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Japanese Medieval History and Literature
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その13)
『増鏡』では後深草院が太上天皇の尊号と身辺警護の随身を辞退しようとした時期は明記されていませんが、史実では、これは文永十二年(1275)四月九日(二十五日に建治と改元)です。
『続史愚抄』の同日条によれば、
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本院被献尊号兵仗等御報書。<被辞申由也。>御報書前菅宰相<長成。>草。<清書右衛門権佐為方。>中使徳大寺中納言。<公孝。>公卿兵部卿<隆親。>已下四人参仕。奉行院司吉田中納言。<経俊。>及為方。抑依皇統御鬱懐可有御落飾故云。異日有不被聞食之勅答。御落飾事。自関東奉停之云。<○増鏡、次第記、皇年私記、歴代最要>
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とのことで、尊号・兵仗は天皇(後宇多)が上皇(後深草)に与えたという建前ですから、辞退の旨を正式の文書に記し、徳大寺公孝を使者として、四条隆親(二条の母方の祖父)以下の四人の公卿が随行するという厳格な形式で天皇に通知した訳ですね。
これに対し、後宇多天皇は辞退を認めない旨を返答し、幕府のとりなしもあって、落飾の一件は中止となったという流れです。
では、幕府の対応は『増鏡』にどのように描かれているかというと、次の通りです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p200以下)
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この頃はありし時頼の朝臣の子時宗といふぞ相模守、世の中はからふぬしなりける。故時頼朝臣は康元元年に頭おろして後、忍びて諸国を修行しありきけり。それも国々の有様、人のうれへなど、くはしくあなぐり見聞かんのはかりごとにてありける。
あやしの宿に立ち寄りては、その家主が有様を問ひ聞き、ことわりあるうれへなどの埋もれたるを聞きひらきては、「我はあやしき身なれど、昔よろしき主を持ち奉りし、未だ世にやおはする、と消息奉らん。もてまうでて聞え給へ」などいへば、「なでう事なき修行者の、なにばかりかは」とは思ひながら、いひ合はせて、その文を持ちて東へ行きて、しかじか、と教へしままにいひて見れば、入道殿の御消息なり。「あなかま、あなかま」とて長くうれへなきやうにはからひつ。仏神のあらはれ給へるか、とて、みな額〔ぬか〕をつきて悦びけり。かやうのこと、すべて数しらずありし程に、国々にも心づかひをのみしけり。最明寺の入道とぞいひける。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9418
ということで、いささか唐突に北条時頼廻国譚が出てきます。
時頼廻国については、旧サイト(『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』)において、かなり詳しく検討したことがあります。
現代の歴史研究者の中にも、佐々木馨氏のように時頼の廻国が基本的には事実であったと考える人もいますが、私は賛同できません。
佐々木馨『執権時頼と廻国伝説』(吉川弘文館、1997)
http://web.archive.org/web/20061006194255/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/sasaki-kaoru-tokiyori-01.htm
さて、続きです。
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それが子なればにや、今の時宗の朝臣も、いとめでたき者にて、「本院の、かく世を思し捨てんずる、いとかたじけなく、あはれなる御ことなり。故院の御おきては、やうこそあらめなれど、そこらの御このかみにて、させる御あやまりもおはしまさざらんに、いかでか忽ちに名残なくはものし給ふべき。いと怠々しき業なり」とて、新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ。
十月五日節会〔せちゑ〕行はれて、いとめでたし。かかれば少し御心慰めて、この際は強ひて背かせ給ふべき御道心にもあらねば、思しとどまりぬ。これぞあるべきこと、と、あいなく世人も思ひいふべし。帝よりは今二つばかりの御このかみなり。
まうけの君、御年まされるためし、遠き昔はさておきぬ。近頃は三条院・小一条院・高倉の院などやおはしましけん。高倉の院の御末ぞ今もかく栄えさせおはしませば、かしこきためしなめり。いにしへ天智天皇と天武天皇とは同じ御腹の御はらからなり。その御末、しばしはうちかはりうちかはり世をしろしめししためしなどをも、思ひや出でけん、御二流れにて、位にもおはしまさなんと思ひ申しけり。
新院は御心ゆくとしもなくやありけめど、大方の人目には御中いとよくなりて、御消息も常に通ひ、上達部なども、かなたこなた参り仕まつれば、大宮院も目安く思さるべし。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9420
「故院の御おきては、やうこそあらめなれど」(故・後嵯峨院のお決めになったことには、それなりの深い理由があるのだろうが)とさりげなく書かれていますが、ここはかなり重要です。
『増鏡』は一貫して、後嵯峨院の遺詔に亀山院とその子孫が皇統を継ぐべきだと明記されていた、という立場であり、ここでも、それを前提とした上で、幕府の斡旋により、幕府主導の妥協案として煕仁親王(伏見天皇)の立太子がなされた、という書き方ですね。
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