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本門の戒壇について

139直人:2007/02/26(月) 18:57:54
JINさん、こんばんは。

>明確に大石ヶ原と主張した法主もいた

日因師は大石寺31代、日宣師は大石寺44代ですね。この二師より後の大石寺歴代は天母戒壇を論じます。

戒壇の地を富士の天生山に撰び置き板本尊及戒壇堂の御真筆在り
(35代日穏師「五人所破抄一覧」富要4−P205)

後五百歳中広宣流布の金言虚しからずんば、上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、此を事の広宣流布と云ふ。其時、天皇陛下より勅詔を賜はり富士山の麓に天母が原と申す曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立(56代日應師「本門戒壇の大本尊縁由」應全P3)

それはともかく、私は大石寺でどのように論じられていたかというその事実を見つめ、語っているにすぎず、大石寺や顕正会のように戒壇建立地を大石寺である、いや、天母山であると論じるつもりはありません。

また、堀師が『富士日興上人詳伝』で大石が原を称賛しようとそれは一つの解釈です。では私はどうか。広宣流布が達成していない時点で戒壇建立地を論ずること自体、無意味だと思います。事実、日興上人は戒壇建立地を富士とするのみでそれ以上は言及していません。北山本門寺は『本門寺額』『本門寺棟札』を論拠に北山本門寺こそが戒壇建立地であるといい、大石寺は戒壇大御本尊のある大石寺こそが戒壇建立地であるといいます。けれど、両山が論拠とするものは偽筆・偽作であって論拠にはなり得ません。それぞれの論拠が失われている以上、戒壇建立地を論じること自体、日興上人の祖意から外れているものでしょう。
日興上人は大石寺系の僧侶と重須系の僧侶にそれぞれ本門寺の重宝を守護させており、このことを勘案すると日興上人は北山・大石寺、そんな分け隔てをせずに富士の麓に両山にまたがるような壮大な大戒壇を建立しようとしていたのではないでしょうか。その詳細は国主帰依の時、群議すべきであるとしていたものと考えるものです。このあたりのことを日順師は『本門心底抄』に「戒壇の方面は地形に随ふべし」といいます。


>『随宜論』に記載

『随宜論』はその存在は知っていますが眼福を得ていませんので態度を留保させて戴きます。

>主題+花押は彫刻文字…それとも法華経の経巻+御姿像のような形

さぁ、どうでしょうか。今となっては分かりません。『尊師実録』には「本門寺の本尊造立記文相伝」といい、上代においては戒壇本尊の形態、つまり、どの大漫荼羅をどのように形像化するのか、そうした相伝はあったでしょう。しかし、今日では散逸したのか伝わらず、明瞭を欠くことは残念な限りです。


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