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Japanese Medieval History and Literature

1釈由美子が好き:2007/06/03(日) 21:01:22
快挙♪ 3
 本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!

  41冊!!!

 売れたと云々!!
 すげェ!! としか言いようがない。

 2日で、71冊。
 快進撃である。

7270鈴木小太郎:2021/12/26(日) 12:02:33
レーニンとスターリンの距離
>筆綾丸さん
>レーニン没後97周年記念式典(本年1月)

ロシアではレーニンの銅像は結構残っているようなので、ご紹介の記事、いくら何でもパレード(?)が地味すぎるように感じました。
少し検索してみたら、『朝日新聞GLOBE』の服部倫卓氏(一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所所長)の2020年4月20付記事に、

-------
ロシアからレーニン像がなくならない理由
生誕150周年を機に考える

4月22日は、ウラジーミル・レーニン生誕から150周年という記念の日でした。言うまでもなく、1917年の社会主義ロシア革命の立役者にして、それにより成立したソビエト・ロシアの最高指導者です。レーニンは1870年4月22日の生まれですので、そこからちょうど1世紀半の年月が経過しました。
【中略】
というわけで、ロシアでいまだにレーニンの名前やレーニン像が至る所にあるからといって、レーニンという人物がロシア国民の大ヒーローというわけではありません(増してやマルクス・レーニン主義は何の関係もありません)。その証拠に、新しく出来た施設にレーニンの名前が付けられたとか、新たにレーニン像が作られたといった話は、聞いたことがありません。あくまでも、以前からあったものを否定はしない、というだけなのです。

https://globe.asahi.com/article/13331211

とあります。
積極的にレーニンを讃美している訳ではないけれど、もはや古い伝統だからそれなりに大切にしよう、みたいな感じですかね。
プーチンも自分の祖父がレーニン、スターリンの料理人であった、というずいぶん前からの噂を認めましたが、それもレーニンに対する特別な感情とは結びついていないようですね。

プーチンの祖父は「レーニンの料理人」だった(『東洋経済オンライン』)
https://toyokeizai.net/articles/-/212266

ところで私の地味ブログ、最新の記事が一番読まれるのが通例なのですが、昨日は何故か四年前の、

レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの「三角関係」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4912e353610bdb7b1fc146dccf4d0ca4

という記事が一番でした。
レーニンというと、前にも一度書いたことがありますが、遥か昔の学生時代、私は渓内謙氏の「比較政治論」という講義を聴講したことがあります。

渓内謙(1923-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%93%E5%86%85%E8%AC%99

別にソ連に特別な興味があった訳ではなく、割と簡単に単位を取れそう、くらいの軽い気持ちで、階段教室の後ろの方で時々居眠りしながら聞いていただけなのですが、当時、私が渓内氏の講義から漠然と受けた印象は、レーニンは立派だったけどスターリンがソ連の方向を歪めてしまった、みたいな感じでした。
ま、それは些か乱暴すぎる纏めでしょうが、ソ連崩壊前はレーニンの活動の実態について史料的な制約が大きく、レーニンとスターリンの関係は専門家でも正確には把握できていなかったはずですね。
フルシチョフによるスターリン批判の後でも、レーニンまで否定するとソ連の体制が最初から全然ダメだったという話になってしまいますから、レーニンのあまり芳しくない行動についての史料はずっと隠されていて、レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの奇妙な「三角関係」など、おそらく極秘中の極秘だったのだろうと思います。
そして、新史料がソ連崩壊後に公開されるようになって、今ではスターリンはレーニンを否定してソ連を誤った方向に導いたのではなく、仮借なき政治的暴力の行使においても、スターリンこそがレーニンの最も正統的な後継者であることが明らかですね。
さて、マルクス考古学者の斎藤幸平氏は1987年生まれで、「ソ連を知らない」、「物心ついてから資本主義が自分の生活に恩恵をもたらしてくれたという経験が希薄で、社会主義的なものが悪いものだという体感もあまりない」ことを肯定的に、どこか自慢っぽく主張されています。

「人新世の『資本論』」なぜここまで売れるのか(『朝日新聞GLOBE』サイト内)
https://globe.asahi.com/article/14407032

そして『人新世の「資本論」』において、斎藤氏はスターリン批判めいた表現を繰り返しますが、レーニンを積極的には否定しない立場なので、実際にはスターリンへの道も近そうです。
「ソ連を知らない」純朴な若者たちは、斎藤氏のような人には近づかないのが賢明ですね。

7271鈴木小太郎:2021/12/27(月) 13:15:04
斎藤幸平氏とコロナ禍(その2)
12月23日の投稿「斎藤幸平氏とコロナ禍」において、斎藤著の、

-------
 また、SARSやMERSといった感染症の広がりが、遠くない過去にあったにもかかわらず、先進国の巨大製薬会社の多くが精神安定剤やED(勃起不全)の治療薬といった儲かる薬の開発に特化し、抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していたことも、事態を深刻化させた。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058

という記述(p284)は、斎藤氏が引用するマイク・デイヴィスなる人物がファイザー社批判として述べたのではないか、と推測しましたが、これは正確ではありませんでした。
『世界』932号(2020年5月)の「疫病の年に」を確認してみたところ、まずマイク・デイヴィス氏は、

-------
1946年、アメリカ・カリフォルニア生まれ。歴史家。邦訳書に『要塞都市LA』(青土社)、『感染爆発』(紀伊國屋書店)、『自動車爆弾の歴史』(河出書房新社)、『スラムの惑星』(明石書店)ほか。
-------

という人物で、「歴史家」というよりは「活動家」っぽい感じがします。
そして、この「論文」に付された酒井隆史氏(大阪府立大学教授)の「解説」によれば、

-------
 一九九〇年代以降、予見的で画期的な著書をいくつも公刊し、揺るぎない影響力をもつデイヴィスであるが、その知的キャリアは一直線のものではない。一九四六年にカリフォルニアに生まれたデイヴィスは、家庭の事情もあり大学進学もせず食肉工場で働きながら、一九六〇年代の激動に飛び込み、数年間の活動家としての生活を送る。一九七〇年代にはトラック運転手として働くかたわら、独学でマルクスやサルトルを学び、一念発起して大学でアイルランド史の研究に着手する。それからも『ニューレフト・レビュー』誌のフルタイム編集員などを勤めつつ論文や著作を公刊するのだが、一九九〇年が転機となる。みずからの故郷であるロサンゼルスについて、その反映【ママ】と華やかさの裏面で広がる貧困、暴力、レイシズムを、ポストモダン全盛時代に抗うかのように異色のハードな分析と文体でダークに描き、「ロス暴動」を予言したとされる『水晶の都市』(『要塞都市LA』村山敏勝・日比野啓訳、青土社、二〇〇一年)が、大ブレイクしたのである。それからデイヴィスのロサンゼルス論は、災害と資本主義との関係への注目から自然史と都市論の接点へと拡がり、その試みは二〇〇一年公刊の『レイト・ヴィクトリアン・ホロコースト』(Late Victorian Holocausts: El Niño Famines and the Making of the Third World, Verso, 2001)で世界史の領域へと大胆に発展する。【後略】
-------

とのことなので(p40)、やはり「歴史家」というよりは「活動家」の要素が強く、その業績には毀誉褒貶が伴うようですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Mike_Davis_(scholar)
https://en.wikipedia.org/wiki/Late_Victorian_Holocausts

ま、私自身はわざわざ著書を読んでみたいと思うような人ではありませんが、とりあえず「疫病の年に」の斎藤著に関連する部分だけを確認してみると、

-------
 しかし、国民皆保険とそれに関連する要求は、最初のステップにすぎない。巨大製薬会社が新しい抗生物質や抗ウイルス剤の研究と開発を放棄したことを、予備選挙の討論会でサンダースとウォーレンのいずれも強調しなかったのは残念だ。巨大製薬会社一八社のうち一五社は完全にこの分野を切り捨てている。利益をもっとも多くもたらすのは心臓病の薬、依存性の高い精神安定剤、男性の性的不能治療薬であり、院内感染や新興の病気、昔からある熱帯病の予防ではない。インフルエンザに対する特効ワクチン(すなわち、ウイルスの表面タンパク質の変異しない部分を標的にするワクチン)の開発はもう何十年ものあいだ可能であったにもかかわらず、優先するだけの利益があるとはみなされなかった。
 抗生物質による医療革命が巻き返しを食らうとともに、古い病気が新しい感染と併行してあらわれ、病院は遺体安置所と化していくだろう。処方薬の法外な高値を日和見主義的に非難することはトランプでさえできるが、わたしたちに必要なのは、製薬会社の独占を解体し、救命のための薬を公共部門で生産し提供することを目指す、大胆なヴィジョンだ(これはかつて行われている─第二次世界大戦中に米軍はジョナス・サルクその他の研究者たちに初のインフルエンザ・ワクチンを開発するよう協力を求めた)。一五年前、自著『感染爆発─鳥インフルエンザの脅威』のなかで、わたしはこう書いている。

  ワクチンや抗生物質、抗ウイルス薬を含む、救命に必須の医療品へのアクセスは、万人
 に無償で保障される人権たるべきだ。そうした薬を安く生産しても採算がとれる市場が
 ないなら、政府や非営利団体がその製造・配布の責任を負うのが当然だろう。いついかな
 るときも、貧しい人々の命は巨大製薬会社の利益に優先されなければならない。

 現在のパンデミックは、真に国際的な公衆衛生の基盤が欠落するなかで、資本主義のグローバル化は生物学的に持続不可能だという議論をさらに広げている。だが、民衆運動が巨大製薬会社と営利目的の医療の力を潰さない限り、そうした基盤は決して存在しえない。
 その実現には第二のニューディール政策を超えた人類生存のための独立した社会主義的計画が必須だ。オキュパイ運動後、進歩派は収入と富の不平等に対する闘争を最優先することに成功し、それはそれですばらしい成果だった。だが、社会主義者は医療・製薬産業を当面の標的にし、社会的所有と経済権力の民主化を提唱する次のステップに今こそ踏み切らねばならない。
-------

といった具合です。(p38以下)
「巨大製薬会社が新しい抗生物質や抗ウイルス剤の研究と開発を放棄した」、「巨大製薬会社一八社のうち一五社は完全にこの分野を切り捨てている」とあるだけで、すぐ後に「男性の性的不能治療薬」への言及はあるものの、別にファイザー社を批判している訳ではなかったですね。
さて、マイク・デイヴィス氏は「製薬会社の独占を解体し、救命のための薬を公共部門で生産し提供することを目指す、大胆なヴィジョン」を持ち、「医療・製薬産業を当面の標的にし、社会的所有と経済権力の民主化を提唱する」大胆不敵な「社会主義者」です。
そして、「脱成長コミュニズム」の提唱者である斎藤氏も、「資本主義のグローバル化は生物学的に持続不可能」であって、「民衆運動が巨大製薬会社と営利目的の医療の力を潰さない限り、そうした基盤〔「真に国際的な公衆衛生の基盤」〕は決して存在しえない」というマイク・デイヴィス氏の立場に賛成なのだろうと思います。
しかし、仮に巨大製薬会社潰しを行っていたら、コロナ禍へのより素晴らしい対応ができたのか。
この点、次の投稿で、「疫病の年に」のちょうど一年後、『世界』944号(2021年5月)に掲載された山岡淳一郎氏の「コロナ戦記 第8回 「死の谷」に落ちた国内ワクチン」という記事を参考にしつつ、少し検討してみたいと思います。

7272:2021/12/27(月) 15:54:33
ギブ・ミー・チョコレート
小太郎さん
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000356343
COVID-19発生後、二年以上経過しましたが、ワクチンに関しては、この本(2021年8月)が最も優れた啓蒙書ですね。
カタリン・カリコ女史のmRNAワクチンは画期的な業績ですが、日本人がファイザーとモデルナのワクチンに群がる姿は、終戦直後のギブ・ミー・チョコレートのような既視感がありました。

『スターリン葬送狂騒曲』(2017)という映画は、有楽町の映画館で見ましたが、ソ連の歴史をよく知らないせいか、呆れるほど内容を覚えていません。

7273鈴木小太郎:2021/12/27(月) 16:49:46
斎藤幸平氏とコロナ禍(その3)
岩波書店の『世界』は、同社の宣伝文句では、

-------
『世界』は、良質な情報と深い学識に支えられた評論によって、戦後史を切り拓いてきた雑誌です。創刊以来70年余、日本唯一のクオリティマガジンとして読者の圧倒的な信頼を確立しています。とりあげるテーマは、政治、経済、安全保障、社会、教育、文化など多様ですが、エネルギー、地域、労働・雇用、医療・福祉、農と食などの分野の記事も掲載しています。 もっとも良質で、もっとも迫力ある雑誌をめざします。

https://www.iwanami.co.jp/magazine/

という雑誌だそうですが、「日本唯一のクオリティマガジン」はいくら何でも厚かましいですね。
私は『世界』に「良質な情報と深い学識」があるとは思えず、もちろん購読していませんが、944号(2021年5月)は「人新世とグローバル・コモンズ」を特集しているので、図書館でバックナンバーを覗いてみたところ、当該特集自体はそれほど感心しませんでした。

-------
特集1 人新世とグローバル・コモンズ

 人類は地球を圧倒する存在となった。
 今後は、地球を管理していかなければならない。
 ――SF小説のストーリー設定ではない。直面する現実である。
 地球史の中では一瞬の閃光にすぎない近代以降の人類の活動が、気候をはじめとする地球環境や生態系に破壊的な変化をもたらしつつある。
 科学からのメッセージは明らかである。我々に残された時間は少ない。この状況を科学的に早急に把握し、人類は協調して対処する必要がある。
 もし、それができなければ? 人新世=人類の時代も長くは続かないだろう。
 地球というグローバル・コモンズとの向き合い方を特集する。

https://www.iwanami.co.jp/book/b577044.html

まあ、「科学」というよりは「宗教」っぽい情熱に溢れた「論文」が多いのですが、この特集とは関係のない山岡淳一郎氏の「コロナ戦記 第8回 「死の谷」に落ちた国内ワクチン」には、『世界』にこんな「良質で、もっとも迫力ある」記事が載るのかと、ちょっと驚きました。
冒頭から少し引用してみます。(p32以下)

-------
前代未聞の薬剤─驚異的な開発スピード

 パンデミックの出口は見えず、世界の人びとは恐れと倦怠の日々を送っている。ただ、この長いトンネルの向こうにもワクチンという光がさしてきた。
 世界が新型コロナウイルスに翻弄されるなか、ワクチンだけは驚くべき速さで開発された。出遅れた日本でも、医療者への接種が先行して始まり、四月半ばには高齢者への接種が開始される。昨春、コロナの第一波が来たころ、一年後のワクチン実用化を予見した感染症専門家はほとんどいなかった。過去に最も早く開発されたおたふく風邪ワクチンでさえ認可までは四年かかったのだから無理もないが、「数年を要する」はずが実際には一年足らずで承認された。間違いなく、医薬品産業の秩序を激変させる破壊的イノベーションが起きている。
 ゲームチェンジャーの一人は、ドナルド・トランプ前米国大統領だった。昨年五月一五日、トランプ氏が記者会見で「できるだけ早く(ワクチンを)開発、製造し、供給したい」と訴え、開発計画に「ワープ・スピード(ものすごい速さ)作戦」と名づけたときは秋の大統領選を睨んだ大言壮語のように聞こえた。「マンハッタン計画(第二次大戦中の原爆製造計画)以来の大規模な試みだ」と語るにいたっては被爆国の人間としては鼻白むばかりだった。
 ところが、である。トランプ氏が確保した開発予算一〇〇億ドル(約一兆七〇〇億円)は、米国立衛生研究所と軍、製薬会社に結束を促し、有望なワクチン候補を絞り込んで開発を加速させた。製薬大手ファイザー社とドイツのバイオ企業ビオンテック社のコンビが先陣争いを制する。史上初めて、タンパク質をつくるための設計図=メッセンジャーRNA(mRNA)による感染症予防ワクチンを完成させ、承認を勝ち取ったのである。
-------

トランプは「リベラル」なメディアからは毛嫌いされ、その政策がきちんと紹介されることはあまりなく、また、特に新型コロナに関してはマスクを拒否する姿勢が目立ったので、非科学的な政治家であるかのような印象を与えていましたが、ワクチン開発への貢献はすごいですね。
バイデンは、少なくとも新型コロナに関してはトランプの遺産で食っているような人です。
さて、ではワクチン開発の具体的様相はどのようなものだったのか。(p33以下)

-------
 開発スピード、有効性、安全性、さまざまな意味でmRNAワクチンは前代未聞の薬剤だ。その開発の立役者は、ビオンテックの最高経営責任者で、トルコ生まれの免疫学者、ウール・シャヒン氏である。二〇二〇年一月中旬、中国が新型コロナの遺伝子情報を発表するとシャヒン氏は直ちにmRNAワクチンの作成に取りかかった。二週間後には一〇〜二〇種類のワクチン候補薬をコンピュータ上で設計し、得意先のファイザーに共同開発を持ちかける。両者はバートナーシップを拡大し、三月半ばには最大で七億五〇〇〇万ドル(八二五億円)の仮契約を交わした。
-------

いったん、ここで切ります。

ウール・シャヒン(1965生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%92%E3%83%B3

>筆綾丸さん
宮坂著は未読なので、レスは後ほど。

7274鈴木小太郎:2021/12/28(火) 12:13:50
斎藤幸平氏とコロナ禍(その4)
トランプの新型コロナワクチンに対する姿勢はトランプ支持者からも理解されていないくらいなので、左翼活動家のマイク・デイヴィス氏やマルクス考古学者の斎藤幸平氏が理解しにくいのは当たり前ですね。

トランプ氏、ワクチンの追加接種を受けたと発言 ブーイング受ける
https://www.cnn.co.jp/usa/35181142.html

新型コロナワクチンの開発そのものについて検討するのは私の能力を超えますから、あくまで資本主義との関係だけを見て行きたいと思います。
テキストも山際淳一郎氏の「コロナ戦記 第8回 「死の谷」に落ちた国内ワクチン」に限定して、山際氏の見解が一応正しいことを前提にしておきます。
『世界』という「日本唯一のクオリティマガジン」(但し自称)に載った記事ですから、一応の水準は確保されているはずですね。
なお、山際氏は、

-------
1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。
「人と時代」を共通テーマに近現代史、政治・経済、建築、医療など分野を超えて旺盛に執筆。著書は『気骨 経営者土光敏夫の闘い』(平凡社)、『田中角栄の資源戦争』(草思社文庫)、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社)、『原発と権力』(ちくま新書)、『国民皆保険が危ない』(平凡社新書)、『あなたのマンションが廃墟になる日』(草思社)ほか多数。

https://www.kouenirai.com/profile/6487

という人物です。
さて、前回引用部分の続きです。(p34)

-------
 ファイザーとビオンテックが選んだ戦略は「同時並行」方式だった。通常の新薬は基礎研究から動物を使った非臨床試験、人を対象とした治験(第一相〜三相臨床試験)で安全性と有効性を確かめ、当局に薬事申請する。承認後、生産体制を整備して供給を始める。
 だが、米独コンビは、安全性を確認する予備的な動物実験を行なうと、一挙に四つのワクチン候補の治験にとりかかった。ウイルスを迎え撃つ抗体を十分に産生できない候補は捨て、最良のものに絞り込んでいく。並行して生産体制を整えた。承認前の工場建設はギャンブルに等しい。審査機関の米国食品医薬品局(FDA)は、いくら急いでいるといっても有効性、安全性のチェックで手抜きはしない。仮に承認が見送られたら数十億ドルをドブに捨てる覚悟で両社は並行プランを加速させた。まるでジェット機を飛行させながら機体整備をするような開発を完遂し、mRNAワクチンは世に送り出されたのだった。
-------

ということで、これが「医薬品産業の秩序を激変させる破壊的イノベーション」の概要ですね。
しかし、この「破壊的イノベーション」がアメリカとドイツでなければ起きなかったかというと、どうもそうではないらしいのです。
続きです。(p34以下)

-------
凍結された日本のmRNAワクチン開発

 水際だった手法と潤沢な資金、思い切った決断のどれが欠けてもイノベーションは起きなかっただろう。では、翻って日本のワクチン開発はどうなっているのか。出遅れは隠しようがない。政府関係者でさえ、「日本はワクチン開発において三周半遅れぐらいになってしまっている」と新型コロナ対応・民間臨時調査会のヒアリングに答えている。
 だが、あまり知られていないが、mRNAワクチンに関しては、三年前、日本も十分な可能性を保持していた。そのまま開発を継続していたら事態は一変していたはずだ。
 二〇一六年から一八年にかけて、日本でも感染症のmRNAワクチンのプロトタイプが作成され、動物試験で免疫原性(抗原などの異物がヒトや他の動物の体内で免疫応答を引き起こす能力)が確認されていたのである。逃した魚はとてつもなく大きかった。その先駆的研究は、免疫学者で、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所のワクチン・アジュバント研究センター長だった石井健氏(現・東京大学医科学研究所教授)が製薬会社の第一三共と共同で主導していた。
 当時、感染症のmRNAワクチン研究ではドイツのビオンテック社と石井氏らに大きな差はなかった。いまやファイザーと組んで全世界にコロナワクチンを提供し、飛ぶ鳥を落とす勢いのバイオメーカーと日本のアカデミアはほぼ同等のポジションについていたのだ。
 歴史に「if」は禁句だが、もしも三年早く新型コロナ感染症の大流行が起きていたら、石井氏らの研究は対象をコロナに絞って治験へと進み、日本は大量のワクチンを外国から買うのではなく、輸出する側に回っていたかもしれない。いまから思えば千載一遇のチャンスだった。が、そうはならなかった。治験の予算はカットされ、プロジェクトは「死の谷」に落ちてしまったのである。石井氏は次のように振り返る。
「二〇一五年に韓国でMERS(中東呼吸器症候群)のアウトブレイクが起き、日本でも対策が急がれていました。第一三共さんがmRNAのテクノロジープラットフォーム(基盤技術の総称)の開発を一緒にやりたいと言ってくださり、厚生労働省に『緊急感染症対策』としてMERSウイルスのmRNAワクチン開発を提案して受け入れられました。MERSワクチンをつくっておけば、本物の高病原性の感染症が日本に伝播しても抗原の塩基配列、アミノ酸配列さえあれば、すぐに最適のワクチンがつくれます。しかもRNAやDNAのワクチン製造には、大きなタンクは必要なく、小さな工場を全国にたくさん設けて対応できる。そういうストラテジーで臨みました」
-------

長くなったので、いったんここで切ります。

新型コロナ対応・民間臨時調査会(コロナ民間臨調)
https://apinitiative.org/project/covid19/

東京大学医科学研究所 感染免疫分野 ワクチン科学分野 石井健研究室
https://vaccine-science.ims.u-tokyo.ac.jp/message/

なぜ日本はワクチン開発に出遅れたのか?
連載・東大のワクチン開発の現状を追う?mRNAワクチン開発と研究環境
https://www.todaishimbun.org/covid_19_vaccine_20210414/

7275:2021/12/28(火) 16:39:54
緒方春朔
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E6%98%A5%E6%9C%94
日本発になりえたかもしれないmRNAの話を聞くと、ジェンナーより6年早かった緒方春朔を思い出します。もし春朔の人痘法が世界的に普及していたら、ワクチンの名は、vacca(牛)に由来するvaccineではなく、homo-(anthro-、andro-)という接頭語が付いていたかもしれないですね。

7276鈴木小太郎:2021/12/29(水) 11:14:42
斎藤幸平氏とコロナ禍(その5)
僅か三年前、2018年「当時、感染症のmRNAワクチン研究ではドイツのビオンテック社と石井氏らに大きな差はな」く、「いまやファイザーと組んで全世界にコロナワクチンを提供し、飛ぶ鳥を落とす勢いのバイオメーカーと日本のアカデミアはほぼ同等のポジションについていた」にもかかわらず、何故に日本のmRNAワクチン研究は失速してしまったのか。
続きです。(p35以下)

-------
 従来の病原体を弱毒化したワクチンや、感染能力を完全に失わせたウイルス、細菌、その一部からつくる不活化ワクチンは、鶏卵や細胞でのウイルスの培養に時間がかかるうえ、数十トン規模の培養タンクも求められる。
 一方、mRNAワクチンはウイルスの遺伝子配列に応じて短期間に小さな設備で開発できる。ウイルスが変異してもゲノム情報があれば数週間以内に改良が可能だ。まさにモックアップ、後々の改良を見込んで最初に製作するプロトタイプといえるだろう。
 石井氏らの開発は順調に進み、一年もたたないうちにMERSのmRNAワクチンができあがり、サルの実験でも非常によい免疫原性が得られた。さらにジカ熱や新型インフルエンザのmRNAワクチンのプロトタイプもつくる。いずれも動物実験で免疫原性を確認し、論文もまとめて、いざ臨床試験へ、とプロジェクトメンバーの士気は高まる。が、しかし。厚労省は治験の予算を認めなかった。基礎研究と非臨床試験の段階で数千万円だった費用は、人間相手の治験となれば億単位に増える。それを政府は出し渋った。ありていに言えば、「ここから先は企業とやりなさい。研究者が自分でやる必要はないでしょう」と突き放したのである。公共的観点でサポートを続けようとはしなかった。
 企業側も新たな投資に及び腰だった。そもそもワクチンの市場規模は医薬品全体から見れば非常に小さく、感染症の流行が終息すれば製剤は在庫の山と化す。投資に見合う利益が望めない。日本初の感染症mRNAワクチンは官と民の「死の谷」に落ちてしまった。
「反省をこめて言えば、MERSのアウトブレイクは終わり、ジカ熱や新型インフルに活路を見出そうともしましたが、まだmRNAワクチンは新しい技術で、誰もが飛びつくものではありませんでした。準備しておこうという雰囲気はあったけれど、私も含めて本当にこれが必ず必要になるという危機感や、それを政府や企業に伝えて治験を働きかける気合が足りませんでした。そこが反省点ですね」と石井氏は語る。
 こうして二〇一八年、日本のmRNAワクチンの開発は凍結されたのであった。
-------

ということで、厚労省が僅か「億単位」の「治験の予算」を認めていれば、日本が「全世界にコロナワクチンを提供」する可能性もあった訳ですね。
日本が釣り損ねた魚はあまりに大きかったとはいえ、ドイツのビオンテックとアメリカのファイザーも簡単に現在の地位を獲得できた訳ではありません。(p36以下)

-------
 じつはこの年、ドイツのビオンテック社も研究開発が分岐点にさしかかっていた。免疫学者のウール・シャヒン氏と医師で腫瘍学者の妻オズレム・チュレジ氏が設立したビオンテックは、二〇〇〇年代後半から一貫して、がんの免疫療法にmRNAワクチンの技術を活かそうとしてきた。がんは遺伝子変異に起因している。多様な遺伝子の変異が、がん細胞を異常に増殖させる。そうした変異に速やかに対応するにはmRNAを使った免疫療法、いわゆる「がんワクチン」がふさわしいと夫妻は考え、研究を積み重ねていた。
 同年夏、そこにインフルエンザのmRNAワクチンの開発が加わる。提案したのは提携先のファイザーのウイルス感染症研究者だった。ファイザー側はビオンテックのmRNAの生産能力の高さに目をつけ、毎年流行するインフルエンザのワクチン開発に技術を活用できれば、より速く、柔軟に対応できると期待した。背景には熾烈な競争がある。
 世界のワクチン市場は四一七億ドル(四兆六〇〇〇億円:グローバルインフォメーション調査、二〇一九年)と推定されている。感染症の有病率の高さや、ワクチン開発への政府支援の増加で今後五年に五八四億ドルに達すると予想される。年平均成長率は七パーセント。それがコロナ禍で一挙に拡大した。現時点で世界市場の約九〇パーセントを四大製薬会社が占めている(グラクソスミスクライン社二四パーセント、メルク社二三・六パーセント、ファイザー社二一・七パーセント、サノフィ社二〇・八パーセント「World Preview 2018,Outlook to 2024」)。ファイザーはメガファーマらしい貪欲さで、常に新分野の開拓を狙っている。ビオンテックはファイザーと四億二五〇〇万ドル(四七五億円)の契約を結び、インフルエンザ用ワクチンの開発、治験に乗り出した。
 ここが日本と米独との運命の分かれ目だった。mRNAをテクノロジープラットフォームの中核に位置づけ、戦略的に資金を投じられるかどうかが、のちに新型コロナワクチンを七〇〇〇億円かけて欧米の製薬会社から買うか、世界各国に売るかの差となって現れた。
-------

私は医薬品業界の事情は全く不案内なので、以上の山岡氏の分析が正しいのかどうか、評価する能力はありません。
ただ、何といっても『世界』という「日本唯一のクオリティマガジン」(但し自称)に載った記事ですから、これを前提として資本主義の意義、国家の役割について、「左翼」や「リベラル」の人びとと対話することは可能だと思います。
果たして、コロナ危機で鮮明になった資本主義の最先端の動向に照らして、マルクス考古学者の斎藤幸平氏が肯定的に引用するマイク・デイヴィスのように、資本主義を敵視し、巨大製薬会社を潰さねばならないとする立場が正しいのか。
ま、少なくともマイク・デイヴィスが書いているような、「巨大製薬会社が新しい抗生物質や抗ウイルス剤の研究と開発を放棄した」という事実がないことは、思想的立場が異なる人たちとも共通の認識とできそうですね。

斎藤幸平氏とコロナ禍(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11064

>筆綾丸さん
ま、一回負けただけですからね。
次の機会は近いかもしれません。

7277:2021/12/30(木) 12:00:19
宗教的なるもの
小太郎さん
資本主義とは関係ありませんが、欧米と宗教的背景が違うため、日本では治験が進まない、という根本的な問題がありますね。かりに、日本がmRNAを最初に開発できたとしても、治験の段階で、スズキがフェラーリに追い抜かれるように、アメリカにスッと追い越されたように思われます。コロナに関して、compassionate use という言葉も話題になりました。
また、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は関係ないと思いますが、アメリカの治験の異常なスピードにはプロテスタント的なものが根底にあって、ブディズム、あるいはトッド流に言えばゾンビ・ブディズムは、亀のようにとぼとぼ歩くしかないのかなあ、という気がしないでもありません。

7278鈴木小太郎:2021/12/30(木) 13:45:30
斎藤幸平氏とコロナ禍(その6)
>筆綾丸さん
>欧米と宗教的背景が違うため、日本では治験が進まない

前回投稿で引用した部分の続きに、

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 もっとも、石井氏と第一三共の関係はプロジェクトが凍結されてもつながっていた。石井氏が二〇一九年に東大医科学研に移り、ラボを立ち上げて研究者を集め、実験ができるようになったところで新型コロナのパンデミックが起きる。逃した魚がふたたび近づいてきた。石井氏と第一三共はコロナのmRNAワクチンの開発に照準を定めた。そして、第一三共は今年三月下旬、ついに健康な成人一五二人を対象に治験を開始。二〇二二年中の供給をめざしている。石井氏は「動物実験では完璧です。ファイザーや、モデルナのワクチンに引けをとらないものができたと思います。ただ、臨床試験をしなくては本当のところはわからない。一年遅れで彼らと同じスタート地点に立てました」と感慨深げに語った。
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とありますので(p35)、現時点でどのような状況なのかは知りませんが、日本でも治験が著しく遅れるということはなさそうですね。
日本でワクチン開発が遅れた理由については山際淳一郎氏も分析していて、第一は反ワクチン運動、第二は安全保障の観点の欠如ですね。(p35以下)

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ワクチン開発を拒む国の消極姿勢

 ひと口に日本は周回遅れといっても、その裏には技術の種子が撒かながら収穫にいたらなかったケースが無数に隠れている。国としての戦略が問い直されるのはいうまでもない。それにしても、かつてはワクチン開発国だった日本が、どうして海外のメーカーに依存するようになってしまったのか。ワクチンと時代の移り変わりから説き起こしてみよう。
 戦後、日本は伝染病(感染症)の撲滅を掲げて復興に踏み出した。長く死因の第一位だった結核は特効薬ストレプトマイシンの導入で抑えられたが、発疹チフスや天然痘、ジフテリア、赤痢の流行が断続的に続く。一九四八年に「予防接種法」が制定され、「罰則付きの接種」が義務化された。政府は社会防衛を最優先し、ワクチン開発に拍車をかける。感染症による死亡者が大幅に減っていく傍ら、予防接種による健康被害が続出した。一九七〇年には小樽保健所での集団種痘接種でゼロ歳児が脊髄炎を発症する。一九七三年、種痘やインフルエンザ、ジフテリア、百日咳、ポリオ(小児麻痺)などのワクチンで脳性麻痺やてんかん、知的障害といった重い後遺障害を抱えた患者と家族六二組が「東京予防接種禍訴訟」を起こす。提訴の波動は大阪、名古屋、九州と全国へ広がった。
 ワクチン接種には副反応がつきものだ。たとえ一〇〇万人に一人の健康被害でも、当事者にとっては確率論では済まない厳しい現実そのものである。一九七六年、国は予防接種を「罰則なしの義務」とし、「健康被害救済制度」を創設する。一九八九年、MMR(おたふく風邪・ハシカ・風疹の三種混合)ワクチンの接種で無菌性髄膜炎が多発して集団訴訟が提起された。ワクチンに使われたウイルスが十分に弱毒化されていなかったための発症で、予防接種への不信感が募った。予防接種禍訴訟の原告勝訴が確定すると、国は方針を大転換した。一九九四年、予防接種を「義務」ではなく、「努力義務」に改め、「集団」から「個別」へと接種形態を変える。個人の選択に委ねる方向に舵を切った。
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いったん、ここで切ります。
「東京予防接種禍訴訟」の経緯については、自由人権協会サイト内の下記記事が簡潔にまとめていますね。

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この訴訟は、予防接種被害について、接種医師の責任を直接に問うことをせず、予防接種を強制し、その違反に対して刑罰を科すことまでしている国のみを被告として、その責任を正面から追及するはじめての訴訟でした 。裁判は、医学上、法律上の困難な課題に取り組みつつ、第1審の判決まで11年、控訴審の判決まで19年、控訴審判決で請求が認められなかった1家族についての最高裁判決、その後の差戻控訴審での和解まで26年の長い年月の経過を要しました。しかし、判決の内容は、いずれも被害者の司法に対する期待を受けとめ、被害の法的救済を実現させる画期的なものであり、法にもとづく被害者の救済と予防接種制度の改革を実現させる大きなインパクトをもたらしたのです。
1994年には、予防接種法が改正され、予防接種は「予防接種を受けるよう努める」義務となりました。

http://jclu.org/issues/vaccination/

また、弁護団により上下二巻の大著が出ています。

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1973年に提訴された予防接種被害東京訴訟(被害者62家族)の26年間にわたる裁判記録。予防接種被害の救済を求め、被害者とその弁護士が権利の実現のためにいかに戦い、裁判所がその使命をどのように果たしたか。第1編訴訟の概要・経過では弁護団の雑談会がリアルに物語っている。第2編以降では訴状、答弁書、準備書面等、さらに意見陳述、証言、尋問調書等、原告の「生の声」をも収録した貴重なドキュメンタリー。全2巻、総1820頁に訴訟の全てを凝縮。

https://www.shinzansha.co.jp/book/b188833.html

その編者は著名な弁護士ですね。

中平健吉(元裁判官・弁護士、1925-2015)
http://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/topics150319.pdf
大野正男(弁護士・最高裁判所判事、1927-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%AD%A3%E7%94%B7

こうした裁判の内容が世間に正確に理解されたかは相当問題で、反ワクチンそのものが社会正義として語られるような風潮も強くなった訳ですね。
そして、その風潮が製薬業界にどのような影響を与えたのか。

7279鈴木小太郎:2021/12/30(木) 17:56:18
斎藤幸平氏とコロナ禍(その7)
続きです。(p38)

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 国の消極策は製薬業界の意欲を殺いだ。世界に先駆けて水痘や日本脳炎のワクチンを開発してきた業界は新規案件を止める。しだいにワクチン未接種者が増え、二〇〇〇年代にはハシカや風疹が集団発生した。二〇〇八年には北海道で開かれた「G8主要国首脳会議」(洞爺湖サミット)では、事務局ホームページに「日本からハシカを持ち帰らないように、ワクチンを接種したかを確認し、まだの人は打ってください」と掲載される始末だった。
 開発力の衰えを痛感した厚労省は、新型インフルエンザの流行(二〇〇九〜一〇年)を機に国産ワクチンの振興を図ろうとする。「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業」と銘打ち、細胞培養法の製造工場の完成を期して四社に交付金を付けた。北里第一三共(現・第一三共バイオテック)三〇〇億円、化学及血清療法研究所(現・KMバイオロジクス)と武田薬品工業、阪大微生物病研究会には各二四〇億円が助成される。
 しかし、阪大微研は採算が合わず、早々と補助金を返還して撤退。北里第一三共は当初の期限までに必要な供給体制を整備できず、さらに五年粘って設備の改良に努めたが目標に届かなかった。二〇一九年に補助金の一部を返上したうえに遅延損害金を払って終止符を打つ。武田薬品と阪大微研はハードルをクリアしたものの惨澹たる結果に終わっている。
-------

「採算が合わず、早々と補助金を返還して撤退」したはずの「阪大微研」が最後の文章に再び登場するので、変だなと思って、厚労省サイトの「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業(細胞培養法:第2次事業)評価委員会」というページを見たら、やはり「阪大微研」は早期に撤退していますね。

https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/other-kenkou_128643.html

従って、「武田薬品と阪大微研はハードルをクリアしたものの惨澹たる結果に終わっている」は「武田薬品と【KMバイオロジクス】はハードルをクリアしたものの惨澹たる結果に終わっている」の誤りですね。
ただ、最終評価である令和元年5月17日付の「「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備臨時特例交付金」第2次事業(延長分)及び追加公募分の成果等について」を見ると、

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令和年5月13日に開催した新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業評価委員会において、第2次事業(延長分)及び追加公募分の成果について評価が行われました。その結果を踏まえて、今般その評価が確定し、全国民分へのワクチンの生産体制の確保という当初の事業目標を達成したと評価されましたので、その結果をお知らせします。

【評価対象事業者】
(1)KMバイオロジクス株式会社
(2)武田薬品工業株式会社
(3)第一三共バイオテック株式会社(旧:北里第一三共ワクチン株式会社)

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_04757.html

とあり、更に「別紙:「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備臨時特例交付金」第2次事業(延長分)及び追加公募分の成果等について」を見ると、

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(1)事業者ごとの評価
  ? KMバイオロジクス株式会社 【中略】
   A評価。概ね事業計画どおりに事業を実施。事業目的を達成。
  ? 武田薬品工業株式会社 【中略】
   A評価。概ね事業計画どおりに事業を実施。事業目的を達成。
  ? 北里第一三共ワクチン株式会社 【中略】
   C評価。事業目標のワクチン数量(約 4,000 万人分)を半年以内に製造可能な体制の整備は
   未達成。(これを踏まえ、助成金の一部を返還させることとした。)
(2)事業全体の評価
  ○ 小児用ワクチンの接種用量は成人に比べて少ないことを考慮すると、全国民への
   ワクチン接種が可能となる。
  ○ これを踏まえ、新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業評価委員会(別添)に
   おいて、全国民分のワクチンの生産体制の確保という当初の事業目標を達成したと評価され
   た。

https://www.mhlw.go.jp/content/10906000/000509992.pdf

とのことなので、山岡氏の酷評との整合性が取れていないように見えますが、これは業界事情を熟知した、分る人には分かる文章なのでしょうね。
文章自体には全然曖昧さはないので、いわゆる「霞が関文学」とは別の問題であろうと思われます。
ま、とにかく、山岡氏の見解が正しいのであれば、予防接種禍訴訟を契機に社会のワクチンへの風当たりが強まって、「国の消極策は製薬業界の意欲を殺」ぎ、「世界に先駆けて水痘や日本脳炎のワクチンを開発してきた業界は新規案件を止め」、「開発力の衰えを痛感した厚労省」が新たに投入した国の資金も無駄に終わってしまったようですね。
マルクス考古学者の斎藤幸平氏は、

-------
 コロナ禍の場合、商品の「使用価値」とは、薬が病気を治す力のことで、「価値」とは、商品としての薬につく値段である。ワクチンとEDの薬であれば、役に立つのは、命を救うワクチンである。だが、資本主義においては、人の命を救うかどうかよりも、儲かるかどうかが優先される。高価でもどんどん売れる薬が重要だというわけだ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058

などと言われていますが、さすがに日本でワクチン開発に製薬会社が及び腰になっていたのは、そこまで単純な理由からではないですね。
斎藤氏はもともと思考が単純なのか、それとも「資本主義においては」、書籍の内容が正確か「どうかよりも、儲かるかどうかが優先される」ので、無内容でも「どんどん売れる」本が「重要だというわけ」で、集英社が、その利潤を最大化するために、愚鈍な大衆にも分かりやすい勧善懲悪の単純明快な説明を斎藤氏に要請したのか分かりませんが、おそらく前者でしょうね。

7280鈴木小太郎:2021/12/31(金) 12:24:50
斎藤幸平氏とコロナ禍(その8)
予防接種禍訴訟の弁護団は、自分たちが正義の戦いをしているとの揺るぎない自信を持って国を相手に戦ったのでしょうが、結果的に反ワクチンの風潮を生み出したことを現時点でどのように評価すべきなのか。
具体的には、HPVワクチンの接種が激減して、ワクチンを接種していたならば死ななくて済んだ多数の犠牲者を出してしまったことをどう考えるのか。
ま、これは専門知識のない私には判断が難しい問題ですが、羹に懲りて膾を吹いてしまったのではないか、という疑いはぬぐえないですね。

『子宮頸がんとHPVワクチンに関する最新の知識と正しい理解のために』(公益社団法人 日本産科婦人科学会サイト内)
https://www.jsog.or.jp/modules/jsogpolicy/index.php?content_id=4
「積極的勧奨再開について」(同)
https://www.jsog.or.jp/modules/news_m/index.php?content_id=1104

さて、山際淳一郎氏が日本のワクチン開発の遅れの原因として挙げる二番目は国防・安全保障の観点の欠如です。(p38以下)
このような指摘が「日本唯一のクオリティマガジン」(但し自称)である『世界』に登場するのは非常に珍しい感じがします。

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安全保障の一環としてのワクチン開発

 現在、コロナワクチンを製造しているのは米、英、独、中、ロ、印の六カ国だ。これらの国々と日本の間には開発動機に決定的な違いがある。それはワクチンを、国防や安全保障の一環ととらえるか否かだ。遺伝子研究の世界的権威で、がんプレシジョン医療研究センター所長の中村祐輔氏は、一一年間の滞米生活の実感をもとに、こう指摘する。
「アメリカは常にバイオテロにさらされるリスクを考えながら、ワクチン、治療薬を開発しています。新しい生物兵器で攻撃されたときにどれだけ早く対応できるかに国の命運がかかっています。コロナのパンデミックは一種の戦争状態ですから、国防の視点で軍産官学が団結してワクチン開発を進める。日本にはそういう意識がまったくありませんから、比較にならないくらい開発基盤が弱い。バックグラウンドが全然違います」
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中村祐輔氏は今年、文化功労者に選出されましたね。
その経歴はあまりに華麗で、

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 1952年大阪府生まれ、68歳。1977年大阪大学医学部卒業。大阪大学医学部第2外科(神前五郎教授)および分子遺伝学教室(松原謙一教授)から、1984年米ユタ大学ハワード・ヒューズ医学研究所研究員(レイ・ホワイト教授)を経て、1987年ユタ大学人類遺伝学助教授に就任。1989年に帰国後、癌研究会癌研究所生化学部長として、ユタ大学留学中に発見した遺伝子の反復配列VNTRを遺伝子多型マーカーとして活用し、家族性大腸腺腫症(FAP)の原因遺伝子として、がん抑制遺伝子APC遺伝子の単離・同定に世界で初めて成功した。
【中略】
 2011年から内閣官房参与・内閣官房医療イノベーション室長を務めた後、2012年からシカゴ大学医学部腫瘍内科教授、兼、個別化医療センター・副センター長を務め、がん個別化医療の実現に貢献し、2018年より現職(公益財団法人がん研究会がんプレシジョン医療研究センター所長)に就任。現在も、個々の患者のがんゲノム情報に基づいたがん免疫療法の実用化を目指した研究を牽引している。
 また、2018年より内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「AI(人工知能)ホスピタルによる高度診断・治療システム」のプログラムディレクターに就任している。
東京大学名誉教授、シカゴ大学名誉教授。1996年武田医学賞、2000年慶應医学賞、2003年紫綬褒章、2020年クライベイト引用栄誉賞などを受賞。

https://www.jfcr.or.jp/genome/news/8932.html

といった具合です。
ここには記されていませんが、中村氏は東証マザーズに上場している創薬ベンチャー、オンコセラピー・サイエンス株式会社の創業者の一人で、中村氏がノーベル生理学・医学賞を受賞するのではないか、という噂で株価が変動するような立場の人ですね。

「<JQ>OTSが急落 ノーベル賞の期待剥落で」(日本経済新聞2020年10月6日)
https://www.nikkei.com/article/DGXLASFL06HBG_W0A001C2000000/
オンコセラピー・サイエンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9

ま、こういう経歴の人ですから、中村氏はアメリカのワクチン開発の背景を熟知されており、その証言は信頼できますね。
さて、続きです。(p39)

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 バイオテロの危険性は東西冷戦の終結後に高まった。旧ソビエト連邦の生物兵器製造組織の人や情報が流出したからだ。ソ連崩壊後に米国に亡命した、生物兵器開発のリーダーで医学者のケン・アリベックは、自著『バイオハザード』で赤裸々に告白している。
「一九九〇年一二月、われわれはエアロゾルにした新型の天然痘兵器の実験を、ベクター(現・ロシア国立ウイルス学・生物工学研究センター)の爆発実験室のなかで行った。実験は成功した。コンツォヴォ(ベクター所在地)に新しく建てた第一五ビルの生産ラインで、一年に八〇トンから一〇〇トンの天然痘ウイルスを製造できることが、計算で明らかになったのだ。これと並行して、野心に燃えたベクターの若い科学者たちは、遺伝情報を改造した天然痘ウイルスを開発しており、われわれはその分野でもこの生産ラインを利用できないかと考えていた。
 WHOが種痘の普及で天然痘を根絶したと宣言したのは一九八〇年だった。その一〇年後に自然界にはない天然痘ウイルスの開発が行なわれ、兵器に転用されていたことに驚きを禁じ得ない。一九九〇年代半ばには北朝鮮、イラク、イスラエル、イラン、中国、ロシア、インドなど一七ヵ国が生物兵器を所有している、と米国議会技術評価局(OTA)は上院の聴聞会で発表した。その後、このリストにはさらに多くの国が加わっている。
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ケン・アリベックの『バイオハザード』は1999年にアメリカで出版され、邦訳もあるそうですが(山本光伸訳、二見書房、1999)、私は未読です。

ケン・アリベック(1950生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF

少し検索してみたところ、山内一也氏(1930生、東京大学名誉教授)が同書について検討されていますね。

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霊長類フォーラム:人獣共通感染症(第79回)6/25/99

 本講座(第69回)でソ連の生物兵器計画の実質的責任者で、1992年に米国 に 亡命したケン・アリベックKen Alibekの話としてソ連における生物兵器開発の状況 や マールブルグウイルスの実験室感染による死亡事故などをご紹介しました。今回、 彼 の書いた本「バイオハザード」が出版されました。かなり派手に宣伝されているの で 、お読みになった方もいると思います。
 彼の周辺での権力闘争、それにまつわるエピソードなどが多く紹介されておりソ 連 の軍事研究の実態は驚かされます。しかし実際に生物兵器に関する技術的な部分は あ まり多くありません。生物兵器の実態に関するレポートという観点では贅肉が多す ぎ ます。そこで私なりにソ連の生物兵器の実態に関する部分を拾い出して、その要約 を 試みてみます。

https://www.jsvetsci.jp/05_byouki/prion/pf79.html

ソ連からの亡命者が書いた本であるため、若干の誇張はあるのでしょうが、旧ソ連が生物兵器開発に熱心だったことは間違いないですね。

7281鈴木小太郎:2021/12/31(金) 14:25:12
斎藤幸平氏とコロナ禍(その9)
続きです。(p39)

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 そして二〇〇一年、イスラム過激派が旅客機でニューヨークの世界貿易センタービルを攻撃した「9・11同時多発テロ」の一週間後、米国でバイオテロ事件が起きる。テレビ局や出版社、上院議員に炭疽菌が封入された手紙が送りつけられ、五人が死亡、一七人が負傷した。中村氏は「事件直後、DOE(米国エネルギー省)から検査会社に炭疽菌をできるだけ早く検出できる検査キットを開発しろ、と指令が出て、私の友人たちは一所懸命それをやっていました」と回想する。
 捜査は長期化し、FBIの捜査線上に浮かんだ容疑者は米陸軍基地フォート・デトリック内の陸軍感染症医学研究所の微生物学者、ブルース・インビスだった。キリスト教原理主義者のインビスは、封筒に炭疽菌とイスラム過激派を装った脅迫状を入れて犯行に及んだとみられる。証拠を固めたFBIの告発が迫った二〇〇八年八月、インビスは解熱鎮痛剤を大量服用し、自ら命を断った。米国では、この炭疽菌事件後、「公衆の健康安全保障ならびにバイオテロへの準備および対策法」(バイオテロ法)が制定され、米国向けの輸出食品に厳しい規制がかかる。国際社会はバイオテロを、いま、そこの危機として受けとめた。
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「ブルース・インビス」とありますが、「イビンス」の誤記でしょうね。
ただ、ウィキペディアの英語版を見ると、「アイヴィンズ」と発音するようです。
自殺は事件の七年後で、FBIは別の人物を容疑者として追っていて、その人物との訴訟において約600万ドルの和解金で示談としたこともあったそうですから、相当な難事件だった訳ですね。

Bruce Edwards Ivins(1946-2008)
https://en.wikipedia.org/wiki/Bruce_Edwards_Ivins

それと、「いま、そこの危機」は clear and present danger の訳でしょうが、これはトム・クランシーの小説のタイトルで、映画化もされたので、「今そこにある危機」でないと何となく間の抜けた感じがしますね。
ま、それはともかく、中村祐輔氏のお名前と「炭疽菌」で検索すると、例えばこんな記事が出てきて、子宮頸がんワクチンについての言及もあります。

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中村 もう一つ大きな海外との意識の差があり、それはテロ対策です。2001年の9・11の直後に、アメリカで炭疽菌テロが起きました。アメリカにとってはバイオテロっていうのが現実のものなのです。その対策として、ワクチンは大きな柱の一つだったわけです。技術はもうがんで培われていて、がんゲノムのシーケンスなんてすぐにできるわけです。
【中略】
中村 免疫っていうのは、日本ではネガティブな面ばかりが強調され、それが大きくなっています。例えばワクチンで副反応が出たら、「危ないからワクチンをしない」となる。子宮頸がんワクチンがその典型です。だから日本だけが、子宮頸がんの発症率が下がっていない。ほかの国では子宮頸がんにならない時代になってきているのに、日本は高止まりしている。
 結局、「公衆衛生」という概念が、あまり理解されていない。みんなの利益を考えた場合、一部の人に副反応が出ていても、それはやっぱり絶対多数の人たちのために必要なのです。もし、子宮頸がんワクチンで副反応が出た場合は、どうして副反応が出たか、どんな人に出やすいのか、原因を調べて減らしていけばいい。

https://diamond.jp/articles/-/279795

さて、マルクス考古学者の斎藤幸平氏には、もちろん国防・安全保障といった観点は存在しません。
『人新世の「資本論」』全体を通しても、そのような観点は皆無なので、一度も考えたことがないのでしょうね。

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 コロナ禍の場合、商品の「使用価値」とは、薬が病気を治す力のことで、「価値」とは、商品としての薬につく値段である。ワクチンとEDの薬であれば、役に立つのは、命を救うワクチンである。だが、資本主義においては、人の命を救うかどうかよりも、儲かるかどうかが優先される。高価でもどんどん売れる薬が重要だというわけだ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058

とされる斎藤氏の資本主義の理解はあまりに素朴で、「越後屋」が悪役として登場する一昔前のテレビ時代劇のような感じがします。
山岡淳一郎氏も、もちろん製薬企業に経済的利益という目的があることには言及されていますが、それは反ワクチン運動とバイオテロを紹介した後の話です。(p40)

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金持ちしか医療を受けられなくなる日

 生物兵器は国際条約で禁じられている。憲法で平和主義を謳う日本がそれに手を出すことは許されない。戦中、陸軍軍医・石井四郎率いる「七三一部隊」が中国で犯した人体実験の蛮行の記憶も残る。しかしながら、バイオテロやパンデミックから国民の命を守る「専守防衛」の観点からのワクチン開発の議論は高まってもいいのではないか。
 海外諸国のワクチン開発の、もう一つの大きな動機は経済的利益の追求である。日本が購入契約を交わした三つの海外メーカーのワクチンの値段を比べると、それぞれの姿勢が見えてくる。WHOのデータによれば、ファイザー社のワクチンは一回=二〇ドル。五月に承認されそうなモデルナ(米国)社のmRNAワクチンは一回=三三ドル。ファイザーは年間二〇億回分、モデルナは一〇億回分の生産を見込んでいるので、単純計算で四〇〇億ドル(四兆三二〇〇億円)、三三〇億ドル(三兆五六四〇億円)の売り上げが立つ。
 これに対し、英国のアストラゼネカ社とオックスフォード大学が開発したウイルスベクターワクチンは一回=三〜四ドル。モデルナの約一〇分の一の安さだ。
 アストラゼネカ社のワクチンは、人体に無害な改変ウイルスをベクター(運び屋)として使う。新型コロナウイルスの遺伝子をベクターでヒトの細胞に運んでタンパク質をつくらせ、免疫応答を得る。ファイザーやモデルナのワクチンは超低温で保管しなくてはならないが、こちらは二〜八度の冷蔵庫に入れられる。有効率は七九パーセント、心配された血栓との因果も関係ないと確認された。総合評価の高いワクチンがこれほど安く提供されるのは、なぜか。英国が「パブリック(公)」の重要さをそこに込めているからだ。医療は広く公衆を支え、公正に分配されなくてはならないという哲理が脈打っている。アストラゼネカ社は「パンデミック期間中においては、営利を目的とせずワクチンを供給する」、つまり「原価で売る」と宣言した。
-------

利益獲得という目的がなかったら、例えばファイザー社とビオンテック社は「仮に承認が見送られたら数十億ドルをドブに捨てる覚悟で両社は並行プランを加速させた」(p34)といった行動はとらなかったでしょうから、ファイザー・モデルナ社の価格設定を非難するのも変ですね。
ただ、資本主義といっても、アメリカモデルが唯一の選択肢ではないことは確かです。
この点でも、斎藤幸平氏の資本主義の理解はあまりに単純ですね。

7282鈴木小太郎:2021/12/31(金) 20:13:27
大晦日のご挨拶
最後の最後に「資本主義は「宗教」なのか」というタイトルの投稿をしようと思っていたのですが、来年への持ち越しとします。
皆様、良いお年をお迎えください。

なお、掲示板投稿の保管用のブログ「学問空間」では、12月13日の「私も「新しい資本主義」について考えてみた。」以降の記事のカテゴリーを「鈴木ズッキーニ師かく語りき」に変更しました。
「ズッキーニ」は私の洗礼名です。

7283:2022/01/01(土) 11:09:07
白梅
小太郎さん
年頭の話らしくなくて恐縮ですが。
『回顧2021』(日経12月25日)の俳句として、東日本大震災10周年に触れて、次の句が掲載されていました。しびれるような名句ですね。
しら梅の二度頷きて呑まれけりー照井翠『泥天使』

7284ザゲィムプレィア:2022/01/01(土) 12:00:16
『人新世の資本論』の普及
今年も、小太郎さんの成果を楽しませて頂くとともに、時々お邪魔させていただきます。宜しくお願いします。

事情があり拙宅には毎月『浄土宗新聞』(発行は浄土宗)という印刷物が届きます。
1月号の鐸声というコラムで斎藤幸平氏の『人新世の資本論』が取り上げられています。
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斎藤氏は、人新世の文明の基盤である資本主義は、飽くなき利潤追求が目的であり、有限な地球の中で、必然的に、環境破壊、格差社会等の問題を引き起こしてしまうとする。
斎藤氏が提唱するのは、私たちの社会全体が、永遠に続く経済成長という神話から脱却して「足ることを知る」ことによる潤沢な生き方へ転換することである。
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そもそも本を読んでおらず鐸声子の記述を批評する資格がないのですが、仏教者が共産主義の色彩が強い斎藤氏の思想を取り上げるのは如何かと思います。

ところで、『鎌倉殿の13人』が始まります。頼朝や義時が描かれるのを見ないわけにはいきませんが、『平清盛』に失望させられたのは覚えているので録画してから見ようと思っています。

7285鈴木小太郎:2022/01/01(土) 16:44:43
新年のご挨拶
明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。


>筆綾丸さん
>照井翠『泥天使』

釜石高校の国語の先生なんですね。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/81632

>ザゲィムプレィアさん
>1月号の鐸声というコラム

『浄土宗新聞』、ネットでも読めますね。

https://press.jodo.or.jp/news/

少し検索してみたところ、光圓寺という文京区のお寺さんのサイトに、

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 昨年の『武器としての資本論』に続いて(というか)、『人新世の資本論』を読んでいます。この著者、斉藤さんというのですが、何と高校の後輩であるそうで、まぁ中庸な学校から俊英が出たものだと感服しております。

https://kouenji.site/2021/11/22/%e9%81%a3%e3%82%8b%e3%83%bb%e9%a6%b3%e3%81%9b%e3%82%8b/

などとありましたが、斎藤幸平氏は芝学園出身なので浄土宗とは縁のある人ですね。
四十万部を超えたという『人新世の「資本論」』の購入者の中でも私ほど熱心に読んでいる人は少ないと思いますが、私は何故かツイッターでは斎藤氏にブロックされています。
思想は異なるとはいえ、もう少し読者を大切にしてほしい、と思わないでもありません。

「マルクスの青い鳥」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11051

7286鈴木小太郎:2022/01/01(土) 21:16:29
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)
新年早々、コミュニズムがどーしたこーした、といった話をするのも剣呑なので、大河ドラマ関係のことを少し書きたいと思います。
『鎌倉殿の13人』ブームを当て込んで続々と一般書が出版される中、山本みなみ氏の『史伝 北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館、2021)は若手女性研究者の手になるものなので、私も注目していました。

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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時(演・小栗旬)の生涯に迫る一冊。著者は、現在、もっとも北条義時に肉薄していると評価される新進気鋭の研究者。姉・北条政子と源頼朝の結婚、頼朝の挙兵、平家との戦い、武家政権の成立、将軍代替わりを契機とする政権内の権力闘争、将軍暗殺、承久の乱・・・・など大河ドラマのストーリーをより深く理解し、楽しめる構成。新史料を元に初期鎌倉時代政治史のミッシングリンクを解明し、『吾妻鏡』以外の公家史料も駆使して、なぜ北条氏が執権として権力掌握に成功したのか、その真相にも迫る。さらに著者の勤務先(鎌倉歴史文化交流館)が鎌倉という「地の利」を活かして考古学の成果も活用。カラー写真・図版満載で、鎌倉散策のお供にもなる書に仕上がりました。読みやすくわかりやすい文章ながら、内容は深い。

https://www.shogakukan.co.jp/digital/093888450000d0000000

といっても、私の興味の範囲も限定されていて、とりあえず「姫の前」と竹殿に着目するパターンが続いていますが、この点では山本著も従来説と代わり映えがせず、「もっとも北条義時に肉薄していると評価」できないように感じます。
ま、とりあえず山本氏の見解を確認すると、次の通りです。(p90以下)

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姫の前との出会い

 頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年(一一九二)、義時は姫の前を正妻に迎えた。姫の前は比企朝宗の娘で、将軍御所で女房をつとめていた女性である。周知の通り、頼朝は伊豆で二十年におよぶ流人生活を送るが、その間、頼朝を支援していたのが、乳母〔めのと〕をつとめる比企尼の一族であった。朝宗は、この比企尼の近縁者といわれる。
 御所ではたらく姫の前は、格別に頼朝のお気に入りで、また大変美しい容姿の持ち主であったという。『吾妻鏡』には「権威無双の女房なり。殊に御意に相叶ふ。また容顔太〔はなは〕だ美麗と云々」とみえている。
 彼女のことを見初めた義時は、一、二年もの間、恋文を送り続けたが、相手にされなかった。そこで、見かねた頼朝が義時に「姫の前と絶対に離別しません」という内容の起請文(今でいう誓約書)を書かせて、二人の仲を取り持ち、無事婚姻に至ったという。ときに義時は三十歳になっていた。
 義時は、姫の前とのあいだに三人の子をもうけた。婚姻の翌々年には、長男の朝時が生まれている。朝時は、のちに鎌倉の名越に邸宅を有したことから、名越朝時とも呼ばれる。承久の乱では、北陸道の大将軍として活躍することになる。
 二男の重時は、建久九年(一一九八)に誕生した。重時は、のちに六波羅探題北方となり、その在職は十七年にも及ぶことになる。鎌倉に極楽寺を開いたことでも知られる。
 娘の竹殿は、生没年未詳である。大江広元の息子親広と結ばれたが、承久の乱で親広が京方に付いたため、離別して内大臣土御門定通と再婚し、男子を出産した。鎌倉後期に成立した『百錬抄』や京都の貴族葉室定嗣の日記『葉黄記』によれば、息子の顕親は承久四年(一二二二)に誕生しているため、乱後程なくして再婚したとみてよかろう。なお、『公卿補任』に従えば、顕親の生年は承久二年(一二二〇)となるが、『公卿補任』はきわめて重要な史料である一方、誤りも多く、他の史料で確認しながら使う必要がある。ここでは、一次史料である『葉黄記』に従うのが妥当である。
 このように、三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう。
-------

うーむ。
竹殿については改めて検討したいと思いますが、『公卿補任』に誤りが多いことは一般論として正しいとしても、肝心の源顕親の記事は、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付に、

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従三位 <土御門>源顕親<十九> 正月五日叙。左中将如元。
前内大臣(定通公)二男。母故右京権大夫平義時朝臣女。
貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240

とあって、相当に詳しいですね。
山本氏は一次史料の『葉黄記』の方が信頼できると言われますが、葉室定嗣にとって顕親など親戚でも何でもなく、当該記事も宝治元年(1247)六月二日、顕親が出家したときに二十六歳であったと記しているだけです。
そんなものを「一次史料」だからといって優先してよいのか。
私としては山本氏の研究者としてのセンスを疑いたくなりますね。
ま、それはともかく、「姫の前」については山本著に続きがあります。

「源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11012

7287鈴木小太郎:2022/01/21(金) 03:30:48
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)
山本著では比企氏の乱を論じた後、姫の前への再度の言及があります。(p125以下)

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義時の活躍と葛藤
 比企氏の乱における義時の活躍は目覚ましく、一幡を取り逃したものの、乱後には新田一族を殺害している。ただし、その胸中は複雑であったに違いない。第一章で述べた通り、義時の妻姫の前は比企氏出身の女性であった。彼女とは、およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていたが、頼家の重篤を契機として、北条氏と比企氏との対立が表面化し、両者のあいだにも暗い影を落としたと考えられる。
 乱後、姫の前は上洛して貴族と再婚し、義時も伊賀の方という新しい伴侶を得ている。結局、義時は姫の前と離縁するほかなく、加えて妻の生家の一族を自らの手で殺める、その中心人物として行動することを余儀なくされたのであった。比企氏討伐の指揮者は父時政であり、親権絶対の中世において父親に背くことはあり得ない。苦渋の決断であったとは思うが、実父の命令に従うほかはなかったのである。
 義時が何より心を痛めたのは、亡き頼朝の期待に応えられなかったことであろう。比企氏と北条氏の一体化は、頼朝の念願であり、両氏を繋ぐ存在として期待されていたのが義時であった。彼自身も、当然そのことを理解していたから、頼朝との誓約を守れなかったという負い目があったのではないだろうか。
-------

「乱後、姫の前は上洛して貴族と再婚し」とありますが、再婚相手は村上源氏傍流の歌人・源具親です。
歌人としては妹の宮内卿の方が有名ですが、具親も後鳥羽院が設けた和歌所の寄人であって、それなりの才能の持ち主ですね。
さて、姫の前と源具親の再婚が比企氏の乱の前か後かについては、一昨年(2020年)三月、森幸夫氏の『人物叢書 北条重時』(吉川弘文館、2009)を出発点として少し考えてみたことがあり、その後も折に触れて検討を重ねてきました。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)〜(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10174
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10175
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10176

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その14)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10187
「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10188
比企尼と京都人脈
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10189
紅旗征戎は吾が事に非ざれど……
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10192

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10241

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10864
呉座勇一氏『頼朝と義時 武家政権の誕生』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10973
細川重男氏『頼朝の武士団』に描かれた「姫の前」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10977
本郷和人氏『北条氏の時代』について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10981

大江広元と親広の父子関係(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11008
源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11012
土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について(一年半後の補遺)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11021
「因幡守広盛」補遺
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11026

ま、私としては「姫の前」と義時の離縁、そして源具親との再婚は比企氏の乱の前であることは間違いないと考えています。
姫の前が源具親との間の子、輔通を元久元年(1204)に生んだことは動かせないですから、彼女が妊娠したのは同年三月くらいまでの時期です。
とすると、建仁三年(1203)九月二日の比企氏の乱で一族が全滅した後、「姫の前」が鎌倉から京都に移動し、具親と再婚してせっせと子作りに励んだ、というのはずいぶん忙しい日程であり、「姫の前」はものすごく神経が太いというか、殆どサイコパスのような人間になってしまいますね。

7288鈴木小太郎:2022/01/21(金) 07:28:31
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その3)
それにしても「姫の前」は本当に興味深い存在で、彼女と義時の離縁が比企氏の乱の前か後かによって義時の人間像が全く逆転してしまいますね。
山本氏の文章を借りれば、

-------
 比企氏の乱における義時の活躍は目覚ましく、一幡を取り逃したものの、乱後には新田一族を殺害している。ただし、その胸中は【特に複雑ではなかった】に違いない。第一章で述べた通り、義時の妻姫の前は比企氏出身の女性であった。彼女とは、【少なくとも重時が誕生する建久九年(1198)までの七年間は】連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていたが、【建久十年の頼朝頓死を契機として、「姫の前」側からの申し出で離縁した可能性が高く】、頼家の重篤を契機として、北条氏と比企氏との対立が表面化し、両者のあいだにも暗い影を落としたと【は考えにくい】。
 乱【前】、姫の前は上洛して貴族と再婚し、義時も【乱の前か後かは不明だが】伊賀の方という新しい伴侶を得ている。結局、義時は姫の前と離縁【したが、そのため、幸いにも】妻の生家の一族を自らの手で殺める、その中心人物として行動することを余儀なくされ【ることなく、むしろ妻に離縁された屈辱を晴らすために良い機会を得た】たのであった。比企氏討伐の指揮者は父時政であり、親権絶対の中世において父親に背くことはあり得ない【のが普通であるが、義時は二年後、姉・政子とともに父時政を鎌倉から追放している】。苦渋の決断であったとは思【われず】、実父の命令に従うほかはなかった【訳でもない】のである。
 【義時側から離縁を要求したのではないので】義時が何より心を痛めたのは、亡き頼朝の期待に応えられなかったことで【はなく、妻から離縁されてしまった情けない夫の立場に置かれたことで】あろう。比企氏と北条氏の一体化は、頼朝の念願であり、両氏を繋ぐ存在として期待されていたのが義時であった。彼自身も、当然そのことを理解していた【が、妻の方から離縁されてしまったので、結果的に】頼朝との誓約を守れなかったという負い目【を感じる必要がなかったことは不幸中の幸いで】あったのではないだろうか。
-------

ということになり、まるでオセロのように全てがひっくり返ります。
義時は比企氏の乱で苦悩するどころか、むしろ「姫の前」に離縁された屈辱を晴らす絶好の機会が到来した、と喜んだのではないか、二人の離縁は比企氏の乱の結果ではなく、むしろ原因のひとつだったのではないか、だからこそ義時は率先して比企氏打倒に活躍したのではないか、という具合いに、義時の比企氏の乱での行動は非常にすっきりと説明できそうです。
そもそも「姫の前」は無教養で無骨な義時などには全く魅力を感じることなく、しつこいラブレターにうんざりしていた立場です。
「姫の前」が義時と結婚したのは頼朝が無理強いしたからであって、三人の子ではなく、頼朝が「姫の前」と義時の「かすがい」であり、桎梏であった訳ですが、その頼朝が建久十年(1199)に死んだので、別に起請文など書いていた訳ではない「姫の前」としては、あっさりと義時に三行半を突き付けたのだろうと私は想像します。
そして、富裕な実家からの援助で京都まで大名旅行をして、義時とは違って知性と教養に溢れた歌人であり、由緒ある小野宮邸を伝承していてそれなりに豊かでもあった源具親と結婚し、幸せに暮らしていたところ、建仁三年(1203)九月、鎌倉で比企氏一族が滅亡するという大事件が発生したものの、既に実家と離れていた「姫の前」まではさすがに陰険な北条一族も手を出さず、「姫の前」は翌元久元年(1204)、無事に輔通を生んだ、ということになります。
さて、私が最後まで分からなかったのは「姫の前」と源具親の接点です。
この点、森幸夫氏は、

-------
源具親は能登守時代、姫前の実家比企氏─当時は比企能員が当主で能登守護であったとみられる─との関係が生じていた可能性があろう。それがどのようなものであったかは不明だが、同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じたとみることはさほど困難ではない。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10188

などと言われていますが、いくら何でも不自然であり、私は比企家の京都人脈ではなかろうかと考えていました。
ただ、「姫の前」と義時の間の三人の子のうち、ただ一人生年未詳の竹殿は、まるで母「姫の前」の人生を反復するかのように、大江広元の息子・親広と離縁した後、土御門定通と再婚しています。
この竹殿の動向から見ると、竹殿の生年は割と早く、朝時に近いと考えるのが自然です。
とすると、重時が生まれるまでの間に若干の空白期間が想定できます。
他方、源具親は九条兼実のライバル・源通親に近い存在であり、通親と頼朝の関係を考えると、大姫入内の問題に「姫の前」も絡んだのではないか、という微かな可能性が出てきます。
頼朝としては、大姫入内の準備工作に「姫の前」を参加させ、「姫の前」は頼朝の要請で京都に行き、そこで通親との接点が生まれ、具親との再婚のきっかけも生まれたのでなかろうか、というのが現時点での私の仮説です。

大江広元と親広の父子関係(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11008

ま、最後の方は史料的な裏付けを取ることが難しい話になってしまいますが、人間の心理としては、けっこう自然ではないかと思います。
いずれにせよ、比企氏の乱の直後に「姫の前」が義時から離縁され、直ちに京都に行って源具親と再婚し、子供を産んだという従来説はあまりに乱暴です。
私としては、森幸夫・呉座勇一・細川重男・本郷和人氏等のマッチョな研究者に失望した後、女性研究者の山本氏にそれなりに期待したのですが、残念ながら山本氏は従来説に何の疑いも抱いておられないようです。
従って、私としては山本氏が「もっとも北条義時に肉薄していると評価」することはできず、むしろ山本氏は全く的外れな方向にタックルして頓珍漢な義時像を描き出しているのではなかろうか、と思っています。

7289ザゲィムプレィア:2022/01/03(月) 09:14:53
姫の前の離婚の政治面の考察
姫の前の離婚と再婚の時期を比企氏の乱前とした方が自然だという小太郎さんの意見に賛成です。

結婚と離婚の政治的な意味を考えてみました。
北条氏は政子が頼朝の妻であり、舅の時政が頼朝を旗揚げ以来支援してきて幕府で枢要な地位を占めるとともに家の勢力を伸ばしてきました。
比企氏は比企尼に対する頼朝の信頼が篤く、頼朝の勢力が拡がるにつれ一族の人間が重用されて、家の勢力を伸ばしてきました。
比企能員の娘の若狭局が頼家の妻になり、二人の間に一幡が生まれ、将来将軍になることが予想されます。
そうなれば政子がいるために北条氏が占めていた特別な地位が比企氏に移ることになります。
それを北条氏が喜ぶはずもなく、比企氏もそれを認識していたでしょう。この地位の交代を円滑に進めるためのキーパーソンは、家督継承者であり既に十三人の一人になっていて姫の前と結婚している義時です。
北条氏の家督となる義時を適切に処遇し続ける、両氏の間にトラブルが発生した場合、必要なら家督同士が直に話合い解決を図る。これを比企氏の基本方針とするべきでしょう。
姫の前と義時の結婚は比企氏と北条氏の間の問題であり、姫の前の感情でどうにかなる問題では無いでしょう。もし彼女があえて離婚を望めば、
比企氏としては彼女を尼にするか或いは比企郡に逼塞させて示しをつけ、替わりの一族の女性(比企能員の娘ならベスト)を妻として差し出すのではないでしょうか。
しかし、そのようなことが起きた形跡はありません。吾妻鏡は義時と姫の前の結婚を隠していないのですから、もし義時が別の比企氏の女性と再婚していればそれを隠さなかったでしょう。
離婚が乱前ということは、北条氏と比企氏の間の亀裂を隠せなくなった或いは隠す気が無くなったということを意味するのではないでしょうか。

史料の裏付けの無い考察ですが、コメントを頂ければ幸いです。

7290鈴木小太郎:2022/01/03(月) 10:29:16
大河ドラマ愛好家さんのコメントへの回答
元旦の投稿「山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)」に対して、当掲示板の投稿保管用のブログ「学問空間」で「大河ドラマ愛好家」さんから長文のコメントをいただきましたので、こちらで回答致します。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbb758c478c7f129d484d1f22237669

まず、

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『葉黄記』6月2日条を見ますと、葉室定嗣が顕親出家の知らせを受けたのは定通が送った使者からでした。また、6月5日に定嗣は定通と面会しています。これらの点から、『葉黄記』に記載された顕親の年齢は正確と判断してよいと思いました。それに、顕親が出家した霊山は定嗣の一族が多くいた場所です(注)。この点も、記事の正確性を示すものと思います。
(注)林譲「南北朝期における京都の時衆の一動向―霊山聖・連阿弥陀仏をめぐって―」(『日本歴史』第403号、1981年)で指摘されています。
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との点ですが、そもそも葉室定嗣とはいかなる人物かを確認しておきます。
『朝日日本歴史人物事典』によれば、葉室定嗣は、

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没年:文永9.6.26(1272.7.22)
生年:承元2(1208)
鎌倉中期の公卿。承久の乱(1221)の首謀者として誅された権中納言藤原光親の子。母は参議藤原定経の娘。初名光嗣,次いで高嗣,定嗣。建保2(1214)年叙爵。但馬守,美濃守,蔵人,弁官を歴任し,仁治2(1241)年に蔵人頭。翌年参議となって公卿に列する。摂関家九条流に仕え,二条良実の政治顧問となる。また後嵯峨天皇の側近としても活動し,寛元4(1246)年に九条家が没落すると専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった。大蔵卿,左兵衛督,検非違使別当に任じて宝治2(1248)年に権中納言。後嵯峨上皇の第一の側近として大納言を望んだが,家格のゆえに果たさなかった。日記があり,『葉黄記』という。
(本郷和人)

https://kotobank.jp/word/%E8%91%89%E5%AE%A4%E5%AE%9A%E5%97%A3-1102018

という人で、土御門顕親が出家した宝治元年(1247)六月の時点では、前年の九条家没落を受け、「専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった」立場です。
仁治三年(1242)の後嵯峨即位に多大の貢献をした土御門定通は、寛元四年(1246)の後深草天皇への譲位以降も後嵯峨院政において権勢を誇っていたので、その息子が出家してしまったことは貴族社会の大事件であり、土御門定通と「後嵯峨上皇の第一の側近」である葉室定嗣との間には密接な連絡の必要が生じることになります。
従って、定嗣の日記『葉黄記』は顕親出家に関する信頼できる一次史料であることは間違いなく、この点は私にも異存はありません。
しかし、この顕親出家騒動において、顕親の年齢それ自体が重要なのか。
顕親の出家時の年齢が二十六歳か二十八歳かで、出家騒動の様相が変わってくるのか、そして葉室定嗣の出家騒動に関する認識が変わってくるのかというと、そんなことは全然ありません。
定嗣は別に顕親の親戚でも何でもなく、顕親の生年に特別な関心を抱くような立場ではなくて、たまたまこの出家騒動の経緯を日記に記録するに際して顕親の年齢もメモ程度に記しただけです。
従って、聞き違い、記憶違い等の可能性は否めません。
次に『公卿補任』の信頼性についてですが、

-------
次に『公卿補任』に記載された年齢に誤りが多いことは、以下の例を思い出しました。
●平重盛
日下力先生 『平治物語の成立と展開』(汲古書院、1998年)
「重盛の生年については、保延三年あるいは同五年とする誤りが多い。『公卿補任』記載の年齢に混乱があるからで、『山槐記』並びに『玉葉』所引『頼業記』には、重盛の死を報じて「四十二」とあり、逆算すれば保延四年の誕生となる」
●藤原茂範
小川剛生先生「藤原茂範伝の考察ー『唐鏡』作者の生涯ー」(『和漢比較文学』第12号、1994年)
「茂範は経範の長男である。生母は不明。生年は『公卿補任』文永十一年(一二七四)条の「非参議従三位藤茂範(三十九)」から逆算した嘉禎二年(一二三六)説があるが、明らかに誤りである」
●京極為教
井上宗雄先生『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006年)
「頼綱女との間の三男が為兼の父為教である。これも上記石田論文(引用者注:石田吉貞「法服源承論」)に周到な考察がある。すなわち『明月記』安貞元年(一二二七)閏三月二十日にみえる、為家の冷泉邸で出生した男子が為教と推定される(『公卿補任』『尊卑分脈』の弘安二年〈一二七九〉五十四歳没とある享年は非)
●豊臣秀吉
桑田忠親先生『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975年)
「第一、天文五年説の唯一の根拠となっている『公卿補任』の記事も、いわゆる、当時における書き継ぎの記録であり、理屈からいえば誤りはまったくないはずだが、事実としては錯誤も生ずるのである。ことに、人物の姓名の下に注記した年齢にいたっては、それが、果たして何を根拠としたものか、推測に苦しむ。その一々を、当人に聞きただして書いたという証拠でもあれば、結構だ。が、そうでない限りは、伝聞によって書いたに相違ない」
たぶん山本さんは、このような点も踏まえて、『葉黄記』を優先したんだと思います。ご参考になりましたら幸いです。御研鑽をお祈りいたします!
-------

との御指摘を見て、豊臣秀吉まで広げても、この程度の誤記しか見つからないのか、と私は吃驚しました。
実は私も『公卿補任』の年齢の誤りについて別の例を調べたことがあります。
それは後深草院二条の父、中院雅忠についての記述です。
雅忠は文永九年(1272)に四十五歳で死んだと記されているので、逆算すると、安貞二年(1228)生まれのはずですが、『公卿補任』をずっと追ってみると非常に奇妙なねじれがあります。
即ち、正嘉三年(正元元年、1259)までは単純に一歳ずつ加算されていて、同年に三十五歳になっているのに、翌正元二年(1260)、突如として三十三歳になってしまっており、ここで三年のずれが生じます。
『公卿補任』自体に矛盾があり、雅忠は嘉禄元年(1225)生まれの可能性もあるのですが、まあ、これはある時点で誤記に気づいたということだろうと思います。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その10)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10183

さて、土御門顕親の出家時の年齢について『葉黄記』と『公卿補任』のいずれが信頼できるか、という問題に戻ると、私はやはり「書き継ぎの記録」である『公卿補任』の方が信頼性が高いと思います。
既に紹介しているように、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付は、

-------
貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240

という具合いに相当詳細であり、記録に連続性があります。
『公卿補任』の年齢の誤記は、貴兄が十二世紀から十六世期まで調べても僅か四例しか見つけることのできないとのことなので、もともと顕親の生年に特に関心のない葉室定嗣の単発の記録より『公卿補任』の方が信頼性が高い、と考えるのが常識的ではないかと思います。

7291:2022/01/04(火) 09:08:54
葉室
小太郎さん
https://localplace.jp/t000174614
昔、この掲示板で、後鳥羽院の側近・葉室光親を悼んで、次のような駄歌を詠んだ記憶があります。
灌仏会
「この甘茶がいいね」と君が言ったから 四月八日は葉室幼稚園

姫の前に関する小太郎さんの新解釈によって、従来の学説が綺麗に覆るような気がします。

7292鈴木小太郎:2022/01/04(火) 16:28:10
土御門定通が処罰を免れた理由(再論)
「大河ドラマ愛好家」さんと私の地味なバトルはブログのコメント欄で続いていて、『公卿補任』の記載に何か問題があるようですが、今のところは先方の出方待ちです。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f11fffa1cf848113140648d3ec4984

この地味バトルでは何となく土御門顕親の生年が論点になっていますが、私は別に顕親が承久四年(貞応元、1222)生まれであっても困る訳ではありません。
承久の乱の終結は承久三年六月十五日ですが、その後、竹殿が土御門定通に再嫁して翌年顕親を生んだとすると、竹殿が妊娠するまではどんなに長くても八か月程度です。
京都守護でありながら幕府を裏切った前夫(大江親広)が行方不明になった後、ただちに再婚すること自体が些か妙な感じがする上に、新しい夫・土御門定通も後鳥羽方で戦闘に参加していた人ですから、処刑・配流等の処罰を受ける可能性も相当あった立場です。
そんな状況下で、再婚して子作りに励みましょう、というお茶目な行動を取っていたら、夫婦そろって相当に能天気なのではないか、という感じがします。
そして、結果的に定通が全く処罰されなかったことをどう説明するのか、という重大な問題があります。
念のため確認しておくと、承久の乱に際して、定通がそれなりの軍事的活動をしていることは『吾妻鏡』承久三年六月八日条に出ています。

-------
寅刻。秀康。有長。乍被疵令歸洛。去六日。於摩免戸合戰。官軍敗北之由奏聞。諸人變顏色。凡御所中騒動。女房并上下北面醫陰輩等。奔迷東西。忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等云々。次有御幸于叡山。女御又出御。女房等悉以乘車。上皇〔御直衣御腹巻。令差日照笠御〕。土御門院〔御布衣〕。新院〔同〕。六條親王。冷泉親王〔已上御直垂〕。皆御騎馬也。先入御尊長法印押小路河原之宅〔号之泉房〕。於此所。諸方防戰事有評定云々。及黄昏。幸于山上。内府。定輔。親兼。信成。隆親。尊長〔各甲冑〕等候御共。主上又密々行幸〔被用女房輿〕。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等」とあるように、定通は戦場に向かっていますね。
ここで定通は一歳上の同母兄「内府」源通光(三十五歳)や四条隆親(十九歳)のように甲冑を着けていると明記されている訳ではありませんが、後鳥羽院の御幸に同行するより遥かに危険な任務を遂行している訳ですから、当然に甲冑を着ていたのでしょうね。
そして官軍の敗北後、源有雅は甲斐で、藤原範茂は相模でそれぞれ誅殺され、坊門忠信はいったんは死罪と決まったものの、妹で実朝未亡人、西八条禅尼の懇願で流罪に変更され、辛うじて首の皮一枚で命がつながっています。
しかし、定通は最初から処断の対象にならなかったばかりか、正二位権大納言の地位もそのままです。
この処遇の差はいったい何なのか。
ま、定通が承久の乱の前に既に竹殿の夫であったためだろうと私は考えます。

土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10244

>ザゲィムプレィアさん
>姫の前と義時の結婚は比企氏と北条氏の間の問題であり、姫の前の感情でどうにかなる問題では無いでしょう。もし彼女があえて離婚を望めば、比企氏としては彼女を尼にするか或いは比企郡に逼塞させて示しをつけ、替わりの一族の女性(比企能員の娘ならベスト)を妻として差し出すのではないでしょうか。

率直に言って、私はザゲィムプレィアさんの見解に全く賛成できません。
「姫の前」が主体性のない女として、比企家当主の命令のままに動く存在であるかのように考えるのは誤りだろうと思います。
そうした人物像は「権威無双の女房」という『吾妻鏡』の描写にそぐわないですね。
私が考える「姫の前」は頭の回転が速く、自分の意見をはっきり言い、しかも存在するだけで周囲が明るくにぎやかになるような華やかな女性です。
幕府の創業期が終わって、二代目・三代目の世代になると、家格や女性の役割が固定化され、女性が活躍する余地も狭まったでしょうが、創業期はまだまだ緩くて、才能に恵まれた女性は個性的な生き方が可能だったように感じます。
何より北条政子や板額御前がいた時代ですからね。

>筆綾丸さん
>葉室幼稚園
葉室定嗣が中興の祖である浄住寺のすぐ隣なんですね。
何か関係があるのかは分かりませんが。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E4%BD%8F%E5%AF%BA

7293鈴木小太郎:2022/01/05(水) 11:42:43
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち
『史伝 北条義時』(小学館、2021)の「あとがき」には、

-------
 岡山に生まれ育った私は、歴史を学ぶなら京都に行こうという単純かつ明快な理由から京都の大学に進学した。ここから大学・大学院とあわせて、十年もの間を京都で過ごすことになる。京都では、上横手雅敬先生・野口実先生・元木泰雄先生・美川圭先生といった第一線の中世史研究者からご指導を賜った。
-------

とありますが(p298)、学部は京都女子大だそうですから野口実氏の影響が一番強そうですね。
また、

-------
 なお、小学館から刊行されている雑誌『サライ』のウェブサイトでは、政子や牧の方など義時を取り巻く女性たちについて綴った文章を連載しているので、本書と合わせて読んでいただきたい。義時周辺の人間模様が、より立体的に描けるようになるはずである。
-------

とのことなので、『サライ』サイトで読んでみたところ、「京都政界に人脈を誇った北条時政の若き後妻 牧の方―北条義時を取り巻く女性たち3【鎌倉殿の13人 予習リポート】」は特に面白いですね。
この記事には、

-------
1226年11月、牧の方は上洛し、翌年正月23日、娘婿藤原国通の有栖川邸において、時政の十三回忌供養を執り行った。供養は、娘たちのほか、国通や冷泉為家ら公卿6名、殿上人10名、諸大夫数名が出席するという盛大なもので、牧の方のもつ人脈の広さがうかがえる。
さらに、供養の後には、宇都宮頼綱に嫁いだ娘と孫娘(冷泉為家の妻で妊娠7、8カ月か)を引き連れて、天王寺や南都七大寺に参詣している。歌人藤原定家(為家の父)は、嫁の体調を心配し、日記に「身重の女性を連れて行くとはいかがなものか」と不満を記しているが、牧の方にとってはどこ吹く風、親子三世代で遠出を楽しんだようである。すでに60代と推定されるが、なかなかパワフルな女性であった。

https://serai.jp/hobby/1033821

という指摘があります。
また、「続々と京都の貴族に嫁いだ、北条時政の後妻 牧の方所生の娘たち―北条義時を取り巻く女性たち4【鎌倉殿の13人 予習リポート】」に登場する牧の方の三女について、

-------
三女は、武士の宇都宮頼綱(1172〜1259)に嫁ぎ、女子と男子(泰綱)を産んでいる。長女と同様、政子が危篤に陥った際には、京都から関東に下向しており、姉妹の関係は良好であったことがわかる。
1233年、三女は47歳にして62歳の松殿師家(1172〜1238)と再婚した。頼綱と離縁した時期や理由は不明であるが、前夫と娘に再婚を知らせる便りを送っている。中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができたから、この年齢での再婚も驚くことではない。

https://serai.jp/hobby/1036729

とありますが、「中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができた」という指摘は重要ですね。
さて、山本氏はこのように義時周辺の「なかなかパワフルな女性」たちに注目されながら、「姫の前」については、その評価はずいぶん消極的です。
山本氏は「三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう」(p91)、「彼女とは、およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていた」(p126)などと言われますが、子供が多いことから「琴瑟相和す夫婦」と決めつけるのは現代的な「良妻賢母」的発想じゃないですかね。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1) (その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11080
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081

義時周辺の「なかなかパワフルな女性」を正確に認識できる山本氏が、「姫の前」に限っては森幸夫・呉座勇一・細川重男・本郷和人氏等のマッチョな研究者と同じような女性像を想定するのは、結局のところ義時が書いたという起請文の呪縛ではなかろうかと思います。
神仏に離縁しないと誓った以上、その結婚は永遠なのだ、それを破った義時は苦悩に打ちひしがれたに違いない、とマッチョな研究者たちは思い込んでいますが、起請文を書いたのは義時だけ、という一番単純な事実を忘れていますね。
ここは「中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができた」という、多くの研究者が同意できるであろう認識に戻って、起請文など書いていない「姫の前」には離縁の自由があったと素直に考えるべきです。
重時が生まれた建久九年(1198)までの七年間はともかく、義時と「姫の前」が「およそ十年連れ添」ったとの史料的裏付けはありません。
「姫の前」が「権威無双の女房」であり、鎌倉から京都に移動して貴族と再婚した「なかなかパワフルな女性」であることを考えれば、源頼朝という「かすがい」ないし桎梏が死去した建久十年(1199)以降、ある時期に「姫の前」から離縁の申し出があって、二人は離縁した、と考えるのが自然です。
そして、その時期が早ければ早いほど、義時の心理的負担は減少し、比企氏の乱で率先垂範して比企邸に殴り込みをかけることができたはずですね。

7294鈴木小太郎:2022/01/05(水) 13:33:49
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち(補遺)
山本氏は『サライ』サイトで、「姫の前」についても「出逢いと別れはどう描かれる? 義時の最初の正妻、絶世の美女・姫の前―北条義時を取り巻く女性たち5【鎌倉殿の13人 予習リポート】」という記事を書かれていますが、これは『史伝 北条義時』と同じ内容ですね。

-------
さて、困ったのは義時である。自分の一族と妻方の一族が対立することになった。相当な苦悩があったと思われるが、親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない。義時は、父時政の命令に従い、武士たちを率いて比企一族を滅ぼした。
当然、これまでのように夫婦生活を送ることはできない。姫の前は義時に離別され、3人の子を残して、鎌倉を去った。
程なく上洛し、貴族の源具親(みなもとのともちか)と再婚。翌1204年には輔通、次いで輔時を出産するが、1207年3月にその短い生涯を終えた。鎌倉を去ってから、わずか3年後のことであった。

https://serai.jp/hobby/1041312

「親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない」というのはどうにも変で、義時と政子は二年後の「牧氏の変」で時政と牧の方を鎌倉から追放しますから、少なくとも義時と政子にとっては「親権が絶対」ということはないですね。
なお、山本氏が紹介されている、

【北条義時】ヨシトキ君の恋バナ聞いちゃったよ!【鎌倉国宝館×鎌倉歴史文化交流館】
https://www.youtube.com/watch?v=By9xprpGJ9k

を見たところ、次のような悲しいやり取りがありました。

-------
とにもかくにも、ヨシトキ君は一目ぼれの人と結婚できたからハッピーエンドってことだね!
「いやいやいや、そんなに幸せな時間は長くは続かなかったんだ。頼朝様が亡くなったあと、頼朝様の長男頼家様が鎌倉殿になるんだけど、その頼家様が病気になってしまい、またまた次の鎌倉殿を選ばないと、って話になったんだ。
それで北条氏は頼家様の弟の千幡様(11歳)を、姫の前の生家、比企氏一族は頼家様の息子一幡様(6歳)を推して対立してしまい戦うことに……。僕は武士たちを率いて比企氏一族を滅ぼしたんだ」
それって、ヨシトキ君と姫の前の関係はどうなるの?
「そう、僕が先頭を切り姫の前の生家である比企氏一族を滅ぼしたんだから………。やっぱりね。離れるしか道はなかったんだ」
結婚している相手の一族と戦うなんて残酷な出来事だな。
「うん、800年経っても忘れらないよ。あの戦いのことも、姫の前のことも。姫の前との間には二人の子供もいたしね」
その後の姫の前はどうしたんだろう。
「僕と離れてからの姫の前は京に引っ越し、しばらくして貴族と再婚したらしい。幸せだったらそれでいい、幸せを願うしか僕にはできないから」
そういえば、ソレちゃんは姫の前にそんなに似ているの?
ヤッダー!
「うん、髪の毛が長くて黒いところなんて、そっくりだよ!」
そこ!?
よし! 元気出せ! ヨシトキ君! 夕日に向かって走るよ!
「よく分らないけど、いくよ」
おー!!
-------

「姫の前との間には二人の子供もいたしね」は変で、実際には朝時・重時・竹殿の三人ですね。
監修者は山本氏ではなさそうです。

7295:2022/01/06(木) 12:40:34
女のgenealogy
初歩的な疑問で恐縮ですが。
?姫の前の父・朝宗の朝は頼朝の偏諱、息・朝時の朝は実朝の偏諱、ということか。
?竹御所が若狭局(能員の娘)の娘だとすると、姫の前の娘・竹殿といい、比企氏の血をひく女性の通称に、松でも梅でもよいはずなのに、なぜ竹の字が重複するのか。何か意味があるはずである。この竹の重複は何を暗喩するのか。

付記
竹はパンダの主食というような知識は鎌倉時代にはおそらくなく、また、爺臭い竹林七賢も関係ないだろう。比企氏の家紋には竹の葉の図柄があり、武蔵国比企郡及び鎌倉比企谷は筍で有名であった、というのは、ドコモダケならぬ孟宗(妄想)竹である。

7296鈴木小太郎:2022/01/06(木) 14:22:41
『鎌倉殿の13人』における「姫の前」の不在
「姫の前」と義時の関係は、その結婚に至る経緯が「ヨシトキ君の恋バナ」として面白い上に、通説、というか私の超絶単独説以外の定説では最後に悲劇的結末が待っているので、これまた視聴者の涙を誘って大いに盛り上がりそうです。
従って、大河ドラマに「姫の前」が登場しないはずはないと思うのですが、不思議なことに、「鎌倉殿の13人」サイトを見ても、「姫の前」のいるべき場所は未だに空白です。

https://www.nhk.or.jp/kamakura13/cast/01.html

私としては、ナレーターの長澤まさみが怪しいと思っていて、長澤まさみは「権威無双の女房」として最も適役のように思われるので、実は彼女が「姫の前」でした、という展開になるのではないかと疑っています。
当たれば自慢したいので、ここに記しておきます。
なお、ツイッターで相互フォローしているエミさんは、

-------
初恋の人・八重役の新垣結衣ちゃんが2役やるっていうのはどうでしょう?
初恋の人に似てるから好きになった説。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1478592840007831552

という説を提唱しておられます。

>筆綾丸さん
>?姫の前の父・朝宗の朝は頼朝の偏諱、息・朝時の朝は実朝の偏諱、ということか。

前者は分かりませんが、朝時は『吾妻鏡』建永元年(1206)十月二十四日に「相州二男〔年十三〕於御所元服。号次郎朝時」とあるので、実朝の偏諱でしょうね。

「吾妻鏡入門」(『歴散加藤塾』サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma18d-10.htm

>?竹御所が若狭局(能員の娘)の娘だとすると、姫の前の娘・竹殿といい、比企氏の血をひく女性の通称に、松でも梅でもよいはずなのに、なぜ竹の字が重複するのか。

これは私も前々から気になっているのですが、ちょっと分からないですね。

7297鈴木小太郎:2022/01/06(木) 14:32:56
資本主義は「宗教」なのか。
中世史の話題は大河ドラマの進展に合わせて随時取り上げることにして、そろそろ「新しい資本主義」の問題に戻ります。
正月三日、Eテレで夜十時から「100deパンデミック論」という番組をやっており、司会者の伊集院光以下、斎藤幸平(経済思想家w)・小川公代(英文学者)・栗原康(政治学者)・高橋源一郎(作家)といった、頭が悪いか性格が悪いか、もしくは両方を兼ね備えた人たちが「白熱トーク」をやっていました。

-------
古今東西の「名著」を、25分×4回=100分で読み解く「100分de名著」。スペシャル版として「100分deパンデミック論」を放送します!
今回は、「パンデミック」がテーマ。多角的なテーマから名著を読み解くことで、「パンデミックとの向き合い方」について考察します。
通常の4回シリーズではなく、100分間連続の放送でお届けします。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2022special/

私も最初の二十分ほど見て、予想通り陰気で知的水準の低い番組であることを確認してから「マツコの知らない世界大新年会SP」に変えましたが、斎藤幸平氏は、まあ、よくしゃべる人間ですね。
あれだけ無内容なことを連続的に話す能力は私にはなくて、その点は敬意を表したいと思いました。
さて、コミュニズムは貧乏神を信仰する新興宗教、というのが私のかねてからの持論なのですが、そうはいっても、旧来のコミュニズムは貧乏が正しいなどとは絶対に主張せず、生産力=富の増大と公平な分配を主張しつつも、実際にはそれがうまく機能せず、結果的に社会の全体的な窮乏化をもたらす宗教でありました。
この点、斎藤氏は貧乏それ自体が正義であることを確信しており、みんなで貧しくなろう、それもなるべく早く、という「加速主義」ですね。
斎藤理論は確かにある意味ではコミュニズムのコペルニクス的転回であり、すごいといえばすごいですね。
ところで、コミュニズムが何故「宗教」かというと、それはコミュニズムが「殉教者」を伴うからです。
マルクスの『資本論』等のコミュニズムの「根本聖典」自体に「殉教者」を要求する主張があるかというと、そこは若干の議論が必要でしょうが、少なくともレーニンは明らかに「殉教者」を求めていますね。
そして、理論ではなく現実の歴史を振り返れば、コミュニズムの歴史は夥しい「殉教者」に溢れています。
戦前の日本に限っても、『しんぶん赤旗』の記事によれば、

-------
1925年施行の治安維持法は、太平洋戦争の敗戦後の45年10月に廃止されるまで、弾圧法として猛威をふるいました。拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-09-22/20050922faq12_01_0.html

とのことで、この全部がコミュニストという訳ではありませんが、「転向」を肯ぜず、思想に殉じたコミュニストの数は大変なものですね。
また、戦後は、いわゆる「新左翼」の「内ゲバ」で百人近い犠牲者が出ており、これも当該組織を離れれば殺されることはなかったのに、離脱せずに結果的に死に至った人々ですから「殉教者」に含めることができるはずです。
このように、コミュニズムは多数の「殉教者」を伴う「宗教」ですが、では資本主義は「宗教」なのか。
マックス・ウェーバーは資本主義とプロテスタンティズムの関連を追求しましたが、日本のように住民の多数がキリスト教を受けれなかった土地でも資本主義は根付いているので、資本主義とプロテスタンティズムの結びつきは必然的なものではないですね。
ただ、そうはいっても、資本主義に「殉教者」が伴うならば、プロテスタンティズムとの関係とは別の意味で、資本主義を「宗教」と呼ぶこともできそうです。
果たして資本主義の歴史の中で「殉教者」はいたのか。

7298:2022/01/07(金) 13:01:51
受信料
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/Q69QJ41RGW/
間違って、この番組を見てしまいました。
坂井孝一氏は平凡なことしか言わず、井上章一氏は食えない人で、中野信子氏は脳科学者(?)らしくトンチンカンなおしゃべりをしてました。受信料の無駄遣いとしか思えない内容でした。

7299鈴木小太郎:2022/01/07(金) 21:16:43
資本主義は「プラクティス」としての「宗教」か。
資本主義に「殉教者」はいるのか、とか大仰なことを書きましたが、コミュニズムと違って資本主義は基本的に体制側の理念・思想なので、「殉教者」が必要になる状況自体が考えにくいですね。
ま、ロシア革命やキューバ革命などは「殉教者」が登場してもおかしくない事態でしたが、革命的争乱の中で、自分個人の財産権を守るために命を捧げた人は多くとも、資本主義という理念・思想を守るために命を懸けた人はあまりいなさそうです。
もう少し広く、「自由」を守るために命を懸ける、となるとそれなりに格調が高く、「殉教者」も多少はいそうですが、資本主義≒経済的自由に限定してしまうと、いささか格調が低くなり、「殉教者」は生まれにくいですね。
従って、「殉教者」がいないから資本主義は「宗教」ではないのだ、という結論になりそうですが、しかし、そもそも前提として「宗教」をどう定義するか、という問題があります。
先にコミュニズムについて検討した際に、「コミュニズムは貧乏神を信仰する新興宗教、というのが私のかねてからの持論」などと書きましたが、こうした悪意のある冗談ではなく、真面目にコミュニズムは「疑似宗教」だ、みたいなことを言う人はけっこう多いと思います。
これは国際日本文化研究センター教授の磯前順一氏風に言うと、コミュニズムが「ビリーフ」っぽいからですね。
磯前氏の『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』はなかなか難解なので、石川明人氏の『キリスト教と日本人』(ちくま新書、2019)から、そのエッセンスを紹介すると、

-------
 磯前順一は『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』のなかで、日本語で「宗教」に統一される前の religion の訳語には、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)を中心としたものと、「ビリーフ」(概念化された信念体系)を中心とするものとの二つの系統が存在していたと述べている。前者には「宗旨」「宗門」など、後者には「教法」「聖道」「宗教」などが例としてあげられている。
 そして彼によれば、一九世紀後半に religion の概念をもたらしたと同時に日本へのキリスト教宣教の主流となったプロテスタントは、儀礼的要素を廃するビリーフ中心のものであり、プラクティスを中心とした近世日本的な「宗旨」の概念とは嚙み合わなかったため、religion の訳語としてはビリーフ系統の「宗教」が選ばれることになったのではないか、という(三六〜三七頁)。
 一九世紀後半は、「宗教」という日本語も、「キリスト教」という日本語も、ともにまだ出来たばかりのものであった。それらがいったい何なのか、どう理解すべきかについては、当事者たちのあいだでさえしばらくは不安定なものだったのである。
-------

といった具合です。(p217以下)
この磯前理論を前提とすると、「殉教者」のいない資本主義は「ビリーフ」(概念化された信念体系)的な宗教ではないとしても、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)的な宗教の可能性は残ります。
またまた悪意のある、しかも更に出来の悪い冗談を言い始めたな、と思われる方がいるかもしれませんが、苛烈な競争を伴う資本主義が利潤追求のために膨大な数の死者を生み出してきたことを考えると、これらの死者は資本主義の神に捧げた「生贄」ではなかろうか、という見方も、まんざら冗談でもない響きを帯びてくると思います。
営利企業のあくなき利潤追求の過程で生じた労働災害による死者、競争社会の精神的重圧に追い詰められた自殺者、更に斎藤幸平氏が問題にするような環境破壊による死者等々、資本主義はその成立期から現在に至るまで、膨大な数の労働者・市民に死を要求してきたことは紛れもない事実です。

-------
磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』(岩波書店、2003)

日本において,「宗教」概念はどのように誕生したのか.「宗教」という視座によって,従来の心性構造はいかに変貌し,いかなる言説の空間が開かれたのか.「宗教」概念が導入された幕末,「政教分離」の成立した明治20年代,そして「宗教学」が構築された明治30年代に焦点をあて,近代日本における「宗教」の命運をたどる.

https://www.iwanami.co.jp/book/b264880.html

-------
石川明人『キリスト教と日本人─宣教史から信仰の本質を問う』(ちくま新書、2019)

日本人の九九%はキリスト教を信じていない。世界最大の宗教は、なぜ日本では広まらなかったのか。宣教師たちは慈善事業や教育の一方、貿易、軍事にも関与し、仏教弾圧も指導した。禁教期を経て明治時代には日本の近代化にも貢献したが、結局その「信仰」が定着することはなかった。宗教を「信じる」とはどういうことか?そもそも「宗教」とは何か?宣教師たちの言動や、日本人のキリスト教に対する複雑な眼差しを糸口に、宗教についての固定観念を問い直す。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480072344/

>筆綾丸さん
『英雄たちの選択』は磯田道史氏が苦手なので見ていませんが、「北条義時・チーム鎌倉の逆襲」は井上章一氏が出たのですか。
正直、専門的知識のない井上氏が何のために出てくるのか、よく分らないですね。
国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏による井上所長への忖度、おべんちゃらでしょうか。

7300キラーカーン:2022/01/08(土) 00:09:42
そういえば
>>コミュニズムは「疑似宗教」だ、みたいなことを言う人はけっこう多いと思います

多分『ソビエト帝国の崩壊』だと思いますが、小室直樹は、宗教をマックスヴェーバー流に

『ある個人に一定の行動様式を形成させる一定の心理的なもの』(うろ覚えですが)

と定義すれば、共産主義のような「イデオロギー」も十分「宗教」として語るに足るものとなると述べていました。
(小室は、儒教もその意味での「宗教」であるとしています。何故なら、孔子は「怪力乱神を語らず」と多くの宗教が有する超常現象や死後の世界などの分野については何も語っておらず、儒教は祭祀の体系であり、その点において「イデオロギー」に近いとしています。さらに言えば、俗にいう「現世宗教」もその類かもしれません)

7301:2022/01/08(土) 12:35:36
宗教的動機
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166613410
----------
佐藤??大平(正芳)さんはたしかに半端ではない読書家でした。
池上??あと吉田茂がいますね。(中略)
佐藤??もう一人のインテリ総理と言えば、石橋湛山ですね。(中略)そして、大平と石橋の二人に共通しているのは、強力な宗教的動機があることです。
池上??たしかにそうです。
佐藤??大平の場合は、キリスト教プロテスタントのカルヴァン派で、石橋は日蓮宗で得度した僧侶です。二人は政治をやる背景のところに、つまりエトスのところで宗教的動機があって、それが本を読むことにつながっていたんじゃないか。超越的な使命を持っていたという意味では、二人はちょっと珍しいタイプかもしれません。(196頁)
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池上・佐藤両氏が、枝野幸男、志位和夫、不破哲三各氏に言及しているところなどは、まるで漫談のようで笑えます。

7302鈴木小太郎:2022/01/08(土) 21:05:01
磯前順一氏と京極純一氏、そして大平正芳元首相について
私は一時期、磯前順一氏を大変な知識人だと思ってけっこう尊敬していたのですが、東日本大震災以後、磯前氏の著書に何だか違和感を感じるようになり、単著では『死者たちのざわめき 被災地信仰論』(河出書房新社、2015)は納得できず、更に磯前氏が非科学的な反原発活動家である島薗進と共著を出すようになったのを見て、今は全く遠ざかっています。

磯前順一(1961生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E5%89%8D%E9%A0%86%E4%B8%80

ただ、磯前氏の2000年代初めの頃の著書・論文は学問的に極めて洗練されており、明治維新前後の訪日外国人の記録を検討する際には『近代日本の宗教言説とその系譜』は本当に参考になりました。
この掲示板でも2019年に「国家神道」を論ずる際に磯前著を参照しましたが、その際には「宗教」の定義に関して、

-------
訪日外国人の記録を読む際に注意しなければならないのは、日本人との応答において「宗教」という概念について本当に意思疎通ができていたのか、ということですね。
英語圏の人であれば、"religion"という概念を前提に、日本人に対して「お前の"religion"は何か」と聞いているはずですが、"religion"の訳語が「宗教」にほぼ固定されたのは明治十年代に入ってからだそうです。(磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜』、p36)
それ以前はというと、最初に翻訳の必要が生じたのは日米修好通商条約(1858)の時で、この時以来、外交文書ではほぼ「宗旨」が用いられたものの、当時の啓蒙知識人による訳語は様々で、「宗門」「信教」「宗旨法教」「神道」「法教」「教法」「教門」「聖人の道」「聖道」「奉教」などが考案されたそうです。(同、p34)
従って、明治十年代以降はともかく、それ以前は通訳がどのように"religion"を訳したのかもはっきりしないことが多いのでしょうね。
ただ、そうはいっても、意思疎通に不自由な事態が生じた際には、仏教を信じるか、浄土真宗の門徒か、といった具合に、もう少し具体的なレベルに落として応答を重ねたでしょうから、丸っきり頓珍漢なやり取りにはならなかっただろうと想像されます。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10073

てなことを論じていました。
磯前順一・深澤英隆編『近代日本における知識人と宗教─姉崎正治の軌跡─』(東京堂出版、2002)も「宗教学」とは何かを考える上で本当に参考になりました。

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9996
「此等の人々が迷信遍歴者なら、姉崎博士などは宗教仲買人」(by 浅野和三郎)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10012

私もかれこれ三十年近く人文系の研究者の世界を外部から観察していますが、四〇歳前後で学問的にピークを迎える人が多いなと漠然と思っていて、磯前氏もその一人ですね。

>キラーカーンさん
私は小室直樹は全然読んだことがありません。
前にも書きましたが、私の場合は京極純一氏の講義でコミュニズムとキリスト教の類似性の話を初めて聞きました。
非常に醒めた言い方だったので、私はずっと京極氏を無神論者と思い込んでいたのですが、その京極氏が東京女子大の学長になったと聞いたときはちょっと驚きました。

京極純一氏とキリスト教&共産主義
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8208

>筆綾丸さん
>大平の場合は、キリスト教プロテスタントのカルヴァン派

少し検索してみたら、リンク先ブログに「聖公会の信徒として、葬儀は立教学院諸聖徒礼拝堂で行われました」とありますね。

http://people.tenjounoao.com/christian/oohiramasayosi.html

また、住家正芳氏「青年大平正芳と佐藤定吉の「キリスト教」」(『立命館産業社会論集』2019年12月)という論文を読んでみたら、大平正芳が十八歳のときに参加した佐藤定吉の「イエスの僕〔しもべ〕会」というのは、救世軍などに近い運動形態の、当時としても相当に急進的な団体だったようですね。
佐藤定吉は若くして東北帝国大学教授となった化学者で、科学とキリスト教の関係の究明を終生の課題としていたようですが、だんだん国粋主義的方向に進み、現在のキリスト教史では位置づけが非常に難しい存在になってしまったようですね。
晩年には、

-------
 佐藤は,先に挙げた大平の回顧の前年,1937(昭和12)年の年末に『皇国の世界指導原理』と題する共著を出版して「神が,皇国を世界歴史第二の発足点として選んでゐ給ふ事は歴然たる事実」(佐藤・原1937:12-13)であるとしており,「愛国的皇室中心主義」への傾斜をさらに強めていた。昭和10年(1935年)以降の佐藤は『信仰殉国』『国体と宗教』『皇国日本の信仰』『皇国信仰読本』『皇国信仰概説』『皇国神学の基礎原理』『皇国信仰鉄壁の布陣』などのタイトルの著作を矢継ぎ早に出版し(佐藤定吉著書目録:277-278),1941(昭和16)年には「イエスの僕会」を「皇国基督会」と改名するに至る。これは息子である佐藤信の目にも,「確かに戦時中,父は時流に乗って日本精神を強調し,栄光の日本を夢見ていた」ように映ったが,「父の本意は何とかしてキリスト教を日本に土着させたいと念願していた」ようでもあり,「日本精神の完成こそキリスト教の十字架であると信じていた」という(佐藤1970:560)。

http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=450313

といった境地に達していたそうです。
ま、大平正芳はそこまで変化する前に離脱したようですが。
少し興味が湧いてきたので、後で大平正芳の回想録を見て、思想的・宗教的変遷を確認してみたいと思います。

7303:2022/01/09(日) 14:39:40
伝カルヴァン墓
https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%96%E3%81%AE-%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%A2%93%E5%9C%B0-%E3%81%AB%E7%9C%A0%E3%82%8B%E8%91%97%E5%90%8D%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1/46016586
十年程前、ジュネーブ郊外のCERNを訪ねた折、掃苔と称してプランパレ墓地の中をぶらぶらし、大平元総理は訪ねたことがあるのかどうか、知りませんが、伝カルヴァンの墓を見たことがあります。カルヴァンについてはほとんど知識がなく、ふーん、こんなものか、と思っただけで、むしろ、ボルヘスの墓を見たとき、こんなところにあるのか、と驚きました。
ホテルへの帰路、レマン湖の畔で、湖面に戯れる二羽の白鳥に話しかけたのですが、白鳥って、ほんとに人相が悪く、歌舞伎の実悪のようだ、とあらためて思ったものです。

7304鈴木小太郎:2022/01/09(日) 18:33:14
「矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない」
図書館で『大平正芳回想録』(鹿島出版会、1983)を借りたら、「回想録」というタイトルに反して638頁の詳細な伝記で、今はちょっと全部は読めないですね。
住家正芳氏の「青年大平正芳と佐藤定吉の「キリスト教」」に、

-------
 佐藤の講演に感化され,浅間山麓での修養会や青山での講演会に参加した1928(昭和3)年から10年を経た1938(昭和13)年,大蔵省に入省して仙台税務監督局間税部長となっていた大平は,ともに「イエスの僕会」で活動した友人を追悼して次のように回顧している。

 昭和三年から五,六年頃にかけて母校に在学せし諸君は「イエスの僕会」なる団体の
 果敢な活動を記憶されていることと思う。それは当時全国の大学高専を遊説されて多
 数の共鳴者を獲ち得た工学博士佐藤定吉氏の自然科学的宗教観に魅せられた一群の学
 生の結社で,既成の YMCAの萎靡沈滞に対する反動も手伝って或は校庭に或は街頭に
 この群独特の活潑な動きを展開していた。成程初期に於ては運動の焦点の見定めがつ
 かず綱領自体に清算さるべきものもあったので何かしら地につかない突飛な相貌を呈
 していたかも知れない。或は当時の学生層に喰入っていた一般的不安をこう言った側
 面から発散させようとする一つのもがきとして一般に受取られていたかも知れない。
 しかしともかくこの群は一つの異様なセンセーションを校の内外に捲き起し相当優秀
 な学生の多くを自己の陣営に迎えていた。そして彼等は抑え難い内面的闘争と清算の
 過程を辿って或者は基督教の正統に導かれ或者はこれを捨てて行った。
(大平[1938]2010:338)

http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=450313

とありますが、これと同じ文章が『大平正芳回想録』にも載っていて、その後に編者が、

-------
 大平自身は"正統に導かれたもの"か、あるいは"これを捨てたもの"か、この文章ではどちらとも明らかにされていない。しかし、その後を見るとき、彼は、聖書に親しんだ形跡は窺われるにせよ、キリスト者としての自らを強調したこともなく、ましてや伝道の挙に出たこともなかった。そういう点からするなら、おそらく右の一文は"イエスの僕会"に熱中した若き日の自分への別れの言葉であったのであろう。
-------

という見解を述べていますね。(p44)
高松高等商業を卒業した大平は、佐藤定吉のパトロンとなっていた実業家が経営する桃谷順天館という化粧品会社に就職した後、二十三歳のときに東京商大(現・一橋大学)に入学しますが、

-------
 大学へ入学して以後も、正芳のキリスト教への関心は継続し、もっぱら聖書を通じて、信仰を深めようとした。『私の履歴書』によれば、大阪時代から矢内原忠雄の著作には傾倒しており、自由ヶ丘の矢内原邸を訪ねて「聖書研究会」に参加した(ただし、矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない)。
 また、世田谷区東松原の自宅で聖書の講義をしていた香川豊彦の門をたたいたこともあった。【後略】
-------

とのことで(p51)、「矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない」のだから、行ったとしても数回で、目立たない存在だったのでしょうね。
ま、矢内原忠雄の聖書研究会も独特の排他的な雰囲気があったらしく、なじめない人がいたとしても無理はありません。

「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8971
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8977

パラパラ眺めただけですが、結局、この後はキリスト教関係の話は出て来なくて、「エピローグ 永遠の今」に、

-------
 大平首相の遺体は、病理解剖に付されたあと、しばらく地下一階の霊安室に安置された。【中略】遺体の前で顔を合わせる遺族たちの悲嘆を慰めるように、東京聖チモテ教会の沢邦介牧師が"主ありて世を去りし信徒の霊魂安らかにいこわんことを"と祈りを捧げた。
-------

とあり(p614)、聖チモテ教会は聖公会ですから、密葬は聖公会の儀礼で行われたのでしょうね。
ただ、その場所は何故か書いてなくて、「立教学院諸聖徒礼拝堂」だったかは分かりません。
正式な葬儀は「国葬」ではなく、「内閣・自由民主党合同葬儀」として日本武道館で行われたそうですね。(p615)
若い頃を除くと、意外にキリスト教の色彩の稀薄な人生だったようですね。

>筆綾丸さん
>白鳥って、ほんとに人相が悪く、歌舞伎の実悪のようだ、とあらためて思ったものです。

私も東北にいたときに白鳥をやたら観察する機会が多かったので、何だか白鳥は食傷気味です。
確かに悪そうな顔をしていますね。

7305:2022/01/10(月) 14:34:40
娼婦ソーニャ
小太郎さん
大平正芳の『田園都市国家構想』を継承する岸田首相が、愛読書として、ドストエフスキーの『罪と罰』を挙げていたときは、えっ、とまず驚き、ついで、かりにそうだとしても、還暦過ぎの爺さんなら、そんなこと、恥ずかしくて言えないんじゃないの、と二度驚きましたが、あの小説の登場人物のなかでは、娼婦のソーニャだけがキリスト教的で、もし岸田首相がソーニャのファンだとすれば、岸田は大平のキリスト教的な精神の正統な継承者だ、と言えるのかもしれませんね。

昨日、『鎌倉殿の13人』を見て、つまらぬ大河ドラマになるんじゃないか、というような、いやーな予感がしました。
追記
こういう真面目な見解もありますが。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91246?imp=0

7306ザゲィムプレィア:2022/01/10(月) 20:36:15
呉座勇一氏のレビューについて
筆綾丸さん
呉座氏は工藤祐経にふれていないですね。定説では祐経は祐親により京に送られ貴人に仕え雅な人間に仕上がり、頼朝に気に入られ側近になっています。
ドラマでは浮浪者のようなキャラクターで現れて頼朝に仕えるようになり、千鶴丸が殺されて頼朝に祐親の殺害を指示されました。
曽我兄弟の仇討について、頼朝もターゲットだったという説があります。三谷氏はそのようにストーリー展開するするつもりで伏線を張ったのかもしれません。

7307鈴木小太郎:2022/01/11(火) 11:20:31
斎藤幸平『人新世の「資本論」』についてのまとめ
そろそろ資本主義は「宗教」なのか、というコンニャク問答は終わりにしたいと思いますが、仮に資本主義が「宗教」であるとしたら、その神はヤヌスのように、少なくとも二つの顔を持っていますね。
ひとつは豊穣を約束する顔であり、もうひとつは生贄を求める残酷な顔です。
ただ、生贄を求めるのはコミュニズムも同じであり、資本主義が求めた生贄の人数とコミュニズムが求めた生贄の人数を比べたら、まあ、スターリンの大粛清や毛沢東の文化大革命、更にポルポト率いるクメール・ルージュの大虐殺等々の輝かしい歴史を誇るコミュニズムの方が優勢でしょうね。
さて、去年、というか先月の13日に「私も「新しい資本主義」について考えてみた。」という投稿をして以降、主として自称・経済思想家、客観的にはマルクス考古学者の斎藤幸平氏の著書『人新世の「資本論」』を検討してきました。

-------
【「新書大賞2021」受賞作!】
人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。
気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。
それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。
いや、危機の解決策はある。
ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。
世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!

https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/

ただ、これはもちろん同書が素晴らしい著作だからではありません。

斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その1)〜(その7)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11036
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11040
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11042
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11043
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11047
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11048
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11049

斉藤氏がアメリカ出羽守でもドイツ出羽守でもなく、実は日本出羽守であったというのは私にとっても意外な発見でした。
斎藤氏は「Deutscher Memorial Prize(ドイッチャー記念賞)」を受賞したのが自慢のようですが、別にノーベル賞のように賞金がもらえる訳でもなさそうで、数少ないマルクス主義の研究者が仲間内で褒め合い、マルクス主義文献の売り上げに貢献するために作った賞のようです。
要は「マルクス互助会」の宣伝戦略ですね。

マルクスの青い鳥(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11051
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11052

さて、そんな斉藤氏がマルクスの正統的な後継者かというと、私は疑問を感じます。
1818年にプロイセンで生まれたマルクスは、1883年にロンドンで客死するまで、自然科学を含め、諸学問の最新の動向に関心を持ち、自身の理論を、その時代において最新の水準に保とうと終生努力した人ですが、斎藤氏にそのような姿勢があるのか。
マルクスが死んでから104年後、1987年に生まれた斎藤氏は、「環境危機」の「解決策」が「晩期マルクスの思想の中に眠っていた」ことを「発掘」したのだそうで、マルクス考古学者としての斎藤氏の努力に対して、私も「ご苦労様」程度の言葉をかけるのにやぶさかではありません。
しかし、二十代という学者として本当に大切な時期を単調な「発掘」作業に従事していた斉藤氏は、その間、様々な学問分野の動向を学ぶ時間はなかったようで、「資本主義の際限なき利潤追求を止め」ると息巻きながら、およそ現代資本主義を理解しているとはいえず、その労働関係についての理解は未だにテーラーシステム段階に留まっているようです。

斎藤幸平氏とテーラーシステム
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11054

また、斎藤氏は東大理?に合格する程度の理系の素養はあったものの、「発掘」作業に従事している間にすっかり時代から取り残され、コロナ禍への製薬業界の対応に窺われる現代資本主義の最先端の動向についてもあまりに鈍感なようです。

斎藤幸平氏とコロナ禍(その1)〜(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11064
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11066
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11067
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11069
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11071
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11072
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11073
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11074

投稿の順番は前後しますが、私は筆綾丸さんに紹介された池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書、2021)を読んでみて、佐藤氏の、

-------
佐藤 だから共産主義なる理論がどういう理論であって、それはどういう回路で自己絶対化を遂げるのか、そして自己絶対化を克服する原理は共産主義自身の中にはないのだということは、今のリベラルも絶対に知っておかなければいけないことなんです。
 そして私の考えでは、その核心部分は左翼が理性で世の中を組み立てられると思っているところにあります。理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11059

という見解には感心しました。
核心部分云々は、まさに私が『人新世の「資本論」』を読んでみた感想そのものですね。
斎藤氏は日本どころか世界全体を理性で組み立てようとしていますが、そんなことは全く無理です。
中国もロシアも、イスラム原理主義も存在せず、全人類が地球環境危機に一丸となって立ち向かって行く仮想世界ならば斎藤氏の思考実験も多少の価値はあるでしょうが、その前提が存在しないので、斎藤氏のようにファンタジーを語っても無意味ですね。
斎藤氏は自身が素晴らしい知性だと思っていて、既に「自己絶対化を遂げ」ていることが明らかですが、日本の左翼の歴史をざっと振り返っただけでも、斎藤氏程度の知性は掃いて捨てるほどいます。
斎藤氏レベルの頭の持ち主がそれなりに一生懸命考えた程度のことは、環境危機という要素を除けば、日本の左翼史の中で全てが出尽くしていますね。

7308:2022/01/11(火) 12:11:25
虚実皮膜と青い卵
ザゲィムプレィアさん
最近、小田原は村上春樹『騎士団長殺し』の舞台で有名になりましたが、しばらく前、曽我の梅林に行き、曽我兄弟所縁の宗我神社と越前寺を訪ねたことがあります。中世であれば、あのくらいの仇討ちはむしろ普通の事件で、歌舞伎の影響があるとは言え、なぜかくも人気があるのか、実はよくわからないのです。わからないと言えば、なぜ兄が十郎で弟が五郎なのか、というのもわかりません。
梅と言えば、藤原定家に、
梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ
という名歌があって、考えようによっては、仇討ちの幻のようにも読めます。その場合、袖とは虎御前のものになりますね。
呉座氏のレビューに、頼朝の肖像画が掲載されていますが、現在では、あれを足利直義とする説が有力で、なぜ堂々と頼朝像としているのか、これもよくわかりません。せめて、伝源頼朝くらいがいいのでは、と思います。
初回放送では、女装の頼朝が馬に乗って逃げるシーンがありましたが、頼朝は、相模川の橋供養の帰路、落馬して、それが原因で死んだとされているので、逃げるとき、いちど落馬させて、あれえ、とかなんとか、女言葉で言わせておけば、面白い伏線になったはずで、かえすがえすも残念です。
次回以降では、平清盛(松平健)がマツケンサンバのステップで福原に遷都するとか、歌唱力のある西田敏行(後白河院)が朗々と今様を唸るとか、そんなシーンがあれば、重厚な喜劇になるのではないか、と思っています。

小太郎さん
マルクスの青い鳥と言えば、昨日の王将戦で、挑戦者が昼食に青い卵(アローカナの卵)のオムライスを食べて話題になっていましたね。

7309鈴木小太郎:2022/01/11(火) 13:30:57
岸田首相とキリスト教の無関係
>筆綾丸さん
>つまらぬ大河ドラマになるんじゃないか

『真田丸』も最初はあまり評判が良くなかったそうですから、もう少し展開を見たいと思っています。
ところで、週刊ポストの記事で、正確性には保証はありませんが、

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 実は、日本の首相には意外にクリスチャンが多い。判明しているだけでも、戦前では原敬、戦後では吉田茂、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、細川護熙、麻生太郎、鳩山由紀夫。戦前、戦後を通して首相の数は計62人。約13%の割合であり、日本全体の対人口比1%弱に比べるとかなり高い。

https://www.news-postseven.com/archives/20120604_113430.html?DETAIL

とのことで、確かに比率は高いですね。
ただ、大平正芳氏の例のように、宗教に対する姿勢を個別に検討してみたら相当に濃淡のバリエーションがありそうです。
また、岸田首相がキリスト教と何か関係があるのかと思って検索してみたら、『日刊キリスト新聞』の2020年9月9日付「【自民党総裁選】菅氏、岸田氏、石破氏3人のキリスト教との関わり」という記事が出てきました。
それによると、

-------
岸田氏は広島1区選出の、祖父から続く世襲議員。本籍地は広島だが、生まれは東京だ。血液型はAB型。
広島には、毛利氏家臣で三入高松城(広島市)城主だった熊谷元直(くまがい・もとなお)が1687年、黒田官兵衛の勧めで洗礼を受け、洗礼名メルキオルと名乗り、近年、福者となった。安芸広島藩主の福島正則もキリシタンを優遇したが、後に禁令が厳しくなると、キリシタンは衰滅していく。
岸田氏自身とキリスト教との関わりは特に認められないが、7歳下の裕子夫人が広島女学院高校の出身。2016年に創立130周年を迎えた、中国地方では最も歴史の長いミッションスクールだ。創立者は砂本貞吉(すなもと・ていきち)牧師。米国でキリスト教に触れ、1886年、米国南メソヂスト監督教会の宣教師W・R・ランバス(関西学院の創立者)らの協力を得て女学校を創立した。学院聖句は「我らは神と共に働く者なり」(1コリント3:9、文語訳)。

https://christianpress.jp/suga-yoshihide-kishida-fumio-ishiba-shigeru/

とのことで、夫人がキリスト教徒ならともかく、単にミッションスクールを卒業しただけでは、結局のところ何の関係もないという結論になりそうですね。
日本の「ミッションスクール」は、信者の拡大という「ミッション」は全然果たしておらず、せいぜい死亡する信者と同程度の信者を新たに供給するミニマム・ミッション機関ですからね。
ちなみに、記事の時点では既に総裁候補を降りていた菅義偉氏の場合、

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出身地は、宮城県や山形県の県境に近い秋田県南部の湯沢市で、イチゴ農家の長男として生まれた。最寄り駅は奥羽本線の院内駅だが、線路の反対側の西に、「東洋一の大銀山」とうたわれた院内銀山がある。江戸時代初期には多くのキリシタンが各地から逃れて鉱夫として働き、宣教師たちも伝道のために訪れたところだ。その後、迫害が強まり、殉教者が多数出た。
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とありますが、これまた菅氏の信仰・宗教観とは全く関係なくて、よくまあここまでこじつけたものだと感心します。

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5歳下の真理子夫人との間に3人の息子がおり、長男は明治学院大学を卒業している。米国長老教会のヘボン宣教師が1863年に創設した日本最古のキリスト教主義学校だ。教育理念は「Do for Others(他者への貢献)」。新約聖書マタイによる福音書にあるイエスの言葉「Do for others what you want them to do for you(人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい)」(7:12)から引用されたもので、ヘボンの信念をよく表す言葉とされている。
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これも「明治学院大学を卒業」という経歴がキリスト教信仰と特に関係ないのが日本の「ミッションスクール」の実態ですからね。
また、総裁選には結局立候補しなかった石破茂氏の場合、

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母方の曾祖父が、新島襄の愛弟子である金森通倫(かなもり・みちとも)。熊本バンドの一人として熊本洋学校から同志社へと進み、卒業後は日本組合基督教会・岡山教会の牧師を務めた。金森の妻、旧姓・西山小寿(こひさ)は神戸英和女学校(現在の神戸女学院)の第1期生で、岡山の山陽英和女学校(現在の山陽学園)の創立者の一人。二人の間にできた長男、太郎が石破氏の祖父で、その長女の和子が石破氏の母親となる。
石破氏は、母親が通っていた日本基督教団・鳥取教会(現在は橋原正彦牧師)において18歳で洗礼を受けた(現在も現住陪餐会員)。同教会の宣教師によって始められた愛真幼稚園に通い、鳥取大学教育学部付属中学を卒業後、慶應義塾高等学校に進学。日本キリスト教会・世田谷伝道所(現在の世田谷千歳教会)に出席し、教会学校の教師も務めた。近年は国家晩餐祈祷会(日本CBMC主催)、キリスト教関係の講演会でゲストとしてスピーチに立つことも多い。
-------

ということで、こちらは本物の信者ですが、ただ、金森通倫(1857-1945)は極めて特異な宗教遍歴を経た人です。
同志社を出た後、自由キリスト教運動の影響を受けて「基督教の新解釈を公表して世を驚かし」、更に1898年には棄教を宣言しますが、大正期になって再入信して救世軍に加わり、次いで昭和に入ると今度はホーリネス教会に入会。
しかし、ここも暫くして脱会するなど信仰面で激烈な変遷を重ねた人ですね。
ま、変わり者という点では石破氏は金森通倫の直系といえそうです。

「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8864
金森通倫の「不穏な精神」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8873
三谷太一郎『ウォールストリートと極東─政治における国際金融資本』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8879
鈴木範久『日本キリスト教史─年表で読む』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10129

7310鈴木小太郎:2022/01/12(水) 10:12:48
岸田首相とキリスト教の無関係(補遺)
日本の「ミッションスクール」は信者の拡大という「ミッション」は全然果たしていない、というのは客観的な事実ですが、ちょっと書き方がシニカルでしたかね。
ただ、この事実は法的観点からは決して悪いことではなくて、こうした実態があるからこそ、憲法89条の明文にもかかわらず、キリスト教系の私立大学に巨額の公的資金を提供することが可能になっていますね。
同条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」というものですが、一般に私学助成は憲法89条後段の「公の支配」の問題とされていて、「公の支配」と呼ぶにはどうにも弱い関与・監督であっても、まあ「公の支配」でいいのでは、ということになっています。
しかし、ウィキペディアにも紹介されている「1971年(昭和46年)3月3日、参議院予算委員会における内閣法制局長官答弁」にも、

-------
憲法八十九条の問題は、確かに率直に言って実は弱る規定であります。・・・日本のような国において慈善、博愛、教育の問題について、国費が公の支配に属していないものには出せない。逆に言えば、公の支配に属させることによって国費が出せるというふうにも解される憲法の規定が、規定の真の精神がそこにあるかどうかはわかりませんけれども、実際の日本の国情に合わすようなことをするにはやはりそういう解釈もやむを得ないのではないかというようなふうに考えまして、いまの私立学校法あるいは学校教育法その他の規定には、そういう補助と監督の相関関係を規定したものがございます。まあ、そういうことで始末をしておるわけでありますけれども、国会でもそういう法律を御制定になっていただいておりますから、そういう解釈がいまや公定的に是認されていると思いますけれども、正直に憲法の規定に立ち返ってみますと、その辺はやや問題があるように思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%AD%A6%E5%8A%A9%E6%88%90

とあるように、相当苦しい解釈ですね。
そして、宗教系の私立大学の場合には、憲法89条後段を突破できたとしても、同条前段も大きなハードルとなります。
同条前段では「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため」に支出してはならないと明確に定めているのですから、公金支出を合憲とするためには、例えば、宗教系大学は「宗教上の組織若しくは団体」ではないのだ、といった論理が必要になります。
しかし、これは自己の存在を全面的に否定することになるので、宗教系大学からはなかなか主張しにくい話ですね。
別の論理としては、宗教系大学は「宗教上の組織若しくは団体」であるけれども、助成される公金は当該組織・団体の「使用、便益若しくは維持のため」ではなく、個々の学生の教育活動を支援するためのものだからよいのだ、みたいな論理も考えられますが、奨学金ならともかく、大学に支出する公金にこうした論理が説得的といえるのか。
まあ、宗教系大学は他の私学と並んで憲法89条の後段を突破するのは可能であっても、同条前段の突破は至難の業のように思われますが、現実には宗教系大学にも巨額の私学助成が行なわれています。
ただ、キリスト教系の大学の場合、形式的・名目的には「宗教上の組織若しくは団体」のようではあっても、その実態は信者の拡大という「ミッション」は全然果たしていない、宗教的には無色透明の「組織若しくは団体」だ、ということであれば、公金を提供してもいいかな、という話につながりそうです。
逆に、特定のキリスト教系の大学に素晴らしい宗教指導者が登場して、入って来る学生が軒並み信者になる、というような事態となれば、さすがにそういう大学への公的資金の提供はまずかろう、という話になると思います。
まあ、憲法89条は「アメリカ的発想に基づくが、目的趣旨が必ずしもはっきりしないまま成立」(佐藤幸治)した条文で、憲法改正による立法的解決が一番なのですが、当分は無理でしょうね。

「靖国神社大学」(仮称)と憲法89条
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8387
裁判官可部恒雄の反対意見
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8392

7311:2022/01/12(水) 19:36:24
原因において自由な行為?
小太郎さん
カナダ連邦ケベック州首相は、以下のような見解を表明したそうです(仏フィガロによる)。
同州の集中治療患者の半数はワクチン未接種者(人口の10%)で、医療に負担を強いているので(90%の未接種者に迷惑をかけているので)、健康寄与税という名目により、未接種者に応分の課税をすることにした、と。
まるで刑法の「原因において自由な行為」のような感じですが、日本ではちょっと考えられない状況です。かりに、日本でこんなことをしようとしたら、憲法の13条と18条あたりが問題になり、侃々諤々、喧々囂々の騒ぎになりますね。

追記
https://confidenceman-movie.com/romance
フジテレビの放送で見たのですが、長澤まさみに、是非、姫の前を演じてもらいたいですね。
共演者の美男美女(三浦春馬と竹内結子)が、この映画のあと、立て続けに自殺したというのはミステリアスです。

7312鈴木小太郎:2022/01/13(木) 12:13:22
来るべき革命は資本主義の「ひょうきん化」でなければならない。
従来のコミュニストはコミュニズムの神が貧乏神であることを隠蔽していたのに対し、「脱成長コミュニズム」を提唱する斎藤幸平氏は、コミュニズムの神が貧乏神でどこが悪いのだ、我は貧乏神が導く方向に突き進むぞ、と「カミングアウト」した訳で、確かにその点ではコミュニズムのコペルニクス的転回ですね。
こうした雑な結論を導いた斎藤氏が左翼知識人としてはさほどの知的水準の人物ではないことは明らかですが、左翼活動家としてはどうなのか、私には判断する能力がありません。
Eテレ「100deパンデミック論」等のマスコミでの華やかな活躍を見ると、池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書、2021)に登場する人物と比較するならば、あるいは斎藤氏は連合赤軍の森恒夫(1944-73)や永田洋子(1945-2011)クラスの優れた活動家なのかもしれないですね。
ま、斎藤氏を誉めそやすマスコミ関係者は、斎藤氏が日本国民を「山岳ベース」に誘導しているのではないか、他人の墓穴を掘る手伝いをしていたら、いつか自分たちもそこに埋められるのではないか、と疑ってみていただきたいものです。
なお、『人新世の「資本論」』を、

-------
【各界が絶賛!】
■佐藤優氏(作家)
斎藤は、ピケティを超えた。これぞ、真の「21世紀の資本論」である。
■ヤマザキマリ氏(漫画家・文筆家)
経済力が振るう無慈悲な暴力に泣き寝入りをせず、未来を逞しく生きる知恵と力を養いたいのであれば、本書は間違いなく力強い支えとなる。
■白井聡氏(政治学者)
理論と実践の、この見事な結合に刮目せよ。
■坂本龍一氏(音楽家)
気候危機をとめ、生活を豊かにし、余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら?
■水野和夫氏(経済学者)
資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる。常識を破る、衝撃の名著だ。

https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/

と絶賛する人の中に『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』の共著者の一人である佐藤優氏がいるのは些か不審ですが、「斎藤は、ピケティを超えた」ことは客観的事実ですね。
斉藤氏自身が「第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う」において、斎藤氏なりにピケティを評価した後、

-------
 ただし、ピケティは脱成長の立場を明示的には受け入れていない。また、「参加型社会主義」を謳っていても、その移行のプロセスは、租税という国家権力に依存するところが大きい。この点は問題だ。つまり、資本を課税によって抑え込もうとすればするほど、国家権力が増大していき、?「気候毛沢東主義」に代表される国家社会主義に横滑りしていく。マルクスの脱成長コミュニズムから、離れていってしまうのだ。
-------

と批判されており(p290)、斎藤氏が「脱成長の立場を明示的には受け入れていない」ピケティの立場を超えていることは明らかです。
しかし、ピケティを超えたからといって、その跳躍が素晴らしい未来をもたらす保証はない訳で、まあ、私は地獄への「加速主義」ではなかろうかと思います。
さて、実は私自身も四半世紀にわたって「革命」の可能性を探っているのですが、私は来るべき革命は資本主義の「ひょうきん化」でなければならないと考えています。
マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が資本主義の誕生の秘密を解明したかどうかについては意見が分かれるところですが、資本主義とプロテスタント的な生真面目さとの間には確かに親和性があります。
そして、資本主義の神に捧げられる生贄には、この生真面目さの犠牲者が非常に多いですね。
他方、資本主義の悪を糾弾し、資本主義を打倒すれば素晴らしい未来が到来するのだと主張してきた旧来型のコミュニストは、生真面目さという点では、むしろ資本主義の讃美者を超える存在です。
そして「脱成長コミュニズム」を提唱してコミュニズムにコペルニクス的転回をもたらした斎藤氏は、生真面目さという点では旧来型のコミュニストを更に超えた存在で、生真面目の「加速主義」ですね。
生真面目さという点では、資本主義と旧来型コミュニズム、そして斎藤氏の唱える「脱成長コミュニズム」は連続しており、息苦しさは「加速」される一方です。
斉藤氏が主導する勢力が権力を握った場合、世界はプロテスタント的なお説教に満たされ、その精神的重圧は大変なものでしょうね。
果たしてそんなものが「革命」の名に値するのか。
むしろ逆に、来るべき真の革命は資本主義の「ひょうきん化」でなければならない、というのが長年にわたる私の資本主義研究の結論です。
そして、資本主義の「ひょうきん化」を具体的にどのように実現するか、が次の問題です。

>筆綾丸さん
>かりに、日本でこんなことをしようとしたら、憲法の13条と18条あたりが問題になり、

カナダの事情は知りませんが、日本も1948年の予防接種法制定時にはワクチン接種は罰則付きの義務とされており、これが1976年に罰則なしの義務、そして1994年に努力義務になっています。
ご紹介のカナダの例だと、罰則の代わりに課税ということで、ある意味では罰則より緩やかな義務付けの手法ともいえそうですね。
昔は社会防衛の観点が優先され、罰則について憲法13条の幸福追求権とか18条の奴隷的拘束の禁止との関係が議論されることはなかったのでしょうが、現在は確かに事情は違いますね。
ただ、今回のコロナ騒動を踏まえると、日本での努力義務化は羹に懲りて膾を吹いたような感じもします。
新型コロナ以上の感染力があるウイルスが登場するようなケースを考えると、特定の伝染病については罰則付きの義務化の復活も検討する必要があるかもしれないですね。
もちろん、その場合には正当な理由がある場合の拒否権は当然ですし、健康被害の救済措置の充実も前提となりますが。

斎藤幸平氏とコロナ禍(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11071

7313鈴木小太郎:2022/01/14(金) 12:47:02
「高等遊民」の大幅な拡大を国家目標とすべきである。
私くらい『人新世の「資本論」』を熟読している読者は珍しいはずですが、ツイッターでは、私は何故か斎藤幸平氏にブロックされています。
私が何か斉藤氏の気に障るようなことを書いているのでしょうか。
「脱成長コミュニズム」のような大胆な「革命」を起こそうとする偉大な「経済思想家」ならば、もっと鷹揚な態度で読者に接していただきたいものですね。

https://twitter.com/koheisaito0131

さて、「脱成長コミュニズム」に対抗して、私は「資本主義のひょうきん化」を提唱したいと考えますが、「資本主義のひょうきん化」とは何かというと、資本主義のスピード感と柔軟性を維持しつつ、人々に過度の精神的負担を与えない、「遊び」のある資本主義ですね。
この「遊び」のある資本主義社会に正面から反するのが安倍元首相の唱えた「一億総活躍社会」で、本当に国民全員がみんな活躍してしまったら、国家の危機に際して予備兵力が足りず、社会が一挙に崩壊してしまいます。
平時には、社会にはあまり活躍しない人々、「遊び」に従事している人々が潤沢に存在することが必要です。

「一億総活躍社会の実現」(首相官邸サイト内)
https://www.kantei.go.jp/jp/headline/ichiokusoukatsuyaku/index.html

ただ、私が想定する「遊び」に従事する人々とは、もちろん昼日中から酒を飲んだりパチンコをしたりしている人ではなく、高度な教育を受け、いざという時には社会の重要な戦力となり得る能力を持った「高等遊民」です。
かつて「高等遊民」は、

-------
日本で明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉であり、大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由がないため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のこと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E9%81%8A%E6%B0%91

などと定義されていましたが、私は「高等遊民」という言葉にもう少し肯定的なニュアンスを感じていて、職業の有無も別にメルクマールにする必要はないように思います。
1980年代後半からの莫迦げた「大学改革」が行なわれる前は、人文系の大学教員などずいぶん余裕のある生活を送れていた訳で、こうした人々も、というか、こうした人々こそ「高等遊民」の代表と考えるべきです。
そして私は「高等遊民」の大幅な拡大を国家目標とすべきだと考える訳ですが、そのためには多くの「高等遊民」候補に、あくせく働く必要はなくとも、それなりに余裕のある長期的かつ安定的な生活を保障する仕組みが必要となります。
もちろん、その前提として、日本全体が経済的に豊かな社会でなければなりません。
また、ウィキペディアによれば、町田祐一氏の『近代日本と「高等遊民」』(吉川弘文館、2009)には、かつての高等遊民が「最終的に昭和初期満州事変・日中戦争へと続く対外戦争の中で起きた軍需景気により、就職難が解消し、国家総動員体制の元で何らかの形で戦争へ動員され、高等遊民問題は解消に向かっていった」といったことが書いてあるようですが、こうした歴史に鑑みても、戦争を起こさないことも大前提となります。
この点、岸田政権の唱える「新しい資本主義」に、戦争の回避のために我が国は何をなすべきか、という観点が乏しいことを以前少し書きました。

私も「新しい資本主義」について考えてみた。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11029

さて、こうした前提・大前提を勘案すると、仮に「高等遊民」候補に、ブラブラ働きつつも結果的に世界平和に貢献することができるような職場を提供することができれば、「資本主義のひょうきん化」への道筋も見えてくるような感じがします。

-------
町田祐一『近代日本と「高等遊民」─社会問題化する知識青年層』

明治末〜昭和初期、高等教育を受けながら一定の職にない「高等遊民」が社会問題化した。「危険思想」への傾斜が懸念された彼らに、政府や世論はどう対応したのか。高等遊民の実像と政治社会へ与えた影響、各種政策や自助努力による解決策をメディア史料などから解明。現代のニート・フリーター問題にも通ずる社会矛盾を考え、近代日本社会を問い直す。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b75791.html

7314鈴木小太郎:2022/01/15(土) 13:39:36
エマニュエル・トッドの所謂「宗教的空白」こそ日本に埋蔵された原油である。
斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』の最大の問題点はその愚劣な内容ではなくて、「終末論」を唱えるこのような本が四十万部以上も売れるという社会現象の方ですね。
ソ連崩壊から三十年以上経って、コミュニズムに対する免疫のない世代が激増した、ということが一つの要因だろうと思いますが、他の先進国や鬱陶しい二つの隣国に比べて経済の不調が延々と続いて、ある種、破れかぶれみたいな心境になっている人も増えているのでしょうか。
ま、貧すれば鈍する、という格言はマルクスの『資本論』以上に人間と社会の真理を衝いていますので、マルクスウイルスのサイトウコウヘイ変異株に感染した貧乏神信者たちが目指す「脱成長コミュニズム」とは正反対の方向で、日本を豊かにする方策をしっかり考えねばなりません。
そこで私は、従来は否定的に捉えられていた日本の「宗教的空白」に着目し、この「宗教的空白」こそが日本に埋蔵された豊かな「原油」であって、これを精製して輸出することにより日本を豊かにしたいと考えるものであります。
そもそも「宗教的空白」とは何か。
これは、直接にはエマニュエル・トッドの表現であって、トッドは『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書、2016)の冒頭、2015年10月25日付けの「日本の読者へ」において次のように書いています。(p7以下)

------
 宗教的空白と、格差の拡大と、スケープゴート探しというこの問題設定において、日本はどう位置づけられるべきでしょうか。
 もし私の変数から極端に単純化した等式を引き出すなら、宗教的空白+格差の拡大=(つまり)外国人恐怖症(に到る)、となります。これを日本に当て嵌めるならば、等式の左辺〔上〕には一致を、右辺〔下〕には謎を確認することになります。
 等式の左辺は完璧に再現されます。日本の宗教的空白は、ヨーロッパのそれと同じくらいに徹底した空白です。神道は、ローカルな共同体と農耕社会の儀礼に根ざしていましたが、大々的な都市化により組織が深い部分で解体されました。仏教は、戦後の一時期には新たな形の宗教性の発展によって活力を取り戻したものの、ここ二〇年、三〇年の推移を見ると、カトリシズム同様に末期的危機のプロセスに入ったように見えます。葬儀におけるその役割までもがかなり本格的に疑問視されるようになっているのですから。
 日本における格差の拡大は著しい現象です。日本はもはや、国際比較の統計表の中でスカンジナビア諸国と並ぶ平等の極の一つではありません。まだアングロサクソンの国々の格差のレベルには達していませんが、そのレベルに近づいてきています。宗教的空白および格差の拡大(等式の左辺)を見れば、日本はまさに西洋の国です。あるいはむしろ、ヨーロッパの国です。米国には宗教性─これはより適切に定義される必要がありそうです─が存続していますから。
 しかし、右辺については何といえばよいのでしょうか。いうまでもなく日本は、ヨーロッパのあらゆる国がそうであるようにはイスラム恐怖症ではあり得ません。イスラム教徒は日本国内にはほとんどおらず、地理的にも近くもなく、海の向こうの存在です。実のところ日本は、人口の問題があるにもかかわらず、ドイツとは逆に、その問題の解決策としての大量移民の受け入れを、移民がイスラム教徒であるとないとにかかわりなく拒否してきました。では、日本の政治的行動はどうか。イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭も、私はそこに見出しません。すこぶるリアルな中国の脅威に対しても、日本のリアクションは穏健そのもののように思われます。ヨーロッパに見られるようなロシア恐怖症さえ観察できません。近代日本において日露戦争が占めている中心的な位置を考慮すると、ロシア恐怖症は容易に発生しそうなものですけれども。
-------

トッドは十代のころにフランス共産党員だった人なので宗教とは相性が悪く、もちろんキリスト教は理解できても、日本の宗教事情には何ともとまどったようですね。
トッドの所謂「宗教的空白」は、実際には何も存在しない真空ではなく、宗教的な何かではあっても狂信を生み出すことのない、例えていえばある種の不活性ガス、空気のようなものです。
ここに書かれたトッドの理解は、それ自体はあまり参考になるものではありませんが、日本の「宗教的空白」は「イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭」ももたらさず、非常に「穏健」なものであることは重要です。
仮にこうした「宗教的空白」を輸出することができるならば、世界の人びとに精神的安定を提供し、世界平和に資することになるはずです。
しかし、「宗教的空白」を輸出することができるのか。
その具体的方法が、私がこの五年ほどずっと考えてきた思想的課題です。

日本の宗教的空白(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8305
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8306

7315鈴木小太郎:2022/01/16(日) 15:40:06
社会の精神的安定にとって必要なのは「ビリーフ」ではなく「プラクティス」である。
「宗教的空白」についてあれこれ考えてみたのは2016年のことで、同年の「新年のご挨拶」で「グローバル神道の夢物語」という妙なシリーズを始めるぞと宣言し、森鴎外の「かのやうに」を出発点に日本人の宗教観を検討してみました。

「新年のご挨拶」(2016年)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8145

そして、その一年間の一応の成果は翌2017年1月3日の「古代オリンピックの復活」という記事に、

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神仏分離・廃仏毀釈に悲憤慷慨する松岡正剛氏に対しては、そんなに興奮することもないのになあと同情しつつ、実際に廃仏毀釈に多数の「殉教者」が出たのかを検討してみたところ、「大浜騒動」など浄土真宗関係の「護法一揆」で多少の死者は出ているものの、まあ、実態は酔っ払いの暴動みたいなものが多く、純度100%の「殉教者」は皆無、という暫定的結論を得ました。
また、「真宗王国」の富山藩における廃仏毀釈の経緯が結構面白いことに気づき、これを主導した林太仲と、その養子でパリを拠点に美術商として活躍した林忠正、また富山出身の近代民衆宗教の研究者で、現在でも極めて世評の高い『神々の明治維新』の著者でもある安丸良夫氏等について検討するうちに、安丸氏の「国家神道」論は「ゾンビ浄土真宗」とマルクス主義の「習合」ではなかろうか、などと思うようになりました。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8726

などと纏めておいたのですが、結局、同年中は「夢物語」と言えるような話にはなりませんでした。
その後も「宗教的空白」について時々検討しましたが、江戸末期には本当に徹底した「宗教的空白」が存在しており、明治に入ってむしろ、文明国には「宗教」が必要ではないかと考えてキリスト教に入信する人、逆にキリスト教に対抗するために仏教を革新するのだ、といった方向に目覚めた人が増えて、「宗教的空白」の範囲はかなり縮小していますね。
これはもちろん私の発見ではなく、例えば渡辺浩氏の「補論『宗教』とは何だったのか─明治前期の日本人にとって」(『東アジアの王権と思想 増補新装版』、東京大学出版会、2016)には、明治維新前後の頃の「宗教的空白」がいかに徹底したものであったかが具体的に描かれています。

「Religion の不在?」(by 渡辺浩)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8882
「戯言の寄せ集めが彼らの宗教、僧侶は詐欺師、寺は見栄があるから行くだけのところ」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8884

細かいことを言えば渡辺論文には問題が多いのですが、基本的な認識については私も渡辺氏に同意できます。
そして、武士のみならず上層農民レベルでも、近世の相当早い時期に「宗教的空白」の存在が確認できますね。

『河内屋可正旧記』と「後醍醐の天皇」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8963
『東アジアの王権と思想』再読
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9817

私は最初は「宗教的空白」が歴史的にどこまで遡れるのか、という観点から調べていたのですが、過去に遡れば遡るほど宗教感情が篤いということではなくて、拡大と縮小の大きな周期があるようです。
もちろんいつの時代にも篤信者と「狂信者」はそれなりの割合で存在しますが、中世まで遡ってみたところ、南北朝期は日本史上「宗教的空白」が特別に拡大した時期ではないかと思われます。

『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10619
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10620
「からからと打ち笑ひ」つつ首を斬る僧侶について(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10766

南北朝の動乱が終わって以降の「宗教的空白」の変動については未検討ですが、近世に入ると「宗教的空白」は徐々に拡大して、幕末に最も増大する感じですね。
ただ、以上に述べてきた「宗教的空白」とは、磯前順一氏の用語に従えば、「ビリーフ」(概念化された信念体系)が「空白」だということで、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)は一貫して、広く薄く継続して来たように思われます。
そして、日本社会に精神的安定をもたらしたのは、少数の「ビリーフ」派ではなく、大多数の「プラクティス」派だろうというのが私の暫定的な結論です。

資本主義は「プラクティス」としての「宗教」か。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11093

7316:2022/01/17(月) 13:30:19
かに くり あをな うり かうし
小太郎さん
http://www.transview.co.jp/smp/book/b442696.html
まだ読んでませんが、西村玲氏が存命なら、宗教的空白あるいはゾンビ・ブディズムに関して、どんな見解を有したか、訊いてみたいところですね。

昨日の『鎌倉殿の13人』で、頼朝の好物として、かに、くり、あをな、うり、かうし、と和紙に達筆で記してあるシーンを見て吹き出してしまいました。
かには平家蟹、くりは勝栗、うり(瓜)は挙兵間近で今が売り、というパロディーだと思いますが、あをなはわかりません。かうし(柑子)は、現在の伊豆に多い蜜柑畑を踏まえ、都育ちの頼朝が伊豆に流されて蜜柑好きになった、ということなんでしょうね。歴史に残る名場面だと思いました。話の展開は、まあ、どうでもいいようなことです。
付記
頼朝は政子が出したアジを食べてましたが、東伊豆の湯河原、熱海、伊東と言えば、蜜柑の他ではアジの干物が有名ですね(小田原は蒲鉾と塩辛です)。ただ、伊豆の北条という地からすると、海の幸よりも、狩野川のアユ(塩焼き)のほうが相応しかったのではないか、という気がしました。
徒然草第40段に、栗をのみ食らう異様な女の話がありますが、佐殿は好き嫌いがあるとはいえ、バランスよく食べていたようです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%8F%9C_(%E8%90%BD%E8%AA%9E)
あをなは、落語の「青菜」を踏まえ義経を暗示しているのだ、ということかな。

7317鈴木小太郎:2022/01/18(火) 22:30:17
山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その1)
ツイッターで野口実氏が紹介されていた山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価─」(『鎌倉』115号、鎌倉文化研究会、2014)という論文を入手したので、その感想を少し書きます。
野口氏らが提起された「北条氏は都市的な武士か」という問題に関連して、「北条時政とその後妻・牧の方の結婚時期はいつか」という問題が近時議論されています。
論点を明確にするため、呉座勇一氏の『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)から少し引用させてもらうと、

-------
 北条時政が都市的な武士であるという新説は、時政の結婚をも根拠にしている。時政の後妻は牧の方だが、その出自は長らく不明だった。ところが杉橋隆夫氏が、牧の方は平忠盛(清盛の父)の正室である宗子(池禅尼)の姪であることを明らかにした。牧の方の父である牧宗親は、池禅尼の息子である平頼盛(清盛の異母弟)の所領である駿河国大岡牧(静岡県沼津市・裾野市)の代官を務めていた。
 杉橋氏は、保元三年(一一五八)に時政二十一歳、牧の方十五歳の時に結婚したと推定した。五位の位階を持つ貴族の家である牧氏出身の牧の方と結婚できたとすると、時政も相応の身分の武士ということになる。
 しかし杉橋氏のシミュレーションに従うと、牧の方は四十六歳の時に政範(義時の異母弟)を出産したことになり、非現実的であるとの批判を受けた。本郷和人氏は、二人の結婚は、治承四年(一一八〇)以降、すなわち頼朝挙兵後と想定した。
 最近、山本みなみ氏は、二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前とした。けれども、山本氏の場合も、頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定している。だとすると、時政が牧の方と結婚できたのは、もともとの身分が高かったからとは必ずしも言えない。むしろ、時政が頼朝の舅になったことが大きく作用したのではないだろうか。
-------

といった具合です。(p35)
まあ、杉橋説はいくら何でも無理だろうと思いますが、山本氏が「二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前」、「頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定」した理由が気になります。
そこで山本論文を見ると、まずその構成は、

-------
 はじめに
一、牧の方腹の娘たち
(一)婚姻関係の検討
   ?五女(平賀朝雅に嫁したのち、藤原国通に再嫁)
   ?七女(三条実宣と婚姻)
   ?八女(宇都宮頼綱に嫁したのち離縁し、松殿師家に再嫁)
   ?九女(坊門忠清に嫁す)
二、牧の方の評価
(一)時政・牧の方年譜の再検討
(2)晩年の牧の方
 おわりに
-------

となっています。
「はじめに」では、杉橋隆夫・野口実氏の業績に触れた後、

-------
興味深いことに、牧の方腹の娘は鎌倉幕府に仕える有力御家人だけでなく、京都の貴族にも嫁いでおり、私見では北条氏の政治的地位や姻戚関係を考察する上でも貴重な手がかりになると考える。そこで、本稿では北条氏を評価するための基礎的研究として時政の子女、殊に牧の方が産んだ娘たちに注目し、その生年や婚姻関係を論じたい。さらに、娘たちの検討を踏まえて、牧の方と時政との婚姻時期や、晩年の牧の方と幕府の関係についても考察したい。
-------

とされています。(p1)
そして「一、牧の方腹の娘たち」に入ると、

-------
 本章では、時政と牧の方との間に生まれた娘について検討する。系図や記録から時政の子女と見なされる者は十五名にのぼり、うち男子は宗時・義時・時房(以上先妻腹)・政範(牧の方腹)の四名、女子は十一名である〔表?参照〕。
 女子十一名のうち、牧の方腹で貴族に嫁したのは以下の四名である(再嫁も含む)。
 ?平賀朝雅に嫁したのち、藤原国通に再嫁した五女
 ?三条実宣に嫁した七女
 ?宇都宮頼綱に嫁したのち離縁して、松殿師家に再嫁した八女
 ?坊門忠清に嫁した九女
 以下、それぞれの娘を検討したい。なお、娘の生年順は、野津本「北条系図・大友系図」(田中稔「史料紹介野津本『北条系図、大友系図』」『国立歴史民俗博物館研究報告』第五集、一九八五年。『福富家文書─野津本「北条系図・大友系図」ほか皇学館大学史料編纂』皇学館大学出版部、二〇〇七年)に拠るものである。
-------

とあります。(p2)

>筆綾丸さん
>昨日の『鎌倉殿の13人』

時政・牧の方の描かれ方は「北条時政が都市的な武士であるという新説」にずいぶん寄っている感じでしたね。
まあ、野口実氏はおそらく満足されていないでしょうが。

7318鈴木小太郎:2022/01/19(水) 12:21:16
山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
牧の方と「牧の方腹で貴族に嫁した」四人の女性については『サライ』サイトの山本氏の記事を参照して頂きたいと思います。

京都政界に人脈を誇った北条時政の若き後妻 牧の方―北条義時を取り巻く女性たち3【鎌倉殿の13人 予習リポート】
https://serai.jp/hobby/1033821
続々と京都の貴族に嫁いだ、北条時政の後妻 牧の方所生の娘たち―北条義時を取り巻く女性たち4【鎌倉殿の13人 予習リポート】
https://serai.jp/hobby/1036729

念のため「表? 時政の娘たち一覧」から、「牧の方腹で貴族に嫁した」四人以外の娘たちの母親と婚姻相手を挙げると、

 長女(政子) 先妻(伊藤祐親娘か) 源頼朝
 二女     先妻(不明)     足利義兼
 三女(阿波局)先妻(不明)     阿野全成
 四女     後妻牧の方か     稲毛重成
 六女     先妻(不明)     畠山重忠→足利義純
 不明     不明         河野通信
 不明     不明         大岡時親

とのことで、牧の方が産んだ娘は貴族との婚姻率が極めて高いですね。
さて、「牧の方腹で貴族に嫁した」四人のうち、生年がはっきりしているのは「宇都宮頼綱に嫁したのち離縁して、松殿師家に再嫁した八女」だけで、この人は『明月記』に再嫁の時の年齢が四十七歳と明記されているので、文治三年(1187)生まれとなります。(p6)
また、男子は政範が八女の二歳下で、文治五年(1189)生まれですね。
ここまでは山本氏の論証は丁寧で説得的ですが、肝心の時政・牧の方の婚姻時期の推定は些か荒っぽいように思われます。
即ち、「二、牧の方の評価」の「(一)時政・牧の方年譜の再検討」に入ると、最初に杉橋説が成り立ちがたいことを検討された後で、

-------
【前略】前章で検討した娘たちの生年も含め、牧の方の年齢を再検討したのが上記の年譜である。生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした。
 杉橋氏は「時政・牧の方年譜」において、藤原為家と宇都宮頼綱の娘(牧の方の孫娘)との間に生まれた為氏が貞応元年(一二二二)の誕生であることなどから、頼綱室の生年を承安二年(一一七二)と仮定されているが、彼女は天福元年(一二三三)に再嫁したとき四十七歳であり、生年は文治三年(一一八七)に確定する。また、細川氏・本郷氏は五女(朝雅室)・八女(頼綱室)・政範の生年を仮定されているが、うち後者二名について生年が判明することはすでに指摘したところである。
 稲毛重成室の母は不明であるが、杉橋氏・野口氏が指摘されているように、稲毛重成の行動形態からみて牧の方腹の可能性が高いと考え、年譜に加えた。下線部分は史料による裏付けを得るものである。
 時政と牧の方の年齢差は二十四、牧の方は政子の五つ年下となる。重要なのは杉橋氏の指摘??に関わる、時政と牧の方の婚姻時期はいつなのかという問題である。牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となったが、治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか。したがって、婚姻を平時の乱以前まで遡らせ、頼朝配流の背景に牧の方を介した池禅尼と時政の関係を推定する杉橋氏の見解に従うことはできず、平治五年(一一五九)には牧の方はまだ生まれてさえいなかったのではないかと思われる。
-------

とされるのですが(p9以下)、「生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした」、「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」との山本氏の発想にはちょっと驚きました。
このような、私にはどうみても強引と思われる仮定の結果、山本氏は「○時政・牧の方年譜(含シミュレーション)」において、

治承四年(1180)この頃、時政(43歳)・牧の方(19歳)婚姻か/八月頼朝挙兵
養和元年(1181)四女(重成室)誕生 <牧の方20歳)>(細川・本郷氏は時政・牧の方の婚姻を推定)
寿永二年(1183)五女(朝雅室)誕生 <牧の方22歳)>
文治元年(1185)七女(実宣室)誕生 <牧の方24歳)>
文治三年(1187)八女(頼綱室)誕生 <牧の方26歳)>
文治五年(1189)政範誕生(時政52歳)<牧の方28歳)>(細川・本郷氏は牧の方21歳と推定)
建久二年(1191)九女(忠清室)誕生 <牧の方30歳)>

とされるのですが、まあ、単なる数字合わせ以上のものではないですね。
「他の子女も機械的に二年ごとの出産」というのは、あるいはそのくらい間隔を置いた方が子育てがしやすいだろうという事情も考慮されたのかもしれませんが、それは現代人の発想であって、当時の有力武士クラスの女性は自分で子供を育てる訳ではなく、乳母にまかせるのが普通のはずです。
結局、山本氏の「牧の方腹で貴族に嫁した」女性たちの検討結果にもかかわらず、時政と牧の方の婚姻時期は分からないとしか言いようがありません。
そして山本氏自身も「○時政・牧の方年譜(含シミュレーション)」では「治承四年(1180)この頃、時政(43歳)・牧の方(19歳)婚姻か」としながら、結局は「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう」とされる訳ですが、これは野口実氏の研究を加味した推論です。
そこで、山本説の当否を判断するには野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)という論文を検討する必要が生じてきます。
なお、「機械的」云々は、2007年に政治問題化した柳澤伯夫氏(当時厚生労働大臣)の「女性は生む機械」発言を連想させ、ちょっとドキッとしますね。

柳澤伯夫(1935生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%BE%A4%E4%BC%AF%E5%A4%AB

7319:2022/01/19(水) 12:46:02
婚姻のかたち
小太郎さん
牧の方の娘のうち、貴族に嫁した者は、
?五女(朝雅の正室、のち、国通の側室)
?七女(実宣の側室)
?八女(頼綱の正室、のち、師家の側室)
?九女(忠清の側室)
というような理解でいいのでしょうね。

前回のドラマで、ふと気になったのは、牧の方の場合は嫁入婚、政子の場合は妻通婚(招婿婚)のようなもの、つまり、北条の館においては、形態の違う婚姻がほぼ同じ時期に同居していたのか、ということでした。まあ、別段、不思議に思うことでもないのでしょうが。

ご引用の論考を読むと、当たるも八卦当たらぬも八卦、という感じですね。

7320鈴木小太郎:2022/01/20(木) 11:35:21
山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その3)
山本氏は「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」とされます。
この「仮定」は何とも強引なものですが、この強引な「仮定」に基づいて遡っても、北条時政と牧の方の婚姻時期は治承四年(1180)止まりですね。
しかし、山本氏は更に「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか」とされています。
そこで、その理由を知ろうと思って、「婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる」に付された注53に従って野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)を読んでみたところ、不思議なことに野口氏はそのようなことを書かれていません。
この野口論文は京都女子大学サイトで読めるので、私は昨日二回、今朝も一回読んでみましたが、やっぱりありません。

「伊豆北条氏の周辺 : 時政を評価するための覚書」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1927

そもそも山本氏の注記には些か不審なところがあって、

(53)野口B前掲注(4)論文。

に従って、注(4)を見ると、

(4)野口実A「「京武者」の東国進出とその本拠地について─大井・品川氏と北条氏を中心に─」(『研究紀要』一九号、京都女子大学宗教・文化研究所、一九九九年)、同B「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書─」(『研究紀要』二〇号、京都女子大学宗教・文化研究所、二〇〇〇年)【後略】

となっているのですが、A論文が発表されたのは2006年、B論文は2007年ですね。
そこで私は、もしかしたら山本氏はA論文とB論文を取り違えているのではなかろうかと思ってA論文も読んでみました。

「「京武者」の東国進出とその本拠地について : 大井・品川氏と北条氏を中心に」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1922

この論文は、

-------
はじめに
一  大井・ 品川氏と品川湊
二  伊豆北条氏の系譜とその本拠
 1 北条氏の出自
 2 伊豆国衙周辺の人的環境
 3 円成寺遺跡の語るもの
むすびに
-------

と構成されていますが、「1 北条氏の出自」の「時政が池禅尼の姪にあたる中流貴族出身の女性( 牧の方)を妻に迎え」(p57)に付された注(10)(p66)に、

(10)杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」(上横手雅敬監修『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、一九九四年) 。この論文における牧の方の年譜のシュミレーションには、政範の出産を四十六歳の時とすることなどに無理を感じざるを得ないが、時政と牧の方との婚姻の時期が頼朝挙兵以前であることについては間違いないと思う。

とあって、私が探し求めていたのはどうやらこの記述のようですね。
ただ、ここには別に野口実氏の独自の見識は披露されておらず、杉橋論文に対する単なる感想ですね。
うーむ。
私の努力はいったい何だったのでしょうか。

>筆綾丸さん
>?五女(朝雅の正室、のち、国通の側室)

当時、貴族社会では鎌倉の有力者の娘を妻に迎えることが出世と財産獲得の極めて有力な手段になっていたので、正妻と離縁して武家の娘を妻に迎えるような例もありました。
従って、時政娘の場合、「側室」ではなく「正室」と考えるべきだと思います。
ただ、系図類の作者は、ここは身分違いだから「妾」だろう、みたいな解釈を加えていることがありそうです。

7321鈴木小太郎:2022/01/20(木) 13:33:29
野口実氏「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」
ひょんなことから野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)を都合三回精読する羽目になりましたが、この論文は非常に面白いですね。

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1927

全体の構成は、

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はじめに
一、北条時政に対する諸家の評価
 (一)大森金五郎
 (二)佐藤進一
 (三)上横手雅敬
 (四)安田元久
 (五)河合正治
 (六)福田以久夫
二、中世成立の北条氏系図の比較と検討
三、北条時政の係累
 (一)北条時定と服部時定
 (二)牧氏(大岡氏)一族とその本拠
 (三)『吾妻鏡』における牧宗親と大岡時親
むすびに
-------

となっていますが、私は特に第三章の第二節と第三節に刺激を受けました。
まず、「(二)牧氏(大岡氏)一族とその本拠」には、

-------
 ところで、すでに『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』(二〇〇四年)第二編第五章「荘園制の確立と武士社会の到来」(杉橋隆夫執筆)に紹介されたところだが、最近になって牧氏の文化レベルにおける貴族的性格を示す貴重な成果が国文学者浅見和彦によって示されている(「『閑谷集』の作者─西行の周縁・実朝以前として─」有吉保編『和歌文学の伝統』角川書店、一九九七年)。
 この論文によると、鎌倉初期になった歌集『閑谷集』の作者は『鎌倉年代記』に建久三年(一一九二)の「六波羅探題」として所見する牧四郎国親の子息に比定され、彼は養和元年(一一八一)二月ごろ加賀にあり、同年十月ごろ但馬に移って翌春のころまで滞留していたが、文治元年(一一八五)八月、牧氏の本領で平頼盛領であった駿河国大岡庄(牧)内の大畑(現在の静岡県裾野市大畑)に庵を構えるにいたる。そして、そこには都よりの知人も立ち寄り、また涅槃会・文殊講などの法会が執り行われ、あわせて歌会も開かれていたというのである。【後略】
-------

とありますが(p101以下)、ここでは国文学と歴史学・考古学の見事な連繋を見ることができますね。
また、「(三)『吾妻鏡』における牧宗親と大岡時親」には、

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 『吾妻鏡』に記されたこの痴話話のなかで納得できないのは、北条氏よりも高いステイタスにあり、牧の方の父である宗親がどうして政子に仕えるような境遇にあるのか。そして、たとえ頼朝の怒りを買ったとはいえ、当時の社会における成人男子にとって最も恥辱とされるような羽目に陥らざるを得なかったのかという点である。
 宗親が池禅尼の弟であるとするならば、かなりの年輩であることが予測できる。また、その官歴について『愚管抄』は大舎人允、『尊卑分豚』は諸陵助としている。ところが、亀の前の事件を記す『吾妻鏡』に、彼は「牧三郎」として登場し、文治元年(一一八五〉十月二十四日条からは「牧武者所」となり、最終所見の建久六年(一一九五)三月十日条まで変わらない。大舎人允や諸陵助の官歴を有するものが武者所に補されることは考えがたく、ここには何らかの錯誤を認めざるを得ないのである。
 私は『吾妻鏡』に「三郎」「武者所」として所見する「宗親」はすべて、本来その子息である時親にかかるものであると推測する。同書建仁三年(一二〇二)九月二日条に「判官」として初見する大岡時親を宗親と混同して伝えたものと考えるのである。この記事は『愚管抄』の「大岡判官時親とて五位尉になりて有き」という記事に符合する。ついで時親は『明月記』元久二年(一二〇五)三月十日条や『吾妻鏡』同年八月五日条に備前守として登場するが、武者所→判官→備前守という官歴は制度的にも年代的にも整合するところである。したがって、『吾妻鏡』に見える宗親の所見はすべて時親に置き換えられるべきで、宗親は頼朝挙兵以前に死没していた可能性が高いのではないだろうか。
-------

とあります。(p104以下)
「宗親が池禅尼の弟であるとするならば、かなりの年輩であることが予測できる」にもかかわらず、『吾妻鏡』には妙に軽い存在として描かれている謎は、「『吾妻鏡』に「三郎」「武者所」として所見する「宗親」はすべて、本来その子息である時親」であるならば、確かに綺麗に解けそうです。
まあ、『吾妻鏡』の原文を正面から否定することには若干の躊躇いは感じますが、『吾妻鏡』編纂時には、牧氏関係者は全体としてその程度の扱いを受けるほど軽い存在になっていた、ということなのかなと思います。
編纂当時に牧氏の子孫が幕府内でそれなりの存在感を維持していたら、「亀の前」事件が全面削除される可能性もあったでしょうね。

池禅尼(1104?-64?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC

7322:2022/01/20(木) 14:47:00
閑話
大森金五郎の「マンマと」とか「ムチャな」とかの語彙をみると、歴史学の泰斗というより、落語好きの下町のオヤジのような趣があります。夏目金之助と同い年なんですね。

文藝春秋二月号に、『「鎌倉殿の13人」を夫婦で楽しむ』と題して、本郷恵子・本郷和人両氏の対談があります。
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本郷和人??こうやって夫婦で対談するのは、初めてだね。
本郷恵子??そうね。
(中略)
恵子??(藤原)邦通は頼朝のために目代の館で行われる酒宴に参加し、現地を調査して館とその周辺の地図を作成している。映画『幕末太陽傳』でフランキー堺さん演じる佐平次のような人物を想像してください。お酒も飲めて場を盛り上げるし、手紙の代筆もできて、いろいろな知識もある・・・・・・。
和人??それじゃ、僕みたいだ(笑)。
恵子??いや、そんなことはない。フランキー堺はもっと垢抜けてる(笑)。(354頁〜)
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狸夫婦の漫談ですね。

同月号に、先崎彰容氏が、「人新世」の『資本論』に異議あり、と斎藤氏を批判しています。宗教じみた主張をするな、正義に飛びつくな、と。
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結局、私たちの歴史がマルクス主義から得た苦い経験とは、「行動」と「連帯」が人々の自由を奪ってきたこと、大量の粛清を許し、管理社会を生みだしてしまう「逆説」にあった。正義が、義侠心が、大量の死者を生みだすことは逆説以外の何ものでもないではないか。(295頁)
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7323鈴木小太郎:2022/01/20(木) 22:02:35
「頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう」(呉座勇一氏)
「生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした」、「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」という山本みなみ説を数式で表すと、

(時政・牧の方の結婚時期)=(八女頼綱室の生年)−3×(政範の生年-八女頼綱室の生年)-1

となりますね。
二年の間隔で四女(稲毛重成室)・五女(平賀朝雅室)・七女(三条実宣室)・八女(宇都宮頼綱室)の四人が生まれ、八女の生年は1187年ですから、四女が生まれたのは2×3年前の1181年、そして時政・牧の方の結婚はその一年前の1180年という計算です。
これはたまたま(政範の生年-八女頼綱室の生年)=2の場合の話ですが、もう少し一般的に、

Y:時政・牧の方の結婚時期
X:政範の生年-八女頼綱室の生年

とすると、

Y=1187-3X-1=1186-3X

ですね。
従って、

仮に政範と八女が1歳違いであったならば、Y=1183
仮に政範と八女が3歳違いであったならば、Y=1177
仮に政範と八女が4歳違いであったならば、Y=1174

となります。
こう書くと、まるで私が山本説を莫迦にしているように見えるかもしれませんが、「機械的」な「仮定」がある種の滑稽感を伴うことは否めないですね。
そして、山本氏は牧の方が「二十代で一男五女を儲け」たと「仮定」するので、「牧の方腹」の最初の娘が生まれたときに牧の方は二十歳とされますが、これも格別の根拠はないはずです。
身分違いの結婚で、しかも夫の年齢が相当に上となると、牧の方が再婚の可能性もあって、その場合、三十歳くらいまでだったら「一男五女を儲け」ることもさほど不自然ではないはずです。
ま、結局は良く分らず、時政・牧の方の結婚時期は不明といわざるを得ないですね。
しかし山本氏は、「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか」とされるので、その理由を探ったら、杉橋隆夫氏の見解に野口実氏が同意したというだけの話のようです。
まあ、私は杉橋論文をあまり高く評価できないので、山本氏の最終的な結論にも賛成しがたいですね。
ところが、呉座勇一氏は山本氏の見解を妥当とされているようで、『頼朝と義時』において、先に紹介した部分に続けて次のように書かれています。(p36以下)

-------
 前述の通り、池禅尼は死罪になるはずだった頼朝の助命を清盛に嘆願している(20頁)。その実子が、先に触れた平頼盛である。池禅尼は清盛生母(既に死没)よりはるかに身分が高く、朝廷内に広い人脈を持っていたため、清盛にとって頼盛の存在は脅威であった。池禅尼が亡くなると両者の関係は悪化し、清盛は頼盛を一時失脚させている。政界復帰後の頼盛は清盛に従順になったが、清盛と後白河法皇の関係が険悪になると、後白河と親しい頼盛の立場も微妙なものになった。
 頼朝と政子が結婚した治承元〜二年頃は、平家打倒の陰謀が露顕したとされる鹿ケ谷事件の直後である。そして平清盛によるクーデターである治承三年の政変で、頼盛は一時失脚している。
 以上の状況において、平頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政との身分不釣り合いな結婚が、頼盛と無関係に行われたとは考えにくい。頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう。むろん頼朝と連携して清盛に反逆するなどという大それた考えはなかっただろうが、何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか。
 頼朝と政子が結婚した当時、伊豆国の知行国主は源頼政であった。知行国主とは受領(国守)の任免権を持つ者のことである。この場合、頼政は伊豆守を任命でき、嫡男仲綱を伊豆守にしている。すなわち、頼政は伊豆国の最高権力者であった。
 源頼政は平治の乱で平清盛に味方し、武門源氏の中で最も羽振りが良かった。平清盛と良好な関係を保ち従三位まで昇叙したが(武門源氏初の公卿)、一方で源義賢(19頁)の遺児仲家を養子にするなど、源氏一門の生き残りを保護していた。また頼政は八条院に奉仕していた。
 八条院暲子内親王は鳥羽法皇と美福門院の娘で、亡き鳥羽法皇から膨大な荘園群を相続していた。平頼盛は八条院の乳母の娘を妻に迎えており、多数の八条院領荘園の管理を任されていた。清盛に敵対する意思は八条院本人にはなかったが、八条院の周囲には清盛に対して複雑な感情を抱く政権非主流派が集まっていたのである。
 平頼盛─源頼政─源頼朝の提携という政治的動きの中で、頼朝岳父である北条時政と、牧の方の婚姻は進められた。時政にしてみれば、頼朝への先行投資が早速実を結んだ、といったところだったろう。だが自体は、時政の思惑を超えて急転する。
-------

うーむ。
最初にこの文章を読んだときは、呉座氏の洞察は鋭いな、と思ってしまったのですが、山本論文の結論があまり信頼できないとなると、呉座氏の見解も些か微妙な感じがしてきますね。
薄氷の上に積み重ねた議論、砂上の楼閣ではなかろうか、という疑問を抱かざるをえません。

>筆綾丸さん
先崎彰容氏の斎藤幸平批判はネットでも読めますね。
私にも多少の感想がありますが、また後程。

「ベストセラー新書「人新世の『資本論』」に異議あり 「脱成長」思想の裏にある“弱さ”とは何か」
https://bunshun.jp/articles/-/51373

7324:2022/01/21(金) 10:48:30
三頼説?
小太郎さん
「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」と時政の再婚を絡めた話は、挙兵の結果を知っている後世の人間が時間を遡及させて組み立てたもので、まるで、頼朝は成功すべくして成功したのだ、と言っているように素人には思われます。伊豆の流人の存在感が眩しすぎてクラクラします。

7325鈴木小太郎:2022/01/21(金) 13:50:40
「何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか」(by 呉座勇一氏)
>筆綾丸さん
>「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」と時政の再婚を絡めた話は、挙兵の結果を知っている後世の人間が時間を遡及させて組み立てたもので、

全くその通りですね。
18日の投稿で引用したように、呉座氏は、

-------
 杉橋氏は、保元三年(一一五八)に時政二十一歳、牧の方十五歳の時に結婚したと推定した。五位の位階を持つ貴族の家である牧氏出身の牧の方と結婚できたとすると、時政も相応の身分の武士ということになる。
 しかし杉橋氏のシミュレーションに従うと、牧の方は四十六歳の時に政範(義時の異母弟)を出産したことになり、非現実的であるとの批判を受けた。本郷和人氏は、二人の結婚は、治承四年(一一八〇)以降、すなわち頼朝挙兵後と想定した。
 最近、山本みなみ氏は、二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前とした。けれども、山本氏の場合も、頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定している。だとすると、時政が牧の方と結婚できたのは、もともとの身分が高かったからとは必ずしも言えない。むしろ、時政が頼朝の舅になったことが大きく作用したのではないだろうか。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11111

と書かれていたので、私は山本みなみ氏の推定が相当確実なのだろうと判断し、そうであれば「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」も考慮すべきなのかな、と思ってしまいました。
しかし、「杉橋氏のシミュレーション」を修正した山本氏の「一次方程式」と杉橋説では、いくら野口実氏の太鼓判がついていようと、少なくとも時政・牧の方の結婚時期については全く説得力がありません。
牧の方の結婚時の年齢についても、私は「平頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政との身分不釣り合いな結婚」で、かつ親子ほどに年齢が離れた究極の年の差婚であることを考えると、牧の方も再婚のような感じがするのですが、研究者が誰もその可能性に言及しないのは不思議です。
いずれにせよ、結婚というのは好き嫌いという感情を含め、偶然の事情が大きく左右するので、例えば牧の方が、最初は身分と年齢の釣り合いがとれた貴族社会の男性と結婚したものの、相手が死ぬか「性格の不一致」で離婚して、実家に戻っていたところ、それを心配した父親が、まあ、身分不釣り合いの年の差婚でも仕方ないか、ということで、政治情勢とは全く関係なく、結婚を認めた、という可能性もありそうです。
また、牧の方は時政失脚後も離婚などせず、伊豆北条で落魄の時政の世話を続けていたようですから、時政への愛情は深かったように思われますが、そうであれば、時政・牧の方の間に頼朝と政子のようなラブロマンスが絶対になかったとも言い切れません。
「牧の方」という名前もなかなかワイルドなので、あるいは彼女は乗馬が大好きの活動的な女性であり、遠乗りに出かけたところ道に迷い、たまたま出会った時政が親切に道案内してくれたので、もともと貴族社会の軟弱男など好きでなかった牧の方は時政のワイルドな魅力に惹かれ、父親が身分違いだの年の差がありすぎるなどと反対したにもかかわらず、駆け落ち同然に時政邸に赴いた可能性だって絶対にないとは言い切れないはずです。
とか書きながら、まあ、それは多分なかったと思いますが、とにかく結婚というのは様々な偶然が関るので、特定の政治状況から、直ちにその時期を確定するなどというのはおよそ無理ですね。
そして当時の政治状況にしても、山木邸襲撃はともかく、石橋山合戦は、よくまあここまで無謀な戦いに生き残れたものだ、と感心するような悲惨な戦闘です。
頼朝の挙兵は乾坤一擲の大博奕で、普通だったらあっさり敗北して時政も野垂れ死だったはずが、奇跡的に何とか生き残った訳ですからね。
その後、東京湾を一周廻っている間に頼朝の勢力は急速に膨張しますが、その結果を遡らせて、まるで頼朝が勝つのが当然だった、頼盛も頼政も、牧の方の父親も、みんなそれを予知していた、みたいな書き方は、「むろん頼朝と連携して清盛に反逆するなどという大それた考えはなかっただろうが、何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか」とトーンダウンさせても、やはり無理が多く、呉座氏が嫌う「結果論的解釈」そのものではなかろうかと思います。

呉座勇一氏「源頼朝は朝廷からの独立を目指したか?」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78141?page=4

7326:2022/01/21(金) 19:24:11
炯眼
小太郎さん
牧の方に宮沢りえを配したところからすると、炯眼の三谷幸喜氏は、牧の方は初婚ではなく再婚だろう、と見抜いているような気がしますね。野暮なのは研究者だ、と。

https://www.nhk.or.jp/bunken/accent/faq/1.html
NHKは、北条を頭高型(ホウ\ジョウ)で発音するのですが、平板型の発音に慣れている私には、別の氏族のような違和感があります。

7327ザゲィムプレィア:2022/01/21(金) 21:16:29
牧宗親は池禅尼の弟か?
小太郎さんが紹介された野口実氏の『伊豆北条氏の周辺』を読み、改めて池禅尼の周辺を調べてみました。

宝賀寿男氏の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』を見つけました。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/makinokata.htm
結論は弟であることを否定しています。系譜研究者の文章は慣れていないのですが、なかなか興味深いものでした。
なお、(2002.8.9記)という文章です。

以前に紹介した『資料の声を聴く』を運営している原慶三氏が宝賀氏を取り上げているのですが、そこで『諸陵助宗親について』を見つけたので引用します。
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1180.html
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 池禅尼ならびに待賢門院判官代宗長の弟とされる宗親について、『中右記』保延二年一二月二一日条に関連記事があることに気づいた。杉橋氏の論考に否定的な宝賀氏を含め、これまでの研究で言及されたことはないようである。 統子内親王御給で任官、叙任した人物を確認する中で偶然遭遇した。統子内親王が母待賢門院からその所領の一部を譲られた時期を考えるためであった。
 まさに同日の小除目で藤宗親が諸陵助(正六位上相当)に補任されている。その前には二一才の源師仲と一二才の藤伊実が侍従(従五位下相当)に、年齢不詳の藤為益が縫殿頭(従五位下相当)に補任されたことが記されている。師仲は四年前、伊実は六年前に叙爵しており、為益もすでに叙爵していたと思われるが、宗親は叙爵前であった。宗親には系図にも関連する記載がなく、叙爵することなく死亡したと考えられる。
 兄宗長は大治五年正月には「五位判官代宗長」とみえ、叙爵した上で待賢門院判官代であったことが確認できる(『中右記』)。和泉守に補任された時期を示すデータはないが、前任者である父宗兼は長承三年末に重任している。宗親が諸陵助に補任された前後に、和泉守が宗兼から子宗長に交替したと思われる。兄宗長の叙爵が確認できる六年後にも宗親は叙爵しておらず、両者の間にはそれ以上の年齢差があったのであろう。
 源師仲は師時の子、藤原伊実は伊通の子であり、叙爵年齢の違いは親の差(その時点ではともに権中納言であるが、年齢は伊通が一七才若い)によるのだろう。宗長と宗親の父宗兼は院の近臣ではあったが、その位階は従四位上であり、諸陵助に補任された時点の宗親は二〇才前後で、その生年は永久五年(一一一六)前後ではないか。池禅尼はその時点で三三才で二男頼盛はすでに生まれている。宗長は二〇才代後半であろうか。
『尊卑分脈』でも宗長には「従五位上下野守」、宗賢「下野守従五位下」(ただし宗賢を歴代下野守に挿入可能な時期はない)との注記がある。宗長は仁平三年の死亡時で四〇才前半であったと思われる。宗親も三〇才過ぎには叙爵可能であったはずであり、極官が「諸陵助」であるならば、それ以前に死亡したことになる。当然、大岡宗親とは別人であり、牧の方(以前述べたように政子=一一五七年生と同世代か)が生まれる前に死亡した人物となる。杉橋氏とその関係者は一刻も早くその説を撤回すべきである。
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可能性としては死亡以外に長患い或いは出家もありますが、いずれにしてもこのようなキャラクターが地方に下り荘官になることは無いでしょう。
この結論が正しいとすれば、時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚ということになります。

7328:2022/01/22(土) 13:13:55
幽霊
ザゲィムプレィアさん
幽霊の正体見たり枯尾花
といったところでしょうか。
余談ですが、藤沢周平の名作『蝉しぐれ』の主人公は牧文四郎といいますね。

7329鈴木小太郎:2022/01/22(土) 23:30:04
「いまどき連名の論文は珍奇なようであるが」(by 細川重男・本郷和人氏)
念のため書いておくと、前回投稿の「「牧の方」という名前もなかなかワイルドなので、あるいは彼女は乗馬が大好きの活動的な女性であり、遠乗りに出かけたところ道に迷い、たまたま出会った時政が親切に道案内してくれたので」云々はもちろん冗談です。
ま、近時のある出来事をヒントにはしていますが。
さて、従前の常識に従って時政と牧の方の結婚が牧の方の父の承認を得た政略結婚であり、かつ身分違いの年の差婚であったとするならば、時期的にはやはり頼朝が石橋山合戦の敗北から奇跡的に立ち直って、東京湾を一周廻って鎌倉に入った治承四年(1180)十月六日以降じゃないですかね。
牧の方の父としては、それまでは北条など身分違いと思っていたとしても、時政の地位が劇的に向上したのを見て、世の中、やっぱり金と実力だよね、という方向にあっさり転換し、娘を嫁がせたのではなかろうかと私は想像します。
そして、山本みなみ氏によれば、牧の方は文治三年(1187)に宇都宮頼綱室、文治五年(1189)に政範を生んだ後、もう一人娘(坊門忠清室)を生んでいて、都合「一男五女」という多産の女性ですが、婚姻のときに三十歳くらいまでであれば「一男五女」を生んでもそれほど不自然ではないはずです。
山本みなみ氏が「一男五女」について細かく検討される前に発表された細川重男・本郷和人氏の連名論文「北条得宗家成立試論」(『東京大学史料編纂所研究紀要』11号、2001)によれば、

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 時政が牧の方を妻に迎えたのは、やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか。四十代の彼は「ワカキ」牧の方を後妻に迎える。そして、先の三人の子が生まれる。彼らの生年を仮に朝雅室一一八四年、頼綱室八六年、政範八九年と推定すれば、これ以降の史実との間に全く齟齬が生じない。婚姻が八三年に行われ、牧の方が十五才であったとすると、政範を産んだとき二十一歳、後年、一族を引き連れて諸寺参詣し、藤原定家の批判を受けたとき五十九歳。まことに具合いがよい。

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/11/kiyo0011-hosokawa.pdf

とのことですが(p2)、「やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか」は穏当な理解だと思います。
ただ、仮に婚姻が1183年だとすると、北条時政は四十六歳ですから、牧の方が十五歳であれば、年の差は三十一です。
うーむ。
あれこれ考えると、牧の方も再婚で、婚姻時に二十五歳くらいであれば、すべての辻褄が合って「まことに具合いがよい」ように感じます。
なお、細川・本郷論文の「はじめに」には、

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 いまどき連名の論文は珍奇なようであるが、本稿は両名共同の研究作業の成果であり、やむを得ずかかる形をとることにした。1は本郷、2と3は細川が主に叙述したが、私たちは本稿全体への責任を共有するものである。
-------

とありますが、二十年前の両者の関係とその後の推移を知っている私としても感懐の深いものがあります。

>筆綾丸さん
>牧の方に宮沢りえを配したところからすると、炯眼の三谷幸喜氏は、牧の方は初婚ではなく再婚だろう、と見抜いているような気がしますね。

そうですね。
女優ですから本気で化粧すれば十代にも化けるのでしょうが、自然な年代設定でしたね。

>ザゲィムプレィアさん
牧の方の出自と池禅尼との関係については、ツイッターでも「千葉一族」というホームページを運営されている方からご意見を伺っています。
正直、つい最近、この問題に関わるようになった私には対応する能力がありませんが、大河ドラマの進展に合わせて、もう少し深めて行きたいと思います。

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武者所宗親と大岡時親は同一人物ではないかと思っています。あくまでも推測ですが。
『愚管抄』によれば、「大舎人允宗親」は「牧の方」と「大岡時親」の父。『吾妻鏡』では「牧の方」の兄弟が「武者所宗親」。(続く)
https://twitter.com/chibashi4/status/1484041110251274240

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牧の方の父「大舎人允宗親」や「牧武者所宗親」と同一人物とされる、池禅尼の兄弟「諸陵助宗親」は、保延2(1136)年12月21日に諸陵助に任じられています(『中右記』保延二年十二月廿一日条)。
https://twitter.com/chibashi4/status/1484389131627413510

7330ザゲィムプレィア:2022/01/23(日) 09:41:28
宗親と時親に関する宝賀寿男氏の意見
1/21の投稿「牧宗親は池禅尼の弟か? 」で紹介した宝賀氏の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』から引用します。
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大岡時親は、宗親が『東鑑』の記事から消えた建久六年(1195)の後に、ごく短期間だけ登場する。すなわち、同書の建仁三年(1203)9月3日条に初出で大岳判官時親と見え、比企合戦(
比企能員の乱)の鎮圧に際し、時政の命により派遣され比企一族の死骸等を実検したと記される。次いで、その二年後の元久二年(1205)6月21日条に畠山父子誅殺に際し、備前守時親は、牧御方の使者として北条義時の館に行き、重忠謀反を鎮めるように説得したことが記される。その二か月後の8月5日条には、時政の出家に応じ、大岡備前守時親も出家したと記され、これが『東鑑』最後の登場となった。終始、時政の進退に殉じたわけである。以降、牧氏が歴史に再浮上することはなかった。
 『愚管抄』の記事により牧の方の兄とされる時親であるが、突然に判官(五位尉)として現れ、その二年後(1205)には備前守に任じている。備前は上国で守は従五位下相当とされるが、北条時政ですら従五位下遠江守に任じたのが正治二年(1200)、義時が従五位下相模守に任じたのが元久元年(1204)、
その弟・時房がその翌年の元久二年(1205)に時親に少し遅れる8月に従五位下遠江守に任じた(当時31歳)ことからみて、なぜか異例の昇進を時親が遂げたといえよう。
 これらの動向を見てみると、建仁三年(1203)には判官になっていたのは、建久六年(1195)の武者所を承けて官位昇進したものとみられ、「宗親=時親」と考えるのが自然となろう。すなわち、時親は宗親の改名であり、牧宗親が判官補任を契機に「大岡判官」と名乗り、名前も北条氏に名前に多い「時」を用いて時親に改名したのではないかと推するのである。そう考えないと、父が六位で卒去したのに、その八年ほどしか経たないうちに息子が最初から五位で登場するという不可解なことになるからである。
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なお愚管抄について「時正(註:北条時政)ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウト(註:同腹の兄)ゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ」
を引用していて、同時代史料と認めた上で以下のように述べています。
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『東鑑』のほうから『愚管抄』の記事を見ていくと、後者にはいくつかの混乱・誤記があると考えざるをえない。それらは、著述者の居住地・環境による情報源や問題意識の差異により生じるものでもあり、当時としてはやむをえないものでもあろうが。
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7331:2022/01/24(月) 21:41:37
大河寸評
『鎌倉殿の13人』第3回は、文覚(市川猿之助)が頼朝の前に伝義朝髑髏を放り投げて辞すときの、
「(そんなものは)ほかにもまだあるから」
という捨て台詞が素晴らしかった。猿之助は三谷映画の端役として絶妙な味を出していますが(『ザ ・マジックアワー』では、まだ亀治郎だったので、往年の時代劇スター・カメという端役でした)、これも大河ドラマの名場面になるかもしれません。

慈円は、
おほけなくうき世の民におほふかな
わが立つ杣に墨染の袖??(小倉百人一首95番)
などと殊勝な歌を詠んでますが、愚管抄の「時正ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹二子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ」というような一文を読むと、天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、とあらためて思います。

7332鈴木小太郎:2022/01/24(月) 21:58:56
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」
山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち」に先行研究として紹介されていた星倭文子(ほし・しずこ)氏の「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」」(服藤早苗編『女と子どもの王朝史』、森話社、2007)を読んでみましたが、これは面白い論文ですね。

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成人男性中心の歴史からは見落とされがちだった「女・子ども」の存在。
その姿を平安王朝の儀式や儀礼、あるいは家や親族関係のなかに見出し、「女・子ども」が貴族社会に残した足跡を歴史のなかに位置づける。

http://www.shinwasha.com/73-7.html

星論文の構成は、

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1 はじめに
2 婚姻の成立と家長の力
 1 武家の場合
 2 貴族の場合
3 婚姻の政治的背景……関東との縁
 1 藤原実宣の場合
 2 藤原国通の場合
 3 藤原実雅と源通時の場合
4 離婚
 1 藤原公棟の婚姻と離婚
 2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚
 3 離婚不当の訴え
5 おわりに
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となっていて、面白い事例がふんだんに紹介されているのですが、藤原公棟の例は特に面白いですね。(p284以下)

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 1 藤原公棟の婚姻と離婚

(18)嘉禄二年五月二十七日条
   中将入道<公棟>に嫁ぎたる新妻独歩すと云々。時房朝臣の子次郎入道の旧妾なり。<彼等の妻妾皆参商
   といえども、所領を分け与える之間、猶その力あり>本妻の常海の女、又離別せず、なお相兼ねる。

 ここでは、離婚についていくつかの史料を提示したい。まず、北条時房の息の次郎入道・北条時村のもとの妾が、藤原公棟に嫁いでいる。しかし公棟は、本妻とは別れていない様子が記されている。北条時村は、前年の十二月八日条に「十二月二日に死去」とある。妾は、半年足らずで再婚していることになる。「所領を分け与える之間、猶その力あり」とあり、女性に資産があったことから結婚したともとれる。ところが、

(19)嘉禄二年六月十日条
   世間の事等を談ず。中将入道<公棟>新妻<本より大飲して、ここ衆中に列座して、盃酌す。其比にセトノ法橋、
   定円闍梨、公棟朝臣、その妻列座すと云々。>程なく離別す。

とあり、一か月も経たないうちに離縁している。当時は離婚の理由が明確にならないことが多いのに、「新妻大飲して」と明記されているのは興味深い。新妻は大酒飲みだったのである。このことが離婚の理由であったと考えられる。
-------

結婚の理由が金目当て、離婚の理由が妻が大酒飲みであるという非常に分かりやすい事例ですが、宴会に女性が参加すること自体は公棟も認めていて、ただ、そこまで飲むとは思わなかった、ということのようですね。
「新妻」はまことに豪快な女性ですが、ただ、こうした自由奔放な行動を取れるのは、結局はその女性に財産があることが裏づけになっていますね。
北条時村の「妾」だったというこの女性の出自を知りたいところですが、この婚姻は純粋に公家社会の例とはいえなさそうです。
なお、北条時村は時房息という出自に恵まれながら若くして出家したようで、この人もちょっと変わった人のようですね。
政村息の時村(1242-1305)とはもちろん別人です。

北条時村 (時房流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%9D%91_(%E6%99%82%E6%88%BF%E6%B5%81)

>ザゲィムプレィアさん
牧の方の娘に貴族に嫁した女性が多いのは間違いないので、仮に「時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚」に過ぎないとしても、牧家が京都との特別な関係を持つ家であることは争えないと思います。
また、平頼盛の所領は後に久我家の経済的苦難を救うことになるのですが、その伝領に、もしかしたら牧の方の周辺も絡んでくるのかな、といった予感があるので、もう少し丁寧に見て行きたいですね。

>筆綾丸さん
>天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、

これは本当にその通りですね。
歌好きも殆どビョーキっぽいところがありますね。

7333鈴木小太郎:2022/01/25(火) 11:21:46
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その2)
星倭文子氏には『会津が生んだ聖母 井深八重―ハンセン病患者に生涯を捧げた』(歴史春秋出版、2013)という著書があって、その著者紹介によれば「1939年水戸市生まれ。福島大学大学院地域政策科学研究科修了。総合女性史研究会会員」だそうですね。

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会津藩家老西郷頼母の一族に生まれた井深八重は、同志社女子学校を卒業し、長崎県立高等女学校の英語教師として長崎に赴任しました。その後身体に異変が生じ、ハンセン病と疑われて神山復生病院に入院しましたが、それは誤診だったのです。しかし八重は病院を去る事はありませんでした。看護婦としてハンセン病患者の看護に一生を捧げた生涯でした。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784897578118

「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」は冒頭の学説史整理がありがたいですね。

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1 はじめに

 婚姻形態についての本格的な研究は、高群逸枝氏が一九五三年に発表した『招婿婚の研究』に始まるといっても過言ではない。高群氏は古代から現代までの婚姻体系を提示し、歴史的変遷を明らかにした。古代は群婚から妻問婚をへて婿取婚へ、平安中期は純婿取婚、平安末期は経営所婿取婚とし、鎌倉時代になると、婿取儀式形式を残しつつ、次第に夫方居住に移行をはじめ、それに伴い、家父長権が絶対的なものとなった、と指摘している。その結果、室町時代から嫁取婚が行われるようになり、婚姻も男女よりも家と家の結びつきが濃厚になった、とする研究である。
 その後、関口裕子氏は、高群氏の主張と実証が乖離しているとしながらも批判的に継承している。一方、高群説には多くの問題があると批判している研究者は、主として江守五夫氏、鷲見等曜氏、栗原弘氏の三人である。さらに、服藤早苗氏は、高群氏が婿取婚とした平安時代の婚姻形態に関し、最新の研究成果から、?「婿が妻族に包摂されないので、婿取婚の用語は不適切」、?「居住形態からは妻方居住を経た独立居住と当初からの独立居住」、?「十世紀以降の婚姻決定は妻の父であり、夫による離婚が始まるので、家父長制下の婚姻形態」との特徴を持つ、と述べている。
 小稿で検討する鎌倉期の婚姻形態については、次のような研究がある。辻垣晃一氏は平安時代末期から鎌倉時代初期の公家の結婚形態についての検討で、石井良助、高群逸枝、関口裕子各氏の嫁取婚成立時期に関する研究は十分な史料的裏付けに基づいて展開されていないと指摘し、独自の史料検討を行った結果、一般的な婚姻形態は婿取婚だった、と結論づけている。また、辻垣氏は、武家の場合についても、婿取婚から嫁取婚へと発展図式で捉える高群氏、田端泰子氏の説や、西日本に婿取婚の存在を推察し地域性を主張する高橋秀樹氏の説に対し、史料検討の結果、嫁取婚であったと述べている。一方、五味文彦氏は「『明月記』の社会史」「縁に見る朝幕関係」「女たちから見た中世」などで、杉橋隆夫氏は「鎌倉初期の公武関係」で、政治的背景や社会史の面から具体例を検証しているが、婚姻形態の専論ではない。
 婚姻決定権については、奈良時代までの婚姻形態は、男女ともに婚姻決定権・離婚権があり、両者の合意により婚姻関係が発生し、どちらかの一方が婚姻を解消したい場合は、自然解消している。平安時代には、妻方の両親が婚姻決定に介入し、次第に妻方の父親が婚姻の決定権を持つようになる。鎌倉時代になると夫方の父が婚姻決定に介入し、夫方・妻方ともに父が決定権を持つ、とするのが通説的見解のようである。
-------

いったん、ここで切ります。
私の関心からは、鎌倉時代は公家の場合「一般的な婚姻形態は婿取婚」で、「武家の場合についても、婿取婚から嫁取婚へと発展図式で捉える高群氏、田端泰子氏の説や、西日本に婿取婚の存在を推察し地域性を主張する高橋秀樹氏の説に対し、史料検討の結果、嫁取婚であったと述べている」辻垣晃一氏の見解が気になります。

https://researchmap.jp/tsujigaki

また、婚姻決定権については、「姫の前」の場合は「夫方・妻方ともに父が決定権を持」っておらず、頼朝が事実上の決定権を持っていたという非常に特殊な例ですね。
義時としては、おそらく「姫の前」の父親ないし比企一族の最有力者に手を廻して「姫の前」を説得してもらおうとしたのでしょうが、「姫の前」の強烈な個性に拒まれ、最後は頼朝に泣き寝入りという感じだったのでしょうか。
さて、星論文の続きです。(p263以下)

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 離婚については、栗原弘氏の『平安時代の離婚の研究』、田端氏の「中世社会の離婚」「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」、脇田晴子氏の「町における女の一生」などの研究がある。栗原氏は、平安時代の離婚は夫婦二人の問題であり、当事者主義が原則的で、夫は妻の過失の有無にかかわらず、妻を離別することが認められていた、と主張する。その背景には、夫は結婚・再婚に経済的負担がないため、安易に結婚・離婚・再婚を行うことが可能であったこと、両性の権利の不均衡の淵源は古代社会が一夫多妻制であり、離婚の権利を男性が所持していたこと、などを述べている。さらに、離婚された女性は、離婚をドライに受け止め、新しい結婚生活へ立ち向かおうとする積極的な姿勢が乏しい、あるいは、離婚後の女性の明るい話がほとんど見られないことなども述べている。だが、果たしてそういいきれるだろうか。
 田端氏は、鎌倉期の離婚について次のように説明している。まず、鎌倉期には婚姻が家と家との結びつきを意味するようになり、長期的・安定的な婚姻が望まれたので、武家社会で公然化された。そのため離婚は、家と家との結合の破綻を意味することになり、これも公然化する必要が出てきて、宣告離婚が発生した、と述べている。首肯しうる見解であるが、貴族社会については具体的・実証的検討はされていない。
-------

田端氏の見解について、星氏は武家社会については「首肯しうる」とされていますが、田端説が正しいのであれば、「姫の前」についての私見、すなわち「姫の前」は比企氏の乱(1203)の結果、義時と離婚させられたのではなく、その前に「姫の前」の側から離婚を「宣告」した、という考え方(超絶単独説)は、政治史の面にも波及しますね。
鎌倉期の武家社会が、当事者、というか夫の意思で自由に離婚できる社会から「婚姻が家と家との結びつきを意味するようになり、長期的・安定的な婚姻が望まれた」社会になっていたとすると、義時と「姫の前」の離婚は北条家と比企家の「結合の破綻を意味することになり」ます。
とすると、二人の離婚が比企氏の乱の原因の一つではなく、主因であった可能性すら出てきますね。
ま、私見では、「姫の前」はそんな面倒くさい家と家の関係など知ったことか、とさっさと義時に三行半を突き付け、のんびり京都まで大名旅行をして、義時のような野暮ったいマッチョとは異なる教養溢れる歌人の源具親と再婚して楽しく暮らしていたのだろうと思いますが。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)〜(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11080
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11082
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11087
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち(補遺)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11088

7334:2022/01/25(火) 18:00:27
能員というカモネギ
小太郎さん
離婚が家と家との結合の破綻であるとすれば、姫の前と義時が離婚したあとなのに、能員は義政の招きに応じて、まるでカモネギのように(六代将軍義教が鴨の子に誘われて赤松邸で殺されたように)、なぜ平服でのこのこ名越邸に赴いたのか、という疑問が残りますね。
姫の前と義時の離婚は、朝宗と義時の関係が破綻しただけで、能員と義政の関係が破綻したのではない、と能員は考えたのか。あるいは、義政の仏事供養という招きは、比企家と北条家の関係修復の絶好の機縁と考えたのか。あるいは、たんに能員は烏滸だったのか。
比企氏滅亡の話を遠く京都で聞いて、聡明な姫の前は何を思ったか、興味は尽きないですね。

7335ザゲィムプレィア:2022/01/25(火) 22:02:53
比企能員について
筆綾丸さん
比企能員は頼朝の流人生活を経済的に支え続ける才覚を持った比企尼の一族で、頼朝に認められ頼家の乳母父になりました。さらに、奥州合戦では北陸道大将軍を務めました。
北条との武力衝突を避けたいという思いはあったかもしれませんが、吾妻鏡に記述されるような単純な計略にかかることはなかったでしょう。
巧妙な罠が仕掛けられたかもしれませんが、もはやそれが明らかになることはないでしょう。

ゴッドファーザーパート1でマイケルは父と兄の仇を次のような罠で仕留めました。
?偽って手打ちに応じるポーズを見せる
?それを纏めるため中立な場所での会談を設定する
?安全の為会談は本人だけでボディガードは同席せず、互いに入室前に身体検査して丸腰を確認する
?会談場のトイレに予め隠したピストルで仇を射殺、そこから脱出して高飛びする

7336鈴木小太郎:2022/01/26(水) 10:33:07
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その3)
前回投稿で引用した部分の続きです。(p264以下)
先行研究を踏まえた星氏自身の課題設定ですね。

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 鎌倉期の婚姻形態や婚姻決定権などについては、実態に即した実証的研究が少ないのが実情であるので、小稿では、藤原定家の『明月記』を素材として、中級貴族である藤原定家の見た婚姻について検証してみる。『明月記』は治承四年(一一八〇)から嘉禎元年(一二三五)、定家十九歳から七十四歳までの日記であり、そこには女性たちについての様々な記述がある。特に嘉禄年間(一二二五〜二六)には、婚姻や男女間のことをめぐって興味深い記述が多い。ゆえに、短い期間ではあるが、小稿では先行研究を踏まえながら嘉禄年間の記述を主に、婚姻の決定権について武家と公家の違いや、婚姻・再婚の実態から見えてくるものを、そして離婚における女性の意思についても検証することとしたい。当時の離婚は家の形成にとって重要な役割を果たしていた。したがって、家族史研究にもささやかな寄与ができうるものと考えている。なお、『明月記』に関しては年月日のみをしるすこととする。
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嘉禄年間に着目された理由を星氏は明確に述べておられますが、この時期が承久の乱後の、まだまだ政治的・経済的、そして精神的混乱が続いている時期であることは留意すべきでしょうね。
承久の乱の戦後処理については多くの研究者が「前代未聞」「未曾有」「驚天動地」といった最大級の修飾語を工夫していますが、とにかく全ての価値の基準である天皇が廃位され、「治天の君」を含む三上皇が流罪となったのですから、従来の倫理秩序も動揺しないはずがありません。
朝廷は直属の軍事組織を失ってしまい、そうかといって幕府が責任をもって京都の治安維持を約束してくれた訳でもないので、強盗の横行など、社会秩序も乱れに乱れます。
こうした中で、結婚や夫婦間の関係についても当然に価値観の変動があったはずですね。
従って、『明月記』の嘉禄期の事例をどこまで一般化してよいのかという疑問はつきまといますが、全体的に記録が乏しい中で、やはり『明月記』の存在は貴重です。
さて、(その1)では「時房朝臣の子次郎入道の旧妾」であり、藤原公棟と再婚したものの、大酒飲みのために一か月で離縁となった「新妻」の例を紹介しましたが、優れた政治家とされている時房の周辺は、家族や夫婦の関係ではけっこうな騒動が多いですね。
まず「次郎入道」時村は承久二年(1220)正月十四日、弟の資時とともに突如として出家してしまいます。
兄弟二人一緒に出家というのは何とも異様な感じがしますが、これは『吾妻鏡』にも、

-------
相州息次郎時村。三郎資時等俄以出家。時村行念。資時眞照云云。楚忽之儀。人怪之。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma24b-01.htm

と記されていますね。
その後、時村(行念)は親鸞との関係があったようですが、出典は宗教関係の史料なので、どこまで信頼できるのか若干の問題がありそうです。
ただ、出家しても女性関係は変わらないという点では、いかにも浄土真宗っぽい感じはしますね。

北条時村(時房流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%9D%91_(%E6%99%82%E6%88%BF%E6%B5%81)

そして星論文では、「2 婚姻の成立と家長の力」に入ると再び時房の四男・朝直の事例が出てきます。

-------
  1 武家の場合

 『明月記』の嘉禄年間に記された婚姻の記述には、武家と公家では家長の関わり方に違いが見える。辻垣晃一氏は、平安時代末期から鎌倉時代初期の婚姻形態について、重要なのはどこで婚姻儀式を行ったかではなく、婚姻の開始はどういう形式であり、誰が婚姻儀式を差配したかという点である、と指摘している。
 ここでは婚姻の決定過程に武家と公家の違いがあるのか、またある場合は何が違うのかを検証していきたい。第一に取り上げるのは、定家が関東の婿取りのこととして注目している、北条泰時の婿取りである。

(1)嘉禄二年(一二二六)二月二十二日条
  関東執婿の事と云々、武州の女、相州嫡男<四郎>・朝直に嫁す。愛妻<光宗女>があるにより、
  頗る固辞すと。父母懇切に之を勧めるによると云々。
(2)嘉禄二年三月九日条
  武州婚姻のこと、四郎<相州嫡男>猶固辞する。事已に嗷々と云々。相州子息惣じて其の器に
  非ず歟。出家の支度を成すと云々。本妻の離別を悲しむに依るなり。公賢朝臣の如きか。
-------

この後の説明がちょっと長いので、いったんここで切ります。
時村・資時の出家により朝直が嫡男とされていたようですが、その朝時まで出家してしまったら時房の権威は丸つぶれ、目も当てられない事態ですね。

>筆綾丸さん
本郷和人氏も重視する比企能員のカモネギ的行動ですが、『吾妻鏡』の記述をどこまで信頼できるかという問題がありますね。
ま、疑い出したら本当にキリがありませんが。

7337:2022/01/26(水) 12:26:52
シンプルな事件
ザゲィムプレィアさん
『吾妻鏡』の記述が事実ならば、という前提で話をしているだけなんですよ。『吾妻鏡』が韜晦なら、話は変わります。

映画『ゴッドファーザー』の関連で言えば、比企の乱は、ホテルのペントハウスでのマフィアの幹部会をヘリコプターから機銃掃射して殲滅する場面(PART ?)のほうが近いと思います。
つまり、北条側は謀叛か何かを理由に比企邸を奇襲して皆殺しにした、というシンプルな事件と解すればよく、巧妙な陰謀をめぐらしたなどと考える必要はないのです。

7338鈴木小太郎:2022/01/26(水) 13:14:15
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その4)
続きです。(p266以下)

-------
 当時執権となった武州・北条泰時の娘が、相州・北条時房嫡男四郎朝直に嫁す記事である。朝直は当時二十歳、すでに妻がいた。愛妻とは、伊賀朝光の息子光宗の娘である。朝直は泰時の娘との婚姻を断るが、父母は婚姻を熱心に勧めている。この婚姻は、武家家長である父親同士により決定されるものである。父は北条時房であり、母は安達遠元の娘という説もあるが定かではない。時房は初代の連署に就任しており、泰時の叔父にあたる。「承久の乱」では共に上洛し六波羅探題になるほど泰時を補佐し良好な関係にあった。一方、伊賀朝光の息子光宗は、妹が北条義時の妻となっており、妹の義時の間に政村がいた。光宗は、元仁元年(一二二四)に妹の義時妻と共に将軍藤原頼経を廃して義時の女婿である藤原能保の息子・実雅を将軍にたて、北条政村を執権に就かせようとした「伊賀氏の乱」が失敗し、信濃国に配流されていた。その光宗の娘が正妻であり、愛妻であったことから、朝直は泰時の娘との婚姻を渋る。
 この婚姻を熱心に勧めた朝直の父である時房にとっては、すでに執権となった泰時の娘との縁組みは望むところであったろう。北条本家の娘が庶家に嫁すということは、泰時にも時房への懐柔・同盟強化の意図があったものと考えられる。朝直は光宗の娘との別れを悲しみ、出家も考えるが結局はそれも叶わず、光宗の娘とは離別し、泰時の娘を妻に迎える。父親への抵抗は出家をすることであるが、それはできず、そこには確かに家長の強大な権限が見て取れる。
 朝直は、光宗の娘との間には子供がいなかったが、泰時の娘との間には時遠・時直をもうけている。しかし、時期は不明であるが泰時女は朝直とは別れ、後に北条光時と再婚した。
 朝直の婚姻について、高群氏は、一族の家長の威迫と述べているが、双方の思惑が一致したためと考えたい。【後略】
-------

「光宗は、元仁元年(一二二四)に妹の義時妻と共に将軍藤原頼経を廃して……」とありますが、僅か三歳で鎌倉に下った頼経は直ぐに征夷大将軍となった訳ではなく、宣下は嘉禄二年(1226)正月二十七日ですね。
『吾妻鏡』では同年二月十三日条に、

-------
佐々木四郎左衛門尉信綱自京都歸參。正月廿七日有將軍 宣下。又任右近衛少將。令敍正五位下給。是下名除目之次也云云。其除書等持參之。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma26.5-b02.htm

とあります。
その他、この時期の泰時と時房の関係が「北条本家」と「庶家」と固定化していたのかを含め、星氏の武家社会理解には多少の疑問を感じるところがありますが、とりあえずそれは置いておきます。
さて、伊賀氏の乱で実家の後ろ盾を失い、離縁を余儀なくされた光宗の娘は気の毒ですが、そうかといって新しく朝時の正室となった泰時娘が幸せだったかというと、そうでもなさそうですね。
朝時との間に「時遠・時直をもうけ」たものの、「時期は不明であるが泰時女は朝直とは別れ、後に北条光時と再婚した」訳ですから、結局は元妻に未練たっぷりの朝時とは上手く行かなかった訳で、朝時の再婚は誰一人として幸せにしない残酷なものだったということになります。
そして、朝時と泰時娘の間に二人の子供がいたとはいえ、それが決して夫婦間が円満であったことの証拠ではないという事実は、山本みなみ氏によれば「およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていた」義時と「姫の前」の関係を考える上でも参考になりますね。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11082

7339ザゲィムプレィア:2022/01/26(水) 22:03:48
Re: シンプルな事件
筆綾丸さん
吾妻鏡に対する態度は了解しました。

ゴッドファーザーの件は、「巧妙な罠」という表現を使った後でそれに相応しい日本史の出来事を思い出せず、代わりに映画のエピソードを書いてしまいました。
日本史とは関係ないことですので、気にしないでください。

7340:2022/01/27(木) 14:35:30
禁色
ザゲィムプレィアさん
ヒッグス粒子の発見(2013年)であれ、重力波の発見(2016年)であれ、観測誤差がどれくらい低くなれば実在すると言えるのか、という相対的な問題があるわけで、100%絶対存在するとは、たぶん、永遠に言えません。
『吾妻鏡』の記述も、僅か800年前のことながら、何が史実で何が曲筆か、明確に区別する基準などありませんから、まあ、だいたい、こんなもんだろう、ということがわかればいいと考えています。皮肉な言い方をすれば、歴史学とは最初から証明(実証)を禁じられている学問で、だから、人を不必要に惑わすのだ、ということになります。

7341鈴木小太郎:2022/01/27(木) 14:49:21
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その5)
私は北条泰時(1183-1242)と時房(1175-1240)の関係が「北条本家」と「庶家」に固定化されていたとは考えませんが、時房の子息のうち、時村(?-1225)と資時(1199-1251)が若くして出家、朝直(1206-64)も愛妻との離縁を強要する父に反発して出家しかけたことを見ると、時房流が結果的に「庶家」となったのもやむを得ない感じがしますね。
前妻に未練を残していた朝直に嫁し、二人の子を産んだ後、名越光時に再嫁した泰時娘は、光時が宮騒動(1246)で流罪になってしまった後はどのような人生を送ったのか。

北条朝直
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E7%9B%B4
名越光時
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%85%89%E6%99%82

さて、朝直・泰時娘の離婚は泰時娘側の申し出による協議離婚ではないかと思われますが、妻の側の申し出による離婚の例をもう一つ引用させてもらうことにします。
山本みなみ論文で重視されている「牧の方腹」の宇都宮頼綱室の話ですね。(p286)

-------
  2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚

 藤原定家の息・為家の妻の母は、北条時政と牧の方との娘で、宇都宮頼綱の妻となった女性である。

(21)天福元年(一二三三)五月十八日条
  金吾(定家息・為家)の縁者妻の母天王寺に於いて入道前摂政の妻と為る之由、わざわざ女子並びに
  もとの夫の許に告げ送ると云々。自ら称す之条言語道断の事か。<禅門六十二歳、女四十七歳>

 定家は、為家妻の母が、わざわざ娘の為家妻と元夫頼綱に前摂政藤原師家の妻になることを自ら告げることはいかがなものか、と非難している。しかしこの場合は男性側からの離婚宣言ではなく、女性側が離婚宣言し六十二歳の師家と再婚したと書いている。離婚の原因は不明であるが、鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており、田端氏は、実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられると述べているが、これも同様な事例である。
-------

この『明月記』の記載で、山本みなみ氏の言われる「牧の方腹」の「八女」が天福元年(1233)に四十七歳、従ってその生年が文治三年(一一八七)であることが分かる訳ですね。
星氏は「離婚の原因は不明であるが」と書かれていますが、シンプルに新しい男ができたから、と考えればよいと思います。
松殿師家(1172-1238)は「前摂政」とはいえ、これは遥か昔の寿永二年(1183)、源義仲と結んだ父・基房が僅か十二歳の師家を摂政にしたという強引な人事ですね。
義仲失脚とともに基房・師家父子も失脚、松殿家は摂政・関白を出せる家柄ではなくなり、師家は半世紀以上、一度も官職に就けない人生を送った訳ですから、政治的には敗者です。
しかし、そういう人物に再嫁したということは、前・宇都宮頼綱室の選択は決して権勢や金目当てではなく、「愛情」に基づくことを示していて、こうした事情が分かる事例は本当に珍しいですね。
そして、藤原定家の目を白黒させた四十七歳の前・宇都宮頼綱室のあっけらかんとした自由気儘な行動も、おそらく彼女が相当の財産家であったことが裏づけとなっているはずですね。

松殿師家(1172-1238)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%B8%AB%E5%AE%B6

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11112

なお、「田端氏は、実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられると述べているが」に付された注を見ると、これは「日本中世社会の離婚」(『日本女性史論』、塙書房、1994)で、私は未読です。
ただ、「実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられる」こと自体は、古文書・古記録や系図類を扱っている研究者には常識的な話かと思います。
星論文にはまだまだ興味深い事例が載っていますが、いったんこれで紹介と検討を終えることにします。

7342:2022/01/28(金) 15:18:42
愚問ですが
小太郎さん
「鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており」という文章が、いまひとつ、よくわからないのですが、定家が属した公家社会の女性は、武家の女性とは反対に、婚姻関係なんて曖昧でもいいんじゃないの、と考えていたということですか。

7343鈴木小太郎:2022/01/30(日) 13:12:05
取り急ぎ
>筆綾丸さん
>「鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており」

その箇所、私も気になりました。
星論文には多数の参考文献が挙げられており、それらを網羅的に読めば参考になる事例があるのかもしれませんが、私も今はちょっと余裕がありません。

7344鈴木小太郎:2022/01/31(月) 10:58:19
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その1)
今月15日に実施された「大学入学共通テスト」の国語第3問は『とはずがたり』と『増鏡』を素材にしたものでした。

【速報】大学入学共通テスト2022 国語の問題・解答・分析一覧(『高校生新聞』サイト内)
https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/8457?page=3

『とはずがたり』は、例えば佐々木和歌子訳『とはずがたり』(光文社古典新訳文庫、2019)の宣伝広告で、

-------
宮廷のアイドルの 「死ぬばかりに悲しき」物語

後深草院の寵愛を受け十四歳で後宮に入った二条は、その若さと美貌ゆえに多くの男たちに求められるのだった。そして御所放逐。尼僧として旅に明け暮れる日々……。書き残しておかなければ死ねない、との思いで数奇な運命を綴った、日本中世の貴族社会を映し出す「疾走する」文学!

https://www.kotensinyaku.jp/books/book310/

などと紹介されている一種のキワモノ的な古典文学なので、『とはずがたり』が共通テストに登場したこと、そして出題された前斎宮の場面が、よりによって『とはずがたり』の中でも好色度が特に高い場面であったことは驚きです。
この場面が研究者にどのように見られているかは、例えば榎村寛之氏の『伊勢斎宮と斎王』(塙書房、2004)の記述などが参考になります。

「何しろ当時の朝廷はデカダンな雰囲気にあふれ……」(by 榎村寛之氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9450

私もかねてから『とはずがたり』と『増鏡』の関係に興味を持っていて、前斎宮の場面については両者を詳しく比較検討したこともあるので、受験レベルを超えた観点から、この問題を少し整理しておきたいと思います。
なお、受験レベルの解説としては、例えばリンク先サイトなどを参照していただきたいと思います。

共通テスト古文2022年増鏡・とはずがたり全訳・解答・解説(吉田裕子氏)
https://ameblo.jp/infinity0105/entry-12721435008.html

さて、出題者は異母妹の前斎宮に執着する「院」が後深草院であることを前提としていますが、戦前の『増鏡』注釈書では「院」は亀山院に比定されていました。
例えば、和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)では、

-------
まことや、文永のはじめつ方下り給ひし斎宮〔愷子〕は、後嵯峨院の更衣ばらの宮ぞかし。院〔後嵯峨〕かくれさせ給ひて後、御服にており給へれど、猶御暇ゆりざりければ、三年まで、伊勢におはしまししが、この〔建治元〕秋の末つかた、御のぼりにて、仁和寺に、衣笠といふ所にすみ給ふ。月華門院の御次には、いとらふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてを、あはれにおぼしいでて、大宮院いとねむごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。十月ばかり、斎宮をもわたし奉り給はんとて、本院〔後深草院〕にも入らせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて御幸あり。その夜は、女院の御前にて、むかし今の御物語など、のどやかに聞え給ふ。
-------

という具合いに(p354以下)、大宮院が滞在する亀山殿に後深草院が訪問していることが明記されているにもかかわらず、以後、「院」には全て亀山院との傍注があります。(p356〜362)
これは何故かというと、亀山院は『増鏡』の他の場面でも好色であることが露骨に描かれているので、異母妹に執着する変態の「院」は亀山院に違いないと思われていた訳ですね。
しかし、昭和十三年(1938)に山岸徳平が『とはずがたり』を「発見」し、『増鏡』には『とはずがたり』が大幅に「引用」されていることが判明すると、前斎宮の場面の「院」は後深草院であることが明確になった訳です。
ただ、山岸徳平 「とはずがたり覚書」(国語と国文学』17巻9号、昭和15年)を見ると、山岸は、

-------
 増鏡、草枕の巻に「なにがし大納言の女、御身近く召しつかふ人、かの斎宮にもさるべきゆかりありて、むつまじく参り馴るゝを召しよせて……」として、亀山院が、「なにがし大納言の女」に用件を御命じになつた事がある。この斎宮は、その頃、御上京中の、愷子内親王であつた。大宮院姞子が、この斎宮を、嵯峨の亀山殿へ御招きになり、亀山院も御列席遊ばされた。亀山院は、なほ打解けて斎宮に逢ひたいとの、御意がおありになつた。これはその際の記載である。

http://web.archive.org/web/20061006211020/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yamagishi-tokuhei-towa-oboegaki.htm

としているので、『とはずがたり』発見後も山岸は前斎宮の場面の「院」を亀山院と思っていたことが伺えます。
それくらい『増鏡』での亀山院の好色は印象的だったのですが、戦後『とはずがたり』が周知されるようになると、後深草院が陰湿な変態とされる一方、亀山院は単なる明るい好色家、という具合いにイメージが好転した感じがします。

7345鈴木小太郎:2022/02/01(火) 12:52:54
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その2)
マンガ化されたり、瀬戸内晴美によって小説化(『中世炎上』)されたりしている『とはずがたり』に比べると、鎌倉時代を朝廷側から概観した歴史物語『増鏡』は地味な存在ですが、後鳥羽院と後醍醐天皇の時代を中心に非常に格調の高い場面も多いので、戦前はなかなか人気がありました。
注釈書も多数出されましたが、中でも前回投稿で紹介した和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)は本当にレベルが高くて参考になりますね。
ただ、『増鏡』に膨大な分量が「引用」されている『とはずがたり』が出現する前の著作なので、前斎宮の場面の「院」を亀山院と解するなど、今から見ればちょっと頓珍漢な記述も若干ありますね。
さて、あまり先走らず、まずは問題文をしっかり確認しておきたいと思います。

-------
第3問 次の【文章?】は、鎌倉時代の歴史を描いた『増鏡』の一節、【文章?】は、後深草院に親しく仕える二条という女性が書いた『とはずがたり』の一節である。どちらの文章も、後深草院(本文では「院」)が異母妹である前斎宮(本文では「斎宮」)に恋慕する場面を描いたものであり、【文章?】の内容は、【文章?】の6行目以降を踏まえて書かれている。【文章?】と【文章?】を読んで、後の問い(問1〜4)に答えよ。なお、設問の都合で【文章?】の本文の上に行数を付してある。(配点 50)

【文章?】
 院も我が御方にかへりて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。ありつる御面影、心にかかりておぼえ給ふぞいとわりなき。「さしはへて聞こえむも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからといへど、年月よそにて生ひたち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、つつましき御思ひも薄くやありけむ、なほひたぶるにいぶせくてやみなむは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。
 なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、かの斎宮にも、さるべきゆかりありて睦ましく参りなるるを召し寄せて、
「なれなれしきまでは思ひ寄らず。ただ少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえむ。かく折よき事もいと難かるべし」
とせちにまめだちてのたまへば、いかがたばかりけむ、夢うつつともなく近づき聞こえ給へれば、いと心憂しと思せど、あえかに消えまどひなどはし給はず。
-------

いったん、ここで切ります。
【文章?】については私も拙い訳を試みています。

-------
【私訳】後深草院も御自分の部屋に帰って横になられたが、まどろまれることもできない。先程の斎宮の御面影が心の中にちらついて、忘れられないのは何としても、いたし方ないことだ。「わざわざ自分の思いを述べた手紙をさし上げるのも人聞きがよくなかろう。どうしようか」と思い乱れておられる。斎宮とは御兄妹とは申しても、長い年月、互いに離れてお育ちになったので、すっかり疎遠になってしまわれておられるので、(妹に恋するのはよくないことだ、という)慎まれるお気持も薄かったのであろうか、ただひたすらに思いもかなわず終ってしまうのは残念に思われる。けしからぬ御性格であることよ。
 某大納言の娘で御身近に召し使う女房が、斎宮にも然るべき縁があって親しく参り慣れていたが、その者を召し寄せて、「斎宮に対して慣れ慣れしく、深い仲になろうとまでは思ってもいない。ただ少し近い所で、私の心の一端を申し上げようと思う。こういう良い機会も容易に得がたいであろう」と熱心に、真面目におっしゃるので、その女房はどのようにうまく取りはからったのであろうか、院は闇の中を夢ともうつつともなく(斎宮に)のおそばに近づかれたところが、斎宮はまことにつらいことと思われたが、弱々しく今にも死にそうに、あわてまどうということはなさらない。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9442

設問に戻って、続きです。

-------
【文章?】
 斎宮は二十に余り給ふ。ねびととのひたる御さま、神もなごりを慕ひ給ひけるもことわりに、花といはば、桜にたとへても、よそ目はいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬるひまもいかにせましと思ひぬべき御ありさまなれば、ましてくまなき御心の内は、いつしかいかなる御物思ひの種にかと、よそも御心苦しくぞおぼえさせ給ひし。
 御物語ありて、神路の山の御物語など、絶え絶え聞こえ給ひて、
「今宵はいたう更け侍りぬ。のどかに、明日は嵐の山の禿なる梢どもも御覽じて、御帰りあれ」
など申させ給ひて、我が御方へ入らせ給ひて、いつしか、
「いかがすべき、いかがすべき」
と仰せあり。思ひつることよと、をかしくてあれば、
「幼くより参りししるしに、このこと申しかなへたらむ、まめやかに心ざしありと思はむ」
など仰せありて、やがて御使に参る。ただおほかたなるやうに、「御対面うれしく、御旅寝すさまじくや」などにて、忍びつつ文あり。氷襲の薄様にや、
「知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは」
 更けぬれば、御前なる人もみな寄り臥したる。御主も小几帳引き寄せて、御殿籠りたるなりけり。近く参りて、事のやう奏すれば、御顔うち赤めて、いと物ものたまはず、文も見るとしもなくて、うち置き給ひぬ。
「何とか申すべき」
と申せば、
「思ひ寄らぬ御言の葉は、何と申すべき方もなくて」
とばかりにて、また寝給ひぬるも心やましければ、帰り参りて、この由を申す。
「ただ、寝たまふらん所へ導け、導け」
と責めさせ給ふもむつかしければ、御供に参らむことはやすくこそ、しるべして参る。甘の御衣などはことごとしければ、御大口ばかりにて、忍びつつ入らせ給ふ。
 まづ先に参りて、御障子をやをら開けたれば、ありつるままにて御殿籠りたる。御前なる人も寝入りぬるにや、音する人もなく、小さらかに這ひ入らせ給ひぬる後、いかなる御事どもかありけむ。
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こちらも私訳を参照願います。

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【私訳】斎宮は二十歳を過ぎておられる。十分に成熟なされた御様子は、伊勢の神が名残を惜しまれてお引きとどめになったのももっともと思われ、花でいえば、桜に喩えても、はた目にはさほど見当違いではあるまいと見誤れるほどで、袖を覆ってお顔が隠れる間も見続けていたいと思われるような御様子なので、まして飽くまで色好みの院の御心の中は、早くもどんな御物思いの種になっていることだろうかと、傍からも斎宮がお気の毒に思われた。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9426

【私訳】斎宮は院とお話をして、伊勢の神通山のことなどを、とぎれとぎれに申し上げられると、院は「今宵はたいそう更けてしまいました。明日はゆっくりされて、嵐山の木の葉の落ちた梢などを御覧になってお帰りください」などとおっしゃって、自身のお部屋に戻られると、さっそく私に、「どうしたらよいだろう、どうしたらよいだろう」と仰せになる。
 予想通りだとおかしく思っていると、「お前が幼いときから私に仕えてきた証拠に、あの人との間をうまく取り持ってくれたら、本当に私に対して誠意があるものと思うぞ」などとおっしゃるので、さっそくお使いに参った。ただ一通りの挨拶のようにして、「お会いできてうれしく思いました。御旅寝も寂しくはありませんか」などといった口上で、別に密かにお手紙がある。氷襲の薄様であったか、
  知られじな……(今逢ったばかりのあなたの面影が、すぐに私の心に
  とどまってしまったとは、あなたは御存知ないでしょうね)
 夜が更けていたので、斎宮の御前に伺候している女房たちも皆寄り臥しており、御本人も小几帳を引き寄せておやすみになっておられた。近く参って、院の仰せの旨を申し上げると、お顔を赤らめて、特に何もおっしゃらない。お手紙も見るともなく、そのままお置きになった。「何と御返事申しましょうか」と申し上げると、斎宮は「思いがけないお言葉は、何とご返事のしようもなくて」とばかりで、また寝てしまわれたのも余り感心しないので、院のもとに帰って事情を申し上げる。すると院は、「何でもよいから、寝ておいでの所へ私を案内しろ、案内しろ」としつこくお責めになるのも煩わしいので、お供に参るだけなら何でもないことだから、ご案内した。甘の御衣などは大袈裟であるので、院は大口袴だけで、こっそりとお入りになる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9427

【私訳】私がまず先に入って、御襖をそっと開けると、先ほどのままでお寝みになっておられる。御前の女房も寝入っているのであろうか、声を立てる人もおらず、院がお体を低くなさって這うようにしてお入りになった後、どのようなことがおありだったのであろうか。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9428

【文章?】は「いかなる御事どもかありけむ」で終わっていますが、何があったかは決まっていますね。
要するにここは、後深草院が二条の案内で、異母妹の前斎宮の寝所に忍び入って、合意を得ないままレイプしたという際どいお話です。
こんなものを入試問題にしてよいのか、という道徳的立場からの、いわば古臭い批判の他に、セクハラ・パワハラに対する世間の目が厳しい現在では、別の立場からの批判もありそうですね。
即ち、大学に入学を希望する者には必須の入試問題ですから、受験生はこうした破廉恥・不愉快な話を読むことを公権力によって強要されている訳で、そうした強要自体がセクハラ・パワハラではなかろうか、といった批判ですね。

7346:2022/02/01(火) 17:02:11
好色一代女
小太郎さん
https://www.moj.go.jp/MINJI/minji07_00238.html
問題作成者(大学教員?)には変態と変人が多いとはいえ、改正民法(成年年齢)の施行は2022年4月1日で、現行民法下では、実施日(2022年1月15日)現在の高校3年生は殆ど18歳の未成年ですから、そんなエッチな問題を出してもいいの、各都道府県の青少年健全育成条例に違反するのではないか、というような気がしないでもなく、誰かが文科省を相手に訴訟を提起したら、案外、面白くなるかもしれないですね。
とはいえ、来年の受験生は晴れて成年者になるので、西鶴『好色一代女』等からも堂々と出題できる、ということになりますか。

蛇足
「甘の御衣などはことごとしければ、御大口ばかりにて」は、現代風に意訳すれば、「ズボンを脱ぎ捨て、あらわなパンツ姿で」といった感じで、院の姿が目に浮かぶようです。

7347鈴木小太郎:2022/02/01(火) 21:01:45
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その3)
問1〜3は省略して、問4を見ると、教師と生徒A・B・Cの会話になっています。

【速報】大学入学共通テスト2022 国語の問題・解答・分析一覧(『高校生新聞』サイト内)
https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/8457?page=3

問題文にはX・Y・Zの三か所の空欄があり、当該空欄に入る最も適切な文章を選択する形式になっていますが、そのままでは読みづらいので、予め正解で空欄を埋めた形で引用します。

-------
問4 次に示すのは、授業で【文章?】【文章?】を読んだ後の、話し合いの様子である。これを読み、後の(?)〜(?)の問いに答えよ。

教師 いま二つの文章を読みましたが、【文章?】の内容は、【文章?】の6行目以降に該当していました。
   【文章?】は【文章?】を資料にして書かれていますが、かなり違う点もあって、それぞれに特徴が
   ありますね。どのような違いがあるか、みんなで考えてみましょう。
生徒A 【文章?】のほうが、【文章?】より臨場感がある印象かなあ。
生徒B 確かに、院の様子なんかそうかも。【文章?】では〔X いてもたってもいられない院の様子が、
   発言中で同じ言葉を繰り返しているあたりからじかに伝わってくる〕。
生徒C ほかに、二条のコメントが多いところも特徴的だよね。【文章?】の〔Y 3行目「いつしかいかなる
   御物思ひの種にか」では、院の性格を知り尽くしている二条が、斎宮の容姿を見た院に、早くも好色の
   虫が起こり始めたであろうことを感づいている〕。普段から院の側に仕えている人の目で見たことが書
   かれているっていう感じがあるよ。
生徒B そう言われると、【文章?】では【文章?】の面白いところが全部消されてしまっている気がする。
   すっきりしてまとまっているけど物足りない。
教師 確かにそう見えるかもしれませんが、【文章?】がどのようにして書かれたものなのかも考える必要が
   ありますね。【文章?】は過去の人物や出来事などを後の時代の人が書いたものです。文学史では
   『歴史物語』と分類されていますね。【文章?】のように当事者の視点から書かれたものではないという
   ことに注意しましょう。
生徒B そうか、書き手の意識の違いによってそれぞれの文章に違いが生じているわけだ。
生徒A そうすると、【文章?】で〔Z 院の発言を簡略化したり、二条の心情を省略したりする一方で、斎宮の
   心情に触れているのは、当事者全員を俯瞰する立場から出来事の経緯を叙述しようとしているからだろう〕、
   とまとめられるかな。
生徒C なるほど、あえてそういうふうに書き換えたのか。
教師 こうして丁寧に読み比べると、面白い発見につながりますね。
-------

生徒A・B・Cは、『とはずがたり』の方が『増鏡』より「臨場感」があり、「二条のコメントが多」く、『増鏡』では『とはずがたり』の「面白いところが全部消されてしまって」「物足りない」と感じる訳ですが、それは何故か。
この点、教師は『増鏡』は「過去の人物や出来事などを後の時代の人が書いた」「文学史では『歴史物語』と分類されてい」る作品であって、『とはずがたり』のように「当事者の視点から描いたものではない」ことを指摘します。
これを受けて、生徒は「書き手の意識の違いによってそれぞれの文章に違いが生」じていることに気付き、「院の発言を簡略化したり、二条の心情を省略したりする一方で、斎宮の心情に触れているのは、当事者全員を俯瞰する立場から出来事の経緯を叙述しようとしているからだろう」と纏めた、という訳ですね。
受験レベルでは、以上の内容はもちろん正しいものです。
しかし、若干の疑問がない訳ではありません。
実は、『増鏡』の前斎宮エピソードには、後日談として『とはずがたり』には全く登場しない奇妙な追加エピソードが描かれています。
教師の指摘は、要するに『増鏡』は『とはずがたり』などを資料として、『とはずがたり』の作者より後の時代の人が書いた『歴史物語』だ、ということですが、『とはずがたり』に存在しない前斎宮エピソードが『増鏡』に存在していたら、この二つの作品の関係は些か奇妙なものになります。
もちろん、史実である前斎宮エピソードの一部は『とはずがたり』に記録され、別の一部は別の資料に記録されており、『増鏡』作者は二つの資料を見た上で、「当事者全員を俯瞰する立場から出来事の経緯を叙述しようと」したと考えることも可能ではあります。
しかし、関係者が極めて僅かな宮中秘話である前斎宮エピソードが、果たしてそんなに多くの資料に記録されるものなのか。

>筆綾丸さん
>そんなエッチな問題を

私個人は、こんなエロ問題はセクハラだ、パワハラだ、などと騒ぐタイプではないので全然気にしませんが、しかしまあ、『増鏡』はもちろん、『とはずがたり』にだってもっと格調高い場面はいくらでもあるので、何でわざわざ前斎宮のエピソードを選んだのだろう、という疑問は残りますね。

7348鈴木小太郎:2022/02/02(水) 12:28:52
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その4)
『とはずがたり』・『増鏡』ともに前斎宮エピソードは相当長く、『増鏡』から【文章?】を、『とはずがたり』から【文章?】を切り取れば問4の教師と生徒A・B・Cの会話の内容はもっともなのですが、それぞれの全体を比較すると若干の違和感が生じます。
そこで、最初に『とはずがたり』の前斎宮エピソードを全部紹介し、次に『増鏡』の前斎宮エピソードも全部紹介したいと思います。
まず、『とはずがたり』における前斎宮エピソードの位置づけですが、巻一の最後の方に出てきます。
文永九年(1272)の後嵯峨院崩御後、後深草院と亀山天皇のいずれの系統が皇位を継ぐかで争いがあり、後深草院の敗北が確定しそうになった情勢を受けて、後深草院が抗議のために出家を決意すると、幕府が調停に入り、建治元年(1275)、後深草皇子の熈仁親王(伏見天皇、1265生)が亀山皇子の後宇多天皇(1267生)の皇太子となります。
この間、後深草・亀山の母・大宮院は亀山を支持する立場だったので、後深草院との関係が悪化しましたが、その関係修復のために大宮院が滞在する嵯峨の亀山殿に後深草院が招かれた、というのが前斎宮エピソードの前提となる政治的状況です。
『とはずがたり』でも、こうした状況の説明は簡単になされていますが、その後に二条が東二条院(大宮院妹、後深草天皇中宮)に嫌われ、出入り禁止になったという話を挟んで前斎宮エピソードとなります。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その1) (その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9423
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9424

実際には前斎宮・愷子内親王は父・後嵯峨院崩御後、間もなく京都に戻っているのですが、『とはずがたり』では、「御服にており給ひながら、なほ御いとまを許され奉り給はで、伊勢に三年まで御わたりありし」と、三年間伊勢に留まっていたことになっています。

愷子内親王(1249-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%B7%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

前斎宮は二条の父・中院雅忠と何らかの関係があり、斎宮として伊勢に向かったときにも父親が世話をしたのだそうで、その縁から二条も前斎宮と面識があって、ときどき訪問していたのだそうです。
ま、帰京の時点すら史実に反するので、『とはずがたり』の説明がどこまで本当なのかは分かりませんが、とにかく帰京した前斎宮が大宮院に挨拶するため嵯峨の亀山殿を訪問するという話となり、その場に大宮院が後深草院を招く、という展開となります。
そして、後深草院は二条に「おまえはあの御方(斎宮)へも御出入り申し上げている者だから」と二条を連れて行くことになり、二条一人が後深草院と同車で嵯峨に向かいます。
亀山殿に入った後深草院は大宮院と対面しますが、その際に二条も赤色の唐衣をまとっています。
二条が妹の東二条院と不仲なことを心配した大宮院は二条に温かい言葉をかけてくれるのですが、二条は「いつまで草の」(いつまで続くことだろうか)と冷ややかな感想を述べたりします。
同車と赤色の唐衣の件が東二条院の怒りを更に呼ぶことになりますが、それは少し後の話です。
なお、嵯峨への御幸には西園寺大納言(実兼)、善勝寺大納言(隆顕)、持明院長相・中御門為方・楊梅兼行・山科資行等の僅かな近臣が同行しています。

(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9425

そして翌日、前斎宮が亀山殿に来て大宮院と対面し、その場に後深草院が呼ばれ、二条も同行します。

-------
 大宮院、顕紋紗の薄墨の御ころも、鈍色の御衣ひきかけさせ給ひて、同じ色の小几帳立てられたり。斎宮、紅梅の三つ御衣に青き御単ぞ、なかなかむつかしかりし。御傍親とてさぶらひ給ふ女房、紫のにほひ五つにて、物の具などもなし。斎宮は二十にあまり給ふ。ねびととのひたる御さま、神も名残をしたひ給ひけるもことわりに、花といはば桜にたとへてもよそめはいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬるひまも、いかにせましと思ひぬべき御有様なれば、ましてくまなき御心のうちは、いつしか、いかなる御物思ひの種にかと、よそも御心苦しくぞ覚えさせ給ひし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9426

ということで、「斎宮は二十にあまり給ふ」以下が共通テストの【文章?】となります。
斎宮とその御付の女房の衣装に対する二条の評価は極めて辛辣ですね。
衣装はともかく、年齢相応に成熟し、桜という最上の美しさに喩えられるほどの美人である異母妹に対し、好色な後深草院が内心で色々と思っているであろうことを二条がじっと観察している、という構図が次の展開を予想させます。

7349鈴木小太郎:2022/02/03(木) 12:24:32
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その5)
共通テストの【文章?】に該当する部分に入って、続きです。

-------
 御物語ありて、神路山の御物語などたえだえ聞え給ひて、「今宵はいたう更け侍りぬ。のどかに明日は、嵐の山のかぶろなる梢どもも御覽じて御帰りあれ」など申させ給ひて、わが御方へ入らせ給ひて、いつしか「いかがすべき、いかがすべき」と仰せあり。
 思ひつることよとをかしくてあれば、「幼くより参りししるしに、このこと申しかなへたらん、まめやかに志ありと思はん」など仰せありて、やがて御使に参る。ただ大方なるやうに、「御対面うれしく、御旅寝すさまじくや」などにて、忍びつつ文あり。氷襲〔がさね〕の薄様にや、
  知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9427

異母妹の美しさに好色の虫が騒いだ後深草院は、自分の部屋に戻ると二条に相談を持ち掛けます。
佐々木和歌子氏の斬新な現代語訳によれば、

-------
「ねえ、あの人をどうしたらいい? どうしたらいい?」
と私に聞く。やはり惚れちゃったわね、と内心くすくす笑ってしまう。
「幼いころから私に仕えている忠誠のあかしとして、あなたがあの人に手引きしてくれたら、私に対する愛情が本物だと思うことにしようかな」
なんてことまで言うので、すぐに私は使いとして前斎宮のもとに参ることにした。
「ご対面できたことはうれしいことでした。どうですか、旅先で寂しくありませんか」
とありきたりの伝言とは別に、ひそかに御所さまからの手紙を携えていた。氷襲の薄く漉いた紙には、
  知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは
──御存知ないでしょうね、たった今お会いしたあなたのおもかげが、ずっと私の心にかかって離れないのです……。
-------

という展開となります。(光文社古典新訳文庫版『とはずがたり』、p113以下)
佐々木氏の新訳は、文法的・語彙的な正確さを若干犠牲にしつつも、原文の雰囲気をうまく再現しており、本当に優れた訳業ですね。
従来の研究者の現代語訳はいささか上品に過ぎます。
さて、続きです。

-------
 更けぬれば、御前なる人も皆寄り臥したる、御ぬしも小几帳ひき寄せて、御とのごもりたるなりけり。近く参りて、事のやう奏すれば、御顔うちあかめて、いと物ものたまはず。文も、見るとしもなくて、うち置き給ひぬ。「何とか申すべき」と申せば、「思ひよらぬ御言の葉は、何と申すべき方もなくて」とばかりにて、また寝給ひぬるも心やましければ、帰り参りてこの由を申す。「ただ寝給ふらんところへ、みちびけ、みちびけ」とせめさせ給ふもむつかしければ、御供に参らんことはやすくこそ、しるべして参る。甘の御衣などはことごとしければ、御大口ばかりにて、忍びつつ入らせ給ふ。
-------

ということで、前斎宮は手紙をしっかり読めず、返事もできないので、後深草院の部屋に戻った二条がその旨を報告すると、後深草院は、もういいから「ただ寝給ふらんところへ、みちびけ、みちびけ」と二条を責め立てます。
面倒くさいなと思った二条は、一緒に行くのは簡単なのよ、ということで後深草院を案内し、後深草院は前斎宮の寝所に忍び込む訳ですね。
「いかがすべき、いかがすべき」に続いて「みちびけ、みちびけ」という反復があって、生徒Aの言う「臨場感」が強調されます。
そして、

-------
 まづ先に参りて、御障子をやをら開けたれば、ありつるままにて御とのごもりたる。御前なる人も寝入りぬるにや、音する人もなく、小さらかに這ひ入らせ給ひぬる後、いかなる御ことどもかありけん。うちすて参らすべきならねば、御上臥したる人のそばに寝れば、いまぞおどろきて、「こは誰そ」と言ふ。「御人少ななるも御いたはしくて、御宿直し侍る」といらへば、まことと思ひて物語するも、用意なきことやとわびしければ、「ねぶたしや、更け侍りぬ」といひて、そらねぶりしてゐたれば、御几帳のうちも遠からぬに、いたく御心も尽さず、はやうちとけ給ひにけりと覚ゆるぞ、あまりに念なかりし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9428

となります。
共通テストの【文章?】は「いかなる御ことどもかありけん」で終わってしまっていますが、その続きが一番面白いですね。
ここも佐々木訳を引用すると、

-------
 まずは私が先に参って、障子をしずかに開けると、前斎宮はさっきと同じように眠っている。女房たちも寝入っているのだろう、音もない。御所さまは体を小さくして前斎宮のもとに這い入った。そのあとはまあ、どんな展開になったことやら。
 私は二人をうち捨てて帰るわけにもいかないので、前斎宮に仕える女房たちのそばに横たわると、女房の一人が今さら目を覚まして、
「あなた誰なの」
と言う。
「おそばの人が少ないのはいかがと思って、宿直〔とのい〕してさしあげているんですよ」
としらじらしく答えてみた。納得したのか、そのままいろいろ話しかけてくるのはなんとも不用心なこと。
「ああ眠いわ。夜も更けましたねえ」
と言って、眠ったふりをしていた。ここから御所さまたちのいる几帳の内も遠くないので、その気配が伝わってくる。たいして苦労もせず事に至ったようだ。もっと心を強く持って朝まで粘ったら面白かったのに。
-------

という展開です。(p115以下)
前斎宮は異母兄にあまり抵抗しなかったとはいえ、積極的な合意はなかったのですから、これは現代であれば立派な犯罪行為ですが、それをすぐ近くで見ていた二条は、もっと抵抗すれば面白かったのに、と感想を述べます。
さすがに入試問題でここまで出せば、若干のトラブルになった可能性は高そうです。

7350:2022/02/03(木) 22:06:33
proxénète
小太郎さん
フランス語にproxénèteという語があって、ふつう、売春斡旋業者(仲介者)と訳されますが、
「いたく御心も尽さず、はやうちとけ給ひにけりと覚ゆるぞ、あまりに念なかりし。心強くてあかし給はば、いかにおもしろからんと覚えしに」
には、娼家の遣り手のようなプロクセネート二条の薄情な心理がよく現れていて、他方、後深草院の、
「桜は、にほひは美しけれども、枝もろく折りやすき花にてある」
は、要するに、なんだ、思ったほどの女(体)じゃなかったな、ということだから、プレイボーイらしく、なかなかスゴい捨て台詞です。
現代の若者が、都内の高級ホテルを舞台にして起こした美人局事件を週刊文春で読むときのような味わいがありますね。

7351鈴木小太郎:2022/02/04(金) 12:47:32
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その6)
>筆綾丸さん
>娼家の遣り手のようなプロクセネート二条の薄情な心理

前斎宮の場面での二条の役割は、本当にこうした事実があったとすれば、もっと下級の女官が行なったはずのものですね。
そこで、私が共通テストの出題に関与する権限を持っていたとしたら、次のような問題を提案したいところです。

-------
問5 最上級の女房であるはずの二条が、何故にこんな女衒のような真似をしているのか。その理由として最も適切なものを、次の?〜?のうちから一つ選べ。

?『とはずがたり』の前斎宮エピソードは全て事実。後深草院が亀山殿に伴ったのは最小限の近臣だけだったので、気の利いた女官は存在せず、二条が下級女官のような真似をせざるをえなかった。
?二条は実は下級女官として後深草院に仕えており、前斎宮エピソードはすべて二条が現実に経験した事実。しかし、自伝『とはずがたり』では自らが最上級の女房のように極端に美化した。
?二条は最上級の女房であり、前斎宮エピソードは実際には二条が下級女官から事情聴取した結果を記述したもの。しかし、それでは「臨場感」が出ないため、自分が「当時者」であるかのように工夫した。
?『とはずがたり』の前斎宮エピソードは全て創作。従って二条の役割をあれこれ詮索しても意味がない。
-------

受験レベルでの正解は?ですし、おそらく大半の国文学者の認識も同じだと思います。
しかし、このエピソードが文永十一年(1274)の出来事とすれば、正嘉二年(1258)生まれの二条はまだ数えで十七歳ですね。
十四歳から出仕したとはいえ、まだまだ若手女房の範疇ですが、それなのに何故、二条は色事に対して殆ど遣り手婆のような老練さを見せているのか。
私自身は二条の出自までは疑わないので?は不正解。
また、私は『とはずがたり』は自伝風小説だと思っているので、個人的には?が正解となります。
ただ、『とはずがたり』の前斎宮エピソードが「臨場感」に溢れていることは確かで、これほど「臨場感」がある以上、ある程度の事実を反映しているはず、と考えれば?の可能性も皆無とは言えないかもしれません。
教師と生徒A・B・Cの会話のように、二条が「当事者」だから『とはずがたり』に「臨場感」が溢れていると考えるのではなく、「臨場感」を出すために二条を「当事者」にした可能性ですね。
ま、あまり先走らず、『とはずがたり』の続きをもう少し見て行きます。
前回投稿では、佐々木訳を「もっと心を強く持って朝まで粘ったら面白かったのに」まで紹介しましたが、分かりやすい区切り方ではあっても、原文では次のような文章になっています。

-------
 心強くてあかし給はば、いかにおもしろからんと覚えしに、明けすぎぬさきに帰り入らせ給ひて、「桜は、にほひは美しけれども、枝もろく折りやすき花にてある」など仰せありしぞ、 さればよと覚え侍りし。
 日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして、「けしからず。今朝しもいぎたなかりける」などとて、今ぞ文ある。御返事にはただ、「夢の面影はさむる方なく」などばかりにてありけるとかや。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9428

ここも上品すぎる拙訳はリンク先を参照していただくとして、雰囲気をうまく再現している佐々木訳を紹介すると、

-------
もっと心を強く持って朝まで粘ったら面白かったのに。御所さまはあまり明けきらないうちに部屋に帰ってきた。
「桜は色つやがいいけれど、枝はもろくて、折りやすい花だな」
なんて言うのを聞いても、ほらね、と思う私。
 日が高くなるまで御所さまは眠り、お昼近くにようやく起きて「ひどく寝坊をしてしまった」と今ごろ後朝〔きぬぎぬ〕の文を送る。前斎宮の返事はただ「お会いした夢からまだ覚めることができません」とだけあったそうだ。やっぱり手応えがない女。
-------

といった具合です。(p116)
この後、前斎宮は登場しませんが、亀山殿での遊興の場面はまだまだ続きます。
そして、二条と東二条院のトラブルが詳しく語られた後、かなり時間を隔てて、後深草院が前斎宮を訪問する場面となります。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その7)〜(その11)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9429
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9430
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9431
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9433
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9436

7352:2022/02/04(金) 15:37:24
伊勢物語第69段とチコちゃん
小太郎さん
https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-069.kari.html
二条は、悪く言えば、ちょっと食えない女なので、虚実皮膜というか、どこが事実で、どこが虚構なのか、よくわからず、これは事実だろう、などと油断していると、バカじゃないの、と言われそうな気がします。

後深草院の後朝の返事に関して、
「夢の面影はさむる方なくなどばかりにてありけるとかや」
とあるのは、おそらく伊勢物語第69段を踏まえたもので、つまり、伊勢の斎宮の、
君や来しわれやゆきけむおもほえず 夢かうつつか寝てかさめてか
と、業平の、
かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよひ定めよ
という相聞を踏まえたパロディーであって、「とかや」という尻切れトンボのような語は意地悪なユーモアで、前斎宮は伊勢物語の斎宮のようにパセチックな女でもなく、後深草院は業平のようにダンディな色好みでもないのよ、いやあねえ、とチコちゃんのように二条は呟いているような気がします。

7353鈴木小太郎:2022/02/05(土) 13:50:14
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その7)
>筆綾丸さん
>おそらく伊勢物語第69段を踏まえたもので、

登場人物を比較すると、『伊勢物語』では冒頭に女(斎宮)の母親、『とはずがたり』では男(後深草院)の母親、即ち大宮院が登場しますね。
そして『伊勢物語』では女が男を訪問するのに対し、『とはずがたり』では男が女を訪問。
その際の使いは『伊勢物語』では女童、『とはずがたり』では二条。
筆綾丸さんがおっしゃるように、宴会場面も含め、確かに『とはずがたり』の前斎宮エピソードは『伊勢物語』を反転させたパロディの世界であることは明らかですね。
しかし、私が原文を引用している次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』(講談社学術文庫、1987)では、解説を見ても『伊勢物語』への言及は一切ありません。
一体どうなっているのだ、という感じがしますが、後で他の注釈書もいくつか確認してみることにします。

さて、『とはずがたり』では、前斎宮の場面の直前に二条が東二条院から出入り禁止を通告されたことが記されています。
そして、後深草院が大宮院を訪問した初日には、後深草院が二条と東二条院の不仲に触れて、二条を庇い、大宮院も二条に同情的な発言をします。
ま、二条はそれを聞いて、「いつまで草の」などと思う訳ですが。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その2)(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9424
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9425

そして後深草院が二条の手引きで前斎宮の寝所に侵入して関係を持ち、その様子を近くで観察していた二条が、もっと抵抗すれば面白かったのに、などと感想を述べた後、宴会の場面になります。

-------
 「今日は珍らしき御方の御慰めに、何事か」など、女院の御方へ申されたれば、「ことさらなる事も侍らず」と返事あり。隆顕の卿に、九献の式あるべき御気色ある。夕がたになりて、したためたる由申す。女院の御方へ事のよし申して、入れ参らせらる。いづ方にも御入立ちなりとて、御酌に参る。三献までは御から盃、その後、「あまりに念なく侍るに」とて、女院御盃を斎宮へ申されて、御所に参る。御几帳をへだてて長押〔なげし〕のしもへ実兼・隆顕召さる。御所の御盃を賜はりて、実兼に差す。雜掌なるとて、隆顕に譲る。思ひざしは力なしとて、実兼、そののち隆顕。
 女院の御方、「故院の御事ののちは、珍らしき御遊びなどもなかりつるに、今宵なん御心おちて御遊びあれ」と申さる。女院の女房召して琴弾かせられ、御所へ御琵琶召さる。西園寺も賜はる。兼行、篳篥吹きなどして、ふけゆくままにいとおもしろし。公卿二人して神楽歌ひなどす。また善勝寺、例の芹生の里数へなどす。
 いかに申せども、斎宮、九献を参らぬよし申すに、御所御酌に参るべしとて、御銚子をとらせおはします折、女院の御方、「御酌を御つとめ候はば、こゆるぎの磯ならぬ御肴の候へかし」と申されしかば、
  売炭の翁はあはれなり、おのれが衣は薄けれど、
  薪をとりて冬を待つこそ悲しけれ
といふ今様を歌はせおはします。いとおもしろく聞ゆるに、「この御盃をわれに賜はるべし」と、女院の御方申させ給ふ。三度参りて、斎宮へ申さる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9429

そして、その宴会では、大宮院が後深草院に恩着せがましい嫌味を言ったり、後深草院が「実兼は傾城の思ひざししつる。うらやましくや」などと二条絡みで遠回しな嫌味を言ったりするネチッこい場面となります。

-------
 また御所持ちて入らせ給ひたるに、「天子には父母なしとは申せども、十善の床をふみ給ひしも、いやしき身の恩にましまさずや」など御述懐ありて、御肴を申させ給へば、「生を受けてよりこの方、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命〔めい〕をかろくせん」 とて、
  御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ、
  齢は君がためなれば、天の下こそのどかなれ
といふ今様を、三返ばかり歌はせ給ひて、三度申させ給ひて、「この御盃は賜はるべし」とて御所に参りて、「実兼は傾城の思ひざししつる。うらやましくや」とて、隆顕に賜ふ。そののち、殿上人の方へおろされて、事ども果てぬ。
 今宵はさだめて入らせおはしまさんずらん、と思ふほどに、「九献過ぎていとわびし。御腰打て」とて、御殿ごもりて明けぬ。斎宮も、今日は御帰りあり。この御所の還御、今日は今林殿へなる。准后御かぜの気おはしますとて、今宵はまたこれに御とどまりあり。次の日ぞ京の御所へ入らせおはしましぬる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9430

ま、細かい内容はリンク先を参照してもらうこととして、この夜も後深草院が前斎宮を訪問するかと思いきや、後深草院は「酒を過ごして、ひどく気分が悪い。腰を打ってくれ」などと二条に言って、二条からマッサージしてもらうとそのまま寝入ってしまいます。
つまり『とはずがたり』では、亀山殿と後深草院と前斎宮との関係は一夜限りですが、後で紹介するように、『増鏡』では何故か連夜の交情となっています。
「歴史物語」の『増鏡』は、単純に資料としての『とはずがたり』を要約引用している訳ではなく、新たに創作を加えている訳ですね。
それが一夜の交情を二夜の交情にする程度の改変ならば、『増鏡』作者のちょっとした遊び心かな、で済むはずですが、実際には増補の分量は半端ではありません。

7354:2022/02/05(土) 16:32:07
フィクション
小太郎さん
かりに伊勢物語第69段を踏まえているとすると、proxenetism の話はフィクションではあるまいか、という気もしますが、どうでしょうか。
この話が、
「御物語ありて、神路の山の御物語などたえだえ聞え給ひて」
から始まって、
「・・・などばかりにてありけるとかや」
で終わっているのも相当怪しくて、伊勢物語に絡めた mystification あるいは superimposition のような気もします。
もしそうならば、なぜ二条はそんな創作をしたのか、ということになりますが、後深草院を揶揄したかった、もっと露骨に言えば、後深草院をちょっとバカにしてみたかった、というようなことになりますか。
そして、「・・・とかや」の後は酒宴の話になりますが、これは、重層的な架空の物語に酔えない読者は、酒で酔ってね(悪酔いしてね)、という機知に富んだトリックのようにも思われてきます。

7355鈴木小太郎:2022/02/05(土) 21:22:53
創作の理由
※ 訂正
ここ暫くの投稿で前斎宮エピソードを建治元年(1275)の出来事としていましたが、『とはずがたり』の時間の流れでは文永十一年(1274)と考えるのが自然で、次田著の年表でもそうなっています。
後嵯峨院崩御は文永九年(1272)二月で、同年を含めて三年間、前斎宮は伊勢に留まっていた、という設定ですね。
もちろん、文永十一年は元寇(文永の役)の年で、十月に元軍が九州を襲い、京都でも異国調伏の祈祷を行うなど大騒動になっていますから、史実としては十一月十日頃にこんな閑な行事を行っているとは考えにくい時期です。
このあたり、『とはずがたり』の年立ては混乱していて、史実との整合性は取りにくいですね。

>筆綾丸さん
>なぜ二条はそんな創作をしたのか

私は前斎宮エピソードは全面的にフィクションという立場です。
なぜそんな創作をしたのかは『とはずがたり』全体に関る問題ですが、私は、あまりに生き生きとして「臨場感」に溢れている『とはずがたり』は、もともと複数のエピソードの集合体であって、個々のエピソードは本来、二条によって語られていたものであろうと思っています。
旧サイトの頃は二条はいったい誰を聞き手、読者として想定しているのか決めかねていたのですが、今は最初の主たる聞き手は公家社会ではなく武家社会の人びと、具体的には金沢貞顕のような京都と何らかの接点を持つ人々だったろうと考えています。
宮廷を出た後の二条の後半生は一種の外交官的な生活であり、公家社会と武家社会のはざまで、良く言えば円滑な文化交流を担当する役割、悪く言えば一種の情報ブローカーのような存在だったのではないか、というのが私の仮説です。
そして、二条の最大の強みは宮廷社会を熟知していたことであり、「ここだけの話ですけど」という前置きで語った各種の宮中秘話が二条の最も得意とするところで、『とはずがたり』はそうした個別エピソードを更に膨らませて、あまり矛盾が目立たない程度にまとめた自伝風小説、というのが私の認識です。
ま、筆綾丸さんはともかく、最近になって共通テストをきっかけに私の掲示板、ブログに来られるようになった方には何を言っているのか全然分からないと思いますが、「実証的」とまでに論証するのは無理であっても、ある程度の蓋然性を感じてもらえる議論をして行きたいと思っています。
なお、二条は後深草院の庇護を得られずに宮廷を追放された立場ですから、後深草院に対する屈折した感情はあって、揶揄や復讐といった個人的感情がなかった訳ではないでしょうが、そのあたりは後深草院の葬送を裸足で追った場面に見られるように、『とはずがたり』では既に文学的に昇華されているように感じます。

7356鈴木小太郎:2022/02/06(日) 11:36:44
佐々木和歌子氏の基本認識(その1)
光文社古典新訳文庫で『とはずがたり』を担当されている佐々木和歌子氏は、

-------
1972年、青森県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。専門分野は日本語日本文学。(株)ジェイアール東海エージェンシーで歴史文化講座の企画運営に携わりながら、古典文学の世界をやさしく解き明かす著作を重ねる。著書に『やさしい古典案内』(角川学芸出版)『やさしい信仰史──神と仏の古典文学』(山川出版社)『日本史10人の女たち』(ウェッジ)など。『古典名作 本の雑誌』(本の雑誌社)では中古文学・中世文学を担当。

https://www.kotensinyaku.jp/books/book310/

という経歴の方だそうで、きちんとした学問的基礎の上に工夫された新鮮な現代語訳は私も絶賛したいのですが、ただ、佐々木氏の『とはずがたり』に対する基本認識はかなり古めかしい感じを受けます。
「訳者まえがき」を見ると、

-------
 約七百五十年前、一人の少女がとっておきのおしゃれをして正月を迎えていた。彼女は自分が格別に美しいことを知っていたし、後深草院に仕える女房たちのなかで、自分だけは特別だと信じていた。というのも、彼女はこの二条富小路の院御所に君臨する後深草院に四歳のころから仕え、その膝の上に抱かれて大切に育てられてきた。だから、自分は御所さまの女房ではあるけれど、御所さまの姫君のようなもの。そんな気位をひそかに育てていた。けれど、二条─彼女がちょっと不服を抱く小路名の女房名─はこの正月で十四歳になった。それは大人の仲間入りを意味する。だから後深草院は自ら育てた娘を、この年の初めにさっそく自分の愛人の一人にした。ここから彼女の数奇な人生がスタートする。
-------

ということで、佐々木氏は『とはずがたり』が事実の記録であることを疑わない立場です。
そして、

-------
 彼女は後深草院の愛人でありながら女房でもあるため、時には院を別の女性に手引きすることのあったし、その房事を一部始終聞かされることもあった。また後深草院より「賞品」として別の男にあてがわれることもあった。それは懐妊中でも、どんなんときでも。そして彼女は何度も妊娠、出産するが、一人として自分の手で育てあげることはなく、顔もろくに見せてもらえずによそに引き取られていくことのあった。
-------

とありますが、「時には院を別の女性に手引きすることのあったし、その房事を一部始終聞かされることもあった」の一例が前斎宮の場面ですね。
ただ、この時点(文永十一年、1274)で僅か十七歳の二条は、別に後深草院から強制されていやいや手引きをしていた訳ではなく、むしろ喜んで後深草院の(現代であれば)犯罪行為を手助けし、「もっと抵抗すれば面白かったのに」などと感想を述べており、後深草院の横暴の「被害者」ではなく、むしろ「加害者」「共犯者」の立場ですね。
さて、佐々木氏は続けて、

-------
 読者はきっと、彼女の人生の特異性に驚くだろう。時代や立場で価値観は大きく異なるものであるし、まして天皇だった人の愛人であれば、気ままな性愛に付き合わされてもいたしかたなし、と納得しようとするかもしれない。でも、二条はいつも「死ぬばかり悲しき」と感じていたし、もし「こんなことは当然」と思っていたとしたら、この『とはずがたり』を書こうなんて思わなかったかもしれない。全五巻という長編を、老いた彼女は古い手紙などを取り出しながら、薄れかけた記憶を掘り起こして書き続けた。書かなければ、書き残しておかなければ私は死ねない、それほどの気迫だったように思う。
-------

と書かれていますが、『とはずがたり』の最終記事は後深草院の三回忌(徳治元年、1306)の少し後なので、二条は数えで四十九歳です。
昔の人の平均寿命が現代人より短いのは確かですが、それは幼児・若年で病気で死んだりする人が多いからで、元気な人は本当に元気であり、二条など全国各地を周遊する大旅行家、驚くべき健脚女性ですから、五十前だったら元気いっぱいだったはずですね。
従って、「全五巻という長編を、老いた彼女は古い手紙などを取り出しながら、薄れかけた記憶を掘り起こして書き続けた。書かなければ、書き残しておかなければ私は死ねない、それほどの気迫だった」かは相当疑問で、むしろ物語作家として円熟期を迎え、溢れんばかりの創作意欲の赴くまま、自由闊達に書きまくっていたのではないかと私は想像します。

7357:2022/02/06(日) 13:53:08
言葉というもの
小太郎さん
二条の「聞く力」ならぬ「騙す力」は、マルガリータ白聴の影響がまだあるのかもしれませんが、大したものだと感心します。物語作者としては至上の快楽で、本懐と言うべきですね。
ではあるけれども、金沢貞顕くらい知的であれば、あの方の話はどこまでホントなのか、よくわからなくてねえ、と苦笑していたような気もしますが、言葉は魔物だな、とあらためて感じます。
もし二条が『吾妻鏡』を読んでいたら、野暮ねえ、ダラダラ無骨な話ばかりで、sophistication というものがまるでないのね、なんで司馬遷の『史記』のようにキビキビ書けないのかしら、とかなんとか、言ったかもしれないですね。

7358鈴木小太郎:2022/02/06(日) 13:57:22
佐々木和歌子氏の基本認識(その2)
共通テストをきっかけに私の掲示板・ブログに来られた『とはずがたり』初心者の方には、佐々木氏の「訳者まえがき」は丁度良い道案内なので、もう少し引用させてもらいます。(p7以下)

-------
 巻一から三までは、若さと美貌ゆえに多くの男たちに求められ、時には自ら求め、妊娠と出産をくりかえし、最後に御所から放逐されるまでを描く。時代は鎌倉末期、政権はすでに鎌倉にあり、儀式や文芸だけをよりどころに生きていた宮廷の退廃を、二条は叙情に流されず、宮廷文学としては異例のリアリズムで淡々と描写する。華やかなはずの宮仕えは、女たちの嫉妬と男たちの漁色にさらされるところ。作品前半は宮廷に仕える「女房」の実態に迫るルポルタージュであり、読者に鮮烈なイメージを残すだろう。
-------

「儀式や文芸だけをよりどころに生きていた宮廷の退廃」は、かつては歴史研究者の認識でもあったのですが、歴史学では中世公家社会の研究が相当に進展しており、こうした認識は今ではかなり古臭い感じが否めないですね。
ま、国文学の方では、未だにこのように考えている人が多いのでしょうが。
また、「異例のリアリズム」はその通りだとしても、描写の生々しさは決して事実を反映していることと直結する訳ではありません。
そのあたり、佐々木氏を含め、多くの国文学者は未だに頑固な思い込みにとらわれているように感じます。

-------
 巻四、五では、尼となった二条が深い喪失感を満たすように旅を続ける。彼女の美しさと宮廷で培われた知性は行く先々で人々を魅了し、その温かな交流に筆が費やされる。歌枕などをたどる数奇の旅に出ることは、幼い頃からの二条の夢だった。それが叶ったとなれば、旅の記を記すことは彼女の精神的浄化であったように思う。けれど旅そのものは決して彼女を癒やしたりしなかった。むしろ旅の孤独が彼女に心の闇を自覚させる。彼女が本当に欲したものは何であるか、旅の果てに彼女は気づき始めるのだ。読者は前半の宮廷スキャンダルに目を奪われるかもしれないが、後半の旅の記こそ二条の語り手としての手腕が光るため、ぜひ最後まで読んでいただきたい。クライマックスは、巻五の後深草院崩御の場面。葬送の車を裸足で追いかける二条は、もうやめようもうやめようと思っても、その足を止めることができない。このくだりはあたかも映画を見るような鮮やかな展開を見せ、中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだことを読者は知るだろう。
-------

葬送の場面は私の旧サイト(『後深草院二条−中世の最も知的で魅力的な悪女について−』)で紹介しておきましたが、今は「インターネットアーカイブ」で読めます。

「葬列を跣で追う、火葬の煙を望み空しく帰る」
http://web.archive.org/web/20150909222836/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-10-hadashideou.htm

さて、続きです。(p9)

-------
 この走る場面がすべてを物語るように、『とはずがたり』は疾走している。王朝文学に見られるような、うねうねと綴られる内省の文章はほとんどなく、語るを急ぐ。頬にかかる尼そぎの髪を耳ばさみして、紙に食らいつくようにして書き続けた─この記憶がなくならないうちに、私のことを、みんなが忘れ去らないうちに。そのスピード感を損なわないように、地の部分の敬語表現は省略し、文意を損なわない程度に一文を適宜切りながら歯切れよく訳したつもりである。また、意味が通りやすいように言葉を足している部分もある。そこに私の読み方が反映されているのはお許しいただきたい。
 生き難い人生を生き抜いた一人の女性の問わず語りに、ぜひお付き合いいただければと思う。
-------

ということで、これで「訳者まえがき」の全文を紹介しました。
「王朝文学に見られるような、うねうねと綴られる内省の文章はほとんどなく」には私も賛成ですが、「頬にかかる尼そぎの髪を耳ばさみして、紙に食らいつくようにして書き続けた」は「老いた彼女」云々の箇所と同様、私は疑問を感じます。
文体が通常の王朝文学と異なる理由については、私はもともと『とはずがたり』が語りの文学であったこと、そして当初の聞き手が東国社会の人びとであったことに求められるのではないかと考えています。
異文化コミュニケーションの手段であり、結果でもある『とはずがたり』は、文化を共通にする人に対してであれば説明不要な背景事情も丁寧に解説しているので分かりやすい反面、普通の王朝文学に比べて洗練度が低い、ちょっと下品な印象を与える作品でもありますね。
『とはずがたり』の文体の「スピード感」も、やはり異文化コミュニケーションの必要から生み出された面があるように思います。

7359鈴木小太郎:2022/02/07(月) 12:56:15
『とはずがたり』の政治的意味(その1)
>筆綾丸さん
>金沢貞顕くらい知的であれば、あの方の話はどこまでホントなのか、よくわからなくてねえ、と苦笑していたような気もしますが、

昨日は四分前の御投稿だったので暫く気づかず、失礼しました。
金沢貞顕は弘安元年(1278)生まれなので二条より二十歳下ですね。
永井晋氏の『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)によれば、

-------
 貞顕の名は、得宗北条貞時の「貞」と父顕時の「顕」を組み合わせたものであろう。「顕」の字は、北条顕時が仕えた宗尊親王の後見大納言土御門顕方からきたものと思われる。
-------

とのことなので(p3)、もともと通親流の村上源氏と縁のある人です。
そして、母が摂津国御家人遠藤為俊の娘(入殿)で(p4)、

-------
母方の遠藤氏は、摂津国と河内国にまたがる大江御厨を本領とした一族である。大江御厨には良港として知られた渡辺津(大阪府大阪市東区)があった。渡辺氏は、この港を管理する渡辺惣官を務めていた。また、摂関家とのつながりも深く、為俊は摂家将軍九条頼経の時代に鎌倉に下り、幕府の奉行人を勤めた。
-------

とのことで(同)、貞顕は、いわば生まれた時から東西の政治と文化の接点に立つことを求められていた存在ですね。
ただ、父・顕時の正室が安達泰盛の娘であったため、顕時は弘安八年(1285)の霜月騒動に連座し、出家して下総国埴生荘に隠棲し、貞顕も出世の出鼻を挫かれた形になりますが、八年後の永仁元年(1293)四月、顕時は平禅門の乱の僅か五日後に鎌倉に復帰し、十月、北条貞時が引付を廃して新設した執奏の一人に選任されます。(p12)
そして、

-------
 翌永仁二年十月、顕時は引付四番頭人に移った。顕時が赤橋邸を使い始めたのは、この頃からと思われる。赤橋邸は鶴岡八幡宮赤橋の右斜前、得宗家の赤橋邸とは若宮小路を挟んで正対した位置にあり、鎌倉の一等地である。顕時がこの館を与えられたことは、得宗北条貞時の厚い信頼を得ていたことを示している。
 十二月二十六日、貞顕が左衛門尉に補任され、同日付で東二条院蔵人に補任された。貞顕十七歳である。貞顕が初任とした左衛門尉は、微妙な立場の官職である。
-------

ということで(p13)、この後、武家の官職に関する永井氏の怒涛の蘊蓄が披露されますが、あまりに詳しすぎるので全て省略して、貞顕に関する結論だけ引用すると、

-------
 貞顕の場合、初出仕が遅いのは霜月騒動の影響であろう。また、左衛門尉という初任の官職は父顕時の左近将監よりも低い。これは、庶子の扱いである。低い官職からスタートしたため、右近衛将監転任によってようやく他家の嫡子並の地位に就いている。また、貞顕は東二条院(後深草天皇の中宮西園寺公子)の蔵人を兼務した。女院蔵人は六位蔵人に転任する慣例を持つ役職であるが、この兼務は形式的なものと考えてよい。
-------

とのことです。(p15)
「形式的」とはいえ、貞顕にとって東二条院との関係は名誉であり、嬉しいものではあったでしょうね。
ところで、『とはずがたり』によれば、前斎宮エピソードの直前くらいから東二条院と壮絶なバトルを繰り広げていた二条は、結局、東二条院に完全敗北して弘安六年(1283)頃、宮中を追放されてしまいます。
『とはずがたり』では、巻三の最後、弘安八年(1285)の北山准后九十賀に参加した後の二条の動静は暫らく不明となりますが、『増鏡』「巻十一 さしぐし」には、正応元年(1288)六月二日、三月に践祚したばかりの伏見天皇の許に西園寺実兼の娘(後の永福門院)が入内した際に、

-------
 出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9864

という具合いに、「久我大納言雅忠の女」が「二条」ではなく「三条」という名前で登場します。
そして、『とはずがたり』巻四では、正応二年(1289)、既に出家して尼になっている二条が東海道を旅して三月に鎌倉に入り、八月、将軍惟康親王が廃されて京都に送還される場面に「たまたま」立ち合います。

http://web.archive.org/web/20150512020204/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-6-shogunkoreyasu.htm

ついで十月、後深草院皇子の久明親王が新将軍として迎えられるに際し、東二条院から贈られた「五つ衣」の裁断の仕方について悩んでいた平頼綱の「御方とかや」の依頼により、二条は嫌々ながら平頼綱邸に出向いて、平頼綱室に適切な指導を行います。
また、将軍御所の内装についても監修を依頼されたので、これも嫌々ながら指導します。
更に二条は久明親王到着後の儀式にも招かれたようで、「御所には、当国司・足利より、みなさるべき人々は布衣なり」(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p238)などと、幕府要人を眺めていますね。

http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

ここで「当国司」は北条貞時、「足利」は尊氏・直義兄弟の父、貞氏(1273-1331)と思われますが、この時期の貞氏は十七歳という若年であり、幕府の要職に就いていた訳でもないので、北条貞時との並置は些か奇妙な感じがします。
ただ、二条の母方の叔父・四条隆顕(1243-?)の母親は、鎌倉時代に足利家の全盛期を築いた義氏(1189-1255)の娘なので、足利貞氏は四条家を介して二条の縁者でもあり、そのためにここで特別扱いされているようです。
なお、足利貞氏の正室・釈迦堂殿は金沢顕時と安達泰盛娘の間に生まれた女性なので、貞顕の異母姉(or妹)であり、足利家と金沢北条氏は緊密に結びついていますね。

高義母・釈迦堂殿の立場(その1)〜(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10592
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10593
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10594

7360:2022/02/08(火) 17:39:54
嫌々ながら雑巾掛けする女
小太郎さん
佐々木和歌子氏の「『とはずがたり』は疾走している」の「疾走」は、おそらく、小林秀雄『モーツァルト』の「モーツァルトのかなしみは疾走する。涙は追いつけない」という有名な表現を意識したものだと思います。つまり、後深草院の葬列を裸足で追いかける二条、という場面のBGMには、モーツァルトのシンフォニー第40番がよく似合う、と佐々木氏は考えているような気がします。違う、と私は思いますが。

前回の『鎌倉殿の13人』に、牧の方(宮沢りえ)が伊豆山権現社の欄干で嫌々ながら雑巾掛けするユーモラスなシーンがありましたが、二条って、たぶん、あんな感じの女性だったんじゃないかな、と思いました。

7361鈴木小太郎:2022/02/08(火) 21:42:44
後深草院二条の「非実在説」は実在するのか?
佐々木和歌子氏は「解説」で、

-------
 ここまで書くと、私たちはずいぶん彼女のことを理解したような気になる。けれども実は、後深草院二条の非実在説なるものが存在する。というのも、作中に多くの歌を残しているのに、勅撰集にその名もなく、家集も存在しない。さらに雅忠の娘であることは確かなのに、系譜や官位を明らかにする『尊卑分脈』の雅忠の項に「女」の記載がない。もし後深草院との間に生まれた皇子が成人していれば母として彼女の名前がどこかに刻まれたかもしれないが、皇子が早逝したせいか、どこにもその記録がない。つまり彼女の存在を示すものは、『とはずがたり』だけなのである。
-------

と書かれていますが(p465)、「非実在説」が具体的に誰の学説かが分かりません。
ウィキペディアにも「作者の実在性や、その内容にどこまで真偽を認めるかについては諸説ある」などとありますが、「虚構説」の代表として引用されている田中貴子氏の見解も二条の実在まで疑っているようには見えません。
国会図書館サイトで検索しても、「非実在説」らしい論文は見あたらず、「非実在説」が本当に実在するのかが目下の私の疑問なのですが、何か御存知の方は御教示願いたく。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%9A%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%8A

『日本古典への招待』(ちくま新書)
https://web.archive.org/web/20061006214714/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tanaka.htm
https://web.archive.org/web/20061006214710/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/bulgaria.htm

それと、前回投稿では金沢貞顕に深入りしてしまいましたが、共通テストをきっかけに当掲示板・ブログに来られる人が増えた機会に、改めて基礎から『とはずがたり』と『増鏡』の関係を検討しようとしていたにもかかわらず、ちょっと先走ってしまいました。
次の投稿からは前斎宮の場面に戻って、『とはずがたり』と『増鏡』の原文を丁寧に見て行くことにしたいと思います。
なお、二条と金沢貞顕の関係について興味を持たれた方は、以下の記事などを参照してください。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9371
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9375
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9376
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9378
第三回中間整理(その6)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9456
『とはずがたり』の妄想誘発力
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9869

>筆綾丸さん
>佐々木和歌子氏の「『とはずがたり』は疾走している」

佐々木氏の「葬送の車を裸足で追いかける二条は、もうやめようもうやめようと思っても、その足を止めることができない。このくだりはあたかも映画を見るような鮮やかな展開を見せ、中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだことを読者は知るだろう」という文章は妙に面白いですね。
私自身は別に「中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだ」とは思いませんが、「あたかも映画を見るような鮮やかな展開」であることは確かで、だったらこの場面は「映画」なんじゃないの、と考えるのが素直なはずです。
舗装道路ではないデコボコ道を裸足で走るのは大変だから、美しい場面だけど、まあ、フィクションだよね、という方向に進みそうなものなのに、佐々木氏は何故にこれが事実の記録だと考えるのか。
「訳者あとがき」を見ると、佐々木氏は自身の出産後の経験と『とはずがたり』の出産記事の比較から、

-------
 作品のすべてに共鳴するのは難しい。だけど、一つだけでも自分とシンクロする部分があれば、作中の人物は立体感を持って目の前に立ちあがってくる。異なる時代の人と一瞬目を交わし合ったような、この感覚。だから私は古典文学が好きだ。
-------

という具合いに「自分とシンクロする部分」を発見され(p487)、『とはずがたり』の「リアリズム」に魂を撃ち抜かれてしまったようですね。

7362キラーカーン:2022/02/08(火) 22:51:39
駄レス
>>雅忠の娘

花山院忠雅と勘違いしてました。

7363鈴木小太郎:2022/02/09(水) 13:05:08
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その8)
早稲田大学教授・田渕句美子氏が『歴史評論』850号(2021年2月)で「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」という論文を書かれていて、最近の『とはずがたり』研究の状況を概観するには便利ですが、田渕氏も後深草院二条の「非実在説」については言及されていません。
まあ、「非実在説」は最近の有力説という訳でもなさそうですね。
それにしても、歴史学界で一貫して「科学運動」の中核を担ってきた歴史科学協議会の機関誌『歴史評論』にしては、「特集/女房イメージをひろげる “Reimagining the Nyōbō (female attendant)”」はなかなか新鮮な感じがしますね。

http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/850.html

さて、『とはずがたり』の時間の流れの中では、文永十一年(1274)正月以降、後深草院が如法経書写のため精進し、女性を近づけないでいた期間に「雪の曙」(西園寺実兼)の子を宿した二条は、その処置に悩み、九月、重病と称して「雪の曙」の女子を出産するも、月日が合わないので後深草院には流産と偽ります。
その子は「雪の曙」がどこかに連れて行ってしまうのですが、翌十月には昨年出生の皇子も死んでしまい、「前後相違の別れ、愛別離苦の悲しみ、ただ身一つにとどまる」などと悲観した二条は出家したいと思ったりします。
そして、(史実としては翌建治元年の出来事であるものの、『とはずがたり』の時間の流れでは)、ちょうど同じ頃に後深草院が皇位継承の不満から出家を決意するも、幕府の斡旋で熈仁親王(伏見天皇)の立太子が決まり、出家を中止します。
そして十一月十日頃、前斎宮の場面となり、母の大宮院と異母妹である前斎宮の対面の場に呼ばれた後深草院は、二条の案内で異母妹と関係を持ちますが、一夜限りであっさり終わってしまいます。
ちなみに『増鏡』では二夜です。
その後、二条の助言により、年末に再び後深草院と前斎宮が逢うことになりますが、その場面に至る前に、二条の行動に激怒した東二条院が出家騒動を起こします。
なかなか忙しい展開ですが、後深草院が出家を中止し、二条もどさくさに紛れて何となく出家を止めやめたとたん、今度は東二条院が出家するという出家騒動の三段重ね的な状況になります。

------
 還御の夕方、女院の御方より御使に中納言殿参らる。何事ぞと聞けば、「二条殿が振舞のやう、心得ぬ事のみ侯ふときに、この御方の御伺侯をとどめて侯へば、殊更もてなされて、三つ衣を着て御車に参り候へば、人のみな女院の御同車と申し候ふなり。これせんなく覚え候。よろづ面目なき事のみ候へば、いとまを賜はりて、伏見などにひきこもりて、出家して候はんと思ひ候」といふ御使なり。
 御返事には、
「承り候ひぬ。二条がこと、いまさら承るべきやうも候はず。故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれてふびんに覚え候ひしかば、いかほどもと思ひしに、あへなくうせ候ひし形見には、いかにもと申しおき候ひしに、領掌申しき。故大納言、また最後に申す子細候ひき。君の君たるは臣下の志により、臣下の臣たることは、君の恩によることに候ふ。最後終焉に申しおき候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世のさはりなく思ひおくよしを申して、まかり候ひぬ。再びかへらざるは言の葉に候。さだめて草のかげにても見候ふらん。何ごとの身の咎も候はで、いかが御所をも出だし、行方も知らずも候ふべき。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9431

そして、後深草院の二条弁護は止まるところを知りません。

-------
 また三つ衣を着候ふこと、いま始めたることならず候。四歳の年、初参のをり、『わが身位あさく候。祖父、久我の太政大臣が子にて参らせ候はん』と申して、五つ緒の車数、衵〔あこめ〕・二重織物許〔ゆ〕り候ひぬ。そのほかまた、大納言の典侍は、北山の入道太政大臣の猶子とて候ひしかば、ついでこれも、准后御猶子の儀にて、袴を着そめ候ひしをり、腰を結はせられ候ひしとき、いづ方につけても、薄衣白き袴などは許すべしといふこと、ふり候ひぬ。車寄などまで許り候ひて、年月になり候ふが、今更かやうに承り侯ふ、心得ず候。
 いふかひなき北面の下臈ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん。さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰し候ふべく候ふ。さりといふとも、御所を出だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。
 大納言、二条といふ名をつきて候ひしを、返し参らせ候ひしことは、世隠れなく候ふ。されば、呼ぶ人々さは呼ばせ候はず。『われ位あさく候ふゆゑに、祖父が子にて参り候ひぬるうへは、小路名を付くべきにあらず候ふ』『詮じ候ふところ、ただしばしは、あかこにて候へかし。何さまにも大臣は定まれる位に候へば、そのをり一度に付侯はん』と申し侯ひき。
 太政大臣の女〔むすめ〕にて、薄衣は定まれることに候ふうへ、家々めんめんに、我も我もと申し候へども、花山・閑院ともに淡海公の末より、次々また申すに及ばず候。久我は村上の前帝の御子、冷泉・円融の御弟、第七皇子具平親王より以来、 家久しからず。されば今までも、かの家女子〔をんなご〕は宮仕ひなどは望まぬ事にて候ふを、母奉公のものなりとて、その形見になどねんごろに申して、幼少の昔より召しおきて侍るなり。さだめてそのやうは御心得候ふらんとこそ覚え候ふに、今更なる仰せ言、存の外に候。御出家の事は、宿善内にもよほし、時至ることに候へば、何とよそよりはからひ申すによるまじきことに候」
とばかり、御返事に申さる。そののちは、いとどこと悪しきやうなるもむつかしながら、ただ御一ところの御志、なほざりならずさに慰めてぞ侍る。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9433

ここまで一方的に二条に加担し、東二条院への配慮を欠いた手紙を出したら、東二条院は売り言葉に買い言葉で出家し、後深草院と西園寺家の関係が悪化して、非常に難しい事態になったでしょうね。
果たしてこれが事実の記録なのか。

7364:2022/02/09(水) 14:30:10
Scherzando, ma ・・・
モーツァルトの交響曲第40番の最終楽章には、Allegro assai(極めて速く)という演奏記号が付いていて、これが「疾走」に相当しますが、『とはずがたり』執筆の基本方針は、Scherzando ma non troppo(スケルツァンド・マ・ノン・トロッポ/戯れるように、しかし、戯れすぎずに)、というのがいちばんいいような気がします。
付記
scherzando は、諧謔的に、戯画的に、とも訳せます。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86-95305
イタリア語に関連して言えば、『La Divina Commedia』(神曲=神聖喜劇)を書いたダンテ・アリギエーリ(1265-1321)は、二条と同時代の人なんですね。二条はベアトリーチェとは似ても似つかぬ女ですが。

7365鈴木小太郎:2022/02/10(木) 11:55:44
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その9)
二条が他人の口を借りて自分の家柄と人柄、そして美貌を誉めまくるのは『とはずがたり』における常套手段で、既に大宮院がかなり誉めていますが、ここで後深草院が絶賛し、更に巻二で「近衛大殿」(鷹司兼平?)が、赤の他人なのにいくら何でもそこまで誉めないだろう、というくらい二条を褒めちぎります。
私は素直に、この種の誉め言葉は二条の創作だろうと思いますが、例えば久保田淳氏は、

-------
 東二条院の抗議に対する院の返事は、このころの院の作者への愛情が並々ならぬものがあったことを物語る。記憶による叙述とは考えにくいが、草稿などを見せられて、写しておいたものを、ここで院の愛情の証として引くか。
-------

などと言われています。(小学館新編日本古典文学全集、p277)
また、次田香澄氏は、

-------
 院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか、委曲を尽くしている。これを通して、久我家の出自・家柄、母と院との関係、宮廷における作者の地位や境遇、二条と命名された事情、亡父と院との約束など、女房としての作者に関することがすべて出てくる。
 作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる。
 女院の短い詞には含まれていない作者の行跡について、院がそれを忖度して述べているのが興味あることである。最後に女院の出家云々に対し、冷たく突っぱねたのを見て、作者も自信を持ったであろう。【後略】
-------

と言われていますが(p243以下)、「作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる」と核心を突く指摘をされていながら、なぜそれが「院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか」と結びつくのか、非常に不思議です。
さて、十一月十日頃に亀山殿で後深草院と一夜限りの関係を持った前斎宮は、十七歳でありながら殆ど遣り手婆のように老練な二条の仲介で、十二月にもう一度後深草院と関係を持ちます。

-------
 まことや、前斎宮は、嵯峨野の夢ののちは御訪れもなければ、御心のうちも御心ぐるしく、わが道芝もかれがれならずなど思ふにと、わびしくて、「さても年をさへ隔て給ふべきか」と申したれば、げにとて文あり。
 「いかなるひまにても思し召し立て」など申されたりしを、御養母と聞えし尼御前、やがて聞かれたりけるとて、参りたれば、いつしか、かこちがほなる袖のしがらみせきあへず、「神よりほかの御よすがなくてと思ひしに、よしなき夢の迷ひより、御物思ひの」いしいしと、くどきかけらるるもわづらはしけれども、「ひましあらばの御使にて参りたる」と答ふれば、「これの御ひまは、いつも何の葦分けかあらん」など聞ゆるよしを伝へ申せば、「端山繁山の中を分けんなどならば、さもあやにくなる心いられもあるべきに、越え過ぎたる心地して」と仰せありて、公卿の車を召されて、十二月の月の頃にや、忍びつつ参らせらる。
 道も程遠ければ、ふけ過ぐるほどに御わたり、京極表の御忍び所も、このころは春宮の御方になりぬれば、大柳殿の渡殿へ、御車を寄せて、昼の御座のそばの四間へ入れ参らせ、例の御屏風へだてて御とぎに侍れば、見し世の夢ののち、かき絶えたる御日数の御うらみなども、ことわりに聞えしほどに、明けゆく鐘にねを添へて、まかり出で給ひし後朝の御袖は、よそも露けくぞ見え給ひし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9436

これで後深草院と前斎宮に関するエピソードは終わりで、以後、前斎宮は『とはずがたり』に登場しません。
改めてこの長大なエピソードを振り返ると、直前に二条が東二条院に嫌われて東二条院の御殿への出入りを差し止められ、更に二条が後深草院と同車して亀山殿に向かったことで東二条院の怒りが爆発して出家騒動になっているので、巻三で東二条院と決定的に対立した二条が後深草院にも見放されて御所を追放される、いわば『とはずがたり』宮中篇のクライマックス場面への伏線的な位置づけになっていますね。
とにかく史実では前斎宮・愷子内親王は父・後嵯峨院崩御のその年に帰京しているので、『とはずがたり』の前斎宮の場面は全部創作というのが私の考え方ですが、それでも『とはずがたり』では二条追放の伏線という、それなりに重要な意味があります。
しかし、この特に政治的重要性を持たないエピソードは、鎌倉時代を公家の立場から通観した歴史物語の『増鏡』にも大幅な増補・改変を経て膨大な分量で引用され、巻九「草枕」の後半を埋め尽くしており、その巻名の「草枕」も、後深草院が前斎宮に贈ったという「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌にちなんでいます。
そして、この歌は『とはずがたり』には存在せず、『増鏡』のみに記された歌です。
このように『とはずがたり』は単純に『増鏡』の「資料」だったとは言い難いのですが、では『とはずがたり』と『増鏡』はどのような関係にあったのか。

>筆綾丸さん
>モーツァルトの交響曲第40番の最終楽章には、Allegro assai(極めて速く)という演奏記号が付いていて

『とはずがたり』の巻一は文永八年(1271)正月、二条が十四歳で後深草院の愛妾の一人となり、文永九年二月の後嵯峨院崩御に続いて八月に父・雅忠が死去、十月に「雪の曙」と契り、文永十年二月、後深草院の皇子を産むという具合いに、ここまではそれなりに現実的な時間の流れです。
しかし、文永十一年(1274)に入ると、二月、後深草院が如法経書写のために女性関係を断っている間に「雪の曙」の子を懐妊し、九月に出産するも流産だと偽装、十月八日に昨年生まれた皇子が死去し、出家したいと願います。
ところが十一月十日頃には嬉々として後深草院と前斎宮の関係を斡旋し、十二月にも再度斡旋、という具合いに、本当に目まぐるしい展開になりますね。
更に、この忙しさは更に翌建治元年(1275)正月に持ち越され、『とはずがたり』屈指のコメディ「粥杖事件」となります。
このあたり、Allegro assai(極めて速く)そのものですね。

7366鈴木小太郎:2022/02/11(金) 12:32:33
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その10)
共通テストでは、前斎宮に関連する場面の中でも、入試問題用に特別に限られた区分で『増鏡』(【文章?】)と『とはずがたり』(【文章?】)を比較していました。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その2)(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11139
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11141

しかし、もう少し範囲を広げて『とはずがたり』と『増鏡』を読み比べてみると、『増鏡』が『とはずがたり』を一資料として活用しただけとは考えにくい記述があります。
『とはずがたり』では二条と東二条院の対立という大きな流れの中で前斎宮の場面を位置づけていましたが、『増鏡』も巻九「草枕」全体の中での前斎宮の場面の位置づけを見て行きたいと思います。
ところで、『増鏡』は戦前はなかなか人気のある作品でしたが、戦後は『増鏡』の注釈書は僅少、全部を通しての現代語訳も講談社学術文庫の井上宗雄氏によるものくらいで、『とはずがたり』研究の隆盛に比べると寂しい限りです。
それでも私は、既に消滅してしまった旧サイトで、2005年くらいまでの『増鏡』の研究状況を網羅的に概観できるようにしており、それらは現在では「インターネットアーカイブ」で読むことができますので、『増鏡』の基礎知識と(少し前までの)研究状況はそちらで確認していただければと思います。

『後深草院二条 中世の最も知的で魅力的な悪女について』
http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/
『増鏡』−従来の学説とその批判−
http://web.archive.org/web/20150831083929/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/jurai2.htm

さて、巻九「草枕」は、井上宗雄氏の『増鏡(中)全訳注』(講談社学術文庫、1983)に従って全体の構成を見ると、

-------
後宇多天皇践祚
亀山院御幸始、後嵯峨院三回忌
後深草院出家の内意
最明寺時頼のこと
煕仁親王立太子
前斎宮と後深草院(一)
前斎宮と後深草院(二)
前斎宮と後深草院(三)
前斎宮と西園寺実兼
亀山院の若宮誕生

http://web.archive.org/web/20150831071841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu-index.htm

となっています。
扱っている時代は文永十一年(1274)から建治二年(1276)までですね。
私は四年前に私訳を試みているので、詳しくはそちらを参照してもらうとして、まずは冒頭から原文を眺めることにします。

-------
 文永十一年正月廿六日春宮に位ゆずり申させ給ふ。廿五日夜まづ内侍所・剣璽ひき具して押小路殿へ行幸なりて、又の日ことさらに二条内裏へ渡されけり。九条の摂政<忠家>殿参り給ひて、蔵人召して禁色〔きんじき〕仰せらる。
 上は八つにならせ給へば、いとちひさくうつくしげにて、びづらゆひて御引直衣〔ひきなほし〕・打御衣〔うちおんぞ〕・はり袴奉れる御気色〔けしき〕、おとなおとなしうめでたくおはするを、花山院の内大臣扶持し申さるるを、故皇后の御せうと公守の君などは、あはれに見給ひつつ、故大臣・宮などのおはせましかばと思し出づ。殿上に人々多く参り集まり給ひて、御膳参る。そののち上達部の拝あり。女房は朝餉より末まで、内大臣公親の女をはじめにて、三十余人並みゐたり。いづれとなくとりどりにきよげなり。廿八日よりぞ内侍所の御拝はじめられける。
 かくて新院、二月七日御幸はじめせさせ給ふ。大宮院のおはします中御門京極実俊の中将の家へなる。御直衣、唐庇の御車、上達部・殿上人残りなく、上の衣にて仕うまつる。同じ十日やがて菊の網代庇の御車奉り始む。この度は、御烏帽子・直衣同じ、院へ参り給ふ。同廿日布衣〔ほうい〕の御幸はじめ、北白河殿へいらせ給ふ。八葉の御車、萌黄の御狩衣、山吹の二つ御衣、紅の御単、薄色の織物の御指貫奉り給ふ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9409

文永九年(1272)の後嵯峨院崩御後、皇統を後深草院側が継ぐか亀山天皇側が継ぐかで争いがありましたが、二年後、亀山皇子の世仁親王(後宇多天皇)が八歳で践祚し、亀山側の勝利が確定したような状況となります。
巻九「草枕」の後半はエロ小説的な趣がありますが、前半は複雑な政治情勢を要領良く説明しており、文章の格調も高いですね。

7367鈴木小太郎:2022/02/12(土) 12:59:42
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その11)
『増鏡』巻九「草枕」の続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p192以下)

-------
 本院は、故院の御第三年のこと思し入りて、睦月の末つ方より六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ。僧衆も十余人が程召し置きて懺法など読ませらる。御掟の思はずなりしつらさをも思し知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらめ、といよいよ御心を致してねんごろに孝じ申させ給ふさま、いと哀れなり。新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9410

後深草院が「御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ」などと、現代人には些か不気味な感じもする血写経の話が出てきますが、これは『とはずがたり』に基づいています。
『とはずがたり』では参加した僧侶の人数が「経衆十二人」、期間が「正月より二月十七日まで」、「御手の裏をひるがへして」(故院の御手蹟の裏に)と『増鏡』より具体的ですが、反面、血写経の目的は記されていません。
この点、『増鏡』は故院の三回忌としていて、二月十七日は後嵯峨院の命日ですから、『増鏡』の記述から『とはずがたり』の記述が合理的に説明できるという関係になっています。
ところで、六条殿・長講堂は『増鏡』に後深草院が血写経を行なったと記されている文永十一年(1274)正月の三ヵ月前、文永十年(1273)十月十二日に火事で焼失しており、再建されたのが文永十二年(建治元年、1275)四月なので、文永十一年正月には物理的に存在していません。
これをどのように考えたらよいのか。
実は、後深草院の血写経は『とはずがたり』の中ではけっこう重要な出来事です。
というのは、この重要な仏事に際して、後深草院は女性関係を一切断っており、従って、この間に「雪の曙」の子を妊娠した二条の相手が後深草院のはずはなく、二条は九月に女児を出産したものの、後深草院には早産だと偽った、という展開になります。
後深草院の血写経を起点とする『とはずがたり』の妊娠・出産騒動はハラハラ・ドキドキの連続で、些かコミカルなところもあり、ドラマとしては非常に面白いものです。
しかし、「雪の曙」こと西園寺実兼が、元寇(文永の役)の直前の時期、関東申次の重職にあるにもかかわらず、春日大社に籠もると称して一切の職務を放擲し、愛人の出産にかかりきりになっていたなどという場面もあって、これら全てを史実と考えるのは無理が多い話です。
私としては、この話は全体として虚構であり、存在しない六条殿・長講堂で行われた後深草院の血写経も、この話をリアルに見せるための「小道具」のひとつだろうと考えます。

『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その1)〜(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9411
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9412
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9413
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9414
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9415

さて、『増鏡』に戻って続きです。

-------
 三月廿六日は御即位、めでたくて過ぎもて行く。十月廿二日御禊〔ごけい〕なり。十九日より官庁へ行幸あり。女御代、花山より出ださる。糸毛の車、寝殿の階〔はし〕の間に、左大臣殿、大納言長雅寄せらる。みな紅の十五の衣、同じ単、車の尻より出さる。十一月十九日又官庁へ行幸、廿日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古〔むくり〕起るとてとまりぬ。廿二日大嘗会、廻立殿〔くわいりふでん〕の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂〔せいしよだう〕の御神楽もなし。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9417

ということで、文永十一年(1274)の記述はずいぶんあっさりしています。
この年の最大の出来事は言うまでもなく元寇ですが、『増鏡』における元寇の記述は即位関係の諸行事が「蒙古起るとてとまりぬ」だけです。
六年前の文永五年(1268)、蒙古襲来の可能性が生じた時ですら、

-------
 かやうに聞こゆる程に、蒙古の軍といふこと起こりて御賀とどまりぬ。人々口惜しく本意なしと思すこと限りなし。何事もうちさましたるやうにて、御修法や何やと公家・武家ただこの騒ぎなり。されども程なくしづまりていとめでたし。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9310

という程度の分量を割いていたのに、実際の襲来時の記事は更に短くなっています。
『増鏡』の超然たる態度は清々しいほどですね。

7368:2022/02/12(土) 15:09:49
省筆
小太郎さん
二条が定家の『明月記』を読んだはずはありませんが、まるで「紅旗征戎非吾事」のパロディのように見えますね。
冗談めかして言えば、承久の乱以後、「紅旗征戎非吾事」が朝廷の基本方針で、二条の省筆は、そんな政治状況への諷刺をも暗示しているのだ、と。

7369鈴木小太郎:2022/02/12(土) 21:35:44
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その12)
元寇にほんの少し触れた後、話題は後深草院の出家騒動に移ります。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p197以下)

-------
 新院は世をしろしめす事変らねば、よろづ御心のままに、日ごろゆかしく思し召されし所々、いつしか御幸しげう、花やかにて過ぐさせ給ふ。いとあらまほしげなり。
 本院はなほいとあやしかりける御身の宿世〔すくせ〕を、人の思ふらんこともすさまじう思しむすぼほれて、世を背かんのまうけにて、尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をもとどめんとて、御随身ども召して、禄かづけ、いとまたまはする程、いと心細しと思ひあへり。
 大方の有様、うち思ひめぐらすもいと忍びがたきこと多くて、内外〔うちと〕、人々袖どもうるひわたる。院もいとあはれなる御気色にて、心強からず。今年三十三にぞおはします。故院の四十九にて御髪おろし給ひしをだに、さこそは誰々も惜しみ聞えしか。東の御方も、後れ聞えじと御心づかひし給ふ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9417

「今年三十三にぞおはします」とありますが、後深草院は寛元元年(1243)生まれなので、数えで三十三歳ということは建治元年(1275)ですね。
ここで注意する必要があるのは、『とはずがたり』では後深草院の出家騒動とそれに続く前斎宮エピソードは前年、文永十一年(1274)の出来事とされている点です。
『とはずがたり』では巻一の最後に前斎宮エピソードが出てきて、巻二に入ると、その冒頭に、

-------
 ひまゆく駒のはやせ川、越えてかへらぬ年なみの、わが身につもるをかぞふれば、今年は十八になり侍るにこそ。百千鳥〔ももちどり〕さへづる春の日影、のどかなるを見るにも、何となき心のなかの物思はしさ、忘るるときもなければ、花やかなるもうれしからぬ心地ぞし侍る。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9405

とあり、二条は正嘉二年(1258)生まれですから、数えで十八歳だと建治元年(1275)です。
従って、後深草院の出家騒動と前斎宮エピソードは前年の文永十一年の出来事となり、『とはずがたり』と『増鏡』で一年のずれがあります。
ま、それはともかく、『増鏡』の続きです。

-------
 さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり御供仕まつるべき用意すめれば、ほどほどにつけて、私〔わたくし〕も物心細う思ひ嘆く家々あるべし。かかることども東〔あづま〕にも驚き聞えて、例の陣の定めなどやうに、これかれ東武士ども、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。
-------

先に「東の御方も、後れ聞えじと御心づかひし給ふ」とありましたが、「東の御方」は洞院実雄女・愔子(1246-1329)で、熈仁親王(伏見天皇)の母ですね。
『増鏡』では「東の御方」に加えて、「さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり」出家予定だとありますが、『とはずがたり』では、出家する女房は「東の御方」と二条となっています。
即ち、

-------
 この秋ごろにや、御所さまにも世の中すさまじく、後院の別当などおかるるも御面目なしとて、太政天皇の宣旨を天下へ返し参らせて、御随身ども召しあつめて、みな禄ども賜はせていとま賜びて、久則一人、後に侍るべしとありしかば、めんめんに袂をしぼりてまかり出で、御出家あるべしとて人数定められしにも、女房には東の御方・二条とあそばれしかば、憂きはうれしきたよりにもやと思ひしに、鎌倉よりなだめ申して、

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9406

とあって、「女房には東の御方・二条」ですから「東の御方」と二条は「女房」として同格扱いですが、『増鏡』では「東の御方」だけが明示され、二条の名前は消えていますね。

>筆綾丸さん
>冗談めかして言えば、承久の乱以後、「紅旗征戎非吾事」が朝廷の基本方針で、

史実としては朝廷も元寇対策に相当尽力していますね。
文永十一年十月五日に蒙古・高麗の大軍が対馬を攻めたとの情報は十月十八日に京都に届き、九州が占領されたらしいなどという誤報もあって、大騒動になったようです。
もちろん、朝廷には武力がないので、対応といっても山陵使や伊勢以下十六社への奉幣使の発遣程度ですが、これを無意味と考えるのは現代人の感覚で、当時としては朝廷もそれなりに頑張った、というべきでしょうね。

龍粛「八 文永の役における公武の対策」
http://web.archive.org/web/20100128014139/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-mokoshurai-08.htm
『北条時宗』 参考文献
http://web.archive.org/web/20150901025021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tokimune-sankobunken.htm




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