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本門の戒壇について

30ROCK:2003/11/17(月) 21:59
空き缶さん、こんばんは。

>これは大石寺第六世日時師の書写本尊ですね。

そうです。『富士宗学要集』の「第三曼荼羅脇書等(六世日時上人御筆の分)」に、

──────────────────────────────────
応永十一年甲申六月日 奥州柳目法華講衆達現当二世の為なり  陸前妙教寺

(「第三曼荼羅脇書等」『富士宗学要集』8巻、p193、1978年)
──────────────────────────────────

とあります。

[付記]
堀師は『宗門史に顕れたる布教』という講本において「興師 徳治三年○、駿河国
富士下方熱原住人神四郎法華講衆と號し」(P22)としています。これが真実であれ
ば、「法華講衆」という名称の所見は徳治三年まで遡らねばなりませんんが、『日興
上人御本尊集』で確認したところ「法華衆」でした。堀師がなぜ徳治三年の本尊をさ
して「法華講衆」としたのかは不可解なところです。

>大石寺の戒壇本尊はこの日時師の代に造立されたものと、思っています。

以前は、日有師説を取っていましたが、陸前妙教寺蔵の日時師書写本尊の脇書の
ことから、日時師まで遡れると考えています。
「仏滅後二千二百二十余年」と見られるのは宗祖滅後203年の「穆作抄」ですから、
大石寺流本門戒壇大御本尊は日時師以降に成立し、それが日鎮師の時代に表面
化したものではなかろうかと推考しています。
ちなみに、「日興跡條條事」の初見は宗祖滅後279年を待たねばならないので、第二
条の「弘安二年の大御本尊」とは大石寺流本門戒壇大御本尊であると考えてもよい
わけです。


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