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Japanese Medieval History and Literature
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『とはずがたり』の政治的意味(その4)
田渕句美子氏の「関東の文学と文芸」(『岩波講座日本文学史第5巻一三・一四世紀の文学』、1995)を見ると、武家社会でも相当に文芸活動が盛んであったことが窺えますが、しかし田渕氏の視点はあくまでも和歌中心ですね。
早歌への言及は僅かに、
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為相は自ら関東祗候廷臣であると言うように、壮年以後関東に本拠を張り鎌倉歌壇を主導した。為相女は久明親王側室となっている。『拾遺風体和歌集』『柳風和歌抄』を撰んだと推定され、連歌でも活躍し『藤谷式目』を作り、早歌の作者でもあって秀れた文化人であった。
鎌倉後期はこのように、和歌と連歌の盛行、独自の文芸早歌の創造と大成など、層の拡大と質の高さ、多彩な活況とを示す。この早歌は明空(月江)により大成され、為相、飛鳥井雅孝(雅有猶子)、藤原広範(茂範の子)、金沢貞顕などが作者として名を連ねる。それにしても長清、明空、仙覚、西円、住信など関東の文学に大きな足跡を残すこれらの人々は、出自さえ定かには知り得ない。
http://web.archive.org/web/20150522012557/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tabuchi-kumiko-kantonobungaku.htm
とあるだけです。
早歌という芸能の概要を知るには外村南都子氏の「歌謡の流れ」(『日本文学新史〈中世〉』所収、至文堂、1990)が便利ですが、早歌には鎌倉後期に鎌倉の武家社会で生まれたという際立った特徴があります。
そして、その創始者は寛元三年(1245)前後に生まれた明空(後に改名して月江)という人物であり、明空は遅くとも三十代くらいまでには早歌を作り始めたようですが、作品が撰集の形で纏められるようになったのはかなり遅れて永仁年間に入ってからであり、明空は既に五十歳前後となっています。
ただ、いったん撰集が始まってからの動きは非常に活発で、
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撰集名と成立年次は次のようである。『宴曲集』一〜五、『宴曲抄』上中下、『真曲抄』(永仁四年〈1296〉、『究百集』(正和三年〈1301〉【ママ】)、『拾菓集』上下(嘉元四年〈1306〉)、『拾菓抄』(正和三年〈1314〉)、『別紙追加曲』、『玉林苑』上下(文保三年〈1319〉、本により前年とも)以上一六一曲。これらの曲の一部をかえたり、小曲を付加したりする異説・両曲という替え歌があり、それぞれ四八ずつ『異説秘抄口伝巻』(文保三年〈1319〉)『撰要両曲巻』(元亨二年〈1322〉)として集大成されている(志田延義編『続日本歌謡集成』巻二、文献4)。各曲の実作の時期は、後期になると撰集とほぼ同時に行われたことがわかり、結局1322年に至る数十年の間に作られたとみられる。
http://web.archive.org/web/20080311114827/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-natuko-kayononagare.htm
という具合に、僅か三十年程度の期間に次々と撰集が編まれて行きます。
そして、この期間は『撰要目録』序文が記された正安三年(1301)までの前期と、以後の後期に大きく分けることができますが、前期は僅か数年の間に百曲ほどが編集されていて、その八割が明空作です。
ということは、明空は既に相当数の曲を書き溜めており、それを永仁年間以降、次々と纏めて行ったものと思われますが、何故にこの時期になったのか。
それはおそらく、明空のパトロンであった金沢北条氏の政治的事情が影響したものと思われます。
金沢実時から数えて三代目の当主・顕時(1248-1301)の正室は安達泰盛(1231-1285)の娘であったため、弘安八年(1285)、顕時は霜月騒動に連座し、出家して下総国埴生荘に隠棲します。
そして八年後の永仁元年(1293)四月、平禅門の乱の僅か五日後に鎌倉に復帰し、十月、北条貞時が引付を廃して新設した執奏の一人に選任されます。(永井晋氏『人物叢書 金沢貞顕』、p12)
明空がいったい何時から金沢北条氏に近付いたのかは不明ですが、金沢北条氏が逼塞状態から脱して幕政の中心に復帰し、精神的にも経済的にも余裕ができるようになって、はじめて明空への支援が活発化した訳ですね。
さて、『撰要目録』序文が記された正安三年(1301)までの前期と、以後の後期では、早歌の作者の社会的階層には顕著な相違があります。
外村南津子氏によれば、
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『究百集』までの百曲は、ほとんどの曲を明空が作曲し、作詞者として、冷泉為相・藤原広範ら東下りの公家、金沢貞顕らの武士、漸空ら僧侶が顔を見せている。ところが、『拾菓集』以後になると、幕府近侍の武士達が作曲者として登場し、明空が作詞してこれら弟子と見られる人々に作曲させたり、共作するなど、養成にあたっていることが知られる。この中で高弟とみられるのが比企助員であり、四曲の作曲と異説一篇を残し、明空最晩年の両曲は助員の要請によって成ったもので、その最後の一二篇は、助員が作り足して完成した(外村久江「早歌『撰要両曲巻』の成立と比企助員」文献20、同「早歌の大成と比企助員」文献22)。その後『異説秘抄口伝巻』を約三十年ごとに相伝して行った宗家的存在の人々も同じ階層の武士であった。
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といった具合です。
「『究百集』までの百曲」というのは『撰要目録』序文が記された正安三年(1301)までの前期の作品ですが、外村氏の「作詞者として、冷泉為相・藤原広範ら東下りの公家」云々という表現は若干不正確で、公家社会の作者の中には京都在住の、それもかなり身分の高い公家が目立ちます。
他方、後期になると作者の幅が相当に広がりますが、しかし、その身分はあまり高くはありません。
いったい、これは何故なのか。
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