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Japanese Medieval History and Literature
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その1)
それでは少し視点を変え、共通テストから離れて、国文学界における『とはずがたり』研究の最新状況を確認しておきたいと思います。
検討の素材としては、昨年二月、『歴史評論』850号に掲載された早稲田大学教授・田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」を用いることにします。
『歴史評論』は歴史学界において一貫して「科学運動」の中枢を担ってきた歴史科学協議会の機関誌で、同会は「現代における帝国主義的歴史観に対決する人民の立場に立つ」(定款第2条1号)硬派の団体ですから、『歴史評論』にもあまり中世文学、特に女房文学などに関する論文は載りません。
その点、850号の田渕論文を含む「特集/女房イメージ」は、『歴史評論』らしくない、といったら少し失礼かもしれない斬新な企画ですね。
『歴史評論』2021年2月号(第850)
特集/女房イメージをひろげる “Reimagining the Nyōbō (female attendant)”
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/850.html
さて、田渕論文は、
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一 女房、女房文学、女房日記
二 宮廷和歌・歌壇と女房
三 物語の制作と享受
四 記録する女房
五 君寵と女房
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と構成されていますが、『増鏡』との関係を中心に検討したいので、第一節・第二節は省略します。
「三 物語の制作と享受」に入ると、
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『とはずがたり』が『源氏物語』の圧倒的な影響下にあることは、多くの指摘がある。表現は勿論、人物造型においても、『源氏物語』中の人物たちが二重写しにされて描かれる。『とはずがたり』は女房日記だがむしろ物語に近接し、多くの虚構や意図的操作、物語化を含み、その表現や手法は中世王朝物語(擬古物語)に多くを負っており、同じ文化的な渦の中にある。この具体相についても諸氏の論がある。オリジナリティを重んずる近代以降の小説からみると不思議でもあるが、『源氏物語』『狭衣物語』『夜の寝覚』等の王朝物語と、中世王朝物語は、表現、構造、手法等を夥しく共有しており、『とはずがたり』もその環の中にある。なかでも『源氏物語』は際だった磁力をもち、中世王朝物語や仮名日記に流入し、さまざまに語り変えられて増殖した。そして、女房日記の中でも物語に近い『うたたね』と『とはずがたり』は、日記の特質である一人称の語りを生かして、自身に『源氏物語』の紫上、女三宮、浮舟などを重ね合わせ、彼女たちの内面に入り込んだ視点を用いて、『源氏物語』を語り直す意図もあるとみられる。
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との指摘があります。(p44以下)
田渕氏は「『とはずがたり』は女房日記だがむしろ物語に近接し、多くの虚構や意図的操作、物語化を含」むとされますが、そんなに虚構が多ければ、『とはずがたり』は「女房日記」風の「物語」、「自伝風の小説」の可能性もありそうです。
いったい、「女房日記」と「物語」はどのように区別することができるのか。
この点、田渕氏は「日記の特質である一人称の語り」とも書かれていますが、一人称で書かれた作品の多くは「日記」であって「物語」ではないとしても、仮にある作品の作者が、一人称で書けば読者は「日記」だと思うだろうと予想して、そうした読者の錯覚を利用しようと画策したらどうなるのか。
田渕氏はそんなけしからぬことを考える女房は中世朝廷には存在しないという「性善説」に立たれているのでしょうが、私は疑り深い人間なので、そのような可能性を排除はしません。
ただ、私のような立場では、「自伝風の小説」を書く動機の説明が必要になるでしょうね。
ま、それはともかく、続きです。(p45)
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物語との近接では、たとえば『小夜衣』は『とはずがたり』と共通する表現を多数有しており、『小夜衣』の作者は雅忠女かという説もある。尊経閣文庫蔵の白描絵巻『豊明絵草子』の詞書の文章も、『とはずがたり』と表現の共通が多いことから、『豊明絵草子』作者が雅忠女という説、『とはずがたり』が『豊明絵草子』から摂取した説、その逆を想定する説など、種々の推測がある。この当否は見極め難く、むしろこれらの類似性は、『とはずがたり』と『小夜衣』『豊明絵草子』ほか多くの中世王朝物語が、あえて共通する構造・表現を形象する文学であることを物語るであろう。物語の制作・享受は同じ集団・文化圏の人々によって担われ、集団性・共有性が強い。物語の作者は、平安・鎌倉期では宮廷女性が中心であり、第一に女子教育のため、また愉楽のために、物語を日常的に制作・享受する女房たちであった。これら物語の作者は、勅撰集とは異なって作者名は記名されない。『源氏物語』など著名な平安期物語以外は、物語の作者は不明であり、プライオリティの意識はなく、改作はその時代にあわせて積極的に行われる。そして殆どは散逸し、ごく一部しか残らない。女房日記も同様であり、実用的な記録を含め、一般に、その殆どは散逸したとみられる。
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うーむ。
「女房日記も同様であり」とありますが、散逸した作品が多いであろうことは「同様」だとしても、日記の「作者は不明」ではないですね。
『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』『讃岐典侍日記』『弁内侍日記』『十六夜日記』『中務内侍日記』『竹向きが記』等、全て誰が書いたかはっきりしており、他人が勝手に自分の名前を使って日記を書くことを許さないという意味では「プライオリティの意識」は認められ、「改作はその時代にあわせて積極的に行われる」などということもありません。
また、「物語の制作・享受は同じ集団・文化圏の人々によって担われ、集団性・共有性が強い」のは一応認められるとしても、この点をあまり強調すると、一定の集団に属する女性なら誰が書いても同じ、という話にもなりそうです。
しかし、例えば『とはずがたり』の前斎宮エピソードなど相当個性的で、誰でも書けるレベルの作品とは思えません。
田渕氏の見解には私は基本的に賛成できず、特に『とはずがたり』には当て嵌まらないように感じます。
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