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Japanese Medieval History and Literature

7390鈴木小太郎:2022/02/20(日) 12:22:07
田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その4)
『増鏡』で「久我大納言雅忠の女」が「三条という女房名に屈辱を感じて嘆く」場面、「こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難」いのは確かですが、そもそも女房名が気にくわないみたいな、当人以外にはどうでも良いような話が何故に『増鏡』に登場するのか。
「『増鏡』が資料として吸収する日記の一つが『とはずがたり』」ですから、「三条」云々の記述が「『とはずがたり』の散逸した部分」に存在していた「可能性」は否定できません。
しかし、資料に書いてあるからといって、それらを何でもかんでも採用したら収拾がつかなくなりますから、『増鏡』作者は当然に個々の情報の重要性を勘案して、不要なものはバッサバッサと切り捨てたはずです。
それなのに、『増鏡』にはこんな当人以外にはどうでも良い、つまらない話が何故に採用されたのか。
ま、これは田渕氏に質問しても、納得できる回答は得られそうもない感じですね。
その他、田渕氏の見解には種々疑問が生じますが、まずは田渕説を一通り見ておくことにします。
ということで、続きです。(p47)

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 『とはずがたり』には巻一から巻五までのあちこちに、現存の『とはずがたり』以外の部分の存在を示唆する記述が、断片的に見出される。例えば「むばたまの面影は別に記しはべれば、これには漏らしぬ」(巻一)は、別に記したと明記している。また「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」(巻二)は「有明の月」(性助法親王)から求愛された時のことを回顧するが、こうした記述は当該箇所にみられない。またこの少しあとに「雪の曙」が文中に現れるが、「雪の曙」西園寺実兼は、巻一冒頭から主要人物として登場しているのに、ここに唐突にこの名が出現している。また准后九十賀の歌会(巻三)で、後宇多天皇、亀山院、東宮らの歌を書き記したあと、「このほかのをば、別に記し置く」とあり、別に和歌をまとめて書き置いたことが記される。また自身の出家時のことを回想し、「一年今はと思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに……」(巻四)とあるが、出家時の記述は現存の『とはずがたり』にはなく、不自然である。さらに、八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり、「本のまま、ここより紙を切られて候」というような書き入れがある。
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いったん、ここで切ります。
「むばたまの面影は別に記しはべれば、これには漏らしぬ」は、文永十年(1273)正月、十六歳になったばかりの二条の年頭所感として出てきます。
『とはずがたり』の出来事を年表にすると、前年の文永九年は本当に忙しい年で、まず正月に後嵯峨院が重態となり嵯峨に移ると、翌二月十五日、二月騒動で北条時宗の異母兄・六波羅南方の北条時輔が討たれ、二条は嵯峨から六波羅付近に立ち上る煙を見ます。
そして二日後の十七日に後嵯峨院崩御となり、葬送儀礼が続きます。
父・雅忠は出家を願うも許されず、五月に病気になって、六月には二条の第一子懐妊が分かり、七月、後深草院が雅忠を見舞うも、翌八月三日に雅忠死去。
十月、妊娠中の二条は乳母の家で「雪の曙」実兼と契り、同月、「母方のうば」が死去。
十一月末、二条は御所を退出、醍醐の勝倶胝院に籠もりますが、十二月二十日過ぎ、後深草院御幸があり、続いて「年の残りも、いま三日ばかり」の厳寒の時期、しかも吹雪の最中に「雪の曙」の来訪となり、「今日はぐらし九献にて暮れぬ」となります。
次いで乳母が迎えに来たので京に帰ると、年が明けます。
そして、十六歳になった二条は、

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よろづ世の中もはえなき年なれば、元旦・元三の雲の上もあいなく、私の袖の涙もあらたまり、やる方もなき年なり。春の初めにはいつしか参りつる神の社も、今年はかなはぬことなれば、門の外まで参りて、祈誓申しつる志より、むば王の面影は、別に記し侍ればこれにはもらしぬ。

【次田香澄訳】すべて世の中も(諒聞で)晴々しくない年であるので、元日や三ガ日の宮中も味気なく、私自身の父の喪の悲しみも、新年とともに新たに思い出され、心の晴らしようもない年である。新春の初めにはいつもさっそくお参りしていた石清水八幡宮も、今年はそれがかなわないことであるから、門の外まで参って祈請申しあげた心の内をはじめ、夢想に見た面影については、別に記したのでここには書かない。

http://web.archive.org/web/20061006205728/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-25-yukinoakebonoraiho.htm

という感想を述べます。
「むば王の面影は、別に記し侍ればこれにはもらしぬ」は、まるで多作の流行作家が、その話は『とはずがたり』とは別の作品に書いたからそちらを見てね、とでも言っているような感じがして、田渕氏の言われるように「現存の『とはずがたり』以外の部分の存在を示唆する記述」かどうか、私は疑問を感じます。
それにしても、正月にこの感想を述べた二条は、翌二月十日頃、後深草院の皇子を出産するので、前年末、醍醐に籠もって後深草院、次いで「雪の曙」を迎え、後者とは終日酒盛りをしていた、というのは妊娠八か月の出来事です。
十五歳の初産の女性が厳寒期に醍醐のような「山深き住まひ」に行くこと自体が相当に異常な話だと思いますが、そこに夫と愛人が相次いで訪問、後者とは終日酒盛りというのはなかなかシュールな展開です。
まあ、私は『とはずがたり』は自伝風の小説と考えているので、どんなに忙しいスケジュールだろうと、どんなにシュールな展開だろうと別に困らないのですが、田渕氏は、『とはずがたり』には多少の虚構が含まれるにしても、あくまで「女房日記」という立場ですから、これらも基本的には事実の記録とされるのでしょうね。




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