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聖典引用 板

1098SAKURA:2012/08/10(金) 00:27:53 ID:V.pKl3yA
                <つづく>         NO:4

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1097投稿の続きです

         ――――――― * ―――――――

| ❤人間愛というものは家庭からはじまるというわけですね。


  そのとおりです。あなたは親子関係のなかに、愛と愛のようにみえるもの
 との相違をはっきりみとめることができるでしょう。親というものは自分が
 子どもにたいする愛にもとづいて行動していることをつねに主張しているの
 ですが、実際にはそうでないことがよくあります。

  親が子どもの「犠牲」になっているというときは、子どもの反応からどこ
 かおかしいと気づきます。そういうとき、子どもは罪の意識を感じてはいて
 も、感謝の気持ちはもっていないのです。なぜなら、そのときの子どもが得
 たものは、愛からではなく、親の自己否定から生じたものだからです。他人
 の自己否定がもたらしたものを望むような人はいないでしょう。自己否定は
 さっき申し上げた身勝手な態度のなかで最悪の形のひとつです。それは自分
 で価値がないと感ずるあなたの一面をかえって助長するようなものです。自
 己否定からなにも得るものはありません。

  これは、あなたがときには物事を放棄するための決断をしてはいけないと
 いう意味ではありません。あなたの選択の問題なのです。その選択は自己嫌
悪の感情から行なわれるものではなくて、自尊心にもとづいて行なわれるも
のなのです。


PS:トキ様

■>あなたがときには物事を放棄するための決断をしてはいけないと いう意味ではありません。
あなたの選択の問題なのです。その選択は自己嫌悪の感情から行なわれるものではなくて、
自尊心にもとづいて行なわれるものなのです。<
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

私も「考え方」が、狭いのかしら〜〜〜ン?そう「心の中の…ベストフレンド」に問いますと…
…それまれなのですが〜〜〜><
どうしても「私の発言…」を、その人の考え方みたいに、“投稿表現”されますと、さすが〜〜〜に!
気分が悪いです〜〜〜ョネ!
今日もさっそく「何処かで〜」でしょうか??【アクシデント発生…】でしょうか?

こちらの意見を“横取り”にされた気分かしら〜〜〜ン?
このような時は、人間関係も“嫌”になりますが〜〜〜><「トキ様」も、この様に…
「トキ様の考え・アイデア」を、利用されて、その人の意見・考えの様な発言を、
対外的にされたら、果たして、どのような気持ちになられますでしょうか???
社会現代…会社という組織では、意外と人間関係(職員関係)でも、多いのではと思いますが?
何か?経験があられますでしょう〜〜〜か?

                                 再合掌

1099a hope:2012/08/10(金) 07:15:59 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

「心を変えない」とはどんなこと


目的を貫き通すまで心を変えない―――そうすれば何事でもできるというのが
「精神一到達何事か成らざらん」だと申しましたら、それでよく解ったように思う方もあるかもしれませんが、
解らないように思う人もあるかも知れません。

それでは「心を変えない」とはどうすることなのか、よく考えてみてください。
そんなに考えてみないでも「心を変えない」ということはどうすることだかハッキリお解りになった方は、
大変お偉い方であります。

また「心を変えない」とはどんなことだかわかったつもりで本当は十分判らず、
よい加減にぼんやりと「こんなことだろう」と思っている人よりも、
「心を変えない」とは実際には一体どうすることだろう、詳しく教えて貰いたいと思う人も、
また物事の考え方が精(くわ)しく細かくたいへん立派な人だろうと思います。

では皆さん、「心を変えない」とはどうすることですか、もう一ぺん考え直してみましょう。
「心を変えない」とは、「心」に一ぺん「これはできる」と思ったことは、
それを「貫き通す」まで、いつまでも「これはできる」と心に描いた考えを捨てないことです。

何でも心の中に「これはできる」と心に画(え)を描くように思い浮かべた考えが、
やがて形になってこの世の中にあらわれてくるのですから、
「これはできる」と一旦きめた考えを捨てなければ、それは必ずできるのです。
(つづく)

1100ルンルン:2012/08/10(金) 07:35:35 ID:NS71OwS.
トキ様
今、どの板にいらっしゃいますか?
私は、削除してください。と願いしました(2日半も前に)何故、
まだして下さってません?お返事ください。
私は、今日、会社ですがそれを見届けるまでいけません。

1101トキ:2012/08/10(金) 09:55:59 ID:8rpDHx/w
>>1100

 見落としました。申し訳ありません。既に削除終了しております。
行き届かず、すみませんでした。

 なお、削除要請は気がついたら直ぐに行いますが、日曜日や深夜、早朝を
除いて、昼間だと2時間以内に削除しますが、掲示板上で見落とす場合があり
ます。その場合は、お手数ですが、再度、削除要請をお願いします。

トキ

1102トキ:2012/08/10(金) 10:22:52 ID:8rpDHx/w
謹告

 今回、管理人が行き届かず削除が遅れて投稿者様にご迷惑をおかけしました。
深くお詫び申し上げます。

 つきまては、誠にお手数ですが、ご本人もそうですが削除要請に気がつかれた方が、
管理人へ連絡を頂ければ、見落とし防止のため、助かります。

tokirijicyo@yahoo.co.jp

 なお、削除要請は、本人確認ならびに削除手続の公正のため、掲示板上に投稿でお願い
する形式には変化はありません。

 では、宜しくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1103復興G:2012/08/10(金) 18:25:40 ID:xKxowNU.


<第5回 WEB誌友会 予告>

・《日時》 8月10日(金)夜 9時30分より
     8月12日(日)夜 11時30分まで(50時間)

・《場所》 WEB誌友会板

・《テキスト》 『生命の實相』第1巻「實相篇」(光明の真理)
第3章 あらゆる人生苦の解決と実例 【頭注版P77〜112】

――以上の要項で、まもなく開催となります。

それで、以下に、そのテキスト(『生命の實相』第1巻「實相篇」(光明の真理 第3章)を、14回に分けて謹写掲載させていただきます。

WEB誌友会にご参加の皆様、どうぞ以下のテキストご文章より、感銘を受けたところや疑問を感じたところを部分的にコピペして意見を投稿する・・・などにご使用ください。

1104復興G:2012/08/10(金) 18:27:05 ID:xKxowNU.

<第5回 WEB誌友会用テキスト 1>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(1)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

  第三章 あらゆる人生苦の解決と実例

   光の子とならんために光のある間(うち)に光を信ぜよ、われは光として世にきたれり。(『ヨハネ伝』第十二章)

 皆さんが「生長の家」の説くところを読んだり「神想観」を実修したりして、神の子たる自己の生命の実相に触れ、真理をさとって病気(その他の人生の凡ゆる不幸)が治るのは、他の類似の治療法のおよびもつかぬ根本的な治療であります。なぜなら、それは自己の生命の実相が自覚されてくるにしたがって、本物でない、ウソの、仮の、迷いの、実際はありもせぬのにあるようにみえているいろいろのあらゆる人生苦が、あたかも光が輝き出せば闇が消えてしまうように消えてしまうからであります。

 他の治療はすべて、毒をもって毒を制するとでもいいましょうか、無明(まよい)をもって無明を征服するとでもいいましょうか、ともかく一つのまちがった信念――たとえば、病はあるという信念――を、他のまちがっている信念――物質(薬)が生命を補うという信念――によって破壊する方法であります。病があるという信念よりも、薬が生命を補うという信念の方が強く働けばこれで病気はなおるのであります。

       生命みずからで治せ

「薬が生命を補う」という信念で病気が治るのは、いっけん、非常に結構ではあるけれども、同時にそれは逆に生命は薬によって、補填しなければ完全ではない――という消極的信念を喚び起こすことになり、自己の「生命」それ自身の完全性の自覚をそれだけ弱めることになります。自己の「生命」に対してその完全性を自信することができなくなったが最後、その人はもはや物質の奴隷または家来であって、物質によって生殺与奪の権を握られている悲惨このうえもない人間になるのであります。それでは霊的療法なら他の霊力ある人に頼って治してもらってもよかろうといわれる方があるかもしれませんが、それは薬物療法でも霊的療法でも結局は同じことであって、自分以外の他の物に頼らねば自分が自分を治す力がないという信念をつぎこまれるということは、しょうらい自己の「生命」が生長の本道をたどってゆくうえに重大な障害となるのであります。

 で、私は皆さんはむろんのこと、皆さんの知人のかたにも、「みずから起て。生命みずからで治せ。何ものにも頼るな」の一点張りで押し通したいのであります。「生命」みずからの力で自分自身を治すことができるならば、なんの弊害もない、弊害がないばかりか、治すたびごとに「生命」自身の霊妙な力についての自信ができてくるのであります。

       真理はなんじを自由ならしめん

「生命」自身の力で治すには「生命」とはいったいどんなものであるかということを知らねばなりません。表面の心で知るだけではなく、奥底の心で知らねばなりません。「生命とは神の子である」――一言にしてこういえばなんでもないけれども、なかなかこの真理が本当にわかる人が少ない。本当にこれがわかれば自分で自分を治すことができる。病気だけではなく境遇でも運命でも自分で治すことができる。治すのでなく、真理を本当に知ったときひとりでに治っているのである。つまり、キリストのいった「真理はなんじを自由ならしめん」とはこのことであります。釈迦のいった「大覚(さとり)をうれば因縁を超越してしまう」とはこのことであります。「真理を知る」というのも「大覚をうる」というのも、ひっきょうは自分の生命の本質すなわち実相を知ることで、これができれば因縁を超越して完全な自由がえられるのであります。その人は因縁を超越しますから、物質的な原因結果に束縛されるようなことがけっしてなくなる。遺伝がどうの、体質がどうの、冷たい空気がどうの、固い食物がどうの――そんなことに縛られないで「生命」それ自身の本質の完全な状態――すなわち「真の人間」が表に出てくる、そのときすなわち病気が治ってしまうのであります。
<つづく>

1105復興G:2012/08/10(金) 18:28:04 ID:xKxowNU.
<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 2>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(2)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 真理を知って病気がなおるのは、恐怖心と不安とが去って、精神的に安心かできるからであろうから、神経的な病気は治っても実質的な病気は治るまいと思われる方がありましょうが、それは物質とはいったいなんであるかを知られない方のいわれることであります。前章の「近代科学の空即是色的展開」にもちょっとのべておきましたように、物質の分子と分子との間はけっして密着しないで非常な距離が隔たっており、その間隙には無形の知性ある精力(エネルギー)があって、その物質を一定の形に維持しているのであります。肉体という特殊の物質にあっては、とくに密接にわれわれの心のはたらきが、物質に一定の性質を与えているところのこの無形のエネルギーを支配しているのであります。だから心の働き一つで肉体という物質の形や質や化学的成分までも変わるのであります。「金光教」では「理解」といってお道がわかれば自然に病気が治るとされています。「天理教」ではあらゆる病気はそれに応ずるそれ相当の心のさわりがあるからで、その心のさわりをとるようにすれば病気は治るものとされています。また実際これらの宗教では多くの治った例をもっているのであります。金光教や天理教を引き合いに出すと迷信くさいといわれる方には、最近科学の精粋たる精神分析を引き合いに出せばよいでしょう。多くの病気は、心から曇りを吐き出して掃除してしまえば薬も霊術もなしに自然に治るのであります。心の中から曇りを吐き出すことを精神分析学では観念洗浄といっていますが、宗教では「懺悔」といっている。「懺悔」すると病気が治る。なぜ治るかといいますと、「懺悔」して心の中の五目多を放下(ほか)してしまうと、「生命」本来の健全なる実相があらわれてくるからであります。

 ともかく、「生命」の素地を出すように磨きをかけさえすれば、「生命」が本当に完全な相(すがた)をあらわしてくるのであります。『生長の家』のように真理を書いた書物を読むということはその一つの方法であります。「神想観」によって「生命の実相」を観ずることも一つの方法であります。クリスチャン・サイエンスの創始者エディ夫人はその晩年にはみずから病人に治療をしないで、「私の著書を読め、真理があなたを治すでしょう」といったそうであります。それでじっさいエディ夫人の著書を読んでたくさんの病人が治っているのであります。

 最近ではユニティ協会という新しい実践キリスト教団の書物を読むだけで病気その他の不幸が消滅している事実もあり、われわれはユニティの出版物を要約して『人生の鍵シリーズ』(全五巻)として別に紹介しているのでありますが、クリスチャン・サイエンスやユニティはキリスト教の聖書のほかに典拠をもとめないが「生長の家」は仏典にも、日本古典にも、最近の電子論、スピリチュアリズムにまでも典拠をもとめて、古い人にも新しい人にも、またいかなる宗派の人びとにも、真理がみずからの宗教として悟れるように説いてあるのであります。真理はキリスト教のみにあるのではありませんから、一つの真理をクリスチャン・サイエンス(キリスト教の真理)として説くことも結構ですが、同時に仏教の真理、または日本古神道の真理としても説くことも必要であります。そうでないとキリスト教以外の多くの人々を救うことができないのであります。これがわれらの万教帰一的立場であって、説くところの真理は一つであるけれども博引傍捜どこからでも真理を引っぱって来てそれの自覚に入らせる道を講ずるのであります。その点において「生長の家」は非常に自由なのであります。つぎに本を読むだけでも、真理を悟れば、いかに各種の難病が治るものであるかの実例を示して、病気の本来「無」なることを明らかにし、病気で悩める人々への励ましとするために、試みにエディ夫人の著書の中から面白い治験例を引用することにいたします。
<つづく>

1106復興G:2012/08/10(金) 18:28:56 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 3>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(3)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 真理の治験例―1 わたしは多年の間、癌と肺結核とのために苦しんでいました。わたしはニューヨーク、ミネアポリス、ダリュース等、各地の名医という名医をたずねて診察をこうたけれども、けっきょく不治症との宣告を受けたのでした。肺結核にかかっていた近隣の人が本を読んで治ったというので、その人が深切にもわたしにエディ夫人著の『真理と健康』という本を貸してくださった。わたしはそれを読んで興味を覚えているうちに、早くも三ヵ月にして癒されてしまったのです。この書がわたしに伝えてくれた真理がわたしを癒してくれたのでした。ただに病気が治ったばかりでなく、わたしの精神状態全体が改造されてしまいました。それ以来十一年間というもの、わたしは一日も病床についたことはありません。この期間にわたしはずいぶんいろいろの体験に接しました。幾多の火のような試煉をも通過しましたが、この恵まれた真理がわたしをしてそれに耐えさせてくれました。時にはわたしはただ一人で誰もわたしに味方してくれる者がないと思われるような時もありましたが、神が常にわたしと偕にいてくださいました。

 わたしはここに無痛分娩の実例を書いておきたいと思います。それは、わたしがこのアイダホに来てからの体験です。このわたしの体験はこの種の「真理の治験例」を求めていられる愛姉たちの励ましとなると思うので書かせていただきます。ここでは手助けをしてくれる人がありませんので産褥につく時まで家事に従事していましたが、完全に健康でした。或る朝、午前五時にわたしは良人を起こしました。午前五時半にはもう子供が生まれていました。わたしと良人とのほか誰も産む時にはいなかったのです。生まれた子供をかかえて暖炉のそばの椅子にかけているわたしを見て家族のほかの者はびっくりしました。息子が朝食を運んで来てくれましたのでウンとわたしは食べたものです。昼食にはもう食堂に出かけて皆と一緒にたべました。第二日には室内を散歩し、第三日には庭園を散歩し、それから、最近まで三年間ズッと健康でとおしています。これまで常に産科医のやっかいになって苦しみとおしてきたお産の経験あるわたしには奇跡のようなことです。真理を求めていられる愛姉たちにこれが参考となることを祈ります。(アイダホ州、リュースイストン市、F・C・C夫人)
<つづく>

1107復興G:2012/08/10(金) 18:29:52 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 4>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(4)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 真理の治験例―2 九年前のことです。わたしのひとり子は生死の境をさまようていました。ボストン市きっての名医は不治の宣告をくだして、もし死ななくても生涯病気に苦しみまたちんばになってしまうだろうといいました。禁食品が多くて食べ物の種類はきわめてわずかに限られていました。注意に注意を加えていましても半日に一度は痙攣(ひきつけ)を起こしました。子供はまた佝僂(くる)病にもかかって手足の骨が曲っていまして、医者はこの子供の身体には普通人の骨はないのだといいました。

 わたしがはじめてクリスチャン・サイエンスのことを知った当時は子供が苦しんでいる最中で、わたしが失望の暗黒のどん底に沈んでいる時でした。救いの神のみ手が、或る人を通じて、神の真理が現代に演じつつある奇跡をきたりて見よ、という福音をわたしにもたらしてくれたのでした。わたしは自分の子供を助けることができるためならばどんなことでもしたいと思っていたところでしたから、さっそくその招きに応じたのであります。やがて金曜日の夕方、はじめてわたしはクリスチャン・サイエンスの集まりに列席しました。毎週のふつうの礼拝日であるにかかわらず、礼拝がはじまるまでに席はすっかり一杯になっていましたのでまず驚いたことでした。その席で、いろいろ病気の治った体験談をききました。……翌日治療をしてくださる先生のお宅をたずねましたが、あまりに諸方から患者に招ばれていらしってお目にかかることができませんでした。わたしは前夜聞いた治病の体験談のうちに単に『真理と健康』の本を読んで治ったという人々の話を聴き、この本を一部借りたいと思いましたが、この書を借りることが友だちにとってそんなに犠牲を払わしめることだろうとは夢にも思いおよばなかったのであります。ところが友だちにこの本を貸してくれといいますと、その友だちはまるで自分の生命に別れでもするようにその書と別れることを惜しみながら貸してくれたものです。

 わたしは家にかえってこの書を昼も夜も読みました。黙って読んだり、声をあげて読んだりしました。わたしにはこの書はむずかしくて十分わからないような気がしました。しかしさっそく「真理の療能」があらわれはじめました。痙攣で苦しんでいた子供が常態に復して、すぐ病床から離れて、他の子供と同じように家の周囲を跳び廻って遊ぶようになりました。ちょうどその頃、米国西部へはるばる移転せねばならぬような事情が突発しました。

 まだ「真理の道」に入って間もないわたしのことです。良人はこの旅行で子供の病気が後戻りをしないだろうか、と心配しました。しかし子供はますますよくなって行きました。わたしは間断なく聖書と『真理と健康』の真理の治験例などを読みました。われわれは二週間の汽車旅行で、汽車に酔わない人といってはただわれわれ家族の者ばかりでした。子供の手足は完全にまっすぐになってしまいました。子供は欲しいものはなんでも食べることができるようになり、それいらいもう数年間、どこも不足のない壮健な子供として暮しています。付近に激烈な伝染性の小児病がはやった時も彼は少しも感染せずにすみました。わたしは数ヵ月間自分自身の多くの持病をかえりみる余裕もなしに『真理と健康』の本を読みつづけました。わたしはがんらいあまり強壮ではなかったのです。医学の法則と遺伝の法則とを信じて不健康な生活をたどたどしく送っていたのです。わたしは『真理と健康』を読みはじめるちょうど前日、ボストンの有名な眼科医に眼の診断を受けました。眼科医はわたしの眼がひどい状態になっていると診断して、生涯眼鏡をかけていなければならないといったのです。そのうちに『真理と健康』を読み始めたのでしたが、自分の眼に気がついたときには、眼鏡の必要がスッカリなくなっていました。この本を読んでいる間中わたしは夜となく昼となく眼を酷使し、いろいろ細い手仕事をも眼鏡をかけずにしたものです。子供の病気をなおしたい一念で真理の本を読んでいますと、わたし自身の病気も全部なおってしまったのです。外にあらわれた病気はただ破壊されんがためのみに表面に浮かびあがってきたものでした。歯痛も起こらなくなり、知らず識らず顔の斑点(しみ)までとれてしまいましたが、こんなことはわたしのえた魂の向上に比べればとるにたりない小事です。わたしは感謝に満ちた心で一切のものを受けています。(カリフォルニア州ロスアンゼルス、M・T・W夫人)
<つづく>

1108復興G:2012/08/10(金) 18:31:21 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 5>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(5)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 真理の治験例―3 ながい間わたしは耳と咽喉との病気に苦しんで、英国でも米国でも専門家の治療を受けましたが、少しもよくならずに悪くなる一方でした。ところがクリスチャン・サイエンスで治ったある人から『真理と健康』の本を買って研究するようにすすめられました。最初、わたしはいやいやながらに買ってみたのですが、五十ページも読んでいるうちにわたしの魂を解放する真理を発見したように感じました。それ以来わたしの病気は拭うようによくなり、二度と再発しなかったのであります。

 先日、三歳になるわたしの娘が誤って肩の関節を脱いたのであります。その時家にいるのはわたしばかりでした。娘は激しく痛むので顔色は蒼白(まっさお)になっていました。わたしは極力心霊治療をやってみましたが、一方では誰かが来たらすぐ医者へ駈けつけてもらおうと思っていました。彼女はますます苦しみ激しく泣き叫びました。わたしは幼女の着物をぬがせて関節をはめこもうとしました。しかしそれは患部の痛みを増させるばかりなのでわたしはとうとう恐ろしくなりました。その時きらめくように、「お前は治療家がそばにいないときにどうしたら好いか考えよ。今この神の力と実在とを実証すべき時ではないか?」という考えが浮かびました……。わたしは『真理と健康』の本を声高に読みはじめました。半時間もすると幼女は脱けた方の手を上げようとしだしましたが、また痛そうに叫んで顔を蒼白にしました。わたしはまた声高に読みつづけました。するとこんどは幼女はお菓子を口のところへもってゆこうとするのです。なんと嬉しいではありませんか、脱けた方の手がほとんど口のところまで届いても痛みがないのです。わたしはなおも『真理と健康』を読みつづけていますと、わたしの妹が子供の二人の兄をつれて帰って来ました。幼女は兄弟が帰って来たのを見るとすっかり手の痛みを忘れてベッドから走り出て「わたしは腕をぬいて痛かったの。だけどお母さんが本を読んで治してくださったわ」と申しました。この出来事は午前十時から午後三時までのことであります。それきり幼女は何事もなかったように列で遊んでいました。(ウインペッグ市、W・G夫人)

 以上は病気についてのクリスチャン・サイエンスの治験例でありますが、次には「生長の家」で、癒されて健康と運命を改善せられた実例を、皆さんの信念を強めるために申し上げようと思います。月刊の『生長の家』誌には毎号この種の実際の礼状がのっていますから、それもあわせてお読みください。
<つづく>

1109復興G:2012/08/10(金) 18:32:09 ID:g6nDEgV2

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 6>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(6)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       心の力で椎骨は調整しうる

 先日、岐阜の一読者からこういう手紙が来たのであります。「自分は数年来強度の顔面神経痛にかかって夜も眠られないほどの苦しみでありますが、あらゆる医療という医療、あらゆる治療法という治療法を試みたけれども、寸効もなく失望しています。近ごろある透視家に診てもらったところが頸椎骨に物理的の狂いがあるので、それを物理的に治さないかぎりはこの神経痛は治るものではないといいます。しかし当方は田舎でそんな椎骨を治す医者はないのです。御地付近に椎骨の矯正をする名医があれば知らしてください」というお尋ねの手紙です。わたしはさっそく、神戸のカイロプラクター桜井某と、東京にある某々椎骨矯正医二名の住所を知らしてあげ、それにつけ加えて、「あなたが物理的にその病気を治そうと思うならばこれらの人たちにかかってみてください。それも一つの方法です。しかし真理を申せば、物質はそれ自身において痛みを感ずる力はないのです。だから痛みを感ずるのは『念』です。『痛いと思う念』が痛みを感じているのです。『念』から『痛い』という思いをとってしまえば痛むものではありません。ところが、心はこれ『生命』のはたらきであって、『生命』は神から受けたものですから完全であって病気になるものではありません。病気だと思う『迷いの念』が、痛むはずもない物質の肉体を痛むように思わせているのです。椎骨の脱臼ということをこのごろだいぶやかましくいいますが、椎骨と椎骨との間には伸び縮みの自由なゴムのような靭帯があって、それが椎骨を一定の位置にたもっているのです。その靱帯が一方へ痙攣(ひきつ)けて不平均でいれば椎骨が脱臼しているのです。この靱帯というものは物質だから、自分自身の力では一方へ痙攣(ひきつ)ることはできないのです。もしそれが痙攣っているならば、あなたの心がこれを引きつらせたのです。あなたの心が引きつらせたのならば、あなたの心が健全に帰れば靱帯の不平均な一方への痙攣も治りますから、椎骨の脱臼も治ります。もし心で病気を治そうとお考えになるのでしたら、『神想観』を実修して神との一体感に完全に精神が統一したとき『自己の生命は神の子であって病気になるはずはない。そして物質には心がないから痛みを感ずるはずがない。痛みは迷いである』と繰り返し繰り返し念じてごらんなさい、きっと治ります」と書いてご返事を差し上げたのであります。この方が神想観の実修をされたのは六月二十日からであります。二十日から五日間はこちらからも「祈り」と「思念」とを送ってその実修をおたすけし、あとはその方の自修にまかせておきましたところ、翌月の五日出の葉書には、「おかげさまで昨今では数年にわたる難病もほとんど全快しました」という快報が来たのであります。「神想観」を実修せられてからまだ半月しかたたないのに、「生命の実相(ほんとのすがた)の自覚」さえ行なわれれば、数年間不治の難病でもこんなにすみやかに治るのであります。

 こんなにもたやすく病気は治るものであるのに、医学が進歩しいろいろの物質的薬が発明せられてくると、かえって病気がなおらなくなるのみか、新しい病気が続々と殖えてくるのは、医学が進歩すればするほど、「生命は神の子だ」という信念がいよいよますます稀薄になってゆくからであります。薬物に対する信仰が高まれば、「生命」に対する信仰、自己の「神性」の自覚はだんだん薄まるのであってこの二つはけっして両立しないのであります。だからできうる限りわれわれは、薬物その他の物質的方法に頼ることをやめて、「生命」の霊妙性を自覚するように努め、これによって、「生命」それ自身の力を発現せしめて病気を治すようにしたいものであります。

 生理学者は人間の筋肉には随意筋と不随意筋とがあって、随意筋は自分の心で思うように動くけれども、不随意筋は自分の心では随意に動かすことができないといっているのであります。しかしこれはただ表面そう見えるだけのことで、心で動かない肉体組織はないのであります。骨の位置を定めている靱帯でさえも、前述のように心に真理を自覚すれば正しい位置にかえるのでありまして、胃腸や心臓の運動が心の力によって正しくなったり不整になったりするくらいはあたりまえのことであります。
<つづく>

1110復興G:2012/08/10(金) 18:33:13 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 7>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(7)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       体温計が麻痺症を癒す

 心の作用は実に微妙なもので、信じて「治る」と思えば、どんな治療法を使おうが、どんな薬を使おうが治るのであります。治らないのはその信じ方がたりないからであります。もうだいぶ古い話でありますが、アメリカにサー・ハムプリー・デビーという医者がありました。そこへ一人の麻痺症の男がやって来て治してくれというのです。麻痺のために腋の下に体温計をはさみにくいので、体温計を口に入れさせて、体温をはかってみたのであります。かなり古い出来事であって、患者はこれまで体温計というものを口へ入れて検温するという経験がなかったので、これはテッキリ口へ入れておけば病気が治る機械だ、と信じて思い違いをしたのであります。この機械に対する信念が強かったものだから、その体温計を口から出すころには、さしもの麻痺症が治ってしまっていたので医者も驚いたのであります。

 クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は普通の食卓塩を水に薄めて、ぜんぜん塩からくないようにし、その稀薄な食塩水をいかにも高貴薬のように一杯のコップの水に一滴たらし、その水を三時間ごとに茶さじ一杯ずつ、末期の腸チフス患者に与えてとうとう病気を治したという実例を発表しています。「鰯(いわし)の頭も信心から後光が射す」という言葉がありますが、それと同じことで体温計でも、食塩水でも、蒸溜水でも、信仰さえすれば病気が治るのであるとしましたら、何も自分の貴い生命以外のものを信仰する必要はないのであります。自分の「生命」を信仰し、神の子としての自分の「生命」の貴さを自覚し、これによって病気を治すことにしたならば、人間というものが物質にひざまずいて、どうぞ治してくださいとほかの物に頼む必要がなくなり、同時に自分の「生命」がどんなに霊妙な全能なものであるかということがわかってきますから、こん後病気を怖れなくなるばかりでなく、処世上にもあらゆる点において、この自己生命の強い生きる力の自覚が大いにわれわれを裨益(ひえき)してくれるのであります。

 さきほど、私は肉体は物質であるから痛みを感ずるはずがないと申しました。厳密にいえば心のない物質はないのでありまして、物質がある形をあらわしているというのは、心が背後にあって、物質にそういう形を現わさしめているのであります。で、「物質には心がない」と前にいいましたのは、普通人が考えているところの「物質」というものはこんなものだという概念をまずひきあいに出してきて、そんなら肉体は物質だから痛みはないはずじゃないかといったのであります。この肉体の痛いと感じますのは心があって痛いと思うから痛いのであって、心がなければ痛いとは感じないのであります。たとえばちょっと熱い湯がかかれば、われわれの皮膚は赤くなって、しまいには水泡(みずぶくれ)までできてきますが、死骸にちょっとぐらい熱湯をかけても赤くもならず水泡もできないのであります。死骸はいわゆる「心」がないから、本当にクラクラ沸る湯の中へでも入れて本当に物質的に変化を起こすほどの時間煮なければ色が変わるようなことはないのであります。ところが生きているわれわれは、ちょっとした熱湯をあびてもスグ皮膚の色が変わり爛(ただ)れて来たりすることがあるのであります。これは熱湯をあびたから火傷をするに違いない、皮膚が赤くなって水泡ができるに違いないというわれわれの心の信仰が肉体の形や色に変化を与えるのであります。だから「熱い」という観念、「火傷(やけど)をする」という観念をわれわれの心のうちから取り去ってしまうと、炎の中へしばらくぐらいは手を突っ込んでも、焼け火箸を手でしごいても火傷をしないでいることができるのであって、これは御嶽教行者の「火渡りの術」などにも見ることができるのであります。
<つづく>

1111復興G:2012/08/10(金) 18:34:42 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 8>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(8)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 そんなら「熱い」という観念、「火傷をする」という観念をとり去ってしまったら、火の中へ数時間坐っていても焼けないかと申しますと、そうはまいらないのであります。これは「火の中に坐っていれば焼ける」という人類全体の信念の力が、火中に坐っているただ一人の「焼けない」という信念の力に打ち勝つからであります。この人類全体の信念を人類意識(race consiousness)といいます。われわれがこの人類意識の外に超出しえない限り、われわれはその影響を受けるのであります。昔、ある名僧は「心頭を滅却すれば火もまた涼し」といって、炎の中に坐って、熱いという考えを心から除(と)り去って、ぜんぜん熱いともなんとも思わずにいたけれども焼けて死んでしまったのであります。江間式心身鍛練法の講習などをみると、刃渡りの術といって、抜き身の刃の上を跣足(はだし)で歩く修行をきせたりしますが、この術を受けても必ずしも身体が鉄のように固くなって、どんな剣も槍もその肉体にとおらなくなるというのではありません。この刃を上向きに並べた抜き身の上をわれわれは誰が歩いても力が平均にかかれば足の裏は切れるものではないのであります。このためにこの実験に使う刀は刃を両方から研いでつけてあるのであって、片面研ぎのものを使うとこの刃渡りの術はできにくいのであります。この力が平均に、片よらないで相手に向かうということが江間式に限らずいろいろの霊的修行の中心になるのであって、心に恐怖心ができれば、どこかにスキができて、本来なら自分が傷つかないのが当然であるべき相手にぶつかっても自分を傷つけることになるのであります。

 ところがたいていの人は心に恐怖心があるために、本当に皮膚や肉が煮えてしまうほどの熱さにあわなくても火傷や火ぶくれができるのであります。砒素(ひそ)のような毒薬や硝酸のような劇薬ならいざしらず、一般の人間がおよそ普通に食べている食物なら、これは人間が神から与えられているのですから、それを食べたからとて本来なら胃腸を害するなどということは決してないのであります。しかし胃腸病の患者にかぎって、あれを食べると胸が焼けるの、これを食べると下痢するのと、しじゅう恐怖心で食べ物の小言ばかりをいっていますから、ますます言葉の力で食物に対する恐怖が強くなるのであります。この恐怖のために自分の心が相手の食べ物に対して平然として片よらないで立ち向かうことができない。そのために消化液の成分にも片よりができて胃酸が多くなったり、ペプシンの分泌が少なくなったりして、食べた物が完全な消化をえないで腐敗することになるので、これが胃腸病の本体であります。それはちょうど、踏んでいる足の力が平均に刀の刃に立ち向かわなかったら足の裏が切れるのと同じで、本来なら傷つかずにすむべき胃腸がまず食べ物に「気合い負け」して、食べ物に傷つけられることになるのです。

 クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は砒素のような毒薬を飲んでそれで人間が死ぬのは砒素という物質の力が人間を殺すのではない。砒素を飲んだら死ぬという人類の信念が人間を殺すのだ、とまで極言しているのであります。「それなら毒殺せられる人や、毒と知らずに食物をたべて中毒するような人は、心でそれが毒だと信じないで死ぬではないか」とエディ夫人に反問した人がありました。するとエディ夫人は、「毒と知らずに食べた人やその周囲の数名は毒だと思わなかったかもしれないが、人類の大多数の腹の底に隠れている信念が、それを毒だと認めているから、大多数の人類の信念が合併して実に大きな信念となって、その信念の力によってそれが毒となって、それを飲む人を殺したので、物質そのものには決して人を殺す力などはないのだ」と答えたのであります。

 このエディ夫人の答えはなかなかおもしろい答えであります。人間というものが、本来「心」であって「物質」でないならば、物質が人間を生かしたり殺したりするということはできないはずであります。「心」は「心」自身のはたらきで生き生きとしたり、弱ったりするほかに生きる道も死ぬる道もないのであります。また人間というものが本来「心」ではなくてその本質が物質であるならば「心」のない物質には生きるも死ぬるもないのですから、それではぜんぜん問題にはならないのであります。
<つづく>

1112復興G:2012/08/10(金) 18:35:31 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 9>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(9)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 それで、こういうことが解るのであります。物質がわれわれを治したり、殺したりするのは、第一、人間というものが「物質」ではなく「心」でできている生命であるということ。第二、物質というものは色や形や特有の性質をもっているように思われるけれども、ほんらいそんなものは無であること、すなわち『般若心経』にも説いてあるように物質の色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)等の諸性質はすべて無であって、ただその背後(うしろ)に個人の信念、または人類の信念という「心」の作用が働いておって、この信念の力が人間という「心の生物」を治しもすれば殺しもするということであります。

 つまり人間は物質という死物でないからこそ生き死にがあり、物質だと思っていたものも、その実は「信念」(ひろくいって「人類意識」または「宇宙意識」)が仮に形をあらわしたものであるから、人間という心的存在に関係をもちうるということになるのであります。それでわれわれは人間と薬との関係を、物質と物質との関係のように思っていたのが誤りであることがわかり、人間と薬との関係は「心」と「心」との関係、意識と意識との関係であることが覚られるのであります。

       大乗仏教の神髄

 物質は無い! 何という大胆きわまる宣言でありましょう。しかしこの真理こそいつの時代にも大切であって、この真理がいよいよはっきりするにしたがって人間は本当の自由がえられ、自己の霊的自在性が完全に発揮されるのであります。釈迦は三千年前にすでにこの真理を明らかにせられた。「物質は無い!」色即是空だ。大乗仏教の経文の中心となっているのは、この五字の真理につきるといってもよいのであります。しかし釈迦は相手しだいでいろいろの方便をお使いになったらしく、薬を欲しがっている病人には薬をやって病気をお治しになったということも経文には出ているのであります。信仰さえあれば体温計であろうがボタンであろうが、口に入れさせておけば病気は治るのですから、釈迦は物質を仲介にして病人の信仰を喚起して治されたものとみえます。だからわれわれも決して薬剤を排斥するものではありません。

       キリスト教の神髄

 キリストになると病気や薬に対する態度はいっそうハッキリしているのであります。キリストはどんな病気でも難病だといわれたことはない。キリストにとっては、病(物質)は無いのだから、病に重いも軽いもないのであります。弟子が難病者の病気を癒しそこなって帰って来ると、「おお、なんじら信仰薄きものなるかな」と彼は嘆じているのであります。これは病の治ると治らぬとは「病の物質的軽重にあるのではない。信仰の深い浅いによるのだ」という意味であります。キリストは病の軽重をみなかったばかりでなく、死をもみなかった。ラザロが死んでいるのをみても「死せるに非ず、眠れるなり」と断言した。この断定的な信仰の言葉によってラザロは肉体的にも復活してきた。これをみても肉体は信念の影だということがわかるのであります。またキリストは誰にも薬を処方してあげられたこともなければ、食養法を説かれたこともなく、あべこべに、「なんじら何を食らい何を飲まんと思い煩うことなかれ」と切言せられているのであります。

 ラザロは万人の目からみて現に死んで数日たつのに、キリストにとっては、「物質は無い!」のであるから、死んで腐りかかっているラザロの肉体などは心の目に触れなかったのであります。彼はラザロの霊なる「真の人間」(real-man)を見た。神によって造られたる神の子たる「神人」(God-man)を見た。「真の人聞」「生命の実相」「神人」を認めることによって「真の人間」が現象的にもノコノコ立ち上って動き出した。これがラザロの復活であります。
<つづく>

1113復興G:2012/08/10(金) 18:36:23 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 10>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(10)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       重症胃腸炎癒ゆ

 神癒の骨髄となるのは「真の人間」たる完全なる「神人」を自分において観るとき自己治療が行なわれ、相手においてみるとき他人治療が行なわれるのであります。

 生長の家発祥当時、朝鮮の支部のお世話をしてくださった池田房治さんは、そのころ支部はこしらえてくださるし、集まった誌友の名前は知らしてくださったけれども、なんら支部としての活動を開始してくださっているような様子がなかった。それで支部をこしらえてくださった以上、支部としての実力を備えておいてもらわねばならぬと思いましたが、遠方であって来ていただくのも大変でありますので、朝鮮にいられるままで「神想観」を五日間実修してもらうことにし、こちらから祈りと思念を送って、それを助けることにしたいといってあげたのです。すると池田さんからの返事に「実は生後十一ヵ月になる自分の子供が重症胃腸炎で、四十日間も赤十字病院に入院しているけれども少しも快方におもむかないし、自分としても手をつかねて見ているよりほかに手をくだす力もなく困っているさいであるから、仰せにしたがって『神想観』を実修し自分の霊力がどれほど出るか試してみたいと思う」との返事であります。それでさっそく、実修の時間を定めて「神想観」の実修をしていただいたのであります。すると数日後「五日間の実修を指導せられたことを謝す。昨日子供は病院を退院させました」というハガキが来たのであります。それでは、池田君は子供を病院から引きとってこれから自分の「神想観」の癒す力を試す考えであろうと察していたのであります。ところが、それから一ヵ月ばかりも便りが池田君からは来ないのであります。では、やはりまだ子供が悪いので知らせるのも気の毒と思って、なんとも便りがないのであろうなどとも思いましたが、そんなはずはないがなあ、という気もするのであります。すると一ヵ月後、その池田さんがとつぜん朝鮮から「生長の家」出版部へたずねて来られた。で、「坊ちゃんのご病気はどうです?」とたずねると、「あれから急によくなりまして、いまでは元気です」と答えられる。「それでは手を按(あん)じて、祈ってあげられましたか?」ときくと「実はまだそれをやってみないのです。やってはみないけれども、わたしが神想観の実修を始めると同時にメキメキ快くなって、もうわたしが手を按じて祈る必要がなくなったのです。神想観をやると実に自信がでますね。実はこんど郷里の母が病気で悪いというので、なんだか自信ができたようで治してみたいと思って帰って来たんです。ところがわたしが帰郷すると急に母がまた元気になって食欲が進んできて、またこれも手を按じて祈る必要がなくなっているのです」などと答えられたのであります。

 イエスが手を按じて祈ったということは聖書のところどころに出ていますが、神想観にて実相を観じて病気を治すには、手を按ずるということは必須のことではないのであります。手を触れず按ぜずに病人の前で「神想観」をやっているだけでは、病人自身にとってはなんだか頼りない気がするだろうと思って、手を按じて思念してさしあげてもよい場台かありますが、このごろのように「手のひら療治」や触手的治療法がはやるときには、手を按じない方が混同されなくてよいのであります。手のひらという物質で治るのなら物質治療であって超物質治療(メタフィジカル・ヒーリング)ではないのであります。ただ神想観によっておのずから自分または病人の生命の実相たる「神人」が輝き出すことによって病気が消滅するのであってこそ、メタフィジカル・ヒーリングであります。ことに池田さんの場合のように子供がまだ乳のみ児のような場合には、その子供はまだ独立した人格ではなく親の人格の一部分たるにすぎないのですから、親が自身で神想観をするか親の心をこっちから神想観で治せば、子供の方は放っておいてもよくなるのであります。

 相手にある「神人」を、こちらからハッキリと観ずれば、相手の病気が治るばかりでなく相手の人格などもすっかり変わってくるのであります。「神想観」を病気治療法だと思っていられるとまちがいであります。病気が治るのは、ただそのごくごく随伴的の功徳にすぎないで、神想観の功徳は実に宏大無辺、性格でも運命でも境遇でも、この「神想観」によって改善されてくるのであります。
<つづく>

1114復興G:2012/08/10(金) 18:37:07 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 11>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(11)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       家庭改善の実例

 こんな面白い実話があります。アメリカのウイスコンシンに不幸な家庭があった。家庭がどうも思わしくゆかないので、もう明日にも夫婦別れをしなければならないようになっていたのであります。熱心な信仰家があって、その気の毒な奥様をたずねて言うには「あなたは初めからいまの旦那様をお好きじゃなかったのですか?」「いいえわたしたち結婚した当時は愛していましたの。」そこで、この信仰家が言うのに「神様は人間を神の子として完全な神人にお造りになったのだ。家へ帰って、あなたの肉体の良人(おっと)の背後(そのおく)にある本当の存在――神様がお造りになったままの神人を観るようになさい。いまのような放蕩無頼な良人は、良人を罪ありと信ずる信念の影であってそんなものは実は存在しないのです。本当に存在するのは影の後にある本体です。神が造ったままの人間、完全な神人があるのみです。神がいったん人間を完全に造った以上は、人間は堕落することはできない。だから堕落したようにみえるのは信念の影であって、信念を変えてしまえば『本当の、神がつくったままの、完全な神人』が表にあらわれて来るのです。五官は信念の影を見るだけのものですから、五官で今見えている有様にとらわれて、あなたの良人の本当の存在たる神人を見のがしてはなりません。帰ってこれから、あなたの信念の影なんか見ないようにしてその後にある本当の神の子たる良人を観るようにしてあげてください。」こういう熱烈な信仰家の言葉をきいて、それ以来彼女には生まれかわりが始まったのです。それ以来、いかなることがあろうとも、彼女は良人の悪いところを五官の眼で見ないことにし、心の眼で、真実存在たる実相の善い良人を見るようにしたのです。間もなく彼女の家庭には平和と愛とが復活し、和気藹々とした家庭を楽しむことができるようになったのであります。なお後に詳しく説明する機会があると思いますが、家庭の不調和が原因で肉体に病気があらわれている場合が非常にたくさんあるのでありますから、病気になった場合、自分は誰かを憎んでいないか、不平を持っていないかを反省してみて憎みを捨て、不平をなくし、すべての人を赦すようにして、人々の神の子たる実相を観て感謝するようにすると、不思議に病気が全快してしまうようになるのであります。

       就職戦に打ち勝つ

 家庭苦はなるほどこういうようにして救われるということが解りましたが、失業苦はどういうようにして救われるかという実例を申しましょう。

 北海道函館に三好さん(仮名)といって非常にまじめなよい青年があります。高等商船学校の卒業者であられますが、学校を出てもう数年間失業していられたのであります。ところが因縁によって、『生長の家』の創刊号以来からの愛読者になられた。この雑誌を読んでいると生まれかわったような明るい気持になられたのであります。「朗らかに笑って」という文句が必ずはいっている葉書の通信をば、たびたびこの青年から私は受けとったものです。葉書にさえ「朗らかな笑い」がはいっているのですから、性格も一変して明るくなられたに相違ないのであります。そこからこの方の運命がひらけてきたのであります。
<つづく>

1115復興G:2012/08/10(金) 18:37:59 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 12>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(12)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 前節には、私は真理の書籍を読むだけで病気が治ったという話を紹介しましたが、読むだけで治るのは病気だけではないのであります。本書を読んで自分の生命が神の子であるという真理が本当に理解できてきましたら、運命も境遇も徐々に転換してくるのであります。

 さてこの三好さんも自分というものが神の子であるということがわかり、根本から性格が明るくなってくるとともに、運命がこの方の上にほほえみかけてきたのであります。それまで三年間就職運動をつづけていたけれど、常にその選考に落選していた目的の会社から、人物考査の上で採否を決定するから、なん月なん日には面会するから出頭せよという通知が来たのであります。そしてもうその面会日は前途に旬日もないほどに目の前に迫っている。さすがに三好さんも心が動揺せずにはいられないのであります。試験官の前でどういって答えたらよいだろうか。どんな態度をとったら採用になるだろうか。実は自己の生涯の運命がこの人物考査のさいにとるべき自分の態度と返事いかんによって決するのだという気がされたのでありましょう。三好さんは人物考査受験にのぞむさいの注意を至急知らしてくださいという手紙をわたしによこされたのであります。

 わたしは早速神に祈って返事をしたためました。その返事の内容を簡単にいってみますとこうであります――いよいよのときになって試験官がどういう質問を発するか、その質問に対していかなる返事をしたら試験官に好印象を与えるかというようなことはあらかじめ予測することはできません。あらゆる質問の種類を列記してそれにいちいち応ずべき試験問題解答集のようなものを差しあげるわけにもゆきません。あなたが人物考査試験にパスすると否とはあなたの全体からそれとはなしに立ちのぼる雰囲気で大部分は決するものです。それから試験官の問いに対していかなる答えをすれば好いかは、あなたが神と一致したときおのずから発せられる言葉でよいのです。自分ではずいぶんばかな返事をしたものだと思うような答えが、かえって試験官に好印象を与えることもありえます。また自分にはいかにも適当な返事をしたと思うことが試験官にかえって悪印象を与えることもあります。だから、その時その時にいかに答うべきかについて思い煩うのはばかげています。キリストも弟子に教えて、なんじらいかに説教すべきかを思い煩うな、その時に口をついて出る言葉が神の言葉だ、といっています。思い煩えば思い煩うだけ自分の雰囲気を悪くするばかりです。だから何よりも恐れずへいぜんとして神に一致することが肝心です。神に一致するためには試験の当日まで毎朝夕「神想観」を実修してください。そして神と自己との一体感を深めてくだきい。ほんらい神と自己とは一体であって、いつだって離れているわけではありませんが、自分で一体感を失っているから、神と一致した行動が形の世界へ現われてこないのです。神との一体感さえ深めれば、神と一致した一言一行が形の世界に現われるようになり、あらゆる事物がことごとく自己の善を成就するように動き出しますから何も心配することはありません。だから「神想観」を実修して神との一体感を深めることが第一です。あなたが「神想観」を実修して神との一体の感じに精神が統一した時、あなたの求める事物が神からすでに与えられている状態を想像して、これをアリアリと心のうちに強く観じなさい。「求めよさらば与えられん」とはこのことです。「なんじが祈る時にすでにそれを受けたりと信ぜば、必ず与えられる」とはこのことです。神と我とは一体だとの信念が強まったとき、欲する事物を心に描けば神すなわち大宇宙の創造力が、その心に描いた状態を形にあらわすために、活動しはじめるのです。一定の時間の「神想観」の修行が終ったならば、もうそのことについて思い煩ったり、心配したり、実現を危ぶんだりしないことが肝心です。心配や取り越し苦労は逆の否定的な破壊的な想念でありますから「神想観」で、順の、肯定的な、創造的な思念をしておいた効果を打ち消すことになります。
<つづく>

1116復興G:2012/08/10(金) 18:38:46 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 13>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(13)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――まずざっとこんな意味の事を書いて三好さんにさっそく返事を送ってあげたのであります。するといよいよ三好さんの人物考査の試験日が来たのであります。すると三好さんからは、お蔭で実に落ち着いてわれながらこれでは満点だという心の態度で試験官に対することができたので非常に嬉しく思っています。十五日には採用の通知が来るはずですから、採用と決まればさっそく電報で生長の家へ知らせて喜んでいただきたい――というような意味を書いた感謝状をよこされたのであります。さてわたしは家内と一緒に、三好さんのために神に祈って三好さんが採用になることを待っていたのであります。ところが十五日になっても、十六日になっても、電報どころか、手紙も来ないのであります。私も家内も熱心に祈ってあげたのでありますし、それだけまた、一時失望が激しかったのでありますが、われわれでさえこんなに失望するのであれば、当事者たる三好さんはさぞや失望しているだろうと思うと、慰めの言葉を送ってあげなければならないという気がして、わたしは長文の手紙をまた三好さんに送ったのであります。慰めるといっても、いいかげんな、でたらめをいって一時の気休めをさせるというのではありません。われわれが「神想観」によってある事物の成功を神にもとめる場合に、その求めた事物がえられないで失望していると、こんどは求めた以上のものが他の方面から与えられることがおうおうあるのであります。これは神の知恵が人間の予想した以上のところに働きたまうからであり、迷いの自壊作用でもあります。たとえば、ある病気に対し、健康な状態を神に求めていると、かえって熱が高くなったり、痛みが増加したり、分泌物がふえたりして、いっけん病状が急激に悪くなったりすることがあります。これでは「神想観」も効力がなかったのかと思って失望していると、その病状の急変が一転機となって、驟雨(しゅうう)の後の快晴のような爽快な健康がめきめきと回復してくるのであります。クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人はこの「病状の急変」をケミカライゼーションと名付けて「これは真理の朝日が立ちのぼる前に『無明』の自壊作用が起こるのであるから、このケミカライゼーションが起こったら、あなたの病気はもう治ったと自分は病人に宣言する」とまでいっています。「神想観」によって生命の実相を観じたり、『生長の家』誌や『生命の實相』のような生命の真理を判りやすく書いてある本を読んで、病状が急激に悪変したならばこのケミカライゼーションという「迷いの自壊作用」であって、近くまったき健康の出現する前兆なのでありますから、自信をもって、やはり神想観を続けてください。そして毎日せめて一時間ぐらいは『生長の家』誌や『生命の實相』實相篇、光明篇、生命篇、萬教帰一篇等を読み、聖経『甘露の法雨』を祖先の霊前で繰り返し誦(よ)んでいただいておれば必ず急速にその病気は回復するのであります。病苦とか衰弱とかで読めない人は、看護に親しむ、身に近い人に読んでもらえば、読む人から健康の思想が言葉とともに放射されて病人に達するので回復が早いのであります。『生命の實相』は決して一ぺん読んで表面の心で解ったからそれでもう捨ててしまってもよいという書物でないのであります。幾たびも繰り返し読むほど潜在意識に深く真理がたたみこまれてきて、じっさいの治病力または運命の改善力となって発現するのであります。たいていの人は病気が急変してくるとびっくりして信仰に動揺をきたして医者に相談してみる。すると医者はその病状の急変が、病気の自壊作用すなわちケミカライゼーションだということが判らないから、書物などをこの大病人に読ませてはいけないといって読書を禁じてしまう。かかる医者の注意がどんなに病人にとって致命的なものであるかは医者自身には解らないのであります。
<つづく>

1117復興G:2012/08/10(金) 18:39:27 ID:xKxowNU.

<つづき>

<第5回 WEB誌友会用テキスト 14>

 『生命の實相』 第1巻

 《實相篇(上) 光明の真理》 

 「第三章 あらゆる人生苦の解決と実例」より(14)

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

       運命のケミカライゼーション

 これは病気のケミカライゼーションでありますが、「真理の書」を読み、「神想観」を実修しているとわれわれの運命にもケミカライゼーションが起こってくることがあります。たとえば今まで前途にみとめていた光明が急に消えてしまって暗黒になる。コロンブスがアメリカ大陸発見の時に、すでにアメリカ大陸に近づいてきたころになると、かえって船員たちが不安に思い出して、コロンブスを監禁するか海へ投げこんで、後へ船を引き返さなければ向こうに陸地なんかはない、といって希望を失い始めたのと同じことであります。このときにコロンブスも一緒になって前途に希望を失ってしまったら、現在のアメリカ大陸は世界の地図の上にないのであります。灯火の消える前は一時かえって明るいのと同じように、運命の明け方のくる前には真っ暗な真夜中がくる。けれどもこの真っ暗な真夜中はいっそう明け方の近づいた証拠なのでありますから、コロンブスのように前途を信じて確信をもって突進すればよいのであります。運命のケミカライゼーション(転機)の時には、今までよい具合にいっていた勤め先がどうも思わしくなくなったり、同僚と衝突したり、会社が潰れたり、解雇になったりすることがあるけれども、そのために見出した新職業や生活の新転換で、揚々と追い風に帆をあげて成功することもあります。それで運命にもケミカライゼーションということがあるがために、われわれにとっては人生が非常におもしろくなるのであります。運命にケミカライゼーションが起こらねば、医者はいつまでも医者、看護婦はいつまでも看護婦、会社員はいつまでも会社員、労働者はいつまでも労働者であって、転換期というものに会うことができないのであります。ただ、この転換期の暗黒期に「失望」という奴によって確信を失つてしまうと、せっかく明るくなりかかっていた運命が、自分の心の力でまた本当に暗くなって来るかもしれないのであります。生長の家の『智慧の言葉』に「悪くなるほど、善きことが近づいて来たと思え」という意味のことが書かれていますが、これは病気を治そうとする人にとっても、運命を開拓せんと欲する人にとっても、いつまでも座右に備うべき箴言(しんげん)であります。

 では、話を三好さんにもどしてこの一節をひとまずまとめることにしましょう。三好さんからは電報では私のところへ採用の通知が来なかったけれども、じっさいは望みどおりに目的先に就職がかなったのであります。というのはその二十日ばかり後、絵葉書におかげさまで長い間希望していた職業をえたという簡単ではあるけれども喜ばしげな報知をえたのであります。これなどは実に『生長の家』の反復熟読と「神想観」の実修とによって運命を開拓した一つの実例であります。
<第3章 完>

1118ハマナス:2012/08/10(金) 21:33:24 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

携帯から、投稿させて頂いています。PCの画面が見れませんので、もし不手際がありましたら、お許し下さい。

無限供給のパイプをふせぐもの

『新版生活の智慧365章』

あなたが若し無限供給の来たらんことを欲せられるならば、自己の想念によって、宇宙の無限供給の流入口をふさいでしまってはならないのである。あなたは現在あるところの収入量だけを勘定したり、現在の収益の場所、収入の財源だけを考えて、そのほかの何処からも収入の道がないなどと考えてはならないのである。宇宙は無限に広いのであって、あなたの収入が流れ入るパイプはあなたが肉眼で見ている場所のほかにも色々あるのである。

あなたは祈りの際に、その無限の供給の流れ入る無限のパイプを瞑視しなければならない。あなたの供給を遮るものは、あなた自身の「限る想念」だけである。今すぐ其の「限る想念」を取除けなさい。月給取だから、そのほかのに収入の道がある筈はないなどと云う考えを捨てなさい。みずからを「限る」ものは、限っただけしか得ることができない。

感謝合掌

1119a hope:2012/08/11(土) 07:54:51 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

「これはできる」


「そんなこと位は初めから知っていた。だから私は『これをしよう』と思ったらいつまでも心を変えずにやってきたが、やっぱり運が悪いことに変わりはない」
とお考えになる人もありましょう。

だけれども、そうおっしゃるあなたの考え方は、私の考え方とたいへん異(ちが)います。
私は「こ'れ'は'で'き'る'」というお考えをいつまでも捨てないで貫き通すことが「精神一到」だと申しました。
ところがあなたは「こ'れ'を'し'よ'う'」という考えはいつまでも捨てずにいるが「運が悪い」と言われます。

あなたの考えと私の考えとがどれだけ異(ちが)うか、太い活字で書いたところを比べてみてください*。

私は「こ'れ'は'で'き'る'」という考えを捨てるなと申しました。
あなたは「こ'れ'を'し'よ'う'……し'か'し'で'き'ぬ'、運'が'悪'い'」と言っているのです。
「運 が 悪 い」とあなたがおっしゃるのは、「こ'れ'は'で'き'ぬ」という考えが混じっているのです。
私の言う「これはできる」という考えとはまるきり反対ではありませんか。
【*「太い活字」の箇所は一字ずつに〈’〉を入れてあります】
(つづく)

1120ハマナス:2012/08/11(土) 22:29:29 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。


月給取りにも無限供給の道はある
『新版生活の智慧365章』

或る月給取がありました。彼は肺結核にかかった。それが動機になって彼は生長の家に触れたのである。それから医師にみてもらうと、驚いた事には、喀痰(かくたん)中に無数に結核菌がいるとの事で、彼ひ強制的に会社を休まされることになった。その間に彼は一所懸命に『生命の實相』を読んだ。そして其処に書かれている通り、「健康」と「神からの無限供給」が既にあることを深く想念したのである。すると次に医者に診断を受けた時には全然喀痰中から菌が検出されなかった。塗抹試験をしても、菌培養試験をしても菌の不在が証明された。彼は会社へ出勤することを許されたのである。

彼はやはり神からの無限供給を祈りつづけた。すると会社の社宅が抽選であたった。そのために普通の家賃を支払っている時よりも三千円も節約になかったのである。病気欠勤していたに拘わらず、その期末には二千円月給が上がった。定額所得者でも定額以上を得ることができる例である。


感謝合掌

1121a hope:2012/08/12(日) 07:46:09 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

「これをしよう」


「これはできる」という考えの中には、「できる」という考えのほかに何にも混ぜ物がありませんが、
「これをしよう」という考えの中には、「これをしよう、しかしできないかも知れない」という考えが混じっているものなのです。
「これをしよう」と考えるだけの「精神一到」では必ずしも成功しないのは当たり前です。

入学試験に行く人たちは皆「この試験にパスしよう」と思って行くのです。
しかし、皆が皆まで試験にパスしないのは、「パスしよう」という考えはあっても、
「パスできる」と本当に信じている人が少ないからです。

「しよう」とか「成ろう」とかいう考えよりも、「できる」とか「成る」とかいう考えの方が強いのです。
(つづく)

1122ハマナス:2012/08/12(日) 21:51:16 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

不安恐怖を除くための祈り

『新版生活の智慧365章』

何よりも心の迷い、恐怖、不安等を取り除きなさい。毎日の祈りの際に、神が無限の供給源であり、無限の生命源であることを念じなさい。そうすることによって、一切の心の迷い、恐怖、不安等を取り除くことができるのです。
「神は無限生命であり無限の供給でありたまう。わたしは神の子であるから、常に神より無限の生命と無限の供給とを与えられているのである。だから私は常に健康であり、裕かであるのである。神は常にわたしを護りたまうが故にわたしには何らの不安も恐怖もない。心は常に明るく愉快で、私は神の生命と財福の供給が無限に流れ入るパイプになっているのである」
と云う風に祈るならば、恐怖心も不安も除かれ、真に「神」の流入する不思議のパイプとなることができて、日常生活に必要なあらゆる物を得ることができるのである。

感謝合掌

1123ハマナス:2012/08/13(月) 22:14:37 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

体験に失敗はない『新版生活の智慧365章』

過去について思い嘆くこと勿れ。過去は既に蚕が、一眠ごとに脱ぎ捨てた皮のようなものであり、蝉の抜け殻みたいなものである。過去の殻の形が如何にあろうとも、それは現在の自己にとって何のかかわりもないことである。真に自分にとって大切なことは、脱ぎ捨てた過去の殻が如何なる形をしているかと云うことでなく、その殻の中にあって如何に自分の魂が生長を遂げたかと云うことである。

如何なる困難も、如何なる失敗も、決して完全なるマイナスと云うものは人生には全然ないのである。エジソンは千百の実験に失敗した後一つの発明を完成しても、その千百の実験を「失敗」と呼ばないで、「こうしたら、こうなる」と云う実験のデータを得たのであるから、それだけ自分は進歩したのだと言ったそうである。

感謝合掌

1124ハマナス:2012/08/15(水) 10:01:53 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
おはようございます。

宇治では大雨の被害があった様ですね。
盂蘭盆供養大祭のご成功をお祈り致します。


病気が消えるための祈り
『新版生活の智慧365章』

あなたが若し病気であれば、あなたの想念を病気の症状に集中してはなりません。症状を超え、現象を越え、“神の子”たる完全なる実相に集中しなければなりません。既に癒されている完全なる状態を心に描いて、その想念を心のうちに持ち続けることが必要であります。次の如く祈りなさい。

「神はわが内なる実相の生命である。実相のみが実在するのである。神は完全であるからわが内なる実相の生命は完全である。実相のほかには何ものも実在でないから、わが全心身は実相そのものである。実相は完全であるから、実相そのものであるところの全心身は健全である。病気と見えているところのものは、それは実相の完全さを知らない迷いの影にすぎないのである。迷いは真理を知ることによって消えるのである。私は今神より叡智の光を受けてすべての迷いが消えたが故に『迷いの産物』なる病も消えたのである。」

感謝合掌

1125ハマナス:2012/08/15(水) 21:32:06 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

消極的な想念の誘惑

『新版生活の智慧365章』

神は人間に完全なる自由を与え給うたのである。この実相に心を振り向けるとき、一切の自分を不幸に陥れる束縛も制約も消え去ってしまうのである。事物を処置するに当って、否定的な消極的な面に心を振向ける者には大なる成功と云うことはあり得ないのである。神が常に自分の仕事を導き給うと云う信念があれば、一時その仕事が如何に行詰(ゆきずま)ったように見えても、また別の道がひらけて其処から素晴らしい仕事の枝が出て来て、主要なる仕事よりも其の枝の収益で損失をおぎなうことも出来るようになるものである。

消極的な考えが起きて来たならば、「神はわが父であり給い、わが求むるすべてのものを神は与えたまうのであるから、必ずわが行くべき道は拓かれるのである。神は無限の智慧をわれに授け給いてわが行くべき道を示し給う」と念ぜよ。


感謝合掌

1126SAKURA:2012/08/16(木) 03:52:32 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
おはようございます……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

もう…「ご先祖様…」が、お帰りになられましたでしょうか?今年は【二つ部門の聖教】を唱え、
ました次第です。…が?一つは「甘露の法雨」「観世音菩薩賛歌」の“お経”を唱えました…。
皆様も「御先祖様の見送り?」の“お聖経”を、唱えられましたでしょう〜〜〜か?
では、私達にも必要な精神は、…【心の聖典】を〜〜〜開きます〜〜〜♫

■幸福を招く365章
―――――― あなたが幸福になろうと思ったら ――――――――

「神よ、私はあなたに対して今日約束を致します」皆さん、こう云って神様に約束の祈りをし
て下さい。「今日より私は、あなたのお力を得て、私の心よりすべての暗黒なるものを、憎しみ
や、怒りや、悲しみや、嫉妬や、人の不幸を喜ぶ心などを綺麗に洗い流して、再びそのような
感情を私の心の中に起すことなきように誓います。この誓いが実行出来るようお力をお添え下
さい。私はあなたの許しを得て、私の意志と感情と想念とをあなたの中に投げ込みます。あな
たの尊き高き清らかなる意志と想念と感情とを我れに流れ入らしめ給え。わたしの心は既に私
のものではありません。あなた様から与えられ、あなた様に献げられたるものであります。私
は力を尽くしてこの私の心があなた様に献げられたる目的にかないますよう聖らかなるよう努
力いたします。」
                             ( 谷口雅春著 )
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆

■今日は「御先祖様のお見送り」…【お祈り】をしましたが?皆様は如何でしたでしょうか?
私も【祈り…】の後、仏壇に向かって話しかけますが、これがとても照れくさい?のです。…が?
それでも「亡き両親」に、今回の【新聖経…】を、いいのかしら〜〜〜ンと聴きますと?
“ロ−ソクの炎”…揺らぎから〜〜〜良い〜〜〜のでは?と…嬉しそうに、頷いています〜♫〜
私も【甘露の法雨】後に、読誦しますと、とても読み辛くなります事もしばしばです。…が?
その後、段々と“心が爽快”になりまして、不思議と“意志が強く”なってくるのです。

私自身も、まだ読誦しだしてから間がないのです。ですから、先ず!読んでみまして、その後
“効果”がなければ、その時に“対策を講じても”良いのではと思いますが?
私の考えは、読みます前からの批判論(ア〜〜〜ダ?コ~~~ダ?)には??
それなりの“効果”があるものと“信じて祈る!”ですから、“不安とか?”は無く、
其の言葉の“意味を理解”しながらでしょうか〜〜〜?
とても分かりやすい【文章 と 聖典】です!!(しいて言いますと厳格性?でしょうか?)

さて!人は誰もが【幸せ捜し…幸せの青い鳥?】勿論!私もやはり…
“幸せになりた〜〜い”ですモノネ???
今日から、更に【神想観=瞑想】です。この“言葉通り”に…【実行開始!!】
“嫌な感情…不安?恐怖?妬み?嫉妬?…etcネガティブ感情を、遠く遥か彼方へ…捨て去る!!
アウト・プット〜〜〜と「イメ−ジ」で…!そうなのです〰~~ョネ!今日から、私の“メモリ−”に、
【今日の言葉を、一気に暗記しまして、唱えていきま〜〜〜す〜♫】
今から【幸せロ−ドに入る“近道…入門でしょうか?】信じて、
My load〜〜〜on!!!…Come back my load !!!

PS:トキ様 へ
お盆前からの気象庁の情報で【集中豪雨警報…】が?ありましたモノ?
其の結果…?「集中豪雨…被害が各地に〜〜〜><」悲しい出来事が〜〜〜><

さて!【お聖経問題…】ですが、私は先ず!“実行”からしています。…が?
やはり【心 の 法 則】で行きますと、目前の「現象」での理解(心の捉え方)は、当に!
そのような形で現実世界に現れますし…更に【天界からの伝言】では???と思いながら、
今「地質学」を読んでいますと…?なるほどと言った感じが見えて来ましたが、
全てを【新 聖 経 の せ い】になさる根拠は、大変失礼ながら、
昔の【迷 信 世 界】に、戻ってしまった気持になります次第なのです。…が??
                                   再合掌

1127a hope:2012/08/16(木) 07:53:31 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著

「成ろう」と「成れる」との相異


誰でも偉い者に「成ろう」とは思うのですが、そのうちの極わずかな人だけしか偉くなれないのは
「成ろう」と思う考えは捨てないくせに、「成れる」という考えをいつの間にか捨ててしまうからです。

そしていつの間にかそんな人は、「成’ろ’う’と思うけれども成’れ’ぬ’」と言うのです。
そして、そういう人はとうとう偉いものには成’れ’ぬ’のです。

これで「成’ろ’う’」と「成’れ’る’」との相違が判ったでありましょう。
(つづく)

1128a hope:2012/08/17(金) 07:17:28 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著

立身出世の秘訣


皆さん成功の秘訣も、立身出世の秘訣もここにあるのです。
「精神一到」とは、どこどこ迄も、ただ 成’れ’る’――成’れ’る’で突き貫(とお)すことです。

「心」で「成れる」と信じたときには、心のフィルムではすでにそう成っているのです。
心のフィルムに描かれていたことは必ず活動写真に映し出されるように、この世の中に本当に出てくるのです。

しかし、自分がこうあって欲しいことがまだ本当に出てこないうちに、
「成れる」という考えを捨ててしまって、「成れぬ」という考えにいつの間にか成ってしまったら、
その「成れぬ」という考えがこの世に出てくるのですから、運は悪くなるのは当然です。
(つづく)

1129志恩:2012/08/17(金) 07:42:54 ID:.QY5jUA6
 ヨハネ伝講義 谷口雅春先生著


「私を信じる者は私を信じるのではない。私を遣わし給うた者を信ずるのだ。
神は光源であって、私は光である。だから私を見る者は、神を見るものだ。

私が光としてこの世に来ったのは、すべて私を信じる者が、暗黒の世界に、彷徨わないためである、

人がたとい私のコトバをきいて、それを守らないでも、私は守らない人を審きはしない。
私は審きのために来たのではない。救いのために来たのであるから。

しかし、私を棄て(すて) 私のコトバを素直に受けぬ者を審く者は、別にある。

それは、法則である。
わが語れる神のコトバである。

【私は、心の法則を語るのであって、心の法則にそむいたものは、最後には、その法則によって、審かれるのだ。】

私は、おのれの知恵や力で、しゃべっているのではない。
私を遣わし給いし父自ら 我が言うべきこと、語るべきことを命じたまうのだ。

私は、その命令が永遠の生命であることを知る。さらば私は、天の父が、私に言いたまうままを語るのだ。」

               (十字架に架かる前、このようにイエスは群衆に向かって、大声で説教して言われた。)

1130金木犀:2012/08/17(金) 18:14:39 ID:auusu5IE
志恩様

まさに雅春先生が、言っておられることと同じですね。雅春先生は、ご自分をラッパと言われましたが、
雅春先生の言葉を神の言葉として聞く気持ちのない人間が、総裁ですね。
だから、『甘露の法雨』を補強などと言われるのでしょう。本当に雅春先生の言葉を神の言葉として捉えたら、
補強などという言い方など出来るものではないと思います。

この謹写された文章を見て、戯曲編の耶蘇伝を思い出します。
戯曲の最後では、ユダが、サタンに、あなたは神ですかと聞くと、サタンが、
「まあ、神のようなものだ」と答えて、さらに、「私は心の法則というものだ」と答えますよね。
うろ覚えですから、少し違うかも知れませんが。
あの時、サタンと見えるような人生のあらゆる物事は、心の法則なのだと、
このサタンの言葉が強く印象に残りました。

1131志恩:2012/08/17(金) 18:48:58 ID:.QY5jUA6
金木犀さま

生長の家総裁というお立場の人が、雅春先生のコトバを神のコトバとして聞く気持ちがないのですからね。
すごく切なく悲しいことです。「甘露の法雨」を補強するなんて、どうかしてます。

雅宣総裁は、人が理解できないコトバで語り、理解できない相手を【人間知】だとばかにしたように言いますが、
あまりにも理解できない人ばかりでは、いくらご自分の主張を理解させようとされても、机上の空論となります。

初心者様が、なにを言いたいのか、この1年間以上、ここの掲示板に出ていらして、雅春先生がどうのこのと言って、
どれだけの人を説得で来たでしょう。
理解出来ないわれわれのせいでしょうか。
よき理解者は、極少数の
しっぽりコンビのさくらさんとSAKUAさんぐらいでは、ないですか。

       つづく(今、急用ができましたので、のちほど…)

1132志恩:2012/08/17(金) 19:33:18 ID:.QY5jUA6
私は、さくらさんもSAKURAさんも、雅宣総裁の味方であることは、
別に気にしておりません。ここは、自由な掲示板ですから、それぞれにご自由な発言があるから、いいのだと思っていますので。

本流対策板のほうでは、今日は、ベテランのトキ様、役行者様が、又goro様、金木犀様、うのはな様、如月様、さくら様も、加わって
初心者様と,熱いディスカッションを交わされていましたので、読ませて頂いて、大変勉強になりました。

それから、話変わって,
戯曲編の耶蘇伝ですね。以前、ももんが様がいらしている時、復興G様や、役行者様も加わられて、戯曲編の耶蘇伝の話がでた
ことがありました。
「生命の實相 第31巻」。

「五十鈴川とイスラエル」のお話とかも、復興G様に教えて頂きました.

「磔刑は、人間を殺すことはできない。十字架に釘けられても、死なない人間がいるのだ」というイエスの言葉は、力強さがありますよね。
抹殺しよう,抹殺しようとしても、ほんものの真理は、殺せない、生き返るのだと思います。

ヨハネ伝講義の中に、印象的な場面があります。

イエスを十字架に架けて,処刑するおえらいさんでピラトという人物がいるのですが、イエスを処刑するまえに、ピラトはイエスに聞きます。

(要約)

{ピラトは、イエスに
「真理とは、何じゃ?」と、尋ねました。

しかし、イエスは、黙然として答えなかった。

なぜ,答えなかったというと、答えても、ピラトには理解のされようがない、ピラトに今それを語っても、何も甲斐がないから黙然としていられたのでした。

真理がわかるのは「真理に属する者」だけでありまして、肉体人間に話してもわからないのです。

イエスのこの一黙も恐らく雷の如しであって、ピラトを一黙のうちに威圧しておったに違いないのであります。}

1133ハマナス:2012/08/17(金) 19:51:30 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま

こんばんは。

失敗という観念を拭い去れ

『新版生活の智慧365章』

若しあなたの事業が失敗したように見えようとも、真実何処にも失敗と云うものが存在しないと云うことを知らねばならぬ。「失敗」と云う観念にあなたが固執するとき、「類は友を招ぶ」と云う心の法則によって、益々「失敗」と見えるような事件が重なってあらわれて来るのである。失敗を転じて成功に導こうと思うならば、「失敗」と云う観念を、心の黒板から拭い去ってしまわなければならない。

イエスが「悪に対して抗する事なかれ」と言い、「上衣を盗る者には下着をもとらせよ」と言ったのは、悪と見ゆるものに対して無抵抗であるときは、悪は本来存在しないものであるから、その悪は生長しつつあるかの如き観を呈しつつ実は自壊して行きつつあるものだからである。「陰極は陽転する」と云うのは、暗黒はそれ自身で自壊するからである。

感謝合掌

1134志恩:2012/08/17(金) 20:06:11 ID:.QY5jUA6
ハマナスさま

今日は、おつかれさまでした。猛暑のなか、感謝いたします。
宇治の天気予報を見ましたら、日中は、35℃と載っていました。

こちらは、今日は,今夏で一番暑い日だと感じるほどの暑さでした。
冷房を入れているのに、室内温度は、昼間、28,5℃もありました。
庭仕事は,今日は、やめときました。

いつも、謹写をありがとうございます。

1135志恩:2012/08/17(金) 20:36:04 ID:.QY5jUA6
金木犀さま

耶蘇伝を話し合われていたとき、金木犀様も参加されてましたね。今年の5月初旬頃でした。
すみません。

1136ハマナス:2012/08/17(金) 22:18:54 ID:mR2szZkc
志恩様
こんばんは。
ご丁寧にありがとうございます。

今日は照り返しが強く暑かったですが、美味しいグリーティーを頂き、元気になりました。

お姉様もご奉仕さらているのですね。

今、浄めるの雨が降っています。
明日は晴れてほしいです!

感謝合掌

1137a hope:2012/08/18(土) 10:14:30 ID:r8H4x9xE

ハマナスさま

宇治は、宇治茶が有名ですね。
ご奉仕本当にありがとうございます。

昨晩は、宇治から聖典を謹写してくださったのですね!

>>イエスが「悪に対して抗する事なかれ」と言い、「上衣を盗る者には下着をもとらせよ」と言ったのは、
悪と見ゆるものに対して無抵抗であるときは、悪は本来存在しないものであるから、
その悪は生長しつつあるかの如き観を呈しつつ実は自壊して行きつつあるものだからである。
「陰極は陽転する」と云うのは、暗黒はそれ自身で自壊するからである。<<

この、聖典のお言葉が心に響きました。

「無抵抗」のとらえ方が難しいと感じますが、キリストが十字架にはり付けられた時、
無抵抗であったために、キリストが簡単に「悪に屈してしまった」ように見えてしまうけれど、
その心に信じる「真理」はガンとして貫き通していて、
「本来ない“悪”」を最後まで観ることはなかったのだと感じました。
この、キリストのお言葉を拝読して、「無抵抗」とは「心まで言いなりになる」ことではないのだなと感じました。
もう、本当に、これからはよくなるしかないのですね!

ハマナスさまの毎日の素晴らしい聖典の謹写に心から感謝しています。

1138ハマナス:2012/08/18(土) 22:53:14 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんばんは。

hope様

ご丁寧なレスをありがとうございました。

こちらこそ、いつも素晴らしい、雅春先生のご文章の謹写をありがとうございます。

感謝申し上げます。

明日は早いのですみません、今日の引用は、お休みします。

感謝合掌

1139a hope:2012/08/19(日) 08:21:29 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

クーエの話

フランスのナンシーという町に、エミール・クーエという薬剤師がおりました。
薬剤師というのは、この薬はどういう成分が入っているから、
どういう病気に効くとういうことを研究した専門家です。

或る日、クーエのところへひとりの病人が薬を買いにまいりまして、
「こういう名前の薬が欲しいから売ってくれ」と申しました。
するとクーエの店にはその名前の薬はありましたが、
もう古くなって成分が変っているから、その薬だけの効目(ききめ)がないことは明らかでした。

クーエは「今その薬はあるにはあるが腐ってしまって成分が変っているから、売ってあげても効きません」とお断りしました。
するとその病人は「その名前の薬であれば効くのだから、腐っていても何でもよいから売ってくれ」と言いまして、
とうとうその薬を無理に買って帰りました。

数日すると、その病人はクーエのところへお礼にまいりました。
「あの薬をのんだら、おかげでその病気が治りました」と言うのです。

クーエはびっくりしてしまいました。
なぜならその薬は腐って性質が変ってしまって、もう効かなくなっていることが、
薬剤師の自分にはよく分かっていたからです。
「効かないはずの薬がなぜ効いたか」クーエは考え始めました。
(つづく)

1140うのはな:2012/08/19(日) 18:06:53 ID:f2bwKGw2
芸者里駒さんの音痴が治った実例

 神戸の生長の家の教化部が花隈という芸者町にあった時代があるんです。
その門前町にあった時代があるんです。その門前に掲示板がかけてありまして、生長の家の
『智慧の言葉』を毎日新しいのを書いて掲示してあったのであります。その時分に里駒さんという
芸者が常磐津を専門の先生について習いに行っておったんですけれども、どうも先天的音痴のようで
どうしてもうまく常磐津の節まわしがうたえないんです。それで先生にいつも叱られる。
彼女は、今日も常磐津の先生のところへけいこに行くんだが、また今日も叱られるかと思いながら花隈の町を
歩いていると、生長の家の教化部の前へ来た。教化部の前に掲示板がかかっておって、それに、
“しようと思うよりできると思え”と書いてあるんです。里駒さんは、何のことだろうと思ってしばらく立ち止まって
それを読んで考えておった。

「私は常磐津を上手に“しよう”と思っているけれどもうまくできない。“しよう”と思うけれども“できない”と私は思いつづけて
いたのだ。それはまちがっておった。常磐津を上手に“歌おう”と思うよりも私は常磐津を上手に“歌うことが出来るんだ”と、こういうように
思えばいいのである」と気がついたのです。
 それから彼女は、師匠のところへ歩いて行くその間中、“私は常磐津が上手にできる、上手にできる、上手にうたえる”と、こう思いながら行ったのです。
それから彼女は、その日は師匠の前で教えられるままに常磐津をうたったら、すばらしく上手にうたえた。それで師匠が大変ほめてくれた。
「あんた音痴かと思っていたら何も音痴ではなかったじゃない、今日はすばらしくよくできたよ」と言ってほめられたというのです。

『生命の根元を培う新しき教育』 谷口雅春 先生著 P93 新教育者連盟 編

1141a hope:2012/08/20(月) 07:31:19 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

「治りたい」と「必ず治る」との相異(ちがい)


「効かないはずの薬がなぜ効いたか」皆さんも考えてみてください。
それはその病人が「この名称(なまえ)の薬なら必ず効く。そして必ず治る。」と思ったからです。

この病人は今まで多くの病院を渡り歩いて来ましたが、病気が重くなる一方で治らなかったのです。
なぜ諸方の病院を渡り歩いたかと申しますと「治りたい」と思ったからです。

しかしどういうものかこの病人は治らなかった。
病院のくれる薬も服(の)んでみましたが、どういうものか治らなかった。

それは「治ろう」と思っても、「必ず治る」と信じなかったし「必ず効く」とも信じなかったからです。
「治りたい」と心に思っても、「治る」と信じなかったら、効きもしないし、治りもしないのです。

「成ろう」と思っても「成れる」と信じなかったら、成功しないし、立身出世もしないのもそのためです。
(つづく)

1142うのはな:2012/08/20(月) 10:33:59 ID:Gsql6f66
   はしがき

 人の偉大なるは人それ自身の本質による。金の良質なるは金それ自身の本質による。
金は鉱石を外から磨いても純金となるのではなく、その本質を抽出するところに純金が顕現するのである。
人間の教育もかくの如く、人間を外より磨くよりも、その本質を内より抽出することによって完成するのである。
併し人は金よりもなお偉大なるものである。金は自然に放任するときは、みずから内よりその純分を析出しないけれども、人は
生命であるから、本当に自然に放任するとき、栗の実が毬を破って出ずる如く、おのずから其の本質の善さを露呈するのである。

 人の偉大なるは縛られて善くなるのではない。「本当の自然にまかす」とき、内在無限の善さが、内在無限の能力が、内在無限の智慧が、
内より露呈して発現するのである。併し「本当の自然にまかす」とは、何であるか。
それはただの放任ではない、大生命を知り、大生命に任せるのである。

 ただの放任は「自然にまかせた」ように見えていて、その実は今迄の「悪しき惰力」に縛らせている場合が多いのである。
悪しき惰力に縛られずして、人それ自身に宿るところの大自然を喚び出して、それにまかせて教育する教育が吾らの生命を培う教育である。
人それ自身に宿るところの大自然とは何であるか。これこそ吾らに内在する神性であり仏性である。
この内在の神仏を呼び出すは言葉の力により、文章の力による。

 吾らの教育の本質と方法とを万人に宣べ伝えて、一挙にして全人類を光明化し、地上に一人の劣等児童なく、虚弱児童なく、家庭争議なく、一切の
歪める思想家なく、神そのものの如き人間を地上に創造せしめんがために、吾らの生命の根元を培う教育を通じて成就せんとする地上天国建設運動に協力せられん
事を庶願う。

『生命の根元を培う新しき教育』 谷口雅春 著 新教育者連盟 編

1143ハマナス:2012/08/20(月) 10:55:44 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
おはようございます。
無事に盂蘭盆供養祭が終わり、本当に良かったです。

心の映写機構  (『新版 生活の智慧365章』P.228)

 人が事物の成就に失敗するのは、心がその成就を裏付けるような心境になれないからで
ある。宇宙に無限に存在する“善き物”を現象界に持ち出すための、「心の映写機構」が
まだ完全に整わないからである。

 現在、如何なる失敗があろうとも、個々の現象的な失敗はそれほど重大視する必要は
ないのである。最も重大視しなければならないのは、個々の失敗そのものではなく、個々の
失敗をあわらわすようにならしめたところの「心境」そのものが今も尚続いていると云う
ことである。人間の潜在意識にあるところの「失敗の傾向」と云うものを取り除かない限り
は再び、三たび、そして幾度もその人は失敗するのである。その人が日々に少しでも一層
明るく、一層よき物を表現しつつあるならばその人の潜在意識内容は改善されつつあると
見てよいのである。

感謝合掌

1144SAKURA:2012/08/20(月) 11:17:04 ID:UeqbdFRM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんにちは……ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

17日から19日まで宇治の【宝蔵神社盆供養大祭】に“参加”して無事に……
この様子を別のボ−ドで……とても素晴らしい「団結力」が伝わり……
今から【新・生長の家…スタ−ト地点】でしょうか〜〜〜??
さて、この素晴らしい教えを、伝える事は、実践!
更に、新しい方々に“伝道”して参りますのは?“言葉の引用”でしょうか〜〜〜?
素晴らしい先輩!まだまだ残られている方々は、【実相・心の目】で、正観できる方なのです…。
それには、感動の連続でしたが…?
さて!久しぶりに「精神の勉強」を、心豊かになる「聖典…」で〜〜〜す。

■【栄える生活365章…】              
第 ハ 篇  “絶対者”を生きる
――――“一粒の麦”の死は――――

吾々は、自己の行為を考うるに、その物質的価値を評価するよりも、先ずその霊的価値を
評価して霊的価値の標準によって行為しなければならないのである。吾々の行為は決して
自己本位のみのものであってはならないのである。すべての人が(少なくとも、出来るだけ多
くの人々が)恵福を受け得ることに関連して吾々は行動しなければならないのである。かく
の如く為すことによってのみあなた自身も、一層多くの恵福を受け得るし、あなたの魂も
発達するのである。人は全体(神と人類)」につながる生物であるから、全体と無関係に孤立
して恵福を受ける事もできないし、魂が発達することもできないのである。出来るだけ多勢
の人々を救け、向上せしめる行為によって、自己も向上し、自己も救われることになるので
ある。「一粒麦死して多くの実を結ばん」とイエスが言った如く一つの犠牲的な勇敢な行為が、
本当は犠牲ではなくして却って多くの実を結ぶのである。   
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

PS;トキ様…

■【吾々は、自己の行為を考うるに、その物質的価値を評価するよりも、先ずその霊的価値を
評価して霊的価値の標準によって行為しなければならないのである】

特に、上記の“言葉”が…心に残ります…。実感なので〜〜〜す。
当に!そうです〜〜〜ョネ?
「人間の価値観も“物質面”でみないで“精神面”で、見て行きますと、
やはりそのような方は、「姿・形」が、外見でも良く見られ傾向が、ある様に思えます〜〜〜ネ!
当然の事でしょうかしら〜〜〜ン!

【精神を中心】にしていきますと、服装も、正しい着こなしに、なりますでしょ〜♫
やはり【精神…】で、全てが整うのです〜〜〜ョネ!
【精神もすべて規律が入って来ます…】と言います事は?【心の法則】でしょうか〜〜〜?

■「トキ様」も、どの様に、思いになられますでしょう〜〜〜か?

  再合掌

1145SAKURA:2012/08/20(月) 11:24:31 ID:UeqbdFRM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは……ロ−マ字の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1144投稿文中…訂正致します…。 (あわてて投稿しましたので…ごめんなさい。)

【宝蔵神社盆供養大祭】…    ×

【宝蔵神社盂蘭盆供養大祭】 … ○          再合掌

1146「訊け」管理人:2012/08/20(月) 11:58:29 ID:???

『続 真理の吟唱』267頁より謹写――
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65628910.html

〝心の曇り〟を除り去る祈り

 この世界は無限の叡智の持ち主であらせられる神の創造り給える世界である。この世界は神の一元の叡智によって設計せられ、神の一元の叡智によって創造せられた世界であるから、その内部には完全な調和が充ち満ちており、如何なる矛盾も、如何なる反対抗争も存在しない世界である。それゆえに色彩や構図に於いても無限の変化を顕しながら、互いにそれらが他を生かし合い、完全な美と調和とを、実現している世界であるのである。
 色とりどりの花は咲き乱れて繚乱たる姿を見せているけれども、そこには無限の調和の美が発揮されているのである。色とりどりの鳥は美しき羽根をひろげ、空に翔り、地に舞い、それぞれ個性ある啼声にて歌を唄うといえども、それぞれは個性の美を発揮しながら、すべての楽器が個性のひびきを奏でながら諧話している交響曲のように完全に調和した一体をなしているのがこの世界の実相であるのである。

 もし私たちの周囲に不協和な噪音があらわれ、互いに矛盾衝突し、不協和な争いが起るならば、それはこの世界の実の相があらわれていないのである。それは神の創造し給える完全な実相を何かが覆い隠しているのである。それは恰も常に皎々(こうこう)と照っている月であるのに、地球上に生じたるところの浮雲が月の明光を覆いかくして見えないようにしているのと同じように、吾々の心の中に巻き起こった浮雲のような〝心の迷い〟の波動が、実相の完全な状(すがた)を見えなくしているに過ぎないのである。
 いくら雲が月光を覆い隠していようとも、月そのものは依然として皎々と輝いているのと同じように、私たちが心の曇りによって不完全な姿を顕わしていようとも、私たちの〝いのち〟の実相は少しも曇ることなく、病むことなく、明晃々(めいこうこう)と清浄な光を発しているのである。そして〝心の曇り〟をとり去るならば、直ちに、その実相の清浄な光を現実に顕すことが出来るのである。では〝心の曇り〟を取り除くにはどうすればよいのであろうか。

 人間は〝神の子〟だから本来〝心の曇り〟などは無いのである。〝無いもの〟がアルかの如く顕れているのは〝心の力〟でその仮存在を持ち上げて支えているからであるから、〝心〟で〝心の曇り〟を取り除こうと力んで、それをつかむならば、却ってそれは心の力で持ちあげられて消えないのである。今まで、心の力でその仮存在を支えて来た力を「抜く」ことによってのみ〝無いもの〟は〝ナイ〟と、はっきり消えることになるのである。即ち〝悪〟を思わず、悪しき相を心に描かず、ただ心を一転して、本来実在する〝完全なる実相〟に心を振り向け一心にそれを瞑想し頂礼すれば、一切の〝心の曇り〟も〝心の曇り〟の表すところの一切の悪も消えてしまうのである。この真理を知らしめ給いし神に感謝し奉る。ありがとうございます。

1147うのはな:2012/08/20(月) 16:41:03 ID:zRCwkl8c
假初にも“悪”が実現した如く語ってはならない

 谷口清超氏訳、ステラ・テリル・マン女史原著『怖れなき生活』の中には、
假病をつかったところが本当に盲目になったポラード夫人の実例を書いている。
彼女は良人の愛情が他の美しい婦人に移りつつあることを恐怖して、いろいろ良人の
愛情が自分に帰って来るようにしたが駄目だった。そこで、彼女は最後の試みとして、自動車
に乗ろうとした際に、急に網膜剥離でも起こったように眼が見えなくなった真似をして「急に私、
眼が見えなくなりました。手を引いて自動車に乗せて下さい」と假病を使ってみたのであった。
ところが、良人は妻が本当に盲目になったかと驚いて、心配のあまり、他の女を思うことがなくなったらしいので、
更に心臓病の発作を訴えることによって、良人の自分に対する関心が一層深まるように彼女は工夫したのだった。
その試みには成功したが、良人の愛情を引きつけるために使った「目が見えなくなりました」
「心臓をナイフで刺すように痛みます」などという断定的な夫人自身の言葉が創造の種子となり、ついに言葉の創化力によって
彼女は本当に、失明し、本当に心臓病を起こすようになったというのである。
假りそめにも、ウソでも悪い事が起こったように言ってはならないのである。
言葉は神であり、創造する力をもっているのである。

『愛はかくして完成す』 谷口雅春 先生著 P118

1148うのはな:2012/08/20(月) 18:10:49 ID:uISmJ.rA
  天皇の御代をたたえる君が代

 生長の家は、国歌君が代を、如何にみるか、これについて同誌(三十七年)七月号に
谷口雅春先生がおとき下さって居りますのを、そのまま引用させて頂きます。

 国家の「君が代」の解釈についてですね。旧い時代の“君”はあなたのことであり、
“君が代”とは“あなたの代”の意味で、国歌の内容は「あなたがいつまでも永生きして幸でありますように、
というほどの意味であります。という解釈があるが、これは国民を欺くものだと思います。
こういう解釈は「君が代」の歌を保存するために、わざと国歌の本来の意味を枉げたものであると思うので、その
解釈には僕は反対します。それは、

 大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも

というような歌を(柿本人麻呂、万葉集)もあって、天皇を大君とお称びしていることもありますけれども、
「君が代」が国歌として定められ国歌として唱われてきた明治以来の歴史的伝統の意義は、決して新解釈による
民主的な“あなた”という意味の“君”という意味ではなかったわけなんですよ。

『愛国心の教育』 生長の家教育者研修会 P36 昭和37年8月10日発行

1149a hope:2012/08/21(火) 07:23:20 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

「治るという心」を服(の)ます治療法


そこでクーエは薬が効くのは、本当は薬という「物」が効くのではないことに気がついたのです。
「効く」という「心」が効き、「治る」という「心」が治すということに気がついたのです。

「心」の力がわかったクーエは薬剤師を辞めてしまって「心」で病気を治すことを始めたのです。
「効く」という心、「治る」という心―――を服(の)ませて病気を治すことを始めたのです。
そして、それでよく治るので、クーエの方法は「クーエ・メソッド」といって全世界に有名になりました。

「効く」という心、「治る」という心は、どういうふうにして服ませるか、
皆さま、考えてみてください。

それは紙に包んで服ませますか、コップの水で服ませますか、
この「治る」という心、「よくなる」という心を旨く服ましさえしたら病気が治るのですが、
それは「心」でありますから、水で流し込むわけにも口の中で溶かして服むわけにもゆかないのです。
(つづく)

1150「訊け」管理人:2012/08/21(火) 09:04:02 ID:???


『健全の真理』250頁より謹写――

素直に神様に話しかけよ

 祈りにも方法があり、原理がある。それが方法である限りに於いて上手下手があるということは止むを得ないのである。原理を知らない者は正しい方法を用いることは出来ないのである。神は、善人にも悪人にも一様に恵みを与え給うものであるが、その光を上手にうける人と受けない人とがあるのは、太陽の光には依怙贔屓はないけれども、それをうける人の方が斜め向いたりあべこべ向いたりしている時には完全にその光をうけることはできないのである。祈りに上手下手があるというのは、光は同じように照らしているが、光を斜めにうけたり、光に対してあべこべむいたりしているのは祈りが下手なのであり、光に対してまともに向いているのは祈りが上手だといい得るのである。どうしたら神の方へ真正面に向いて神の光を百パーセント受け得るようになるかということが問題なのである。と云って「祈りの大学」というものがあるのではなく大いに何か学問的に勉強しなければ祈りが上手になるということでもないのである。祈りを上手にするには、ただ祈るということが必要なのである。「ただ」である。「ただ」ということは素直と云うことである。子供のようにすなおに神さまの方に心を振向いて自分の欲することを話しかけるのである。

1151「訊け」管理人:2012/08/21(火) 09:05:46 ID:???

『健全の真理』255頁より謹写――

<ピエール博士の祈りのかなえられる十要項>

 神に無条件降服するためには神を信じなければならない、神の善意を信じなければならないのである。神はすべての根源であるということを信じてそれを神に対して全托するのである。『君は如何に祈るべきかを知れりや』の著者であるピエール博士は効果ある祈りの方法として次の十ケ条をあげているのである。

(一) 一人静かに祈るべきまとまった時間を一日のうちに数十分間設けるのである。即ち一定時間に神想観することに当る。まず凡(あら)ゆる問題から心を一転して神に心を振り向けよ。肉体も心も霊も、すねて力みをなくしてしまうのである。即ち全心全霊に我の緊張や硬直がなくなってゆったりとそのままの気持になるのである。
(二) 自分の心にあることを何でも自然に無邪気に神さまに対して話しかけるのである。固苦しく宗教的な、意味が自分にもわからないような難しい文句を使わなければ神に通じないなどと考えてはならない。自分の心持を現わすそのままの言葉で神に話しかけるのはよいのである。すると神はそれを理解し給うのである。
(三) その日の仕事に出掛け乍(なが)ら、その途上で、又仕事をしながら、神に対して話しかけることを実践せよ。電車の中で或いはバスの中で或いは仕事机の前に坐って、暫くの間目をつぶって神に対して短かい言葉で話しかけるのである。この通り実践すれば神が今此処に自分に接触しておられるということを思いだして、神に近づいている実感を深めることになるのである。
(四) 「神は今自分と偕にあり、自分を護ってい給うのである」と機会あるごとに念ずることである。これは「神よ吾に祝福を與え給え」とまだ祝福せられていないものが祝福を求めるような言葉ではよくないのである。「神は今既にその祝福を與えておられるのである」というふうに、祈るものを「すでに受けたり」と信ずる言葉を念ずるがいいのである。
(五) 誰かのために祈ってあげる時には、「自分の祈りが神に達して、神の愛と守りとがすでにその人の周囲をとりまいている」というふうに念ずることがいいのである。
(六) 「病気を癒し給え」とか、「吾が貧しきを憐み給え」とか、消極的言葉を使ってはならないのである。「すでに私は神に守られて健康である」とか、「すでに自分は神の無限の供給を受けているのである」とか、積極的な言葉を念ずるのがよいのである。
(七) 神のみ心を受けるように祈ることが必要である。自分の欲するものを與え給えと云うように祈って、「神さまの智慧に於いて尚一層自分にとって善きものがあるならば、み心の如くならしめ給え」と祈ることはよき方法であるのである。
(八) 自分の好まない人、或いは自分に敵対する人、憎む人を赦してその人のために幸福を祈ってやる言葉をのべることは、自分の心の中に積もっていた不浄物を清掃して神の大いなる力を流れ入らす方法になるのである。
(九) 一日の中時々全世界のために、又自分の住んでいる国家のために、又、自分の属している団体のために、その繁栄と平和を思念することは、それが報恩の行事であると同時に、利己的祈りでないために自分の中にかくれている所の驚くべき力をよびだすためのよき方法となるのである。
(十) 最後に神の最高の善意を信じ、神のみ手にすべてを委ねることを祈り、自分の最善をつくす力を與え給えと祈って、後は神さまのみ心に全托するのである。

1152「訊け」管理人:2012/08/21(火) 09:07:14 ID:???

>トキさま

<削除依頼>

 >>1151とこの投稿ですが、削除ください。

 改行をあらため再度、掲載したいと思います。お手数ですが、よろしくお願い致します。




1153「訊け」管理人:2012/08/21(火) 09:10:10 ID:???
『健全の真理』255頁より謹写――

<ピエール博士の祈りのかなえられる十要項>

 神に無条件降服するためには神を信じなければならない、神の善意を信じなければならないのである。神はすべての根源であるということを信じてそれを神に対して全托するのである。『君は如何に祈るべきかを知れりや』の著者であるピエール博士は効果ある祈りの方法として次の十ケ条をあげているのである。

(一)  一人静かに祈るべきまとまった時間を一日のうちに数十分間設けるのである。即ち一定時間に神想観することに当る。まず凡(あら)ゆる問題から心を一転して神に心を振り向けよ。肉体も心も霊も、すねて力みをなくしてしまうのである。即ち全心全霊に我の緊張や硬直がなくなってゆったりとそのままの気持になるのである。

(二) 自分の心にあることを何でも自然に無邪気に神さまに対して話しかけるのである。固苦しく宗教的な、意味が自分にもわからないような難しい文句を使わなければ神に通じないなどと考えてはならない。自分の心持を現わすそのままの言葉で神に話しかけるのはよいのである。すると神はそれを理解し給うのである。

(三) その日の仕事に出掛け乍(なが)ら、その途上で、又仕事をしながら、神に対して話しかけることを実践せよ。電車の中で或いはバスの中で或いは仕事机の前に坐って、暫くの間目をつぶって神に対して短かい言葉で話しかけるのである。この通り実践すれば神が今此処に自分に接触しておられるということを思いだして、神に近づいている実感を深めることになるのである。

(四) 「神は今自分と偕にあり、自分を護ってい給うのである」と機会あるごとに念ずることである。これは「神よ吾に祝福を與え給え」とまだ祝福せられていないものが祝福を求めるような言葉ではよくないのである。「神は今既にその祝福を與えておられるのである」というふうに、祈るものを「すでに受けたり」と信ずる言葉を念ずるがいいのである。

(五) 誰かのために祈ってあげる時には、「自分の祈りが神に達して、神の愛と守りとがすでにその人の周囲をとりまいている」というふうに念ずることがいいのである。

(六) 「病気を癒し給え」とか、「吾が貧しきを憐み給え」とか、消極的言葉を使ってはならないのである。「すでに私は神に守られて健康である」とか、「すでに自分は神の無限の供給を受けているのである」とか、積極的な言葉を念ずるのがよいのである。

(七) 神のみ心を受けるように祈ることが必要である。自分の欲するものを與え給えと云うように祈って、「神さまの智慧に於いて尚一層自分にとって善きものがあるならば、み心の如くならしめ給え」と祈ることはよき方法であるのである。

(八) 自分の好まない人、或いは自分に敵対する人、憎む人を赦してその人のために幸福を祈ってやる言葉をのべることは、自分の心の中に積もっていた不浄物を清掃して神の大いなる力を流れ入らす方法になるのである。

(九) 一日の中時々全世界のために、又自分の住んでいる国家のために、又、自分の属している団体のために、その繁栄と平和を思念することは、それが報恩の行事であると同時に、利己的祈りでないために自分の中にかくれている所の驚くべき力をよびだすためのよき方法となるのである。

(十) 最後に神の最高の善意を信じ、神のみ手にすべてを委ねることを祈り、自分の最善をつくす力を與え給えと祈って、後は神さまのみ心に全托するのである。

1154金木犀:2012/08/21(火) 09:25:06 ID:VOugKW.o
訊け管理人様

有難うございます。
わかりやすく、見やすく、とてもためになります。
プリントアウトして、毎日見るといいですね。
聞いたことはあっても、いつもは頭の中にごちゃごちゃに入っていて、
整理されていないですから、このような箇条書きは助かりますね。

1155ハマナス:2012/08/21(火) 10:32:38 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
おはようございます。

過去のすべては魂の進歩のための肥料 (『新版 生活の智慧365章』P.224より)

 もう、あなたは過去の失敗について、また過去の過ちについてグジグジ思い煩うことを
しないのである。神は、あらゆる塵芥(じんかい)や糞尿を浄化して、作物がよき実を結ぶ
肥料としたまう如く、過去のあらゆる失敗も過ちも悉く浄化して、よき魂の収穫を得るため
の肥料となしたまうのである。あなたの過去の過ちはあなたの人生観を深からしめ、心の
視野をひろめ、人生の意義を悟らしめるのに非常に役立っているのである。

 あなたは過去を斯く観ずることによって、心の混乱や不安や退嬰(たいえい)や過度緊張
が取り除かれ、心に平和と愛と調和がみたされ、過去に体験したものを、真に自分の魂の
生長に役立たしめることができるのである。また他の人々の過ちについても寛容であれ。
すべての人は一見「過ち」と見えるものを通して魂が進歩しつつあるのである。

感謝合掌

1156志恩:2012/08/21(火) 12:08:32 ID:.QY5jUA6
訊け様

「ピエール博士の祈りの叶えられる…」謹写してくださって、ありがとうございます。
やはり、行を開けた方が、読み易いですね。心に刻みました。

1157SAKURA:2012/08/21(火) 23:26:00 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 昨日とはちがう自分 ) 

―――― 昨日とはちがう自分  ―――――

| ❤いいかえれば、なにをするか、ということよりも、なぜそうするのか、
| が問題なんですね。つまり、選択についての考え方にもどってきたわけ
| ですが、同時にこの考え方は自由についてもあてはまるように思えます
| ね。

 人はつねに選択をしつづけています。しかし、そのことを認めようとはし
ないのです。あなたは自分の選んだ道について責任をもつ限り、自由である
といえます。あなたがもっとも興味ある事柄を選んだときも、同じです。そ
れは言葉でいうほど困難なことではありません。

       ――−――−―― * ――−――−――

PS: トキ様
「生活習慣」と「性格」を、変える事は、出来るのでしょうか〜〜〜?
私は、今でもいやな【自分との戦い】なのですが〜〜〜?
今回の「昨日とは違う自分」のタイトルから、変えられるものなら〜〜〜と?
今はそればかりですが???トキ様は、どう思われますでしょうか〜〜〜??

<つづく>

1158goro:2012/08/21(火) 23:37:49 ID:Cc8Z7oOY
聖典から様々な内容の御紹介を有難く拝読させて頂いています。
御紹介くださる方々に心から御礼申します。

私の場合は聖典の紹介文をPDFに変換してPCのDropboxに保存しアイパッドのDropboxで拝読しています。
Dropboxを家族で共有して夫々のアイパッド・スマホなどで拝読させて頂いています。

ありがたい世になったものです。心から感謝します。

1159SAKURA:2012/08/22(水) 02:30:54 ID:gxBcdBTM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1157に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

■更に、考えましたのですが〜〜〜><
>>1157投稿の続きなのです。…が?
PS:トキ様
「生活習慣」と「性格」を、変える事は、出来るのでしょうか〜〜〜?
私は、今でもいやな【自分との戦い】なのですが〜〜〜?
今回の「昨日とは違う自分」のタイトルから、変えられるものなら〜〜〜と?
今はそればかりですが???トキ様は、どう?思われますでしょうか〜〜〜??

PPS:
今回の【生長の家…お家騒動】での“出来事”は、「現総裁先生」への“人格中傷”を
見ていますと〜〜〜
■【1年近くも批判…中傷…】をしている人々の性格…
つまり世間一般は!社会常識としては、「自分の思い通り…自我通りにならない時は、
必ず“中傷・批判”ばかりの言動しか?しないでしょう〜〜〜と!
つまりは【切り替え…スイッチ】は、余程の事がない限り〜〜〜と見ていますモノですが?
まして…【信仰…奉職者】としての?【人格性??如何でしょうか】
これだけ…【グ−グルにて…世界中に配信ですから???】
どちらに致しましても…「学ぶ会」「靖国見真会」「ときみつる会」…への世間の目は??
如何でしょうか〜〜〜?

実に!悲しい限りです…。既に!この時点から?「生長の家…」は〜〜〜荒波に〜〜〜??

1160a hope:2012/08/22(水) 06:42:02 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

自己暗示法


そこでクーエは、「治る」という心、「よくなる」という心を
人間にのませる方法を考案しようと思ってその方法を発明しました。
それは「自己暗示」という方法だったのです。
「自己暗示」というのは「よくなる」という観念を言葉の力で自分の心の中へ流し込む方法なのです。

言葉というのは不思議な力を持ったものです。
「あなたは温順(おとな)しい良い子ですね」と言いますと、その子供は温順しくなります。
「「この子は悪戯(いたずら)ッ子で仕方ない子ですよ」と言いますと、
その子供はますます悪戯ッ子になります。

これを言葉の力と申します。
言葉というものは、それを効く人の心に、その言葉とおりの心を流し込む役目をするのです。
(つづく)

1161「訊け」管理人:2012/08/22(水) 07:41:39 ID:???

『あなたは自分で治せる』89頁より謹写――

 どう云う風に祈ったならば一層効果があるだろうかと云うようなことを私は度々、人々からたずねられたのです。私はそれに就いて既に度々書いて来たつもりです。多くの人たちは正しい祈り方をしていながら、その結果をあまりに早く得ようとして、それが得られないものですから、途中で自信を失ってしまって、「この祈りはきかれない」と、折角、今まで「創造の沃地」に蒔いて来たところの祈りの種子を掘り返して捨ててしまうようなことをしていられるのであります。
 祈りは実相の世界に於いては、それが真実の祈りである限りにおいて、既に成就しているのであることを知らなければなりません。「真実の祈りである」と云うのは、既にあるから、それを憶い出さずにはいられなくなり、求めずにはいられなくなると云う意味であります。たとえば誰かが「煙草を喫いたい」と思うならば、一度も煙草を見たことも喫ったこともない人には、「煙草を喫いたい」とは憶い出だしもしないでありましょう。即ち「煙草を喫いたい」と思う人は既に煙草を喫い済みの人であるのであります。この意味に於いて「無限の富を輿えたまえ」と祈る人は既に実相に於いて、「無限の富を得済み」の人であるのであり、「無限の生命を輿え給え」と祈る人は「既に無限の生命を持ち済み」の人であるのであります。
 大体「有限体」は「無限」を想像することも、希求することも出来ない筈なのであります。「有限」と「無限」とは全然範疇が異なるからであります。いやしくも「有限」と見える人間が「無限」を想望し、それに憧れ、希求する所以は、自己の内に、どこか無限なるものが包蔵されているからであります。「真実の祈り」とか「真実の希求」とか云うものは、このように、既に内部にあるものだから自然に祈らざるを得なくなるのでありまして、それは「種子」を蒔くが如きものであります。「種子」の中には肉眼には見えねども、既にその胚子の中に花もあれば収穫もある、それを既に知るがゆえに「種子」を蒔きたくなるようなものであります。
 実に祈りが成就する根本は「わが祈れることは、既に成れるがゆえに、我祈るなり」の信念を有たなければならないのであります。これが聖書にある「神は求むに先立ちてなくてはならぬものを知りたまう」とか「汝ら祈りて何事にても求むるとき、既にそれを受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを輿えられん」と云う祈りの基本法則なのであります。

1162ハマナス:2012/08/22(水) 13:17:54 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんにちは。残暑が続きますが、お変わりありませんか。

賢い与え方   (『新版 生活の智慧365章』P.225より)

 あなたは寛大に人々をゆるし、人々に先ず裕かに与えることによって、神からも豊かに
愛と生命とを与えられるのである。あなたの持てる能力の全部を捧げて人類のために尽く
すが良い。あなたの能力、物資、時間、心身のエネルギー、それらは本来、神から来った
ものであるから、神の栄えをあらわすために、人類に捧げなければならない。神の栄えを
あらわするために、先ず自分の有てるものを捧げることが、自己が健康になり、また富む
ことの主要原因であるのである。

 併し、何時、如何に、何に、誰に、何処に与えるかが問題である。それを知るためには、
先ず充分神に祈って、神からの叡智の流れを汲み取って、その智慧に導かれて与えなければ
ならないのである。「神よ、わたしの有てる全てのものを何時、如何に、何に、何処に、
誰に与えるべきかを教えたまえ」と祈ることは、賢命なる与え方をするために必要である。

感謝合掌

1163トキ:2012/08/22(水) 17:13:59 ID:Sx5WiKRc
>>1159

 谷口雅春先生が、性格を治すのは、病気を治すよりも難しいと生命の実相で書かれています。
自分も省みると、それは痛感します。理屈では分かっていても、つい,我が出ます。

 谷口雅宣先生への「誹謗中傷」の件です。
 
 創価学会の池田大作氏の月刊ペン事件や幸福の科学の大川隆法氏の名誉毀損が裁判になり、
最高裁判所まで争われた事例はあります。結論を言うと、宗教法人のトップは公人に準じる
のでプライバシーの制限は他の人よりも広く認められます。また、宗教家という地位にある
人への人格の議論も認められるとされています。これらは、判例の本に書いてあります。

 他の有名人、例えば会社の経営者の場合などは、能力がメインの問題ですから、人格が問題
にされる事は少ないです。が、宗教家というのは、いわば人格が売り物ですから、激しい評価
を受けるのは仕方がない、という考えがこの判決の背景にあります。

 ただ、相手が公人であるのを幸いに、誹謗中傷の限りを尽くすのは、不当であり、批判される
べきだと思います。この場合、ご本人は立場上も反論ができないのですから、周囲の人が弁護
なり、反論をすべきだと思います。

 その意味で、この掲示板に総裁援護の意見が増えるのも歓迎しております。

 今後とも、宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

1164アボガド:2012/08/22(水) 21:38:58 ID:/egGcx9Y
>>1158
goro様

クラウドとスマホは本当に便利ですね。
私はもっぱらevernoteです。
光明掲示板の伝統様やの書き込みはとっても役に立つので、
掲示板そのままコピー&ペーストをして保存しております。

1166うのはな:2012/08/22(水) 22:07:23 ID:ERSa5h8A
書くところを間違えて失礼しました。
上の1165は削除をおねがいします。

1167SAKURA:2012/08/22(水) 22:46:05 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 昨日とはちがう自分 ) 

―――― 昨日とはちがう自分  ―――――

| ❤いや、それは大変むずかしいことです。わたしは自分の過去をふりか
| えってみて、なにかしらいつも後悔するようなことをしていました。そ
| れが日とともに、はっきりしてきても、依然として後悔しつづけてきた
| し、ときに食べたくもないケーキにむさぼりついたり、あるいは母親へ
| 短気を起こして、金切り声でもあげたくなったものでした。わたしは自
| 分がもう少し賢く、思慮深く、優雅でありたいと思ったことが、これま
| で何百回あったかしれません。しかし、結局そう願望しながら、まるで
| 子どものような振舞いしかできなかったのです。

 しかし、それは誰でもやっていることです。なぜあなたは自分が、親切で
思慮深かったときのことを考えないのでしょうか。なぜ勝利のことを考えず、
敗北のことだけを思い出し、それをくよくよ考えるのでしょうか。こういう
一種の否定的自己催眠にかかっている人たちがあまりにも多いのです。自分
に弱者のラべルを貼りつけているのです。
そういう人たちはよくこういいます。わたしは、(a)ひどい人間であり、(b)
恐ろしいことばかりやっていて、(c)少しも進歩、向上しないのです、と。自
分のしたいことをやる前から実現不可能だなどと決め込んでしまわずに、な
んとか実現できる方策を探すことにそのエネルギ−を使うべきだと思います。

 わたしたちは自分自身を勇気づけなくてはなりません。もし、できないと
信じてしまったら、何事もできるはずはありません。


 あなたがもし自分は高い山に登ったり、人前で演説したりすることが苦手
なタイプだと主張するならば、それは、そのようなことを今日まで実行しな
かったといっているだけのことです。もちろん、ときにはそれさえ真実でな
い場合もあります。というのは、たとえば自分はどうしてもあることができ
ないのだと思いたがっている人の場合、それは実際にやったことがあるのを
忘れてしまおうと無意識のうちに努力しているからです。いえ、たとえその
人たちがほとんどなにも実行しなかった人たちであったとしても、その話の
すべてはその人自身の過去の行動でしょう。その人が将来なにをするか、い
ったい誰が知っているでしょうか。

 もしわたしたちが従来の行為をそのまま繰り返してきたとしたら、人間は
けっして変化しなかったと思います。人はつねに変化しているのです。それ
は、成長とはなにか、という問題でもあります。あなたがいままでに一度も
したことのない事柄、自分にできると夢にも思ったことのない事柄を実行し
てみることによって、あなたは成長していくのです。

PS:トキ様 へ
全ての“夢”は、行動をしなければ何も始まらないのです〜〜〜ョネ!!
今から「スタ−ト地点」です……。「生長の家…」は、“小さな花”でしょうが……今は!
それが、段々【夢実現…】に向けて、高い山に登って行く事でしょう〜〜〜???
きっと【実現…】それは【心の法則…】に、叶うように思えます。私も今!新たに、
もう一度!!挑戦!!【幸せ切符…行進中】で〜〜〜す。

トキ様は「本部職員の方々」が…【本の販売を〜〜〜悪戦苦戦中】と、言っておられました。
…が??長い意味で思いますが〜〜〜?
■【小さな出来事から〜〜〜おおきな出来事になる】のでは、ないのでしょうか?
“経験”から大きくなって行くように、「職員の方々の販売」は、【売るという観点の勉強】では…
その“創意工夫”が必要になるのではないのでしょうかしら〜〜〜ン!
ある面では、「いい勉強…」では、と思いますが〜〜〜?【社会勉強……???】
「トキ様」は、どう思われますでしょうかしら〜〜〜ン??

1168a hope:2012/08/23(木) 06:33:00 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

言葉を心に服(の)ませる法


そこでクーエは考えついたのです。
朝眼が覚めてまだ寝床から出ない前と、寝床に入ってもう眠くなって来た自分に、
「これから毎日一層すべての点で自分は良くなる」
と言う言葉を自分に聞こえるくらいの小さな声で、ニ十ぺん口のうちで唱えて自分に聴かせて、
「ほんとうにそうだ。必ずよくなる」と心から思い込むようにするのです。
これが「精神一到」です。
心で「必ずよくなる」と思い込んで、最後までその思いを変えなければ必ずよくなるのです。

何の病気もなく、これという事柄もない時なら「これから毎日いっそう全ての点で自分はよくなる」
と毎朝、毎晩二十ぺんずつ唱えるだけで、全ての点でその人は必ずよくなりますが、
一日か二日位それをやってみて、「こんな事でよくならぬ」と思って捨ててしまってはなんにもなりませぬ。
それでは「よくならぬ」という心を服(の)んだことになりますから、
その心の通りにすべて「よくならぬ」ということになってしまいます。

特に、病気ででもあるときには、「人間神の子、病気はない、病気のように見えていてもこれは嘘だから、すぐ治る」
と朝晩ニ十ぺんずつ口のうちで称(とな)えるようにするとその病気が速やかに治るのです。
仕事のときでも試験の時でも、まず最初に心の中で「神様と一緒させていただきますから必ずよくできる」
と五、六ぺん称えてから、本当に神様と一緒にいるつもりでおれば必ずよくできるのです。
「できる」という言葉を常にとなえているようにすれば、常に「できる」という心になり、
その心は必ず形にあらわれて、本当にできるようになるのです。

人間は、なりたいものになれるのではなく、なれると思うものになれるのです。
人間は、しようと思うものが必ずしもできるのではなく、できると思うものが必ずできるのです。
運がよくなり、偉くなり、達者になり、立身出世できるようになるには、精神の生かし方を知れねばなりません。
(つづく)

1169ハマナス:2012/08/23(木) 13:02:56 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんにちは。

人類への無条件サービス (『新版 生活の智慧365章』P.229より)

 若しあなたの事業の行末を改善しようと思ったならば、あなたの心に明るさを持つこと、
歓びを持つことが必要である。神は光明であり、歓喜であるから、神の賜を受けるために
心の波長を合わすには是非明るさと歓びとが必要であるのである。つぎに既に今まで与え
られて来た賜について感謝の心を起こすことである。失敗をぐじぐじ思い患う暗黒な感情は、
更に次の失敗を導き出す前触れであるに過ぎないのである。

 次に、「神は自分の父であり、無限供給の本源者である」ことを心の底深く念ずること
である。そしてその無限供給の本源者より、今自分にその無限の供給が既に与えられ既に
現象化しつつあることを信念深き予期の心をもつことである。そしても一つ大切なのは、
今自分の眼の前にある「何か」を人類への無条件愛行(サービス)として実践することである。

感謝合掌

1170SAKURA:2012/08/23(木) 21:35:26 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 昨日とはちがう自分 ) 

―――― 昨日とはちがう自分  ―――――
| ❤わたしは実際、いままでに一回も高い山に登った経験がありませんし、
| また現在もそうしたいと思わないのですが。

 あなたがいままでにそう願ったことがまったくなかったのでしょう。もち
ろん困難なことを実行するためにはかなりの努力が必要ですから、そうした
いと非常に強く願う必要があります。しかし、あなたがたゆまぬ努力をする
ならば、かならずや偉大な成果がもたらされるものです。

 わたしはある若い女性のことを思い出します。彼女は他の分析医からまわ
された患者ですが、そのとき彼女についてなにも知らされていませんでした。
約一年間、彼女を診たのですが、ある日、前の分析医がやってきてこういっ
たのです。「先日、街で彼女に会いましたが、大変はれやかな表情をしてい
ました。生き生きとして、輝かしく、とても幸せそうに見えたんですが、い
ったいあなたはどんな治療をしたのですか」。わたしがその医者に彼女のど
こがいままでとちがうのかを聞いたところ、こういうのです。「知らなかっ
たのですか。あの子は分裂症だったんですよ」。実際にわたしはそんなこと
は知らなかったのです。だからなんの先入観もなく、彼女と接することがで
きたわけです。そしてその結果、快方に向かったのでした。

 同性愛についても同じことがいえます。かっての精神分析医は同性愛的傾
向は治る可能性がほとんどないと考えていました。事実、治療が成功した例
はきわめて少ないのです。しかし、一部の分析医はそうは思っていませんで
した。わたしたちは長い間治療をつづけていて、同性愛の患者でも、ほんと
うに自分が治りたいと思っている人には、ちゃんと治るチャンスがあるとい
うに自分が治りたいと思っている人には、ちゃんと治るチャンスがあるとい
うことに気づいたのです。現在、わたしたちは多くの治療の成功例を耳にし
ます。同性愛の基本的性質は変えることはできなかったのですが、本人の同
性愛にたいする見方は変えることができました。
               <つづく>          NO・Ⅰ

1171SAKURA:2012/08/23(木) 21:37:01 ID:jH5uEFzM
               <つづく>          NO・2
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1170投稿の続きです

 これはいわゆる自己実現の一種でしょう。学校で児童が学力が足らない児
童として分類されてしまうと、ますます成績が低下してしまうものです。こ
れは教師の児童にたいする期待とも関連があります。子どもたちはそのこと
に気づいています。そのうえ、児童たちはたとえ、その学級にどんな名称が
つけられていたとしても、自分がどんな学級に入れられているかをつねに気
にしています。したがって、彼らは自己にあまり多く期待しないようになっ
てしまうのです。学力が低い児童といってもその多くは、ちょっと成長が遅
くて、なにかの加減で勉強が阻害されるような問題をもっている子にすぎな
いのですから、適切な勇気づけさえしてやればぐんと成績があがってくるの
です。

 ちなみに、連邦刑務所長は囚人の扱い方について、最近は、つぎのようなこ
とを述べています。

「人を扱うときに、現状のままの人間としてそのひとを扱えば、その人は現状
のままにとどまっていっこうに進歩しないものです。しかし、君たちはこう
あるべきだ、あるいは君たちはこうすることができるといった態度で囚人を
扱えば、おそらく囚人はそのような人間になっていくでしょう」

 わたしたちはみんな自分が考えている以上に、はるかに多くのことを実行
することができるのです。しかし、それにはまず第一に、自分がそう信じる
ことが大切です。みずからにたいして変化あるいは進歩を求めて積極的な自
己催眠を施すことが必要なのです。
                              再合掌

PS:トキ様
この様にみていきますと、“自覚次第“で、人間すべて【霊的人間】です〜〜ョネ!!
努力次第では【自己実現は叶う…?】では?“叶うにはどうしたらいいのか〜〜〜”
勿論!!!【霊的人間=私は神の子無限力】でしょうかしら〜〜〜ン??私の心に
【自己催眠を施す…】のは、それは勿論【祈り…】でしょうか??トキ様は、どう思われますか?

1172ハマナス:2012/08/24(金) 09:10:20 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
おはようございます。

神の供給を受けるメイン・パイプ (『新版 生活の智慧365章』P.230より)

 失敗の最大の原因は、潜在意識内にある生活態度――神観――人生観――人間関係――
と云うようなものが正常でないことである。

 人々は金銭を求めたり、物資を求めたり、協力者を求めたり、健康を求めたり、愛人を
求めたりするけれども、これら個々のものは、全体のものの一部的な断片であって、主要
なものではないのである。全体が既に「実相世界」に於て与えられているのに、人々は
その全体が流入する「心のパイプ」となろうとしないで、個々の断片を求めようとする
のである。主導管(メイン・パイプ)をつめて置いて、枝のパイプで何ものかを得ようと
するのであるから、それらのものが得られる筈がないのである。何よりも神を正しく理解し、
夫婦の心的関係を正常にすることが神の供給を受ける主導管を開くことになるのである。

感謝合掌

1173a hope:2012/08/24(金) 10:15:35 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

一人の若い母親の話


一人の若いお母さまが、まだ生まれて六カ月ばかりの赤ちゃんを負(お)んぶして道場へまいられました。
そして「先生、お陰さまで私の六年間の肺病が治りました。御礼申上げます」と言われるのです。

お陰さまと言われる理由は、この若いお母さんは私の書いた『生命の實相』という本をお読みになって、
心がくらりと一転して肺病を恐れなくなった結果、生きる力が強くなって、
さしもの永い間の肺病も治ってしまって、お陰で赤ん坊までも生まれたと言うのです。
その赤ん坊を生むときもほとんど無痛で痛まないで生まれたと言うことです。

なぜ、この若いお母さんは今まで肺病が治らなかったかと言うと、肺病を恐れていたからです。
人間は何でも恐れる相手には負けるものです。試験に往っても、負けると思ったら及第できません。
普通のお母さんがお産をなさるときに陣痛と言ってお腹が痛むのも、お産を恐れるからです。

この若いお母さんが無痛安産でお産の時に痛まなかったのも、『生命の實相』を読んで
お産は病気じゃないから痛まないのが当然だと思って恐れなくなったからです。
(つづく)

1174SAKURA:2012/08/24(金) 22:17:08 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 積極的に考えよう ) 
――――― 積極的に考えよう  ―――――

|❤それはおそらくク−エがいったような積極的思考法なのでしょうね。
|「わたしは日ごとによくなっていく」といったようなたぐいの元気づけ
|の会話は、アメリカではよくみんなの間でかわされています。しかし、
|こんな会話は、かえってわたしたちにとってマイナスになりはしないかと
|思うのです。困難を否定してみても、それを克服することにはならない
|と思います。それでは問題を解決することにはなりません。かえって困
|難に直面するのを妨げているようなものです。ほほえみを浮かべてなに
|もかもうまくいっているような顔をしている人がいるかもしれませんが、
|じつは相も変わらず古い錨を重々しく引きずりながら生活しているので
|ないですか。

 とすれば、それは残念なことです。積極的思考というのは、そのなかにお
おいなる真理を含んでおり、その効果が過大なこともあるし、ときに発揮さ
れないこともあります。あなたが、ひとつの「決断」をするときに意志の力
を用いたとしても、それは向上のための道具のうちほんのひとつだけを使っ
ているにすぎないのです。とにかく決断力こそ大切なのですが、幸せという
ものは自分自身を無理にそちらに向けても得られるものでないのです。

 すべての幸せを意志の力だけで得ようとするのは、自分自身を尊重してい
ないということになるのです。あなたは、進歩というものはなにか上からの
力によって与えられるべきものであって、自分自身にはそういう意欲はない
ものと考えているようですが、そんなことはけっしてないのです。
 ほんとうの意味での成長というものは自分の内部からのみ起こってくるも
のなのです。あなたは自分というものを動かす方法を身につける必要があり
ます。自分の側に立って意志の力を生かしていく必要があるのです。しかも
その際、あなたの自己が自発的に活動するようにしなければなりません。も
ちろん、そうはいっても、そのための多少の説得の技術は必要となってくる
でしょう。
                 <つづく>         NO・1

1175SAKURA:2012/08/24(金) 22:17:57 ID:jH5uEFzM
 <つづく>         NO・2

こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>投稿の続きです

 こうして、あなたが真になしとげたいと願っていることを完遂するために
は、意志力を必要とします。わたしたちはよく達成不可能と思われるような
目標を設定することがあります。「やりたいと思えば」なんでもできると考
えている人は、自分をよく知らない人です。それは限度をわきまえていない
傲慢な考え方です。真の自分との闘いは、際限のないものですが、わたした
ちの実際の能力や興味や努力の程度によって規定されています。わたしが画
家になろうと「決心」しても、その才能がなければ無意味でしょう。しかし
実際は、もし才能がなければ、願望は出てこないのです。

 あなたの真の自己は、見たことも聞いたこともないような事柄を実行しよ
うとは願わないはずです。潜在的な可能性がなければ実現しようと思うこと
もないでしょう。もちろん、人間は自分がこうしたい、こうなりたいという
手前勝手な考えをいくらでももつことができます。しかし、それはあくまで
頭のなかだけの考えであって真の意欲ではないのです。

 自分の内部から必然的に生じた目標ではなく、他人を喜ばすために、ある
いは自分がこうありたいというたんなる空想を満たすために設定した目標に
向かって自分の意志力を行使しようとするならば、わたしたちはみずからを
一種の怪物か、機械人間にしてしまいます。同時に、生き生きとした自分を
あざむくことになるのでしょう。たんある意志力によって統一を保っている
人間はたくさんいます。そんな人は恐ろしいくらい努力しているのですが、
其の結果は努力に値するものではありません。そういう人たちと一緒にいて
も、ちっとも楽しくないし、またその人たち自身も楽しくないのです。

PS:トキ様
一つの「決断」があり、それに向けての行動はやはり“ボディティブな感情”が大事ですネ!!
「意志だけ…」では、という感じは、私にもありますが、これが「精神波動」を、起すのは、
【心の法則…】にはいっていく事!これが出来ることによって【狭い門が?広き門】に、
入れる事なのですかしら〜〜〜ン!!私の意志は、今の「最大の難問題」を、一つだけですが?
【発見…認識…】です!!今から、冷静に対処する為【修正・修正…】です〜〜〜。
トキ様も「意志」を貫くときは、その時の“感情”はどうなんでしょうか〜〜〜???

1176ハマナス:2012/08/25(土) 05:47:25 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
おはようございます。

想念と現実  (『新版 生活の智慧365章』P.231より)

 「善き樹は善き果実を結ぶ、それゆえに果実を見てその樹の善悪を知れ」とイエスは
教えたが、その人が良き運命にめぐまれないと云うことは、その人の想念が「本当のもの」
でない証拠であると云うことができるのである。想念は原因であり、現実は結果であるから
である。

 その人の想念が「本当のもの」でないと云うことは、その人の「本来の姿」即ち実相から
来る想念ではなく、現象にとらわれて実相には存在しないような「不完全さ」を心に常に描
いていると云うことである。もっとその人自身の想念を実相の明るさに近づけ、人を憎む心や、
攻撃精神をなくし、万物と和解して実相そのままの完全な調和した想念にあらしめたとき、
現象界の不完全さは消えてしまい、実相そのままの完全にして調和した状態が現象界にあら
われて来るのである。

感謝合掌

1177a hope:2012/08/25(土) 07:30:21 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

排便(うんこ)の出ない赤ん坊


ところが、この若いお母さんは、お礼を言われるだけで、もうお仕舞いかと思っていましたら、
背中の赤ちゃんがムズかり出しました。
お母さんは赤ちゃんを安慰(あや)すように揺すぶりながら、
「ですけれど先生、ちょっとわたくし引掛りました」と言われるのです。

「何ですか。何に引掛ったのですか」と私が言いますと、
「先生、この赤ちゃんのウンコが出ません。」
「出るときが来れば出るでしょう。」
「だけど先生、ほうって置いたら一週間でも十日でも出ないのですもの。」
「出なかったら、面倒がなくて助かりましょう。」
「イイエ先生、赤ん坊はウンウン呻って泣きだしていかにも苦しそうです。」
「なぜウンコが出ないのかあなたに判りませんか。」
「判りません。先生にそれを教えていただこうと思ってまいりました。」
「それはあなたの心が赤ん坊に引掛っているからです。
あなたは御自分でそうおっしゃったじゃありませんか。」
「ですけれど……」
「ですけど?やはり引掛らせて置きたいですか?」
「先生、心配です。ウンコがでないとウンウン呻るんで、赤ん坊が死にそうなんですもの。」
「死ぬかもしれませんな。」
「死んだら困ります。先生、助けて下さい。」
「引掛っていては思うように出ないのは当たり前じゃありませんか。
だから、その引掛る心を捨てなさい。出るべき時がきたら出るんですから。」
「だって、ウンウン呻って死にそうなんですもの、浣腸せねばいられません。」
「浣腸したかったら、浣腸なすったらよろしい。」
「ですけど、先生、いつまでも浣腸しなければ出ないでは、大人になってから困るだろうと思います。」
「困るでしょうね。」
「先生、困らないようにしてください。」
「困ると思うから困るようになるのです。困らないようになるには困ると思わぬことです。
ウンコは出るようになっているのです。孔があるところに溜まっているのですから、
出るより仕方がないのです。それが出ないのは心にウンコが引掛っているのです。」

こう私は申しまして、この若いお母さんの恐怖心を除(と)ってあげるために、
こんな話をいたしました。次に話すところは本当の話なのです。
(つづく)

1178a hope:2012/08/26(日) 08:08:07 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

肛門の無かった子供


それは東京の本所に住んでいる或る魚屋の主婦(おかみ)さんでありました。
或る日一人の男の子を連れてこられて申されますのに、
「先生、この子供は浣腸しないとウンコが出ないのです。近頃では浣腸してもなかなか出ません」と訴えられます。
そこで私は、「刺激というものは馴れてきますと、強烈な刺激でないと感じなくなりますから、
浣腸のような人工刺激で排便を促していたら、次第にその浣腸薬を強くしなければ出なくなります」と言いますと、
その魚屋の主婦さんは、

「実は先生、この子供は当たり前の肛門がなかったのです。
生まれたときには肛門というものが全然なく、放って置いたら死ぬというので、
早速この辺という所を切開して貰いましたら、もう直ぐそこまで直腸がきておりましたので、
そこへ人工肛門を造っていただきました。
人工肛門ですから肛門括約筋がないので、思うように肛門を締め括(くく)ることも開くこともできないのです。
ですから、毎日適当の時を見計らって浣腸するしか仕方ないのです。」
「なるほど。」
「最初、人工肛門を拵(こしら)えていただきまた頃には、ちょうど適当の大きさでございましたけれども、
だんだん子供が成長するに連れて、孔(あな)の周囲の肉が太ってまいりまして、段々孔が小さくなってきました。
それで浣腸しましても便が出難(でにく)くなったのでございます。」
「あなたは時々腹が立ってムシャクシャしや致しませんか。」
「腹が立つことは悪いと知っていますから腹が立っても怺(こら)えているようにして決して外に出しません。」
「そうでしょう。穢(きたな)いものを腹の中に溜めていて、それを出さない心でいるからだ。」
「そんなら腹の立つときには、その腹立ちを口に出した方がよろしいでしょうか。」
「そうでもありませんね。言葉に出して言い合えば互いにいっそう腹が立って、穢いものが腹に溜るでしょう。」
「それでどうすればよろしいのでございますか。」
「さらりとその腹立ちを水に流すのですね。そしたら、サラリと、そのお子さんの便も流れて出ることになりゃしませんか。」

こう言ってあげましたら、その翌日その魚屋さんの内儀(おかみ)さんがやって来て、
「先生昨日から、この子供の便が浣腸をしないでも自然に出るようになりました」と言われたのです。……
           ※
私はこの話をしてあげました。
そして「人工肛門の子供でさえもこのように母親の心持一つで自然に排便があるようになるのです。
ましてあなたのお子さんなどは自然の肛門があるのですから、あなたの心さえ引掛けねばだいじょうぶですよ。
溜っているのは子供の便でなしに、あなたの心持なのですから。」

こう申上げた翌々日、その奥様は私の道場へ出て来られて、
「先生、今日、生れて初めて赤ん坊が自然に排便をいたしました。もう嬉しくてありがたくて堪りません」
とお礼をいわれるのでありました。
(つづく)

1179うのはな:2012/08/26(日) 22:45:49 ID:DYtKCfk2
  宇治のひととき  谷口輝子 先生

 私たち夫婦は例年のように宇治へ出かけて行った。宇治に於ける四日間は曇り日が
つづき、小雨の降る日もあった。智泉荘の玄関を出ようとする私たちに、係りの人は白の
ビニールの雨ゴートを着ることは初めてであった。着物の裾が一尺ばかり出ていたが、小雨だったので
よごれることはなかった。

 宝蔵神社の大拝殿は、いつもながらの超満員で、信徒たちは毎日のように座を詰めさせられていた。
広い檀上にいた私は、詰めこまれる人たちを気の毒に思ったが、皆さんには苦しそうな表情は見当らず、
明るい輝いた眼をした人が多かった。講習会に出席することは、講師の講話はもとより、体験談を聴くことは、
私の魂の大きな喜びであった。御教えによって救われたことは、話す人も喜びいっぱいで話されるが、聴く人たちも喜び
に満たされるようである。

 体験談は顕著なものばかりなので拍手が止まなかった。中には、若き医学博士が元気な姿で、熱情をこめて語られたのも
珍しかったが、ブラジルよりはるばると、訪日団団長として来られた竹本清光氏(地方講師)の夫人の体験談も異彩を放っていた。
竹本清光氏は、戦後幾度日本へ来られたか知らないが、二、三年前に来日したされた時、飛田給道場に滞在せられた。竹本氏は夫人を
亡くされたが、長男、次男に嫁を貰って家業を継がして居られた。鰥となった竹本氏が飛田給道場で聴講して居られると、氏の隣に中年の
一婦人が座って居られた。隣同士なので、つい話しかけると、その婦人はアメリカから来て居られた未亡人であった。
二人は親しくなっていると、或る日、竹本氏よりプロポーズされた。
“神様の道場で隣りに坐っていたということは、何か神縁であると思う”という意味の言葉であった。
二人はスムーズに婚約することになり、ブラジルの伝道本部で結婚式を挙げられた。その時の式場の写真を、私はかつて見せて貰ったことがあるが、
ブラジル住居の竹本氏と、アメリカで暮らしていた人との結婚式なのに、黒の紋付裾模様姿であった。
いくら外国在住でも、日本人は矢張り日本的な服装をしたいものらしいと嬉しかった。

 竹本夫人は、物静かな誠実な雰囲気をもって雄弁に話つづけられた。
先妻の遺された男四人、女四人の子供たちと仲よく暮し、一家二十人同居し、近所へ嫁入っている娘たちと
毎日顔を合わしているので、二十五人の家族全員什一会員だと言われた。長男が一番生長の家の信仰に熱心だそうだから、
その円満な大家族の楽しい生活が想像されてうれしい。
 私たち夫婦が十三年前にブラジルへ初めて行った時、ノーバエスペランサ市の講習会場へ来られた竹本氏は「一家十二人全員受講
しています」と言われた。その十二人のうち、最初の夫人は亡くなられたが、今は二十人の大家族が、仲よくコーヒーやその他の栽培に
働いて居られる。ブラジル在住の日系人は大家族が多いが、御教えあばこそ大調和して居られることと有難いことに思う。
竹本夫人は、先妻の遺子たちと調和した家庭を作りながら、夫を助けて光明化運動に活躍しておられ、白鳩会員も増加の一途を進んでいる。
私たちの住む智泉荘は訊ねる人は少ないが、夕食後のくつろいだひとときにと、二日目と三日目に訪ねて来た人があった。
三日目の朝、秘書に手紙をことづけたМ子という女性があった。その女性は何年か前に我が家にいたことのある人であった。

『・・・今晩お風呂から上られましてお暇なお時間がございましたら、マテナ(指圧)をさせて下さい。何んとか、かんとか口実を作り、奥様に
甘えてお側へ行かせて頂く機会を作ろうとする私でございます』私はこの率直な手紙を見てほほ笑ましくなり、“来てください”と秘書にことづけた。

つづく

1180志恩:2012/08/27(月) 00:15:00 ID:.QY5jUA6
うのはな様

輝子奥様の慈愛溢れるお人柄が,滲みでている、すてきなご文章を書き込んで下さって、
ありがとうございます。信徒の方々への愛情も、すごく感じられますよね。

宇治大拝殿も、満員で、詰めて詰めて、という状態だったのですね。
東京でも、入り切れないときは、壇上にも、皆様あがって、そこへ正座されて,拝聴していました。

1181「訊け」管理人:2012/08/27(月) 08:14:19 ID:???

 『生命の實相』23巻49頁より謹写――
 
 わたしは今まで諸所の説明において「わが心が迷うて病気を造る」というような意味のことを書いたことがあったでありましょうが、それは一足飛びにこの真理を語るには早すぎたので、曖昧に説明してあったのでありまして、今こそわたしは真実を語るのであります。


(つづき:http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65684189.html

1182a hope:2012/08/27(月) 08:21:49 ID:r8H4x9xE
>>1179 うのはなさま

輝子先生の「宇治のひととき」謹写ありがとうございます。
当時の宇治での講習会の様子が、目に浮かんでくるようです。
竹本清光氏(地方講師)の夫人の体験談も素晴らしいでうね!
また、志恩さまがおっしゃっていますが、昔は東京の講習会も人々があふれていたのですね。
それが「真の御教え」や「真の体験談」であれば拝聴するだけで自分の魂も救われるのですから、
人々が集まるのは当然のことなのかもしれませんね。
つづき楽しみです!

1183a hope:2012/08/27(月) 08:24:29 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

嬉しい、ありがたいは何処にもある


皆さん。
あなたたちは毎日自然に排便をしてこのお母さんのように嬉しくありがたく感じなさいますか。
嬉しいありがたいことは到る所に満ちているのに多くの人たちは嬉しいともありがたいとも感じません。

嬉しいありがたいということは、「この事柄」でないとありがたくもないというような一定の事柄ではないのです。
人間の心の目を開いてどこにもある本当のありがたさを悟ったら、
何時でも何処にでも排便の中にでもありがたさがあるのです。

それだのに、毎日不自由なく当り前に暮らさせていただいている私達は、
まるでありがたい中に浸っているのと同じことです。
(つづく)

1184うのはな:2012/08/27(月) 08:39:56 ID:20AcZStc
>>1179つづき

 約束の八時半にМ子はやってきた。夫の仕事の邪魔にならないようにと、奥の八畳へ通した。
近況報告をいろいろ聞きながら、私は座蒲団に坐って彼女に背を向けた。
 М子は私の頭から、ぐんぐん指で強く急所急所を圧しながら、次第に体を下へと圧し進んで行った。
私は痛かったが、しかし快かった。彼女は一風変わったところのある女性で、幼い兄妹と共に、両親に
早く死別したので、母親代りとなって働き、弟妹を養って来た。男勝りだが、男勝りにならざるを得ない境遇であった。
そのために婚期を逸してしまい、今三十を幾つか過ぎて独身である。

 彼女は御嶽山に二年くらい修行に行って、そこの寺の坊さんにマテナを習って帰郷し、目下郷里でマテナを職業としている。
彼女は声をひそめて私に話したことは、世にも珍しいことであった。
彼女は誰かに聞いた福井県敦賀の或る山に出かけ、そこの山に懸る滝に打たれて、谷口先生の長命を祈ろうと決心した。
山を登りつつあるとき、彼女の嫌いな蛇が一匹現れて、彼女を振り返って、じっと彼女の顔を見つめたのでゾッとした。
恐かったが、敗けるものかと元気を出して登って行くと、蛇は彼女の道案内でもするかのごとく、ずっと彼女の行こうと思う方向へ先行した。
寒い冬であった。

「蛇は冬眠しているのじゃないの」「いいえ奥様、蛇は出ていました。それが不思議に思われました」
彼女の声は怯えたような響きをもった。何週間か滝に打たれていると、或る日、滝の中にいる彼女の眼前に、パッと光が射したと思う瞬間、そこに
現れたのは蛇のような眼をした怪物の顔であった。大きな大きなと彼女は両手でバケツくらいの輪を作って、
「こんな大きさの顔でした。恐くて恐くて逃げ帰ろうと思ったが頑張って、翌日また滝に打たれていると、今度はまた鳥のような形の大きな顔が現れました。
私は気が狂ったのではないかと思いながら、敗けまいと敗けまいと頑張りました。
家に帰って来ますと、誰も私が気が狂っていると言う者もなく、常と同じでした。
奥様、ああいう変化の世界があるということを、私は初めて知りました」
と、彼女は繰り返して言った。その山に住む人の家に行ってその変化を見たことを話したら、その家の主人は、「そんな話を聞くことは私は嫌いだ。うちの家内は
そんなことをやっているが、、、」と不快な顔をされたので、そこを去って、その主人の妻である女の行者を訪ねると、「あんたにも見えたかね。あんた霊覚が出来たのだよ」
と言われた。生長の家の教えが多少とも心に入っているМ子は、「あんな怪異の世界は本物ではない」と否定した。

「奥様、それでよろしいでしょうか。私は気が狂ったのではないでしょうね」
「貴女が蛇に見つめられて敗けたり、大きな顔に恐れて敗けたりしたら、貴女は気が狂ったかも知れないけれど、貴女はしっかりしていて、それらの無気味な
ものに敗けなかったから良かった。また、女行者に『霊覚が出来た』とおだてられて、何か偉くなったように自惚れたら、或いはのぼせ上って気狂いのようになってしまったかも
知れないけれど、貴女はそれらの怪しい現象に惑わされることがなくて良かったね。そういう怪しい現象に執われないで、無視してしまったらいいのよ。そういうことに興味をもって惹かれて
行くと、良い運命は得られません、、、、」

 私はМ子と話していると、若い頃のことを追憶するのであった。

つづく

1185a hope:2012/08/27(月) 09:54:22 ID:r8H4x9xE
>>1182訂正
下から3行目

それが「真の御教え」や「真の体験談」であれば・・・
       ↓
それが「正しく悟られた教え」や「真実の体験談」であれば・・・

「真」のという言葉は、使わないことにしたのでした。
すみませんでした。

1186「訊け」管理人:2012/08/27(月) 10:10:45 ID:???

『生命の實相』38巻64頁より謹写――

◇8月27日

 愛するも憎むも心であるが、それは本心ではない。愛憎の心は妄心である。妄心とは本来〝ない〟心である。本心は愛憎を離れた心である。平等の心である。愛憎を離れた平等の本心のみ、よく自己の心中の敵を殺し、自己の内なる敵を殺す者よく自己の外に敵手を必殺する。
 無敵流の兵法(※)の極意はここにある。



<註>

※ 無敵流の兵法
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65626135.html(復興Gさまご謹写文です。)

1187ハマナス:2012/08/27(月) 13:03:58 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんにちは。

SAKURA様
宇治盂蘭盆供養祭の詳しい様子をありがとうございます。SAKURA様は、描写がお上手ですね。
お蔭さまで、楽しかった大祭を思い出しました。

例年塔の島で行われる予定の盆踊りが、雨の為、宇治の大拝殿で行われました。
そのおかげで、年配の方の中で、歩かないで済み、盆踊りを見れたと言う人が沢山いました。

毎年盂蘭盆供養祭に来ていましたが、今年は久しぶりに、盆踊りに参加しました。
青年会の方もいらして(浴衣姿が可愛らしい)、教区で、何度も練習したせいか、どうにか
踊れました。
何もかも忘れて、馬鹿になってただただ、踊りました。とっても、楽しかったです!!
ただ、喜んで踊っていると、自然に、心も明るくなり、楽しくなる点で、笑いの練習と、
同じだと、思いました。

古事記の中に、「天照大神が岩戸にお隠れになり、困っていたところ、天宇受賣命
(あめのうずめ)が、裸踊りをしたら、八百万の神が大笑いをしました。それを聞いた、
天照大神が不思議に思い、岩戸をちょっと開けた所、隠れていたアメノタヂカラオが
その手を取って岩戸の外へ引きずり出しました。そして再び、高天原が明るくなりました。」
と言うお話がありますが、笑うことも、踊ることも大切なのですね。

踊り終り、壇上から降りますと、練成仲間たちが、真ん前で見ていて、「○○さーん、素敵
だったわよ。」と声をかけてくれました。
花道の両サイドにも、教区の方、他教区の方、練成参加者などが、「良かった!」「ゆかたも
きれいだったわよ!」と、握手し、私たちを讃嘆してくれて、あたかもスターになった、気分でした。

フィナーレは、徳島の阿波踊りで、大勢の参加者が輪に加わり、みんなで音楽に合わせて、
踊りました。皆さん、笑顔、笑顔で、大拝殿中が、喜びで満たされ、“一つ生命”を感じました。
あー、生長の家をやっていて、良かった、こんなに素晴らしい、仲間がいる、魂の姉妹、兄弟がいると、
ただ嬉しいそして、楽しい、感動の一夜でした。

大祭奉仕も、割合楽な係りでして、先輩の方々から教えてもらい3日間無事に務めさせて頂きました。
同じ係りでご一緒になった方からは、徳久先生がアメリカで講話された珍しいテープを頂き、色々の方の
お話しも伺えて、楽しかったです。
神様からのプレゼントなのかなと思いました。

皆さま、機会がありましたが、どうぞ宇治の練成に参加されて、ご奉仕されて下さい。
心からの歓びを得られます。
生長の家宇治別格本山の電話番号は、0774(21)2151(代)です。

感謝合掌

1188うのはな:2012/08/27(月) 14:10:47 ID:NhCcI7Jo
>.1184

 私は23歳の時ある宗教に入信した。そこの道場では、多くの信者をずらりと並べて
鎮魂を指導していた。指導者たちは熱心だったが、霊媒を養成しているかに見えた。
霊が憑って来た信者は、さまざまな状態を見せていた。

 私は毎日道場へ通って、冷静にその場の状況を見ていた。憑依現象に未知だった私は、
初めは唯不思議なことに驚異のまなこを見はっていたが、日が経つにつれて興味がうすらいで行った。
何故なら、私と同じ家(今井楳軒宅)に住んでいた青森県人のY女史は、毎日毎日霊界から電話がかかって
来て忙しかった。私の他四人の女性と暮らしていたが、皆で食事中でも、霊界から電話が来ると、Y女史は食事半ば
に箸を投げ出して、霊の示す場所へ飛んで行くのであった。

 それは朝のこともあり、昼のこともあり、夜中のこともあった。或る日などは、着物も羽織も泥まみれの臭い姿で帰ってきたので
「どうなさったの」と訊くと「溝のそばを歩いていたら、狸がここへ這入れと溝の中から呼ぶので、はいったのよ」などと言われた。
私たちは臭さをこらえてYさんのよごれた衣類を洗ってあげた。Yさんの生活は乱れ果てていた。
Yさんは人はよいのだが、霊のおもちゃにされているようで、女子大出のインテリの俤は失われて、唯だらしのない生活をしているので、
私は愛想が尽きる思いをしたものだった。

 Yさんの他、幾人も霊媒的な人を知ったが、それらの人たちは、私は少しも尊敬できるような生活をしていなかった。
むしろ不幸な人たちだと思った。
教団の高い位置にいる人ですら、憑霊にまどわされるのか、事実無根のウソを言うのを知ると、私はいよいよ霊媒現象を
否定するようになってしまった。

 敦賀の山の家に住むそこの主人が、霊異の話に不快な顔をするのは、霊覚のある妻なる女行者によって、彼は幸福を得ていない
ことを意味すると思う。当り前の生活を、愛をこめて生きられたら、それが幸福なのである。

 『愛が魂に目覚める時』 谷口輝子先生 著

1189ハマナス:2012/08/27(月) 20:32:57 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

棘立った想念感情  (『新版 生活の智慧365章』P.231より)

 健康を得ようと欲するならば、先ず自己批判から始めなければならない。自己が周囲に
対する感情又は想念が棘立ったものであるか、円満なものであるか、他の人の欠点が目に
つきすぎて、それを批判し憎むような攻撃精神が多くはないか。

 棘立った想念感情があるならば円満な想念感情に置き換えるようにしなければならないし、
攻撃精神があるならば愛と赦しの想念感情にそれを置きかえなければならない。イライラ
した焦燥の感じがあるならば、心をもっと落ち着けて現象にひっかからないで、事物の底に
ある実相の円満完全さを見るようにしなければならない。欲求不満足の感じがあるならば、
「実相に於ては万事満ち足れり」と念じて、既にあらゆる欲求が満足せしめられている円満
なる状態を神想観中に心で観じて欲求不満足の感を取去るようにしなければならないのである。

感謝合掌

1190SAKURA:2012/08/27(月) 21:48:28 ID:jH5uEFzM

トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
>>1097>>1098>>1167>>1170>>1171
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 積極的に考えよう ) 

――――― 積極的に考えよう  ―――――

|❤アルコ−ル依存症だった人はしばしばそうした印象を与えます。彼らが大きな苦悩
|をもっていることはおわかりでしょう。彼らはそのために大きな犠牲を払っているの
|ですが、だからといって、その努力が価値のないものだとか、こころから自由になり
|たいと願った結果、生じたものではないとはいえないと思うのですが。

 
そのとおりだと思います。彼らの悲劇はつぎの点にあるようです。つまり彼らはエネル
ギ−を自分のいやなことを避けることに使わず、理想像を追う方向にばかり向けていること
です。たしかに彼らは重要な第一歩を踏み出したといえますが、そこからさらに前進する
必要があります。

要するにわたしのいいたいことは、もし自分はこうありたい、このような人間になりたい
と思うならば、いままでに身につけてきたあらゆる事柄、つまり感情、直観、知能、意志力
など自分のすべてを活用しなければならないということです。そうすれば、その結果得られ
るものはきわめて大きいものとなるのです。

          ======== * ========

|❤ではなぜわたしたちはそうしないのでしょうか。なぜそうした生き方をする人が
|少ないのでしょうか。

 
なぜなら、悩みつづけることにもまた隠された見返りがあるからです。ひとつにはわたした
ちは悩むことに慣れきっているのです。かえって、その方がこころ休まる思いがするのでしょう。
昔たどってきた自己敗北の道をもう一度たどり、つぎつぎと誤った行為を繰り返すことによって、
逆に安心感を得ているのです。

 わたしたちはこれからなにを期待したらよいかわかっています。それは、自分たちの世界を
よりよく理解し、その未来を予測し、ある意味で自由に動かせるようになることです。人間に
とってぜひとも必要なことのひとつは、自分が自分で理解できる世界に生きているという実感
です。これは、宗教におけるもっとも深遠な主張のひとつです。今日、わたしたちが安らぎを
得られないのは、さわがしい環境のためばかりでなく、周囲のことがよく理解できなくなって
いるという気がするからです。もはや昔の考え方が通用しないように思えるのです。

PS:トキ様 へ
「アル中依存症の方」は???私は、好きではないのです〜〜〜〜が?
「生命の実相」にも、「雅春先生」が記載されていますが〜〜〜><
“アル中の方”は、やはり(感情、直観、知能、意志力)が発揮できていない
という事なのでしょうか?つまりは【心の弱さ…迷い】からなのでしょうか〜〜〜??
この様な時は??「トキ様」は、どの様に「心の迷い…対処法」を〜〜〜なのでしょうか??

1191「訊け」管理人:2012/08/28(火) 07:53:28 ID:???

『生命の實相』38巻65頁より謹写――

◇8月28日

 これが和解の真理の応用である。和解の真理というものは、都合のいいことだけに和解しているのじゃ足りないのであって、悪く見えるものをそのまま素直に受けて拝む。痛み来たれば痛みに礼(らい)し、熱来たれば熱に礼し、下痢来たれば下痢に礼し、いかなる症状をも敵と思わず、自然療能の催しなりとして感謝して受けるのである。

(全文:http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65684465.html

1192a hope:2012/08/28(火) 07:53:37 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

なぜ、この赤ん坊は治ったか


それはとにかく、なぜ、この赤ちゃんの便(うんこ)が前には出なかったのでしょうか。
それは「便がでなかったら、この赤ちゃんは死ぬかも知れぬ」と恐れていたからです。

それから、私の話をきいてこの赤ちゃんの便が出るようになったのはなぜでしょうか。
それは、「人工肛門の子供でさえも自然に便が出るのだから、
まして当り前の肛門(おしりのあな)のある子供なら大丈夫だ」と便が出ないことを恐れなくなったからです。

本当に恐れるものは皆来るのです。
恐れさえせねば達者であるはずの子供が、恐れたがためにどれほど病気をしているか判りません。

たいていの悪い出来事は、本人か、子供か、親かの恐れる心が映っているのです。
(つづく)

1193うのはな:2012/08/28(火) 15:03:33 ID:uISmJ.rA
私たちの中の二つの「心」 藤原敏之 先生

 私たちの心の中には絶えず二つの心がはたらいているのであります。
一方の心は本能的欲望を満足したときに喜ぶ心でありますが、反面、そのことを喜ばないで
逆にあれはいけないこれはいけないことをしたナーと後悔し苦痛を感ずる心がります。

 この二つの心があるのであります。他人と取引きをしたとき、大変自分に有利に展開して大きな
利益をおさめた時など、“ああうまくやったナ。儲けた”と喜ぶ反面、心の奥底では“あれはちょっとまずいことをしたナ”
と自責の念で苦しむ心がはたらくものであります。犯罪を犯すような悪党とみえる人間でも上手に忍びこんで家人の気のつかぬうちに
沢山の財宝を盗んで逃走してみても、“よかった”と思う反面、悪いことをしたナ。もし捕まったらどうしよう”という不安が伴うのであります。

 これなども悪いことをしたという自覚があるからであります。善いことと悪いこととを誰よりも知っている証拠であります。
動物などはその点罪悪意識ははたらきません。それは動物は人間とちがって肉体についた欲望本能だけで生きておりますから、反省や罪の意識は起こらないのであります。

仏教でも釈尊は十方の衆生に悉く仏性があると仰せられました。また、山川草木国土悉皆成仏とも申しておられます。
人間や生きものだけではない。山も川も草も木も大地までも悉くみな仏であると申しておられます。
これなぞも肉眼で見てもわかるものではありません。生長の家では唯神実相論といって神以外のものは一つとして存在しないと教えられています。
神以外、仏以外のものもあるとする考え方や観方からは、このような深遠な真理は生まれません。

 生長の家は特定の神、仏を御本尊として祀ったり拝んだりする宗教ではありません。
自分の内にある生命を礼拝し、一切の事物の実相(生命と理念)を礼拝する教えであります。実相が神であり、目に見えない生命となって現象の奥にあって
万物を動かし生かしておられるのであります。その神の生命を分ち与えられてこの世に生を受け、今も生かされているのが人間でありますから、肉体としての存在
ではなく、生命としての本もの(実相)の人間は神そのものなのであります。それだから生長の家では人間は神の子であると教えられているのであります。

 すべての人間が神の生命を授かり、神の現れであり、神の心を内に蔵しているということは間違いないのであります。このことを一般には人間は万物の霊長であり、
どんな人間にも良心があるというのであります。この心を仏性、または神性と言うのであります。


『魂のめぐり逢い』 藤原敏之 先生著 P38〜

1194SAKURA:2012/08/28(火) 19:39:23 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043>>1044>>1052>>1057>>1058>>1063>>1068>>1073>>1087>>1092>>1093
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に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。 

実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?

■【ベスト・フレンド】  ( 混乱を静める方法 ) 

――――― 混乱静める方法  ―――――

|❤たしかに、わたしたち今日は、なにを頼りに生きたらよいのかわかっ
|ていません。事態はますますふたしかなものになっています。


 社会的な混乱も恐ろしいが、個人の混乱はもっとこわいのです。その混乱
を静めるにはどうしたらよいか考えつづけてきました。人はすべてある種の
科学者として人生を出発するものです。そして徐々に世界をこころで見るよ
うになっています。その見方にもとづいて、行く手に出現する無数の事実を
分類し、あるものは善良で、理想的で安全なものと判断し、他のものは悪で、
危険なものと見なすのです。そして、どういう行為が好結果をもたらし、ど
ういう行為がトラブルをおこしやすいかは、わたしたちが決めるのです。

PS:トキ様
今回の【生長の家…お家騒動】は、
最初の発端は??【社会事業団の行動…】からなのでしょうか〜〜〜??
今回!私自身でも“嫌な言葉=ネガティブ言葉”を、投げかけれますが〜〜〜?
冷静に判断しましても【生長の家の教え…】を、本当に学んだ方なのかしらん〜〜〜><

まるで〜まるで〜「吸血鬼・ゾンビ集団??」の様ですかしら〜〜ン?と
不思議なモノで、その様に見えてしまいます。
■「生長の家…」でよく言われます【調和精神…】を育てる事は“心”から
始まるのはないでしょうか〜〜〜?【“心〜〜”何処〜〜でしょうか?】
この“ボ−ド”を見ていますと本当に「生長の家…信者」なのでしょうか???

本日の“言葉”…当にその通りと思いますが、「トキ様」どの様にお考えでしょうか?

                                再合掌

1195ハマナス:2012/08/28(火) 23:49:08 ID:0kyCzJg6

神の子のみなさま
こんばんは。

万物はあなたの味方である  (『新版 生活の智慧365章』P.232)

 あなたの中には既に完全なる実相があるのである。あなたの実相は神であり、神聖である。
あなたの実相は神と偕にあるがゆえに、未だ嘗て生れざる不生の存在である。不生の存在で
あるがゆえに無始無終の存在であり決して死せざるものである。

 あなたの実相は神であり、普遍の神と一体であるがゆえにあなたの実相は万物と調和して
いるのである。あなたの実相は万物と調和しているがゆえに、万物はすべてあなたの味方で
ある。万物すべて味方である実相をあなたが悟るならば何らあなたにとって恐怖すべきことは
ないのである。恐怖すべき事がないゆえにあなたの心は平和である。心が平和であるがゆえに、
正しい智慧が湧き出て来て、時に随い、場所に応じて適当な行動をとることが出来るようになり、
凡(あら)ゆることが好都合に行くようになるのである。

感謝合掌

1196a hope:2012/08/29(水) 07:41:51 ID:r8H4x9xE

人生読本 谷口雅春先生著

恐れないようになる秘訣


では恐れないようにするには、どうしたらよいのでしょう。
それにはこの世の中には本当に恐ろしいものとては無いことを知ることです。
人間は神の子であり、この世界は神の造り給うた世界であり、
私達は神に護られていることを知ることです。

これを知らないで、恐れるなと言っても駄目です。
だから皆さんは『生命の實相』の本や、この『人生読本』をよく読んで、
なるほど人間は神の子だという事実を知るのがおそれなくなる一番の捷径(ちかみち)です。

高い所へ上がっても恐れて下を見れば、足が顫(ふる)えて堕ちるでしょう。
恐れないでおれば足が顫えないから墜ちないのです。
墜ちると墜ちないとは、恐れると恐れないとで決まります。

ですから皆さんは、常に心の内で「自分は神の子だから、決して悪いことは怒ってこない」と常に自分が神の子であることを思い出す毎に、
こう心の中で、又は口の中で称えて、自分が神の子であるという自覚を強めて、何事にもいかなる時にも恐れない心を養わねばなりません。

凡そ恐怖心は今現に無いことを恐れることが多いのです。
高い所に立って下を見て恐れるのも、墜ちたら怖いと思うのですが、
まだ墜ちていないのですから、墜ちたら怖いという考えは今は無いところの事柄を恐れているのです。

有ることなら恐ろしいのも無理はありませんが、無いことを恐れるのは馬鹿なことです。
試験に辷(すべ)ことを恐れるのも、まだ辷っていないのですから、
無いことを恐れているのですから、恐れるのは愚かなことです。

却って落第してしまった人は、恐れはしないものです。
却って高い所から落ちてしまった人は、痛かったかも知れませんが、もう恐れはしないものです。

凡そ、「恐れる」ということは今は「無い」ことを恐れるのですから、有り得ないウソの心なのです。
(つづく)

1197goro:2012/08/29(水) 11:13:07 ID:Cc8Z7oOY
心の法則「難聴」についての答えがありますので紹介しもす。

生長の家「今昔物語」

大聖師御講義『続々甘露の法雨』第6話 2012年07月16日(月)


聞きたくない心は難聴の症状をつくる

http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/951/

これは度々皆さんに申し上げる体験談ですけれども、滋賀県の大津に野沢宗一という郵便局長がありまして、
その人の御夫人が姑さんと仲が悪かった。そして姑さんの言うことを諾(き)かんもんだから終始小言を
言われておったんですが、或る日のこと、姑さんが憤慨してお嫁さんの頬ぺたをピシャリと殴ったのでした。

そしたらお嫁さんは殴られまいと思ってヒュッと体を躱(かわ)したんですね。その躱したのが却って悪かった、
掌(てのひら)の見当が狂って耳の上を殴ったのです。そのはずみで鼓膜が破れて、それ以来お嫁さんの耳が
聴こえなくなったのです。

しかも、鼓膜が破れた方の耳が聴こえなくなるのなら何も不思議はないんですけれども、鼓膜の破れない方の耳も
聴こえなくなったんです。これは変じゃないですか? もっとも極(ごく)側へ寄って、耳元で、電話口で
ものを言うように口を近づけて大声で話せば、聴えるんですけれども、もう一尺も離れてものを言うと聴こえないのでした。

この、聾(ろう)という病気は大変都合の好い病気でありまして、言いたいことは言い放題、他が弁解しようが、
反対しようが、どうしようが、自分の言う事さえ言えばよいのであって、他(ひと)の言うことは聞いてやらないでも
よいのでありますから、こんな便利な病気はない。

肉体は“心の影”でありまして、この人は“姑さんの言うこと聞きたくない”と心に終始思っておったものですから、
それで、耳の聴こえない病気になったわけであります。つまり、これは自分の生命力自身が聴こえない病気を拵えて、
姑からの小言に対して自己防衛した訳であります。

それは姑が外から殴ったのでありますけれども、すべて外の物に当って怪我するということも、実は、
その怪我しそうな処へ自分の身体を持って行ったということなんです──自分の身体は自分の自由なんですから。
姑は嫁の頬辺(ほつぺた)を殴ろうとしたので、耳を殴ろうとしたんじゃなかった。
耳を殴らせたのは彼女自身であったんです。


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