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Japanese Medieval History and Literature

7394鈴木小太郎:2022/02/22(火) 12:41:47
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その8)
前回投稿で「東三条院」は「東二条院」の誤植、と書いてしまいましたが、活版印刷で植字工が誤った活字を組んでしまうようなことは遥か昔の話ですから、「誤植」も死語になりつつあるのでしょうか。
『歴史評論』も、論文の著者がパソコンで作成したデータを編集者に送付する形になっていると思いますので、途中での誤変換は考えにくく、田渕氏自身が「東三条院」と書いたということですかね。
ま、それはともかく、続きです。
再び「東三条院」が登場しますね。(p48)

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 後深草院の正后東三条院【ママ】と並んで『とはずがたり』に多く登場する東御方(愔子)は、左大臣洞院実雄女、のちの玄輝門院である。後深草院後宮では妃に準ずる地位を与えられ、その寵愛は長く続き、熈仁親王のほか、性仁法親王(二品・御室)、久子内親王(永陽門院)を生む。熈仁は建治元(一二七五)年に親王宣下を受け、後宇多天皇の東宮となり、弘安一〇(一二八七)年、践祚して伏見天皇となった。
 東御方(愔子・玄輝門院)が国母・女院という最高の地位に至ったのに対して、雅忠女は、正応元(一二八八)年には前述の如く、愔子所生の伏見天皇に入内する※子に供奉する一女房であった。家柄・出自としては、東御方と雅忠女にさほどの隔たりはなく、後深草院の寵愛も一時は並ぶような二人であったのに、それは遠い昔のこととなった。こうしたことは宮廷ではしばしばあることとはいえ、玄輝門院の栄華や昔の記憶は、二条を深く苦しめたに違いない。それがまさしく「他の家の繁昌、傍輩の昇進を聞く度に、心を痛ましめずといふことなければ」にあたるとみられる。
※金偏に「章」
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いったん、ここで切ります。
「家柄・出自としては、東御方と雅忠女にさほどの隔たりはなく」とありますが、『とはずがたり』において、二条は東二条院とは犬猿の仲であったのに対し、東の御方とはとても仲が良かったように描かれています。
例えば巻二の「粥杖事件」では、

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 女房の方にはいと堪へがたかりしことは、あまりにわが御身ひとつならず、近習の男たちを召しあつめて、女房たちを打たせさせおはしましたるを、ねたきことなりとて、東の御方と申しあはせて、十八日には御所を打ち参らせんといふことを談議して、十八日に、つとめての供御はつるほどに、台盤所に女房たち寄り合ひて、御湯殿の上のくちには新大納言殿・権中納言、あらはに別当殿、つねの御所のなかには中納言どの、馬道に真清水さぶらふなどを立ておきて、東の御方と二人、すゑの一間にて何となき物語して、「一定、御所はここへ出でさせおはしましなん」といひて待ち参らするに、案にもたがはず、思し召しよらぬ御ことなれば、御大口ばかりにて、「など、これほど常の御所には人影もせぬぞ。ここには誰か候ふぞ」とて入らせおはしましたるを、東の御方かきいだき参らす。
 「あなかなしや、人やある、人やある」と仰せらるれども、きと参る人もなし。からうじて、廂に師親の大納言が参らんとするをば、馬道に候ふ真清水、「子細候ふ。通し参らずまじ」とて杖を持ちたるを見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ち参らせぬ。「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、よくよく御怠状せさせ給ひぬ。

http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm

という具合いに、東の御方が後深草院を羽交い絞めにして動けないようにした隙に、二条が後深草院の尻を粥杖で思い切りひっぱたいた、というような情景が描かれていて、二条と東の御方は、いわば女子プロレス仲間のような円満な関係ですね。
ところで、「後深草院の寵愛も一時は並ぶような二人であったのに」に付された注(10)を見ると、

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(10) 文永一一(一二七四)年、皇位継承への不満から、後深草院が太上天皇の尊号を返上し出家の意志を示す場面(巻一)で、お供して出家する人として「「女房には東の御方、二条」とあそばれしかば」とは記されている。
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とありますが、史実としては、後深草院が出家の意志表示をしたのは翌文永一二年(建治元年、1275)ですね。
ま、『とはずがたり』を信頼する田渕氏にとって、そんな「虚構」はどうでも良いことなのでしょうが。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その12)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11163
『とはずがたり』に描かれた後院別当の花山院通雅
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9406

さて、続きです。

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 二条は、後深草院から性助法親王、鷹司兼平、亀山院に何らかの契機や目的で贈与される女房であり、その自分を『とはずがたり』にあえて描く。しかし持明院統と大覚寺統の厳しい緊張関係に身をおき、日々その対立を知る二条にとって、王命に従う以外、ほかにどんな道があったろうか。その不可抗力への嘆きがあるからこそ、性助法親王を、『源氏物語』で熱愛の末に身を破滅させた柏木に象って、物語的に描くのであろう。宮廷における自分の位置を顧みた時、それは前掲のように、「人目にも、「こはいかに」などおぼゆる御もてなしもなく、「これこそ」など言ふべき思ひ出でははべらざりしかども」という、苦い真実の追認となる。
 『とはずがたり』がどれほど物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれようとも、その中心を貫くのは、雅忠女のこうした無念さ、それにつきるように思う。そしてそれは、院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たちの悲哀を象徴する言でもあると思われる。
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「二条は、後深草院から性助法親王、鷹司兼平、亀山院に何らかの契機や目的で贈与される女房」とありますが、『とはずがたり』には「有明の月」「近衛の大殿」が登場しているだけで、それが本当に性助法親王・鷹司兼平なのかは不明です。
しかし、田渕氏は、『とはずがたり』以外に裏づけとなる史料が存在しないにもかかわらず、「有明の月」「近衛の大殿」が歴史的に実在する人物と一致するものと断定されている訳ですね。
また、田渕氏は「しかし持明院統と大覚寺統の厳しい緊張関係に身をおき、日々その対立を知る二条にとって、王命に従う以外、ほかにどんな道があったろうか」と問われますが、例えば、「王命」に逆らって御所を出奔し、行方不明になって醍醐あたりに籠もる「道」もあったでしょうね。
そして、「院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たち」も確かに存在したでしょうが、出家後の二条は京都を離れて全国各地を旅行し、例えば霜月騒動後の恐怖政治の下にあった鎌倉でも、最高権力者である平頼綱やその奥方、息子の飯沼助宗らと楽しく交流していたようなので、二条を「当時の無数の宮廷女房たち」と一緒にしてよいのか、私は疑問を感じます。
とにかく、『とはずがたり』には「物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれ」ている部分が多すぎるので、何故に田渕氏が、『とはずがたり』を他の「女房日記」と同じ範疇に入れるのか、私には本当に不思議に思われます。




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