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本門の戒壇について
105
:
直人
:2004/05/07(金) 23:53
>>104
の続き
日辰師は1587年、日院師に書状を送り要石両山の通用を申し入れているが日院師は日辰師
の《造仏読誦》を邪義として拒否している。しかし、大石寺は日主師の時代には相当衰退したよう
で日主師は日?師に通用を要請している。
かくして要法寺との通用は《昌就精盈舜典忍俊啓》の九代百余年間にわたって続くのである。
その後、日寛師の出現によって今日の大石寺教学が確立するのであるが、日寛師も天生原戒
壇思想に肯定的であった。
事の戒壇とは富士山天生原に戒壇堂を建立するなり(宗全4−P324)
かく云うと「依義判文抄」の、
戒壇の方面は地形に随うべし国主信伏し造立の時至らば智臣・大徳宜しく群議を成すべし
兼日の治定は後難を招くに在り寸尺高下注記すること能わず(宗全4−P47)
という文を持ち出してくる人がいるかもしれないがそれは正しくない。それは一つにはこの文は
日順師の「本門心底抄」からの引用であること、もう一つには、日寛師以降の大石寺貫首にも
天生原(天生山)戒壇思想が見られるからである。
戒壇の地を富士の天生山に撰び置き板本尊及戒壇堂の御真筆在り
(35代日穏師「五人所破抄一覧」富要4−P205)
後五百歳中広宣流布の金言虚しからずんば、上一人より下万民に至るまで此の三大秘
法を持ち奉る時節あり、此を事の広宣流布と云ふ。其時、天皇陛下より勅詔を賜はり富士
山の麓に天母が原と申す曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立
(56代日應師「本門戒壇の大本尊縁由」應全P3)
日寛師がいくら現・大石寺教学の大成者と云えども百余年にわたる両山通用の間に流入し
てきた要法寺教学を完全には払拭できていないようである。それゆえに日寛師以降の大石寺
貫首も「天生原」云々と述べているのではあるまいか。
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