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Japanese Medieval History and Literature

7466鈴木小太郎:2022/04/13(水) 13:36:35
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その4)
初級編:三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」は、

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第三章 両統問題
 第一節 両統問題の研究
 第二節 大覚寺統の御主張
 第三節 皇位継承に対する幕府の干渉
 第四節 後嵯峨法皇の幕府に対する御態度と御素意
 第五節 持明院統の御主張
 第六節 両統問題の経過
 第七節 両統君臣の疎隔
 第八節 両統の色彩
 第九節 両統分争と御領
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と構成されていて、今は「第二節 大覚寺統の御主張」の途中です。
この調子で全文を紹介して行くと数十回の投稿が必要になるかもしれませんが、当面の目標は嘉元三年(1305)に恒明親王(の周辺の誰か)が六波羅探題南方・金沢貞顕に出した書状の背景を理解することなので、この目標に関係のない部分は省略するつもりです。
ということで、続きです。

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 余の解釈にして幸ひに誤謬なしとせば、此亀山院の御遺勅より逆推して、後嵯峨院御遺勅の御精神につきて知り得る点は、後嵯峨院が文永年中、遺領の御処分に亀山院を惣領とし給ひしに、後深草院の此御処分に服従し給へりとの一事あるのみ。後嵯峨院の御処分帳は、文永九年正月十五日、即ち崩御の前月に成れる左の御処分帳案現存せり。

【中略】

 公家即ち亀山天皇を御筆頭とせられて、新院即ち後深草上皇以下、円満院宮即ち法皇の皇子円助法親王に至る迄の御処分を、一紙に認め給へるも、これ当時に於ける仙洞御領に止まり、後深草上皇に対せられては播磨国と神崎荘あるのみ。彼長講堂領、熱田社、其他の重もなる御領の見えざるより推せば、是等は其時以前、若しくは以後、恐らく以前に於て、別に御処分ありしことゝ知られたり。
 後嵯峨院が遺領の御処分に於て、果して亀山院の宣せらるゝ如く、同院を総領とし給ひしや否やは、後嵯峨院の御処分帳に就きてこれを証明するに由なし。其後深草院に譲り給ひし長講堂領百八十筒所といふことは、梅松論にいへるのみ。仮にこれを事実とするも、果して長講堂領に止まれるものか、将た同書は全く同時に御処分ありたる熱田社領等の事を載せざるを以て、百八十箇所は後深草院に御処分ありし御遺領の総数ならんも亦知るべからず。後深草、伏見、後伏見、光巌等諸院の御譲状は現存するも、此数に満つるもの一もこれなし。然るに前掲の亀山院の御処分帳の外、後宇多院御領目録と見ゆるものに拠れば、亀山院側の御領は敢へて前者に譲らざるが如く、就中後宇多院御領目録と見ゆるものは末尾の欠け居るにも拘らず、凡そ二百六十余所あり、而かも是等の材料丈にては、未だ両院の御領に対して厳密なる数字的比較をなし得たるものと謂ふを得ず。
 余は是等の材料を得ざる迄も、後嵯峨院の遺領御処分につきては、亀山院の御遺勅を疑ふべき理由更にこれなしと認むるものなり。由来遺領の分配は其性質として、直に実現せらるべきもの、且つ文永を去ること遠からざれば、亀山院に於ても事実に相違せることを宣ふべき筈なく、仮りにさることありたりとせば、もとより自他の信を取るに足らざるべし。殊に後深草院は、当時に至る迄、後嵯峨院に対する孝道より、其御処分に服従せられつゝありと宣ふに於てをや。後深草院は後嵯峨院の皇位継承に関する御素意なるものに御不満にて、後には幕府に内旨を示され、終に其変更を見るに至りしとはいへ、遺領の御処分につきては、同院は更にもいはず、御子孫に於かせられても、皆これに服従せられて、如何なる場合にも愁訴せらるゝことなく、又争奪を試みられしこともなかりしなり。

http://web.archive.org/web/20061006195115/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-01.htm

いったん、ここで切ります。
「後嵯峨院の御処分帳」については【中略】としましたが、「後深草上皇に対せられては播磨国と神崎荘あるのみ」で、本当に僅少ですね。
ただ、長講堂領は後白河院皇女の宣陽門院(1181-1252)から後深草院に譲られているなど、後深草院側には別途所領が確保されています。

長講堂領
http://web.archive.org/web/20061006210748/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-chokodo.htm

この後、星野恒説批判が続きますが、さすがに古すぎる議論なので省略します。
また、「第三節 皇位継承に対する幕府の干渉」も、承久の乱以後、幕府が皇位継承に介入するようになった経緯を述べているだけなので省略し、第四節に入ります。

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 第四節 後嵯峨法皇の幕府に対する御態度と御素意

 斯る事情の下に天皇若しくは上皇が任意に其皇儲を定めて大統を継がしめらるゝが如きは実際に有り得べからざることなり。特に後嵯峨院にありては、其御即位前後の御事情より推して、世に伝ふるが如き皇統に関する御内旨だも、御生前に打明けて幕府に示し給ひしことは、断じてこれなかるべしと認むべき理由あり。
 即ち四条天皇の崩御後、畏くも彼れの如き悲劇の演ぜられし暁に於て、従来逆境に沈淪し給へる御身の他の同情もなく、四面楚歌の裡に、目出度皇運を開かせられしは、一に幕府の奉戴に依れるものなり。さればさなきだに温厚なる後嵯峨院は、御在位中、何事も幕府に対しては、常に御遠慮勝ちにわたらせられ、関東申次を通じて、幕府の所存を問はせられし後ならでは軽々しく御沙汰なかりし趣に拝せられ、彼入道殿下たる九条道家が、関東を笠に着ての傍若無人の振舞にも只管違はざらんことを努め給ひ、却て幕府より或は「不任叡慮等有之歟、自今以後不然」とて道家の圧迫に打勝ち給はんことを勧め奉るに至れり。<葉黄記寛元四年八月廿七日条>
 若しも増鏡、梅松論の伝ふところを事実なりとせば、後嵯峨院の御遺勅は単に御一人御一代の皇儲を定め給ふものにはあらずして、将来永久に皇位継承の特権を一つの皇統に限られ、他の皇統を永久にこれより除外し給はんとするものなり。これ皇位継承に関する幕府の自由を少からず制限せらるものにあらずして何ぞや。
 瑣々たる小問題に向つてすら、幕府の意向に任せらるゝの例なりし同院が斯る非常の変例、重大の案件を唯一片の御遺書に載せて、幕府に服従を強ひらるゝが如きは、当時にありて事情の許さゞりしところ、況んや幕府に対して彼れの如き恩誼を感じ給ひ、彼れの如き御態度を取り給へる後嵯峨院に於てをや。
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いったん、ここで切ります。
「さなきだに温厚なる後嵯峨院は、御在位中、何事も幕府に対しては、常に御遠慮勝ちにわたらせられ」とありますが、後嵯峨院は決して温厚な性格ではなく、朝廷内部ではけっこうな独裁者ですね。
しかし、幕府に対する関係では「御遠慮勝ち」であったことは確かです。
「若しも増鏡、梅松論の伝ふところを事実なりとせば、後嵯峨院の御遺勅は単に御一人御一代の皇儲を定め給ふものにはあらずして、将来永久に皇位継承の特権を一つの皇統に限られ、他の皇統を永久にこれより除外し給はんとするものなり。これ皇位継承に関する幕府の自由を少からず制限せらるものにあらずして何ぞや」はその通りですね。
私見では『増鏡』は後嵯峨院の「御素意」については決して客観的・中立的立場の書物ではなく、後醍醐側のプロパガンダとしての性格を持ち、『梅松論』は同種のプロパガンダの受け売りに過ぎません。
この点、佐藤雄基氏の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)に関連して、一応のまとめをしておきました。

新年のご挨拶(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704




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