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Japanese Medieval History and Literature

7465鈴木小太郎:2022/04/12(火) 13:49:16
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その3)
栗田寛説は尊治親王(後醍醐)が重要な存在に決まっているのだ、という先入観に支配されているような印象がありますが、三浦は関係史料全体の丁寧な分析に基づき、「亀山院の尊治親王に御思召ありしと否とは姑くこれを措き、余は此遺勅に於て諷示し給ひし御方は断じて皇孫尊治親王にあらずして、皇子恒明親王なりしを信じて疑はざるものなり」と恒明親王の存在を浮き彫りにして行きます。

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 亀山院の御処分帳を拝するに、尊治親王に関することは唯一所に見ゆるのみなるも、恒明親王に関することは数所に見えたり。先づ

(一)皇子後宇多上皇への御処分の中、冷泉殿及び文庫は御一期の後恒明親王に譲り給ふべしと認められたり。こは文永九年の後嵯峨法皇の御処分帳(そは後段に引くべし)にては亀山上皇に御処分遊ばされしものにて、御治世の君と関係あり。

(二)次に皇女昭慶門院への御処分には、恒明親王を御子ともせられて、後には女院の御領をも親王に進めらるべき旨懇に諭され、

(三)次に亀山院の妃にして同親王の御生母なる昭訓門院への御処分にも其御領を親王の御幼少の間丈御管領あるべき旨認められ、其他御譲状に漏れし所々も、同親王御成人の間はすべて御管領あるべく、猶ほ万事女院の御兄なる西園寺公衡に謀り給ふべき旨を諭され、而して恒明親王への御処分には前記の御処分に洩れし仙洞の御領にして、各所に散在せるものをも、悉く領知せしめられ、其末文には特に「三歳小兒心操雖難知、於事孝行之志不可説/\」と記させ給ひ、公衡に向つては、「恒明親王成人之間、前右大臣可計沙汰」とて丁寧に親王の御事を託し給ひ、親王に対する御愛情の転々切なりしこと拝察するに余りあり。

 法皇は御領御処分につきて此くの如く最も親王に厚くし給ひしのみならず、御遺領の中には冷泉殿文庫の如く、治世の君の御領たるものさへあるは親王に対して皇位継承の思召ありしこと、おのづから拝察せらる。加之これと同時に法皇は後宇多上皇に向つて、親王をして他日の皇儲たらしめんことにつきて幕府への御執成を諭し給ひしと見え、是時上皇より法皇に上られし宸翰に、

  恒明親王儲弐間事、当時后宮、女院等之間、可備其器之仁無所生之上者、
  承候之趣、非無謂候歟、今度沙汰之時、以此旨可被仰合関東之由承候了、
  毎事被仰置之趣、不可有相違之条勿論、心安被思食之条、年来孝行所存、
  可顕此時候歟、恐惶謹言、
    嘉元三七月廿八日          世仁

と宣へり。法皇の親王を御鐘愛あらせられしこと他の諸宮に越え、最も多くの遺領を与へ給ひしことと共に特別の御思召あらせられしは、今や疑を容るゝの余地なし。

http://web.archive.org/web/20081229143100/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm

いったん、ここで切ります。
財産分与の対象を見れば亀山院が恒明親王を特別視していたことは疑う余地がなく、更に後宇多院が亀山院に提出した文書に「恒明親王儲弐間事」とあるのですから、亀山院の遺志は明確ですね。
ただ、財産は亀山院が自由に処分できるとしても、承久の乱以来、皇位の行方は幕府の同意なしに勝手に決めることはできませんから、亀山院も恒明親王を皇太子にすることについて「関東」の同意を得るように後宇多院に命じ、後宇多院もいったんはそれを了解した訳ですね。
さて、続きです。

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 昭訓門院は恐らく法皇の最後の寵妃にまし/\、正安三年、法皇五十三歳の御時廿九歳にして法皇の宮に入り給ひ、嘉元々年に恒明親王御誕生ありたれば、御寵愛比なく、今少し御成長の程を見給はずして崩御あるを悲み給ひしこと、増鏡 つげの小櫛 に見え、北朝観応二年九月六日、親王御年四十九歳にて薨御ありし時、洞院公賢は其園太暦に書して、「此親王者、亀山院鍾愛之御末子、昭訓門院所奉誕給也」といへり。されば上皇の後醍醐天皇に向つて思召寄せられしは昔の事にて親王降誕後は御愛情を親王に移されしなり。
 此情実を知りて然る後亀山院の御処分帳を拝読すれば、其御文意は直に理会するを得べきなり。即ち亀山院が恒明親王の皇兄に後宇多院のあらせらるゝに拘らず、遺領の御処分につきて親王に厚くし給ふにつけて、後嵯峨院が皇兄なる後深草院を措きて皇弟なる亀山院御自身を惣領とし給ひしことを引証し給ひ、院の此くの如き御処分が決して其新儀にあらざる由を示して、暗に両宮の間に争端を開かれんことを防がせ給へるものなり。故に其先例は允恭帝以来抔といふ迂遠なるものにはあらずして、其前文に載せ給へる後嵯峨院の御処分を指し給へるのみ。
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三浦は増補本系の『増鏡』を見ているので「御寵愛比なく、今少し御成長の程を見給はずして崩御あるを悲み給ひしこと、増鏡 つげの小櫛 に見え」としていますが、十七巻本では巻十一「さしぐし」に、

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 世を背かせ給ひにし始めつかたは、いときはだけうひじりだちて、女房など御前にだに参らぬ事なりしかど、後にはありしよりなほたはれさせ給ひしほどに、永福門院の御さしつぎの姫君〔昭訓門院〕はや御盛りも過ぐる程なりしを、この法皇に参らせ奉らせ給へりし、かひがひしく「水の白波」に若やがせ給ひて、やがて院号ありしかば、昭訓門院と聞えつる、その御腹に一昨年ばかり若宮生まれ給へるを、限りなくかなしきものに思されつるに、今少しだに見奉らせ給はずなりぬるを、いみじう思されけり。

http://web.archive.org/web/20081231170858/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-kameyamain-hogyo.htm

とあります。
細かいことですが、「はや御盛りも過ぐる程なりしを」には『増鏡』作者の昭訓門院に対する悪意が伺えますね。
また、「上皇の後醍醐天皇に向つて思召寄せられしは昔の事にて」とありますが、これは『増鏡』に影響を受けた評価であって、本当にそうだったのかは疑わしいところがあります。
ま、それはともかく、続きです。

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 此情実を知りて然る後亀山院の御処分帳を拝読すれば、其御文意は直に理会するを得べきなり。即ち亀山院が恒明親王の皇兄に後宇多院のあらせらるゝに拘らず、遺領の御処分につきて親王に厚くし給ふにつけて、後嵯峨院が皇兄なる後深草院を措きて皇弟なる亀山院御自身を惣領とし給ひしことを引証し給ひ、院の此くの如き御処分が決して其新儀にあらざる由を示して、暗に両宮の間に争端を開かれんことを防がせ給へるものなり。故に其先例は允恭帝以来抔といふ迂遠なるものにはあらずして、其前文に載せ給へる後嵯峨院の御処分を指し給へるのみ。
 次に太王泰伯季歴の比喩につきて考ふるに、太伯は周太王の子にして、季歴の兄なり。季歴子昌あり、太王季歴を立てゝ昌に及ぼさんとす。是に於て太伯弟仲雍と共に避けて荊蛮に奔り、文身断髪して継嗣に意なきを示す。是を以て季歴立てられて昌に及ぶ、即ち文王なり。太伯の荊蛮に奔るや、みづから勾呉と号す。荊蛮これを義とし、帰するもの千余家、立てゝ呉の太伯と為す。

           <古公覃父武王の時尊んで太王といふ>
  周太王 ┬─呉 太伯
      │       昌
      └ 季歴−文王−武王 <紂が誅し殷を滅す>

 されば此比喩も、後嵯峨、後深草、亀山三院の御事にはあらずして亀山、後宇多の両院及び恒明親王の御事を諷し給へるなり。而して亀山院の御思召は、単に此故事を引きて例とし給へる迄にて、必ずしも一々指すところあるにあらざるべきも、試みにこれを擬せんに、太王は亀山法皇みづから比し給へるもの、泰伯は後宇多上皇、季歴は恒明親王に比し給ひ、主として後宇多上皇が父帝に対する孝道を重んじて、此処分に服し給はんことを望み給ふと共に、公衡が能く此思召を奉体して、飽迄も恒明親王を保護し奉り、叡慮の貫徹を期せんことを希はれしものと拝察せらる。
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中国の故事についても三浦の説明が正しいのでしょうが、「弟仲雍と共に避けて荊蛮に奔り、文身断髪して継嗣に意なきを示」した太伯に喩えられた後宇多院としては、あまり良い気分ではなかったでしょうね。




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