、駐輪場の姿が映った。

男は財布の中に入っている鍵がそこに置かれている自転車のものであるかもしれないと思い当たった。
駐められている自転車にはそれぞれ番号が割り振られている。
男は財布の中にあったメモ用紙と見比べて、それらしい、チェーンの錆びた自転車を引き出した。

乗ってみると、自重でやや自転車が沈むのを感じた。両輪の空気が十分ではないらしい。
パンクに気を付けなければならないと思いながら、男はやけに重たいペダルを勢いに任せて漕ぎ出した。

とは言え、男には自分の目的地が判然としていなかった。
真っ直ぐ進んでも、左右に曲がっても、それは自分にとって正しいようには思えない。
引き返すのも妥当ではないし、立ち止まるのも恐らく間違いだろう。

警察へ身元照会に伺うべきだろうか。何とも馬鹿馬鹿しい話だ。
午前五時の記憶喪失者に、およそ公安を手間取らせるだけの意味などあるのだろうか。

男は自転車を漕ぎ続けた。
凍えるような風がコートを通して身体の中へ病魔のように侵入する。
しかしその風は、唯一男に心地よさを与えるものだった。睡眠への欲求を、自らの不安を、吹き消すような風だった。

自転車はゆっくりと、しかし着実に進み続けた。
夜明けを迎えた空が明るくなり、大きな人間がその空を漂っている。
人間の影が、男を着実にとらえ続けている。男は自転車を漕ぐ。

やがてのぼり坂に突き当たる。
男は坂をのぼる。無心になってのぼる。坂を。

のぼる。

102 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:46:48 ID:9BaR2n0c0
4.雷鳴 20120928KB

彼女が外出するのを見送ってから、ぼくはすぐ準備に取りかかった。
いつも通勤に使っているネクタイで輪を作り、リビングの椅子に上って吊照明に結びつける。

これが案外と手間取った。
輪の作り方は何度も練習を重ねて心得ていたものの、
照明の傘が邪魔してなかなか上手くネクタイを取り付けられないのだ。

この点はインターネットには記されていなかった問題だった。
不器用なぼくのやることだからテレビドラマで見るような美しい死に様にはなりそうになかったし、
何よりも、その問題にぶつかったことで本当にこの装置がぼくを死なせてくれるのか不安でたまらなくなってきた。

しかしぼくは決めていた。
苦心してネクタイを結び終え、今日のために書き留めておいた三枚の遺書をテーブルに重ねる。
あとは足下の椅子を蹴ってしまえば終わりだ。そう信じておかないとやってられない。

そう、首吊りは苦痛が少ないというネットの情報にしたって、試してみなければ分からないのだ。
だが、今の時点では楽に死ねると自分に言い聞かせるよりほかない。
 
そうして思い切りよく椅子を蹴飛ばそうとした瞬間、背後で凄まじい閃光が迸った。
ぼくは背中を氷で撫でられたような反応を示し、恐る恐る振り返った。

103 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:49:33 ID:9BaR2n0c0
椅子の上から見える窓の外は、いつの間にか仄暗い曇天に覆われていた。唐突に日が沈んだみたいだ。
夕刻までまだ時間はたっぷりと残されているはずなのに、今にも夜が降りかかってきそうである。
 
そんな状況に、ぼくは少しだけ興奮してきた。何だか、思いもよらずいい死に様になりそうだからだ。
部屋の電気も消してしまった方がいい、とぼくは思い、早速椅子から下りて照明のスイッチを切った。
それと同時に、遠くの方から微かな雷鳴が聞こえてきた。ぼくはますます盛り上がった。
 
再び椅子の上に立とうとしたとき、窓ガラスにぽつ、と一粒の水滴がすいついた。
それは次々とガラスにはりついて、たちまち全体に湿り気を纏わせる。
 
ぼくはほんの少し感傷的な気分でその模様を眺めていた。
雨は瞬く間に勢いを増して、どうどうと膨らんだ雑音をかき鳴らす。
夏の終わりにはありがちな、通り雨というやつだろう。そしてまた、空全体が瞬間的に輝いた。

ぼくは何の気なしに音が迫ってくるまでの時間を数えてみる。十を数え終わるぐらいでそれは響いた。
まだまだ雷雲は遠くにありそうだ。

104 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:52:16 ID:9BaR2n0c0
さて、準備は整った。舞台装置は、思った以上の効果を引き出している。
こんな雨の中で死に、晴れ上がった頃に天国へ舞い上がれるならそれは純粋に幸せな幕引きだろう。
椅子に上ってネクタイに首を通す。目を閉じて、ちょっとだけ過去のことを随想する。

これまでに関係を持った人たちのことを考える。豪雨の音ばかりがぼくの耳に届いている。さあ、行くとしよう。
 
唐突に玄関ドアの閉まる音が響いた。次いで、ととと、と部屋に駆け込んでくる軽めの足音。
ぼくは反射的に首からネクタイを離し、慌てて椅子から下りようとした。

しかし、二人暮らしには少し狭いぐらいの間取りで、
彼女がぼくを見つけるまでに平静を装うことなどできるはずもなかった。

105 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:55:50 ID:9BaR2n0c0
というわけで、ぼくは椅子の上で息を切らしている彼女と対面したのである。
しばしの沈黙のあと、まず彼女は部屋の照明を付けた。ぼくの滑稽な姿が白色灯の下に晒される。

それと同時に彼女の姿もようやく明瞭になった。
小刻みに上下している肩や頭が濡れそぼっていることから、彼女が傘を持たずに家を出てしまったことが分かる。
そしてそれを取るために急いで引き返してきたということも。

本来なら彼女は、友人との買い物であと二時間は戻ってこない予定だった。
二時間もあれば、ぼくの計画は確実に遂行されるはずだったのだ。
しかし、感傷的にも思えた突然の大雨がぼくから機会を奪い取ってしまったのである。

あまつさえ、ぼくの計画そのものすらも、
考えられる限り最も惨めな方法で彼女に見せつけることになってしまったのだ。

ミセ*゚ー゚)リ「なにしてるの」

と彼女は言った。死化粧のような温度の口調で。

( ・∀・)「いや、べつに」

とぼく。とても言い逃れできる状況では無かった。
ぼくの眼前で、丸い形のネクタイがフラフラとなびいてしまっている。

106名も無きAAのようです:2014/09/30(火) 20:56:15 ID:ndky9GqM0
待ってたよ

107 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 20:58:27 ID:9BaR2n0c0
椅子の上で突っ立っている間抜けなぼくを置いて、彼女はテーブルにあった――
本来ならぼくが死んだ後に読まれるはずの――遺書を拾った。
それは決して、目の前で読まれたい出来映えでは無かった。

何しろ死んでしまう理由が殆ど見当たらなかったから、
少ない要因をクレープ生地のように薄くのばしたようやくできあがった駄作なのだ。

彼女はしばらく目を通してからもう一度ぼくを見上げた。
悲嘆に暮れているようで、軽蔑しているようにも見える瞳。
ぼくは彼女の髪と瞳が好きだった。それらは、何故かぼくを非常に安心させてくれた。

ミセ*゚ー゚)リ「あなたがこんなことするなんて、思いもしなかった」

さっきよりは幾分重々しい口調で彼女は言う。
しかし、まだ端々に戸惑いが覗いて見える。

ミセ*゚ー゚)リ「でもわからない。これを読んでもぜんぜんわからない。あなたは何故死のうと思ったの。
       あなたは何故、死ななければならないの」

( ・∀・)「わからないよ」

こうなった以上、ぼくに残されているのは素直に白状する道だけだ。
ぼくはできるだけ自らの心持ちを、真実を話そうと努めた。

( ・∀・)「自分でも理解できないんだ。どうしてこんなことをしないといけないのか。
      でも、それはそういうものなんだと思う。そう捉えるしか方法はないんだよ。
      ぼくはとにかく、死ななければならないんだ」

108 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:02:10 ID:9BaR2n0c0
しかし、どうやったってぼくの言葉を素直だとは取ってもらえないだろう。
自分でも分かっていないことを相手に説明するなんて、どだい無理な話なのだ。

当然、彼女は納得しなかった。険しい表情のままぼくに近づき、

ミセ*゚ー゚)リ「降りてよ」

と言葉を投げた。ぼくは素直に従った。
今まで使っていたこの椅子が、普段彼女の座っているものだということに、そのとき初めて気がついた。
 
相変わらず降りしきる雨の音。
それはぼくを取り巻く状況の変化に合わせて、いっそう緊張感を際立たせているようにも思える。
ぼくも彼女も、互いに立ち竦んだまま一切の言葉を放てずにいた。

ぼくには、このような状況で口にするべき台詞が何一つ思い浮かばなかったのだ。
恐らく、彼女のほうも同じだろう。

ミセ*゚ー゚)リ「座ろう」
 
一分ぐらいしてから彼女はそう呟き、自ら率先して椅子に座り込んだ。
ぼくもテーブルの向かいにまわって腰を下ろす。
ぼくたちが対峙するその間には、醜悪な完成度の遺書が無造作に散らばっている。

できることなら今すぐにでもこの三枚を滅茶苦茶に破いて捨て去ってしまいたかった。
しかし、今この場で勝手な行動が許されるとはとても思えない。
ぼくはまるで、模範囚のような面持ちで彼女と、彼女の奥にある壁を見つめていた。

109 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:05:58 ID:9BaR2n0c0
稲光……修羅場を演出するにはあまりにも紋切り型に過ぎる。しかしそれは現実に起きていた。
ぼくは彼女の次なる言葉をただ呆然と待ち続けていた。
自ら何かを発するつもりは毛頭なく、ただひたすらに彼女へ従属しようという思いがあるばかりだった。

それは結局のところ逃避でしかないのかもしれないが、
だからといって積極的な行動が実を結ぶような場面であるとも思えない。
不思議と、ぼくは自分が浮気でもしてしまったかのような焦燥感に駆り立てられていた。

ミセ*゚ー゚)リ「ひどい」

と雨音にかき消される程度の声音で彼女は言った。

ミセ*゚ー゚)リ「どうして一言も相談してくれなかったの。何で頼ってくれなかったの」

( ・∀・)「ごめんね」

とぼくは少し俯いた。

ミセ*゚ー゚)リ「何かいやなことでもあったの。会社とか、人間関係とか……」

( ・∀・)「いや、万事がうまく進んでいたよ。ぼくにしては上出来なぐらい、順風満帆な人生を歩んでいたと思う。
      充足していない、なんてことは何一つないんだ。だから誰のせいでもないんだよ」
 
嫌みたらしい言い回しだと、われながら思った。核心を突かずにその周囲を堂々巡りしているような調子。
相手を苛立たせるには十分な冗長さがあった。
そう分かりながら口にするぼくは、おそらく愚かしいほどのあまのじゃくなんだろう。

110 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:08:31 ID:9BaR2n0c0
彼女はぼくの弁解を聴くと何故か説教でもされているかのようにしゅん、と小さくなってしまった。
ぼくの迷走した言葉を精一杯理解しようとしてくれているからかもしれない。

もしもそうだとしたら、一切を手放しにして喜べる程度には嬉しい話だ。
それはぼくの独占欲を大いに刺戟してくれる。
そしてほんの少し、計画の失敗を晒してよかったという風に思えるのだ。

ミセ*゚ー゚)リ「もう一度きくけど」

と彼女は下を向いたまま低く息を吐くようにして言う。

ミセ*゚ー゚)リ「どうして死のうと思ったの」

( ・∀・)「……何度でも、同じように答えるしかないんだ。ぼくにだってさっぱり分からない。
      ぼくは何の挫折も孤独も感じていないし、むしろ生きていることはとても素晴らしいとも思えるよ。
      それなのに、死ななければならないんだ。死なないと、もうどうしようもない」

ミセ*゚ー゚)リ「こんな理由で……」

彼女は粗雑に遺書を取り上げる。

111 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:12:10 ID:9BaR2n0c0
( ・∀・)「そんな理由で……いや、少し違うかもしれない。
      本当はそこに書いてあることでさえ嘘っぱちなのかもしれないんだ。
 
      ぼくの理由には元々心臓にあたる部分がなかったのかもしれないし、
      だからこそこんな気持ちになっているんだとも思う。

      でも少し前から今日実行しようと思っていたのは事実だし……
      ねえ、ぼくをメンタル・クリニックへつれていくつもりはあるの」

それはぼくにとって最大の懸案事項とも言えたが、彼女は何も答えてくれず、代わりに

ミセ*゚ー゚)リ「少し前って、どれぐらい」

と言った。

( ・∀・)「一ヶ月ぐらいかな」

と返すとそう、と頷いた。予兆を感じ取られなかったことについて悲しんでいるのかもしれない。
その気持ちは分からないでもなかったが、ぼくはますます歓喜を覚えた。

彼女はぼくを愛している。そしてぼくも彼女を愛している。
ただそれだけの事実を確認できるだけで、こんなにも快感が訪れるとは。
けれど、きっとこんな確認のしかたは間違っているのだろう。

112 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:15:34 ID:9BaR2n0c0
再び重苦しい沈黙。
湿気を帯びた熱が部屋の中にまで忍び込んできているようで、滅多に汗をかかないぼくの額にも水滴が浮かぶ。
雨脚は一段と強まっているように感じられた。
 
ところで……ぼくがメンタル・クリニック行きを望んでいないのは、何もそういった施設を恐れているからではない。
むしろそこはとても居心地の良い場所であると推測できる。
カウンセラーはぼくにとって最良と思えるアドバイスと薬を与えてくれるだろう。

だから、正当な動機さえあれば受診することもやぶさかではない。

そう、問題はぼくに動機が存在しないことだ。
確かに死にたがっているというのはそれに値するのかもしれない。
しかしそれ自体が、ぼくにとって最早重大な関心事ではなくなってしまっているのだ。

ぼく自身が問題視していない症状で医者にかかるというのは……
なんだか、自由人を虜囚と見紛ってしまっているかのような違和感を覚えてしまう。
 
しかし、彼女はそう思っていないらしい。いや、誰だってそうは思わないに違いない。
だから彼女は静かに、しかし激しく泣き出した。
その涙には怒りや、哀しみや、分類できない感情の複合体が含まれているのだろう。

そしてその殆どが、ぼくのための想いだ。これはたぶん、自意識過剰ではなく客観的事実であると思う。
逆の立場であったなら、ぼくも彼女と同じ行動をとっただろう。それはぼくが彼女を十分に想っているからだ。

113 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:18:35 ID:9BaR2n0c0
ミセ*゚ー゚)リ「もし、あなたがこんなことを、本当にしてしまったとして」

馬鹿馬鹿しいことに、ぼくらを照らす灯りの隣にはまだネクタイの輪がぶら下がったままだ。

ミセ*゚ー゚)リ「わたしは何もできなかったの。わたしは、あなたが消えてしまうのを黙って見送るしかなかったの」

( ・∀・)「それは……そうかもしれない。でも、何もできないのは、ぼく自身も同じなんだ。
      ぼくだって、自分をどうすることもできない。ぼくはここで、おしまいにしなければならないんだよ」

ミセ*゚ー゚)リ「あなたは、わたしのことを考えてくれなかったの」

( ・∀・)「いや」

とぼくは即答した。
実際、椅子を蹴る際に最初に浮かんだのは彼女の顔だったし、
一人で予行演習している際にも何回も何回も彼女のことを考えた。

それでも彼女に何も告げなかったのは、こうなってしまうことが分かっていたからだ。

ミセ*゚ー゚)リ「じゃあ、どうしてわたしを置いて消えてしまうの。
      あなたは良いのかもしれないけれど……わたしの立場はどうなるの。
      わたしは、これからどうすればいいの」

114 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:21:51 ID:9BaR2n0c0
ハープを奏でているような激情だった。
外の雨音に負けてしまいそうで、しかしまっすぐにぼくへ届くほどの芯の強さを持っている。
 
彼女の投げかけた問題は――少なくともぼくにとっては――本当に難しいものだった。
だからぼくはしばらく押し黙って、それからこう答えた。

( ・∀・)「もちろん、きみのことはずっと考えていたよ。片時だって忘れたことはない。
      でも、それ以前にぼくは今回やろうとしたことを……
      きみのこととは別問題として考えようとしていたんだ。

      その二つの間には越えられない壁があって、
      そのためにぼくは、きみのことを最後までは予測できなかったんだ」

ミセ*゚ー゚)リ「へりくつだよ、そんなの……」

そればかりは認めざるを得ない。
正直、自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。

ミセ*゚ー゚)リ「それじゃあ、やっぱりわたしのことなんて考えてなかったようなものじゃない。
      だって、わたしは選ばれなかったんだから」
 
そもそも論争以前の問題として、ぼくには主張がどこにも存在していない。
ぼくは実際に彼女のことを常々想っていた。それは事実だ。

その一方で、ぼくはネクタイの輪がちょうど自分の首のサイズに合うよう何度も練習を繰り返し、
馬鹿みたいな遺書まで用意した。そして実際に行為に及んだ。それも事実だ。
何もかも明白であるというのに、どうしてこんなにも息苦しいのだろう。

115 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:24:28 ID:9BaR2n0c0
一応、この人間社会に生きている限りは自らの発言に責任を持たなければならないと思う。
しかし、中身を伴わない発言にはどうしたって責任の持ちようがないのだ。
ましてやそれが嘘偽りのない心情の真相そのものだとしたら、ぼくは空っぽの自分を弁護しなければならなくなる。

その虚しさときたら。

せめて、もう少し正当に聞こえる死の理由を考えてから行動に移すべきだったのだろうか。
今となっては遅い話である。とりあえず、今日死ぬというのはちょっと始末が悪い。

( ・∀・)「だいじょうぶだよ」

だからぼくはそう言った。

( ・∀・)「もう……今日はもう、こんなことしないから。それより、早く出かけないといけないんじゃないかな。
      雨はまだ当分降り続きそうだけど……」
 
そしてぼくは立ち上がり、今度は自分の椅子を使って天井のネクタイを取り外そうとした。
途端に彼女も乱暴に立ち上がって、ぼくを見た。唇を噛みしめていた。
双眸に、明らかな怒りの色が込められている。殴られるのかと思ってぼくは少し身構えた。

116 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:28:33 ID:9BaR2n0c0
ミセ*゚ー゚)リ「出て行く」

しかし、すでに言葉で頬に痛烈なビンタを浴びせていたのはぼくの方だったらしい。
彼女の涙声には屈辱が紛れていた。

ミセ*゚ー゚)リ「わたし、もうこの家、出て行くから」

( ・∀・)「どうして」

無意識のうちに疑問が口に出る。そう問いかける権利がないことは頭のどこかで分かっている。
だからと言って引き留めずにいるのは、なおのこと悪手であるというずる賢さも。

ミセ*゚ー゚)リ「だって、あなたがわたしのことを考えてくれないんだったら、
      わたしだってあなたのことを考えたくないもの。そんなの、不公平じゃん。
 
      だからわたしは出て行くよ。もっと一緒にいたいけど、あなたが死なないといけないんだったら、
      わたしも出て行かないといけないんだよ」

横暴であるようにも感じられたが、やけに説得力のある理論だ。
そう感じられるのは、ぼくと彼女が同じ理屈の俎上にのっているからだろうか。
どちらの言葉にも、もっともらしい意味や内容は含まれていない。

しかし、ぼくにはそれこそが彼女の素直な心情の吐露であり、空っぽのぼくへの返答であるように思える。
また、事実としてぼくが死んでしまったなら、彼女としてもとてもそんな場所に住み続けていられないだろう。
首吊りが最も気楽な死に方だとはいえ、死に場所のことも考えておくべきだった。

117 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:31:23 ID:9BaR2n0c0
それにしても、彼女の言い分をこのまま認めてしまってもいいものだろうか。
身勝手な話、できれば彼女にはぼくが死んでしまうまで離別してほしくなかった。
できることなら、なるべく彼女をそばに感じたまま――それでいて密かに――たくらみを成功させたかった。

でも、それはあくまでもぼくの都合だし、こうやって全部が暴露されてしまった以上、
心の中でそっと思っておくのも無粋というものだろう。

だからぼくは、自分がしようとしていることをより確実に実行するためにも、
彼女の言葉に首肯してやるべきなのかもしれない。しかし、あまりに冷たくは無いだろうか……
いや、今になってそう考えること自体が罪であるようにも思える。

ミセ*゚ー゚)リ「馬鹿」

ぼくの思案は彼女の言い放った一言によって不意に現実へ揺り戻される。

ミセ*゚ー゚)リ「馬鹿……」

彼女はもう一度呟いた。そしてしばらく口をつぐんで、更に

ミセ*゚ー゚)リ「馬鹿」

と繰り返した。

そして少しだけ苦しげにうめいてから、戻ってきたときと同じように部屋を駆け出ていった。
数秒と経たず、玄関ドアがいきおいよく閉まる。ぼくはその様子をぼんやりと見送ってから、
彼女がテーブルに落とした三枚の遺書を拾い集め、ぐしゃぐしゃに丸めてくずかごに放り投げた。

一度目を通されたのだからもう十分だ。書き直すこともないだろう。

118 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:35:47 ID:9BaR2n0c0
一切の出来事を遠くから眺めているような気分だった。
ぼくの感情は、死人の心電図のように少しも波立っていない。
ぼくの知らないところで、意識だけが眠っているような感じ。

映画館の最前列で、終わらないエンドロールを眺めているような気分。

彼女は少し慌ただしすぎたのではないかと思う。

ぼくに対しては、まだ説得の余地が残っていただろうし――
もっとも、彼女がぼくの強固な決心を見透かしていたとすれば話は別だが――、
着のみ着のままで部屋を飛び出すほど切迫した状況でもなかったように思う。

無論、そんな心境にまで追い込んだのは他ならぬぼく自身だから、彼女に文句をつけるのは筋違いだ。
しかしながら、さすがにあんな具合で飛び出されたのではいささか心配にもなってくる。
だいいち、彼女は財布も何もかも全部入ったハンドバッグを部屋に放置したままだ。

これでは友達に会いに行くこともできないだろうし、このまま二度と帰ってこないというわけにもいかないだろう。

ぼくはぼくの決心をひるがえすつもりはないが、それでも、うじうじとした罪悪感が湧き上がってくる。
それは一種回避行動のようなもので、自分自身を落ち着かせるための休息に過ぎない。
やはり、この場所で死ぬというのは少し考え直したほうがよさそうだ。

彼女がぼくのことをどう想い始めたかはさておき、これ以上彼女に苦痛を与えるのはさすがに良心が痛む。
そして、死ぬ時期ももう少し先に延ばしたほうがいいのかもしれない。
やはり、生きている人間が死んでいる人間に変化するときにはそれなりの面倒がつきまとうようだ。

死人が生きている人間の数倍も存在感を発揮することだって、珍しくないというのに……。

119 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:38:16 ID:9BaR2n0c0
閃光……先ほどより激しくなったような気がする。
ぼくは、彼女がおそらく傘を持たずに出ていったのだと気付いた。
黒々とした空は更に深さを増していて、まだまだやむ気配がない。雷鳴。随分と近づいてきたようだ。

ぼくの、客観的にみれば身勝手極まりない理屈で、部屋を追い出されるはめになった彼女が不憫でしかたない。
ぼくは傘を持って彼女を探しに出かけることにした。
傘は一本で構わないかとも考えたが、さすがに今の状況で相合い傘はありえないだろうと思い直して二本持つ。

彼女のハンドバッグはそのままにしておくことにした。
いずれ彼女は戻ってくるだろうし、本当に必要なものを全部揃えていたらそれこそ夜を通り越してしまう。

外に出てみると、叩きつけるような雨の勢いに改めて驚く。何かの拍子で神様が怒り狂っているかのようだ。

このどしゃ降りの中を彼女は本当に行ってしまったのだろうか。
二階建てのこのアパートには雨風をしのげる場所など廊下ぐらいしか見当たらない。
まず、ぐるりと建物のまわりを一周してみたが、彼女の姿を見つけることはできなかった。
 
それならば、どこへ行ってしまったのだろう。ぼくにはまるで見当がつかない。
いずれかのコンビニにでも入って雨宿りしているのかもしれないが、
この辺りにはそういった場所が散在しているし、もしもあてが外れていたら時間を無駄にするばかりだ。

アパートを出て右に進むべきか、左に進むべきか、それさえも判断が難しい。
とは言え、立ち止まっていても何にもならない。

120 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:41:26 ID:9BaR2n0c0
ともかく、感性のままに歩いてみることにした。まず右へ進んで、奥にあるT字路を左へ曲がる。
すると一軒目のコンビニが見つかったので何の気もない風を装って入ってみる。

案の定、とでも言うべきか、彼女はそこにいなかった。こうやってしらみつぶしにあたっていくしかないだろう。
そうやっている内に彼女のほうが先に帰ってしまっているかもしれないが、それならそれで構わない。
いや、逆に心配させてしまうだろうか。ぼくが死に場所を求めてさまよい歩いている……というように。

彼女が、ぼくの言葉の全てを等しく信用してくれていればいいのだが。
 
二軒目のコンビニにたどり着くまで、何度も前後左右を確認して彼女を探したが、
こうも雨がひどいと視界もままならない。多くの人は外出する気にもならないようで、
この辺りにしては珍しくほとんど人とすれ違わない。久々に感じる孤独。雨の中へ吸い込まれていくような息苦しさ。

この雨は止まないのではないのだろうか、という根拠のない不安感すら持ち上がってくる。
傘を二本持ってきておいて良かったと心の底から思う。一本の傘でこの雨量から二人を守るのはとても無理だ。
 
道すがら、本屋を見つけたので入ってみる。狭い店内にも彼女はいないようだ。
それどころか一人の客さえおらず、若い店員がレジのところで暇そうにあくびをしている。
傘をさしていても自分の身体は濡れてしまっているようで、ところどころから水がしたたっている。

このままでは意図せずそこらじゅうの本を水びたしにしてしまいそうだったので、ぼくは慌てて店を出た。

121 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:44:40 ID:9BaR2n0c0
彼女はぼくより遙かに濡れねずみになってしまっているに違いない。
気の毒だ、というのが正直な感想で、真摯に自分のせいだと反省することができない。

どのように想っても、対岸の火事に駆けつけようともせず、
ただ遠くのほうから水を浴びせようとあくせくしているような、無様さを覚えてしまうのだ。

彼女の言ったとおり、彼女への愛情と死の問題を分けて考え、その上で死を選択し彼女を捨てたのだから、
その無様さはもはや挽回しようもない。ならば今、こうやってかけずり回っている自分は何なのだろう。

……きっと、これは誰しもの心に起きるちょっとした善意でしかない。
ぼくが彼女のことを愛していると言ったところで、誰が信用するだろう。
信用されないということは、存在しないも同然なのだ。

本屋を出ると、相変わらず強い雨が降りしきっていた。
目の前の古い木造住宅のトタン屋根に雨粒が刺さって、せわしなく不協和音を奏でている。

なんだかひどく疲れていた。

122 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:47:40 ID:9BaR2n0c0
ここからの行き先の候補として幾つか思い浮かぶが、そのどれを取っても彼女がいる気がしなかった。
もしや、彼女はこの雨と一緒に溶けてどこかへ流れていってしまったのではないだろうか。
そうであってもおかしくない気がした。

そして、もしそうだとしたら、ぼくみたいな人間にはもう追いかけることもできない。傘だって無駄になる。
 
それでも、ぼくは歩き出さなければならなかった。
彼女を探し続けるにしても、早々に引き上げてしまうにしても、立ち止まってはいられない。
何があろうと、前には進まなければならないのだ。そんなことは分かっている。

分かっていたからこそ、今日という日に向けて着々と準備してこられたのだ。
彼女にさえ見つからなければ……。
 
いや、そんな名残惜しさに浸っている場合ではない。ぼくは傘をさすために少し上を向いた。
その瞬間、視線の先を光が斜め下へ走った。稲妻だ。続いて鼓膜をつんざく爆音。

先ほどまでとは比べものにならない音の大きさに、ぼくは思わず悲鳴をあげそうになっていた。
外に出たのだから大きく聞こえるのは当然の話なのだが、それでもぼくは必要以上に驚愕していた。

しばらくその場を動けずに足を震わせていた。
それからようやく、何事もなかったかのような顔で傘をさして歩き出すことができた。
ぼくはたぶん、空襲の時に逃げおおせることもできずに死んでしまうのだろうな、などとつまらないことを考える。

それぐらい頭が混乱していた。脳みその奥底で、まだ雷鳴が反響していた。

123 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:50:16 ID:9BaR2n0c0
それにしても稲妻をじかに見たのはいつ以来だろう……もしかしたら初めての体験かもしれない。
その一瞬の出来事は脳裏にしっかりと焼き付いているのだが、
その衝撃を説明しろと言われてもたぶん何一つ伝えられないだろう。

雷を怖がる人が多いというのも分かる気がする。
よく分からない恐怖というよりは、はっきりと目撃することによる畏怖。
科学的な原理も解明されているはずなのに、人間の手ではどうすることもできない自然の偉大さ。

そしてそれだけではなく、個人的な恐怖心を刺戟する何かがある。

ぼくの足取りは明らかに重くなっていた。落雷のために疲労は倍増していて、
そのせいかいっそう孤独感が深まっていく。薄ぼんやりと浮き上がっているような街路は、
進むにつれて迷宮の様相を呈してきた。こんな天気の下で出ていった彼女は相当強い女性なのだろう。

もちろん、ぼくが弱すぎるという可能性も否定できないが。

いや、もしかしたらぼくが見落としていただけで、彼女は意外と近所で雑誌でも立ち読みしているのかもしれない。
もちろん、そうであって欲しいという希望的観測も含まれる。
辛うじて持ち合わせていた小銭で買った切符で遠くへ行かれてしまったのであったら、もうどうしようもない。

二軒目のコンビニも不発に終わり、ぼくは更に進み続けた。
もう、どこを歩いているのかはっきりしなくなってきている。
おぼつかない足取りで家の壁だけを目で追いながら前進する。自分の目的が何かも忘れてしまいそうだ。

傘はもうほとんど役に立っていないようで、全身から雨のにおいが蒸気のように湧き上がっていた。
雨粒か自分の汗かも分からない顔の水滴をぬぐい、ようやくたどりついた曲がり角で向きを変える。

124 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:53:21 ID:9BaR2n0c0
ともすれば不快な眠りに落ちてしまいそうな頭の上で再び光と音が放たれた。
ぼくは誰かに一喝されたかのように身体をまっすぐに硬直させ、そのままの姿勢で歩き出した。
ぼくは雨の息苦しさよりも、時折訪れる雷の激烈さに戦慄していた。

何故こんなにも雷に責められているような気分になるのか分からない。
ただ、その攻撃は泣き出したくなるくらいにおそろしかった。

そう……純粋に考えればおかしな話である。何もぼくは、雷鳴を怖がる必要なんてないはずなのだ。
本来なら、ぼくはもう既に死んでいる身なのだから。あの部屋の、あの吊照明の、あのネクタイ――
それはまだ、孤独にぶら下がっているはずだ――によって。

そのぼくが雷に挫かれるなど、本来なら不可思議でしかない。
にも関わらず、ぼくはこれ以上雷が落ちないことを願っている。
できればこの雨と共にさっさとどこかへ消え去ってほしいと切望している……。

何かのはずみで雷がぼくの真上に落ちてきたら、ぼくは呆気なく死んでしまうか。
そうでなくても意識不明の重体ぐらいには追い込まれてしまうのだろう。もしかして、ぼくはそれが怖いのだろうか。
首吊りによる死を望んではいても、落雷による死は本望ではないのかもしれない。

結果としては変わらないというのに、ぼくはあくまでも形式に拘っているのかもしれない。
では、形式としての死を求めているのであれば、ぼくは本来的には死を望んでいないのではないか。

だが、近いうちにぼくは死ななければならない。それだけは確かだ。
何故か。そんなことは分からない。分からないなら死ななくてもいいじゃないか。
死ぬだけの勇気があるなら、生きていけるはずだ。

125 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 21:57:08 ID:9BaR2n0c0
……いや、違う。死ぬ元気と生きる元気は根本的に異なっているのだ。
その二つは、まったくもって別問題なんだ……そう、まるで彼女への愛情と同じように。
そしてぼくには、死ぬ元気を上回るだけの生きる元気が存在していなかった。

死ぬ元気を出して、こうして無闇に生き続けているのをやめるなら、死ぬのが道理じゃないか……。

ふと我に返ると目の前に広々とした川が横たわっていた。
どうやら、気付かない間に川沿いの道にまで来てしまっていたらしい。
増水した川の流れは普段に比べて速く、濁っていた。

そしてぼくはふと――すくみ上がってしまった。
雷鳴の響いている時に広い場所に出るのは危険だという小学生でも知っている知識を思い返したからである。

それにしても先ほど思い出していたのは……そう、ぼくが書いた下らない遺書の内容とほとんど同一だった。
たったあれだけの動機を、ぼくは目いっぱい拡大して三枚にも膨らませたのだ。

内容と呼べるほどの内容は一つもなく、
ただ素朴に死ななければならないという事実を淡々と書き並べただけにすぎない。
遺書というよりは、検死調書とでも言うべきだっただろうか……。

126 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 22:00:20 ID:9BaR2n0c0
そもそもぼくが何故死にたくなってしまったのか、それに値する理由などいくら考えても出てこなかった。
ただぼくは死にたかった。死ななければならないと盲信していた。

例えば高校生が卒業すれば大学か就職かに進路を定めなければならないのと同じように、
ぼくはぼくの人生において、次の行動を選択しただけなのだ。そう、いずれにせよ前には進まなければならない。
進まずとも、人生はあらゆる濁りを含めて流れていってしまう。その流れは深く、目まぐるしいほど速い……。

選ばなかった道を惜しむのは儚いことだ。だからぼくは彼女に何も告げなかった。
生きることと死ぬことは、同じ人間の身に起きる話なのに互いに相反している。

少しでも残っている「生きたい」という希望の残渣を捨てるためにも、
「死ななければならない」という響きはとても魅力的だった。だからぼくはその言葉に執心した。
生きていることは強制されるべきことじゃない。

それが必要でなくなったなら、或いは必要性が薄れていると感じたなら、自ら死んでしまっても構わないのだ。
そう信じてぼくはあらゆる努力を惜しまなかったつもりだ。

だが、雷鳴はそんなぼくの選択肢を根こそぎ奪い取ってしまった。
ぼくが今まさに感じているのは……紛れもない死への恐怖心だった。
雷撃で散る程度の命を、ぼくはまだ吹き消してしまいたくないと思ってしまったのだ。

そう、だからぼくは死にたくない。死ななければならないが、死にたくないのだ。なんという矛盾だろう。
生きる元気などは既に枯渇してしまっているのに、死ぬ元気さえ無理矢理そぎ落とされてしまった。
そして、その二つの井戸は重厚な蓋で閉ざされてしまい、二度と水が注がれることはない。

ぼくは、真の意味で空っぽになってしまったのだ。

127 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 22:03:20 ID:9BaR2n0c0
考えるのをやめてしまいたい意志とは逆行して、ぼくの頭は無意味に覚醒していた。
あらゆる物事を並行して思考している。生きていることも、死ぬことも、何もかもを考えていた。
全身が、今にもはちきれそうなほど軋んでいる気がした。

全部が無駄だった。死を考えることさえ、苦痛でたまらなくなっていた。
結局のところ、色々と難癖をつけて死を回避しようとしているようにしか見えない自分自身があまりにも疎ましかった。
そう、できることなら雷鳴など耳に入れることなく、死という選択肢を完遂してしまいたかった。

それだけで、よかったのだ。

そして雷鳴が響いた。ぼくは辺りにかまわず叫んでいた。
ここにも、彼女の姿は見当たらない。





128 ◆xh7i0CWaMo:2014/09/30(火) 22:04:01 ID:9BaR2n0c0
次は10月1日の夜に投下します。

では。

129名も無きAAのようです:2014/09/30(火) 22:04:19 ID:0LeReEVs0
乙!

130名も無きAAのようです:2014/09/30(火) 22:38:06 ID:KnsmzAGM0


131名も無きAAのようです:2014/09/30(火) 23:46:27 ID:tOLsnB4A0
どうすればここまで考えをほじくれるのか…
アースで散る雷みたいな話だったよ
おつでした

132 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:16:58 ID:h2WvNwoE0
5.ちぎれた手紙のハレーション 20140731KB

『兄さま、貴方はわたくしに大いなる寵愛を授けてくださいましたね……』

外では太陽がキラリキラリと照り輝き、上空を舞う雲の波は、まるで畝って奇妙な芸術のように舞い躍ります。
少しだけそよぐ空気が、心地の良い熱を運んでくれます。

こんな日に独り部屋に引き蘢って、手書きの手紙をしたためているなどというのは、
もしかしたら背徳的な行為なのかも分かりません。
 
けれども、わたくしはどうしてもこの手紙を今日中に書き終えなければなりませんでした。
忙しなく動き回る世情に従って、わたくしもするべき事はサッサと終わらせてしまわねばならないのです……。

『貴方の寵愛は、わたくしの人生に数多の幸福を齎してくださいました。
 ですから、わたくしは貴方と共に歩んだ年月を、決して後悔などしておりません……』
 
わたくしも一人前の現代ッ子でありますから、手書きで長文を書き表すなどという事には然程慣れておりません。
こうやって書きながらも少しずつ読み返し、その文字の乱雑さに恥じらいを覚えてしまいます。

字体にはその人の育ちが其の儘表現されると申しますけれども、
それを考えるとわたくしはただただ申し訳なくなってしまいます。

『こうして互いが離ればなれになってしまってなお、
 わたくしは兄さまのことを思い出さない日は殆どないのです……』

133 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:20:04 ID:h2WvNwoE0
そういえば、昨夜はこんな夢を見ました。
 
わたくしは空を漂っていました。
生まれ故郷である田舎町の宙空を、特に何をするということもなく浮揚していたのです。

季節は夏。時刻は真昼間で今と同じように太陽の光が燦々と降り注いでいました。
なのに、そこには同時に星空も存在していたのです。
彼らの輝きは決して太陽に負ける事なく、それぞれがくっつき合い、色々な星座を形成しておりました。

そして私の眼には、まるで図鑑で見ているかのように、それぞれの星座の画がハッキリと映っていたのです。
 
そんな非現実的で酷く美しい空の下をわたくしは飛行しておりました。
すると、眼下の畦道に学生時代の知り合いを発見したのです。

彼女とはそれほど仲が良かった憶えもないのですが、
その時の私は何の疑問も持たずに彼女の元へ一目散に舞い降りていったのです。

そのとき……落下していく際に覚えた無重力的な心持ちときたら……
今思い出してさえ、身体がゾクゾクとしてまいります。

ああ……そうです、畢竟、わたくしの夢は浮遊と墜落によって構成されているのです……
現実には決して味わう事のない体験……けれども、わたくしには親しみすら覚えられる感触……。
わたくしは、もう幼き頃から、その体験の虜になっていたと言っても過言ではないのでしょう……。
 
話がそれてしまいました……そうして、わたくしは知り合いの女性のところへ降り立ちました。
彼女の風貌は私の知っているものと何ら変わるところなく……
学生時代と同じく柔和な笑みをわたくしに向けてくださっていました……何の違和感も覚えていないかのように……。

134 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:23:12 ID:h2WvNwoE0
(*゚ー゚)「こんにちは」

と、わたくしは何だか気取った風に挨拶をしました。

(*゚ー゚)「今日はいいお天気ですね」

ミセ*゚ー゚)リ「ええ、本当に」

彼女も優雅に応じてくださいました。

ミセ*゚ー゚)リ「こんな綺麗に星座が見れることなんて、滅多にないことですわ」

(*゚ー゚)「貴方はどの星座がお気に入りなのですか?」

ミセ*゚ー゚)リ「私は、実を言うと蛇遣い座が最も素敵だと思っているんですよ」

(*゚ー゚)「まあ。蛇遣い座でしたら、まだ空には昇っておりませんね」

ミセ*゚ー゚)リ「ええ、けれど、宵の口にはきっと美しく煌めいている筈ですわ」

(*゚ー゚)「本当ですわね、アハハハハ」

ミセ*゚ー゚)リ「アハハハハ……」
 
そうしてわたくしは目を覚ましました……夢の中の彼女に別れを告げる事もなく……。

135 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:27:38 ID:h2WvNwoE0
夢から醒めるたび、わたくしはいつも口惜しい気分になってしまいます。
夢の世界は大抵において素晴らしく、美しく、そして夢の中のわたくしは、
その全てが余すところなく現実であると信じ込んでいるのです。

ところが、夢から醒めるたび、わたくしの確信はたちまちにして立ち消えてしまい、
あまつさえ、同じ夢と再会することは稀にも起きてくれないのです。

そうですからわたくしは……夢と別れるたびに……わたくしの中に僅かに潜んでいる美しき部分……
自分自身に陶酔できる部分を失ってしまうような感覚に陥ってしまうのです。

『兄さまはお元気でやっていますでしょうか。わたくしのことを、まだ憶えてくださっていますでしょうか』
 
そのあとに遺るのは自己嫌悪のわたくし……どす黒く固まってしまったわたくしだけが、
心の中に居座ってしまっているような気さえしてしまうのです……。
そしてその嫌悪感はやがて他者に及び、愛すべき家族に及び、兄さまに及び……。

『突然のお手紙にさぞや驚かれたことでしょうね。
 けれどもわたくしは、どうしても直筆で兄さまにお伝えせねばならないことが出来てしまったのです。
 兄さま、兄さま……悲しんでくださいますか。寂しがってくださいますか。

 このお手紙は他でもなく、兄さまへの別れのお手紙なのですよ……』

136 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:30:27 ID:h2WvNwoE0
……その、時代遅れの山高帽を冠った背高の紳士がわたくしの部屋を訪れたのは、
今から丁度一週間まえのことです。その時も素晴らしい夢をお別れをして……
ウツラウツラとしていたわたくしのところへ、彼はあまりにも唐突に、不躾に……

願っても得られないような悪夢を携えてやってきたのです。
 
今にして思えば、どうしてわたくしは見ず知らずのあの男を部屋に入れてしまったのでしょうか……
身持ちの悪い女である自覚はありません……しかしあの時は、あの時だけはどうしても、
避けられぬ運命が形になって現れたのだと錯覚し、受け入れざるを得なかったのです。
 
部屋に入った男は帽子をとることもなく、煙草を一本、吸ってもいいかとわたくしに訊ねました。
わたくしが渋々了承いたしますと、彼は背広の胸ポケットからクリーム色の小箱を取り出して、
窓際へ歩み寄っていきました。

( ・∀・)「この煙草はね……貴女なんかもご存知かも知れませんが……ピースというんです。
      ええ、英語です。欠片ではなく、平和という意味のほうで……。

      ハハ、私はこの一生涯で、これ以外の煙草を吸うたことがないんですよ。
      そもそも煙を好んで吸う趣味は無いんでね、格好がつけばなんでもいいんです……。
      ええ、喫煙者の心理なんて大抵そんなものですよ、キットネ……。

      ほら、パッケージに鳩が描かれているでしょう。平和の象徴ですよ……。
      こんな、依存性の高い毒物に平和なんて名付ける意図について、貴女はどう思われます? 
      私は、チョット頭がおかしいんじゃないかと思うんですがネ……。

      でも、平和そのものが依存性の高い毒物だと考えると……
      どうで、なかなか小気味よい皮肉だと思いませんか。思わない……? 
      まあ何でもいいんですよ。きっと制作者にもそんな意図はありますまい。

      解釈なんてものは、各々の感性と主観の数だけ存在するという事で一つ……。
      とにかく私は、この名前に一目で惚れ込んでしまったという具合なんです……。
      それで、時々目についたら購うことにしているというワケで……」

137 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:33:23 ID:h2WvNwoE0
彼の風体は、何となく旧き小説に登場する私立探偵を思わせました。
帽子の下に垣間見える目鼻立ちはどこか日本人離れしていて、何より、部屋の中では更に背丈が際立ちました。
そうやって含蓄を呟きながら煙をツイと吐き出す姿などは、十分に板についていたと言って間違いないでしょう。

( ・∀・)「……ええ、分かっていますよ。そんな疑いの眼差しを向けずとも……
      私はこうして煙草をスパスパやるためにここを訪ねたワケじゃないんです……。
      そう、チョット退っ引きならない用事が出来たもので、こうして寄らせていただいたんですよ。

      それはね、有り体に言えば人探しと申しますか……ある方の依頼があったものでして……」

(*゚ー゚)「では、矢張り貴方様は探偵か何かでいらっしゃる……?」

( ・∀・)「ヤハリ? ……そう、そうですか。ハハ、そう見えますか。こいつはいけませんねえ。
      探偵がイカニモ探偵という格好をしていることほど滑稽なものはありません……
      私服警官が警察手帳をぶら下げて歩いているようなもんです。

      今後は改善に努めましょう。ええ、そうしましょう……
      然しね、今回はもう、貴女に気付いていただいても一向に構わないんですよ。
      何せ私の役目は貴女を突き止めた時点で、とうに終わってしまっているものですから……」

138 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:36:25 ID:h2WvNwoE0
そうして彼は、背広の内ポケットから一枚の写真を取り出し、わたくしに手渡しました。
それはモノクロで仕上がったポラロイド調の写真で、まるで昭和以前の雰囲気を匂わせるものでした。
そしてそこには一人の、何の変哲もない若い男性が写されておりました。全然見覚えのない男性の顔が……。

(*゚ー゚)「あの、この方は……?」

( ・∀・)「きっとそう言うだろうと思っていましたよ……。いやね、依頼人には聞かされておったのです。
      彼女は記憶を喪失してしまっているかもしれない、
      だから僕の顔を見ても何もハッキリ思い出せないだろう……とね。

      それだからこそ、私のような私立探偵にお鉢が回ってきたという具合で……。まあ、何でもいいんですよ」

彼はそこで、不自然なほどに口角をつり上げた笑みを浮かべてみせました。
その表情が何とも恐ろしく恐ろしく……わたくしはとても直視することが出来ませんでした。

( ・∀・)「ええ、落ち着いてよくお聞きください……この方は、貴女の婚約者なのですよ」
 
わたくしは目を見開いてその写真と、彼の顔を交互に見つめました。
そして、ヒュウ、と音階の外れた呼吸をしながら「そんな……」とやっと一言呟いたのです。

( ・∀・)「ほほう……やはり全部依頼人の……貴女の婚約者の予想した通りでしたか。
      ええ、きっと何やらの特別な事情があったのでしょう。貴女はこの顔の人物を憶えていない、
      それどころか、自分が誰彼と婚約したかどうかさえ、記憶していない……そういうワケですね?」
 
わたくしはただ、コクリと首肯するのがやっとでした。

139 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:39:45 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「そうですか。それは困った事態ですナ……。然し、既に調べはついているんですよ。
      ここへ伺う前に、予め言質は取れているというワケで……。

      ええ、つまり依頼人のご家族、及び貴女のご両親にも事情をお聞きしましてね。
      この依頼人と貴女が三ヶ月ほど以前に婚約を結ばれ、
      各々のご両親への挨拶も済ませているという事は、既にハッキリしているというわけです」

(*゚ー゚)「そんな、何かの間違いでは……」

( ・∀・)「間違いではない! ……ええ、現に私がここに辿り着いたのがその証拠ではありませんか。
      私だって何も闇雲に、シラミつぶしに貴女の苗字の彫られた表札を探して歩いたんじゃあないんですよ。
 
      貴女は一ヶ月ほど前、突如依頼人の前から姿を消した。
      以来、彼は貴女を発見しようと這々の態で動き回ったのです。それでも見つかりやしない……
      それで彼は、恥を忍び、断腸の思いで私や貴女のご両親に相談を持ちかけたと、そういうワケです。

      貴女の居場所はご両親が大体の見当をつけてくれました。
      曰く、娘は静かな場所を好み、また所縁のないところを嫌うと……故に、大学生の頃、
      下宿していた辺りが怪しいのではないかと……そしてその推測は、見事的中していた」
 
わたくしはもう一度、目を凝らして写真の人物を眺めました。
ごくごく普通の、何一つ印象的ではない男性の表情……。
それこそ、通りすがりの見知らぬ他人に向けるような感情しか湧いてきません。

こんな男性と知り合いになり、ましてや婚約を結んだ自分がいるなどということは、全く信じられないことでした。

……そして何よりも……こんな言い方は可笑しいかもしれないですけれど……
わたくしには記憶喪失になった憶えが一切ないのです。

140 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:42:17 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「……まあ、よくよく驚かれるのも無理もない。
      然しね、貴女の仕掛けた今回の失踪劇は、
      ある程度貴女自身によって意図されていたものだったんですよ」

(*゚ー゚)「……どういうことです、それは……」

( ・∀・)「貴女は失踪直後、ご自身の携帯電話を解約しておられる。
      それで、依頼人もご両親も連絡が取れなかったという経緯があります。
 
      このご時世にわざわざご自身の電話番号を失われるなど、
      相応の覚悟をもってでしかなし得ない事ではありませんか。そう思うでしょう? 

      ……いやいや、これは、今の貴女を責め立て、糾弾しても何ら意味のないことではありますがネ……。
      ただ、一つ考えていただきたいのは、過去の貴女はご自身の意思をもって、
      計画的に今回の芝居を打ったという事実でありまして。

      そこには何らかの、重大な動機が秘められている筈なんですよ」

(*゚ー゚)「そんなこと……わたくしは、まだ、この男性……
     わたくしが婚約を結んでいる男性のことも思い出せていませんのよ。
     そもそも、わたくしが婚約なんて……誰か様と、そんな縁を結んでいただなんて……」

( ・∀・)「ほほう、ご自分が婚約者の身分であるということがそれほどに信じられませんか」

(*゚ー゚)「だってそうでしょう? 
     婚約をしたということは、私はその方に恋慕し、また恋慕していただき、
     長い時間を経てようやく到達する頂ではありませんか。

     それほどに貴ぶべき時間の全部が、現在の私の頭からはスッポリと抜け落ちてしまっているのです……。
     だって、正直に申し上げますと、今この方の写真を見ても、何の好意も抱けないんですのよ……」

141 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:45:29 ID:h2WvNwoE0
わたくしは、もう殆ど耄けたような心持ちになっておりましたが、
それでもまだ、この探偵への疑いを持ち続けていました。

すなわち、全てがこの、探偵を名乗る男の一人芝居なのではないかと……
全ては、何らかの目的でわたくしを騙すための策略に過ぎないのではないかと……。
 
しかし、そんなわたくしの疑惑や期待は、彼の次の言葉によって華麗に打ち砕かれることとなってしまったのです。

( ・∀・)「イヤイヤ……貴女の恋愛観は素晴らしいものです。
      この時代にそれほど堅牢な心をお持ちである事には、ホトホト頭が下がる思いです。

      とは言え……私も職業柄、貴女の感情的な言葉だけで屈するわけにもいかない……
      ええ、これは男性である私からはやや言いにくいんですがね……
      依頼人が貴女を心配なさっていたのには、格別の理由があるからなんですよ……。

      これは直接的な動機があるわけではなく、
      ただ依頼人が過去の貴女からお聞きなさっただけのことではありますが……
      事実であれば成る可く速やかに自覚していただかなければならない……。

      ええ、そうです。過去の貴女はね、依頼人に、ご自身が身重であるという風に告白したそうなんですよ」
 
私は彼の言葉を噛み砕いて、ようやく意味を理解した瞬間にグラリと揺らめくような目眩を覚えました。
それと同時に、お腹の方から心臓に向かってゾワゾワと悪寒が競り上がりました。
まるで言葉に反応し、自らの存在を主張するかのような不気味な悪寒が……。

142 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:49:06 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「ええ、もっとも、まだ月日は浅く……外見で判別できるものではありません。
      然し乍ら貴女自身がお感じになられた様々な変化が……その事実を明確に物語っていたのだそうです。
      依頼人は……ええ、勿論貴女もです……それはそれはお喜びになられたそうですよ。

      それで、近いうちに連れ立って病院に行き、
      正確な事実を把握しようという手筈まで組んでいたとのことなのです。
      けれども、その矢先に貴女が失踪なされた……。

      そのため、依頼人は『過去の貴女が過去の貴女の儘であれば』失踪するなど考えられないと、
      こう予測立てたワケでしてネ。まあ、勿論勾引されたという可能性もお考えになったそうですが……
      そうだとすれば、ご本人によって携帯電話が解約されているというのは、どうにもオカシイ。

      そう、それこそ記憶喪失になったとでも考えなければ有り得ない事態だった、とそういうわけなんです……
      オヤ、大丈夫ですか? 相当にお顔色が悪いようですが……」

(*゚ー゚)「気になさらないでください」

と、わたくしは言葉を絞り出しました。勿論、まだ信じられない気持ちでいっぱいでした。
けれども、それでも、悪寒が止まりませんでした……まるでわたくしの身体を乗っ取ろうとしているかのように、
徐々に震えが全身へと行き渡ってゆくのです……。

143 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:51:29 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「……ええ、まあ、私も専門の医者ではないんでネ……
      貴女を一見してご懐妊されているかどうかなど分かる由もない……
      どうしても信用できないようであれば、一度ご自身で産婦人科などに通ってみては如何でしょう……。

      イヤイヤ、というのもね、依頼人はすぐに貴女を連れ戻そうという気はないんですよ……
      ええ、これは貴女のためを思ってのことです。記憶喪失にせよ何にせよ……
 
      まあ、結果的に予想通りだったワケですが……この時期に失踪なさるということには、
      余程の動機があったに違いない、彼女には彼女自身、心の整理をつけてから帰ってきてもらいたいと、
      そう仰るんですな……。

      実際、ねえ? 今から依頼人の元へお帰りになったところで、益々混乱するばかりでしょう、
      そう思いませんか……。そういうわけですので、貴女にはいましばらく、猶予があるのです。
 
      本来ならば私の仕事はここで終いなんですが、そうですナ……
      一週間後を目処に、もう一度此処へお伺いします。それまでに、身辺整理をするということで一つ……。
 
      その際にも帰宅を拒否されるようならば、私は何度だってやって参りますよ。
      何せ暇なものでしてネ……。しかしまあ、私も仕事ですので、
      契約している期間はそれ相応の料金を頂きます……

      無論、それだけ依頼人の金銭的負担も膨れ上がるという具合で……
      まあまあ、それは今の貴女が考えるべき事案ではないですな。

      失礼、どうもこういう商売ですと、銭金の問題に敏感になってしまうものなんですよ……
      今時、私立探偵なんて流行りませんからねえ……この服も一張羅なんですよ……アハハハハ……」
 
わたくしは、一人でペラペラと、さも楽しそうに喋り続ける彼をぼうっと見遣っておりました。
そのうちに無意識に下腹部を撫ぜようとした手を、バチリと他方の手で払いのけました。
今は自分の身体など触りたくもない……そんな心持ちで……。

144 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:54:56 ID:h2WvNwoE0
( ・∀・)「……おっと、失礼……チョイと長居しすぎたようですな……
      ああそうそう、名刺を置いておきますんでネ、
      何かお困りごとがあったらいつでもその番号にお掛けください。

      ああ、この名刺ね、一応名前は記してあるんですが、あくまでも仮名でして……
      ほら、一枚ごとに名前が違うでしょう? まあ、用心するに越した事はないというワケで。
 
      けれども身分は確かですよ。何なら、ご両親に連絡を取ってみては如何です? 
      きっと私の評判が聞ける筈です。もっとも、ご両親には別の名前で知られているかもしれませんがネ……
      どうもそのあたりの物覚えが悪くて……アハハハハ、ではこれにて……」
 
……彼が立ち去った後、ポッカリと穴があいてしまったような空間を、わたくしはただただ呆然と眺めておりました。
どれぐらいそのままで居たでしょう……。不意に我に返ったわたくしは、早速両親に連絡を取ろうと試みました。

しかし……もしも探偵の言葉が真実であれば、両親もまた、彼と同じようなことを、
追い討ちをかけるようにして私に告げるだけでしょう。或いは、必要以上の語気で叱責されるやもしれません。
その口撃に今のわたくしが耐えられる筈もありませんでした。

かと言って、探偵の言葉の一切合切を全否定されてしまえば、
わたくしは愈々頭がおかしくなってしまうかもしれません。それだけ彼の言葉には迫力と真実味があったのです。

ですから、わたくしは両親に連絡を取るのをやめてしまい……近所のドラッグストアへ走ることにしました。
そこでわたくしは……もう本当に、顔から火が出るような思いで……妊娠検査薬を購ったのです。

無論、病院に行けばもっと確実な状態が判明するのでしょうけれど、
とてもそんな勇気を出すことは出来ませんでした。
然し、市販の妊娠検査薬でさえも、九分九厘、正確な結論を叩き出してしまうのです……。

『兄さま、実はこのたび、わたくしはとある方の子を妊娠したのです……』

145 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 21:57:50 ID:h2WvNwoE0
結果は、何度見ても変わりませんでした。
探偵に妊娠の疑惑を突きつけられたその当日に、わたくしは自分の身に、
自分の子どもが宿っていることを理解したのです。

それはもう、今までに見たどんな悪夢よりも絶望的で、そして突き刺さるように痛むほど現実的でした。
わたくしは、つまり、そういった行為を誰彼と交わした憶えはなく、
しかしその証拠はこのお腹に明白に存在しているようなのです。

そんな自分がふしだらにさえ思えてしまい、自己嫌悪が一層に肥大していくのでした。

『けれども、兄さま、信じていただけますか。わたくしは、それでも、それでも……』
 
最早、妊娠という事実だけで探偵の言葉を鵜呑みにするには十分でした。
何らかの理由によって記憶を喪失し、愛すべき人をおいて逃げ去ってしまった……
それが、ようやく自分自身のことなのだと了承するに至りました。
 
ああ、けれど、それでもわたくしは、探偵が置いていった写真を見ても何の感慨も持てずにいました。
わたくしの好みに合うかどうかも分からず、ましてや記憶の引き出しが開かれる気配もありません。

けれども、この男性と愛を交わしたというイメージは徐々に現実味を帯びていき、
わたくしは独りで煩悶せざるを得ませんでした。それは惨めなほどに背徳的で、堕落的で……。
ああ、このお腹に子がいなければ、わたくしはきっとナイフでもって自死していたことでしょう。

けれども、子殺しという罪は脳内で想像することさえ重すぎて我慢できず、
結局は何も出来ずにグシャグシャと髪の毛をかき混ぜてばかりいたのでした。

『兄さま、わたくしは現実を受け止めなければなりませんでした。
 わたくしは、誰か様の元へ嫁ぐという現実を受け止めなければなりませんでした』

146 ◆xh7i0CWaMo:2014/10/01(水) 22:00:22 ID:h2WvNwoE0
探偵はわたくしに、身辺整理をしておくようにと告げましたが、
わたくしには特段……自分の心情を除き、整理しておくべき物事など思いつきませんでした。
ですので、もう今すぐにでも、名刺に記された番号へ連絡することも可能だったのです。

けれどもそれは、わたくしにとって自ら断頭台に上がる日を選ぶようなものでした。
電話をした瞬間にモノクロの男性が、それに伴うあらゆる出来事が色調を得てわたくしに降り掛かることを考えると、もう、とても自分から連絡をとるなどという手段には及べませんでした。

しかしそれはまた、お腹の子どもを無闇に放置しているようにさえ思われ、
わたくしはあらゆる嫌悪感によって雁字搦めに縛り付けられてしまったのです。
 
そうして生きている心地などひとつも得られないような日々が一日、また一日と過ぎてゆきました。

わたくしはただ、自室に横たわって再びやってくるであろう探偵の足音に怯え続けていたのです。
そうやって怯え続けている事にやがて疲れ果て、ウトウトとした微睡みに溺れ……
そうしてまた、一日が無為に終わるのでした。

『兄さま、年の離れた兄さまは、わたくしにとって親も同然の存在でありました。
 そして兄さまもまた、わたくしのことを娘のように可愛がってくださいましたね』


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