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Japanese Medieval History and Literature
快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その13)
『増鏡』では後深草院が太上天皇の尊号と身辺警護の随身を辞退しようとした時期は明記されていませんが、史実では、これは文永十二年(1275)四月九日(二十五日に建治と改元)です。
『続史愚抄』の同日条によれば、
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本院被献尊号兵仗等御報書。<被辞申由也。>御報書前菅宰相<長成。>草。<清書右衛門権佐為方。>中使徳大寺中納言。<公孝。>公卿兵部卿<隆親。>已下四人参仕。奉行院司吉田中納言。<経俊。>及為方。抑依皇統御鬱懐可有御落飾故云。異日有不被聞食之勅答。御落飾事。自関東奉停之云。<○増鏡、次第記、皇年私記、歴代最要>
-------
とのことで、尊号・兵仗は天皇(後宇多)が上皇(後深草)に与えたという建前ですから、辞退の旨を正式の文書に記し、徳大寺公孝を使者として、四条隆親(二条の母方の祖父)以下の四人の公卿が随行するという厳格な形式で天皇に通知した訳ですね。
これに対し、後宇多天皇は辞退を認めない旨を返答し、幕府のとりなしもあって、落飾の一件は中止となったという流れです。
では、幕府の対応は『増鏡』にどのように描かれているかというと、次の通りです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p200以下)
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この頃はありし時頼の朝臣の子時宗といふぞ相模守、世の中はからふぬしなりける。故時頼朝臣は康元元年に頭おろして後、忍びて諸国を修行しありきけり。それも国々の有様、人のうれへなど、くはしくあなぐり見聞かんのはかりごとにてありける。
あやしの宿に立ち寄りては、その家主が有様を問ひ聞き、ことわりあるうれへなどの埋もれたるを聞きひらきては、「我はあやしき身なれど、昔よろしき主を持ち奉りし、未だ世にやおはする、と消息奉らん。もてまうでて聞え給へ」などいへば、「なでう事なき修行者の、なにばかりかは」とは思ひながら、いひ合はせて、その文を持ちて東へ行きて、しかじか、と教へしままにいひて見れば、入道殿の御消息なり。「あなかま、あなかま」とて長くうれへなきやうにはからひつ。仏神のあらはれ給へるか、とて、みな額〔ぬか〕をつきて悦びけり。かやうのこと、すべて数しらずありし程に、国々にも心づかひをのみしけり。最明寺の入道とぞいひける。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9418
ということで、いささか唐突に北条時頼廻国譚が出てきます。
時頼廻国については、旧サイト(『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』)において、かなり詳しく検討したことがあります。
現代の歴史研究者の中にも、佐々木馨氏のように時頼の廻国が基本的には事実であったと考える人もいますが、私は賛同できません。
佐々木馨『執権時頼と廻国伝説』(吉川弘文館、1997)
http://web.archive.org/web/20061006194255/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/sasaki-kaoru-tokiyori-01.htm
さて、続きです。
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それが子なればにや、今の時宗の朝臣も、いとめでたき者にて、「本院の、かく世を思し捨てんずる、いとかたじけなく、あはれなる御ことなり。故院の御おきては、やうこそあらめなれど、そこらの御このかみにて、させる御あやまりもおはしまさざらんに、いかでか忽ちに名残なくはものし給ふべき。いと怠々しき業なり」とて、新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ。
十月五日節会〔せちゑ〕行はれて、いとめでたし。かかれば少し御心慰めて、この際は強ひて背かせ給ふべき御道心にもあらねば、思しとどまりぬ。これぞあるべきこと、と、あいなく世人も思ひいふべし。帝よりは今二つばかりの御このかみなり。
まうけの君、御年まされるためし、遠き昔はさておきぬ。近頃は三条院・小一条院・高倉の院などやおはしましけん。高倉の院の御末ぞ今もかく栄えさせおはしませば、かしこきためしなめり。いにしへ天智天皇と天武天皇とは同じ御腹の御はらからなり。その御末、しばしはうちかはりうちかはり世をしろしめししためしなどをも、思ひや出でけん、御二流れにて、位にもおはしまさなんと思ひ申しけり。
新院は御心ゆくとしもなくやありけめど、大方の人目には御中いとよくなりて、御消息も常に通ひ、上達部なども、かなたこなた参り仕まつれば、大宮院も目安く思さるべし。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9420
「故院の御おきては、やうこそあらめなれど」(故・後嵯峨院のお決めになったことには、それなりの深い理由があるのだろうが)とさりげなく書かれていますが、ここはかなり重要です。
『増鏡』は一貫して、後嵯峨院の遺詔に亀山院とその子孫が皇統を継ぐべきだと明記されていた、という立場であり、ここでも、それを前提とした上で、幕府の斡旋により、幕府主導の妥協案として煕仁親王(伏見天皇)の立太子がなされた、という書き方ですね。
朝廷のドルチェ・ヴィータ(甘い生活)
小太郎さん
https://roma.repubblica.it/cronaca/2022/02/12/news/san_valentino_il_maritozzo_vero_dolce_romano_degli_innnamorati-337482817
マリトッツォ鈴木氏へ、イタリアからバレンタインデー
の様々なマリトッツォが届きました。
写真(上)は、ローマの有名なレストラン・ロショーリ
のものだそうで、
Panna(poco dolce e non troppo ariosa)
生クリームは少し甘く、しかし、アリオーソすぎず
とのことです。dolce も arioso も音楽用語でもあり
ますが、後者は所謂アリアになる前の唱法で、
non troppo ariosa は歌いすぎず抑制して(甘さ控え目)、
くらいの感じでしょうか。
そして、タイトルにある、
il vero dolce degli innamorati
は、恋人たちの真のケーキ、というような意味なので、
まさに、バレンタインデーのプレゼントとして、
二条が後深草院に贈るのにふさわしいドルチェと
いう感じがしますね(ちょうどいい塩梅の毒も染み
込ませてある)。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その14)
以上で巻九「草枕」の前半を終えて、いよいよ前斎宮の場面に入ります。
「草枕」というタイトルそのものが、後深草院が詠んだという(『とはずがたり』には存在しない)「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌に由来する上に、分量的にも、ここまでが四割、前斎宮の場面が六割ですから、『増鏡』作者が前斎宮の場面に注いだ熱意はすごいですね。
しかし、前半が皇統の行方を左右する重大な政治的局面を描いていたのに対し、後半は要するに単なるエロ話です。
この落差はいったい何なのか。
『増鏡』作者は何のために、後深草院の出家騒動の後、前斎宮の場面をここまでの分量を割いて描いたのか。
この問題を考える上で、私は『増鏡』は一貫して、後嵯峨院の遺詔に亀山院とその子孫が皇統を継ぐべきだと明記されていた、という立場であったことが重要だと思っていますが、その点は後でまとめるとして、とりあえず原文を見て行くことにします。
「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9327
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9404
第三回中間整理(その8)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9458
新年のご挨拶(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10515
といっても、当掲示板で私が『増鏡』の前斎宮の場面を検討するのは、これが実に三回目になります。
最初は2017年に、小川剛生氏の『増鏡』作者が丹波忠守、監修者が二条良基だという説(『二条良基研究』、笠間書院、2005)を批判するために若干の検討を行いました。
「そこで考察しておきたいのは、やはり増鏡のことである。」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9167
「二条良基が遅くとも二十五歳より以前に、このような大作を書いたことへの疑問」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9168
「そもそも<作者>とは何であろうか」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9169
「後醍醐という天子の暗黒面も知り尽くしてきた重臣たち」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9172
「増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方」(by 小川剛生氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9177
『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その1)〜(その8)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9180
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9181
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9183
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9184
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9187
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9188
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9189
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9190
ただ、この第一回目の検討の際には小川説批判が主目的になってしまって、前斎宮の場面自体の細かい検討はしておらず、現代語訳も井上宗雄氏の訳を借用していました。
そこで、2018年に改めて細かい検討を行い、拙いながら私訳も試みました。
「巻九 草枕」の後半について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9422
今回は、細かい部分は第二回の検討に譲ることとして、『増鏡』の前斎宮の場面の大きな流れを眺めた上で、それが『増鏡』作者の作品全体の構想の上で、どのように位置付けられるのかを見て行くことにしたいと思います。
>筆綾丸さん
「マリトッツォ鈴木」、自分でも何のために名乗ったのか忘れていました。
覚えていて下さって、ありがとうございます。
なお、最近私はツイッター上の洗礼名を「ズッキーニ」にしました。
「水林彪氏に捧げる歌」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10907
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その15)
それでは『増鏡』が描く前斎宮の場面を紹介して行きます。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p207以下)
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まことや、文永のはじめつ方、下り給ひし斎宮は後嵯峨の院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、なほ御いとまゆりざりければ、三年まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺に衣笠といふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてをあはれに思し出でて、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。
十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり。その夜は女院の御前にて、昔今の御物語りなど、のどやかに聞え給ふ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9439
『とはずがたり』と比較すると、『とはずがたり』では二条と東二条院の対立という背景が描かれていましたが、『増鏡』ではきれいさっぱり消えています。
また、『とはずがたり』では、この場面は文永十一年(1274)の「十一月の十日あまりにや」の出来事ですが、『増鏡』では翌建治元年の「十月ばかり」とされていて、『とはずがたり』と『増鏡』では年が一年、月も一ヵ月ずれていますね。
さて、第二日目です。
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又の日夕つけて衣笠殿へ御迎へに、忍びたる様にて、殿上人一、二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南おもてに御しとねどもひきつくろひて御対面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へれば、やがて渡り給ふ。女房に御はかし持たせて、御簾の内に入り給ふ。
女院は香の薄にびの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく、盛りにて、廿に一、二や余り給ふらんとみゆ。花といはば、霞の間のかば桜、なほ匂ひ劣りぬべく、いひ知らずあてにうつくしう、あたりも薫る御さまして、珍らかに見えさせ給ふ。
院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。
上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9441
『とはずがたり』では二条が「御太刀もて例の御供に参る」とありますが、『増鏡』では二条の名前はなく、単に「女房」とあるだけです。
その他、細かい比較はリンク先を見ていただくとして、『増鏡』は全面的に『とはずがたり』に依拠しているのではなく、若干の追加情報も含んでいますね。
果たしてそれは『増鏡』作者が別の史料に拠ったのか、それとも勝手に創作したのか。
さて、この次から、共通テストの【文章?】に相当する部分となります。
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院も我が御方にかへりて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。有りつる御面影、心にかかりて覚え給ふぞいとわりなき。「さしはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9442
『とはずがたり』の「いかがすべき、いかがすべき」が「いかがはせん」になるなど、『とはずがたり』の露骨な描写が『増鏡』では若干優雅な表現に変わっています。
「御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん」は『とはずがたり』にはない『増鏡』の独自情報ですね。
また、「けしからぬ御本性なりや」は『増鏡』の語り手である老尼の感想です。
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なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひよらず。ただ少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」とせちにまめだちてのたまへば、いかがたばかりけん、夢うつつともなく近づき聞こえさせ給へれば、いと心うしと思せど、あえかに消えまどひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深くまぎれ出で給ひぬ。
-------
共通テストの【文章?】では、「らうたくなよなよとして」以下は省略されていました。
「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるる」はもちろん二条のことですね。
後深草院が前斎宮に贈った「知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは」という歌は『増鏡』では存在していません。
凱歌
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%8C
「いかがすべき、いかがすべき」から「いかがはせん」
への改変が、かりに項羽の「虞兮虞兮奈若何」を踏ま
えたものだとすれば、『とはずがたり』よりも『増鏡』
のほうが、はるかに強烈なイロニーだ、ということに
なりますね。沈痛な垓下の歌ならぬ、能天気な漁色家の
凱歌だ、と。
もっとも、あの時代、「奈若何」をどのように訓み
下していたのか、わからないのですが。
五輪塔を叩く音
昨日『鎌倉殿の13人』の第6回が放送されましたが、それについて細川重男氏が「んで、今週の感想。」の題で面白い文章をブログに上げています。
https://ameblo.jp/hirugakojima11800817/
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伊豆山神社(走湯権現)にあるらしい千鶴くんのお墓ということになっている五輪塔(ごりんとう)は、その形状について、石造物(せきぞうぶつ)研究者の人々には、いろいろ意見があることだと思うが、確実に言えることは、八重さんが叩いた時の「ポコ」という音からして、石ではないというコトである。
おそらくは、発泡スチロールと推定される。
よって、そもそも石造物ではない。
したがって、平安時代末期のモノとしては、火輪(かりん)の反りが強過ぎるとか、水輪(すいりん)の形状が球形過ぎるとか言うのは、すべてムダである。
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私は放送をそれほど集中して見て(聞いて)いなかったので、音には気付きませんでした。改めて録画をチェックすると確かに音がしています。
これは八重役のガッキーを追ったマイクが発泡スチロール(?)を叩いた音を拾ったのか、それとも効果音を後から加えたのか。人の手のような柔らかい物で石を叩いても、あまり音は出ないのですが。
画像なら蛇足という言葉がありますが、音声についてこれを表現する言葉はないと思います。これをきっかけに「墓音」という言葉が日本語に加わるでしょうか。
豆腐と墓石の角
録画で見ると、八重(新垣結衣)が左手を伸ばして墓石に触れた瞬間、確かにポンと鳴っているので、もしかすると、いちばんタマゲたのはガッキーだったかもしれません。え、これ、発泡スチロールなの、イヤねえ、予算が余ってるくせに、NHKって、案外、ケチなのね、と。ビールのCMではないけれど、日本の皆さん、お疲れ生です、フフフ。
八重は伊豆山権現に避難している政子たちに面会したあと、裏山の一角らしいところにポツンと建っている五輪塔を訪うていますが、千鶴くんは伊東か北条の川で善児によって殺されているので(第1話)、熱海の伊豆山権現まで遺体をわざわざ運ぶのは、かりに荼毘の後の遺骨だとしても、地理的に非常に不自然です。川辺に穴を掘って埋めるか、あるいは、近在の寺の墓地に埋めれば済む話です。伊東氏が伊豆山権現と深い深い関係にあれば、話は別ですが。
余談ながら、善児は端役として三谷の映画に欠かせない梶原善の名を踏まえていますが、善なる児が「必殺仕事人」(飾り職人の秀のように、敵の延髄を刺して殺す)だというのも、三谷らしいアソビで、和歌でいうところの本歌取りですね。
墓石の音は、豆腐の角に頭をぶつて死ぬではないけれど、墓も叩けば時にはポンと音がする(恋しい母への返事かもしれない)、というような、実は、入念に仕組んだシャレかもしれません。あの音がミスなら、カット、カット、とかなんとか言って、撮り直せば済むことですからね。
付記
ドラマの五輪塔は発泡スチロール製で石造物ではないから形状を云々するのはすべてムダだ、という細川重男氏の話は、言語論として、論点がまったくずれています。映像なのだから、発泡スチロール製であろうが、石製であろうが、豆腐製であろうが、そんなことは問題ではない。石らしく見えればいいだけのことで、それが映画というものです。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その16)
続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p209以下)
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日たくる程に、大殿籠り起きて、御文奉り給ふ。うはべはただ大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる
「いとつれなき御けしきの聞こえん方なさに」ぞなどあめる。悩ましとて御覧じも入れず。強ひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくしてを、わたらせ給へ」など聞えしらすべし。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9442
『とはずがたり』では寝坊した後深草院が手紙を贈ったとはありますが、その具体的内容についての説明はなく、「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌も存在しません。
ここは『増鏡』の独自情報ですね。
また、『とはずがたり』では、「御返事にはただ、『夢の面影はさむる方なく』などばかりにてありけるとかや」ということで、前斎宮が一応は返事を出したことになっていますが、『増鏡』ではそうした記述はありません。
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さて御方々、御台など参りて、昼つかた、又御対面どもあり。宮はいと恥しうわりなく思されて、「いかで見え奉らんとすらん」と思しやすらへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、ただおほどかにておはす。けふは院の御けいめいにて、善勝寺の大納言隆顕、檜破子やうの物、色々にいときよらに調じて参らせたり。三めぐりばかりは各別に参る。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9443
『とはずがたり』では後深草院は「日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして」という具合いに完全に寝過してしまい、四条隆顕に準備させた宴会は「夕がたになりて」やっと始まるのですが、『増鏡』では「昼つかた」から始まります。
その他、細かな相違がありますね。
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そののち「あまりあいなう侍れば、かたじけなけれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御けしきとり給へば、女院の御かはらけを斎宮参る。その後、院聞こしめす。御几帳ばかりを隔てて長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行などさぶらふ。あまたたび流れ下りて、人々そぼれがちなり。
「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して御箏どもかき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしもおもしろし。
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ここも『とはずがたり』では大宮院が「あまりに念なく侍るに」と酒を勧めるのに対し、『増鏡』では後深草院が「あまりあいなう侍れば」と酒を要望する形になっているなど、細かな相違があります。
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こたみはまづ斎宮の御前に、院身ずから御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院、「この御かはらけの、いと心もとなくみえ侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなやあるべからん」とのたまへば、「売炭翁はあはれなり。おのが衣は薄けれど」といふ今様をうたはせ給ふ。御声いとおもしろし。
宮聞こしめして後、女院御さかづきを取り給ふとて、「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」とのたまへば、「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。善勝寺、「せれうの里」を出す。人々声加へなどしてらうがはしき程になりぬ。
かくていたう更けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。そのままのおましながら、かりそめなるやうにてより臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程なく寝入りぬ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9444
『とはずがたり』では大宮院の嫌味っぽい発言に、後深草院が「生を受けてよりこの方、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命をかろくせん」と答えてから長寿の祝意を込めた今様を歌っていますが、『増鏡』では同席の人々が「人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」という反応を示したことになっていて、これは『増鏡』が追加した独自情報です。
なお、和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)などの戦前の『増鏡』注釈書では「院」は全て亀山院と解釈されていましたが、そう考えると、亀山院を支援していたはずの大宮院が「院」に嫌味を言う理由が分からず、宴席の参加者の反応も不可解なものとなります。
この点、『とはずがたり』の出現で「院」が後深草院であることが明確になったため、この場面も非常にすっきりと理解できるようになった訳ですね。
なお、井上宗雄氏は「語釈」で、
-------
○一言報い給ふべうや もう一つお歌いなさい。戦前の注釈は、下の歌謡を斎宮が歌ったものとして、この言葉を大宮院の斎宮への注文としてみていたが、『とはずがたり』の出現により、下の歌は院が歌ったことがわかったので、これも院への注文と解されるようになった。
-------
と書かれていますが(p222)、「院」が亀山院という基本構図の影響で、戦前はずいぶん不自然な解釈が強いられていた訳ですね。
>ザゲィムプレィアさん
>筆綾丸さん
私は細川氏の研究者としての業績は参考にさせてもらっていますが、それ以外の活動には興味がないので、レスは控えます。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その17)
続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p223以下)
-------
明日は宮も御帰りと聞ゆれば、今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて、いとささやかにおはする人の、御衣など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはし過ぐしつつ、忍びやかにふるまひ給へば、驚く人も無し。
何や彼やとなつかしう語らひ聞こえ給ふに、なびくとはなけれど、ただいみじうおほどかなるに、やはらかなる御様して、思しほれたる御けしきを、よそなりつる程の御心まどひまではなけれど、らうたくいとほしと思ひ聞え給ひけり。長き夜なれど、更けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地しながら、後朝になり給ふ程、女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9444
『とはずがたり』では後深草院は前斎宮と一度関係を持った後で、簡単に靡くつまらない女だったと感想を述べ、三日目の夜、二条の予想に反し、「酒を過して気分が悪い。腰をたたいてくれ」などと言って寝てしまいます。
しかし、『増鏡』では後深草院は「今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて」、再び行動を起こします。
そして、『とはずがたり』では(文永十一年)十一月十日頃の亀山殿の場面の後、年末にもう一度、二条の仲介で後深草院が前斎宮と関係を持ちますが、こちらは『増鏡』では省略されています。
その代わり、『増鏡』では西園寺実兼と二条師忠が前斎宮と関係を持つという全く独自の展開となります。
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その後も、折々は聞え動かし給へど、さしはへてあるべき御ことならねば、いと間遠にのみなん。「負くるならひ」まではあらずやおはしましけん。
あさましとのみ尽きせず思しわたるに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人がらもきはめてまめしく、いとねんごろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給ふに、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又かならず参り来ん」と頼め聞こえ給へりければ、その心して、誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びてありき給ふ道に、彼の大納言、御前などあまたして、いときらきらしげにて行きあひ給ひければ、むつかしと思して、この斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事もなしと思して、しばしかの大将の車やり過してんに出でんよ、と思して、門の下にやり寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよよかなるにており給ひぬ。
内には大納言の参り給へると思して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながら、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門の廊にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童・女房みいでて、けしきばかりを聞こゆるを、大臣覚えなき物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。
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「負くるならひ」は『伊勢物語』(六十五段)の歌、「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」を踏まえた表現ですね。
さて、前斎宮の新しい愛人として登場した「西園寺大納言」実兼は、「けしからぬ御本性」の後深草院と異なり、「人がらもきはめてまめしく」、前斎宮を大切に世話してくれたので、前斎宮の母代わりの立場の人も信頼していたそうですが、ここに更に「二条の師忠の大臣」が登場します。
西園寺実兼は建長元年(1249)生まれで、建治元年(1275)には二十七歳、権大納言で、幕府の斡旋により皇太子となった熈仁親王(伏見天皇)の春宮大夫です。
他方、二条師忠は建長六年(1254)生まれで西園寺実兼より五歳下ですが、摂関家の人なので昇進は極めて順調で、文永六年(1269)に十六歳で内大臣、文永八年(1271)に右大臣、建治元年(1275)には左大臣ですから、官職では西園寺実兼を圧倒しています。
しかし、『増鏡』が独自に追加した前斎宮の場面では、二条師忠の役回りはいささか滑稽なものですね。
西園寺実兼(1249-1322)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%85%BC
二条師忠(1254-1341)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%BF%A0
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その18)
前回紹介した部分に「負くるならひ」という表現がありましたが、これは『伊勢物語』第六十五段「在原なりける男」の「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」という歌を踏まえた表現です。
https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-065.arihara.html
前斎宮の場面の設定自体、『伊勢物語』第六十九段「狩の使」を踏まえていることも明らかで、『増鏡』作者は『伊勢物語』を素材とする二次創作を楽しんでいるとも言えますね。
https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-069.kari.html
ま、それはともかく、続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)
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大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思して、「御随身一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、ありつる大将の車など思しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。
残し置き給へりし随身、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣の心の中もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。
さすれどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことども、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ。御処分もありけるとぞ。幾程無くて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎き給ふめるとかや。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9446
以上で前斎宮エピソードは終了し、この後、亀山院に若宮が誕生したという短い記事があって、巻九「草枕」も終わりとなります。
さて、『とはずがたり』には存在しない、この前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の奇妙な三角関係のエピソードはいったい何なのか。
前斎宮は帰京後、仁和寺の近くの衣笠殿というところに住んでいたのだそうですが、冷酷な後深草院にあっさり捨てられた前斎宮の新しい愛人となった西園寺実兼が、前駆などを大勢整えた華やかな様子で前斎宮邸に向かっていたところ、たまたま左大臣・二条師忠がお忍びで近くを通りかかっていて、師忠は実兼への対応を面倒に感じ、暫く隠れて実兼をやり過ごそうと思って、前斎宮邸の門から入ったのだそうです。
すると、前斎宮に仕える者たちは、実兼が来たのだと誤解して師忠を迎え入れたので、師忠も面白いと思ってずんずん入って行ったところ、前斎宮と対面することになり、師忠はこれはどうしたことだと思ったものの、「日ごろからお慕い申しておりました」みたいなことを適当に言ってみたのだそうで、これでやっと前斎宮も人違いに気づきます。
他方、実兼は不審な男が前斎宮邸に入るのを見て、随身一人に様子を探らせることにし、自身は引き返してしまいます。
師忠は「いと思ひの外に心おこらぬ御旅寝」だなあ、などと言い訳をしつつ、それなりのことをした後で、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」などと言ってあっさり帰ってしまいます。
その様子を窺っていた随身が実兼に報告すると、実兼は情けなく思って、「日頃もこうであったのだろう。何とも馬鹿な目にあったものだ。師忠は私のことをどう思っていたのだろう」と心は千々に思い乱れ、その後は長い間訪問しなかったのだそうです。
しかし、前斎宮の方では、一部始終を全て見られてしまったとも気づかず、不思議に思っているうちに妊娠が判明します。
実兼としては、相手が自分一人とも思われないので、極めて不快に思いつつも、やはり自分の子と思い当たることがあったのか、お産のときは誠実に世話をし、更に「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ」(別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた)ばかりか、財産の分配もしたのだそうです。
そして、前斎宮はそれから幾らも経たないうちに、弘安七年(1284)二月十五日に亡くなってしまい、実兼は大変嘆きましたとさ、ということで終わりです。
まあ、何というか、話の展開がシュール過ぎて奇妙な味わいが残りますが、これはいったい何なのか。
それと、「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ」については、『とはずがたり』で、後深草院が女性を遠ざけていた間に「雪の曙」の子を妊娠した二条が、女児が生まれたにもかかわらず後深草院には早産と偽って報告し、女児は「雪の曙」がどこかへ連れていってしまった、というエピソードを思い出させます。
『とはずがたり』も『増鏡』も真実を描いているのだとしたら、「雪の曙」西園寺実兼は二条が産んだ「こと御腹の姫宮」を前斎宮の子として、財産分与もしてあげた、という可能性もありますね。
ま、それはあくまで『とはずがたり』と『増鏡』が事実の記録だ、という前提の下での可能性ですが。
斎宮のあとさき
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前斎宮のエピソードは、『源氏物語』「賢木巻」の野宮の段を踏まえたのだろう、と私は考えています。
六条御息所が、一人娘の斎宮とともに、伊勢下向前、嵯峨の野宮で精進潔斎しているところへ、光君が訪ねきて、一夜を明かします。二人の間にかつてのような実事はなく(たぶん)、光君と斎宮の間にも何もありません。
なお、この斎宮は六条御息所と前坊(廃太子)の娘で、伊勢から帰った後、冷泉帝(光君と藤壺中宮の不義の子)の女御になり、後世、秋好中宮と呼ばれます。
二条は、おそらく、この野宮の段を踏まえて、後深草院と前斎宮の話を創作したのだ思います。
『とはずがたり』の舞台は大宮院の嵯峨の御所、『源氏物語』の舞台は嵯峨の野宮、ともに嵯峨であり、さらに面白いのは、前者は伊勢から帰任した後の前斎宮、後者は伊勢へ下向する前の斎宮、もっと露骨に言えば、前者は神と通じた後のいわば経験者、後者は神に使える前の未通女、というあざやかなパロディになっていることです。
まるでキアロスクーロ(Chiaroscuro)の絵を見るような趣があります。内容的には、『源氏物語』の話は短調で悲劇的な暗、『とはずがたり』の話は長調で喜劇的な明、というコントラストになります。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その19)
『増鏡』では後深草院と前斎宮の二夜にわたる情事は建治元年(1275)の「十月ばかり」の出来事なので、それに続く前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の三角関係のエピソードは建治二年(1276)以降の話となりそうです。
ただ、そうすると「幾程なくて」前斎宮が没したという弘安七年(1284)二月十五日まではけっこうな時間が流れていますが、これは西園寺実兼が「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給」い、財産分与なども行なってあげてから「幾程もなく」ということでしょうか。
また、二月十五日という日付も若干気になります。
これは釈迦の命日であって、『増鏡』の序文の冒頭は「二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつましさに、嵯峨の清凉寺にまうでて」云々で始まっています。
だから何なのだ、と言われればそれまでですが、わざわざ死去の日が記されている人物も『増鏡』全体の中では僅少で、特に歴史的に重要な人物でもない前斎宮についてここまで詳しく書くのは何故か、という疑問は残ります。
ま、それはともかく、巻九「草枕」は、ほんの少しだけ残っているので、一応紹介しておきます。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p233以下)
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新院には一年〔ひととせ〕近衛大殿<基平>の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞えつるを、この程、院号あり。新陽明門院とぞ聞ゆめる。建治二年の冬頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜五夜七夜九夜など、いまめしく聞えて、御子もやがて親王の宣下などありき。
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以上で『増鏡』巻九「草枕」の全文を紹介しましたが、巻九は鎌倉時代を公家の立場から概観した歴史物語である『増鏡』の中でも、かなり変な巻ですね。
そもそも全体の六割を占める前斎宮エピソードは分量的に相当にバランスが悪く、これ以上に長大なエピソードは巻十「老の波」の北山准后九十賀だけです。
西園寺実氏室で大宮院・東二条院の母である北山准后(1196-1302、百七歳)の九十歳を祝う行事は、分量的には前斎宮エピソードの倍近くあって、現代の読者にとってはうんざりするほど長い話ですが、まあ、こちらは公家社会の華やかな盛儀なので、それなりに歴史的重要性があるとの説明も可能です。
しかし、前斎宮エピソードには、どう見ても歴史的重要性は皆無です。
また、巻九「草枕」の前半は皇位継承をめぐる複雑な政治過程を描いているのに、後半の前斎宮エピソードは政治とは直接関係ない宮中秘話、要するにエロ話ですが、何故にこの二つが一つの巻にまとめられているのか。
しかも分量とタイトルから見て、後者の方に重点が置かれていますが、これは何故なのか。
私としては、この巻は後深草院がいかなる人物であるかを明らかにする目的があると考えることで、前半と後半を統一的に理解できるのではないかと思っています。
まず、前提として、『増鏡』は決して政治的に中立な書物ではなく、その立場は一貫して大覚寺統寄りです。
「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9327
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
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第三回中間整理(その8)
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新年のご挨拶(その4)
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『増鏡』は文永九年(1272)に崩御した後嵯峨院の遺詔は亀山院の子孫を皇統と定めるものと明記していた、という立場ですが、これは史実ではありません。
史実としては、後嵯峨院の遺詔は財産分与を定めていただけです。
ただ、後嵯峨院の意向は、既に文永五年(1268)、亀山皇子の世仁親王(後宇多天皇)が生後僅か八カ月で皇太子として定められていたことで明らかだったともいえ、幕府は大宮院に後嵯峨院の遺志を確認した上で、皇統を亀山子孫とすることに同意したようです。
しかし、これに反発した後深草院は文永十二年(1275)四月に出家騒動を起こして幕府の仲介を要請し、結果的に熈仁親王(伏見天皇)の立坊という成果を得ます。
これは大覚寺統の立場から見れば許し難い幕府の専横であり、それを招いた後深草院の行動も、朝廷の基礎を揺るがし、後の皇統迭立の大混乱をもたらした身勝手な振る舞いです。
このような後深草院を『増鏡』巻九「草枕」はどのように描いているか。
まず、後深草院は(火災で焼失していたために現実には存在していない)六条院長講堂で「血写経」という陰気な仏事を行います。
この時、「御掟の思はずなりしつらさをも思し知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらねど」(井上著、p193)ということで、後深草院は自分の行動が父・後嵯峨院の意向に背いていることを熟知していた、という前提です。
そして、出家騒動で幕府に仲介を求めた結果、北条時宗が「新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ」(同、p203)という事態となりますが、時宗の判断も「故院の御おきては、やうこそあらめなれど」(後嵯峨院の御遺詔は深いわけがあるだろうが)」ということで、ここでも熈仁親王の立坊は後嵯峨院の遺志に反していることが再確認されています。
そこで、大覚寺統寄りの『増鏡』としては、皇統の分裂という歴史的誤りを惹き起こした後深草院がいかに人間的に問題のある人物であるかを明らかにするために、まず、前斎宮との二夜の「草枕」の場面で、後深草院の「けしからぬ御本性」(同、p209)、即ち好色さと冷酷さを強調します。
そして、後深草院に冷たく捨てられた前斎宮を西園寺実兼が保護し、そこに二条師忠が滑稽な役回りで登場する、『とはずがたり』には存在しない三角関係のエピソードを追加することにより、立派な人格者である西園寺実兼との比較の上で、後深草院の冷酷さを改めて印象付けています。
要するに、持明院統の祖である後深草院は本当に駄目な我儘男なんですよ、という印象を読者に与えるのが『増鏡』作者の目的だ、というのが私の見方です。
>筆綾丸さん
>前斎宮のエピソードは、『源氏物語』「賢木巻」の野宮の段を踏まえたのだろう、
御指摘のように『源氏物語』の方は喜劇の要素がないので、私としては『増鏡』の作者にとって直接の参考にはならなかったのではないかと考えます。
この点、もう少し考えてから改めて論じるつもりです。
J'accuse
小太郎さん
仰るように、「後深草院は本当に駄目な我儘男なんですよ」という印象を与えたかったのだ、とすると、なぜあんなエロ話をしたのか、すとんと腹落ちしますね。
ドレフュス事件で、ゾラのJ'accuse (私は弾劾する)は歴史的な言葉になりましたが、私は後深草院を弾劾する、scherzando(戯れるように)、といったような感じです。
小松茂美『天皇の書』で、後深草院の書をあらためて見ると、後嵯峨院ほどではないが、亀山院よりずっと能筆だ、と思います。
これは嘉元二年(1304)正月朔日のもので、後深草院はこの年の七月十六日に崩御しているので、最後の年賀状ということになりますね。追善供養として紙背に写経したもので、古筆学では消息経と呼んでいるとか。
小松氏は、
「現存する後深草法皇の宸翰は、淡墨を一気呵成に走らせた、能筆である。書道史の展望においても、比類なき風情を湛える書風である。枯淡の中に凛たる品格の漂う書・・・」
と絶賛していて、確かに名君を思わせるような雄勁な字ですが、とすると、書は為人(人品骨柄)を表さない、騙されちゃダメよ、ということになりそうですね。
なお、何の関係もなく、また、他意もないのですが、後深草院の諱(久仁)は、このたび、名門筑波大附属高への入学が決まった親王の諱(悠仁)と同じ訓みですね。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その20)
改めて共通テストの設問を振り返ると、出題者の頭の中には、「過去の人物や出来事などを後の時代の人が書いた」「文学史では『歴史物語』と分類されて」いる『増鏡』が『とはずがたり』を一資料として利用している、という確固たる前提が存在していることが分かります。
もちろん、これは国文学界の常識です。
そして、この常識を前提とする限り、「文章?」「文章?」と区画された範囲で『増鏡』と『とはずがたり』を比較した場合、「当事者の視点から書かれた」『とはずがたり』の「臨場感」が失われている反面、『増鏡』は「当事者全員を俯瞰する立場から出来事の経緯を叙述」しており、「書き手の意識の違いによってそれぞれの文章に違いが生じている」という結論になります。
しかし、もう少し範囲を広げて『とはずがたり』と『増鏡』を比較してみると、『とはずがたり』と『増鏡』との関係は相当に複雑に入り組んでいて、『増鏡』が『とはずがたり』を一方的に利用したと考えるには些か不自然な個所が多いことは理解していただけたと思います。
さて、私のように『増鏡』巻九「草枕」が後深草院批判のプロパガンダだと考えると、当然に『増鏡』の作者と成立時期の問題に結びつきます。
通説のように二条良基(1320-88)が作者で、成立は十四世紀後半であれば、北朝(持明院統)に仕える二条良基が何故に持明院統の祖である後深草院を批判するのか、訳の分からない話になります。
ただ、『増鏡』の作者と成立年代という根本問題は共通テストとはあまりに離れてしまいますので、二十回続いたこのシリーズは一応終えて、改めてタイトルを変えて論じたいと思います。
ところで、今回、『増鏡』の前斎宮エピソードを読み直してみて、戦前の『増鏡』の通釈書において、「院」が亀山院だと解釈されていたことが本当に不思議に思えてきました。
巻九「草枕」では、冒頭に後宇多天皇践祚に触れた後、「かくて新院、二月七日御幸はじめせさせ給ふ」とあり、その後、「本院は故院の御第三年のこと思し入りて、睦月の末つ方より六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ。【中略】新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。」とあって、「新院」(亀山院)と「本院」(後深草院)を明確に書き分けています。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9409
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9410
話題が後深草院の出家騒動に移っても、「新院は世をしろしめす事変らねば、よろづ御心のままに【中略】本院はなほいとあやしかりける御身の宿世を」という具合いに、「新院」「本院」の使い分けは明確です。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9417
次いで熈仁親王立太子の話題になっても同様です。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9420
そして、前斎宮エピソードに入ると、「十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり」とあるので、「女院」(大宮院)が「本院」(後深草院)を招待したことは明確です。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9439
この後、
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院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。
上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9441
という具合いに、「本院」ではなく「院」という表現に変化しますが、それは既に「本院」であることを明示しているので、「院」で十分読者に分るからですね。
以後、前斎宮エピソードの全体を通して「院」の表記が続きますが、巻九の最後には亀山院に若宮が誕生したとの短い記事があって、そこには、
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新院には一年近衛大殿<基平>の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞えつるを、この程、院号あり。新陽明門院とぞ聞ゆめる。建治二年の冬頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜五夜七夜九夜など、いまめしく聞えて、御子もやがて親王の宣下などありき。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9447
とありますから、前斎宮エピソードの「院」と区別されていることは明確です。
そして、前斎宮エピソードの中には、「女院」(大宮院)の「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」という発言に、同席した「人々」が、「「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」という反応をしたという微妙な話がありますが、これも「院」が大宮院と極めて良好な関係にある亀山院では理解しにくいところです。
更に、「院」が再び前斎宮の寝所に忍び入った際には「いとささやかにおはする人」とあるので、「院」がとても小柄であることが分かります。
しかし、『増鏡』巻八「あすか川」には、内裏の火事に際して、「故院の御処分の入リたる御小唐櫃、なにくれの御宝」が保管されていた「御塗籠」の鍵が見つからずに騒ぎになっていたところ、亀山天皇が「さばかり強き戸」を蹴り倒した、という豪快なエピソードがあって、亀山院が「いとささやかにおはする人」とは思えません。
http://web.archive.org/web/20150918073236/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu8-dairi-enjo.htm
念のため和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)を確認したところ、こちらは増補本系なので「草まくら」は巻十一となっていますが、以上のようなポイントについては十七巻本の表現と同じなので、何故に「院」が亀山院と解釈されていたのか、不思議です。
まあ、『とはずがたり』の発見までは後深草院は非常に地味な存在であり、他方、亀山院は大変な子沢山である上、その好色エピソードは『増鏡』に多数載せられていて、特に「五条院」との関係は前斎宮エピソードに似ているため、前斎宮エピソードの「院」も亀山院に違いない、という先入観が生まれたのでしょうね。
http://web.archive.org/web/20150918045226/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kameyamainno-kokyu.htm
>筆綾丸さん
>後嵯峨院ほどではないが、亀山院よりずっと能筆だ
『天皇の書』に掲載されている亀山院の「競馬臨時召合乗尻交名」は、気軽に書いたメモ程度のものなのでしょうが、それにしても妙に縦長で、一風変わった字ですね。
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その1)
それでは少し視点を変え、共通テストから離れて、国文学界における『とはずがたり』研究の最新状況を確認しておきたいと思います。
検討の素材としては、昨年二月、『歴史評論』850号に掲載された早稲田大学教授・田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」を用いることにします。
『歴史評論』は歴史学界において一貫して「科学運動」の中枢を担ってきた歴史科学協議会の機関誌で、同会は「現代における帝国主義的歴史観に対決する人民の立場に立つ」(定款第2条1号)硬派の団体ですから、『歴史評論』にもあまり中世文学、特に女房文学などに関する論文は載りません。
その点、850号の田渕論文を含む「特集/女房イメージ」は、『歴史評論』らしくない、といったら少し失礼かもしれない斬新な企画ですね。
『歴史評論』2021年2月号(第850)
特集/女房イメージをひろげる “Reimagining the Nyōbō (female attendant)”
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/850.html
さて、田渕論文は、
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一 女房、女房文学、女房日記
二 宮廷和歌・歌壇と女房
三 物語の制作と享受
四 記録する女房
五 君寵と女房
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と構成されていますが、『増鏡』との関係を中心に検討したいので、第一節・第二節は省略します。
「三 物語の制作と享受」に入ると、
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『とはずがたり』が『源氏物語』の圧倒的な影響下にあることは、多くの指摘がある。表現は勿論、人物造型においても、『源氏物語』中の人物たちが二重写しにされて描かれる。『とはずがたり』は女房日記だがむしろ物語に近接し、多くの虚構や意図的操作、物語化を含み、その表現や手法は中世王朝物語(擬古物語)に多くを負っており、同じ文化的な渦の中にある。この具体相についても諸氏の論がある。オリジナリティを重んずる近代以降の小説からみると不思議でもあるが、『源氏物語』『狭衣物語』『夜の寝覚』等の王朝物語と、中世王朝物語は、表現、構造、手法等を夥しく共有しており、『とはずがたり』もその環の中にある。なかでも『源氏物語』は際だった磁力をもち、中世王朝物語や仮名日記に流入し、さまざまに語り変えられて増殖した。そして、女房日記の中でも物語に近い『うたたね』と『とはずがたり』は、日記の特質である一人称の語りを生かして、自身に『源氏物語』の紫上、女三宮、浮舟などを重ね合わせ、彼女たちの内面に入り込んだ視点を用いて、『源氏物語』を語り直す意図もあるとみられる。
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との指摘があります。(p44以下)
田渕氏は「『とはずがたり』は女房日記だがむしろ物語に近接し、多くの虚構や意図的操作、物語化を含」むとされますが、そんなに虚構が多ければ、『とはずがたり』は「女房日記」風の「物語」、「自伝風の小説」の可能性もありそうです。
いったい、「女房日記」と「物語」はどのように区別することができるのか。
この点、田渕氏は「日記の特質である一人称の語り」とも書かれていますが、一人称で書かれた作品の多くは「日記」であって「物語」ではないとしても、仮にある作品の作者が、一人称で書けば読者は「日記」だと思うだろうと予想して、そうした読者の錯覚を利用しようと画策したらどうなるのか。
田渕氏はそんなけしからぬことを考える女房は中世朝廷には存在しないという「性善説」に立たれているのでしょうが、私は疑り深い人間なので、そのような可能性を排除はしません。
ただ、私のような立場では、「自伝風の小説」を書く動機の説明が必要になるでしょうね。
ま、それはともかく、続きです。(p45)
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物語との近接では、たとえば『小夜衣』は『とはずがたり』と共通する表現を多数有しており、『小夜衣』の作者は雅忠女かという説もある。尊経閣文庫蔵の白描絵巻『豊明絵草子』の詞書の文章も、『とはずがたり』と表現の共通が多いことから、『豊明絵草子』作者が雅忠女という説、『とはずがたり』が『豊明絵草子』から摂取した説、その逆を想定する説など、種々の推測がある。この当否は見極め難く、むしろこれらの類似性は、『とはずがたり』と『小夜衣』『豊明絵草子』ほか多くの中世王朝物語が、あえて共通する構造・表現を形象する文学であることを物語るであろう。物語の制作・享受は同じ集団・文化圏の人々によって担われ、集団性・共有性が強い。物語の作者は、平安・鎌倉期では宮廷女性が中心であり、第一に女子教育のため、また愉楽のために、物語を日常的に制作・享受する女房たちであった。これら物語の作者は、勅撰集とは異なって作者名は記名されない。『源氏物語』など著名な平安期物語以外は、物語の作者は不明であり、プライオリティの意識はなく、改作はその時代にあわせて積極的に行われる。そして殆どは散逸し、ごく一部しか残らない。女房日記も同様であり、実用的な記録を含め、一般に、その殆どは散逸したとみられる。
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うーむ。
「女房日記も同様であり」とありますが、散逸した作品が多いであろうことは「同様」だとしても、日記の「作者は不明」ではないですね。
『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』『讃岐典侍日記』『弁内侍日記』『十六夜日記』『中務内侍日記』『竹向きが記』等、全て誰が書いたかはっきりしており、他人が勝手に自分の名前を使って日記を書くことを許さないという意味では「プライオリティの意識」は認められ、「改作はその時代にあわせて積極的に行われる」などということもありません。
また、「物語の制作・享受は同じ集団・文化圏の人々によって担われ、集団性・共有性が強い」のは一応認められるとしても、この点をあまり強調すると、一定の集団に属する女性なら誰が書いても同じ、という話にもなりそうです。
しかし、例えば『とはずがたり』の前斎宮エピソードなど相当個性的で、誰でも書けるレベルの作品とは思えません。
田渕氏の見解には私は基本的に賛成できず、特に『とはずがたり』には当て嵌まらないように感じます。
閑話
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E3%82%81%E3%81%A5%E3%82%8B%E5%A7%AB%E5%90%9B
亀山院の書は、虫めづる姫君ではないけれど、
昆虫(たとえば、カミキリムシ)の触覚みたいな字で、
散らし書きには見られぬ、昆虫標本のような整然とした
味わいがありますね。
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その2)
田渕句美子氏の学位は「お茶の水女子大学 博士(人文科学)」だそうですから、略称は「お茶の水博士」なのでしょうか。
国文学研究資料館を経て2008年から早稲田大学教授で、2020年には『女房文学史論 ―王朝から中世へ』(岩波書店)で第42回角川源義賞を受賞されており、女房文学については現在の国文学界の研究水準を体現されている方と言ってよいでしょうね。
早稲田大学研究者データベース
https://w-rdb.waseda.jp/html/100000647_ja.html
第42回角川源義賞【文学研究部門】受賞
https://www.kadokawa-zaidan.or.jp/kensyou/kadokawa/42th_kadokawa/winner01.html
さて、第四節には『とはずがたり』と『増鏡』の関係についての言及もあるので、冒頭から丁寧に見て行くことにします。(p44以下)
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四 記録する女房
女房日記は、宮廷の行事等を記録するという役割と機能をもつ。しかし『とはずがたり』は、中世女房日記としては稀なことに、宮廷の公的な諸行事についての記録が少なく、私的な出来事の記述が大半を占める。巻一から巻三の女房生活で儀式等を淡々と記録しているのは、東二条院の姫宮(後の遊義門院)御産の記事だけで、分量的にも多くはない。しかし作者は東二条院の女房でもあり、御産の記事を記すのは女房日記の重要な役割であり、一面では当然あるべき記述とも言える。
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いったん、ここで切ります。
東二条院が姫宮(遊義門院)を生んだのは文永七年(1270)九月十八日ですが、『とはずがたり』は文永八年八月の出来事としており、一年と一ヵ月ずれています。
『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9325
そして、『増鏡』にも『とはずがたり』の記述を若干簡略化した記事が載っています。
なお、『増鏡』でその誕生が詳細に描かれるのは、大宮院(1225-94)が生んだ後深草院(1243-1304)と、大宮院の妹、東二条院(1232-1304)が生んだ遊義門院(1270-1307)の二人だけですね。
「巻八 あすか川」(その11)─遊義門院誕生
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9324
続きです。
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巻三で、後深草院御所から追放された後に、大宮院から懇請されて北山准后九十賀に女房として加わる。『とはずがたり』はここで突然、九十賀を記録する長大な叙述(巻三の四分の一を占める)に変わる。これは鎌倉中期を代表する盛儀であるが、作者二条は祝賀を記録する女房に転身したかのようである。この記述の中で、「よろづあぢきなきほどにぞはべりし」「いつまで草のあぢきなく見渡さる」「かきくらす心の中は」「憂き身はいつもとおぼえて」など、華やかな祝宴への違和感をも記すが、それは『紫式部日記』などにもみられる筆致であり、基本的には記録的態度で叙述される。なお、『とはずがたり』は『実冬卿記』の別記『北山准后九十賀』を参照したとされてきたが、小川剛生により、これは「次第」(有識の公卿が作成してあらかじめ参列者に配るもの)に基づいて記しているからであり、「室礼や儀式の記述が、『とはずがたり』『実冬卿記』『実躬卿記』『宗冬卿記』の四者でしばしば近似するのは、同一の次第に取材していることにかかり、互いに依拠関係があったのではない」ことが論証されている。このような北山准后九十賀の記は、『とはずがたり』の中でやや異質に見えるが、これを包含していることこそが、女房の文化的役割の多様性、女房日記の複層性を示すものであろう。
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北山准后・四条貞子(1196-1302)は後深草院二条の母方の祖父・四条隆親の同母姉で、西園寺実氏室となり、大宮院・東二条院を産んだ女性です。
彼女は百七歳という驚異的な長寿の人ですが、九十歳の祝賀行事をしてもらったのは弘安八年(1285)のことですね。
「序章 北山の准后 貞子の回想」(その1)(その2)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9159
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9161
『とはずがたり』には、北山准后九十賀の様子がうんざりするほど詳細に描かれています。
また、『増鏡』にも長大な記事がありますが、こちらは『増鏡』の中でも単一エピソードとしては最長の記事ですね。
私は以前、『とはずがたり』と『増鏡』の北山准后九十賀の記事を比較してあれこれ検討したことがあるのですが、『とはずがたり』の記事そのものを確認するためには旧サイトの「原文を見る−『とはずがたり』」が便利かと思います。
ま、これも途中までですが。
http://web.archive.org/web/20150516032839/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa-index.htm
>筆綾丸さん
是澤恭三は亀山院の書風について、
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つぎに大覚寺統の亀山天皇は、はじめは弘誓院教家の風を学ばれ、ついで世尊寺流を学ばれた。教家は後京極流の祖である良経の子で、良経の弟左大臣良輔に養われて子となり、大納言、皇后宮大夫などになつている。実父良経と並んで能書の聞えが高かつた。入木抄にもそのことが見えているが、書風は法性寺流の余風であると評されている。天皇は御兄の後深草天皇とは異つて御性格も俊敏溌剌としておられ、文藻に長じ材芸に富まれて、修業も進んでその書風も法性寺、弘誓院、あるいは世尊寺の風体から脱せられ、よほど闊達な一流を出されているのである。南禅寺蔵の禅林禅寺起願文案(挿43)は永仁七年(1299)の染筆で、正本は焼失して案文の方のみ残つたのである。しかもこれも下辺が焼損じて漸く火難を免れたものである。禅林禅寺というのは、のちの南禅寺のことで天皇落飾後これを離宮とせられ、ついで禅院とされたのである。この起願文案には右に述べた御性格が明かに察せられる。
http://web.archive.org/web/20090715111559/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/koresawa-kyozo-ryotonoshofu.htm
などと言われていますね。
良く言えば自由闊達、悪く言えば我儘な書風ということでしょうか。
鼠と麒麟の足跡
小太郎さん
道草ばかりで恐縮ですが。
ご引用の是澤恭三氏の文に、伏見天皇の仮名書きは自らの書流で、
「道風や行成のものは、ちくちくしたり、鼠の足跡の様であるが、それを続き具合も美しく如何にも豊潤で気品高雅である。」
とあります。
(注:「それを続き具合も」は、「その継ぎ具合も」か、「それを継ぎ、具合も」か、「仮名の続き具合」か、意味不明)
ちくちくして鼠の足跡のような字体を継承して発展させると、なぜ、美しく豊潤で気品高雅な字体、たとえば、麒麟の足跡のように凛とした字体になれるのか、ギャップがありすぎて、ほとんど理解不能です。
小松茂美『天皇の書』を見ると、伏見院の仮名書きは後鳥羽院の仮名書きに似ているように思われる。後鳥羽院のほうが格段に能筆ですが。
蛇足
姫の前は堀田真由。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1730f65565fb22ffe3963d8d879e167ce109430d
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その3)
北山准后九十賀は『とはずがたり』『増鏡』その他の史料を詳しく比較検討して行くと面白いことが多くて、私も以前、それなりに熱心に取り組んでみたのですが、今から振り返ると、些か袋小路に踏み込んでしまっていたようなところもなきにしもあらずです。
関連する投稿を紹介すると、それだけで大変な分量となってしまうので、興味を持たれた方は次の記事のリンク先などを見てください。
再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10164
ということで、続きです。(p46)
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また阿部泰郎は、『とはずがたり』が、作者の父系・母系それぞれの栄光ある先祖、すなわち源通親の『高倉院厳島御幸記』『高倉院昇霞記』で描かれた王の死の記を象り、また四条隆房の『艶詞』の小督の物語を、また九十賀記は『安元御賀記』を意識していることを指摘する。『とはずがたり』全体に、前述の自家の歌業への誇りに留まらず、家門意識が網の目の如く張り巡らされているのであろう。
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私は独特の玄妙な言い回しを多用される阿部泰郎氏(名古屋大学名誉教授、龍谷大学教授)とは相性が悪くて、阿部氏の言われることにはあまり賛成できないのですが、ここは一般論としては別に間違いというほどのこともないでしょうね。
さて、この後、『増鏡』との関係が論じられます。
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『とはずがたり』は上皇の間近にいた女房による女房メディアの宮廷史であり、ゆえに『増鏡』に流れ込む。たとえば、平安期の『栄花物語』(巻八・初花)には、『紫式部日記』冒頭から敦成親王誕生記事がそのままの順序で長大に取り入れられていること等から、『栄花物語』は多数の女房日記・記録を吸収して編集されたと考えられている。つまりは女房メディアそのものである。これと同様に、『増鏡』が資料として吸収する日記の一つが『とはずがたり』である。ゆえに『増鏡』には、『とはずがたり』作者の姿が相対化されて描きこまれることにもなる。『増鏡』では、雅忠女は「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」(第九・草枕)、「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」(第一〇・老の波)と記されるだけで、上皇に仕える女という位置以外の私的な面は一切捨象されている。
また、『増鏡』(第一一・さしぐし)には、正応元(一二八八)年、東御方所生の伏見天皇に入内する西園寺実兼女の※子(後の永福門院)に、女房として奉仕する雅忠女が見える。「出車十両、(中略)二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける」とあり、三条という女房名に屈辱を感じて嘆く姿が描かれる。この記事は現存の『とはずがたり』にはないが、こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難く、『とはずがたり』の散逸した部分である可能性が高いであろう。さらには、憶測であるが、この『増鏡』の入内記事の一部は、現存しない『とはずがたり』に拠ったものかもしれない。
※「金」偏に「章」
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『増鏡』巻九「草枕」で二条が「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」として登場する場面は共通テストに出題された箇所ですね。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その15)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11167
巻十「老の波」で「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」が登場する箇所は、
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弥生の末つ方、持明院殿の花盛りに、新院わたり給ふ。鞠のかかり御覧ぜんとなりければ、御前の花は梢も庭も盛りなるに、ほかの桜さへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけがたう見ゆ。上達部・殿上人いと多く参り集まる。御随身・北面の下臈など、いみじうきらめきてさぶらひあへり。わざとならぬ袖口ども押し出だされて、心ことにひきつくろはる。
寝殿の母屋〔もや〕に御座〔おまし〕対座にまうけられたるを、新院いらせ給ひて、「故院の御時、定めおかれし上は、今更にやは」とて、長押〔なげし〕の下へひきさげさせ給ふ程に、本院出で給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座をこそなほされ侍りけるに、今日のみゆきには、御座〔おまし〕をおろさるる、いと異様に侍り」など、聞え給ふ程、いと面白し。むべむべしき御物語は少しにて、花の興に移りぬ。
御かはらけなど良き程の後、春宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、また上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀〔しろがね〕の御杯〔つき〕、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9469
というもので、なかなか華麗な場面ですね。
ここも『とはずがたり』が大幅に「引用」されていますが、文章は『増鏡』の方が上品な雰囲気になっています。
想定されている時期の設定なども違っていますね。
『とはずがたり』に描かれた「持明院殿」蹴鞠(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9470
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9471
「持明院殿」考
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9473
巻十一「さしぐし」で二条が「三条という女房名に屈辱を感じて嘆く姿」が描かれた箇所は『とはずがたり』と『増鏡』の関係を考える上で非常に重要なので、別途詳しく検討します。
「御賀次第」の作者・花山院家教
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9864
是澤恭三氏(1894-1991)
>筆綾丸さん
>「それを続き具合も」
これは私の写し間違いかもしれないですね。
是澤氏のお名前で検索しても良い記事はなく、「インターネットアーカイブ」の私の記事の略歴が一番詳しいような感じもします。
ま、これは一般の検索ではヒットしませんが。
http://web.archive.org/web/20090524114017/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/koresawa-kyozo-shotojinbutu01.htm
もう少し詳しいものがないかなと思って、『日本史研究者辞典』(吉川弘文館、1999)を見たところ、これには載っていました。
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是沢恭三(これさわ きょうぞう) 一八九四-一九九一。
文化庁文化財保護委員会美術工芸課書跡調査担当。
一八九四年(明治二七)一二月二六日、愛媛県西宇和郡神山村(現、八幡浜市)に生まれる。一九二〇年(大正九)、国学院大学文学部国史科卒業。二一年、宮内省図書寮に入り、編修官補、掌典補(兼任)、編修官を歴任。四七年(昭和二二)、国立博物館(現、東京国立博物館)に移る。五〇年、文部省文化財保護委員会美術工芸課書跡調査担当。六〇年、同定年退官。六六年、淑徳大学社会福祉学部教授。七〇年、同退職。一九九一年(平成三)二月九日没、九六歳。社寺の文化財調査や天皇宸翰調査を進めた。
《主要業績》『重要文化財会津塔寺八幡宮長帳』(心清水八幡神社、一九五八)、『見ぬ世の友』(出光美術館、一九七三)
《追悼文》山本信吉「是沢恭三氏の訃」(『日本歴史』五一五、一九九一)
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終戦の前年、「紀元二千六百年奉祝会」が出版した超豪華本、『宸翰英華』の「宸翰英華編纂出版事業経過概要」には、大勢の「委員」の一人として「宮内省図書寮御用掛 是沢恭三」の名がありますが、この経歴からすると、是沢氏は同事業にも相当深く関わっているような感じがしますね。
「宸翰英華編纂出版事業経過概要」
http://web.archive.org/web/20090514085027/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneika-jigyokeika-gaiyo.htm
>姫の前は堀田真由。
私の長澤まさみ、ナレーターと二役説は穿ち過ぎでした。
『鎌倉殿の13人』における「姫の前」の不在
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11090
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その4)
『増鏡』で「久我大納言雅忠の女」が「三条という女房名に屈辱を感じて嘆く」場面、「こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難」いのは確かですが、そもそも女房名が気にくわないみたいな、当人以外にはどうでも良いような話が何故に『増鏡』に登場するのか。
「『増鏡』が資料として吸収する日記の一つが『とはずがたり』」ですから、「三条」云々の記述が「『とはずがたり』の散逸した部分」に存在していた「可能性」は否定できません。
しかし、資料に書いてあるからといって、それらを何でもかんでも採用したら収拾がつかなくなりますから、『増鏡』作者は当然に個々の情報の重要性を勘案して、不要なものはバッサバッサと切り捨てたはずです。
それなのに、『増鏡』にはこんな当人以外にはどうでも良い、つまらない話が何故に採用されたのか。
ま、これは田渕氏に質問しても、納得できる回答は得られそうもない感じですね。
その他、田渕氏の見解には種々疑問が生じますが、まずは田渕説を一通り見ておくことにします。
ということで、続きです。(p47)
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『とはずがたり』には巻一から巻五までのあちこちに、現存の『とはずがたり』以外の部分の存在を示唆する記述が、断片的に見出される。例えば「むばたまの面影は別に記しはべれば、これには漏らしぬ」(巻一)は、別に記したと明記している。また「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」(巻二)は「有明の月」(性助法親王)から求愛された時のことを回顧するが、こうした記述は当該箇所にみられない。またこの少しあとに「雪の曙」が文中に現れるが、「雪の曙」西園寺実兼は、巻一冒頭から主要人物として登場しているのに、ここに唐突にこの名が出現している。また准后九十賀の歌会(巻三)で、後宇多天皇、亀山院、東宮らの歌を書き記したあと、「このほかのをば、別に記し置く」とあり、別に和歌をまとめて書き置いたことが記される。また自身の出家時のことを回想し、「一年今はと思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに……」(巻四)とあるが、出家時の記述は現存の『とはずがたり』にはなく、不自然である。さらに、八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり、「本のまま、ここより紙を切られて候」というような書き入れがある。
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いったん、ここで切ります。
「むばたまの面影は別に記しはべれば、これには漏らしぬ」は、文永十年(1273)正月、十六歳になったばかりの二条の年頭所感として出てきます。
『とはずがたり』の出来事を年表にすると、前年の文永九年は本当に忙しい年で、まず正月に後嵯峨院が重態となり嵯峨に移ると、翌二月十五日、二月騒動で北条時宗の異母兄・六波羅南方の北条時輔が討たれ、二条は嵯峨から六波羅付近に立ち上る煙を見ます。
そして二日後の十七日に後嵯峨院崩御となり、葬送儀礼が続きます。
父・雅忠は出家を願うも許されず、五月に病気になって、六月には二条の第一子懐妊が分かり、七月、後深草院が雅忠を見舞うも、翌八月三日に雅忠死去。
十月、妊娠中の二条は乳母の家で「雪の曙」実兼と契り、同月、「母方のうば」が死去。
十一月末、二条は御所を退出、醍醐の勝倶胝院に籠もりますが、十二月二十日過ぎ、後深草院御幸があり、続いて「年の残りも、いま三日ばかり」の厳寒の時期、しかも吹雪の最中に「雪の曙」の来訪となり、「今日はぐらし九献にて暮れぬ」となります。
次いで乳母が迎えに来たので京に帰ると、年が明けます。
そして、十六歳になった二条は、
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よろづ世の中もはえなき年なれば、元旦・元三の雲の上もあいなく、私の袖の涙もあらたまり、やる方もなき年なり。春の初めにはいつしか参りつる神の社も、今年はかなはぬことなれば、門の外まで参りて、祈誓申しつる志より、むば王の面影は、別に記し侍ればこれにはもらしぬ。
【次田香澄訳】すべて世の中も(諒聞で)晴々しくない年であるので、元日や三ガ日の宮中も味気なく、私自身の父の喪の悲しみも、新年とともに新たに思い出され、心の晴らしようもない年である。新春の初めにはいつもさっそくお参りしていた石清水八幡宮も、今年はそれがかなわないことであるから、門の外まで参って祈請申しあげた心の内をはじめ、夢想に見た面影については、別に記したのでここには書かない。
http://web.archive.org/web/20061006205728/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-25-yukinoakebonoraiho.htm
という感想を述べます。
「むば王の面影は、別に記し侍ればこれにはもらしぬ」は、まるで多作の流行作家が、その話は『とはずがたり』とは別の作品に書いたからそちらを見てね、とでも言っているような感じがして、田渕氏の言われるように「現存の『とはずがたり』以外の部分の存在を示唆する記述」かどうか、私は疑問を感じます。
それにしても、正月にこの感想を述べた二条は、翌二月十日頃、後深草院の皇子を出産するので、前年末、醍醐に籠もって後深草院、次いで「雪の曙」を迎え、後者とは終日酒盛りをしていた、というのは妊娠八か月の出来事です。
十五歳の初産の女性が厳寒期に醍醐のような「山深き住まひ」に行くこと自体が相当に異常な話だと思いますが、そこに夫と愛人が相次いで訪問、後者とは終日酒盛りというのはなかなかシュールな展開です。
まあ、私は『とはずがたり』は自伝風の小説と考えているので、どんなに忙しいスケジュールだろうと、どんなにシュールな展開だろうと別に困らないのですが、田渕氏は、『とはずがたり』には多少の虚構が含まれるにしても、あくまで「女房日記」という立場ですから、これらも基本的には事実の記録とされるのでしょうね。
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その5)
田渕氏は「また、「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」(巻二)は「有明の月」(性助法親王)から求愛された時のことを回顧するが、こうした記述は当該箇所にみられない」と言われますが、これはちょっと不可解な記述で、田渕氏の誤解ではないかと思われます。
まず、「一昨年の春三月十三日に」云々とある部分は「女楽事件」で御所を出奔した二条が、再び醍醐の真願房のもとに行く場面に出てきます。
「女楽事件」から始めると話が長くなってしまいますが、それを話さないと訳が分からないので簡単に説明すると、建治三年(1277)三月、後深草院が『源氏物語』の六条院の女楽の真似をする行事を企画し、二条は「明石の上」という冴えない役を演ずることになります。
それだけでも不満なのに、この頃、晩年の娘「今参り」を贔屓するようになっていた二条の祖父・四条隆親が、行事の最中、二条が「今参り」の下座になるように位置の変更を要求し、屈辱を感じた二条は御所を飛び出し、行方不明になってしまいます。
ちなみに、この時、二条は後深草院の子を妊娠していて、三・四ヵ月くらいなのだそうで、子供を産んだら出家しよう、などとも考えます。
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その3)─「隆親の女の今参り」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9345
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その4)─「こは何ごとぞ」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9346
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その5)─「宣陽門院の伊予殿」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9347
そして二条は、何でこんなことになってしまったのだろう、と思案し、その原因を「有明の月」に求めます。
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つくづくと案ずれば、一昨年の春、三月十三日に、はじめて「折らでは過ぎじ」とかや承り初めしに、去年の十二月にや、おびたたしき誓ひの文を賜はりて、幾ほども過ぎぬに、今年の三月十三日に、年月候ひなれぬる御所のうちをも住みうかれ、琵琶をも長く思ひ捨て、大納言かくれて後は親ざまに思ひつる兵部卿も、快からず思ひて、「わが申したることをとがめて出づるほどのものは、わが一期にはよも参り侍らじ」など申さるると聞けば、道とぢめぬる心地して、いかなりけることぞといと恐ろしくぞ覚えし。
【私訳】つくづくと思えば、一昨年の春、三月十三日に、有明から初めて「折らでは過ぎじ」という言葉があったが、去年の十二月には恐ろしい起請文のお手紙をいただいて、いくらも過ぎないうちに、今年の三月十三日、長い年月仕え慣れた御所からも出てしまい、琵琶をも一生思い切り、父大納言が亡くなってからは親のように思っていた兵部卿(隆親)も私を快からず思って、「私が申したことを咎めて出て行った者ですから、私の生きている間は、よもや御所には参りますまい」などと申されていると聞けば、どこも道が途絶えたような心地がして、いったいどうしたことだったろうと、まことに恐ろしく思われた。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9348
つまり、「一昨年の春、三月十三日」に仁和寺御室の「有明の月」(九条道家男の開田准后法助説と後深草院の異母弟の性助法親王説あり。田渕氏を含む国文学者の多くは後者)から唐突に恋の告白を受け、ちょうど二年後の「今年の三月十三日」に御所出奔という事態になったのだから、全ては「有明の月」が悪いのだ、ということですね。
ここで「有明の月」との関係を中心に少し整理すると、二条は正嘉二年(1258)生まれなので建治三年(1277)には二十歳です。
ただ、文永十年(1273)二月、十六歳のときに後深草院皇子を生み、同年末に愛人の「雪の曙」の子を妊娠して、翌文永十一年九月にその女児を産んでいるので、既に妊娠も三回目ですね。
また、「雪の曙」との間に女児が生まれた翌月には前年生んだ後深草院皇子が死去し、二条は出家行脚を思ったとありますので、出家を思い立つのもこれが二度目です。
そして建治元年(1275)三月十三日、「有明の月」が二条に言い寄ってくるのですが、このときは拒否します。
次いで同年九月、後深草院が病気となり、延命供の祈禱のために御所に来た「有明の月」と二条は関係を持ち、その後も文通を重ねるのですが、建治二年九月、「有明の月」のしつこさが嫌になって絶交を通告すると、三ヵ月後に「有明の月」から不気味な起請文が贈られてきます。
これが「おびたたしき誓ひの文」のことですね。
ということで、後深草院二条は建治三年(1277)には二十歳に過ぎませんが、既に妊娠は三回目、子供は二人(皇子は既に死去)、夫が一人で愛人二人、出家希望も二度目となかなか人生経験は豊富です。
さて、「一昨年の春、三月十三日」の様子は次の通りです。
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かくて三月の頃にもなりぬるに、例の後白河院御八講にてあるに、六条殿長講堂はなければ、正親町の長講堂にて行はる。結願十三日に御幸なりぬる間に、御参りある人あり。「還御待ち参らすべし」とて候はせ給ふ。二棟の廊に御わたりあり。
参りて見参に入りて、「還御は早くなり侍らん」など申して、帰らんとすれば、「しばしそれへ候へ」と仰せらるれば、何の御用ともおぼえねども、そぞろき逃ぐべき御人柄ならねば、候ふに、何となき御昔語り、「故大納言が常に申し侍りしことも、忘れず思し召さるる」など仰せらるるも、なつかしきやうにて、のどのどとうち向ひ参らせたるに、何とやらん思ひの外なることを仰せられ出だして、「仏も心きたなき勤めとや思し召すらんと思ふ」とかや承るも、思はずに不思議なれば、何となくまぎらかして立ち退かんとする袖をさへ控へて、「いかなるひまとだに、せめてはたのめよ」とて、まことにいつはりならず見ゆる御袖の涙もむつかしきに、還御とてひしめけば、引き放ちまゐらせぬ。
思はずながら、不思議なりつる夢とやいはんなど覚えてゐたるに、御対面ありて、「久しかりけるに」などとて九献すすめ申さるる、御配膳をつとむるにも、心の中を人や知らんといとをかし。
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少し長くなったので説明は次の投稿で行いますが、「何とやらん思ひの外なることを仰せられ出だして」とあるので、初対面の高僧「有明の月」がいきなり二条に恋心を告白したことは明らかです。
そして、これを受けて二条は二年後に、「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」と言っている訳で、「思ひの外なること」と曖昧だった「有明の月」の発言が、具体的には「折らでは過ぎじ」だったと判明する訳ですね。
ただ、発言のおおよその内容は既に明らかなので、田渕氏のように「こうした記述は当該箇所にみられない」と言うのは変です。
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その6)
初登場の「有明の月」がいきなり二条に恋の告白をする場面、私訳も紹介しておきます。
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【私訳】このようにして三月のころともなると、例の後白河院の法華八講の法会である。六条殿の長講堂は、今は焼けてないので、正親町の長講堂で行われた。結願の十三日に後深草院が長講堂へ行かれた留守に、御所へおいでになった方(有明の月)があった。
「御帰りをお待ちいたしましょう」
と、そのままお待ちなさるということで、二棟の廊の間においでになる。
私が参ってお目にかかり、
「間もなくお帰りになりましょう」
などと申して帰ろうとすると、
「暫くここにいなさい」
とおっしゃるので、何の御用とも分からないけれども、いいかげんなことを言って逃げてよいようなお人柄ではないので、控えていると、とりとめのない昔話の中で、
「(お父上の)故大納言が常々言っておられたことも、忘れずに思っています」
などおっしゃられるのも懐かしい気持ちがして、のどかに向かい合っていると、何であろうか、思いのほかのことを仰せ出されて、
「御仏も心汚いお勤めと思召すだろうと思う」
などと言われるのを聞くにつけても、心外で不思議であるので、何となく誤魔化して立ち去ろうとする袖をさえ押さえて、
「どんな暇にでも逢おうと、せめて約束してくれ」
とおっしゃって、本当に偽りではなさそうに見えるお袖の涙も面倒に思われたところ、院の還御とのことで騒がしくなったので、無理に引き放し申し上げた。
思いがけないことながら、不思議な夢だったとでもいおうか、などと思いながら控えていると、院とその方が御対面となって、
「久しぶりのお出でですので」
などといってお酒をお勧めになる、その御給仕を勤めるにつけても、私の心の中を誰が知ろうかと、まことに面白かった。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9483
ちょっと細かくなりますが、『とはずがたり』の時間の流れは史実に照らすと変なことが多いものの、この場面の後、四月に長講堂の移徙の場面があって、ここは文永十二年(建治元年、1275)の出来事と考えて不自然ではありません。
六条殿の持仏堂である長講堂は、文永十年(1273)十月十二日の大火で、六条殿・六条院・佐女牛若宮八幡宮等とともに焼失します。
ただ、持明院統の経済的基盤である荘園群が長講堂領と呼ばれたように、長講堂は極めて重要な寺院なので、六条殿・長講堂は直ぐに再建が図られ、文永十二年四月十三日、後深草院が六条殿に移徙を行い、二十三日には長講堂供養が行なわれます。
その直前、四月九日に後深草院は尊号・兵仗辞退のデモンストレーションをしているので、たまたま時期が重なったとはいえ、長講堂の再建は持明院統の存在を幕府に強くアピールする効果はあったでしょうね。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11164
ま、私は「有明の月」が実在の人物であったかすら疑っていますが、この種の背景へのこだわりは『とはずがたり』のリアリティを支える一要素になっていますね。
「有明の月」は実在の人物なのか。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9380
三角洋一氏「『とはずがたり』解説」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9381
さて、田渕論文に戻ると、北山准后九十賀の場面で「このほかのをば、別に記し置く」とあるのは次の場面です。
ここも詳しく論じ始めるとキリがないので、紹介のみに止めます。
『とはずがたり』に描かれた北山准后(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9852
また、田渕氏は「自身の出家時のことを回想し、「一年今はと思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに……」(巻四)とあるが、出家時の記述は現存の『とはずがたり』にはなく、不自然である」と言われますが、『とはずがたり』の巻三は弘安八年(1285)の北山准后九十賀で終わっていて、巻四は正応二年(1289)に始まるので、この間、丸々三年間の記事が欠落しています。
出家時の記述だけが何かの理由で「不自然」に欠落している訳ではないので、「不自然」と主張されるなら、むしろ三年分の欠落をそう呼ぶべきではないかと私は考えます。
なお、この回想は石清水八幡で後深草院と再開する場面に出て来て、これは前後の記事との関係から正応四年(1291)二月頃の話とされています。
http://web.archive.org/web/20150909225511/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-15-iwashimizu.htm
ところで、田渕氏は「八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり、「本のまま、ここより紙を切られて候」というような書き入れがある」とされますが、この種の「書き入れ」は二箇所ではなく、巻四の一箇所を含め、合計四か所ですね。
最初は巻四で、正応二年(1289)、鎌倉で新将軍・久明親王を迎える準備をしていた平頼綱とその奥方に、適切なアドバイスをしたあげた後、
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やうやう年の暮にもなりゆけば、今年は善光寺のあらましも、かなはでやみぬと口惜しきに、小町殿の、これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて。のほるにのみおぼえて過ぎ行に、飯沼の新左衛門は歌をも詠み、数奇者といふ名ありしゆへにや、若林の二郎左衛門といふ者を使ひにて、度々呼びて、継歌などすべきよし、ねんごろに申しかば【後略】
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9532
とあって、「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」が「書き入れ」部分です。
次に巻五で、嘉元二年(1304)、後深草院の発病を知った二条が西園寺実兼に頼んで院を見舞う場面に、「本のまま。ここより紙を切られて候。おぼつかなし。紙の切れたる所より写す」という「書き入れ」があります。
http://web.archive.org/web/20150909222841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-8-gofukakusain-hatubyo.htm
三番目は後深草院崩御の後、九月十五日から東山双林寺で懺法を始めた場面に、
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かり聖やといひて、料紙・水迎へさせに横川へ遣はすに、東坂本へ行きて、われは日吉へ参りしかば、むばにて侍りし者は、この御社にて神恩をかうぶりけるとて、常に参りしに具せられては、 ここよりまた刀にて切りてとられ候。かへすがへすおぼつかなし。【後略】
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とあって(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p404以下)、「ここよりまた刀にて切りてとられ候。かへすがへすおぼつかなし」が「書き入れ」です。
そして四番目は、全五巻の最後、「跋文」に、「本云 ここよりまた刀して切られて候。おぼつかなう、いかなることにかとおぼえて候」という「書き入れ」があります。
http://web.archive.org/web/20081224002017/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-19-batubun.htm
田渕氏は「八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり」と言われますが、ちょっと理解しにくい書き方ですね。
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その7)
『とはずがたり』の巻四・巻五に計四か所、奇妙な「書き入れ」があることは、『とはずがたり』の基本的性格が「女房日記」か、それとも自伝風小説かを考える上で、私にはけっこう大事なことのように思われますが、巻五に二箇所だけと誤解されている田渕氏は、さほど重視はされていないようですね。
さて、続きです。(p47以下)
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『とはずがたり』には円環的で周到な表現構造があり、最終的には作者の構想によって全体が整除されまとめられたと思うが、その母胎となった草稿は、長年にわたる、多様で断片的な記の集成であったのではないか。そうしたものがなければ、かくも長年にわたる出来事・生涯を回想した女房日記が書けるはずはない。平安・鎌倉期にもそれ以後も、女房の手元には、宮廷女房生活で必要な、日々の記録や覚書、公事・雅宴等の記録や別記など、そして公私の和歌の詠草や消息などが、常に保存・蓄積されていたに違いないのである。これは回想的な女房日記全般について言えることであるが、こうした草稿群から選ばれて推敲と編集を重ねた結果が、現『とはずがたり』に近いものではないか。脱落や流動も考えられる。一方ではすべてが事実ではなく、物語を象った表現、意図的な虚構やずらし、韜晦もある。旅の記も記録的な紀行文ではなく、虚構や説話が織り交ぜられている。
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田渕氏の基本的姿勢として、田渕氏は『とはずがたり』が他の「女房日記」と類似する部分を強調する傾向が強いですね。
ただ、日々の記録を淡々と記すのではなく、「円環的で周到な表現構造があり、最終的には作者の構想によって全体が整除されまとめられ」ていて、「すべてが事実ではなく、物語を象った表現、意図的な虚構やずらし、韜晦も」あり、「虚構や説話が織り交ぜられている」のであれば、仮に「女房日記」だとしても、他の「女房日記」とは相当に異質な要素を持っていそうです。
以上で第四節は終わり、第五節に入ります。(p48)
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五 君寵と女房
二条が後深草院御所から追われて約九年後、伏見の御所で後深草院に再会する(巻四)。そこで二条は、出家後においても、以下のように思ったことを告白している。
思はざるほかに別れたてまつりて、いたづらに多くの年月を送り迎ふる
にも、御幸・臨幸に参り会ふ折々は、いにしへを思ふ涙も袂をうるほし、
叙位・除目を聞く、他の家の繁昌、傍輩の昇進を聞く度に、心を痛まし
めずといふことなければ、……
今は出家して諸国を旅する身だが、叙位・除目などの情報は常に入手し、宮廷社会の動向を見、栄達した人と我が身を比べては嘆いていたことが窺われる。そして院と別れた後、次の如く反芻する。巻四最後に近い部分である。
昔より何事もうち絶えて、人目にも、「こはいかに」などおぼゆる御も
てなしもなく、「これこそ」など言ふべき思ひ出でははべらざりしかど
も、御心一つには、何とやらむ、あはれはかかる御気のせさせおはしま
したりしぞかしなど、過ぎにし方も今さらにて、何となく忘れがたくぞ
はべる。
巻一・二では、自分が院の寵愛のもとで光輝ある女房であったことをさまざまに語る。しかしそれは一時的なもので、恐らくは生んだ皇子の夭折が決定的に影響して、結局は格別な恩顧は得られなかったことを、自ら総括している。長く続く寵幸と庇護、つまり宮廷で確固たる地位を与えられなかったことは、雅忠女を深く傷つけていたのではないか。
『とはずがたり』巻一で、東三条院【ママ】が二条のふるまいを非難する書状を送ってきた時、後深草院は二条を擁護する長文の返事を送ったと、作者は語っている。その中で後深草院は、雅忠の遺言等にも触れて二条を自分が庇護すべきことを強調し、たとえ二条に何か問題があったとしても、「御所を出だし、行く方知らずなどは候ふまじければ、女官風情にても召し使ひ候はむずるに候ふ」と述べたと言う。下級の「女官風情」という語がここにあることは興味深い。名門の誇り高い上臈女房二条でも、庇護する家や後援者がいなければ、転落は常に起こり得たのである。しかし院は、雅忠への約束もこの言葉も守らなかった。
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「東三条院」は「東二条院」の誤植ですね。
「女官風情」云々は共通テストに出題された前斎宮の場面のすぐ後に登場するので、既に検討済みです。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その8)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11157
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いふかひなき北面の下臈ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん。さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰し候ふべく候ふ。さりといふとも、御所を出だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9433
後深草院がここまで一方的に二条に加担し、東二条院への配慮を欠いた手紙を出せば大変なトラブルに発展するはずなので、『とはずがたり』のような個性的な作品以外の堅実な史料から窺える、万事に慎重な後深草院の性格からすれば、私にはこれが史実とは思えません。
しかし、田渕氏は「しかし院は、雅忠への約束もこの言葉も守らなかった」と書かれているので、「雅忠への約束」と二条への約束はいずれも事実だと考えておられるようですね。
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その8)
前回投稿で「東三条院」は「東二条院」の誤植、と書いてしまいましたが、活版印刷で植字工が誤った活字を組んでしまうようなことは遥か昔の話ですから、「誤植」も死語になりつつあるのでしょうか。
『歴史評論』も、論文の著者がパソコンで作成したデータを編集者に送付する形になっていると思いますので、途中での誤変換は考えにくく、田渕氏自身が「東三条院」と書いたということですかね。
ま、それはともかく、続きです。
再び「東三条院」が登場しますね。(p48)
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後深草院の正后東三条院【ママ】と並んで『とはずがたり』に多く登場する東御方(愔子)は、左大臣洞院実雄女、のちの玄輝門院である。後深草院後宮では妃に準ずる地位を与えられ、その寵愛は長く続き、熈仁親王のほか、性仁法親王(二品・御室)、久子内親王(永陽門院)を生む。熈仁は建治元(一二七五)年に親王宣下を受け、後宇多天皇の東宮となり、弘安一〇(一二八七)年、践祚して伏見天皇となった。
東御方(愔子・玄輝門院)が国母・女院という最高の地位に至ったのに対して、雅忠女は、正応元(一二八八)年には前述の如く、愔子所生の伏見天皇に入内する※子に供奉する一女房であった。家柄・出自としては、東御方と雅忠女にさほどの隔たりはなく、後深草院の寵愛も一時は並ぶような二人であったのに、それは遠い昔のこととなった。こうしたことは宮廷ではしばしばあることとはいえ、玄輝門院の栄華や昔の記憶は、二条を深く苦しめたに違いない。それがまさしく「他の家の繁昌、傍輩の昇進を聞く度に、心を痛ましめずといふことなければ」にあたるとみられる。
※金偏に「章」
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いったん、ここで切ります。
「家柄・出自としては、東御方と雅忠女にさほどの隔たりはなく」とありますが、『とはずがたり』において、二条は東二条院とは犬猿の仲であったのに対し、東の御方とはとても仲が良かったように描かれています。
例えば巻二の「粥杖事件」では、
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女房の方にはいと堪へがたかりしことは、あまりにわが御身ひとつならず、近習の男たちを召しあつめて、女房たちを打たせさせおはしましたるを、ねたきことなりとて、東の御方と申しあはせて、十八日には御所を打ち参らせんといふことを談議して、十八日に、つとめての供御はつるほどに、台盤所に女房たち寄り合ひて、御湯殿の上のくちには新大納言殿・権中納言、あらはに別当殿、つねの御所のなかには中納言どの、馬道に真清水さぶらふなどを立ておきて、東の御方と二人、すゑの一間にて何となき物語して、「一定、御所はここへ出でさせおはしましなん」といひて待ち参らするに、案にもたがはず、思し召しよらぬ御ことなれば、御大口ばかりにて、「など、これほど常の御所には人影もせぬぞ。ここには誰か候ふぞ」とて入らせおはしましたるを、東の御方かきいだき参らす。
「あなかなしや、人やある、人やある」と仰せらるれども、きと参る人もなし。からうじて、廂に師親の大納言が参らんとするをば、馬道に候ふ真清水、「子細候ふ。通し参らずまじ」とて杖を持ちたるを見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ち参らせぬ。「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、よくよく御怠状せさせ給ひぬ。
http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm
という具合いに、東の御方が後深草院を羽交い絞めにして動けないようにした隙に、二条が後深草院の尻を粥杖で思い切りひっぱたいた、というような情景が描かれていて、二条と東の御方は、いわば女子プロレス仲間のような円満な関係ですね。
ところで、「後深草院の寵愛も一時は並ぶような二人であったのに」に付された注(10)を見ると、
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(10) 文永一一(一二七四)年、皇位継承への不満から、後深草院が太上天皇の尊号を返上し出家の意志を示す場面(巻一)で、お供して出家する人として「「女房には東の御方、二条」とあそばれしかば」とは記されている。
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とありますが、史実としては、後深草院が出家の意志表示をしたのは翌文永一二年(建治元年、1275)ですね。
ま、『とはずがたり』を信頼する田渕氏にとって、そんな「虚構」はどうでも良いことなのでしょうが。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その12)
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『とはずがたり』に描かれた後院別当の花山院通雅
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9406
さて、続きです。
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二条は、後深草院から性助法親王、鷹司兼平、亀山院に何らかの契機や目的で贈与される女房であり、その自分を『とはずがたり』にあえて描く。しかし持明院統と大覚寺統の厳しい緊張関係に身をおき、日々その対立を知る二条にとって、王命に従う以外、ほかにどんな道があったろうか。その不可抗力への嘆きがあるからこそ、性助法親王を、『源氏物語』で熱愛の末に身を破滅させた柏木に象って、物語的に描くのであろう。宮廷における自分の位置を顧みた時、それは前掲のように、「人目にも、「こはいかに」などおぼゆる御もてなしもなく、「これこそ」など言ふべき思ひ出でははべらざりしかども」という、苦い真実の追認となる。
『とはずがたり』がどれほど物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれようとも、その中心を貫くのは、雅忠女のこうした無念さ、それにつきるように思う。そしてそれは、院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たちの悲哀を象徴する言でもあると思われる。
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「二条は、後深草院から性助法親王、鷹司兼平、亀山院に何らかの契機や目的で贈与される女房」とありますが、『とはずがたり』には「有明の月」「近衛の大殿」が登場しているだけで、それが本当に性助法親王・鷹司兼平なのかは不明です。
しかし、田渕氏は、『とはずがたり』以外に裏づけとなる史料が存在しないにもかかわらず、「有明の月」「近衛の大殿」が歴史的に実在する人物と一致するものと断定されている訳ですね。
また、田渕氏は「しかし持明院統と大覚寺統の厳しい緊張関係に身をおき、日々その対立を知る二条にとって、王命に従う以外、ほかにどんな道があったろうか」と問われますが、例えば、「王命」に逆らって御所を出奔し、行方不明になって醍醐あたりに籠もる「道」もあったでしょうね。
そして、「院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たち」も確かに存在したでしょうが、出家後の二条は京都を離れて全国各地を旅行し、例えば霜月騒動後の恐怖政治の下にあった鎌倉でも、最高権力者である平頼綱やその奥方、息子の飯沼助宗らと楽しく交流していたようなので、二条を「当時の無数の宮廷女房たち」と一緒にしてよいのか、私は疑問を感じます。
とにかく、『とはずがたり』には「物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれ」ている部分が多すぎるので、何故に田渕氏が、『とはずがたり』を他の「女房日記」と同じ範疇に入れるのか、私には本当に不思議に思われます。
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その9)
いよいよ最後の部分です。(p49以下)
田渕氏も二条が美貌(自称)と教養を武器に、東国の最高権力者相手であっても堂々と振る舞い、全国各地を漫遊した活動力溢れる女性であることを認めてはいますが、どうにもその評価はしみったれていますね。
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そうした無念さを通奏低音としつつも、『とはずがたり』の最大の魅力は、自ら出家して宮廷外の世界にはばたいた作者雅忠女の自由な精神とひたむきな活力にあることも、また確かである。『とはずがたり』巻四・五には断片的に書かれるのみだが、恐らく宮廷での知己や元女房たちのネットワークを縦横に駆使し、自身の知識や教養を地方の人々に伝えつつ、自ら自在に、時には誰かの命を帯びて(鎌倉下向はそうであっただろう)、はるかな国々を巡った。その果てに後深草院と邂逅して絆を繋ぎ直し、やがては院の死を悲痛に描き、再び院の分身的存在となって院の後生をひたすら祈り、『とはずがたり』は後深草院と自身の鎮魂の物語へとまとめ上げられていくのである。
『とはずがたり』は、実に鮮やかに、女房の生涯、存在形態、意識、女房メディア、文化的役割などを語っている。女房は、宮廷社会の中で、その一員でありつつ、宮廷やその時代などを照らし出す存在となる。王権に密着し、王の分身ともなるが、時に疎外される枠外的存在である。強い家門意識をもつが、時に家からも疎外される。光があたる存在ともなり、光に寄り沿う黒子的存在ともなり、無名の影ともなる。主君に従う者でもあり、時に主君を導く者でもある。女房は、当事者であり、観察者・表現者であり、宮廷文化を共有・継承・運搬・伝達し、歴史と宮廷を語り伝え、やがては女房自身が語られる存在ともなる。
宮廷女房文学としての『とはずがたり』には、こうした女房のすべてが流れ込み、混淆して奏でられる交響楽のような作品であると言えよう。
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「光に寄り沿う黒子的存在」というのは、おそらく『増鏡』巻十一「さしぐし」に描かれた、
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出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9864
という場面のことかと思いますが、この場面の理解は『とはずがたり』と『増鏡』の関係を考える上で決定的な重要性を持ちますね。
さて、以上で田渕論文の紹介を終えましたが、田渕氏は『とはずがたり』に虚構が極めて多いことを認めつつも、『とはずがたり』が「女房日記」であるという立場は頑なに死守されておられます。
他方、私自身は、『とはずがたり』のストーリーを年表に落とすと史実との間に矛盾がやたらと生じること、また、二条は弘安二年(1279)に死去した祖父・隆親の死亡時期を、『とはずがたり』では後ろに四年もずらして弘安六年(1283)の出来事のように記すこと、そしてその際、実際には死んでもいない叔父・四条隆顕も既に死んでいるように書いていることなど、肉親の死ですら平然と捏造するタフな神経の持ち主であること等から、『とはずがたり』は話を面白くするためには叔父でも殺す、徹底した自伝風小説だと考えています。
善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
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四条隆顕の女子は吉田定房室
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「四条隆顕室は吉田経長の従姉妹」
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『とはずがたり』の年立
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『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9527
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9528
従って、私のチベットスナギツネのような目は、ある種の滑稽感とともに田渕氏の頑固さをじっと眺めているのですが、しかし、自伝風小説というのが、古代・中世の女房文学の中で、他に類例のない特異なジャンルであることも確かです。
そこで、旧サイト(『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について)時代の私のように『とはずがたり』を語る国文学者たちを一方的に冷笑するだけでなく、私の立場を積極的に支持してもらえるように工夫する必要があると感じています。
そのためには何をすべきか。
やはり私としては、作者が『とはずがたり』のような奇妙な自伝風小説を書いた動機をきちんと論証すべきではないか、と考えます。
この点、旧サイト時代の私には答えられない謎だったのですが、今の私は二条を西国の公家社会と東国の武家社会を自由に往還した政治的人間として捉えていて、その立場から一応の解答を提示できるのではないかと思っています。
宮城往復弾丸紀行
二日投稿を休んでしまいましたが、宮城県に直接出向かなければならない用事があって、23・24日と弾丸往復して来ました。
日本海側は大雪とのニュースがあったので、往路は念のため北関東自動車道・常磐自動車道を利用したところ、沿岸部は本当に雪が全くなくて、関東の平野部と同じような感覚でした。
距離的には北関東自動車道の東側、栃木都賀JCTから友部JCTまでの70キロメートル弱ほど長くなりますが、とにかく雪の影響がないので快適ですね。
日立中央PAから眺めた海は全くの春の雰囲気で、ひねもすのたりのたり感が漂っていました。
ただ、常磐道は日立近辺のトンネル連続区間がなんだか陰気な上、福島県に入ると若干天気が怪しくなり、四倉PAあたりから少し雪が舞い始め、意外と大変かもと思ったのですが、その後は晴れたり曇ったりという感じでした。
東日本大震災後、突貫工事で全通させた常磐道のいわき・亘理間には対面通行区間がけっこうあって、一応70キロ制限ですが、実際には100キロくらい出している車が多く、ちょっと恐いですね。
ほんの少し接触するだけでも大事故間違いなしです。
途中、山元ICで降りて、阿武隈川河口の内海状になった汽水湖・鳥の海の周りを、南側の吉田排水機場から北側の「わたり温泉鳥の海」まで、ぐるっと一周してみましたが、冬枯れの寂しい光景が続いていました。
鳥の海は何だかずいぶん浅くなってしまったような感じがしましたが、単に私が干潮時の鳥の海を知らなかっただけかもしれません。
日程に余裕がなかったので、結局、沿岸部で寄ったのは鳥之海だけでした。
復路は東北自動車道を使いましたが、蔵王付近は雪雲に覆われていたものの、高速道は綺麗に除雪されていて拍子抜けなほどでした。
それでも国見SAあたりは雪捨て場の雪が山のようになってしましたが、吾妻PAより南は雪がほんの僅か残っているだけで、少し高度がある那須高原SAも雪は殆ど皆無であり、これだったら往路も東北道にすればよかったなと思ったりしました。
今回は本当に忙しい日程でしたが、夏までにもう何回か訪問するかもしれないので、その時は久しぶりに三陸方面にも行こうかなと思っています。
鳥の海
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E3%81%AE%E6%B5%B7
わたり温泉鳥の海
http://www.torinoumi.com/
雑感
小太郎さん
https://www.gex-fp.co.jp/fish/blog/labo/product-development/gex-lab-20200502/
鳥の海のような汽水湖に棲息する魚は、海水と淡水の浸透圧の差をどのように調節しているのか、昔から興味があるものの、依然としてわからないままです(現在では、既に科学的に解明されているのかもしれませんが)。
『とはずがたり』より百年以上前に、『とりかへばや物語』という、すこぶる変態的な作品が書かれていて、この物語に関する著書もある河合隼雄氏は、自己言及の矛盾を突いて、真面目な話になると、きまって、私はウソしか申しません、と言っていたそうですが、『鎌倉殿の13人』を見ていて、三谷幸喜氏のモットーは、ボクはウソしか言いません、という自己言及的なシャレではないかな、と思うようになりました。
蛇足1
元俳優のゼレンスキー大統領の悲愴な姿を見ていて、信玄の死後、信玄の影武者が信玄以上に信玄的になる『影武者』(黒澤明)を思い出しました。
蛇足2
https://www.nhk.jp/p/ts/3J3Z1P6NY5/
本日の『雲霧仁左衛門5』の第7回「大奥の抜け道」では、火付盗賊改(悪党)が三つ鱗の紋服を着ていて、なるほど、これは『鎌倉殿の13人』の北条氏への嫌がらせなんだね、と思いました。時代考証は近世史が専門の故・山本博文氏ですが。
「被害者としての女性史」の限界
1997年に開設し、2015年まで存続していた私の旧サイト「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」は、今は「インターネット・アーカイブ」で読むことができます。
http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/
『とはずがたり』関係の参考文献は2001年までに収集したものなので、約二十年前の研究状況が凍結保存されている形ですが、今回、早稲田大学教授・田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)で最近の研究状況を確認したところ、率直に言ってあまり進展はないですね。
参考文献:『とはずがたり』
http://web.archive.org/web/20150905121827/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/sankobunken-towa.htm
私にとって全くの新知識は、「物語との近接では、たとえば『小夜衣』は『とはずがたり』と共通する表現を多数有しており、『小夜衣』の作者は雅忠女かという説もある」(p45)との指摘くらいで、注を見ると、これは梅野きみ子氏「『小夜衣』の成立とその作者像─『とはずがたり』に注目して」(『小夜衣全釈 研究・資料編』風間書房、2001)という論文だそうです。
『小夜衣』は名前すら知らなかったので、少し調べてみようと思います。
『小夜衣全釈 研究・資料篇』
https://www.kazamashobo.co.jp/products/detail.php?product_id=193
ところで、田渕氏は「五 君寵と女房」において、
-------
『とはずがたり』がどれほど物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれようとも、その中心を貫くのは、雅忠女のこうした無念さ、それにつきるように思う。そしてそれは、院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たちの悲哀を象徴する言でもあると思われる。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11188
と書かれていますが(p49)、結局は二条は「被害者」なのだ、『とはずがたり』は「当時の無数の宮廷女房たちの悲哀を象徴する」悲劇なのだ、という思い込みが田渕氏の限界であり、そして『とはずがたり』を扱う国文学研究者の共通の限界なのかなと私は感じます。
更にそれはフェミニズム的な「被害者としての女性史」の限界でもありますが、『とはずがたり』は本当に悲劇なのかを正面から問うことによって「被害者としての女性史」の限界を突破し、「加害者としての女性史」を開拓することができるのではないか、というのが私の展望です。
>筆綾丸さん
>『とはずがたり』より百年以上前に、『とりかへばや物語』という、すこぶる変態的な作品が書かれていて、この物語に関する著書もある河合隼雄氏
旧サイトでも河合隼雄・富岡多恵子氏の対談「キャリアウーマンの自己主張」(『物語をものがたる−河合隼雄対談集』、小学館、1994)を載せておきました。
http://web.archive.org/web/20100829220906/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kawaihayao-monogatariwo-monogataru.htm
『とはずがたり』の基本的性格について、河合氏は「この物語は虚構も入っているけれども、そうとう事実を書いて」いるという立場で、富岡氏も「事実をベースにしていると思います、ほとんど」と同意していますね。
河合氏がそのように考える根拠は明確ではありませんが、「嵯峨の離宮で、後深草院と弟の亀山院と二条の三人で二夜を過ごす話」や「伏見の離宮で、五十男の近衛大殿と関係させられ」る話などに興奮している様子を見ると、結局はエロ話の「リアル」さに魂を奪われてしまった、ということだろうと思います。
河合氏も「赤裸々莫迦」タイプ、即ち作中の出来事が変態的であればあるほど、登場人物が変質者であればあるほど、作者の描写が赤裸々であればあるほど「リアル」に感じる人の一人ですね。
『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8095
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8097
『とはずがたり』の何が歴史学者を狂わせるのか。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9154
「有明の月」考(その5)─「赤裸々莫迦」タイプではない次田香澄氏
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9488
『とはずがたり』の妄想誘発力
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9869
田渕句美子氏の方法論的限界
前回投稿で「加害者としての女性史」を開拓したいと書きましたが、これは別に女殺人鬼や女武将の研究とかではなくて、「知的で魅力的な悪女」の発掘ですね。
私は旧サイトで「中世の最も知的で魅力的な悪女について」をサブタイトルとしたように、後深草院二条が「知的で魅力的な悪女」の代表格だと思っていますが、最近の検討で、北条義時の正妻「姫の前」やその娘の「竹殿」なども決して「被害者」ではなかっただろうと、一応の根拠に基づいて主張してみました。
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081
また、赤橋登子は夫である足利尊氏の意図を熟知しながら、それを実家や北条一族に黙っていたことにより討幕に決定的に重要な貢献したと思われるので、後深草院二条と同格の「知的で魅力的な悪女」ですね。
「足利高氏は妻子を失い滅亡する可能性もあった」(by 谷口雄太氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10798
更に「悪女」とは呼びにくいものの、大宮院や遊義門院も、独自の政治的見識に基づき、持明院統と大覚寺統の対立を緩和しようと努力した女性のように思われます。
「新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9893
とまあ、そんな具合にあちこち手を伸ばしていたので、出発点である後深草院二条について、自分の認識の進化はその都度、一応文章にしていたものの、必ずしも分かりやすい形で整理してはいませんでした。
そこで、たまたま共通テストで『とはずがたり』と『増鏡』が出題されたことを契機に、後深草院二条とは何者か、『とはずがたり』と『増鏡』が如何なる関係にあるか、との自説の基礎部分を改めて堅固なものにしておこう、というのが現在の私の取り組みです。
さて、田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)は、『とはずがたり』研究の方法論的限界も示しているように思われます。
田渕氏は『増鏡』に「久我大納言雅忠の女」が「三条」として登場する場面に関連して、
-------
この記事は現存の『とはずがたり』にはないが、こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難く、『とはずがたり』の散逸した部分である可能性が高いであろう。さらには、憶測であるが、この『増鏡』の入内記事の一部は、現存しない『とはずがたり』に拠ったものかもしれない。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11182
と言われていますが、「『とはずがたり』の散逸した部分である可能性」や「現存しない『とはずがたり』」まで想定した議論は検証可能性が皆無なので、学問とすら呼びにくいものです。
『とはずがたり』だけを扱っていたのでは虚構の限界の見極めは原理的に不可能で、「『とはずがたり』の散逸した部分である可能性」どころか、『とはずがたり』全体が後深草院二条が構築した仮想現実である「可能性」も排除できません。
『とはずがたり』では後深草院二条がお釈迦様であって、『とはずがたり』の研究者は絶対的支配者である後深草院二条の掌の中で右往左往しているだけ、という「可能性」もあり得る訳です。
とすると、『とはずがたり』研究が検証可能な、客観性のある学問であるためには、『とはずがたり』という作品の内部ではなく、二条が『とはずがたり』の外部の現実世界に残した痕跡を調査する必要があります。
仮に『とはずがたり』の外部で後深草院二条が何者かという客観的な手がかりが得られたなら、その手がかりから、『とはずがたり』とは何であったかを照射することが可能となるはずです。
果たしてそんな外部の痕跡は存在するのか。
私はそれが鎌倉で流行した「早歌」という歌謡に残された「白拍子三条」だと考えています。
この点、共通テスト問題の検討を始めたばかりのときに少し言及したのですが、あまりにせっかちなやり方だったので、訳が分からないと思った人が多いと思います。
『とはずがたり』の政治的意味(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11153
後深草院二条の「非実在説」は実在するのか?
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11155
余談
小太郎さん
鎌倉幕府の滅亡に関して、不勉強のため、赤橋登子の役割に言及した研究者を一人も知りません。
昨日の『鎌倉殿の13人』では、義経はそのへんの頭の悪そうなヤンキーのあんちゃんのようで、なんだかなあ、という感じでした。また、鎌倉における頼朝の御邸を決めるとき、義朝の亀ヶ谷旧邸を避ける理由として、頼朝が、
「亀ヶ谷は亀と同じ名だから、妾宅みたいで、ダメだろ」
とかなんとか言えば笑えたと思います。
『鎌倉殿の13人』の13という数は、いわゆる建久10年(1199)4月の「十三人の合議制」に由来するとされていますが、この時期の鎌倉殿は頼朝ではなく頼家で、しかも、同年10月、十三人の一人である梶原景時は鎌倉を追放され、翌年1月、殺害されているので、「十三人の合議制」など徒花で、政治的にほとんど機能しなかったのではないか。
ではなぜ、三谷幸喜は13という数をタイトルに入れたのか、と考えると、「十三人の合議制」を踏まえたというよりは、人数が一人足りないが、主イエスと十二人の使徒のパロディなのではないか。つまり、十二人の使徒の中にひとり裏切者がいる、イスカリオテのユダという裏切者が、と同じように、十三人の中に裏切者がいる、北条の義時(時政)という裏切者が、と言いたいのではないか。そんな気がします。
国文学と歴史学の境界領域
「2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説」シリーズ全20回、田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」シリーズ全9回プラス補遺2回を踏まえ、次のステップの位置づけについて少しだけ書きます。
私は以前、田渕句美子氏の『人物叢書 阿仏尼』(吉川弘文館、2009)を読んで、
-------
参考文献に井原今朝男氏の「中世善光寺平の災害と開発」(『国立歴史民族博物館研究報告』96号、2002年)が載っていますが、「中世」がついていなければ土木工事の報告書のような、この武骨なタイトルの論文は、意外なことに阿仏尼研究のみならず後深草院二条研究にとっても必読文献です。
このあたりもきちんと押さえているのはさすがです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5237
などと書いたことがあります。
ただ、「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)を見る限り、田渕氏が国文学と歴史学の境界領域に特に独自の見識を持たれているようにも思えないですね。
国文学者で歴史学の文献にも詳しいのは何といっても小川剛生氏で、田渕氏が井原論文を知ったのも、あるいは小川氏からかもしれません。
「小川綱志氏の教示を得た」(by 井原今朝男氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8717
しかし、小川氏には『とはずがたり』関係の専論はなく、名著『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)においても、『とはずがたり』への言及の仕方には些か奇妙な点があります。
『兼好法師』の衝撃から三ヵ月
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9363
「有明の月」は実在の人物なのか。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9380
また、小川氏は『とはずがたり』と密接な関係がある『増鏡』の作者について、「北朝廷臣としての『増鏡』の作者─成立年代・作者像の再検討─」(『三田国文』32号、2000)から『二条良基研究』(笠間書院、2005)を経て、『人物叢書 二条良基』(吉川弘文館、2020)へと変遷を重ね、結局、旧来の通説(二条良基説)に戻ってしまったので、『とはずがたり』についても独創的な見解は期待できません。
小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10137
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10138
小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10139
「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」の検討は中止します。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10146
私としては国文学と歴史学の境界領域の研究の進展は、国文学よりむしろ歴史学側から起こるものと予想していたのですが、率直に言ってあまり芳しい進展はなく、例えば佐藤雄基氏(立教大学教授)の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)という論文について、
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「物語やイメージに対して歴史的事実を重視する傾向が伝統的な歴史学にはあったが、たとえ虚構であったとしても、いったん生まれた天皇像が、どのように変容しながら、どのように人びとにリアリティをもたせたのかが重要」として「虚構」の世界に踏み込んで行く佐藤氏の勇気を認めるにはやぶさかではないとしても、佐藤氏が何度か言及されている『増鏡』や『五代帝王物語』などの文学的な世界の複雑さを知っている私にとっては、佐藤氏があまりに無邪気で無防備であるような印象も受けました。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10516
などという感想を抱いたりしました。
結局、私としては佐藤雄基氏などよりも更に若い世代の歴史研究者(の卵)に期待したいので、そうした世代の研究者(の卵)を念頭に、『とはずがたり』と『増鏡』についてもう少し論じ、国文学と歴史学の境界領域に踏み込むケーススタディを提供することとし、併せて、そうした研究における注意点を具体的に指摘して行きたいと思います。
文学的な資料には、実証的な歴史学研究のオーソドックスな手法に馴染まないものがあり、それは特に「笑い」が含まれる文学作品に顕著です。
従来の研究者はあまりに生真面目に『とはずがたり』と『増鏡』を取り扱ってきましたが、
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《かりに真理を女と仮定してみよう─。どうであろう? すべての哲学者は、かれらがドグマの徒であつたかぎり、この女をば理解しなかつたと疑われてもしかたがなかつたのではないか? かれらは真理を手に入れようとするときには、つねに恐るべく厳粛にまた不器用な厚かましさを以てしたが、これこそは女を獲んがためのまさに拙劣不当な方法であつた。》
http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/
というニーチェの警句を想起する必要があります。
そして、国文学と歴史学の境界領域には、あの『太平記』が未だに深い謎を秘めて蟠踞しています。
当掲示板でも折に触れて『太平記』を検討してきましたが、これもきちんと整理して行くつもりです。
>筆綾丸さん
>赤橋登子の役割に言及した研究者を一人も知りません。
赤橋登子は南北朝史研究の盲点になっていますね。
専論としては、一応、谷口研語氏に「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』所収、文献出版、1997)というものがありますが、これは『太平記』の読書感想文に過ぎず、論文ではないですね。
四月初めの中間整理(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10658
オマケです
前回の『鎌倉殿の13人』を録画でみると、頼朝が政子に宛てた書状の末尾が、
・・・かしく
九月二十四??花押
北條乃御方?? ●
となっています。妻への手紙に、あんな厳めしい花押を記すのかなとか、北條乃御方という宛名も変だなとか、いろいろ思いながらよく見ると、●のところには、押し花(コスモス?)が、ひとつ、貼り付けてある。まるでラブレターのようで。頼朝って、マメな武将だったんだなあ、と笑えました。
付記
治承4年(1180)9月24日がどんな日だったのか、『吾妻鏡』で確認すると、來宿于石禾御厨之處、とあるので、北條時政と武田信義は、石和温泉で仲良く湯船に浸かっていたことがわかりますね。
なお、石和温泉郷はJR中央本線石和温泉駅の南にあって、開湯は1956年とのことです。
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(その1)
今年の共通テストを受験したような世代を含め、若手の歴史研究者を一応の読者として想定した上で、『とはずがたり』の参考文献のうち、それなりに特徴のあるものを少し紹介しておこうと思います。
参考文献:『とはずがたり』
http://web.archive.org/web/20150905121827/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/sankobunken-towa.htm
まず、『とはずがたり』の位置づけ、特に『増鏡』との関係については、1938年(昭和13)に宮内省図書寮で『とはずがたり』を「発見」した山岸徳平博士の「とはずがたり覚書」(『国語と国文学』17巻9号、1940)は必読です。
八十年以上前の論文ですが、実に的確にポイントを押さえていますね。
-------
最後に、増鏡と「とはずがたり」との関係を掲げておく。増鏡は、多く既製作品を利用したらしく、新島守の巻には遠島御百首などを襲用して居る事は、既に知られた所である。然るに「とはずがたり」との比較によると、余りにもその襲用の仕方が露骨であるのに驚く。けれども亦、前述の如く、それが却つて増鏡作者に就いて、何等かの暗示を与へる様な気もするのである。
http://web.archive.org/web/20150909232006/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yamagishi-tokuhei-towa-oboegaki.htm
といった感想も含蓄があります。
また、エッセイですが、同じく山岸徳平の「『とはずがたり』の思出」(日本古典全書『とはずがたり』月報、1966)も、桂宮本刊行時の事情などが伺えて興味深いですね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yamagishi-tokuhei-towa-omoide.htm
国文学界で『とはずがたり』研究が一大ブームとなった後、その牽引役の一人であった松本寧至氏が一般向けに纏めた『中世宮廷女性の日記』(中公新書、1986)は、全体の内容を概観するには便利ですね。
http://web.archive.org/web/20061006211407/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/matumoto-mokuji.htm
松村雄二氏の『『とはずがたり』のなかの中世 ある尼僧の自叙伝』(臨川書店、1999)もよく纏まっています。
リンク先では引用しませんでしたが、伝本の由来などの書誌的事項が詳しいですね。
http://web.archive.org/web/20061006211155/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/matumura-yuji-binran.htm
注釈書としては、三角洋一氏の『新日本古典文学大系50 とはずがたり・たまきはる』(岩波書店、1994)は注記が詳細ではあるものの、いささか読みづらく、初心者には福田秀一氏の『新潮日本古典集成 とはずがたり』(新潮社、1978)の方がよさそうです。
もっとも、その「解説」は冒頭に、
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一般に、男性は同時に複数の女性に愛情を抱くことができるが、女性はただ一人の男性との変らぬ愛情を求める傾向にあり、複数の男性を同時に愛することはできないと言われる。
http://web.archive.org/web/20061006205341/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-fukudahideichi-kotenshusei.htm
とあるなど、ちょっと変なところもありますが。
現代語訳は冨倉徳次郎氏の『とはずがたり』(筑摩叢書、1969)が最初ですが、訳文が若干古風な上に、細かい活字が詰まっていて読みづらいですね。
旧サイトでは、私は次田香澄氏の講談社学術文庫版『とはずがたり.全訳注(上)(下)』(1987)を大いに活用させてもらいましたが、久保田淳氏の『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集 とはずがたり』(小学館、1999)も良いですね。
http://web.archive.org/web/20150516032839/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa-index.htm
以上、国文学者の業績を紹介してきましたが、歴史学者も本当に多くの人が『とはずがたり』に言及していて、その内容は玉石混淆です。
比較的早い段階で『とはずがたり』に注目したのは網野善彦氏で、『日本の歴史10 蒙古襲来』(小学館、1974)には二箇所、『とはずがたり』の相当長い紹介があります。
また、『中世の非人と遊女』(明石書店、1994)などでも網野氏は後深草院二条を論じておられますが、正直、私は網野氏の見解にはあまり賛成できないですね。
網野善彦「得宗御内人の専権」
http://web.archive.org/web/20061006211202/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-tokusou-miuchibito.htm
網野善彦「中世における女性の旅」
http://web.archive.org/web/20150506024940/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-amino-chuseiniokeru-joseino-tabi.htm
>筆綾丸さん
>來宿于石禾御厨之處
頼朝と武田信義の関係については、私は呉座勇一氏の『頼朝と義時』の説明にけっこう納得したのですが、大河ドラマの進展に応じて、呉座氏が講談社のサイトで追加的な解説をしてくれそうですね。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92571
鎌倉殿のシロビキ
小太郎さん
https://www.sankei.com/article/20220303-GSAFKUZIMBKRRCY5N4JN2PDHN4/
呉座氏は広常の軍を大軍としていますが、本郷氏は日本書紀のパクリだと言ってますね。
プーチンのシロビキに倣って言えば、『鎌倉殿の13人』は『鎌倉殿のシロビキ』といった感じですね。
追記
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東京大学での現役時代、各学部の代表が集まった会議の席上で、医学部出身の森亘総長から、当時の松尾浩也法学部長に御下問があった。東京大学の総則の中と、各学部の規則の中に、ほぼ同じ文面がある。ただし語尾が少し違う。森さんは「こういう語尾の違いは法学部的には解釈が違うんでしょうね」と尋ねたのである。これに対して、松尾法学部長は開口一番、「解釈せよと言われれば、いかようにも解釈はいたしますが」と答えた。(養老孟司『ヒトの壁』74頁)
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松尾法学部長風に言えば、呉座説も本郷説も、要するに、解釈せよと言われれば、歴史はいかようにも解釈できますが、というようなことになりますね。
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(その2)
前回投稿で「歴史学者も本当に多くの人が『とはずがたり』に言及していて、その内容は玉石混淆です」と書きましたが、実際には大半が「石」ですね。
例えば昨年、実証主義的歴史学の総本山ともいうべき東京大学史料編纂所の所長に就任された本郷恵子氏は、小学館の「全集日本の歴史」シリーズ第六巻『京・鎌倉 ふたつの王権』(2008)で『とはずがたり』に触れておられますが、率直に言って高校生の読書感想文レベルですね。
本郷恵子教授の退屈な『とはずがたり』論
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9361
「コラム4 『とはずがたり』の世界」(by 本郷恵子氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9362
『とはずがたり』のエロ話のように、内容がキワモノ的で他に裏付けとなる史料が存在しない話については、実証主義云々の理屈以前に、常識として極めて慎重に取り扱うべきだと私には思われますが、「院や天皇、女院、上級貴族らの私的生活の側面を語る、稀有な内容をもつ」『とはずがたり』を丸々信じ込んでいる本郷恵子氏とは、そうした常識を共有できないようです。
ま、歴史研究者に期待されるのは『とはずがたり』そのものの検討ではなく、『とはずがたり』の背景となる鎌倉後期の政治的・社会的・文化的状況の分析ですので、そうした観点から役に立つ文献を紹介することにします。
まず、二条の出自である村上源氏についての必読書は橋本義彦氏の『人物叢書 源通親』(吉川弘文館、1992)です。
「はしがき」
http://web.archive.org/web/20150830053507/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hashimoto.htm
「村上の源氏」
http://web.archive.org/web/20150830053503/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hashimoto-yoshihiko-murakaminogenji.htm
旧サイトを開設した1997年の時点では、鎌倉時代の通史は武家社会に偏っていて、特に鎌倉後期公家社会を理解するための基本となるべき一般書が少なく、非常に苦労したのですが、今は近藤成一氏の『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016)など、バランスの良い本がたくさん出ていますね。
西園寺家と洞院家
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9205
「三十四年間もかけてたった三年足らずの分しか編纂できなかった」(by 近藤成一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9209
ただ、『とはずがたり』の主要登場人物である後深草院や亀山院、西園寺実兼などを史実に即してきちんと理解するための文献となると、やはり筆頭は本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)ですね。
http://web.archive.org/web/20061006194849/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hongo.htm
そして、森茂暁氏の『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版、1991)も重要です。
森茂暁「西園寺公衡」
http://web.archive.org/web/20150512051815/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-saionji-kinhira.htm
森茂暁「皇統の対立と幕府の対応−『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって−」
http://web.archive.org/web/20150515165002/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-kotonotairitu.htm
森茂暁氏は私にとってはちょっと謎の存在で、非常に緻密な史料分析に基づく実証的研究をされている一方で、『とはずがたり』や『増鏡』の奇妙な話を全然疑わない「赤裸々莫迦」の代表格でもありますね。
『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8095
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8097
『とはずがたり』の何が歴史学者を狂わせるのか。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9154
>筆綾丸さん
>呉座氏は広常の軍を大軍としていますが、本郷氏は日本書紀のパクリだと言ってますね。
ご紹介の「本郷和人の日本史ナナメ読み」、日本書紀云々はあまりに唐突で、ちょっと賛同し難い内容ですね。
呉座勇一氏は『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)において、「野口氏の研究を参照しつつ、私見を交えて広常の実際の行動を復元してみよう」(p61)とし、結論として「二万とも言われる大軍(延慶本『平家物語』は一万とする)も最初から広常が率いていた軍勢ではなく、目代を討ち上総の武士たちを広範に糾合した結果と思われる」(p63)と言われていますが、正確な人数はともかく、広常が大軍を集めたこと自体を疑う必要はないと思います。
ただ、その大軍が広常直属の配下であれば、寿永二年(1183)十二月に広常が暗殺された際、特に混乱が生じなかった理由を説明しづらくなりますが、あくまで一時的に広常が「広範に糾合した結果」の「大軍」だとすれば、広常暗殺後の状況も理解可能ですね。
teacup掲示板の終了について(2022年8月1日付)
本日、運営会社から「【重要】teacup. byGMOのサービス終了について」との告知がありました。
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長年にわたりご愛顧いただきましたteacup.ですが、2022年8月1日(月)13:00をもちまして、
サービスを終了させていただくこととなりました。
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とのことです。
ネットでの交流の手段として掲示板が賑わった時代も遠くなり、廃止はやむをえないものとして受けとめたいと思います。
今後の対応と過去の投稿の取り扱いについては、まだ終了まで時間があるので、ゆっくり検討するつもりです。
なお、私自身の投稿は従来からgooブログの「学問空間」で保管しています。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin
八朔
小太郎さん
8月1日といえば、『吾妻鏡』に、
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寳治元年(1247)八月大一日辛巳。恒例贈物事可停止之由。被觸諸人。令進將軍家之條。猶兩御後見之外者。禁制云々。
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とあり、武家社会における八朔の儀式に関して、たぶん、いちばん古い記述ではないかと思われますが、前々月、時頼が三浦氏を滅ぼしたことを考えると、質素な母・松下禅尼譲りの倹約令という以上の政治的な意味があったのでしょうね。
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(その3)
田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)には、何が何でも『とはずがたり』を「女房日記」の範疇に閉じ込めておきたい、という強い意志が感じられます。
しかし、そのような田渕氏ですら、
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そうした無念さを通奏低音としつつも、『とはずがたり』の最大の魅力は、自ら出家して宮廷外の世界にはばたいた作者雅忠女の自由な精神とひたむきな活力にあることも、また確かである。『とはずがたり』巻四・五には断片的に書かれるのみだが、恐らく宮廷での知己や元女房たちのネットワークを縦横に駆使し、自身の知識や教養を地方の人々に伝えつつ、自ら自在に、時には誰かの命を帯びて(鎌倉下向はそうであっただろう)、はるかな国々を巡った。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11189
と書かれているように、『とはずがたり』と普通の「女房日記」の決定的な相違は、作者の二条が京都を離れ、「宮廷外の世界にはばたい」た点ですね。
普通の「女房日記」の作者は人生の大半を京都で過ごし、遠出といってもせいぜい京都近郊の寺社巡り程度ですが、二条の行動範囲は畿内を遥かに超え、東国は鎌倉・武蔵・信濃、西国は讃岐・(若干疑わしいものの)土佐・備後にまで及んでいます。
そして田渕氏ですら「時には誰かの命を帯びて(鎌倉下向はそうであっただろう)」と書かざるをえないように、二条の旅の少なくとも一部は政治的性格を持っていますね。
歴史研究者に期待したいのは、二条が唯一の証人であるエロ話にハーハー興奮して愚にもつかない読書感想文を書くことではなく、『とはずがたり』を素材の一つとして、朝廷と幕府、公家社会と武家社会、東国と西国の関係を解明することですね。
その手がかりとして最初に押さえておくべき文献は土谷恵氏「東下りの尼と僧 」(『新日本古典文学大系月報』52、岩波書店、1994)です。
土谷氏は、
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二条の父は久我通光の子雅忠。この父方の一族には鎌倉に下った人物ががなりいた。その一人が醍醐寺の僧親玄である。親玄は久我通忠の子で、二条の従兄弟にあたる。親玄は鎌倉滞在中の正応五年二月から永仁二年(一二九四)十二月に至る日記を残しており、この『親玄僧正日記』が『とはずがたり』に近い世界を描いているのが注目される。
http://web.archive.org/web/20150115015021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tsuchiya-megumi-azumakudari.htm
といった具合に二条の父方に着目されていますが、二条の母方・四条家も鎌倉との関係が深い一族です。
二条の祖父・隆親は後妻として足利義氏の娘(近子?)を迎え、二人の間に生まれた隆顕が嫡子となりますが、後に隆顕は父と不和となり出家してしまいます。
『とはずがたり』では隆顕は隆親に先だって死んだことになっていますが、出家後の隆顕(法名・顕空)は実際にはかなり長生きして、鎌倉との間を頻繁に往復していたようですね。
この点を最初に指摘されたのは黒田智氏の「「鎌倉」と鎌足」(『鎌倉遺文研究? 鎌倉期社会と史料論』、東京堂出版、2002)という論文です。
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11189
善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9155
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9156
二人の「近子」(その1)〜(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10212
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10213
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10214
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10215
四条家については角田文衛氏の『平家後抄.上・下』(朝日選書、1981)が基本的な文献となります。
http://web.archive.org/web/20150909222856/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-tunoda-heike.htm
角田文衛「女院の動静」・「金仙院−建礼門院の末年−」
http://web.archive.org/web/20150618013545/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tunoda-bunei-nyoinnodosei.htm
また、「乳父」という観点から四條家に詳細な検討を加えたものとして、秋山喜代子氏「乳父について」(『史学雑誌』99編7号、1990)という論文があります。
http://web.archive.org/web/20150618013530/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/akiyama-kiyoko-menoto.htm
後醍醐天皇の側近で『増鏡』の最終場面に登場する四条隆資は隆顕の孫ですが、隆資については平田俊春氏に「四條隆資父子と南朝」(『南朝史論考』、錦正社、1994)という論文があります。
http://web.archive.org/web/20130216013805/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-hirata-toshiharu-godaigotennouto-kameyamatennou.htm
>筆綾丸さん
八朔以降も何らかの形で意見交換の場を持ちたいと思っていますが、何かご希望があればお聞かせください。
ま、急ぐ話ではありませんが。
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(その4)
二条の父方、村上源氏の話に戻ると、二条は村上源氏の中でも久我家出身であることを頻りに強調・自慢します。
例えば鷹司兼平に比定されている「近衛大殿」は、
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村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりにて候。あの傅仲綱は、久我重代の家人にて候ふを、岡屋の殿下、ふびんに思はるる子細候ひて、『兼参せよ』と候ひけるに『久我の家人なり、いかがあるべき』と申して候ひけるには、『久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば、兼参子細あるまじ』と、みづからの文にて仰せられ候ひけるなど、申し伝へ候。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9351
などと言う訳ですが、実際には久我家の内情はかなり大変でした。
というのは、二条の祖父・通光が遺言で家産を全て後妻(三条尼・西蓮)に譲ってしまった結果、遺族の間で大変な相続争いが生じていたからです。
その様相は岡野友彦氏の『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002)に詳しいのですが、私の旧サイトでは久我家文書を所蔵する國學院大學で行われた展示会の図録『特別展観 中世の貴族〜重要文化財久我家文書修復完成記念〜』(1996)から若干の引用を行いました。
http://web.archive.org/web/20150906221551/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kogakeryou.htm
「久我家根本家領相傅文書案」
http://web.archive.org/web/20090608141042/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kogake-konponkaryo.htm
また、二条は祖父・通光が太政大臣だったことも頻りに強調しますが、源通親の嫡子であった通光は若年から極めて順調に出世したものの、承久の乱に加担した結果、承久三年(1221)七月、三十五歳で内大臣を辞し、その後は実に四半世紀もの間、散位のままです。
そして寛元四年(1246)十二月、突如として太政大臣に任ぜられ、従一位に叙せられますが、これは同母弟の土御門定通が後嵯峨天皇践祚に貢献した論功行賞の一端であって、通光の政治的力量とは全く無関係であったことは明らかです。
土御門定通が処罰を免れた理由(再論)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11086
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10241
結局、鎌倉期においては「村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかり」、「久我大臣家は、諸家には准ずべからざれば」などという実態は全くなく、通親子孫の村上源氏の中でも久我家は傑出した存在ではないですね。
『とはずがたり』を見ると二条の父・雅忠は通光の後妻との関係が悪くもなかったようで、経済的にもさほどダメージはなかったのかもしれませんが、『公卿補任』では雅忠の家名は「久我」ではなく、一貫して「中院」と記されています。
ということで、『とはずがたり』で語られる久我家像は相当に潤色されたものですね。
とはいっても、通親子孫の村上源氏は、全体としてみれば公家社会の中で相当高い家格を維持していたことは確かであり、しかも、この一族には鎌倉初期から朝廷と幕府の間をつなぐ、一種の外交官的役割を担った人物が多いですね。
その代表格は土谷恵氏が挙げる宗尊親王側近の土御門顕方ですが、通親子孫には武家社会との通婚関係も目立ちます。
この点、分析に若干の粗さがあるものの、鈴木芳道氏の「鎌倉時代における村上源氏の公武婚」(『鷹陵史学』31号、2005)という論文が参考になります。
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0031/OS00310R137.pdf
また、最近、北条義時の正室「姫の前」を調べていて気付いたのですが、義時と離縁後に京都で歌人・源具親と再婚した「姫の前」は源輔通という人物を産んでいて、この人の女子は雅忠の後室となり、『とはずがたり』にも「大納言の北の方」「まことならぬ母」として登場しています。
そして輔通の異母弟には小野宮禅念という僧侶がいて、禅念は親鸞の娘覚信尼の後夫であり、その息子が浄土真宗の歴史の上では極めて重要な人物である唯善なのですが、驚いたことに唯善は「大納言雅忠の猶子」です。
「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10174
源具親の孫・唯善(大納言弘雅阿闍梨)について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10193
今井雅晴氏「若き日の覚如」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10195
本郷和人氏『北条氏の時代』について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10981
『とはずがたり』だけ読んでいると、二条が出家後に関東に向かうのはずいぶん唐突な展開のように見えますが、通親子孫の村上源氏の動向、そして二条自身の周辺の人間関係を見ると、二条と関東の間には様々な結びつきがあったようですね。
さて、『とはずがたり』に虚構が含まれること自体は多くの国文学者の共通認識ですが、しかし、どの部分は真実で、どこからどこまでが虚構なのか、という区分についての認識は千差万別です。
そもそも『とはずがたり』だけを扱っていたのでは虚構の限界の見極めは原理的に不可能で、『とはずがたり』研究が検証可能な、客観性のある学問であるためには、『とはずがたり』という作品の内部ではなく、二条が『とはずがたり』の外部の現実世界に残した痕跡を調査する必要があります。
田渕句美子氏の方法論的限界
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11193
この観点から見て、最も重要な文献は外村久江氏の『鎌倉文化の研究−早歌創造をめぐって』(三弥井書店、1996)です。
外村氏は同書の「第四章 早歌の撰集について−撰要目録巻の伝本を中心に」において、早歌に「源氏」「源氏恋」という曲があること、そしてその作者は「白拍子号三条」であることを指摘された上で次のように書かれています。
-------
早歌の撰集とほぼ同時代の『とはずがたり』に作者二条は後深草・亀山両院の小弓の負け態として、この六条院の女楽の場をまねて、二条は琵琶をよくしていたから、明石の君になって琵琶をひくという記事がある。これは、建治三年(一二七七)の事になっているが、『とはずがたり』は嘉元四年(一三〇六)著者四十九才までの記載が見られ、この頃の作品といわれている。六条院の女楽のまねごとが、事実談であるか、或いはフィクションかは不明にしても、とにかく、当時源氏物語を代表する場面として、人気があって、歌謡化などにも格好のものであったことが知られる。増鏡にはこの二条が後に三条と改名させられていることがあって(山岸徳平氏『とはずがたり』解題)、白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である。
http://web.archive.org/web/20150918011404/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-tonomura-hisae-shirabyoshisanjo.htm
若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(番外)
※teacup掲示板が8月1日に終了予定であることを受けて、今後、私自身の掲示板投稿にリンクを張る場合には、当掲示板ではなくgooブログ「学問空間」の記事の方に行うこととします。
早歌研究は外村久江氏(東京学芸大学名誉教授、1911生)を中心にして一時は相当な活況を呈したのですが、外村氏の業績をまとめた『鎌倉文化の研究−早歌創造をめぐって』(三弥井書店、1996)の出版以降、残念なことに研究の進展はあまりないようです。
中世芸能・歌謡史については、例えば辻浩和氏の『中世の〈遊女〉─生業と身分』(京都大学学術出版会、2017)のように相当の深化が窺えますが、辻著でも早歌への言及は僅少ですね。
https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814000746.html
早歌は作品の数が少ないので、国文学や芸能史研究者からは既に研究し尽くされた分野と見做されているのかもしれませんが、作者とその周辺については歴史学の観点からの更なる解明が必要ではないか、と私は考えます。
辻浩和氏『中世の〈遊女〉─生業と身分』へのプチ疑問
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aeef36b4177bef0d976fa1233363983b
『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5850662f4868da45f2944b72d381680
「女工所の内侍、馬には乗るべしとて」(by 中務内侍・高倉経子)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b8c78ee2ad80ffe5eaf7137aaa9dee3
「夏のバカンスの北欧旅行から帰国して」(by 服藤早苗氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1421478cb6ceddbfc75dcba9cb949a12
さて、あまり注目されていませんが、『とはずがたり』と『徒然草』の登場人物はけっこう重なっています。
例えば「粥杖事件」で後深草院を羽交い絞めにし、二条に後深草院の尻を思う存分打たせた「東の御方」(玄輝門院)は、老いても記憶力抜群の知的な女性として(33段)、二条が父・雅忠の弔問に来なかったとして筆誅を加えている「堀川相国」基具は「美男の楽しき人」として(99段)、二条の祖父・「久我相国」通光は水を飲むにも一家言のある面倒くさい人として(100段)、二条の母方の祖父「四条大納言隆親卿」は「乾鮭といふものを、供御に」提供して非難される人として(182段)、二条の宿敵・東二条院は「竹谷乗願坊」へ仏教に関する真摯な質問をする思慮深い女性として(222段)、「北山太政入道殿」西園寺実兼は「さうなき包丁者」である「園の別当入道」のもったいぶった態度を批判する謹厳な人として(231段)、それぞれ『徒然草』に登場します。
http://web.archive.org/web/20150502075515/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-33-imanodairi.htm
http://web.archive.org/web/20150502062113/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-99-horikawano-shokoku.htm
http://web.archive.org/web/20150502055446/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-100-koganoshokoku.htm
http://web.archive.org/web/20150502065633/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-182-sijotakachika.htm
http://web.archive.org/web/20150502065658/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-222-takedaninojoganbo.htm
http://web.archive.org/web/20150502065708/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-231-sononobettonyudo.htm
こうした『とはずがたり』でお馴染みの人物の中でも、特に興味深いのは『とはずがたり』の最終場面、跋文の直前で二条と和歌の贈答を行う久我通基です。
久我通基(1240-1309)は「久我相国」通光の孫、二条にとっては十八歳上の従兄ですが、二条との歌の贈答は徳治元年(1306)の出来事と考えられているので、通基は六十七歳ですね。
しかし、『徒然草』では「久我の前の大臣」通基は精神を病んだ人として第195段に登場します。
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ある人、久我縄手を通りけるに、小袖に大口着たる人、木造りの地蔵を田の中の水におしひたして、ねんごろに洗ひけり。心得がたく見るほどに、狩衣の男二三人出で来て、「ここにおはしましけり」とて、この人を具して去にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。
尋常におはしましける時は、神妙にやんごとなき人にておはしけり。
http://web.archive.org/web/20150502062113/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-99-horikawano-shokoku.htm
旧サイトでは、私は兼好法師が『とはずがたり』を読んでいて、その虚偽に憤りを覚え、二条さん、気の狂った従兄弟と歌の贈答をするなんて、随分器用なことをなさいますね、と冷笑しているのではないか、と考えてみました。
そこで、兼好法師の周辺をいろいろ探ってみたのですが、金沢北条家との関係で二条の「社会圏」と兼好の「社会圏」は重なるな、ということが確認できただけで、結局、あまりすっきりしないまま検討を中断してしまいました。
ま、中途半端で終わってしまった原因は、私が当時の通説であった風巻景次郎説(「家司兼好の社会圏」)を一歩も超えることができなかったからなのですが、この風巻説を根本から覆した小川剛生氏の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)は、私にとって本当に衝撃的な本でした。
小川氏が解明された兼好の実像は武家社会と公家社会のはざまに生きる情報ブローカーみたいなものですが、ある意味では二条も同じタイプの人ではないか、というのが私の考え方です。
もちろん、二条が活動していたのは兼好などより遥かに上層の世界ではありますが。
以上、私の特別な関心から小川著に言及しましたが、小川著は国文学と歴史学の境界領域に踏み込んだ画期的業績ですので、是非読んでいただきたいと思います。
『とはずがたり』と『徒然草』に登場する久我通基
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bbca183556381323530d10235e6a82a0
『とはずがたり』・『増鏡』・『徒然草』の関係について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62535f75170a4e3aae07abc9d453aee1
『兼好法師』の衝撃から三ヵ月
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f8a40b01d861705b1c8291f30001971
re: teacup掲示板の終了について(2022年8月1日付)
一度ネット上に情報がアップされると半永久的に残るとの恐れから、法律学では
「忘れられる権利」
というものも取りざたされているのですが、日本でも、ネット上の主流ツールが
ホームページ・掲示板→ブログ→SNS
と推移する際に、データが引き継がれず、「逸文」としてウェブアーカイブなどに
かろうじて保存されているという事も珍しくないので、
ネット上のデータが半永久的に残るというのも、意外とあてにならない
というのかもしれません。
(恐らく、この掲示板以外では、「キラーカーン」名義での私の投稿も、
現時点ではネット上には殆ど残っていないでしょう。)
レテの川底の消しゴム
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E6%A8%A9%E5%88%A9
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
アーノルド・シュワルツェネッガー主演『イレイザー(Eraser)』(1996)という映画がありましたが、欧州司法裁判所は吊橋の上でもピョンピョン渡るウサギのようで、我が国の最高裁判所は石橋の前でもビクビク後退るカメのようで、彼我の権利意識の差をいつも感ずるものですが、歴史上の人物には「忘れられる権利」は認められないものでしょうか。
たとえば、大河ドラマの北条義時なんかも、もういい加減で忘れてくれよ、歴史家たちのメシのタネにされるのはウンザリだぜ、と草葉の陰で嘆いているかもしれません。
『とはずがたり』の政治的意味(その2)
「2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その7)」の後、筆綾丸さんの投稿に金沢貞顕が出て来たことをきっかけとして、2月7日に私は突如として、
『とはずがたり』の政治的意味(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bb6604fe41c778bbff02b322540603e
という投稿をしてしまったのですが、共通テスト以降に当掲示板に来られた人にとっては訳が分からない展開だったはずです。
しかし、「2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説」シリーズ全20回、田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」シリーズ全9回プラス補遺2回、更に「若い世代向けの『とはずがたり』参考文献」シリーズ全4回プラス補遺1回を読まれた方には、上記投稿で金沢貞顕の周辺を探った私の意図も理解していただけるのではないかと思います。
とにかく『とはずがたり』だけを扱っていたのでは、一体どこまでが事実に基づいていて、どこからが虚構の世界のなのかの見極めは原理的に不可能です。
『とはずがたり』研究が検証可能な、客観性のある学問であるためには、『とはずがたり』という作品の内部ではなく、二条が『とはずがたり』の外部の現実世界に残した痕跡を調査する必要がありますが、私はそれが鎌倉で流行した早歌という芸能であり、「源氏」「源氏恋」の作者である「白拍子三条」は二条の隠名であろうと考えています。
田渕句美子氏の方法論的限界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e561cd5f2b6ad2e0750379f3cfb62e71
先に外村久江氏の「増鏡にはこの二条が後に三条と改名させられていることがあって(山岸徳平氏『とはずがたり』解題)、白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(『鎌倉文化の研究』、p292)という文章を紹介しましたが、外村氏はこれに続けて、
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この作者は女西行を理想として、各地を旅行したが、鎌倉にも来て、平頼綱入道の奥方の為に五衣の調製の指導をしたり、新将軍久明親王の為の御所のしつらいの助言等をしている。その際は身分や名を秘し、ただ京の人といって出かけている。鎌倉入りは既に尼となった正応二年(一二八九)の事で、早歌の最初の撰集時期と重なっている。早歌には生みの親とも考えられる明空は極楽寺の僧侶ではなかったかとみられるが、彼女の鎌倉入りはこの寺に真っ先に入って、僧の振る舞いが都に違わず、懐かしいという感想を述べている。以上のことや音楽・文学の才能の点から、或女房としてはふさわしい人のようであるが、口伝の白拍子号三条の朱書きとどう結びつけるかが難しい。白拍子にも高貴にはべって才能の豊かな人もいた時代だから、今は朱書きを信ずることにしておきたい。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/668f1f4baea5d6089af399e18d5e38c5
と書かれています。
「白拍子三条」が作詞作曲した「源氏恋」は次のような作品ですが(『日本古典文学大系44 中世近世歌謡集』、岩波書店、1959、p73以下)、早大本にだけ「或女房」の横に「白拍子号三条」の朱書があります。
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源氏恋(げんじのこひ)
好しとても善き名も立たず 苅萱のやいざ乱れなん しどろもどろに藤壺の 何(いか)なる迷ひ成りけん 浮き名も消えなで薄雲の 浮き立つ思ひの果(はて)よさは 立ち舞ふべくもあらぬ身の 紅葉の賀の夕ばへに 頭の中将の匂ひも 人より異(こと)に見ゆれども 花の傍(かたはら)の深山木(みやまぎ)と押されしも さすがにいかが思(おぼ)しけん 袖うち振りし御返し 起居(たちゐ)につけて憐と 詠ませ給ひけんもわりなし 此(この)朧月夜の内侍の督(かみ)や さりや何(いづれ)に落ちけん 涙の色ぞおぼつかなと 疑はせ給ひたりけん 朱雀院(しゆざくゐん)の問ひし御(おん)心 恥ぢてもいかが恥ぢざらむ 女三(によさん)の宮の柏木も 薫の行末(ゆくへ)と思へば 更に疎(うと)みも終(は)てられざりけり 浮舟の匂兵部卿(にほふひやうぶきやう)の宮 橘の小島が崎に 船指し留めて契りけん 河より遠(をち)の御(おん)住まひ いと浅からずとや覚ゆる
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a90346dc2c7ee0c0f135698d3b3a58fd
また、「源氏」は六条院の女楽をテーマとする作品であり(日本古典文学大系44 中世近世歌謡集』、p79以下)、『とはずがたり』の「女楽事件」を連想させます。
こちらも早大本にだけ「或女房」の横に「白拍子号三条」の朱書があります。
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源氏
藻塩草書き集めたる其の中に 紫式部が筆の跡 疎(おろそ)かなるは無しやな 六条の院の女楽(をんながく) 伝へて聞くも面白や 比(ころ)は正月(むつき)の廿日(はつか)の空 咲(をか)しき程に成り行くに 御前(おんまへ)の梅も盛りに 大方の花の木どもも 皆(みな)気色ばみ霞み渡れるに 伏待(ふしまち)の月差し出でて 先づ女(によ)三の宮を見奉れば 人より殊に小くて 桜の細長(ほそなが)に 柳の糸の様(さま)したる 御髪(みぐし)は溢(こぼ)れ懸りて 琴(きん)弾き給ふ御(おん)姿 鶯の木(こ)伝ふ羽風にも 乱れぬべくぞ覚ゆる 女御の君は今少し 匂ひ加はれる様して 箏(しやうのこと)をぞ弄(まさぐ)り給ひし 咲(さ)き溢(こぼ)れたる藤の側(かたはら) 双(ならび)無き朝ぼらけを見る心地す 紫の上は葡萄染(えびぞめ)にや 色濃き小袿(こうちぎ)に 蘇芳(すはう)の細長をぞ着給ふ いと声花(はなやか)に和琴(わごん)を 気高くこそは掻き立つれ 花と言へば桜に喩(たと)へても 猶物より異(こと)に見ゆるに 並(な)べてにはあらぬ御(おん)辺(あた)りに 明石は気押(けおさ)るべけれども いとさしも非ず玩(もてな)して 高麗(こま)の青地の錦の 端(はし)刺したる茵(しとね)に 琵琶を打ち置きて唯(ただ)けしきばかり引き懸けて たをやかにつかひなしたる撥(ばち)のもてなし 五月(さつき)待つ花橘の花も実も 共に押し折りたる喩へは 何(いづ)れにもいかが下されむ
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>キラーカーンさん
>筆綾丸さん
過去投稿は保管場所を一応確保しているので、若干の手間はかかるものの、そちらに移せばよいだけなのですが、問題は今後ですね。
長年使い慣れた掲示板という形式には愛着があり、他の掲示板運営業者に引っ越すというのが一番良い選択肢かと思うのですが、全体的に先細りの傾向は否めないので、引っ越した先でまたまた終了という懸念もありますからねー。
シニカルな女
小太郎さん
「とはずがたり』だけを扱っていたのでは、一体どこまでが事実に基づいていて、どこからが虚構の世界のなのかの見極めは原理的に不可能です。」
要するに、ゲーデルの不完全性定理ということですね。
白拍子三条の「源氏の恋」は、江戸期の大田蜀山人の狂歌にも似て、かなり辛辣なイロニーを含んでいますね。
たとえば、
苅萱のやいざ乱れなん しどろもどろに藤壺の
は、光る君を拒もうと思えば拒めたのに、藤壺は、いやぁねえ、自分から乱れたんじゃないの、とからかっていて、
また、
恥ぢてもいかが恥ぢざらむ 女三の宮の柏木も
は、父・朱雀院の遺戒も守れない女三宮を、ちょっと頭が軽いんじゃないの、と小馬鹿にしていますね。
このシニカルな精神、まさに後深草院二条のものだなあ、と思います。
『とはずがたり』の政治的意味(その3)
昨日は久しぶりに外村久江氏の『鎌倉文化の研究─早歌創造をめぐって─』(三弥井書店、1996)を読み直してみたのですが、国文学と歴史学の境界領域に国文学の側から踏み込んだ画期的業績という点では、同書は小川剛生氏の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)に先行する名著ですね。
外村久江氏は1911年生まれで、リンク先ブログには、
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国文学者。(1911年ー1994年8月6日)
函館市生まれ。1934年東京高等女子師範学校文科卒、1941年東京文理科大学国史学科卒。東京学芸大学助教授、教授、75年定年退官、名誉教授。1993年度志田延義賞を養女・外村南都子との共著『早歌全詞集』で受賞。
https://d.hatena.ne.jp/keyword/%E5%A4%96%E6%9D%91%E4%B9%85%E6%B1%9F
とあります。
『鎌倉文化の研究』の奥付には何故か没年が記されていませんが、外村南都子氏の「あとがき」によれば、
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本書は、故外村久江(養母、叔母)の鎌倉文化に関する論文のうち、前著『早歌の研究』(至文堂 昭和四十年)の前後に発表された主な論文を集めたものである。
論文の選択と構成・配列、書名・篇名の決定、序説・結語などの執筆と追加、内容の訂正・加筆(大体、字句の訂正や不明だった点の後の解明による訂正にとどまる)は、生前、本人によって行われた。長年にわたる発表のため、論文によって表記・文体に変化があり、少しでも読みやすくしたいという意向にしたがって、表記や表現の一部を、最近発表のものになるべく統一するように改めた。また、引用の早歌の詞章や秘伝書の本文、加注、原論文の明らかな誤植の訂正なども、主として私が行なった。
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とのことで(p505)、1994年没で間違いないのでしょうね。
同書で「白拍子号三条」について考察された「第四章 早歌の撰集について−撰要目録巻の伝本を中心に」などは1967年の論文ですから、実に半世紀以上前の業績です。
http://web.archive.org/web/20150918011404/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-tonomura-hisae-shirabyoshisanjo.htm
しかし、歴史学界と切り離された独自の小宇宙に住む国文学村の普通の住民と違って、外村氏は本当に幅広く歴史学の文献を読み込まれている方で、今読んでもさほど古さを感じさせません。
そして歴史学研究者で早歌の分析に取り組んでいる人は皆無(?)なので、結局、今でも早歌に関しては外村氏の研究が最高水準を維持していることになりますね。
さて、早歌は鎌倉で生まれた武家社会の芸能で、明空(月江)という人物が創始者であり、かつ大成者です。
明空の出自は不明ですが、生年はおよそ寛元三年(1245)前後と推定されています。
そして、明空が正安三年(1301)に執筆した『撰要目録』という早歌の曲名、作詞・作曲者リストの序文には、
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序
夫れ当堂の郢曲は、幼童の口にすさみ、万人の耳にさへぎるたぐひ、様々多しと雖も、愚老が撰び集むる曲、すべて其軸十巻を定め、其歌百の数を究む。この内二十余首は愚作の外なり。即ち其作者の名字をたどるたどる記す。これ或は貴命により、或はうたた聞き及ぶ所、耳に留り、故ある品を先として都鄙の玩び、巷の説をも嫌はざれば、定めて誤りもあり、本説もおぼつかなく、浮ける事多くして、後のそしりのがれ難かるべし。況や自ら求め、外を伺はざれば、はかなき筆の迷ひ愚かにして、猶拙き余りあるべき物なり。ただ老耄鳩杖のたづき無く、幼稚竹馬のいとけなきを知らせんためなれば、むねむねしく言ひたつるに及ぶべからず。然かあれば、わきて句をととのへ、詞を飾らず、戯のすさみ、寝覚の独り言などを、誰漏らしけむと、かつはかくまめだち取りなす所をさへ、皆うけひかずやと、憚り無きにしもあらねども、ひたすら我好ける道に、誹りを忘るるは、愚かなる身にも限らざるかと、思許すも、やがて老の僻みにやあらむ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff69e365c35e0732e224f451e70fbc8f
と記されています。
>筆綾丸さん
レスはのちほど。
リリーへの伝言(ペドロ&カプリシャス風)
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A9%E6%AD%8C-89147
早歌の異称として、現爾也娑婆と理里有楽がありますが、前者の「げにやさば」は、おそらく、まことにこの世というものは、くらいの意で、後者の「有楽」は織田有楽斎の有楽と同じで(出典はわかりません)、「理里」は、ことわりのさと、つまり、仏国土のことで、快楽(けらく)は現世ではなく来世にある、という意ですかね(これも出典はわかりません)。
今はもういないと思いますが、早歌とは、たとえば酒席で、爺さんが、
鞭聲粛粛夜過河
暁見千兵擁大牙
遺恨十年磨一刻
流星光底逸長蛇
と、頼山陽の七絶を吟ずる感じでしょうか。
追記
https://www.shigin-fan.net/movie/precious/ryuchishu/
小津安二郎『彼岸花』(1958)で、笠智衆が、
「楠木正行、如意輪堂の壁板に辞世を書するの図に題す」
を吟ずる名場面がありますが、彼岸花というタイトルからも明らかなとおり、この旧制中学の同窓会の酒席での詩吟は、亡き戦友たちへのレクイエムになっていて。映画公開の時(昭和33年)、観客はこの場面で泣いたのだろうな、と思われます。
なお、笠智衆の背後、床間の掛軸の絵が藤原鎌足のように見えるのは、私の錯覚かもしれません。
詩吟は、賊将は誰ぞ高師直・・・で終わっていて、監督の意図は不明ですが、これ以上続けると逆賊のため酒が不味くなる、ということかもしれません。
屋外(?)から聞こえてくる祭り囃子の笛の音が哀れでいいですね。
初期の早歌作者の社会的階層
>筆綾丸さん
レスが遅れてすみませぬ。
さすがに早歌についての四年前の検討よりは何か新しいことを言いたいなあと思って、ちょっと時間をかけています。
正安三年(1301)成立の『撰要目録』には初期の百点ほどの作品が載っていて、その八割は明空作ですが、残りの作品には公家、それもかなり上層の公家が多く、この点で後の時代と相当な違いがあります。
時代が下ると作者は増えますが、その社会的地位は低下するんですね。
そして、初期の作者の多くに後深草院二条との接点が窺えるので、まず間違いなく「白拍子三条」は二条だと思うのですが、ダメ押しの何かがないかと思って探っているところです。
>頼山陽の七絶を吟ずる感じでしょうか。
「早」い歌ですから、当時の他の歌謡と比べるとスピード感があったのでしょうね。
それがどのくらいのものなのかは分かりませんが、確かに漢語の多い詩吟などは感覚的に近いものがあるのかもしれないですね。
『とはずがたり』の政治的意味(その4)
田渕句美子氏の「関東の文学と文芸」(『岩波講座日本文学史第5巻一三・一四世紀の文学』、1995)を見ると、武家社会でも相当に文芸活動が盛んであったことが窺えますが、しかし田渕氏の視点はあくまでも和歌中心ですね。
早歌への言及は僅かに、
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為相は自ら関東祗候廷臣であると言うように、壮年以後関東に本拠を張り鎌倉歌壇を主導した。為相女は久明親王側室となっている。『拾遺風体和歌集』『柳風和歌抄』を撰んだと推定され、連歌でも活躍し『藤谷式目』を作り、早歌の作者でもあって秀れた文化人であった。
鎌倉後期はこのように、和歌と連歌の盛行、独自の文芸早歌の創造と大成など、層の拡大と質の高さ、多彩な活況とを示す。この早歌は明空(月江)により大成され、為相、飛鳥井雅孝(雅有猶子)、藤原広範(茂範の子)、金沢貞顕などが作者として名を連ねる。それにしても長清、明空、仙覚、西円、住信など関東の文学に大きな足跡を残すこれらの人々は、出自さえ定かには知り得ない。
http://web.archive.org/web/20150522012557/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tabuchi-kumiko-kantonobungaku.htm
とあるだけです。
早歌という芸能の概要を知るには外村南都子氏の「歌謡の流れ」(『日本文学新史〈中世〉』所収、至文堂、1990)が便利ですが、早歌には鎌倉後期に鎌倉の武家社会で生まれたという際立った特徴があります。
そして、その創始者は寛元三年(1245)前後に生まれた明空(後に改名して月江)という人物であり、明空は遅くとも三十代くらいまでには早歌を作り始めたようですが、作品が撰集の形で纏められるようになったのはかなり遅れて永仁年間に入ってからであり、明空は既に五十歳前後となっています。
ただ、いったん撰集が始まってからの動きは非常に活発で、
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撰集名と成立年次は次のようである。『宴曲集』一〜五、『宴曲抄』上中下、『真曲抄』(永仁四年〈1296〉、『究百集』(正和三年〈1301〉【ママ】)、『拾菓集』上下(嘉元四年〈1306〉)、『拾菓抄』(正和三年〈1314〉)、『別紙追加曲』、『玉林苑』上下(文保三年〈1319〉、本により前年とも)以上一六一曲。これらの曲の一部をかえたり、小曲を付加したりする異説・両曲という替え歌があり、それぞれ四八ずつ『異説秘抄口伝巻』(文保三年〈1319〉)『撰要両曲巻』(元亨二年〈1322〉)として集大成されている(志田延義編『続日本歌謡集成』巻二、文献4)。各曲の実作の時期は、後期になると撰集とほぼ同時に行われたことがわかり、結局1322年に至る数十年の間に作られたとみられる。
http://web.archive.org/web/20080311114827/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-natuko-kayononagare.htm
という具合に、僅か三十年程度の期間に次々と撰集が編まれて行きます。
そして、この期間は『撰要目録』序文が記された正安三年(1301)までの前期と、以後の後期に大きく分けることができますが、前期は僅か数年の間に百曲ほどが編集されていて、その八割が明空作です。
ということは、明空は既に相当数の曲を書き溜めており、それを永仁年間以降、次々と纏めて行ったものと思われますが、何故にこの時期になったのか。
それはおそらく、明空のパトロンであった金沢北条氏の政治的事情が影響したものと思われます。
金沢実時から数えて三代目の当主・顕時(1248-1301)の正室は安達泰盛(1231-1285)の娘であったため、弘安八年(1285)、顕時は霜月騒動に連座し、出家して下総国埴生荘に隠棲します。
そして八年後の永仁元年(1293)四月、平禅門の乱の僅か五日後に鎌倉に復帰し、十月、北条貞時が引付を廃して新設した執奏の一人に選任されます。(永井晋氏『人物叢書 金沢貞顕』、p12)
明空がいったい何時から金沢北条氏に近付いたのかは不明ですが、金沢北条氏が逼塞状態から脱して幕政の中心に復帰し、精神的にも経済的にも余裕ができるようになって、はじめて明空への支援が活発化した訳ですね。
さて、『撰要目録』序文が記された正安三年(1301)までの前期と、以後の後期では、早歌の作者の社会的階層には顕著な相違があります。
外村南津子氏によれば、
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『究百集』までの百曲は、ほとんどの曲を明空が作曲し、作詞者として、冷泉為相・藤原広範ら東下りの公家、金沢貞顕らの武士、漸空ら僧侶が顔を見せている。ところが、『拾菓集』以後になると、幕府近侍の武士達が作曲者として登場し、明空が作詞してこれら弟子と見られる人々に作曲させたり、共作するなど、養成にあたっていることが知られる。この中で高弟とみられるのが比企助員であり、四曲の作曲と異説一篇を残し、明空最晩年の両曲は助員の要請によって成ったもので、その最後の一二篇は、助員が作り足して完成した(外村久江「早歌『撰要両曲巻』の成立と比企助員」文献20、同「早歌の大成と比企助員」文献22)。その後『異説秘抄口伝巻』を約三十年ごとに相伝して行った宗家的存在の人々も同じ階層の武士であった。
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といった具合です。
「『究百集』までの百曲」というのは『撰要目録』序文が記された正安三年(1301)までの前期の作品ですが、外村氏の「作詞者として、冷泉為相・藤原広範ら東下りの公家」云々という表現は若干不正確で、公家社会の作者の中には京都在住の、それもかなり身分の高い公家が目立ちます。
他方、後期になると作者の幅が相当に広がりますが、しかし、その身分はあまり高くはありません。
いったい、これは何故なのか。
間奏
明空が僧だとすれば、金沢北条氏の菩提寺(称名寺)との関係から、西大寺系の真言律宗の僧で、明空の空は空海の空というようなことになりますか。明は、早歌的に言えば、明烏の明で、
泣く泣く出でし 明け烏 東路の果て 金沢へ・・・てな感じですかね。
白拍子三条こと後深草院二条が真言律宗とどのような関係にあったのか、知りません。
蛇足
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/93300?page=1&imp=0
呉座氏のピンチヒッターかな。
前回の大河では、義経のいる軍議の場に、ブコツな和田義盛がどこかでヒヨドリを捕まえてくるシーンがあったが、鵯越えのパロディとしても変で、意味がわかりません。
また、義円はこれはツグミだと言い、頼朝は義時に、小鳥好きの八重に持って行け、と言っていたが、さらに意味がわかりません。
台所で下働きをする八重が、亀の前への嫉妬から、ツグミを焼き鳥にして頼朝の御膳に添える、というような伏線なのかしら。
『とはずがたり』の政治的意味(その5)
早歌の創始者・明空の出自は不明ですが、外村久江氏は「明空の生涯−浄土欣求の歌謡作者−」(『鎌倉文化の研究』所収、初出は『日本歌謡研究』25号、1987)において次のように推定されています。
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明空の出身は残念ながら不明である。しかし、古今集をはじめ勅撰集や源氏物語以下の物語類・仏典・中国古典等を存分に使いこなし、また、雅楽・声明等のこれまでの音楽・声楽に通じていることを考えると、並々の人ではなさそうである。ただ、晩年に、比企助員を介して、長く幕府引付頭を務めた北条顕実(金沢貞顕兄)の庇護を受けている様子や、助員がもと将軍の外戚で、政権争いで滅亡した家の後裔らしいことなぞ考え合わせると、武家社会の第一線の政治・軍事に参画することは許されないが、この種の教養を身につけることの出来る階層で、宗教・儀礼・娯楽方面には大いに働きえた人、そういう点から考えると、明空もやはり、鎌倉幕府の御家人(将軍直属の臣)の没落した家の末裔ではなかったろうか。
http://web.archive.org/web/20090821120709/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-hisae-myokuno-shogai.htm
早歌の普及・発展に金沢北条家の援助があったことは、明空の宗匠としての地位を受け継いだ二代目・比企助員の代になって明確になりますが、明空自身が財産家であったなら何も永仁年間、五十歳近くになってから撰集を始めることなく、もっと若い時期にやっていたはずです。
また、弘安元年(1278)生まれの「越州左親衛」金沢貞顕の作品が相当早い段階で登場することを考えると、これも巨額の資金援助をしてくれるスポンサーのお坊ちゃまを優遇したと考えるのが自然で、明空の代から金沢北条家が早歌の世界に深く関わっていたことは間違いないと思います。
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「明王徳」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae842c9469091ef7c8930ee108d9daad
さて、前回投稿で触れたように、早歌の創始・発展期の約三十年間は作曲・作詞家リストである『撰要目録』の序文が記された正安三年(1301)を境として前期・後期に分かれますが、前期の作者には公家社会の相当上層の人物が含まれます。
つまり、早歌の場合、民衆の芸能が次第に社会の上層に受け入れられて行くのではなく、いきなり社会の上層が部分的に参加し、以後は作者の範囲は拡大するものの、社会的階層としては低下することになります。
これはいったい何故なのか。
私としては、公家上層の部分的参入は創始者たる明空、そしてその庇護者である金沢北条氏の文化戦略であって、早歌が田舎芸能と見られるのを避けるため、最初に早歌の箔付けを狙ったのではないかと考えます。
ただ、その場合、誰が公家社会の接点となったのかが問題となります。
普通に考えれば、そうした役割は関東伺候廷臣あたりがふさわしいということになりそうですが、この点をもう少し具体的に、前期の早歌作者の具体的人名に即して検討してみたいと思います。
そこで先ずは基礎作業として、『日本古典文学大系44 中世近世歌謡集』(岩波書店、1959)の新間進一による校注を参照させてもらいつつ、拙いながらも『撰要目録』序文の現代語訳を試みることとします。
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序
いったい我が道の郢曲(早歌)は、幼童の口ずさみ、万人の耳を遮る類、様々に多いのですが、愚かな老人である私が選び集めた作品は全部で十巻、合計百に及びます。この内、二十余首は私の作品ではないので、その作者の名前を記憶を辿りつつ記すことにします。これらの中には貴人の命によるものもあれば、私が聞き及んだものもありますが、その中で私の耳に留り、由緒のある作品を先としつつも、都会と田舎の玩びのような作品や世間で広まっている作品も避けてはいないので、定めて誤記もあり、本来の作品を正確に再現したのかもはっきりしないことも多く、後世の誹りを逃れるのは難しいと思われます。まして、私自身が他人の意見を参考にすることなく作った作品は、儚い筆の迷いであって愚かで拙いものです。ただ、私のような老人が鳩の杖にすがることもないまま、幼稚な竹馬のような営みを世間に知らせるためのものであるので、仰々しく主張することもできません。そういった事情なので、特別に調律や修辞の技巧を凝らさず、戯れの口ずさみ、寝覚の独り言のようなものを誰が漏らしているのだろうと、このように真面目になって編集することすら世人の賛成するところではないのでは、などと他人の思惑も気にならない訳ではありませんが、ひたすら自分の好きな道なので、世間の誹りも忘れる程熱中してしまうのは、必ずしも私のような愚かな人間だけの振舞いでもあるまいと自分で慰めるのも、やはり老人のひがみというものでありましょうか。
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いったん、ここで切ります。
非常に謙虚なフリをしながら、満々たる自負が漲っている点で、現代の学者であれば「古筆学」の小松茂美氏あたりを連想させますね。
原文はこちらです。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff69e365c35e0732e224f451e70fbc8f
>筆綾丸さん
>明空が僧だとすれば、金沢北条氏の菩提寺(称名寺)との関係から、西大寺系の真言律宗の僧で、明空の空は空海の空というようなことになりますか。
出家者であることは間違いないのですが、明空の宗派ははっきりしないようですね。
「法華」という天台宗っぽい作品もあれば、「浄土宗」や「曹源宗」といった作品もあります。
老耄鳩杖
小太郎さん
日本古典文學体系44『中世近世歌謡集』を借りてきて眺めていますが、若い頃、『閑吟集』が好きでときどき読んでいたせいか、ついつい、『宴曲集』を中断して、『閑吟集』の方をを見てしまいます。
「撰要目録 序」にある「老耄鳩杖」は、『増鏡』の冒頭を想起させますね。
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(嵯峨の清凉寺に)八十にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖にかかりて参れり。
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また、
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藻鹽草かき集めたる中にも、女のしわざなればとて漏らさむも、古の紫式部が筆の跡、疎かにするにも似たれば、
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とは、この女に対してずいぶんな褒め様(ヨイショ?)で、
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苅萱の打亂れたる様の、をかしく捨がたくて、なまじひに光源氏の名を汚し、二首の歌を列ぬ。
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とは、撰者が、どこを「をかしく捨がた」いと感じたのか、不明ですが、「なまじひに光源氏の名を汚し」たシニカルな批判精神が面白い、ということかもしれませんね。
追記
『撰要目録』の「序」は短いものですが、洞院家と南家の三位(藤三品?)と或女房へ言及した各々の文の量がほぼ同じ、つまり、或女房のものは僅か二作品にすぎないのに、洞院家と南家と同格の扱いを受けているとも言えるわけで、尋常な文章ではありません。この女房の身分の高さを物語っているような気がします。
この二作品は、故あって採った、と言えばすむ話ですから。
『とはずがたり』の政治的意味(その6)
『撰要目録』序文の続き(後半)です。
ここからは六人の代表的作者を取り上げ、それぞれの作品の表現を随所に鏤めつつ簡潔に紹介しており、これ自体が一種の詩です。
そのため現代語訳は極めて困難ですが、無理を承知で、何となく雰囲気が分る程度に訳してみました。
まずは原文です。
-------
抑彼の洞院家の詠作には、瑞を豊年に顕し、孫康が窓、袁司徒が家の雪、ふりぬる跡を尋ねて、情の色をのこし、花の山の木高き砌、三笠山の言の葉にも、道の道たるす直なる世々、五常の乱らざる道を能くし、南家の三の位、風月の家の風にうそぶきて、春の園に桜をかざし、花を賦する思を述べ、足引の山の名を、うとき国までにとぶらひ、なほなほ年中に行ふ事態、霞みてのどけき日影より、霜雪の積る年の暮まで、あらゆる政につけても、君が御代を祝ふ。涼しき泉の二の流れには、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり、藻塩草かき集めたる中にも、女のしわざなればとて漏らさむも、古の紫式部が筆の跡、疎かにするにも似たれば、刈萱の打乱れたる様の、をかしく捨てがたくて、なまじひに光源氏の名を汚し、二首の歌を列ぬ。残りは事繁ければ、心皆これに足りぬべし。よりて今勒する所、撰要目録の巻と名づけて、後に猥りがはしからしめじとなり。此外に出で来り、世にもてなし、時に盛りならむ末学の郢作、善悪の弁へ、人のはちに顕れざらめや。
「撰要目録」を読む。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff69e365c35e0732e224f451e70fbc8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d40419fb4040d03777431b35d63a54a7
次いで、本当に文字通りの拙訳です。
-------
そもそも彼の洞院家の前太政大臣(公守)の詠作(「雪」)は、豊年の予兆である雪、孫康の窓、袁司徒の家に降った雪の故事を尋ねて風流の趣があります。
花山院家の右大将(家教)の作品(「道」)には、道の道たる素直なる世々、五常の乱れぬ道が上手に表現されています。
藤原南家の三の位(広範)は風雅な家風に従って春の園に桜をかざし、花への思いを述べ(「花」)、諸々の山の名前を異国にまで尋ね(「山」)、更に宮中の行事を、霞みのどかな春の日影から霜や雪の積る年の暮まで、つぶさに紹介しつつ我が君が御代を祝います(「年中行事」)。
冷泉家の二つの流れ、冷泉武衛(為相)の「龍田河恋」と冷泉羽林(為通)の「名取河恋」は、それぞれに恋の逢瀬を辿ります。
藻塩草をかき集めた中にも、女性の作品だからといって取り上げないのは古の紫式部の筆の跡を疎かにするような行為なので、刈萱の打乱れた様子も趣深く捨てがたく、あえて光源氏の名を汚して、或る女房の「源氏」「源氏恋」の二首を採りました。
これ以外の人の作品をいちいち取り上げるのも煩雑であり、このあたりで十分でしょう。よって撰要目録の巻と名づけて、後世に混乱をきたさぬように選びました。この外に世間でもてはやし、時に流行するであろう末流の学者の作品も、善し悪しの分別は人々の評判に明らかとなるでしょう。
-------
この序文の後に、
宴曲集巻第一 四季部 ……10曲
宴曲集巻第二 賀部付神祇……7曲
宴曲集巻第三 恋部……9曲
宴曲集巻第四 雑部上付無常……12曲
宴曲集巻第五 雑部下付釈教……12曲
宴曲抄上……10曲
宴曲抄中……11曲
宴曲抄下……9曲
真曲抄……10曲
究百集……10曲
という分類で合計100曲のタイトルが列挙され、その一部に作詞・作曲者の名前が付されています。
「宴曲集巻第一 四季部」の「春」ならば「藤三品作 明空調曲」、同じく「雪」ならば「洞院前大相国家 明空調曲」といった具合ですね。
名前が書かれていない作品は全て明空の作詞作曲です。
>筆綾丸さん
>ついつい、『宴曲集』を中断して、『閑吟集』の方をを見てしまいます。
早歌はいかにも武家社会の芸能らしい無骨さがあるので、芸術的な香気という点では『閑吟集』に負けてしまいますね。
>洞院家と南家の三位(藤三品?)と或女房へ言及した各々の文の量がほぼ同じ
新間進一氏の注には「「南家の三の位」とは、藤三品のことか」(p39)とずいぶん自信なさそうに書かれていますが、『日本古典文学大系44 中世近世歌謡集』は1959年刊行なので、その時点では「藤三品」が誰か不明でした。
早大本が発見されて、その注記から藤原広範であることが明確になった訳ですね。
この点、外村久江氏は『早歌の研究』(至文堂、1965)において、例えば「藤三品」が藤原広範、「二条羽林」が飛鳥井雅孝、「或女房」は阿仏尼などと比定していたところ、その上梓後間もなく、早稲田大学図書館で新しい伝本の存在が確認された上、「早大本のもっとも貴重な点は、作者の傍らに朱の注記があり、これが作者の調査にはまことに好資料」となったのだそうです。
例えば「藤三品」には「広範卿」、「二条羽林」には「雅孝朝臣飛鳥井」との朱注があって、外村氏の研究の正しさが証明された一方で、「源氏恋」「源氏」の作者「或女房」には「白拍子号三条」とあって、阿仏尼との外村説は無理であることが明らかになったそうです。
「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/812300a147aea9cb5f760c2d0b02c991
素人の疑問
『撰要目録』の序において、洞院前大相国家(作品は「雪」)と藤三品(作品は「花」「年中行事」)と或女房(作品は「源氏恋」「源氏」)への言及がほぼ同じ分量なのに、冷泉武衛(作品は「龍田河恋」)への言及は、僅かに、
--------------
涼しき泉の二の流れには、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり、
----------
とあるのみで、前三者とのバランスが悪く、なぜそんな差別をしたのか、と思うとともに、なぜ冷泉家であって、二条家や京極家ではないのか、といったような素朴な疑問が湧いてきます。
『とはずがたり』の政治的意味(その7)
>筆綾丸さん
藤三品の作品は「花」「山」「年中行事」の三つですね。
「三品」にかけた駄洒落、という訳でもないでしょうが。
それと、「涼しき泉の二の流れには、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり」は「冷泉武衛」(為相)の「龍田河恋」と「冷泉羽林」(為通)「名取河恋」の二人分で、為通(1271-99)は二条家の総帥・為世の長男です。
ここで言う「冷泉」は定家の子孫程度の意味のようですね。
二条為道(「千人万首」より)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tamemiti.html
さて、筆綾丸さん御指摘のように、『撰要目録』序文に記された六人の記述のバランスの悪さは私も気になっていました。
そこで、まず純粋に数量的にそれぞれの割合を見てみます。
前回投稿で岩波古典文学大系本に拠って原文を紹介しましたが、新間進一氏が括弧付きで補った部分、例えば「抑彼(の)洞院家の」の「(の)」などを除くと、原文は、
-------
抑彼洞院家の詠作には瑞を豊年に顕し孫康が窓、袁司徒が家の雪、ふりぬる跡を尋て、情の色をのこし、
花の山の木高き砌、三笠山の言の葉にも、道の道たるす直なる世々、五常の乱らざる道を能くし、
南家の三の位、風月の家の風にうそぶきて、春の園に桜をかざし、花を賦する思を述べ、足引の山の名を、うとき国までにとぶらひ、なほなほ年中に行事態、霞てのどけき日影より、霜雪の積る年の暮まで、あらゆる政につけても、君が御代を祝ふ。
涼しき泉の二の流には、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり、
藻塩草かき集めたる中にも、女のしわざなればとて漏らさむも、古の紫式部が筆の跡、疎かにするにも似たれば、刈萱の打乱れたる様の、をかしく捨がたくて、なまじひに光源氏の名を汚し、二首の歌を列ぬ。
-------
と五つに区分されます。
「涼しき泉の二の流には」云々は為相・為通の二人分ですね。
ここで、句読点を除外して各部分の字数を数えると、
「洞院前大相国家」(洞院公守):43
「花山院右幕下家」(花山院家教):40
「藤三品」(藤原広範):101
「冷泉武衛」(冷泉為相)・「冷泉羽林」(二条為通):25
「或女房」:86
合計295字となります。
従ってその割合は、小数点以下四捨五入で、順に、
「洞院前大相国家」(洞院公守):15 %
「花山院右幕下家」(花山院家教):14 %
「藤三品」(藤原広範):34 %
「冷泉武衛」(冷泉為相)・「冷泉羽林」(二条為通):8 %(二人分)
「或女房」:29 %
100%を六等分すれば16.7%ですから、洞院公守・花山院家教は単純平均より僅かに少なく、冷泉為相・二条為通は一人僅か4%なので極端に少なく、その分、「藤三品」藤原広範と「或女房」が極端に多いことになります。
そして、「藤三品」と「或女房」を除く四人の作品数は一つだけですが、「藤三品」は三作品で34%、「或女房」は二作品で29%ですから、作品数で比較すれば「或女房」の割合が突出して高くなりますね。
序文は明空が練りに練って作った文章ですから、単なる偶然ではあり得ません。
このバランスの悪さをどのように考えるべきか。
まず、この六人の順番ですが、これは作品の優劣ではなく、身分的な上下でしょうね。
この中では何といっても洞院公守の従一位・前太政大臣が光ります。
公守は洞院実雄の嫡子で、伏見天皇の母・愔子(玄輝門院、『とはずがたり』の「東の御方」)の異母弟ですね。
洞院公守(1249-1317)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%85%AC%E5%AE%88
花山院家教は正二位・左近衛大将・権大納言と相当高い地位にありましたが、序文が記された正安三年(1301)の四年前、永仁五年に三十七歳で亡くなっていますね。
花山院家教(1261-97)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E6%95%99
藤原広範は嘉元元年(1303)年に亡くなっていて、「藤三品」と呼ばれたように官位は従三位です。
年齢は不明であるものの、相当早くから幕府に仕えていた関東伺候廷臣の学者ですね。
冷泉為相は阿仏尼の息子の関東伺候廷臣で、正安三年(1301)の時点では従四位下。
冷泉為相(1263-1328)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E7%82%BA%E7%9B%B8
二条為道は二条為世の嫡子であり、歌の才能にも恵まれ父から期待されていたようですが、正安元年(1299)、二十九歳の若さで亡くなっており、この時の官位は正四位下です。
女房風情
小太郎さん
丁寧なご教示、痛み入ります。
それにしても、一介の女房風情への配慮が只事ではないですね。
追記
或女房の作の内、「源氏」は六条院の女楽の話なので『雑部』にありますが、『恋部』の「源氏恋」は、あらためてよく読んでみると、出来の良い作とは思えません。
源氏の恋と言えば、空蝉、末摘花、花散里から葵の上、明石の上、紫の上まで多種多様で、かりに彼女たちは省略できたとしても、夕顔と六条御息所は絶対はずせません。この二人を省いたら、光源氏の恋は画竜点睛を欠く、とも言えるのですが、「源氏恋」には一言の言及もありません。また、頭中将の話は、藤壺との関係で触れていますが、なくてもいい話にすぎない。さらに、浮舟と匂宮は光源氏没後の宇治十帖の話であって、源氏の恋とは何の関係もありません。などなど。
要するに、「源氏恋」は中途半端な作品で、むしろ、なぜこんな出来の悪いものを採用したのか、不思議なくらいであって、これは縁故採用だね、としか思えません。
閑話
或女房の作がともに源氏(「源氏恋」と「源氏」)であるというのは、『源氏物語』の名をを借りて、実は、この女房は源氏の出だ、というシャレなのかもしれませんね。
『とはずがたり』の政治的意味(その8)
序文に登場する六人のうち、分量的には「藤三品」(藤原広範)の次に「或女房」への言及が多く、更に作品数を考慮すれば「或女房」の方が「藤三品」よりむしろ重視されているように見えます。
その理由を探るため、『撰要目録』序文に続く百曲の中で明空の作詞・作曲でない作品に付されたコメントを抜き出し、それらの特徴を比較してみたいと思います。
まず、六人の中でも特に身分の高い洞院公守と花山院家教はそれぞれ一曲、しかも作詞だけです。
雪 洞院前大相国家作 明空調曲
道 花山院右幕下作 明空調曲
二人はいずれも関東伺候廷臣ではなく、またその経歴を見ると、おそらく関東に行ったこともなさそうです。
次に「藤三品」(藤原広範)ですが、この人は関東伺候廷臣で、『吾妻鏡』に正嘉元年(1257)から登場しているほどですから明空と直接の面識があっても不思議ではない、というか、おそらく古くからの知人なのでしょうね。
花 藤三品作 明空調曲
年中行事 藤三品作 明空調曲
山 同前 同
なにしろ三曲も書いているのですから、頼まれたから嫌々やったというようなことではなく、早歌が相当に好きだったはずです。
しかし、この人も作詞だけで、作曲は全て明空ですね。
次に「冷泉武衛」(冷泉為相、阿仏尼息)ですが、この人は関東伺候廷臣です。
為相には序文で言及されている「龍田河恋」だけでなく、「和歌」という作品の作者でもあるようですが、「自或所被出冷泉武衛作云々」という何だかすっきりしない書き方です。
龍田河恋 冷泉武衛作 明空調曲
和歌 自或所被出冷泉武衛作云々 明空調曲
序文で「冷泉武衛」とひとまとめになっている「冷泉羽林」(二条為通)は関東伺候廷臣ではないものの、関東に下った経験はあります。
序文では「名取河恋」だけが言及されていますが、もう一曲、「暁別」という曲も作詞しています。
名取河恋 冷泉羽林作 明空調曲
暁別 同前 同
冷泉為相・二条為通の二人は、言及の分量が極端に少ないだけでなく、二人とも二曲書いているのに一曲は無視されている点でも共通で、明空からあまり重んじられていないことは明らかですね。
さて、以上の五人は作詞だけですが、「或女房」は、
源氏恋 或女房作 同調曲
源氏 或女房作 同調曲
ということで、二曲とも作詞のみならず作曲もしており、しかも作曲については他の箇所で見られる「明空成取捨調曲」といった留保もなくて、明空から完全に独立した存在ですね。
そもそも早歌は鎌倉の武家社会で生まれた、文字通りスピード感を特徴とする歌謡なので、鎌倉で実際にその歌唱を聞いたこともない人が、作詞はともかく作曲をするのは無理と思われます。
従って、早歌を自ら作曲できるか否かが鎌倉との関係の重要なメルクマールとなり、「或女房」は鎌倉在住か、あるいは少なくとも関東に下った経験はあると言ってよさそうです。
関東伺候廷臣の藤原広範・冷泉為相、関東に下ったことのある二条為通は、作曲の才能はなかったのでしょうね。
関東に行ったこともなさそうな洞院公守・花山院家教は、明空ないしそのパトロンの依頼で作詞だけしたのではないかと思われます。
以上、序文に登場する六人を比較してみましたが、「或女房」は女性だからということで、古今集の六歌仙になぞらえて無理やり序文に組み込まれた訳ではなく、明空にとって実質的にも相当重みのある存在だったことが窺えます。
>筆綾丸さん
>或女房の作がともに源氏(「源氏恋」と「源氏」)であるというのは、『源氏物語』の名をを借りて、実は、この女房は源氏の出だ、というシャレなのかもしれませんね。
「白拍子三条」が後深草院二条の仮の名であれば、その可能性は高そうですね。
実際、二条の父・中院雅忠は「源氏長者」にもなっていますから、源氏といえば何と言っても村上源氏、それも源通親の子孫でなければ本当の源氏ではないのよ、といった意識は二条にはあったでしょうね。
源氏長者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E9%95%B7%E8%80%85
小悪魔のように
「源氏恋」には、藤壺と朧月夜と女三宮と浮舟しか出てきませんが、もしかすると、『源氏物語』の中で、あなたが好きだと言ってたのは、たしか、この四人だったわね、良い趣味だこと、ふふふ、と出家者の明空をからかっているのかもしれず、そう考えると、「源氏恋」がわかるような気がします。
https://www.ellegirl.jp/celeb/a39433390/emma-watson-jk-rowling-bafta-22-0315/
何の関係もないのですが、エマ・ワトソンがハリポタの作者を揶揄したイギリス人らしい発言です。
『とはずがたり』の政治的意味(その9)
比較のために『撰要目録』序文に登場する六人以外の初期作者も見ておくと、僧侶らしい人が多く、また「不知作者」と記されている作品も多いですね。
百曲の曲名リストにコメントを付しているのは明空で間違いないと思いますが、早歌の創始者である明空が作者を知らないとはどういうことなのか。
まあ、創始者といっても全くの無の状態から特殊な産物を作り上げた訳ではなく、早歌も歌謡のスタイルですから、何らかの流行の素地があるところで明空が魅力的な作品を作り、それを真似する人が大勢出て来た、というようなことかと思います。
ジャズやラップに厳密な意味での創始者がいないように、明空は新しい流行を作り出したグループの最先端にいた人なのでしょうね。
そして、初期作者に僧侶が多く、仏教絡みの作品も多いということは、流行の素地の部分は仏教に関連しているように思えます。
この点、『徒然草』の第188段、「ある人、子を法師になして」という話は興味深いですね。
『徒然草』の中でも有益な人生訓として有名なこの段には、
-------
仏事の後、酒などを勧むることあらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/turez_4.htm
とありますが、早歌は僧侶の社交の道具的な面があることを示唆しているように思われます。
さて、『撰要目録』の初期百曲の作者の話に戻ると、僧侶の中で一番高位なのは「法眼頼順」で、新間氏の注に「法眼大和尚位の略。法印に次ぐ僧位。「任僧綱土代」(続類従)に乾元二年(一三〇三)三月法眼に叙位の僧頼順の名がある。(井浦芳信氏説)」(p43)とあります。
君臣父子道 法眼頼順作 明空成取捨調曲
「明空成取捨調曲」については新間進一氏の注に「曲だけの調整の意か、詞句を選択訂正の上での意か両義に解される」(岩波大系、p41)とあり、私は以前、ちょっと無理な解釈を試みたことがあるのですが、ここは素直に「曲だけの調整の意」と考えるべきだろうと思います。
お経だって音楽的な要素はありますから、僧侶に作曲の才能があっても不思議ではないですね。
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26c6e1bde1b9e0a358f5eb0d5e4e7e3d
次に身分が高そうなのは二曲を作っている「権少僧都頼亮」で、この人も作曲が出来ます。
袖志之浦恋 権少僧都頼亮作 同調曲
十駅 権少僧都頼亮作 明空成取捨調曲
「漸空上人」については後藤丹治氏の研究がありますが、この人は作詞だけですね。
郭公 漸空上人作 明空調曲
早歌の作者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f49010df5521cc5aa7d50c242cec62c6
「春月」は作曲も出来る人で、出家者のようですが、いかなる人物かは不明です。
吹風恋 春月作 同調曲
以上が僧侶ないし出家者らしい人たちですが、作者不明の作品も多いですね。
次の四曲は「宴曲抄中」に連続して出てきますが、同一人物の作品なのかも分かりません。
「懐旧」・「舟」(作者の欄が空白)・「水」も同様です。
文武 自或所被出不知作者 明空成取捨調曲
朋友 同前 同
山寺 同前 同
松竹 同前 同
懐旧 自或所被出不知作者 明空成取捨調曲
船 * 明空成取捨調曲
水 自或所被出不知作者 明空成取捨調曲
ま、誰が作ったのかも分からないけれど、詞はそれなりの出来で、明空が曲だけ手を入れた、ということだろうと思います。
さて、私にとって最も興味深いのは早大本で「越州左親衛」(金沢貞顕)であることが判明した「或人」で、この人は次の二曲に関与しています。
袖余波 或人作 明空成取捨調曲
明王徳 自或所被出之 明空成取捨調曲
「明空成取捨調曲」については、先述したように私は以前の無理な解釈を改め、貞顕は作曲も出来て、明空が曲だけに若干の手を加えたものと考えます。
貞顕は作曲にも手を出す程ですから、早歌に相当に入れ込んでいたようですね。
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「明王徳」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae842c9469091ef7c8930ee108d9daad
「不知作者」ではないので、明空は「或人」が「越州左親衛」金沢貞顕であることを知っていた訳ですが、では何故に明空は貞顕の名を秘したのか。
まあ、おそらくそれは、貞顕の出世に何か悪い影響が出ることを懸念した、といった事情かと思います。
正安三年(1301)の貞顕はまだ二十四歳ですが、ちょうどこの年の三月に父・顕時が死去し、貞顕が兄たちを超越して家督を嗣ぎますので、なかなか微妙な時期ですね。
そして翌年、貞顕は六波羅探題南方として上洛し、以後、出世街道を驀進することになります。
金沢貞顕(1278-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95
>筆綾丸さん
>出家者の明空をからかっているのかもしれず
明空は相当の教養人ですが、『源氏物語』に関する話なので、そもそも明空に「或女房」の作品の是非を判断する能力があったかも問題となりますね。
金沢貞顕という人
金沢貞顕作「袖餘波」は、『源氏物語』を踏まえ、
空蝉
柏木(女三宮)
朧月夜
須磨流謫
ときて、ここで、まるで「須磨がえり」を意識するかのように源氏を離れ、
飛鳥井女君(『狭衣物語』)
へと転じ、最後は、
業平と二条后・伊勢斎宮(『伊勢物語』)
で閉じる、という美しく重層的な構成で、若き貞顕の才気が迸っているような名品ですね。
こういう文人肌の男が老いて、最後は、武人として自刃するというのは、ダンディというか、美学というか、転た羨望の念を禁じえません。
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その1)
今まで金沢北条氏が明空のパトロンであることを前提に論じてきましたが、「或人」が「越州左親衛」(金沢貞顕)だとしても、名門武家の貴公子が流行歌謡に夢中になっただけで、それがパトロン云々の話になるのは変ではないか、と思われた方がおられるかもしれません。
もちろん、従来の研究でも早歌と金沢北条氏の関係は別の観点からも検討されています。
それは明空を嗣いだ一番弟子、比企助員という人物に関係するのですが、「員」という字が想起させるように、この人は建仁三年(1203)の比企氏の乱で殺された比企能員の子孫と思われます。
比企能員
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E8%83%BD%E5%93%A1
外村氏の『鎌倉文化の研究』を読むまでは、百年前に族滅したはずの比企氏にそんな人がいたこと自体が私にとって驚きだったのですが、同時に、『とはずがたり』に「比企」らしき人名が唐突に登場する場面があって、これと何か関係があるのだろうかと感じました。
即ち、後深草院皇子の久明親王が新将軍として鎌倉に下って来る場面で、その準備のために、二条も平頼綱に呼ばれて頼綱邸、ついで新造の将軍御所に向かうのですが、そこに、
-------
「将軍の御所の御しつらひ、外様のことは比企にて、男たち沙汰し参らするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよ」 といはれたる。とは何ごとぞとむつかしけれども、ゆきかかるほどにては、憎いけしていふべきならねば、参りぬ。
http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm
とあります。
ま、この部分は本当に「比企」なのか、「日記」ではないか、という説もあって、私にとっても未だに謎です。
そこで、少し脱線気味になりますが、この人物を検討した外村氏の「早歌の大成と比企助員」(『鎌倉文化の研究』所収、初出は『芸能史研究』76号、1982)という論文を少し紹介しておきます。(p355以下)
-------
一
早歌は鎌倉中期の末頃から流行しはじめた長編の新歌謡である。応仁略記にも、この歌謡の元祖と記されている明空(晩年月江と称す)はその大部分の作詞・作曲者であり、また、歌曲の蒐集・撰集にも終始貢献している。というよりも、現在では早歌については明空の書きのこしたこれらのものによる他は、当時の状態を知ることが出来ないという事情がある。この明空の出自が実は不明で、歌曲の題材やこの人以外の作者の検討などから、鎌倉幕府周辺の社交圏内の人であろうとは想像されるが、はっきりとした事は判っていない。明空がどんな階層に属する人であったかということはそれだけでも興味深いものがあるが、私は、それ以上に、この人の出身が明らかになれば、早歌が何故この東国から創められ、流行しなければならなかったのかという、早歌としてはもっとも核心に迫る問題が解明され、それにともなって、さまざまの疑問が氷解されるに違いないと期待してきた。
ところが最近、その弟子と考えられる比企助員について新しい史料が加わり、その関係から、明空の死没の頃もほぼ推定され、また、早歌の担い手の問題もこの方面からより鮮明になってきた。そこで以下に、比企助員を中心として、この人と明空の関係、ことに助員が早歌の大成にどのような働きをしたかを明らかにし、同時に、早歌とこの社会における役割、すなわち、何故この歌謡が鎌倉幕府下の東国に必要であったのかという問題も考えてみたい。
二
明空の書きのこした撰要目録によると、嘉元四年(一三〇六)三月下旬の識語をもつ拾菓集の序に、
いまは六そぢのあまり、つれなき命のほど、思しらざるべきにしもあらねば、しづかなるすまゐに身をかくして、
ひたすら仏の御名をたのむより外はと、よろづにおもひすて侍しを、のがれがたう、ここかしこより、あながち
にすすめられしかば、なまじゐにうけひき……(以下略)
と記している。彼はこれより五年ほど前までに、宴曲集五十曲・宴曲抄三十曲・真曲抄十曲・究百集十曲の計百曲十巻を撰集し終っていた。究百集の名の通り、百曲で一応この仕事は完了したと考えていたようである。けれどもこの序によれば、周囲はこれを許さず、続いて拾菓集二十曲が作られることになったのであろう。そうして、結局、拾菓抄十一曲・別紙追加曲十曲・玉林苑二十曲と計六十一曲が要望にこたえて次々と創作され、また集められて行ったのである。
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いったん、ここで切ります。
>筆綾丸さん
>若き貞顕の才気が迸っているような名品ですね。
「明王徳」の方はエリートとしての自覚を持って猛勉強している様子が伺えて、これもたいしたものですね。
まあ、文芸作品としてはあまり面白くもないですが。
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その2)
『撰要目録』は「夫れ当道の郢曲は、幼童の口にすさみ、万人の耳にさへぎるたぐひ、様々多しと雖も」で始まる序文の後に十巻・百曲の曲名と作詞・作曲家の名前等が記載されたリストが載り、最後に「正安三年八月上旬之比録之畢 沙弥明空」と記されて、これで一旦完結します。
その後、「いまは六そじのあまり」云々の序と『拾菓集』上下二巻・二十曲のリストが追加され、「嘉元四年三月下旬之比重加注畢」と記されます。
即ち、正安三年(1301)の原リスト成立の五年後、嘉元四年(1306)に追加がなされ、更に正和三年(1314)に再追加、文保三年(1319)に再々追加がなされて、結局、全体で四つの段階に区分されることになります。
この内、序が付されるのは第二段階までで、第二段階の序は、
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いまは六十路の余り、つれなき命の程、思知らざるべきにもあらねば、静かなる住ひに身を隠して、ひたすら仏の御名を頼むより外はと、万を思ひ捨て侍(り)しを、逃れ難う、此所彼所より、あながちに勧められしかば、なまじひにうけひき、上の目録にこそ漏れ侍(れ)ども、なほざりにて止まむも、しかすがなるべければ、重ねて記す。然かあれば、外の家の風に、吹(き)伝ふる言葉の花の匂(ひ)は、先づ先立ちて手折らまほしく、色にうつる数々も、多くこれを選び、拙きそともに、寂しき老木に残る言の葉は、かつは古り果てぬるも珍らしからず。冬枯の梢稀れに人に知られぬ隠家の、深き林に庵を占めし後に、拾ひ集むる業なれば、拾菓集と名づけ、巻を二つに分ちて上下と言へるなるべし。
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というものです。(岩波古典文学大系、p44)
第一段階の序に比べると、有力者の名前を『古今集』序の六歌仙になぞらえて並び立てるといった気負いもなく、「いまは六十路の余り」の心境を淡々と述べるといった趣になっていますね。
この冒頭の一文から、明空は1240年代半ばに生まれたのだろうという推測がなされている訳です。
さて、外村論文の続きです。(p356以下)
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ただ、この拾菓集の頃から、明空にはこれ以前と相違している行動のあることも注目させられる。すなわち、拾菓集を境に、弟子の養成に尽くしはじめている様子がうかがわれるのである。それは、この集の作詞・作曲の記載に珍しいものが出てきていることで察せられる。
比企助員がその一人で、例えば拾菓集下にある「蹴鞠」には「二条羽林作歟 助員調曲明空加取捨」の注記がみられる。作詞の二条羽林は早稲田本の朱注によれば、蹴鞠の家の飛鳥井雅孝とみられるが、それを助員が作曲し、その上、明空が手を入れ取捨を加えて完成させたものである。
こういう取捨の方法はこれまでに見られないことである。拾菓集以前には、明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲することはあった。概して、それぞれの内容に応じて、専門分野の人が作詞する場合が明空以外では多かったから、調曲の際に、詞章の取捨がまず行なわれて、節付けがされる必要があったのであろう。
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いったん、ここで切ります。
外村氏は第一段階の曲にもあった「明空成取捨調曲」を「明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲すること」と考えておられる訳ですね。
私は「曲だけの調整の意」に改説したばかりですが、早歌研究に一生を捧げた外村氏の説明を聞くと、再びグラついてしまいます。
ま、それはともかくとして「二条羽林」が誰かは諸説があったのですが、これも早大本により飛鳥井雅孝であることが確定しました。
飛鳥井雅孝は飛鳥井雅有の甥で、雅有の養子となって飛鳥井家を継いだ人ですね。
飛鳥井雅有(1241-1301)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masaari.html
飛鳥井雅孝(1281-1353)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masataka.html
蹴鞠の家に生まれた飛鳥井雅有は歌人としても著名で、京都と関東を頻繁に往来し、『春の深山路』なども書いた才人です。
その正室は金沢実時の娘なので、早歌の作者であってもおかしくない人ですが、雅有自身の曲は確認されていません。
ただ、「名取河恋」と「暁別」の作詞者「冷泉羽林」(二条為通)は雅有の娘を妻としているので、早歌の世界に近い人であったことは間違いないですね。
そして雅有が「洞院前大相国家」(洞院公守)や「花山院右幕下」(花山院家教)との接点となり、明空とは身分が隔絶したこの二人を早歌の世界に結び付けた可能性もありそうです。
ま、私自身は「白拍子三条」が仲介した可能性を疑っている訳ですが。
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その3)
続きです。(p357)
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けれども、助員の場合は曲も出来てからの取捨で、弟子に手を取って教えている感が濃い。助員のこの作品の他に「文字誉」(拾菓抄)には「宮円上人禅林寺長老 月江成取捨 高階基清調曲」というのがあるが、これも、明空即ち月江が作詞に手を入れている。そして基清に曲を作らせている点、この基清も弟子の一人とみられる。この人は単独でも調曲していて、梅華(拾菓集下)・袖情(同)・暁思留記念(拾菓抄)・善巧方便徳(玉林苑上)・鹿山景(同)等があるが、梅華をのぞき、あとの曲はすべて明空=月江の作詞であるから、すでに調曲し易く作られているといえるので、取捨はもちろん必要がないわけである。梅華は「自或所被出之」とあるものである。基清の他にも、こういう仕方で入江羽林源定宗・菅武衛頼範・因州戸部二千石行時・金沢顕香・左金吾春朝等、晩年になるにしたがって、調曲者がふえて来る。
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うーむ。
「宮円上人禅林寺長老 月江成取捨 高階基清調曲」などという表現と比較すると、「明空成取捨調曲」は「明空が作詞に手を入れて、明空自身が作曲すること」との外村説が正しそうですね。
そうだとすれば、「越州左親衛」(金沢貞顕)は作詞のみということになります。
調曲者の内、高階基清は足利家被官の高一族の人ではないか、などと思って少し調べたことがありますが、今のところ手がかりはありません。
金沢顕香は貞顕の兄・顕実の息子で、「日精徳」(「玉林苑上」)の作曲者「予州匠作」に比定されています。
外村氏は「第四章 早歌の撰集について─撰集目録巻の伝本を中心に」に、早大本によって解明された事項の一つとして、
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(九) 玉林苑上の日精徳の作曲者予州匠作は「顕香」の朱書きがある。この人については、私は竹柏園文庫本に日精徳の作詞者として「頼老・顕香」、作曲者に「与州道作」となっているのをたよりに、金沢文庫で有名な金沢氏の顕時の孫頼茂・顕香の兄弟、特に顕香を比定した(『早歌の研究』四六頁・四七頁)が、これで、金沢顕香と決めてよいようである。柴田氏は筆者の説にふれず六条家の顕香説を出されたが、玉林苑の集められた文保二年二月(或いは三年)には既に従三位となっており、右中将を経ている(公卿補任、文保二年正月五日従三位、前右中将)ので、撰要目録の官職位記載の正確さからみて、予州匠作即ち予州修理大夫とは書かれることはないはずで問題にはならない。
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と書かれており(p291)、「予州匠作」は金沢顕香で確定ですね。
さて、続きです。(p357以下)
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ところで、助員に戻って、この人は蹴鞠の他に、単独で琵琶曲(別紙追加曲)・山王威徳(玉林苑下)・余波(同)の三曲も作曲している。琵琶曲は洞院左幕下家(比定者左大臣実泰)の作詞で、山王威徳は法印忠覚の作詞、余波は内大臣法印道恵(通阿と号す)の作詞で、ともに軽いものではなく、弟子としてもこの頃は十分独立して作曲できる実力を養っていたと思われる。明空=月江の弟子の中でも、助員は比較的早く撰集に載ることやその扱いなどからみて、第一の弟子であったのではなかろうかと察せられる。そう考える理由は次の異説や両曲に関する撰集についての助員の作品・行動をみても言えることである。
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「洞院左幕下家」に比定されている洞院実泰は「洞院前大相国家」(公守)の嫡子で、『園太暦』の公賢の父ですね。
洞院実泰(1270-1327)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saneyasu.html
「法印忠覚」は岩波日本古典文学大系の新間氏の注に「大炊御門冬忠の子、山の僧正忠覚か(後藤博士説)」とあり(p47)、確かに『尊卑分脈』等を見ても「山王威徳」という曲にふさわしい「忠覚」はこの人くらいです。
ところで大炊御門冬忠の名前は『とはずがたり』に二箇所出て来て、最初は巻三の冒頭、二条と有明の月の関係を知った後深草院が述懐する場面に、
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わが新枕(にひまくら)は故典侍大(すけだい)にしも習ひたりしかば、とにかくに人知れず覚えしを、いまだいふかひなきほどの心地(ここち)して、よろづ世の中つつましくて、明け暮れしほどに、冬忠・雅忠などに主(ぬし)づかれて、ひまをこそ人わろく窺ひしか。腹の中にありし折もこころもとなく、いつかいつかと、手のうちなりしより、さばくりつけてありし。
【次田香澄訳】
わたしの新枕はおまえの母(故大納言典侍)から教えてもらったので、とにかくにも人知れず思いを寄せていたが、まだ少年の年ごろで、大人たちに気をつかいながら明け暮れしていたその間に、おまえの母は冬忠や雅忠などの愛人になってしまって、わたしはみっともなくも、隙(ひま)をうかがってこっそり逢っていたものだよ。おまえが母の胎内にあった間も、気に掛かり、生れてからも、まだ赤ん坊のときから、はやく大きくならないかと楽しみに、あれこれかまったりしていたものだよ。
http://web.archive.org/web/20150512043602/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-2-kokuhaku.htm
とあります。
つまり二条の母「典侍大」(四条近子?)が中院雅忠と結婚する前の愛人ないし前夫が大炊御門冬忠ですね。
大炊御門冬忠(1218-68)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%82%8A%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%86%AC%E5%BF%A0
そして二番目は、巻四で鎌倉から戻った二条が奈良の春日社を経て法華寺を訪問した場面に、
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明けぬれば、法華寺へたづね行きたるに、冬忠の大臣の女、寂円房と申して、一の室といふところに住まるるに会ひて、生死無常の情なきことわりなど申して、しばしかやうの寺にも住まひぬべきかと思へども、心のどかに学問などしてありぬべき身の思ひとも、われながらおぼえねば、ただいつとなき心の闇にさそはれ出でて、また奈良の寺へ行くほどに、春日の正の預祐家といふ者が家にゆきぬ。
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という具合いに、「寂円房」という尼の父親として「冬忠の大臣」が出てきます。(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p274)
「法印忠覚」が大炊御門冬忠の息子であれば法華寺の「寂円房」とは同母ないし異母兄妹、または姉弟の関係ですね。
そしてこの二人は二条とも異父兄弟ないし姉妹の可能性もなきにしもあらず、ということになります。
シンガー・ソングライター明空
小太郎さん
岩波の『中世近世歌謡集』によれば、宴曲集・宴曲抄・究百集・拾菓集・拾菓抄では、多くが明空(月江)成取捨調曲、そして、別紙追加曲・玉林苑下では、三作が月江調曲成取捨、となっていて、成取捨と調曲の前後が逆ですが、両者は同じようでもあり、違うようでもありますね。
蹴鞠??助員 調曲
琵琶曲??藤原助員 調曲
聖廟霊瑞誉??藤原助員 調曲
同聖廟超過??藤原助員 調曲
山王威徳??藤原助員 調曲
余波??藤原助員 調曲
助員は、作詞はできないけれども、作曲の才に恵まれていたようですね。作詞も作曲もできた明空(月江)は、現代のシンガー・ソングライターみたいで、さしづめ、井上陽水といったところですかね。
蛇足ながら、左金吾春朝という調曲者がいますが、三遊亭春朝とすれば、落語家としても通用しそうですね。
ちなみに、北村季吟の註釈書は春曙抄、江戸幕府の天文方は(渋川)春海、下関にあるのは春帆楼、大谷崎の変態小説は春琴抄、春廼舎朧は坪内逍遙です。
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その4)
念のため「法印忠覚」について外村久江氏の見解も紹介しておくと、次の通りです。(『早歌の研究』、至文堂、1965、p138)
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【前略】法印忠覚は後藤氏が大炊御門冬忠の子、山の僧正忠覚と比定されたが、嘉元三年(一三〇五)十二月の序のある続門葉和歌集に権少僧都忠覚として、「玉の緒のかゝる憂世に永らへばよその哀れをいつまでか見む」という和歌を残している人と同一人ではないかと考えられる。玉林苑下に集められた時まで十四年間あるので、その頃法印となることも考えられる。続門葉集には同じ早歌の作者たる漸空上人と法印憲淳との贈答歌も載せられており、この憲淳は為相とも交わりがある人で、また、同集に、「あづまにすみ侍りけるに云々」の詞書のある歌詠をのこしているので、交遊圏の上からも充分問題にしてよいようである。
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外村説にはかなり問題があって、『続門葉和歌集』は醍醐寺関係者の歌集ですから「権少僧都忠覚」も醍醐寺の人ですね。
醍醐寺関係者が「山王威徳」という曲を作詞する可能性は皆無ではないか、と私は考えます。
なお、憲淳は『朝日日本歴史人物事典』によれば、
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没年:延慶1.8.23(1308.9.8)
生年:正嘉2(1258)
鎌倉後期の真言宗の僧。醍醐寺報恩院4世として報恩院流の全盛を築く。近衛良教の子で醍醐寺報恩院の覚雅に師事して出家。後宇多天皇の幼少時に侍僧として仕えたことから,のちにその帰依を受ける。延慶1(1308)年には後宇多法皇に小野流の伝法灌頂を授ける。弟子隆勝に付法相承する一方で,法皇寵愛の道順にも法を授ける。このため,憲淳の死後その正嫡をめぐって勢力争いが起こり,法皇の大覚寺統と花園天皇の持明院統の対立へ巻き込むなどして南北朝の争いの一要因を担うことになる。<参考文献>栂尾祥雲『秘密仏教史』(井野上眞弓)
https://kotobank.jp/word/%E6%86%B2%E6%B7%B3-1073439
という人物で、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』には「歌人として知られ,「続(しょく)門葉和歌集」の撰定にかかわり,同集の序文をかいたとされる」という追加情報もありますね。
私も一時期、後宇多院の密教受法に興味を持って、憲淳・隆勝・道順などの周辺を少し調べたことがあるのですが、真言密教の話は難しくて、結局何だかよく分かりませんでした。
ただ、隆勝は四条隆行息で後深草院二条の母方の又従弟、道順は久我通能息、後深草院二条の父方の従兄弟であって、寺院社会も最上層部は公家社会のカーボンコピーだな、などと思ったことがあります。
辻善之助「第十四節 密教興隆」(『日本仏教史 第三巻中世篇之二』)
http://web.archive.org/web/20061006214458/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tuji-zennosuke-mikkyokoryu01.htm
辻善之助「両統対立の反映として三宝院流嫡庶の争」(『日本仏教史之研究 続編』)
http://web.archive.org/web/20061006214342/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tuji-zennosuke-sanpoinryu.htm
藤井雅子氏「後宇多法皇と「御法流」」(『史艸』37号、1996)
http://web.archive.org/web/20061006214409/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/fujii-masako-gouda.htm
真木隆行氏「後宇多天皇の密教受法」(大阪大学文学部『古代中世の社会と国家』、清文堂、1998)
http://web.archive.org/web/20061006214421/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/maki-takayuki-gouda.htm
横内裕人氏「仁和寺と大覚寺─御流の継承と後宇多院─」(『守覚法親王と仁和寺御流の文献学的研究・論文篇』、勉誠社、1998)
http://web.archive.org/web/20150821011139/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yokouchi-hiroto-ninnajitodaikakuji01.htm
結局、私としては「法印忠覚」は大炊御門冬忠息でよいのでは、と思います。
外村氏は大炊御門冬忠息の「忠覚」と鎌倉社会との接点を見出せなかった訳ですが、「白拍子三条」が後深草院二条であれば、一応の接点はあることになります。
ま、寺院社会の人ですので、他の鎌倉ルートの可能性ももちろんあるとは思いますが。
>筆綾丸さん
>左金吾春朝
この人については外村氏の『早歌の研究』に詳しい考証があるので、後で紹介します。
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その5)
早歌の研究水準は外村久江氏(1911-94)によって格段に向上していて、外村氏以前の段階では早歌が鎌倉中心の歌謡であることもきちんと意識されていませんでした。
早歌の作者も『尊卑分脈』や『公卿補任』の索引で適当な人を見つけて、何らかの補強材料があればそれで決まり、程度の考証が多かったのですが、外村氏は鎌倉との関係があるかを厳密に問い直し、従来の学説の誤りを相当修正されています。
もちろん「法印忠覚」のように外村説にも若干の問題はありますが、外村氏が『早歌の研究』(至文堂、1965)で仮説として比定していた人名が早大本の発見により実証された例が多いように、その研究水準は極めて高いですね。
さて、筆綾丸さんが言及された「左金吾春朝」は外村氏の推論の方法を見る上でちょうどよい素材なので、『早歌の研究』所収の「第三章 早歌の流行と鎌倉の武士たち」という論文から、「左金吾春朝」関係の部分を少し引用してみます。
この論文は、
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はじめに
一 左金吾春朝
二 因州戸部二千石行時・附「永福寺勝景」「同砌并」
三 左金吾藤原宗光
四 藤原助員・藤原親光・平義定
五 武士社会における早歌の盛行
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と構成されていますが、外村氏の問題意識を確認するため、「はじめに」も紹介しておきます。(p56)
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はじめに
前章は「早歌の成立と金沢氏」と題して、金沢貞顕(越州左親衛)・その甥顕香・顕茂(与州匠作)が作者の比定者に考えられることと、この家がその成立に重要な位置を占めていることを記したが、これに関連して、鎌倉幕府の上層武士たる御家人や北条氏の被官たちが、創始成立に主導的な役割を果たしていることが考えられる。それで、以下に鎌倉武士の作者に比定せられる、左金吾春朝・因州戸部二千石行時・左金吾藤原宗光・藤原助員・藤原親光・平義定につき述べ、且つ、それらの作品が早歌の諸作品の中で如何なる位置にあるかを考察したいと思う。
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この段階では外村氏は「与州匠作」を金沢顕茂と推定されていた訳ですが、後に早大本によって顕香であることが判明した訳ですね。
続きです。(p56以下)
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一 左金吾春朝
左金吾春朝は「寝寤恋」(玉林苑下)「琴曲」(同)の作曲者である。前田家本「平氏系図」並びに正宗寺蔵書「先代一流」に
備前守 三郎 修理亮 ○○(正宗寺本兵庫頭)
義時─朝時─時長─長頼─※長─春朝
【※ 草冠に「馬」】
とある春朝ではないかと思われる。この家については、故関靖氏が「金沢文庫の研究」中で、
「又(ロ)(ハ)(共に群書類従収載の系図を指す。……筆者註)には実時に二人の女子を挙げている。その註書に二人には
備前三郎長頼妻とあり、他に二条侍従雅有室とある。長頼は備前守時長の子で、定長の舎弟である。系図にはその妻を掲げ
ていないので、傍証することは出来ないが、名越氏と金沢氏は甚だ近しい関係があり、その兄の定長は実時の所領六浦庄
富岡に住んで、東漸寺を開き、東漸寺殿を以て呼ばれている位であるからその弟の長頼が実時の娘を妻としたこともあり得
べきことである。」
と述べられており、これによると、同じ北条氏中でも金沢氏と特に深い関係にあた家である事が判る。
金沢氏は前述の通り貞顕をはじめ、顕茂乃至顕香等の作者の比定者を出しており、その上、金沢文庫には早歌の最も古い断片を遺していて、早歌の大成には並々ならぬ関係がうかがわれるのである。早歌が従来「綴れの錦」といわれていて、王朝の公卿的教養を継承して成った歌謡であることを考えると、この関東では金沢家は最もこういった方面にも先駆的な役割を果たしているので、作者を何人か出していることもあまり不思議ではない。同じ北条氏一族中でも、このような家と、特に近い関係にあった春朝を早歌の作者に比定することは、早歌作者の交友圏の上からも妥当であるように思われる。ただこの春朝は正宗寺本では兵庫頭となっており、目録では左金吾とあって、この点に問題がある。しかし、玉林苑は文保三年(一三一九)二月に書かれているので、この時左金吾であったとし、兵庫頭は最終の経歴を記したものと解すると、必ずしも別人と断定することもできない。北条氏の一門の若い人々は左金吾は普通である上に、又北条氏は勿論他氏に於いても春朝という名は案外例が少ないのである。
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「左金吾」は左衛門督の唐名で、確かに「北条氏の一門の若い人々は左金吾は普通」ですね。
そして「春朝」という珍しい名前ですから、名越氏の春朝で良いのでしょうね。
外村氏はこんな具合に考察を進め、
因州戸部二千石行時(「永福寺勝景」「同砌并」の作曲)……二階堂行時
左金吾藤原宗光(「鹿島霊験」「同社壇砌」の作詞)……二階堂宗光
藤原助員(蹴鞠」「琵琶曲」「山王威徳」「余波」の作曲)……比企助員
藤原親光(「紅葉興」「屏風徳」の作詞作曲)……結城親光
平義定(「遊仙歌」の作詞)……三浦義貞
という結論を出されています。
この内、例えば藤原親光について、「後藤丹治氏は、北家長家流大炊御門光能の子親光と同一人ではあるまいかと記されている」(p64)そうですが、年代が古すぎる上に関東との関係がありません。
外村氏は「そこで私は武士中で一人比定者を出したい」(p65)ということで結城親光について検討されます。
結城親光は建武政権における「三木一草」の一人で、尊氏暗殺計画など武人としてのエピソードは豊富ですが、文芸関係の事績は確認されていないようです。
しかし、早歌作詞・作曲の教養人であれば、後醍醐に積極的に近づこうとした親光の背景を知るひとつの手がかりとはなりそうですね。
結城親光(?-1336)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E8%A6%AA%E5%85%89
秩石
小太郎さん
春朝は、高氏一族の師冬、師夏、師秋、師春を連想させますね。ホイジンガ「中世の秋」ならぬ「中世の四季」(ヴィヴァルディ作)です。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%83%E7%9F%B3
中世は貫高制で、石高制は織豊時代以後なので、因州戸部二千石行時の二千石が理解できず、崩し字の誤読ではあるまいか、と思いましたが、これは漢の時代の秩石を表すものなのですね。知りませんでした。
転用として、二千石が地方長官を指す、とあるので、因州二千石は因幡守になりますか。戸部が何処を指すのか、わかりません。
後宮佳麗三千とか、白髪三千丈とか、中国では、三千は際限のないものを表すので、そうか、二千とは三千に一千も足らないのか、とちょっと笑えますね。
春朝の父ですが、草冠に「馬」と書いて、どう読むのか、ナゾナゾみたいな諱で、残念ながら、ウマい読み方ができません。
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その6)
>筆綾丸さん
>戸部が何処を指すのか
戸部は民部省の唐名ですね。
「因州戸部二千石行時」についても外村氏の説明を紹介しておきます。(p57以下)
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二 因州戸部二千石行時・附「永福寺勝景」「同砌并」
次に因州戸部二千石行時について述べよう。この人の作品は「永福寺勝景」(玉林苑上)「同砌并」(同)の作曲をしている。前述の如くこの玉林苑は文保三年(一三一九)二月の撰集である。この時に因幡守の家の人で戸部即ち民部関係の官職の人、この条件に相応する人は誰であろうか。この頃、因州と呼ばれた一人は、工藤二階堂行政の系統の行佐である。しかもその子に民部丞になった行時があるので、この人ではないかと思われる。
工藤二階堂系図(尊卑文脈)
【略】
行佐が因幡守になったのは文永九年(一二七二)七月廿一日で、建治三年(一二七七)二月十四日(尊卑分脈では三月)に出家、同六月五日に卒した(関東評定伝)。彼の家はこれ以来因州を冠して呼ばれていたらしい。行佐の弟行重の玄孫の一女子の肩書に「因幡三郎左衛門尉行清妻」と記されており、行清は行時の孫で、行佐以来因幡守になった人はこの家にいないから、彼以来こう呼ぶ習慣があったことが判る。
二階堂家は鎌倉幕府の創業時代の行政以来、行光・行盛・行泰・行佐と代々文筆に秀でていて、特に三代将軍実朝の頃は行光の邸で将軍を招いて和歌・管弦等の遊宴が催されたことが吾妻鏡に見られ(建保元年十二月十九日)、鎌倉の御家人中では伝統文化の面で特に秀でた家の一つである。行光の息行盛、行光の弟行村等は北条泰時の評定衆設置に当って、中原・三善・大江と共に政務に通じた家柄の一として選ばれてその任に就き、後も代々この要職にあって鎌倉時代末期に及んでいる。行時は正安三年(一三〇一)八月廿四日出家し行勝と云った。正安三年十月に書かれたと思われる金沢貞顕の書状に、前民部少輔行時とあるのはこの人のことであるらしく、また元亨元年と考えられる他の一通には因州戸部禅門と出て来、この書状によると病気であった様子で、その後、円覚寺文書北条貞時十三年忌供養記に因幡民部大夫と出て来るのはその子行憲のことであろうが、当時の幕府及び北条氏関係の人々が殆ど列挙されている中に彼の名がないのはこの元亨三年(一三二三)には既に病没していたためではなかろうか。それはとにかく彼が金沢貞顕と特に近い関係にあったことがこれらの書状に於てうかがわれる。
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いったん、ここで切ります。
『尊卑文脈』で二階堂氏の系図を見ると、行政の子の行村・行光の代で隠岐流・信濃流に大きく分れ、その後、それぞれが複雑に分岐して行っており、鎌倉時代における二階堂氏の隆盛を窺うことができますね。
二階堂氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E6%B0%8F
行時の父・行佐は建治三年(1277)に没していますが、『尊卑分脈』によれば享年は四十一歳です。
ということは嘉禎三年(1237)生まれであり、仮に行時が父の二十五歳の時の子とすると弘長元年(1261)生まれで、正安三年(1301)の出家時には四十一歳となりますね。
「彼が金沢貞顕と特に近い関係」であったとしても、金沢貞顕は弘安元年(1278)生まれなので、貞顕よりは相当年上の人ですね。
さて、続きです。(p59)
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彼が作曲したと考えられる作品の題材となった永福寺は源頼朝が奥州の藤原氏の中尊寺大長寿院を模して造営した二階堂と、その廻りに泉石の美を経営したので有名であり、この一族の家も近くにあったので、二階堂の名を冠している。又前述の行光の弟行村(山城判官)は二階堂の事を奉行するように命ぜられているので、単に近隣にあったという関係ばかりでなく、一族とこの寺とは、特別縁が深い様子で、その後も何かと密接な交渉があったのであろうと思われる。それに、行佐の弟の行重ではないかと思われる人物が琵琶の相伝を、一族の宗藤・知藤が笙の相承をうけている事等を考え合せ、題材の面、環境及び交遊の面から二階堂行時は、この早歌の作者として、相応しい人物と考えられる。
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「行佐の弟の行重ではないかと思われる人物が琵琶の相伝を、一族の宗藤・知藤が笙の相承をうけている事等」に付された注(4)を見ると、
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(4)文机談「廷尉従五位下藤原行重このなかれをうく。但流泉の曲をは孝行にうけり。」
続群書類従管弦部鳳笙師伝相承
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とありますが、『文机談』を確認したところ、全五冊の最後の最後、聞き手として設定されている尼と作者・隆円とのやり取りの直前に「廷尉従五位下藤原行重」云々の一文がありますね(岩佐美代子『校注文机談』、笠間書院、1989、p154)。
その少し前には隆円の師匠・藤原孝時から教えを受けた人として「西園寺大納言実兼」「中納言公宗」「東院【ママ】中納言公守」等の名前が登場し、更に孝時の娘「刑部卿局」から教えを受けた人として大宮院・東二条院、そして後深草院の名前も出てきます。
二階堂行時は作詞ではなく作曲の才能に恵まれた人ですが、叔父が琵琶の相承を受けるほどの人であったら、行時も琵琶を習っていた可能性はありそうです。
そして、行時と同世代の後深草院二条は、
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琵琶は七つの年より、雅光の中納言にはじめて楽二三習ひて侍りしを、いたく心にも入らでありしを、九つの年より、またしばし御所に教へさせおはしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合・万秋楽などはみな弾きて、御賀の折、白河殿くわいそとかやいひしことにも、十にて御琵琶をたどりて、いたいけして弾きたりとて、花梨木の直甲の琵琶の紫檀の転手したるを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして、折々は弾きしかども、いたく心にも入らでありしを、
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f
と書いているので、仮に「白拍子三条」が後深草院二条であって、鎌倉滞在時に何かの機会で二階堂行時と会ったならば、きっと二人は琵琶談義に花を咲かせたことだろうと思います。
なお、『文机談』には「久我太政大臣通光のおとど」「御嫡子右大将通忠」「その御をとうと中納言雅光」も登場し(『校注文机談』、p116)、雅光については重ねて、
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一、久我中納言雅光卿、この孝経にならひ給き。灌頂の後いくほどなくてうせ給にき。御比巴がらあしからず。
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とあって(p129)、琵琶灌頂を受けた相当の名手であったようであり、琵琶の腕前についての二条の自負も、まんざら根拠のないことではなさそうです。
また、「白拍子三条」が後深草院二条なら、琵琶との関係でも「洞院前大相国家」公守との接点が出て来ることになります。
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その7)
「第三章 早歌の流行と鎌倉の武士たち」で、個別の事例分析を総括した第五節「武士社会における早歌の盛行」も、その最後の部分を引用しておきます。(p75)
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以上鎌倉武士で早歌の作者と考えられる人々につき、早歌の成立に重要な役割を占めている事を述べて来たが、それではこのような人々が輩出する為の、文学方面、特に本題と密接な関係にある音楽方面の系譜が彼等に辿れるであろうか。この点についての詳細は別の機会に述べたいと思うが、概して、源頼朝・北条泰時をはじめ鎌倉幕府代々の将軍及び執権は音楽について熱心な人が多かった。特に公家将軍頼経は小侍所の番毎に芸能の堪能な一人を必ず加える事を命じ、手跡・弓馬・蹴鞠・管弦・郢曲等志に随って一芸を修めるように小侍所別当北条実時に命じている。頼嗣将軍も近習に対し、同様一芸修練を要請していて、宮将軍宗尊親王も同様であった。いきおい幕府に直接近侍する御家人等はその子弟を以上の芸能のお役に立つよう要請せざるを得なくなったのでその中には、管弦・郢曲の達者も交ることになったと思われる。これらは勿論雅楽や催馬楽・今様・朗詠等の伝統的な音楽であるが、こういう貴族的なものの流入を多分にもって成立している早歌にとっては、以上の事は注目すべき事実である。
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いったん、ここで切ります。
外村氏は「音楽方面の系譜」を源頼朝まで遡らせ、特に摂家将軍の頼経・頼嗣の二代を重視されていますが、ただ、早歌の創始者であり大成者である明空は1240年代半ばに生まれているので、摂家将軍の時代を直接に知っている訳ではありません。
私としては、明空に直接の影響を与えた音楽的環境は宗尊親王の周辺にあったのではないかと考えています。
この点、外村氏も次のように宗尊親王に着目されてはいますが、その時代に格別の重要性は認められておられないようです。(p75以下)
-------
所で、私がこれまで考究した早歌の作者の比定者には、鎌倉幕府に近似した人々の子孫が多く見られる。前章に述べた、越州左親衛の金沢貞顕の父・祖父である顕時・実時共に宗尊親王の幕府に於て、芸能に堪能な人々を選んだ昼番衆に入っている。同様の番衆の中には、因州戸部二千石行時の二階堂行時の父行佐も活躍している。この他行佐兄行頼、弟行重も同様であり、作者宗光の兄行宗も活躍している。作者春朝の祖父備前三郎長頼も番衆の一人であるが、この一族長頼の叔父教時・時基・従兄公時も皆その一員である。吾妻鏡に見られる範囲内では父兄や祖父であるが、もし後々もこのような幕府の行事記録があれば、早歌の作者等は多分父祖同様幕府に於て同方面に活躍していたことであろうと推察せられる。また早歌の作者中には雲岩居士のような北条氏の被官もいるが、藤原助員も御家人というよりは北条氏の庇護下にあった人であろうと思われる。早歌の成立期は北条氏の権力が増大しその被官等も地位を高めた鎌倉時代末期であったから、これを反映して御家人と並んで堂々作者となっているのではあるまいか。鎌倉幕府上層武士が本来の乱舞宴酔といった無礼講ばかりではなく、幕府に於て半ば儀式に近い宴を多く持たざるを得なかった事、その習慣が幕府以外の武士間の交遊圏にも浸潤してくる、そういった環境に醸成せられて結晶されたものがこの早歌ではなかったろうかと考えられるのである。
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明空は1240年代半ばに生まれているので、宗尊親王が鎌倉を追放された文永三年(1266)までにはそれなりに音楽に接していたでしょうが、しかし、その作品が撰集の形で纏められるのは永仁年間で、その間、相当の空白期間があります。
そして、『吾妻鏡』の最終記事は宗尊親王追放なので、それ以降の「幕府の行事記録」は僅少であり、早歌の萌芽期の実態をつかむのは困難です。
ただ、外村氏の研究に照らせば、この長い空白期間において明空の活躍を準備したのは金沢北条氏であることは間違いなさそうです。
その点は、既に『早歌の研究』(至文堂、1965)の「第二章 早歌の成立と金沢氏」で相当に明確になっているのですが、以後も外村氏は金沢氏周辺を探って自説を補強され、その成果が『鎌倉文化の研究』(三弥井書店、1996)の「早歌の大成と比企助員」等に結実している訳ですね。
なお、「雲岩居士」は小串範秀で、金沢貞顕と足利氏の関係を考える上でかなり重要な人物です。
高義母・釈迦堂殿の立場(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/353124b361d535704d03c1411784328b
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その7)
投稿者:鈴木小太郎??投稿日:2022年 3月28日(月)13時54分49秒
「第三章 早歌の流行と鎌倉の武士たち」で、個別の事例分析を総括した第五節「武士社会における早歌の盛行」も、その最後の部分を引用しておきます。(p75)
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以上鎌倉武士で早歌の作者と考えられる人々につき、早歌の成立に重要な役割を占めている事を述べて来たが、それではこのような人々が輩出する為の、文学方面、特に本題と密接な関係にある音楽方面の系譜が彼等に辿れるであろうか。この点についての詳細は別の機会に述べたいと思うが、概して、源頼朝・北条泰時をはじめ鎌倉幕府代々の将軍及び執権は音楽について熱心な人が多かった。特に公家将軍頼経は小侍所の番毎に芸能の堪能な一人を必ず加える事を命じ、手跡・弓馬・蹴鞠・管弦・郢曲等志に随って一芸を修めるように小侍所別当北条実時に命じている。頼嗣将軍も近習に対し、同様一芸修練を要請していて、宮将軍宗尊親王も同様であった。いきおい幕府に直接近侍する御家人等はその子弟を以上の芸能のお役に立つよう要請せざるを得なくなったのでその中には、管弦・郢曲の達者も交ることになったと思われる。これらは勿論雅楽や催馬楽・今様・朗詠等の伝統的な音楽であるが、こういう貴族的なものの流入を多分にもって成立している早歌にとっては、以上の事は注目すべき事実である。
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いったん、ここで切ります。
外村氏は「音楽方面の系譜」を源頼朝まで遡らせ、特に摂家将軍の頼経・頼嗣の二代を重視されていますが、ただ、早歌の創始者であり大成者である明空は1240年代半ばに生まれているので、摂家将軍の時代を直接に知っている訳ではありません。
私としては、明空に直接の影響を与えた音楽的環境は宗尊親王の周辺にあったのではないかと考えています。
この点、外村氏も次のように宗尊親王に着目されてはいますが、その時代に格別の重要性は認められておられないようです。(p75以下)
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所で、私がこれまで考究した早歌の作者の比定者には、鎌倉幕府に近似した人々の子孫が多く見られる。前章に述べた、越州左親衛の金沢貞顕の父・祖父である顕時・実時共に宗尊親王の幕府に於て、芸能に堪能な人々を選んだ昼番衆に入っている。同様の番衆の中には、因州戸部二千石行時の二階堂行時の父行佐も活躍している。この他行佐兄行頼、弟行重も同様であり、作者宗光の兄行宗も活躍している。作者春朝の祖父備前三郎長頼も番衆の一人であるが、この一族長頼の叔父教時・時基・従兄公時も皆その一員である。吾妻鏡に見られる範囲内では父兄や祖父であるが、もし後々もこのような幕府の行事記録があれば、早歌の作者等は多分父祖同様幕府に於て同方面に活躍していたことであろうと推察せられる。また早歌の作者中には雲岩居士のような北条氏の被官もいるが、藤原助員も御家人というよりは北条氏の庇護下にあった人であろうと思われる。早歌の成立期は北条氏の権力が増大しその被官等も地位を高めた鎌倉時代末期であったから、これを反映して御家人と並んで堂々作者となっているのではあるまいか。鎌倉幕府上層武士が本来の乱舞宴酔といった無礼講ばかりではなく、幕府に於て半ば儀式に近い宴を多く持たざるを得なかった事、その習慣が幕府以外の武士間の交遊圏にも浸潤してくる、そういった環境に醸成せられて結晶されたものがこの早歌ではなかったろうかと考えられるのである。
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明空は1240年代半ばに生まれているので、宗尊親王が鎌倉を追放された文永三年(1266)までにはそれなりに音楽に接していたでしょうが、しかし、その作品が撰集の形で纏められるのは永仁年間で、その間、相当の空白期間があります。
そして、『吾妻鏡』の最終記事は宗尊親王追放なので、それ以降の「幕府の行事記録」は僅少であり、早歌の萌芽期の実態をつかむのは困難です。
ただ、外村氏の研究に照らせば、この長い空白期間において明空の活躍を準備したのは金沢北条氏であることは間違いなさそうです。
その点は、既に『早歌の研究』(至文堂、1965)の「第二章 早歌の成立と金沢氏」で相当に明確になっているのですが、以後も外村氏は金沢氏周辺を探って自説を補強され、その成果が『鎌倉文化の研究』(三弥井書店、1996)の「早歌の大成と比企助員」等に結実している訳ですね。
なお、「雲岩居士」は小串範秀で、金沢貞顕と足利氏の関係を考える上でかなり重要な人物です。
高義母・釈迦堂殿の立場(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/353124b361d535704d03c1411784328b
冬(Allegro non molto)
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私は二階堂むぎ焼酎の文学的なテレビCMが好きで、ときどき飲んでいますが、前回の「鎌倉殿の13人」では、京下りの官人として、大江広元・中原親能とともに、二階堂氏の祖が藤原主計允行政(野仲イサオ)として登場していました。
二階堂氏と言うと、『吾妻鏡』に、建保6年(1218)12月26日、実朝の右大臣拝賀のための奉行を大夫判官行村とする、という記述がありますが、昔、実朝暗殺に何か関係があるのではないか、などと考えたことを思い出します。
亀の前事件では、牧の方が政子に告げ口をする場面で、BGMとしてヴィヴァルディ『四季』第4番「冬」の第1楽章(Allegro non molto)が流れ、ちょうど、ホイジンガ「中世の秋」ならぬ「中世の四季」(ヴィヴァルディ作)などと戯れ言を書いていたので、ビックリしました。
とともに、なぜ「冬」なのか、と思って『吾妻鏡』を見ると、事件は寿永元年(1182)11月の仲冬に発生しています。音楽担当はエバン・コールというアメリカ人で、演出家から、この事件は冬なので冬の音楽にせよ、と指示されたとも思えず、偶然の一致だろうけれど、「冬」第1楽章は嵐の前の曲なので、BGMとしてピッタリでした。
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その8)
『撰要目録』の第二段階の序文に「いまは六そじのあまり」とあって、これが「嘉元四年三月下旬之比重加注畢」ですから、嘉元四年(1306)から(数えの年齢であるので)59を引き算して、明空の生年は宝治元年(1247)前後となります。
ただ、「六そじのあまり」と言っても四捨五入して六十になるような用例もあるようなので、生年は1250年代初めの可能性もありますね。
いずれにせよ、明空は文芸や音楽などの文化的活動が活発だった宗尊親王の時代の雰囲気は知っていたはずですが、文永三年(1266)になると宗尊親王が不可解な事情で鎌倉を追放されてしまいます。
『容疑者Mの献身』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d4a1f9b005f64433725e626cc367b7f4
「巻七 北野の雪」(その11)─宗尊親王失脚
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d2dc607027cdaf8a10a74526fb0f3c7
そして二年後の文永五年(1268)にはフビライの国書を持参した高麗の使者が太宰府に来ますが、幕府は返書を送らず追い返し、以後、対外的緊張が高まる中、文永九年(1272)には鎌倉で名越時章等、京都で六波羅南方北条時輔が殺される二月騒動が起きます。
『とはずがたり』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c92d56320b834026aea6cfd673d3fcc
『五代帝王物語』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bd1ccb41cc6bef78e04218bd13df9c4
金沢貞顕の恐怖の記憶
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/096bb952f1ddd3d4d767277c56195f74
ついで文永十一年(1274)には文永の役、弘安四年(1281)には弘安の役と本格的な戦争の時代となって、文芸や音楽にとっては「冬の時代」が続いたものと思われます。
そして、二度の元寇の後も侵攻への警戒を緩めぬ体制の中で、弘安九年(1285)に霜月騒動が勃発し、安達泰盛の娘を正室としていた北条顕時は逼塞を余儀なくされます。
霜月騒動の頃には明空は四十歳前後になっていますので、既にそれなりの音楽活動を行っていたでしょうが、正応六年(1293)、平禅門の乱で平頼綱が滅ぼされるまでは金沢北条氏の支援を得られなかったのではないかと思われます。
そのため、金沢北条氏の庇護の下、寺院社会・武家社会、そして公家社会の人を含め、多数の協力を得て作品を撰集の形にまとめることができたのは更に数年を要し、正安三年(1301)まで遅れたのではないか、というのが私の一応の推測です。
>筆綾丸さん
筆綾丸さんの御指摘を受けるまでは「因州戸部二千石行時」に関する外村久江氏の説明は軽く読み流していたのですが、単に金沢貞顕に近いだけでなく、その叔父に琵琶の相伝を受けた人がいて、『文机談』の跋文に近いところに登場していることにはびっくりしました。
前々から『文机談』は気になっていたのですが、公武社会の交流という観点からも本格的に調べないといけないなあ、などと思っています。
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岩佐美代子『文机談全注釈』
楽人たちのやり直しのきかぬ、真剣勝負の面白さ。
録音技術もなかった当時、ぬきさしならぬ一回の真剣勝負に生命を賭け、歴史の中に埋没していった楽人の生きざまを、如実に写しとどめた、中世音楽史の魅力溢れる逸話の数々。
中世楽家、琵琶「西流」師範家、藤原孝道・孝時にかかわる音楽史と、いろんな分野の有名人が琵琶でつながっている、そうしたエピソードを綴った物語。
ようやく人を得て、翻刻・現代語訳対象の読みやすい2段組みでその全貌が明らかになる。
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305703637/
応仁の乱で家を焼かれた人は多いが、家を建てたのは呉座先生だけだろう
https://tkj.jp/campaign/bunkogp/kanbi/
平居紀一『甘美なる誘拐』を読んで、才能のある人だなあ、と感心するとともに、大森望の解説にビックリしました。
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応募時の筆名は呉座紀一。「呉座勇一先生の愛読者だから」という理由でつけたとのことだが、さすがに似すぎているので版元から変更を求められ、現在の「平居紀一」に落ち着いた(平居は中島京子「小さなおうち」の登場人物・平居時子から)。
呉座勇一の一般向けの著書はもちろんすべて読破。「いちばん目から鱗だったのは『一揆の原理』で、時代劇でイメージしていたのと全く違うのである。一揆は二人でもできる。日本史のダイナミズムとビビッドさを感じる。応仁の乱で家を焼かれた人は多いが、家を建てたのは呉座先生だけだろう」とツイートして、これが呉座ファンの目にとまって大いにバズっていたのはご同慶の至り。(407頁)
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平居紀一は現役の医師だそうで、作品を読んだ印象では専門は内科・精神科のような気がしますが、『甘美なる誘拐』は「男と女の一揆」としても読めますね。次の作品が待ち遠しい作家です。
金沢貞顕は何故歌を詠まなかったのか。
旧サイト時代、及び四年前の若干の検討において、早歌が金沢北条氏の周辺で発展し、「越州左親衛」が金沢貞顕で「白拍子三条」が後深草院二条であれば、二人は直接の面識があったのではないか、と考えてみました。
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26c6e1bde1b9e0a358f5eb0d5e4e7e3d
今回、金沢貞顕の社会圏と後深草院二条の社会圏が重なっていることをもう少し具体的に確認できないかと思い、何人かの早歌作者の周辺を当たってみたところ、「因州戸部二千石行時」(二階堂行時)など、それなりの関係を窺わせる材料は出てきました。
また、今までの投稿では触れませんでしたが、「余波」(『玉林苑下』)という作品の作詞者について、早大本だけに「内大臣法印通忠作」とあり、その傍らには朱書きで「号通阿」とあります。
若干の誤記の可能性を踏まえた上での外村久江氏の考証(『鎌倉文化の研究』、p293以下)によれば、この人は久我通光の嫡子(ではあるものの相続から外された)通忠の孫・道恵である可能性が高く、二条にとっては従兄・具房の子に当たります。
久我具房(1238-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E5%85%B7%E6%88%BF
そして通忠は『文机談』第四冊で、二条の琵琶の師である弟・雅光と並んで登場します。
即ち、岩佐美代子氏『校注文机談』(笠間書院、1989)に、
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一、久我太政大臣通光のをとど、これも孝道にならはせ給。舎弟の孝敏などまいらせをく。また少輔大夫家季とてゆかりありしも、つねにまいりかよひき。出家の後は花下の十念とぞ申ける。をとどいみじく御すきありて、御比巴もめでたくきこえさせ給き。御嫡子右大将通忠と申、これも御比巴あそばされき。その御をとうと中納言雅光とてをはします。尾張守孝行にならはせ給。又ひめ君もせいせう聞へさせ給。されども大相国〔通光〕の御比巴には、はしたててもをよび給ざりけり。
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とあって(p116)、通阿は家系だけでなく、音楽的才能の点でも二条とつながります。
こんな具合に補強材料はあるのですが、さすがに貞顕と二条の直接の接点となるような話は見つかりません。
ところで、貞顕と二条との関係を考える上で非常に不思議なのは、貞顕が勅撰歌人ではないことです。
貞顕は古典の教養が極めて豊かなのに、何故か和歌を詠まず、勅撰歌人になっていません。
小川剛生氏の『武士はなぜ歌を詠むか―鎌倉将軍から戦国大名まで』(角川叢書、2008)などにより、北条一族の間で和歌が相当流行し、多数が勅撰歌人であったことは歴史研究者にも周知されているでしょうが、例えば北条貞時などは本当に歌が好きで、器用に京極派風の歌を詠むなど、それなりの実力の持ち主です。
しかし、貞時は勅撰集に二十五首も入集していて、これはいくら何でも多すぎであり、政治的配慮の結果ですね。
北条貞時(1271-1311)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sadatoki.html
こんな事情ですから、古典の教養溢れる貞顕は歌を詠むこと自体は可能であり、公武交渉の中心に位置していた貞顕の作品であれば、当然に勅撰集に採用されたはずです。
しかし、勅撰集には貞顕の作品は皆無ですが、これは何故なのか。
理由として考えられるのは、例えば早歌などに耽溺する息子を見て、父・顕時が和歌を含め文芸活動を禁止したとか、貞顕自身が政治家として成長するため、自ら趣味の世界を断ち切った可能性などはありそうです。
また、もうひとつの理由として考えられるのは若き貞顕が京極派に影響を受けた可能性ですね。
貞顕は永仁二年(1294)、十七歳で東二条院蔵人となっており、その政治的キャリアの出発点は持明院統に近い人ですから、伏見天皇の寵臣である京極為兼の歌風も熟知していたはずです。
しかし、為兼の専横が憎まれて、永仁六年(1298)に逮捕・流罪となるのを見て、貞顕は京極派に親しむことの危険性を感じた可能性は考えられます。
貞顕は後に大覚寺統、特に後宇多院に近い存在となり、大覚寺統は二条派なので、貞顕が内心では京極派が正しいと思っていたら、大覚寺統関係者との交際にも問題が生じたかもしれません。
もちろん貞顕の歌が存在しないので、その歌風を検証することもできませんが、貞顕は非常にバランス感覚に優れた政治家であり、そしてなまじ古典の教養があるため京極派・二条派の対立もその根本部分から理解できたので、自分が歌を作れば何かトラブルを生む可能性があるのではないかと配慮して作歌は断念した、などと考えてみたのですが、小説的な話に過ぎるでしょうか。
>筆綾丸さん
>『甘美なる誘拐』
最近、殆ど小説に手が伸びなくなってしまって、同書の存在も知りませんでした。
後で読んでみます。
歌のわかれ?
小太郎さん
「餘波袖」から判断すると、歌を詠むな、と言われてもひそかに詠んでいたような気がするのですが、たとえば、よみ人しらず、として入集しているということはないのですか。
付記
「歌のわかれ」とは中野重治の小説のタイトルで、若い頃に読んだので内容は覚えていませんが、主人公が短歌と訣別する話だったと思います。
小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)
小川剛生氏の最近の業績は一応押さえておかねば、程度の軽い気持ちで国会図書館に遠隔複写を依頼していた論文、「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021年10月)が昨日届いたのですが、一読して現在の私の関心にあまりにピッタリだったので目が点になってしまいました。
この論文は、
-------
一、はじめに─青葉の楓の伝承
二、為相詠を書き込んだ立乗房書状
三、久米多寺の立乗房
四、称名寺歌壇との接点
五、阿仏尼と金沢称名寺
六、おわりに
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と構成されていますが、まずは問題の所在を確認するため、第一節を引用します。(p5)
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一、はじめに─青葉の楓の伝承
称名寺境内に立つ楓は、「青葉の楓」と呼ばれる。鎌倉時代後期の歌人、冷泉為相(一二六三〜一三二八)が、称名寺で、
いかにしてこの一本のしぐれけむ山に先立つ庭のもみぢ葉
と詠んだところ、楓は冬にも紅葉することがなくなったという伝承に因む。楓は何度か枯れて植え替えられたというが、「金沢八名木」にも数えられ、その姿は今も往時を偲ばせる。
この伝承を最も古く記した文献は歌人堯恵の北国紀行であり、作者は文明十七年(一四八五)三月に称名寺を訪ね、くだんの楓を見て、為相の和歌を偲んでいる。【中略】
このように「青葉の楓」の由緒は確実に中世に遡るものであるが、それでも堯恵の時点で為相没後百五十年を経ている。為相は藤原為家の三男で冷泉家の祖、母は阿仏尼である。いわゆる関東伺候廷臣として幕府将軍久明親王に仕えており、生涯の過半を鎌倉で過ごした。但し、称名寺・金沢北条氏との関係はいまのところ具体的には知られていない。【中略】
しかし、この詠はたしかに為相の生きた時期のものであり、さらに称名寺における作であるとも言えそうであるので、ここに報告し、派生する問題を考えたい。なお、刊本『金沢文庫古文書』の引用は、「金文」として番号と共に示した。
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私にとって一番重要に思えたのは第五節の冒頭に出てくる金沢貞顕の書状(金文四九七+四九八号)ですが、その検討の前に、論文全体の結論として第六節も引用しておきます。(p10)
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六、おわりに
以上、「いかにして…」の詠が、たしかに為相の活動した時期の作であることを確かめ、かつ称名寺歌会で詠まれたからこそ、遠く久米多寺の僧の書状にとどめられたと推定した。続いて、これまで余り取り上げられなかった称名寺・金沢北条氏の文化圏における和歌の位置を考え、阿仏尼・冷泉為相とが二代にわたり介在していたことを示した。立乗房書状に書き込まれた和歌はやはり為相作である可能性が高く、伝承はだいたいの骨子を伝えていたというのが結論である。
現在の金沢文庫本は仏書と漢籍に偏し、国書は乏しい。さらに金沢北条氏嫡流の顕時・貞顕・貞将には一首の詠も伝えられていない。しかし、和歌的な雰囲気が皆無であったとするのは早計である。鎌倉の武家や寺院に和歌はもはや不可欠の教養であり、そこには指導者としての専門歌人がいなくてはならなかった。実際、庶流の甘縄顕実や姻戚の長井宗秀・貞秀兄弟は熱心な歌人であり、かつ為相の高弟であった。剱阿は宗秀と最も関係が深かったから、いささか場違いにも見えた、称名寺での歌会開催もよく説明できる。さまざまな問題へと波及していくと考えられるが、まずはこの辺りで擱筆する。
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『太平記』などで武人としての印象が強い貞将はともかく、相当な教養の持ち主であった顕時を含め、「金沢北条氏嫡流の顕時・貞顕・貞将には一首の詠も伝えられていない」のは本当に意外ですね。
貞顕が和歌の世界で活躍していれば、そこでの人間関係と後深草院二条の人間関係の接点を追うことができるのですが、とにかく貞顕が一首も詠んでいないのですから手がかりがありません。
私は早歌の世界で「越州左親衛」(金沢貞顕)と「白拍子三条」(後深草院二条)が「濃厚接触者」ではないかと疑い、金沢北条氏の周辺を探って来たのですが、金沢北条氏も相当大きな存在であって、文化的にも一枚岩ではなく、早歌の関係もむしろ貞顕の兄、甘縄顕実の社会圏の問題なのかな、などといささか自信を喪失しつつあります。
なお、小川氏は「姻戚の長井宗秀・貞秀兄弟」と書かれていますが、宗秀・貞秀は親子ですね。
長井宗秀が金沢顕時と同世代、長井貞秀が金沢貞顕と同世代です。
長井宗秀(1265-1327)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E5%AE%97%E7%A7%80
長井貞秀(?-1308)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E8%B2%9E%E7%A7%80
>筆綾丸さん
>たとえば、よみ人しらず、として入集しているということはないのですか。
その可能性は否定できませんが、とにかく一首も残していないのですから、仮に作歌はしていても、対外的な発表は意識的に避けていたような感じですね。
小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その2)
称名寺の「青葉の楓」、何代目かは知りませんが、今はこんな感じだそうですね。
https://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/aobanokaede.html
さて、小川論文で私にとって一番重要に思えたのは第五節です。
少し引用します。(p8以下)
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五、阿仏尼と金沢北条氏
そして、金沢北条氏と為相との、歌道での関係を証するのが、つぎに掲げる金沢貞顕の仮名書き書状である(金文四九七+四九八号)。
いま宮殿よりの古今
たまはり候ぬ、民部卿入道の
後家手にて故殿
御時さたなと候ける
御ほんにて候なれは、」
[ ]□ろ□ひ入候、
順教か申候し者
[ ]これにて
さふらひける、いま宮殿への
御ふみもまいらせ候、
おほしめしよりて候
御こゝろさし猶々
申つくしかたくよろこひ<○以下欠>
光明真言念誦次第の第一紙・第二紙の紙背として伝わるもので、これまでは別々の書状とされていたが、一通の書状の第一紙(第二紙は欠)を構成することが判明した。年代は貞顕の六波羅探題南方在職期、嘉元三年(一三〇五)と見られる。
「いま宮殿」とは亀山法皇の皇子恒明親王。貞顕が恒明から古今集の写本を贈られたことへの礼状である。ただ恒明は当時三歳の幼児であったし、貞顕との直接の関係は見出せない。生母昭訓門院あるいは後見の西園寺家関係者との間を媒介した人物に宛てられたものであろう。
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いったん、ここで切ります。
恒明親王が何者かを知らないと何故に三歳の幼児から貞顕に贈り物が来るのか訳が分からないと思いますが、恒明親王は亀山院(1249-1305)の晩年に生まれた子で、母親は西園寺実兼の娘・瑛子(昭訓門院、1273-1336)です。
亀山院は恒明親王を溺愛し、恒明親王を皇太子にするように後宇多院(恒明親王の三十六歳上の兄)に命じて後宇多院もいったんは了承してしまうのですが、嘉元三年(1305)九月十五日、亀山院が没すると一大相続争いが勃発し、後宇多院は前言を翻して恒明親王を皇太子とすることを断固拒否し、恒明親王を保護する西園寺公衡(実兼息、昭訓門院の兄、1264-1315)を勅勘に処したりします。
大騒動の挙句、結局は幕府が後宇多院を支持することになって恒明親王は皇太子にはなりませんが、この騒動は後々まで大覚寺統に大きな亀裂をもたらすことになります。
さて、続きです。
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内容はたいへん興味深い。貞顕は謝意を表し、「故殿(亡父顕時)」の時に「民部卿入道の後家の手にて」「沙汰など候ける御本」であると語った。まず、この「沙汰」の具体的内容について解説したい。
これは顕時のもとで古今集の談義や本文の校合などが行なわれたことを意味する。【中略】
貞顕書状に言う「民部卿入道」とは為家であり、「後家」は阿仏尼である。顕時の「沙汰」の時に利用されたのが阿仏尼自筆本であったと解される。当然その本は定家の校訂した証本に基づく。偶然入手したものではなく、この機会に顕時に書き与えられたのであろう。阿仏尼は弘安二年(一二七九)に東下、四年後に鎌倉で没した(すでに実時は没、顕時は三十二歳から三十六歳の壮年である)。その間、現地で武士に歌道を教えたと推定されてが、ここに具体的な事績が明らかになる。
そして、この阿仏尼筆古今集がいかなる事情か、後に恒明のもとに渡り、改めて貞顕に下賜されたことになる。これについて「順教」が何事かを証言したという。この順教は、当時鎌倉・京都で活動していた遁世歌人、順教房寂恵を指す。その前身は宗尊親王時代の幕府に仕えた陰陽師安倍範元、遁世後は為家に入門、阿仏尼とも親しかった。歌学にも造詣深く、度々歌書を書写校合した。実時の古今集校合にも関与して、いちはやくその成果を利用し得る立場にあった。その縁が続いていたからこそ、貞顕はこの古今集を順教に見せ、証言させたものであろう。
わずかに一紙の残闕であるが、この貞顕書状から得られる情報は、阿仏尼の伝記はもちろん、和歌史・歌学史上にも新知見を提供する。さしあたっての問題に言及すれば、顕時の代にすでに金沢北条氏と阿仏尼との間に歌学での交流があり、貞顕もそれを承知しているとすれば、為相がこの時期の称名寺歌会の指導者として臨んでいたことが十分に想定されるのである。
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検討は次の投稿で行いますが、私の関心は小川氏とは少し違っていて、この文書の政治史上の意義にあります。
日文研・井上章一所長と呉座勇一氏の会話記録(その1)
呉座勇一氏を支援する「新世紀ユニオン」のブログ「委員長の日記」に、日文研・井上章一所長と呉座氏の電話でのやり取りを記録した音声データが公開されました。
http://shinseikiunion.blog104.fc2.com/blog-entry-3548.html
約15分のやり取り全部を聞くのは大変だろうと思いますので、私が文字起こしをしてみました。
会話の途中から始まるので、最初は分かりにくいところもあります。
聞き取りが不正確な個所があれば御指摘下さい。
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【日時】2021年5月27日(木)
【登場人物】
井上章一:所長(風俗史)
松田利彦:副所長(日朝・日韓関係史)
瀧井一博:副所長(当時、国制史・比較法史)
https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/researcher/
行きたくないとおっしゃっておられると松田さんから伺いました。
【呉座】はい。
で、それは止むを得ないと思うのですが、ただあの、仮に残られるとしても、残られたときの手立てとか、今後の対応は検討していかないといけないと思うので、前も申し上げたけど、呉座さんにとって、そんなに居心地の良い道ではないような気がして、まあ、あの、一度そのへんのことを語り合う場は、これは運営会議が終わった後の方がいいかもしれんけど、持っていただきたいと思っています。
【呉座】はい。
はい、で、明日はやっぱり、あの、家にいらっしゃる?
【呉座】そのつもりですが。
まあ、分かりました。もう、それならそれで、あの、大丈夫です。
調査委員会がどんな結論を出して、運営会議がどんな結論を出すか、私には見えていないのですけれども、もし、何というか、人事権の濫用みたいなことになり得る判断をすると、そうした場合、あなたが不服の申し立てをしたら、私は日文研に勝ち目はないような気がしています。
【呉座】はい。
ただまあ、あの、ホント言うと私は、そういう風にはしたくないという強い思いがあるんだけれども。
【呉座】はい。
私は、少なくとも私は呉座さんに、日文研にとどまる権利は担保されていると考えています。ただ、残り方は、残っていただく場合の綱渡りみたいなことは、ちゃんと決めていかないといけないと思うので、えーと、おんなしこと言っているんで、さっきから。それは語り合う場に是非来てください。
【呉座】えっ、つまり私がどういう形で残ることになるのか、ということを話し合う場を設けたいと。
それもあるんだけど、えー、そうやね。どういう形で残るのか、と。形じゃなくて。そうやね。
【呉座】えっ、えっ、ちょっとお話が、あの、抽象的で、今一つ分りづらいんですが。
抽象的にならざるを得ないの。僕は今、調査委員会のメンバーではないし、運営会議の判断も、今のところ見えないので、あの、抽象的に話をせざるを得ないんですよ。
僕の勝手な、素人の法理解やと、あなたは業績で准教授昇任が認められた訳やから。
【呉座】はい。
これを覆すことはできないと思います。
【呉座】はい。
ただ、これは私があくまで素人やからそう思っているのでね、あの、どんな判断が下されるのか、は分からないし、ただ、あなたにとって悪い判断が下されても、あなたには抵抗する権利があると。
【呉座】はい。
ただ、これはあくまで、何を言っているのか分からへんと言われたから、ちょっとはっきり言ったんだけど、私の素人判断で、そこはお許し下さい。
ただ、仮に准教授になられたとしても、あの、たぶん、普通の准教授という格好になりにくいと思う。で、そういうことをめぐる相談事にも対応、乗ってもらわないと困る訳ですし。
【呉座】まあ、あくまで例えばの話ですけど、仮に准教授になったとしても、そのまあ、通常の准教授よりも、職務権限などが制約された形になったりするんではないか、ていうことですかね。
そうでしょうね。
まあ、そういうことは考えられると思います。
で、まあ、大きい大学なら呉座さんも見はったことがあると思うけれども、その、職場がややもてあましながら、でもずっと居続けはる教員っていらっしゃるでしょ。
【呉座】はい、はい。
で、まあ、あの道を、まあ、あんな風な道に行ってもらいたくはないなと思うんだけど、そういう風になってしまいそうな気がしてるんですよ。
【呉座】はい。
で、まあ、それも覚悟の上なら、手続きを粛々と進めるしかないんですけれども、ただ、その場合でも、例えば新しい人を採用する人事とかには、あの、たぶん、まあ、そりゃ、私が辞めた後の人事委員会かもしれへんけど、呉座さんに入っていただこうみたいな話にはなりにくいんじゃないかな。
【呉座】はい、はい。なるほど。
あるいは、共同研究の主宰者をどうする、というときに。まあ、割り切ればね、割り切れば、いろんな用務からはずしてもらえるから楽な道と思えんことはないんだけれども、まあ、率直に言って、あんまり居心地はいいことないと思う。
【呉座】まあ、それはそうなるでしょうね。当然。
そこは覚悟の上で、でも日文研に留まるとしたら、それはそれで手立てを考えなければいけないし。
【呉座】はい。
日文研・井上章一所長と呉座勇一氏の会話記録(その2)
僕はなるべく、呉座さんの問題を職場の中で軟着陸させたいと思っているんですよ。
【呉座】はあ、はあ。
まあ、あの、みんながもろ手を挙げて、お帰り、おめでとう、という風にはまずならない、と思うけれども。
【呉座】まあ、それはそうでしょうね。
まあ、なだめたりすかしたりしながらだと思うんですけれども。
それと、これも仮定の話をしているんで、ごめんなさいなんだけれども、もし運営会議を終えた上で、呉座さんに留まってもらうような運びになった場合は、みんなの前で、丁寧な謝罪とか、自分の今の率直な思いを、まあ、ホンマに率直に語られたらつらいかもしれんけれども(笑)、あのー、今後自分がどうするみたいな殊勝な言葉とかを、頂戴する場を設けないかん、そのほか色々、検討しなあかんことがあると思うので、そこは覚悟しておいて下さい。
【呉座】はい、それはまあ、当然、私も考えておりました。
あの、調査委員会には法律の専門家が二人入っていらっしゃるので、たぶん、今の現行法規で判断しはると私は思います。
この現行法規で、SNSでの発言が、何と言うか、降格とかそういうのはありえないと私は思っています。だけど、まあ、何て言うか、アカデミックな世界の、あの、気配は感じはるでしょう。
【呉座】まあ、それはそうですね。
普通の、何と言うか、労働者の権利とは違うカラクリが働く世界じゃない。
【呉座】はい。
そこもまあ、飲み込んどいてもらわないといけないし、今後色々、あなた自身が屈辱を感じるようなことも、間々あろうかと思うんだけれども、それで今ね、この話をするのはひょっとしたら早いのかもしれないけれども、運営委員会で、運営会議で大体の結論が出た時にしゃべった方が良い話なのかもしれないけれど、松田さんからね、金曜日にはもう出たくないという風に、あの、言うてはるという話を聞いて、私はややフライング気味に、まあ、何て言ったらいいのかな、あの、井上は呉座さんを見捨てる気になっていないということをお伝えしたかったので。
【呉座】まあ、それはありがとうございます。大変ご迷惑をおかけしておきながら、そういう風に言っていただけるのは。
で、ちょっと念のため確認するのですけど、今日、所長が私にお電話下さったのは、これは所長の一存で?
一存です。一応、松田さんとも相談したんやけどね。電話していいかという風に。もうそれは、自分にはそれは止められないと。まあ、松田さんが止める話でもないやろし、松田さんには了解をもらいました。
【呉座】はあ、はあ。
ていうか、呉座さんが松田さんにそう返事しはったんでしょう。行きたくないと。
【呉座】そうですね。いや、まあ、これ、前回はどういう話になるのかというのが全く分からないで行きましたので。
で、前回行った感じですと、これはやめてくれという話としか解釈できなかったので、そうすると、それの返事ということになりますと、まあ、その話にしかならないであろうと。
で、まあ、さすがに、あの、監禁されてですね、何かサインするまで返さないとかそんなことはないと思いますけれども、まあ、いずれせよ、何かこう、重苦しい空気がずっと流れて、お互い気分が悪くなってもなあ、という風に思いまして。
それはまあ、やめさせることは絶対出来んと思うし、ただ、自発的にやめてくださったらありがたいな、という気分があるのも間違いないし。
【呉座】いや、それはそうだろうなと、客観的にみれば私もそれは分からないではないのですが。
ただ、そこに踏み込むのは、私は人事権の濫用やと思うし、呉座さんが不服の申し立てをすれば、呉座さんが勝つと思う。
で、まあ、私はそういう事態に持ち込みたくないと思っているし、もしそういう事態に持ち込んで、あの、日文研が負ければ、それはたぶん、私が責任をとってやめるという話になると思います。
で、要するにそういうもめごとにはしたくないので、何とか軟着陸させたいと思っているんですよ。
【呉座】なるほど。私もできれば、あまりそういう、泥試合のようなことは、なるべく避けたいなあ、という風には思っていますけれども。まあ、何分、どういう形の処分が出るのか、ちょっと見当がつかない状況ですので。
あの、今述べたのは、私の素人の考えで。
【呉座】いや、もちろん、そうですね。
責任をもっていう事はできないが。
【呉座】そうですね。なので、そこは、何ていうんですかね、私もそういう、職場と何かこう、あまりやり合うということは、今までお世話になってきた先生方と争うみたいなようなことは、まあ、なるべく避けたいとは思っていますけれども。
じゃあ、あの、私たちは、あの、私たちと言ったらいかんか、私たちの中に、この際、退いてくれたらいいのに、と思う人が少なからずいることと、だけれども、たぶん法的には、あの、そういう主張に道理はないという判断とをお伝えして、その上で、運営会議の判断が決まった後で、もう一度相談を、私と瀧井さん、松田さんと四人で、もう一度相談の場を設けるということで、明日はとりあえず行けないということで。
【呉座】はい。それでお願いできますか。すみません。
はい。じゃ、ごめんなさい。
【呉座】いえいえ、こちらこそ多大なご迷惑をかけしまして申し訳ありません
じゃ、失礼します。
【呉座】失礼いたします。
慇懃でソフトな・・・
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE0148Y0R00C22A3000000/
罷免されない場合、裁判所は岡口判事を「飼い殺し」にして、退官まで待つだろう、と思われます。
井上氏の言う「軟着陸」とは、呉座氏が依願退職し(今後の長い人生、大変だが)、併せ、井上氏も退任することにより(退職年齢ではなく、癪だが)、役所のヒエラルキーとして、人間文化研究機構へ累が及ぶのを避ける、ということですかね。
井上氏の言説は、訴訟になれば君が勝つだろうが、以後、ずっと、針の蓙、いや、針の莚が続くよ、そうなるよりは・・・といった慇懃でソフトな脅しのような感じですね。
井上章一の音声データで分かったこと(その1)
「大学共同利用機関法人人間文化研究機構」(以下「機構」という)に所属する呉座勇一氏が機構から停職一か月の懲戒処分を受けた上、文書で内定通知を得ていた准教授就任が撤回されてしまった件、外部からは分かりにくい点がいくつかありましたが、私が特に疑問に思っていたのは、こうした決定が実質的にどのようになされたのか、という問題です。
つまり機構の如何なる役職にある誰が、具体的にどのような手続きで当該処分を決定したのか、そしてその際、「国際日本文化研究センター」(以下「日文研」という)の関係者がどのように関与したのか、ですね。
機構の諸規程を見れば形式的な決定者は明確で、これは機構の「機構長」(当時、2022年3月退任)であった平川南です。
平川南(1943生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B7%9D%E5%8D%97
内定取消については、その性質上、対外的な発表はありませんが、停職一か月の懲戒処分については、機構のサイトに、
-------
令和3年10月15日
大学共同利用機関法人人間文化研究機構
人間文化研究機構国際日本文化研究センター研究教育職員(当時)に対して以下のとおり懲戒処分を行いました。
本機構の研究教育職員がこのような事態を起こしたことは誠に遺憾であり、被害者並びに関係者の皆様に心よりお詫び申し上げます。当該研究教育職員の行為は、本機構職員としてあるまじき行為であり、かかる行為は決して許されるものでなく、厳正な処分をいたしました。本機構としてもこのことを厳粛に受け止め今後このようなことがおこらないよう、再発防止に努めてまいります。
なお、本件の詳細については、個人に対するプライバシー等の侵害や更なる二次被害を与える恐れがあることからこれ以上の公表を差し控えます。
【処分の量定】
停職1ヶ月
【処分の理由】
当該研究教育職員は、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)において不適切な発言を繰り返し行った。
また、勤務時間中に私的な利用目的で複数回にわたってSNSに投稿した。
これらのことは、人間文化研究機構職員就業規則第23条及び第26条第2号に違反し、同規則第36条第1項各号に該当することから、懲戒処分を行ったものである。
【処分日】
令和3年9月13日
https://www.nihu.jp/ja/news/2021/20211015
とあります。
「機構長」の判断過程を見るために、まず機構の概要を確認しておくと、「本部」の下に六つの「大学共同利用機関」が置かれていて、その一つが日文研です。
人文機構本部の組織−運営管理体制−
https://www.nihu.jp/ja/about/organization
「人間文化研究機構組織規程」
https://www.nihu.jp/sites/default/files/regulation/ks-1.pdf
そして、「大学共同利用機関法人人間文化研究機構職員就業規則」「第7章 表彰及び懲戒」の第36条(懲戒)に、
-------
第36条 機構長は、職員が、次の各号のいずれかに該当する場合においては、これに対し懲戒処分を行う。
一 就業規則及び関連の法令に違反した場合
二 職務上の義務に違反し、又は職務を怠った場合
三 機構の職員としてふさわしくない行為のあった場合
2 懲戒の種類は次のとおりとする。
一 戒告
二 減給
三 停職
四 諭旨解雇
五 懲戒解雇
3 その他職員の懲戒に関する事項は、別に定める「職員懲戒規程」による。
https://www.nihu.jp/sites/default/files/regulation/kh-1.pdf
とあり、懲戒処分を行うことができるのは「機構長」ですね。
井上章一の音声データで分かったこと(その2)
呉座氏の停職処分の場合、「人間文化研究機構職員就業規則第23条及び第26条第2号に違反し、同規則第36条第1項各号に該当」とあるので、第23条を見ると、これは職務専念義務です。
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第23条 職員は、この規則又は関係法令の定める場合を除いては、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、機構がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない。
https://www.nihu.jp/sites/default/files/regulation/kh-1.pdf
第26条第2号は、
-------
二 職務の内外を問わず、機構の信用を傷つけ、その利益を害し、又は職員全体の不名誉となるような行為をしてはならない。
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というものですが、勤務時間中にSNSに投稿するのが職務専念義務違反と言われると、まあ、形式的にはそうだとしても、それで停職一か月はあまりに重すぎますから、実質的に重視されたのは第26条第2号の方でしょうね。
ただ、こちらもずいぶん漠然とした規定です。
さて、第36条第3項に言う「職員懲戒規程」を見ると、第6条(懲戒の手続)には、
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第6条 職員のうち、機関の長及び研究教育職員(以下「研究教育職員等」という。)の懲戒処分は、機構が設置する大学共同利用機関(以下「機関」という。)の運営会議が設置する審査委員会の審査に基づき、教育研究評議会に設置する研究教育職員等懲戒委員会(以下「懲戒委員会」という。)において審議し、役員会の議を経て機構長が行う。
2 職員のうち、研究教育職員等を除く者の懲戒処分は、機構本部又は機関に置かれる調査委員会の調査に基づき、役員会の議を経て機構長が行う。
https://www.nihu.jp/sites/default/files/regulation/kh-38.pdf
とあります。
呉座氏はもちろん「研究教育職員」なので、第1項が適用されますが、その判断過程は四段階に分かれていて、
1、「機構が設置する大学共同利用機関(以下「機関」という。)の運営会議が設置する審査委員会の審査」
2、「教育研究評議会に設置する研究教育職員等懲戒委員会(以下「懲戒委員会」という。)において審議」
3、「役員会の議」
4、 「機構長」
となっています。
「人間文化研究機構組織規程」も見て、本件に即してもう少し具体化すると、
1、日文研の「運営会議」(組織規程第14条)が設置する「審査委員会」の「審査」
2、「本部」の「教育研究評議会」(組織規程第11条)に設置する「研究教育職員等懲戒委員会」において「審議」
3、「本部」の「役員会」(第9条)の「議」
4、「機構長」
ということですね。
四段階のうち、第一段階だけ日文研の手続きで、第二〜第四段階は「本部」での手続きではありますが、事実関係を詳細に調べて「審査」するのは日文研の「運営会議」が設置する「審査委員会」の役割ですから、実際上はここでの「審査」の結論が極めて重用なのでしょうね。
日文研の「審査委員会」の判断を、「本部」が他の機関で行われた同種の処分の関係を考慮して軽くすることはあっても、重くする方向で覆すといった事態は実際上考えにくいですね。
機構が2004年に設立された経緯を考えても、機構は以前から相当の独立性をもって運営されていた「機関」の寄せ集めであって、諸規程の形式的な文言はともかく、実際には各「機関」の判断が尊重される仕組みとなっていて、それが「職員懲戒規程」にも反映されているようですね。
この点、私はかなり誤解していました。
>筆綾丸さん
もう少し続くので、レスはその後でします。
井上章一の音声データで分かったこと(その3)
私も人間文化研究機構の諸規程の表面だけを見て、「本部」と日文研等の六つの「機関」の関係について、かなり頓珍漢な誤解をしていました。
昨年10月30日には、
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呉座氏は「人間文化研究機構国際日本文化研究センター研究教育職員(当時)」なのか。とすると、井上章一所長以下、日文研関係者は誰も呉座氏の懲戒処分、そして准教授としての不採用について、せいぜい会議に参加するくらいで、実質的決定には関与できなかったのかな。
それにしても懲戒権を含む人事権を持たない「所長」というのはずいぶん奇妙な立場だな。上からの命令を執行するだけの中間管理職で、実質的にはとても組織の長とはいえない。
https://twitter.com/IichiroJingu/status/1454256574248087562
などとツイートしていました。
また、評論家の白井聡氏のツイートに対し、
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抵抗できるような組織になっていないことは人間文化研究機構の諸規程を見れば明らかではないか。日文研など所長といえども上からの命令を執行するだけの中間管理職で、とても組織の長と呼べるような存在ではない。
https://twitter.com/IichiroJingu/status/1454276578368634881
などとも書いていました。
後者は「ベストセラー「応仁の乱」著者が日文研を提訴 SNS不適切発言で「准教授取り消し」巡り」という京都新聞2021年10月29日付記事に、共産党系の渡辺輝人弁護士が、「え、正規雇用の内定を取り消されていたのか。うーん。それはかなり激しいな。(京都地裁のようだけどうちの事務所には来なかったのね)」とツイートしたのに対し、評論家の白井聡氏が「これ、二重懲罰になってますよね?」とコメントしたところ、白井氏と池内恵氏の間で若干のやり取りがあり、それを見ての私の感想です。
https://twitter.com/shirai_satoshi/status/1453972121516871681
https://twitter.com/chutoislam/status/1454102133884686343
今回、「大学共同利用機関法人人間文化研究機構職員懲戒規程」を丁寧に読んでみたところ、やはり重要なのは日文研内部での判断ですね。
「機構長」の最終的な決定まで四段階の手続きがありますが、実際上は第一段階、日文研の「運営会議」が設置する「審査委員会」の「審査」が一番重要であって、第二段階以降の「本部」での手続きは、第一段階の判断を追認するかどうか、ということだと思われます。
さて、以上の検討を踏まえた上で、2021年5月27日の井上章一の発言を読み直してみると、
-------
調査委員会がどんな結論を出して、運営会議がどんな結論を出すか、私には見えていないのですけれども、
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8963b585fd4cf73c2ab214be9b2bbc0
の「調査委員会」は、正しくは「審査委員会」ですね。
そして、日文研の所長である井上がこんなあやふやなことを言っているので、うっかりすると、これは東京の「本部」の話なのかと誤解してしまいますが、あくまで懲戒処分の第一段階、日文研の話ですね。
日文研の「運営会議」が設置した「審査委員会」の結論が見えない、と井上は言っている訳です。
また、
-------
あの、調査委員会には法律の専門家が二人入っていらっしゃるので、たぶん、今の現行法規で判断しはると私は思います。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21fb31990238d4b8518437ac19ffa172
とあるのも、本部ではなく、日文研の「審査委員会」の話ですね。
「たぶん、今の現行法規で判断しはると私は思います」はよく聞き取れなかったのですが、これは問題とされた呉座氏の行為があった時点、即ちSNSでの行動指針など存在していない時点での機構や日文研の規程に従って判断する、という意味だと思います。
また、「法律の専門家」とは外部の弁護士なのか、それとも日文研内部で法律に詳しそうな人、例えば京大法学部卒の瀧井一博あたりのことを言っているのは分かりません。
瀧井一博(1967生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E4%BA%95%E4%B8%80%E5%8D%9A
なお、瀧井は2022年3月いっぱいで副所長は退任し、普通の教授に戻っていますね。
https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/staff/s025/
井上章一の音声データで分かったこと(その4)
井上の話の中で一番不思議なのは松田という人物の立場ですね。
私は副所長の松田利彦という人の名前も知りませんでしたが、呉座氏が「所長が私にお電話下さったのは、これは所長の一存で?」と聞くと、井上は、
-------
一存です。一応、松田さんとも相談したんやけどね。電話していいかという風に。もうそれは、自分にはそれは止められないと。まあ、松田さんが止める話でもないやろし、松田さんには了解をもらいました。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21fb31990238d4b8518437ac19ffa172
などと答えています。
井上は松田に妙に遠慮している、というか恐れているような感じですね。
また、井上は「私たちは、あの、私たちと言ったらいかんか、私たちの中に、この際、退いてくれたらいいのに、と思う人が少なからずいる」と言っていますが、話の流れから見て、松田が「この際、退いてくれたらいいのに」と思っている勢力の代表格であることも明らかです。
そして、松田は「まあ、何て言うか、アカデミックな世界の、あの、気配は感じはるでしょう」「普通の、何と言うか、労働者の権利とは違うカラクリが働く世界じゃない」とどう関係しているのか。
そこで「松田利彦」を検索してみると、『歴史評論』820号(2018年8月)に「戦時期植民地朝鮮における防空体制の構築 ―警防団を中心に―」という論文を書いていたりします。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/820.html
また、『日韓の歴史をたどる──支配と抑圧、朝鮮蔑視観の実相』(赤旗編集局/編、新日本出版社、2021)という本に、「民族運動を抑えつつ同化図る」という論文(?)も寄せています。
https://www.shinnihon-net.co.jp/general/detail/code/978-4-406-06591-7
「松田利彦」プラス「赤旗」で検索してみたら、リンク先のブログ記事もありましたが、「民族運動を抑えつつ同化図る」というタイトルなので、赤旗の連載をまとめたのが新日本出版社の『日韓の歴史をたどる──支配と抑圧、朝鮮蔑視観の実相』みたいですね。
https://blog.goo.ne.jp/uo4/e/0e98755820a0e2ab0e01908e005b69ea
まあ、これだけ材料が揃えば松田がいかなる人物かは明らかで、「科学運動」に熱心なタイプの研究者、要するに共産党系の方ですね。
今の日文研は、こういう傾向の人が副所長になれる組織なのですね。
井上と松田、どちらが所長か分からないようなやり取りを見ていると、『日本研究』55号(国際日本文化研究センター、2017)に載っていた井上の発言も、かつて読んだ時とは違う味わいが出てきます。
即ち、2016年9月11日に行われた宮地正人(東京大学名誉教授)、仁藤敦史(国立歴史民俗博物館教授)と井上によるシンポジウム「<鼎談>「日文研問題」をめぐって」において、井上は、
-------
日文研と学問の自由
●井上 私は、ごめんなさい、まとまったデータを用意していません。思いつくことをしゃべります。
私は、ここに共同研究で来てくださっている人から、よく言われることがあります。「あなたは自由な研究ができて、いいね。好きなことを調べられて、うらやましい」。ですが、三十年ほど前、日文研が創設されるというときに、専修大学の集いで吉田伸之氏〔当時、東京大学助教授・日本近世史〕はこう言いました。「日文研は学会との接点を持っていない。 そんな組織に研究の自由は保障されるのか」と。しかし、私は正統的な学会に所属している研究者から「あなたは自由でいいね」とよく言われます。
ちょっとけんかを売る格好になるといかんのやけれども、申し上げましょう。学会との接点を持たない日文研に研究の自由はないと言われた吉田氏へ、こう言い返してやりたいと思ったことがあります。「歴研に本当の意味の自由はあるのか」と。すみません、けんかを売りました。(笑)
日文研は今、人間文化研究機構から態度を改めるように言われています。もっと既成の学会と仲よくつき合いなさい、さまざまな学会の声を聞いて共同研究を組織しなさいと。ああ、三十年前の声がまた聞こえてくるなと私は思います。しかし、私はそういうところとの接点を持たなかったおかげで、自由な気ままな仕事ができたと思っています。接点を持たされるようになるかもしれない昨今を苦々しく眺めています。こういうことを皆さん、本当はどう思われるのでしょうか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9ce6473f622b8a2e2ff2c5933740b59
と言っていますが、日文研が「人間文化研究機構から態度を改めるように言われ」た結果のひとつが松田の副所長就任ということなのでしょうか。
井上章一の音声データで分かったこと(その5)
松田利彦は京大助手等を経て1998年に日文研の助教授となり、2013年教授、20年に副所長ですね。
松田利彦(1964生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%BD%A6
https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/staff/s026/
「第2部 シンポジウム「日本統治下の朝鮮と医学研究」松田利彦副所長(2020年度一般公開)」
https://www.youtube.com/watch?v=ckpQtioU2XE
「皆さん、こんにちは。日文研の松田利彦です」で始まるYouTubeの動画も見ましたが、まあ、率直に言って特にカリスマ性を感じさせる人物でもないですね。
そこで、松田が日文研の中で相当な権力を持っているらしいのは制度的な裏付けがあるからだろうと思って人文機構と日文研の規程類を見て行くと、なかなか珍しい仕組みになっていますね。
まず、「人間文化研究機構組織規程」第23条第1項に、
-------
第23条 国際日本文化研究センターに、所長を補佐し、当該機関の事業計画その他の管理・運営に関する重要事項について総括整理するため副所長を2名置き、教授をもって充てる。
https://www.nihu.jp/sites/default/files/regulation/ks-1.pdf
とあります。
「所長を補佐し、当該機関の事業計画その他の管理・運営に関する重要事項について総括整理」するのが副所長の役割ですね。
そして、「国際日本文化研究センター組織運営規則」を見ると、第2条に、
-------
第2条 規程第23条第1項の副所長は、所内担当及び所外担当として各1名ずつ置くものとし、所長が指名する教授をもって充てる。
2 副所長の任期は2年とし、再任を妨げない。ただし、指名する所長の任期の終期を超えることはできない。
3 補欠の副所長の任期は、前任者の残任期間とする。
4 所長に事故があるとき、又は欠けたときは、あらかじめ所長が指名する副所長がその職務を代理し、又はその職務を行う。
https://www.nichibun.ac.jp/ja/uploads/pdf/ks-3.pdf?1224
とあります。
2020年4月、松田と瀧井一博が副所長になっていますが、瀧井は今年の三月、二年の任期を終えて副所長を退き、後任がフレデリック・クレインス氏(日欧交渉史)なので、
所内担当 松田利彦
所外担当 瀧井一博
という分担だったのでしょうね。
瀧井一博(1967生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E4%BA%95%E4%B8%80%E5%8D%9A
https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/staff/s025/
さて、「運営会議」については「人間文化研究機構大学共同利用機関運営会議規程」によって大きな枠組みが定められていて、その枠組みの中で「国際日本文化研究センター運営会議規則」が定められています。
そこで、まず前者を見ると、運営会議の委員は、
(1)当該機関外の学識経験者
(2)当該機関の研究教育職員(これに準ずる職員を含む)
で組織され、過半数は(1)でなければならず(第2条)、「機関の長の推薦に基づき、機構長が任命する」(第3条)ものとなっています。
そして、その任務は、
-------
第5条 運営会議は、次に掲げる事項について審議する。
(1)当該機関の長候補者の選考に関すること。
(2)当該機関の研究教育職員の人事に関すること。
(3)事業計画その他管理運営に関する重要事項に関すること。
https://www.nihu.jp/sites/default/files/regulation/ks-9.pdf
となっていて、「研究教育職員の人事」には懲戒処分も含まれますから、「運営会議」の「審議」の対象となる訳ですね。
次に、「国際日本文化研究センター運営会議規則」を見ると、第3条に、
-------
第3条 運営会議は、委員21名で組織し、次の各号に掲げる者をもって構成する。
(1)副所長
(2)研究調整主幹
(3)情報管理施設長
(4)総合研究大学院大学文化科学研究科国際日本研究専攻長
(5)センターの職員のうちから所長が指名するもの
(6)センターの職員以外の者で学識経験を有するもののうちから所長が指名するもの
https://www.nichibun.ac.jp/ja/uploads/pdf/ks-1.pdf
とあります。
井上章一の音声データで分かったこと(その6)
「運営会議」委員の具体的な名前は日文研サイトの「運営組織」に出ていますね。
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落合恵美子 京都大学大学院文学研究科教授
金水敏大阪大学大学院文学研究科教授
ベティーナ・グラムリヒ=オカ 上智大学国際教養学部教授
佐藤弘夫 東北大学大学院文学研究科教授
高木博志 都大学人文科学研究所教授
十重田裕一 早稲田大学文学学術院教授
竹宮惠子 京都精華大学名誉教授
本郷恵子 東京大学史料編纂所教授
御厨貴 東京大学名誉教授
三谷博 東京大学名誉教授
吉澤健吉 京都産業大学文化学部教授
荒木浩 国際日本文化研究センター教授
牛村圭 国際日本文化研究センター教授
倉本一宏 国際日本文化研究センター教授
フレデリック・クレインス 国際日本文化研究センター教授
関野樹 国際日本文化研究センター教授
瀧井一博 国際日本文化研究センター副所長、教授
松田利彦 国際日本文化研究センター副所長、教授
安井眞奈美 国際日本文化研究センター教授
山田奨治 国際日本文化研究センター教授
劉建輝 国際日本文化研究センター教授
https://www.nichibun.ac.jp/ja/about/org/
瀧井の肩書が副所長になっているので、本日(4月5日)現在、このページは更新されておらず、2021年に呉座氏の件を「審議」したのもこのメンバーでしょうね。
さて、「国際日本文化研究センター懲戒審査委員会規則」を見ると、第1条に、
-------
第1条 人間文化研究機構職員懲戒規程第6条第1項に基づき、国際日本文化研究センター(以下「センター」という。)運営会議に案件ごとに国際日本文化研究センター懲戒審査委員会(以下「委員会」という。)を置く。
https://www.nichibun.ac.jp/ja/uploads/pdf/ki-12.pdf
とあります。
そして、第3条第1項には、
-------
第3条 委員会は、運営会議委員のうちから5名以上7名以下で組織する。ただし、当該者と利害関係があると認める者は、委員となることができない。
2 前項の委員は、運営会議の議を経て決定する。
3 委員の任期は、運営会議の任期が到来した後も、案件の審議が終了するまで、継続するものとする。
-------
とあって、「懲戒審査委員会」は「運営会議の議を経て」「運営会議委員のうちから5名以上7名以下で組織」される訳ですね。
そして、私にとってちょっと意外だったのは第7条です。
即ち、
-------
第7条 委員会は、当該懲戒事由に係る審査を終了したときは、遅滞なくその結果を所長を通じ、機構長に報告するものとする。
-------
となっていて、「運営会議」の役割は「懲戒審査委員会」の委員を決定することで終わってしまい、別に改めて「運営会議」で「懲戒審査委員会」の「審査の結果」の適否を判断する手続きはなく、「審査の結果」は所長を経由するだけで、いきなり「本部」の「機構長」に行ってしまう訳ですね。
ふーむ。
井上は、
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調査委員会がどんな結論を出して、運営会議がどんな結論を出すか、私には見えていないのですけれども
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8963b585fd4cf73c2ab214be9b2bbc0
と言っているので、私は「調査委員会」ならぬ「懲戒審査委員会」が「審査の結果」を出した後、それを「運営会議」で検討して、その結果が「本部」に行くものと思っていたのですが、井上の発言は規程とは齟齬がありますね。
もともと私は「運営会議」を株式会社の取締役会みたいなものかとイメージしていたので、所長が「運営会議」のメンバーではないことが意外だったのですが、「運営会議」のメンバーでない以上、所長が「懲戒審査委員会」の委員になることもありえません。
要するに、懲戒処分に関しては、所長は「懲戒審査委員会」の「審査の結果」を「本部」の「機構長」に「報告」するだけの役割なんですね。
中間管理職どころか、郵便ポストみたいなものです。
従って、「調査委員会がどんな結論を出して、運営会議がどんな結論を出すか、私には見えていない」という表現に不正確な点はあるとしても、井上に「懲戒審査委員会」の「審査の結果」が「見えていない」ことは事実ですね。
日文研の制度上、所長であるにもかかわらず、井上は懲戒処分の判断過程から全く排除されています。
逆に、懲戒審査委員会の委員、特に委員長になれば、実際上、「審査の結果」を左右できそうですね。
では、委員長は誰なのか。
まあ、これが副所長の松田ということではないですかね。
井上章一の音声データで分かったこと(その7)
私は井上が「審査委員会」を「調査委員会」と言い間違えているのではないかと思っていましたが、これは誤解でした。
「新世紀ユニオン」のブログ「委員長の日記」には、資料として松田の2021年4月7日付メールが載っています。
4月2日、「日本歴史学協会」の「今般、日本中世史を専攻する男性研究者による、ソーシャルメディア(SNS)を通じた、女性をはじめ、あらゆる社会的弱者に対する、長年の性差別・ハラスメント行為が広く知られることとなりました」という声明が出され、次いで4月4日に北村紗衣・隠岐さや香等によって「オープンレター」が出された直後の、ネットでは「炎上」が延々と続いていた時期ですね。
当時、日文研では、
-------
3月29日にはG先生が日文研に呼び出され、井上章一所長、瀧井一博副所長、松田利彦副所長から再度の事情聴取を受け、この場で「調査委員会が立ち上がる」「懲戒処分の可能性がある」との説明がなされます。このとき、G先生は脅迫状等で身辺が不安なので日文研内の宿泊施設の利用をお願いしますが「警備に責任が持てない」「女性職員の反発が強い」との理由で、松田副所長から断られています。
http://shinseikiunion.blog104.fc2.com/blog-entry-3548.html
という状況だったそうです。
さて、松田のメールは、
-------
所内業務および信州大学兼業につき 2021/04/07 水 14:54
○○先生
CC:井上所長、瀧井副所長、一鷓総務課長
先生に関わる調査については近く調査委員会が立ち上がります。
提出していただいた資料の検討が中心になると思いますが、聞き取りなども必要に応じて行うかもしれません。
そのときはご協力をお願いします。
いくつかお伝えすべきことがあり、ご連絡差し上げます。
1)所内の担当委員会・小委員会について
現在、所長から事実上自宅謹慎を言い渡されているかたちになっており、
また、所に来ていただくのも女性教職員を中心に反発があります。
日文研外のお名前が出ることは、呉座先生にとっても望ましいことではないと思います。
そこで、いくつかの委員については
以下のように、交代していただかざるを得ません。
・出版委員会: 委員会の委員から外れていただきます。
同『日本研究』編集委員会: 編集委員会代表及び編集委員から外れていただきます。
・研究協力委員会 京都新聞担当小委員会: 代表を外れ、小委員会の委員として残留。
・広報委員会 一般公開実行委員会: 代表を外れ、小委員会の委員として残留。
本日の調整会議で承認され、明日のセンター会議で報告の見込みです。
なお、大橋直義先生の共同研究班代表など、さらに外れていただかなくてはならない業務が生ずるかと思われます。
2)兼業について
添付の兼業届け(信州大学経法学部知財関係プロジェクト業務)をいただいています。
こちらは、まだ兼業の意思はおありということでしょうか。
調査にともなう自宅待機中につき当面控えていただくことは、可能でしょうか。
先方ともご連絡をとりご検討いただけますと幸いです。
ご自愛ください。
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というものですが、ここで松田は「先生に関わる調査については近く調査委員会が立ち上がります」と書いています。
この時点で松田が書き間違えるはずもないので、これは「運営会議」の下に置かれる「懲戒審査委員会」ではなく、文字通り「調査」を目的とした委員会ですね。
そして、「調査委員会」の結論が、井上の電話があった5月27日時点でもまだ出ておらず、「調査委員会がどんな結論を出して、運営会議がどんな結論を出すか、私には見えていないのですけれども」という表現になる訳ですね。
井上は「調査委員会には法律の専門家が二人入っていらっしゃるので」とも言っていますが、私はこれも「運営会議委員のうちから5名以上7名以下で組織」される「懲戒審査委員会」に「法律の専門家が二人入って」いるのかと思っていました。
しかし、そもそも「運営会議委員」のメンバー21人の中に「法律の専門家」が見当たらないので変な感じがしたのですが、これも「調査委員会」の話であり、「法律の専門家が二人」というのは弁護士が二人ということでしょうね。
さて、これまで懲戒処分の話をしてきましたが、重要なのはもちろん准教授内定の撤回の方です。
法律論としては本件の内定撤回はあまりに乱暴な話で、私は関係者が法律に無知なためにこんな無茶な結論を出したのかと思っていました。
しかし、井上が「人事権の濫用みたいなことになり得る判断をすると、そうした場合、あなたが不服の申し立てをしたら、私は日文研に勝ち目はないような気がしています」、「少なくとも私は呉座さんに、日文研にとどまる権利は担保されていると考えています」と言っているように、内定撤回が法的に無理なことは井上・松田・瀧井を始め、関係者はみんな熟知していた訳ですね。
そこで三人は呉座氏が「自発的に」退職するように「なだめたりすかしたり」することとし、5月21日、「どういう話になるのかというのが全く分からない」状態で呉座氏を呼び出して、相当強烈な退職勧奨を行なった訳ですね。
それは呉座氏にとって、次に呼び出されたら「監禁されてですね、何かサインするまで返さないとかそんなことはないと思いますけれども、まあ、いずれせよ、何かこう、重苦しい空気がずっと流れて、お互い気分が悪くなってもなあ」と思わせるほどのものであった訳です。
井上は「やめさせることは絶対出来んと思う」「そこに踏み込むのは、私は人事権の濫用やと思うし、呉座さんが不服の申し立てをすれば、呉座さんが勝つと思う」などとは言っていますが、結局は自らその「人事権の濫用」を行った訳で、まあ、当初から「ただ、自発的にやめてくださったらありがたいな、という気分」を松田・瀧井と共有していたのでしょうね。
日文研・井上章一所長と呉座勇一氏の会話記録(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8963b585fd4cf73c2ab214be9b2bbc0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21fb31990238d4b8518437ac19ffa172
5名以上7名以下?
つまらぬことですが。
「懲戒審査委員会」が「運営会議の議を経て」「運営会議委員会のうちから5名以上7名以下で組織」される、ということですが、たとえば、当該委員会が六名で組織され、懲戒の賛成者が3名、懲戒の反対者が3名の場合、報告された機構長も、どっちやねん、と困るでしょうね。
こういうものは、普通、奇数にするものですが、なぜ、「5名以上7名以下」などという、法の条文であまり見たことのないような文言があるのか、変な感じがしますね。
「5名又は7名で組織する」とすれば済む話で、ちょっと頭が悪いんじゃないの、と思いますが、「5名以上7名以下」という規定には、私などには窺い知れぬ、なにか深淵な意図があるのかもしれません。
呉座氏の裁判関係の投稿は一休みします。
停職一か月の懲戒処分については一応の流れが掴めましたが、内定撤回については、呉座氏のブログによれば、
-------
そもそも人間文化研究機構の内規には、テニュア審査を経てテニュア付与を決定した後にこれを「再審査」によって取り消す規定は存在しません。加えて、テニュア審査は学術的な評価基準に基づいて行われており、職務と関係のない私的な発言を理由に「再審査」し取り消すことは、事実上の懲戒処分であり、停職処分と合わせると同一理由に基づく二重処分となります。テニュア付与の取り消しは事実上の解雇であり、解雇権の濫用と認識しております。
https://ygoza.hatenablog.com/entry/2021/11/02/205038
とのことなので、規程類を見ても手掛かりがないですね。
ま、これから裁判の過程で関係資料が出てくるでしょうし、井上章一・松田利彦・瀧井一博等を証人尋問すれば分る話ですから、呉座氏の裁判関係の投稿はこれで一休みして、小川剛生氏の論文、「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021年10月)に戻りたいと思います。
>筆綾丸さん
>こういうものは、普通、奇数にするものですが、
「運営会議」自体は、
-------
第3条 運営会議は、委員21名で組織し、次の各号に掲げる者をもって構成する。
(1)副所長
(2)研究調整主幹
(3)情報管理施設長
(4)総合研究大学院大学文化科学研究科国際日本研究専攻長
(5)センターの職員のうちから所長が指名するもの
(6)センターの職員以外の者で学識経験を有するもののうちから所長が指名するもの
https://www.nichibun.ac.jp/ja/uploads/pdf/ks-1.pdf
ということで、奇数になっていますね。
ちなみに、(4)の「総合研究大学院大学文化科学研究科国際日本研究専攻長」というのは何だろ、と思って検索してみたら、誰が「長」なのかは分かりませんが、松田・瀧井を含む教員18人全員が日文研の関係者なので、日文研の東京出張所みたいなものでしょうか。
https://www.soken.ac.jp/outline/education/educational_activities/post-21.html
「今後、重ねての問い合わせ、議論には一切対応しませんので、早急に訴訟提起して頂ければ幸いです」
昨日、私が「呉座氏の裁判関係の投稿は、いったん一休みします」と投稿した数十分後に呉座氏がブログを更新し、「日本歴史学協会に対する訴訟提起について」という投稿をされましたね。
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日本歴史学協会は、令和3年4月2日、「歴史研究者による深刻なハラスメント行為を憂慮し、再発防止に向けて取り組みます(声明)」と題する声明を公開しました。そこには、「今般、日本中世史を専攻する男性研究者による、ソーシャルメディア(SNS)を通じた、女性をはじめ、あらゆる社会的弱者に対する、長年の性差別・ハラスメント行為が広く知られることとなりました。」との記載があり(傍線・太字は私によるもの)、私を名指しで糾弾しています。
この記述は、私が、Twitterにおいて、あらゆる社会的弱者に対してハラスメント行為(差別行為)を長年継続していた事実を摘示したものです。
私は、既に公に謝罪している通り、北村紗衣准教授に対して複数回、誹謗中傷をしてしまいました。また、女性一般に対する不適切な発言があり、これが「女性差別・女性蔑視的」と評価されることも理解していますし、深く反省しております。
しかし、私が「あらゆる社会的弱者に対する長年のハラスメント行為」をしたという日本歴史学協会の宣言は、事実ではなく、名誉毀損と言わざるを得ません。
https://ygoza.hatenablog.com/entry/2022/04/07/102424
私は既に一年前、日本歴史学協会の「声明」が出された翌日、
-------
真面目な話、あの声明が出た以上、私はこの問題は裁判になった方がよいと思っています。あれが多くの学会で賛同されたら呉座氏は論文発表の場も失うでしょう。学界「村八分」ですね。かといって、勤務先の処分を裁判で争うことも難しいでしょうが、日本歴史学協会なら相手として丁度よさそうです。
https://twitter.com/IichiroJingu/status/1378187340296777732
などと書いており、提訴は大賛成です。
オープンレターは署名者の数が多いとはいえ、所詮烏合の衆ですが、日本歴史学協会の方は専門研究者の同業者ギルドによる「村八分」であり、法的にはこちらの方がよほど問題ですね。
日文研の悪知恵トリオ、井上章一・松田利彦・瀧井一博も、オープンレターよりむしろ日本歴史学協会の声明にネジを巻かれたのではないですかね。
今回の問題が起きるまで、私は日本歴史学協会がいかなる団体なのかも知りませんでしたが、「日本歴史学協会常任委員会内50年史編集委員会」編の『日本歴史学協会50年史』(日本歴史学協会、2000)という小冊子を見たところ、1950年の創設時にはそれなりにバランスの取れた組織だったようです。
http://www.nichirekikyo.com/publication/50nenshi.pdf
しかし、今は歴史科学協議会などの「科学運動」に熱心な、要するに共産党系の人々が実質的に支配している団体で、それは役員の構成を見れば明らかですね。
http://www.nichirekikyo.com/about/31period.html
『日本歴史学協会50年史』も執筆の中心となっているのは宮地正人氏(東大史料編纂所元所長、歴博元館長)で、この時点で既に「科学運動」派が組織全体を完全制圧した、という印象の本です。
ま、そのあたりのことも裁判の進展に応じて書いて行こうと思います。
それにしても、
-------
日本歴史学協会代理人は、上記の主張を開示した以外は一切の対話・交渉を拒絶し、「今後、重ねての問い合わせ、議論には一切対応しませんので、早急に訴訟提起して頂ければ幸いです」とまで宣言しています。
-------
というのは、何とも異常な対応ですね。
これはオープンレター関係の裁判にも登場する某弁護士の発言のようですが、運動家としては一流で、抜群の行動力の持ち主ではあっても、理論面ではいささか心もとない人のようですね。
表現の自由、学問の自由に関わる重大な裁判なので、日本歴史学協会もこんなバウバウ吠えるだけが取り柄の番犬タイプの弁護士ではなく、きちんとした理論派タイプの弁護士を使って対応してほしいですね。
小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その3)
一週間ぶりに小川論文に戻ります。
小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b529b1034f9df20d6339295cb6f4f83
僅か三歳の幼児・恒明親王から何故に金沢貞顕に書状が送られてきたのか。
そもそも恒明親王とは何者か。
恒明親王に関する論考というと、三十年前の論文ではありますが、森茂暁氏の「皇統の対立と幕府の対応−『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって−」(『鎌倉時代の朝幕関係』、思文閣、1991)が今でも最高の水準にあるものと思われます。
森茂暁 「皇統の対立と幕府の対応−『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって−」
http://web.archive.org/web/20150515165002/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-kotonotairitu.htm
ただ、これは前提として相当な予備知識がないと理解できないので、まずは基礎的な事実関係を把握するために初歩的な文献を探すと、実に百年以上前に出た三浦周行の『鎌倉時代史』(改訂版、1916)が良いですね。
同書の「第三百三十二節 亀山法皇の崩御」を引用します。
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御耳痛にて崩御
嘉元三年四月、亀山法皇、御耳痛に罹らせられしかば、後宇多上皇は申す迄もなく、伏見、後伏見両上皇にも、屡々御見舞あらせられ、七月二十日に御対面あらせられし時の如き、両院には、殊の外御愁歎の体に見え給ひしが、就中、後伏見上皇は、御哀慟甚しかりしといふ。其後、法皇は御祈療の験見え給はずして、九月十五日、崩御あらせらる。宝算五十七。浄金剛院法華堂に葬り奉る。御遺命に依りて亀山院と申す。
昭訓門院の御寵愛
法皇は御寵辛多くまし/\、皇子、皇女の宮達の数も歴世に勝れ給へり。然るに正安三年、西園寺実兼の第二女昭訓門院、御年二十九にして法皇の宮に入り給ひてより、其寵を御一身に集め給ひ、殊に嘉元々年、皇子御産あらせられしかば、御鍾愛他に超え、盛んに御養産の儀を行はせられ、尋で親王となし給ふ。即ち恒明親王なり。されば女院は法皇崩御の後、早くも初七日の御忌辰に御落餝あらせられたり。増鏡に御情緒を叙して曰く、
世を背かせ給ひにし初つかたは、いときはだけうひじりだちて、女房な
ど、御前にだに参らぬ事なりしかど、後には、ありしより猶たはれさせ
給ひし程に、永福門院の御さしつぎの姫君はや御さかりも過ぐる程なり
しを、この法皇にまゐらせ奉らせ給へりしが、かひ/゛\しく水の白浪
にわかやがせ給ひて、やがて院号ありしかば、昭訓門院ときこえつる、
その御腹におとゝしばかり、若宮生れ給へるを、かぎりなくかなしきも
のに思されつるに、今すこしだに見奉らせ給はずなりぬるを、いみじう
おぼされけり。
尊治親王の御愛情、恒明親王に移らせらる
是より先き、法皇は後宇多上皇の第二皇子尊治親王を愛し給ひ、乾元々年六月、立てゝ親王とせられ、嘉元々年十二月、万里小路殿に於て御着服を加へられ、同二年三月、太宰帥に任じ給へり(徳治二年、中務卿を兼ねしめらる)。是に至りて、法皇の御愛情は恒明親王に移らせられ、遂に親王を後宇多上皇に嘱し給うて、未来の皇儲に備はらしめんとせられ、上皇も辞し給ふこと能はずして、左の宸翰を上らせ給へり。
恒明親王儲弐間事、当時后宮、女院等之間、可備其器之仁無所生之上者、
承候之趣、非無謂候歟、今度沙汰之時、以此旨可被仰合関東之由承候了、
毎事被仰置之趣、不可有相違之条勿論、心安被思食之条、年来孝行所存、
可顕此時候歟、恐惶謹言、
嘉元三七月廿八日 世仁
http://web.archive.org/web/20081229223946/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-kamakura-92.htm
いったん、ここで切ります。
嘉元二年(1304)に東二条院と後深草院が相次いで崩御、更に翌三年(1305)九月十五日、亀山院が崩じて、持明院統も大覚寺統も大きく世代替わりとなります。
ただ、大覚寺統では、亀山院が最晩年の子、恒明親王(1303-51)を溺愛し、やっかいな遺言を残したため、大混乱が起きます。
即ち、亀山院は恒明親王に膨大な財産を譲ったばかりか、恒明親王を皇太子にするように後宇多院(1267-1324)に命じ、後宇多院(「世仁」)もいったんこれを了解し、上記文書を亀山院に提出します。
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第三百三十三節 遺領の御処分
法皇の遺領御処分状
是より先き、七月、法皇は親しく御遺領の御処分を定め給ひ、崩御の後分進せしめられんが為め、御処分状を前右大臣西園寺公衡に託し給へり。二十三日、公衡、御処分状を天皇、後宇多、後伏見両上皇、昭慶門院(法皇の皇女、喜子内親王なり。増鏡に昭慶門院の寵は、諸宮の上に出で給ひたれば、御処分も豊富なりしこと見えたり)、昭訓門院、恒明親王、西殿准后(参議藤原忠継の女にて名を忠子と云ふ。後宇多上皇の宮に入りて尊治親王を生み奉り、後、三宮に准ぜらる、即ち談天門院なり)等に進めたり。全文は公衡手記の亀山院御凶事記に存録す。
恒明親王に厚くし給ふ
これに拠るに、法皇は恒明親王につきて、「三歳小児心操雖難知、於事孝行之志不可説々々々」と宣ひ、御遺領の御処分に於ても亦、最も親王に厚くし給へるを見る。別に左の宸翰あり。
五旬已後(○後、更に崩御後、速に分進せしむることに改め給ふ)、面々
御譲状等守銘、或持参、或可分進、太王不譲泰伯、而意在季歴、泰伯三譲
季歴、意在太王、思之々々、
嘉元三年七月廿六日 御判
一、文永故院御譲状一向以愚僧為惣領歟、深草院為兄一事一言不及訴訟、
是併被重孝道故歟、且為先例、非余新儀、所領配分依多少不慮嗷々出来
事、可耻々々、可哀々々、
従来学者のこれに拠りて法皇の御真意を揣摩し奉れるもの、皆誤れり。余を以てすれば、これ法皇が恒明親王に重くし給ふと共に、深く後宇多上皇の御感情を顧み給ひ、例を支那の故事に採りて、上皇の孝道を重んじ、御処分に従はれんことを諷し給へるものに外ならず。其他、後伏見上皇に進められし御処分状に、播磨国多可荘以下四荘一牧を載せられて、「右庄々所譲進也、軽微之至、頗雖有其憚為顕志不顧恐者也」と書し給へるは注目すべし。
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しかし、後宇多院としては面白いはずはなく、亀山院が没すると亀山院の遺言の内容を実現しようとする恒明親王の母・昭訓門院とその兄・西園寺公衡に対して後宇多院が猛烈な反撃を加えます。
小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その4)
後宇多院は文永四年(1267)生まれで母は洞院実雄の娘・佶子(京極院、1245-72)、恒明親王は嘉元元年(1303)生まれで母は西園寺実兼の娘・瑛子(昭訓門院、1273-1336)ですから、二人は実に三十六歳違いの異母兄弟ですね。
親子というより、当時としては祖父と孫くらいの世代差があります。
何故に最晩年の亀山院が恒明親王を皇太子とすることに拘ったのかについて、私もあれこれ考えてみたことがあるのですが、未だに謎です。
また、後の展開を考えると、後宇多院が何故に亀山院の無茶な要求に抵抗せず、いったんは了解する旨の文書を出したのかも分かりにくいところですが、まあ、こちらは亀山院がそれだけ迫力のある人物だった、後宇多院は父が怖くて逆らえなかった、ということなのでしょうね。
さて、続きです。
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第三百三十四節 御処分後の波瀾
亀山法皇と西園寺公衡
西園寺公衡は、先きに後深草法皇の御信頼を蒙り、崩御の後は、御火葬の事を奉行すべきの院旨を奉じたりし程なるに、後其妹昭訓門院が法皇の宮に入り給ひし為めにや、亦亀山法皇の御信任を受け、幕府の請に依りて、父実兼に代りて其申次(関東執権)となり、公武の間に重望を負へり。去年、後深草法皇崩御の時の如き、彼れは御遺誡に依りて、奉行の随一に載せられ、御素服を賜はるべき員数に加へられたりしにも拘らず、事を以てこれを辞し奉れり。然るに亀山法皇崩御の時は、彼れは御素服を賜はり、法皇の御処分状に於ても年来の芳志謝し難しと宣うて、遠江国浜松荘を賜へるのみならず、昭訓門院に賜ひし御処分状には、事毎に彼れに諮られんことを諭し給へり。
http://web.archive.org/web/20081229223946/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-kamakura-92.htm
いったん、ここで切ります。
亀山院と西園寺公衡の関係も分かりにくいところがあって、正応三年(1290)三月、浅原為頼による伏見天皇暗殺未遂事件が起きると、公衡は亀山院が黒幕だと断じて、亀山院糾弾の急先鋒となります。
『増鏡』には、
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中宮の御せうと権大夫公衡、一の院の御まへにて、「この事はなほ禅林寺殿の御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引きたがへ、東かく当代をも据ゑ奉り、世をしろしめさする事を、心よからず思すによりて、世をかたぶけ給はんの御本意なり。さてなだらかにもおはしまさば、まさる事や出でまうでこん。院をまづ六波羅にうつし奉らるべきにこそ」など、かの承久の例も引き出でつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して、「いかでか、さまではあらん。実ならぬ事をも人はよくいひなす物なり。故院のなき御影にも、思さん事こそいみじけれ」と涙ぐみてのたまふを、心弱くおはしますかなと見奉り給ひて、なほ内よりの仰せなど、きびしき事ども聞ゆれば、中院も新院も思し驚く。いとあわたたしきやうになりぬれば、いかがはせんにて、しろしめさぬよし誓ひたる御消息など東へ遣されて後ぞ、ことしづまりにけり。
http://web.archive.org/web/20081229223936/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm
とあって、亀山院は幕府に弁明の書を送るなどして、この人生最大のピンチを何とか乗り切った訳ですが、まあ、亀山院としても公衡に良い感情が持てたはずもありません。
しかし、浅原事件から十五年後、公衡は亀山院から恒明親王を託されるような良好な関係となった訳で、亀山院はどのようにして公衡を懐柔したのか。
ま、それはともかく、三浦著の続きです。
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後宇多上皇と公衡
十月、昭訓門院、法皇の為めに御仏事を修し給ふに当り、権大僧都憲基唱導師として説法を行へり。公衡其席に陪してこれを聴聞し、文を作りて感慨を叙す。其中に言ふあり、「凡雖為毎度事、今日殊以不可説々々々、漢家本朝勘句等中、親王御事聊申出之、年少之時、厳親有御事例等多勘之中、正三歳例、寛弘八年一条院御事之時、後朱雀院三歳也、果為継体守文主之由申之、誠以珍重事也」と。これに拠るも、彼れが報効を図らんとするの径路はこれをトするに苦まざると共に、其結果が、必ずしも後宇多上皇の院旨に伴はざるべきことも、亦容易に察し得らるべし。
十一月、権中納言六条有房は院使として鎌倉に赴けり。それかあらぬか、閏十二月、公衡は院勘を蒙りて籠居せり。彼れの管領に係る伊豆、伊予両国、御厩、鳥羽院及び左馬寮等は、悉くこれを停められたり。而かもこれ実に幕府の執奏に依るといふ。明年二月、復、幕府の執奏に依りて、院勘を免ぜられて出仕せり。
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嘉元三年の『公卿補任』には「前右大臣従一位」の藤原公衡(四十二歳)について、「九月廿七日賜御素服。十二月六日徐服宣下。閏十二月廿二日伊豆伊予両国左馬寮等被召放云々。依院勅勘也。但武家申云々」とあります。
当時の治天の君は後宇多院なので、「院勅勘」としてこうした処分は可能な訳ですが、公衡も関東申次という重職にありますから、勝手に処分はできません。
そこで後宇多院は近臣の六条有房を鎌倉に派遣し、その了解を得た上で処分した訳ですね。
この間、もちろん西園寺公衡側も相当な政治工作をしたでしょうが、結局、幕府は後宇多院を支持する立場を取ります。
ただ、翌嘉元四年(徳治元、1306)の『公卿補任』には、「二月廿日勅免。同廿四日始出仕云々。伊予伊豆両国御厨鳥羽院左馬寮。以五通院宣返賜之。依関東執申也」とあって、幕府は公衡の処分を短期間で終わらせており、一方的に後宇多院に加担した訳でもないですね。
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その1)
恒明親王問題を理解するためには、
入門編:三浦周行「第九十二章 後深草、亀山両法皇の崩御」(『鎌倉時代史』改訂版、1916)
初級編:三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(『日本史の研究 第一輯』、1922)
中級編:三浦周行「両統問題の一波瀾」(『日本史の研究 第二輯』、1930)
上級編:森茂暁「「皇統の対立と幕府の対応−『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって−」(『鎌倉時代の朝幕関係』、1991)
という具合いに、関係論文の発表順に従って読み進めると良いですね。
さて、入門編はもう少しだけ残っていて、
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一流の御暗闘
亀山法皇が、恒明親王を儲弐(ちょじ)に立てんと宣へるは天皇に皇子ましまさゞりしを以てなり。然るに徳治元年、天皇の皇子(邦良親王)御誕生あられたり。加之、後宇多上皇は尊治親王に御望を繋け給ひたれば、法皇の崩御後、曩日(のうじつ)の勅約を履行し給ふの思召ありとは拝せられず。
四月、権中納言にして評定衆なる吉田定房は上皇の御使として鎌倉に赴けり(彼れは是月上表して其検非違使別当を辞せしが、六月、院執権を命ぜられ、十月、辞状を返されたり)。然るに翌月には、前権中納言藤原頼藤、昭訓門院の御使として鎌倉に赴き、尋で父の喪に遭うて帰京せしが、七月、復幕府に使せり。彼れの使命は蓋し恒明親王儲弐の事について亀山法皇の御素意を示し給ひ、幕府の協賛を求められしものならん。明年正月に至り、東使二回に上京せしことあるも、其要務の何たるを弁ぜず。
持明院統の御活動と為兼の操縦
持明院統たるもの、豈に風馬牛相関せられざるを得べけんや。二月、前権中納言平経親の鎌倉に使せるは、伏見上皇の院旨を承くるものならん。是に於て持明院統の形勢も亦(また)頓(にわか)に活気を呈し来れるを見る。
恐らくはこれ上皇の寵臣京極為兼の操縦に出づることなるべし。彼れは嘉元々年閏四月、幕府の為めに赦されて配所佐渡国より召返され、伏見上皇の寵遇旧の如し。愛君の志最も篤しと称せらるゝ彼れは、果して如何なる術策を以て、一流の頽勢を挽回せんとは試みるべきぞ。
伏見上皇と昭訓門院との御接近
是時に当りて、余は奇異なる一現象を看過すること能はず。何ぞや、伏見上皇と昭訓門院との御接近これなり。頼藤の再び鎌倉に赴くや、彼れは女院の御使命を奉ぜるに拘らず、上皇より吉服を賜はり、これを著して其途に上れるなり。当時女院御所なる室町殿に於て、御経供養を行せられ、又仏供養を営ませられて、法皇の御冥福を奉薦せられしに、伏見、後伏見両上皇の臨幸あらせられ、為兼亦参仕せるを以て見るも、天皇の行幸、後宇多上皇の御幸なかりしは果して無意味なりとなすべきか。思ふに、女院は恒明親王の御事より後宇多上皇と隙を生じ給ひしを見て、為兼は奇貨措くべしとなし、巧みに女院の御歓心を得て、万里小路一流を離間し中傷し、これに依りて漁父の利を占めんと企図せしものならん。
http://web.archive.org/web/20081229223946/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-kamakura-92.htm
とあります。
ただ、「亀山法皇が、恒明親王を儲弐に立てんと宣へるは天皇に皇子ましまさゞりしを以てなり。然るに徳治元年、天皇の皇子(邦良親王)御誕生あられたり」とあるのは誤りで、後二条天皇(1285-1308)皇子の邦良親王は徳治元年(1306)ではなく、正安二年(1300)生まれです。
後宇多院は後二条天皇に皇子が誕生しているにもかかわらず、亀山院の無茶な要求をいったんは受け入れた訳ですね。
また、京極為兼の役割についても疑問がありますが、それは上級編で検討します。
ということで、続いて初級編、三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(『日本史の研究 第一輯』、1922)に入ります。
ここで、両統問題の発生時に遡って、もう少し詳しく事情を見て行きます。
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第一節 両統問題の研究
大覚寺、持明院両皇統の皇位に関する争は、実に我国史の一大問題なり。両統迭立の策は、鎌倉幕府が居中調停の目的を以て案出すると共に、其採納を朝廷に強ひしものにして、鎌倉時代の後期に於ける朝幕関係の一大要件なり。
本問題は其性質として、両統側及び幕府側の史的材料を同一程度に蒐集し、虚心平気に其主張を看取し、然る後、最も公平なる判断を下すにあらざれば、到底明快なる解決を与ふるに由なきなり。然るに両統の争は、終に一方の勝利に帰し、鎌倉幕府亦覆滅したりしかば、これに関する史料も、彼れに詳らかなることも此れに麁なれば、公平にして適当なる判断を得るの資料に乏しく、吾人をして転々隔靴掻痒の歎をなさしむ。
特に史学研究上第一位を占むべき根本史料の存するもの少きは、一層の困難を加ふるなり。縉紳家の日記は例に依りて朝廷日常の儀式に関する記事に豊富なるも、政治上の重要なる案件に至りては「委旨不能記尽」といひ、「記而無益」「不及記付」「不遑記録」などゝいひて、簡単なる没要領の文字を臚列するを例とせり。
これ当時にありては自ら忌諱に触るゝを恐れしにも依るべしとはいヘ、又此種の事件が常に秘密の間に行はれて、外間に漏洩すること少かりしにも依らすんばあらず。これを朝幕間の交渉に視るも、幕府の使節の提供する事書即ち覚書の文意は、平々凡々何等の危険分子を認めざるを例とするも、突如として平地に風波を起すが如き波瀾のこれより生ずるを見れば、彼申次を通じて咄嗟の間に秘密交渉の成立するを察すべく、此種の交渉は双方の口頭に依りて弁ぜられて、これを記録に上す場合、極めて少かりし為め、少数の当事者以外、事件の真相を窺ひ知るに由なく、且つこれを徴すべき記録の欠乏を来たさしめたりしなり。
此くの如く秘密の鍵が少数者の手にありて、一般に知られざりし丈外間に揣摩憶測の盛んに行はるゝを禁ずべからざるは、古今の通態なり。本問題の如きも、亦同一なる事情の下に、一般に事実として認められ居るものゝ中には、此種の街談巻説に基くと覚しきもありて、少しく科学的研究を加ふる時は、忽ち其根底の薄弱なるを発見すべし。
本問題につきて後世叙述し論断せるものなきにあらずと雖も、此くの如き第二第三流の史料に拠れるものは、史実としても、史論としても、到底吾人の首肯に値ひせず。両統の争議の原因の如き、両統迭立制成立の時期の如き、本問題の第一義たる事項にして、猶ほ且つ曖昧模糊の裡に葬られ居るの如き、其他枝葉の問題に至りては、不明の部分一にして足らざるなり。
星野博士は去明治三十一年中史学会に於て両統送立に関する研究の結果を発表せられ、これが論文は同年四月以後の史学雑誌に連載せられたり。其考証の該博にして議論の精緻なること、固とより従来世に現はれしものゝ比にあらず。就中本問題の経過にして世人の注意に上らざりしものを詳叙せられ、且つ従来の伝説の根拠なきを論難せられし部分の如きは、吾人後学を啓発せられしこと最も多大なりしを覚ゆ。余は今に至るも本問題の一権威として敬意を表するものなり。
唯材料の取捨につきては、例せば余りに増鏡の記事を偏重せられたりしが如き、多少の遺憾なき能はず。特に同博士の論文に閑却せられたる材料及び右論文起草後に発見せられたる新材料の為め、此有盆なる論文に補修を加へざるべからざるものあり、これに依りて論旨の変更を要するに至りしが如きは、研究の進歩に於て免るべからざるところにして、同博士と雖ども、此点に於ては、強ち前説を支持せんことを努めらるゝものにあらざるべし。
本問題研究の順序としては、先づ両統争議の原因其者を闡明するを要し、又これが方法として、両統側の主張に向かつて、最も公平なる観察批判を下さんことを要す。
http://web.archive.org/web/20081229143100/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm
三浦周行が史料に基づいてきちんとした「科学的研究」を始める前は「第二第三流の史料」に依拠した「揣摩憶測」が跋扈していた訳ですが、その中でも特に『増鏡』の影響が強かった訳ですね。
ただ、三浦の批判にもかかわらず、『増鏡』の影響は根強く残り、上級編の森論文においてすら、その呪縛から逃れてはいないように見えます。
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その2)
初級編:三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(『日本史の研究 第一輯』、1922)の続きです。
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第二節 大覚寺統の御主張
文永九年二月十九日、後嵯峨法皇亀山殿の別院なる浄金剛院に崩御し給へり。然るに其皇位に関する御遺勅に依りて、端なくも亀山天皇と後深草上皇との間に御感情の衝突を来たし、延いて両統分立の端緒を開くに至れりと伝へらる。されば後嵯峨法皇の御遺勅なるものは、両統分立の問題に取りては最も重要なる地位を占むる関鍵なりと謂ふべく、本問題の解決も亦此御遺勅の研究より着手するを要す。
両統迭立の原因として従来最も汎く世に行はれたるは梅松論の説なりとす。同書に拠れば、後嵯峨法皇の御遺勅は後深草上皇に長講堂領百八十箇所の御領を賜はる代りに、其御子孫をして永久に皇位に即くの望を断たしめられ、亀山天皇には斯る御領の譲与なき代りに其御子孫に限りて皇位に即かるべしと定められしといふにあり。(同書に寛元年中崩御の時の御遺勅とあるは誤)
増鏡には文永九年二月法皇の親しく亀山天皇に対して後事を示し給ひしことを記し、其内容を揣摩して通常の政務以外の事なるべしといへり。
これを其下文と対照すれば、皇統及び御領御処分の事なりと察せらる。当時後深草上皇にも御対面あらせられし趣なれば、同時に上皇にも後事を示し給へるなるべし。而して其下文には御遺勅の要点を載せて世人が後深草上皇の後嵯峨法皇に代はりて院政を主宰し給ふべしと予想せるに反して、万機は亀山天皇の御一統にて主宰し給ふべき御趣旨なることを載せ、直に其文を承けて、後深草上皇に、長講堂領及び播磨国、尾張熱田社等を御処分ありしことを載せたり。
これを梅松論の記事に比するに、此れには長講堂領の外、播磨国、熱田社等を加ヘ、且つ文理彼れの如く明晰ならずと雖ども、皇位は亀山天皇及び其御子孫に限られ、後深草上皇には御領御処分ありしのみなるより推せば、梅松論と同一の解釈を取ることを得べく、両書の記事は、其帰趣に於て大差なきものと見做して可なるべし。唯梅松論にありては、亀山天皇の皇統に御領なきが如くに解釈せらるゝ文あるを異とすべきのみ。
然るに増鏡と梅松論とは、一は公家側に近く、一は武家側に近きの差あるも、其記事は比較的に公平を失はず、唯後嵯峨法皇の崩御の当時を距る早くも六七十年後の述作に係り、固とより以て根本史料となすに足らず。而して根本史料としては従来亀山院御凶事記に見えたる同院の御処分帳に附帯する御遺勅の文意が、間接に同一の事実を伝ふるものと解釈せられ居れり。此点よりせば此御遺勅は、亦本問題の解決に重大の関係を有するを以て以下少しくこれを説かん。
http://web.archive.org/web/20081229143100/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm
「両統迭立の原因として従来最も汎く世に行はれたるは梅松論の説なりとす」とありますが、『梅松論』は後嵯峨院の崩御の時期について、文永九年(1272)を三十年近く遡って「寛元年中崩御の時の御遺勅」などと記しています。
両統迭立に関して、『梅松論』のような、少なくとも公家社会については極めて乱暴な史書がそれなりに信頼されていた時代があった、というのはちょっと吃驚ですね。
『梅松論』の偏見について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52d22a554cdc98920ab706b7607fb568
ま、それはともかく、続きです。
『公衡公記』に含まれる「亀山院御凶事記」の分析となります。
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後嵯峨法皇の崩御より約三十三年の後なる嘉元三年九月十五日亀山法皇崩御ありしが、是より先き七月二十日同二十六日の日附を以て、時の主上たる後二条天皇、其他の御方々に対する遺領の御処分帳を認め置かれ、同時に特に後事を御委託あらせられし前右大臣西園寺公衡に賜ひし御書に、次の如く宣へり。
五旬已後、面々御譲状等、守銘或持参、或可分進、太王不譲泰伯、而意
在季歴泰伯三譲季歴、意在太王、思之々々、
嘉元三年七月廿六日 御判
一文永故院御譲状、一向以愚僧為惣領歟、深草院為兄一事一言不及訴訟
、是併被重孝道故歟、且為先例、非余新儀、所領配分依多少、不慮嗷々出
来事可耻々々、可哀々々、
此文につきては、栗田博士と星野博士との間に互に其解釈を異にせられたり。栗田博士は故院即ち亀山院の御父たる後嵯峨院が文永の御譲状に於て亀山院同母の皇兄たる後深草院をさし置かれ、亀山院を惣領として御領を譲り給ひしに拘らず、後深草院の毫も争ひ給はざりし先例に遵はせられ、亀山院にも、時の主上即ち後二条天皇に譲り給はずして、其皇弟尊治親王即ち後の後醍醐天皇に譲り給ふべしとの御内意をば、支那の故事を引きて諷示し給ひしものならんとの見解を与へられたり。(荘園考)
然るに星野博士は後嵯峨院の御処分帳を以て、御領荘園の分配の外、将来に於ける皇位の継承の事迄も明細に御記載ありしものと断ぜられ亀山院の御遺勅に見えたる太王は後嵯峨院に、泰伯は後深草院に、季歴は亀山院御自身に擬し給ひしものにて、其「太王不譲泰伯、而意在季歴」との上句は、後嵯峨院の思召が亀山院にありしを以て後深草院に譲り給はざりしを宣ひ、「泰伯三譲季歴、意在太王、」との下句は、後深草院の後嵯峨院に御孝心深くまし/\しより亀山院に譲りて敢て争はせ給はざりしを宣ひしなりとの見解を与へられ、栗田博士の解釈を駁して、亀山院の御旨を得ざるものとせられたり。(史学雑誌第九編第四号所載「両統迭立を論ず」)
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いったん、ここで切ります。
栗田寛と星野恒の論争は今では古臭くなってしまっており、私も二人の著作そのものは確認していないのですが、二人の立場は、
栗田 財産相続の問題を扱っているのみ。
後二条天皇ではなく、尊治親王(後醍醐)に譲るとの趣旨。
星野 財産相続だけでなく、皇位継承について扱っている。
後嵯峨・後深草・亀山の三者の関係について言及するのみ。
ということですね。
栗田寛(1835-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E7%94%B0%E5%AF%9B
星野恒(1839-1917)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E6%81%92
しかし、三浦は星野説には史料上の根拠が欠けていることを指摘します。
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然るに余は不幸にして両説の何れにも賛同すること能はざるなり。星野博士は後嵯峨院の文永の御譲状は御領以外皇位継承のことをも御記載ありしものと断定せらるゝも、これを証すべき直接間接の材料は毫もこれなく、却つて其の反証と認むべきものあり、(そは後段に説くべし)故に後嵯峨院の御譲状も、此亀山院の御処分帳其他普通の場合の処分帳の如く、単に御領の御処分に止まりしものと解釈せざるを得ず。
星野博士は皇位継承に重きを置かれたるを以て、亀山院の御遺勅に、「且為先例」とあるを解して、「先例は弟を以て兄の後を承くる先例を云ふ、允恭帝以降其例枚挙に遑あらず」といはれたるも、其下文には、「所領配分依多少、不慮嗷々出来事可耻々々、可哀々々」とありて、単に遺領の御分配より生ずる争を戒めらるゝに止まり、毫も皇位の継承より生ずる争に言及し給はず。これを以て見るも、全く皇位継承の外他意のおはさゞりしこと明白にして、其所謂先例は前文に御記載ある後深草、亀山両院の後嵯峨院の遺領の御分配を受け給ひし御間柄を指し給ひしものと見奉るの外なし。故にこれ迄の余の解釈は全く栗田博士のそれと一致するものなり。
星野博士に従へば、亀山院は此御遺勅に於て徹頭徹尾後嵯峨院対後深草亀山両院の御関係を告白し給ふに過ぎざることゝなりて、其崩御前、皇子、皇孫其他の御方々に対する遺領御処分に関連して、事新らしくも斯る御述懐ありしは果たして何等の必要に依りしやは解釈に苦しまざるを得ず。若し此御処分に対する一般の御訓誡なりとすれば折角の御比喩も殆んど無意味に近きものとならん。
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ということで、三浦は星野説よりは栗田説の方が無理のない史料解釈だ、という立場です。
しかし、栗田が亀山院は後二条天皇と尊治親王(後醍醐天皇)の関係について定めているとする点については、三浦は疑問を呈します。
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故に栗田博士は此点に着目せられ亀山院の御処分帳の中、後宇多院の妃にして尊治親王の御生母なる西殿准后即ち談天門院に賜ひしものに、准后の死後は尊治親王に譲るべしと認め給ひしものあると、神皇正統記の後醍醐天皇の条に、亀山院が嘗つて天皇を鞠養し給ひ、且つ大統に即かしめんと思召して、八幡宮に告文を納れ給ひし旨の記事あるとに依りて、前記の見解を下されしは確かに一理あり。
さりながら此頃の天皇は虚器を擁し給ひて、実権院に帰し居たりしことなれば、後宇多院こそ重きをなし給ひたれ、後二条天皇は殆んど問題となり給はず、亀山院の御遺勅が、天皇と尊治親王との御関係につきて軫念あらせられし結果と解するは、尚ほ事情を悉さゞる嫌なしとせず。故に亀山院の尊治親王に御思召ありしと否とは姑くこれを措き、余は此遺勅に於て諷示し給ひし御方は断じて皇孫尊治親王にあらずして、皇子恒明親王なりしを信じて疑はざるものなり。
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三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その3)
栗田寛説は尊治親王(後醍醐)が重要な存在に決まっているのだ、という先入観に支配されているような印象がありますが、三浦は関係史料全体の丁寧な分析に基づき、「亀山院の尊治親王に御思召ありしと否とは姑くこれを措き、余は此遺勅に於て諷示し給ひし御方は断じて皇孫尊治親王にあらずして、皇子恒明親王なりしを信じて疑はざるものなり」と恒明親王の存在を浮き彫りにして行きます。
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亀山院の御処分帳を拝するに、尊治親王に関することは唯一所に見ゆるのみなるも、恒明親王に関することは数所に見えたり。先づ
(一)皇子後宇多上皇への御処分の中、冷泉殿及び文庫は御一期の後恒明親王に譲り給ふべしと認められたり。こは文永九年の後嵯峨法皇の御処分帳(そは後段に引くべし)にては亀山上皇に御処分遊ばされしものにて、御治世の君と関係あり。
(二)次に皇女昭慶門院への御処分には、恒明親王を御子ともせられて、後には女院の御領をも親王に進めらるべき旨懇に諭され、
(三)次に亀山院の妃にして同親王の御生母なる昭訓門院への御処分にも其御領を親王の御幼少の間丈御管領あるべき旨認められ、其他御譲状に漏れし所々も、同親王御成人の間はすべて御管領あるべく、猶ほ万事女院の御兄なる西園寺公衡に謀り給ふべき旨を諭され、而して恒明親王への御処分には前記の御処分に洩れし仙洞の御領にして、各所に散在せるものをも、悉く領知せしめられ、其末文には特に「三歳小兒心操雖難知、於事孝行之志不可説/\」と記させ給ひ、公衡に向つては、「恒明親王成人之間、前右大臣可計沙汰」とて丁寧に親王の御事を託し給ひ、親王に対する御愛情の転々切なりしこと拝察するに余りあり。
法皇は御領御処分につきて此くの如く最も親王に厚くし給ひしのみならず、御遺領の中には冷泉殿文庫の如く、治世の君の御領たるものさへあるは親王に対して皇位継承の思召ありしこと、おのづから拝察せらる。加之これと同時に法皇は後宇多上皇に向つて、親王をして他日の皇儲たらしめんことにつきて幕府への御執成を諭し給ひしと見え、是時上皇より法皇に上られし宸翰に、
恒明親王儲弐間事、当時后宮、女院等之間、可備其器之仁無所生之上者、
承候之趣、非無謂候歟、今度沙汰之時、以此旨可被仰合関東之由承候了、
毎事被仰置之趣、不可有相違之条勿論、心安被思食之条、年来孝行所存、
可顕此時候歟、恐惶謹言、
嘉元三七月廿八日 世仁
と宣へり。法皇の親王を御鐘愛あらせられしこと他の諸宮に越え、最も多くの遺領を与へ給ひしことと共に特別の御思召あらせられしは、今や疑を容るゝの余地なし。
http://web.archive.org/web/20081229143100/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm
いったん、ここで切ります。
財産分与の対象を見れば亀山院が恒明親王を特別視していたことは疑う余地がなく、更に後宇多院が亀山院に提出した文書に「恒明親王儲弐間事」とあるのですから、亀山院の遺志は明確ですね。
ただ、財産は亀山院が自由に処分できるとしても、承久の乱以来、皇位の行方は幕府の同意なしに勝手に決めることはできませんから、亀山院も恒明親王を皇太子にすることについて「関東」の同意を得るように後宇多院に命じ、後宇多院もいったんはそれを了解した訳ですね。
さて、続きです。
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昭訓門院は恐らく法皇の最後の寵妃にまし/\、正安三年、法皇五十三歳の御時廿九歳にして法皇の宮に入り給ひ、嘉元々年に恒明親王御誕生ありたれば、御寵愛比なく、今少し御成長の程を見給はずして崩御あるを悲み給ひしこと、増鏡 つげの小櫛 に見え、北朝観応二年九月六日、親王御年四十九歳にて薨御ありし時、洞院公賢は其園太暦に書して、「此親王者、亀山院鍾愛之御末子、昭訓門院所奉誕給也」といへり。されば上皇の後醍醐天皇に向つて思召寄せられしは昔の事にて親王降誕後は御愛情を親王に移されしなり。
此情実を知りて然る後亀山院の御処分帳を拝読すれば、其御文意は直に理会するを得べきなり。即ち亀山院が恒明親王の皇兄に後宇多院のあらせらるゝに拘らず、遺領の御処分につきて親王に厚くし給ふにつけて、後嵯峨院が皇兄なる後深草院を措きて皇弟なる亀山院御自身を惣領とし給ひしことを引証し給ひ、院の此くの如き御処分が決して其新儀にあらざる由を示して、暗に両宮の間に争端を開かれんことを防がせ給へるものなり。故に其先例は允恭帝以来抔といふ迂遠なるものにはあらずして、其前文に載せ給へる後嵯峨院の御処分を指し給へるのみ。
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三浦は増補本系の『増鏡』を見ているので「御寵愛比なく、今少し御成長の程を見給はずして崩御あるを悲み給ひしこと、増鏡 つげの小櫛 に見え」としていますが、十七巻本では巻十一「さしぐし」に、
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世を背かせ給ひにし始めつかたは、いときはだけうひじりだちて、女房など御前にだに参らぬ事なりしかど、後にはありしよりなほたはれさせ給ひしほどに、永福門院の御さしつぎの姫君〔昭訓門院〕はや御盛りも過ぐる程なりしを、この法皇に参らせ奉らせ給へりし、かひがひしく「水の白波」に若やがせ給ひて、やがて院号ありしかば、昭訓門院と聞えつる、その御腹に一昨年ばかり若宮生まれ給へるを、限りなくかなしきものに思されつるに、今少しだに見奉らせ給はずなりぬるを、いみじう思されけり。
http://web.archive.org/web/20081231170858/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-kameyamain-hogyo.htm
とあります。
細かいことですが、「はや御盛りも過ぐる程なりしを」には『増鏡』作者の昭訓門院に対する悪意が伺えますね。
また、「上皇の後醍醐天皇に向つて思召寄せられしは昔の事にて」とありますが、これは『増鏡』に影響を受けた評価であって、本当にそうだったのかは疑わしいところがあります。
ま、それはともかく、続きです。
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此情実を知りて然る後亀山院の御処分帳を拝読すれば、其御文意は直に理会するを得べきなり。即ち亀山院が恒明親王の皇兄に後宇多院のあらせらるゝに拘らず、遺領の御処分につきて親王に厚くし給ふにつけて、後嵯峨院が皇兄なる後深草院を措きて皇弟なる亀山院御自身を惣領とし給ひしことを引証し給ひ、院の此くの如き御処分が決して其新儀にあらざる由を示して、暗に両宮の間に争端を開かれんことを防がせ給へるものなり。故に其先例は允恭帝以来抔といふ迂遠なるものにはあらずして、其前文に載せ給へる後嵯峨院の御処分を指し給へるのみ。
次に太王泰伯季歴の比喩につきて考ふるに、太伯は周太王の子にして、季歴の兄なり。季歴子昌あり、太王季歴を立てゝ昌に及ぼさんとす。是に於て太伯弟仲雍と共に避けて荊蛮に奔り、文身断髪して継嗣に意なきを示す。是を以て季歴立てられて昌に及ぶ、即ち文王なり。太伯の荊蛮に奔るや、みづから勾呉と号す。荊蛮これを義とし、帰するもの千余家、立てゝ呉の太伯と為す。
<古公覃父武王の時尊んで太王といふ>
周太王 ┬─呉 太伯
│ 昌
└ 季歴−文王−武王 <紂が誅し殷を滅す>
されば此比喩も、後嵯峨、後深草、亀山三院の御事にはあらずして亀山、後宇多の両院及び恒明親王の御事を諷し給へるなり。而して亀山院の御思召は、単に此故事を引きて例とし給へる迄にて、必ずしも一々指すところあるにあらざるべきも、試みにこれを擬せんに、太王は亀山法皇みづから比し給へるもの、泰伯は後宇多上皇、季歴は恒明親王に比し給ひ、主として後宇多上皇が父帝に対する孝道を重んじて、此処分に服し給はんことを望み給ふと共に、公衡が能く此思召を奉体して、飽迄も恒明親王を保護し奉り、叡慮の貫徹を期せんことを希はれしものと拝察せらる。
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中国の故事についても三浦の説明が正しいのでしょうが、「弟仲雍と共に避けて荊蛮に奔り、文身断髪して継嗣に意なきを示」した太伯に喩えられた後宇多院としては、あまり良い気分ではなかったでしょうね。
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その4)
初級編:三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」は、
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第三章 両統問題
第一節 両統問題の研究
第二節 大覚寺統の御主張
第三節 皇位継承に対する幕府の干渉
第四節 後嵯峨法皇の幕府に対する御態度と御素意
第五節 持明院統の御主張
第六節 両統問題の経過
第七節 両統君臣の疎隔
第八節 両統の色彩
第九節 両統分争と御領
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と構成されていて、今は「第二節 大覚寺統の御主張」の途中です。
この調子で全文を紹介して行くと数十回の投稿が必要になるかもしれませんが、当面の目標は嘉元三年(1305)に恒明親王(の周辺の誰か)が六波羅探題南方・金沢貞顕に出した書状の背景を理解することなので、この目標に関係のない部分は省略するつもりです。
ということで、続きです。
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余の解釈にして幸ひに誤謬なしとせば、此亀山院の御遺勅より逆推して、後嵯峨院御遺勅の御精神につきて知り得る点は、後嵯峨院が文永年中、遺領の御処分に亀山院を惣領とし給ひしに、後深草院の此御処分に服従し給へりとの一事あるのみ。後嵯峨院の御処分帳は、文永九年正月十五日、即ち崩御の前月に成れる左の御処分帳案現存せり。
【中略】
公家即ち亀山天皇を御筆頭とせられて、新院即ち後深草上皇以下、円満院宮即ち法皇の皇子円助法親王に至る迄の御処分を、一紙に認め給へるも、これ当時に於ける仙洞御領に止まり、後深草上皇に対せられては播磨国と神崎荘あるのみ。彼長講堂領、熱田社、其他の重もなる御領の見えざるより推せば、是等は其時以前、若しくは以後、恐らく以前に於て、別に御処分ありしことゝ知られたり。
後嵯峨院が遺領の御処分に於て、果して亀山院の宣せらるゝ如く、同院を総領とし給ひしや否やは、後嵯峨院の御処分帳に就きてこれを証明するに由なし。其後深草院に譲り給ひし長講堂領百八十筒所といふことは、梅松論にいへるのみ。仮にこれを事実とするも、果して長講堂領に止まれるものか、将た同書は全く同時に御処分ありたる熱田社領等の事を載せざるを以て、百八十箇所は後深草院に御処分ありし御遺領の総数ならんも亦知るべからず。後深草、伏見、後伏見、光巌等諸院の御譲状は現存するも、此数に満つるもの一もこれなし。然るに前掲の亀山院の御処分帳の外、後宇多院御領目録と見ゆるものに拠れば、亀山院側の御領は敢へて前者に譲らざるが如く、就中後宇多院御領目録と見ゆるものは末尾の欠け居るにも拘らず、凡そ二百六十余所あり、而かも是等の材料丈にては、未だ両院の御領に対して厳密なる数字的比較をなし得たるものと謂ふを得ず。
余は是等の材料を得ざる迄も、後嵯峨院の遺領御処分につきては、亀山院の御遺勅を疑ふべき理由更にこれなしと認むるものなり。由来遺領の分配は其性質として、直に実現せらるべきもの、且つ文永を去ること遠からざれば、亀山院に於ても事実に相違せることを宣ふべき筈なく、仮りにさることありたりとせば、もとより自他の信を取るに足らざるべし。殊に後深草院は、当時に至る迄、後嵯峨院に対する孝道より、其御処分に服従せられつゝありと宣ふに於てをや。後深草院は後嵯峨院の皇位継承に関する御素意なるものに御不満にて、後には幕府に内旨を示され、終に其変更を見るに至りしとはいへ、遺領の御処分につきては、同院は更にもいはず、御子孫に於かせられても、皆これに服従せられて、如何なる場合にも愁訴せらるゝことなく、又争奪を試みられしこともなかりしなり。
http://web.archive.org/web/20061006195115/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm
いったん、ここで切ります。
「後嵯峨院の御処分帳」については【中略】としましたが、「後深草上皇に対せられては播磨国と神崎荘あるのみ」で、本当に僅少ですね。
ただ、長講堂領は後白河院皇女の宣陽門院(1181-1252)から後深草院に譲られているなど、後深草院側には別途所領が確保されています。
長講堂領
http://web.archive.org/web/20061006210748/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-chokodo.htm
この後、星野恒説批判が続きますが、さすがに古すぎる議論なので省略します。
また、「第三節 皇位継承に対する幕府の干渉」も、承久の乱以後、幕府が皇位継承に介入するようになった経緯を述べているだけなので省略し、第四節に入ります。
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第四節 後嵯峨法皇の幕府に対する御態度と御素意
斯る事情の下に天皇若しくは上皇が任意に其皇儲を定めて大統を継がしめらるゝが如きは実際に有り得べからざることなり。特に後嵯峨院にありては、其御即位前後の御事情より推して、世に伝ふるが如き皇統に関する御内旨だも、御生前に打明けて幕府に示し給ひしことは、断じてこれなかるべしと認むべき理由あり。
即ち四条天皇の崩御後、畏くも彼れの如き悲劇の演ぜられし暁に於て、従来逆境に沈淪し給へる御身の他の同情もなく、四面楚歌の裡に、目出度皇運を開かせられしは、一に幕府の奉戴に依れるものなり。さればさなきだに温厚なる後嵯峨院は、御在位中、何事も幕府に対しては、常に御遠慮勝ちにわたらせられ、関東申次を通じて、幕府の所存を問はせられし後ならでは軽々しく御沙汰なかりし趣に拝せられ、彼入道殿下たる九条道家が、関東を笠に着ての傍若無人の振舞にも只管違はざらんことを努め給ひ、却て幕府より或は「不任叡慮等有之歟、自今以後不然」とて道家の圧迫に打勝ち給はんことを勧め奉るに至れり。<葉黄記寛元四年八月廿七日条>
若しも増鏡、梅松論の伝ふところを事実なりとせば、後嵯峨院の御遺勅は単に御一人御一代の皇儲を定め給ふものにはあらずして、将来永久に皇位継承の特権を一つの皇統に限られ、他の皇統を永久にこれより除外し給はんとするものなり。これ皇位継承に関する幕府の自由を少からず制限せらるものにあらずして何ぞや。
瑣々たる小問題に向つてすら、幕府の意向に任せらるゝの例なりし同院が斯る非常の変例、重大の案件を唯一片の御遺書に載せて、幕府に服従を強ひらるゝが如きは、当時にありて事情の許さゞりしところ、況んや幕府に対して彼れの如き恩誼を感じ給ひ、彼れの如き御態度を取り給へる後嵯峨院に於てをや。
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いったん、ここで切ります。
「さなきだに温厚なる後嵯峨院は、御在位中、何事も幕府に対しては、常に御遠慮勝ちにわたらせられ」とありますが、後嵯峨院は決して温厚な性格ではなく、朝廷内部ではけっこうな独裁者ですね。
しかし、幕府に対する関係では「御遠慮勝ち」であったことは確かです。
「若しも増鏡、梅松論の伝ふところを事実なりとせば、後嵯峨院の御遺勅は単に御一人御一代の皇儲を定め給ふものにはあらずして、将来永久に皇位継承の特権を一つの皇統に限られ、他の皇統を永久にこれより除外し給はんとするものなり。これ皇位継承に関する幕府の自由を少からず制限せらるものにあらずして何ぞや」はその通りですね。
私見では『増鏡』は後嵯峨院の「御素意」については決して客観的・中立的立場の書物ではなく、後醍醐側のプロパガンダとしての性格を持ち、『梅松論』は同種のプロパガンダの受け売りに過ぎません。
この点、佐藤雄基氏の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)に関連して、一応のまとめをしておきました。
新年のご挨拶(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その5)
「第四節 後嵯峨法皇の幕府に対する御態度と御素意」の続きです。
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神皇正統記は人も知る如く、皇室の正統、大覚寺統に存すとの主張より成れる書なれば、同統に有利なる伝説記録はもとよりこれを漏らすまじき理なり。然るに同書には亀山院の条に「後嵯峨のかくれさせ給ひて後、兄弟の御あはひに争はせ給ふことありければ、関東より母儀大宮院に尋ね申けるに、先院(後嵯峨院)の御素意は当今(亀山院)にまします由を仰遣されたれば、事定りて、禁中にて政務せさせ給ふ」といへり。
星野博士は大宮院の斯く仰遣されしは後嵯峨院の継嗣に関する御処分状に拠られしなりと説かれたるも、余はこれと正反対に、当時御処分帳なかりし故に、幕府が御兄弟の何れをも翼賛し兼ね、日夕後嵯峨院に親炙し給へる大宮院に伺ひ奉り、其御証言を得て始めて所謂後嵯峨院の御素意に任せ奉りしと解釈するものなり。
遺産の相続が絶対に親の意志に依りて決せらるゝは、当時に於ける公武貴賤を通じての相続法の原則たり。故に御領の御処分は天皇も上皇も任意にこれを行ひ給ひ、干渉好きなりし幕府もこれに対しては黙過するを例とせり。故に御領の御処分は皇位の継承と全く別問題なり。一般の相続の場合ならば、いざ知らず、皇位の継承と、御領の相続を混同するに至りては事の軽重大小を弁へざるの甚だしき失当の見と謂はざるを得ず。
http://web.archive.org/web/20061006195115/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm
いったん、ここで切ります。
「第五節 持明院統の御主張」でも触れますが、星野が言うような「後嵯峨院の継嗣に関する御処分状」が存在しなかったことは明らかです。
それが存在しなかったので、大宮院(1225-92)は幕府から後嵯峨院の「御素意」を質問され、後深草・亀山兄弟の母親としてはなかなか苦しい立場に追い込まれてしまった訳ですね。
そして、大宮院が書いた「御返事」が存在したことを前提に、それが書かれた状況から信頼性がない、というのが持明院統側(伏見院)の主張です。
帝国学士院編纂『宸翰英華』−伏見天皇−
https://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm
この後、後白河法皇の財産処分の例などが出て来て、些かくどい議論となりますが、要するに財産はともかく、皇位については治天の君といえども勝手に決めることはできず、幕府の意向を聞かねばならないのだ、という話ですね。
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是れより先き、建久三年の後白河法皇の御処分にも、六勝寺、鳥羽は公家沙汰として後鳥羽天皇に御処分あり、又此後元享二年後宇多法皇の御処分にも、六勝寺を後醍醐天皇の聖断に委し給ひしことあり。されば後嵯峨天皇に於ても、其自由に御処分あるべき御領の外斯る治天下に附すべき特別の御領は当今とも、新院とも仰せられず、唯漠然治天下と仰せられ、亀山天皇にも、後深草上皇にも御処分を見合せられて、治天下即ち実際に政務を視給ふべき御方の定まるを待ちて其管理に委せんとし給へるなり。
当時亀山天皇大統に登り居給ふも、院政時代に於ける天皇は猶ほ皇太子の如し。故に院政の主宰者たりし後嵯峨法皇の崩御の後、直に起るべき問題は、此名義上の天皇が所謂治世の君となり給ふべきや、将た別に治世の君を立つべきや否やにあり。 更に具体的にいへば、亀山天皇が位を皇太子に譲られ、上皇として院政を主宰し給ふべきや、亀山天皇は其儘御在位にて、後深草上皇が院政を主宰し給ふべきや、将た又程なく事実となれるが如く、亀山天皇の御在位の儘、政務を視給ふべきやにあり。
後嵯峨院がみづから御処分帳を認め給へる崩御の前月迄、所謂御治世の君は未だ定め給はず、又定まり給はざりしなり。後嵯峨院が斯く崩御以前に此問題を決し給はざりし理由は、余が以上の説明を以て此問題の決定を幕府に委任し給へるに依るものなるべきこと、既に読者の推断せらるゝところならん。
これより後の何れの天皇も、未だ嘗て幕府の意向に依らずして任意に皇儲を定め給ひし方はあらず。前に引きし亀山法皇の御処分帳に於ても、御領の御処分以外には、一も皇位継承の事に言及しあらざりしが、其御領の御処分に向つてすら、若し崩御の後これに違背せらるゝ方あらば、此御処分帳を関東に賜はるべしと宣ひて、幕府に訴へて救済を求めよとの御思召を載せ居らるゝなり。
而して法皇は余の推測に拠れば、恒明親王を未来の皇儲に即け給はんとの御思召ありしも、そは別に将来機を見て幕府に仰せ遣されんことを後宇多上皇に託し給ひ、上皇も諒承の旨を奉答ありしのみ。御領の御処分はもとよりおのづから別問題なり。而して此一事も亦御処分帳の遺領の御処分に止まる傍証とすべきなり。
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さて、ここで面白いのは『五代帝王物語』の記述です。
私は、『増鏡』は後嵯峨院の「御素意」については決して客観的・中立的立場の書物ではなく、後醍醐側のプロパガンダとしての性格を持つ、と考えるのですが、『とはずがたり』に次いで『増鏡』に相当な分量が引用されている『五代帝王物語』は、後嵯峨院の「御素意」については『増鏡』と異なった立場です。
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斯く論じ去り、論じ来れば、余は後嵯峨院の崩御前後の事実につきて五代帝王物語、神皇正統記の記事が最も正鵠に近きものならんことを信ぜざる能はず。
五代帝王物語は明らかに此処分と御治世の君の選定を別事なりとし、後嵯峨法皇は遺領の御処分につきて、御生前に御附属状即ち御処分帳を認め置かれ、崩御後五旬の後を待ちて発表せしめられたるが、それには御治世の君は幕府の選定に委し、六勝寺、鳥羽殿抔も此御治世の君に附くべしと定め給ひ、又幕府に向つては、御治世の事は仁治に法皇の御践祚ありし時泰時の推薦し奉りし先例に違ふべからずと宣ひて、内裏即ち亀山天皇、新院即ち後深草上皇の、何れの方にても推薦すべき旨認め給へる宸筆の勅書を、五旬の後に至りて幕府に賜ひしかば、両院に仕ふるもの、幕府の拝答を待焦れつゝありし旨を記せり。
此記事中、後嵯峨法皇の崩御より五旬の後に御処分帳を開くこと、文永九年四月六日に法皇七々日御忌辰の法会を行はれし翌日、即ち五十日目の四月七日に故院の御遺詔を亀山院にて開かれしことは、歴代編年集成に見えたると相一致し、六勝寺、鳥羽殿を御治世の君に附くべしと定め給ひしとの事は、前掲法皇の御処分帳の端書に相当せり。故に五代帝王物語の以上の記事は信を置きて不可なかるべし。
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ここは『五代帝王物語』の原文を確認する必要があるので、後で改めて論ずることにします。
そもそも『五代帝王物語』がいかなる史書かについては、外村久江氏の下記論文などを参照していただきたいと思います。
「五代帝王物語考−正元二年院落書・増鏡との比較−」(前半)
http://web.archive.org/web/20061006195728/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-hisae-godaiteio-monogatari.htm
「五代帝王物語考−正元二年院落書・増鏡との比較−」(後半)
http://web.archive.org/web/20061006213556/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-hisae-godaiteio-monogatari-2.htm
ここまで来ると、後嵯峨の「御素意」に関して幕府から大宮院に寄せられた質問への「御返事」が正しいものであるのか、それとも捏造なのかが問題となります。
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然らば此御遺勅に対して、幕府は如何なる態度に出でしとするか。法皇は崩御後の治世の君を幕府の擁立に任せ給ひしかど、幕府の見地よりすれば、後深草上皇も亀山天皇も、均しく其心を傾けて翼賛し奉れる法皇の御同腹の皇子にましませば、何れに決するとも、自家に取りて痛痒を感ぜざるを以て、拝答に苦み、終に法皇の御思召即ち御素意に依りて決するに如かずとなし、さてこそ神皇正統記に説けるが如く、大宮院に伺ひ出でゝ亀山天皇に決したるならめ。
然るに後嵯峨法皇が治世の君を定め給はざりしと否とは、これに関する御素意の有無とおのづから別問題なり。唯これにつきての勅書あらずとせば、大宮院の御証言が、果して法皇の御素意なりしや、将た御素意を矯め給ひしものなりしやは別に研究を要すべし。余は是に至りて少しく持明院統の御主張を述べざるべからず。
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三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その6)
ということで、「第五節 持明院統の御主張」に入って、後嵯峨院の「御素意」に関し、幕府から大宮院に寄せられた質問への「御返事」が後嵯峨院の真意を反映しているのか、それとも捏造なのか、という問題を中心に持明院統側の主張を確認することにします。
基本的には後に『宸翰英華』に掲載される伏見天皇の「宸筆御事書」二通の解説なので、分かりにくいところは併せ読んでいただきたいと思います。
帝国学士院編纂『宸翰英華』−伏見天皇−
https://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm
まあ、結局のところ何とも論拠が弱いなという印象を受けますが、丁寧に見て行くことにします。
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第五節 持明院統の御主張
持明院統の御主張は従来余りに多く知られず。只一般的に後深草院の御正嫡にわたらせらるゝを説かるゝのみ。さり乍ら皇兄は絶対的に皇位継承の順位を定むるものにあらず、伏見宮御記録(次節に引用すべし)等の皇室関係の御文書を始め其他の史料に拠りて窺ひ得たるところにては
(一)後嵯峨院の治世の君の選定に関する記録の存在せざることは其最も有利とせられしところなるが如し。これに拠れば、後嵯峨院は文永八年正月に御不予にあらせられしが、其十六日の申刻に、治天の事は何方とも定め仰せられずして一に幕府の推選に委ね置きたれば、幕府は定めて奏薦するところあるべく、後日思召合さるべき由の勅語あり、これより以外に何等の思召なかりしなりといふにあり。五代帝王物語に拠るに、後嵯峨院は文永七年の夏より御悩なり、増鏡にも後嵯峨院は八年正月頃より御悩と見えざるにあらざれども、此勅語は崩御の前日亀山天皇を召させられて御遺詔ありし旨記さる。されば文永八年正月の事とするは少しく早きに失するに似たり。
(二)次ぎに持明院統にては後嵯峨が皇子円満院宮円助法親王に賜ひし勅書に、其望み給へる二品は何方にても御治世の君に申し入れられなば、定めて子細あるべからざる旨を認め給へりと主張せらる。これ亦後嵯峨院が、御治世の君を定め置き給はざりし一証左なりとせらるゝところなり。彼六勝寺鳥羽殿の御処分の事を思ひ合すれば、此事亦必ずしも事実にあらずと謂ふべからず。親王は後嵯峨院の第七の皇子にして、御母は頼朝の妹婿藤原能保の女、右衛門局なれば、幕府とも親縁あり、建長元年正月円満院に入室せられ、同二月法親王宣下あり、正嘉元年園城寺長吏に、弘長二年四天寺別当に補せられ給へり。然るに後嵯峨院崩御の翌年なる文永十年牛車を聴され給ひ、同十一年二品に叙せられ給へり。これ寺門即ち園城寺派の法親王の二品に叙せられし初例なるを以て、其宗敵たる延暦寺衆徒は不平の余り蜂起するに至れり。弘安五年八月薨ず、御年四十七歳。金龍寺宮とも、早田宮とも申し奉る。
(三)次ぎに持明院統側にては幕府が後嵯峨院の御遺命に対して治世の君は輙く選定し奉るの困難なる事情を奉答せし時、同院の御素意は禁裏即ち亀山院にありし旨仰せ出だされしは、更に根拠なき事なりと見做され、是時幕府に示されし御沙汰書は、円助法親王が亀山院の御前に祗候して、西園寺実兼を召して書かしめ、御前に於て封を加へられしものなりといひ、これ法親王が父帝の御素意を矯め給ひしものなりとさへ明言せられたり。幕府の奉答といひ朝廷の御沙汰といひ、何れも大覚寺統側の御主張と一致せり。只後嵯峨院の御素意として幕府に示されしものが円助法親王の御素意を矯められしものなりとするの一事、大に大覚寺統側のそれと軒輊するところなり。是に於て円助法親王の御挙措が本問題に取りて重大なる関係を生じ来るべし。
http://web.archive.org/web/20061006212841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-02.htm
いったん、ここで切ります。
後深草・亀山兄弟の異母兄に円満院宮・円助法親王という人がいて、持明院統、というか伏見天皇の主張では、この人が大宮院の「御返事」を捏造した主犯となっています。
円助法親王(1236-82)
https://web.archive.org/web/20061006212457/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-enjohosshinno.htm
即ち、『宸翰英華』六八「宸筆御事書」の第二条に「治世事、旧院御素意、可為内裏<新院>之由被思食之趣、故円満院宮被構出事」とあり、同じく六九「震筆御事書」の第三条に「御治世事、輙難計申之由、関東今申之時、任先院御素意、被申禁裏之由、被仰出之条、更無所拠、件御返事、円満院宮祗候、召相国被書之、於御前被加封事」とあります。
『宸翰英華』の解説を借りれば、
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第三条は後嵯峨天皇の御思召を拝した幕府が、治世については容易に計らひ難き旨を朝廷に奏上した際に、後深草上皇、亀山天皇御二方の御母大宮院に、後嵯峨天皇の叡慮を御尋ね申上げたについて、女院は叡慮が亀山天皇に坐しましたと仰出されたといふことに対する御反駁であつて、女院の令旨は円助法親王が亀山天皇の御前に祗候の時に、太政大臣西園寺実兼を召して書かしめられ、直ちに封を加えて差出されたものであるから、信用に値しないと仰せられたのである。
http://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm #saionji-sanekane
ということですね。
厳密に言うと、文永九年(1272)当時、「相国」(太政大臣)は存在しないのですが、第五条に西園寺実兼の祖父・実氏が「常磐井入道相国」として登場し、第七条に「堀河前相国」堀川基具が登場するので、第三条の「相国」は西園寺実兼を指していることになります。
また、西園寺実兼は基本的に持明院統側でしたが、この六九「震筆御事書」では文書偽造を実行した悪役になっているので、伏見天皇と西園寺実兼の関係が悪化した後の記録と思われますが、具体的にいかなる時期に伏見天皇が記したのかは不明です。
さて、三浦論文に戻ります。
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五代帝王物語にも、文永九年後嵯峨法皇の崩御後、御大葬の事は建久三年後白河法皇崩御の時、皇子守覚法親王の御大葬を掌り給ひし例を守りて円助法親王が御沙汰ありし趣に見え、又同年大宮院御落飾の日も、其御戒師を勤め給ひ、其後も屡参内して亀山院と御対談あらせられ、同院の御治世中に累りに優遇を受け給ひしを思合するも、亀山院の御覚え特に目出度く、政治上の顧問にも備はり給ひしは事実なるべし。
神皇正統記が後嵯峨法皇の御素意を以て大宮院の御証言に帰するは持明院統の御主張と径庭あるが如きも、これ大覚寺統に取りては大宮院の御証言とする方有利なるに反して、持明院統には不利なるに依るべし。されど幕府より伺ひ出でしとせば、寧ろ大宮院の仰とする方事実を得たりと信ず。而かも後嵯峨院の崩御後、幕府が敢てみづから治世の君を専決せずして後嵯峨院の御素意を伺ひ、これに依りて亀山院に決し奉りし事実は、両統の御主張の一致に依りて益々明晰なり。
斯くて持明院統にては、大覚寺統が後嵯峨院の御素意として幕府に示されし事実を消極的に打消さるゝを以て満足せられず、更に進んで後嵯峨院の思召が、亀山院よりも寧ろ後深草院にありし事を積極的に立証せんと試みられたり。其一証として持明院統側にては、後嵯峨法皇が、御在世中に、和歌及び鞠の文書の遊戯に関するものを亀山天皇に進めらるゝ代りに、諸家の記録其他寛元以来の奏事目録は悉く後深草上皇に交付せらるべく、世間の事は悉く此目録に見えたりと仰せありしことを挙げ、常時近習の輩は皆存知の筈なりと主張せらる。
寛元は後嵯峨院御即位の翌年なり。故に寛元以来とは同天皇御即位以来の意味にして、世間の事とは政治上の事を意味せり。故に此御主張は後嵯峨院が治世の君として寧ろ後深草上皇に御望を嘱せられこれに反して亀山天皇には政事に関せざる文芸に関する文書を伝へられたりといふは、間接に所謂後嵯峨院の御素意を裏切らんとせらるゝものなり。
然れざもこれを証すべき傍証もなく、又事実となりし訳にもあらず、縦し斯る勅語ありしを事実とするも、其何時の事なりやを詳らかにせず、初めは斯く思召したりとて、後にこれを改め給ひしやも測り知るべからず、これを承りし近習輩の何人なりしやも詳かならざれば其証拠力は極めて薄弱なり。
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後半は六九「震筆御事書」の第六条に「先院勅語云、和歌并鞠文書可進禁裏、諸家記録可進新院、其外寛元以来奏事目六悉可進新院、世間事悉見此目録云々、近習輩皆存知歟事」の解説ですが、まあ、三浦の言うように「其証拠力は極めて薄弱」ですね。
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その7)
「第五節 持明院統の御主張」の続きです。
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他の一証として持明院統側にては多宝院供養の時、後嵯峨法皇より近衛司にあらずして楽行事を勤仕するの例ありやとの仰ありし時、後深草上皇が康和五年安芸守経忠の勤仕したりし例を御記憶ありて御答ありしかば、法皇は叡感斜めならずして、諸家の記録を悉く上皇に進らせんと宣ひしことを挙げ、当時堀河前相国、雅言、経任が祗候してこれを承りしことを主張せらる。
多宝院は文永八年九月十五日後嵯峨法皇大宮院と共に摂津四天王寺に御幸あり、尋で同寺の金堂に模して亀山殿に立て給ひ、救世観音太子影像を安置せられしものにて、供養の日の導師も円助法親王にましませり。
後深草上皇の故実に練達あらせられしことは、増鏡 老の波 に、弘安二年三月、亀山上皇の持明院に御幸の際、後嵯峨法皇が、後深草上皇に謁せらるゝ日は朕と均しく朝覲に准ずべしとのたまひし為め、客の御座を対座より下げ給ひしに、上皇これをみそなはして、朱雀院の御堂には主人の座をこそ直されけるに、今日の御幸には、御座をおろさるゝとのたまひしことの見えたるにても窺はる。
而して此場合には前に漠然近習の輩といへると異なりて、これを承れる諸卿の人名を載せたるも、是等の人々の中堀河前相国は名は基具、伏見天皇の正応元年後深草院の評定衆たり、同二年八月准大臣より太政大臣に任ぜられ、同三年三月これを辞し、永仁四年十一月出家して翌年薨ぜる人、雅言は源氏、弘安八年八月権大納言に任ぜられしも、閏十月辞し、正応元年四月伝奏に補せられたり。勘仲記同日の条に、「日来平相公○忠世 一人勤之、昨日始被加云々、彼父卿雅具土御門院御時旧労奉公之人也、仍故院御時、令雅言卿殊被召仕予于伝奏評定衆也、已為三代伝奏珍重々々」と見ゆ。正安二年十月薨ぜり。
経任は藤原氏、もと後嵯峨法皇の近臣にして、文永五年四月法皇の御使として東下せることあり、同八年二月、権中納言として太宰権帥を兼ねしめられしば、吉続記に此事を記して、「凡都督寵愛抜群、官禄只如思、天下権只在此人、毎昇進無不超越、摂州泉州日来知行、今又宰府相加者均陶朱歟、只先人之余慶也」といへり。斯ばかり御覚えの目出度かりし彼れが、法皇の崩御に遭ひ奉りて、悲歎に暮れたりしはさること乍ら、(五代帝王物語、増鏡)当時の慣例に倣うて出家をなさゞりし為め、時人の非議を招きたりしが、(増鏡)其後正応二年亀山上皇御落飾の時も亦出家せざりしかば、吉続記に「帥卿尤当其仁歟、而無其儀、世成奇、如何、(九月七日条)都督不出家、人以加難云々、官禄無所残、被召仕之事異他、尤可御共歟、而人心如面、無力事歟」といへり。彼れは遂に持明院統に走れるなり。
されば是等の諸卿は持明院統側の人か、然らずんばもと後嵯峨法皇の旧臣なりしものも、後には皆翻つて持明院統に奉仕せしもの共なれば、以上の場合と同じく、亦証拠力の薄弱なるを免れず。
http://web.archive.org/web/20061006212841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-02.htm
いったん、ここで切ります。
この部分は『宸翰英華』六九「宸筆御事書」の第七条に、
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多宝院供養時、非近衛司勤仕楽行事例有無如何之由、被仰之時、康和五年安芸守経忠勤仕例、当時有御覚悟被申出之処、故院頻有叡感、被仰云、為老者記録不中用、不得引勘、於今者、誰家記悉早々可進新院、如此沙汰尤神妙之由、勅定及度々、其時堀河前相国、雅言、経任等卿令祗候奉之事、
https://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm
とあることについての説明ですが、そもそもこれは後深草院が後嵯峨院から故実をよく知っていると誉められた、というだけの話ですね。
ただ、ここに出てくる後嵯峨院の近臣たち、「堀河前相国、雅言、経任」の名前には興味を惹かれます。
まず、堀川基具(1232-97)は『徒然草』第99段に「堀川相国は美男のたのしき人にて・・・」と登場する人で、『とはずがたり』では二条の父・中院雅忠の臨終の場面の後、基具が弔問に来なかったことが厳しく非難されています。
私は二人の経歴を細かく比較してみたことがありますが、後嵯峨院が二人を意識的に競わせていたことは明らかですね。
『徒然草』第99段
http://web.archive.org/web/20150502062113/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-99-horikawano-shokoku.htm
源雅言(1227-1300)は後嵯峨院の出家に関して「亀山殿御幸記」(『群書類従』第三輯、p696以下)という細かい記録を書いている人です。
「巻八 あすか川」(その7)─後嵯峨院、出家
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e1a0d4d670c6f0b1be347c720a307bc3
中御門経任(1233-97)は実務官僚なのにもかかわらず、『とはずがたり』や『増鏡』にけっこう重要、というか奇妙な役回りで登場する人ですね。
中御門経任とは何者か。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b0b16426ff409283177f5dffee79fa8b
【中略】
中御門経任とは何者か。(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9fd7a341a1c77eb211bdc799f6cf5dd
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その1)─女楽事件
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8797cb0c18b28115d6de1f3e2ddc0a7
【中略】
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その9)─近衛大殿
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f71f109655ed3559cb528b1ffc346a00
これらの人々を三浦氏のように「後嵯峨法皇の旧臣なりしものも、後には皆翻つて持明院統に奉仕せしもの共」とするのはいささか乱暴であって、持明院統・大覚寺統の対立が本当に深刻化する前の時期に、その時々の治天の下で仕事をしていただけ、と考えるべきだと思います。
ま、そももそこの話は後嵯峨院が皇嗣を明確に定めていたか、という問題とは関係がないので、結果的に「亦証拠力の薄弱なるを免れ」ないのは三浦の言う通りです。
なお、「後深草上皇の故実に練達あらせられしことは、増鏡 老の波 に、弘安二年三月、亀山上皇の持明院に御幸の際」云々について、『増鏡』の原文を見ると、
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弥生の末つ方、持明院殿の花盛りに、新院わたり給ふ。鞠のかかり御覧ぜんとなりければ、御前の花は梢も庭も盛りなるに、ほかの桜をさへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけがたう見ゆ。上達部・殿上人いと多く参り集まる。御随身・北面の下臈など、いみじうきらめきてさぶらひあへり。わざとならぬ袖口ども押し出だされて、心ことにひきつくろはる。
寝殿の母屋に御座対座にまうけられたるを、新院いらせ給ひて、「故院の御時、定めおかれし上は、今更にやは」とて、長押の下へひきさげさせ給ふ程に、本院出で給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座をこそなほされ侍りけるに、今日のみゆきには、御座をおろさるる、いと異様に侍り」など、聞え給ふ程、いとおもしろし。むべむベしき御物語は少しにて、花の興にうつりぬ。
御かはらけなどよき程の後、春宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、又上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀の御杯、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。
http://web.archive.org/web/20061006193728/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-jimyoindono.htm
とあって、「上臈だつ久我の太政大臣の孫」である後深草院二条が亀山院から「はかなき御たはぶれなど」を言われた、という話です。
このエピソードに対応する場面は『とはずがたり』にもありますが、時代がずれていて、『とはずがたり』と『増鏡』の関係を考える上では興味深い場面ですね。
ま、三浦はそもそも『とはずがたり』を知らないので、三浦論文とは全く関係ありませんが。
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