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本門の戒壇について

136JIN@霊○会:2007/02/22(木) 22:57:38
体調を崩しておりました為、ご返信が遅くなりまして恐縮でございます。
直人さん、ご返信いつもありがとうございます。

>大石寺歴代の順でいえば、堀日亨師(59代)→堀米日淳師(65代)
●なるほど。仰る通りでしたね。すみません。私の勘違いでございました。

>「興」字の1画目から13画目に注目し、同時期の日興上人の花押と対比
●素晴らしき見識眼だと存じます。大変勉強になります。

>(『顕正会』<Ⅱ>p25)
●顕正会は主張を簡易に編纂する故、今一信用が置けません。
現在では、北山戒壇説を声高々に宣揚する同会も、かつては大石ヶ原建立説を唱えておりました。

「日興上人は、身延を離山されてから、まず上人の養家河合の由比家に落着き、ついで上野の郷主・
南条時光殿の招きをうけて下条にある南条家の持仏堂に移られた。この持仏堂が、実は現在の下之坊である。
 下条より約半里ほど離れた北方に「大石が原」という茫々たる平原がある。後ろには富士を背負い、
前には洋々たる駿河湾をのぞみ、、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地
としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。
かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場とし
て地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始ま
りである」「富士」十三号(昭和三十九年八月二十三日発行)

>池田氏は天母山の土地25万8千坪を大石寺に寄進
●確かに何かしらの意図、もしくは構想は存在していたのかも知れませんね。
(以外に、単純に興尊に縁深い場所だからなんて単純な理由だったりするかもしれませんが)

>背景には天母山周辺に戒壇を建立するという考えがあったのでしょう。
●これはどうなのでしょうか。当時、戸田氏と堀氏は昵懇の仲で合ったと言われてますし、
富士宗学要集、全集を作成するに当たっても、相当、創価(戸田氏)の協力があった事が伺えます。
堀氏擁立派の戸田氏ですから、堀氏が棟札に記載されている「北山建立説」、「六万坊説」を
否定していた事から、北山説は創価の中には無かった可能性も否定できません。

「六万坊の伝説、あまりにも空大すぎる。一閻浮堤中心の仏都となりてもである、
考えうべきことなり。ある人は、いま現在の万坊が原をさして六万坊につきあわせるも、
これはあまりにも狭少すぎて、一千坊すら建たざるべし。ただし、
この伝説の根源となるべき古文献は、百六箇抄に挿入せられしもの等であろう。」
伝説資料・百六箇抄の末文「四大菩薩同心して六万坊を建立せしめよ」、
伝説資料・百五十箇条「八十四 尋て云く本門戒壇院の外別に常寂光土無きや、
難じて曰く然るときは本門戒壇院在所を定め玉う是は徒なるべきや、
答て曰く此の戒壇院は広宣流布の時御崇敬有り最も六万坊を建立有るべしと。」、
正資料・類摺翰集私「天生ヶ原に六万坊を立て法花本門の戒壇を立つべきなり、
六万坊と申せばとて六万多に非ず一巳独に非ず只表示の釈なれば一人也とも正信ならば
六万坊建立に成るべきなり・天台の釈の意なり、」

「この日教(要山僧にして石山に帰入せし者)の意を見るべし。
天台の円融の法義におぼれて、坊舎建立の事実を空理にする人々の伝説は、
まじめの物質的な後人を誤らす事大なり。ことに空談にもせよ、
天生が原の寸地にいかに重畳しても、摩天楼にしても六万の坊舎が建設せらるべきや。」 
「富士日興上人詳伝」

>『本門心底抄』を引用したのか気になるところです。
●大変興味深いご指摘ですね。
曼荼羅正依の大石寺の教義とは大いに異なるはずの『本門心底抄』では、
「安置の仏像は本尊の図の如し云云」ですから余計に含蓄が深いご指摘と感じております。


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