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Japanese Medieval History and Literature
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三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その5)
「第四節 後嵯峨法皇の幕府に対する御態度と御素意」の続きです。
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神皇正統記は人も知る如く、皇室の正統、大覚寺統に存すとの主張より成れる書なれば、同統に有利なる伝説記録はもとよりこれを漏らすまじき理なり。然るに同書には亀山院の条に「後嵯峨のかくれさせ給ひて後、兄弟の御あはひに争はせ給ふことありければ、関東より母儀大宮院に尋ね申けるに、先院(後嵯峨院)の御素意は当今(亀山院)にまします由を仰遣されたれば、事定りて、禁中にて政務せさせ給ふ」といへり。
星野博士は大宮院の斯く仰遣されしは後嵯峨院の継嗣に関する御処分状に拠られしなりと説かれたるも、余はこれと正反対に、当時御処分帳なかりし故に、幕府が御兄弟の何れをも翼賛し兼ね、日夕後嵯峨院に親炙し給へる大宮院に伺ひ奉り、其御証言を得て始めて所謂後嵯峨院の御素意に任せ奉りしと解釈するものなり。
遺産の相続が絶対に親の意志に依りて決せらるゝは、当時に於ける公武貴賤を通じての相続法の原則たり。故に御領の御処分は天皇も上皇も任意にこれを行ひ給ひ、干渉好きなりし幕府もこれに対しては黙過するを例とせり。故に御領の御処分は皇位の継承と全く別問題なり。一般の相続の場合ならば、いざ知らず、皇位の継承と、御領の相続を混同するに至りては事の軽重大小を弁へざるの甚だしき失当の見と謂はざるを得ず。
http://web.archive.org/web/20061006195115/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm
いったん、ここで切ります。
「第五節 持明院統の御主張」でも触れますが、星野が言うような「後嵯峨院の継嗣に関する御処分状」が存在しなかったことは明らかです。
それが存在しなかったので、大宮院(1225-92)は幕府から後嵯峨院の「御素意」を質問され、後深草・亀山兄弟の母親としてはなかなか苦しい立場に追い込まれてしまった訳ですね。
そして、大宮院が書いた「御返事」が存在したことを前提に、それが書かれた状況から信頼性がない、というのが持明院統側(伏見院)の主張です。
帝国学士院編纂『宸翰英華』−伏見天皇−
https://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm
この後、後白河法皇の財産処分の例などが出て来て、些かくどい議論となりますが、要するに財産はともかく、皇位については治天の君といえども勝手に決めることはできず、幕府の意向を聞かねばならないのだ、という話ですね。
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是れより先き、建久三年の後白河法皇の御処分にも、六勝寺、鳥羽は公家沙汰として後鳥羽天皇に御処分あり、又此後元享二年後宇多法皇の御処分にも、六勝寺を後醍醐天皇の聖断に委し給ひしことあり。されば後嵯峨天皇に於ても、其自由に御処分あるべき御領の外斯る治天下に附すべき特別の御領は当今とも、新院とも仰せられず、唯漠然治天下と仰せられ、亀山天皇にも、後深草上皇にも御処分を見合せられて、治天下即ち実際に政務を視給ふべき御方の定まるを待ちて其管理に委せんとし給へるなり。
当時亀山天皇大統に登り居給ふも、院政時代に於ける天皇は猶ほ皇太子の如し。故に院政の主宰者たりし後嵯峨法皇の崩御の後、直に起るべき問題は、此名義上の天皇が所謂治世の君となり給ふべきや、将た別に治世の君を立つべきや否やにあり。 更に具体的にいへば、亀山天皇が位を皇太子に譲られ、上皇として院政を主宰し給ふべきや、亀山天皇は其儘御在位にて、後深草上皇が院政を主宰し給ふべきや、将た又程なく事実となれるが如く、亀山天皇の御在位の儘、政務を視給ふべきやにあり。
後嵯峨院がみづから御処分帳を認め給へる崩御の前月迄、所謂御治世の君は未だ定め給はず、又定まり給はざりしなり。後嵯峨院が斯く崩御以前に此問題を決し給はざりし理由は、余が以上の説明を以て此問題の決定を幕府に委任し給へるに依るものなるべきこと、既に読者の推断せらるゝところならん。
これより後の何れの天皇も、未だ嘗て幕府の意向に依らずして任意に皇儲を定め給ひし方はあらず。前に引きし亀山法皇の御処分帳に於ても、御領の御処分以外には、一も皇位継承の事に言及しあらざりしが、其御領の御処分に向つてすら、若し崩御の後これに違背せらるゝ方あらば、此御処分帳を関東に賜はるべしと宣ひて、幕府に訴へて救済を求めよとの御思召を載せ居らるゝなり。
而して法皇は余の推測に拠れば、恒明親王を未来の皇儲に即け給はんとの御思召ありしも、そは別に将来機を見て幕府に仰せ遣されんことを後宇多上皇に託し給ひ、上皇も諒承の旨を奉答ありしのみ。御領の御処分はもとよりおのづから別問題なり。而して此一事も亦御処分帳の遺領の御処分に止まる傍証とすべきなり。
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さて、ここで面白いのは『五代帝王物語』の記述です。
私は、『増鏡』は後嵯峨院の「御素意」については決して客観的・中立的立場の書物ではなく、後醍醐側のプロパガンダとしての性格を持つ、と考えるのですが、『とはずがたり』に次いで『増鏡』に相当な分量が引用されている『五代帝王物語』は、後嵯峨院の「御素意」については『増鏡』と異なった立場です。
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斯く論じ去り、論じ来れば、余は後嵯峨院の崩御前後の事実につきて五代帝王物語、神皇正統記の記事が最も正鵠に近きものならんことを信ぜざる能はず。
五代帝王物語は明らかに此処分と御治世の君の選定を別事なりとし、後嵯峨法皇は遺領の御処分につきて、御生前に御附属状即ち御処分帳を認め置かれ、崩御後五旬の後を待ちて発表せしめられたるが、それには御治世の君は幕府の選定に委し、六勝寺、鳥羽殿抔も此御治世の君に附くべしと定め給ひ、又幕府に向つては、御治世の事は仁治に法皇の御践祚ありし時泰時の推薦し奉りし先例に違ふべからずと宣ひて、内裏即ち亀山天皇、新院即ち後深草上皇の、何れの方にても推薦すべき旨認め給へる宸筆の勅書を、五旬の後に至りて幕府に賜ひしかば、両院に仕ふるもの、幕府の拝答を待焦れつゝありし旨を記せり。
此記事中、後嵯峨法皇の崩御より五旬の後に御処分帳を開くこと、文永九年四月六日に法皇七々日御忌辰の法会を行はれし翌日、即ち五十日目の四月七日に故院の御遺詔を亀山院にて開かれしことは、歴代編年集成に見えたると相一致し、六勝寺、鳥羽殿を御治世の君に附くべしと定め給ひしとの事は、前掲法皇の御処分帳の端書に相当せり。故に五代帝王物語の以上の記事は信を置きて不可なかるべし。
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ここは『五代帝王物語』の原文を確認する必要があるので、後で改めて論ずることにします。
そもそも『五代帝王物語』がいかなる史書かについては、外村久江氏の下記論文などを参照していただきたいと思います。
「五代帝王物語考−正元二年院落書・増鏡との比較−」(前半)
http://web.archive.org/web/20061006195728/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-hisae-godaiteio-monogatari.htm
「五代帝王物語考−正元二年院落書・増鏡との比較−」(後半)
http://web.archive.org/web/20061006213556/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-hisae-godaiteio-monogatari-2.htm
ここまで来ると、後嵯峨の「御素意」に関して幕府から大宮院に寄せられた質問への「御返事」が正しいものであるのか、それとも捏造なのかが問題となります。
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然らば此御遺勅に対して、幕府は如何なる態度に出でしとするか。法皇は崩御後の治世の君を幕府の擁立に任せ給ひしかど、幕府の見地よりすれば、後深草上皇も亀山天皇も、均しく其心を傾けて翼賛し奉れる法皇の御同腹の皇子にましませば、何れに決するとも、自家に取りて痛痒を感ぜざるを以て、拝答に苦み、終に法皇の御思召即ち御素意に依りて決するに如かずとなし、さてこそ神皇正統記に説けるが如く、大宮院に伺ひ出でゝ亀山天皇に決したるならめ。
然るに後嵯峨法皇が治世の君を定め給はざりしと否とは、これに関する御素意の有無とおのづから別問題なり。唯これにつきての勅書あらずとせば、大宮院の御証言が、果して法皇の御素意なりしや、将た御素意を矯め給ひしものなりしやは別に研究を要すべし。余は是に至りて少しく持明院統の御主張を述べざるべからず。
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