したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

創価学会の功罪を考える

526ジャンノレン:2003/10/31(金) 19:59
独歩さん、返信レス有り難うございました。

>わたしが・・・行動様式」と集団と、感じさせる“装置”の部分です。
そうですね、「装置」。言い得て妙ですね。拙文に纏めた意図は極めて客観的に書きましたので、仏教徒とは言えない理屈になっていたこと
と思います。私は思想家でもないし只のおじさんですので、通常よくある、神の視点みたいな超越的評価とかはできませんので感情的に為ら
ずにだけ注意しましたが、恐らく一部お見苦しい点があったのではと汗顔の思いです。独歩さんを始め、各論客に臆面もなく個体的自我把握
の事など書けば、釈尊はその様なものは認めておらないとお叱りを被るのではと、冷や冷やです。

元々、東洋と西洋では自我の扱いの次元が違っているのは自明のこととして、私が云いたかったことは、自我というものを独立的に考えると
すこし、分かり易くなるかな、と思っていただけです。フロイトなども自我の構成を借り物的に仮定していますが、仏教のいう無我というニ
ュアンスとは違うと思われます。借体として個体的自我を前提に話しますと、この操作というのは私も、何であろうかと考えていた事です。

私は誘導システム(概念操作といっても良いかも)と思っていたのですが、通常の仏教の思想から云えば予言とか、個人が他人の宿命を指導
するなんて事は本来、有り得ないことですが、占いにもにた行為に簡単に人生を預ける方が多いのは、一考の余地が大いに有ると思います。

>これは各人にとっては妄想を形成するものであり、・・・集団幻想でも、・・・「何でも良いのですが、これらの感情を引き出すものが何で
あるのかを考えてみたいわけです。
仰せの通り、集団幻想が妥当かと思います。そこには個体的自我の行方を前提とした教理の体系が有るように思います。こうすれば幸せにな
るこうすれば不幸を招く・・。もっと云えば、活動しなければ財をやられる、啓蒙しなければ罰を受ける。何か天上人が人を操るような感覚
が仏教の道理として罷り通り、組織そのものに身体的法理が宿っているような教育は、まったく虚仮の世界ではないでしょうか。

>これら集団という場が提供するものは、事実とは別に仮設され、それをあたかも現実であると信じ込ませる“仮想現実”なのではないのかと
仮定しています。
仰るとおりです。集団的自我感と仏教の説く自我は何の関係も無いと思います。集団的自我感は各個人の潜在的欲望の反映である可能性は否
めませんが、組織(集団的自我感)の身体性などは殆ど集団催眠の世界かと思われます。

>まったく実際的な行動が伴わないのに、「日本がもうすぐ広宣流布する」・・・・会員はいとも簡単に信じ込んでしまうのか。この装置と
して、働いているのが・・・仮想現実ではなかろうかという仮定です。
お約束としてはゴールも仮には設定せねば為りません、アイアンマンレースでもゴールはあるのですから。しかし、終点を実際的に設ける事
は有り得ないのではないでしょうか。運動そのものは永遠のレースですが、個人の欲動をそこに見せること(例えば宿業打破や願望実現)に
よって団体運動のゴールではない、個人のゴールは借定されます。実現が適わなかったときは再度レース参加。この繰り返しが延々行われる
事で実現手段が目的化として参加することに目的があるかのような錯覚に陥るのではないでしょうか。言葉足らずの所はご容赦ください。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板