[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
本門の戒壇について
134
:
JIN@霊○会
:2007/02/16(金) 10:15:32
直人さん、
ご返信いつもありがとうございます。
>日興上人の筆蹟であるとは思えませんでした。
妙観講指導教師の小川僧侶が「堀ノート」を提示して宗門の見解を明確にしてるようですね。
筆跡の違い、書風の違い(お家流)、南条氏の役職、日興日目の連盟の花押の不自然、
興尊の「興」の字の間違い、上棟時の日時の間違い等から徳川時代に作られたものと断定されてます。
「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊かなるふうにて薬研彫りにせるも文句は全く棟札の例
にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみにて、また棟札の意味なし。ただ頭を角に切りて縁をつけた
ることのみ棟札らし」
確かに以前は、「丑寅勤行」の証文として、堀米日淳氏等が棟札文を引用しておりましたが、
堀氏の後、完全に後世の偽作だと断定がなされたようです。
戒壇建立の場所を明確にしたのは、石門では、やはり堀氏ではないでしょうか?
「日興上人詳伝」において、「四神相応の勝地」として大石寺を建立地として定めてます。
「まさに四神相応に近からずや。富士四山(重須、下条小泉、西山)の地勢は、大いにこれに遠きにあらず
や。おのおの、その開基時代相地の用意・不用意、深く味わうべきことで、ことに我れら開山日興上人・開基檀
那南条時光の、遠き未来を鑑みての十二分の御用意に感謝すべきである」
また、直人様のご提示の通り、大石寺では要法寺より稚児を寺主としてスカウトしておりましたが、
論客日振氏が北山等で学んだ天母山説が、そのまま要法時の見解となり、
その要法寺系僧侶から自然に大石寺教学に浸透して行ったかと思われます。
ちなみに日寛氏なども「天母山」説を文段等で採用していたようですが、
後年、三位日順師の心底抄を引用して、(六巻抄)
「戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後
難を招くあり、寸尺高下註記する能はず」
とされ、
「「若経巻」とは即ち是れ本門の本尊なり、「皆応起塔」とは本門の戒壇なり、
故に此の文意は本門の本尊所住の処に応に本門の戒壇を起つべし。」
と、天母山説→後世の人間が決定→戒壇本尊所住の地と意見が編纂しております。
>ある時は至上命題と位置づけておきながら、ある時は「ひとつの石碑…従の従…形式の形式」
>というのは如何なものかと思いますが。
最初は至上命令と信じていたものの、実は信ずべき対象が全てまがい物であることを気がついたのだと、
主張する方もいます。いずれにせよ、虚飾を剥ぎ取り、真実の教えが誰人にも平等に
拝聴できる日が待ち遠しいです。まずは勉強ですね。^^
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板