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Japanese Medieval History and Literature
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その2)
田渕句美子氏の学位は「お茶の水女子大学 博士(人文科学)」だそうですから、略称は「お茶の水博士」なのでしょうか。
国文学研究資料館を経て2008年から早稲田大学教授で、2020年には『女房文学史論 ―王朝から中世へ』(岩波書店)で第42回角川源義賞を受賞されており、女房文学については現在の国文学界の研究水準を体現されている方と言ってよいでしょうね。
早稲田大学研究者データベース
https://w-rdb.waseda.jp/html/100000647_ja.html
第42回角川源義賞【文学研究部門】受賞
https://www.kadokawa-zaidan.or.jp/kensyou/kadokawa/42th_kadokawa/winner01.html
さて、第四節には『とはずがたり』と『増鏡』の関係についての言及もあるので、冒頭から丁寧に見て行くことにします。(p44以下)
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四 記録する女房
女房日記は、宮廷の行事等を記録するという役割と機能をもつ。しかし『とはずがたり』は、中世女房日記としては稀なことに、宮廷の公的な諸行事についての記録が少なく、私的な出来事の記述が大半を占める。巻一から巻三の女房生活で儀式等を淡々と記録しているのは、東二条院の姫宮(後の遊義門院)御産の記事だけで、分量的にも多くはない。しかし作者は東二条院の女房でもあり、御産の記事を記すのは女房日記の重要な役割であり、一面では当然あるべき記述とも言える。
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いったん、ここで切ります。
東二条院が姫宮(遊義門院)を生んだのは文永七年(1270)九月十八日ですが、『とはずがたり』は文永八年八月の出来事としており、一年と一ヵ月ずれています。
『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9325
そして、『増鏡』にも『とはずがたり』の記述を若干簡略化した記事が載っています。
なお、『増鏡』でその誕生が詳細に描かれるのは、大宮院(1225-94)が生んだ後深草院(1243-1304)と、大宮院の妹、東二条院(1232-1304)が生んだ遊義門院(1270-1307)の二人だけですね。
「巻八 あすか川」(その11)─遊義門院誕生
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9324
続きです。
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巻三で、後深草院御所から追放された後に、大宮院から懇請されて北山准后九十賀に女房として加わる。『とはずがたり』はここで突然、九十賀を記録する長大な叙述(巻三の四分の一を占める)に変わる。これは鎌倉中期を代表する盛儀であるが、作者二条は祝賀を記録する女房に転身したかのようである。この記述の中で、「よろづあぢきなきほどにぞはべりし」「いつまで草のあぢきなく見渡さる」「かきくらす心の中は」「憂き身はいつもとおぼえて」など、華やかな祝宴への違和感をも記すが、それは『紫式部日記』などにもみられる筆致であり、基本的には記録的態度で叙述される。なお、『とはずがたり』は『実冬卿記』の別記『北山准后九十賀』を参照したとされてきたが、小川剛生により、これは「次第」(有識の公卿が作成してあらかじめ参列者に配るもの)に基づいて記しているからであり、「室礼や儀式の記述が、『とはずがたり』『実冬卿記』『実躬卿記』『宗冬卿記』の四者でしばしば近似するのは、同一の次第に取材していることにかかり、互いに依拠関係があったのではない」ことが論証されている。このような北山准后九十賀の記は、『とはずがたり』の中でやや異質に見えるが、これを包含していることこそが、女房の文化的役割の多様性、女房日記の複層性を示すものであろう。
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北山准后・四条貞子(1196-1302)は後深草院二条の母方の祖父・四条隆親の同母姉で、西園寺実氏室となり、大宮院・東二条院を産んだ女性です。
彼女は百七歳という驚異的な長寿の人ですが、九十歳の祝賀行事をしてもらったのは弘安八年(1285)のことですね。
「序章 北山の准后 貞子の回想」(その1)(その2)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9159
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9161
『とはずがたり』には、北山准后九十賀の様子がうんざりするほど詳細に描かれています。
また、『増鏡』にも長大な記事がありますが、こちらは『増鏡』の中でも単一エピソードとしては最長の記事ですね。
私は以前、『とはずがたり』と『増鏡』の北山准后九十賀の記事を比較してあれこれ検討したことがあるのですが、『とはずがたり』の記事そのものを確認するためには旧サイトの「原文を見る−『とはずがたり』」が便利かと思います。
ま、これも途中までですが。
http://web.archive.org/web/20150516032839/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa-index.htm
>筆綾丸さん
是澤恭三は亀山院の書風について、
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つぎに大覚寺統の亀山天皇は、はじめは弘誓院教家の風を学ばれ、ついで世尊寺流を学ばれた。教家は後京極流の祖である良経の子で、良経の弟左大臣良輔に養われて子となり、大納言、皇后宮大夫などになつている。実父良経と並んで能書の聞えが高かつた。入木抄にもそのことが見えているが、書風は法性寺流の余風であると評されている。天皇は御兄の後深草天皇とは異つて御性格も俊敏溌剌としておられ、文藻に長じ材芸に富まれて、修業も進んでその書風も法性寺、弘誓院、あるいは世尊寺の風体から脱せられ、よほど闊達な一流を出されているのである。南禅寺蔵の禅林禅寺起願文案(挿43)は永仁七年(1299)の染筆で、正本は焼失して案文の方のみ残つたのである。しかもこれも下辺が焼損じて漸く火難を免れたものである。禅林禅寺というのは、のちの南禅寺のことで天皇落飾後これを離宮とせられ、ついで禅院とされたのである。この起願文案には右に述べた御性格が明かに察せられる。
http://web.archive.org/web/20090715111559/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/koresawa-kyozo-ryotonoshofu.htm
などと言われていますね。
良く言えば自由闊達、悪く言えば我儘な書風ということでしょうか。
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