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Japanese Medieval History and Literature
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その20)
改めて共通テストの設問を振り返ると、出題者の頭の中には、「過去の人物や出来事などを後の時代の人が書いた」「文学史では『歴史物語』と分類されて」いる『増鏡』が『とはずがたり』を一資料として利用している、という確固たる前提が存在していることが分かります。
もちろん、これは国文学界の常識です。
そして、この常識を前提とする限り、「文章?」「文章?」と区画された範囲で『増鏡』と『とはずがたり』を比較した場合、「当事者の視点から書かれた」『とはずがたり』の「臨場感」が失われている反面、『増鏡』は「当事者全員を俯瞰する立場から出来事の経緯を叙述」しており、「書き手の意識の違いによってそれぞれの文章に違いが生じている」という結論になります。
しかし、もう少し範囲を広げて『とはずがたり』と『増鏡』を比較してみると、『とはずがたり』と『増鏡』との関係は相当に複雑に入り組んでいて、『増鏡』が『とはずがたり』を一方的に利用したと考えるには些か不自然な個所が多いことは理解していただけたと思います。
さて、私のように『増鏡』巻九「草枕」が後深草院批判のプロパガンダだと考えると、当然に『増鏡』の作者と成立時期の問題に結びつきます。
通説のように二条良基(1320-88)が作者で、成立は十四世紀後半であれば、北朝(持明院統)に仕える二条良基が何故に持明院統の祖である後深草院を批判するのか、訳の分からない話になります。
ただ、『増鏡』の作者と成立年代という根本問題は共通テストとはあまりに離れてしまいますので、二十回続いたこのシリーズは一応終えて、改めてタイトルを変えて論じたいと思います。
ところで、今回、『増鏡』の前斎宮エピソードを読み直してみて、戦前の『増鏡』の通釈書において、「院」が亀山院だと解釈されていたことが本当に不思議に思えてきました。
巻九「草枕」では、冒頭に後宇多天皇践祚に触れた後、「かくて新院、二月七日御幸はじめせさせ給ふ」とあり、その後、「本院は故院の御第三年のこと思し入りて、睦月の末つ方より六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ。【中略】新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。」とあって、「新院」(亀山院)と「本院」(後深草院)を明確に書き分けています。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9409
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9410
話題が後深草院の出家騒動に移っても、「新院は世をしろしめす事変らねば、よろづ御心のままに【中略】本院はなほいとあやしかりける御身の宿世を」という具合いに、「新院」「本院」の使い分けは明確です。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9417
次いで熈仁親王立太子の話題になっても同様です。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9420
そして、前斎宮エピソードに入ると、「十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり」とあるので、「女院」(大宮院)が「本院」(後深草院)を招待したことは明確です。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9439
この後、
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院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。
上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9441
という具合いに、「本院」ではなく「院」という表現に変化しますが、それは既に「本院」であることを明示しているので、「院」で十分読者に分るからですね。
以後、前斎宮エピソードの全体を通して「院」の表記が続きますが、巻九の最後には亀山院に若宮が誕生したとの短い記事があって、そこには、
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新院には一年近衛大殿<基平>の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞えつるを、この程、院号あり。新陽明門院とぞ聞ゆめる。建治二年の冬頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜五夜七夜九夜など、いまめしく聞えて、御子もやがて親王の宣下などありき。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9447
とありますから、前斎宮エピソードの「院」と区別されていることは明確です。
そして、前斎宮エピソードの中には、「女院」(大宮院)の「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」という発言に、同席した「人々」が、「「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」という反応をしたという微妙な話がありますが、これも「院」が大宮院と極めて良好な関係にある亀山院では理解しにくいところです。
更に、「院」が再び前斎宮の寝所に忍び入った際には「いとささやかにおはする人」とあるので、「院」がとても小柄であることが分かります。
しかし、『増鏡』巻八「あすか川」には、内裏の火事に際して、「故院の御処分の入リたる御小唐櫃、なにくれの御宝」が保管されていた「御塗籠」の鍵が見つからずに騒ぎになっていたところ、亀山天皇が「さばかり強き戸」を蹴り倒した、という豪快なエピソードがあって、亀山院が「いとささやかにおはする人」とは思えません。
http://web.archive.org/web/20150918073236/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu8-dairi-enjo.htm
念のため和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)を確認したところ、こちらは増補本系なので「草まくら」は巻十一となっていますが、以上のようなポイントについては十七巻本の表現と同じなので、何故に「院」が亀山院と解釈されていたのか、不思議です。
まあ、『とはずがたり』の発見までは後深草院は非常に地味な存在であり、他方、亀山院は大変な子沢山である上、その好色エピソードは『増鏡』に多数載せられていて、特に「五条院」との関係は前斎宮エピソードに似ているため、前斎宮エピソードの「院」も亀山院に違いない、という先入観が生まれたのでしょうね。
http://web.archive.org/web/20150918045226/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kameyamainno-kokyu.htm
>筆綾丸さん
>後嵯峨院ほどではないが、亀山院よりずっと能筆だ
『天皇の書』に掲載されている亀山院の「競馬臨時召合乗尻交名」は、気軽に書いたメモ程度のものなのでしょうが、それにしても妙に縦長で、一風変わった字ですね。
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