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Japanese Medieval History and Literature

7464鈴木小太郎:2022/04/11(月) 12:27:24
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その2)
初級編:三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(『日本史の研究 第一輯』、1922)の続きです。

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 第二節 大覚寺統の御主張

 文永九年二月十九日、後嵯峨法皇亀山殿の別院なる浄金剛院に崩御し給へり。然るに其皇位に関する御遺勅に依りて、端なくも亀山天皇と後深草上皇との間に御感情の衝突を来たし、延いて両統分立の端緒を開くに至れりと伝へらる。されば後嵯峨法皇の御遺勅なるものは、両統分立の問題に取りては最も重要なる地位を占むる関鍵なりと謂ふべく、本問題の解決も亦此御遺勅の研究より着手するを要す。
 両統迭立の原因として従来最も汎く世に行はれたるは梅松論の説なりとす。同書に拠れば、後嵯峨法皇の御遺勅は後深草上皇に長講堂領百八十箇所の御領を賜はる代りに、其御子孫をして永久に皇位に即くの望を断たしめられ、亀山天皇には斯る御領の譲与なき代りに其御子孫に限りて皇位に即かるべしと定められしといふにあり。(同書に寛元年中崩御の時の御遺勅とあるは誤)
 増鏡には文永九年二月法皇の親しく亀山天皇に対して後事を示し給ひしことを記し、其内容を揣摩して通常の政務以外の事なるべしといへり。
 これを其下文と対照すれば、皇統及び御領御処分の事なりと察せらる。当時後深草上皇にも御対面あらせられし趣なれば、同時に上皇にも後事を示し給へるなるべし。而して其下文には御遺勅の要点を載せて世人が後深草上皇の後嵯峨法皇に代はりて院政を主宰し給ふべしと予想せるに反して、万機は亀山天皇の御一統にて主宰し給ふべき御趣旨なることを載せ、直に其文を承けて、後深草上皇に、長講堂領及び播磨国、尾張熱田社等を御処分ありしことを載せたり。
 これを梅松論の記事に比するに、此れには長講堂領の外、播磨国、熱田社等を加ヘ、且つ文理彼れの如く明晰ならずと雖ども、皇位は亀山天皇及び其御子孫に限られ、後深草上皇には御領御処分ありしのみなるより推せば、梅松論と同一の解釈を取ることを得べく、両書の記事は、其帰趣に於て大差なきものと見做して可なるべし。唯梅松論にありては、亀山天皇の皇統に御領なきが如くに解釈せらるゝ文あるを異とすべきのみ。
 然るに増鏡と梅松論とは、一は公家側に近く、一は武家側に近きの差あるも、其記事は比較的に公平を失はず、唯後嵯峨法皇の崩御の当時を距る早くも六七十年後の述作に係り、固とより以て根本史料となすに足らず。而して根本史料としては従来亀山院御凶事記に見えたる同院の御処分帳に附帯する御遺勅の文意が、間接に同一の事実を伝ふるものと解釈せられ居れり。此点よりせば此御遺勅は、亦本問題の解決に重大の関係を有するを以て以下少しくこれを説かん。

http://web.archive.org/web/20081229143100/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm

「両統迭立の原因として従来最も汎く世に行はれたるは梅松論の説なりとす」とありますが、『梅松論』は後嵯峨院の崩御の時期について、文永九年(1272)を三十年近く遡って「寛元年中崩御の時の御遺勅」などと記しています。
両統迭立に関して、『梅松論』のような、少なくとも公家社会については極めて乱暴な史書がそれなりに信頼されていた時代があった、というのはちょっと吃驚ですね。

『梅松論』の偏見について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52d22a554cdc98920ab706b7607fb568

ま、それはともかく、続きです。
『公衡公記』に含まれる「亀山院御凶事記」の分析となります。

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 後嵯峨法皇の崩御より約三十三年の後なる嘉元三年九月十五日亀山法皇崩御ありしが、是より先き七月二十日同二十六日の日附を以て、時の主上たる後二条天皇、其他の御方々に対する遺領の御処分帳を認め置かれ、同時に特に後事を御委託あらせられし前右大臣西園寺公衡に賜ひし御書に、次の如く宣へり。

  五旬已後、面々御譲状等、守銘或持参、或可分進、太王不譲泰伯、而意
  在季歴泰伯三譲季歴、意在太王、思之々々、
   嘉元三年七月廿六日         御判
  一文永故院御譲状、一向以愚僧為惣領歟、深草院為兄一事一言不及訴訟
 、是併被重孝道故歟、且為先例、非余新儀、所領配分依多少、不慮嗷々出
  来事可耻々々、可哀々々、

 此文につきては、栗田博士と星野博士との間に互に其解釈を異にせられたり。栗田博士は故院即ち亀山院の御父たる後嵯峨院が文永の御譲状に於て亀山院同母の皇兄たる後深草院をさし置かれ、亀山院を惣領として御領を譲り給ひしに拘らず、後深草院の毫も争ひ給はざりし先例に遵はせられ、亀山院にも、時の主上即ち後二条天皇に譲り給はずして、其皇弟尊治親王即ち後の後醍醐天皇に譲り給ふべしとの御内意をば、支那の故事を引きて諷示し給ひしものならんとの見解を与へられたり。(荘園考)
 然るに星野博士は後嵯峨院の御処分帳を以て、御領荘園の分配の外、将来に於ける皇位の継承の事迄も明細に御記載ありしものと断ぜられ亀山院の御遺勅に見えたる太王は後嵯峨院に、泰伯は後深草院に、季歴は亀山院御自身に擬し給ひしものにて、其「太王不譲泰伯、而意在季歴」との上句は、後嵯峨院の思召が亀山院にありしを以て後深草院に譲り給はざりしを宣ひ、「泰伯三譲季歴、意在太王、」との下句は、後深草院の後嵯峨院に御孝心深くまし/\しより亀山院に譲りて敢て争はせ給はざりしを宣ひしなりとの見解を与へられ、栗田博士の解釈を駁して、亀山院の御旨を得ざるものとせられたり。(史学雑誌第九編第四号所載「両統迭立を論ず」)
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いったん、ここで切ります。
栗田寛と星野恒の論争は今では古臭くなってしまっており、私も二人の著作そのものは確認していないのですが、二人の立場は、

 栗田 財産相続の問題を扱っているのみ。
    後二条天皇ではなく、尊治親王(後醍醐)に譲るとの趣旨。
 星野 財産相続だけでなく、皇位継承について扱っている。
    後嵯峨・後深草・亀山の三者の関係について言及するのみ。

ということですね。

栗田寛(1835-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E7%94%B0%E5%AF%9B
星野恒(1839-1917)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E6%81%92

しかし、三浦は星野説には史料上の根拠が欠けていることを指摘します。

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 然るに余は不幸にして両説の何れにも賛同すること能はざるなり。星野博士は後嵯峨院の文永の御譲状は御領以外皇位継承のことをも御記載ありしものと断定せらるゝも、これを証すべき直接間接の材料は毫もこれなく、却つて其の反証と認むべきものあり、(そは後段に説くべし)故に後嵯峨院の御譲状も、此亀山院の御処分帳其他普通の場合の処分帳の如く、単に御領の御処分に止まりしものと解釈せざるを得ず。
 星野博士は皇位継承に重きを置かれたるを以て、亀山院の御遺勅に、「且為先例」とあるを解して、「先例は弟を以て兄の後を承くる先例を云ふ、允恭帝以降其例枚挙に遑あらず」といはれたるも、其下文には、「所領配分依多少、不慮嗷々出来事可耻々々、可哀々々」とありて、単に遺領の御分配より生ずる争を戒めらるゝに止まり、毫も皇位の継承より生ずる争に言及し給はず。これを以て見るも、全く皇位継承の外他意のおはさゞりしこと明白にして、其所謂先例は前文に御記載ある後深草、亀山両院の後嵯峨院の遺領の御分配を受け給ひし御間柄を指し給ひしものと見奉るの外なし。故にこれ迄の余の解釈は全く栗田博士のそれと一致するものなり。
 星野博士に従へば、亀山院は此御遺勅に於て徹頭徹尾後嵯峨院対後深草亀山両院の御関係を告白し給ふに過ぎざることゝなりて、其崩御前、皇子、皇孫其他の御方々に対する遺領御処分に関連して、事新らしくも斯る御述懐ありしは果たして何等の必要に依りしやは解釈に苦しまざるを得ず。若し此御処分に対する一般の御訓誡なりとすれば折角の御比喩も殆んど無意味に近きものとならん。
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ということで、三浦は星野説よりは栗田説の方が無理のない史料解釈だ、という立場です。
しかし、栗田が亀山院は後二条天皇と尊治親王(後醍醐天皇)の関係について定めているとする点については、三浦は疑問を呈します。

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 故に栗田博士は此点に着目せられ亀山院の御処分帳の中、後宇多院の妃にして尊治親王の御生母なる西殿准后即ち談天門院に賜ひしものに、准后の死後は尊治親王に譲るべしと認め給ひしものあると、神皇正統記の後醍醐天皇の条に、亀山院が嘗つて天皇を鞠養し給ひ、且つ大統に即かしめんと思召して、八幡宮に告文を納れ給ひし旨の記事あるとに依りて、前記の見解を下されしは確かに一理あり。
 さりながら此頃の天皇は虚器を擁し給ひて、実権院に帰し居たりしことなれば、後宇多院こそ重きをなし給ひたれ、後二条天皇は殆んど問題となり給はず、亀山院の御遺勅が、天皇と尊治親王との御関係につきて軫念あらせられし結果と解するは、尚ほ事情を悉さゞる嫌なしとせず。故に亀山院の尊治親王に御思召ありしと否とは姑くこれを措き、余は此遺勅に於て諷示し給ひし御方は断じて皇孫尊治親王にあらずして、皇子恒明親王なりしを信じて疑はざるものなり。
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