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Japanese Medieval History and Literature
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『とはずがたり』の政治的意味(その7)
>筆綾丸さん
藤三品の作品は「花」「山」「年中行事」の三つですね。
「三品」にかけた駄洒落、という訳でもないでしょうが。
それと、「涼しき泉の二の流れには、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり」は「冷泉武衛」(為相)の「龍田河恋」と「冷泉羽林」(為通)「名取河恋」の二人分で、為通(1271-99)は二条家の総帥・為世の長男です。
ここで言う「冷泉」は定家の子孫程度の意味のようですね。
二条為道(「千人万首」より)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tamemiti.html
さて、筆綾丸さん御指摘のように、『撰要目録』序文に記された六人の記述のバランスの悪さは私も気になっていました。
そこで、まず純粋に数量的にそれぞれの割合を見てみます。
前回投稿で岩波古典文学大系本に拠って原文を紹介しましたが、新間進一氏が括弧付きで補った部分、例えば「抑彼(の)洞院家の」の「(の)」などを除くと、原文は、
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抑彼洞院家の詠作には瑞を豊年に顕し孫康が窓、袁司徒が家の雪、ふりぬる跡を尋て、情の色をのこし、
花の山の木高き砌、三笠山の言の葉にも、道の道たるす直なる世々、五常の乱らざる道を能くし、
南家の三の位、風月の家の風にうそぶきて、春の園に桜をかざし、花を賦する思を述べ、足引の山の名を、うとき国までにとぶらひ、なほなほ年中に行事態、霞てのどけき日影より、霜雪の積る年の暮まで、あらゆる政につけても、君が御代を祝ふ。
涼しき泉の二の流には、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり、
藻塩草かき集めたる中にも、女のしわざなればとて漏らさむも、古の紫式部が筆の跡、疎かにするにも似たれば、刈萱の打乱れたる様の、をかしく捨がたくて、なまじひに光源氏の名を汚し、二首の歌を列ぬ。
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と五つに区分されます。
「涼しき泉の二の流には」云々は為相・為通の二人分ですね。
ここで、句読点を除外して各部分の字数を数えると、
「洞院前大相国家」(洞院公守):43
「花山院右幕下家」(花山院家教):40
「藤三品」(藤原広範):101
「冷泉武衛」(冷泉為相)・「冷泉羽林」(二条為通):25
「或女房」:86
合計295字となります。
従ってその割合は、小数点以下四捨五入で、順に、
「洞院前大相国家」(洞院公守):15 %
「花山院右幕下家」(花山院家教):14 %
「藤三品」(藤原広範):34 %
「冷泉武衛」(冷泉為相)・「冷泉羽林」(二条為通):8 %(二人分)
「或女房」:29 %
100%を六等分すれば16.7%ですから、洞院公守・花山院家教は単純平均より僅かに少なく、冷泉為相・二条為通は一人僅か4%なので極端に少なく、その分、「藤三品」藤原広範と「或女房」が極端に多いことになります。
そして、「藤三品」と「或女房」を除く四人の作品数は一つだけですが、「藤三品」は三作品で34%、「或女房」は二作品で29%ですから、作品数で比較すれば「或女房」の割合が突出して高くなりますね。
序文は明空が練りに練って作った文章ですから、単なる偶然ではあり得ません。
このバランスの悪さをどのように考えるべきか。
まず、この六人の順番ですが、これは作品の優劣ではなく、身分的な上下でしょうね。
この中では何といっても洞院公守の従一位・前太政大臣が光ります。
公守は洞院実雄の嫡子で、伏見天皇の母・愔子(玄輝門院、『とはずがたり』の「東の御方」)の異母弟ですね。
洞院公守(1249-1317)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%85%AC%E5%AE%88
花山院家教は正二位・左近衛大将・権大納言と相当高い地位にありましたが、序文が記された正安三年(1301)の四年前、永仁五年に三十七歳で亡くなっていますね。
花山院家教(1261-97)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E6%95%99
藤原広範は嘉元元年(1303)年に亡くなっていて、「藤三品」と呼ばれたように官位は従三位です。
年齢は不明であるものの、相当早くから幕府に仕えていた関東伺候廷臣の学者ですね。
冷泉為相は阿仏尼の息子の関東伺候廷臣で、正安三年(1301)の時点では従四位下。
冷泉為相(1263-1328)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E7%82%BA%E7%9B%B8
二条為道は二条為世の嫡子であり、歌の才能にも恵まれ父から期待されていたようですが、正安元年(1299)、二十九歳の若さで亡くなっており、この時の官位は正四位下です。
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