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本門の戒壇について
1
:
野菊
:2003/10/09(木) 09:02
またまた新スレッド作ってしまいました。<(_ _)>
本門の戒壇というとすぐ国立だの富士山だのとなってしまいますが、
私は一番重要なのは、自誓戒ということが本門の特徴だと思うのです。
偉い坊さんから授かるのではなくて、自らすすんで御本尊に誓う。
折伏といえどもこの例外ではなくて、説き伏せて、泣き脅して(笑)
某教団などとは違い、我々はそんなことはしませんが、そんな方法で会員を
増やしたところで、他人に強制されて立てた誓いでは本門の戒壇ではないわけです。
どうでしょう?
103
:
直人[TRACKBACK]
:2004/04/27(火) 14:28
>>98
の続き
富士戒壇思想の初見は日興上人であることを
>>98
に記した。しかし、日興上人以降の
興門においては戒壇論が論議されていないようである。それが史料の散逸によるものか、
或いは、実際に戒壇論議が行われなかったのかは定かではない。大石寺中興の祖と仰
がれる日有師も戒壇論には何ら言及しておらず、興門において戒壇論が再び見られるの
は日教師の「類聚翰集私」においてであった。
天生原に六万坊を立て法華本門の戒壇を立つべきなり(富要2−P323)
かかる戒壇思想は純粋な大石寺教学とは云い難い。否、むしろ、かかる戒壇思想は要
法寺教学と云うべきであろう。なぜなら、六萬坊思想は「百六箇抄」後加文に見られるから
である。
四大菩薩同心して六萬坊を建立せしめよ、何れの在処為りとも多宝富士山本門寺上行
院と号す可き者なり時を待つ可きのみ云云。(宗全2−P29)
この後加文を大石寺思想とすることは決してできない。なぜなら、「多宝富士山本門寺上
行院」とは大石寺ではなく、要法寺の前身である上行院をさすものであるからである。したが
って、「百六箇抄」は宗祖滅後100年代に尊門において偽作され、それが文明十一年、日教
師に相伝されたことによって日教師の著書に「百六箇抄」の如き戒壇思想が見られるのであ
ろう。
六萬坊・天生原戒壇思想は顕正会の根本教義とも云えるがかかる戒壇思想の根源が要法
寺義である以上、顕正会の戒壇論は何ら根拠をなさないものとなろう。とは云え、要法寺義を
継承―もっとハッキリ云えば要法寺亜流なのは大石寺そのものかもしれない。例えば、空き缶
氏が云われるところの、
この板本尊を代代受継いでいる大石寺の管長は「生身の釈迦・日蓮」なんだそうです
(
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/3171/1070036052/r13
)
という思想は決して大石寺本来の立義ではない。かかる思想の根源は要法寺である。大石寺
が9代100余年間にわたって要法寺から貫首を迎え入れていたことはあまりにも有名である。要
法寺出身の日舜師が大石寺19代として貫首職に就こうとした際、若年だったため、大石寺檀徒
が反発した経緯がある。その際に日舜師援護策として法詔寺日感師(要山僧)が、
其の器量の善悪を簡ばず、但相承を以って貫主と定められ候、故を以つて一山皆貫主の下
知に随い、貫主の座上を蹈まざる事悉く信の一字の修行にて候釈迦日蓮代代上人と相承の
法水相流れ候えば、上代末代其の身の器は替われども法水の替わる事少しも之れなく候、
此くの如く信ずる時は末代迄も仏法松柏の如くにて、常に寺檀仏種を植え、三宝の御威光鎮
えに於閻浮提広令流布は疑いなき事に侯、此の旨を相知り侯上は如何様の僧貫主となると
も相承伝受候上は、生身釈迦日蓮たるべきこと開山の御本意一門徒の肝要にて御座候
(富要5−P271)
と述べたのが発端である。かく云うと「御本尊七箇相承」の「代々の聖人悉く日蓮」との文を持ち
出してくる人がいるだろうがそれは通じない。そのことの詳細は『大石寺教学の研究』所収「御本
尊七箇相承の考察」において記しておいた。(この稿続く)
104
:
直人
:2004/05/06(木) 18:40
>>103
の続き
日教師の時代の大石寺貫首は日鎮師であるが『日蓮正宗歴代法主全書』によれば、《鎮院
主》の三師からは戒壇思想を窺うことはできない。
ところで、大石寺の所伝によれば、日院師と同時代に生きた日辰師は「御書抄・報恩抄下」に
おいて、
日本一同に順縁の広宣流布の時上行等の四菩薩国王国母大臣導師と成て寿量の妙法を
弘通し玉ふ時富士山の西南に当たりて山名は天生山と号す此の上に於いて本門寺の本堂
御影堂を建立し岩本坂に於いて二王門を建て六万坊を建立し玉ふべき時彼の山に於いて
戒壇院を建立(達全2−5−P334)
と述べている。六萬坊思想は「百六箇抄」後加文にも記されている如く明らかに要法寺義である
と断じてもよいが、天生原(天生山)戒壇思想は決して要法寺本来の戒壇思想とは思えない。
天生原戒壇思想の先駆者である日教師でさえ尊門時代には六萬坊思想に留まっており天生原
戒壇思想を展開していない。
此戒院は広宣流布の時御崇敬有り、最も六万坊を建立有るべしと(富要2−P220)
日教師が天生原戒壇思想を展開したのは富士の方面へ行った後である。「御書抄・報恩抄下」
は書籍になっていないようで私にはその詳細はわからないが、大石寺の所伝によれば、日辰師は
1558年から2年ほど重須に滞在していたようである。この時期に記したのが件の「御書抄・報恩抄
下」であると云うのである。日教師・日辰師が何れも富士(重須)において天生原(天生山)戒壇思
想を展開しているのは単なる偶然ではあるまい。天生原(天生山)戒壇思想は要法寺義でもなく、
大石寺義でもない富士の伝承であったと考える方が賢明と思うのは私だけであろうか。
(この稿続く)
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