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Japanese Medieval History and Literature

7468鈴木小太郎:2022/04/15(金) 14:38:29
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その6)
ということで、「第五節 持明院統の御主張」に入って、後嵯峨院の「御素意」に関し、幕府から大宮院に寄せられた質問への「御返事」が後嵯峨院の真意を反映しているのか、それとも捏造なのか、という問題を中心に持明院統側の主張を確認することにします。
基本的には後に『宸翰英華』に掲載される伏見天皇の「宸筆御事書」二通の解説なので、分かりにくいところは併せ読んでいただきたいと思います。

帝国学士院編纂『宸翰英華』−伏見天皇−
https://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm

まあ、結局のところ何とも論拠が弱いなという印象を受けますが、丁寧に見て行くことにします。

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 第五節 持明院統の御主張

 持明院統の御主張は従来余りに多く知られず。只一般的に後深草院の御正嫡にわたらせらるゝを説かるゝのみ。さり乍ら皇兄は絶対的に皇位継承の順位を定むるものにあらず、伏見宮御記録(次節に引用すべし)等の皇室関係の御文書を始め其他の史料に拠りて窺ひ得たるところにては
(一)後嵯峨院の治世の君の選定に関する記録の存在せざることは其最も有利とせられしところなるが如し。これに拠れば、後嵯峨院は文永八年正月に御不予にあらせられしが、其十六日の申刻に、治天の事は何方とも定め仰せられずして一に幕府の推選に委ね置きたれば、幕府は定めて奏薦するところあるべく、後日思召合さるべき由の勅語あり、これより以外に何等の思召なかりしなりといふにあり。五代帝王物語に拠るに、後嵯峨院は文永七年の夏より御悩なり、増鏡にも後嵯峨院は八年正月頃より御悩と見えざるにあらざれども、此勅語は崩御の前日亀山天皇を召させられて御遺詔ありし旨記さる。されば文永八年正月の事とするは少しく早きに失するに似たり。
(二)次ぎに持明院統にては後嵯峨が皇子円満院宮円助法親王に賜ひし勅書に、其望み給へる二品は何方にても御治世の君に申し入れられなば、定めて子細あるべからざる旨を認め給へりと主張せらる。これ亦後嵯峨院が、御治世の君を定め置き給はざりし一証左なりとせらるゝところなり。彼六勝寺鳥羽殿の御処分の事を思ひ合すれば、此事亦必ずしも事実にあらずと謂ふべからず。親王は後嵯峨院の第七の皇子にして、御母は頼朝の妹婿藤原能保の女、右衛門局なれば、幕府とも親縁あり、建長元年正月円満院に入室せられ、同二月法親王宣下あり、正嘉元年園城寺長吏に、弘長二年四天寺別当に補せられ給へり。然るに後嵯峨院崩御の翌年なる文永十年牛車を聴され給ひ、同十一年二品に叙せられ給へり。これ寺門即ち園城寺派の法親王の二品に叙せられし初例なるを以て、其宗敵たる延暦寺衆徒は不平の余り蜂起するに至れり。弘安五年八月薨ず、御年四十七歳。金龍寺宮とも、早田宮とも申し奉る。
(三)次ぎに持明院統側にては幕府が後嵯峨院の御遺命に対して治世の君は輙く選定し奉るの困難なる事情を奉答せし時、同院の御素意は禁裏即ち亀山院にありし旨仰せ出だされしは、更に根拠なき事なりと見做され、是時幕府に示されし御沙汰書は、円助法親王が亀山院の御前に祗候して、西園寺実兼を召して書かしめ、御前に於て封を加へられしものなりといひ、これ法親王が父帝の御素意を矯め給ひしものなりとさへ明言せられたり。幕府の奉答といひ朝廷の御沙汰といひ、何れも大覚寺統側の御主張と一致せり。只後嵯峨院の御素意として幕府に示されしものが円助法親王の御素意を矯められしものなりとするの一事、大に大覚寺統側のそれと軒輊するところなり。是に於て円助法親王の御挙措が本問題に取りて重大なる関係を生じ来るべし。

http://web.archive.org/web/20061006212841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-02.htm

いったん、ここで切ります。
後深草・亀山兄弟の異母兄に円満院宮・円助法親王という人がいて、持明院統、というか伏見天皇の主張では、この人が大宮院の「御返事」を捏造した主犯となっています。

円助法親王(1236-82)
https://web.archive.org/web/20061006212457/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-enjohosshinno.htm

即ち、『宸翰英華』六八「宸筆御事書」の第二条に「治世事、旧院御素意、可為内裏<新院>之由被思食之趣、故円満院宮被構出事」とあり、同じく六九「震筆御事書」の第三条に「御治世事、輙難計申之由、関東今申之時、任先院御素意、被申禁裏之由、被仰出之条、更無所拠、件御返事、円満院宮祗候、召相国被書之、於御前被加封事」とあります。
『宸翰英華』の解説を借りれば、

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 第三条は後嵯峨天皇の御思召を拝した幕府が、治世については容易に計らひ難き旨を朝廷に奏上した際に、後深草上皇、亀山天皇御二方の御母大宮院に、後嵯峨天皇の叡慮を御尋ね申上げたについて、女院は叡慮が亀山天皇に坐しましたと仰出されたといふことに対する御反駁であつて、女院の令旨は円助法親王が亀山天皇の御前に祗候の時に、太政大臣西園寺実兼を召して書かしめられ、直ちに封を加えて差出されたものであるから、信用に値しないと仰せられたのである。

http://web.archive.org/web/20061006195521/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm#saionji-sanekane

ということですね。
厳密に言うと、文永九年(1272)当時、「相国」(太政大臣)は存在しないのですが、第五条に西園寺実兼の祖父・実氏が「常磐井入道相国」として登場し、第七条に「堀河前相国」堀川基具が登場するので、第三条の「相国」は西園寺実兼を指していることになります。
また、西園寺実兼は基本的に持明院統側でしたが、この六九「震筆御事書」では文書偽造を実行した悪役になっているので、伏見天皇と西園寺実兼の関係が悪化した後の記録と思われますが、具体的にいかなる時期に伏見天皇が記したのかは不明です。
さて、三浦論文に戻ります。

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 五代帝王物語にも、文永九年後嵯峨法皇の崩御後、御大葬の事は建久三年後白河法皇崩御の時、皇子守覚法親王の御大葬を掌り給ひし例を守りて円助法親王が御沙汰ありし趣に見え、又同年大宮院御落飾の日も、其御戒師を勤め給ひ、其後も屡参内して亀山院と御対談あらせられ、同院の御治世中に累りに優遇を受け給ひしを思合するも、亀山院の御覚え特に目出度く、政治上の顧問にも備はり給ひしは事実なるべし。
 神皇正統記が後嵯峨法皇の御素意を以て大宮院の御証言に帰するは持明院統の御主張と径庭あるが如きも、これ大覚寺統に取りては大宮院の御証言とする方有利なるに反して、持明院統には不利なるに依るべし。されど幕府より伺ひ出でしとせば、寧ろ大宮院の仰とする方事実を得たりと信ず。而かも後嵯峨院の崩御後、幕府が敢てみづから治世の君を専決せずして後嵯峨院の御素意を伺ひ、これに依りて亀山院に決し奉りし事実は、両統の御主張の一致に依りて益々明晰なり。
 斯くて持明院統にては、大覚寺統が後嵯峨院の御素意として幕府に示されし事実を消極的に打消さるゝを以て満足せられず、更に進んで後嵯峨院の思召が、亀山院よりも寧ろ後深草院にありし事を積極的に立証せんと試みられたり。其一証として持明院統側にては、後嵯峨法皇が、御在世中に、和歌及び鞠の文書の遊戯に関するものを亀山天皇に進めらるゝ代りに、諸家の記録其他寛元以来の奏事目録は悉く後深草上皇に交付せらるべく、世間の事は悉く此目録に見えたりと仰せありしことを挙げ、常時近習の輩は皆存知の筈なりと主張せらる。
 寛元は後嵯峨院御即位の翌年なり。故に寛元以来とは同天皇御即位以来の意味にして、世間の事とは政治上の事を意味せり。故に此御主張は後嵯峨院が治世の君として寧ろ後深草上皇に御望を嘱せられこれに反して亀山天皇には政事に関せざる文芸に関する文書を伝へられたりといふは、間接に所謂後嵯峨院の御素意を裏切らんとせらるゝものなり。
 然れざもこれを証すべき傍証もなく、又事実となりし訳にもあらず、縦し斯る勅語ありしを事実とするも、其何時の事なりやを詳らかにせず、初めは斯く思召したりとて、後にこれを改め給ひしやも測り知るべからず、これを承りし近習輩の何人なりしやも詳かならざれば其証拠力は極めて薄弱なり。
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後半は六九「震筆御事書」の第六条に「先院勅語云、和歌并鞠文書可進禁裏、諸家記録可進新院、其外寛元以来奏事目六悉可進新院、世間事悉見此目録云々、近習輩皆存知歟事」の解説ですが、まあ、三浦の言うように「其証拠力は極めて薄弱」ですね。




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