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本門の戒壇について
135
:
直人
:2007/02/16(金) 18:42:09
JIN@霊○会さん、こんばんは。
>筆跡の違い、書風の違い(お家流)…
私が知っているのは小川師ではなく、高橋粛道師ですが、上掲の指摘は大石寺の僧侶であれば必ず指摘するところですね。私は役職云々を論じずに「興」字の1画目から13画目に注目し、同時期の日興上人の花押と対比しましたが、そのような書式のものは他に見えませんでした。
>堀米日淳氏等が棟札文を引用しておりましたが、堀氏の後、完全に後世の偽作
大石寺歴代の順でいえば、堀日亨師(59代)→堀米日淳師(65代)で、堀師はというと大正時代、既に『大坊棟札』を偽筆視していたでしょう。堀師が『大坊棟札』を真蹟と見ていたのであれば、「宗開両祖の書判に明文なきが如し」とは言わないでしょう。『大坊棟札』は偽筆ではあるものの天母戒壇は富士の正伝と認識していたのでしょう。
堀米師が『大坊棟札』を引用している(『日淳上人全集』p1637)ことは知っています。これは昭和34年の新年の挨拶で、堀師が亡くなった1年数ヵ月後となりますか。堀米師が真・偽の何れに立っていたかは分かりませんが、仮令、偽筆であっても記されている内容総てを否定するものではない、ということでしょうか。
何れにしても『大坊棟札』が積極的に偽筆であると論じられるのは昭和40年代以後、日達師代のことです。ちなみに、日蓮宗現代宗教研究所では、
「大石寺系教団は旧来、天母山を「国立戒壇」建立の地と定め、その地の獲得を目指していましたが、昭和四十五年の言論出版妨害事件を契機として、正宗と学会は国立戒壇建立の思想を破棄するに至り、大石寺こそが戒壇建立の地であると主張を転換しました。」(『顕正会』<Ⅱ>p25)
といいます。これは正鵠を射ているでしょう。事実、池田氏は天母山の土地25万8千坪を大石寺に寄進しているのであり、その背景には天母山周辺に戒壇を建立するという考えがあったのでしょう。でなければ、莫大な資金を投入してまで寄進する必要はないでしょう。けれど、妙信講問題が起り、そうした過程で『大坊棟札』は否定されるようになったのでしょう。
>日寛氏なども「天母山」説を文段等で採用していたようですが、後年、三位日順師の心底抄を引用
天母戒壇が見えるのは『報恩抄文段』で、『本門心底抄』を引用したものは『依義判文抄』ですね。余談となりますが日寛師が『本門心底抄』を引いた箇所は戒壇の在り方についての設問ですが、日寛師は『六巻抄』の中で両巻血脈書等の相伝書を種々引用しているのにどうしてここでは『本尊三度相伝』を引用せずに『本門心底抄』を引用したのか気になるところです。
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