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Japanese Medieval History and Literature
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『とはずがたり』の政治的意味(その9)
比較のために『撰要目録』序文に登場する六人以外の初期作者も見ておくと、僧侶らしい人が多く、また「不知作者」と記されている作品も多いですね。
百曲の曲名リストにコメントを付しているのは明空で間違いないと思いますが、早歌の創始者である明空が作者を知らないとはどういうことなのか。
まあ、創始者といっても全くの無の状態から特殊な産物を作り上げた訳ではなく、早歌も歌謡のスタイルですから、何らかの流行の素地があるところで明空が魅力的な作品を作り、それを真似する人が大勢出て来た、というようなことかと思います。
ジャズやラップに厳密な意味での創始者がいないように、明空は新しい流行を作り出したグループの最先端にいた人なのでしょうね。
そして、初期作者に僧侶が多く、仏教絡みの作品も多いということは、流行の素地の部分は仏教に関連しているように思えます。
この点、『徒然草』の第188段、「ある人、子を法師になして」という話は興味深いですね。
『徒然草』の中でも有益な人生訓として有名なこの段には、
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仏事の後、酒などを勧むることあらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/turez_4.htm
とありますが、早歌は僧侶の社交の道具的な面があることを示唆しているように思われます。
さて、『撰要目録』の初期百曲の作者の話に戻ると、僧侶の中で一番高位なのは「法眼頼順」で、新間氏の注に「法眼大和尚位の略。法印に次ぐ僧位。「任僧綱土代」(続類従)に乾元二年(一三〇三)三月法眼に叙位の僧頼順の名がある。(井浦芳信氏説)」(p43)とあります。
君臣父子道 法眼頼順作 明空成取捨調曲
「明空成取捨調曲」については新間進一氏の注に「曲だけの調整の意か、詞句を選択訂正の上での意か両義に解される」(岩波大系、p41)とあり、私は以前、ちょっと無理な解釈を試みたことがあるのですが、ここは素直に「曲だけの調整の意」と考えるべきだろうと思います。
お経だって音楽的な要素はありますから、僧侶に作曲の才能があっても不思議ではないですね。
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26c6e1bde1b9e0a358f5eb0d5e4e7e3d
次に身分が高そうなのは二曲を作っている「権少僧都頼亮」で、この人も作曲が出来ます。
袖志之浦恋 権少僧都頼亮作 同調曲
十駅 権少僧都頼亮作 明空成取捨調曲
「漸空上人」については後藤丹治氏の研究がありますが、この人は作詞だけですね。
郭公 漸空上人作 明空調曲
早歌の作者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f49010df5521cc5aa7d50c242cec62c6
「春月」は作曲も出来る人で、出家者のようですが、いかなる人物かは不明です。
吹風恋 春月作 同調曲
以上が僧侶ないし出家者らしい人たちですが、作者不明の作品も多いですね。
次の四曲は「宴曲抄中」に連続して出てきますが、同一人物の作品なのかも分かりません。
「懐旧」・「舟」(作者の欄が空白)・「水」も同様です。
文武 自或所被出不知作者 明空成取捨調曲
朋友 同前 同
山寺 同前 同
松竹 同前 同
懐旧 自或所被出不知作者 明空成取捨調曲
船 * 明空成取捨調曲
水 自或所被出不知作者 明空成取捨調曲
ま、誰が作ったのかも分からないけれど、詞はそれなりの出来で、明空が曲だけ手を入れた、ということだろうと思います。
さて、私にとって最も興味深いのは早大本で「越州左親衛」(金沢貞顕)であることが判明した「或人」で、この人は次の二曲に関与しています。
袖余波 或人作 明空成取捨調曲
明王徳 自或所被出之 明空成取捨調曲
「明空成取捨調曲」については、先述したように私は以前の無理な解釈を改め、貞顕は作曲も出来て、明空が曲だけに若干の手を加えたものと考えます。
貞顕は作曲にも手を出す程ですから、早歌に相当に入れ込んでいたようですね。
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「明王徳」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae842c9469091ef7c8930ee108d9daad
「不知作者」ではないので、明空は「或人」が「越州左親衛」金沢貞顕であることを知っていた訳ですが、では何故に明空は貞顕の名を秘したのか。
まあ、おそらくそれは、貞顕の出世に何か悪い影響が出ることを懸念した、といった事情かと思います。
正安三年(1301)の貞顕はまだ二十四歳ですが、ちょうどこの年の三月に父・顕時が死去し、貞顕が兄たちを超越して家督を嗣ぎますので、なかなか微妙な時期ですね。
そして翌年、貞顕は六波羅探題南方として上洛し、以後、出世街道を驀進することになります。
金沢貞顕(1278-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95
>筆綾丸さん
>出家者の明空をからかっているのかもしれず
明空は相当の教養人ですが、『源氏物語』に関する話なので、そもそも明空に「或女房」の作品の是非を判断する能力があったかも問題となりますね。
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