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創価学会の功罪を考える

453沖浦克治:2003/10/28(火) 02:25
 アネモネさん
 犀角独歩さんの425のレスです。
>(1) 石山を「邪宗」ということ、戸田さんを「諸悪の根元」というのは同レベルではありません、云々。
 
 明らかに私に対するものです。
 レス380での
 『 沖浦克治 投稿日: 2003/10/25(土) 16:45
 管理人様
 日蓮正宗が邪宗と私の表現に苦情を述べる人が、ご自身では、
 298『戸田さんは『諸悪の根本、当然のことでしょう。』 
 との発言をされていますね。
 おかしいと思いますが如何でしょうか?』

 私の発言にたいする返答であることは明らかです。
 (2)(3)についても明らかに私に対するご意見です。

 それに対して私は誠実にレス432で答え、最後に
 『
 以上返事をさしあげました。
 私は今回あなたに3つの質問を致しました。
 先ずそれにお答えください。
 その後次に(あればですが)進みましょう。
 ご返答をお待ちいたします。』
 と結んでおります。
 質問やご意見に誠実にお答えし、その後当方が質門を返しました。
 その後にまた新たな対話をしょう、と提案もしておりますよ。

 彼の答えです。
 『 >「そうは思わない」などという無責任な不同意はここでは論外とします。

>これは私に対する質問です。

これってどういう意味ですか?
他の人とのやり取りをどうこう言っているわけではないですよ。あなたは時々訳の分からぬ事を言い出しますね。それも一つの戦術ですか。誰のレスのことを言っているのかな?
それにあなたのは、如何なる質問に対しても答えにはなっていません。ただの決意発表です。
決意発表なら座談会でおやりなさい(しまった。今月は終わったんだ)。

>私の質門にお答えください。

何か質問されました。 (?_?)
遅いので強は寝ます。お休みなさい。 』

 大変不誠実に感じます。
 自らは質問をし回答に窮すると話を摩り替えているのは、私ではなくこの人ですよ。

455ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/10/28(火) 02:50
ここ最近、他に用があって、日蓮関係や創価学会関係の掲示板には、滅多に書き込みをする事がない私で、こちらの他のスレッドにおけるレスも、まだしていない状態なのですが、今日は久々に少しばかり。
こちらの掲示板は、最近、ある御仁によるいきなりの乱入?の為、他の人たちがずいぶんと迷惑されているようですね。
私は以前、創価学会関係の掲示板でバリバリ系の盲信的・狂信的創価学会員たちによって、まるで私が学会を潰す陰謀を企てている人間であるかの如く、事実無根のレッテルを貼られ、理不尽極まる到底許し難い攻撃を受けた事があります。
私の経験上からこれだけは断言できますのは、その手の連中は、何よりも「自分たちの方が絶対に正しくて、相手の方が絶対に間違っている」といった極端なまでの独善的で偏狭な考えを前提にして、話を進めようとしているわけなのですから、普通の感覚の人たちとの間で、到底マトモな話し合いなど成立するはずがありませんよ。
ちなみに、その事と関連した内容の書き込みを下記の掲示板にある「金満虎研究」という所に記しています。

http://www19.big.or.jp/~sunshine/soukagakkai/sonota/theme-touron.cgi

とにかく、そんな類の連中なんて本気で相手にしてもほとんど何の意味もなく、時間の無駄に他ならず、まさに百害あって一利なしで、まぁ、単なる暇潰しの相手として関るぐらいなら、いいんじゃないかと。
たとえ自分の考えとは異なったものであったとしても、他者の意見に対して謙虚に耳を傾ける、そういった人間としての基本的な姿勢に欠けている幼児レヴェルの人間の事は、436でLeoさんがおっしゃっていますように、出来るだけ無視して行く方が良いのではないかと思うんですけどね。

ところで、こちらに乱入された人の書き込み内容や思考法・反論の仕方は無論の事、文章に表れる微妙なトーン・行動パターン等を見ていると、以前、複数の創価学会系の掲示板に登場していた(実は今でも、複数のHNを使い分けて登場しているのではないか?との疑惑がある)、ある御仁のそれと本当によく似ているような気がして来るんですが、私の単なる思い違いなんでしょうか?(^ー^)

まぁ、とにかく、これにて失礼させていただきます。

458Jルーカス:2003/10/28(火) 03:39
沖浦さん

> 私は、戸田先生が仮にどのような破廉恥な罪を犯しておられたとしても
>(そんな事はありませんが)戸田先生を世界一の人物として心の底から
> 尊敬する気持は、決して変わりません。
> 以前、他の掲示板で、戸田先生におめかけさんが二人いたのに何故尊敬
> するのか?とのご質問をいただきました。
> 私は、もしおめかけさんがいたらなぜ尊敬をしてはいけないのか?
> と不思議に思いました。
> これは、それぞれの価値観の問題です。

これは私も全く同感です。
妾云々は私には逆に微笑ましいと思いました(言い過ぎかな)。
何故なら、これは単に戸田氏個人の問題だからです。
つまり私的問題だからです。
ただし、狸祭事件のように組織を使っての問題は公的問題です。
同次元にするのは公私混同ではありませんか。
ましてや、妾云々は犯罪ではありませんが、暴行傷害事件は刑事事件です。
現に、戸田氏を初め学会員は刑事告訴されております。
顕正会あたりは、広宣流布のためなら国法を犯しても良いというような傾向が強いようですが、貴殿もそのような考えをお持ちですか。

また沖浦さんは、その事件の真相をその場に居合わせた方から聞いたそうですが、私のはそのような口伝えから書いた訳ではありません。

もう「狸祭事件」の記載は止めるつもりだったのですが、皆様が未だ引用されていますし、誤解を受けると良くないので一言、申しておきます。
小生は、外ならぬ被害者小笠原師が自ら書かれました「創価学会戸田城聖以下団員暴行事件の顛末」を出典として書かせて頂きました。

「創価学会戸田城聖以下団員 暴行事件の顛末」
前書き
①暴行騒撲の事実
②告訴の理由
③神本佛迹論について
④大石寺を身延に売ったということ
⑤牧口常三郎を殺したという無法
余録
昭和二十七年五月二十三日
      岐阜県○○
        本○寺住 小笠原慈聞
となっております。

459アネモネ:2003/10/28(火) 03:41
沖浦克治

>創価学会の功罪を考えるとのスレッドに、学会批判しかなく、私のようにな創価学会員を皆様方で袋叩きにしている余蘊お見受け致しますよ。

どのレスのことですか?具体的に示して下さい。

>あるのは寛師が書写した連尊曼荼羅です。

それを寛師曼荼羅というのではないのですか?

>蓮祖の曼荼羅がたまたま大石寺にあるだけです。

たまたまあったものでも大石寺の宝物には変わりないでしょう。邪宗だという他寺の宝物を書写しておきながら、関係ないは図々しくありませんか。

>国立戒壇を民主立(民主主義ですから当然そうなります)として議論を行なうのならば参加致しますが、国家権力に夜戒壇の建立は邪儀であり間違いです。

この点は、独歩さんが詳しく解説されていますが、戸田さんが主張されたことなわけですから、戸田さんが世界一だと言った沖浦さん自身の発言との整合性をきちんととって説明して下さい。

>ご本仏直属が世界一でナイト考えるのであれば、蓮祖の門を去るべきでしょう。

二つの御書を示されましたが、それを通して何が言いたいのでしょう。
いずれにしても、私が何をどう考えるかが問題ではありません。
まず、あなたがここで断言したことに対して、あなた自身が根拠を示す責任があると言っているのです。あなたは、戸田さんが世界一だと断言したのですから、その根拠をここで示す説明責任を迫られているのです。
それが本仏直属ということであるならば、学会が本仏直属であるということの根拠を示し、さらに日蓮が本仏であることの根拠も示しさなければなりません。

>このようなどご質問には驚きえお覚えますね。

私の質問にも答えられないようでは、世界広布は夢のまた夢でしょう。

>この件につきましては、何度も具体的に申しあげております。

私にはそれがどのレスのことかわかりません。再度、その部分を貼り付けで構いませんので、示して下さい。

460アネモネ:2003/10/28(火) 03:45
お詫び

>459のレスにつきまして、敬称をつけずレスをいたしました。
沖浦さんに、大変失礼いたしました。申し訳ありません。

461アネモネ:2003/10/28(火) 03:45
(つづき)
>この方は、私専用の新聞や本が創価学会にあるのかとの、ご質問をされました。

当然の質問だと思います。
そもそも、この質問の原点である沖浦さんのレスは、

>343
> >創価学会員をこの数字まで200年以内に出来なければ、蓮祖の法は滅びるでしょう。

というものです。この根拠の提示を求められたわけです。そのときついでながら、「沖浦さん専用の大白蓮華や聖教新聞があるのでしょうか」ということも確認されたわけですね。
要するに、最低限、過去全ての大白蓮華や聖教新聞の中に、そのようなことが書かれてあったのかという根拠を求められたわけです。当然の質問だと思います。
ところがです。

>そんなものがあるはずが無い事は明らかです。

ということですから、それでは何のことはない、根拠もなく豪語しただけの言葉だったということになります。

>単なる揶揄です。
>相手にする必要はありません。

揶揄ではないでしょう。相手にしなければならない、あなたの発言の説明責任があります。

>すでに示しました。

以上、再度、コメントしましたように、示されておりません。再度、説明を求めます。

>であるならば『創価学会の過去の功罪を議論する』となさるべきであったでしょう。

功罪とは、何かしたことに伴う良かった点と悪かった点のことです。したこと、良かったこと、悪かったこと、全て過去形です。過去の検証に基づくことなのです。こんなことも説明しないとわかりませんか?

>済んでしまった出来事よりも、今後の功罪の方が重要だと思います。

いいえ、違います。その根拠は、過去に被害を受けてきた人がたくさんいるからです。
なにごとも過去の反省の上に、未来の展望があるものです。

>あなたはご自分に、そんなに自信がおありなのですか?

あなたがこの掲示板で発言したことの責任が問われているのです。私のことは問題ではないでしょう。
あなたは、自分に自信がないのに、多くのことをここで断言している。よってそれでは、断言したことは信用できませんねと確認しているのです。私の自信のことはそれこそ関係ありません。あなたが発言したことを問題にしているのです。

462アネモネ:2003/10/28(火) 03:46
(つづき)
>だから自信が持てるべく、必死で努力をしている最中です。

途上中ならば、断定的にものごとを決め付けて語らないで頂きたいものです。
それでも、確信しているというのであるならば、その根拠を示して下さい。

>創価学会の信心を体験した事の無いあなたが、そのようなことを言われる事は不思議です。

お陰様で、沖浦さんの投稿でもって実証してくださいました。

>内政干渉は不必要だといっているのです。

人間中心なんでしょう。
私たちは人間として、人間の為と布教する教団に、人間として干渉する権利があるのではないでしょうか。何か矛盾がありますか。しかも、世界に広めようというのですから、日本国民として、動向を注目させて頂くのは当然のことです。

>それは宗門の問題であり、創価学会の問題ではないからです。
 隣の家庭のおかずの内容にけちをつけつような行為は、慎むべきです。

世界平和を目指すような教えを、家庭のおかずと一緒に論じるのですか。宗教は社会公共的存在です。家庭のおかずは公共的なものではありません。公と私の区別もつかないのでしょうか。

>度も言いますが、日蓮正宗大石寺から下付されたご本尊は、私のの家庭にはありません。

あなたの家にはなくても、あなたの同胞の家にはあるでしょう。全て返却されてはじめて関係断ったといえるものです。

>それはどなたがお決めになられたのでしょうか。

誰が決めたことでもありません。長い議論の到達です。
とにかく過去ログを読んでください。

>また何故最初に断り書きを入れておかないのですか。

ルールに入れるべきではないかという意見も出ました。しかし、スレッドテーマによっては、証拠主義に必ずしも基づく必要のない、個人の主観で思い思いのことを書いていくスレッドもあります。そのために、敢えてルールに加えなかったのです。
だからこそ、ここまで沖浦さんも、個人の主観が自由に投稿が出来たのです。
しかし、その投稿がどういうものであるかは、証拠主義に基づいて議論されていかなければなりません。ですから、どうしても教義討論は避けられないのです。

463アネモネ:2003/10/28(火) 03:46
(つづき)
>この方々が創価学会の真実を知っておられるとは、私にはとても信じられません。

ネットで初対面の方々でしょうし、面識もないのですから、仕方ないでしょう。
しかしだからこそ、対話が必要なのではないですか?
この方々が創価学会の真実を知っているとは信じられないと、決め付けてはいけません。
まずは、排他的に構えないことです。ここに参加されている方々は、今ここであなたが、強く主張してこられたことを、かつて信条としていた時期もあった方が大半です。恐らく、私が代弁することではありませんが、沖浦さんの投稿を読みながら、かつての自分を見ている思いの人ばかりではないかと思います。
(違っていたらすみません)

>おかしな事をおっしゃいますね。
 何故私の意見が思い付きですか。
 失礼な言葉です!

どこが失礼なのでしょう。関心がない、無駄だ、対話したくない、と言うほうがよほど失礼です。

>私は昭和52年から、悩みぬいてこれらの結論に到達したのです。

信心の年数は関係ないでしょう。
自信がないと仰ったのですから、今も悩みの中におられるものなのでしょう。

>少なくとも私は、蓮祖の教えを教えてくれた創価学会を守ろうと思っています。

それは、信教の自由ですから、誰も何も言いません。

>都合が悪くなると逃げ出して創価学会の悪口を言っている、どこかの法華講の元学会幹部などとは違うのです。

誰のことを言っているのでしょう?意味がわかりません。
都合が悪くても逃げないというのであれば、再度、提示しました質問の証拠を論理的に説明して下さい。

464ドプチェク </b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/10/28(火) 04:29
参考までにご紹介させていただきますが、下記の所における998<2002/09/19(木)>以降の書き込みをご覧になられれば、盲信的・狂信的なバリバリ系学会員の類が有していている、極端なまでにモラルが欠如した異常な性質、並びに彼らの愚劣極まる人間性というものが、実によくおわかりになられる事と思います。
そして、個人的な事になりますけど、かつて私が彼らのような人間たちから、いったいどのような許し難い非礼を受け、こちら側の反論・抗議に対して相手側からは、ただの一言の謝罪の言葉もなかったという紛れもない事実も。

http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&amp;KEY=1019879628

とにかく、あの手の連中なんか本気で相手にせず、極力無視して行くのが賢明なのではないでしょうかね?
その方が健全だと思いますし、それに、多分、彼らのような人間というものは、すごく淋しくて、誰かに相手にしてもらいたいだけなのでしょうから。

465管理者:2003/10/28(火) 07:17

掲示板ご参加の皆様へのお願い

各自におかれましては、相手の方の書き込みが、禁止事項に該当していなくても、掲示板の趣旨、書き込みの原則から見て、不適切だと判断される場合には、お答えにならないようにお願い申し上げます。

466ジャンノレン:2003/10/28(火) 11:20
久しぶりに覗きましたが、なんだか以前の空気とは違っていますね。
管理人さま、また諸兄の意見を拝見させて頂いておりますが、ドブチェクさんの
>とにかく、あの手の連中なんか本気で相手にせず、極力無視して行くのが賢明なのではないでしょうかね?
や管理人さまの
>各自におかれましては、相手の方の書き込みが、禁止事項に該当していなくても、掲示板の趣旨、書き込みの
>原則から見て、不適切だと判断される場合には、お答えにならないようにお願い申し上げます。

に同意を感じております、某正宗系の掲示板でも一方的な削除や削除後の罵り、煽り、罵倒があり、さながら集団
リンチの様な感があります。品位を保つ為との大義名分を持ちいながら結果的には自分たちの主張に相容れないも
のに対する削除権限の専横は、横暴の誹りを免れない所業に嘆息と呆れるばかりです。

個人としてのそう言った防衛には、単純にロムを止めればいいと思うのですが、当掲示板に於かれてはそれは少し、
残念な気が致します。現在、問題とされる方の主張の大半は彼方此方の掲示板にて散見される意見で御座いますし、
建設的ないし対話的でなければ、無視されるのが一番かと存じます。公開掲示板のモラルとしての規約抵触しない原則
は当然のこととして、なによりも、客観的にその主張する意見に異物を感じても、一人に大勢で排除的な意見を述べ
合うのは、これはこれで如何なものかと存じます。
「礼楽はせて真道後に渡る」という言葉もありますので、言論主張の権利は守り、答えず。と云う姿勢に徹せられる
のが掲示板の品位にも傷が付かないことと思います。
以上、僭越ながら諸兄の御高説を楽しむ一人として、当掲示板を愛するものとしての意見でした。

467犀角独歩:2003/10/28(火) 14:09

434 Jルーカスさん:

> 日興上人も日目上人も蓮祖とは相貌の違う御本尊を書写

そうでした。これはご指摘有り難うございます。
それにしても、

> 蓮祖の曼荼羅と相貌が違うのならば、偽曼荼羅

という驚くべき発言が飛び出しました。
まさか自分たちが拝んでいる漫荼羅を偽曼荼羅と言い切るとは思いませんでした。
さらにまさかですが、寛師漫荼羅が蓮師御筆漫荼羅と同じ相貌と思い込んでいるわけじゃないですよね(笑)

468犀角独歩:2003/10/28(火) 14:24

458 Jルーカスさん:

引き続き、失礼します。
「狸祭り事件」、小笠原師自身の自書、さらに戸田さんそのた学会員が刑事告訴されたという事実の提示ですね。
聞いたことがある・ないという口コミ、風聞、伝聞ではない事実証拠ですね。
なるほど。間違いない学会における会長自らが暴力事件を起こした組織犯罪であったわけですね。参考になりました。有り難うございました。

469Jルーカス:2003/10/28(火) 14:27
467 独歩さん。

>> 蓮祖の曼荼羅と相貌が違うのならば、偽曼荼羅
>という驚くべき発言が飛び出しました。
>まさか自分たちが拝んでいる漫荼羅を偽曼荼羅と言い切るとは思いません
>でした。
>さらにまさかですが、寛師漫荼羅が蓮師御筆漫荼羅と同じ相貌と思い込ん
>でいるわけじゃないですよね(笑)

冗談みたいな話を1つ。
初期の創価学会の会員さんは「自分が頂いた本尊=戒壇の御本尊」だと言う
指導を受けていたため、良く見て「奉書写 日寛」となっていたため「私は
日蓮大聖人の書かれた戒壇の御本尊」を頂いたハズなのに「日寛上人書写
本尊」を貰ってた。詐欺だ。と騒いだ事件があったそうです。

それに比べれば、マシでしょう。

470犀角独歩:2003/10/28(火) 14:41

469 Jルーカスさん:

その程度でした、たしかに(笑)
しかし、自分で偽だと決めつけるところが自分たちが拝んでいる漫荼羅であるというのは「マシ」というよりブラックジョークかと思いましたよ。
まあ、管理者さんその他の方々からのご注意もありましたので、これくらいにしておきます。

471顕正居士:2003/10/28(火) 19:02
日蓮正宗と創価学会とはもともと別の宗教であるともおもえる。

「創価学会の隠された真実史」
http://www.e-net.or.jp/user/mblu/ndb/skbk1/sg1/sghh.htm

日蓮正宗では常住御本尊の授与が成仏決定である。飛躍的
に信徒が増えているときに非現実的ではある。しかし真面目に
近代化を提案した話も聞かない。「常住御本尊」は大石寺法主
への信仰を強化するので、日寛師の文章の一部を引きながら
「御戒壇様」の意義を曲げた教義を宣布していたんではという
疑いはおこりますね。

472沖浦克治:2003/10/28(火) 19:20
 アネモネさん

>創価学会の功罪を考えるとのスレッドに、学会批判しかなく、私のようにな創価学会員を皆様方で袋叩きにしている余蘊お見受け致しますよ。

どのレスのことですか?具体的に示して下さい。

 別Bにどのレスこのレスでは無く、全体に創価学会に対する批判で満ち溢れています。
 前回もあげましたがもう一度貼り付けておきます。

 『戸田さんは『諸悪の根本、当然のことでしょう。』
  
 『私が創価に言っている事は「悔い改めよ!」です。
 
 『しかし、魔界のロボトミー化した池田狂信者は、基本的に反省出来ない哀れな連中です。』
 
 『私は創価に反省を迫っています。殺されるまで聖戦です。』
 
 『れいなさんにつづきアネモネさん.沖浦克治さんはハンドルネームからオンナと見るとすぐにちょっかいをだしますなあ.』
 
 『どっちにしても会長が暴行魔では、末端が過激でも無理はない。しかし、これが世界一の指導者ですかね(爆)。世界一の暴行魔の間違いでは。』

 いくらでもあります。
 ここの書き込みは創価批判のみでしょう。
 アネモネさん、少し現実を認識されれば如何ですか。
 あなたがここの掲示板で創価学会の側たつ発言を、私以外の人がしている事実をあげて下さい。

473沖浦克治:2003/10/28(火) 19:26
>>あるのは寛師が書写した連尊曼荼羅です。

>それを寛師曼荼羅というのではないのですか?

 寛師が書写した蓮祖の曼荼羅との意味ならその通りです。
  以下に日顕法主の言徐引用いたします。
 彼も歴代法主の書写のご本尊様は、すべて蓮祖のいのちであるといっておりますよ。
 
 (平成七年三月二十五日・第二回講頭・副講頭指導会の砌)
 「私は前に、次のような内容の手紙をもらったことがありました。それは、『日顕上人書写の御本尊は、字が下手だから、あまり有り難く思えない。日顕上人書写の御本尊は、それなりの、その程度の境界で書いたと思う』というようものでした。これはとんでもない考え方ですけれども、そこに、『末法に生まれた凡夫が僧侶となって修行し、そして法主となった人が書写する御本尊と、根本の大聖人様の御本尊とでは、そこに天地の相異があるのではないか』というような考え方があるが故に、そういう言い方をしてきていると思うのであります。しかしながら、これは全く誤った見解であります。そこに、大聖人様が日興上人に伝えられ、日興上人が日目上人へ伝えられた、血脈相伝の上から本尊の内証を口伝せられた意義があるのであり、これは厳然として七百年の今日まで伝わっておるのであります。申すまでもなく、御歴代上人御書写の御本尊にはすべて、大聖人様のお心がそのまま、はっきりと顕れております。したがって、御歴代上人、どなたの御本尊にしても、皆様方が大聖人様の御当体と拝して真剣にお題目を唱え奉るところ、必ず真の即身成仏への道が開かれるということを、ここにはっきりと申し上げておく次第であります。」P四四

474沖浦克治:2003/10/28(火) 19:33
>>蓮祖の曼荼羅がたまたま大石寺にあるだけです。

>たまたまあったものでも大石寺の宝物には変わりないでしょう。邪宗だという他寺の宝物を書写しておきながら、関係ないは図々しくありませんか。

 蓮祖は広宣流布をご遺命になられました。
 これには武器としてご、本尊様が不可欠なのです。
 日顕法主は、蓮祖に違背してご本尊下付を停止いたしました。
 故に自らで調達したのです。
 日蓮正宗は邪宗ですが、蓮祖のご本尊様は本物です。
 蓮祖門下の我々には、ご本尊寡婦を受ける権利があるのです。
 習い損ないの法主や能化どもの許可をいただく筋合いなどございません。

475沖浦克治:2003/10/28(火) 19:44
>>国立戒壇を民主立(民主主義ですから当然そうなります)として議論を行なうのならば参加致しますが、国家権力に夜戒壇の建立は邪儀であり間違いです。

この点は、独歩さんが詳しく解説されていますが、戸田さんが主張されたことなわけですから、戸田さんが世界一だと言った沖浦さん自身の発言との整合性をきちんととって説明して下さい。

 国立戒壇の是非と、戸田先生を私が世界一だと信じている事を、何故リンクされるのかご説明ください。

>二つの御書を示されましたが、それを通して何が言いたいのでしょう。
いずれにしても、私が何をどう考えるかが問題ではありません。

 当然のことながらあなたが何と思われ様と、蓮祖が末法のご本仏でありその門下が蓮祖の仰せのように世界一の資格をもつべき人間である事とは無関係です。
 私は、日蓮大聖人様が末法のご本仏である事を事実として認識いたしております。 
 信じる信じないは人それぞれの問題で、私には関係ありません。
 私は信じる、誰かは信じない。
 それだけのことです。
 参考までに申しますが、引用した御書は蓮祖門下として仏道修行に励む人々を、蓮祖がどのようにお考えかを述べられているご文です。
 私は、真にありがたいお言葉と拝します。

476沖浦克治:2003/10/28(火) 19:53
>戸田さんが世界一だと断言したのですから、その根拠をここで示す説明責任を迫られているのです。
それが本仏直属ということであるならば、学会が本仏直属であるということの根拠を示し、さらに日蓮が本仏であることの根拠も示しさなければなりません。

 戸田先生は蓮祖の御書を身で読まれ、化儀の広宣流布を軌道にのせたおかたです。
 蓮祖がご本仏であるように、戸田先生は世界一なのです。
 極めて簡単な理由だと思います。


私の質問にも答えられないようでは、世界広布は夢のまた夢でしょう。

 私は常にお答えしております。
 また私があなたの質問に答えれな事と、創価学会の取り組む世界広布の是非は無関係です。
 私は創価学会を代表しているわけではありませんし、あなたがいずれかの団体を代表しているとは思えません。

477沖浦克治:2003/10/28(火) 19:58
>>この件につきましては、何度も具体的に申しあげております。

>私にはそれがどのレスのことかわかりません。再度、その部分を貼り付けで構いませんので、示して下さい。
 
 社会体制が整い広宣流布の実現が可能になった時、戸田先生がご出現になられ『吾地涌の菩薩の棟梁なり』と宣言され、以後連尊の方が燎原の火のごとく広まった事が何よりの証拠です。
 同時に多くの新興宗教も広まりましたが、あれらは蓮祖の法とは無関係です。
 広宣流布の火蓋が、何故在家の戸田先生によって切れらたか、は熟慮すべきでしょう。

478沖浦克治:2003/10/28(火) 20:16
>>この方は、私専用の新聞や本が創価学会にあるのかとの、ご質問をされました。

>当然の質問だと思います。
そもそも、この質問の原点である沖浦さんのレスは、

 あなた方専用の御書があるのですか?
 とお聞きします。
 『要するに、最低限、過去全ての大白蓮華や聖教新聞の中に、そのようなことが書かれてあったのかという根拠を求められたわけです。当然の質問だと思います。
ところがです。』
 と次にお聞きですが、理解能力は人により異なります。
 蓮祖が末法のご本仏である事を理解できない人は、多くいますよ。
 同じく、彼が理解できない事は彼の問題です。
 本気で知りたければ、礼を尽くして聞くべきでしょう。
 それが世間の礼儀と言うものですよ。

>ということですから、それでは何のことはない、根拠もなく豪語しただけの言葉だったということになります。

 そのようなことは一度もありません。
 根拠も無く豪語しているのは、意味の無い学会批判をしている人たちです。
 この人たちのご意見からは、広宣流布の情熱が感じられません。
 広宣流布は、蓮祖の最大のご遺命です。
 これを離れて蓮祖の仏法はありません。
 布教をせよとのご文は無数にあります。
 布教をしなくてもいいというご文は何処にもありません。
 御書は、布教をせよとのお言葉で満ち溢れんばかりです。
 何故彼等は、広宣流布に対する意気込みや、構想や、自身の取り組に付いて語り合えないのでしょうか。
 いくら法門、法儀を研究し、ご真筆にこだわっても広宣流布を目的としなければ、何の意味もありません。

479沖浦克治:2003/10/28(火) 20:32
>いいえ、違います。その根拠は、過去に被害を受けてきた人がたくさんいるからです。
なにごとも過去の反省の上に、未来の展望があるものです。

 残念ながらあの人たちには、創価学会に対する未来の展望などありません。
 私には、彼等にあるのは恨みつらみだけに感じられます。

>>あなたはご自分に、そんなに自信がおありなのですか?

>あなたがこの掲示板で発言したことの責任が問われているのです。私のことは問題ではないでしょう。
あなたは、自分に自信がないのに、多くのことをここで断言している。よってそれでは、断言したことは信用できませんねと確認しているのです。私の自信のことはそれこそ関係ありません。あなたが発言したことを問題にしているのです

 わかりました。
 そこまでおっしゃるのであれば申しあげます。
 私は、ここの掲示板に投稿されているどなたよりも、自分に自身を持っております。
 これでよろしいですか。

>途上中ならば、断定的にものごとを決め付けて語らないで頂きたいものです。
それでも、確信しているというのであるならば、その根拠を示して下さい。

 臨終正念との言葉をご存知ですか。
 蓮祖門下は、死の瞬間まで努力をし続けるのです。
 信心の確信は最後は体験になります。
 お聞きになられたければ書き込みます。

>世界平和を目指すような教えを、家庭のおかずと一緒に論じるのですか。宗教は社会公共的存在です。家庭のおかずは公共的なものではありません。公と私の区別もつかないのでしょうか。
 
 世界平和といえども各個人、各家庭の平和の確立の延長線上にあるのです。
 家庭や個人を離れて広宣流布などは無いのですよ。

>あなたの家にはなくても、あなたの同胞の家にはあるでしょう。全て返却されてはじめて関係断ったといえるものです。

 たとえ話です。
 
 『おじさんの若い時は、創価学会は日蓮正宗だったんだよ。
 ウッソー、アリエナイ〜!!』
 
 こんな時代がすぐそこまで来ています。
 しばらくすれば解決いたしますので、お待ちくださいませ。
 私もワクワクしながら待っているのです。

480沖浦克治:2003/10/28(火) 20:45
>誰が決めたことでもありません。長い議論の到達です。
とにかく過去ログを読んでください。

 過去ログは読ませていただきました。
 将来の世界広布に付いて語ることを、禁じているとは思えません。

>しかし、その投稿がどういうものであるかは、証拠主義に基づいて議論されていかなければなりません。ですから、どうしても教義討論は避けられないのです。

 わかりました。
 今後御書を題材にする討論と、創価学会の教義と方針に関する事には参加をいたします。
 代々の法主と等は、参考程度であれば結構かと存じます。

>ネットで初対面の方々でしょうし、面識もないのですから、仕方ないでしょう。
しかしだからこそ、対話が必要なのではないですか?
この方々が創価学会の真実を知っているとは信じられないと、決め付けてはいけません。
まずは、排他的に構えないことです。ここに参加されている方々は、今ここであなたが、強く主張してこられたことを、かつて信条としていた時期もあった方が大半です。恐らく、私が代弁することではありませんが、沖浦さんの投稿を読みながら、かつての自分を見ている思いの人ばかりではないかと思います。
(違っていたらすみません)

 排他的なのは彼等のほうでしょう。

>どこが失礼なのでしょう。関心がない、無駄だ、対話したくない、と言うほうがよほど失礼です。

 関心の無いものに取り合わない自由は、ここにないのですか?

>>私は昭和52年から、悩みぬいてこれらの結論に到達したのです。

>信心の年数は関係ないでしょう。
自信がないと仰ったのですから、今も悩みの中におられるものなのでしょう。

 年数に関係ないといわれるのなら、この掲示板は最初から運営が云々とは言わないでください。
 また私は、創価学会のことで現在全く悩んではおりません。
 創価学会は唯一正しい宗教です。
 それ以外は全て過てる教えでしかありません。
 これでよろしいですね。

481沖浦克治:2003/10/29(水) 06:56
 皆様方に
 おはようございます
 蓮祖のご真筆本尊を網羅するサイトがあります。
 書き込みますのでよろしければご利用くださいませ。
 すでにご存知であればご笑殺下さいませ。
  http://www.lbis.jp/gohonzon/

482犀角独歩:2003/10/29(水) 16:35

『週刊新潮』頑張っていますね。
11月6日号

新『創価学会』を斬る
ライター 山田直樹
新連載第1回「異様な中傷キャンペーン」が思い出させる
狂気の「言論弾圧事件」

「池田大作はヒットラーだ」と田中角栄は言った。
金と力による徹底した糾弾!
悪夢がまた繰り返されるのか。
巨大教団の本質を問う
(『読売新聞』(7)国際14版 2003年10月29日)

どこでもかしこでも、創価学会の言論弾圧の再燃と言うことでしょうか。
四半世紀経っても創価学会の本意質は何も変わっていないのか?
興味深いところです。
創価学会と、会員の他者蔑視、暴力発言の実体を見聞すれば実体は理解できるところとなるでしょう。

483沖浦克治:2003/10/29(水) 16:53
 皆様方に
 蓮祖が、悪僧日蓮と呼ばれていた事はご存知ですか。
 正しい教えに魔が競うことは蓮祖の仰せ通りです。
 かって、『池田大作の死んだ後日本』との問いかけをした人がいました。
 『安部日顕の死んだ後の日本』など言う人は誰もいませんよ。
 宗門や皆様方の所属する団体が、せめて300万人程度いらっしゃれば、蓮祖の仰せ通り魔が競うのでしょね。
 一日も早くそこまで成長される事を、期待いたしております。
 頑張ってくださいませ。

484犀角独歩:2003/10/29(水) 16:55

「安部日顕」ではありません。「阿部日顕」です。

485沖浦克治:2003/10/29(水) 17:06
 失礼致しました。
 阿部日顕法主ですね。

486沖浦克治:2003/10/29(水) 17:26
 しかし面白くなってきましたね。
 宗門と離別し折伏に励む創価学会に、また蓮祖の仰せのままに魔が競い始めました。
 戸田先生は『運がよければもう一度難を受け、牢獄に入れられる。運が悪ければこのまま何事も無く死んでいくだろう』とおっしゃいましたよ。
 また『君たちは難が競うと、私は創価学会ではありません、日蓮正宗です。お寺で信心しています、と言わんとも限らんぞ。』とも仰せです。
 いよいよ魔が競い始めた今、私は創価学会員である事が誇りに思えます。
 他の団体の何処に魔が競っていますか?
 
 『此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。』(兄弟抄)
 
 魔の競わないような信心は、蓮祖門下ではない明白な証拠です。
 
 『しをのひるとみつと月の出づるといると夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり、此の事はわざとも申し又びんぎにとをもひつるに御使ありがたし、堕ち給うならばよもこの御使はあらじとをもひ候へばもしやと申すなり。』(兵衛志殿御返事)

 過去に多くの学会員が、この様な魔に耐えれずに退転していきました。
 この人たちは戸田先生のご指導や、蓮祖のご遺命を本気で読めなかった人達でしょう。
 然しながら、順縁・逆縁ともに救うのが蓮祖の法です。
 なんとありがたい事ではありませんか。

487妙薬:2003/10/29(水) 19:54
 独歩さま、ご無沙汰しています。
 ご指摘の通り、「本質は全く変わっていないのか?」。その通りです。
 是非、週刊新潮の連載記事を読んでください。”新”こそ付いていますが、平成版「創価学会を斬る」です。
 昭和45年当時と比べ、創価学会の言論弾圧の手法は、巧妙かつ高度化しています。「言論弾圧の再燃」と見せずに、事実上の弾圧をしているところが何とも怖いですね。

488沖浦克治:2003/10/29(水) 20:03
 『本質は決して変わりません』
 
 創価学会が蓮祖直属であり、常に民主の側に立ち、週刊誌等に見られる愚劣な批判をものともせず、広宣流布を成し遂げるという本質は変わり様が無いのです。

489探訪者007:2003/10/29(水) 20:26
 横から失礼。「週刊新潮」を購読しました。 有る方が「事実を述べられたが、あまりにも本質を突いた発言?」だったようで「創価=公明サンらは、よほどコタエタノカ?」「山崎ダ、乙骨ダ、共産党ダ、、」と言う説得力のないヒステリックで口汚くののしる〜最近は「裁判に訴える」と言う「言論弾圧的」に変身?のようです。 創価=公明方らは「事実を少しでも認めれば、今までの信心?が土台から崩れる」と言う「恐怖心から、内心はそれらをウソだ、魔ダ、」と「必死に打ち消したい」ようです。 良心の有る方々は「新潮」に大拍手でしょう。

490問答迷人:2003/10/29(水) 20:32

僕が現役学生部員の時、衆議院選挙が有りました。特別任務だと言って、やらされた事は、公明候補に競合していた自民党の選挙事務所に行って、事務所の電話番号を調べ上げて、そこに公衆電話から無言電話を掛け続ける任務でした。手分けして、市内各所に散らばって、移動しながら電話を掛け続けました。

これは明らかな選挙妨害でしたが、それなりにみんな力を合わせて一生懸命がんばりましたよ。

この手の反社会的行動でも、広宣流布のお役に立てるんだ、と思って、そうためらいもなく取り組んだことを、昨日のように思い出します。今思い返せば、このような目的のためには手段を選ばないというやり方は、仏法ではないと思います。言論弾圧も、恐らく、同じような発想で行われたのだろうと推測しています。

491犀角独歩:2003/10/29(水) 20:52

かつて創価学会で池田さんが逮捕された大阪事件を起こしました。
わたしの父親はこの事件に直接関わりました。
具体的に言うとショートピースの箱に500円札を仕込んで選挙依頼をする買収です。
言論出版帽事件は複合的な事件であった単独事件ではありませんでしたね。
たとえば印刷所に勤務している人が印刷物の中に創価学科批判を見つけると、それを本部に連絡し、それで圧力を掛ける、そんなことを複数起こした事件でした。

以上は明らかに犯罪なのであって、それによって社会的な批判が起きました。もちろん、難ではなく、犯罪批判です。それを経・釈・御書を引っ張ってきて、正当化し、蓮師に泥を塗ったわけです。人道的にも、社会的にも、何より日蓮門下にとってこれほどひどい動向はなかったわけです。

副次的に国立戒壇論を反故にし、政教分離という表向きの“公約”をすることになりましたが、妙薬さんも仰るとおり、本質は何ら変わっていません。

492犀角独歩:2003/10/29(水) 21:07

アネモネさん:
創価学会に疑問を持つ皆さん:

少しこちらでもお話をしましょうか。わたしは創価学会から脱して10年以上の歳月が流れました。生まれながらの創価学会員であったわたしにとって、脱会はフィルターを通さず社会を見る“入会”のようなもものでした。ひとつの信念体系、組織を脱してみないと見えない世界がありますね。

会ではわたしのようなスライド・アップを「退転」と言いますが、これは「進展」というべき人生の幸福な一幕でした。しかし、学会員はわたしのような幸福な選択をすると「退転者」と侮蔑の限りを尽くします。この理由をハッサン師はしっかりと書き留めてくれました。

「破壊的カルトの目には、だれかがそのグループをやめる『正当な』理由など存在しないのだ」(P192)

創価学会が破壊的カルトかどうか、そのような断定をここで行おうとしているわけではないのです。「グループをやめる『正当な』理由など存在しない」創価学会は、破壊的カルトと同様の特徴を持っている点を注視するのみです。会総体と言うより、その「指導」を墨守する各会員の意識においても同様であって、脱会者を侮蔑敵視する態度は、まさに破壊的カルトメンバーの特徴と共通しています。

学会員であったわたしは、世間の人で「創価学会は間違っている」と思うのは、「悪鬼入其身」で判断力が狂っていると教えられていたのです。しかし、脱しててみると、一般の人は、その正常な思慮・行動から、創価学会の異常性を感じ取っていたと知ったわけですこの累計の感覚をアネモネさんは指摘くださったのだと感謝しています。学会では世間が劣っていると教えられていたのですが、“進展”して見た実態は逆でした。学会員であるわたしは操作されていたのです。

かつて日本人は「鬼畜米英」と信じて死んでいきました。けれど、敗戦後、直ぐに日本人はそれらの国の人々と友好裡に過ごすようになれました。相手の国の人たちが変わったと言うより、日本人各人が「鬼畜米英」という“植え付けられた”心理操作から脱却できたからでした。(もちろん、新たな国際的な心理操作は問題になります。しかし、ここでその言及はやめます、本題を霞ませてしまいますから)

わたしが創価学会を、脱して何よりいちばん驚いたことは、会の中で言われていたことと社会の現実があまりにも違っていたという事実でした。この衝撃は、入会脱会の経験のない人にはわからないものです。

わたしが創価学会にいた頃、盛んに言われていたことは「広宣流布の上げ潮」「広宣流布の総仕上げ」ということでした。この言葉を鵜呑みにしていた自分は、もうすぐ広宣流布が実現すると信じて疑いませんでした。今から30年前の話です。

ところが社会の現実を目の当たりにする限り、創価学会が言うような「総仕上げ」段階になど、まるでなっていないばかりか、広宣流布の兆しすらまったくありませんでした。世界の指導者であると思っていた「池田先生」も世界ではまるで無名でした。世界には一部の人を除いては「創価学会」「池田大作」の存在をする人などいませんでした。

493犀角独歩:2003/10/29(水) 21:08

―493からつづく―

さらに以前もお話ししたとおり、脱会後、わたしはアメリカ、またイタリアの国営放送から取材を受けたのですが、彼らが異口同音に述べたことは「日本人は何故特定宗教団体が運営する党があることに危機感を感じないのか。その党が与党となって大臣が出ることに危機感を懐かないのか」というものでした。わたしはこの質問を受けたとき、日本社会にあるために鈍感になっていた自分の認識の甘さを痛感しました。

また、日本でカルト問題で活躍するフランス人活動家の友人は『セクト法』が成立するや、電話をしてきました。「フランスで創価学会はカルト(セクト)として扱われるようになった」と報告をくれました。先にも挙げた『マインド・コントロールの恐怖』のなかでは明確に創価学会を破壊的カルト集団の一つとして上げている事実もあります。

こうなると、創価学会にいた頃、創価学会は日本の広宣流布の総仕上げの時期にあり、世界広布に邁進していると信じていたことは一体全体何であったのか、しばし面食らって数年間を過ごしたものでした。

さらに統計資料が示すところに拠れば創価学会の活動者実数は400万人乃至800万人を超えることはないと事実を知ったときの驚愕を、アネモネさんは想像することもできないと思います。

何故ならば、アネモネさんには「創価学会が広宣流布をしている」実感は、世間一般の人と同様、まるでないでしょうから。まったくそのとおりなのであって、「今や広宣流布の総仕上げ」と煽られていたわたしが、その外に出てみれば、そんな事実はまるでなかった現実に唖然としたわけです。

これは盛んに宣伝が掛かって人気がある公演だと思って行って見たところ、会場はガランガランであった驚きに似ています。宣伝に騙された結果ですね。広宣流布ならぬ広告宣伝に偽りありと知ったとき、初めて自分が騙されてきたことを思い知らされたのです。

このように書くと学会員はこれを「悪口」であるととらえるでしょう。また「事実を知らないからだ」とか「理解できないからだ」とも言うかも知れません。そのような学会員の感情に、アネモネさんが違和感を懐かれたことは当スレッドにおける書き込みを通じてよく理解できました。当然のご意見であろうかと存じます。世間一般の方もまた同様に感じることでしょう。

これらの理由は簡単なのであって、創価学会のかけ声はまるで実質が伴っていないからです。実質を問うと彼らが行うことは、たった一つと決まっています。悪口という反撃です。ここでは「これからやる」というそば屋出前の催促の言い訳と同様の説明もありました。世界平和に貢献する創価学会は50年間平和・広宣流布に邁進してきたと豪語しながら、戦禍盛んなイラン・イラク・イスラエル・北朝鮮には何の活動を行わないばかりか、平和旅を続けるという「池田先生」はブッシュ、フセイン、ラディン、金という世界の未来を握る人々に提言一つ行っていないのです。これが彼らが言う世界平和への邁進、世界広布の実態でした。それにも関わらず、広宣流布名目で会員を煽動し、選挙活動と商業活動、寄付、勧誘の原動力としています。これこそ、このスレッドで明らかになった創価学会の「罪」の一面でした。

しかし、創価学会員はこの事実に気付けないように操作されています。自分たちの生け簀の外を見ないように操作されているからです。ここで、考証してみたいことがあります。もちろん、このスレッドのテーマとも大きく関わることです。この一般人と創価学会員の、世界認知の相違がどのようにして生じるかという問題です。

「仮想現実」「グループダイナミクス」「マインド・コントロール」、これらをキーワードとして、如何にして彼らが操作されているのかを探ってみたいと思います。稔りある議論を希望します。如何でしょうか。

494愚鈍凡夫:2003/10/29(水) 21:29
本質は決して変わりません(創価学会の邪義は、永遠に不滅です!!)

『創価学会を斬る』の出版・編集担当として創価学会の直接的な圧力を実体験した1人である遠藤留治が、当時を振り返ってこんな証言をしています。

「すでに30年以上も前に、今日の事態、危機を予測し、警鐘を鳴らした藤原弘達氏の炯眼にあらためて驚くばかりです。」

「会社にいると電話がジャンジャンかかってくる。それは「日本教育改造法案」についての問い合わせ電話ではなく、ほとんどすべてが『創価学会を斬る』についてのものでした。「いったいどういう内容なんだ」「いつ出版するんだ」という探りの電話から、「出版をやめろ」とか、「ぶっ殺すぞ」「地獄に堕ちるぞ」という脅迫電話まで、ひっきりなしでした。もちろん名前は名乗りません。一方的に怒鳴りまくった上で電話を切るというパターンが延々と続きました。
また、この抗議電話とともに、舞い込んだのが抗議の葉書や手紙でした。段ボール何箱分になったでしょうか。とにかくもの凄い数でした。」

「ですから藤原弘達氏は身の安全を図るため、都内のホテルを転々として『創価学会を斬る』の執筆を続け、私たちも移動しながら編集作業を続ける有り様でした。
 なお、この抗議電話や葉書は出版後もますますエスカレートし、内容もひどいものでした。」

これが創価学会の掲げる「正義」の正体です。なんといっても、正当な抗議や反論を「魔」と決めつける教団ですからね。無理からぬ事かと・・・・・。(^▽^;)
まあ今は、創価学会政治部(公明党)が政権与党の一翼を担っていますから、さすがにこんなあからさまな手は使いませんが、巧妙になった分、悪辣ですね。
「金持ち喧嘩せず」かと思ったら、「脛に傷だらけ」の身では、そうもいかないんでしょう。

「言論出版妨害は歴史的事実 歴史改竄は許されない」
http://www.forum21.jp/contents/03-7-1.html

495愚鈍凡夫:2003/10/29(水) 21:51
>>494:訂正

敬称を忘れていました。

誤→ 『創価学会を斬る』の出版・編集担当として創価学会の直接的な圧力を実体験した1人である遠藤留治が、当時を振り返ってこんな証言をしています。

正→ 『創価学会を斬る』の出版・編集担当として創価学会の直接的な圧力を実体験した1人である遠藤留治氏が、当時を振り返ってこんな証言をしています。

です、悪しからず。 m(_ _)m

496沖浦克治:2003/10/29(水) 23:29
 愚鈍凡夫さん

>かつて創価学会で池田さんが逮捕された大阪事件を起こしました。
わたしの父親はこの事件に直接関わりました。
具体的に言うとショートピースの箱に500円札を仕込んで選挙依頼をする買収です。

 すでに無罪判決が確定してる出来事です。
 いまどきこんなことを持ち出すとは、ユニークなお方ですね。

>たとえば印刷所に勤務している人が印刷物の中に創価学科批判を見つけると、それを本部に連絡し、それで圧力を掛ける、そんなことを複数起こした事件でした。

 この件もすでに解決済みです。

>副次的に国立戒壇論を反故にし、政教分離という表向きの“公約”をすることになりましたが、妙薬さんも仰るとおり、本質は何ら変わっていません。

 あなた方の思い込みと、創価学会の実際の姿とは無関係です。

>「破壊的カルトの目には、だれかがそのグループをやめる『正当な』理由など存在しないのだ」

 不思議なご意見ですね。
 私は、創価学会を辞めようとする人を無理に引き止める必要はないと常々言っております。
 池田先生も同様のご指導をされております。
 この指導の録音も持っています。

>脱会者を侮蔑敵視する態度は、まさに破壊的カルトメンバーの特徴と共通しています。

 辞めた人を尊敬する団体は何処あるのですか。
 また創価学会を退転した人々が、創価学会や学会員に対して悪口を尽くす事はよい行いなのでしょうか。
 その行為こそ、カルトと共通していますよ。

497沖浦克治:2003/10/29(水) 23:32
 (続きです)
>学会では世間が劣っていると教えられていたのですが、“進展”して見た実態は逆でした。学会員であるわたしは操作されていたのです。

 世間も創価学会も同じです。
 もし創価学会員が優れていると思っていたのであれば、あなたの勘違いにすぎません。
 人は全て平等ですよ。
 蓮祖はよこしまな権力者や、僧侶当に対して、我が弟子は優れていると仰せですが、人間の可能性のうえの平等を認めた、おそらく最初の人でしょう。

>わたしが創価学会を、脱して何よりいちばん驚いたことは、会の中で言われていたことと社会の現実があまりにも違っていたという事実でした。この衝撃は、入会脱会の経験のない人にはわからないものです。

 私が組織を離れ、世間で活動し始めたのは30歳の時でした。
 私も驚きました。
 世間にはすごい人たちが、本当に驚くほど多くおられました。
 現在の私の原点となっている体験でした。
 自分は創価学会員として、この人たちに負けない人間になるべきだ。
 創価学会の中でしか通用しない人間などには何の値打ちもない、と悟ったのがこの体験でした。

>わたしが創価学会にいた頃、盛んに言われていたことは「広宣流布の上げ潮」「広宣流布の総仕上げ」ということでした。この言葉を鵜呑みにしていた自分は、もうすぐ広宣流布が実現すると信じて疑いませんでした。今から30年前の話です。

 私が今58歳ですからほとんど同じ時期の体験でしょう。
 このときから私は、広宣流布などこれからだ、と自覚し現在に至っております。

498沖浦克治:2003/10/29(水) 23:34
>ところが社会の現実を目の当たりにする限り、創価学会が言うような「総仕上げ」段階になど、まるでなっていないばかりか、広宣流布の兆しすらまったくありませんでした。世界の指導者であると思っていた「池田先生」も世界ではまるで無名でした。世界には一部の人を除いては「創価学会」「池田大作」の存在をする人などいませんでした。
 
 現在では環境はかなり改善されてはおりますが、まだまだこれからです。

>さらに以前もお話ししたとおり、脱会後、わたしはアメリカ、またイタリアの国営放送から取材を受けたのですが、彼らが異口同音に述べたことは「日本人は何故特定宗教団体が運営する党があることに危機感を感じないのか。その党が与党となって大臣が出ることに危機感を懐かないのか」というものでした。わたしはこの質問を受けたとき、日本社会にあるために鈍感になっていた自分の認識の甘さを痛感しました。

 先進国の中で宗教政党が存在する国は多く観られますし、外国の放送記者が何を言おうと言わしておけばいいでしょう。
 要は我々学会員が、公明党をしっかりと監視していればいいのです。

>また、日本でカルト問題で活躍するフランス人活動家の友人は『セクト法』が成立するや、電話をしてきました。「フランスで創価学会はカルト(セクト)として扱われるようになった」と報告をくれました。先にも挙げた『マインド・コントロールの恐怖』のなかでは明確に創価学会を破壊的カルト集団の一つとして上げている事実もあります。

 フランスにはフランスの事情があり、我々には我々の行き方があります。
 この話が事実であっても、いつかフランスのから歩み寄ってきますよ。

>こうなると、創価学会にいた頃、創価学会は日本の広宣流布の総仕上げの時期にあり、世界広布に邁進していると信じていたことは一体全体何であったのか、しばし面食らって数年間を過ごしたものでした。

 事実をありのままに見るべきでしたでしょうね。
 私は同じ時機に気がついておりましたし、一緒に活動していた友人達もそうでした。
 しかし誰一人創価学会を退転したものはいません。
 要は、あなた任せで信心をしていたのか、自らの判断で行なっていたのかの差です。

>さらに統計資料が示すところに拠れば創価学会の活動者実数は400万人乃至800万人を超えることはないと事実を知ったときの驚愕を、アネモネさんは想像することもできないと思います。

 私たちはこのころせいぜい500万人程度だと思っていましたよ。
 それでも、よくこれだけ残ったものだと思ったものでした。
 蓮祖の仰せにあるように、退転の可能性は非常に大きいものである事をよく知っておりました。

>このように書くと学会員はこれを「悪口」であるととらえるでしょう。また「事実を知らないからだ」とか「理解できないからだ」とも言うかも知れません

 いえいえ、事実はこんな程度しょう。

>会は50年間平和・広宣流布に邁進してきたと豪語しながら戦禍盛んなイラン・イラク・イスラエル・北朝鮮には何の活動を行わないばかりか

 池田先生はレバノンへもいかれました。
 もしこの行動に御不満があおりでしたら、自らが行動する事を持ってお示しください。

>それにも関わらず、広宣流布名目で会員を煽動し、選挙活動と商業活動、寄付、勧誘の原動力としています。これこそ、このスレッドで明らかになった創価学会の「罪」の一面でした。

 あなたは罪だと思っているのですね。
 私はは全く思いません。
 もちろんあなたが罪だと信じる事は、全くもってご自由ですよ。

>しかし、創価学会員はこの事実に気付けないように操作されています。自分たちの生け簀の外を見ないように操作されているからです

 これまでの書き込みから判断すれば、あなたは確かにそう操作をされていたのでしょう。
 私たちは全く操作などされておりません。
 この差は何処から来ているのでしょうね。

499沖浦克治:2003/10/29(水) 23:37
>「仮想現実」「グループダイナミクス」「マインド・コントロール」、これらをキーワードとして、如何にして彼らが操作されているのかを探ってみたいと思います。稔りある議論を希望します。如何でしょうか。

 このご提案は少し訂正された方がより正確になります。
 『彼等が』では無く、『私が』とすべきです。
 私たちは、全くマインドコントロールなどはされておりません。

>『創価学会を斬る』の出版・編集担当として創価学会の直接的な圧力を実体験した1人である遠藤留治が、当時を振り返ってこんな証言をしています。云々。

 このあたりは事実をきっちりと証明できる資料を添えて論じないと、説得力に欠けますね。
 無論の事、あなたがどのような他人の文章に基づき、どのようなご意見をお述べになろうと、全くのご自由です。
 私が、この人には自分の主体的なご意見というものが無いのかな、と考える事もまた自由ですよね。

>これが創価学会の掲げる「正義」の正体です。なんといっても、正当な抗議や反論を「魔」と決めつける教団ですからね。無理からぬ事かと・・・・・。(^▽^;)

 何かを証明なされてのですか。
 私には何も出来てないと感じます。
 それでは、そろそろやすむと致します。

500愚鈍凡夫:2003/10/30(木) 00:27

それでは、故藤原弘達氏の証言を。

「『角栄、もういいかげんにせんかい』第1章 藤原弘達」
http://www.fukunaga.net/fujiwara_koutatsu.htm

「『角栄、もういいかげんにせんかい』第2章 藤原弘達」
http://www.fukunaga.net/fujiwara_koutatsu2.htm


「大阪事件」に興味のある方はこちらをどうぞ。

1957(昭和32)年の年表
http://snow.prohosting.com/foggyday/chrono-2/65.htm

501犀角独歩:2003/10/30(木) 02:47

わたしの問いかけはアネモネさんと、創価学会へ疑問を持つ方々へですから、それ以外の方のご意見は無用に願います。

502犀角独歩:2003/10/30(木) 03:06

愚鈍凡夫さん:

レス、有り難うございます。
愚鈍凡夫さんは学会経験者でいらっしゃいましたっけ。
脱会の時の話を少ししたいのです。もちろん、皆さんにも参加していただきたいと思います。

わたしはひどい嫌がらせと人格攻撃を受けました。これはもう筆舌に尽くしがたいものでした。
わたしが脱したのは平成2年だったんですが、あの頃、池田さんは「脱会者は自殺に追い込め」と檄を飛ばしたと伝わります。これが真実であったかどうか確認の仕様もありませんが、その指令を受けたとしか思えない脱会者攻撃の標的にされました。
いきなり電話が掛かってきて「創価学会池田先生を裏切ったものは許さない。いま公園で待っているから出てこい。ぶっ殺してやる」なんて電話がありました。実際に行ったらいませんでしたが(笑)しかし、電話でこのような恫喝を行うだけでも十分に犯罪行為です。

わたしは法華講に移って寺報を発行の責任者をやっていたんですが、あまりの寺院攻撃のひどさにその点を特集すると、『聖教新聞』の地方版でそれを取り上げて、地域幹部が紙上座談会で、わたしを「穢らわしい」とこき下ろして書かれたりもしました。

ある時は6人一組になって20代そこそこの青年がやって来て「○○君に会いたい」と、こうです。そのとき、わたしは30代も半ば。その学生がわたしを君呼ばわりです。
あと、どこの団体の誰がやったとは言いませんが(!)自家用車の運転手側のタイヤに五寸釘を刺されたのが2回。タイヤを外してディスクパッドを外されたのが1回。知人の学会葬に参列し、たまたまその場で会った知己の法華講員と帰りにファミレスに車を停めて食事をして出てきたら、エンジンルームないのベルトというベルト全部が切断されたことが1回ありました。地域の座談会ではぼろくそに悪口を言われ、「廃人になった」「気が狂った」「生活が破綻した」「近づかないほうがいい」などとさんざんと人格攻撃も受けました。

このような脱会者への執拗な攻撃は創価学会の「罪」の一面であると思いますが、おやめになった皆さんの経験を少しご披露願えませんでしょうか。創価学会の実態をより明確にできようかと思います。

503沖浦克治:2003/10/30(木) 06:56
 おはようございます。
 犀角独歩さん
 私には、ここの皆様は公共の掲示板に意見を出すからには、反論を受ければ事実を証明する義務があるとおもいます

>わたしの問いかけはアネモネさんと、創価学会へ疑問を持つ方々へですから、それ以外の方のご意見は無用に願います。

 あなたのこのご意見は、少し自分勝手ではないでしょうか。
 この掲示板は、私やあなたのためにだけあるのではないのですよ。
 どの掲示板でもそうであるように、レス人口の何倍ものロム人口があるのです。
 あなたの一方的な思い込みをのみ発表できて、創価学会の側に立つ現在唯一人(おすらくそうでしょうね)の私に意見を封じ様とする事は、不公平ですね。
 創価学会の功罪を語る、がテーマでは無かったのですか?
 罪ばかりを語っているのではおかしいでしょう。
 あなたが感情的に、創価学会に対する恨みをおのべになられることはもちろん構いません。
 世の中には、不思議な体験の例もあるのですから。
 また、脱会者への攻撃は、あるとすれば大変興味深いですね。
 個人的に感じますが、あなたはどなたかに強い恨みを受けておられた様ですね。
 もしこれらの嫌がらせが事実であるならば、きっちりと刑事告訴等で対抗すべきでしょう。

504沖浦克治:2003/10/30(木) 07:25
  犀角独歩さんの書き込みを読んで思う事。、
 この迫害が事実であり、彼の退転が原因になっているとするならば、この人は一時期激しい学会活動をやり周りの会員が閉口するほどであったのかもしれませんね。
 私の所属組織でも、53年頃に一人の本部幹部が退転し宗門法華購に走りました。
 彼は常々池田先生本仏論を声だかに唱え、ご両親は神戸の草分けの一家でした。
 子供のころ池田先生が自宅に訪れ,色紙と万年筆を直接もらった事がが自慢のおとこでした。
 その後聖教新聞の仕事に携わり、本部幹部を兼ねておりました。
 彼の過激で一方的な行動と指導は、周りの会員たちの顰蹙の的であり、最後には組織内で全く孤立をし、居場所がなくなっってしまったのです。
 とうとう昔馴染みの住職に誘われ、法華講に走りました。
 わたしたちには創価学会兵庫本部から、彼の事は捨てておく様に、との指導がありました。
 周りを過激に引きづり、多大の迷惑をかけていた彼を憎む人達が多かったのです。
 本部はそのようなことが起きないよう、前もって支持を出しておいたのです。
 後で聞いた所によれば、彼は嫌がらせを受けノイローゼになったそうです。
 また法華講でも過激発言を繰り返し、最語には追い出されてしまったと聞いております。
 しかしこれは創価学会の組織のせいではありません。
 彼の行動が引き起こした、彼に金する個人的な出来事です。
 この当時池田先生は、脱会する人間は捨てておくようにとの指導を何度もされております。
 私は現在も、録音を持っています。 
 このような人は自らが転向をするあたり、迷惑を蒙った会員の皆様方に謝罪をすべきでしょう。

505犀角独歩:2003/10/30(木) 09:44

沖浦克治さん:


まず、503に関して、刑事告訴云々はわたしの意志に関わることですから、要らぬお節介は無用です。また、504の記述はわたしとはまったく無関係です。


> 反論を受ければ事実を証明する義務があるとおもいます

この言葉は、わたしがあなたに申し上げた言葉です。しかし、あなたはそれを実行することがなかったばかりか、「境涯が低い」「程度が低い」「駄目な人間だ」「退転した」「理解力がない」と悪口の限りを尽くして、自分と創価学会、戸田さん、池田さんに疑問を持つ人々を意見を封じようとしました。そして、ついには、あなたはここであなたに証拠の提示を求めた方々に次々と「会話をしたくない」などと相手を選ぶ発言をしてきたはずです。ですから、わたしも会話をできる相手を選んだままです。

最後に一つだけ。わたしは、この掲示板で宗門の姿勢とその教学について、あなた以上に糾弾をしてまいりました。
しかしそれは単に悪口を言うのではなく、事実証拠、並びに文献的な証拠を挙げてのことです。

あなたは何百年も前の僧侶の文献など興味がないそうですが、宗門の在り方を根底から再考するためにはそのような文献を考証する作業は不可欠です。私はそこに書かれていることを信じているわけではなく、現石山を徹底的に考証し直すために多くの資料を読んできました。他の方々も同様です。日蓮その人の教えが如何なるものか、仏法とは何かを真剣に考えるためにそれぞれで意見を交わしているのです。

このような場で、ただ創価学会の宣伝や、戸田さんその他個人の礼賛など意味を持ちません。創価学会、戸田さんにも善いところはあったでしょう。しかし悪いところはあった。その両面を問うのが「功罪を考える」ということです。また、世界平和その他は「これから」で、なにもしてこなかったことはよくわかりました。では、実行されて事実が生じたときに披露なされば如何でしょうか。「これからやる」などというそば屋が注文に催促されたときの口上のようなことを記しても意味がないでしょう。たしか、創価学会は実践と結果を重んじていたのではなかったでしょうか。

今後、わたしへの問いかけ、また、書き込みに対して要らぬ註釈は無用です、何の参考にもなりませんので。以上です。

506愚鈍凡夫:2003/10/30(木) 12:49

「最近、池田さん家のポチがよう吠えんねんけど、ストレス溜ってんやろか。今夜にでも竹輪持って行ってこぉ〜。」(独り言1)

>>502:犀角独歩さん、
1962(昭和37)年頃の入会ですけどね(あまり言うと、歳がばれる)。(^▽^;)
「ほぼバレとるちゅうねん。オッサンのギャル真似キショイ〜! なんて思われてたりして」(独り言2)
母に手を引かれ、ワケの分からぬままの入信でしたね。モミジのような手を合わせ「ナ〜ム」、正宗寺院の板漫荼羅を見つめていました(正直、なんじゃこりゃと思ってましたが)。(^▽^;)

> あの頃、池田さんは「脱会者は自殺に追い込め」と檄を飛ばしたと伝わります。

あの当時、自殺者は少なくなかったと思いますよ。
脱会しようにも脱会できず、結局悩んだ末に一家の大黒柱が自殺し、残った家族が学会員の執拗な嫌がらせに遭い、後追い自殺された方もいらっしゃいます。
数年前、小生の知り合いの幹部で、全財産を学会に貢ぎ、学会命だった人が老人性痴呆症になって、病院で亡くなりました。一家は離散していましたから、最後は可哀想でしたね。
また縦線時代の幹部で、現在、痴呆症の方を何人か知っていますが、若い頃から学会命・学会一筋で来たためか、時間に余裕ができる年齢になった時、時間の過ごし方に戸惑うようですね。
こんな弊害もあるんだとつくづく思います。どの方の家庭も、介護疲れで家族が大変なおもいをされているようです。このタイプの本質は内弁慶が多いですからね。
皮肉にも、「学会の信心は、必ず成仏できる」と太鼓判を押していた方たちですが。
小生が、学会に不信感を抱き始めたのは、教学が発端でした。どうも、御書に書いてあることと、池田さんの指導内容が違うんじゃないかと思ったのが最初ですね。

まあ、15年ほど前から学会批判はしております。論破されて半狂乱になった幹部もいました(今でも、小生の名前を聞くだけで理性を失うそうです)。但し、弱い者虐めはしていません。
矛盾点を突かれてムキになるから、どんどん傷口を広げるんですけどね。学会員の悲しい条件反射なんでしょうか。少し反省しています。
そういえば、学会から法華講に鞍替えした人が癌で入院した時、地元学会員たちが小躍りして喜んでましたよ。脱会者にアクシデントがあると、話に尾鰭がついて「口コミ・ここだけの話」作戦発令のようです。
ここ5年位は、「バトル禁止令」でも施行されたのか、小生には仕掛けてこなくなりましたけど。 ...( = =) トオイメ
ひょっとして、地元学会おばちゃん部の「呪いの藁人形」の的になってたりして・・・・・。( ̄ー ̄; ヒヤリ

507犀角独歩:2003/10/30(木) 13:54

愚鈍凡夫さん:

> あの当時、自殺者は少なくなかったと思いますよ

それはそうですよね。みな信念をもって学会から脱したんですものね。脅かされようが、すかされようが、そんなものは毅然と跳ね返していました。
当時、わたしは創価学会脱会者およそ1500人と関わりを持っていました。
みな元気いっぱいでした。しかし、そんななかで独居老人とか、いわゆる社会的弱者と目される人への攻撃はひどかったですね。
あの頃、こんなハガキを確認しました。

*** 転載はじめ ***

【表】

○○区○○○○
○○ ○○ 様

(差出人)日顕宗を撲滅する会

【裏】

○○さんよ あなたがた御一家のように池田先生を避けているような連中は絶対に許すわけにはいきません。それに○○○○○○○の地に居据わってもらっては不愉快です。今すぐにでも荷物をまとめて出て行ってもらいたいです。日顕と同じように池田先生に対して、恩を仇でかえす連中はとことん苦しめたうえで追放する。○○さんよ 弟子たちの怒りを甘く見てるとこわいですよ。

即 退 座 (○○区の土地から出ていけ)

*** 転載おわり ***

受信者の気持ちになるとき、当時は、怒り心頭に発したものでしたが、いま振り返ると、この手紙の主も“植え込まれた”心理操作に振り回された犠牲者であったのであろうと思います。学会組織の打ち出す憎悪の植え込みをそのまま自分の感情とする“代理”状態ですね。

まあ、いまとなっては、愚鈍凡夫さんと同じく教学上の問題、もっと言えば、破壊的カルト・マインド・コントロール被害という観点から、わたしは組織そのものから脱却しましたので、石山の肩を持つ気も毛頭ありません。ただしかし、やめて見た学会の“外面”は本当にひどいものでしたよね。わたしがいちばんひどいと思った組織暴力は御講妨害でしたね。大挙青年部が本堂に陣取って、住職が「創価学会」「池田大作」と一声言おうものならば「質問があります」「質問があります」と手を上げて立ち上がって、発言を妨害するわけです。

信教の自由には「宗教上の礼拝・儀式・行事などを行う自由、宗教の伝道・布教を行う自由」があるわけです。それを御講の席に上がり込んで妨害する。それで、さらにこれがひどいと思ったのは、全国の他の講中と連絡を取り合うと、全国津々浦々、同時期に、同じように青年部が押しかけて「質問があります」と妨害をしていたわけです。やり方が全国皆一斉一緒であったわけです。つまり、大本営発表一斉攻撃でそのやり方までマニュアル化されているわけです。この創価学会の有様、全体主義というか、暴力的な行動を見たとき、「ああ、やめて良かった」と心の底から思ったものでした。しかし、それでも、あの頃、御講に参詣するのは文字通り命懸けでした。警備する法華講の青年壮年はわずか10名そこそこ、そこに何十人、時に100人以上の創価学会員が来て、暴れるわけです。「今日は怪我をするだろうな。命に及ぶかも知れない」、そう思いながらお寺に向かっていたものでした。

508アネモネ:2003/10/30(木) 14:52
横レス失礼いたします。

犀角独歩さん

レスありがとうございます。
私は、社会人として、あまりにも創価学会に対して無知だったと、今とても反省しております。そのような気持ちも含めて、少しご返信をさせて頂きます。

>世界の指導者であると思っていた「池田先生」も世界ではまるで無名でした。世界には一部の人を除いては「創価学会」「池田大作」の存在をする人などいませんでした。

大変お恥ずかしいことなのですが、実は私、もともとが世間知らずでして、法華講に入るまで、創価学会のことも池田さんのことも、ほとんど知りませんでした。
もちろん、創価学会の名前はどこかで聞いていました。だけど、創価学会=新興宗教としてイッンプットしておりましたから、天理教やPL教や真光教など、他の新興宗教とまるで区別がついていなかったのです。現在宗門から離れた以上、結局、新興宗教という捉え方で正しかったのかもしれませんが。

もしかすると、私ほど創価学会を知らない世間知らずもまた珍しかったかもしれませんが、とにかく創価学会の方から直接お誘いを受けたり、下種や折伏を受けたりということは、過去に一度もありませんでしたので、法華講に入るまで、その存在を意識することなく生きてきたのだろうと思います。
まあ、そんな調子でしたから、池田さんの顔もまるで知らず、いまだに顔を見ても憎悪も好感もなく、基本的に特別な思いというのをまるで抱きません。
私にとってみると、この感覚が一般的なものなのではないか思ってしまうところなのです。

ところが、現役学会員にしろ、元学会員にしろ、恐らく私の想像では、創価学会や池田さんのことを考えることのない日は、一日たりともないのではないかと、そんな感じを受けています。
まずは、そのことが、一般的には、とても考えられないことだと思います。

組織に関わったことのない人にとってみれば、ほとんどその存在について、日常的に意識はされていないでしょう。最初の温度差とは、そこに始まっているでしょうね。

しかし破門のときは、あんなに世間を騒がせ、マスコミもそれを大きく取り上げてたわけですが、もともと日本人は飽きっぽく忘れやすいところがあり、結局いまとなっては、法華講ですといえば、「あー学会さんですか」と言われている状態ですね。
それも、存在が日常的に意識されていないひとつの証拠ともいえるでしょう。
しかし、存在を意識しないということは、言葉を変えれば、無警戒なわけですから、それも問題です。なんせ政界にも力が及んでいるわけですから、関心がなかった、知らなかったでは済まされません。意識を変えなければならないなあと、つくづく思いました。
まずは、感覚的な温度差ということについて、レスをさせて頂きました。

509犀角独歩:2003/10/30(木) 16:50

アネモネさん:

ご返信、有り難うございます。
わたしがいちばんここに記していただきたかったのは、仰るとおりの“温度差”です。
わたしが学会の家に生まれて、そこで育ち、小学校高学年で「池田先生」に個人的に会う機会があり、またそれが海外誌に紹介されるという“不幸”のために、すっかり、「創価学会・池田先生」の虜になってしまったわけです。ですから、この世の中は創価学会を中心に動いているし、日本はおろか世界の命運も「創価学会・池田先生」が握っていると信じて疑わなかったわけです。「創価学会・池田先生」を悪く言う人間は許さないという強い憎悪感も懐いていました。

そう心から信じ込んでいたわけです。また、「日蓮大聖人の仏法を寸分違わず、現代に蘇生させ広宣流布を推進する唯一絶対の組織、最高の指導者」と信じていました。この思いは小学校5年生の段階で堅固なものとなっていました。「池田先生に日蓮大聖人の生まれ変わり」とも信じていたわけです。

ところが創価学会を脱しさらに法華講も脱して見ると、世界観は一変したわけです。
学会公明党はたしかに政権与党に食い込み、政治に強い影響力を発揮し始めていました。マスコミの支配、また、金融界の支配、その他の支配体制も着々と進み、日本という国土においてたしかに学会・公明党、すなわち池田さんは強い影響力を発揮し、その権力を不動のものにしているのは事実です。が、それは蓮師のいう「広宣流布」とはかなり趣を異にしていていることに気付くわけです。その何よりの証拠は、公明党・学会・池田さんの名前を知っていても、それが広宣流布されているなどと誰も思っていなかったからです。アネモネさんが記されるとおり、創価学会は日本最大であることは事実にせよ、一新興宗教団体に過ぎず、そのカリスマ指導者として池田さん、その組織と指導者を母体とする公明党が日本で政財界支配のチャンスを着々と狙っているととらえられているばかりでした。

当然のことですが、世間一般で、学会池田さんが日蓮の正当な継承者などと思っている人などいないわけです。また、この団体と指導者が日本の平和と、世界平和をリードしていると思う人もいません。それなのに、この団体の中にいると、先述したとおり、「日蓮大聖人の教えを広宣流布する唯一絶対の団体と指導者」と思い込めてしまうわけです。

なぜ、このような、現実離れした思い込みが可能となるのか、この点を少し考えてみたいと思うわけです。

510ジャンノレン:2003/10/30(木) 16:59
独歩さん、今のスタンスと違う書込を見て、ちょっと戸惑いがあります(笑)といっても
書されているように、回顧としての文章ですから、仰せの通り、

>わたしは組織そのものから脱却しましたので、石山の肩を持つ気も毛頭ありません。
この文を見つけて安心しました。(再笑)
独歩さんのレスにありますように平成二年頃はお寺に何とも言えぬ緊張感があり、
私も当時の事を独歩さんの文章を見て、触発されて書いてみました。

独歩さんが書かれているように、私も平成二年頃にはお寺に通う因縁があって、三年1月1日の零時の元旦法要で
住職が池田批判を始めた途端、怒号とヤジが飛び交い、これが正月の法話の対応か?とするくらい
学会員の用意周到な反応でしたねえ、翌日の法要は申し計ったように誰も参詣に来ないし、
一糸乱れぬ統制に唖然としたものです、それでも連絡網から漏れた
会員が正月参詣に来るのを門塀で足止めをして帰るように促していましたね。

15日の法要に於いてもある男子部員はいきなり「八識不起の一念について教えて下さい」とか
「一念三千の初住の一念とは」とか、この問題について喋ろうとすると言論封鎖をする有り様でした。
ほとんどヤジの中を住職が一生懸命お話ししていた姿が印象的でした。
あぁ、これで学会と宗門とはホントに離れていくのだなぁ・・というのが偽らざる私の印象です。

妨害は覚悟していましたが、私もお寺に駐車していた愛車にタイヤに釘を刺された一人です、
ガソリンスタンドで指摘されるまで、まるで気づきませんでした。
毎夜の如く地元の幹部が我が家に押しかけ、文化会館には退転者として私の名前を張り出してました。
副会長や男子部長が組織を回るなと、威嚇してきて、会社にまで発信元不明の個人名中傷の
嫌がらせのファックスが流れてきたりして、夜中には無言電話、なかなか楽しかったですよ。

また、ある時は、訪問した会員宅に私一人に二十数名に取り囲まれて難儀したものです。
折々に予想されたといえど、そんな体質に触れるたびに、
こんな異常なところに長く在籍していた自分が情けなくなり、一人一人はいい人なんだけど、
団体論理に振り回されている沢山の人達が可愛そうと言うより哀れに思えて、今でもその感は消えません。
あれから十余年、宗創戦争の精神の不毛を感じつつ、晩秋の石山の塔中はあの頃押しかけた街宣車の
ペンキがもう薄くなっていました、時の経つのは早いものです。

511犀角独歩:2003/10/30(木) 18:20

ジャンノレンさん:

> 独歩さん、今のスタンスと違う書込を見て、ちょっと戸惑い…石山の肩を持つ気も毛頭ありません…この文を見つけて安心しました。(再笑)

あ、なるほど。わたしが法華講員だと勘違いされたのも故無きも非ずですか(大笑)
わたしが石山の有様を肯定するわけはありません。ただ、ここのスレッドが「創価学会の功罪を考える」ですから、石山問題は傍らに置いただけですよ。

> 平成二年頃…私も当時の事を…触発されて書いてみました。

有り難うございます。話題を共有できる方がいるとホッとします。

> 三年1月1日…学会員の用意周到な反応…翌日の法要…誰も参詣に来ない…連絡網から漏れた会員が正月参詣に来るのを門塀で足止めをして帰るように促していましたね。

そうでしたね。わたしが昭和56年頃から寺院参詣が習慣化していたのですが、たまたま、この元旦勤行は知人が尋ねてきて行かなかったのです。明けて寺院に行き、その時の騒然とした録音を危機、実に驚きました。この段階で、わたしは実質的に寺院側で動くようになります。

> 15日の法要に於いて…ほとんどヤジの中を住職が一生懸命お話ししていた姿が印象的でした。

ええ、わたしが参詣していた寺院でもそうでした。
100人近い、怒号の中、それでも一字一句、省略せず、学会・池田さんを批判原稿を読み上げた住職を、わたしは尊敬もしましたね。まあ、今は昔の話ですが。

> あぁ、これで学会と宗門とはホントに離れていくのだなぁ・・というのが偽らざる私の印象です。

実感の籠もったお話ですね。


> タイヤに釘を刺され…ガソリンスタンドで指摘されるまで、まるで気づきませんでした。

え、そうなんですか! それじゃまるで、わたしと同じですね。
「うまいタイヤへの釘の打ち方」なんて、感心している場合じゃありませんが、この点でも共通するとは思いませんでした。改めてビックリしました。

> 毎夜の如く地元の幹部が我が家に押しかけ、文化会館には退転者として私の名前を張り出し…副会長や男子部長が組織を回るなと、威嚇…会社にまで発信元不明の個人名中傷…嫌がらせのファックス…夜中には無言電話

同じですね。

512犀角独歩:2003/10/30(木) 18:21

―511からつづく―

> なかなか楽しかったですよ。

この余裕は、善意者の力ですよ。
何も悪いことをやっているわけじゃなく、悪いのは相手です。
このときの心理は、よくわかります。

> 私一人に二十数名に取り囲まれて難儀…

あの頃、6人一組・3時間交替で1日に何組も入れ替わり立ち替わり、訪問するなんて作戦も実施されていました。まったく、よく考えるものです。

> こんな異常なところに長く在籍していた自分が情けなくなり

そうです。自分が信じていた団体とは、こんなところであったのかと唖然としました。
「何が世界平和だ。ふざけるな」とそれまでの価値観を180度、ひっくり返してくれたのは、こうした異常な攻撃にありましたよね。

> 一人一人はいい人…団体論理に振り回されている沢山の人達

あ、ここです!
わたしが問題にしたいのは、「個人として善い人が、集団になると何故暴徒と化すか」、この問題を考えたいわけです。

> 可愛そう…哀れに思えて、今でもその感は消えません。

加害者でありながら、被害者でもあるという一面ですね。

> あれから十余年、宗創戦争の精神の不毛

まったくです。この喧嘩は「目くそ鼻くそを笑う」類です。

> …街宣車のペンキがもう薄くなっていました、時の経つのは早いものです

塔中に撒き散らされたペンキですね。
あの頃、坊に銃弾も撃ち込まれましたね。
弾痕が残ったガラスをわたしは見ました。

513犀角独歩:2003/10/30(木) 19:18

さて、わたしはここで創価学会の悪口を書き連ねたいわけではありません。
日本の広宣流布など少しも進んでいないのに、なぜ広宣流布が進んでいると思えたのか。創価学会は世界平和に何の貢献もしていないのに、なぜ貢献していると思えたのか。
または、一人ひとりは個人的には善い人なのに、集団になると何故性格が変わるのか。
組織、指導者に対する批判的な意見に触れると途端に態度・顔付き・言葉遣いまで変化してしまうのは何故か。

実はこの問題は独り創価学会のみの問題ではなく、顕正会でも共通しているでしょうし、過激な法華講などでも同様でしょう。さらに言えば、いわゆる日蓮本仏圏に限る特徴でもありません。

わたしはこれらの特徴を示すメンバーは、明らかに心理操作をされていると映じます。
彼らは、まったく事実とは異なる共同の妄想を共有しているからです。これを妄想であるというのは事実とは異なるからです。この点に異論があれば、事実証拠を提示すればよいのですが、このような幻想下にあるメンバーは、この事実証拠が提示できない点でも共通しています。

これはわたしが何度も引用したとおり、ヤスパースの妄想の定義「間違った考え」「強い確信」「訂正不能」という定義に基づいて、妄想であると記述したので、悪口ではありません。

「間違っていない考え」であるかどうかは、証拠を提示すればその段階で証明されます。
しかし、間違った考えは証明できませんので、このような考えに執着する場合、証拠を提示はできません。通常、証拠を提示できない考えには健全な精神状態であれば、冗長度があり、訂正の余地を必ず残します。しかし、それが妄想である場合、まったく証拠を提示できないにも拘わらず、強い確信を懐くと共に、その考えを訂正することができない心理的拘束状態になっています。

わたしが「マインド・コントロールされている」というご意見もありました(笑)
発言者には気の毒ですが、わたしは該当しません。何故ならば、マインド・コントロールとは正確には破壊的カルトマインド・コントロールとハッサン師は言い、その特徴に第三者による心理操作にあるとするのがこの説だからです。ですから、わたしのようにいずれの組織にも所属せず、確たる指導者を持たない独歩者は第三者から心理操作される環境にはないのでマインド・コントロールに該当することはあり得ません。ただし、かつてカルトグループに所属していた場合、その時に施された第三者心理操作が、終生、溶けないことはおきます。しかし、わたしは精神科医、社会心理学者、宗教カウンセラーの助けを借りてこの問題を克服した一人です。わたしの脱カルト・マインド・コントロールは複数の専門家によって証明されていることを申し添えておきます。

514犀角独歩:2003/10/30(木) 19:19

―514からつづく―

マインド・コントロールとは社会心理学の成果を応用し、勘案された概念で、基より「社会的影響力」と換言してもよいものです。ここでいう「社会」と社会一般の意味ではなく二人以上の人間関係にはじまる人間集団を意味します。つまり二人以上の人間集団になってはじめて起こる心理を扱うのが社会心理学です。個人をさして、マインド・コントロールなどというのは、この基礎知識がない無知から来る的はずれな批判です。

この集団において、組織および指導者が破壊的カルトマインド・コントロールを弄する団体を破壊的カルト集団と呼ぶというのが定義です。

わたしは創価学会をカルト集団と断定しているわけではありません。しかし、何度も繰り返すとおり、アメリカではハッサン師が、創価学会をカルトとして明記し、フランスでも国家レベルで創価学会をセクト(カルト)と断定しています。これらの指摘を批判などと感情的になるのではなく、真摯に受け止めて、是正すべき点は速やかに是正すれば、むしろカルトと見なされることはなくなります。しかし反面、自分たちの無謬性と絶対性を主張し、間違いはすべて外にあると主張すれば、そのような態度こそ、カルト思考であると認識されることになるだけです。

先に申し上げておきますが、あらぬチャチを入れて、人の発言を妨害すると、その人はカルト・メンバーと“誤解”されますので、おやめになったほうがよろしいと忠告申し上げておきます。創価学会を絶対に正しいなどと思わず疑問を懐く心的余裕があれば、この議論には参加することはできるでしょう。しかし、組織と指導者の絶対性を証拠もなく繰り返すことしかできなければ共同妄想からの他者蔑視と断定されますので、議論に加われば議論そのものの質を低下させます。故にそのような方にはレスをしません。しかし、その他の心的余裕を持つ方々からの議論は些細なご質問であっても鄭重に考えさせていただく所存です。その意味でわたしはこのスレッドも当板も何ら私物化をいたしていないことも申し添えておきます。

以上の前提に基づき、冒頭に上げた問題を考えていきたいと思います。

515MILD SEVEN:2003/10/31(金) 06:56
池田創価王国に反対!

<<<世界中のキリスト教と普通の仏教界は池田創価に絶対反対!>>>

この運動は広がります。広めます。

正統派 対 カルト の陣営に分かれます。

自由陣営 対 独裁体制陣営(北朝鮮や池田創価やオウム等)

http://8022.teacup.com/momo7/bbs

516沖浦克治:2003/10/31(金) 06:58
 おはようございます。
 皆さん方の、元気いっぱいの書き込みを読ましていただきました。
 先ず、それぞれの方々が迫害を受けたとの告白をされておられますが、事実であったならば同情いたします。
 ただ当方は、この事実を確認する手段をもちません。
 私が 「日蓮正宗の僧侶数人に取り囲まれ脱会を強要された」等とまことしやかに書き込んでも、事実かどうかは確かめられないでしょう。
 この類のおはなしです。
 今後もそのようなことが起こりうる環境におられるのであれば、それぞれの方がそれぞれの責任に於いて対処していただく以外には無いでしょうね。
 「池田先生が日蓮大聖人の生まれ変わり」と信じていた方いらっしゃるとは驚きでした。
 そんな邪儀を信じていれば、ろくな事は無かったと思います。
 「個人として善い人が、集団になると何故暴徒と化すか」
 とのご指摘は、その通りでしょう。
 ここにおられる皆様方も、個人としては極真面目ないい方々なのでしょう。
 然しながら、BBSという集団となってしまいますと、口汚く我々を罵っておられますね。
 ここでの皆様方の会話を、私は子供たちに読ましたいとは思いませんよ。
 お寺の法要の席で創価学会員が大騒ぎした、とのご指摘ですが、見たわけではありませんからなんとも申しあげられません。
 可能性としては、大いにありうることっだたでしょうね。
 そもそも学会員の葬式に呼ばれ『この人は創価学会幹部であったから成仏をしていない』と遺族の前で言い放つ僧侶が続出していたころの事です。
 ご遺族の方々や、関係諸氏の皆様方は本当に悔しかったでしょうね。
 それでもう一方では、『お前たち創価学会員はお寺に来ないから駄目なんだ。だから成仏ができないんだ。これからはお寺の法要には必ず参加せよ』と言えば、集まった学会員にそれぐらいの事はやられるでしょうね。
 いずれにしても我々は今後、絶対にお寺になど行きませんから、その点ご安心頂いて結構かと存じます。

517ガンコ:2003/10/31(金) 07:21

沖浦克治さんに申し上げます。

このところ、沖浦バッシングが続いていますが、大した腹の据わりようですね。この点、尊敬申し上げます。わたくしなんか、みんなから攻められたらすぐに退散してしまいますもの。
まあ、俗な言い方をすれば、新参者に対する洗礼みたいなものかもしれません。と言っても、沖浦さんのばあい、じぶんで播いた種という気がしないでもないですけれども・・・
わたくし、沖浦さんが他のあちこちの掲示板に登場しているのを拝見していました。まあ、富士門流信徒の掲示板にはいらっしゃらないだろうと思っていたんです。
俗な言い方をすれば、肌にあわないだろうと。
しかし、いらっしゃった。そして、ずいぶんと顰蹙を買っていらっしゃるように見えます、正直言って。だあれも沖浦さんのお味方申し上げる人はあらわれません。多勢に無勢、見方によってはまるで沖浦さん、大聖人の御振る舞いのごとくにも見えます。しかし、やっぱりただ単に顰蹙を買っているだけ・・・だと思います。

俗な言い方をすれば、郷に入ったら郷に従え、でなければなりません。
だいたいこの掲示板には、単立ないし無所属の信仰者、あるいは非信仰者が多くいて、教団に所属している人は少ないのです。だからと言って、教団員がやみくもに攻撃を受けるわけではないのですよ。ちゃんとまじめに教義について論じる人であれば、現役の学会員であっても歓迎されます。
ようするに、いままでの議論の傾向をよく把握して、それを踏まえたうえでじぶんの意見を言うべきです。あなたと仲良し?の空き缶さんだって、他の掲示板ではずいぶんと乱暴なことをおっしゃってましたが、こっちではまったく別人のごとくの振る舞いです。つまり、郷に入ったら郷に従えのお手本にすべきです。
あなたのおっしゃる世界広布ですが、わたくしはけっこう魅力があります。それを論ずることはいいことだと思います。まあ、しかし、論ずるにしても、この掲示板の流儀を踏まえておやりになるべきでしょう。
小泉の純ちゃんみたいにキャッチフレーズだけで中味がないって言うんじゃ、ここの論客は納得しません。

なんて、偉そうなことを書きましたが、わたくしのほうがよほどふつつかものでありまして、沖浦さんより種々のご指導を賜われれば幸いに存じます。

しかし、創価学会っていろんな人がいるものだなあ。人材が豊富でうらやましい。

518ジャンノレン:2003/10/31(金) 09:22
独歩さん、暖かいレスいただき恐縮です。また、共通体験があることも、強面な論客イメージの独歩さんを非常に身近に感じました。
とはいえ大石寺への容赦ない論は緩められないと思いますし、お互いにタイヤに釘を刺されたもの同士とはいえど、
神話的な大石寺の話には論拠を出せ!と太い釘を刺されていることも事実ですので、喜んでばかり居られません(笑)

すこし、前から書いてみたかったこと、こういうスレッドが立っていますので投稿してみます。諸兄の御批判を頂戴するものではありません
がお読み頂ければ幸甚です。

519ジャンノレン:2003/10/31(金) 09:24
妄想、確かに不特性多数の方々が、自己実現として満たされない充足を何かに託す形で成り立っているという側面は個人的にも団
体的にもありますね。カタルシスという言葉がありますが、これは最大公約数的潜在願望の露出ということが言えると思います。
たとえば、社会的階層のなかで低位(それが存在的価値低位という誤解は為さらないで頂きたい)の方は自己実現力の面で言えば
大多数を纏める立場には殆ど機会として恵まれていない事実がある。常に不安と抑圧感情の現出を避けて汲々と暮らすことを余儀
なくされる個にとっては、適わぬ理想や実現という願望と対峙して苦悩するより、刹那的にも眼前を生きる方が楽である。

しかし、社会的位相を変えて、ある種の団体の単位にその機会があったとしたら、(たとえば任意の団体、宗教とか慈善とか、運動
体等、社会的構成を基礎とする集団)そこで何らかの潜在的な不充足感の解消化を感じる理論や行動様式に出会えば恐らく傾倒する
と思われる。潜在的不充足感を自己に託すか、自己の投影である近位の映像に託すか、はその方の個性によると思うが、二者択一で
なくとも団体構成の中でしかも、抑圧の発散という充足感を自己的か他者投影的かに満足できれば、男性にしろ女性にしろ、非日常
的な開放感を覚えるに違いない。それが社会的に大きなインパクトになれば成る程、その開放感と共在感は大きいと言える。一般の
人が享受する社会性とは違った行動様式を与えられた模倣社会は、いわば安住の理想的社会になる訳でしょう。

元々宗教は社会的なものと対抗することに一面意味がある訳だから、その団体的存立基盤はアンチである。不特定多数の民衆の抑圧
願望を一個の人間の顕在されない潜在願望とが結ばれると(国家構成の単位の大衆願望をエスと解釈)開放化を伺う潜在意識は実現
の隙間を常に伺う訳であるから、抑圧願望の開放の正当を何らかの(革命意識とか教義とか)もので肯定されれば、エスとして蓄積
されたエネルギーは抑圧の大きさと個の数量(構成員)の分だけその噴出力は凄まじいものがある。鎌倉期の新宗教や平安期に出現
した聖などは個の拾得に集団としての力を注いだと思う、エスをかき集めて特権階級(顕在化された意識群)に対するアンチとした
構図は考えられないだろうか。戦後の発展はある意味忘れられた存在の貧・病・争のエスの怨念の裏返しともいえまいか。

520ジャンノレン:2003/10/31(金) 09:25
(続きです)
特に一個の人間の自我の在処と団体に投影された自我の延長が何らかの論理的背景で抑圧解放にイエスとする記号が確認された時、
単位としての社会的拘束下にある自我はその抑圧の自己規定を解錠すると思う。特に団体的自我は抽象的であるので、人格的なシンボ
ルが操作ないし演出されればありもしない理想偶像と概念操作された不実体なものに拍車を駈けるべく後は、不特定多数の民衆の潜在
下願望を強く刺激することで自己洗脳はスタートするのではないか。シンボルはある種の倫理的規範でもあるが、矛盾的な潜在下欲望
の開放にイエスといってくれるサインを持つ人である。ある時は道徳的であるが、ある時は非社会的なサインを出す人。社会規範にが
んじがらめになっている、ないし自己実現が閉鎖された自我にとっては快感のシンボルでもある。一向一揆や法華一揆などはレジスタ
ンスとしての側面もさることながら、大衆として国家の潜在化の意識に抑圧された意識の台頭ともいえるのではないでしょうか。

平和と戦争、対立概念を同時にサインを出す。矛盾の乖離が大きければ大きい程、社会階層の共感性と解放快感は広いと言える。後は
シンボルとして継続的な解放刺激を送り続ければ単位としての個人、いうなれば団体と自分はイコールであり、自我延長の団体否定は、
自分自身の否定に繋がっている。普通には有り得ない自我拡大解釈だが、実際には団体イコール自分なのである。何故ならば団体の存
亡は自我の存亡に直結しているから。家族、会社、国家、すべてここ何年かで崩壊していった団体幻想であるが、疑似社会としての団
体維持は快感を約束された自我の安定であるから、それを支え続けなければ自我の崩壊があるという錯覚も効をそうする。

個人としてはいい人でも団体危機回避のサインが何処からかでれば、これはあたかも血液中の白血球のように自動的に外敵・味方と局
所で自己内判断され所与された団体論理の枠組みの中で運動し続ける。行動様式は一元論である。善か悪か、行動か停滞か常に二種の
選択肢しか用意されない。一般的社会と彼等の属する疑似社会は相当な隔たり乖離が当然確認される、一方は多様であり、片方は一元
である。価値の多様を認めれば団体は急速に求心力を失う。いわゆる混沌(カオス)である。団体内は一元管理であるので安定した団
体内秩序で満たされている。しかし、個人がかつて確認できた抑圧開放とは無縁の官僚的組織に為らざるをえない。それは一元論のド
グマでもある、故に団体は存続維持のために、常に外側の世界に対して敵意を持たせ、団体に所属する人の自己投影ができるように個
々の問題反映を映す社会的弱者を装わねばならない。体制的属性に団体が加担を余儀なくされたときは、団体内粛正や敵を永遠に作り
続けないと運動は停止してしまう。破綻は団体存在の矛盾やシンボル論理の破綻から招かれるのではなく、永遠の外敵を創出できるか
どうかと云うところが哀しい。まさに妄想である。

521犀角独歩:2003/10/31(金) 15:58

ジャンノレンさん:

“妄想”に関するご賢察、興味深く拝読しました。
精神医学で言う「補助自我」としての宗教の役割を「エス」も含めて心理面に広げ、個が集団へその幻想を追う様をつまびらかにされたものと拝察いたしました。

わたしは、この点をR・ミルグラムが『服従の心理』のなかでいう“代理状態”から権威組織への決定権の委譲を見てきたのですが、それとはまた違う観点として参考になりました。

わたしがここで考えたいのは、「不充足感の解消化を感じる理論や行動様式」と集団と、感じさせる“装置”の部分です。これは各人にとっては妄想を形成するものであり、妄想という言葉が悪ければ、集団幻想でも、「目標」「目的」と言っても言い方は何でも良いのですが、これらの感情を引き出すものが何であるのかを考えてみたいわけです。

集団浅慮、集団力学、あるいはグループダイナミクス、言葉は様々ですが、これら集団という場が提供するものは、事実とは別に仮設され、それをあたかも現実であると信じ込ませる“仮想現実”なのではないのかと仮定しています。

まったく実際的な行動が伴わないのに、「日本がもうすぐ広宣流布する」とか、「世界平和に貢献している」集団・指導者であると、なぜ会員はいとも簡単に信じ込んでしまうのか。この装置として、働いているのが組織が創作・演出する仮想現実ではなかろうかという仮定です。もちろん、わたしはこれを“仮定”と思っているわけではなく、これこそ、創価学会を含めた集団が会員を突き動かす第三心理操作の『台本』と舞台であると思うわけです。

この点は、どのようにお考えになりますか。

522三学無縁:2003/10/31(金) 17:50
皆様、おひさしぶりです、ご無沙汰しております。

沖浦様という方のご投稿に

> 私は、戸田先生が仮にどのような破廉恥な罪を犯しておられたとしても
>(そんな事はありませんが)戸田先生を世界一の人物として心の底から
> 尊敬する気持は、決して変わりません。

とありました。
「罪」ということが、「法律に触れる犯罪」を指すのか「社会通念上の罪悪」を
指すのかが不明ですし、戸田さんの行為が「破廉恥」かどうかも個々人の判断に
よるとは思いますが、事実関係だけを記しておきます。

K原女史、M重女史、I泉女史、これらの方たちが戸田さんの「愛人」として、
当時の学会幹部・本部職員から認知されていたことは事実です。
これらの方たち以外にも数名の名が当時喧伝されていたようですが、その中の幾人
かは、当時の「法主」や僧侶の「ハウスキーパー」(古っ!)となり、出産された
方もいましたね。
M重女史などは特に、T中K栄におけるS女史以上の存在でしょう。
それは、戸田さん死去後の遺産をめぐる問題からも覗うに十分なことです。
沖浦さんが、
>(そんな事はありませんが)
といわれることが、「愛人の存在がなかった」という意味なのか、それとも、
「愛人があっても破廉恥な罪ではない」ということなのか読み取ることができ
ませんでしたので、とりあえず、事実関係のみを記させていただきました。

523沖浦克治:2003/10/31(金) 19:07
 三学無縁さん
 貴重な情報を有難うございます。
 私は、戸田先生の私生活は存じません。
 何しろお会いした事も無いのです。
 今もっとっも残念に思う事がこのことです。
 戸田先生の質問会を注意深くきくと、私には進行係の女性は、戸田先生に対する恋愛感情をお持ちだと感じます。
 戸田先生が男性として答えられたどうか、私には知るすべもありません。
 戸田先生ほど男性としても、魅力的な人はいなかったでしょう。
 惚れる女性は多かったでしょうね。
 女性にもてないような男に、革命など不可能です。
 魅力、カリソマ性、の無い人が大衆の支持を受けられるはずがありません。
 あなたのご指摘の男女の関係につきましては、私は事実であって欲しいと願いますが、現在その話題を議論する事は女性ご本人や、ご家族、関係者が多数生存されている時点において、話題にあげるべきでは無いと存じます。
 100年もたてばどなたかが研究をされ、本の一冊も書かれると思います。
 今後も、色々とお教えくださいませ。

524沖浦克治:2003/10/31(金) 19:21
 ガンコさん
 宜しくお願いいたします。

>このところ、沖浦バッシングが続いていますが、云々。

 ご心配をお掛け致し、恐縮に存じます。
 が、こんなものは何でもありません。
 創価学会を築いて下さった、早々の大先輩の皆様方のご苦労に比べれば、万分の一にもあたりません。
 蓮祖や、戸田先生のご苦心に比べれば、億分の一以下でしょう。

>正直言って。だあれも沖浦さんのお味方申し上げる人はあらわれません、云々。

 一人立てるとき強きものは正真の勇者なり。
 この言葉を、池田先生から教わっております。

>なんて、偉そうなことを書きましたが、わたくしのほうがよほどふつつかものでありまして、沖浦さんより種々のご指導を賜われれば幸いに存じます。
 
 私のほうこそ宜しくお願いいたします。
 創価学会の功罪の『功』の部分につきまして、少し自らの体験を交えながら書き込んで見ようか、と考えております。

525愚鈍凡夫:2003/10/31(金) 19:40

池田さんが「総体革命」と称する「全体主義」に感銘を受け、隷属する学会員がいるかぎり、また、学会が池田さんの「イエス・マン」を大量生産するかぎり、脱会者や学会と同調しない組織・個人に対する陰湿な攻撃は止むことはないだろうと思います。何故なら、それこそが常に外敵を作り、執拗な攻撃を展開することで発展してきた学会の体質だからです。
譬えれば、学会自体が漕ぎ続けなければ立っていられない自転車のようなもので、漕ぎ続けるエネルギーの素が日本制覇の野望と外敵への怨念といえるでしょうか。
このことは、会員の意識を外に向けさせることで内部にくすぶる不満を抑える抑止効果も期待しているのではないでしょうか。勿論、この方法が100%成功しているとは言えません。それは、延べ1000万人が脱会したことが雄弁に物語っているでしょう。

体験上、裏表のない所謂「いい人」は、学会内に於いて少数しか出逢えませんでした。大多数は内向けの顔・外向けの顔・家庭内の顔と、自己防衛のために三種類を使い分けているとしか思えませんでした。信仰していても、一般人と外見も中身も何ら変わらないのは当たり前の話ですが。
脱会者に対する態度なんかは、その人の最も醜悪な側面を惜しげもなく披露してくれたものです。思い出しても虫唾が走るので、具体的に書きません。また書いたところでそれを証明する手だてがありませんし、また、小生も学会員たちに精神的ダメージを与えてきたわけですから、一方的な被害者ともいえませんので。
とはいっても、親交のある学会員は今でもいますが・・・・・(ちょっと矛盾かな?!)。

前レスで痴呆症のことを少し書きましたが、学会活動の第一線から離れ、時間に余裕が出てきた時、俗に言う「燃え尽き症候群」に襲われるのが原因の一つだと思っています。
歯を食いしばって上り坂を上り続け、頂上に立ったと思ったけれど、その先は楽な下り坂ではなかった、ということでしょうか。いや、むしろ目標が突然なくなったと言った方が正確ではないでしょうか。学会活動にしか充足感を見いだせなかった結果でしょう。悲しいことだと思います。
趣味を持つ心の余裕さえなかった何十年かの年月。結局、その人の存在自体が組織を動かす歯車でしかなく、リタイヤした時、替わりの歯車はすぐに見つかるのです。所詮、やり遂げたと思う満足感は一時のものでしかなく、「成仏」とはほど遠い現実が待っているということでしょう。

指導者の理念を自分の理念と錯覚し、指導者と自分は立場は違えども、同体であるとの思い込みを振り払うには、疑念を持って指導や教義を検証し、「本当に正しいのか」といった問いかけを、常に自分に向ける必要があるのではないでしょうか。
そして、一個の「部品」ではなく、一個の「人間」であるとのアイデンティティーを取り戻さなければならないのではないでしょうか。
見方を変えれば、そのことに気づかせてくれた創価学会に感謝すべきかもしれません。

526ジャンノレン:2003/10/31(金) 19:59
独歩さん、返信レス有り難うございました。

>わたしが・・・行動様式」と集団と、感じさせる“装置”の部分です。
そうですね、「装置」。言い得て妙ですね。拙文に纏めた意図は極めて客観的に書きましたので、仏教徒とは言えない理屈になっていたこと
と思います。私は思想家でもないし只のおじさんですので、通常よくある、神の視点みたいな超越的評価とかはできませんので感情的に為ら
ずにだけ注意しましたが、恐らく一部お見苦しい点があったのではと汗顔の思いです。独歩さんを始め、各論客に臆面もなく個体的自我把握
の事など書けば、釈尊はその様なものは認めておらないとお叱りを被るのではと、冷や冷やです。

元々、東洋と西洋では自我の扱いの次元が違っているのは自明のこととして、私が云いたかったことは、自我というものを独立的に考えると
すこし、分かり易くなるかな、と思っていただけです。フロイトなども自我の構成を借り物的に仮定していますが、仏教のいう無我というニ
ュアンスとは違うと思われます。借体として個体的自我を前提に話しますと、この操作というのは私も、何であろうかと考えていた事です。

私は誘導システム(概念操作といっても良いかも)と思っていたのですが、通常の仏教の思想から云えば予言とか、個人が他人の宿命を指導
するなんて事は本来、有り得ないことですが、占いにもにた行為に簡単に人生を預ける方が多いのは、一考の余地が大いに有ると思います。

>これは各人にとっては妄想を形成するものであり、・・・集団幻想でも、・・・「何でも良いのですが、これらの感情を引き出すものが何で
あるのかを考えてみたいわけです。
仰せの通り、集団幻想が妥当かと思います。そこには個体的自我の行方を前提とした教理の体系が有るように思います。こうすれば幸せにな
るこうすれば不幸を招く・・。もっと云えば、活動しなければ財をやられる、啓蒙しなければ罰を受ける。何か天上人が人を操るような感覚
が仏教の道理として罷り通り、組織そのものに身体的法理が宿っているような教育は、まったく虚仮の世界ではないでしょうか。

>これら集団という場が提供するものは、事実とは別に仮設され、それをあたかも現実であると信じ込ませる“仮想現実”なのではないのかと
仮定しています。
仰るとおりです。集団的自我感と仏教の説く自我は何の関係も無いと思います。集団的自我感は各個人の潜在的欲望の反映である可能性は否
めませんが、組織(集団的自我感)の身体性などは殆ど集団催眠の世界かと思われます。

>まったく実際的な行動が伴わないのに、「日本がもうすぐ広宣流布する」・・・・会員はいとも簡単に信じ込んでしまうのか。この装置と
して、働いているのが・・・仮想現実ではなかろうかという仮定です。
お約束としてはゴールも仮には設定せねば為りません、アイアンマンレースでもゴールはあるのですから。しかし、終点を実際的に設ける事
は有り得ないのではないでしょうか。運動そのものは永遠のレースですが、個人の欲動をそこに見せること(例えば宿業打破や願望実現)に
よって団体運動のゴールではない、個人のゴールは借定されます。実現が適わなかったときは再度レース参加。この繰り返しが延々行われる
事で実現手段が目的化として参加することに目的があるかのような錯覚に陥るのではないでしょうか。言葉足らずの所はご容赦ください。

527三学無縁:2003/10/31(金) 20:53
沖浦様
はじめまして。

私にとって戸田さんという方は、二つの意味を以って立ち現れます。
ひとつは、牧口創価思想を石山流にアレンジし、同時に、石山の坊さんたちの
信仰心を薄めさせたひと、というものです。
とくに学会の折伏による授戒の急激な増加と、「御供養」の大幅な増加は、
僧侶は布教しなくてもいいという錯覚を生じさせました。
しかも、御書は学会が作ってくれるは、他宗との問答は学会がやってくれるは、
ごく一部の僧侶を除いて、多くの僧侶は、法華経も御書も富要も勉強することを
しなくなってしまいました。
これは、たしかに僧侶の堕落ではありますが、ご授戒と法事、葬式で時間をとられ
自分の時間すらもてなくなってしまったということの結果でもあります。
しかも、朝、起きれば、寺の門前に本尊が捨てられていることなど、日常茶飯事で
あったことを、20年代から30年代に入信したひとならたいていご存知でしょう。
寺についている信徒ではないので、その本尊が誰のものかもわからないわけで、
そういう事態を目の当たりにすれば、学会の折伏がどれほどいい加減なものかは、
だれにでも理解できることです。
僧侶の側からすれば、そのような折伏をする学会が、まっとうな信者であるわけ
がありません。
内得信仰もなく、30分前に折伏されたばかりで寺につれてこられてご授戒を受ける、
そういうケースがけっして稀なのではなく、ごろごろあったのです。
それに対して、しっかりと内得信仰をしてから、ご授戒を受けるように、と考えた
僧侶もいましたが、彼らは、「学会員を差別する悪僧」として糾弾されたのです。
本尊さえあれば幸福になれる、それが当時の学会流折伏の殺し文句でした。
そんな教えは、御書にも富要にもありません。
学会の数の力の脅威が、僧侶に如実に実感されたのは、やはり狸祭り事件でしょう。
戸田さんに対する登山停止処分に対し、学会員が正宗寺院をさみだれに訪問し抗議
たために、寺院では法事や葬儀の時間もとれなくなり、身動きがとれなくなったわけです。
次に、僧侶が学会を脅威に感じたのは、広宣流布の模擬試験のときです。
戸田さんが刎頚の友であった時の総理大臣を本山に呼ぶ、これも、僧侶に錯覚をおこさせました。
現職の総理が来るほどわれわれの信心はすごいんだ、と。
しかし、本山の役僧にとっては、すごいことでもなんでもなく、脅威でした。
なぜならば、信者でもない人間の「武運長久」を祈らされることになったからです。
まさに、昭和の不受不施問題の勃発でした。
しかし、石山首脳は「総理が来れば全山で武運長久を祈る」ことを承諾しました。
ひとつには、学会をおそれ、いまひとつは戸田さんに貸しをつくると同時に政治との
パイプをもつという魅力に勝てなかったからです。

わたしは、このような戸田時代の学会のありさまこそが、今日の諸問題の根源である
と思っています。(つづく)

528三学無縁:2003/10/31(金) 20:54
(承前)
さて、わたしにとっての、戸田さんのイメージは、もうひとつあります。
それは、沖浦様も聞いておられる、肉声からのイメージです。
その内容については、感想を述べることを控えますが、金もない、
教養もない、当時の一般庶民にとって、戸田さんの話術は強烈な印象を
与えたことでしょう。
「飲んだくれのおっさんが、立派な背広を着て、えらそうに喋っている」
「もしかしたら、自分もああいう金持ちになれるかもしれない」
「でかいことばかり喋っているけど、ひとは良さそうだ」
「質問にも親身になって答えてくれているから、信じてもよさそうだ」
「威勢のいい話で、なんだか元気になってくる」
こういったあたりが、当時の学会員の偽らざる感想でしょう。
高度経済成長前の日本にあって、虚妄であったとしても、希望の片鱗を
聞かせた戸田さんを、わたしは嫌いではありません。
酔っ払いの大ぼら吹きの大風呂敷でも女好きでもいいではありませんか。
話を聞いて、それで明日を生きる力になった、それは事実として否定
できません。
わたしは、そういう、人間的に破れながらも一般会員に接する戸田さんの
魅力を感じています。
ただし、このことと、先の権力者としての話は別の問題として考えたいものです。

いずれにしても、戸田さんが、本音のところはいざ知らず、肉声や当時の聖教や
大白において、正宗を絶対的なものであるとし、国立戒壇の建立を本気で考えて
いたことは事実です。
また、戒壇建立の文証とされる「三秘抄」のどこを読んでも、その建立されるべき
戒壇が「民衆立」などというものであるとは書かれていません。
戒壇は「民衆立」であるという文証があるのならともかく、「国主」「勅宣」「御教書」
などが建立の前段階での要件として書かれている以上、そして、事壇建立をいい、
その文証として「三秘抄」を用いる以上は、「民衆立」の戒壇などありえません。
それは、日蓮というひとの考えにも教えにも存在しません。

ただし、日蓮の考えにも教えにも関係なく、独自の教理として「民衆立」の戒壇
を主張するぶんにはかまわないだろうと思います。
もちろん、それは、非日蓮系新宗教の教理ということになりますが。

話がそれてしまいました。
戸田さんについて、あと一点だけ。
戸田さんの当時でも数億円あった遺産は、結局どうなったたのか。
奥さんにも妹さんにも、遺産としてはほとんど相続されなかったのでしたね。
当時の金庫番は、誰だったでしょうか。
最愛の妹さんに遺産すら残さない戸田さんだったのでしょうか。
わたしは、この一事をもってもポスト戸田体制の学会を好きになることはできません。

以上、長々と書いてしまいましたが、事実誤認があればご指摘ください。

529MILD SEVEN:2003/10/31(金) 23:24
各界の創価学会理解・協力者著名人

<あるサイトで タカ と名乗る創価学会員が教えてくれました。>

奥田会長(トヨタ自動車グループ協会会長)
松井孝典(東京大学教授 理学博士)
河合隼雄(文化省長官、京都大学名誉教授)
橋田壽賀子(脚本家)
渡辺恒雄(読売新聞グループ本社社長)
武者小路公秀(中部大学教授)
重松 清(作家)
相馬雪香(難民を助ける会会長)
中西 進(帝塚山学院学院長)
石田衣良(作家)
小島朋之(慶応義塾大学総合政策学部長)
藤原帰一(東京大学教授)
中谷 巌(UFJ総研理事長)
山中菀子(国際連合大学客員教授)
芹沢俊介(評論家)
吉田ルイ子(フォトジャーナリスト)
藤原作弥(日立総研社長)
石川 好(ノンフィクション作家)
小林輝幸(ノンフィクション作家)
松井道夫(松井証券社長)
白眞勲「ベック・ヂンフン」(朝鮮日報日本支社長)
五十嵐武士(東京大学教授)
我部政明(琉球大学教授)
根本 孝(明治大学教授)
宮武 剛(埼玉県立大学教授)
小林良彰(慶応義塾大学教授)
米沢富美子(慶応義塾大学教授)
榊原英資(慶応大学教授)
寺島実郎(日本総合研究所理事長)
岩美隆夫(政治評論家)
村田喜代子(小説家)
山村慎一郎(ゴーシュ研究所所長)
福原義春(資生堂名誉会長)
宮崎駿(スタジオジブリ映画監督)
鈴木プロデューサー(スタジオジブリプロデューサ)
星野社長(ウォルト・ディズニー・ジャパン社長)
・・・・。
・・・・。
・・・・。

530三学無縁:2003/10/31(金) 23:29
>529
これは、たんに機関紙類に登場した人物のリストのような気がするのですが、、、。
中に数名、「じつは反創価」のひとがはいっていますね。

531MILD SEVEN:2003/10/31(金) 23:33

<聖戦>

私は、創価の脅しや脅迫には屈しません。
殺されるなら本望です。
殉教ですから。
創価には、まったく誠意が無いのです。

<<<世界中のキリスト教会と普通の仏教界は創価に絶対反対!>>>

この運動は広がります。広めます。必ず。
 
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

キリスト教界で、異端とされる三位一体を認めない教派。エホバの証人。モルモン教。統一教会。があります。

一方、仏教界では、池田創価は釈迦を否定し、法華経を見下しています。
やっている事は池田経でしょう。
これからは、創価学会・池田教と呼びましょう。

これ以上、創価が体質改善無きまま政権に食い込むと、税金を何に使われるか?不安です。
カルトの布教の為に世界に資金流失等、池田氏個人の勲章取りの費用かな?
本格的に世界征服の野望を燃やすでしょう。あの名誉会長連中は。
貧乏するのは一般国民・・・なんてことは阻止しましょう。

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私が創価に言っている事は「悔い改めよ!」です。
魔界のロボトミー化した池田狂信者は哀れな連中です。

でも、これは言っておかなければなりません。
創価学会員が不幸を造ったら、まず、創価学会員が改善すべきです。
キリスト教もそうやって前進してきました。
私はプロテスタントです。
今や、キリスト教界は、カトリックもプロテスタントも力を合わせて行く時代です。

創価は、とんでもない間違いをしています。
伝統を踏みにじり、しかも、カルト化しています。
狂っているとしか言いようがありません。
このまま独裁体制で世界征服するつもりでしょうか?
バベルの塔の運命はいかに?

国家に警察があるように、風紀委員は必要です
宗教問題でもそうです。
もはや、タブーではありません。
時間との戦いです。

また、創価の好きな・自分勝手な私刑は、国家の尊厳を踏みにじる行為です。
創価に悔い改めの意味が分かるでしょうか?

532MILD SEVEN:2003/10/31(金) 23:33

<聖戦>

私は、創価の脅しや脅迫には屈しません。
殺されるなら本望です。
殉教ですから。
創価には、まったく誠意が無いのです。

<<<世界中のキリスト教会と普通の仏教界は創価に絶対反対!>>>

この運動は広がります。広めます。必ず。
 
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

キリスト教界で、異端とされる三位一体を認めない教派。エホバの証人。モルモン教。統一教会。があります。

一方、仏教界では、池田創価は釈迦を否定し、法華経を見下しています。
やっている事は池田経でしょう。
これからは、創価学会・池田教と呼びましょう。

これ以上、創価が体質改善無きまま政権に食い込むと、税金を何に使われるか?不安です。
カルトの布教の為に世界に資金流失等、池田氏個人の勲章取りの費用かな?
本格的に世界征服の野望を燃やすでしょう。あの名誉会長連中は。
貧乏するのは一般国民・・・なんてことは阻止しましょう。

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私が創価に言っている事は「悔い改めよ!」です。
魔界のロボトミー化した池田狂信者は哀れな連中です。

でも、これは言っておかなければなりません。
創価学会員が不幸を造ったら、まず、創価学会員が改善すべきです。
キリスト教もそうやって前進してきました。
私はプロテスタントです。
今や、キリスト教界は、カトリックもプロテスタントも力を合わせて行く時代です。

創価は、とんでもない間違いをしています。
伝統を踏みにじり、しかも、カルト化しています。
狂っているとしか言いようがありません。
このまま独裁体制で世界征服するつもりでしょうか?
バベルの塔の運命はいかに?

国家に警察があるように、風紀委員は必要です
宗教問題でもそうです。
もはや、タブーではありません。
時間との戦いです。

また、創価の好きな・自分勝手な私刑は、国家の尊厳を踏みにじる行為です。
創価に悔い改めの意味が分かるでしょうか?

533MILD SEVEN:2003/10/31(金) 23:54

創価学会員の中には内部改善を望む者もいるでしょう。
潜在的に少なからぬ・・・。
しかし、池田創価の洗脳で理解力低下した多くの池田狂信者連中を恐れて表に出て来ない。
現実は厳しい。
今の段階では・・・。

534ケン:2003/11/01(土) 01:29
沖浦様
はじめまして。

一つだけ質問させてください。
それは、「ポスト池田」問題です。

池田さんがお亡くなりになった後、
創価学会の指導者として、どのような形態を
沖浦様は予想されているのでしょうか。

たとえば、牧口→戸田→池田と同格の
強力なリーダーシップを持った方が
現れるとお考えでしょうか。

あるいは、池田一族(たとえば、
奥様、ご子息)が跡を継がれることも
あり得るとお考えでしょうか。

仮に、池田さんのご子息が跡を継がれた場合、
そのことを理由にして創価学会から離れるメンバー
が頻発するということは予想されますか。
沖浦様ご自身は、どうですか。

535沖浦克治:2003/11/01(土) 05:51
 ケンさん、始めまして。
 沖浦です。 
 私のことはさん付けでおよびください。
 私には、池田先生の後は正確にはわかりません。
 然しながら、牧口・戸田・池田のお三方のような方式が、あってはならないと思います。
 今後の創価学会に、そのようなリーダーは邪魔でしかありません。
 常に強力極まりないリーダーが出現し、創価学会を率いて布教拡大をするのであれば、そんなものはもはや民衆のための仏法とは呼べないでしょう。
 正宗を例にとれば、強力なリーダーは興師までです。
 後は、せいぜい平凡な管理者にすぎません。
 今後は凡庸な会長が、集団指導体制で組織運営をするでしょう。
 池田先生のご子息が会長に就任される事はありえます。
 私は賛成いたします。
 少なくとも、秋谷さんよりははるかにましです。
 これを理由に学会を去るメンバーが多少でるかと思います。
 そんなものは出させてやればいいのです。
 信教の自由は基本的人権の根幹をなすものです。
 辞める権利を尊要すべきです。
 私の退転者に対するスタンスは、いる方がいいのにな、という程度です。
 お三方(特に戸田先生)と同様の強力な指導者は、世界広布の途上で必ず外国に出現すると思います。
 今、時国立戒壇で騒いでいる人たちには、理解が不可能でしょうね。
 すでに我々は、世界立戒壇を目指しています。
 時は流れているのです。

536沖浦克治:2003/11/01(土) 06:17
 三学無縁さん

>ひとつは、牧口創価思想を石山流にアレンジし、同時に、石山の坊さんたちの
信仰心を薄めさせたひと、というものです。

 元々宗門の僧侶に信仰心などはありません。
 藤本師が戦争に反対し投獄をされた際、宗門は彼の僧籍を剥奪いたしました。
 牧口・戸田両先生が同じく投獄をされると、信徒から除名をいたしました。
 自らは謗法に落ちぶれて神札を受け、対して、蓮祖のご遺命を守った在家、出家を切り捨てるところに、元々信仰心などはありません。
 あると思うのはあなたのご自由ですが、私は勘違いであると断定いたします。

>とくに学会の折伏による授戒の急激な増加と、「御供養」の大幅な増加は、
僧侶は布教しなくてもいいという錯覚を生じさせました。

 元々僧侶が布教を出来ないから700年間広まらなかったのです。
 戦後社会体制が整ってからでも、布教活動は在家である戸田先生が起こされました。
 この事実は、すでにこの時点で宗門が役割を終えていた事を、如実に物語っております。
 
>しかも、御書は学会が作ってくれるは、他宗との問答は学会がやってくれるは、
ごく一部の僧侶を除いて、多くの僧侶は、法華経も御書も富要も勉強することを
しなくなってしまいました。
 
 この点は仕方がありません。
 すでに役割を終えていたのですから、要求すること事態が無理と言うものでしょう。
 これは、目の見えない人に絵をかけ、と言っている事と同列の要求です。

537沖浦克治:2003/11/01(土) 06:37
 続きです
>しかも、朝、起きれば、寺の門前に本尊が捨てられていることなど、日常茶飯事で
あったことを、20年代から30年代に入信したひとならたいていご存知でしょう。

 そう言う事はよくあったでしょうね。
 然しながら戦時中の大謗法の厳罰で、法主が焼死するような宗門には文句など言う資格はありません。
 文句があれば蓮祖のご遺命の如く、自らが折伏弘経に励めばいいのです。
 『君たちは間違っている。私はこのやり方で10000万所帯を折伏している』と言えば、皆言うことを聞いたでしょうね。

>そういう事態を目の当たりにすれば、学会の折伏がどれほどいい加減なものかは、
だれにでも理解できることです。

 拡大期です。
 完璧な布教などはどの組織にも不可能です。
 最もいいかげんなものは、宗門の信心の姿勢と布教態度でしょう。
 戦時中の謗法を原点にしている宗門には、元々布教などは不可能です。
 創価学会と離別し、はや12年。
 戸田先生が会長就任をされた12年後の時点で、創価学会は600万所帯、宗門は現在20万程。
 情けないにも程がありますよ。
 数々の迫害にも負けず、現在創価学会には800万人程度残っています。
 お荷物の宗門と離別し、今はドンドン増えています。
 この事実が、勝敗を顕しております。

>僧侶の側からすれば、そのような折伏をする学会が、まっとうな信者であるわけ
がありません

 我々からすれば、こんな僧侶がまっとうな蓮祖門下であるはずがありあません。

>彼らは、「学会員を差別する悪僧」として糾弾されたのです。
本尊さえあれば幸福になれる

 本来ほとんどが、蓮祖敵対の悪僧の集団なのです、事実を述べているだけです。
 また、糾弾などは現時不必要です。
 捨てておいて、立ち腐れさせておけばいいでしょう。

538沖浦克治:2003/11/01(土) 06:54
 続きです
>狸祭り事件でしょう。
 
 私の過去レスをお読みください。

>戸田さんが刎頚の友であった時の総理大臣を本山に呼ぶ、これも、僧侶に錯覚をおこさせました。

 総理大臣に御開扉を受けさせる計画などはありませんでしたよ。
 単純に招待をしただけです。
 宗門は、身延の関係者に度々御開扉を受けさせております。
 文句は筋違いでしょうね。

>「飲んだくれのおっさんが、立派な背広を着て、えらそうに喋っている」
「もしかしたら、自分もああいう金持ちになれるかもしれない」
「でかいことばかり喋っているけど、ひとは良さそうだ」
「質問にも親身になって答えてくれているから、信じてもよさそうだ」
「威勢のいい話で、なんだか元気になってくる」
こういったあたりが、当時の学会員の偽らざる感想でしょう。

 あなたにとって、戸田先生はその程度の存在なのでしょうね。
 全くのご自由です。
 私は、戸田先生は蓮祖と同じ境涯のお方であった、と信じております。
 これも全くの自由です。
 ちなみに、私は戸田先生の『青年訓・国士訓』を呼んだのは16歳の時でした。
 強烈な印象に体が震えた事を、今でもよく記憶いたしております。
 お書きになられたものを、面識の無い私が呼んでさえこれでした。
 現実に、講義や講演をお聞きになられた会員の皆様方の喜びは、想像を絶するものであったでしょう。
 本当にお会いしたかったです。
 録音を聞く度に、身の福運の無さを嘆く毎日です。

539沖浦克治:2003/11/01(土) 07:10
 続きです
>高度経済成長前の日本にあって、虚妄であったとしても、希望の片鱗を
聞かせた戸田さんを、わたしは嫌いではありません。

 あなたがどの様にお感じになろうとも、ご自由でしょう。
 私は、戸田先生がご出現になられなかったなら、人類は滅びていたと思います。
 これも私の自由です。

>いずれにしても、戸田さんが、本音のところはいざ知らず、肉声や当時の聖教や
大白において、正宗を絶対的なものであるとし、国立戒壇の建立を本気で考えて
いたことは事実です。

 少し論理が飛躍していますね。 
 あなたが事実とお考えになっているだけです。
 戸田先生のご本心では、宗門など歯牙にもかけておられなかったでしょう。

>また、戒壇建立の文証とされる「三秘抄」のどこを読んでも、その建立されるべき
戒壇が「民衆立」などというものであるとは書かれていません。云々。

 御書全体を正しく読まねば、理解は不可能でしょう。
 蓮祖の御書を拝し、双方に異なる解釈が起こる事はやむ終えないと思います。
 あなたはそう、思い私は思わない。
 理解力の差です。

>戸田さんについて、あと一点だけ。
戸田さんの当時でも数億円あった遺産は、結局どうなったたのか。

 どなたかが使ってしまったのではないですか?
 いずれにしろ、私の手元に入るお金ではないので、なんとも申しあげられません。

>最愛の妹さんに遺産すら残さない戸田さんだったのでしょうか。
わたしは、この一事をもってもポスト戸田体制の学会を好きになることはできません。

 事実であれば本物の指導者と思えますが、私には確認する手段がありません。
 詳しくご紹介いただければ幸いです。
 私は戸田先生のことは、どんな小さなことでも知っておきたいのです。

540沖浦克治:2003/11/01(土) 07:10
 続きです
>高度経済成長前の日本にあって、虚妄であったとしても、希望の片鱗を
聞かせた戸田さんを、わたしは嫌いではありません。

 あなたがどの様にお感じになろうとも、ご自由でしょう。
 私は、戸田先生がご出現になられなかったなら、人類は滅びていたと思います。
 これも私の自由です。

>いずれにしても、戸田さんが、本音のところはいざ知らず、肉声や当時の聖教や
大白において、正宗を絶対的なものであるとし、国立戒壇の建立を本気で考えて
いたことは事実です。

 少し論理が飛躍していますね。 
 あなたが事実とお考えになっているだけです。
 戸田先生のご本心では、宗門など歯牙にもかけておられなかったでしょう。

>また、戒壇建立の文証とされる「三秘抄」のどこを読んでも、その建立されるべき
戒壇が「民衆立」などというものであるとは書かれていません。云々。

 御書全体を正しく読まねば、理解は不可能でしょう。
 蓮祖の御書を拝し、双方に異なる解釈が起こる事はやむ終えないと思います。
 あなたはそう、思い私は思わない。
 理解力の差です。

>戸田さんについて、あと一点だけ。
戸田さんの当時でも数億円あった遺産は、結局どうなったたのか。

 どなたかが使ってしまったのではないですか?
 いずれにしろ、私の手元に入るお金ではないので、なんとも申しあげられません。

>最愛の妹さんに遺産すら残さない戸田さんだったのでしょうか。
わたしは、この一事をもってもポスト戸田体制の学会を好きになることはできません。

 事実であれば本物の指導者と思えますが、私には確認する手段がありません。
 詳しくご紹介いただければ幸いです。
 私は戸田先生のことは、どんな小さなことでも知っておきたいのです。

541ガンコ:2003/11/01(土) 14:48

沖浦克治さん

>国立戒壇で騒いでいる人たちには、理解が不可能でしょうね。
>すでに我々は、世界立戒壇を目指しています。
>時は流れているのです。

この掲示板では、沖浦さんの矛盾を指摘するために国立戒壇を引き合いに出して論じていらっしゃる人が幾人かいるわけですが、だからと言って、その人たちが国立戒壇を信じているわけではないのですよ。
じつは、国立戒壇で騒いでいる人たちというのは、ほかならぬ顕正会員です。
いちおう、わたくしは現役顕正会員なので、少し質問させていただきます。

国立か、世界立かは、しばらく置きたいと思います。問題はその戒壇に安置すべき本尊をどうするか、であります。
すでに空き缶さんにおいては、妙本寺所蔵の「万年救護本尊」こそ戒壇本尊である旨、表明せられていますが、さて、沖浦さんはいかがでしょうか?
日蓮正宗では、申すまでもなく「弘安二年の大御本尊」=「本門戒壇の大御本尊」を時至らば本門寺の戒壇に安置することを宗是としてきた御宗門でして、沖浦さんのおっしゃる、というか学会で言っている世界広布は立派なことだとわたくしは思いますが、しからば、世界立戒壇はいつ、どこにたてられるものなのか、そして、いずれの御本尊を御安置申し上げるのか・・・といったことどもが問題になってくるのではないでしょうか?

沖浦さんは過去のことより未来のことを重視せられていらっしゃるようなので、ぜひともご教示ねがいたく存じます。

542犀角独歩:2003/11/01(土) 15:09

ジャンノレンさん:

> 仏教徒とは言えない理屈

いやいや、そんなことはないと思いますよ。
わたしは“妄想”を宗教病理的な観点から提出しましたけれど、この漢熟語は本来、仏教語で「もうぞう」と読んだものでしたね。
間違った考え・強い確信・訂正不能はまさに「もうぞう」であって、我執でもあるわけでしょう。

> 私は誘導システム(概念操作といっても良いかも)

概念操作、これはたしか石田さん辺りも使用していましたっけ?
失念していますが、それは置きます。
概念操作が自律的なものであれば問題は生じないでしょうが、他者操作である場合、大いに問題が生じますね。後者は社会心理学が扱う問題になります。

> 通常の仏教の思想…予言…個人が他人の宿命を指導する…有り得ない…占いにもにた…簡単に人生を預ける…一考の余地が大いに有る…

賛同します。当スレッドのテーマである創価学会で言えば「個人指導」とかいうものですね。

> 集団幻想が妥当

この言葉は当板では度々使用されてきた成句でした。
わたしはこの幻想ということを考えるときD・J・ブーアスティン著『幻想(イメジ)の時代』(東京創元社・現代社会科学叢書)は必読書であると皆さんにお薦めしたいと思います。

この本は特にマスコミが濫造する幻影(イメジ)の危険性にかなり早い段階で警鐘を鳴らしたものでした。その警鐘は現代的にはマスコミに限らず、集団幻想、そして、仮想現実を現実と思い込ませるマインド・コントロールも説明できるキャパをもっています。

> 活動しなければ財をやられる、啓蒙しなければ罰を受ける。何か天上人が人を操るような感覚が仏教の道理として罷り通り、組織そのものに身体的法理が宿っているような教育は、まったく虚仮の世界ではないでしょうか。

「教育」と言えば聞こえは善いですが、まさにこれが破壊的カルト・マインド・コントロールでしょう。一般的な言葉で言えば「煽動」ということになります。
ここでは妄想が大いに利用されるわけで、事実関係が証明できないことによって成立しています。

543犀角独歩:2003/11/01(土) 15:10

―542からつづく―

>> 仮想現実
> 集団的自我感と仏教の説く自我は何の関係も無い組織(集団的自我感)の身体性などは殆ど集団催眠の世界

これは多くの科学者が指摘するところです。
このような集団内の仮想現実を確実にするには段階があります。
簡単に羅列すれば、

・善悪二極論の演出
・良いことは自分たちに、悪いことは他に
・他者蔑視と憎悪
・情報隔離と情報解釈操作

まず、第一段階で行われることは善悪二極論の分別です。正しいものと間違っているものを分けて考える思考の徹底化です。そして、正しいのは自分たちであるという徹底的な心理操作が施されます。ここでもっとも力を発揮するのは指導者崇拝、いわゆるカリスマ崇拝です。
自分たちが正しい・優れているという感情はレノンさんも指摘されている点と重複しますが、必ず劣っている他者、憎悪する対象を必要とします。
たとえばあるカルト団体があるとき、その団体が自分たちの正当性を訴えるとき、必ず敵対する団体を悪口が枕詞で付されるのはこのためですね。
しかし、本来、人間は客観的な判断力を持ち合わせているので、この点を封殺する必要があります。この点で施されるのは情報隔離です。つまり、他の情報を見させないという方法です。カルトメンバーの特徴は自分たちの集団の知識以外が極端に稚拙であることです。また、情報閉鎖隔離されない場合でも、受け取る情報を「どのような考えるのか」という個人の解釈能力を封殺し、その判断を「指導」「教義」に委譲させる人権侵害が行われます。

以上のよう手順を踏んでカリスマ崇拝を規定とする組織依存症を罹患させた上で、集団・指導者がすべて解釈と行動の命令を下していくわけです。このような状態になるとき、個人は自分の意志で行動していると錯覚しながら、実は集団・指導者の代理状態へと変貌させられています。次に集団・指導者が提示するものが「仮想現実」としての世界観です。
いま世界はたいへんな危機に陥っている。この危機を救えるのは我が集団・指導者しかいない、このような操作が行われていきます。

地震、災害といった自然災害、これらは実際に起きていることです。この事実がなぜ起きるのかこの時点で集団・指導者の“解釈”が与えられるわけです。このような災害が起きるのは「日蓮大聖人に背くからだ」、これが第一段階の解釈で、次段階は、「日蓮大聖人の教えを正しく継承しているのは自分たち(集団)で、正しくそれを教えてくれているのは先生しかない」と、このような段階的な操作が行われていきます。しかし、実際、自然災害と集団・組織などまったく関係がないわけです。このように牽強付会の説明を可能にする心理を社会心理学では「連合」と言います。コンピュータ用語で言えば「関連づけ」、芸術技法で言う「モンタージュ」です。

ここでは正しいことを信じる人は正しい。自分が正しいものであるためには正しいことを信じる連なり合うことだ。信じない者は悪い、理解力がない、悪に連なっていると、善は自分たちに連合し、悪は他者と連合するという解釈が施されます。この解釈に罹患すると、正しいことをするためには集団と指導者を信じることが正しい行いであると、自動的に心理プログラムが働くことになります。

544犀角独歩:2003/11/01(土) 15:11

―543からつづく―

このようなプロセスを経たのち、この危機を救い人類と世界の平和に邁進しているのは自分が所属する集団と指導者のみであると連鎖的な信念体系が教化され続けることになるわけです。

以上の説明を集団・指導者に操られた人々が読めば言うことは、ただ一つ「自分たちには関係ない」ということになります。これもまた刷り込まれた心理プログラムの一つです。

さらにこの個人的なプロセスを支えるものが集団が提供する仮想現実であるとわたしは指摘したいわけです。自分たちは世界平和に貢献している。今後の世界を救うのは自分たちだなどと考える場合、現実的には祈っている活動しているだけでは何も変わりません。必要なことは実際行動です。集団が提供する世界観が現実であるか、仮想現実であるのかを見極めることは一般人からすれば少しも難しいことではないわけです。浅見定雄師が指摘したとおり、「何を信じているではなく、何をしているのか」とその後者を見ればわかることです。仮想現実の場合、実際的な行動は何も伴わないわけです。

ですから、その団体がカルトかどうか判断するには「自分たちが世界平和に貢献している」という集団と会員がいれば、「ではなにしているのですか」と訊いてみればわかることになります。平和を騙るだけのカルト団体は、これに何も答えられず、質問されたことに腹を立て、質問者を悪し様になじる以外、何も言うことはできません。

> お約束としてはゴールも仮には設定せねば為りません

この点をわたしは上述した浅見師にお尋ねしたことがあります。
師は実にうまい説明をしてくれました。「馬の鼻先のニンジン」だと言いました(笑)
魅力的に見えて走らずにはいられないけれど、決して食べることができない目標であるというわけです。
また、師は旧約聖書研究の第一人者ですが、そのなかでも終末思想の研究者であるわけです。そのお立場から、終末思想を利用するカルトに警鐘を鳴らしてきた一人でした。
たとえばもうすぐ大地震が来て国が亡ぶ、こんなことを言うわけです。世界大戦の危機が迫っている。こんなことも言います。これらは集団・指導者とは“まったく関係がありません”が、あたかもそれを救うことができるのは自分たちと指導者だけであるように心理操作されるわけです。このときの“装置”が終末思想です。この終末、あるいはカタストロフィ勃発の時期の設定がカルトグループリーダーの腕の見せ所であると師は言います。メンバーは十分に危機を抱けるだけ現実的に見える近日・近年であること、しかし、今日寝て明日起きて嘘がばれてしまうほど近くない期間が確保されていることというわけです。このような危機感でメンバーを煽る団体をカルトと呼ぶわけです。このメンバーの危機感を煽る装置として、日蓮本仏論圏で利用されるのは地震と核ミサイルでした。

もう一点、補足します。フェスティンガーの名著『予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』も推薦の一緒です。認知不協和理論で著名な著者ならでは分析です。

簡単に言えば、予言が外れたとき、集団と指導者が言うことは決まっています。「私たちの信仰で世界的な危機を乗り越えることができた」(大笑)というものです。

545犀角独歩:2003/11/01(土) 15:12

―544からつづく―

> 運動そのものは永遠のレースですが、個人の欲動をそこに見せること(例えば宿業打破や願望実現)によって団体運動のゴールではない、個人のゴールは借定されます。実現が適わなかったときは再度レース参加。この繰り返しが延々行われる
事で実現手段が目的化として参加することに目的があるかのような錯覚に陥るのではないでしょうか。

このご指摘はすばらしいと思います。
世界を平和をするために、広宣流布するために個人が立派になって成功を収めることであると集団目標と個人目標の整合性を図るのが“在宅型カルト”の特徴でした。

ここは「創価学会の功罪を考える」スレッドです。
上述することはカルトグループリーダーに操られたメンバーの典型的な特徴となっています。この典型的な心理操作技術が創価学会が当て嵌まるかどうか。お読みになった方で判断してください。ただし、「わたしはそうは思わない」というだけの感想のレスは無用です、何の意味を持ちませんので。
意味があるのは学術的な証拠に基づく科学的証拠と証明の提示だけです。
いちばん、わかりやすいのは世界平和を目指して、これから何をする・したいではなく、「何をしてきたか」という事実証拠の提示です。

わたしは、いわゆる平和活動家という人たちともよく話しますが、彼らが語る活動は実に具体的です。どこに国で何をどのようにしたかを縷々いつまでも語り止むことはありません。そこでは立派な指導者よりも。泥まみれ、、血まみれ、汚物まみれになって無名の一人が現場で働いています。賞賛も勲章もありません。多くの人の拍手喝采を受けて演説することもありません。社会的な成功などという世俗の価値観を超越しています。ただ、命懸けで戦禍をくぐり、いまそこで死にかけている人、苦しんでいる人を救っています。わたしのそのような人々に菩薩を見、深く頭を傾けます。ここでは宗派も神仏も集団も指導者も尊敬の対象でありません。

以上、簡単に仮想現実を見る前提を簡単に記しました。
実際の仮想現実はどのようなものであるか徐々に考えていきたいと思います。

546犀角独歩:2003/11/01(土) 15:38

【542の訂正】

誤)『幻想(イメジ)の時代』(東京創元社・現代社会科学叢書)
正)『幻影(イメジ)の時代』(東京創元社・現代社会科学叢書)

547犀角独歩:2003/11/01(土) 18:05

まあ、ガンコさんの言うとおりですね。
国立戒壇論を真剣に言うのは今では顕正会ぐらい。
わたしや、その他の方が、ここでそれを提示したのはかつて戸田さんが言っていたから。
言っていたことを「言ってない」なんて言われてもねえ(大笑)

それにしても創価学会が「世界立戒壇」を目指しているとは初耳でした。
創価学会本部に電話して聞いてみようと思います。
それとも沖浦さんが言う「我々」っていうのは創価学会とも別の集まりでしょうか。
何を入れるんでしょう。寛師“書写”漫荼羅でも板に彫るんでしょうか。
こんなことを言われたら、ほかの学会そのものも、学会員も迷惑でしょうね。
それとも創価学会とその会員はこんな事を真剣に考えているんでしょうか。

いっそのこと、宇宙立戒壇でも目指したらどうでしょうかね。
いうだけなら、なんでもありでしょうから。

なんだか、SFじみてますね。いや、フィクションといいましょうか。

548探訪者007:2003/11/01(土) 18:06
 困るナー沖浦様! 毎度毎度の「同じ次元での屁理屈?には閉口ですヨ、!!」、。ソンナニ「言いたいのであれば,YAHOOの掲示板=愛される創価、嫌われる創価、けっこうガンバル公明、創価は負けを認める、SGI創価の暗部、、などの興味深いトピックなどが”政治、選挙、ニュース各欄内でチャット口論、議論」が「花盛り、」ですヨ、。キット大歓迎されるでしょう、、。

549沖浦克治:2003/11/01(土) 19:42
 ガンコさん

>すでに空き缶さんにおいては、妙本寺所蔵の「万年救護本尊」こそ戒壇本尊である旨、表明せられていますが、さて、沖浦さんはいかがでしょうか?

 弘安二年十月十二日のご本尊様でいいと思います。
 戸田先生が『このご本尊様が最も完成されている』と発言されておられます。
 私には、別に異を唱える理由がありません。
 然しながら、このご本尊様が蓮祖出世の本懐である、とは思っておりません。

>世界立戒壇はいつ、どこにたてられるものなのか、そして、いずれの御本尊を御安置申し上げるのか・・・といったことどもが問題になってくるのではないでしょうか?

 ご安置すべきご本尊様は、先程も述べましたがとりあえず戒壇様でいいでしょう。
 戒壇建立の時機は、戸田先生没後200年近くはかかると思います。
 これも戸田先生が『自分の正しい評価は、自分の死後200年はかかるだろう』と言われているからです。
 場所や建物の様式等につきましては、その時代の人々が判断をするでしょう。
 今から決めるべきものではないと思います。

550沖浦克治:2003/11/01(土) 19:44
 探訪者007さん
 
 大変ユニークなご意見です。
 これからも、一所懸命に頑張ってくださいませ。

551ジャンノレン:2003/11/01(土) 19:45
独歩さん、凄く沢山書かれていたので丁寧に読んでまた、レス致します。とりあえず思いつくままのところだけ。

> 私は誘導システム(概念操作といっても良いかも)
>概念操作、これはたしか石田さん辺りも使用していましたっけ?
私は石田さんの言ってることは存じ上げないのですが、私が使用した意図は、大多数が共有する一般概念を、少しづつずらして本来の概念を
教団ないし団体が共通認識として獲得すべき概念に恣意的にすり変えていく事を云ったものです。確信犯的行為です。

>概念操作が自律的なものであれば問題は生じないでしょうが、他者操作である場合・・・
そうです、他者操作です。卑近な言い方をすれば詐欺です。マルチ商法や違法な互助会の名目は金融や流通の仕組みそのものを借りて操作する
んですね。宗教も釈迦の悟りや教祖そのものの言辞(経典)の真偽はともかく、それを借りて操作していくことがあったならば、許されないこ
とです。これを団体的な操作とばかり当てはめるのは、どうでしょうか?インターネットは匿名な分だけその個人が持っている潜在下のものが
出やすいとも言えます。倫理的を謳いながら、モラルを前面に押し出した言論封鎖を是とすれば、またこれが集団的な正論主張となれば本来の
言論が何処か曖昧な概念にすり替わっていきます。私は団体的な言語操作や概念の操作もさることながら、そこに与する人が果たして善人ばか
りなのか、検証していきたいです。いわゆる機嫌の悪い人です。匿名性の危険差は実名性のそれに及ばないと思います。独歩さんが提示された

・善悪二極論の演出
・良いことは自分たちに、悪いことは他に
・他者蔑視と憎悪
・情報隔離と情報解釈操作

は実は個人の内面に渦巻く事でもあります。団体運営が一握りの個人もしくは数名の集団に委託されているのなら、現出している表面よりも個
人の機嫌の悪さにも目を向ける方向もあるかと思います。機嫌の悪い人は何かにいらだっています。団体構成の中に入れば力を持てば我が儘な
人達です。飽きることのない欲望発散に付き合わされる人との関係、消耗しながら立場を与えられれば、自分があれだけ苦労した同じ機嫌の悪
い人を演じます。社会構成を占める団体の力関係は認知されるまでは、いい人を演じますが、一旦、認知了承が終わればどうでしょうか。個人
間の関係と団体と社会の関係は自我の構造と共に、共に相関関係があるように思います。大きな顕在意識は団体の社会露出部分ですが、定款と
か会是とか云われるものです、個人に於いては履歴書的なパーソナリティです。でもそれが全てなどという人はいないでしょう。

隠れた部分と現れた部分、両方伴って評価が決定されるのではないかと思うのです。問題にすべきは機嫌の悪い部分ですね。何を抑圧している
から何に反応して、過剰な攻撃性や過大評価や錯誤を犯すのか?この部分が個人として、又団体として潜在的に押し込めた不快な部分ではない
かと考えるのです。不快な部分であるからこそ、対境に現れた潜在下の意識を刺激するもの、を感じたときに凶暴的に払拭もしくは逃避する行
為が認められるのではないでしょうか。これは個人、団体ともに共通な反応かと考えます。批判するものをなじるときには批判の内容でなく、
批判の行為に対して向けられている可能性があります。もし、私は悪くないという思いこみの中に「過去の何か」に抵触するものがあり、それ
が正当を裏付ける物ではなく、自分を欺いた結果、糾弾を受け、不本意ながら釈明と懺悔を表明しなくてはいけない形で記憶されたら、それは
事実よりも虚構の中の正当性を裏付ける言い換えを延々することになります。簡単な解決方法は正直に悪いことは悪いと思い謝れば、その事実
は昇華し健全な精神性を保持します。しかし、短絡的に自我の保全だけを考えて、事実を認めないとしたら、生涯にわたってこの事実を指摘す
るような対境とその予備軍に眼をとがらせます。丁度戦時下のゲシュタポや特高警察のように。これはこのスレッドで扱う会以外にも日常的に
散見される事柄でしょう。余り長くなると荒らしになりますので、他にも書いて頂いた独歩さんの意見には別の機会にレス致します。

552沖浦克治:2003/11/01(土) 19:47
 犀角独歩さん

>いっそのこと、宇宙立戒壇でも目指したらどうでしょうかね。
 
 あなたはせっかち過ぎますよ。
 いま少し、現実を見つめるべきでしょうな・・・・


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