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本門の戒壇について

98直人:2004/04/04(日) 14:44
■本門寺戒壇のこと

 宗祖が戒壇建立について述べている著述はわずかに「三大秘法抄」「百六箇抄」
「日蓮一期弘法付嘱書」があるにすぎない。けれども「日蓮一期弘法付嘱書」は宗
祖滅後60年代・重須によって偽作された文書(詳細は今春発行の『大石寺教学の
研究』所収「二箇相承の考察」参照)であるから、「日蓮一期弘法付嘱書」を本門寺
建立の依文とすることはできない。
 今日においては大石寺門流を中心に富士戒壇思想が根強いが、はたして彼らの
主張する戒壇思想はいかにして形成されてきたのであろうか。「三大秘法抄」によ
れば、宗祖は、

  戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法
  を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並
  びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立
  すべき者か

として、いまだ戒壇建立地を定めておられない。ところで「三大秘法抄」は弘安四年
の著述(大石寺日時本では弘安五年)であるが前年の著述であると伝えられる「百
六箇抄」には、

  富士山本門寺本堂なり。上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし

として、富士戒壇思想が記されているだけでなく、上行院(要法寺の前身)に言及
しているが、これより後の成立である「三大秘法抄」に戒壇建立地が明示されてい
ないことから「百六箇抄」は尊門による偽作であることが明らかである。したがって、
富士戒壇思想が明示されている信用のおける文献ではわずかに「三時弘経次第」
があるくらいであろうか。すなわち、日興上人は「三時弘経次第」において、

  本門寺 富士山 末法

と述べている。けれども、これが宗祖の立義であったかと云えばそうではないように
思う。それは、宗祖が戒壇建立地を明示していないこと、五老僧も「宗祖は戒壇建
立地を定めていない」(「富士一跡門徒存知之事」趣意)と述べているからである。し
たがって富士戒壇思想は日興上人によって形成されたものであるように思う。
 ところで、日目師は「日興上人御遺跡之事」において、

  日蓮聖人御影並びに御下文、園城寺申状上野六人の老僧の方巡に守護し
  奉るべし。但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。 この条、日興上人
  の仰せによって支配し奉る事此の如し。この旨に背き異議を成し失いたらん
  輩は永く大謗法たるべし。

と記しており、興門においては早くから本門寺建立が論じられていたようである。
ところで興味深いのは、「御影並びに御下文、園城寺申状」として大石寺門流に
おいて最重要視されている本門戒壇之大御本尊が記されていないことである。
「日興上人御遺跡之事」には記されていないが本門戒壇之大御本尊は大石寺
に秘蔵されていたと考える人がいるかもしれない。けれどもその考えは正しくな
い。それは大石寺門流は身延時代、本堂には本門戒壇之大御本尊が安置され
ていたと説明するからである。

  この弘安二年の戒壇の大御本尊こそ、日興上人が身延においてお受けして、
  身延の正本尊として安置し奉った。

 身延時代に本堂に安置されていた本尊が大石寺では秘蔵されているとするの
は合理性がないように思えるのである。
 これらのことから、本門戒壇之大御本尊は日興上人・日目師の時代にはなく、
この時代における本門寺本堂に安置する本尊とは大曼荼羅を設計図として仏像
を造立するというものであったように思う。それは、日順師、日代師が広宣流布の
暁には仏像を安置すると考えていたこと、日尊師が日興上人の教説として大曼荼
羅は広宣流布の日までとしていることによるものである。ただ、遺憾なるは日興上
人の著述に日順師、日代師、日尊師の如き本尊思想(造仏思想)を見出せないこ
とである。(未完)


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