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本門の戒壇について
79
:
野菊
:2003/11/21(金) 04:38
御本尊に関して思うこと
田中智学先生 日蓮主義教学大観一より
予は考えるに、聖祖認めたまふ所の御本尊は御一生中ただ一通あるのみである。
そは文永十年七月八日佐渡一の谷においてお認めあったのがそれである。
而しておそらくこの時表裏二面(義学上)の御認めがあったものと推考し奉る
ことができる。その一は四聖歸命の式、その二は總歸命の式である、「元祖化道記」
等の傳説に「總歸命」とあるは即ち内観の邊より書かせたまひしもの、若し、教化
の票式としては因果の正しき目安に乗けたる、六道には歸命を省きたまへる、四聖
歸命の御本尊である、建治、弘安の御本尊は具略の差はありとも、みなこれを寫さ
せたまひしものである。以下省略
==================================
長いのと、漢字の変換が難しいので省略しました。
要は、智学先生は、これ以降の曼荼羅もご聖人が顕されたものは、すべて
この佐渡始顕の模倣というか、変化したもので、基本は佐渡にあり
ということだと思うのですが、それも含め全部で7つの本尊を佐渡始顕とする
理由を述べていらっしゃいます。
佐渡始顕の実物その物は発見されていない訳で、書体を真似てみたとろろで
ご聖人の直筆ではありませんから、智学先生は書体など真似しないと思います。
真似すべき、尊ぶべきは、板切れでも書体でも無く、ご聖人の精神であり、
信仰するのは、本佛のお悟りの世界、大曼荼羅の世界であります。
板や紙に書かれた文字を拝むのではありませんから、例えご聖人の直筆、
本物の板曼荼羅であったとしても形見として、また、文化財として尊くても
それゆえに教えが正しい、ご利益があるというものでは無いと思います。
私は私の目の前にある小型の御本尊で充分であります。
要は、その御本尊に向かいお唱えするお題目が重要であると思います。
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