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Japanese Medieval History and Literature

7435鈴木小太郎:2022/03/25(金) 09:59:49
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その4)
念のため「法印忠覚」について外村久江氏の見解も紹介しておくと、次の通りです。(『早歌の研究』、至文堂、1965、p138)

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【前略】法印忠覚は後藤氏が大炊御門冬忠の子、山の僧正忠覚と比定されたが、嘉元三年(一三〇五)十二月の序のある続門葉和歌集に権少僧都忠覚として、「玉の緒のかゝる憂世に永らへばよその哀れをいつまでか見む」という和歌を残している人と同一人ではないかと考えられる。玉林苑下に集められた時まで十四年間あるので、その頃法印となることも考えられる。続門葉集には同じ早歌の作者たる漸空上人と法印憲淳との贈答歌も載せられており、この憲淳は為相とも交わりがある人で、また、同集に、「あづまにすみ侍りけるに云々」の詞書のある歌詠をのこしているので、交遊圏の上からも充分問題にしてよいようである。
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外村説にはかなり問題があって、『続門葉和歌集』は醍醐寺関係者の歌集ですから「権少僧都忠覚」も醍醐寺の人ですね。
醍醐寺関係者が「山王威徳」という曲を作詞する可能性は皆無ではないか、と私は考えます。
なお、憲淳は『朝日日本歴史人物事典』によれば、

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没年:延慶1.8.23(1308.9.8)
生年:正嘉2(1258)
鎌倉後期の真言宗の僧。醍醐寺報恩院4世として報恩院流の全盛を築く。近衛良教の子で醍醐寺報恩院の覚雅に師事して出家。後宇多天皇の幼少時に侍僧として仕えたことから,のちにその帰依を受ける。延慶1(1308)年には後宇多法皇に小野流の伝法灌頂を授ける。弟子隆勝に付法相承する一方で,法皇寵愛の道順にも法を授ける。このため,憲淳の死後その正嫡をめぐって勢力争いが起こり,法皇の大覚寺統と花園天皇の持明院統の対立へ巻き込むなどして南北朝の争いの一要因を担うことになる。<参考文献>栂尾祥雲『秘密仏教史』(井野上眞弓)

https://kotobank.jp/word/%E6%86%B2%E6%B7%B3-1073439

という人物で、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』には「歌人として知られ,「続(しょく)門葉和歌集」の撰定にかかわり,同集の序文をかいたとされる」という追加情報もありますね。
私も一時期、後宇多院の密教受法に興味を持って、憲淳・隆勝・道順などの周辺を少し調べたことがあるのですが、真言密教の話は難しくて、結局何だかよく分かりませんでした。
ただ、隆勝は四条隆行息で後深草院二条の母方の又従弟、道順は久我通能息、後深草院二条の父方の従兄弟であって、寺院社会も最上層部は公家社会のカーボンコピーだな、などと思ったことがあります。

辻善之助「第十四節 密教興隆」(『日本仏教史 第三巻中世篇之二』)
http://web.archive.org/web/20061006214458/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tuji-zennosuke-mikkyokoryu01.htm
辻善之助「両統対立の反映として三宝院流嫡庶の争」(『日本仏教史之研究 続編』)
http://web.archive.org/web/20061006214342/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tuji-zennosuke-sanpoinryu.htm
藤井雅子氏「後宇多法皇と「御法流」」(『史艸』37号、1996)
http://web.archive.org/web/20061006214409/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/fujii-masako-gouda.htm
真木隆行氏「後宇多天皇の密教受法」(大阪大学文学部『古代中世の社会と国家』、清文堂、1998)
http://web.archive.org/web/20061006214421/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/maki-takayuki-gouda.htm
横内裕人氏「仁和寺と大覚寺─御流の継承と後宇多院─」(『守覚法親王と仁和寺御流の文献学的研究・論文篇』、勉誠社、1998)
http://web.archive.org/web/20150821011139/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yokouchi-hiroto-ninnajitodaikakuji01.htm

結局、私としては「法印忠覚」は大炊御門冬忠息でよいのでは、と思います。
外村氏は大炊御門冬忠息の「忠覚」と鎌倉社会との接点を見出せなかった訳ですが、「白拍子三条」が後深草院二条であれば、一応の接点はあることになります。
ま、寺院社会の人ですので、他の鎌倉ルートの可能性ももちろんあるとは思いますが。

>筆綾丸さん
>左金吾春朝

この人については外村氏の『早歌の研究』に詳しい考証があるので、後で紹介します。




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