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本門の戒壇について

1野菊:2003/10/09(木) 09:02
またまた新スレッド作ってしまいました。<(_ _)>
本門の戒壇というとすぐ国立だの富士山だのとなってしまいますが、
私は一番重要なのは、自誓戒ということが本門の特徴だと思うのです。
偉い坊さんから授かるのではなくて、自らすすんで御本尊に誓う。
折伏といえどもこの例外ではなくて、説き伏せて、泣き脅して(笑)
某教団などとは違い、我々はそんなことはしませんが、そんな方法で会員を
増やしたところで、他人に強制されて立てた誓いでは本門の戒壇ではないわけです。
どうでしょう?

2空き缶:2003/11/04(火) 00:00
はじめまして、空き缶と申します。

興味のあるスレッドでしたので、若干趣旨と異なるかもしれませんが、書込みいたします。

「娑婆は究極円満の事相の寂光なり。この寂光を以って、本国土の娑婆と名づく。これ本門の戒壇なり。」(本門戒体見聞)

日隆上人の教説と聞きますが、どういう意味なんでしょう?

末法の娑婆世界=本門の戒壇という事でしょうか?

詳しい方教えて下さい。

3野菊:2003/11/04(火) 09:27
空き缶さんおはようございます。(^○^)
本門の戒壇の解釈は難しいですよね。未だよくわかりません。
御書にも「本門戒体抄」というのがありますよね。出勤前に目を通しましたが
よくわかりませんでした。
私のメールマガジンの今月号が丁度、宮沢賢治の本門の戒壇についてなので
読んでみてください。↓ ヒントになるかも?
http://www.reibyo.net/mag/backno/0009.html

教学的な難しい話は別の師にお願いいたします。

4川蝉:2003/11/04(火) 11:49
2 : 空き缶 さん今日は。

日隆上人の教学には全くの不案内ですが、本門法華宗管長の増田日紘師の著書『本門法華宗教義提要』があります。

「門祖(日隆上人)は、本国土妙をもって本門の戒壇となし、その中でも、末法は本時の寂光法界であるから、末法をもって戒壇院となし、娑婆即寂光、本国土妙戒壇の説」(170頁)

と解説してあります。

妙法不信謗法の充満するままの濁悪末法のままに本門の戒壇と見るのでなく、「衆生一同に妙法を唱えるところに、十界久遠の本門の戒壇が実現することになる」(同書170頁)と云うことのようです。
妙法により寂光化された娑婆を本門の戒壇とするようですね。

いわゆる国立戒壇のような戒壇建立論は主張されていなかったかのでは。

5空き缶:2003/11/04(火) 16:14
野菊さん、川蝉さん、はじめまして。
早々のお返事ありがとうございます。

「国立戒壇論」は富士門流の伝統が、「大政奉還・明治維新」後の日本政治の変換を受けて、うまれてきた思想であると思います。

戒壇論については、某掲示板にて「顕正会」の皆さんと意見を交わそうと思い、スレッドを立ち上げましたが、残念ながら閑古鳥が鳴いている状態です。

「富士門流信徒の掲示板」においても、現在の私の考えを箇条書きにして述べさせていただきました。

富士門においても、上代では「朝廷の帰依による、朝廷発願・建立の戒壇」であり、戒壇建立の場所については、日本一の名山「富士山」であると伝わっています。
この戒壇が建立されるまでは、日蓮門下は「私度僧」(律令制下、定められた官許を受けることなく出家した僧尼。)で在るべき、とするのが富士門流における「戒壇建立」の意義であったように感じます。

今日的な意義としましては、どうなんでしょうか?少なくとも「国立戒壇」を造ると成ると、「公共事業」ですから、もっと別な税金の使い方をしてほしいと、個人的には思ってしまいます。

6野菊:2003/11/04(火) 22:05
三大秘法抄において、「最勝の地をたずねて、戒壇を建立すべきか。時を待つのみ。
事の戒壇とはこれなり−−」これが国立戒壇のもととなったのでしょうが、
田中智学先生はだいたい500年くらい先と考えていたようだ。と聞いたことがあります。
その時は、一天四海帰妙法がなった時で建物の建設が目的ではありません。
一天四海帰妙法のモニュメント的なものが国立戒壇で、建設が目的ではないと思います。
それ以前に、重要なのは、門下の戒は先達、先師に授けられる受動的な戒ではなく
自ら仏や上行菩薩日蓮聖人に誓う自誓戒でなければいけません。
自ら誓うのですから、唐招提寺や東大寺でなくても良いのであり、今、自分が生活する
その場が、即道場、戒壇だと思います。
富士門流のことはわかりませんが、上行菩薩日蓮大聖人の門下は大聖人の御心に異体同心し
一天四海帰妙法に邁進すべきであり、建物の建設などは二の次だと思いますよ。

7空き缶:2003/11/04(火) 23:44
なるほど、その辺が富士門流(日興門流)との見解の相違なんですね。

富士門流において、現在「国立戒壇」を主張する団体は「顕正会」のみです。その顕正会が依正としている御遺文も「三秘抄」です。

富士門流は癡なことに、この「建物」のことでイザコザをおこして650年に成らんとしています。

建てる場所、本堂に安置する御本尊、等など。しかし、それほど富士門流にとっては重要なことだったのでしょう。

私は、上代における「本門寺」構想は、僧侶の出家得度の儀式を遂行する場としての意義があったのではないか、と考えています。
富士門流では、本門寺本堂には宗祖御影を安置すると伝わっているところも在ります。その意味では、

ご存知と思われますが、日隆上人は富士門流の方では無いです。富士門流に教学的な影響を与えた方です。
日隆上人の本門戒壇論は、野菊さんの考えに近いような気がいたします。

8空き缶:2003/11/04(火) 23:47
訂正です。

◎富士門流では、本門寺本堂には宗祖御影を安置すると伝わっているところも在ります。その意味では、

富士門流では、本門寺本堂には宗祖御影を安置すると伝わっているところも在ります。その意味では、日蓮門下内においては様々な戒壇論があるんでしょうね。

9管理者:2003/11/05(水) 11:52
空き缶さん、初めまして。
昨日色々と調べてまして遅くなりました。
>2の「娑婆は究極円満の事相・・・・
ですが、日隆上人の書物は数百在ると聞いてます。この文とは違いますが、川蝉さん引用中の「末法をもって戒壇院」(この様な表現が日隆上人の書物に幾つか在るのか)について、山川智應先生は
「末法といふ時代全体をば、戒壇院だといふので、彼の「本尊抄」の『四十五字の法体』を、証文に引いて居るなど、理檀も理檀、根本的の理檀、即ち本門円戒の原理論である。」日蓮聖人の実現の宗教157頁
と言われてます。
尚、出典箇所に山川先生の意に反する箇所でしたら、全て私の責任です。m(_ _)m

>国立戒壇
これに就いて、様々に記憶をたどり出典を今求めたのですが、短い文章で端的に書かれている箇所が発見できませんでした。m(_ _)m

10川蝉:2003/11/05(水) 11:53
今日は。

隆師の戒壇についての見解が気になったので、日蓮宗事典を見たところ、
《 『法華本門弘経抄』の神力品の項で師日存の口伝として「本門の戒壇について通途に戒と云う時は、正報を本と為し、壇と云う時は、依報を本と為す(略)国主信用の時は日本一州万民を受者として本門の戒壇を建つべきなり。戒壇は世間流布の本尊の如く、戒壇の方面は地形に従うべし。寸尺高下注記すること能わず云々」(日隆聖人全集第十一巻一ー二頁)と述べている。この文から推察すると、師日存には戒壇建立の主張があったものと考えられるが、この文以下の日隆の記述は事壇の主張はみられず、即是道場の理壇を主張している 》

と解説してありました。

伊藤 瑞叡教授は
「日隆の叔父であり師である日存は像門であるから、この口伝は日蓮聖人から朗師・像師への相承でありうる。・・。隆師は理壇に立脚しながらも、口伝相承を媒介として、未来に戒壇事成を期している、と知られるのではないか。」(三大秘法抄の真偽論争75頁)
と云う見解を記しています。

伊藤 瑞叡教授の「三大秘法抄の真偽論争」(日蓮宗出版扱い・5000円)は非常に参考になるものです。

11空き缶:2003/11/05(水) 21:28
管理者さん、川蝉さん、お返事ありがとうございます。

私が引用しました「本門戒体見聞」も「存師、口伝に曰く」と成っていることから、日隆上人の本門戒壇思想は日像上人以来の影響によるものと思います。

「三大秘法抄の真偽」には、私も興味があるのですが、上古の写本は「久遠常院日親上人」の写本でしょうか?

12川蝉:2003/11/06(木) 15:13
空き缶 さん今日は。

室町時代の写本として四本あるそうです。
冨士門流の日時(〜1406年)
日隆(1385〜1464年)の写本
日親(祖滅161年の1442年書写)
身延日朝(1422〜1500年)の写本

伊藤 瑞叡教授の「三大秘法抄の真偽論争」によると、
伊藤 瑞叡教授は入手した日時写本のコピーを見ると「弘安五年卯月八日」となっているそうです。

富士年表委員会では「日時写本考証の結果信憑に足る」とする富士年表委員会の考証理由を転載しています。

日時写本が日時真筆とすれば、日親上人写本より約45年ほど古い物となりますね。

13空き缶:2003/11/06(木) 16:51
川蝉さん、いつもお返事いただきありがとうございます。

日時写本といわれていたものは、大石寺所蔵の「御書目録日記事」に掲載されている「大田金吾殿御返事」のことですが、最近の興風談所の筆跡調査によると「日時筆」ではなさそうです。

この興風談所の研究成果を考慮しますと、やはり「日親写本」が上古の写本になりそうですね。

14川蝉:2003/11/06(木) 19:31
空き缶さん今晩は。

興風談所の筆跡調査を知りませんでした。有益な情報を有り難うございます。

16管理者:2003/11/07(金) 11:54
空き缶さん、今日は。
ご参考まで。日蓮聖人の実現の宗教135頁に

 そこで此の「心底抄」(原漢文)の内容は、三大秘法を講説したもので、その中の『本門
戒壇』の下に、
 『本門ノ戒壇建立必定ナリ。所以ハ何ン。涌出、神カノ明文ニ、本化ノ大人ヲ召シテ久成ノ要法ヲ授ク。故ニ経ニハ、後五百歳中広宜流布、於閻浮提無令断絶卜説キ、釈ニハ、当ニ知ルベシ、法華真実ノ経ハ、後五百歳ニ於テ、必ズ応ニ流伝スベシト明セリ。加之、天台ハ下方ヲ召シテ来ラシムルニ、亦三義アリ。是レ我ガ弟子ナリ、応ニ
 我ガ法ヲ弘ムベシ。緑深広ナルヲ以テ、能ク此ノ土ニ遍スト宣ベリ。』
と書き出して、『本門戒壇』将来必らず建立せらるべきであると断諭し、つゞいて
 『道暹云ク、付嘱トハ、此ノ経ハ唯下方涌出ノ菩薩ニ付ス。何ヲ以テノ故ニ爾ルヤ。法ハ是レ久成ノ法ナルガ故ニ、久成ノ人ニ付ス等、経釈符契ノ如シ。行者(これは日蓮聖人のことである)既ニ出現シ、久成ノ定慧(本門の本尊と題目)広宣流布セバ、本門ノ戒壇其レ豈立タザラン哉。佛像ヲ安置スルコトハ、本尊ノ図ノ如シ。戒壇ノ方面ハ、地形ニ随フべシ。国主信伏シテ、造立ノ時至ラバ、智臣大徳宜シク群議ヲ成スベシ。兼日ノ治定、後難ヲ招クコト有ラン。寸尺ノ高下ハ、注記スルコト能ハズ。』
なかなか識見明快である。本門の戒壇は、必ず建てらるゝ時があるに相違ない。その時には、佛像を安置することは、この本尊曼荼羅の如く安置すべきである。戒壇の方面は、地形に随って定むべきである。国主信伏して、一国同帰の戒壇を造立するの時が至ったなら
ば、その時には、必ず智臣大徳が、その事に就いてよく熟議して、宜しきに従って、きっと真の戒壇が建つであらう。その時も来ない今において、所謂『兼日の治定』=勝手な事を小田原評定すること=は、却って宜しくない。さういふ訳だから、寸尺の高下等は、此に註記することは出来ないと、かういふのである。

     第三項一妙=導師との符契の解釈

 そこで此の「心底抄」は、彼の江戸時代の単称日蓮宗の学者、一妙導師の説と最も近い。導師は、戒壇造立の時がいたったならば、その時は国王は無論の話、皇太后にも、法師にも、国臣にも、必らず本化の菩薩が出られるだらう。さうして真の本化の本門戒壇が、建
設せられるに相違ないといふことを、「祖書綱要」に、信念欝勃たる文章で、
 『其ノ時既ニ至ラバ、則チ上行等ノ四大薩た、国母トナリ、賢王トナリ、良臣トナリ、聖僧トナリ、折伏ヲ以テシ、摂受ヲ以テシ、戒壇ヲ勝地ニ築キ、三秘ヲ普天ニ掲ゲンコト、決定シテ疑無カラン。誠惶至炊。然ルニ其ノ時無クンバ、応ニ本化所弘ノ三秘ハ、未ダ迹化過時ノ三学ニ及バズト言フべシ。無稽ノ曲説、大ニ宗旨害アリ。彼等ノ偏見ヲ容スべカラズ。』(原漢文)
と、断乎として国立戒壇を否定する説を排斥して居るのである。そしてその理由も文章も恰も三位口順師が、六百余年前に書いて居るのと、符契の如く合って居るではないか。

17管理者:2003/11/07(金) 16:44
空き缶さんへ、
長いですが何かの参考まで、日蓮聖人の実現の宗教148頁に

「日什御奏聞記録」(日穆詑)…中略…
 その記録は、什師の諌状奏聞の事蹟を、日穆といふ彼の師の上足の人の筆で、その中に日穆師が、諌状奏聞の趣旨について、什師に尋ねたのに対し、什師の答へた語がある。
 『日穆尋ねて云く、報恩鈔に云く、天台伝教の弘め残したまふ所の法門三つあり。所謂本門の戒壇と本門の本尊と、妙法蓮華經の五字とこそ候に、(師の)申状の如き(は)、天台は一心三観一念三千、日蓮は題目の五字とこそ候に(へ?)。何ぞ上の(戒壇と本尊)の二つをば、載せず候耶等云云』
天台伝教の未弘の法門が三ツある。所謂本門の戒壇と、本門の本尊と、題目の五字であると大聖人が仰せられてあるのに、師が武家公家への上書には、専ら題目の五字のみを天台伝教の一心三観一念三千に対してお説きになつて、本尊と戒壇の事は、天聴及び将軍家に向って、何等申し上げて居られない。これはどういふ次第でありますかと尋ねて居るのである。それに対して、日什師の答は、
  師曰く、『尤も所難の如し。但し申状に裁せざることは、上ニヶ條は、当宗信仰の後申し立つべき法門にて候間、載せず候。』
戒壇、本尊といふことは、信者以後の人に向って初めて言はるべき事で、未だ信仰しない人に対して開示すべき法門でない、それだから言はぬのである。これは『逆縁ノタメニハ但ダ妙法蓮華經ノ五字ニ限ルノミ』の意で、宗門上古の正義を示したものだ。またこの書の最後のところに、斯ういふことがある。
 『総じて奏聞の事は、涅槃經の、若善比丘等の、佛法中怨の難を恐れ、是我弟子真声聞也等の金言に任せて、上人(日蓮聖人)仰せ候ひし事なれば、一天御承引のなからん程は、日什が門弟に於ては、一大事たるべく候。是則ち日本国の人に訴ヘ申し候也。一天承引の後は、花洛の弘通、公方に望むことは、名利の禍も有るべく候か。仍て田舎卑賤の土民を教化する事を、化導の本意と為すべく候。』
もう一国同帰となったといふ時までは、みな集中して公家武家を諌奏せよ。若し国主信用して、一国同帰の場合に至れば、初めて都から離れねばならぬ。何となれば、その暁に、なほ都での弘通は、名利を望むに似て感心しないから、一国同帰となった時には、我が弟子等は、皆田舎へ行って弘通しろ。それを私の門弟に特にいって置くといふのである。
 この中に二つの感銘すべきことがある。『一天承引なからんほどは、日什が弟子に於ては、一大事たるべく候』といって、どこまでも『一天承引』を目標として居ることと、今一つは、『一天承引』の後は、京洛に留まってグズグズして居ては、名聞栄利を望むやうでいけない。早く田舎へ行って、地方の民衆を教化せよといふことで、中央集権の後は、もはや地方を顧みないやうな政治家などは、宜しくこの什師の態度に恥づるがよい。これも日什師が、法華の円理について、十分の体験をもって居たからの卓識である。

18管理者:2003/11/07(金) 16:45
続き

       第三項一天承引は一国同帰を意味す

 そこでなほ念を推して考ふべきは、この『一天御承引』といふ語の意味である。それはたゞ、日蓮聖人の宗門を各宗並みにお扱ひになり、京都で弘通して宜しいといふ公家武家の承認を受けること。所謂『公認教』の意味であらうか、それともまた一国ことごとく妙法蓮華經に帰するといふ意味であるかといふと、それは後者の意味である。その訳は同じく「日穆記」に、什師が、二條関白家と問答して居る件がある。それに依ると『一天御承引』とは『日本一同の帰依』のことで、『日本一同の帰依』となれば、『国立戒壇』の建てらるべきは勿論で、什師もやはり『国立戒壇』を目標として、公家武家を諌めたものだ。
  ●関白殿御対面、仰せに云く、『何れの国何れの宗の僧ぞや。』
  ●什師答へて云く、『下総国府中妙法寺住僧・法華宗にて候。』
  ●仰せに云く、『何の訴訟ぞや、』
  ●師──座席を立ち、安国論並に申状を持参して之を捧ぐ。
  ●関白殿請取りて持ちながら、『訴訟の志趣は何事ぞや。』
  ●師云く、『内外に就て諌め申す仔細候。外とは、正法に帰依なく邪法を御糾明なくに依って、国に三災七難起り候。内とは、涅槃經に云く、若し善比丘ありて法を壊る者を見て云云と。佛法中怨の難を遁れんが為め也。彼是ともに如来の金言に任せて申す訴訟にて侯。』
  ●其時関白殿、少し安国論を披いて御覧じ。末まで開き巻き返して、申状を披き読みたまふ。
  ●殿下尋て云く、『邪法とは如何、正法とは如何ぞや。』
  ●什師云く、『正法とは、法華経は諸佛出世の本懐(なり』とて)三説超過・最為第一・是諸經之王・等の旨を答へたまふ。
  ●殿下云ふ、『法華經の諸經に勝るることは存ずる間、珍らしからざる事也。自宗の所立を申されよと云云。
  ●什師云く、『此仰せ尤も本望に候。』
  ●仰せに云く、『本の座へなをられ候へ。』
    什師本の座に着す。
  ●殿下云く、『法華経の諸経に勝れ候ことは、天台伝教定め置かれ候処、主上も我等も皆存知の旨也。総じて法華経に増したる経之れ無し。何の残る所あって、法華宗の所立とするや。』
  ●師云く、『此の御尋ね尤も本意に候。彼の天台伝教は、法華経を弘むと雖も、未だ淵底を尽さざる宗也。其故は、時節を云へば像法の時にて、如来の定めたまふ後五百歳の時に非ず。導師を云へば、迹化の菩薩也。天台は薬王の再来、此の旨南山の戒書に見えたり。佛教は又天台の後身として、山門の申状度々に及ぶ。所弘の法は、法華経の中にも、迹門在顕実相の辺を面(おもて)とす。広略要の中には、広略の分を弘むる也。今日蓮法師の所立は、仏の指したまふ後五百歳の時を得たり。導師を云へば、本化地涌の菩薩也。所弘の法は、広略要の中には、要中の肝要の妙法蓮華経の題目の五字是れ也。仍て彼れは像法、之れは末法。彼れは迹化の菩薩、之れは本化の大士。彼れは広略、之れは結要也。時と云ひ、導師と云ひ、所弘の法と云ひ、天地火火(の相違)也。』
  ●殿下云く、『然れば題目の五字を弘め申すか。天台は題目の五字を弘めたまはざるか、如何。』
    此時室町中将殿曰く、『天台宗も、論義の時は南無妙法蓮華経と唱へ候ものを』と云云。
  ●帥曰く、『天台は題目の五字について、玄義一部の書釈候。南岳の法華懺法にも、南無妙法蓮華経と書かれて候。論義の時は、また仰せの如くに候。然りと雖も、天台は止観を以て、修行の方軌と為し、一心三観一念三千を修せよと弘通せられ候。其の故は、時至らざるが故に、迹化なるが故に、結要付嘱を受けざるが故に。法華経を弘むるに疏釈を造ると雖も、修行の時は止観を以て本意として之を弘むる也。説己心中所行法門とも、竝以三千而為指南とも釈したまへり。仍て直に題目の五字を弘めざれども、此の題目の五字は、一代聖経の肝心、法華経一部の眼目也。然る間、仏取り分かちて、本化上行等の菩薩に譲り、その弘むべき時をば、経には後五百歳と説き、釈には且らく大教の流行す可き時に拠るると判じ候へ。然るに釈尊御入滅の後、二千三百三十余年に及び候。末法に入りてより已(こ)の来た、三百余年は題目の五字を弘むべき、本化の菩薩の時にて候を、御承引なく候間、此の旨を歎き申すにて候。』
時節に約し、導師に約し、法体に約して、機と、付属と、修行とを附帯して、天台宗と、日蓮聖人の宗との違目を、簡略に説かれてゐる。二條関白なり、鷹司中将なりも、天台宗のことは、よく知って居るから、急所急所を捉へて、什師に反問したのである。

19管理者:2003/11/07(金) 16:45
続き

●殿下云く、『其証尤も爾か也。但し宗論の事は輙(たやすか)らず。申す所は其の理あり、宗論なくとも、洛中に一宇を構へて弘通あって、連々に弘むべし。何ぞ必らずしも宗論申巾させらるるや。』
  ●師云く、『あらず宗論を好むで申すべきにあらず候へども、山門既に天子本命の道場として、現当を祈り申し候を、過時旧法にして、其の益あるべからざるの由、申し候はんをば、争(いか)でか山門より科(とが)められず候べき。左候間、宗論をとげ、日蓮が申すところ理運に候はば、御信仰も有らん。其の謂はれ無くんば、流罪死罪にも行はるべく候。天台宗若シ過時の法ならば、捨て置かれ候てこそ、我等が宗も立つべく候間、召し合はせられよと申すにて候。』云云。
  ●殿下云く、『扨(さ)ては宗論ありて、山門を削除す可しと申され候か。』
  ●師云く、『爾(し)か也。』
  ●殿下云く、『強き訴訟かな。桓武天皇の御宇に、伝教大師南都六宗と宗論せしかども、未だ六宗を削らるゝことなし。如何にかくの如く申され候や。』
  ●師云く、『伝教大師の宗論の時は、南都六宗帰伏状を捧げ候。随って桓武天皇の時、六宗南都の辻墻(つじかき)を出づ可からず。天台宗一朝に弘むべしと御成敗候ひしが如く、山門三井寺に召し合せられ候て、理運に候はば帰伏状を捧げ、また天台宗は山寺の辻墻を出づべからず。法華宗を一朝に弘むべしと云ふ御成敗を下され候はん後は、必らずしも削除せず候とも、仔細ある可からず。』云云。
  ●関白殿並に公卿一同に、『鳴呼強き訴訟哉。是は御身一人の義か、将たまた法華宗一同の義か。如何。』
  ●師曰く、『法華宗一同の義にて候。』
  ●殿下云く、『洛中に妙顕寺、本圀寺等の法華宗これ有り。未だ此の義を聞かず如何。』
  ●師曰く、『此の義は日蓮弘通の本意にて候。争でか申されでは有る可からず候。但し申されず候事は、一つには、御膝下にて候上へ、山門の聞こえを憚かるにもや候らん。又一つには、天台宗に召し合せられ候はん時、(初めて)申さんと云ふ所存にて候か。予は遠国の者にて候程に、適々面拝をとげ申し入れ候訴訟にて候間、憚りを顧みず、此の如く有りのまゝに申すにて候。』
宗論をして、若し法華宗が道理なりと定まらば、一国みな法華宗となりたまへ。若し法華宗が道理でないとなれば、甚不都合なことであるから、流罪にでも死罪にでもして頂きたい。また時機にかなはぬ宗も、前代の遺物としての古物保存の意味で、学問にだけなら、存しても差支へはない、たゞ時機に会はぬものの弘通は、止められたいといふのである。
  ●仰せに云く、『申さるゝ仔細理運に候。但シ此の事は武家へも披露候けるか。』
  ●自云く、『関の入道に就いて、武家へも専ら披露仕り候処、此の間洛中の忽劇に依て、管領辞退の時分にて候ほどに、次第の沙汰を経ず、此の如く直奏申して候。』
  ●殿下云く、『此の事は武家にも披露あるべし。唯宗論の事は輙からず候間、当将軍右大将殿に談合ありて、其の沙汰有る可し。一宇を構へ、連々に弘通致さる可し。鳴呼強き訴訟にて候者哉。』
  ●師曰く、『強く申すこそ理にて候へ。』
この以下に、大聖人の御事歴を叙べ、諸宗折伏の理由を説いてあるが、要するに『一天御承引』とは、一国同帰にあることは、以上の文で明々瞭々だ。一国同帰を期するのは、『本門戒壇』の建立の時を期すると同じ意味なるはいふの要はない。

20管理者:2003/11/07(金) 17:05
空き缶さんへ。
今、私のレスをサラッと確認したのですが、文脈が分かりづらい様ですが、読んでると意味が飲み込めるかと。
誤字・脱字は一応確認はしましたが、凡夫のことご容赦の程宜しくお願いします。

21空き缶:2003/11/07(金) 18:33
管理者さん

御教授誠にありがとうございます。

やはり国立戒壇思想は、富士門流発ではなく日蓮宗に潜在していた思想のようですね。

順師の「心底抄」については、いかがなものでしょうか。真筆は現存しないようですが、私はチョッと慎重になっている書なんです。

富士門流でいわれていた「本門寺の戒壇」と、「本門戒壇」そして「国立戒壇」、ひょっとしたらそれぞれ若干の疎意の違いがあるように感じます。

しかし、時代を経るごとにその違いが見えなくなり、同じものとして解釈されるようになったと感じます。

ここで教えていただいた「本門戒壇」思想や、「国立戒壇」思想もどれもそれぞれ正しい解釈のように感じます。

私の少ない時間と少ない小遣いと少ない脳味噌では、皆様の研鑚に追いつきませんが、日隆上人の本門戒壇思想と富士門流の本門寺の戒壇思想については、もう少し研鑚を続けてみます。

22空き缶:2003/11/15(土) 18:30
皆様へ

話題がチョッとずれますが、身延山久遠寺には多数の「板曼荼羅」が宝蔵にあると聞きます。

その中でも、日向上人の「正安二年庚子十二月日。右日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に之を造立す」との添書をみる、宗祖真筆曼荼羅の板本尊が宝蔵に厳護されていると聞きます。
直拝したわけではないので、その真偽は不明ですが、この板本尊が実在すれば日法上人彫刻の板本尊(山梨県:妙本寺所蔵)よりも古く、日蓮門下最古の板本尊となると思います。(もちろん大石寺所蔵の通称「本門戒壇の大御本尊」を後世の作とした場合ですが。)

この件に関しまして、皆様のご意見を拝したく存じます。

23込山:2003/11/15(土) 23:57
空き缶さん 今晩は 込山です。

変な質問で申しわけ無いのですが
「大石寺」って何かヤバイお寺なんですか?

24野菊:2003/11/16(日) 06:50
横レス失礼
大石寺(たいせきじ)は日蓮聖人のお弟子の高僧日興聖人が身延において
領主南部実長、日向聖人と対立して山を出られて創建されたお寺で富士門流
の本山ですね。別にヤバクありません。
ヤバイという意味にはいろいろありますが、ヤバイとすれば、そこから派出
した信徒団体や、一部の信者、檀家の考え方でしょう。日蓮聖人から直接
学んだ日興聖人から代が変わり、また、祖廟からも離れることにより教義も
他の門派とはかなり違ってきているとは思いますが、空き缶さんはじめ真摯
に信行されているかたも多くいらっしゃいますから、やがては大聖人の教え
のもと異体同心していくことと思います。
別スレッド、別の話題にした方がよろしいと思います。

25込山:2003/11/16(日) 09:00
空き缶さん 野菊さん こんにちは。

す、すいませんでした!
今Googleで検索したら、最初に大石寺の写真集がヒットしました。
どこかの新興宗教かと勘違いして変な質問をしてしまい申し訳ありませんでした。
今後、ちゃんと調べてから質問するよにしますね。

空き缶さん野菊さんゴメンナサイ!

26管理者:2003/11/16(日) 10:06
>とすれば、そこから派出した
その通りですね。日興聖人やその当時のお弟子方には関係の無いことは当然です。
責任は、如何に自分たちの寺を由緒有る寺だとかその他で、偽書やご真筆を改竄したりと、責任は重大です。

あの板の偉い責任者、まだ返事が来ない。暗黙の了解なら、本一冊分書き込もうかな。(-_-)

27ROCK:2003/11/16(日) 16:38
大石寺について

大石寺教学の問題点は(一)釈尊脱仏・宗祖本仏論、(二)大石寺流本門戒壇大御本尊論、
(三)唯授一人血脈相承論、の三点に大別することができる。

まず、(一)については、日興師はもちろんであるが、日道師も「御伝草案」において、久遠実成
釈尊を本仏としていた。また、日道師以降の大石寺貫首の著述からは明確な本仏思想を窺えない。
しかし、日時師・日影師は武州仙波において天台恵心流を修学しており、大石寺流宗祖本仏論
は恵心教学と酷似しているので、日時師・日影師によって恵心教学が大石寺に伝えられ、それ
が後代において摂取されながら形成され、日寛師によって宗祖本仏論は教学的大成を成すにい
たったものと思う。
したがって、上代大石寺門流には釈尊脱仏・宗祖本仏論はなかったのであり、大石寺門徒が宗
祖本仏論を主張する際は、(一)日興師の消息文の曲解、(二)他山文書(主に日順師の著述)を
以て主張、するのであるが、これこそまさに我田引水、牽強付会の極みなのである。

次に(二)について。大石寺門流は大石寺奉安堂に安置されているところの弘安二年十月十二日
の板曼荼羅を宗祖出世の本懐とする。しかし、堀日亨師の指摘によれば「法難即本懐ではなく、
法難終結に寄せての本懐」(要旨)とされているので、弘安二年十月十二日図顕の本尊を本懐と
することはできない。
宗祖が熱原衆の処刑を知ったのは弘安二年十月十七日以降のことであったので、「御伝草案」で
云うところの「その時御感有て・・・本尊に日興上人」という本尊とは、熱原衆への追善供養等の意
義を込めて顕された本尊と考えるべきであって、今日の大石寺門流が云うような大石寺流本門戒壇
大御本尊の依文とは成り得ない。
また、讃文には「仏滅後二千二百二十余年」と記されているが、宗祖真筆本尊は弘安元年七月五日
の本尊(『御本尊集』50番)以降では、「仏滅度後」と統一されているのでこの点からも疑う必要がある。
また、讃文には「法華講衆」とも記されているが、法華講衆という名称の初見は応永十一年の書写本
尊に「奥州柳目法華講衆現当二世の為なり」としてはじめて見出せるのであって、弘安二年十月十二
日の板曼荼羅を宗祖真筆とすることはできない。
ただ、題目の相貌は宗祖の親筆本尊を模刻し、讃文は後人の添加と考えることはできるかもしれない。

最後に(三)について。元来、大石寺門流には唯授一人血脈相承思想はなく、その原型は重須学頭の
日順師によって形成されたものであった。この背景には興門諸山の対立紛争があったのではあるまいか。
「大石記」を見ると日代置状十二通(八通の誤り)が出てくるので、西山に対抗するために二箇相承を偽作
したものかもしれない。或いは、道郷問題に際して日興門流の輝きが失するのを憂いて日順師が提唱した
ものが唯授一人血脈相承思想であったのではなかろうか。
しかして、唯授一人血脈相承思想は日順師によって形成され、唯授一人血脈相承思想の確立手段として
二箇相承が偽作されたものであると思う。

28空き缶:2003/11/16(日) 20:11
ROCKさん

さすがです。ものすごい切れ味です。

応永十一年の書写本尊に「奥州柳目法華講衆現当二世の為なり」・・・これは大石寺第六世日時師の書写本尊ですね。

私は、大石寺の戒壇本尊はこの日時師の代に造立されたものと、思っています。

現在の大石寺の御影も「越前法橋快惠」によって、この時師の代に造立されています。これは、保田伝師との紛争で「宗祖正御影」が大石寺から遷座され、大石寺東坊地のかわりに御本尊を失ってしまい、必要に迫られたものと思われます。

戒壇本尊は「万年救護本尊」の代替と思われます。

29れんげ:2003/11/16(日) 22:43
本題と違う質問なのですが宜しくお願い致します。m(__)m

ROOKさん、こんばんわ。
ROOKさんは確か「日蓮大聖人の本流」というHPの管理人さんでいらっしゃいますよね。
現在HPは閉めていらっしゃるのですか?。。

30ROCK:2003/11/17(月) 21:59
空き缶さん、こんばんは。

>これは大石寺第六世日時師の書写本尊ですね。

そうです。『富士宗学要集』の「第三曼荼羅脇書等(六世日時上人御筆の分)」に、

──────────────────────────────────
応永十一年甲申六月日 奥州柳目法華講衆達現当二世の為なり  陸前妙教寺

(「第三曼荼羅脇書等」『富士宗学要集』8巻、p193、1978年)
──────────────────────────────────

とあります。

[付記]
堀師は『宗門史に顕れたる布教』という講本において「興師 徳治三年○、駿河国
富士下方熱原住人神四郎法華講衆と號し」(P22)としています。これが真実であれ
ば、「法華講衆」という名称の所見は徳治三年まで遡らねばなりませんんが、『日興
上人御本尊集』で確認したところ「法華衆」でした。堀師がなぜ徳治三年の本尊をさ
して「法華講衆」としたのかは不可解なところです。

>大石寺の戒壇本尊はこの日時師の代に造立されたものと、思っています。

以前は、日有師説を取っていましたが、陸前妙教寺蔵の日時師書写本尊の脇書の
ことから、日時師まで遡れると考えています。
「仏滅後二千二百二十余年」と見られるのは宗祖滅後203年の「穆作抄」ですから、
大石寺流本門戒壇大御本尊は日時師以降に成立し、それが日鎮師の時代に表面
化したものではなかろうかと推考しています。
ちなみに、「日興跡條條事」の初見は宗祖滅後279年を待たねばならないので、第二
条の「弘安二年の大御本尊」とは大石寺流本門戒壇大御本尊であると考えてもよい
わけです。

31ROCK:2003/11/17(月) 22:07
れんげさん、こんばんは。

>「日蓮大聖人の本流」というHPの管理人さんでいらっしゃいますよね。
>現在HPは閉めていらっしゃるのですか?。。

はい。昔は「日蓮大聖人の本流」を主宰していましたが、諸般の事情で
所属していた講から退講(退会)しましたので、そんな自分が「日蓮大聖
人の本流」を称するのはおこがましいのではないか、と思い一時閉鎖した
のです。
ホームページについては近いうちにリニューアル・オープンしたいと思って
いますので、その際はよろしくお願い致します。

32れんげ:2003/11/17(月) 23:34
ROOKさん、こんばんわ。
お返事ありがとうございました。m(__)m
HP拝見させていただいておりました。。リニュ―アル・オ−プンされるとのこと、楽しみにしています。。
ROOKさんは大阪の方でいらっしゃるんですよね。私も大阪なんですよ。どうぞ今後とも宜しくお願い致します。(*^_^*)

管理人さん、本題から外れた投稿でした。お許し下さいませ。m(__)m\(^_^メ)れんげさんにイエロ−カ−ド!
ごめんなさい。以後気を付けます。m(__)m合掌

33空き缶:2003/11/17(月) 23:53
ROCKさん

それにしましてもROCKさんは、富士門のことに詳しいですね。しかも、ご指摘が鋭いです。

私も新しいHPのオープンを楽しみにしています。

34れんげ:2003/11/18(火) 00:46
空き缶さん、こんばんわ。いつも有り難う御座います。m(__)m

ROCKさん、ごめんなさい。m(__)m 
ROCKをROOKと誤って書き込みしておりました。大変失礼致しました。合掌

35空き缶:2003/11/18(火) 22:58
ROCKさん、れんげさんこんばんわ。
チョッとした資料です。

御本尊目録(妙教寺奉蔵) 

24.日時上人 応永十一年六月日
  奥州柳目法華講衆現当二世の為也
  板倉表具廿八の廿二

○.日時上人 今不伝 古目録に見ゆ
  板本尊、但し脇に日主上人御判有之
  是は客殿に奉安置申候

以上「奥人第三号」より抜粋

上記の通り「奥人第三号」の、「応永十一年六月日」時師書写本尊の次に出ている「板本尊」の事が気になるところです。時師と板本尊の関係を示す資料の一つであると思います。

36ROCK:2003/11/18(火) 23:33
空き缶さん、こんばんは。

>富士門のことに詳しいですね。しかも、ご指摘が鋭いです。

いえいえ、まだまだ未熟です。
大石寺門流の基礎知識は少々(本当に少々ですが)あっても、こと
興門他山のことになると悩むところがあります。

>「板本尊」の事が気になるところです。

私の着眼点はちょっと違います。
私はむしろ「日主上人御判有之」との文に注目しています。なぜなら、
日主師は「日興跡條條事示書」において「大聖より本門戒壇御本尊」
(歴全1−P459)と記しています。
つまり、「本門戒壇大御本尊」(厳密には「本門戒壇御本尊」ですが)と
いう呼称の初見は日主師の「日興跡條條事示書」においてはじめて見
出せる訳です。
そして、今までの流れを纏めると、

○「法華講衆」の初見=宗祖滅後123年、日時師書写本尊
○「仏滅後2220余年」の初見=宗祖滅後203年、「穆作抄」
○「本門戒壇御本尊」の初見=宗祖滅後290年代、「日興跡條條事示書」

となりますから、日時師以降の大石寺僧によって板曼荼羅が造立され、
それが日鎮師の時代に表面化し、日主師によって板曼荼羅は「本門戒壇
大御本尊」へと祀り上げられたのではないかと推考しています。

37ROCK:2003/11/18(火) 23:39
れんげさん、こんばんは。

>私も大阪なんですよ。どうぞ今後とも宜しくお願い致します。(*^_^*)

こちらこそ宜しくお願いします。
れんげさんは確かshamon先生の所にも投稿されておられたと記憶
しています。
機会があれば、shamon先生を囲ってお話できたらよいですね。(笑)

>ROOKと誤って書き込みしておりました。大変失礼致しました。

いえいえ、気にしてません。
悪名高い某掲示板ではPOCKと呼ばれていましたからね。(苦笑)

38空き缶:2003/11/19(水) 00:38
ROCKさん

なるほど、私は板本尊ばかりに気を取られすぎですね。

悪名高い某掲示板とは、かの○太郎氏の出てくるところですか?

39ROCK:2003/11/19(水) 00:49
>>36補足]

「客殿に奉安」されている「板本尊」を大石寺流本門戒壇大御本尊とは
考えていません。私が注目しているのは「」日時師造立の「客殿に奉安」
されている「板本尊」に日主師の「御判」があるということです。こうした
例があるならば、日時師以降の大石寺僧によって造立された板曼荼羅
に日主師が「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆」という讃文を添加
したとも考えられなくないからです。
しかして、「日興跡條條事示書」に「大聖より本門戒壇御本尊」と記され
ているものではないかと推考する次第です。

40ROCK:2003/11/19(水) 00:59
空き缶さん、こんばんは。

>私は板本尊ばかりに気を取られすぎですね。

そんなことはないですよ。
「客殿に奉安」されている日時師造立の「板本尊」が存在することから、
大石寺流本門戒壇大御本尊の成立時期は日時師の時代まで遡ること
ができるかもしれませんが、真実、大石寺流本門戒壇大御本尊を日時
師が造立したかどうかはまだ確固たる確証が持てないのです。
しかし、日時師・日有師・日教師・日鎮師・日主師というラインにおける
発展的形成であると考えた方が私としてはやや納得がいく訳です。
これはあくまで、私の愚考ですので、空き缶さんの研鑚成果を否定する
ものではありません。

41ROCK:2003/11/19(水) 01:05
>悪名高い某掲示板とは、かの○太郎氏の出てくるところですか?

○太郎氏とは直接論争したことはありません。
まぁ、旧掲示板に記した私の駄文に反駁を加えてきましたが、あまりにも
的外れな論難でしたので放置しておきました。
これについては来春刊行する拙書『大石寺教学の研究』の中で反論して
おきました。

○太郎氏は「監獄ROCKが狂って云く」とは言いますが、「POCK」とは言
いませんね。悪名高い掲示板とは2chです。(もっとも私はかなり以前に引
退しましたが。)

42空き缶:2003/11/19(水) 01:45
ROCKさん

色々とありがとうございます。

私は○太郎氏と散々やりあってしまいました。あのような方を、相手にしてしまったことは情けない限りです。
本日も「○○缶」や「△△缶」等、とてもここには書き込めないような呼ばれ方をされ、誹謗されています。
私は彼が主に書込みをしている掲示板「○○談所」を、「書込み禁止」にされてしまいました。また、「日蓮正宗の掲示板」は掲示板自体がなくなってしまい、他の掲示板にお誘いしたのですがうまく逃げられてしまいました。

でも、これでよかったと思います。法義論争よりも、ここで皆様のお知恵を拝しながら、研鑚していた方が価値的だと感じています。

話は変わりますが、『日出台隠記』の出ている書籍ですが、私がネットで調べたところ全33巻で60万円となっていました。とても手が出せないと思いました。

43野菊:2003/11/19(水) 02:16
空き缶さん、ROCKさんこんばんわ。
私、大石寺門流や板本尊のことなどほとんど興味がなくて細かく知りません
でしたが、おかげで少しわかりました。<(_ _)>
ところで、非常に初歩的な質問なのですが、私のご本尊は佐渡始顕の曼荼羅
なのですが、板曼荼羅の図式というのは全然違うのですか?

44れんげ:2003/11/19(水) 10:16
皆さん、おはようございます。
いつもご教示くださり有り難う御座います。m(__)m

野菊さん、私がお受けした懐中・御本尊も、我が家の御本尊も、佐渡始顕の御本尊(複写)ですよ。

ROCKさん、お返事ありがとうございます。
>機会があれば、shamon先生を囲ってお話できたらよいですね。(笑)
そのような機会^^ありますよ。よろしければお声掛けさせていただきましょうか。。
shamon師は、一面とても気さくでご陽気なお上人でもいらっしゃるんですよ(笑)。

45空き缶:2003/11/19(水) 12:28
野菊さん

「板曼荼羅」の相貌ですが、色々です。京都要法寺・保田妙本寺等、大石寺系以外の日興門流諸山でも造立されています。

問題の大石寺のいう「本門戒壇の大御本尊」(板曼荼羅)ですが、相貌は北山本門寺所蔵の「万年救護本尊」(弘安三年禅師授与の本尊)によく似ているといわれています。

「佐渡始顕の御本尊」とは、茂原藻原寺所蔵の御本尊のことでしょうか?すみません知識が無いもので。

46空き缶:2003/11/19(水) 12:40

失礼しました。「茂原藻原寺所蔵の御本尊」は身延で認められた御本尊でした。

47管理者:2003/11/19(水) 16:48
ROCKさん、今日は。
>来春刊行する拙書『大石寺教学の研究』
是非、この板の「書籍情報」に研究の成果の著作の宣伝を兼ねてご紹介下さい。
>近いうちにリニューアル・オープン
との事、是非オープンの時はURLをこの板に書き込み下さい。

空き缶さん、今日は。
>ここで皆様のお知恵を拝しながら、研鑚していた方が価値的だと感じています
有り難う御座います。

板本尊の表面は何削りか、かんな削りなら桃山時代以降ですが、ちょうな?削りなら以前となるが。大石寺の板曼陀羅は、観た人の言うにはかんな削りだとか。
私もスレ違いしてはレッドカードに成るので、皆さんには、分かり切った板曼荼羅の削りの有無を書きました。

大変貴重な書き込みを有り難う御座いました。

必要な綱目のスレッドが有りましたら、ご遠慮なく新スレッドをお建て下さい。

48管理者:2003/11/19(水) 16:54
追伸てす。
研究の成果の著作の宣伝=「の」が三個も単語の後に付けてしまい、大変読みづらくてすいませんでした。m(_ _)m

49ROCK:2003/11/19(水) 17:53
管理人さん、こんばんは&御邪魔してます。

>「書籍情報」に研究の成果の著作の宣伝を兼ねてご紹介下さい。
>是非オープンの時はURLをこの板に書き込み下さい。

ありがとうございます。出版時期が確定すればお言葉に甘えて書き込ませて頂き
たいと思います。
宗門の方は教科書的存在のようなものにしたいとおっしゃっていたので、多少の
自信はあるんですけれど、私としては〝まだまだだな〟と思っています。

>板本尊の表面は何削りか、かんな削りなら桃山時代以降ですが、ちょうな?削り
>なら以前となるが。大石寺の板曼陀羅は、観た人の言うにはかんな削りだとか。

細井日達師は昭和47年9月12日、日正寺竜口法難会において、

──────────────────────────────────
また、戒壇の御本尊様は楠の板である。楠の板で大部古くなりほこりが後ろの方にた
まり今度お水洗いする事になり、洗ったのである。実際に大御本尊は楠の板で、其の
時分はカンナがなかった、鎌倉時代には手斧である。だから、あの御本尊は手斧けず
りである。それを見ればすぐわかる。それを知らないで漆を塗ってあるからあれは足利
時代に出来たとか、最近は徳川時代に出来たなどととんでもないことを言う。ところが
あれは後ろをみるとみんな削ったあとがちゃんと残っている。それをみても明らかに鎌
倉時代である。しかも、手斧で明治時代の人は知っている。まるいものではない。 あの
時代には鉞みたいな手斧で削った。其の板です。実際に見ればはっきり分かる。(中略)
そういうことを見てもはっきり鎌倉時代の板本尊である。 そうすると、また向うの悪口を
言う人は、身延には楠はない、あんな寒い所に楠はない、あれは静岡県富士の辺でな
ければ無いんだ。だから結局富士へ来てから造ったんだという。ところが、あにはからん
や、身延の入口の大野山本遠寺という寺がある。これは身延駅から身延へ行く手前に
今でもある。その寺にちゃんと千二、三百年前からの楠の木が今でも生きている。もし、
それが千年の木としても、大聖人様が七百年とすればまだ三百年以上の木があったわ
けである。

(『日達上人全集』2輯5巻、p434−435、1980年)
──────────────────────────────────

と述べています。参考までに。
ところで、細井師は「その寺にちゃんと千二、三百年前からの楠の木が今でも生きている」
と云っています。確かに大野山本遠寺には楠がありますが、身延町の天然記念物に指定
される際に測定された樹齢は450年ですから、宗祖在世の時代から身延に楠があったかど
うかは疑わしいと思います。
細井師は何を根拠に「千二、三百年前からの楠の木」としているのか甚だ不可解ですね。
真実、大野山本遠寺に樹齢が1200年を超す楠があればその楠が天然記念物に指定され
るはずですから。

50ROCK:2003/11/19(水) 18:21
空き缶さん、こんばんは。

>他の掲示板にお誘いしたのですがうまく逃げられてしまいました。

○太郎氏は基本的に自分の掲示板以外は書き込まないようですね。
まぁ、彼らは「遊び相手」としては面白いですが、研鑚に役立つかと云えば、
そうではないでしょうね。彼らはあのような表現をしますのでどうしてもこちらも
口汚くなってしまうわけです。これは宗祖の誡めに背くものですから、なるべく
放置するのが一番かと思います。

51ROCK:2003/11/19(水) 18:22
野菊さん、こんばんは。

>私のご本尊は佐渡始顕の曼荼羅

佐渡始顕の大曼荼羅とは高橋智遍師の『日蓮聖人小傳』のp674−675に載って
いるところの大曼荼羅でしょうか。私はどうも大石寺門流以外の基礎知識は欠如
しているようです。(苦笑)

>板曼荼羅の図式というのは全然違うのですか?

大石寺奉安堂に安置されている本門戒壇大御本尊と称されるところの板曼荼羅の
相貌は私にも分かりません。「当家諸門流継図之事」に板曼荼羅の相貌について記
されていると聞きます。これについては私よりも川蝉先生が詳しいでしょう。
板曼荼羅の写真は明治・大正年間に大石寺門徒の出版物(『日蓮上人』『聖教乃正義』)
に掲載され、私もその写真を元に解読を試みましたが、不鮮明なため明確な相貌は
分かりませんでした。

52ROCK:2003/11/19(水) 18:23
れんげさん、こんばんは。

>shamon師は、一面とても気さくでご陽気なお上人でもいらっしゃるんですよ(笑)。

shamon師とは一度お会いしたことがありますよ。
まだ、れんげさんがネットに出てこられる以前でしたが、猫町さんと三人でお会いしたことが
あります。ネットではあのような闘将ですが、会ってみるとれんげさんの云われるようなお方
でしたね。
また機会があれば、れんげさんたちと一緒にお会いしたいものです。

53れんげ:2003/11/19(水) 18:47
ROCKさん、こんばんわ。
そうでいらっしゃいましたか。。shamon師とお会いになられたことがお有りなのですね。それは失礼致しました(笑)。
猫町さんも今は流離いの武者修行の旅に出ていらっしゃることでしょう?。。。
>また機会があれば、れんげさんたちと一緒にお会いしたいものです。
本当ですね。ぜひ実現させたいですね。楽しみにしています。(*^.^*)合掌

54空き缶:2003/11/19(水) 19:07
ROCKさん

○なるべく放置するのが一番かと思います。

→やはりROCKさんは、人間の完成度が私とは格段に違うと思います。私はどうも、彼らにものを言われると反論したくなってしまいます。
 かつて波木井坊竜尊氏からも、彼らのことは相手にせずに自らの信仰を全うするよう、アドバイスをいただいたこともありました。
 ところが性格的に黙っていられませんでした。(涙。。)まー今回、問題の掲示板がストップしたことは御仏智だと思い、研鑚の姿勢を正していきたいと思います。

れんげさん、管理者さん

○「佐渡始顕の曼荼羅」について

→やはり私は、一度も拝したことがないですね。どのような相貌の御本尊様なんでしょうか?

55川蝉:2003/11/19(水) 20:15
皆さん今晩は。
空き缶さんへ。

吉川弘文堂で最近出版された立正大の中尾暁教授の「日蓮」に始顕曼荼羅の模写の写真が掲載されています。1700円でしたか。
始顕曼荼羅の相貌について、文章での説明は困難です。

ROCKさんへ。

本化妙宗出版の「創価学会が真実なら日蓮聖人の信仰をやめます」に、いわゆる大石寺の板本尊の相貌が紹介されています。
管理人さん本化妙宗本部に、まだ「創価学会が真実なら」は在庫がありますか?。
「先生」と付けられるとこそばゆいです。当掲示板は「さん」づけに統一するようにとの管理人さんのご意向もありますから「さん」づけでお願いします。
来春にはいよいよ出版ですか。心待ちにしています。

56川蝉:2003/11/19(水) 20:28
書き忘れましたので追伸です。。
ROCKさんへ。

>佐渡始顕の大曼荼羅とは高橋智遍師の『日蓮聖人小傳』のp674−
>675に載っているところの大曼荼羅でしょうか。

そうですね。

中尾暁教授の「日蓮」に掲載されている模写と字体が違いますね。「日蓮」に掲載の始顕曼荼羅は身延の法主さんの模写と説明にあったように記憶しています。
今、ちょと「日蓮」は手元に無いので、このコメントを打ちながら、なんだか自信が無くなりしたが、たしか始顕曼荼羅の模写の写真であったと思います。

57野菊:2003/11/19(水) 20:54
川蝉さん、解説ありがとうございます。
自分でこの佐渡始顕の大曼荼羅の話を振りながら、言葉にするには難しくて
躊躇しておりました。蛇足ながら、私ども国柱会、本化妙宗の提唱する佐渡始顕の大曼荼羅
は、日蓮正宗の提唱するような板本尊のように他のお曼荼羅に利益がないとか、
これが本物といった考えではありません。佐渡始顕その現物は未だ不明でありますが、
智学先生は、その曼荼羅の因縁次第、時、処、内容からみて、その「模倣」であっても
佐渡始顕(四聖帰命)こそ日蓮門下の本尊として統一するに相応しいとの考えで定めて
います。会員はご開眼式の後いただきます。
詳しくは、日蓮主義大観1のp316に佐渡始顕の理由が書かれています。
まだまだ教学が足りないのでうまく説明できませんが、ご本尊は写真を撮って乗せる
わけにもいけませんのでよろしくお願いいたします。<(_ _)>

58ROCK:2003/11/19(水) 21:45
川蝉さん、こんばんは。

>本化妙宗出版の「創価学会が真実なら日蓮聖人の信仰をやめます」
>まだ「創価学会が真実なら」は在庫がありますか?。

『創価学会が真実なら』はもう絶版になっていますが、仕事柄(古書関係)、
幸いにして書庫にありました。相貌図は文章上、掲載することはできませんが、
高橋智遍師の御論考を引用してみます。

──────────────────────────────────
問題の「板マンダラ」ですが、座配・勧請・讃文・縁起など――他の「略式」本尊と
おなじであツて、別に最大御利益・最高御利益をもたらす特別なものは何一つ見
出せません。仏部では、「三世諸仏」「十方分身諸仏」が略してあり、十界のなか
「修羅界」の「大阿修羅王」と「畜生界」の「大龍王」等がまツたく略してあるかち、
それだけ御利益が略されたことになると、大石寺流・創価学会流の議論をすれば、
できないこともありません。「修羅界」「畜生界」がないから、十界円具・十界具足で
なく、八界だけの…二界不足・不具足・片輪な「マンダラ」だと、これまた大石寺流
の難クセをつけ得ないこともありません。さあ……こうなると「板マンダラ」のどこが
特別にありがたいのか、一向に私にはわかりません。

(『創価学会が真実なら』p51、1961年)
──────────────────────────────────

>当掲示板は「さん」づけに統一するようにとの管理人さんのご意向もありますから
>「さん」づけでお願いします。

了承致しました。
管理人さん、すみませんでした。m(__)m

>来春にはいよいよ出版ですか。心待ちにしています。

出版時期は今のところ流動的です。三月には本として完成することができるようですが、
三月・四月は教科書等の出版で印刷やさんが忙しいので五月の連休明けにしてはどう
かと言われていますので、よほどのことがない限りは五月より遅くはならないと思います。

59ROCK:2003/11/19(水) 21:59
空き缶さん、こんばんは。

>ROCKさんは、人間の完成度が私とは格段に違うと思います。

いえいえ。私なんぞは人格識見に欠けた、ヤンチャな凡愚の人間ですよ。
相手しなかったのは、彼らとの論争が当時執筆していた原稿の内容と重なる
ため、相手すると「ネタバレ」になってしまうということがあったからだと
思います。
まぁ、それは結果的によかったかもしれませんが。

>研鑚の姿勢を正していきたいと思います。

それがよいと思います。
あまり相手にしすぎると、『慧妙』において攻撃されることがありますしね。

60れんげ:2003/11/19(水) 23:18
皆さん、こんばんわ。
空き缶さんへ
私がお受けしている御本尊は、玉沢妙法華寺所蔵の「伝法曼荼羅御本尊」の複写です。
過去にお世話になっておりました本化妙宗のお寺の開基お上人の御縁で撮影された「伝法曼荼羅御本尊」、それを表具されたものを、私は開眼して戴いております。
書体はとても力強く全体のバランスがとてもよくて見事なものですよ。合掌

川蝉さん、(^^; 中尾堯教授・著「日蓮」私の手元に御座います。(^^ゞぽりぽり
P172に「佐渡始顕の曼荼羅本尊」の写真がのっていました。身延山久遠寺日享『御本尊鑑』の謄写本による。とございました。

私のお受けした御本尊は、佐渡始顕の御本尊とお聞きしていたのですが、先ほど調べましたら、伝法曼荼羅御本尊とございましたが、呼び名が違うだけなのでしょうか。。合掌

61空き缶:2003/11/19(水) 23:41

れんげさん、こんばんわ。


「伝法曼荼羅御本尊」とは、由緒ある御本尊様ですね。日蓮聖人から日昭上人に授与された「伝法」の御本尊様ですね。

佐渡始顕の御本尊は「伝法曼荼羅御本尊」と相貌が似ているということでしょうか?
弘安年期の御本尊と比べますと、花押の形が違うのではないかと想像するのですが、いかがなものでしょうか。
私は「佐渡始顕の御本尊」は未見であり、どうにもイメージできません。

62ROCK:2003/11/20(木) 01:43
本門戒壇大御本尊と称される板曼荼羅の写真が掲載されているサイトを思い出しました
ので一応、参考までに。

┏大石寺奉安堂に安置されている本門戒壇大御本尊と称する板曼荼羅の写真

http://campross.crosswinds.net/Gohonzon/DaiGohonzon.html

┏阿部日顕師書写本尊(上)と細井日達師書写本尊(下)

http://campross.crosswinds.net/NShoshu.html

大石寺貫首は本門戒壇大御本尊と称される板曼荼羅を書写しているはずなのですが、
板曼荼羅、細井師書写本尊、阿部師書写本尊は何れも相貌が異なっているのは興味
深いと云うか不可解です。

63野菊:2003/11/20(木) 09:26
ROCKさん、みなさんおはようございます。
写真のサイト紹介ありがとうございます。
板曼荼羅の感想としては、文化財としては価値があるのかもしれませんしれませんが、
第一印象としては三千世界を顕すには、なんか奉られている神仏、世界が少ないと思
いました。
佐渡始顕は、細井日達師書写本尊(下)の方が似ていますね。
私の御本尊には上部に横向きにも左右に神仏が奉られています。
左下に私の名前を入れていただいています。
何がどこかの配置はよく頭に入っていません。読誦の時はづーと
妙行正軌を熟視していますので、ようはお経を暗記してないので
御本尊を直視できるのはお題目の時だけなのです。爆

64川蝉:2003/11/20(木) 09:53
空き缶さんへ。

中尾教授の「日蓮」に掲載されているものより不鮮明ですが、他の本にあった始顕本尊のコピーを管理人さん宛送りますので、空き缶さんの住所を管理人さんにお知らせして、回送していただいて下さい。

管理人さんへ。

お手数おかけしますが、回送よろしくお願いします。

65管理者:2003/11/20(木) 11:57
れんげさんへ。
佐渡始顕の御本尊とは違います。空き缶さんがお答えになっております通りです。

空き缶さんへ。
佐渡始顕の御本尊は、四聖の処(釈尊・多宝・四菩薩と十方分身仏・三世の諸仏)の勧請形態に成っています。

佐渡始顕の御本尊の座配は、建治何年か「檀越某ご返事」?以降でしたか、座配が(釈尊・多宝・四菩薩と十方分身仏・三世の諸仏)に変わりましたが、建治前の座配が以後と似ているのは一体もなく、大聖人のお意を邪推は出来ませんが不思議です。
因みに、伝法曼荼羅ですが。鬼子母神に鬼子母神王と、これ又142体のお曼荼羅には一体も有りません。それと、釈迦多宝と四菩薩だけで、「十方分身仏・三世の諸仏」等が勧請されてません。

ROCKさんへ。
>管理人さん、こんばんは&御邪魔してます。
お邪魔なんて飛んでもありません。色々とご教示、換えって有り難う御座います。
>本門戒壇大御本尊と称される板曼荼羅の写真が掲載されているサイト
有り難う御座います。私も出版の日を楽しみにお待ちしてます。

川蝉さんへ。
>お手数おかけしますが、回送よろしくお願いします。
了解しました。今佐渡始顕本尊の転写本の写真を取り込んだのですが、ちょっと細かいところまではどうか。

野菊さんへ。
大先生の「本尊造立私議」の巻頭に佐渡始顕本尊の写真が有ります、大きく分かりやすく出来ませんでしょうか?もし出来ましたらHP(容量は大丈夫でしょうか)に一時的に張り付けてURLの書き込みお願いします。

66管理者:2003/11/20(木) 13:15
川蝉さんへ。
勝手に佐渡始顕の本尊の写真(小さい)をうPしました。此では細部までは確認不明ですが、参考程度で。

野菊さんへ。
一応佐渡始顕本尊の写真をうPしました。↑のお頼みしました件は白紙にして下さい。

空き缶さんへ。
川蝉さんの活字版佐渡始顕と併せてご参考まで。
http://plaza15.mbn.or.jp/~hongemyousyuu/%8D%B2%93n%8En%8C%B0.html

67空き缶:2003/11/20(木) 17:15
皆様こんにちは(こんばんわ)

川蝉さん、いつもありがとうございます。是非拝見させていただきます。

管理者さん、アドレスをリンクしました。お手数おかけします。また、上記リンクも拝見いたしました。ありがとうございました。

ROCKさん、リンクの写真は、由井一乗氏撮影の写真ですね。私も「日蓮上人」で拝見しました。由井氏は「南条兵衛七郎殿御書」御真筆の一部や、「唱法華題目抄」日興写本等を所持していた方ですね。たしか大石寺の大講頭だったと記憶しています。

68管理者:2003/11/20(木) 17:36
空き缶さんへ。
川蝉さんからのメールはまだ未着(行方不明なのか?)です、もう暫くお待ち下さい。

69空き缶:2003/11/20(木) 18:40

管理人さん
お世話になります。

デジタル資料の情報です。

なんと下記URLの法華宗のHP「e−図書室」にて、「註法華経」が一品ごとにダウンロードできます。
http://www.hokkeshu.com/

以前私が「昭和定本遺文」の紹介をさせていただいた時には、なかったと思います。

70野菊:2003/11/20(木) 18:44
管理人さん、川蝉さんのメールは郵政公社のメールだと思いますよ(^○^)

写真ありがとうございました。開眼してなければよろしいですよね。(^_-)-☆

71管理者:2003/11/20(木) 18:55
野菊さん、有り難う御座います。
よくよく観たら、郵政ですね。この様にそそっかしくて、頭からメールでの転送と思いこみすぎ。(^_^;

72管理者:2003/11/20(木) 19:14
空き缶さん、
法華宗のHP「e−図書室」の情報有り難う御座います。
しかし、私は一太郎は使ってなく観ることは出来ませんが、山中喜八先生の註法華経のコピーで今のところ間に合わせます。
情報、有り難う御座います。

あっ野菊さんへ。
開眼はしてません。でも、例え開眼はして無くとも、無礼な事は避けるべきでは、例えばポスターとか、あれ剥がれて足で踏まれたら大変ですから。

73川蝉:2003/11/20(木) 20:17
管理人さんへ。

始顕本尊コピーは郵便です。今日お昼まえに投函しました。

何でしょう。管理人さん紹介の写真の始顕本尊とひどく書体が異なります。
もう一冊の他の本にも、管理人さんに郵送したコピーと同じ本尊を始顕本尊として掲載しています。

田中智学大居士さんの模写は字体(書体)を真似ないで座配だけを写したものなのでしょうかね。

空き缶さんへ。
郵便の住所を管理人さんへお知らせして下さい。

74管理者:2003/11/20(木) 20:38
川蝉さんへ。お疲れさまでした。

>管理人さん紹介の写真の始顕本尊とひどく書体が異なります。
今、山川先生の「本門本尊論」の219頁に出ているのが写真の「佐渡始顕本尊」です。
でも、この座配は、建治何年か不明ですが、以降の座配ですので、佐渡始顕のご真筆の座配は何に属するのか。

75管理者:2003/11/20(木) 20:40
追伸です。
>山川先生の「本門本尊論」の219頁に出ているのが写真の「佐渡始顕本尊」です。
は、佐渡一ノ谷妙照寺所蔵佐渡始顕本尊、を書き忘れました。失礼しました。

76管理者:2003/11/20(木) 20:57
空き缶さんへ。

>しかし、私は一太郎は使ってなく観ることは出来ませんが、山中
>喜八先生の註法華経のコピーで今のところ間に合わせます。
文中不適切な表現、誤解を招くような文中でしたらご容赦の程。m(_ _)m

又、法華宗のHP「e−図書室」にて、「註法華経」が一品ごとにダウンロードできます。
http://www.hokkeshu.com/
を、書籍情報へ転載させていただきました。またまたご容赦の程。m(_ _)m
どーも、夕方よりチョンボが多い。

77空き缶:2003/11/20(木) 21:07

川蝉さん、管理人さん、色々とお世話になり申し訳ありません。

78管理者:2003/11/20(木) 21:19
空き缶さんへ。
飛んでもありません。何か「佐渡始顕本尊」の情報が御座いましたら何なりとお書き下さい。
それ以外も結構です。
因みに、伊豆の在るお寺に所蔵「板曼荼羅」は、戦時下の宗教弾圧によりて「天照大神・八幡大菩薩」の部分の金箔を葉がした「板曼荼羅」が現在でも残っています。何方でも観ることが出来ます。

79野菊:2003/11/21(金) 04:38
御本尊に関して思うこと

田中智学先生 日蓮主義教学大観一より
予は考えるに、聖祖認めたまふ所の御本尊は御一生中ただ一通あるのみである。
そは文永十年七月八日佐渡一の谷においてお認めあったのがそれである。
而しておそらくこの時表裏二面(義学上)の御認めがあったものと推考し奉る
ことができる。その一は四聖歸命の式、その二は總歸命の式である、「元祖化道記」
等の傳説に「總歸命」とあるは即ち内観の邊より書かせたまひしもの、若し、教化
の票式としては因果の正しき目安に乗けたる、六道には歸命を省きたまへる、四聖
歸命の御本尊である、建治、弘安の御本尊は具略の差はありとも、みなこれを寫さ
せたまひしものである。以下省略
==================================
長いのと、漢字の変換が難しいので省略しました。

要は、智学先生は、これ以降の曼荼羅もご聖人が顕されたものは、すべて
この佐渡始顕の模倣というか、変化したもので、基本は佐渡にあり
ということだと思うのですが、それも含め全部で7つの本尊を佐渡始顕とする
理由を述べていらっしゃいます。

佐渡始顕の実物その物は発見されていない訳で、書体を真似てみたとろろで
ご聖人の直筆ではありませんから、智学先生は書体など真似しないと思います。
真似すべき、尊ぶべきは、板切れでも書体でも無く、ご聖人の精神であり、
信仰するのは、本佛のお悟りの世界、大曼荼羅の世界であります。
板や紙に書かれた文字を拝むのではありませんから、例えご聖人の直筆、
本物の板曼荼羅であったとしても形見として、また、文化財として尊くても
それゆえに教えが正しい、ご利益があるというものでは無いと思います。
私は私の目の前にある小型の御本尊で充分であります。
要は、その御本尊に向かいお唱えするお題目が重要であると思います。

80野菊:2003/11/21(金) 04:53
追伸 <(_ _)>
それゆえに(って、佐渡始顕主義ということですね)国柱会、本化妙宗は
7月8日が顕正会と言って御聖日なのですが、他の門派では御聖日では
無いのですか?
(管理人さん、ROCKさん空き缶さん、川蝉さん、みなさん 夜中に朝早く
かってな主張ばかり失礼しました。今日明日と留守にしますのでレスが遅れます)

81川蝉:2003/11/21(金) 11:32

>その一は四聖歸命の式、その二は總歸命の式である

分かりました。中尾暁教授の「日蓮」や他の二冊に掲載してある始顕曼荼羅は總歸命の式の方で、管理人さんが掲示された始顕曼荼羅は四聖歸命の式の方と云うことですね。

82れんげ:2003/11/21(金) 21:01
皆さん、ご教示ありがとうございます。m(__)m
先ほど、身延山より帰って参りました。

空き缶さん。管理人さん。ご教示下さいまして有り難う御座いました。m(__)m

先ずは取り急ぎ御礼申し上げます。合掌

83空き缶:2003/11/21(金) 21:29

川蝉さん

本当にありがとうございました。初めて拝見しました。

「明治の大火」で宗祖真筆は焼失してしまったんですね。あの火事は門下にとって、非常に大きな痛手でしたね。


管理人さん

ありがとうございました。
これからも宜しくお願いします。

84空き缶:2003/11/21(金) 21:40

れんげさん

お帰りなさいませ。


野菊さん

大石寺では、やはり「本門戒壇の大御本尊」建立の日と伝わる10月12日が記念日ですね。

重須では日興上人の御振舞いに習い、10月13日(御入滅の日)に御講を開催すると思いますが、ROCKさんいかがでしょうか?(突然ふってしまいすみません。重須の事はよくわからないのに書いてしまいました。)

85ROCK:2003/11/21(金) 22:22
空き缶さん、こんばんは。

>「明治の大火」で宗祖真筆は焼失してしまったんですね。

「明治大火」で焼失した本尊には、「智徳第一付法沙門日興授与之」と記された
弘安二年八月(弘安五年説もあり)の日興師授与本尊も含まれていたようですね。
現存する日興師授与本尊は二幅で、何れも要法寺に所蔵されているようですが、
これらの本尊の真偽は私には分かりません。

>10月13日(御入滅の日)に御講を開催すると思いますが

どうなんでしょう。
私は重須の事はほとんど知りません。と言うよりも、重須は大石寺、要法寺に比
べてあまりにも情報が入ってこないのですね。
重須公式サイトの「主要行事」を見ましたがありませんでした。
http://www.ba.wakwak.com/~honmonji/gyouji.htm
昔(先代・片山日幹師)は開放的で、重須の出版物も信徒以外にも配布していた
ようですが、本間師になられてからはそういったこともしなくなったと知人が嘆いて
いたくらいです。そういった意味では、重須は閉鎖的であるし、興門研究でも遅れ
ているな、というのが私の感想です。
せめて、『北山本門寺入門』でも出して欲しいものです。

86ROCK:2003/11/21(金) 22:33
[補足]
>現存する日興師授与本尊は二幅

ここには万年救護本尊を含んでいません。
万年救護本尊は日興師に授与された本尊ですが、私が>>85において「日興師授与本尊」
としたところの定義は脇書に「日興」と記されているという意味です。
ちなみに、富谷日震師は『本宗史網』では「智徳第一付法沙門日興授与之」本尊を弘安
二年としていますが、『日興上人正伝』では弘安五年としています。
富谷師編纂の『日宗年表』を見ましたが、弘安二年・弘安五年の項に本尊授与がなされ
た旨の記述がありませんでしたので、何れが正であるかは分かりません。

87空き缶:2003/11/21(金) 23:09
ROCKさんこんばんわ。

重須の件、勝手にふってしまいすみませんでした。日興上人御在世中は毎年御講を開催していたらしいことが、興風談所の「興風11号」に出ていたような気がしましたが、今は行っていないのですね。それとも私の勘違いでしょうか?


→「明治大火」で焼失した本尊には、「智徳第一付法沙門日興授与之」と記された
弘安二年八月(弘安五年説もあり)の日興師授与本尊も含まれていたようですね。

この御本尊の模写は、残ってないんでしょうか?

88野菊:2003/11/22(土) 14:58
みなさんこんにちわ<(_ _)>
先日、智学先生が始顕曼荼羅、推考して書いたような記述を私がしましたが
本部の詳しい方にお伺いしましたら、明治初期もでは確かに存在し、智学
先生はご覧になったはずで、どこかにその記述があったとのお話でした。
で、現物物は九州方面で所在不明になったというような話でした。
(参考までに)

89管理者:2003/11/23(日) 18:23
佐渡始顕の御本尊「総帰命」を私が転写して持っております。ご入り用の方はメールを頂ければ「宅ふぁいる便」にて送らせていただきます。

ご存じの通り、「総帰命御本尊」は明治の大火にて消失しましたが、消失前にそのままそっくり書き写した物が、伊東市霊跡本山佛現寺に御座います。
その写しを20数年前、私が許可を貰いまして移させていただきました。

尚、日享『御本尊鑑』の総帰命の座配で大竜王等が抜けてます。

90管理者:2003/11/23(日) 19:21
追伸、
「宅ふぁいる便」でお送りするのは、佐渡始顕の総帰命の写真のファイルです。
が、抜けてました。<(_ _)>

91ROCK:2003/11/24(月) 23:11
空き缶さん、こんばんは。

>この御本尊の模写は、残ってないんでしょうか?

どうなんでしょう?
『御本尊集』にも『日蓮聖人門下大曼荼羅集成』にも載っていませんし、模写は
ないものかもしれません。
重須貫首の書写本尊は『日蓮聖人門下大曼荼羅集成』に僅かに見られますが、他
の興門は基本的に非公開ですから。知人の御指摘によれば「興門派信徒はご本尊
を信仰の対象ととらえているため興門本尊研究は殆ど行われていない」とのこと
ですので、なかなか難しいところです。

92空き缶:2003/11/24(月) 23:18

ROCKさん、こんばんわ。執筆活動お疲れ様です。

重須にも「万年救護本尊」(弘安三年、禅師授与の曼荼羅)があると聞きますが、こちらも『日蓮聖人真蹟集成御本尊集』や『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』には掲載されていないようです。
これは、大石寺からの圧力なんでしょうか?

93ROCK:2003/11/25(火) 09:01
空き缶さん、おはようございます。

>こちらも『日蓮聖人真蹟集成御本尊集』や『日蓮聖人門下歴代大
>曼荼羅本尊集成』には掲載されていないようです

『日蓮聖人門下大曼荼羅集成・解説』において宮崎英修氏は「本集
につづいてこれに収録しきれなかった諸師及び徳川時代に活躍した
門家諸師の本尊集の続刊を予定している」と述べておられます。
宮崎氏はもうお亡くなりになられましたが、『日蓮聖人門下大曼荼羅
集成』の続刊が刊行され、その中に北山の万年救護本尊も収録され
てほしいと願うものです。

しかし、宮崎氏以降は富士大石寺教学の研究を行っておられる方が
いなくなったのは少し寂しいものです。(尊門教学は日蓮教学研究所
の田村莞爾氏が行っておられますが…。)

94ROCK:2003/12/12(金) 20:42
[自説訂正>>27>>30

最近、『御本尊集・奉蔵於奥法寶』を手に入れて一読したところ、>>27および>>30
における《「法華講衆」という呼称の所見は応永十一年の日時師書写本尊》とする
愚考は訂正せざるを得なくなった。すなわち、『御本尊集・奉蔵於奥法寶』に、

──────────────────────────────────
日行上人(三八)
 文和二年三月十二日(一三五三)
 奥州一迫柳目法華講衆武庫掃部
 柳目妙教寺蔵

(『御本尊集・奉蔵於奥法寶』P78、2000年)
──────────────────────────────────

とあったのである。
一瞬、目を疑った。なぜなら、上記本尊が所蔵されているという妙教寺の「本尊
目録」には「奥州一柳目法華衆武庫掃部○○○」(『奥人』3−P18)となってお
り、『富士宗学要集』にも「文和二年三月十二日、奥州一柳目法花衆武庫掃部□
□□」(富要8−P189)となっていたからである。
『御本尊集・奉蔵於奥法寶』の本尊写真を見たが不鮮明で何れが正なのか断定し
難い、というのが正直な感想であるが、『御本尊集・奉蔵於奥法寶』に「奥州一
迫柳目法華講衆武庫掃部」と記されていたこともひとつの事実であり、今は《「
法華講衆」という呼称の所見は応永十一年の日時師書写本尊》との愚考を訂正し、
文和二年の日行師書写本尊とする次第である。

95直人:2004/02/21(土) 07:44
《概略・上代興門教学史の諸問題》

A、相承書の件

一、種々の史料精査の結果、二箇相承の成立時期は宗祖滅後60年代に重須
において偽作されたものである。

二、二箇相承偽作の背景は宗祖滅後53年より起こった西山との紛争である。
その対立過程で日興正嫡思想・血脈相承思想が形成された。二箇相承はそ
うした思想の集大成とも云うべきもの。こうした対立過程で偽作(換骨奪胎)さ
れたものが「日代置状」「大内文書」である。

B、本門戒壇之願主弥四郎国重の件

一、「本門戒壇之願主弥四郎国重」云々は日行師以降の添加(>>94)である。
添加された理由は定かではない。しかしながら、日行師の時代にはすでに、二
箇相承が成立していた。

二、二箇相承には「国主此の法を立てらるれぱ富士山に本門寺の戒壇を建立
せらるべきなり」と記されている。二箇相承が重須によって偽作された文書であ
るならば、「本門寺の戒壇を建立」とは当然、重須思想となる。それゆえに、「本
門戒壇之願主弥四郎国重」云々を添加して重須に対抗したものかもしれない。

C、宗祖本仏思想の件

一、宗祖本仏思想がはじめて見られるのは日順師の著述である。日順師の時
代と云えば、日道師滅後である。日時師・日影師は武州仙波において中古天台
恵心法門を修学している。

二、日道師以降、釈尊本仏思想から宗祖本仏思想へと変遷した背景には日順
師による宗祖本仏思想の影響があったものかもしれない。かくして、大石寺は中
古天台恵心法門を基盤として宗祖本圧思想を形成してゆくようになったものかも
しれない。

96空き缶:2004/02/24(火) 15:06

直人さん、お久しぶりです。
 
 関東天台や細草檀林との関係、大石寺系の日蓮本仏論は、保田妙本寺がそうであったように恵心流中古天台本覚法門と日隆教学が基礎となっているみたいですね。

97直人:2004/02/25(水) 23:02
空き缶さん、こんばんは。

>関東天台や細草檀林との関係

大石寺僧は細草檀林が開創されるまでは武州仙波などの天台の檀所に天台を
学びに行ってましたね。細草檀林で思い浮かべるのは日寛師ですが、日寛師
もまた武州仙波に修学していたと主張する人もいますね。私は疑問に思って
いますが…。

>日隆教学が基礎となっているみたいですね。

日隆師の教学思想は門外漢です。しかし、私の周りでは日隆師の本仏思想は
高い評価を得ていました。

PS.

>C、宗祖本仏思想の件(>>95

○上代日興門流略史
http://www.sincere.ne.jp/~naohito/nenpyou.html

誤記を上記のサイトにて訂正しておきました。

98直人:2004/04/04(日) 14:44
■本門寺戒壇のこと

 宗祖が戒壇建立について述べている著述はわずかに「三大秘法抄」「百六箇抄」
「日蓮一期弘法付嘱書」があるにすぎない。けれども「日蓮一期弘法付嘱書」は宗
祖滅後60年代・重須によって偽作された文書(詳細は今春発行の『大石寺教学の
研究』所収「二箇相承の考察」参照)であるから、「日蓮一期弘法付嘱書」を本門寺
建立の依文とすることはできない。
 今日においては大石寺門流を中心に富士戒壇思想が根強いが、はたして彼らの
主張する戒壇思想はいかにして形成されてきたのであろうか。「三大秘法抄」によ
れば、宗祖は、

  戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法
  を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並
  びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立
  すべき者か

として、いまだ戒壇建立地を定めておられない。ところで「三大秘法抄」は弘安四年
の著述(大石寺日時本では弘安五年)であるが前年の著述であると伝えられる「百
六箇抄」には、

  富士山本門寺本堂なり。上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし

として、富士戒壇思想が記されているだけでなく、上行院(要法寺の前身)に言及
しているが、これより後の成立である「三大秘法抄」に戒壇建立地が明示されてい
ないことから「百六箇抄」は尊門による偽作であることが明らかである。したがって、
富士戒壇思想が明示されている信用のおける文献ではわずかに「三時弘経次第」
があるくらいであろうか。すなわち、日興上人は「三時弘経次第」において、

  本門寺 富士山 末法

と述べている。けれども、これが宗祖の立義であったかと云えばそうではないように
思う。それは、宗祖が戒壇建立地を明示していないこと、五老僧も「宗祖は戒壇建
立地を定めていない」(「富士一跡門徒存知之事」趣意)と述べているからである。し
たがって富士戒壇思想は日興上人によって形成されたものであるように思う。
 ところで、日目師は「日興上人御遺跡之事」において、

  日蓮聖人御影並びに御下文、園城寺申状上野六人の老僧の方巡に守護し
  奉るべし。但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。 この条、日興上人
  の仰せによって支配し奉る事此の如し。この旨に背き異議を成し失いたらん
  輩は永く大謗法たるべし。

と記しており、興門においては早くから本門寺建立が論じられていたようである。
ところで興味深いのは、「御影並びに御下文、園城寺申状」として大石寺門流に
おいて最重要視されている本門戒壇之大御本尊が記されていないことである。
「日興上人御遺跡之事」には記されていないが本門戒壇之大御本尊は大石寺
に秘蔵されていたと考える人がいるかもしれない。けれどもその考えは正しくな
い。それは大石寺門流は身延時代、本堂には本門戒壇之大御本尊が安置され
ていたと説明するからである。

  この弘安二年の戒壇の大御本尊こそ、日興上人が身延においてお受けして、
  身延の正本尊として安置し奉った。

 身延時代に本堂に安置されていた本尊が大石寺では秘蔵されているとするの
は合理性がないように思えるのである。
 これらのことから、本門戒壇之大御本尊は日興上人・日目師の時代にはなく、
この時代における本門寺本堂に安置する本尊とは大曼荼羅を設計図として仏像
を造立するというものであったように思う。それは、日順師、日代師が広宣流布の
暁には仏像を安置すると考えていたこと、日尊師が日興上人の教説として大曼荼
羅は広宣流布の日までとしていることによるものである。ただ、遺憾なるは日興上
人の著述に日順師、日代師、日尊師の如き本尊思想(造仏思想)を見出せないこ
とである。(未完)

99慎之輔:2004/04/06(火) 18:09
今日もお疲れ様でした。局の先輩に頼まれてネットで本化聖典大辞林を
検索購入しました。
昭和63年国書刊行会のもので価格¥14000でした。
今朝、連絡したらすぐ買いにいかれたようで、なかなかの上物だったそうです。
(^○^)

100空き缶:2004/04/21(水) 03:28
100レスゲットです!!

富士門流信徒の掲示板にて、主筆を振るわれている犀角独歩さんの日蓮正宗大石寺所蔵・本門戒壇之大御本尊に対する感懐です。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

近く「図解必携 大石寺本尊鑑別」の出版予定だそうです。
直人さんの「大石寺教学の研究」と併せて、手にするのが待ち遠しいです。

101直人:2004/04/22(木) 00:26
空き缶さん、こんばんは。

>http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

私の考えと基本的に同じですね。違う点は私は日禅授与本尊が板曼荼羅の
土台となったとは考えていないことくらいですね。

>直人さんの「大石寺教学の研究」と併せて、手にするのが待ち遠しいです。

空き缶さんも『妙本寺教学の研究』とか書いてみてはいかがでしょうか?
執筆は疲れるけれど楽しいもんですよ。そして、苦労した分だけ自分の血肉
となって報われますよ。

102空き缶:2004/04/22(木) 20:41

直人さん、私も出版するしないは別として、何らかの形に残したいと思っています。

 但し私は手元の資料や、情報提供に協力してもらえる人脈が少なすぎだと感じています。
 資料を増やすのには資金的な問題があり(仏教書はマーケットが狭いせいか高いですよね)、仕事や家族との時間を考えると、人脈を広げるのには自由になる時間が少なすぎだと思っています。

 だから時間をかけて、ゆっくりとやりたいと思います。その間皆さんの出版物や、掲示板上での御教授をもとにしっかり学んでいきたいと思っています。
 私には身近に法義法門の指導をしてくれる方はいません。したがって、ネット上の皆さんがたよりなんです。

103直人[TRACKBACK]:2004/04/27(火) 14:28
>>98の続き

 富士戒壇思想の初見は日興上人であることを>>98に記した。しかし、日興上人以降の
興門においては戒壇論が論議されていないようである。それが史料の散逸によるものか、
或いは、実際に戒壇論議が行われなかったのかは定かではない。大石寺中興の祖と仰
がれる日有師も戒壇論には何ら言及しておらず、興門において戒壇論が再び見られるの
は日教師の「類聚翰集私」においてであった。

  天生原に六万坊を立て法華本門の戒壇を立つべきなり(富要2−P323)

 かかる戒壇思想は純粋な大石寺教学とは云い難い。否、むしろ、かかる戒壇思想は要
法寺教学と云うべきであろう。なぜなら、六萬坊思想は「百六箇抄」後加文に見られるから
である。

  四大菩薩同心して六萬坊を建立せしめよ、何れの在処為りとも多宝富士山本門寺上行
  院と号す可き者なり時を待つ可きのみ云云。(宗全2−P29)

 この後加文を大石寺思想とすることは決してできない。なぜなら、「多宝富士山本門寺上
行院」とは大石寺ではなく、要法寺の前身である上行院をさすものであるからである。したが
って、「百六箇抄」は宗祖滅後100年代に尊門において偽作され、それが文明十一年、日教
師に相伝されたことによって日教師の著書に「百六箇抄」の如き戒壇思想が見られるのであ
ろう。
 六萬坊・天生原戒壇思想は顕正会の根本教義とも云えるがかかる戒壇思想の根源が要法
寺義である以上、顕正会の戒壇論は何ら根拠をなさないものとなろう。とは云え、要法寺義を
継承―もっとハッキリ云えば要法寺亜流なのは大石寺そのものかもしれない。例えば、空き缶
氏が云われるところの、

  この板本尊を代代受継いでいる大石寺の管長は「生身の釈迦・日蓮」なんだそうです
  (http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/3171/1070036052/r13

という思想は決して大石寺本来の立義ではない。かかる思想の根源は要法寺である。大石寺
が9代100余年間にわたって要法寺から貫首を迎え入れていたことはあまりにも有名である。要
法寺出身の日舜師が大石寺19代として貫首職に就こうとした際、若年だったため、大石寺檀徒
が反発した経緯がある。その際に日舜師援護策として法詔寺日感師(要山僧)が、

  其の器量の善悪を簡ばず、但相承を以って貫主と定められ候、故を以つて一山皆貫主の下
  知に随い、貫主の座上を蹈まざる事悉く信の一字の修行にて候釈迦日蓮代代上人と相承の
  法水相流れ候えば、上代末代其の身の器は替われども法水の替わる事少しも之れなく候、
  此くの如く信ずる時は末代迄も仏法松柏の如くにて、常に寺檀仏種を植え、三宝の御威光鎮
  えに於閻浮提広令流布は疑いなき事に侯、此の旨を相知り侯上は如何様の僧貫主となると
  も相承伝受候上は、生身釈迦日蓮たるべきこと開山の御本意一門徒の肝要にて御座候
  (富要5−P271)

と述べたのが発端である。かく云うと「御本尊七箇相承」の「代々の聖人悉く日蓮」との文を持ち
出してくる人がいるだろうがそれは通じない。そのことの詳細は『大石寺教学の研究』所収「御本
尊七箇相承の考察」において記しておいた。(この稿続く)

104直人:2004/05/06(木) 18:40
>>103の続き

 日教師の時代の大石寺貫首は日鎮師であるが『日蓮正宗歴代法主全書』によれば、《鎮院
主》の三師からは戒壇思想を窺うことはできない。
 ところで、大石寺の所伝によれば、日院師と同時代に生きた日辰師は「御書抄・報恩抄下」に
おいて、

  日本一同に順縁の広宣流布の時上行等の四菩薩国王国母大臣導師と成て寿量の妙法を
  弘通し玉ふ時富士山の西南に当たりて山名は天生山と号す此の上に於いて本門寺の本堂
  御影堂を建立し岩本坂に於いて二王門を建て六万坊を建立し玉ふべき時彼の山に於いて
  戒壇院を建立(達全2−5−P334)

と述べている。六萬坊思想は「百六箇抄」後加文にも記されている如く明らかに要法寺義である
と断じてもよいが、天生原(天生山)戒壇思想は決して要法寺本来の戒壇思想とは思えない。
天生原戒壇思想の先駆者である日教師でさえ尊門時代には六萬坊思想に留まっており天生原
戒壇思想を展開していない。

  此戒院は広宣流布の時御崇敬有り、最も六万坊を建立有るべしと(富要2−P220)

 日教師が天生原戒壇思想を展開したのは富士の方面へ行った後である。「御書抄・報恩抄下」
は書籍になっていないようで私にはその詳細はわからないが、大石寺の所伝によれば、日辰師は
1558年から2年ほど重須に滞在していたようである。この時期に記したのが件の「御書抄・報恩抄
下」であると云うのである。日教師・日辰師が何れも富士(重須)において天生原(天生山)戒壇思
想を展開しているのは単なる偶然ではあるまい。天生原(天生山)戒壇思想は要法寺義でもなく、
大石寺義でもない富士の伝承であったと考える方が賢明と思うのは私だけであろうか。
(この稿続く)

105直人:2004/05/07(金) 23:53
>>104の続き

 日辰師は1587年、日院師に書状を送り要石両山の通用を申し入れているが日院師は日辰師
の《造仏読誦》を邪義として拒否している。しかし、大石寺は日主師の時代には相当衰退したよう
で日主師は日?師に通用を要請している。
 かくして要法寺との通用は《昌就精盈舜典忍俊啓》の九代百余年間にわたって続くのである。
その後、日寛師の出現によって今日の大石寺教学が確立するのであるが、日寛師も天生原戒
壇思想に肯定的であった。

  事の戒壇とは富士山天生原に戒壇堂を建立するなり(宗全4−P324)

 かく云うと「依義判文抄」の、

  戒壇の方面は地形に随うべし国主信伏し造立の時至らば智臣・大徳宜しく群議を成すべし
  兼日の治定は後難を招くに在り寸尺高下注記すること能わず(宗全4−P47)

という文を持ち出してくる人がいるかもしれないがそれは正しくない。それは一つにはこの文は
日順師の「本門心底抄」からの引用であること、もう一つには、日寛師以降の大石寺貫首にも
天生原(天生山)戒壇思想が見られるからである。

  
  戒壇の地を富士の天生山に撰び置き板本尊及戒壇堂の御真筆在り
  (35代日穏師「五人所破抄一覧」富要4−P205)

  後五百歳中広宣流布の金言虚しからずんば、上一人より下万民に至るまで此の三大秘
  法を持ち奉る時節あり、此を事の広宣流布と云ふ。其時、天皇陛下より勅詔を賜はり富士
  山の麓に天母が原と申す曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立
  (56代日應師「本門戒壇の大本尊縁由」應全P3)

 日寛師がいくら現・大石寺教学の大成者と云えども百余年にわたる両山通用の間に流入し
てきた要法寺教学を完全には払拭できていないようである。それゆえに日寛師以降の大石寺
貫首も「天生原」云々と述べているのではあるまいか。

106空き缶:2004/05/08(土) 02:03

 直人さん、それにしてもすごいですね。
 どうも最近の日蓮正宗信徒さんや、創価学会員は「富士宗学要集」も所持していない方が多いようです。

 恐らく、直人さんと同年代の創価学会員は、ほとんど教学らしい教学は身につけていないと思われます。
 日興師を「僧宝」と仰ぎながらも、日興師の遺文はほとんど知りません。いったいどういうことなのかと首を傾げたくなります。
 彼らは「日蓮大聖人御書全集」に掲載されている、五人所破抄・富士一跡門徒存知の事・日興遺誡置文・御義口伝だけが日興師の著作であると思っています。
 私からいわせれば、どれも疑義濃厚だと思います。日興師を「僧宝」と仰ぐなら、せめて日興師の真筆が現存する遺文ぐらい知っていただきたいと思います。

107直人:2004/05/08(土) 19:47
空き缶さん、こんばんは。

>どうも最近の日蓮正宗信徒さんや、創価学会員は「富士宗学要集」も
>所持していない方が多いようです。

 古参会員信徒さんは持っているかもしれませんが、最近入信の大石寺門徒
さんは持っている人が圧倒的に少ないようですね。それは『富士宗学要集』の
版権が創価学会にあること、また宗創問題で対立している教団が出している
書物なんか買いたくないという感情でもあるんでしょう。ですから、私の知る大
石寺門徒さんは山喜房仏書林版を買っています。

>直人さんと同年代の創価学会員は、ほとんど教学らしい教学は身につけて
>いないと思われます。

 私は知りませんが教学ある人もいるでしょう。それにしても教学で批判して
くるなら『富士宗学要集』くらいは読んでおいてほしいものです。以前、私より
少し若めの学会員さんと討論したことがありますが、彼は『富士宗学要集』を
読んでいなかった(知らなかったというべきか)ためひとつのことで延々何時
間も話した記憶があります。「御書根本」を謳うなら「富木殿御書」の如くやっ
てほしいものです。

  我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して
  万歳悔ゆること勿れ

  (「富木殿御書」『昭和定本日蓮聖人遺文』P1373、1971年)

>五人所破抄・富士一跡門徒存知の事・日興遺誡置文・御義口伝だけが日興
>師の著作であると思っています。

 「御義口伝」「日興遺誡置文」は知らない人はいないでしょうけど、「五人所破
抄」「富士一跡門徒存知事」は知らない人もたまにいますから討論するとき大変
です。(ここ数年は原稿執筆に追われていたのでしていませんが。)

>日興師を「僧宝」と仰ぐなら、せめて日興師の真筆が現存する遺文ぐらい知って
>いただきたいと思います。

108直人:2004/05/08(土) 19:53
>>107最後がうまく書けなかったので…m(__)m

>日興師を「僧宝」と仰ぐなら、せめて日興師の真筆が現存する遺文ぐらい知って
>いただきたいと思います。

 『日興上人全集』『日蓮宗宗学全書』はせめて読んでおいてほしいものです。そう
でなければ興門教学史を語れません。

109直人:2004/05/08(土) 21:41
>105の続き

 1912年、東京本門独一講(日蓮正宗大講頭・由比一乗氏)は『総本山大石寺真景』を刊行し
ている。その中に富士山麓の写真を掲載し、

  冨士天母が原(本門戒壇堂建立地) (『総本山大石寺真景』)

と云い、その後、荒木清勇氏も『聖教乃正義』(1921年)富士山麓の写真を掲載し、

  事の廣布の時本門戒壇堂及六萬坊を建立せらるへき霊地也 天母ヶ原(『聖教乃正義』)

と云うのである。かくの如く大正期における大石寺門流の本門戒壇思想とは《天生原戒壇・六
萬坊》というものであったようである。
 堀日亨師は六萬坊伝説については、

  この日教要山僧にして石山に帰入せし者の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれて、
  坊舎建立の事実を空理にする人々の伝説は、まじめな後人を誤らす事大なり。ことに空談
  にもせよ、天生が原の寸地にいかに重畳しても、摩天楼にしても六万の坊舎が建設せらる
  べきや。(詳伝P268)

と云い、六萬坊思想は架空伝説であるとするのであるが、天生戒壇思想については、

  本書には直に天母原と指定することを定めて深由あるべし。宗開両祖の書判に明文なき
  が如しといえども、天母戒壇は富士諸山の共認するところなば、あながちに本師の私言に
  はあらざるべしと信ずるなり。(「類聚翰集私の要領」『隠れたる左京日教師』P57)

と云い、天生原戒壇思想に肯定的なのである。この堀論文はその後、1960年、大橋慈譲氏
が「富木公胤」というペンネームで『大白蓮華』に連載した「富士宗学要集の解説⑭」に引用
され、何ら注釈がついていないことからこの時点でも天生原戒壇思想は存在していたようで
ある。
 昭和期は創価学会による国立戒壇論が主流であったためか天生原戒壇思想・六萬坊思
想が明記されている当時の大石寺門流の教学書はないようである。私が知る限りはさきに
述べた「富士宗学要集の解説⑭」くらいである。
 創価学会による国立戒壇論は今は詳述しないが、池田大作氏は1964年6月30日・第七回
学生部総会において「国立戒壇」の名称放棄を行うのである。

  御書には「国立戒壇」ということばなどはどこにもありません。戸田先生も、ちょっと「国立
  戒壇」ということばをもらしたことがありますが、私も先生がおっしゃったから申し上げたこ
  とも一、二ありますけれども、御書にも日興上人のおことばにも、日寛上人のおことばにも
  「国立戒壇」ということばはないのです。「戒壇」といえば「本門戒壇建立」となるのです。
  (『会長講演集』11−P214)

 しかし、この場で放棄したのはあくまでも名称のみであってその本質は《国立戒壇》なので
あった。
  
  国立美術館、国立競技場、やれ国立博物館などを個人個人が所有していたならば、大
  衆が幸福を分かち合うことができない、研究もできない。そのときに、国立として、全体が
  公共物として、自由にそこで遊ぶこともできる、研究することもできる、見学もできる、それ
  が国立美術館であり、国立博物館であり、国立競技場です。おなじように、国立という言
  葉は使いませんし、使う必要はありませんが、本門戒壇ということも、これらと共通性をも
  っているのです。(『会長講演集』11−P217)

 その後、1969年秋から表面化した所謂「言論出版妨害事件」を契機として大石寺門流は
1970年5月3日・創価学会第33回本部総会において国立戒壇論を公式に放棄するのである。
しかしながら、細井日達師はその後も「国立戒壇」論者であったようである。

  それから、「国立については本宗では言わない、」ということは、国立という言葉が現在
  不適当だというからして、「今後言わない」というだけのことであって、なにも国立という
  精神の、国立ということばは王立でもよい、そういう精神の戒壇を立つとか立たないとか、
  そんなことは論じてない。私は「言葉」「名称」と言ってます。国立という名称は、現在不
  適当だから今後言わない。私は、今後言わないということを五月三日に言った。
  (1970年6月28日・富士学林研究科の砌 達全2−5−P321)

 すでに述べた如く宗祖には富士戒壇思想など片鱗もなく、富士戒壇思想は日興上人によ
って創作されたものである。
 大石寺700余年という宗門史の中での戒壇思想は大石寺本来の立義ではない《天生原
戒壇思想・六萬坊思想》が大部分を占めてきたのである。(了)

110空き缶:2004/05/09(日) 00:17

直人さん、「本門寺戒壇のこと」お疲れ様でした。

ここまでの御投稿をまとめ、私のコミュニティーで紹介させていただいてもよろしいでしょうか?

111直人:2004/05/09(日) 20:22
空き缶さん、こんばんは。

>お疲れ様でした。

 いえ、全然(笑)。私は書くのが好きですから、楽しいです。ですので
〝疲れたぁ〜〟っていう感じは全然しないです。
 いつの日か「大石寺門流における本門戒壇思想の考察」なんて書い
てみたいですね。今回はその下書みたいなものでしょうか。

>私のコミュニティーで紹介させていただいてもよろしいでしょうか?

 こんな文章でも紹介していただけるとはありがたいです。ただ、我儘を
お願いできましたら、>>98に引用文献のページ数の挿入と、>>109の1
箇所を訂正していただければ幸甚に思います。

  >>98上から
  (定本P1864〜1865)
  (宗全2−P25)
  (宗全2−P53)
  (宗全2−P202〜203)
  (達全2−5−P445)

  >>109
  〔誤〕東京本門独一講
  〔正〕東京独一本門講

112直人:2004/05/09(日) 20:29
 創価学会がはじめて「国立戒壇」なる語句を使用したのは1950年11月12日・創価学会第五
回総会における戸田城聖氏の講演においてであった。

  広宣流布は、仏意であり、仏勅であります。われわれ凡夫の力をもってして、これを左右す
  ることなど、ぜったいにできないのでありまして、(中略)しかし、国立の戒壇は、まだ建立せ
  られず、現在にいたっております。それこそ、末代にのこされた仏勅といわなくて、なんであ
  りましょう。 (『講演集』上−P46)

 その後、戸田氏は1951年5月3日・会長就任式挨拶において次のように述べている。

  天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている
  人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組
  んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。こうすることによっ
  て、はじめて国立の戒壇ができるのである。 (『講演集』上−P50)

 ここには昭和40年代、広宣流布の方程式とされた《舎衛の三億》なる思想など微塵も見られ
ない。戸田氏の国立戒壇論はさらに加速していく。戸田氏は1955年3月27日・鶴見支部第四
回総会において次のように述べている。

  広宣流布の姿におきまして、また広宣流布の途上におきましては、経済界に、あるいは新
  聞社において、あるいは雑誌において、または、これに類似する文化活動において、あるい
  は映画において、あるいは政治において、また会社の重役といえども、会社の小使いといえ
  ども、皆、御本尊様のありがたいことがわかって、これらの人々のなかから国会議員が出て、
  国立戒壇の請願が出され、国会で可決され、天皇陛下も、また、この御本尊様のありがたさ
  を知ってこそ、初めて広宣流布ができるのです。 (『講演集』下−P27)

 特に会長就任式挨拶・鶴見支部第四回総会における戸田氏の戒壇思想は今日の顕正会が
主張する戒壇思想と全同と云えるかもしれない。なお、顕正会の国立戒壇論は次の如くである。

  日本一国に南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布のとき、国家意志の表明を以て国立戒壇
  を建立して戒壇の大御本尊を安置し奉れば、日本は仏国となるのである。
  (『日蓮大聖人の仏法』改訂版P164)

113直人:2004/05/09(日) 20:33
>>112の続き

 戸田氏は1956年8月『大白蓮華』に「王仏冥合論」を掲載し、創価学会の政界進出について次
のように述べている。

  このたびの参議院選挙戦では、大いに社会の注目をひいた。宗教団体であるわが学会人の
  なかから、政治家をだすのかということについて、内外ともに、いろいろの議論がでている。た
  とえば、日蓮正宗を国教にするとか、また何十年後には、衆参両院の議席を学会人で占める
  とか、または創価学会が日本の政治をとるとかいう、あらゆる妄説が唱えられている現状であ
  る。しかし、われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布に
  ある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである。ゆえに政治に対しては、三大秘法
  稟承事における戒壇論が、日蓮大聖人の至上命令であると、われわれは確信するのである。
  (『巻頭言集』P204)

 文中、戸田氏は「日蓮正宗の国教化」「衆参両院の議席獲得」「政権獲得」を否定しているが
これが戸田氏の本音であったとは云えない。一つには戸田氏はこれに先立つ1954年5月30日・
足立支部第三回総会において次の如く述べている。

  日蓮正宗を国教として、天皇も帰依し戒壇を建立するようになった場合、戒壇の御本尊さま
  をどこの宗派がだせるか。
   (「戸田城聖先生の遺教録」『大白蓮華』104号[昭和35年1月号]P22)

 もっとも、この戸田講演は『講演集』『戸田城聖全集』(和光社/聖教新聞社)では次の如く改
竄されている。

  この日蓮正宗に、天皇も帰依し、国立の戒壇を建立するようになった場合 、戒壇の御本尊
  様をどこの宗派が出せるか。(『講演集』上−P308)

  この日蓮正宗に、天皇も帰依し、国立の戒壇を建立するようになった場合 、戒壇の御本尊
  様をどこの宗派が出せるか。
  (『戸田城聖全集』[和光社]2−P242/『戸田城聖全集』[聖教新聞社]4−P164)

 二つには「王仏冥合論」発表後の1956年12月23日・第五回男子部総会において池田大作氏
が次のように述べているからである。

  まさしく戒壇建立の暁にはわが学会員にとり、かつ、わが学会青年部の手によって内閣を
  結成して王仏冥合を、大聖人様の御予言を達成すべき瑞相ともいえるのではないかと思い
  ます。(『会長講演集』3−P75)

 創価学会青年部の手によって内閣を組閣するとなれば、衆参両院において過半数を占めね
ばならない。過半数を占めるに至らないまでも第一党にならねばならないはずである。そもそも
内閣を組閣するということは政権を取るということであるから戸田氏がさきに述べた「衆参両院
の議席獲得」「政権獲得」を妄説とすることは決してできない。

114直人:2004/05/09(日) 20:40
訂正(>>113
  
  〔誤〕 
  この日蓮正宗に、天皇も帰依し、国立の戒壇を建立するようになった場合 、戒壇の御本尊
  様をどこの宗派が出せるか。
  (『戸田城聖全集』[和光社]2−P242/『戸田城聖全集』[聖教新聞社]4−P164)

  〔正〕
  この日蓮正宗に、天皇も帰依し、本門の戒壇を建立するようになった場合 、戒壇の御本尊
  様をどこの宗派が出せるか。
  (『戸田城聖全集』[和光社]2−P242/『戸田城聖全集』[聖教新聞社]4−P164)

 オリジナルは「国教」、『講演集』は「国立の戒壇」、『戸田城聖全集』では「本門の戒壇」
と変わっていきます。

115空き缶:2004/05/09(日) 21:35

 直人さん、ご快諾ありがとうございました。
 出典の付け加えと、訂正をして掲載したいとおもいます。

 また新しい寄稿も、わたしにとってとてもタイムリーな話題です。
 現在某掲示板にて創価学会員と思われる方と論議しています。是非参考にさせていただきます。

 でも、日蓮正宗宗門の方や創価学会の方との議論は疲れる上、身にならないのできりのいいところでやめようかと思います。
 日蓮正宗宗門と創価学会は、ネット活動家が多いのか、はたまた多重なのかわかりませんが、一人に複数で噛み付いてきますから本当に疲れますよね。
 まあ、根本的にはチョッとしたことで「カチン!」ときて、長々付き合ってしまう私に全て問題があるんだと思いますけど。

116直人:2004/05/10(月) 23:33
空き缶さん、こんばんは。

>是非参考にさせていただきます。
 
 こんな文章でも何らかのお役に立てれは嬉しいですね。

>長々付き合ってしまう私に全て問題があるんだと思いますけど。

 私は今となっては基本的に大石寺系の信徒会員と討論しませんが、あまりにも
ひどい誹謗をしてくる場合は彼らにとって反論不能の書き込みを投稿してしまいます。
 (手加減してやれって言う人もいますが異流義破折に手加減なんかあるもんです
かってんだ!(笑))

117直人:2004/05/10(月) 23:36
>>113の続き

 池田氏は1959年5月3日・第二十回本部総会において、
  
  大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべき、どうしても通ら
  なければならないのが、創価学会の選挙なのでございます。(『会長講演集』4−P81)

と述べている。けれども、真実、戸田氏が云う如く「日蓮正宗の国教化」「衆参両院の議席獲
得」「政権獲得」を目指さないのであれば、「関所ともいうべき、どうしても通らなければならな
い」などとしなくてよいはずである。
 もっとも、戸田氏によれば、国立戒壇は万民一同が日蓮正宗に帰伏し、かつ、国会の可決
を以って建立されるとする(>>112)のである。かくの如く行うのであれば、創価学会員を政界
に進出させ、一定の議席を獲得しなければならない。こうした戸田構想を具体化したものが池
田氏による《学会青年部内閣構想》であったのであろう。
 池田氏は1960年6月10日・中部総支部幹部会において

  創価学会は衆議院には出ません。なぜかならば、あくまでも宗教団体ですから。政治団
  体ではありません。 (『会長講演集』1−P86〜87)

と云い、1961年6月「文化局の使命」と題する巻頭言において、

  われらは政党ではない。ゆえに、けっして、衆議院にその駒をすすめるものではない。参議
  院ならびに、地方議会等、その本質にかんがみて、政党色があってはならない分野に、人
  材を送るものである。(『巻頭言・講義集』1−P33)

と云うのである。しかしながら、この《衆議院不進出路線》はわずか4年で破棄されるのである。
かくして、1964年5月3日・第二十七回本部総会において、

  公明政治連盟を一歩前進させたい。すなわち、公明政治連盟をば、皆さん方の賛成がある
  ならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の要望にこたえて、政党にするも
  よし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでございましょうか
  (大拍手)それでは全員の賛同を得ましたので、これをもって決定とします。
  (『会長講演集』12−P175)

と云い、公明党結党の既成事実を形成するのである。その後、1964年6月30日・第七回学生
部総会において、

  御書には「国立戒壇」ということばなどはどこにもありません。戸田先生も、ちょっと「国立
  戒壇」ということばをもらしたことがありますが、私も先生がおっしゃったから申し上げたこ
  とも一、二ありますけれども、御書にも日興上人のおことばにも、日寛上人のおことばにも
  「国立戒壇」ということばはないのです。「戒壇」といえば「本門戒壇建立」となるのです。
  (『会長講演集』11−P214)

と云い、「国立戒壇」の名称放棄を行うのであるが、これは公明党結党に際して政教一致批
判を回避するための詭弁である。

118直人:2004/05/10(月) 23:40
>>117の続き

 公明党は国立戒壇論について次の如く反論する。

  荒木 これは看過(かんか)できぬ問題だ。第一、創価学会は「国立戒壇」論を、今から三
  十年も前、昭和四十五年に教義的にも否定し、公式に完全否定しているからだ。
  白浜 いや、もっと正確にいえば創価学会は、「国立戒壇」論をもっと早い時点、公明党結
  党以前に否定しているよ。(『政教分離』P27)

 このような反論は意味をなさない。なぜなら、これより後に池田氏自身が政教一致的発言を
しているからである。池田氏は『立正安国論講義』(1966年)において次の如く述べている。
  
  かくして、三十九年十一月十七日、公明政治連盟は、公明党として、脱皮し、立正安国論
  に日蓮大聖人が示された王仏冥合の精神を具体化すべく、いよいよ本格的な活動を展開
  することになった。ここに、公明党とは即、創価学会の異名であり、一体不二の関係にある
  ことを知らなければならない。しかして、化儀の広宣流布の推進、王仏冥合の実現による大
  衆福祉、社会の繁栄と個人の幸福、世界の恒久平和の実現以外のなにものでもない。
  (『立正安国論講義』P72)

 池田氏は「化儀の広宣流布の推進、王仏冥合の実現による大衆福祉」と云うのであるが、創
価学会における《化儀の広宣流布》の定義とは国立戒壇の建立にほかならなかった。戸田氏は
1956年3月・「広宣流布と文化活動」と題する巻頭言において次の如く述べている。

  化儀の広宣流布とは、国立戒壇の建立である。(『巻頭言集』P189)

 公明党の政界における役割が「化儀の広宣流布」であるならば、それは、公明党を駆使し宿
願であった国立戒壇の建立を目指したということである。これは戸田氏の「王仏冥合論」の具体
化であり、池田氏の《学会青年部内閣構想》の実現を目指したものと云えよう。したがって、公
明党の『政教分離』における反論は何ら的を射ていないのである。(この稿、了)

119直人:2004/05/11(火) 20:01
 阿部日顕師は未だ教学部長であった昭和47年、『国立戒壇論の誤りについて』と題する著書
を著している。阿部師は『国立戒壇論の誤りについて』において、

  最初に国立戒壇なる語を使用したのは、身延派日蓮宗より出て在家の教団を組織し、明治
  三十五年妙宗式目を論述した立正安国会(後の国柱会)主、田中智学である。
  (『国立戒壇論の誤りについて』P5〜6)

と云い、田中智学居士の「国立戒壇論」について、

  彼の国立戒壇論の要点をあげるならば
  一、大聖人の御一生は国教の奠定にある。
  二、大聖人の本門戒壇は国家中心である。世界の教法統一の根本として国家の道法化を
   目標とすべし。
  三、三大秘法抄の王仏冥合とは法国冥合ということであり、その本門戒壇は、勅命国立の
   戒壇である。

と三点に要約し、

  以上の三点を一言でいうならば、彼の戒壇論は国家中心、国家対象ということに尽きると
  思う。その諤々の議論は、あくまで田中智学個人の見解であり、大聖人の仏法を曲解する
  ところより生じたものである。

と云うのであるが、かかる戒壇思想―特に「一」「三」は大石寺貫首にも見られるのである。
 いま試みに以下にその文を列挙してみる。
 まず、「一」について。堀米日淳師は昭和32年の「新年の辞」において、

  真に国家の現状を憂ふる者は、その根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国
  教樹立こそ必要とすべきであります。(淳全P1625)

と云うのである。堀米師にとっての正法とは日蓮正宗をさすのであるから、上記の発言は日蓮
正宗の国教化を意味するものとなろう。
 次に「三」について。堀日亨師は『富士日興上人詳伝』において、

  未来勅建国立戒壇のために (詳伝P277)

  三堂建立は興師の御理想なるも、実現は大国主すなわち大日本皇帝陛下の御命により一
  時に大荘厳を極めた(詳伝P285)

と云い、堀米師は「北尾日大氏に寄す」(昭和9年)において、

  若し戒壇の遺付が一大事と指すならば戒壇建立のことたるや王者の勅宣御教書によるの
  である。それ以前に民衆の力によって建立せよとは仰せられてをらぬ(淳全P1247)

と云うのである。そして、大石寺門流は、

  實に國立戒壇の建立こそは第二祖日興上人にのみ御遺命になつたのだ。そしてその場所
  も富士山と明白に御指示になつている。又、あらゆる正史料から、日蓮正宗のみが大聖人
  の御遺命をうけて富士山に事の戒壇(國立)を建立しようと必死の努力を続けてきたことは
  明白になつた。近頃は田中智学門流でさえも囀つているではないか。
  (『創価学会批判の妄説を破す』P202)

と云い、あたかも大石寺門流こそが「国立戒壇論」の本家本流であるかの如く云い、智学居士
門下を悪罵している。しかるに、国立戒壇論を放棄せざるをえなくなると一転して、

  田中智学の創唱する国立戒壇論の名称(『国立戒壇論の誤りについて』P8)

と云い、《国立戒壇論=田中智学の邪義》という構図を形成するのであるから、厚顔無恥と云う
ほかない。(この稿続く)

120直人:2004/05/12(水) 21:05
>>119の続き

 阿部師は『国立戒壇論の誤りについて』において、

  決して前に挙げた国柱会の思想に同調して使用したというものではない。
  (『国立戒壇論の誤りについて』P8)

と云う。しかしながら、この主張は正しくない。それは堀師・堀米師に智学居士の「国立戒壇論」
と同じ戒壇思想が見られるからである。(>>119
 また、阿部師は『国立戒壇論の誤りについて』において、

  国立戒壇をとなえる者も、幕府とか執権職の存在しない今日において、御教書をそのまま実
  現せよという愚かさはさすがに自覚しているらしく、これを〝国会の議決〟〝内閣の意思〟と
  現代的解釈に転じている。しかし、勅宣については、新憲法にも天皇の国事行為が定められ
  ていることをもって、天皇の詔であるとの解釈になお固執している。しかしながら、いずれも、
  現憲法の解釈について明らかに誤りを犯しており、不可能を実現せよというのに等しい。今日、
  憲法第二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も、「戒壇建立」などという
  宗教的事項を決議する権限を全く有していない。仮に決議したとしても、憲法違反で無効であ
  り、無効な決議は存在しないことと同じである。(『国立戒壇論の誤りについて』P33〜34)

と云い、

  御教書もない。したがって、現在もなお、こうした古い時代の形式に固執し、戒壇の本意を失う
  ことがあるとすれば、それは誤りというべきである。もし、これにあくまで固執するなら当然、憲
  法改定が必要になる。これは、まさに時代逆行であり、また宗門としてこれを主張することは、
  宗教の立場と政治の立場を混同することになる。(『国立戒壇論の誤りについて』P59〜60)

と云う。しかし、阿部師が批判するところの《国立戒壇論・国会の決議・天皇の詔》を主張実践して
きたのが大石寺門流であった(国立戒壇論>>112-113 国会の議決>>112 勅命建立>>119)。そし
て、創価学会が政界に進出したのも国立戒壇を建立するための手段であったはずである。でなけれ
ば、公明党の意義・役割が「化儀の広宣流布」(>>118)となるはずがない。
 結局、『国立戒壇論の誤りについて』は戦後から昭和45年までの20数年間の主張実践を全否定
するものなのである。

121直人:2004/05/16(日) 00:37
>>120の続き

 時系列は前後する。
 池田氏は昭和39年5月3日・第27回本部総会において、

  恩師戸田先生が、大客殿の建立が終わったならば、ひきつづいて、すぐに正本堂を建立
  しなさい。(『会長講演集』11−P170)

と云い、

  正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれがさいごなのであ
  ります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります。
  (『会長講演集』11−P172)

と云うのである。創価学会におけるもっとも早い「国立戒壇論」放棄(名称のみでその本質は
国立>>109)はこれより後のことであった。また、戸田氏は一貫して「国立戒壇論」を貫いてお
り、第27回本部総会における池田発言は、

  イ、宗門によって建立される堂宇は正本堂が最後である。
  ロ、広宣流布の暁には国会の議決によって国立戒壇が建立される。
  ハ、正本堂は本門戒壇(国立戒壇)ではない。

ということである。しかしながら、池田氏は『立正安国論講義』(昭和41年)において、

  正本堂、すなわち事実上の本門事の戒壇が建立されるのである。正本堂建立こそ、日蓮
  大聖人の御遺命たる本門戒壇建立の具体化であり、宗門七百年来待望の壮挙ということ
  ができるのである。(『立正安国論』P658)

  日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって
  完全に終了するのである。

と云い、正本堂を究極的な戒壇―本門戒壇と位置づけるのである。さらに、昭和42年、細井
師は「新年の辞」において、

  日蓮正宗総本山に、事の本門戒壇堂ともいうべき、正本堂の建立起工式が行なわれる
  (「新年の辞」『大白蓮華』188号[昭和42年1月号]P12)

と云うのである。かくして、正本堂は本門戒壇と意義づけられるのである。けれども、この《正
本堂=本門戒壇》路線がこれ以降定着したかと云えばそうではない。昭和41、2年の時点で
は本門戒壇と意義づけられていた正本堂であるが、昭和47年4月28日に発布された訓諭に
は、

  日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証
  となす。正本堂は、一期弘法付属書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の
  戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。
  (達全2−1−P3)

と云い、「広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき」として、昭和42年の発言よりはやや後退
した感がある。ところで、昭和51年、阿部師が『本門事の戒壇の本義』を著しているが、細井
師は『本門事の戒壇の本義』の緒言において、

  正に正本堂は本門事の戒壇である。
  (『本門事の戒壇の本義』緒言『大日蓮』361号[昭和51年3月号]P23)

と云い、訓諭では「広宣流布の暁」として未来に委ねられていたものが緒言では《正本堂=
本門戒壇》となったのである。

122直人:2004/05/16(日) 00:38
>>121の続き

 こうした正本堂の意義づけに対して真っ向から反発したのが今日における顕正会の前身
である妙信講であった。『日蓮大聖人の仏法』『日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ』によれ
ば、妙信講は「第一次諌暁」「第二次諌暁」「第三次諌暁」(第四次以降は破門後)と称して
細井師・創価学会に対して《正本堂=本門戒壇》とする意義づけを批判し、国立戒壇論を主
張している。こうした経緯を経て、妙信講は昭和49年8月12日、講中解散処分(破門)となる
のである。

  今回、私は所定の手続きを経て本日付をもって妙信講の解散処分を行いました。昭和四
  十五年五月三日、日大講堂において私は大聖人の仏法が日本一国のみにとどまらず、
  全世界の民衆を救済すべき大仏法であるたて前から「今後国立戒壇の名称は一切使用
  しない」旨を公式に言明いたしました。然るに妙信講は、この公式決定に従わず、更に昭
  和四十七年四月二十八日付の正本堂に関する「訓諭」に異議を申立て
  (「元妙信講講員へ」『大日蓮』343号[昭和49年9月号]P12)

 正本堂の意義づけのために著された『国立戒壇論の誤りについて』『本門事の戒壇の本義』
であるが、この二書を以ってしても宗内の戒壇思想の統一を図れなかったようである。

  いまだに妙信講のことについて、妙信講の方が正しいんだなんていうような僧侶があるか
  のようにこの間聞きまして、まことに残念に思っております。
  (昭和51年5月27日・第18回寺族同心会大会 達全2−6−P529)

 それにしても、かくの如く資料を見たとき大石寺門流は本門戒壇論をあまりにも軽々しく論
じているようにさえ感じる。結局、国立戒壇論の放棄は僧俗一致体制の破綻(妙信講破門)、
宗史改竄(国立戒壇論に関する語句改竄>>113-114)しかもたらさなかったのである。そして
その根源は史料批判・先師批判、何より大石寺本来の立義でなかったことに起因していると
云えるのではなかろうか。哀しいかなこれが亜流の宿命なのであろうか。
 なお、正本堂は平成10年、阿部師によって取り壊され、その跡地に奉安堂が建立されたが、
奉安堂の意義は、

  「我々が『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇として奉安堂を建てる」などというようなナン
  センスな、莫迦げたことを今、日蓮正宗においてはけっして考えていないのであります。
  (平成13年1月1日・元旦勤行の砌『御法主日顕上人猊下御言葉集』P19)

というものであって、本門戒壇建立は未来に委ねられているようである。

#変遷が過ぎるので頭が痛い(苦笑)

123直人:2004/05/16(日) 00:46
[加筆訂正]

〔誤〕(>>121)
>日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって
>完全に終了するのである。

〔正〕
>日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって
>完全に終了するのである。(『立正安国論講義』P659)

〔誤〕(>>122
その根源は史料批判・先師批判

〔正〕
その根源は史料批判・先師批判をできなかったこと

124直人:2004/05/18(火) 21:24
>>122の続き [結語]

 これまでは史料解説を中心として大石寺門流における本門戒壇思想の史的変遷について
述べてきたけれども、最後に私が思うところの本門戒壇論について述べてみたい。これはあ
くまでも私論であることをご了承下さい。
 宗祖は「三大秘法抄」において次の如くに御教示されている。
  
  戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有
  徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申下して、
  霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つ可きのみ。事の
  戒法と申すは是也。三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈
  等も来下して給うべき戒壇也 (定本P1864〜1865)

 一閻浮提の隅々にまで妙法が広宣流布され、権力者も民衆も妙法を護持してこそ、はじめ
て王仏冥合と云えよう。そうした社会においては本門戒壇はおのずと建立されるであろう。そ
してその本門戒壇とは「三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈
等も来下して給うべき戒壇」であって、日本一国のみの国立戒壇というようなものではなく、敢
えて云うならば「一閻浮提立」「王立」「世界立」といった《国立戒壇の精神を継承した本門戒
壇》となろう。
 決して、

  今、深くこれを思うに、日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に
  純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目、南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてま
  つることができたとき、そのときこそ日本国一国は広宣流布したと申し上げるべきであると、
  思うのであります。(達全2−5−P538)

というような偏頗な広宣流布観によって本門戒壇が建立されるのではない。あくまでも妙法が
一閻浮提の隅々にまで流布したとき、一つの広宣流布達成の証として建立されるのである。
 本門戒壇建立は如何に高尚に哲学的に論じたところで成されるものではない。日蓮聖人門
下が真実、「死身弘法」「不自借身命」の精神で一閻浮提広宣流布に邁進してこそはじめて
本門戒壇建立への道が見えてくるのではなかろうか。(「本門寺戒壇のこと」全了)

 上代>>98
 中世>>103-104
 中世・近世>>105
 近代>>109
 戦後>>112-113 >>117-122 〔訂正>>114>>123

125今川元真:2006/05/31(水) 09:55:39
●『本門の三秘密の法』とは、具体的に御書遺文でどこを指すのでしょう。●一閻浮提広宣流布の暁に建てる戒壇堂に造立する彫像とは、漫陀羅に記されている「南無」を冠した名称のものでしょうか。御書遺文に記されているのでしょうか。

126shamon:2006/06/06(火) 23:06:30
三大秘法抄は真蹟であるかどうか疑義があるので、御真蹟である報恩抄から「一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし。此事いまだひろまらず。」

127今川元真:2006/06/07(水) 10:22:03
shamonさん、ありがとうございます。 【本門戒壇】の疑問なのですが、延暦寺に対する戒壇堂の意味でしょうか?漫陀羅の意味でしょうか。シャクソン像+戒壇堂+唱題と考えれば故郷の寺に宛てたものなら合点がいきます。けれど、別の掲示板で「天台では本仏とは言っても本尊とは言わない」と見た事があるのですが、本尊と書いて説明が其の様だと仏像では無くて漫陀羅の様な気がするのですが?如何でしょう。

128shamon:2006/06/10(土) 02:05:10
http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/

129JIN@霊○会:2007/02/14(水) 17:20:37
創価における戒壇論、とても勉強になりました。

ただ、一点協議の編纂について心にとどめて置くべき社会情勢があります。
それは憲法です。牧口・戸田氏の時代は大日本帝国憲法下での指導であり、
社会法自体が現代とは編纂しておりますので注意が必要かと存じます。

三大秘宝抄の御文で言えば、

【大日本帝国憲法下】
「王仏冥合」=国主(天皇)の仏法顕彰の姿が勅を持った国教化が通説となるでしょう。
「王臣一同」=天皇から臣下にいたるまで一人でも多く(あるいは全員)
「勅撰・御教書」=天皇の命令書・幕府(国政)からの命令書
「有徳・覚徳」=上記の条件を満たす具体例

【日本国憲法下】
「王仏冥合」=国の主権者(民衆)による仏法顕彰の姿
「王臣一同」=天皇から臣下にいたるまで一人でも多く(あるいは全員)
「勅撰・御教書」=国の政治に携わる人から出る教示(建築許可証)
「有徳・覚徳」=上記の条件を満たす具体例

※いずれにせよ、「末法濁悪の世」に建立すべきなので、流布達成の時に立てる解釈は誤り
※「有徳」は仏法を滅せんとする悪僧と戦った事より、敵が存在する時代に立てるべき事は明確

これより考えれば、指導が編纂していく事情も理解できる気がします。
先輩方のご意見を頂戴できれば幸甚でございます。

・・・・・なんか創価を擁護するかのような内容となりましたが、
当方にその意図はございません。

130直人:2007/02/15(木) 01:36:13
JIN@霊○会さん、はじめまして。

>牧口・戸田氏の時代は大日本帝国憲法下での指導

牧口常三郎氏は戦時中、獄中において亡くなっています。獄中調書の中で王仏冥合について触れたことはありますが、私の管見の限りでは牧口氏は戒壇論を展開していません。創価学会の歴史の中で戒壇論をはじめて展開したのは戸田城聖氏でした。戸田氏は昭和25年の総会で国立戒壇を建立すべきことを論じます(>>112)。
それから、大日本帝国憲法と日本国憲法ということですが、日本国憲法は昭和21年11月3日公布・昭和22年5月3日施行ですから、戸田氏の戒壇論は日本国憲法施行後3年、つまり、日本国憲法下での指導となります。そしてこの指導は大体、昭和40年に入るまでは機関紙誌において見られました。昭和40年頃から改竄作業が始まり、初の戸田全集では「国立戒壇」が「本門戒壇」と書き換えられています。
余談となりますが、大石寺が発行している印刷物には今なお原本に忠実に「国立戒壇」の語句が用いられていますが、創価学会が発行する印刷物はそれが会長指導であっても「本門戒壇」と改竄してしまっています。

ちなみに「御教書」が建築許可証というのは阿部日顕師が未だ教学部長時代に論じたことですが、これは行き過ぎたとして近年、その説を取り下げています。

「あのなかでは、王法や勅宣・御教書に対する解釈を述べるなかで、「建築許可証」というようにも書いてしまってある。これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。」(『大日蓮』706−p54)

131JIN@霊○会:2007/02/15(木) 11:03:10
>直人さん、

ご親切なレスに深く感謝申し上げます。

牧口氏の戒壇に関する論については、『特高月報』(昭和十八年八月分)の調査分に
若干記載されておりましたが、現顕正会の説と類似しております。
ただし、これは直人様の仰る通り、会員に対する指導展開ではありません。
あくまでも獄中調書において、取調べ官に対して話した内容です。

私は現在職場にいます為、該当分を引用できずに恐縮でございます。
趣旨としては、日蓮正宗の目的は?との問いに対して、天皇及び万民が信仰に目覚め、
富士の天母山に戒壇を建立するとの主張があったと記憶しております。
原文に関しましては後日UPさせていただきます。

>戸田氏の戒壇論は日本国憲法施行後3年、つまり、日本国憲法下での指導となります。
直人さんの仰る通りです。しかしながら施行後3年ですので、前憲法及び慣習については、
そう簡単に一新されることもなく、当時の慣習を引きずっての指導である事は容易に想像がつきます。

尚、戸田氏の戒壇に関する指導については、当初、天皇が信仰して万民を帰依させる方法より、
主権者が変わった事から、民衆立(現在の創価の主張)と編纂を遂げているのは事実です。

安部日顕氏講義 第53回全国教師講習会 平成16年8月26日
「6月30日には、おもしろいことを言っている。これも本当かうそかは判らないのだが、
本尊流布は豆腐で、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと、
戸田先生が何度もおっしゃったと言うのです。これはもし、言ったとすれば、
戸田氏は、昔だったら天皇が一人信仰して、その力で一国全部を信仰させればよいのだけれども、
現在の主権在民の上からすれば国民全体が信仰しなければならない。そうなると、
どうしても本尊流布が大事になるということから、本尊流布が豆腐なのだという意味のことを言ったのかも知れない。
したがって、むしろ内容的には、本尊を流布してみんなが幸せになるのが豆腐であって、
それに対して戒壇建立はその結果であるから、戒壇建立はおからであり、
カスのようなものだと言ったのかも知れません。」

また、上記を肯定するような指導が池田氏よりでております。

東京台東体育館における学生部第七回総会 昭和三十九年六月三十日
「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆が幸せになることであります。
その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。
したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます。」

>「御教書」が建築許可証というのは阿部日顕師が未だ教学部長時代に論じたことです
勉強になります。

「御教書」の解釈については、創価でも「国会の議決、選挙」と発言していた事もあるようです。
手元に資料がなくてすみません。

これを抽象的な表現ですが、堀米氏は、「国政の衝にあたる人の教示と介す」と日淳上人全集で述べてます。
日蓮聖人遺文集で確認しましたが、当時、勅撰・御教書は、漢土に渡るのにも必要な手続きだったようですね。
現代解釈ならパスポートになるのでしょうか?

132JIN@霊○会:2007/02/16(金) 00:36:28
牧口氏の戒壇に関する発言を記載します。(出展は上記)

「(略)戒壇は観念の上からは、虚空不動的の戒の相であるが、信心から言うと、
広宣流布の時の戒壇堂であります。宗門では富士山麓の大石寺に戒壇堂を建て、
一大仏教都を建設しようと言うのが宗祖の願望であり、また私達の願望・・」

「戒壇の建立される場所は『天母原』と後世に言っております」

「ただし、戒壇堂に安置すべき御本尊は弘安二年から五年の間において・・・」

「この戒壇について、事相に顕わるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるものとの」

「事相の堂は将来広宣流布の時、即ち一天四海皆帰妙法の社会が実現した時に、
勅命で富士山下に立ち、上は皇帝より下万民に至るまで受戒すべきところであります。」

尚、戸田氏の発言(戸田城聖全集 第4巻 昭和31年4月8日)

「昔の広宣流布の仕方は、一国の帝王を折伏して一国に広宣流布しようとする方程式を
もっておりました。帝王付嘱がこれであります。しかるに、今日の時代には、
天皇陛下がこの御本尊様を拝んだところで、断じて広宣流布はできないのであります。
いかんとなれば、国家の権利は、民衆に主権が移っている」

国主=主権者の解釈は、掘米日淳氏の指導が初見か?

「王法と仏宝が冥合して一となり、其の時の主権者が戒壇堂をご建立せられ」
(仏教手保登記 昭和26年9月12日)

誠に申し訳ないが、私個人としては、どうしても三秘法抄が真筆とは思えないし、
戒壇本尊も本物とは思えないのですが、一連の創価の指導を見ると、
発言の内容は編纂が見られるものの、根本の定義からは外れていない気がします。
とは言え、もし本尊も三大秘法抄も後世の偽作であったとすれば、
創価もまた浮かばれないと同情してしまうばかりであります。

133直人:2007/02/16(金) 02:16:11
JIN@霊○会さん、こんにちは。

>牧口氏の戒壇

ああ、思い出しました。ここ数年、創価学会のことから離れていたもので見落としていました。
それは牧口氏の戒壇論というよりは堀日亨師の『日蓮正宗綱要』からの引用(そのままではないですが)ですね。

文中でいうところの天母原戒壇の論拠はおそらく『大坊棟札』によるものでしょう。私は『大坊棟札』の筆蹟を見ましたがとても日興上人の筆蹟であるとは思えませんでした。おそらく、日典師代の大坊消失とその当時の要山教学の流入によって偽作されたものでしょう。けれど、昭和40年代半ばの頃は『大坊棟札』を宝物と位置づけていました(『日蓮正宗大石寺』p138)また、池田氏は細井日達師に天母山の土地・25万8千坪を寄進しています(『日蓮正宗大石寺』p274)。
今日、本門戒壇建立地を天母原とするのは顕正会以外では北山本門寺でしょう。これは元来、北山本門寺は天母山下にあった説に起因しているものかもしれません。なお、北山本門寺の貫首である本間日諄師は世尊寺時代の著書『日興上人の風光』の中でやはり戒壇建立地を天母原としており、天母原戒壇論は北山発祥→左京日教師・広蔵日辰師という要山系→石要両山の通用による大石寺流入という流れでしょうか。

大石寺と顕正会の間で戒壇建立地について種々論争され、大石寺側は六万坊・天母原を否定しますが、堀師は六万坊を否定しても天母戒壇については富士諸山で語られるものであれば何らかの伝承−相伝?−があったものと考えていたようですね。

「本書には直に天母原と指定することを定めて深由あるべし。宗開両祖の書判に明文なきが如しといえども、天母戒壇は富士諸山の共認するところなば、あながちに本師の私言にはあらざるべしと信ずるなり。(「類聚翰集私の要領」『隠れたる左京日教師』P57)」

>戸田氏の戒壇に関する指導…民衆立

そもそも民衆立というのは昭和40年代になってから創価学会が言い出したことですね。最初は国会に進出し、国会の議決を以って国立戒壇を建立すると論じており、創価学会が政界に進出した所以もそこにありました(>>112)。つまり、昭和20年代から昭和40年に入るまでの10余年間は国会の決議を経ての国立戒壇、というものでした。
それが40年代になると民衆立戒壇へと転換し、民衆立戒壇=正本堂=本門戒壇、こんな風に位置づけるわけです。

>東京台東体育館における学生部第七回総会

この指導は昭和39年。この頃から国立戒壇論が論じられなくなりました。それ以前はというと、

大聖人様御在世に大聖人様を迫害したがゆえに一国謗法であり、一国が正法を護持しなかったがゆえに他国侵逼の難、二回の他国侵逼の難がございました。文永の役と弘安の役。その大きい難を通じて、 民衆は大聖人様の予言を少しずつ知ってきたわけでございますが、下って 大東亜戦争の際、日蓮正宗を国家が弾圧し、創価学会を弾圧し、二度の原子爆弾の投下をされております。一発は九州、一発は広島。日本の国が正法を誹謗した報いです。(中略)国立戒壇建立を、もしかできなければ、日本の国は永久に属国とし、永久に日本民族は滅びる運命の段階にあります。ただひとつ、三大秘法の御本尊様を信じ、国立戒壇を建立するならば、仏天の加護によって日本の国には原子爆弾は落ちないし、日本民族は必ず繁栄するというのが、会長先生の御遺訓なのであります。(池田大作発言、昭和33年5月18日・第一回男子部九州総会『会長講演集』3−P290〜291)

国立戒壇を建立しなければ「永久に属国」「永久に日本民族は滅びる運命」といい、国立戒壇の建立を至上命題としていました。(>>113 >>117)これは顕正会と何ら変るところがありませんね。ある時は至上命題と位置づけておきながら、ある時は「ひとつの石碑…従の従…形式の形式」というのは如何なものかと思いますが。「従の従…」といった指導については大石寺から戒壇建立を軽視していると批判されています。

>天皇陛下がこの御本尊様を…国家の権利は、民衆に主権が移っている

だからこそ、戸田氏は創価学会による政界進出を行ったのでしょう。政界に進出し、国会の議決によって国立戒壇を建立する。それを至上命題としていました。この観点から言えば今日の公明党とは一体何ぞや、ということにもなりますが。

>三秘法抄が真筆とは思えないし、戒壇本尊も本物とは思えない

私も戒壇大御本尊は偽作であると考えています。もっとも戒壇大御本尊が偽作であれ功徳を戴いたという大石寺門下を否定するつもりはありません。『三大秘法抄』については考究の余地があるものの、現在の態度は保留にさせて下さい。

134JIN@霊○会:2007/02/16(金) 10:15:32
直人さん、

ご返信いつもありがとうございます。

>日興上人の筆蹟であるとは思えませんでした。
妙観講指導教師の小川僧侶が「堀ノート」を提示して宗門の見解を明確にしてるようですね。
筆跡の違い、書風の違い(お家流)、南条氏の役職、日興日目の連盟の花押の不自然、
興尊の「興」の字の間違い、上棟時の日時の間違い等から徳川時代に作られたものと断定されてます。

「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊かなるふうにて薬研彫りにせるも文句は全く棟札の例
にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみにて、また棟札の意味なし。ただ頭を角に切りて縁をつけた
ることのみ棟札らし」

確かに以前は、「丑寅勤行」の証文として、堀米日淳氏等が棟札文を引用しておりましたが、
堀氏の後、完全に後世の偽作だと断定がなされたようです。

戒壇建立の場所を明確にしたのは、石門では、やはり堀氏ではないでしょうか?
「日興上人詳伝」において、「四神相応の勝地」として大石寺を建立地として定めてます。

「まさに四神相応に近からずや。富士四山(重須、下条小泉、西山)の地勢は、大いにこれに遠きにあらず
や。おのおの、その開基時代相地の用意・不用意、深く味わうべきことで、ことに我れら開山日興上人・開基檀
那南条時光の、遠き未来を鑑みての十二分の御用意に感謝すべきである」

また、直人様のご提示の通り、大石寺では要法寺より稚児を寺主としてスカウトしておりましたが、
論客日振氏が北山等で学んだ天母山説が、そのまま要法時の見解となり、
その要法寺系僧侶から自然に大石寺教学に浸透して行ったかと思われます。

ちなみに日寛氏なども「天母山」説を文段等で採用していたようですが、
後年、三位日順師の心底抄を引用して、(六巻抄)

「戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後
難を招くあり、寸尺高下註記する能はず」

とされ、

「「若経巻」とは即ち是れ本門の本尊なり、「皆応起塔」とは本門の戒壇なり、
故に此の文意は本門の本尊所住の処に応に本門の戒壇を起つべし。」

と、天母山説→後世の人間が決定→戒壇本尊所住の地と意見が編纂しております。

>ある時は至上命題と位置づけておきながら、ある時は「ひとつの石碑…従の従…形式の形式」
>というのは如何なものかと思いますが。
最初は至上命令と信じていたものの、実は信ずべき対象が全てまがい物であることを気がついたのだと、
主張する方もいます。いずれにせよ、虚飾を剥ぎ取り、真実の教えが誰人にも平等に
拝聴できる日が待ち遠しいです。まずは勉強ですね。^^

135直人:2007/02/16(金) 18:42:09
JIN@霊○会さん、こんばんは。

>筆跡の違い、書風の違い(お家流)…

私が知っているのは小川師ではなく、高橋粛道師ですが、上掲の指摘は大石寺の僧侶であれば必ず指摘するところですね。私は役職云々を論じずに「興」字の1画目から13画目に注目し、同時期の日興上人の花押と対比しましたが、そのような書式のものは他に見えませんでした。

>堀米日淳氏等が棟札文を引用しておりましたが、堀氏の後、完全に後世の偽作

大石寺歴代の順でいえば、堀日亨師(59代)→堀米日淳師(65代)で、堀師はというと大正時代、既に『大坊棟札』を偽筆視していたでしょう。堀師が『大坊棟札』を真蹟と見ていたのであれば、「宗開両祖の書判に明文なきが如し」とは言わないでしょう。『大坊棟札』は偽筆ではあるものの天母戒壇は富士の正伝と認識していたのでしょう。
堀米師が『大坊棟札』を引用している(『日淳上人全集』p1637)ことは知っています。これは昭和34年の新年の挨拶で、堀師が亡くなった1年数ヵ月後となりますか。堀米師が真・偽の何れに立っていたかは分かりませんが、仮令、偽筆であっても記されている内容総てを否定するものではない、ということでしょうか。
何れにしても『大坊棟札』が積極的に偽筆であると論じられるのは昭和40年代以後、日達師代のことです。ちなみに、日蓮宗現代宗教研究所では、

「大石寺系教団は旧来、天母山を「国立戒壇」建立の地と定め、その地の獲得を目指していましたが、昭和四十五年の言論出版妨害事件を契機として、正宗と学会は国立戒壇建立の思想を破棄するに至り、大石寺こそが戒壇建立の地であると主張を転換しました。」(『顕正会』<Ⅱ>p25)

といいます。これは正鵠を射ているでしょう。事実、池田氏は天母山の土地25万8千坪を大石寺に寄進しているのであり、その背景には天母山周辺に戒壇を建立するという考えがあったのでしょう。でなければ、莫大な資金を投入してまで寄進する必要はないでしょう。けれど、妙信講問題が起り、そうした過程で『大坊棟札』は否定されるようになったのでしょう。

>日寛氏なども「天母山」説を文段等で採用していたようですが、後年、三位日順師の心底抄を引用

天母戒壇が見えるのは『報恩抄文段』で、『本門心底抄』を引用したものは『依義判文抄』ですね。余談となりますが日寛師が『本門心底抄』を引いた箇所は戒壇の在り方についての設問ですが、日寛師は『六巻抄』の中で両巻血脈書等の相伝書を種々引用しているのにどうしてここでは『本尊三度相伝』を引用せずに『本門心底抄』を引用したのか気になるところです。

136JIN@霊○会:2007/02/22(木) 22:57:38
体調を崩しておりました為、ご返信が遅くなりまして恐縮でございます。
直人さん、ご返信いつもありがとうございます。

>大石寺歴代の順でいえば、堀日亨師(59代)→堀米日淳師(65代)
●なるほど。仰る通りでしたね。すみません。私の勘違いでございました。

>「興」字の1画目から13画目に注目し、同時期の日興上人の花押と対比
●素晴らしき見識眼だと存じます。大変勉強になります。

>(『顕正会』<Ⅱ>p25)
●顕正会は主張を簡易に編纂する故、今一信用が置けません。
現在では、北山戒壇説を声高々に宣揚する同会も、かつては大石ヶ原建立説を唱えておりました。

「日興上人は、身延を離山されてから、まず上人の養家河合の由比家に落着き、ついで上野の郷主・
南条時光殿の招きをうけて下条にある南条家の持仏堂に移られた。この持仏堂が、実は現在の下之坊である。
 下条より約半里ほど離れた北方に「大石が原」という茫々たる平原がある。後ろには富士を背負い、
前には洋々たる駿河湾をのぞみ、、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地
としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。
かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場とし
て地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始ま
りである」「富士」十三号(昭和三十九年八月二十三日発行)

>池田氏は天母山の土地25万8千坪を大石寺に寄進
●確かに何かしらの意図、もしくは構想は存在していたのかも知れませんね。
(以外に、単純に興尊に縁深い場所だからなんて単純な理由だったりするかもしれませんが)

>背景には天母山周辺に戒壇を建立するという考えがあったのでしょう。
●これはどうなのでしょうか。当時、戸田氏と堀氏は昵懇の仲で合ったと言われてますし、
富士宗学要集、全集を作成するに当たっても、相当、創価(戸田氏)の協力があった事が伺えます。
堀氏擁立派の戸田氏ですから、堀氏が棟札に記載されている「北山建立説」、「六万坊説」を
否定していた事から、北山説は創価の中には無かった可能性も否定できません。

「六万坊の伝説、あまりにも空大すぎる。一閻浮堤中心の仏都となりてもである、
考えうべきことなり。ある人は、いま現在の万坊が原をさして六万坊につきあわせるも、
これはあまりにも狭少すぎて、一千坊すら建たざるべし。ただし、
この伝説の根源となるべき古文献は、百六箇抄に挿入せられしもの等であろう。」
伝説資料・百六箇抄の末文「四大菩薩同心して六万坊を建立せしめよ」、
伝説資料・百五十箇条「八十四 尋て云く本門戒壇院の外別に常寂光土無きや、
難じて曰く然るときは本門戒壇院在所を定め玉う是は徒なるべきや、
答て曰く此の戒壇院は広宣流布の時御崇敬有り最も六万坊を建立有るべしと。」、
正資料・類摺翰集私「天生ヶ原に六万坊を立て法花本門の戒壇を立つべきなり、
六万坊と申せばとて六万多に非ず一巳独に非ず只表示の釈なれば一人也とも正信ならば
六万坊建立に成るべきなり・天台の釈の意なり、」

「この日教(要山僧にして石山に帰入せし者)の意を見るべし。
天台の円融の法義におぼれて、坊舎建立の事実を空理にする人々の伝説は、
まじめの物質的な後人を誤らす事大なり。ことに空談にもせよ、
天生が原の寸地にいかに重畳しても、摩天楼にしても六万の坊舎が建設せらるべきや。」 
「富士日興上人詳伝」

>『本門心底抄』を引用したのか気になるところです。
●大変興味深いご指摘ですね。
曼荼羅正依の大石寺の教義とは大いに異なるはずの『本門心底抄』では、
「安置の仏像は本尊の図の如し云云」ですから余計に含蓄が深いご指摘と感じております。

137直人:2007/02/23(金) 03:03:22
JINさん、こんにちは。

>堀氏が棟札に記載されている「北山建立説」、「六万坊説」を否定していた

堀師は六万坊については『富士日興上人詳伝』に記す如く懐疑的ではあったものの、天母戒壇論については「天母戒壇は富士諸山の共認するところなば、あながちに本師の私言にはあらざるべしと信ずるなり」といって、否定していません。それから、大正時代、日蓮正宗総講頭を務めた荒木清勇氏は『聖教乃正義』の口絵には「事の広布の時本門戒壇堂及六萬坊を建立せられるへき霊地也 天母ヶ原」とあります。また、堀師は『日蓮正宗綱要』において

「三国一の名山たる冨士山の下に堂々たる戒壇堂を中心にして一大仏教都を建設しようと云ふ御考えであつたろうが、其地割等も公にしていない、日興上人に口傳せられて其傳統は上人の腹中に存するのであらうが、場所だけは後世に天母原と云ってをる」(p143)

といいます。これは牧口氏が獄中で論じた土台となっています。

それから、六万坊については天母山には六万もの坊舎を建てられない、故に六万坊は謬説である。こんな風に論じられています。しかし、実際に六万もの坊舎を建立する必要はないわけです。比叡山なんかは三千坊なんていいますが、実際に三千もの坊舎があるわけではなく、坊舎は一つであれ、若干数であれ六万坊となるでしょう。このあたりの事を細井日達師は昭和45年6月28日、富士学林研究科の砌において、

叡山では「叡山塔中三千坊」というとおり、そんなに三千坊の寺はなかったと思います。だけど三千坊と言っております。それと同じです。本山においても一つの塔を建てて六万塔と言っております。(中略)たったひとつでもこれを六万塔といっております。そうすると、必ずしも六万坊といっても六万がそのまま建つと考えることはできません。そうすると、必ずしも六万坊といっても六万がそのまま建つと考えることはできません。(達全2−5−p333)

といいます。

>曼荼羅正依の大石寺の教義とは大いに異なるはずの『本門心底抄』では、「安置の仏像は本尊の図の如し云云」

仏像不造・大漫荼羅正意は大石寺九代・日有師代には既に確立していました。この本尊意識はもう少し時代を遡れるでしょう。ちなみに『日蓮正宗要義』では日順師や日代師の書状に見える仏像について「釈尊に四士を加える如き像でなく、法に具わる人本尊として大聖人の御影を指すのである」(『日蓮正宗要義』p258)と会通します。ただし私は日興上人は造像を認めたものの、自身は造立することがなかった。そして未来広布の戒壇本尊のみが本尊図の如く形像するものである、というのが日興上人、日興門下の本尊意識であったと考えています。

138JIN@霊○会:2007/02/26(月) 15:11:42
勉強になります。

>堀師は六万坊については『富士日興上人詳伝』に記す如く懐疑的
はい。ただ建立すべき勝地としては、四神相応として大石寺と明確に断じていたかと記憶しております。

「(大石寺を指して)まさに四神相応に近からずや。富士四山(重須、下条小泉、西山)の地勢は、大いにこれに遠きにあらず
や。おのおの、その開基時代相地の用意・不用意、深く味わうべきことで、ことに我れら開山日興上人・開基檀
那南条時光の、遠き未来を鑑みての十二分の御用意に感謝すべきである」

また、確かに天母山との説も大石寺に残っていたものの、明確に大石ヶ原と主張した法主もいたようです。

日因氏(研究教学書十六巻七一)
「広宣流布の日は、当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号す可し」

日宣氏(世界之日蓮)
「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」

私の見解では、大石寺の法主によって、教義が右に行ったり、左に行ったりしてたのでは?
と言った印象を受けております。

>日興上人、日興門下の本尊意識であったと考えています。
なるほど。と、なると造仏をした日精氏などは、興尊の意図に適った記述を
「随宜論」に記載したのですね。

それを創価や堀氏が叩いた。

実際、古くから言われてきた曼荼羅設計図論ですが、直人様の見解をお示し頂けると幸甚です。
主題+花押は彫刻文字(石山の戒壇本尊の如く)になるのでしょうか。
それとも法華経の経巻+御姿像のような形になるのでしょうか。

139直人:2007/02/26(月) 18:57:54
JINさん、こんばんは。

>明確に大石ヶ原と主張した法主もいた

日因師は大石寺31代、日宣師は大石寺44代ですね。この二師より後の大石寺歴代は天母戒壇を論じます。

戒壇の地を富士の天生山に撰び置き板本尊及戒壇堂の御真筆在り
(35代日穏師「五人所破抄一覧」富要4−P205)

後五百歳中広宣流布の金言虚しからずんば、上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、此を事の広宣流布と云ふ。其時、天皇陛下より勅詔を賜はり富士山の麓に天母が原と申す曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立(56代日應師「本門戒壇の大本尊縁由」應全P3)

それはともかく、私は大石寺でどのように論じられていたかというその事実を見つめ、語っているにすぎず、大石寺や顕正会のように戒壇建立地を大石寺である、いや、天母山であると論じるつもりはありません。

また、堀師が『富士日興上人詳伝』で大石が原を称賛しようとそれは一つの解釈です。では私はどうか。広宣流布が達成していない時点で戒壇建立地を論ずること自体、無意味だと思います。事実、日興上人は戒壇建立地を富士とするのみでそれ以上は言及していません。北山本門寺は『本門寺額』『本門寺棟札』を論拠に北山本門寺こそが戒壇建立地であるといい、大石寺は戒壇大御本尊のある大石寺こそが戒壇建立地であるといいます。けれど、両山が論拠とするものは偽筆・偽作であって論拠にはなり得ません。それぞれの論拠が失われている以上、戒壇建立地を論じること自体、日興上人の祖意から外れているものでしょう。
日興上人は大石寺系の僧侶と重須系の僧侶にそれぞれ本門寺の重宝を守護させており、このことを勘案すると日興上人は北山・大石寺、そんな分け隔てをせずに富士の麓に両山にまたがるような壮大な大戒壇を建立しようとしていたのではないでしょうか。その詳細は国主帰依の時、群議すべきであるとしていたものと考えるものです。このあたりのことを日順師は『本門心底抄』に「戒壇の方面は地形に随ふべし」といいます。


>『随宜論』に記載

『随宜論』はその存在は知っていますが眼福を得ていませんので態度を留保させて戴きます。

>主題+花押は彫刻文字…それとも法華経の経巻+御姿像のような形

さぁ、どうでしょうか。今となっては分かりません。『尊師実録』には「本門寺の本尊造立記文相伝」といい、上代においては戒壇本尊の形態、つまり、どの大漫荼羅をどのように形像化するのか、そうした相伝はあったでしょう。しかし、今日では散逸したのか伝わらず、明瞭を欠くことは残念な限りです。

140JIN@霊○会:2007/02/27(火) 10:53:03
直人さん、レスありがとうございます。

>両山が論拠とするものは偽筆・偽作であって論拠にはなり得ません。
全くもって同意でございます。調べれば調べるほど色々な意見が散逸し、
かつ、自門の正当性を主張する為、偽作と言う所作を平然とやってのける。
日蓮聖人や興尊の深き悲しみが聞こえてきそうな感を受けます。

>日順師は『本門心底抄』に「戒壇の方面は地形に随ふべし」といいます。
順氏のこの言葉こそが正論であるべき気がします。

>広宣流布が達成していない時点で戒壇建立地を論ずる
直人さんの言われる広宣流布の達成とはどの時点をさされるのでしょうか。
私見ですが、戒壇建立と広宣流布の達成は関係ないような気がしております。
三大秘法抄の真偽は別として、同抄の御分を借りるなら、

「有徳王・覚徳比丘のその昔を末法濁悪の未来に移さん時」

と、時の条件を明確にされてます。

有徳王は、敵が沢山いる中で命を落とされたのですから、
戒壇建立の時は、敵が国中に満ち溢れ、正法が滅っせんとした時に、
正法護持の人間が蜂起した時と解釈されるのではないでしょうか。

また、顕正会や、昔の創価のように、一人も残らず全員が信を取った時点を広宣流布達成と
いうのであれば、その地は既に寂光土となり、「雨土くれを砕かず」となり、
「宝土何ぞ壊れんや」となります。

有徳・覚徳のその昔を移すべき未来=末法濁悪の時でなければなりません。

そう考えると、諸宗の主張する「戒壇建立は達成の時」では無く、
敵が多数存在する時と考える必要があるのではないかと思います。

ご意見を頂戴できれば幸甚でございます。

141直人:2007/02/27(火) 20:13:32
JINさんか、こんばんは。

御法門に関して語るのは御僧侶の領域で、在家の私が軽々に語るものじゃないと思っていますので、本当はこちらの管理人さんたちにお願いしたいところですが、指名されていますから一応。

>広宣流布の達成とはどの時点

上古の教学意識にもとづくならば国主帰依、一国同帰の暁となるでしょう。JINさんが引かれた『三大秘法抄』にも「戒壇とは…王臣一同に…」とありますね。一国同帰が前提となることは『報恩抄』末文などにも見られます。
しかし、国主帰依がなされてもそれが直ちに広宣流布達成(厳密には完了、終了)となるわけではなく、国主が帰依した後も弘教し続けていくことは不可欠でしょう。

>「戒壇建立は達成の時」では無く

また、『本門心底抄』には「国主信伏し造立の時至らば」といいます。ここにいう「造立」とは何をさすものか。これは「戒壇の方面…」に係る語句です。つまり国主帰依の暁に戒壇建立の詳細を群議するというものです。それから、日代師は日印師の質問に対して「国主帰依以前に仏像を造立することは私的戒壇の建立につながる」といいますから、国主帰依と戒壇建立を分けて論ずることは無理ではないかと思います。

142川蝉:2007/02/28(水) 14:45:33
JIN@霊○会さん、直人さん、横から失礼します。


「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時 」
との意味についてですが。

先師が
「今ここには大法広布の為めに賭せんと誓う信仰的国王の出現に譬う」
と解釈しています。

で、
「国王はじめ枢要の人たちが、法華経の精神をもって政治を行い、本門の法門を受持して、有徳王が身命をかけて、覚徳比丘と正法をまもったように、本門の法門の流布の為めに勢力、国力をかけるように成ったとき 」
と解釈すべきだと思います。


在俗の主立った人たち、それから各宗派の指導的立場の人たちが、改宗帰依し、一般の人たちを教導すれば、多くの人たちも順次、改宗帰依するようになるだろうと推測できます。

しかし、なかなか素直に信受しない人たちも居ましょうし、他の国の人たちに広布するには、さらに時間がかかるのでは。

直人さんが
「しかし、国主帰依がなされてもそれが直ちに広宣流布達成(厳密には完了、終了)となるわけではなく、国主が帰依した後も弘教し続けていくことは不可欠でしょう。 」
と云われる通りではないですか。

143大東亜の星:2009/09/07(月) 12:42:06

悪僧日達は、正本堂を指して「事の戒壇」と云い、また「今や広宣流布」と云って、宗開両祖の御教示を蔑ろにして、己義・邪説を構えて世間と八百万信徒を欺いた。この出来事は宗門史に長く残る破廉恥な悪行である。

このような悪僧日達の独善的教義歪曲は、創価学会の政治選挙を勝たせるためであり、伝統教義を歪曲してまでの開き直りとも云うべき、魔僧の出来以外には考えられない変節であった。

この邪義を粉砕すべく、当時、弱小在家教団の妙信講を率いる浅井氏は、宗門諌暁書たる「正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う」を、日達をはじめ宗門12人の高僧に奏呈。

それに驚いた日達は、昭和45年4月3日浅井氏を本山に呼び付け「浅井さん、この本は実に良く書けていますねぇ、宗開両祖の仰せのままです。間違ったところは一つもありません。私にもこんなに上手くは書けません」と、発言。

そのような発言をして浅井氏を褒め称えながら、4年後の昭和49年8月12日、悪僧日達は妙信講の頸を刎ねて云く「宗門の公式決定に従わず、国立戒壇を捨てないため」との理由で、大聖人以来の正しい教義を展開する在家の信徒団体を根こそぎ抹殺したのである。

ある教に云く「道理、証文よりも現証に如かず」悪僧日達は、妙信講の頸を刎ねて5年後の昭和54年7月22日の未明、突然襲ってきた発作により、敢え無く黄泉の国へ旅立つこととなったが、退院後、池田大作と二人してアメリカ旅行を楽しみにしていた矢先の出来事だった。

144大東亜の星:2010/03/04(木) 13:56:04

悪僧日達は信徒団体の池田大作の奢侈におぼれ、諂いが高じて御本仏大聖人の究竟の御願業たる広宣流布「国立戒壇」を放擲して創価学会・公明党の政治選挙の為に驚くべき邪説を公式宣言してしまったのである。

①日蓮正宗を国境にすることはしない。②今後「国立戒壇」とは言わない。「民衆立」である。③正本堂を以って最終の戒壇とする。④今はすでに広宣流布である。だから事の戒壇も建つのである。などと言うもの。

悪僧日達の先代を務められた第六十五世の日淳上人の云く「真に国家の現状を憂ふる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法たる国教樹立こそ必要とすべきであります」(大日蓮 昭和32年1月号)と御教示である。

なんと日淳上人の仰せは宗開両祖の富士の流儀そのものである。唯一の正系門家と言われる日蓮正宗は、あの悪僧日達の時代から教義は曲がったままなのである。宗門が「国立戒壇」の正義を取り戻さない限り、戦後の自民党政権から民主党に政権は取って代ったとはいえ、国は崩壊の道をまっしぐらに進んでいる事には変わりは無いのである。その故は「仏法ようやく転動しければ世間も亦濁乱せり、仏法は体の如し世間は影の如し体曲がれば影斜めなり」とは是れである。

145大東亜の星:2010/03/08(月) 13:47:21

国柱会の田中智学という人物の元を糾せば、邪宗日蓮宗身延派の坊主をやっていたが途中で坊主の職を投げ出し還俗して明治13年に蓮華会を設立したのである。その2年後の明治15年に我が日蓮正宗に教義論争を仕掛けてきたのであった。後の「横浜問答」といわれるものだ。この時、本宗第52世の日霑上人が教義論争の主席を務められ、田中智学は口をして鼻の如くコテンパンにやっつけられたのである。

その後、田中智学は姿を晦まし秘かに我が日蓮正宗の教義を深く学び、明治35年に彼の著述した「本化妙宗式目」と後の「日蓮聖人の教義」の中で盛んに「富士戒壇論」や「国立戒壇論」なる語句を好んで使用することになったのだ。正確には、田中智学の方が我が日蓮正宗の教義を盗んで「国立戒壇論」を口真似したのは明白な事実なのである。誰が考えても解るとおり、日蓮正宗の信徒でもない身延の坊主崩れが、大聖人の終窮究竟の本願を知る道理は存在しないという事だ。

その証拠を示す。本宗第六十五世日淳上人は「田中智学氏の『日蓮聖人の教義』なる著書は、日蓮正宗の教義を盗んで書いたものであることは明白である」(興尊説冤盲説を破す)と御教示であり、また、創価学会から発行された(日蓮正宗創価学会批判を破す)書籍には「じつに国立戒壇の建立こそは、第二祖日興上人にのみ御遺命になったのである。そしてその場所も、富士山と明白にご指示になっている」との記述に明らかである。

また「あらゆる正史料から、日蓮正宗のみが、大聖人の御遺命をうけて、富士山に事の戒壇(国立)を建立しようと、必死の努力を続けてきたことは明白になった。近頃は田中智学門流でも、本宗の国立戒壇を囀っているではないか」などと、田中智学の国立戒壇論を批判しているのである。

かつて日蓮正宗の信徒団体であった創価学会ですら、このように田中智学を批判していたのである。田中智学は後年、戒壇の御本尊ばかりは如何にしても手が届かない事を悟り、それに対抗するため「佐渡始顕の本尊」なるものを編み出したのである。身延の坊主だった過去を持つ田中智学が、日蓮正宗の宗門古来からの「国立戒壇」を言い出した。等という悪坊主日顕の邪義ということが歴然としたことであろう。

憲法違反の的外れの批判を恐れる悪僧日顕は「国立戒壇」は田中智学が創唱したという邪説を展開し「国立戒壇」なる教義は、本宗には存在しない邪義だとする事で国家を欺き、八百万信徒を騙し続けているのである。「国立戒壇」を否定する事によって、憲法に従属、迎合する形で安住の地を得ようと計ったのであるが、現今の正宗僧侶の全ては悪僧日顕の邪義に染まって、心底から「国立戒壇」は田中智学の創唱と思い込んでいるのであるから始末が悪いのである。

146伝六:2010/03/10(水) 20:20:23
145の書き込みについて参考までにききますが、横浜問答については、富士山宗学要集の記録を読んだ上で書いているのか、それとも誰かから聞いたことをそのまま書いているのかどちらですか。

147大東亜の星:2010/03/12(金) 11:10:20

邪義破折班の「最後に申すべき事」を砕破す(P.9)に、悪坊主日顕さんをヨイショして胡麻すりながら諂って云く「御法主日顕上人御登座二十七年の長きに亘る宗門教導のお振る舞いと、僧俗一致の真の広布大前進の実相こそ、大聖人の門底下種仏法を日顕上人が厳然と承継遊ばされていることを証明しているのである」云々と。

思い起こせば、悪坊主日顕さんが猊座を簒奪したのは昭和54年7月22日、先代の悪僧日達管長さんが「国立戒壇」の御遺命を歪曲した仏罰により、入院先のフジヤマ病院で退院の朝、突然の激烈な発作に見舞われて、臨終思うようにならなず黄泉の国へ旅立ったのです。その期に乗じて悪坊主日顕さんは自己申告によって猊座にしがみつかれたのでした。それは、当日の夜の日達管長さんの通夜の席で参列者の多くが茫然自失して意気消沈している最中、「実はあっしが相承の授受を賜っとったんよ」などと。まさか、そんな、と思う間もなくおもむろに宣言して、第六十七代を継くに至ったのでした。

それでも管長職に就いた当座は何とか乗り切れたものの、悪坊主日顕さんは突然黄泉の国へ旅立った悪僧日達管長さんに輪を掛けたような下劣な人で、それこそ、創価学会の走狗のような諂いぶりでした。昭和52年の教義逸脱問題から法華講総講頭の重職を投げ出して責任を取った池田大作さんを、再び彼の誕生日を選んで総講頭の要職に任ぜられたのでした。そんな悪坊主の日顕さんに異論を唱え反旗を翻した坊さん達は、宗門全僧侶の2/5に達するほどの200人を超える数に及んだのでした。

これら200人を数える坊さん達が一斉に血脈相承の授受を疑い、悪坊主日顕さんを「法主に有らず」として裁判の席に誘き出して決着を付けようと裁判を仕掛けたのです。そうしたところ、悪坊主日顕さんはその報復として、その者達の頸を斬るべく、擯斥処分(宗門追放)で対抗する事となり、宗門挙げての前代未聞の大騒動となったのです。処分を受けた200余名の坊さん達が支配する寺院数も200ヵ寺に及び、その坊さん達の後には約10万人の正宗信徒が控えていたのです。それが現在の正信会です。今現在176ヵ寺が正信会系の寺院なのです。

悪坊主日顕さんは、200人を超える坊さんの頸を斬ったものだから、自動的に200ヵ寺を超える寺院と10万人の正宗信徒の頸を斬ることに繋がったのは云うまでもありません。こんな酷い仕打ちは出家僧侶としてあるまじき無慈悲な所業です。頸を斬られた坊さんの中には、その象徴的な存在として、あの第六十六代の猊座を務めていた悪僧日達さんの次男坊である、実修寺の住職をしていた細井琢道が含まれている事は、驚きと共に特筆される出来事でした。

こんな驚天動地の不祥事は邪教日蓮宗、諸山でも決して起こらない忌まわしい出来事です。これこそが、宗祖日蓮大聖人の御遺命である「国立戒壇」の本願に背いた仏罰なのです。「国立戒壇」を放棄した正宗信徒は、唯一の大目的を失ってしまったのです。そうなってしまえば活力を無くしてしまうのは当然の帰結です。まるで、信徒の大半は老人ばかりの無気力な集団に成り果ててしまったのです。

宗門では昨年「立正安国論正義顕揚七百五十年」と銘打って大きな掛け声と共に3年がかりで盛大な式典を催しました。その折、本山に78,423人の信徒を総動員して無意味で虚しい式典を開きました。なんの感激も沸かないまま、次への目標を打ち出しました。それは、①日興上人御誕生七百七十年の平成27年までに、法華講員数の50%増を目指す。②大聖人御誕生八百年の平成33年までに、法華講員数を現在の40人万体勢から80万人体勢にするというものですが、いずれの目標も掛け声倒れで虚しく終わるものと思われます。

148伝六:2010/03/12(金) 12:53:41
146の書き込みの富士山宗学要集は富士宗学要集の打ちまちがいにつき訂正します。

149大東亜の星:2010/03/13(土) 10:31:52

邪義破折班の「最後に申すべき事」を砕破す(P.10)に、悪坊主日顕さん諂って開き直って云く「御法主日顕上人が、いつ御本仏一期の御遺命を破壊せんとしたのか。それこそ事実無根の妄言である」云々と。

邪義破折班のこれほどの開き直りは他に類例を見ない悪質なものだ。邪義破折班に籍を置く諂いの面々も、宗祖大聖人の御目は恐ろしくはないとも、悪坊主日顕さんのギョロ目は怖いと見えて、上記のような言辞を弄して魔僧のお先棒を担いで平然としている有様だ。悪坊主日顕さんの御遺命を破壊した言説は、枚挙に暇も無いほど存在するが、その代表的な実例を少しく挙げると次のとおりである。

昭和42年、正本堂の建立発願式に参列した後に悪坊主日顕さんの云く「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、本懐成就より六百八十年を経て、現法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕さんとしている」などと。悪坊主日顕さんは、正本堂を指して「事の戒壇の建立」と言って邪義を展開しているではないか。

次に悪坊主日顕さんは「国立戒壇の誤りについて」と題する冊子の中では、三大秘法抄の文々句々を曲会して云く「王法」=「政治をふくむあらゆる社会生活の原理」等と、頓珍漢な出鱈目解釈をして創価学会の「国立戒壇」放棄を助けたのである。更に「王臣一同」=「民衆一同」と捩じ曲げ「有徳王」=「池田先生」と諂い「勅宣並びに御教書」=「現行憲法の信教の自由の保証によって実現」などと、とんでもない解釈をして池田大作さんを喜ばせている。

「霊山浄土に似足らん最勝の地」=「大石寺境内」と牽強付会し、「時を待つべきのみ」=「現在は王仏冥合の時であり、現在戒壇建立の意義を持つ戒壇堂を建てるベき時」として、正本堂の建設を諸手を挙げて賛成していたのである。また「覚徳比丘」=「日達上人」などと解釈して、いぶかる信徒を、衣の権威で威圧したのは他でもなく、悪坊主日顕さんであったのは紛れもない時事なのだ。

序にいうと、「王法」とは、一義的には王の法であるから天皇の定める法令をいうのであるが、具体的には「王法」とは、国家統治の法則を指すことは云うまでもない事なのである。

150大東亜の星:2010/03/16(火) 13:30:00

邪義破折班の「最後に申すべき事」を砕破す(P.11)に云く『御法主上人には、その折、某二老師の古稀の宴席に他の第六十世日開上人の遺弟、法類の方々と共に、それも夫々夫人同伴で招待されたものである。したがって、汝が誹謗する如き、「芸者あそび」などではない。二老師の一生に一度の晴れのご招待の席を「芸者あそび」などと貶すとは無慚極まるというほかない』などと。

これは悪坊主日顕さんが、創価学会から贅を凝らした「芸者あそび」を指摘された時の言い訳である。おおよそ、出家僧侶たるものは、小欲知足を以って旨とすべきなのである。御開山上人の二十六ヵ条には「先師が如く予が化儀も聖僧たるべし、但し時の貫首或いは修学の仁に於いては、設ひ一旦の媱犯有りと雖も、衆徒に差し置くべき事」と御教示であるが、この誡文の冒頭部分の「先師が如く予が化儀も聖僧たるべし」とは、坊主の妻帯を禁じておられる誡文そのものなのである。

それを、棚に上げて「某二老師の古稀の祝いの宴席に夫々が夫人と同伴で宴席に招待された」とは恐れ入る。これはいうなれば出家僧侶の堕落以外に何ものでもない。大体、出家僧侶の衣食住の全ては、在家信徒が供養という簿財で一切を賄っているのである。僧侶たるものその一端に思いを馳せれば、温泉場で贅沢三昧の宴席を挙行するなどもっての外であろう。

また、御開山日興上人は「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて髄力弘通を致すべき事」とのご教示を併せ拝する時、大聖人の御遺命たる「国立戒壇」を永久放棄しながら、古稀を祝う宴席を設けるとは言語道断、正系門家の名はすでに地に落ちたという以外に言葉もない。ここで正系門家たる所以は、何を以って正系門家と呼ぶに値するかと云えば、「一期弘法付嘱書」に明白にお示しなのである。それは、大聖人の御存生の御時から、本門の本尊と、唯授一人の血脈と、国立戒壇の三ッを頑なまでに堅持して来たが故に正系門家と呼ばれて来たのである。

ここで「一期弘不法付嘱書」を謹拝してみよう。「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり。時を待つべきのみ。事の誡法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。

「日蓮一期の弘法」とは「本門の本尊」の御事である。次に「白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」とは「唯授一人の血脈」である。次に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり」とは正しく「国立戒壇」ではないか。

ところが、昭和45年5月3日、悪僧日達さんは創価学会の第33回総会の席で、池田大作さんの身に余る奢侈に溺れ、遂に諂いが高じて「国立戒壇」の永久放棄宣言をやってのけ、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのである。こうなっては、最早当然の事ながら正系門家とは言えないのである。この宣言を耳にした邪宗日蓮宗はもとより、日本のあらゆる宗教団体は諸手を挙げて、「国立戒壇」永久放棄を歓迎し、今に我が家の春を謳歌しているのである。

正系門家切っての英邁な猊下であられた第六十五世の日淳上人は「真に国家の現状を憂える者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法たる国教樹立こそ必要とすべきであります。(大日蓮 昭和32年1月号)とご教示なのである。この堂々たる獅子吼こそ、日蓮門家は味職すべき金言なのである。

151大東亜の星:2010/03/18(木) 15:54:11

邪義破折班の「最後に申すべき事」を砕破す(P.17)に、悪坊主日顕に諂い迎合して云く「血脈付法の御法主上人は、御内証に大聖人以来の法水を御所有遊ばされ、以って御遺命を捧持されているのである」云々と。また、(P.17)に云く「そもそも、唯授一人金口嫡々の血脈相承により大聖人の御遺命を捧持あさばされる御法主上人が、御遺命に背くなどということは絶対にありえないことである」などと。

何度も云うようだが、日蓮正宗が正系門家たる所以は、三つの大事を堅持して来たからである。①本門戒壇の大御本尊がお在すこと。②唯授一人の血脈が存すること。③本門戒壇=「国立戒壇」を本願としていること。これ等の三つの大事は日蓮正宗の命なのである。故に、一期弘法付嘱書には、この三大事が明確に示されているのである。

悪坊主日顕は管長職に就く以前から、現在の日本国憲法を主、仏法を従としての認識に立ち、③の「国立戒壇」を否定し続けてきたのであれば、邪義破折班の吹聴する如く「大聖人以来の法水をご所有遊ばされ、御遺命を捧持されている」云々は、まるで当らない嘘八百という事だ。

邪義破折班は、大聖人の御遺命に背いた悪僧日達管長と、悪坊主日顕管長を両上人として持ち上げて(P.18)に云く「両上人は、令法久住、広宣流布を第一義として、僧俗一同を教導あそばされてきたのである。御慈悲あふれる日達上人、日顕上人に反逆」などと、聞いて呆れて寒気でゾクゾクするような賛辞を並べて両管長を絶賛しているが、拙者がその化けの皮を剥がしてあげよう。

「国立戒壇」を永久放棄して正本堂を「事の戒壇」と偽り宣伝した悪僧日達管長の云く「今振り返って我々が戒壇を論ずる時、三大秘法抄・一期弘法抄に云う処の戒壇は理想の大戒壇である。それは望ましい戒壇である。然し、今我々は現実に帰り、この戒壇の御本尊在します所は即ち、常寂光土・真の霊山であるという深い信念の下に御本尊を信じて行かなければならない。

152大東亜の星:2010/03/18(木) 15:55:48

もし、現在のこの戒壇の御本尊在します所が、事の戒壇でなければ、所詮義の戒壇であるならば、だだ理論上のことだけになってしまう。それならば、何も本山まで貴い時間と金を費やしてお参りする必要はないことになる。もしどうおしても三大秘法抄の立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にこなければよろしい。それまで成仏しなければよろしい。

ただいつ来るか判らない未来の世界に浸っておるよりも、現実のこの世界に於いて我々は信心の誠を行かなければならない」云々と。(大日蓮 昭和45年7月号)とある。

これは正に驚きである。凡そ血脈を継がれた貴い貫主にあった方の言葉とは到底思えない言辞である。「現在のこの戒壇の御本尊の在します所が、事の戒壇でなければ、所詮義の戒壇であるならば、ただ理論上のことだけになってしまう」とは、正本堂を指して事の戒壇と牽強付会して、800万進とを騙したうえに、日本国家をも騙し続けたのである。

次に、正本堂が義の戒壇であり事の戒壇でないならば「何も貴い時間と金を費やして本山にまで足を運ぶ必要がない」とは恐れ入る。金だけ毟り取られた挙句、こんな下衆な言葉が返ってくるとは悲しくなってくる。また「もしどうしても三大秘法抄の立派な戒壇を望んで、それが最高の戒壇として、そこに於いて成仏を遂げようとするならば、それまで本山にこなければよろしい。それまで成仏しなければよろしい」とは、何たる言い草だ。これでは、まるで悪ガキの捨て台詞そのものではないか。

こんな暴言を吐いて純真の信徒を愚弄して信心を欺くような貫主だから、仏罰を蒙ることになったのであろう。悪僧日達は、昭和54年7月22日の未明、退院の朝、入院先のフジヤマ病院で、激烈な発作に見舞われ急死を遂げ、正系門家の貫主に有らざる見っとも無い死にざまを晒すことになったのである。

153あんだお前?:2010/04/30(金) 23:09:32
創価学会かよ?

154通りすがり:2011/01/25(火) 12:48:16
大東亜の星←どうも顕正会系の人らしいですね。
 それにしても表現の仕方が余りに汚く、到底、礼儀礼節を重んじる筈の仏教徒とは思えないお人柄です。
 この板の注意事項にも抵触しているような…。
 私の御師匠様はいつも言われています。「仏教徒は何故、合掌礼に始まり合掌礼に終わるか。それは礼儀礼節を重んじる証でもある」と。
 別に綺麗事をならべるつもりはありませんが、ネットという顔を知らない人同士の対話であるならば、尚更、こういうことは気をつけて互いが無用な感情に走らないようにするべきではないでしょうか?

155伝六:2011/02/26(土) 20:22:38
大東亜の星というハンドルネームだから、大東亜の星たることをめざしているのかもしれないが、書いてあることは掲示板のゴミである。富士宗学要集の一局部を読んでのことか、その他の伝聞?を読んでかしらぬが、「口をして鼻の如く」などと事実無根のことを書くのは正気の沙汰ではない。自らの修養につとめられよ。

156名無し天:2012/01/11(水) 18:52:49
本門の戒壇を論じるときに、「国立か、民衆立か。どこに立てるか」といった議論ばかりが目立ちますが、
その戒壇堂が建立されたとき、授戒する師はどなたがなるのでしょう?

妄語ばかりついて、すでに妄語戒を破りまくっている人でも授戒師になれるでしょうか?
また、「我等こそ大聖人の正統なり」主張する在家団体の人が授戒をしようなどと、およそ仏教史に例を見ないことですが、

①破戒の人でも授戒師になれるのか
②在家でも授戒師になれるのか

以上の2点について、どなたかご教授願えませんでしょうか。よろしくお願いいたします。

157名無し天:2012/01/11(水) 23:29:41
訂正 ×妄語戒 → ○不妄語戒

「妄語戒」では嘘をついても良いことになってしまいますね(笑)失礼しました。

158伝六:2012/01/13(金) 10:03:02
本門戒体抄によれば、受戒には必ず三師一証一伴で、三師は迹門の受戒は和尚(わじょう)釈迦如来、阿闍梨文殊師利菩薩、教授弥勒慈尊でほかの戒師はもちいられていません。信者が師としている人から戒を授かるのは、その人から授かるのでなく、三師から授かるので、その場合授戒の儀式をおこなう人は伝戒であるという位置づけになると思います。どんなえらい人でも伝戒師であって、伝授戒師ではない。日蓮聖人は公場対決がおこなわれたら、「わが弟子等の出家は主上上皇の師となり在家は左右の臣下に列せん」となることを言われています。この場合の出家はいわば宗教の専門家という意味だと思いますが、肉食妻帯をしない文字どおりの出家であるという意見もあると思います。

159名無し天:2012/01/13(金) 14:36:19
>158伝六さん

大変ありがとうございます。私が持っております米田版・御遺文集には本門戒体抄が載っておりませんので、
いずれ全文を読んでみようと思います。

戒を授けるのは、迹門の場合でいえば釈迦と文殊・弥勒であって、儀式を行う人は仲介役という理解でよろしいでしょうか?
仲介役でしたら破戒など一切ない完全無欠の人でなくても勤まりそうですね(笑)

「わが弟子等の出家は主上上皇の師となり在家は左右の臣下に列せん」
これも本門戒体抄の御文でしょうか?大聖人のご真筆かどうかはともかく、この文が書かれた当時としては、
伝戒は出家が執り行うもので、在家が執り行うものではないという意識があったのでしょうね。

私はこの文を読んだかぎりでは、出家は文字どおりの出家であろうと思うのですね。宗教専門家という意味だとすると、
受戒の場にいるような人は僧侶でない人も宗教専門家と自称できるでしょうし、するとそこには在家が存在しないことに
なるのではと思ってしまいます。

すると、本門の場合の戒師は釈迦、地涌の菩薩(二人)となるのでしょうか。曼荼羅の座配から推察すると上行菩薩と浄行菩薩
ということになりそうですね。

以前、あるサイトで「日蓮花押がバンからボロンに変わったのは、授戒を意識したからではないか」といった内容の記述を読んだことがあります。
(うろ覚えなので、詳細な説明ができませんが)曼荼羅の中の「日蓮・花押」が、大聖人は伝戒師であることを意味している・・・と、ふと思いました。

御叱正等いただければ幸いです。

160伝六:2012/01/13(金) 19:39:23
伝戒の師の資格の問題はよくわかりません。戒というのを五戒とか十善戒とかの具体的なものだとすれば、末法は無戒ですから、破戒の問題はおこりません。妙法受持の根本戒を破っている場合は問題外でしょう。「わが弟子等の・・・・」は「諸人御返事」の御文で真蹟があります。本門の場合の戒師は本門戒体抄には書かれていません。「南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承修行したまへ」(生死一大事血脈抄)という御文からかんがえると、上行菩薩は三師のなかの一師で、上行菩薩の応現としての日蓮聖人は伝戒師ではなく、伝授戒師の資格となると私は考えます。日蓮聖人には凡夫日蓮の立場と上行日蓮の立場とがあると考えます。

161名無し天:2012/01/14(土) 15:13:21
「末法は無戒」という言葉をよく聞きますが、実を申しますと私がここで質問を始めたのはまさにこのことについて疑問を持ったからなんですね。

(スレ違いかと思ったので、ストレートに書かなかったのですが)戒が無いなら戒壇も必要ないことになり、妙法を受持することが戒で肉食妻帯は可なら、日本はいざ知らず、アジアの他の仏教圏でそんな出家者の声に耳を傾ける人がいるでしょうか。

(是非はともかく)日蓮宗の修法師のところで、それぞれ悩みをかかえた人たちが御祈祷を受けるのは、100日間の厳しい荒行を終えた人を信用しているからです。
スリランカの道端で僧侶たちが供養を受けるのは、釈尊の時代から続く戒律を守っている人だからと信用されているからです。

私の言いたいことは、犀角独歩さんがすべて書かれていらっしゃるので、多くを述べるのは控えたいところではあります。
ttp://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51855044.html#

明治政府による廃仏毀釈で建物や仏像が壊されたことがよく語られますが、「肉食妻帯勝手たるべし」によって仏教の精神が壊されたことに、どれだけのご僧侶方が気付いておられるでしょうか。
「日本仏教は時代の変化に応じて発展した」と語られますが、広宣流布は日本一国ではありません。

妙法受持の戒を言い訳に在家同様の生活を送る僧侶に一閻浮提広宣流布など果たしてできるでしょうか。

「戒壇で受ける戒とは何か」が判明すれば、戒壇堂のあり方は自ずと解決される問題であると思っています。

「大地を的とするなるべし」と言われる広宣流布を真剣に考えていらっしゃる方、特にご僧侶のご意見を賜りたいと存じます。

162伝六:2012/01/15(日) 11:24:23
「出家在家、法を護らんには其の元心の所為を取り、事を棄て理を存してまさに大教をひろめよ」という章安大師のことばがあって、事の戒というものを持たないという意味で無戒ということであって、戒が無いなどということではない。今の僧侶は昔の基準からは、ウバソクであって、比丘と称しても南方仏教では認めないというのはあたりまえでしょう。現在日本の仏教界に比丘は存在しない。しかし将来において、宗団において比丘が存在するようになるかもしれない。そんなことはわからない。「妙法受持の戒を言訳に」とはなんという言いぐさか。いったいあなたは、信者なのか、疑者?なのか。なにを広宣流布するつもりなのか。

163名無し天:2012/01/17(火) 14:34:49
できましたら他の方のご意見も賜りたかったのですが、この掲示板をご覧になる人は少なかったのでしょうか。

末法無戒の意味がよく分かりませんでしたが、少なくとも私が意味を間違えてとらえていたことが分かりました。ご教示に感謝いたします。

私が書き込んだ後に、「そういえば昔は、入道という存在があったな・・・」と思い至りました。もちろん、私は仏様の教えを信じる信者であるつもりですが、出家のあり方に疑問をいだく疑者であったかもしれません。

広宣流布する法体は素晴らしくても、広める人の行いが正しくなければ、人々の理解は得られないのではないかと思ったのですが、「同じ法を信じる者として、僧侶も信徒も力を合わせていくべき」と、結局私の中では元の結論に戻ってしまいました。行いの正しさを言うのであれば在家も同じことで、まずは自らを律することも大事ですしね。

言葉の使い方が下手なので誤解を与えかねませんが、
「五戒を破るよりも法華誹謗の罪は重い」→「法華誹謗の罪よりも五戒を破る方が罪は軽い」→「法華を守るためには五戒を破ってもよい」→「例えば親を殺すこともやむなし」

かなり極端な例ですが、オウム真理教はこのような思考を持っていましたよね。
また、これも極端な例ですが、「教団を守るためには、教団の破壊をたくらむ者を盗聴してもよい」(*あくまでも例え話です*)ということになった場合、法は立派であると言ってみたところで、説得力はありませんよね。

飛躍した話で大変恐縮ですが、そこで、本門の戒壇で受ける戒とは妙法受持だけでよろしいのか、そもそも出家の肉食妻帯を禁じる戒など無いのか・・・どなたか菩提寺のご住職に質問できる勇気のある方はいらっしゃいませんか?(汗)

164伝六:2012/01/22(日) 14:39:05
オウム真理教については、事件をおこす前の記憶としては、何の選挙だったか、転輪聖王麻原ショウコウというポスターが街にはってあって、ずいぶんとイカレタやつがでてきたと思った記憶があります。空想の中で世界を統一するつもりだったのかもしれない。サリン事件の後に、オウムではどんなことを教えていたのかと思って、図書館でオウム発行の本を読んだら、仏教の十二因縁のでたらめ解説が書いてあって、真面目に検討するほどの教義的なものはなかった。弟子は出家で佛弟子の名をつけていたようだけれど、仏教を形でいつわろうという意図があったかもしれない。空中浮遊を神通力であるかのように宣伝していたけれど、そういうものに価値を認めるなら、外道である。「例えば親を殺すこともやむなし」というのは、言葉の使い方が下手というよりは、例が悪い。オウムはサリンをまくのもやむなしと考えたのでなく、何かの妄想からあるいは妄的意図からサリンをまいたのだったと思いますが。


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