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Japanese Medieval History and Literature
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その6)
初登場の「有明の月」がいきなり二条に恋の告白をする場面、私訳も紹介しておきます。
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【私訳】このようにして三月のころともなると、例の後白河院の法華八講の法会である。六条殿の長講堂は、今は焼けてないので、正親町の長講堂で行われた。結願の十三日に後深草院が長講堂へ行かれた留守に、御所へおいでになった方(有明の月)があった。
「御帰りをお待ちいたしましょう」
と、そのままお待ちなさるということで、二棟の廊の間においでになる。
私が参ってお目にかかり、
「間もなくお帰りになりましょう」
などと申して帰ろうとすると、
「暫くここにいなさい」
とおっしゃるので、何の御用とも分からないけれども、いいかげんなことを言って逃げてよいようなお人柄ではないので、控えていると、とりとめのない昔話の中で、
「(お父上の)故大納言が常々言っておられたことも、忘れずに思っています」
などおっしゃられるのも懐かしい気持ちがして、のどかに向かい合っていると、何であろうか、思いのほかのことを仰せ出されて、
「御仏も心汚いお勤めと思召すだろうと思う」
などと言われるのを聞くにつけても、心外で不思議であるので、何となく誤魔化して立ち去ろうとする袖をさえ押さえて、
「どんな暇にでも逢おうと、せめて約束してくれ」
とおっしゃって、本当に偽りではなさそうに見えるお袖の涙も面倒に思われたところ、院の還御とのことで騒がしくなったので、無理に引き放し申し上げた。
思いがけないことながら、不思議な夢だったとでもいおうか、などと思いながら控えていると、院とその方が御対面となって、
「久しぶりのお出でですので」
などといってお酒をお勧めになる、その御給仕を勤めるにつけても、私の心の中を誰が知ろうかと、まことに面白かった。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9483
ちょっと細かくなりますが、『とはずがたり』の時間の流れは史実に照らすと変なことが多いものの、この場面の後、四月に長講堂の移徙の場面があって、ここは文永十二年(建治元年、1275)の出来事と考えて不自然ではありません。
六条殿の持仏堂である長講堂は、文永十年(1273)十月十二日の大火で、六条殿・六条院・佐女牛若宮八幡宮等とともに焼失します。
ただ、持明院統の経済的基盤である荘園群が長講堂領と呼ばれたように、長講堂は極めて重要な寺院なので、六条殿・長講堂は直ぐに再建が図られ、文永十二年四月十三日、後深草院が六条殿に移徙を行い、二十三日には長講堂供養が行なわれます。
その直前、四月九日に後深草院は尊号・兵仗辞退のデモンストレーションをしているので、たまたま時期が重なったとはいえ、長講堂の再建は持明院統の存在を幕府に強くアピールする効果はあったでしょうね。
2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11164
ま、私は「有明の月」が実在の人物であったかすら疑っていますが、この種の背景へのこだわりは『とはずがたり』のリアリティを支える一要素になっていますね。
「有明の月」は実在の人物なのか。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9380
三角洋一氏「『とはずがたり』解説」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9381
さて、田渕論文に戻ると、北山准后九十賀の場面で「このほかのをば、別に記し置く」とあるのは次の場面です。
ここも詳しく論じ始めるとキリがないので、紹介のみに止めます。
『とはずがたり』に描かれた北山准后(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9852
また、田渕氏は「自身の出家時のことを回想し、「一年今はと思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに……」(巻四)とあるが、出家時の記述は現存の『とはずがたり』にはなく、不自然である」と言われますが、『とはずがたり』の巻三は弘安八年(1285)の北山准后九十賀で終わっていて、巻四は正応二年(1289)に始まるので、この間、丸々三年間の記事が欠落しています。
出家時の記述だけが何かの理由で「不自然」に欠落している訳ではないので、「不自然」と主張されるなら、むしろ三年分の欠落をそう呼ぶべきではないかと私は考えます。
なお、この回想は石清水八幡で後深草院と再開する場面に出て来て、これは前後の記事との関係から正応四年(1291)二月頃の話とされています。
http://web.archive.org/web/20150909225511/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-15-iwashimizu.htm
ところで、田渕氏は「八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり、「本のまま、ここより紙を切られて候」というような書き入れがある」とされますが、この種の「書き入れ」は二箇所ではなく、巻四の一箇所を含め、合計四か所ですね。
最初は巻四で、正応二年(1289)、鎌倉で新将軍・久明親王を迎える準備をしていた平頼綱とその奥方に、適切なアドバイスをしたあげた後、
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やうやう年の暮にもなりゆけば、今年は善光寺のあらましも、かなはでやみぬと口惜しきに、小町殿の、これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて。のほるにのみおぼえて過ぎ行に、飯沼の新左衛門は歌をも詠み、数奇者といふ名ありしゆへにや、若林の二郎左衛門といふ者を使ひにて、度々呼びて、継歌などすべきよし、ねんごろに申しかば【後略】
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9532
とあって、「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」が「書き入れ」部分です。
次に巻五で、嘉元二年(1304)、後深草院の発病を知った二条が西園寺実兼に頼んで院を見舞う場面に、「本のまま。ここより紙を切られて候。おぼつかなし。紙の切れたる所より写す」という「書き入れ」があります。
http://web.archive.org/web/20150909222841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-8-gofukakusain-hatubyo.htm
三番目は後深草院崩御の後、九月十五日から東山双林寺で懺法を始めた場面に、
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かり聖やといひて、料紙・水迎へさせに横川へ遣はすに、東坂本へ行きて、われは日吉へ参りしかば、むばにて侍りし者は、この御社にて神恩をかうぶりけるとて、常に参りしに具せられては、 ここよりまた刀にて切りてとられ候。かへすがへすおぼつかなし。【後略】
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とあって(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p404以下)、「ここよりまた刀にて切りてとられ候。かへすがへすおぼつかなし」が「書き入れ」です。
そして四番目は、全五巻の最後、「跋文」に、「本云 ここよりまた刀して切られて候。おぼつかなう、いかなることにかとおぼえて候」という「書き入れ」があります。
http://web.archive.org/web/20081224002017/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-19-batubun.htm
田渕氏は「八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり」と言われますが、ちょっと理解しにくい書き方ですね。
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