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Japanese Medieval History and Literature

7388鈴木小太郎:2022/02/19(土) 19:26:43
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その3)
北山准后九十賀は『とはずがたり』『増鏡』その他の史料を詳しく比較検討して行くと面白いことが多くて、私も以前、それなりに熱心に取り組んでみたのですが、今から振り返ると、些か袋小路に踏み込んでしまっていたようなところもなきにしもあらずです。
関連する投稿を紹介すると、それだけで大変な分量となってしまうので、興味を持たれた方は次の記事のリンク先などを見てください。

再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10164

ということで、続きです。(p46)

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 また阿部泰郎は、『とはずがたり』が、作者の父系・母系それぞれの栄光ある先祖、すなわち源通親の『高倉院厳島御幸記』『高倉院昇霞記』で描かれた王の死の記を象り、また四条隆房の『艶詞』の小督の物語を、また九十賀記は『安元御賀記』を意識していることを指摘する。『とはずがたり』全体に、前述の自家の歌業への誇りに留まらず、家門意識が網の目の如く張り巡らされているのであろう。
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私は独特の玄妙な言い回しを多用される阿部泰郎氏(名古屋大学名誉教授、龍谷大学教授)とは相性が悪くて、阿部氏の言われることにはあまり賛成できないのですが、ここは一般論としては別に間違いというほどのこともないでしょうね。
さて、この後、『増鏡』との関係が論じられます。

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 『とはずがたり』は上皇の間近にいた女房による女房メディアの宮廷史であり、ゆえに『増鏡』に流れ込む。たとえば、平安期の『栄花物語』(巻八・初花)には、『紫式部日記』冒頭から敦成親王誕生記事がそのままの順序で長大に取り入れられていること等から、『栄花物語』は多数の女房日記・記録を吸収して編集されたと考えられている。つまりは女房メディアそのものである。これと同様に、『増鏡』が資料として吸収する日記の一つが『とはずがたり』である。ゆえに『増鏡』には、『とはずがたり』作者の姿が相対化されて描きこまれることにもなる。『増鏡』では、雅忠女は「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」(第九・草枕)、「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」(第一〇・老の波)と記されるだけで、上皇に仕える女という位置以外の私的な面は一切捨象されている。
 また、『増鏡』(第一一・さしぐし)には、正応元(一二八八)年、東御方所生の伏見天皇に入内する西園寺実兼女の※子(後の永福門院)に、女房として奉仕する雅忠女が見える。「出車十両、(中略)二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける」とあり、三条という女房名に屈辱を感じて嘆く姿が描かれる。この記事は現存の『とはずがたり』にはないが、こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難く、『とはずがたり』の散逸した部分である可能性が高いであろう。さらには、憶測であるが、この『増鏡』の入内記事の一部は、現存しない『とはずがたり』に拠ったものかもしれない。
※「金」偏に「章」
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『増鏡』巻九「草枕」で二条が「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」として登場する場面は共通テストに出題された箇所ですね。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その15)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11167

巻十「老の波」で「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」が登場する箇所は、

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 弥生の末つ方、持明院殿の花盛りに、新院わたり給ふ。鞠のかかり御覧ぜんとなりければ、御前の花は梢も庭も盛りなるに、ほかの桜さへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけがたう見ゆ。上達部・殿上人いと多く参り集まる。御随身・北面の下臈など、いみじうきらめきてさぶらひあへり。わざとならぬ袖口ども押し出だされて、心ことにひきつくろはる。
 寝殿の母屋〔もや〕に御座〔おまし〕対座にまうけられたるを、新院いらせ給ひて、「故院の御時、定めおかれし上は、今更にやは」とて、長押〔なげし〕の下へひきさげさせ給ふ程に、本院出で給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座をこそなほされ侍りけるに、今日のみゆきには、御座〔おまし〕をおろさるる、いと異様に侍り」など、聞え給ふ程、いと面白し。むべむべしき御物語は少しにて、花の興に移りぬ。
 御かはらけなど良き程の後、春宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、また上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀〔しろがね〕の御杯〔つき〕、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9469

というもので、なかなか華麗な場面ですね。
ここも『とはずがたり』が大幅に「引用」されていますが、文章は『増鏡』の方が上品な雰囲気になっています。
想定されている時期の設定なども違っていますね。

『とはずがたり』に描かれた「持明院殿」蹴鞠(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9470
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9471
「持明院殿」考
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9473

巻十一「さしぐし」で二条が「三条という女房名に屈辱を感じて嘆く姿」が描かれた箇所は『とはずがたり』と『増鏡』の関係を考える上で非常に重要なので、別途詳しく検討します。

「御賀次第」の作者・花山院家教
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9864




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