したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

Japanese Medieval History and Literature

7461鈴木小太郎:2022/04/09(土) 21:52:53
小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その3)
一週間ぶりに小川論文に戻ります。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b529b1034f9df20d6339295cb6f4f83

僅か三歳の幼児・恒明親王から何故に金沢貞顕に書状が送られてきたのか。
そもそも恒明親王とは何者か。
恒明親王に関する論考というと、三十年前の論文ではありますが、森茂暁氏の「皇統の対立と幕府の対応−『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって−」(『鎌倉時代の朝幕関係』、思文閣、1991)が今でも最高の水準にあるものと思われます。

森茂暁 「皇統の対立と幕府の対応−『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって−」
http://web.archive.org/web/20150515165002/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-kotonotairitu.htm

ただ、これは前提として相当な予備知識がないと理解できないので、まずは基礎的な事実関係を把握するために初歩的な文献を探すと、実に百年以上前に出た三浦周行の『鎌倉時代史』(改訂版、1916)が良いですね。
同書の「第三百三十二節 亀山法皇の崩御」を引用します。

-------
御耳痛にて崩御
 嘉元三年四月、亀山法皇、御耳痛に罹らせられしかば、後宇多上皇は申す迄もなく、伏見、後伏見両上皇にも、屡々御見舞あらせられ、七月二十日に御対面あらせられし時の如き、両院には、殊の外御愁歎の体に見え給ひしが、就中、後伏見上皇は、御哀慟甚しかりしといふ。其後、法皇は御祈療の験見え給はずして、九月十五日、崩御あらせらる。宝算五十七。浄金剛院法華堂に葬り奉る。御遺命に依りて亀山院と申す。

昭訓門院の御寵愛
 法皇は御寵辛多くまし/\、皇子、皇女の宮達の数も歴世に勝れ給へり。然るに正安三年、西園寺実兼の第二女昭訓門院、御年二十九にして法皇の宮に入り給ひてより、其寵を御一身に集め給ひ、殊に嘉元々年、皇子御産あらせられしかば、御鍾愛他に超え、盛んに御養産の儀を行はせられ、尋で親王となし給ふ。即ち恒明親王なり。されば女院は法皇崩御の後、早くも初七日の御忌辰に御落餝あらせられたり。増鏡に御情緒を叙して曰く、

  世を背かせ給ひにし初つかたは、いときはだけうひじりだちて、女房な
  ど、御前にだに参らぬ事なりしかど、後には、ありしより猶たはれさせ
  給ひし程に、永福門院の御さしつぎの姫君はや御さかりも過ぐる程なり
  しを、この法皇にまゐらせ奉らせ給へりしが、かひ/゛\しく水の白浪
  にわかやがせ給ひて、やがて院号ありしかば、昭訓門院ときこえつる、
  その御腹におとゝしばかり、若宮生れ給へるを、かぎりなくかなしきも
  のに思されつるに、今すこしだに見奉らせ給はずなりぬるを、いみじう
  おぼされけり。

尊治親王の御愛情、恒明親王に移らせらる
 是より先き、法皇は後宇多上皇の第二皇子尊治親王を愛し給ひ、乾元々年六月、立てゝ親王とせられ、嘉元々年十二月、万里小路殿に於て御着服を加へられ、同二年三月、太宰帥に任じ給へり(徳治二年、中務卿を兼ねしめらる)。是に至りて、法皇の御愛情は恒明親王に移らせられ、遂に親王を後宇多上皇に嘱し給うて、未来の皇儲に備はらしめんとせられ、上皇も辞し給ふこと能はずして、左の宸翰を上らせ給へり。

  恒明親王儲弐間事、当時后宮、女院等之間、可備其器之仁無所生之上者、
  承候之趣、非無謂候歟、今度沙汰之時、以此旨可被仰合関東之由承候了、
  毎事被仰置之趣、不可有相違之条勿論、心安被思食之条、年来孝行所存、
  可顕此時候歟、恐惶謹言、
    嘉元三七月廿八日        世仁

http://web.archive.org/web/20081229223946/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-kamakura-92.htm

いったん、ここで切ります。
嘉元二年(1304)に東二条院と後深草院が相次いで崩御、更に翌三年(1305)九月十五日、亀山院が崩じて、持明院統も大覚寺統も大きく世代替わりとなります。
ただ、大覚寺統では、亀山院が最晩年の子、恒明親王(1303-51)を溺愛し、やっかいな遺言を残したため、大混乱が起きます。
即ち、亀山院は恒明親王に膨大な財産を譲ったばかりか、恒明親王を皇太子にするように後宇多院(1267-1324)に命じ、後宇多院(「世仁」)もいったんこれを了解し、上記文書を亀山院に提出します。

-------
 第三百三十三節 遺領の御処分

法皇の遺領御処分状
 是より先き、七月、法皇は親しく御遺領の御処分を定め給ひ、崩御の後分進せしめられんが為め、御処分状を前右大臣西園寺公衡に託し給へり。二十三日、公衡、御処分状を天皇、後宇多、後伏見両上皇、昭慶門院(法皇の皇女、喜子内親王なり。増鏡に昭慶門院の寵は、諸宮の上に出で給ひたれば、御処分も豊富なりしこと見えたり)、昭訓門院、恒明親王、西殿准后(参議藤原忠継の女にて名を忠子と云ふ。後宇多上皇の宮に入りて尊治親王を生み奉り、後、三宮に准ぜらる、即ち談天門院なり)等に進めたり。全文は公衡手記の亀山院御凶事記に存録す。

恒明親王に厚くし給ふ
 これに拠るに、法皇は恒明親王につきて、「三歳小児心操雖難知、於事孝行之志不可説々々々」と宣ひ、御遺領の御処分に於ても亦、最も親王に厚くし給へるを見る。別に左の宸翰あり。

  五旬已後(○後、更に崩御後、速に分進せしむることに改め給ふ)、面々
  御譲状等守銘、或持参、或可分進、太王不譲泰伯、而意在季歴、泰伯三譲
  季歴、意在太王、思之々々、
    嘉元三年七月廿六日     御判
  一、文永故院御譲状一向以愚僧為惣領歟、深草院為兄一事一言不及訴訟、
  是併被重孝道故歟、且為先例、非余新儀、所領配分依多少不慮嗷々出来
  事、可耻々々、可哀々々、

従来学者のこれに拠りて法皇の御真意を揣摩し奉れるもの、皆誤れり。余を以てすれば、これ法皇が恒明親王に重くし給ふと共に、深く後宇多上皇の御感情を顧み給ひ、例を支那の故事に採りて、上皇の孝道を重んじ、御処分に従はれんことを諷し給へるものに外ならず。其他、後伏見上皇に進められし御処分状に、播磨国多可荘以下四荘一牧を載せられて、「右庄々所譲進也、軽微之至、頗雖有其憚為顕志不顧恐者也」と書し給へるは注目すべし。
-------

しかし、後宇多院としては面白いはずはなく、亀山院が没すると亀山院の遺言の内容を実現しようとする恒明親王の母・昭訓門院とその兄・西園寺公衡に対して後宇多院が猛烈な反撃を加えます。




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板