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本門の戒壇について

104直人:2004/05/06(木) 18:40
>>103の続き

 日教師の時代の大石寺貫首は日鎮師であるが『日蓮正宗歴代法主全書』によれば、《鎮院
主》の三師からは戒壇思想を窺うことはできない。
 ところで、大石寺の所伝によれば、日院師と同時代に生きた日辰師は「御書抄・報恩抄下」に
おいて、

  日本一同に順縁の広宣流布の時上行等の四菩薩国王国母大臣導師と成て寿量の妙法を
  弘通し玉ふ時富士山の西南に当たりて山名は天生山と号す此の上に於いて本門寺の本堂
  御影堂を建立し岩本坂に於いて二王門を建て六万坊を建立し玉ふべき時彼の山に於いて
  戒壇院を建立(達全2−5−P334)

と述べている。六萬坊思想は「百六箇抄」後加文にも記されている如く明らかに要法寺義である
と断じてもよいが、天生原(天生山)戒壇思想は決して要法寺本来の戒壇思想とは思えない。
天生原戒壇思想の先駆者である日教師でさえ尊門時代には六萬坊思想に留まっており天生原
戒壇思想を展開していない。

  此戒院は広宣流布の時御崇敬有り、最も六万坊を建立有るべしと(富要2−P220)

 日教師が天生原戒壇思想を展開したのは富士の方面へ行った後である。「御書抄・報恩抄下」
は書籍になっていないようで私にはその詳細はわからないが、大石寺の所伝によれば、日辰師は
1558年から2年ほど重須に滞在していたようである。この時期に記したのが件の「御書抄・報恩抄
下」であると云うのである。日教師・日辰師が何れも富士(重須)において天生原(天生山)戒壇思
想を展開しているのは単なる偶然ではあるまい。天生原(天生山)戒壇思想は要法寺義でもなく、
大石寺義でもない富士の伝承であったと考える方が賢明と思うのは私だけであろうか。
(この稿続く)


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