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本門の戒壇について

27ROCK:2003/11/16(日) 16:38
大石寺について

大石寺教学の問題点は(一)釈尊脱仏・宗祖本仏論、(二)大石寺流本門戒壇大御本尊論、
(三)唯授一人血脈相承論、の三点に大別することができる。

まず、(一)については、日興師はもちろんであるが、日道師も「御伝草案」において、久遠実成
釈尊を本仏としていた。また、日道師以降の大石寺貫首の著述からは明確な本仏思想を窺えない。
しかし、日時師・日影師は武州仙波において天台恵心流を修学しており、大石寺流宗祖本仏論
は恵心教学と酷似しているので、日時師・日影師によって恵心教学が大石寺に伝えられ、それ
が後代において摂取されながら形成され、日寛師によって宗祖本仏論は教学的大成を成すにい
たったものと思う。
したがって、上代大石寺門流には釈尊脱仏・宗祖本仏論はなかったのであり、大石寺門徒が宗
祖本仏論を主張する際は、(一)日興師の消息文の曲解、(二)他山文書(主に日順師の著述)を
以て主張、するのであるが、これこそまさに我田引水、牽強付会の極みなのである。

次に(二)について。大石寺門流は大石寺奉安堂に安置されているところの弘安二年十月十二日
の板曼荼羅を宗祖出世の本懐とする。しかし、堀日亨師の指摘によれば「法難即本懐ではなく、
法難終結に寄せての本懐」(要旨)とされているので、弘安二年十月十二日図顕の本尊を本懐と
することはできない。
宗祖が熱原衆の処刑を知ったのは弘安二年十月十七日以降のことであったので、「御伝草案」で
云うところの「その時御感有て・・・本尊に日興上人」という本尊とは、熱原衆への追善供養等の意
義を込めて顕された本尊と考えるべきであって、今日の大石寺門流が云うような大石寺流本門戒壇
大御本尊の依文とは成り得ない。
また、讃文には「仏滅後二千二百二十余年」と記されているが、宗祖真筆本尊は弘安元年七月五日
の本尊(『御本尊集』50番)以降では、「仏滅度後」と統一されているのでこの点からも疑う必要がある。
また、讃文には「法華講衆」とも記されているが、法華講衆という名称の初見は応永十一年の書写本
尊に「奥州柳目法華講衆現当二世の為なり」としてはじめて見出せるのであって、弘安二年十月十二
日の板曼荼羅を宗祖真筆とすることはできない。
ただ、題目の相貌は宗祖の親筆本尊を模刻し、讃文は後人の添加と考えることはできるかもしれない。

最後に(三)について。元来、大石寺門流には唯授一人血脈相承思想はなく、その原型は重須学頭の
日順師によって形成されたものであった。この背景には興門諸山の対立紛争があったのではあるまいか。
「大石記」を見ると日代置状十二通(八通の誤り)が出てくるので、西山に対抗するために二箇相承を偽作
したものかもしれない。或いは、道郷問題に際して日興門流の輝きが失するのを憂いて日順師が提唱した
ものが唯授一人血脈相承思想であったのではなかろうか。
しかして、唯授一人血脈相承思想は日順師によって形成され、唯授一人血脈相承思想の確立手段として
二箇相承が偽作されたものであると思う。


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