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Japanese Medieval History and Literature
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その16)
続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p209以下)
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日たくる程に、大殿籠り起きて、御文奉り給ふ。うはべはただ大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる
「いとつれなき御けしきの聞こえん方なさに」ぞなどあめる。悩ましとて御覧じも入れず。強ひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくしてを、わたらせ給へ」など聞えしらすべし。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9442
『とはずがたり』では寝坊した後深草院が手紙を贈ったとはありますが、その具体的内容についての説明はなく、「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌も存在しません。
ここは『増鏡』の独自情報ですね。
また、『とはずがたり』では、「御返事にはただ、『夢の面影はさむる方なく』などばかりにてありけるとかや」ということで、前斎宮が一応は返事を出したことになっていますが、『増鏡』ではそうした記述はありません。
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さて御方々、御台など参りて、昼つかた、又御対面どもあり。宮はいと恥しうわりなく思されて、「いかで見え奉らんとすらん」と思しやすらへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、ただおほどかにておはす。けふは院の御けいめいにて、善勝寺の大納言隆顕、檜破子やうの物、色々にいときよらに調じて参らせたり。三めぐりばかりは各別に参る。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9443
『とはずがたり』では後深草院は「日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして」という具合いに完全に寝過してしまい、四条隆顕に準備させた宴会は「夕がたになりて」やっと始まるのですが、『増鏡』では「昼つかた」から始まります。
その他、細かな相違がありますね。
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そののち「あまりあいなう侍れば、かたじけなけれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御けしきとり給へば、女院の御かはらけを斎宮参る。その後、院聞こしめす。御几帳ばかりを隔てて長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行などさぶらふ。あまたたび流れ下りて、人々そぼれがちなり。
「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して御箏どもかき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしもおもしろし。
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ここも『とはずがたり』では大宮院が「あまりに念なく侍るに」と酒を勧めるのに対し、『増鏡』では後深草院が「あまりあいなう侍れば」と酒を要望する形になっているなど、細かな相違があります。
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こたみはまづ斎宮の御前に、院身ずから御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院、「この御かはらけの、いと心もとなくみえ侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなやあるべからん」とのたまへば、「売炭翁はあはれなり。おのが衣は薄けれど」といふ今様をうたはせ給ふ。御声いとおもしろし。
宮聞こしめして後、女院御さかづきを取り給ふとて、「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」とのたまへば、「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。善勝寺、「せれうの里」を出す。人々声加へなどしてらうがはしき程になりぬ。
かくていたう更けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。そのままのおましながら、かりそめなるやうにてより臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程なく寝入りぬ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9444
『とはずがたり』では大宮院の嫌味っぽい発言に、後深草院が「生を受けてよりこの方、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命をかろくせん」と答えてから長寿の祝意を込めた今様を歌っていますが、『増鏡』では同席の人々が「人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」という反応を示したことになっていて、これは『増鏡』が追加した独自情報です。
なお、和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)などの戦前の『増鏡』注釈書では「院」は全て亀山院と解釈されていましたが、そう考えると、亀山院を支援していたはずの大宮院が「院」に嫌味を言う理由が分からず、宴席の参加者の反応も不可解なものとなります。
この点、『とはずがたり』の出現で「院」が後深草院であることが明確になったため、この場面も非常にすっきりと理解できるようになった訳ですね。
なお、井上宗雄氏は「語釈」で、
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○一言報い給ふべうや もう一つお歌いなさい。戦前の注釈は、下の歌謡を斎宮が歌ったものとして、この言葉を大宮院の斎宮への注文としてみていたが、『とはずがたり』の出現により、下の歌は院が歌ったことがわかったので、これも院への注文と解されるようになった。
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と書かれていますが(p222)、「院」が亀山院という基本構図の影響で、戦前はずいぶん不自然な解釈が強いられていた訳ですね。
>ザゲィムプレィアさん
>筆綾丸さん
私は細川氏の研究者としての業績は参考にさせてもらっていますが、それ以外の活動には興味がないので、レスは控えます。
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