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Japanese Medieval History and Literature

7442鈴木小太郎:2022/03/29(火) 11:51:18
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その8)
『撰要目録』の第二段階の序文に「いまは六そじのあまり」とあって、これが「嘉元四年三月下旬之比重加注畢」ですから、嘉元四年(1306)から(数えの年齢であるので)59を引き算して、明空の生年は宝治元年(1247)前後となります。
ただ、「六そじのあまり」と言っても四捨五入して六十になるような用例もあるようなので、生年は1250年代初めの可能性もありますね。
いずれにせよ、明空は文芸や音楽などの文化的活動が活発だった宗尊親王の時代の雰囲気は知っていたはずですが、文永三年(1266)になると宗尊親王が不可解な事情で鎌倉を追放されてしまいます。

『容疑者Mの献身』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d4a1f9b005f64433725e626cc367b7f4
「巻七 北野の雪」(その11)─宗尊親王失脚
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d2dc607027cdaf8a10a74526fb0f3c7

そして二年後の文永五年(1268)にはフビライの国書を持参した高麗の使者が太宰府に来ますが、幕府は返書を送らず追い返し、以後、対外的緊張が高まる中、文永九年(1272)には鎌倉で名越時章等、京都で六波羅南方北条時輔が殺される二月騒動が起きます。

『とはずがたり』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c92d56320b834026aea6cfd673d3fcc
『五代帝王物語』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bd1ccb41cc6bef78e04218bd13df9c4
金沢貞顕の恐怖の記憶
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/096bb952f1ddd3d4d767277c56195f74

ついで文永十一年(1274)には文永の役、弘安四年(1281)には弘安の役と本格的な戦争の時代となって、文芸や音楽にとっては「冬の時代」が続いたものと思われます。
そして、二度の元寇の後も侵攻への警戒を緩めぬ体制の中で、弘安九年(1285)に霜月騒動が勃発し、安達泰盛の娘を正室としていた北条顕時は逼塞を余儀なくされます。
霜月騒動の頃には明空は四十歳前後になっていますので、既にそれなりの音楽活動を行っていたでしょうが、正応六年(1293)、平禅門の乱で平頼綱が滅ぼされるまでは金沢北条氏の支援を得られなかったのではないかと思われます。
そのため、金沢北条氏の庇護の下、寺院社会・武家社会、そして公家社会の人を含め、多数の協力を得て作品を撰集の形にまとめることができたのは更に数年を要し、正安三年(1301)まで遅れたのではないか、というのが私の一応の推測です。

>筆綾丸さん
筆綾丸さんの御指摘を受けるまでは「因州戸部二千石行時」に関する外村久江氏の説明は軽く読み流していたのですが、単に金沢貞顕に近いだけでなく、その叔父に琵琶の相伝を受けた人がいて、『文机談』の跋文に近いところに登場していることにはびっくりしました。
前々から『文机談』は気になっていたのですが、公武社会の交流という観点からも本格的に調べないといけないなあ、などと思っています。

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