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日本茶掲示板同窓会

1匿名:2014/07/28(月) 04:40:24
告知失礼します
スレ立てしました
2chなので匿名で良いと思うので(もちろんHN付きでも可)来て下さい


日本茶掲示板同窓会
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/kova/1405456563/

86キラーカーン:2017/07/10(月) 00:49:08
6.2.2.4. 安倍氏の総裁返り咲きと総選挙での自民党勝利による総理返り咲き
6.2.2.4.1. 安倍氏の自民党総裁返り咲き
 2012年9月、谷垣総裁の任期満了に伴う総裁選挙が行われた。2010年の参議院選挙で改選第一党の座を奪回しており、このまま、民主党政権の支持率が低迷すれば、次の総裁任期中に行われる次期衆議院総選挙において第一党及び政権奪回も夢ではないため、この総裁選は「影の総理」に留まらず、「次の総理」を選ぶという性格も帯びていた。

 現職の谷垣総裁(当時)は、当然、再選に向けて動き出していた。しかし、執行部から石原伸晃幹事長(当時)も出馬に意欲を示しており、結果的に、石原幹事長が谷垣総裁を蹴落とす形で、宏池会ほかの支持を取り付け、谷垣総裁は出馬断念に追い込まれた 。安倍元首相も、所属派閥である町村派(清和会)の町村会長が出馬に意欲を示した中で出馬を表明し、清和会も事実上の分裂選挙となった。

 総裁選の結果、地方票300票の過半数を獲得した石破元防衛大臣が一位となったが、国会議員票も含めた総投票数の過半数に達せず、二位の安倍氏との決選投票となった。決選投票は、自民党所属国会議員のみで行われるため、国会議員票で石破氏より優位にあった安倍氏が逆転で自民党総裁の座を勝ち取り、自民党総裁に返り咲いた。一度退任した総裁が返り咲くのは自民党史上初のことである。

87キラーカーン:2017/07/10(月) 00:50:08
6.2.2.4.2. 安倍氏の政治的位置とその特質
 安倍氏は岸信介を源流とする自民党の中でも右といわれる清和会出身でもある。また、母方の祖父である岸信介氏の影響も否定していない ことから、自民党の中でも右派といわれている。

 我が国で国会議員を輩出した政党の中では、自民党が一番「右」に位置する時代が長い。このため、自民党内で「右」ということは、野党を含めた我が国の政治地図では一番右に位置することを余儀なくされるため、「極右」、と評されることも珍しくない。昨今の「ネトウヨ化」と言われる日本社会の状況もあり、自民党でも「右」に位置する安倍総理は「ネトウヨ」ともいわれることがあり 、現に現在に至るまで、左派・リベラル勢力からは「ネトウヨ総理」と称されることが少なくない。

 この結果、「河野談話」に代表される自民党の「リベラル派」には飽き足らないネトウヨ層の中でも、「自民党の右」である安倍首相であれば許容範囲である割合は高いと見受けられる。それは、「自民党の右」に位置する政党(太陽の党⇒維新(石原派)⇒次世代の党⇒日本の心を大切にする党)の党勢がジリ貧になり、現在では消滅の危機にある事もその傍証である(本来なら、これらの政党を支持する層が自民党支持へ「移行」している)。また、「反朝鮮半島」という特質を持つネトウヨ層にとって、北朝鮮による拉致問題にも尽力したという「実績」も安倍総理を支持する要因となっていると考えられる(「4.1.2.2. 安倍晋三氏を一躍小泉後継に候補に押し上げた拉致問題への対応」参照)

88キラーカーン:2017/07/10(月) 00:52:18
6.2.2.4.3. 総選挙での自民党の勝利(政権奪回)と安倍氏総理返り咲き
 安倍氏の総裁返り咲き当時、衆議院議員の任期は残り一年を切っており、近々に、政権選択選挙となる衆議院総選挙が行われることとなっていた。民主党政権は、支持率が低迷し、政権発足直後の勢いがなかった。したがって、衆議院の任期が残り1年を切ったこの時期で自民党総裁に選出されれば、遠からず行われる総選挙において衆議院第一党の座の奪回し、首相の印綬を帯びる可能性が少なくなかった。

 2012年12月に行われた総選挙で、当初の予想通り、自民党は過半数を制し3年ぶりに政権に返り咲いた。そして、自民党総裁の安倍氏は首相に指名され第二次安倍内閣が発足した。安倍氏は、日本国憲法下で総理に返り咲いた初の人物となり、日本国憲法施行前の「戦後」を含めても吉田茂 氏以来の総理返り咲きとなった。
戦前で首相に返り咲いたのは、伊藤博文、山縣有朋、松方正義、大隈重信、桂太郎、西園寺公望、山本権兵衛、若槻礼次郎及び近衛文麿の9人である。対象を組閣の大命を複数回受けた者まで広げても「鰻香内閣 」で一度は大命拝辞の憂き目にあった清浦圭吾が加わるだけである。いずれも、当時の日本政界を代表する(超)大物政治家である。

 安倍総理は、自民党内でも「右」に位置する政治家といわれているように、所謂「東京裁判史観」には批判的であり、自民党の野党時代にはそのような発言も行ってきた。安倍氏が総理に返り咲いた時点で、反安倍の左派は、「慰安婦問題の国際化」の夢再びとばかりに、安倍首相が「極右」或いは「歴史修正主義者」という国際キャンペーンをしてもらうべく、外国報道機関に対してアピールを行い、安倍首相の国際的評判を落とそうとしていた 。

 実際、安倍氏の総理返り咲き時の米国は、リベラルの民主党政権(オバマ大統領)であったこともあり、総理返り咲き直後の安倍総理に対する警戒感は強かったといわれていた。基本的にリベラルな米国マスコミもそのような論調で報道し、米国民主党政権内部でも
そのような見方が強かったとされている。

 安倍総理の「戦後レジームの見直し」という発言を捉えて、安倍総理は「歴史修正主義者」 とレッテルを張られることもある。「歴史修正主義」という語はホロコーストとの関連で注目を浴びたため、この言には親ナチという含意を帯びることとなっている。この結果、「歴史修正主義」という語は「ナチ(ス)」と同義として使われることも多く、論敵に対する「レッテル張り」として使われることが少なくない。そのため、安倍氏は、総理返り咲き当時、欧米から警戒されていたといわれている 。

 そのような中、安倍総理は長期安定政権となるとともに、着実に(特に外交分野において)実績を重ね、「戦後70年談話」、慰安婦問題の「不可逆及び完全な解決」、オバマ大統領との広島と真珠湾の相互訪問を実現させ、「戦後70年」の節目に相応しい「和解」を演出した。

89キラーカーン:2017/07/10(月) 00:52:35

 また、米国大統領選挙後は、トランプ新大統領との親密な関係等、長期安定政権を背景にして外交実績を上げつつある。その大きな転機となったのが、安倍総理訪米時の議会演説であった。
 皮肉なことに、安倍外交の「成果」はネトウヨ層からの異論も強い。特に慰安婦問題については、「慰安婦問題で、『最終的かつ不可逆』という文言が盛り込まれても韓国が合意を履行するわけがない 」とネトウヨ層から批判され、更に、合意により10億円の出資を決定したことから「韓国に妥協した」とネトウヨ層からの批判を浴びることもあった。

 第二次安倍政権は、現在のG7において一番の安定度を誇るといっても過言ではない。G7首脳で安倍氏よりも先任のオランド仏大統領、メルケル独首相の両名は2017年に選挙の洗礼を受ける。仏大統領選にはオランド大統領が不出馬のため大統領選挙後には退任する。このため、独総選挙でメルケル首相が敗北すれば、第一次安倍政権を含まなくても、安倍氏が最先任となる。

 また、岸田外相もG7の外務大臣では最先任 となっていることを活かして、少なくない外交成果を上げている安倍政権である。
このように、近年の我が国の内閣では例を見ないほどの安定度を誇る第二次安倍政権であるが、その第二次安倍政権をもってしても依然として懸案として残っているのが、中国の南シナ海・東シナ海進出、特に尖閣諸島への進出及びロシアとの北方領土問題である。また、朴槿恵韓国大統領弾劾を契機とした韓国の政情不安もあり、韓国との「不可逆かつ最終的な」解決であったはずの慰安婦問題を含め、歴史認識問題全般においても先行きが不透明となっている。

 とはいっても、国内では「安倍一強」とまで言われる状況であり、野党第一党である民進党の支持率も10%内外で低迷している。このため、このままの状況であれば、安倍氏は自民党総裁の3期9年の任期を全うし、2020年の東京オリンピックはおろか、100年以上にわたって更新されなかった我が国の総理大臣在任期間を更新することが確実視されている 。

90キラーカーン:2017/07/13(木) 23:26:45
6.2.3. 「無党派」から「維新」そして「都民ファースト」へ(「分断の固定化」)
6.2.3.1. 総説
 地方自治体レベルでは、昭和50〜60年代(1970年代後半〜1980年代)になって首長(知事、市町村長)選挙において「与野党相乗り」 が珍しくなくなった。この結果、県知事は「(共産党を除く)オール与党」ということも珍しくなくなった。このような状況であれば、国会のように「与野党対立」という構図もなく、知事と議会が大統領制下の「分割政府」のように対立関係になることもない。その結果、自治体の政治は円滑に遂行される。
 当時はオイルショック以後の「安定成長からバブル景気へ」という時期であり、また、「3割自治」といわれるように国と地方自治体との権限の差が大きかった。更には、1960年代〜70年代の「革新知事」 の時代を経て、特に都市部において、自民党の力が弱まり、所謂中道勢力(公明、民社両党)の協力を得なければ自民党と雖も知事選に勝利できないという現状もあった。

 このような経済的、制度的背景から、首長と議会との対立よりも、両者の協調によるコンセンサス方式での当該自治体の利益極大化という手法が有効とされていた時代である。この結果として「与野党相乗り」が多く、その点では争点に欠け「無風」となる知事選挙が多かった 。

 その中で、議会の支持を当てにせず、首長自身の個人的な人気を背景に、議会(政党)と独立した存在として知事の座を目指す動きがあった。このような背景を持つ「無党派首長」であるので、所謂「タレント候補」と親和性が高く、結果として「タレント首長(知事)」として一世を風靡したのもそのような背景を持つ者であった。

 しかし、1990年代頃から、「オール与党」ではない、それどころか「オール野党」という首長が誕生するようになった。そのような首長は、自治体統治を個人的人気に頼らざるを得なくなる。そのため、議会との「対立」を演出して「反議会」という観点で住民の支持を得ようとする。その結果、大統領制における「分割政府」或いは我が国の国会における「ねじれ国会」というような「決められない政治」が出現した。

 また、意図的にそのような「膠着状況」を作り出し、首長選挙を事実上の「住民投票」とすることで、その投票結果を「直近の住民の意思」として議会に押し付け、事実上、議会の意思を無視するという手法を採る首長が現れた。そのような「改革派首長」の中で、最も洗練かつ苛烈な手法を採り、「一斉の風雲児」となったのが、橋下徹元大阪府知事・大阪市長である。その系譜は小池百合子東京都知事にも引き継がれている。

91キラーカーン:2017/07/19(水) 00:37:40
6.2.3.2. 「きっかけ」としての無党派知事(青島東京都知事、横山大阪府知事)
6.2.3.2.1. 「無党派」の衝撃(1995年)
 「無党派知事」或いは現在の「改革派知事」の直接の祖先は、先に述べたとおり、青島都知事及び横山大阪府知事の両名であるとするのが、現在からの視点では妥当であろう 。

青島、横山両知事もタレントしての知名度を生かし、全国区時代の参議院で政治家生活を開始した「著名なタレント議員」として政党や派閥といった組織に依存しない「個人票」を持つという共通点を持つ 。また、両者とも、知事選挙への出馬に際しては、現状の都政、府政への「異議申し立て」として立候補した経緯があり、議会の支援は受けないというよりも得られなかった状態で知事選への出馬を表明した(政党推薦の知事候補が彼らとは別に立候補した)。

 当時(1995年当時)、東京及び大阪両知事選は統一地方選挙の一環として行われていた。このため、当然のことながら、我が国を代表する二大都市圏である東京及び大阪両知事選は統一地方選挙の「目玉」であり、その結果は「政権の中間評価」 として国政へ与える影響が無視できないものであった。

その1995年の統一地方選挙で、東京と大阪の「二都」で、同時に政党推薦候補を破り、政党の支持を得られなかった「無党派」の知事が誕生したことは、政界のみならず、一般社会にも大きな影響を与えた。その影響度の大きさから、「無党派」という語が「流行語大賞」の年間大賞に選ばれた。この時、政党或いは議会と無関係の「アウトサイダー 」が首長となった場合の自治体における「二元代表制」の有効性について日本国憲法体制が試されることとなった。

6.2.3.2.2. 当選後の青島、横山両知事
 このような立候補〜選挙戦の経緯から、青島、横山両知事とも当選後の議会との関係は良好とはいえなかった。青島都知事はすでに秒読み段階に入っていた「世界都市博覧会」を「ドタキャン」に近い形で中止し、横山府知事は大阪府の財政赤字に苦しんでおり、その課題を解決するために議会との関係構築に労力を割いた。

 青島都知事は都市博中止後、議会との対立から目立った実績が残せず、一般的には「選挙に一番強い 」ともいわれる二期目の出馬断念に追い込まれた。横山府知事は対照的に、財政再建などで一定の成果もあげ、ボケ役として名声を築いた「タレントとしてのキャラ」もよい方向に作用し、議会との関係構築に成功した。元々府民からの人気も高かった横山府知事は再選時には、圧倒的な人気を誇り、共産党を除く既成政党が軒並み「不戦敗」に追い込まれ 、信任投票的な選挙戦で再選を果たした 。

 いずれにせよ、現在の、(既成)政党に支持基盤を置かず、個人的な人気を頼りに自治体統治を行っていく「改革派首長」或いは「劇場型首長」といわれる政治家の原型は青島都知事、横山大阪府知事の両名に求めることは妥当であると考える。

92キラーカーン:2017/07/19(水) 00:39:11
6.2.3.3. 「改革派知事」への変化(田中康夫長野県知事)
 青島及び横山両知事が無残な形で知事の座から去り、「無党派知事」も政治改革のあだ花となるかと思われたが、「二元代表制」あるいは「議会とのしがらみがない」ということを活かして、首長の立場で(旧体制の代表である)議会と対立しながら地方政治を改革するという「改革派知事(首長)」 という形で無党派知事は再生を果たした。そのような議会或いは既成政党との対立姿勢を明確にした首長は田中康夫長野県知事(当時)が嚆矢とされる。

 政治家或いは政治運動家としての田中氏の出発点は神戸空港建設反対運動といわれている。その際の運動手法は政党に頼らない署名運動であり、その手法に共鳴した人々の要請を受けて、小学校から高校までを過ごした長野県知事選挙に出馬することとなった。選挙戦では、(共産党を除く)与野党相乗りの候補を破り当選したという点も、青島、横山両知事を彷彿とさせるものであった。

 知事としての田中知事の施策は
① 公共事業の削減
② 県職員(公務員)の削減と民間人の登用
③ 住民集会など「直接民主主義」的手法の採用
というものであり、これらの手法は、国政、地方政治問わず、「改革派」といわれる政党、政治家が常用する手段となっていく。

 これらの手法は、「税金の無駄遣い」や「住民の声を直接聞く」という住民の支持を得るための「定番」といってもよい政策パッケージであるため、就任当初は田中知事の支持率が高かった。そのため、議会との対立が深刻化し、知事不信任案が可決を受けての知事選挙でも当選することができ、4年後でも再選できたということも、首長の選挙は再選時(し就任4年後)が一番強いという経験則を補強する。

 しかし、個人的人気に頼る政治手法は、一歩間違うと批判を許さない独善的な政治手法へとなり民衆の支持が離れ、最終的には権力者の座から追われる事例も、古今東西少なくない。田中知事も、その例に漏れず、三選出馬時には共産党以外の政党が田中知事から離れていった。その結果、三選は果たせず、知事の座を追われることとなった。

 田中氏は、その後、長野県知事時代に立ち上げた「新党日本」代表として国政に転出した。田中氏は、既成政党には属さず、自身が設立した「個人商店」的政党である「新党日本」所属議員 として活動したということにも、「個人の人気」に頼る政治手法の限界が垣間見える。

93キラーカーン:2017/07/21(金) 00:24:56
6.2.3.4. 二元代表制のリスクの現実化-鹿児島県阿久根市
 21世紀を目前にして青島、横山両知事が自治体政治の表舞台から退場し、田中知事も国政へ転身し国会議員の中に埋没した。その後、議会や既成政党の支援と無縁な「無党派」の衣鉢を継ぐ首長はしばらく出現しなかった

 青島、横山、田中と続く首長(知事)と議会との対立による政治停滞のリスクは認識され始めていたが、現実のものとはなっていなかった。その、二元代表制のリスクが現実のものとなったのは都道府県ではなく、市町村のレベルであった。その場所は鹿児島県阿久根市であった。阿久根氏は、市政刷新を掲げる竹原信一市長(2008年当選)と市議会との対立が表面化しつつあった。市政刷新のためには市議会との対決姿勢が必要であるとの竹原市長の政治姿勢によって市長と市議会の対立が引きこされた 。

 この結果、阿久根市政は市長不信任による市議会解散と再不信任による市長選挙 、或いは、市議会を開会せず、「閉会中」を理由とした市長の専決処分(議会の同意を得ない首長の決定)の乱発により、市長派と反市長派との対立の中、市政が停滞した。

 阿久根市の場合は、結局、市長選挙と議会選挙との応酬の結果、2011年の市長選での竹原市長の退場という形で決着した。しかし、公選首長が、その「民意」を背景に持てる権限を発揮すれば、少なくとも議会の「思い通りにはならない」ことが証明され、自治体の統治が停滞することが明らかになったのであった。

94キラーカーン:2017/07/22(土) 00:53:41
6.2.3.5. 「最終形態」としての「橋下維新」(「大統領民主主義」の失敗)
6.2.3.5.1. 総説
「無党派知事」といわれたように、青島都知事や横山府知事は、主要政党からの支持・支援を得られなかったが、両知事とも議会との対立ありきではなかった。勿論、選挙戦の経緯から議会の支持を得るのは、それまでの「相乗り知事」に比べれば困難であったとは思われるが、両知事は自身の個人的人気を交渉資源としつつ議会との妥協点を見つけようと模索はしていた。特に横山府知事は就任後も個人的人気が高かったことから、「ノックのいうことなら」という体裁で、議会との妥協も成立していた(その結果が、横山府知事の再選時における共産党以外「不戦敗」という空前絶後の「大金字塔」である)。

 しかし、橋下氏に代表される最近の首長は、意図的に議会を「既得権益の団業集団」として「敵」として認定し、首長対議会という対立構造を作り出し、「善玉(首長)対悪玉(議会)」の構図を作り出そうとしている。そして、そのようか形で作り出した「構図」により、「反議会」という形で、自身への支持を調達し、首長の権限により、議会の意思を無視する「正当性」を調達しようとしている。

 そして、そのような構図は「敵と味方」の分断を固定化し、その決着或いは安定状態は、どちらか片方の消滅によってしかありえないという結末を導きやすい。 その2派による「仁義なき戦い」を引き起こし、合議制を基盤とする民主政治とは相性が悪い。

 また、独任制の首長と合議制の議会とでは、意見の集約・決定に要する時間が決定的に異なる。というよりも、「独任制」の首長に「合議」は存在しない。このため、迅速な決定ができる首長側の方が「対決」の争点設定のイニシアティブを執り易い。また、二元代表制では、首長選挙により全ての選択肢が首長個人に集約される。このことから、「○×式」の単独争点型で」、二者択一を迫る手法は、(合議・熟議を旨とする議会よりも)独任制の首長とも親和性が高い。このため、機会をとらえて、住民投票や自身の辞任による首長選挙に訴えかけるという誘因が存在する。

 Jリンスをはじめとする政治学者が主張するように 、米国と同じく大統領制を採用している南米諸国では、クーデター等により民主政治の中断を経験している。大統領権力を巡って「敵か味方か」に国民を二分する大統領制と個人的野心・利益追求が結びつけば、国全体が大統領派と反大統領派との間で「仁義なき戦い」という状態となる。そうなれば、敵対勢力への暴力的弾圧から壊滅という手段の行使につながりやすい。その結果、国民との間の亀裂を増幅・修復不可能までに確固たるものとなってしまうため、民主的手段ではなく「暴力的手段」による政権交代への誘因が存在するというリスクが大統領制には存在するといわれている 。

 本節では、
① 平成の初期に出現した旧来の政治構造と異なる「アウトサイダー」として現れた「無党派(知事)」から議会との対立構図を演出する「劇場型首長」への「発展」
② 小選挙区制導入をなどの「政治改革」が、地方自治体の二元代表制に対してどのような影響を及ぼし、その「(現時点での)最終形態」である橋下徹氏に至ったのか

について、簡単な考察を試みる。

 最後に、橋下氏は「右」や「ネトウヨ層の受け皿」とされることがあるが、政治家としての橋下氏の姿勢は、「如何にして首長として『権力』を握るか」ということが最重要目的である。この点から見ても、橋下氏は基本的に「ノンポリ」であり、自身が権力を握るためであれば誰とでも連携するし、誰でも「敵認定」する。小池都知事に対するツイートも維新と支持者層が競合するが故の「主導権争い」と見れば分かり易い。その一端を慰安婦問題や桜井誠在特会会長(当時)との討論を通じて、明らかにしたい。

95キラーカーン:2017/07/24(月) 00:41:05
6.2.3.5.2. 「橋下維新」による大阪支配と分断の固定化
6.2.3.5.2.1. 総説
 国政レベルでの小選挙区制導入による自民党総裁への権力集中、地方自治体レベルでの「無党派・改革派首長」という1990年代以降の我が国の政治潮流は、内閣総理大臣及び首長の「大統領制化」(≒議会との対立と均衡)という点では共鳴し合う部分があった。そして、議院内閣制と小選挙区制の下で議会の絶対多数を掌握した執政府の長(首相及び首長)の一身に集中する権限の強さは、まさに「大統領制化」と表現するにふさわしいものである。

 このような二元代表制の利害得失を知り尽くし、「大統領制化」の流れに乗り、自身の首長としての権力を極大化させ、政界でも一代の風雲児となったのが、橋下徹元大阪府知事、大阪市長である。橋下氏は、天性の「討論の強さ」があり、首長(個人商店主)向けの資質を持った人物である 。

 橋下氏は、「反○○」で民衆の支持を集め、それを背景に相手の「殲滅」を図るという政治手法を常用した。そして、その支持を背景に権力を自身に集中させた。そのため、彼らの政治手法は「対決する政治」或いは「劇場型政治」と表現されるようになった。
橋下氏の手法が、それまでの「無党派・改革派首長」と決定的に異なるのは、自身が中心となって与党を結成し、議会多数派を占めることを最終目的とした点であり、そのことによって、首長絶対優位の政治状況を現出させようとしたことである。それは、国政レベルで「郵政解散」により絶対多数を握り、自身の権力基盤を確固たるものとした小泉首相と重なる部分が多い。

 国政レベルでの「決められる政治」を求めた「政治改革」を二元代表制の下で追及する橋下氏の政治手法の一環として「維新」対「反維新」の分断が固定化され、後者が前者に殲滅されようとしているのが現在の大阪の政治状況である。

96キラーカーン:2017/07/24(月) 01:00:32
6.2.3.5.2.2. 橋下氏の政治手法
橋下氏の政治手法は箇条書きにすれば
① 「敵」を作り出す
② 作り出した「敵」への住民の憎悪を煽る
③ 「敵」を倒すために首長である自分に「民意」という「全権委任」を求める
④ その「全権委任」によって、敵を滅ぼす
⑤ 滅ぼした敵の権限は橋下氏が握り、「全権委任」として「裁量」最大限に拡大
というものである

 まさに「敵か味方か」、「敵は滅ぼさなければならない」という政治手法を採り、敵を打破して獲得した権限は橋下氏が独占して行使するという、「弱肉強食」、「勝者総取り」の政治手法である 。そのような政治手法を否定した(敗者の円満な退場と「敗者復活」の機会を与える)上に成立している現代の政治手法にはそぐわない のは火を見るより明らかである(特に比例代表制を採っている場合、現在の社民党や共産党のように、少数会派の「完全殲滅」は困難である)。

 橋下氏は「民衆の興味は長続きしない」、「(損切のうまさ(損得勘定のうまさ)」を二大特徴とする政治家である。前者については、まず、「派手な政策」打ち上げる。そして、実際は裁判闘争なので、「取り消し処分」や「間違い」となることが多いのだが、
① その決定は年単位の時間を要する
② その決定は、最初に打ち上げた程には大きく取り上げられない
③ 決定がなされたころには民衆の注目度が消滅しているか小さくなっている
④ 「嘘」をつくコストの方が「嘘を暴く」コストより格段に小さい
 (「嘘をついたもの(逃げ切り)勝ち」ということが往々にして生ずる)
という理由により、自身間違いが「隠蔽される」ということを熟知している。

 また、「損切のうまさ」とは、
① 自身にとって本質的でない部分での不祥事はさっさと認める
② 後に尾を引かない形で「大げさに謝罪する」
という手法で、それ以上の追及を避ける。
これは、先の「長続きしない」とも関連するが、一度「大げさに」謝罪すれば、それ以上追及するほどの「持続力」を民衆は持っていないということを逆手に取った手法である。したがって、継続的に「燃料」を投下して、民衆の興味を長期間継続させないためにも、「最初に」、「大げさ」に謝罪することは必要となる。それと、橋下氏自身の「弁舌のうまさ」とが相まって、自身の失政を追及されない一因となっている。

 その、「橋下的」政治手法の最たるものが「再選を目指さない」というものである。
橋下氏は政治家になるということは「権限を行使する」こと自体が目的であり、そのためには嘘をついても構わないということは公言してきたことである 。そして、その「嘘」が露見しないために、「短期決戦」で民衆の目先を変えるという手法を採っている。その「短期決戦」と公開討論というのは相性が良い(限られた討論時間の中で「嘘」がばれなければそれで「勝ち」である。討論終了後に「嘘」が明らかになっても意味がない。また、嘘をつくよりも嘘を暴く方が多大な労力及び時間を要するという点も、時間が限られた「公開討論」の中では、「嘘をつく」側にとって有利に働く。

 このことから導き出されるのは、「再選を目指さない」ということである。他の政治家とは異なり、再選を目指すということは政治家としての橋下氏にとって「自殺行為」となる。また、再選を目指さない(少なくとも、再選ありきではない)態度は、「権力に恬淡」としているという印象を与え、「利権とは無縁で清潔」な政治家であるとの印象も与えるという効果もある。そのため、大阪府知事或いは大阪市長としても再選への出馬はしていない(大阪府知事は自身の大阪市長選への出馬という「突発事情」もあるが)。

 橋下氏にとって、政治は、自身の権力欲を満たす「おもちゃ」であり、1期4年もやれば飽きもするし、長くなればなるほど、首長として過去の言動との整合性を常に問われることとなる。つまり、再選を重ねる程「嘘」はつきにくくなる。そのため、住民投票での「大阪都構想」の否決を理由として再選出馬を諦め、「余力を持った形」で退陣した。そのため、橋下氏は「法律顧問」として現在でも大阪維新の会で隠然たる影響力を保っており、「復帰待望論」も根強い。

97キラーカーン:2017/07/26(水) 00:51:09
6.2.3.5.2.3. 橋下氏にとっての「天祐」
二元代表制において首長と議会との対立関係を解消するためには、
① 議会の多数を首長支持派が占める
② 議会多数派が支持する首長を当選させる
という2つの方策がある。

 議院内閣制では議会の多数派と首相の出身会派が一致することが制度設計上の大前提であるため、この問題はまず発生しない 。したがって、議院内閣制の「大統領制化」という場合、首相(与党党首)への政府及び政党権力の集中という形で現れることが基本形である。そして、小泉総理・自民党総裁及び安倍総理・自民党総裁の「一強」といわれる政治状況もこの例に漏れない。

 本項では、二元代表制の下での首長側の行動を取り上げていることから、橋下氏が採った前者の方策に焦点を当てる。

 橋下氏にとって幸運だったのは、当時、大阪市では自民党が内紛状態にあり、現状に不満を抱く一派が、松井一郎大阪府議(当時)を中心に橋下氏と連携して新たな会派・政党を結成する動きを見せたことである。この橋下氏と松井氏との連携を基に「大阪維新の会」が結成される。

 このため、橋下氏は、当選当初から議会に自身の支持基盤がある程度あり、それを足場に他会派と交渉を行うことが可能であった。自身の与党を「ゼロ」から作り上げる必要はなかった。この点が、あくまで「個人」であり、結局議会に自身の支持会派を確立することができなかった青島、横山、田中の各知事(そして、竹原阿久根市長)との大きな相違点である。小池東京都知事も橋下氏の手法を取り入れ、無所属系の都議会議員を中心に、小池都知事自身の支持政党となる「都民ファーストの会」をゼロから立ち上げている。

 「大阪維新の会」はその名の通り、大阪府議を中心とした大阪の地域政党であった。しかし、大阪都構想の実現のためには、大阪府議会(と大阪市議会を含めた大阪府下の各市町村議会)の権限でできる事項だけではなく、地方自治法改正が必要であった。法律改正を働きかけるためには国会に足場を持たなければならなかった。

 白紙的には、「大阪維新の会」は地域政党に留まり、国政では与党である自民党或いは公明党と連携して地方自治法改正を働きかけるという方法も存在したが、「大阪維新の会」が自民党から分派する形で結成されたという事情から鑑みて、「大阪維新の会」が国政レベルで自民党を「頼りにする」という方策は採り得なかった。

 その他には、自民党ではなく、連立与党の公明党と連携を図るという選択肢もある。大阪では、公明党を取り込まなければ多数派にはなれない維新にとって、国政レベルで公明党と連携するというのは選択肢としてあり得る。とはいっても、公明党も自民党との間で裁量の余地を持っておきたいことから、国政で公明党、大阪では維新という「取引」は困難であると思われることから、維新と公明党もその時々の政治情勢によって連携するか否かを決めるという方向が合理的結論となるので、公明党が国政レベルで「維新の窓口」となるような連携は困難である。

 そうなれば、維新自らが国政政党となって国政へ打って出るという方策しかない。ここでも橋下氏は幸運であった。当時、「自民党の右」に位置する「たちあがれ日本」は来るべき総選挙に向けて党勢拡大 のための方策を模索していた。その一環として、当時東京都知事であったが元国会議員及び閣僚経験者でもあり全国レベルで一定の知名度がある石原慎太郎氏との連携が浮上した。この連携は合意に達し、「たちあがれ日本」は「太陽の党」として再出発することが確定していた。

 そのような情勢の中、国政進出を目指す「大阪維新の会」と東京及び関東に次ぐ大票田である大阪及び関西での党勢拡大を見込んだ「たちあがれ日本」との利害が一致した。この結果「太陽の党」に「大阪維新の会」も合流することとなり、「日本維新の会」が発足した 。

 その後、日本維新の会は2012年の総選挙で54議席を獲得し、野党第二党となったが、所謂大阪派(橋下派)と東京派(非大阪派:石原派)との亀裂が深まった。前者が多数派となり日本維新の会と同様に「第三極」といわれていた「結いの党(旧「みんなの党」が中心)」と合流する。その後、日本維新の会は民主党へ合流し、「民進党」が発足した。民主党(民進党)へ合流しなかった議員が「おおさか維新の会」を結成して現在に至る。後者(石原派)は「自民党の右」という立場を堅持すべく「次世代の党」→「日本のこころを大切にする党」となっているが民進党以上に党勢は先細りである(2017年現在)。

98キラーカーン:2017/07/28(金) 01:03:03
6.2.3.5.3. 橋下氏と歴史認識問題
6.2.3.5.3.1. 総説
 橋下氏は「右」といわれているが、言動を子細に見ていけば、必ずしも「右」ではない。確かに、橋下氏は経済に限らず自由競争至上主義であることから、新自由主義的な「右」であると表現することは可能である。また、歴史認識などでは「従軍慰安婦」の強制連行を否定していることも「右」の政治家であるとの認識を補強している。

 橋下氏の民衆の感情を煽り、その感情を自身の支持基盤とする政治手法は「ポピュリスト」とはいえるが、当然のことながら、ポピュリスト=「(極)右」である事を意味しない。

 また、先に述べたように、日本維新の会の橋下派は「自民党の右」に位置する石原派と袂を分かつ形で「第三極」の「結いの会(旧「みんなの党」)との合流を経て民主党と合流し「民進党」となった。このことから見ても、橋下氏及び橋下派といわれる人士は所謂「保守」でもなければ「右」でもなく、ましてや「ネトウヨ」というわけではない。

 さらに言えば、ヘイトスピーチ禁止条例の制定など明らかにそれ以外の論点では基本的に南北朝鮮寄りの見解を示している。その点では従来型の「ネット右翼」或いは「ネトウヨ」とは一線を画しており、その点でも橋下氏は「右」と「左」との間の「第三極」の位置を占めている。

 橋下氏の「南北朝鮮寄り」の言動と「公開討論」で相手を完膚なきまでに叩きのめすという橋下氏の政治手法からすれば、桜井誠在特会会長(当時)との「討論」は「当然の帰結」といえる。両者の「討論」は事前の期待に反して、両者の単なる罵り合いとなったという意味でも「伝説」となっている。その「罵声=討論内容」は、これまでの公開討論で「不敗」を誇った橋下氏の言説の片鱗すら見受けられなかった。その意味で、公式には「両者反則」による「引き分け」であったとしても、実際は橋下氏の「敗北」といってよいのかもしれない。

 いずれにせよ、そのような在日朝鮮人問題をはじめとする対朝鮮半島問題についての橋下氏の立場は「反在特会」的立場或いは親南北朝鮮的である事は明白であり、「嫌韓厨」を大きな要素とする「ネトウヨ」とは一線を画していることは間違いない。

6.2.3.5.3.2. 「従軍慰安婦」問題
 「従軍慰安婦問題」では、橋下氏は風俗業は必ずしも「違法ではない」という観点から当時の慰安婦を容認している。また、戦時において勝者が敗者の女性に性的暴行を働くのは珍しくないことから、それとの比較で我が国の慰安婦制度のみがやり玉に挙げられるのは「不公平である」としている。

 その一方、(個人的見解として)「慰安婦自体は容認しない」とも述べており、その点では、従来の「ネット右翼」的な従軍慰安婦論とは一線を画している 。

99キラーカーン:2017/07/29(土) 02:27:41
6.2.3.5.3.3. 桜井誠氏との「討論」
 「ネトウヨ」論との関係でいえば、橋下氏の志向が明らかになったのは、桜井誠在特会会長(当時)との討論であろう。既に述べたように、橋下氏は「従軍慰安婦」の強制連行は否定したものの、それ以外の論点については基本的に南北朝鮮側の見解に理解を示していた 。橋下市長自身も「ネトウヨ」については、「直接話を聞く」という対応だったので、それに桜井氏が「釣られた」という形で両者の「討論」が実現した。

 桜井氏のブログでの発言 によれば、橋下市長の側が色々条件を付けてきたが、対外的には、桜井氏が「討論から逃げ回っている」との「嘘」の発表をしたとのことである。

 両者の討論の結果は動画サイトにも掲載されている通り、「討論」とは言い難い罵声の応酬であった 。その動画から見る限り、既に述べたように、橋下氏の態度がそれまでの学者や評論家などに対しての公開討論で「不敗」を誇った態度とはかけ離れていた。このことから、桜井氏との討論に際し橋下氏の側に何か「目算狂い」があって、あのような「場外乱闘」まがいの討論形式にせざるを得なかったのではないかと推測される(繰り返しになるが、橋下氏は、基本的に、討論や記者会見では相手を「完全論破」する討論スタイルであったのが、桜井氏相手ではその片鱗さえも伺えなかった)。

 恐らく、橋下氏はこれまでの「評論家」や記者との討論で「連戦連勝」だったので、在特会会長相手の討論も「楽勝」或いは「鎧袖一触」と思っていたのであろう。ところが、桜井氏が討論相手として「意外に手強い」と気が付いて、「両者反則」による引き分けで有耶無耶にせざるを得なかったのではないかと推測できる。この解釈であれば、桜井氏のブログでの「証言」や両者の「討論」の動画とも矛盾しない。また、橋下氏のいつもの討論スタイルとの違いも説明可能である。

100キラーカーン:2017/07/30(日) 01:41:01
6.2.3.6. 「都民ファースト」の行方
6.2.3.6.1. 小池女史の都知事選出馬
 橋下大阪市長の政界引退後、世間の耳目を集める「改革派」或いは「維新型」地方自治体の首長は出現しなかったが、昨年の小池百合子都知事という新たな「維新型首長」が出現した。

 東京都の人口は1000万人を超え、都市化も進んでいることから、最近は「知名度」を有する所謂「タレント候補」でなければ当選できないとされてきた。事実、青島都知事以来、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一氏と所謂タレント候補が当選してきている。とはいっても、1期4年で終わった青島都政の教訓からか、以後の都知事は、知名度に加え、政治家としての一応の実績を残していたため 、政治家の実績のない単なるタレント知事では当選は難しいと見られてきた。

 海外出張の際の「贅沢」などによる「公私混同」批判を浴びた舛添都知事の辞職に伴う都知事選は2016年7月に行わることとなった。都知事の与党は自民党と公明党であるが、自民党東京都連の都知事候補選定にも不手際もあり 、小池女史は自民党の推薦を得られないままの出馬に踏み切った。

   
 猪瀬都知事の頃から都知事と都議会自民党ひいては自民党東京都連の間に不協和音があったといわれている。その選挙戦の中で「都議会のドン」の存在が白日の下に曝され 、小池女史によって「敵」に仕立て上げられた。こうして、「分かり易い悪役」を見つけられたことから、小池氏は地滑り的な勝利を得た。今後は、このような「分かり易い悪役」を見つけられるか否かが小池氏の「腕の見せ所」となる。

6.2.3.6.2. 「維新」の東京版か、自民党の分裂か
 小池都知事は、当選後、「悪役」を作り出すことで求心力を得ようとしてきた。この点は橋下元大阪府知事の手法を忠実に再現しており、その点では無党派首長⇒改革派首長⇒維新型首長という系譜の政党後継者である。

 小池都知事にとっての悪役は「自民党都議団・都連」及び石原元都知事であった。悪役に仕立て上げる「お題目は」
都議会自民党・自民党東京都連に対して:都議会を私物化するドン支配
石原元都知事に対して:汚染された豊洲への市場移転
というものであった。

 前者に対しては、小池都知事当選直後の都議会自民党の態度もあり、「善玉(都知事)」と「悪玉(都議会自民党)」との対立構造が明白となったことと、それなりの「火種」があったことから、小池都知事の目論み通りの構図となった。

 しかし、後者については、石原都元知事及び浜渦元副知事を「100条委員会」 で喚問して「人民裁判化」しようとしたが、決定打とはならなかった。また、豊洲市場自体についても移転手続に若干の瑕疵があったものの、安全基準等は満たしていたことから、「ちゃぶ台をひっくり返しただけ」という評価がネット上では上がっている 。

101キラーカーン:2017/07/31(月) 00:38:43
6.2.3.6.3. 都議会選挙での勝利
 二元代表制を採る我が国の地方自治体では、知事が主導権を持つためには、議会にも知事の支持基盤を必要とする(所謂「分割政府」の問題)。このため、小池都知事は、自身の与党として「都民ファーストの会」を立ち上げ、選挙直前に代表に就任して選挙戦を戦った。

 小池都知事就任直後の自民党都議団の「悪役らしい」振る舞いもあり、2017年の都議会選挙は自民党(と民進党)の敗北で終わった。小池都知事率いる「都民ファーストの会」は当選者及び獲得票数双方とも第一党という「完全勝利」であった。

 しかし、小池都知事は、「二元代表制」を理由に、都議選直後に「都民ファーストの会」代表を辞任した。結局、小池都知事は都議選で議席を獲得することだけを目的に「客寄せパンダ」的に代表に就任したに過ぎず 、政党運営を「放り出した」格好となっている。

 維新も、新人議員が多かったことから、議員の質は必ずしも良いとはいえず、少なからず、不祥事が発覚している。このため、今後予想される「都民ファーストの会」の不祥事から距離を置くため、自身の政党を放り出したともいえる。

この点か評価すると、
① 権力行使が目的の橋下元大阪市長
② 自身の栄達が目的の小池都知事
となるのではないだろうか。

 とはいっても、これからは、都議会も小池都知事の与党が過半数を占めていることから、安易な先送り(決断回避)という手法は採れない。また、2020年の東京オリンピックに連動した公共事業(築地市場の豊洲移転もその一環)

 これから、小池都知事はどのような「悪役」を仕立て上げるのか、今後の東京都の政局はそれが焦点となる。

102キラーカーン:2017/08/04(金) 01:41:38
6.2.3.6.4. 都知事選挙及び都議会選挙を通じた「リベラルの『自壊』」
6.2.3.6.4.1. リベラル・左派陣営の「内ゲバ」(「宇都宮おろし」と「鳥越擁立」)

 これまで、折に触れて、我が国のリベラル・左派勢力の「自壊」について述べてきたところである。2016年の都知事選挙と2017年の都議会選挙活動においても、リベラル・左派の「自壊」は加速することはあっても、減速することはなかった。

 リベラル・左派陣営(民進党、共産党、社民党など)は共倒れを防ぐため統一候補を模索していた。その中で、過去2回都知事選挙に立候補していた宇都宮健児氏が立候補を表明した。しかし、宇都宮氏では「左派色」が強すぎる として、宇都宮氏とは別の「勝てる候補」の擁立が模索された。その結果、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏が「野党統一候補」として擁立され、宇都宮氏は立候補を取り下げることとした。

 鳥越氏が立候補を表明してから、宇都宮氏の選挙事務所には、立候補を取りやめさせるための「説得」が続けられた。その「説得」にはかなり酷いものもあったといわれている 。また、しばき隊の支援者は宇都宮氏の立候補に否定的であったことから、そのような「酷い説得」はしばき隊或いは氏の支援者によるものであったとしても不思議ではない。そのような、立候補者統一も左翼恒例の「内ゲバ」と見られることとなった。

 また、鳥越氏の婦女暴行疑惑についても、従軍慰安婦問題では「女性の人権」として、加害者である男性側に厳しく責任を追及していた鳥越氏の支持者が一転して、鳥越氏擁護に回ったことという「ダブルスタンダード」も見受けられた。

 結局、後述するように、鳥越氏の婦女暴行に関する報道と「女性の人権」を巡る見解の相違から、宇都宮氏は鳥越氏を支援することはなかった。

 2016年の都知事選においても「内ゲバ」、「ダブルスタンダード」といったリベラル・左派陣営によく見られる事象を有権者は見せつけられた。その影響からか、小池女史出馬を巡る対応から「自民分裂」というリベラル・左派にとった有利な条件での都知事選挙戦でありながら、当選した小池氏に加え、自民党推薦で立候補した増田寛也氏にも届かない第三位に甘んじた。

 このことは、民進党をはじめとするリベラル・左翼勢力が自民党に対抗する政治勢力としては、完全に見限られたことを意味する。その傾向は、都知事選から約1年後に行われた都議会選挙において、民進党が共産党の後塵を拝し、壊滅的惨敗を喫したことにも表れている。

6.2.3.6.4.2. 鳥越氏の婦女暴行報道の「黙殺」
 選挙期間中に、週刊誌が鳥越氏の婦女方向疑惑について報じた 。鳥越氏はその疑惑を否定したが、週刊誌の記事は被害者側の訴えを基に構成されていた。鳥越氏はリベラル・左派の「統一候補」として立候補しているだけに、鳥越氏の支持者には慰安婦問題について日本側の責任を厳しく追及する立場の人が多い。そのような「被害者の訴え」に対する態度が慰安婦問題に対するそれとは180度異なって、「加害者」の鳥越氏を擁護するといって点も、「自身の政治的立場によって『正義』を変える」という我が国のリベラル・左派の「お家芸」である「ダブルスタンダード」を駆使していると捉えられた。

103キラーカーン:2017/08/07(月) 00:17:12
6.2.4. 「55年体制」への郷愁と田中角栄ブーム(「大統領制化」への反発)
6.2.4.1. 総説

 最近「田中角栄ブーム」ともいえるような「田中角栄本」が相次いで出版されている。在世中は、ロッキード事件に代表される「金権腐敗」、「派閥政治」の権化といわれ、「目白の闇将軍」という異名を代表格として「自民党政治家のラスボス」扱いされ、「究極の悪役」としてマスコミに扱われた 。ところが、現在では「戦後民主主義或いは高度成長を体現する政治家」として、田中角栄氏は肯定的な評価とともに描かれるようになり 、再評価の動きもみられる 。

 田中角栄氏が活躍していた当時の政治状況は、「国対政治」という言葉が存在したことでもわかるように、ボス同士の談合によって議論の大枠が決定されるという「内に派閥政治、外に国対政治」というなっていた。これは、派閥の長或いは与野党国会対策責任者との話し合いによって議会政治の運営が決まるということを意味する。「国対政治」や「派閥政治」は、悪く言えば「ボスたちの密室の談合」によって決まる政治であり、よく言えば「関係者のコンセンサスという納得と熟議」の政治ということになる。

 田中角栄氏が、このような国対政治という我が国特有の政治風土の体現者的政治家として語られてきたことについては異論がないと思われる。だからこそ、ロッキード事件以降、先に述べたように「派閥政治」の権化という「悪の象徴」としてこれまで語られてきた政治家であった。

 しかし、現在においては、その「悪」とされた田中角栄的政治手法が、小選挙区制導入の結果による(「1ビット脳」的政治手法とも言える)敵味方の峻別(とそれによって引きこされる「敵」とされた者への不寛容及び指導者へ「集中」として現れる)「大統領制化」が進んでいる現代の日本政治に対する何らかの警鐘として多くの人々の琴線に触れるものがあるが故の「田中角栄ブーム」なのであろう。

104キラーカーン:2017/08/08(火) 00:50:28
6.2.4.2. 田中角栄の政治手法(「内に派閥政治、外に国対政治」)
 しかし、最近の「角栄ブーム」は、そのような「悪」の政治家としてではなく、反対派への配慮を忘れず、相手の納得を得つつ(或いは「篭絡」しつつ)慎重に合意を得て仕事を進めるという「善」の政治家として語られていることがこれまでの角栄論と異なるところである。ロッキード事件とどれに続く田中角栄批判の大合唱を見聞きした筆者にとっては隔世の感がある。

6.2.4.3. 田中角栄の政治手法と「古き良き」自民党政治
 では、なぜ、最近、「田中角栄ブーム」或いは「田中角栄再評価」というべき書籍が相次いで出版されたのであろうか。それは、昨今の政治情勢とは無縁ではないと思われる。さらに言えば、現在の政治情勢に対して何らかの不満を抱いている層が「田中角栄的手法」(或いはその改良版)を解決策として待望していることを意味しているのであろう。百歩譲っても、「待望」とまではいかなくても、解決について何らかの参考になると判断しているのは確実と思われる。

 では、その「現代の政治状況に対する処方箋」として期待されている「田中的手法」とはどういうものであろうか。田中氏の政治手法は、先に述べたように、「内に派閥政治、外に国対政治」というものである。これは、所謂「55年体制」の下で慣行化されたものである。特に「国対政治」では、少なくとも主要政党(自民、社会、公明、民社、共産)のうち、共産党を除く4党の合意が必要とされる点でコンセンサス型の政治そのものである。

 自民党内の意思決定手続においても、コンセンサスが重視される。自民党における常設の最高意思決定機関である総務会の議決でも、反対意見のものは採決時に退席するなどして「反対意見の不存在」をもって議決されるのが慣例である。このため、自民党総務会長は老練な調整型の政治家が起用されるのが通例である。

 また、当時、「敵と味方」は相対的なものであった。中選挙区制の当時、多くの自民党議員にとって、選挙区では敵であっても、国会議事堂の中では同じ自民党の一員として仲間であるという関係にある議員は多かった。その逆に、国会では与野党に分かれる「敵」であっても、選挙区(地元)では、「与野党相乗り知事」の存在によって仲間となることは少なくない(特に知事選挙)。その極端な例が、同じ自民党であっても、「保守分裂」となって、分裂した「保守(自民党系)」の一派が公明党や民社党と連携し、同じ自民党を「敵」にするということもある。

105キラーカーン:2017/08/09(水) 00:53:48
6.2.4.3. 田中角栄の政治手法と「古き良き」自民党政治
 では、なぜ、最近、「田中角栄ブーム」或いは「田中角栄再評価」というべき書籍が相次いで出版されたのであろうか。それは、昨今の政治情勢とは無縁ではないと思われる。さらに言えば、現在の政治情勢に対して何らかの不満を抱いている層が「田中角栄的手法」(或いはその改良版)を解決策として待望していることを意味しているのであろう。百歩譲っても、「待望」とまではいかなくても、解決について何らかの参考になると判断しているのは確実と思われる。

 では、その「現代の政治状況に対する処方箋」として期待されている「田中的手法」とはどういうものであろうか。田中氏の政治手法は、先に述べたように、「内に派閥政治、外に国対政治」というものである。これは、所謂「55年体制」の下で慣行化されたものである。特に「国対政治」では、少なくとも主要政党(自民、社会、公明、民社、共産)のうち、共産党を除く4党の合意が必要とされる点でコンセンサス型の政治そのものである。

 自民党内の意思決定手続においても、コンセンサスが重視される。自民党における常設の最高意思決定機関である総務会の議決でも、反対意見のものは採決時に退席するなどして「反対意見の不存在」をもって議決されるのが慣例である。このため、自民党総務会長は老練な調整型の政治家が起用されるのが通例である。

 また、当時、「敵と味方」は相対的なものであった。中選挙区制の当時、多くの自民党議員にとって、選挙区では敵であっても、国会議事堂の中では同じ自民党の一員として仲間であるという関係にある議員は多かった。その逆に、国会では与野党に分かれる「敵」であっても、選挙区(地元)では、「与野党相乗り知事」の存在によって仲間となることは少なくない(特に知事選挙)。その極端な例が、同じ自民党であっても、「保守分裂」となって、分裂した「保守(自民党系)」の一派が公明党や民社党と連携し、同じ自民党を「敵」にするということもある。

106キラーカーン:2017/08/11(金) 01:15:07
6.2.4.4. 「大統領制化」に対する警鐘としての「田中角栄ブーム」
 これまで述べたように、我が国の選挙制度には、中選挙区制と地方自治体の二元代表制の組み合わせを採っている。この選挙制度によって敵と味方の区別が相対的なものであり、時と場合によって連携の組み合わせが異なる事を許容する政治環境にある。このことは、当選者が一人であるがゆえに敵味方が固定される大統領制や小選挙区制とはきわめて相性が悪い。

 しかし、大統領制の「母国」である米国が、なぜ、中南米諸国のような「大統領制民主主義の失敗」を経験しなかったかについては、大統領制研究の中でも大きなテーマとなっている 。そして、その「民主主義国のチャンピオン」としての米国の存在が「大統領制民主主義」のリスクを覆い隠しているのではないかとの指摘もある 。

 したがって、「田中角栄ブーム」が「大統領制化」に対するアンチテーゼとして起きているということであれば、その田中角栄ブームは、逆説的に、小選挙区制導入以後、或いは「小泉以後」の我が国の政治状況の大勢が「大統領制化」へ向かっていることを示しているともいえる。

 昨今の「田中角栄本」で描かれているように、田中角栄は「敵」への配慮も忘れない政治家であった。それは、「敵味方」の区別が相対的なものであり、コンセンサスによって国会運営が今よりも強力になされていた時代では、多数派を握るためには必要不可欠な政治手法であった。確かに、当時の田中派は自民党で最大派閥であり、「田中派支配」といわれる程度には「数の政治」である側面は持っている。しかし、最大派閥であっても過半数を握れない以上 、その多数は、必ずしも「強行採決」のための多数ではなかった。

 「大統領制化」の副作用として、何でも「敵味方」に二分されて、「大統領(首長)」の支持勢力の組織化によってその分断が固定化されてしまう。これまでは、そのような事態は「(政権交代可能な)二大政党化」として、好意的に語られてきた。

 しかし、小泉以後の政治、特に二元代表制を採る地方自治体で、議会に敵対的な「改革派首長」の出現するようになった。この結果、「敵味方」で運営される「1ビット脳的政治」の不都合な点に少なくない人々が気付いた。そのような「敵か味方か(1ビット脳的政治)」の弊害に気付いた人々が、その対抗軸として「(コンセンサス志向の政治である)55年体制の権化」である田中角栄を美化し称賛していると推測できる。

107キラーカーン:2017/08/14(月) 00:24:07
6.2.4.5. 「敵味方」の区別から始まる政治の申し子としての共産党と「維新」
 因みに、55年体制下において、共産党だけが「敵味方」の区別が明確であった(だからこそ「確かな野党」という言い方もできる)。そのため、「与野党相乗り」知事が珍しくなくなっても、共産党だけは、その「相乗り」には加わらなかった。

 その側面から言えば、「敵味方」の峻別と「敵の殲滅」を基本とする橋下氏の政治手法は「共産党の鏡像」というべきものでる。この点で、橋下氏の政治手法を「(共産党の)民主集中制に似ている」と評した田原総一朗氏は慧眼であったといわざるを得ない 。また、そのような議院内閣制と二元代表制の差異を感じ取り、地方自治体の首長に「留まった」橋下氏の嗅覚は鋭いものがある。

108キラーカーン:2017/08/15(火) 01:29:14
6.3. 外国における「ネトウヨ化」の状況
6.3.1. 総説
 現在では、オランダやフランス、スイス、オーストリアなど欧州各国で極右政党 が主要政党の一角を占めている。中には、極右政党が連立与党入りした国も存在する。また、比例代表制を取っているEU議会選挙では、極右政党が所謂西側先進諸国においても一定の議席を占めている。そのような情勢を受け、比例代表制である欧州議会では2014年の選挙はにおいて、G7の一角を占める英仏両国でも国民戦線(仏国)、国民党(英国)のように「極右」と呼ばれる政党が第一党となった 。

 このことから、所謂西欧先進諸国であっても、そのような「極右」政党が各国の政党システムにおいて確固たる基盤を築きていていることは明らかである。とはいっても、これまではそのような「極右」勢力が議会第一党や大統領選挙で勝利して政府の長の座を手に入れられるとは思われていなかった。

 しかし、2014年の欧州議会選挙以降、英国でEU離脱の国民投票でEU離脱派が多数(2016年)となり、米国でトランプ大統領が誕生(2016年)したことで、そのような状況は根本的に変化したといわざるを得ない。所謂、西欧民主主義諸国においても「極右」勢力は政党政治における脇役ではなく、政党政治における堂々たる主役に躍り出ることとなった。

 米国のトランプ大統領誕生の余韻も冷めやらない中、続く2017年には、蘭、仏、独国での総選挙と仏国大統領選挙といったG7を含めた国政選挙が予定されている。また、政権が進退をかけた憲法改正案が否決されたイタリアでも近いうちに総選挙が行われる見込みである。

 これら、主要国の総選挙で、所謂「極右」政党は、既に「何議席獲得するか」という次元ではなく、第一党となるか否か(≒大統領或いは首相の座を掴むか)という次元の争い、即ち「政権の座」を掴むのか否かという次元の争いとなっている。

 そのような「世界総ネトウヨ化」といわんばかりの国際情勢の中で、脚光を浴びつつあるのが「分断」という言葉である。本節では、
①経済のグローバル化の勝者と敗者という「分断」が誰の目にも明らかになった
②分断の種類には「社会のアイデンティティー」と「貧富の差」という2つがある
③「リベラル」の側は分断で不利益を被る「まじめな中産階級」を無視することで分断を「なかったこと」にした
④「極右」が無視された人々に焦点を当て、「反リベラル」という「二分化」戦術を取った⑤その「二分化」は大統領制或いは議院内閣制の「大統領制化」により拡大・固定化した
⑥その結果、西欧先進諸国も「大統領制民主主義の失敗」のリスクが無視できなくなった
という仮説を提示する。

 すなわち、「ネトウヨ化」というのは我が国独自の政治状況ではなく、冷戦終結とそれに伴う(経済の)グローバル化を契機として先進各国で同時並行的に生じた政治的潮流であるとみなすことができる。しかし、その「ネトウヨ化」の原因及び過程については、我が国と欧米との間には違いがある。その我が国と欧米との間の「ネトウヨ化」に関する各国間の比較分析 を行うことは、我が国の「ネトウヨ化」の実態を明らかにするだけではなく、比較政治学上の知見も得られるものと考えられる。

 欧州では、そのような「福祉排外主義」に基づく「極右」勢力だけではなく、(財政状況に関わらず)「没落した中間層」に対する貧困対策を行うべきという「ポピュリスト左派」という政治勢力も無視できない存在となっている。代表的な存在が、米国大統領予備選で大本命のヒラリー・クリントン上院議員に肉薄したサンダース上院議員や仏大統領選で主要四候補の一角を占めたメランション氏である。本節では必要に応じ、そのような「ポピュリスト左派」勢力にも触れる。

 本章では、これまで、我が国の国内における政治現象として捉えられてきた「ネトウヨ化」というものを、世界情勢の文脈の中に位置づけ、我が国独自の現象と思われてきた「ネトウヨ化」の国際比較(の足掛かり)のための「野心的」な試みでもある。

109キラーカーン:2017/08/19(土) 01:46:30
6.3.2. 移民問題(欧州における「極右」政党の起点)
 欧州における「極右」の伸長は他国(特に中東、アラブ諸国)からの移民や労働者の流入に端を発しているということについては現在において異論がないものと思われる。特にドイツにおいては、『最底辺』にあるように、東西統一前の1980年代後半から、トルコ人労働者の流入が社会問題となり始めていた 。但し、当時は、外国人労働者を受け入れるだけの「パイの大きさ」があったことから、『最底辺』のように、外国人労働者の差別的待遇による低賃金が問題とされていた。

 『最底辺』を引くまでもなく、現在においても発展途上国からの外国人労働者は、移住先の国家では給与水準の低い単純労働に従事するものが多数である。このため、国内求人増以上に外国人労働者・移民を受け入れることは国内の低所得者層の仕事を奪うことを意味する。このため、景気拡大が弱まった際に、先ず、影響を受けるのはこの層である。

 このような外国からの移民によって脅威にさらされている層の国民にとって、自身の生活を守るためには外国人労働者排斥を主張しなければならない立場にある。しかし、後述するが、リベラルはそのような低所得者層の国民の声に耳を傾けることなく、移民の声に耳を傾けた。それが、欧米での「ネトウヨ化」の始まりであった。
 そして、移民の流入は中間層の没落と経済のグローバル化による富裕層の一層の富裕化という「格差の拡大」をもたらしただけではなく 、移民の多くを占める中東のイスラム系移民と欧州キリスト教社会との不和による社会レベルの「アイデンティティー摩擦」をもたらした。その結果は、自身の没落とアイデンティティー危機をもたらした移民の流入の拡大阻止・縮小へと向かうのは仕方のないところである。その結果が、移民排斥或いは「福祉排外主義」を唱える「極右」の台頭の下地ということとなる。

110キラーカーン:2017/08/22(火) 23:16:22
6.3.3. 経済のグローバル化による中間層の没落
 経済分野では冷戦時代から多国籍企業というものが存在している。そのような多国籍企業は世界的な大企業である事が多い。このため、為替リスクや国ごとで異なる法制度など多国籍企業の利益追求にとって「国境」というものが「足枷」となることも多い。労働力(者)も同じである。

 「国境が存在しない」場合、生産費用を低減するためには、大きく分けて次の2つの方法がある
① 外国から低賃金で働く労働者及び原材料を「輸入」する
② 生産費用が安い国で生産する(企業の「空洞化」)
である。

 現在、WTOなど「自由貿易」が「正しい」とされていることから、「物」については、「輸入自由化」されている物品が多く、また、輸入制限手段も関税を賦課することによる場合が多く、輸入価格が容認できるのであれば、「物」の輸入自体に制限はない。

 このことから、「移民に寛容」な先進国では、発展途上国からの移民受け入れによって格安の労働力を調達するという方策をとることができる。この代表例が「アメリカンドリーム」という言葉に代表される米国であり、『最底辺』にもあるように、ドイツ(旧西ドイツ)もその一例である。さらに言えば、我が国を除くG7諸国はこの方法により、確約な労働力を調達している。

 一方、移民の受け入れが厳しい国では、企業(工場)自体が外国に「進出」することによって、格安な労働力を手に入れる方策を採る。G7諸国においては我が国のみがこの方策を採っている。

 両者とも「格安な労働力」と手に入れるという点では目的が共通している。したがって、どちらの方策を採ったとしても、そのような「格安な労働力」に取って代わられた国内の労働者階級が「割を食う」のも同じである。

111キラーカーン:2017/08/25(金) 01:01:07
6.3.4. グローバル経済と国家との相克、その結果としての「リベラル」の没落
 経済のグローバル化によって苦しくなったかつての中間層は、自身や家族の生活を維持するための施策を「国」に対して訴えることとなる。しかし、経済のグローバル化と「人道主義」の観点からは、「自国民」である没落しつつある自国の中間層よりも、「外国人」である移民の保護を優先しがちとなる 。

 特に「リベラル」といわれる層が、彼らの都合で「救われるべき弱者」を取捨選択し、その一方で、「グローバリスト」として経済のグローバル化の果実を享受しているという状況になっている。また、「グローバリスト」としてのリベラルにとって、「国家」というものは、「不条理な障壁」にしかすぎず、その「障壁の内側」にいるだけで何らかの「特権」を得られるような「国民」は救う価値がなく、それよりも「障壁」によって救済を阻まれている難民や移民こそが「救われるべき存在」であるとされている。

 その結果「リベラル」或いは左派といわれる人々にとって、「自国民」の貧困層、或いは中間層から転落しようとしている層は「眼中にない」という状況になっている。リベラルは「グローバリスト」として国境を越え、「地球市民」としての活躍を目指していた。

 そのような状況では、国境という「壁に守られているのにも拘らず」貧困にあえぐ没落した中間層である「自国民」はリベラルにとって「救済に値しない民(≒「キモイ親父」)」となった。その中で、自国民ということのみに意味を見出し、そして、実際にそのような「見捨てられた自国民」の声に耳を傾けるせる保守或いは「極右」を彼らが支持するのは合理的な選択でもある

 本来ならば自国の貧困層の声を救い上げるべき「リベラル」は彼らの声には耳を傾けず、目を背け続けた。そのような彼らの声を聴きに行った政治家が米国のトランプ大統領であり、フランスのルペン「国民戦線」党首(当時)であった。

 つまり、経済のグローバル化によって生じた貧富の格差拡大の「ツケ」は国家(社会福祉政策、労働政策)に回された。貧困層に転落しようとする、或いは既に転落した人々に対して「国家はあなた方を見捨てない」という信号を送り続けたのは、労組を支持母体にしてきたリベラルではなく、「移民排斥」を唱え、「同胞」としてあなた方を見捨てないというメッセージを送り続けた「極右」であった 。

 リベラルが国内の「没落した中間層」を「見捨てた」一方で、飽く迄もそのような国内中間層を「救うべき」と考えた左派も存在した。彼らはリベラルよりも「左」という意味で「急進左派」と呼ばれるようになった 。

 その結果、「リベラル」は、本来、自身の中核的支持層となるべき「没落した中間層」からの支持を得ることを放棄した。さらに言えば、リベラルは「差別反対」といった「政治的正しい」言説を唱える一方で、「没落した中間層」を一貫して無視しつつけるという「差別的取扱」を行っていることを恬として恥じる気配がない。その結果、「リベラルの自壊」というべき状況となり、「右傾化」といわれる状況の創出に一役買っている 。

112キラーカーン:2017/09/02(土) 00:55:42
6.2.5. リベラルの自壊の結果としての「右傾化(ネトウヨ化)」
6.2.5.1. 冷戦の終結とグローバル化或いは「唯一の超大国」

 冷戦終結後、世界情勢は「米国が唯一の超大国」というべき状況となった。21世紀になり、中国の台頭が著しいといっても、かつての米ソのように「世界を二分する」超大国となるか否かについては不透明である。

 というよりも、古来「中原」或いは文字通りの「中国」として「唯一の超大国」である(あった)ことを歴史上の誇りとしている。そのような中国が米国との「分割統治」に満足するかという中国の「歴史認識」の次元において、中国は、米国との「世界分割」を受け入れない可能性もある。また、経済のグローバル化に伴い、中国と米国との間での経済的相互依存が進んでいる現状において、(もし実現するとして)米中での「世界分割」がどのような形態になるのかも予想がつかない。

 尖閣諸島や南シナ海の事例を見るように、中国は、自己が不利の間は只管隠忍自重して時を稼ぎ、力関係が有利になったと見るや、その覇権主義的性質をむき出しにするという側面もある。このことから、中国は、究極的には中国の「一極支配」を目的としており、米国との「世界分割」はそのための手段であると見る方が妥当ではないかと考えられる。

6.2.5.2. リベラルのグローバリズムへの接近(ネオコン)
 冷戦はソ連の崩壊で幕を閉じた。これにより、自由民主主義が「唯一」の歴史発展の方策との考え方も発生した 。リベラルの側では、冷戦終結の直前(レーガン米大統領時代)から、リベラル・左派は資本主義体制内での「左」への改革ではなく、「人権を抑圧する」共産主義・社会主義国家に対する資本主義・自由民主主義の「伝道師」として、「保守派」に転向するという事象が発生した。彼らは、旧来からの保守主義者ではなく、「新しい」保守主義者という意味で「ネオコン」と呼ばれるようになった 。

 彼らは、世界全体へ資本主義(経済面)と自由民主主義(政治面)を広げるべきとの考え方を持っていることから、グローバリズムとは相性が良かった。また、「伝道師」的役割を果たすという側面から、彼らの言説も厳しくなっていく。

 結果として、「成功したグローバリスト」の中には少なくない「元リベラル(ネオコン)」が含まれるのも理の当然である。また、冷戦の終結で「社会主義」或いは「共産主義」というものが余喘を保つのが精いっぱいであったことから、リベラル的色彩を纏う「ネオコン」が、1990年代の間に「グローバリストのリベラル」となったのではないだろうか 。

 欧州の社会民主主義勢力が打ち出した「第三の道」という考えも「社会主義の敗北」という世界情勢とは無縁ではない。そのような中で、社会民主主義が生き残る道を模索した結果のとして「第三の道」に結実したと見受けられる。

 しかし、我が国では、そのような「第三の道」ではなく、戦前の日本を「悪魔化」するという「歴史認識論争」に我が国のリベラル・左派は活路を見出したのは既述の通りである 。そして、それが、我が国と欧米との「ネトウヨ化」の差異となって現われていく。

 このように、「ネオコン」を媒介項にしてリベラルと冷戦後の(資本主義に基づく)グローバリズムが結びつくこととなった 。そして、リベラルの目が国外に向き、自国において救済を必要とする人々が見えなくなっていった。

※構成を変えたため、節番号が変更になっています。

113キラーカーン:2017/09/04(月) 00:39:37
6.2.5.3. 成功者(「セレブ」或いは「エリート」)としてのリベラル

 経済のグローバル化とともに、企業は生産コストの低下特に人件費の低減を目的に、ある企業は発展途上国での生産に移行し、ある企業は自国内の移民を労働者として雇用した。その結果、NIESやBRICSといった新興工業国も台頭し、先進国に比べて低所得である発展途上国の所得が上昇するという効果もあった

しかし、そのような企業の生産体制の変化により職を失ったのが、本章でいう「(先進国の)没落した中間層」であった 。企業の多国籍化と自由競争により、そのような中間層が職を失うのは(自由主義経済の下では)自己責任とされ、救いの手は差し伸べられなかった。

 さらに、富める者はますます富み、先進国での貧富の差が拡大した。そのため、米国では「Occupy Wall street」という抗議行動も行われた。グローバル化の波に乗って成功した者は「国境の軛から解き放たれた」グローバリストとして「リベラル」化していった。本来なら、自国内の貧困層に手を差し伸べるべきリベラルが自身の成功により、セレブ化或いはエリート化(以下まとめて「セレブ化」という)していった。リベラルは「国境を越えたエリート連合」よろしく、国境を無視した。その結果、「国境の内側」を生活範囲とせざるを得ない没落し、疲弊した中間層との乖離が更に広がった。

114キラーカーン:2017/09/06(水) 00:02:12
6.2.5.4. リベラルに見捨てられ、切り捨てられた国民(「ポリコレ棒」の威力)

6.2.5.4.1. 総説
 グローバル化で成功し、「セレブ化」したリベラルは、自国民より他国民を「救うべき弱者」として扱った。その「弱者」の典型例が難民である。難民を自国に引き受けることは、自国の没落し疲弊した中間層をこれまで以上の塗炭の苦しみにあわせることとなる 。本節では、リベラルが反対派の意見を封殺する「棍棒」として「PC(≒差別主義者)」の概念を乱用したことによる、「市井の人々」の反発を取り上げる。

 リベラルは「政治的に正しい」という「ポリティカル・コレクトネス(political correctness:PC)」という概念を打ち立てた 。本稿の文脈での「PC」は
① 「政治的に正しい」を決める権限はリベラルの側「のみ」が持つ
② その正しさに対するする異論・反論は許されない
③ 疑いを掛けられた側が「無実」を証明しなければならない(「悪魔の証明」)。
④ 「PC」を理由とする限り、反対者にどのような制裁を加えても不問に付す
という特徴を持つ。

 つまり、本稿でいう「PC」とは、本来の意味ではなく、「しばき隊」を典型例とするリベラルの他者に対する不寛容・排他的な態度を揶揄する文脈で使われる言葉を指す 。

 このように、「PC」は、リベラルの考え方に反対する者を「弾圧」する道具として機能するため、我が国のネットでは「ポリコレ棒」と揶揄されることがある 。また、英語でもそのようなPCを他社の思想を弾圧する道具として用いる戦闘的リベラル・左派を揶揄する言葉として、後述するが「Social Justice Warrior」(社会的正義の戦士)という言葉がある。

 PCは、元来、差別撤廃のため「差別的な取り扱い」につながる言葉を排除するというものであった。代表的なものが、議長を意味する「chairman」が男性を意味する「man」が含まれているとの理由で「男女平等」な「chairperson」に言い換えられたというものである。この他にも、盲目を意味する「blind」という語が忌避され、キーボードを見ずに入力できる「ブラインド・タッチ」が「タッチ・タイピング」という例がある。これに類する例として、サッカーでも「ロスタイム」が「アディショナルタイム」へ、「サドンデス」が「ゴールデンゴール」と言い換えられた(「ロス:loss」や「デス:death」という否定的な語感を持つ語の利用を止める)。

 このような「言い換え」が結果的に「言葉狩り」に移行していくのは洋の東西を問わない。そして、その行き着く先は、どの言葉を利用するかという次元で神経をすり減らすことになるという息苦しい社会である。我が国でも、そのような「言葉狩り」に遭って、『ちびくろサンボ』のように発売中止(絶版)に追い込まれ、また、部落解放運動家による「つるし上げ」のための「糾弾会」出席を余儀なくされることも見受けられた。

115キラーカーン:2017/09/08(金) 00:26:25
6.2.5.4.2.  移民と「PC」と先進国中間層の経済的転落
 現在では、「人権擁護」の行き過ぎのため、移民受け入れ拡大政策に反対するだけで「極右」や「人種差別主義者」呼ばわりされることは珍しくない。移民受け入れ拡大反対とナショナリズムとの親和性が高いため、欧州において、移民受け入れに消極的な立場と「右翼」さらには「極右」と称されてきたことについては一定の理由がある。というよりも、欧州では、移民政策が「極右」かそうでないかを判別する基準となっている。

 そして、本来は、国内経済が移民の受け入れを欲しているか受け入れ余力があるかといった国内諸情勢によって移民受け入れ政策を決定しなければならない。しかし、移民受け入れ拡大を「自明」であるとし、な国内経済・社会的情勢を検討して受け入れ方針を策定すべき、或いは、難民よりも自国民の経済状況改善を優先すべきといった、移民受け入れ政策に反対或いは慎重な姿勢をとる人々をリベラルは「人種差別主義者」であるとしてきた。そして、「PC」を理由にしてリベラル派は「言葉狩り」よろしく、自己の反対派にレッテルを張り、異議申し立て自体を封じてきた。特に、マスコミや人文科学や社会科学の学会ではリベラルが優勢であるため、そのような「レッテル張り」が有効に機能してきた。

 移民による犯罪の告発も「人種差別」との批判を浴びることを懸念して及び腰になることも我が国のみならず、欧州においても見受けられる 。我が国では、ルーシーブラックマン氏殺害事件の犯人が韓国系日本人であったことから、犯人について語ることが一種のタブー視されていたことが、同事件を追ったドキュメンタリー『黒い迷宮 ルーシーブラックマン事件15年目の真実』(リチャード・ロイド・パリー著 濱野大道訳 早川書房 2015年)の著者が語っている。

 移民拡大を叫ぶリベラルとその結果としてなされる移民拡大によって危険にさらされるのは「セレブ」と化したリベラルではなく、移民によって職を奪われる「没落した中間層」である事は論を待たない。そして、そのような層は先進国では中-低所得者層に該当する。このような欧米の「極右」のイメージにより、我が国でも「ネトウヨは低所得者のニート」というイメージで語られることが多い。この立場に立つ代表的な論者としては小林よしのり氏が挙げられる 。

 しかし、古谷常衡氏によれば、自身のHPの閲覧者を「ネトウヨ」と仮定すれば、閲覧者は、「自己申告」によると、「都市の30〜40台のサラリーマン、或いは自営業者」という層が多いとのことである。

 いずれにせよ、「セレブ」化したリベラルは、その「グローバル性」により、自国民よりも、他国の難民を救うに値するとし、そのような自国民の窮状に対しては高みの見物を決め込み見向きもしなかった。

116キラーカーン:2017/09/10(日) 02:01:39
6.2.5.4.3. 「他文化強制」と「PC」と「social justice warrior」
 PCの文化的側面では、リベラルが推進する「多文化共生」に反する態度は許されないとしてきた。この結果、移民問題と同様に、リベラル派は「言葉狩り」よろしく、自己の反対派にレッテルを張り、異議申し立て自体を封じてきた。日本人に分かり易い例でいえば、移民の非キリスト教徒への「配慮」として、米国では「メリークリスマス」の代わりに「ハッピーホリデー」と言わなければならないというものがある 。

 リベラルは自身の見解に反する人を「人非人」としてレッテル張りを行うのに躊躇がない。そのレッテル張りのための「錦の御旗」がPCであった。さらに言えば「何がPC」なのかという判断権はリベラルのみが保持し、それに対する反論は受け付けないということも共通している 。

 そして、そのような「言葉狩り」を行う者を英語で「social justice warrior」という 。
我が国では、「オタク≒ネトウヨ」という認識 のもとに、「萌え」や「アニメ趣味」を「ネトウヨ的」として批判する者や外国人(特に朝鮮人)に対する「差別的」言動を針小棒大に取り上げ、営業妨害や自宅への突撃を行ったりする場合もある。そして、「しばき隊」を筆頭に、そのような「暴力的」行為であっても「反差別」という「PC」によって免罪されるという自己中心的な正当化を図っている。

117キラーカーン:2017/09/12(火) 00:58:15
6.2.5.5. 切り捨てられた国民の怒り-「福祉排外主義」の勃興
6.2.5.5.1. はじめに

 本来なら、貧困層に転落しようとしている国内の疲弊した中間層はリベラル或いは左翼が救い上げるべき国民である。これまで、左派政党(≒社会民主主義政党)はそのような手法で支持を拡大し、ある国では政権を奪取した。しかし、前節でみたように、現在、生活が脅かされている先進国の中-低所得者層は経済のグローバル化で「勝者」となり、「セレブ化」したリベラルに見捨てられ、切り捨てられていた。

 リベラルは国家に対し、国民ではなく、難民など「非国民(文字通り国民でない者)」を救えと要求していた。そのようなリベラルに切り捨てられた「行き場のない」国民の声を、勢力拡大のための「穏健化」を図り、移民反対から自国民優先の福祉施策(「福祉排外主義」)へ舵を切った「極右」が吸い上げるという構図となっている。このような「(自国民の底辺)労働者に優しい極右」という20世紀後半の政治情勢では考えられないような現実が21世紀になって発生した。

 この後、先進諸国を中心に極右勢力或いは「ネトウヨ化」の実態を概観していくが(「6.4.各国の状況」)、その前に、昨今の極右勢力の伸長の鍵となる「福祉排外主義」について総論的な部分を概観しておく。

118キラーカーン:2017/09/14(木) 00:13:52
6.2.5.5.2. 福祉排外主義の勃興
 冷戦終結後、経済のグローバル化或いは社会保障制度の厳格化によって、「近代化の敗者」或いは「没落した中間層」とも呼ばれる学歴・所得社会的地位が低い層が発生した。先に述べたように、このイメージは我が国の「ネトウヨ」のイメージと重なるところが大きい。そして、西欧における「極右」政党はこのような層を支持母体の中核としている。

 当初「極右」政党は彼らから仕事(収入)を奪っていった移民の排除を端的に訴えていたが、それだけでは支持が広まらなかった。また、欧州では移民排斥がナチスのユダヤ人排斥を連想させるものである事も移民排斥を主張する「極右」政党の支持が広がらなかった一因でもある。さらに、過大な難民(非キリスト教徒)の流入は、自国の社会を変革するだけではなく、崩壊に導びくという議論もなされたが、その議論も「文明の衝突」を連想させるということで、支持を広げる決め手とはならなかった。

 そのような排外主義の壁を破ったのが「福祉排外主義」と言われるものである。移民の流入・増大により、「近代化の敗者」に対する社会扶助が以前にもまして必要となった。そのためには、
① 増大する需要に対応できる財政上の措置
② 社会扶助費削減のため、社会扶助の対象となっている移民の対象者数を削減
という二つの手法がある。後者を強く主張する者が「福祉排外主義者」となる(勿論、それと合わせて、前者を主張することも可能である)。

 この「社会扶助の対象となる移民削減」のためには、そもそも、受入移民数を削減し、更に(可能であれば)、移民を「国外追放」という施策が俎上に上る。このようにして、反移民ひいては(経済面での)反グローバル主義が無視できない状況となってきた。
限られた資源であるならば、まず、自国民の「近代化の敗者」に分配すべきというのは、国民国家という制度的建前からは正当な要求である 。そして、その訴えは自国の「近代化の敗者」の琴線に触れた。そして、「近代化の勝者」であり、グローバル化に対応した「勝者」であるリベラルと「近代化の敗者」との亀裂、断層が可視化されるようになった。

 (グローバルな)リベラルのスローガンでもある「『国境を越えた』弱者救済」は成功者が「善人」であることを示すお手軽な手法となっていった。その結果、グローバル化の波に乗った成功者は「善人」であることを示すためにリベラル的に振る舞うこととなる。そして、弱者救済という左派・リベラルのスローガンは「金持ちの道楽」へと堕落していった。

 更に言えば、「道楽」であることから、「救うに値する」人を決めるのはリベラルが恣意的に決める。国内の「没落した中間層」は彼らリベラルの琴線に触れることはないため、決してリベラルによる「救済の対象」とはならなかった。それに加え、リベラルは資産を「グローバル化」の恩恵を利用して国境を越えて回避 させる一方、「弱者(≒難民)」を受け入れる負担(例:国内の中間層の職を奪う)は「グローバル化」による資産隠しには縁遠い国内の中間層(「没落した中間層」に押し付けた。

 言い換えれば、リベラルは「グローバル化」の果実だけを享受し、自己満足のために「弱者」救済を唱えるが、その負担は国内の「没落した中間層」に押し付けて、自分たちは負担を回避している。その負担を強いられる者が異議申し立てしようとすれば、リベラル派「差別主義者」として彼らの人権を認めようとせず、継続して負担を強いる。これは、先に述べた「二重基準」と「反転可能性の欠如」という「リベラルの自己矛盾」ということを示して余りある 。

119キラーカーン:2017/09/16(土) 01:23:51
6.3. 各国の状況
6.3.1. G7諸国
6.3.1.1. 日本(日本型ネトウヨ政党と欧米型ネトウヨ政党との並立)
6.3.1.1.1. 総説
 我が国の「ネトウヨ化の歴史」についてはこれまで縷々述べてきたところである。したがって、本節では、その歴史的事象から得られた知見を基にした理論的枠組を中心に記述する。

 我が国の「ネトウヨ化」における他国との大きな違いは「歴史認識論争」主導型ということである(欧米型及びドイツ型は「移民問題主導型」)。また、我が国は移民受け入れが少ないこともあって、欧米型やドイツ型のように「移民問題主導型」にはなり得ない。このため、欧米の「極右」勢力からは我が国の移民政策が「理想像」と見られることもある。したがって、我が国では、他国とは異なり「没落した中間層」は、グローバル化による移民の流入ではなく、グローバル化による産業の空洞化とデフレ経済がもたらされたものである。

 このように、我が国においては、欧米型ネトウヨ政党が敵視する国内移民が殆ど存在しない。その代わり、「歴史認識論争」で母国の肩を持ち、現在の居住国である我が国に対してヘイトスピーチまがいの批判を行う「特定アジア(三国)」(中国、北朝鮮及び韓国の三国をいう)に向けられている。

 特に、在日朝鮮人に対しては、その「反日」的姿勢がマスコミ等によって強調されるため 、歴史的経緯、そして、「特定アジア」諸国の一員として批判の矛先が向くこともある。
このような経緯もあって、歴史認識に起因する周辺各国との関係悪化を契機に「日本型ネトウヨ政党」が結成された。このような「日本型ネトウヨ政党」は「太陽の党」の党を嚆矢とする。その後、紆余曲折を経て、現在の「日本の心を大切にする党」に繋がっている。

 しかし、現状では、安倍自民党が所謂ネトウヨ層の受け皿となっているため、党勢が伸び悩み、国会内では自民党と統一会派を組むなど、「安倍自民党別動隊」というような状況となっている。
その背景には、安倍総理が「自民党の右」に位置する政治家であり、かつ安倍総理自身が拉致問題をきっかけに総理の座を掴んだことがある。その結果、安倍政権である限り、自民党は日本型ネトウヨ勢力の受け皿として機能する。したがって、安倍政権が長期安定政権(最近はその安定度に陰りがさしているが)となった現在、日本型ネトウヨ政党(勢力)が自民党に吸収されるのは当然の成り行きである。

 このような「日本型ネトウヨ化」の動きとは別に、グローバル化による現状改革勢力が一定の勢力を確保し、それらは「第三極」と言われるようになる。その中から、日本産「欧米型ネトウヨ政党」といってもよい「維新系政党」 が発生した。「維新型政党」は現在においても、「第三極」としての存在感を有しており、所謂「無党派」の受け皿となって、自民党と拮抗する勢力になる可能性を秘めているのは、最新バージョンの「維新型政党」である「都民ファースト」の2017年の都議選に圧勝し、東京都自民党を一敗地に塗れさっせたことにも表れている。

 このように、我が国の政治環境において、日本型ネトウヨ勢力と欧米型ネトウヨ勢力とが並立しているという特異な状況にある。日本型ネトウヨ勢力は安倍自民党に事実上吸収されたが、欧米型ネトウヨ勢力は依然として「第三極」としての存在感を示している。「都民ファースト」が一定の統治能力を見せ、民進党に代表される「野党の保守的勢力」を糾合して国政に進出すれば、自民党に取って代わる勢力となる可能性もある。しかし、国政政党としての「維新」も党勢が伸び悩み、「大阪維新」の東京版築地市場移転問題を巡り、小池都政が混迷の度を増していることから、我が国における欧米系ネトウヨ政党がこれ以上勢力を伸ばす可能性は低いと見積もられる。

 移民の受け入れが極端に少ない我が国では、移民が我が国の社会に対する脅威であるとは認識されていない。この点が「維新系政党」と「欧米型ネトウヨ政党」との最大の際である。したがって、反移民が主軸である「欧米型ネトウヨ政党」と「維新系政党」を同一類型として扱うことについては異論があると思われる。しかし、ポピュリスト政党としての共通点を重視することによって、「歴史認識論争」主導型である「日本型ネトウヨ政党」と「維新系政党」との差異分析、ひいては我が国の政党間の差異を明らかにするうえでも有益であると考えるので、「維新系政党」を「ポピュリスト政党」ではなく、「欧米型ネトウヨ政党」(或いは亜種)として扱っている。

120キラーカーン:2017/09/17(日) 01:57:45
6.3.1.1.2. 日本型ネトウヨ政党(「たちあがれ日本(含む後身政党)」)
6.3.1.1.2.1. 「たちあがれ日本」の結成
 歴史認識論争において、所謂「自虐史観」を批判する側に属していた政治家は、当時の自民党においても「一番右」に位置していた。そのような政治家の代表的存在であった平沼赳夫氏は無所属となっていた 。彼らは、民主党政権の成立による政界の「リベラル化、左傾化」の中で、自民党の中で埋没するよりは「反民主党・保守」の旗幟を鮮明独自の政党の結成を模索し「たちあがれ日本」を結成する。

 日本における保守政治家の代表的存在であり、当時、東京都知事であった石原慎太郎氏は「たちあがれ日本」の発起人とはなったが、参加はしなかった。結党後初の国政選挙となった2010年7月の参議院通常選挙では比例区で1議席を獲得した。しかし、その後、民主党への対応方針を巡り、与謝野馨氏が離党 するなど党勢は伸び悩んだ。

 「たちあがれ日本」は他の小政党にも連鋭を呼びかけたが、結局浪人中の元議員を立候補予定者として糾合する程度であった。その中で、発起人でもあった石原都知事が次期総選挙に都知事を辞職して「たちあがれ日本」に合流することを2012年11月に表明する。石原氏の合流表明を受け「たちあがれ日本」は、同月13日、「太陽の党」へ党名を変更し石原氏を正式に共同代表として迎え入れた。

6.3.1.1.2.2. 「日本維新の会」との合同と分裂
 その直後の同月17日に国政進出を目論む大阪維新の会と合流し、「日本維新のとなったため、「太陽の党」は5日間で姿を消した 。同年12月に行われた衆議院総選挙で日本維新の会は小選挙区、比例区合わせて54議席を獲得し、野党第二党(衆院第三党)に躍進する。しかし、続く2013年7月の参議院通常選挙では、「みんなの党」をはじめとする「第三極」との選挙協力が難航し、地方区、比例区合わせて議席の獲得に留まった。

 結局、「ネトウヨ」といっても、日本型と欧米型とは相性が悪かったのか、「石原派(日本型ネトウヨ政党)」と「橋下派(欧米型ネトウヨ政党)」に分裂し、元どおりとなった。分裂後は、前者が「次世代の党」となり、後者が「日本維新の会」の名称を継承した。その後、橋下派は「みんなの党」からの離脱者で結成された「結いの党」と合併し「維新の党」となった。

6.3.1.1.2.3. 原点回帰と安倍自民党
 「たちあがれ日本」に始まる「日本型ネトウヨ政党」は、維新系政党との合同・分裂を経て「次世代の党」として「日本型ネトウヨ政党」としての原点に回帰した。「次世代の党」の課題は、「保守政党」と「維新系政党」との間で「日本型ネトウヨ政党」としての独自の存在意義を国民に訴求できるか否かという点にあった。

 「たちあがれ日本」結成当時は民主党政権である、野党に転落していた自民党は、(自民党内では)リベラルな谷垣総裁あった。このため、「自民党の右」という位置は、民主党政権や「リベラル」な谷垣自民党に飽き足らない保守層に対して訴求効果があった。
しかし、「次世代の党」となった時点では安倍政権であった。先に述べたように、安倍総理は拉致問題をきっかけに政治家として飛躍したこともあり、安倍総理は所謂ネトウヨ層からの支持が高かった。また、それに加えて、所謂ネトウヨ層以外からの安倍内閣の支持率は高かった。

 このような政治情勢では、「次世代の党」は安倍自民党との違いを打ち出すことは困難となる。まして、相手は衆議院で安定多数を擁する与党である。この結果、「次世代の党」の党勢は先細りになっていった。

 「次世代の党」は「日本のこころを大切にする党」を経て「日本のこころ」に党名を変更して党勢挽回を期するが、党勢は回復せず、2017年の通常国会から自民党と統一会派を組み、事実上、自民党に吸収された状態である。

 今後、非自民によるリベラル・左派政権が誕生し、自民党が「左旋回」しない限り、「日本型ネトウヨ勢力」は自民党内で「自民党の右」という政治勢力として活動していくことになると思われる。これは、「たちあがれ日本」結党前の状態に戻ったことを意味している(つまり「元の鞘に収まった」ということである)。

121御前:2017/09/17(日) 10:47:50
北朝鮮から国土上空に2回もミサイル飛ばされて、例の迎撃ミサイルは一体何のためのものなのでしょうか?
世界のパラダイムがこれほどまで変わってしまった以上、日本は第9条改正どころか、核武装議論もしなければならないように思えてきました。

莫迦政府と無理心中したくないですわ。

122新八:2017/09/17(日) 19:48:28
日本の迎撃機能は万全です。
撃たなかったのは、撃つ必用がなかったと言う事だと思っています。
あと、世界のパラダイムが変わったとは、私は考えていません。
シー・チンピンが、「朝鮮人とは何か」が分かっていなかっただけではないかと愚考しております。
プーチンは、さすが良く分かってらっしゃると、私は見ております。

で、臨時国会の日程が、9月28日開始と決まったときに、うっすら『解散?』と予感したのですが、どうやらそのようになりそうですね。

>莫迦政府と無理心中したくないですわ。

ちゃんと選択肢を与えられる素晴らしさを享受しましょう。
民主主義って素晴らしい。
憲法改正も、核武装も実現できるとすれば、それこそ「圧倒的な民意」あればこそなのですから。

123御前:2017/09/18(月) 00:27:13
私の言った「世界のパラダイム」とは、冷戦時代のことですね。未だあの頃のまんま、平和憲法を守っていればいいと思い込んでいる風潮があるのは恐ろしいです。
あと憲法改正が通っても間に合うかどうか、もはや危ない状態ではないかと思います。どんな莫迦な憲法があろうと、有事の際は超法規の防衛出動する政府ならいいですが、残念ながらその確信が私は持てません。この先ミサイル2回も飛ばされてこれでは、この先3回、4回と上空侵犯しても「まだまだ撃つ必要がない」と延々言ってる可能性高いと思います。これがNATOなら、とうに戦闘開始になっていますよ。
ここでよく、日本は一度痛い目に遭わないと変わらない、という意見もありますが、じゃあいざ自分とこにミサイルが落ちてきて犠牲者になってもいいかと言えばそれはみんな嫌なわけです。なら、あらゆる危険性は排除すべく備えるのが国家安全保障ですよね。

124キラーカーン:2017/09/29(金) 00:23:51
6.3.1.1.4. 欧米型ネトウヨ政党(所謂「維新系政党」)
6.3.1.1.4.1. 「維新系政党」を「欧米型ネトウヨ政党」とみなした理由

 先に述べたように、我が国の特殊状況として、日本型ネトウヨ政党の他に欧米型ネトウヨ政党が存在することもあげられる。所謂「維新系政党」は
① 新自由主義的政策志向
② 「敵か味方か」という二分法で支持を調達(「1ビット脳」的政治)
という点で欧米型ネトウヨ政党と共通性がある。

 「維新系政党」に共通するこのような特徴は「欧米型ネトウヨ政党」が有するポピュリスト的性格と共通する。このため、欧米型ネトウヨ政党と比べて移民排斥傾向が少ない維新系政党を「ネトウヨ政党」ではなく「ポピュリスト政党」に分類されることもある。
また、維新系政党の発祥の地である大阪は部落差別問題に代表されるように、大和時代以来の長い歴史に培われた独特の「しがらみ」存在する。初代の「維新系政党」である「大阪維新の会」はそのような「しがらみ」を理由とする「既得権益」を打破するという立場を取った。

 そのことにより、大阪維新の会は、自由競争、規制緩和、民営化という新自由主義的色彩を自然と纏うこととなった。そして、そのような新自由主義的色彩は「大阪維新の会」の政党後継者的位置にある「日本維新の会」にも受け継がれている。

 欧州では、EU統合(≒ユーロ圏)により、既成政党側も財政赤字の制限などが科され、国家としてある程度の新自由主義的政策を採る必要性に迫られている。そのため、政権担当能力がある既成政党(特に議会第一党を狙う政党)は、ある程度、新自由主義的政策を採らざるを得ない。

 それにより、新自由主義と移民に対する厳しい態度を政策の二本柱とする「欧米型ネトウヨ政党」と既成政党との政策距離を小さくする。「欧米型ネトウヨ政党」としては、そのような既成政党との差別化或いは主要支持者層である「没落した中間層」の支持を維持するために、新自由主義的政策ではなく、ある程度左派的福祉政策(所謂「バラマキ福祉」)を主張する必然性が存在する。この結果、「アベノミクス」においても、そのような左派的或いは「大きな政府」的な色彩が強い。

 しかし、我が国では、既成政党、特に自民党が新自由主義的政策から距離を置いているため、「維新系政党」が新自由主義の主張を変えていない 。

125キラーカーン:2017/10/03(火) 01:10:48
6.3.1.1.4.2. 「欧米型ネトウヨ政党」との相違点(「移民」に対する警戒感の程度)

 我が国は、従来、移民の受け入れには厳しく、我が国に在住している定住外国人(所謂移民)が欧米各国に比して少ないことから、所謂「移民」に分類される我が国における定住外国人又は外国系日本人問題(特に一世及び二世)が重要な政治課題として提起されることは少ない。このため、維新型政党は移民排斥という考え方も弱く、外国人に対する生活保護支給反対のような「福祉排外主義」の色彩も弱い 。

 この結果、維新系政党発祥の地である大阪では朝鮮学校用地の地代の引き上げといった「反在日朝鮮人」的な政策と「ヘイトスピーチ規制条例」など、在日外国人、特に在日朝鮮人に対して融和的な政策が併存しているが、それも新自由主義の影響が強い結果であると仮定すれば一応の筋は通る(学校用地の地代の減免は。規制緩和と「公平な」自由競争の原理に反し、「ヘイトスピーチ規制」も「言論の自由競争(市場)」を妨げるものと解釈すれば、新自由主義的政策の枠内に収まる)。

 この点において、中間層の職と所得を奪い「没落した中間層」の主犯として移民をやり玉にあげ、その結果。移民排斥を唱える「欧米型ネトウヨ政党」との顕著な差となっている。
6
.3.1.1.4.3. 「維新系政党」最新バージョンしての「小池新党」

 「欧米型ネトウヨ政党」である維新系政党は離合集散を経て、現在、事実上大阪を基盤とする地域政党に回帰した。その結果、大阪以外の地域は、事実上「維新系政党」の空白地となっている。したがって、大阪以外の地では、新たな「維新型政党(欧米型ネトウヨ政党)」が発生する余地がある。その可能性は東京都において「小池新党」という形で現実となった。

 これまでに述べたように、小池都知事は、自民党から飛び出す形で東京都知事選挙に打って出て当選した。その後、2017年7月に行われた東京都議会選挙において知事与党としての「都民ファーストの会」を結成し、都議会第一党の座を獲得した。

 この「小池新党」の勝利は、「非自民かつ非リベラル・左翼」という意味での「第三極」或いは「欧米型ネトウヨ政党」に対する有権者のニーズが現在においても高いことを意味している。2017年10月に(解散による)衆議院総選挙が実施されるため、「小池新党」も地域政党ではなく、国政政党「希望の党」として活動を始めている。

 しかし、小池都知事の政治手法は、「その場限りの刹那主義」であり、政治家としての一貫性を考慮しないという手法においては橋下氏よりも徹底している。また、選挙区当たりの政党数を「2」(≒二大政党制)に収束させる小選挙区制による要請により、非自民勢力は「単一政党」に纏まる誘因が発生する。その結果、小池新党に参加する面々も「日本のこころを大切にする党」から「民進党」まで「幅が広く」、彼らの政策位置も「ごった煮」状態である。小池都知事は、民進党の弱体化によって「草刈り場状態」となった「非自民かつ非リベラル・左翼」という「選挙互助会」的ニーズに的を絞って小池新党を立ち上げた。

 このような「ごった煮」状態と橋下氏を上回る小池都知事の刹那主義という観点からすれば、小池新党は「維新系最新バージョン」としての「欧米型ネトウヨ政党」というよりも、日本初の「本格的ポピュリスト政党」というべきかもしれない。

126キラーカーン:2017/10/05(木) 23:51:18
6.3.1.1.5. 「第三極」(特に「みんなの党」)の離合集散と消滅

 1993年の非自民連立政権(細川内閣)の発足による政治改革の動きの中、非自民、非労組(≒旧社会党⇒民主党)つまり、規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」を旗印に掲げる勢力が誕生した。我が国ではそのような政治勢力を「第三極」と称していた。

 二大政党の一角を占める民進党(旧民主党)も結党当初は、自民でも社民党(旧社会党)でもない政党として結党した過去があり 、民進党も第三極的色彩も有している。

 小選挙区制の導入や新進党の解党を経て、非自民勢力が、民主党へ一本化されていった。その過程で、旧社会党勢力も民主党へ吸収されることとなったため、自民党及び新進党とは異なる「第三極」として発足した民主党においても、旧社会党や民社党の支持母体である労働組合の発言力が強まり、リベラル・左派的色彩が強まっていった。

 このような民主党の「左傾化」及び自民・民主の二大政党化を受け、非自民・非民主の規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」を目指す政党として「みんなの党」が結成された。

 以後、規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」を目指す政党を「第三極」として扱われることとなり、「維新系政党」も「第三極」の一つとして扱われることとなった 。みんなの党は、一時期、公明党をも凌ぐ勢いも見せ、参議院選挙では三人区以上で議席を確保した。しかし、その後、程なく党勢は頭打ちとなった。

 このように、「みんなの党」と「維新系政党」は自由主義的政策志向という点において和性が高い。このため、両党の合同論は断続的に発生した。その一方、それ以外では所属国会議員間の政策距離が大きかった。このため、非自民・リベラル志向の議員も存在し、彼らは「維新系政党」よりも民主党に親近感を感じていた。それらの政党と離合集散を繰り返している。

 結局「みんなの党」の主流派は「維新系政党」との合流を選択し、「みんなの党」から分離し「結いの会」を結成した上で「維新系政党」と合流した 。しかし、合流した「維新系政党」の中でも、大阪派(橋下派)とそれ以外との路線対立が発生し、後者は民主党へ合流し民進党となった。

 このように「第三極」(と民主党)は規制緩和と行政経費削減による「小さな政府」という点での共通点はあり、また、小選挙区制の選挙区(衆議院の選挙区と参議院の「1人区」)が多数を占めることから「第三極」として一つの政党に纏まるということは、国政政党として存続するうえでも望ましい選択であった。しかし、それ以外の点において政策距離が大きかったため、「第三極」は離合集散を繰り返し、現在では、「維新系政党」と民進党及び「小池新党」に吸収され、政党としては消滅している。

127キラーカーン:2017/10/08(日) 01:47:32
6.3.1.1.6. 自民党等の関係
 自民党との関係では、「自民党の右」に位置する「日本型ネトウヨ政党」(「たちあがれ日本」⇒「太陽の党」(⇒「維新系政党」)⇒「次世代の党」⇒「日本のこころを大切にする党」が対象となる。先に述べたように、安倍総理・自民党総裁が「自民党の中での『右』」に属する政治家であったため、潜在的「日本型ネトウヨ政党」の支持者層が安倍自民党支持層となっている。この結果。「日本型ネトウヨ政党」の党勢は伸び悩み、国会では自民党と統一会派を組むに至り、自民党に事実上吸収合併された形で、現在に至っている。ただし、「小池新党」(「希望の党」)結成を機に、「日本のこころを大切にする党」党首の中山恭子参議院議員は自民党ではなく、「小池新党」に合流した。

128キラーカーン:2017/10/09(月) 01:48:00
6.3.1.1.7. 2017年10月総選挙
(未定)

6.3.1.2. 英国(英国独立党の躍進)
6.3.1.2.1. グローバル化の勝者であるリベラルに対する反発
 英国でも福祉排外主義を唱える英国独立党(UKIP:United Kingdom Independent Party)が経済成長から取り残されたブルーカラーや非熟練ホワイトカラー層の支持を集めている。英国独立党の標語は「国民保護サービスであって国際保護サービスではない」というものであり、福祉排外主義に合致する。但し、英国独立党には「小さな政府」を志向するリバタリアン的潮流も存在する 。このため、今後、主たる支持者層である「没落した中間層」とリバタリアン的路線との間での軋轢が生ずる可能性もある。

 英国独立党のもう一つの支持者層は英国のEU懐疑派である。英国はEUの前身であるEC(ヨーロッパ共同体)の原加盟国 ではない。それどころか、ECに対抗してEFTA(ヨーロッパ自由関税同盟)を設立したのちに、EFTAを裏切る形でECに加盟した(1971年)。また、サッチャー政権も「反ヨーロッパ」的姿勢をとっていた。英国労働党の支持者層が他国の「極右」政党と比べて支持者層の平均年齢が高いのはこのような歴史を実際に体験した層の一定程度が英国独立党の支持者層となっているからと推測されている。

 「近代化の敗者」或いは「EU懐疑派」どちらであっても「グローバル」よりは「ナショナル」である。それが、集合名詞であるところの「国民」としての拒否感であるのか、「個人(労働者)」としての拒否感であるのかの違いである。ここでもグローバル化の「勝者」としてのリベラルそして自国民よりも「非国民」の救済を優先するリベラルに対する「敗者」の反発がある。ここでもグローバル化の敗者に対するリベラルの冷淡さ が「ネトウヨ化」を招いていると見ることができる。

129キラーカーン:2017/10/10(火) 00:58:20
6.3.1.2.2. 英国内の地域対立とEU離脱問題との関係
 我が国では「英国」とあたかも単一国家のように扱っているが、英語で「UK:United Kingdom」というように、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの地域 からなっており、スコットランドには独自の議会も存在する。このため、これまで述べてきた地域間対立も「リベラルVS非リベラル」に影響を及ぼす。

 特にスコットランドは、2014年、スコットランドの独立を問う国民投票が実施されたことや北海油田の利益分配などでイングランドとは潜在的な対立関係にある 。EU離脱を問う国民投票では、スコットランドがEU残留で、ロンドン都市圏などを除くイングランドがEU離脱派という投票結果で、英国内の地域別の温度差が明らかとなった。

 2015年の総選挙でもスコットランドの地域政党であるスコットランド国民党(SNP:Scottish National Party)がスコットランドでは、59議席中56議席を獲得するという「完全試合」を成し遂げている。スコットランド国民党は中央レベルでは労働党と政策位置が近く、2015年の総選挙でも、仮に勝利すれば、労働党と連立を組むとの観測もあった。したがって、スコットランドにおいては、民族自決主義が「ネトウヨ化」或いは「極右政党」とは結びついていないというのが特徴となっている。

6.3.1.2.3. 2017年6月の総選挙(「大きな政府」路線による野党労働党の健闘)
 メイ首相は、労働党の合意を取り付け、EU離脱交渉を名目として解散総選挙に打って出ることとした 。解散時点では保守党が圧倒的有利であるといわれていたが、選挙期間中に労働党が差を詰めた。選挙結果は保守党が第一党の座を守ったものの、議席を減らし、過半数を割り込んだ。このため、実質的には保守党の敗北となった。保守党は、過半数まで10議席足らずという議席数であるため、少数単独政権を選択した。当面は北アイルランドを地盤とする保守政党である民主統一党(10議席)の閣外協力を得て政権運営を行うことを選択した。過半数を制する政党が存在しない中でのメイ首相の政局運営となるため、予断を許さない。

 労働党が健闘した要因としては、①「オールド・レイバー」とも言われるコービン党首が脱緊縮を掲げた政策を打ち上げたこと、②英国に選挙疲れがあったこと、などが言われている 。冷戦終結後の経済のグローバル化に対応したブレア元首相の唱えた「ニュー・レイバー」の効力が無くなり、長期低迷傾向にあった労働党が、「反緊縮」という旗印で「没落した中間層」の救済に取り組んでいるというメッセージを有権者に与えたことにより労働党が健闘した原因と言ってもよい。

 これは、トランプ大統領にも言えることであるが、「ネトウヨ化」の主力と見られている「没落した中間層」の票を獲得することができた効果でもある。これは、「欧米型ネトウヨ化」が経済主導型である事を如実に示している。

 ネトウヨ化以外の貧困対策(具体的には、反緊縮による「大きな政府」)を打ち出し、その政策が彼ら「没落した中間層」の琴線に響けば、左派であっても彼らの票を獲得できるということの証明でもある。

 その一方、ここ数年、英国政治の「台風の目」であった英国独立党(UKIP)が、今回の総選挙で敗北を喫した。前回の総選挙では二大政党に次ぐ得票率(10%超)を記録したが、今回は1%超の得票率にとどまった。EU離脱を掲げるUKIPの得票が激減したことも、労働党の健闘と合わせて、英国政治の「潮目」が変わったのかもしれない。その結果は、比例代表制で行われる次回の欧州議会選挙結果で明らかになるであろう。

130キラーカーン:2017/10/12(木) 01:04:09
6.3.1.3. 米国
6.3.1.3.1. トランプ大統領の誕生
 2016年の世界での最大ニュースがトランプ大統領誕生であったと認定しても、少なくない人が首肯するであろう。それほどまでに、トランプ大統領の誕生は世界に驚きと衝撃をもって受け入れられた。そして、大統領選を通じてグローバル化の「勝者」であるリベラルと「敗者」である「ラスト・ベルト」の労働者が対照的に映し出された 。勿論、前者の代表がヒラリー・クリントン女史で後者の代表がドナルド・トランプ氏であるのは論を待たない。クリントン氏はまさに「リベラル・エスタリッシュメント」の象徴として捉えられた 。

 ヒラリー・クリントン氏やハリウッドスターに代表される「セレブ」なリベラルがマスコミと一丸となって中間層(トランプ支持派)を「敗者」と見下し、見捨てるという構図は大統領選挙で明確に見受けられた 。その一方、大統領選挙でトランプ支持者に取材すると「『オレに意見を求めてくれるのか』『長く話を聞いてくれてありがとう』と喜んでくれた。しばらくして、わかった。自分の声など誰も聞いていない。自分の暮らしぶりに誰も関心がない。あきらめに近い思いを持っている人たちが多かった」 との反応が返ってきたというのがその一例である。

 トランプ支持を公言するとマスコミから人種差別主義者を始めとするリベラルから「PC」で袋叩きに遭うという現状から、マスコミの世論調査でもトランプ支持を公言できないという「隠れトランプ支持派」が存在するとされていた。大統領選挙の結果はその存在が事実であったことを如実に示した。

 大統領選挙でトランプ支持を公言した者に対して暴行を加えるという事件も発生しており、「残虐さ」ではリベラルも「極右」 も差はない。それどころか、マスコミは「極右」の暴力は

 トランプ氏は、リベラル的価値観ではなく、「没落した中間層」に「未開拓の票田」を見出し、大統領に当選した。この結果、リベラルを敵に回し、「分断」と正面から対峙せざるを得なくなったトランプ政権が、とりあえず、4年間の任期を全うできるか否かが焦点である。

131キラーカーン:2017/10/14(土) 02:14:04
6.3.1.3.2. シャーロッツビルでの左右両派の衝突
 2017年8月、米国バージニア州シャーロッツビルで、右派(白人至上主義者)と左派が衝突し、その際、左派の女性1名が死亡した。

 この衝突の発端は、南北戦争での南軍の司令官であったリー将軍の銅像を撤去することに反対の人々による集会であった。その集会に参加した人の中に、白人至上主義者やネオナチをいわれる者が参加したことに対してリベラル側が抗議集会を行った。その両派の集会を分離できずに衝突したが発端であった。

 先に述べたように、右派の参加者に白人至上主義者が存在していた。このことによって、この問題は、人種差別の克服という現代アメリカの「国是」を巡る論争へ移行した。また、左派の側に車で突入したことによる死亡者が発生したこともあり、マスコミの論調は「右派の全面否定」という様相を呈していった。

 この一連の事件に対し、トランプ大統領は、人種差別と「双方」の暴力を批判したことで、マスコミはトランプ大統領に「人種差別容認」とのレッテルを張ったが、左派の「暴力」については何も触れなかった。

 その後、左派の「反差別活動」はエスカレートし、米大陸を「発見」したコロンブスが「人種差別主義者」であるとして毀損されるという事例も生じ始めている 。このような事態を受け、トランプ大統領は「リー将軍の次はジョージ・ワシントンか」という旨の発言をしたが、当該発言も物議を醸しだしている。

6.3.1.3.3. 「分断」を白日の下に曝したトランプ大統領
 このような、一連の事態をリベラル・左派は「分断」と称している。そして、その分断は、「右派」によって生じたものであるとしている。さらに、シャーロッツビルの事件が深刻化した原因を「白人至上主義者」に対して断固たる態度をとらないトランプ大統領に原因があるとしている。

 しかし、トランプ大統領は「極右」の存在を完全に否定しなかったことで初めて、「分断」が認知された。確かに、大統領選挙結果からも「分断」の存在は可視化されていたともいえるが、今回のシャーロッツビルの事件によって、その分断が「だれの目にも」明らかになったことは相応の意味がある。

 トランプ大統領は「暴力的な左派」の存在を事挙げすることにより、リベラル・左派の暴力行為及び「違法行為」も避難していることもマスコミの批判を浴びている。「目的のためなら『違法』な手段も正当化される」というのはリベラル・左派の「伝統芸能」であることは、ソ連などの社会主義諸国の例を引くまででもない。また、北朝鮮や中国といった現時点における社会主義国が抑圧的な体制である事も論を俟たない。

 今般のシャーロッツビルの事件においてもリベラル・左派は、トランプ大統領が白人至上主義者を批判しなかったこと及び彼らの「暴力」をこれまでにない勢いで批判している。しかし、リベラル・左派の暴力・違法行為について批判することはない 。

 これまで、欧米のリベラル・左派は我が国のそれとは異なり、二重基準と反転可能性については厳しいものだと思われてきた。しかし、今回のシャーロッツビルの事件に対する一連の反応から、少なくとも米国のリベラル・左派は我が国のそれと同様の「自分勝手なダブルスタンダード」の陥穽に嵌ったと判断せざるを得ない 。
シャーロッツビルの事件におけるリベラル・左派の行状は「しばき隊」のそれの忠実なコピーのように見える。

132キラーカーン:2017/10/15(日) 00:31:17
1.1.1.1.1. 「分断」を作り出したのはグローバル化とそれに掉さしたリベラル・左派
 マスコミの論調ではこのような分断を生じさせたのはトランプ大統領の政治姿勢であるとされている。しかし、実際には、「分断」をもたらしたのはリベラル・左派の側である。トランプ大統領派その「分断」を利用して大統領になり、かつ、その「分断」を白日の下に曝したが、「分断」そのものの「原因」ではない。

 「ラスト・ベルト」に代表されるように、トランプ氏の大統領選出馬前から、米国には、グローバル化の波に乗れず、その結果、リベラル・左派から見捨てられた「没落した中間層」が既に存在していた。リベラル・左派はそのような存在から目を背け、無視し、「存在しない」かのように振る舞っていた。それを象徴するのが、ヒラリー・クリントン元上院議員の「deplorable」という発言であった。

 このように、リベラル・左派はそのような「没落した中間層」の存在を認知しないことよって、「分断」が存在しないものとして振る舞っていた。そのような「没落した中間層」の存在を否定する限り、「没落した中間層」との間に生じた「分断」の存在も否定され続ける(相手が存在しない限り、「分断」も存在しない)。

 また、リベラル・左派は「グロール化に掉差した成功者として、合法・違法を問わず、国境を超える人々の人権を擁護する一方で、「没落した中間層」の窮状に耳を傾けることはなく、彼らの窮状を無視し続けた。

 そして、リベラル・左派が育成・培養した「分断」即ち「没落した中間層」が一定の割合を超えたとき、彼らの代表が政治の舞台へ躍り出る。その代表例が共和党ではトランプ大統領であり、民主党において、そのような「没落した中間層」の声を救い上げたのは「極左」のバーニー・サンダースであった。

 大統領となったトランプ氏は言うに及ばず、サンダース氏も、エスタブリッシュメントの代表となったリベラル・左派の代名詞的存在となったヒラリー・クリントンに一太刀浴びせ、大統領予備選でも、最後まで、ヒラリー・クリントン女史と民主党候補の座を争った。このことからも、左右問わず、このような「没落した中間層」の声が大統領選を左右するまでに大きくなっていることを可視化した。

133キラーカーン:2017/10/19(木) 23:38:24
6.3.1.3.5. 南北戦争を巡る米国の歴史認識論争、それとも、米国の「文化大革命」

 先に述べたように、シャーロッツビルの事件の発端は、同市にあるリー将軍の銅像の撤去を求める声に対する抗議集会であった。リー将軍の銅像の撤去を求める声の背景にあったには「黒人奴隷制度を維持しようとした南部連合の総司令官であるリー将軍は人種差別主義の象徴である 」というものであった。その騒ぎが大きくなり、また、シャーロッツビル以外の地においても、「奴隷制度を支持した」南軍関係の銅像の撤去や目に触れないようにするなどの措置が広まっている。

 このような状況の中で、南北戦争の「敗者」である「南側」視点の「歴史認識」は奴隷制容認の御題目の前に十把一絡げに葬り去られようとしている。また、南軍関連の銅像が毀損される だけではなく、動機は不明であるが、リンカーン大統領の銅像に火をかけられたという事件も発生している 。

 南北戦争とは関係ないが、ジョージ・ワシントンといった人物についても「当時」奴隷を保有していたことや以って銅像が撤去されるとの懸念も出始めている 。また、米大陸を「発見」したコロンブスの銅像が毀損されるという事件も発生している 。

 ここまで事態をみると、かつて我が国でも四半世紀ほど前に繰り広げられた「歴史認識論争」が米国内部で行われている(というよりも、事件の激烈さから「歴史認識闘争」という方がより実態に即しているかもしれない)。また、このリベラル・左派による見境のない行動を文化大革命に准える人も出てきている。

 この南北戦争を巡る歴史認識論争は、これまでに述べたグローバル化が原因ではなく、国内事情というローカルな要因であるというところに特色がある。この場合、南側は我が国と同じ「敗戦国型」のネトウヨ化が深化するものと考えられる。ただし、コロンブス像にまで問題が波及していることから、南北戦争を超えて「コロンブス以後」のアメリカ合衆国の歴史に波及する可能性もある。

134キラーカーン:2017/10/21(土) 00:40:21
6.3.1.4. 仏国(「マクロン旋風」と「国民戦線」)
6.3.1.4.1. 大統領選挙(「対NF(国民戦線)大同盟」?)

 フランスはシラク大統領時代に大統領の任期が7年から5年に短縮された(シラク大統領再選時の2002年の大統領選挙から適用)。この憲法改正により、米国のような同時選挙ではないが、大統領選挙と国民議会選挙が同時期に行われるようになった。このため、大統領の与党と国民議会多数派とが異なる「コアビタシオン 」が生起する確率は低くなったといわれている 。

 コアビタシオンとは。我が国では「ねじれ国会」に相当する事態である。仏国第五共和国制において、大統領と首相との役割分担に関する規定が必ずしも明確でなかったことから、コアビタシオンの場合、大統領と首相のどちらが行政府の実権を握るのかという点が議論されてきた 。これまでの実例の積み重ねから、コアビタシオンが生起した場合、大統領が外交・防衛分野を担当し、首相が内政分野を担当するのがフランス政治における憲法的習律(暗黙の了解事項≒慣習法)とされている。

 2017年の大統領選挙の事前予想では「国民戦線」のルペン党首の決選投票進出が確実視されており、第1回投票 の結果、当初の予想通り、ルペン党首と「無党派(独立系)」で立候補したマクロン氏の両名が決選投票に進出した。

 確かに、事前予想ではルペン、マクロン両氏がやや優位に立っていたとはいえ、第1回投票直前では、中道右派のフィヨン氏と左翼のメランションの2氏を加えた4氏の支持率が20%前後で拮抗していた。このため、態度未定の有権者の動向によっては、4氏全員に決選投票進出の可能性があり、決選投票進出者が誰になるか予断を許さない状況であった。左右二大勢力に加え、極右(ルペン氏)と無党派(マクロン氏)が加わった四つ巴の選挙戦は第五共和国政治史上まれに見る大混戦であったといえる。

 そのような選挙戦の中で、特筆すべき事項として、現職大統領であるオランド氏が出馬断念に追い込まれたことである。更に、オランド大統領後継氏としての大統領与党(中道左派)の候補者が上位4人に大差を開けられていた。

 このような戦況情勢はフランス政治における「リベラル」或いは「左派」の退潮を示していた。「没落した中間層」を取り込むような「反緊縮」或いは「大きな政府」路線はメランション氏のような急進左派の主張となってしまい、冷戦終結後における左派・リベラルの主流派である「グローバリズムと多様性」では、最早「没落した中間層」をはじめとする国民多数派の支持を得られないような状況になっている 。

 マクロン新大統領は新首相に保守派のフィリップ氏(共和党)を指名した。現時点でのマクロン新党(「共和国前進」)の現職議員は社会党からの鞍替組のみという左派色が強いため、フィリップ首相指名を梃子に保守派の支持を獲得したいものと見られている。

135キラーカーン:2017/10/26(木) 00:30:57
6.3.1.4.2. 「NF(国民戦線)」に次はあるのか

 2017年の大統領選挙第一回投票では上位(有力)4名が支持率20%前後で争うという混戦となり、決選投票の顔ぶれさえ予想困難であった。しかしながら決選投票進出者は、事前の世論調査で僅差ながら上位であった、独立系(右派)のマクロン氏と国民戦線のマリーヌ・ルペン氏となった。その点では、激戦だったとはいえ、世論調査通りの「順当」な結果であった。

 国民戦線は2002年の大統領選以来の決選投票進出となった。2002年の大統領選では国民戦線は決選投票でも票の上積みができず(得票率は第一回投票から微増16.86%⇒17.19%)、決選投票に進出したことに意義があるという結果でしかなかった。

 しかし、2017年の大統領選挙では得票率を1.5倍以上に増やしており(21%⇒35%)、15年前に比べて国民戦線への拒否感は薄れているとみられる。国民戦線も人種差別主義的言動が目立った初代のジャン・マリー・ルペン氏から、二代目党首のマリーヌ・ルペン女史になってから、従来の人種差別的な政策ではなく、「フランス及びフランス国民ひいては欧州民主主義を防衛するための移民制限」という欧州の価値観防衛を前面に出している効果が表れていると見られる 。

 したがって、ルペン女史が共和党及び社会党という二大勢力を破り、決選投票に進出したという選挙結果は国民戦線にとって「次の大統領選」或いは国民議会選挙につながる敗北であったとみることができる。しかし、「反NF大同盟」に対抗できる切り札がなければ、マクロン新大統領が5年間の任期で結果を出せず国民戦線以外の選択肢が無くなったとしても、決選投票で勝利するには今のままでは不可能ということも予感させる。

136キラーカーン:2017/10/28(土) 01:06:19
6.3.1.4.3. 国民議会選挙(マクロン派の地滑り的勝利)
 「独立派」或いは「無党派」であるマクロン氏が大統領に当選したことで、次の焦点は、既成政党に基盤を持たないマクロン氏が6月の国民議会選挙で多数を握ることができるか否かに移った。もし、「否」となれば、コアビタシオンとなり、マクロン氏の権限は外交・防衛を中心とした外政事項に限定され、欧州の「右傾化」或いは「ネトウヨ化」に対する第一の処方箋となる経済政策や移民政策は国民議会の多数派の信任に基礎を置く首相の手に帰することとなる 。逆にマクロン新党(「共和国前進」)が過半数を制すれば、政府及び議会の双方におけるマクロン大統領の指導的立場が明確になり、マクロン大統領の政治基盤は安定する。

 議会選挙の結果 は、マクロン氏が率いる「共和国前進」が議会の過半数を占める地滑り的勝利であった(577議席中308議席。)。これまで仏政界を牽引してきた左右両派は主役の座から降りることを余儀なくされた。特に中道左派の凋落は激しいものがあった。

 国民戦線は議席を8議席(6議席増)としたものの、選挙制度の壁に阻まれ、議席数は振るわなかった。また、第一回投票結果同士で比較しても、大統領選挙から得票数を減らしており、大統領選挙での敗北の影響があったとみられる。その一方、メランション氏が所属する「屈しないフランス」は得票数は第一回、第二回双方とも国民戦線より少なかったが、国民戦線を上回る17議席を獲得した。

 この選挙結果により、大統領選と国民議会選を近接した時期に行いコアビタシオンを回避するという制度設計が生かされた形となっている。しかし、投票率も第二回投票で43%と史上最低を記録した(前回比11%減)。この点からも、マクロン氏の政権運営には不透明さが漂う。

 仏国でも、EU離脱問題は国内経済問題或いは移民問題と密接に連動している。この状況下で、コアビタシオンとなれば、「非決定による現状維持」の可能性も無視できず、マクロン氏の経済政策(一層のグローバル化の推進)が実行されないという可能性もある。兎に角、フランスの有権者は当面の国家運営をグローバリストに近いマクロン氏に託したということである。

 また、メランション氏率いる「屈しないフランス」が国民戦線を上回る議席を獲得した。このことも、「没落した中間層」を獲得できる政策が、これまでの主流派(左右問わず)からは出てこないことを意味している。マクロン氏の政権運営が失敗すれば、ルペン氏或いはメランション氏の存在感が増すこととなる。そうなれば、ルペン氏にせよメランション氏にせよ、これまでのグローバリズム的路線は転換を余儀なくされる。

137キラーカーン:2017/10/30(月) 01:30:14
6.3.1.4.4. マクロン大統領の失速
 これまで述べてきたように、大統領選挙に続き、国民議会選挙でもマクロン大統領が勝利した。このことにより、「コアビタシオン」の心配のないマクロン大統領の政権基盤は盤石なものとなったかのように見えた。しかし、就任後程なくしてマクロン大統領の支持率が急落している 。この支持率急落は前任のオランド大統領を上回るものと言われ、この趨勢が続けば、オランド前大統領のように、大統領の再選が望むべくもない情勢となる可能性も否定できなくなってきた。

 その場合、フランス国民の受け皿となるのは、「極右」の国民戦線とルペン党首か、「極左」メランション氏か。いずれにしても、
 これまでのような「中道」路線は否定される。
とは言っても、マクロン大統領には5年近い時間がある。言い換えれば、巻き返すだけの時間は残されている。また、マクロン大統領の人気が失速したことで、一敗地に塗れた中道右派の巻き返しのチャンスが巡ってきたともいえる。「マクロン一強」構造が崩壊の兆しを見せていることで、フランス政治の行方も予断を許さない状況となりつつある。

138キラーカーン:2017/11/05(日) 00:33:25
6.3.1.5. 独国(メルケル政権と「ドイツのための選択肢(AfD)」)
6.3.1.5.1. 総説
 メルケル政権はG7諸国の中で抜群の安定度を保ってきた。現在では、G7首脳の中で最先任となっている。また、2013年の連邦議会 総選挙 では、メルケル首相の出身政党であるキリスト教民主勢力(CDU/CSU) が約20年振りの得票率40%超えを達成し、議席占有率も1957年選挙に次ぐ2番目に高いものであった。

 2017年に国民議会の総選挙が行われ、キリスト教民主勢力(CDU/CSU)が引き続き第一党となった。与党の勝利は選挙前から有力視されていたため、その意味では予想通りであるが、選挙前には大連立を組んでいたしかし、他国と比べての保守政党が強いといわれるドイツにおいても反EU及び反移民を掲げる「ドイツのための選択肢(AfD;Alternativ Fűr Deutschland:英語ではAlternative for Germany)」という「極右」政党の台頭が著しい。AfDは2016年に行われた3つの州議会選挙(バーデン=ビュルテンベルク、ラインランド=プファルツ、ザクセン=アンハルトの各州)で5%阻止条項 を突破し、州議会での議席を確保した。

139キラーカーン:2017/11/08(水) 00:39:00
6.3.1.5.2. 堅調な与党(CDU/CSU)と極右政党(AfD)
 2016年に行われた地方選挙では与党第一党のCDU/CSUが堅調であり、地方選挙でも第一党の座を維持した。また、特筆すべき事項として、中央政界では二大政党の間でキャスティング・ヴォートを握り、長らく連立与党の座を維持してきたが2013年の総選挙で得票率が5%に達しなかったため、議席を失った自由民主党(FDP:Freie Demoktatische Partei、英語ではFree Democrat Party)も、一時期の低迷を脱し、連立与党として返り咲いた。

 緑の党は、環境保護を基本とした政党であり、基本的には左派政党と位置付けられている(これは他国でも同様)。しかし、同党の支持者層は、1980年代後半以降、所謂「ブルジョワ層」が主体となっている。その点では「富裕層が『リベラル』を訴える」という「リベラルのセレブ化」(というよりも「セレブのリベラル化」という表現がより適切か)という傾向はドイツにおいても妥当するといえよう。

 この結果、CDU/CSUは緑の党と支持者層が競合するという事態になり、緑の党も「敗者」である疲弊した中間層の声を救い上げる存在とはなっていない。

140キラーカーン:2017/11/12(日) 00:40:36
6.3.1.5.3. 極右政党(AfD)
 AfDは元来、EU離脱と移民反対という政策を掲げており、「国境」にこだわる政党であった。したがって、元来、AfDは反グローバル化を訴える政党ではあるが、経済主導型ではなく、「ドイツ」の維持というアイデンティティー主導型である。この点でAfD日本のネトウヨと共通している。そのため、発足当初のAfDは「没落した中間層」の支持を必ずしも期待しない政党ではあったことを意味している 。このため、本稿では、AfDを「欧米型ネトウヨ」ではなく「ドイツ側ネトウヨ」として独立した類型を設けた理由でもある。

 しかし、AfDは反グローバル化を主張していく中で、「没落した中間層」からの支持が高まり。政党としても彼らの支持を期待するようになる。この結果、AfDは失業率の高い旧東ドイツ地域で支持率が高い 。この点からも、他国と同様に国内の失業と「極右」政党の伸長との間に正の相関関係がみられる。全国レベルでも、連邦議会での議席獲得に必要な支持率である5%を世論調査でも一貫して超えており、2017年の総選挙での議席獲得が確実視されている。

しかし、AfDも2017年4月の党大会で、
①ペトリ党首が連邦議会への立候補辞退を辞退(党首辞任)
②穏健派(現実派)と原理派との路線対立
が明らかとなり、また、世論調査での低迷している(一時期は支持率が10%超であった)こともあり、一時期ほどの勢いは感じられない。

また、AfDの政策で特筆すべき部分として
①現在の歴史教育が『ナチス期に偏重』
②ドイツ史の肯定的部分への視野拡大
を要求しており 、日本における「つくる会」の「自由主義史観」に類似する部分もある。この点は、第二次世界大戦における敗戦国である日本とドイツとの共通点であるともいえる 。

141キラーカーン:2017/11/14(火) 00:13:13
6.3.1.5.4. 2017年9月総選挙
 2017年9月、任期満了によるドイツ連邦議会選挙が行われた。選挙前から、与党第一党であるCDU/CSUの第一党維持は確実視されていた。しかし、大連立を組んでいた二大政党(CDU/CSUとSPD:社会民主党)の一角であるSPDは大連立内閣で埋没し、党勢が伸び悩んでいた。それ以外の中小政党では、前回総選挙でAfDに支持者を食われる形で議席を失ったFDP(自由民主党)の議席回復とAfDの議席獲得が確実視されていた。

そのような中で選挙戦に突入し、投票結果は次の通りとなった。
① CDU/CSUが事前の予想通り第一党の座を維持したものの、246議席(選挙前 311)に減らし、CDU/CSUの得票率は1949年以降最低となった。
② AfDは94議席(連邦議会で初の議席)を獲得し、第三党となった。
③ 前回総選挙で議席ゼロとなった自由民主党も80議席を獲得し、連邦議会に返り咲いた。議席数では緑の党及び左翼党を上回る第四党となった。
④ 左派勢力では、社会民主党が第二党の座を維持したものの、史上最低の153議席(選挙前192)にとどまった。
⑤ 緑の党は69議席(選挙前63)及び左派党は67議席(選挙前64)と微増にとど まり、AfD及び自由民主党の後塵を拝することとなった。

 ドイツの「die Zeit」誌の分析によれば、今回総選挙の特徴は以下のとおりである
① 100万人以上の有権者が今回の総選挙でCDU/CSUからAfDに乗り換えた。
② 前回総選挙で左翼党に投票した者のうち11%がAfDに投票した。
③ AfDの得票のうち140万票が前回棄権した有権者である。
④ 今回自由民主党に投票した者の三分の一が前回総選挙ではCDU/CSUに投票した。

 この選挙結果から見れば、二大政党が議席を減らした分がAfDと自由民主党が分け合ったということになる。CDU/CSUは社会民主党との大連立で「左旋回」したため、CDU/CSUに取り残された右派の支持がAfDと自由民主党に流れ、前回総選挙で社会民主党に投じた層からは、CDU/CSU、緑の党、左翼党へほぼ均等に投票者が流出している。

 また、この選挙結果を受け、
① 大連立でCDU/CSUに埋没した社会民主党が連立を解消
② CDUと議会内統一会派を組むCSUが独自の立場で連立交渉に参加の動き
という事態が発生している。

 CDU/CSUと自由民主党の2党連立では過半数に達しないため、緑の党を加えた三党連立(ジャマイカ連立 )が本命視されているが、緑の党との政策距離が他の二党と離れていると見られていることから、この三党連立交渉は難航が予想される。

 連立の安定度から言えば、CDU/CSUと自由民主党の連立に社会民主党が加わる「超大連立」或いは総選挙前と同様のCDU/CSUと社会民主党が最適解であるが、社会民主党が歴史的敗北を喫した主因がCDU/CSUとの大連立にあったとの見解が一般的であるため、社会民主党が連立に加わることは現状ではあり得ない。

 その一方、安定した連立政権樹立には、与党の政策距離が近接或いは政策位置が連続している必要があるとする連立政権形成理論がある 。したがって、社会民主党を飛ばして緑の党を連立与党に加える「ジャマイカ連立」は連立政権の安定度に黄信号が灯るという結論になる。

 この結果、「ジャマイカ連立」の交渉が難航し、緑の党が連立に加わらない(或いは緑の党が閣外協力に転じる)CDU/CSU-自由民主党という少数連立政権の選択(これでも、社会民主党、緑の党、左翼党という「左派系」3政党の議席数の合計を上回る)の可能性も否定できない。

 更には、連立交渉難航の末、「三顧の礼」をもって社会民主党を連立与党にする大連立の復活もあり得ない話ではない 。この場合の前提は、緑の党との連立交渉が決裂することが前提である。過去において、CDU/CSU及び社会民主党双方との連立経験がある自由民主党が連立与党に留まるかは流動的である。

 AfD躍進の陰に隠れているが、連立政権となるメルケル政権の安定度にとっては、社会民主党の大敗、自由民主党の復活という「穏やかな右傾化」の影響の方が大きくなっている。

142キラーカーン:2017/11/18(土) 02:13:28
6.3.1.5.5. 今後のドイツ政治・社会
 既に述べたように、AfDの支持者層は、元来、「没落した中間層」ではなかった。しかし、反移民、反EUを訴える中で、「没落した中間層」を支持者に取り込んでいくうちに、運動方針も過激化していった。そのことは2017年総選挙での投票結果にも表れている。AfDは旧東ドイツ地域での得票率が高く、ルール地方或いは大都市での得票率が低い 。CDUよりも保守的と言われるCSUの地盤であるバイエルン州においてもAfDは順調に得票を伸ばしている。

 このことは、移民による「没落した中間層」の存在はドイツにおいても存在していることを意味している。大連立によるCDU/CSUの「左旋回」により、中道右派から保守に位置する有権者層の受け皿として従来のFDPと並んでAfDが選択されている。また、AfDには左翼党からも支持者を獲得していることから、旧東ドイツ地域を中心に「没落した中間層」からの支持を得ているとみられる。

 ドイツにおいて移民制限について議論することは、ホロコーストというナチスドイツに関する「歴史認識」を問われることと不即不離の問題として。この点が他の欧米諸国とは異なるドイツ独自の事情として存在する。そのため、先に述べたように、AfDもナチス時代の「自虐的な」歴史認識を問題としている。

 また、AfDは、その主張を過激化していった。政党が、主張を過激化・明確化・純化することは、「固定票」を確実に獲得できることが見込める。このことから、包括政党を目指さない(≒連立与党入りを目指さない)単一争点型政党において、確実に得票を重ねるため、そのような主張の過激化を行うことが発生する。AfDにおいても例外ではなかった。今回総選挙でも、選挙後にAfDの穏健派幹部が離党した 。
 EUの下で「欧州の盟主」として繁栄してきたドイツも他国と同様に、グローバル化による社会の分断の洗礼を受けている。これまで、先進国随一の安定度を誇ってきたメルケル政権の「最後の正念場」といえるかもしれない。

143キラーカーン:2017/11/22(水) 00:07:11
6.3.1.6. 伊国(「フォルツァ・イタリア」の勃興)
 イタリアでは、かつての自民党のように保守政党であるキリスト教民主党(DC)が一党優位的な政党構造であった。そのような一党優位的な政党構造は1990年代初めの「タンジェントポリ」といわれる政界汚職事件でDCをはじめとする既成政党が軒並み甚大な損害を受け、イタリア議会は再出発を余儀なくされた。このため、タンジェントポリを契機とする政治改革が一応の成果を見た1994年以降は第二共和政と言われる。

 イタリアは、北部が工業、南部が農業(一次産業)と南北の相違が明確であった。ミラノ、トリノという工業化の進んだ大都市を要する北部の方が経済的に豊かであった。そのため、北部の豊かな経済を他地域に分配せず、北部で独占すべきという方向での排外主義が生まれた。

 そのような「裕福さを維持するための排外・分離主義」 的な政党として「北部同盟」が1980年代末に結成された。国外では仏国民戦線や蘭自由党という「極右」政党と連携しているため、一般的には「極右」と言われている。国会や欧州議会にも議員を送り出しているが、地域政党の域に留まり、全国レベルでは、ベルルスコーニ氏が率いる「フォルツァ・イタリア」が右派の主軸となり、しばしば下院第一党 の座を獲得している。その結果。ベルルスコーニ氏も何度が首相の座に就いている。

 「フォルツァ・イタリア」は保守政党に分類され、「極右政党」や「ポピュリスト政党」には分類されないのが一般的である 。しかし、かつてイタリアを代表する保守政党であったDCとは異なり、イデオロギー上の明確な核を持たない政党と言われている。
また、政党としての行動もトップダウン型の「身軽さ」を武器にしていることと相まって、「フォルツァ・イタリア」はベルルスコーニ氏の「個人商店」という趣がある 。このため、「フォルツァ・イタリア」はDCのような保守政党というよりは「ポピュリスト政党」として扱われることが多い。このような「融通無碍」さと「身軽さ」が、「フォルツァ・イタリア」は保守政党ではなくポピュリスト政党に分類される理由ともなっている。

 結党当初、「フォルツァ・イタリア」は「1ビット」或いは「敵か味方か」的な二元論的な主張を繰り広げた。これは、イタリア第二共和制において、第一党に有利な比例代表制を取り入れたため、「右」のブロックでの優位を確実にするための行動とも言われている。この点も、小選挙区導入が主眼であった日本の「政治改革」と共通する。

 結局、ベルルスコーニ氏の個性、崩壊したDCをはじめとする既成保守層の取り込み、イタリアにおける二大政党ブロック化に伴う政策争点の近接化 など種々の要因が絡み合って、「フォルツァ・イタリア」は、イタリア政界において、「極右」ではなく、保守の「主流派」に近い位置を占めることとなった。
フォルツァ・イタリア」は2009年に「国民同盟」と合同して「自由の人民」となったため、一度、政党としては消滅した。その後、ベルルスコーニ氏が「自由の人民」から分派する形で、2013年、「フォルツァ・イタリア」が再結成され、現在に至っている。

144キラーカーン:2017/11/23(木) 00:27:23
ドイツの連立交渉が難航しておりますが、
問題は
1 AfDを連立交渉から排除
2 社民党は連立与党にはならない
という連立方程式の「答えが無い」と言う状態に陥ったことです

選挙結果から見れば、CDU/CSUと社民党との大連立
しか答えが無いのですが、上記の「2」から、それが不可能
となっていることです。

ここまでくれば、社民党に首相の座を渡してのCDU/CSUと
社民党との大連立継続という奇手も出てくるかもしれません

145キラーカーン:2017/11/26(日) 01:12:54
6.3.2.1. オランダ(既成政党が辛うじて踏み止まった)
6.3.2.1.1. 「極右」政党成立前史
 オランダでは、長く社会民主主義政党(左派)、キリスト教民主主義政党(中道右派)、自由主義政党(右派)が三大政治勢力であった。1970年代からの都市化、グローバル化などにより、これら三大政治勢力の支持基盤が流動化した。三大政治勢力の中で、この流れに乗ったのが自由主義政党であった。20世紀初頭から、「万年三位」に甘んじてきた自由主義政党が、2000年代初頭には、世論調査で、しばしば支持率第一位になるまでに党勢を拡大してきた。

 世論調査での支持率が一位となる事は議会第一党の座が視野に入るということを意味する。そして、それは、1918年以来、久しく絶えてなかった自由主義政党からの首相輩出が現実のものとなる事を意味した。自由主義政党からの首相輩出が指呼の間に迫ったその時、オランダ政界は激震に襲われることとなる。「フォルタイン党」の結成と同党の躍進であった。

 イスラム圏からの移民増大により、「没落した中間層」が発生した。彼らの不満が醸成される中で、イスラム教徒の「排他的」性格が、欧州の「自由主義」と相容れないのではないかという疑念が沸き起こってきた。それは、911同時多発テロ事件以降、イスラム過激派によるテロの増大によって裏書されてきた。

 そのような中、イスラムとの「融和」を唱えるリベラル・左派よりも、欧州の「自由主義の敵」としてイスラムを理解するという「排外主義」が発生してきた。オランダの「極右」政党は、そのような「西欧的価値観の守護者」として現れた。

146キラーカーン:2017/11/27(月) 00:59:19
6.3.2.1.2. 「フォルタイン党」の結成と躍進
 総選挙 を2か月後に控えた2002年3月、有名コラムニストのフォルタイン(Fottuyn)が「フォルタイン党」を設立した。同党の方針は、①既成政党批判、②多文化主義批判ひいては移民批判、が二本柱であった。結党二か月程度、そして、フォルタイン党首が投票日直前に暗殺されたのにも拘らず、同年5月の総選挙では第二党となり、連立与党の一角を占めた。

 初の総選挙で第二党に躍り出たフォルタイン党の政策や同党の躍進に見られる既成政党への不満は、支持者層が(一部)重なる他の連立与党(キリスト教民主主義力及び自由主義政党)にも影響を与えていった。フォルタイン党以外の連立与党は支持者をフォルタイン党に奪われるのを防ぐため、キリスト教民主主義勢力や自由主義政党は連立政権の政策として移民規制を取り入れることとなった。
フォルタイン党躍進のあおりを受け、2002年の総選挙では、自由主義政党は議席数を三分の二程度(38議席から24議席)まで減らすという敗北を喫した。この結果を受けて、自由主義政党も一般党員の声を聴くという「党内改革」を打ち出した。

 自由主義政党は、それまで、地方名望家などからなる「エリート政党」という色彩を残していた。しかし、フォルタイン党の躍進を受け、自由主義政党でも、「エリート」以外の支持者の不満を解消するため、一般党員や党員ではない支持者の声を丹念に拾い集めるという「党内改革」を行った。しかし、その「党内改革」は党勢を立て直すのではなく、本来の支持者層である所謂「エリート層(富裕層や地方名望家)」とそれ以外の党員・支持者との「路線対立」を引き起こした。後者は、後に自由主義政党を離脱し、自由主義系ポピュリスト政党を立ち上げることとなる。

147キラーカーン:2017/11/28(火) 00:45:07
6.3.2.1.3. 自由主義系ポピュリスト政党の出現とフェルドンクの退場
 フォルタイン党の躍進を契機とした自由主義政党の路線対立から、自由主義政党を離れて独自の政治活動を行う者が現れた。そして、その中から政治指導者として現れたのがウィルデルス(Wilders)とフェルドンク(Verdonk)であった。まず、フェルドンクについて述べる

 フェルドンクは、学生時代、最左派に属する政治的立場を取っていた。しかし、司法省や内務省での勤務経験を積むうちに「右旋回」し、自由主義政党へ入党することとなる。フェルドンクは女性であったこともあり、フォルタインに支持基盤を切り崩されようとしていた自由主義政党立て直しの旗頭とされた。フェルドンクは外国人・移民問題担当大臣として入閣し、移民・難民に対して厳しい政策を実施していった。

 そのような「右傾化」した政策は党の内外に物議を醸しだしたが、世論調査の結果を見る限り、彼女の人気は上がっていった。その国民的人気に対する反作用として、エリート主義の抜けきらない自由主義政党内部では、彼女は冷ややかな視線を浴びていた。とはいっても、自由主義政党はフォルタイン党の出現以後、有権者の支持を獲得するため「民主化」を迫られていた。2006年、来る総選挙の筆頭候補者(≒首相候補)を、初めて、一般党員の投票で決定することとした。彼女は筆頭候補者を争う党員選挙では、主流派の擁立した候補に敗北したが、彼女は諦めなかった。

 オランダの下院総選挙は比例代表制でありながら、個人名での投票も許容されていた 。この選挙生徒を利用して、彼女は、個人名投票を事実上の国民投票として、党員選挙での逆転を図ったのであった。その結果、本番の総選挙では、彼女は、自由主義政党の個人票で最多得票を獲得した。しかし、党執行部は党員投票の結果を優先したため、彼女と党執行部との亀裂が深まり、彼女は離党を余儀なくされた。

 彼女は新党「オランダの誇り」を設立し、2010年の総選挙に臨んだが、党内の指導力を確立できず、また、かつて左派の政治志向を持っていたことが災いし、獲得議席は「ゼロ」であった。この結果、彼女は政界引退を余儀なくされた。

148キラーカーン:2017/11/29(水) 00:34:32
6.3.2.1.4. ウィルデルスの台頭と自由党の結成
 ウィルデルスは10代後半にイスラエルに長期滞在した経験を持つ。その際にイスラムに潜む問題性を認識したといわれている。その後も、イスラエルを頻繁に訪れている。

 イスラエルから帰国してからは、オランダの社会保険関係の機関で勤務した。その時の経験から、労使の組織利益が優先されオランダ全体の利益が蔑ろにされているとの考えを持つに至ったとされている。その後、オランダの自由主義政党に入党し、有能な党職員として頭角を現した。また、イスラムに対する問題意識から、911同時多発テロが起きる以前からイスラム教徒によるテロの可能性を指摘していたことから注目を浴びるようになった。

 しかし、その後、イスラムを巡る扱いで、穏健路線をとる党執行部や議員団と衝突し、自由主義政党を飛び出し、独自の政治活動を行うようになる。

 ウィルデルスは2005年の欧州憲法条約批准を巡る国民投票で、反イスラムの立場を取り、国民投票を批准反対に導いた政治指導者としても注目を浴びるようになる。この結果を受け、ウィルデルスは「自由党(Partij voor de Vijheid:Party for the freedom)」を設立した。

6.3.2.1.5. 自由党の躍進
 自由党として初の総選挙となった2006年の総選挙において、自由党は得票率約6%で9議席を獲得した。その後。同党は10〜15%程度の得票率であり、オランダ政治における主要政党の座を獲得したといってもよい 。

 ウィルデルスは、イスラムの脅威を訴え、断固とした措置を訴える一方、既成政党による「古い政治」を打破するという姿勢を取り続けている。そのような自由党の支持層は、男性、若年層、非キリスト教徒、低学歴といわれている。それに加えて、「移民に批判的」及び「既存の政治に対する不満が強い」、「直接民主主義志向」があるといわれている。

149キラーカーン:2017/12/03(日) 00:15:30
6.3.2.1.6. ウィルデルスとフェルドンクを分けたもの
 ウィルデルスとフェルドンクは「似た者同士」であった。しかし、現在では、ウィルデルスの自由党は主要政党の一角を占め、フェルドンクの「オランダの誇り」は1議席も獲得できず政治の表舞台からの退場を余儀なくされた。このように、両者の現状は対蹠的である。

 では、ウィルデルスとフェルドンクの明暗を分けた者は何であったのか。ウィルデルスの手法を見ると
① 自由党員はウィルデルス「ただ一人」である(候補者や運動員は支援者に過ぎない)。
② 候補者の「質」には細心の注意を払っている(議席数よりも議員の質を優先)。
③ ウィルデルスの「一人政党」のため、制度化と意思検定に関する問題が生じない
と、「一人政党」ポピュリスト政党が陥りがちな急激な拡大による、①質の劣化、党としての規律低下、という悪弊を避けていることが自由党の成功の要因と見られている。

 一方、フェルドンクは、政治の「アウトサイダー」として民衆の期待を煽るカリスマという「正統的なポピュリズム」の道をなぞっていた。そして、そうであるが故に、政党の規律などが欠如し、「風頼み」から脱却できなかった。これが、ウィルデルスとフェルドンクとを分けたものであるといえよう。

150キラーカーン:2017/12/05(火) 23:46:18
6.3.2.1.7. 2017年総選挙(自由党の第一党ならず)と左右分極化?
 2017年3月に行われた総選挙は、英国のEU離脱、米国でのトランプ大統領誕生と「ネトウヨ化」の流れの中で行われることとなった。このような世界情勢を受け、オランダでも自由党が第一党(=ウィルデルスが首相となる)となる予想が有力であった 。しかし、選挙結果は、与党第一党である自由民主国民党(Volkspartij voor Frijheid en Democratie:People’s party for Freedom and Democracy)が踏ん張り、第一党の座を維持した。自由党も議席数を増やした(15議席⇒20議席)ものの第二党に留まり、ウィルデルス首相の誕生とはならなかった。

 この選挙結果は土壇場で「極右」政党の首相を阻止したが、自由党を「拒絶」したわけでもない。それどころか、国民への支持は広まっており、将来のウィルデルス首相誕生の可能性を残したものであった。

 このように、保守、右派が支持を伸ばしたのに対し、連立与党である中道左派の労働党(Partij van de Albeid:Party of the Labor)が議席を激減させた(38議席⇒9議席)。しかし、候等よりも「左」に位置する環境左派である「GL」(Groen Links:Green Left)及び「民主66」(Politieke Partij Democraten 66:Political party Democracy 66)が議席を伸ばした(GLが4議席⇒14議席、民主66が12議席⇒19議席)ことから、英仏両国と同様に左派の支持層が中道左派から急進左派へと「左傾化」或いは「過激化」していることが伺える。

 これは、左右両派で、穏健な中道路線よりも「過激な」路線が好まれている、或いは、「大統領制化」の影響と見ることも可能である。

 とにかく、自由党の第一党は指呼の間に迫ってきた。大統領選或いは総選挙で「敗北した」フランスの「国民戦線」とは異なり、次の総選挙でのウィルデルス首相の可能性が現実のものとなってきた。それとの合わせ鏡のように勢力を伸ばした急進左派勢力にも注目する必要がある。「イタリア第一共和制」のような分極化された多党制 に向かうのか、それとも、中道右派勢力が勢力を維持し、中道左派が巻き返すことにより、「国民統合」を回復するのかが注目される。

151キラーカーン:2017/12/08(金) 00:47:29
6.3.2.2. スイス(「魔法の公式」の崩壊)
6.3.2.2.1. スイスの政治体制と「魔法の公式」
 スイスは有名な多言語国家 であり、また、建国の経緯からも、連邦制を採っている。内閣を形成する7人の大臣は「同格」であり、輪番で1名が連邦大統領の職を務める。国会は、二院制である。同じく連邦制を採るドイツと同様に、国民による総選挙(比例代表)で選出される国民議会と州代表で構成される全州議会からなる。

 スイスは、内閣の構成員は、1名ずつ両院議会総会で過半数の賛成でもって選出される。スイスは、言語、宗教、地域による差異が大きく、内閣の構成員を選出する過程で与党は「過大規模連立」となりやすい。この結果、スイスでは、1950年代末から、自由民主党、キリスト教民主党、社民党及び農民党が7つの閣僚の座を2:2:2:1で分け合うという体制が維持されてきた。この内閣構成員の配分比率は「魔法の公式」と呼ばれてきた。

152キラーカーン:2017/12/09(土) 00:28:56
6.3.2.2.2. 「農民党」から「国民党」へ
 内閣構成員を送り出していた主要4政党は、特定の社会階層を支持基盤とするのではなく、国民全体を支持基盤とすべく包括政党化を目指していた。ここでは、農民党を取り上げる。農民党は1971年に「スイス国民党」へと党名を変更し、党の路線も保守から中道へ移行させたが、支持率は1990年代初頭まで10%程度にとどまっていた。

 地方レベルでは、農民党の系列であるチューリヒの地域政党「チューリヒ州党」が1970年代後半に実業家のクリストフ・ブロハー(Christoph Blocher)を党首に選出したことで、同党は転機を迎える。ブロッハーは「経営者目線」で党の改革に着手したが、支持者を若年層や女性に拡大したが、自由主義的な方針であったため環境問題等で立ち遅れ、1980年代後半には党勢は頭打ちとなった。

 この情勢を受け、ブロッハーは党の政策を「右転回」させていく。ブロッハーは「真面目」に働く者こそが「真のスイス人」であるとし、外国人などと区別していった。併せて犯罪や麻薬などの問題を「社会の安全」の問題と捉え、この両者を「移民」で結びつけた。 この結果、ブロッハーの政策は「怠け者の外国人」にも福祉を提供するリベラル的政策とは一線を画し「福祉排外主義」に近くなっていく。

 この「右転回」が功を奏し、国民党は1990年代に支持を伸ばしていく。この背景には、国民投票の機会が多いスイスの政治制度があると見られている。国民投票の度に、各政党は直接国民に訴えかける機会が発生し、国民党はそれを支持率向上へ結び付けた。
この実績を基に、ブロッハーはチューリヒの地方政治家の枠を超え、1996年の党大会で自派が党首と国民議会議員団長を獲得した。これは、ブロッハーが国民党内の権力闘争にも勝利したことを意味していた。

153キラーカーン:2017/12/11(月) 23:05:45
6.3.2.2.3. 国民党の急成長(党首の発信力とネット時代への対応)
 欧州各国の谷間にあって永世中立国として冷戦の影響をあまり受けなかったスイスであったが、(経済の)グローバル化の波は例外なくスイスにも襲ってきた。「魔法の公式」を支えてきた主要政党の「棲み分け」の基礎となっていた宗教や都市/農村などによる旧来の社会的分断線が曖昧となってきた。その代わりに、グローバル化における「勝ち組」と「負け組」が新たな社会的分断線として浮上してきた。

 国民党は冷戦終結という事態に対応し
① 反共・反社会主義(特にマスコミ、大学の「左傾化」への反感)
② スイスの歴史の中に存在する自由と自立の擁護による新自由主義と保守主義の両立
を柱として、冷戦後の社会主義・共産主義の敗北とグローバル化が進む世界情勢に巧みに対応し、スイス国民の支持を伸ばしていった。

 このようなグローバル化の進行の中で「負け組」に分類されたのは、伝統産業、自営・中小企業経営者、農民、肉体労働者であった。彼らは、当初、既成政党ではなく、「極右」に分類される新興政党の支持基盤となっていったが、最終的には国民党へ吸収されていく。

 「勝ち組」のうち、経営者層は国民党の支持基盤となっていき、情報・文化産業労働者や知的労働者層は社民党などのリベラル勢力の支持基盤となっていった。このように、国民党の支持者は「没落した中間層」に代表される「負け組」だけではなく、「勝ち組」(市場万能主義者)も存在していた。この点グローバル化における「勝ち組」を支持者に取り込んだという点において、スイス国民党は、日本の「維新」や「みんなの党」に代表される「第三極」と共通した特徴を持つ。

 また、国民党はブロッハー党首の「発信力」を活かし、他党に先んじて議題や論点を設定し、有利な土俵を設定した上で議論を有利に展開した。このスタイルはインターネットが普及したという時流にも乗った。この点も橋下徹氏の「発信力」と「ディベート力」に依存した大阪維新系の政党との類似性がある。

154キラーカーン:2017/12/13(水) 00:02:10
6.3.2.2.4. スイスの政治制度と「二者択一」との親和性(国民投票制度)
 スイスは、他国のような行政府の長が存在せず、国会議員から選ばれた7人の閣僚が対等であるという大統領制とは程遠い政治制度である(「首相」に相当する閣僚会議議長は輪番制)。しかし、5万人以上の署名を集めれば通常の法律案でも国民投票に付すことができるという制度があるため、他国に比べ、立法過程において国民投票が行われる頻度が高い。国民投票では「賛成」か「反対」の二者択一となるため、国民投票は全国規模で有権者に二者択一を迫ることとなる。

 このような国民投票が多用されるスイスの政治制度において、国民党が行った二者択一的な訴えは効果的であった。この結果、大統領制或いは大統領制化と程遠いとスイスの政治制度においても、大統領制化とは異なる形で二者択一と親和性の高い政治体制の下で「ネトウヨ化」が進んでいった。

6.3.2.2.5. スイスの「歴史認識」とネトウヨ化
 橋下元大阪市長の政治手法に見るまでもなく、二者択一的な訴えを行う場合、「敵」を措定する方が広範な支持を集めやすい。しかし、敵を措定するためにも、ある程度は「アイデンティティー」を持っておいた方がよい。スイス国民党がそのために用いたのは「歴史認識」であった。

 第二次大戦期、スイスにも、少なくないナチ協力者が存在したといわれている。しかし、国民党はスイスの現在に至るまでの独立と永世中立の歴史を前面に出した。具体的には
① エリートはともかく、一般国民は中立を守った
② 中立を守るために国境を守る『排外主義』は肯定される
③ スイスの連邦制を堅持することによる「国民投票制度」の維持
というものであった。

 国民党は、スイスの「誇りある歴史」を援用することによって、これまでの支持層を維持しつつ「極右」、肉体労働者、単純知的労働者という「没落した中間層」をはじめとする新規支持者の獲得に成功した。この結果、1999年の総選挙で議席数では社民党に及ばなかったものの、得票率では社民党と並ぶ第一党になった。

 このように、スイスの「ネトウヨ化」も他の欧米型(ドイツを除く)と同様に、移民問題に代表される経済問題主導型であるが、歴史認識を「ネトウヨ化」の補強材料としている点が他の欧米型ネトウヨ勢力とは異なる。

155キラーカーン:2017/12/13(水) 23:59:13
6.3.2.2.6. 国民党の伸長と「魔法の公式」の崩壊
 国民党は、得票率で第一党に躍り出た1999年選挙以後、「魔法の公式」の変更を目指した。しかし、先に述べたように、閣僚の選出には両院総会で過半数の賛成を得る必要がある。しかし、過半数を制する政党が存在しない現状では、閣僚の選出には、他党の協力が不可欠である。この閣僚選出制度が障害となって、国民党は、一人しか閣僚を選出できず、さらに、国民党の伸長(ネトウヨ化)の立役者であるブロッハーを閣僚に選出することができなかった。この背景には、閣僚の選出は現職優先ということもある。

 このため、国民党は「閣内野党」的立場を強め、国民投票制度を活用することによって政府に揺さぶりをかけていった。国民党は2003年の総選挙で、議席数、得票率ともに第一党の座を勝ち取った。国民党はブロッハーを含む2人の閣僚を送り込むことに成功した。それとの入れ替わりで、キリスト教民主党の閣僚数が1になった。

6.3.2.2.7. 国民党とスイスはどこへ向かうのか
 「魔法の公式」を覆してブロッハーの入閣に成功した後、国民党は内閣の決定をコンセンサス・全会一致方式から多数決制に変更しようとする。他の主要三政党は、危機感を持つ。しかし、2007年の総選挙で国民党は更に党勢を伸ばし、議席数・得票率とも史上最多となったのである。

 ここで、他の主要三党は「禁じて」を放つ。現職優先の閣僚選出の両院総会で現職閣僚であるブロッハーの再選を阻止したのである。この結果、国民党は下野し、選出された閣僚は党籍を離脱することとなった。国民党内でも「路線対立」が表面化し、ブロッハーを支持しない「穏健派」が国民党を離脱し「市民民主党(Bürgerich Demokratische Partei)」を結成した。その後、国民党を離党した閣僚が辞任し、その後任に国民党の閣僚が選出されたため、国民党は与党に復帰した。この結果、「魔法の公式」は自民:2、社民党:2、キリスト教民主党、国民党、市民民主党各1となった。

 2015年の小選挙では過去最多議席を更新し、閣僚配分も自民:2、社民党:2、キリスト教民主党:1国民党:2と2003年時点に復帰した。今後も、国民党の第一党体制はしばらく続くものと見られる。ただし、「協調・多極共存型」と言われるスイスの民主政治に意義を唱えたブロッハー国民党は今が絶頂期 であるとの見方もある。この後、スイスはどこへ向かうのだろうか。

156キラーカーン:2017/12/16(土) 01:13:42
6.3.2.3. オーストリア(ハイダーと自由党を中心に)
6.3.2.3.1. 総説
 オーストリアは、戦後長く、中道右派の国民党(Österreichsche Volkspartei:ÖVP)と中道左派の社会党(Sozialistische Partei Österreichs:SPÖ)との二大政党制となっていた(社会党は1991年に社会民主党へ改名)。1980年代半ばまで二大政党の間で埋没していた小政党であった.オーストリア自由党は1980年代半ばから勢力を伸ばし、1999年総選挙で国民、社会両党に匹敵する議席を獲得し、中道右派の国民党の連立相手として政権与党にもなった。これが、西欧諸国の極右政党の中で初めて政権与党となった事例である。

 オーストリアは大統領と首相の双方が存在する。大統領は国家元首であり、憲法上、首相以下の閣僚、最高裁判事などの高官の任免権を持ち、下院の解散権も有する。しかし、大統領の権限は首相によって代行されている。このため、オーストリアの政治体制は、憲法上は半大統領制と言えるが、実際上は議院内閣制となっている 。

 オーストリアドイツと同様に連邦制を採っている。このため、上下両院の選出方法もドイツと類似している。上院は各州代表として、各州議会によって指名される。しかし、ドイツとは異なり上院議員は個人で投票に参加する。下院は比例代表制により国民の直接選挙で選出される。

 比例代表制であっても、オーストリアは長らく社会党と国民党が二大政党として君臨していた。オーストリアの政党政治の特色として、両党の単独政権だけではなく、両党による「大連立」政権がしばしば樹立されることにある 。このため、オーストリアの政治風土は二大政党による対立主義ではなく、二大政党を含めた各種利益団体の同意・コンセンサス志向型 であるといわれる。しかし、冷戦終結後、グローバル化の流れの中で、そのようなコンセンサス方式による意思検定が揺らぎつつあった。

 ハイダー氏が党首となって以後の自由党は、グローバル化と冷戦終結という世界の変化に対応し、二大政党によるコンセンサス方式を(時代遅れ)の「既得権益」と攻撃する一方、グローバル化による外国人の流入によってオーストリア人のオーストリアが乱され、また、外国人によって国内オーストリア人の雇用が奪われたという主張を展開した。この点において、自由党は他の欧州諸国の極右政党と同一線上にある。しかし、旧ナチ党員の親を持つハイダー氏が「親ナチ」的だとして明確に排除の台頭となったのは他国と様相を異にする。

 また、ハイダー氏は党首討論などで「党首の個性」というものを党の任期を直結させることに成功しており、その点からは政治の「大統領制化」という最近の特徴も備えている。
自由党の政権参画は、そのコンセンサス方式放棄の流れを決定づけた。1990年代以降、自由党の躍進により、国民・社会(社民)二大政党制から、国民、社民、自由の三党鼎立体制となりつつある。

 しかし、「大連立」が例外的な手法ではないというオーストリアの政治風土は、大統領選挙のように「あれかこれか」という二者択一、ひいては国家規模の分断を迫る「1ビット脳的」政治とは異なり、「あれもこれも」という「ネトウヨ化」に対する処方箋の可能性を感じさせるものである。

157キラーカーン:2017/12/17(日) 23:09:36
6.3.2.3.2. ハイダー自由党の党勢拡大と政権参画
 オーストリア自由党(Freiheitliche Partei Österreich:FPÖ)は、ハイダー氏が党首になるまでは得票率5〜6%の小政党に過ぎなかった。1980年代前半には右派の国民党内では左派(リベラル派)に属するシュテーガー(Steger)党首の下で社会党と連立政権に参加することもあった。
しかし、連立政権に参加したことによる埋没及び、経済のグローバル化を背景に自由党内はシュテーガー党首のリベラル路線よりもイェルク・ハイダー(Jörg Haider)氏の「極右」路線が自由党内で支持を拡大したことが挙げられる。元ナチ党員を両親に持つ家庭環境で育ったハイダー氏は自然と戦後の「非ナチ化」に反発し、親ナチ的思想、ドイツナショナリズムを身に着けていった。ハイダー党首は自由党の「右傾化」を主導し、国民党躍進の立役者となった 。しかし、その言動から、ハイダー党首には親ナチ的政治家という評価が定着していた。

 ハイダー氏は自身に対抗する党員を自由党から追放するなど自由党の党内権力を掌握していき1986年には党首に就任した。ハイダー氏は党内権力掌握の過程において執行部よりもハイダー氏個人の指導力に負っていた部分が大きい。この点においても、現代政治における「大統領制化」を先取りしたものといえる。

 ハイダー党首は、既成政党を既得権益層として、学者、マスメティアを左翼・共産主義者として、外国人をオーストリア人の職を奪う者として郷劇の対象とした 。その結果として、EU(欧州統合)懐疑主義を採っていた。

 自由党はハイダー氏が党首に就任した1986年9月以降から党勢を拡大させ、冷戦終結によってその勢いを加速していき、1999年の総選挙で65議席獲得した国民党に次ぐ第二党 となり、ついに連立与党となった。

 スイスと同じくオーストリアにおいても経済のグローバル化と冷戦終結により、国民党、社会党という二大政党への凝集力は失われつつあった 。

 ハイダー自由党は、このような「極右的」主張を行うことによって、これまで「代替案」の存在しない政治体制(≒「大連立」が頻繁に生起する体制)の中で、二大政党制に風穴を開ける唯一の選択肢となり得たのであった。その結果、この二大政党に飽き足らない国民、特に若年層に対して、「既得権益に切り込む新しいリーダー・政党」という形で支持を拡大していった。元来、自由党は高年齢の自営中間層を基盤としていたがハイダー党首の下で若年層はもとより、ホワイトカラー。主婦、自営業者にも支持を拡大していき、更には、1999年の総選挙で、ハイダー自由党は社会党と匹敵し得る程度に労働者層の支持を集めるようになっていた。

 しかし、ハイダー党首の親ナチ的言動が問題とされ、入閣が見送られることとなった。州知事として統治経験を有していたハイダー党首が入閣できなかったことにより、自由党は政権の中で埋没していった。

 自由党の政権参画により、
① 政府事業の民営化
② 社会保障ではなく、自助努力を優先
③ その一方で育児手当の拡大
④ 法人減税
という新自由主義的政策変更がもたらされた。ただし、上記「③」については、女性、特に母親がフルタイムの労働者ではなく、パートタイマーを選択する誘因となり、「母親が家庭にいる」時間の拡大をもたらすという「保守的な」効果があった。

158キラーカーン:2017/12/19(火) 23:33:44
1.1.1.1.1. 自由党の失速から「オーストリア未来同盟」の結成、そしてハイダー氏の死
 連立与党となった自由党であったが、失速の兆候は1999年の総選挙直後から存在していた。

 既に州知事でもあったハイダー党首は、その言動から親ナチス的政治家とみなされていた。そのため、総選挙の結果、政権与党入りが確実になると、周辺諸国から、反ハイダーの声が高まり、ハイダー党首の入閣が見送られたのは先に述べたとおりである。与党経験が長い国民党、特にシュッセル首相(国民党党首)に対し、与党経験のない自由党が渡り合うためには、州知事経験のあるハイダー党首の副総理(格)としての入閣がほぼ必須条件であった。しかし、ハイダー党首の言動が災いし、その条件は成就しなかった。

 自由党は、国民党との連立政権の中で埋没し、支持率を低下させていった。ハイダー自由党は既得権益への「対抗者」ではなく、政権与党として「既得権益」側として選挙戦を戦うことを強いられた。その結果、連立与党となった後の地方選挙で得票率を減らし続け、2002年総選挙で議席をほぼ三分の一に激減するという「大敗」を喫したことが如実に表れていた。そのことは、1999年の総選挙でハイダー自由党が二大政党から「奪った」有権者が二大政党への「帰還」を意味していた 。

 ハイダーは入閣できなかったことを逆手に取り、自由党の党勢が失速したのは入閣した自由党幹部の責任とし、彼らを自由党から追放することに成功した。その後、ハイダー氏が党首に就任しないため、党首は短期間での交代が続き、自由党の体制は混乱した。結局、ハイダー氏は自由党から脱党し、「オーストリア未来同盟(BZÖ:Bundnis Zukunft Österreich)」を結成し、自由党所属議員の殆ど(18人中16名)がハイダー氏と行動を共にした。この結果、自由党の党勢の衰えは決定的になった。

 しかし、結局、「未来同盟」が自由党と入れ替わる形で連立与党となり、「未来同盟」もこれまでの自由党と同じく自由党の「ポピュリスト」的政策と連立与党としての責任との間で板挟みになり、党勢は伸び悩んだ。その結果、2006年総選挙では総選挙前の16議席から7議席に議席を減らした。この選挙では社民党が第一党に返り咲き、国民党との「大連立」が復活した。

 その後、2008年総選挙では「未来同盟」は21議席を獲得し「勝利」したが、その直後ハイダー党首が死去した。ハイダー党首死去後の2013年総選挙では議席獲得がならず、現在、「未来同盟」は消滅過程に入っている。

159キラーカーン:2017/12/24(日) 01:46:33
6.3.2.3.4. ハイダー離党後の自由党の復活
 2006年総選挙の結果、社民党が68議席、国民党が66を獲得し、第一党の社民党と第二党の国民党との大連立が復活した(自由党は21議席)。ハイダー氏による内紛の結果、連立与党から転落した自由党であったが、自由党はハイダー氏の「未来同盟」を尻目に2002年総選挙から3議席増の21議席を確保し、党勢を維持した。

 大連立復活後、与党第二党の国民党の中には大連立に対する不満が高まり、国民党の要求に応える形で2008年に総選挙が行われた。社民党が第一党を死守したが、社民、国民両党が議席を減らし、自由党と自由党分派であるハイダー氏の「未来同盟」が議席を伸ばした(社民党57、国民党51、自由党34、未来同盟21)。

 結局、社民党主導の大連立という「元の鞘」に収まったが、社民、国民両党とも議席を減らすという辛勝でもあった。二大政党が伸び悩む一方、自由党と未来同盟の合計が51議席と国民党の獲得議席数を超えた。

 その後、2013年の総選挙では、社民党52、国民党47、自由党40と事実上、三党鼎立状態となった。

 この選挙結果を背景に、自由党はいくつかの州政府では連立与党となっている。また、シュトラッヘ自由党党首は穏健路線を選択し、党内の右派を切り捨てた。その結果もあってか、2016年の大統領選挙では、同党のホーファー候補が第一回投票で第一位となった(決選投票で緑の党のファン・デア・ベレン候補に敗北)。

 このように、自由党は社民党及び国民党に次ぐ第三党の地位を確実にしつつあり、また、2016年の大統領選挙では二大政党以外の候補者が決選投票に進出したことで、オーストリアの二大政党制も岐路に立っている。

 「極右」国民党は、オーストリア政治の中で確固たる地位を占めているという意味では、欧州各国において最も成功した「ネトウヨ政党」といえるかもしれない。

160キラーカーン:2017/12/25(月) 01:58:41
6.3.2.3.5. 2017年総選挙(国民党の「右旋回」と自由党の復活)
 国民党は左からは社民党、右からは自由党の挟撃を受ける格好となった。2017年5月、国民党は移民に対して厳しい態度を採る31歳のクルツ外相を党首に立て、「右旋回」した形で選挙戦に臨んだ。結果的に総選挙の前哨戦となった大統領選挙で自由党のホーファー候補が決選投票に進出したこともあって、右派政党である国民党及び自由党の優位が予測されていた。

 選挙結果は、国民党61、自由党53、社民党52となり、自由党が1999年以来となる第二党となった。この選挙結果から、下馬評通り、国民党と自由党との連立政権の発足が確実視されて、2017年12月、連立協議がまとまり、国民・自由連立政権が発足することとなった。先の大統領選挙と併せて、後世、この選挙でオーストリアは国民、社民、自由の三党鼎立時代に入ったと評されるかもしれない。

 自由党は国民党との連立内閣で、外相、内相、国防相という外交防衛治安を所掌する大臣ポストを獲得し、移民受け入れなど対外治安対策については、これまで以上に強硬な姿勢を採ることになると見込まれる。

6.3.2.3.6. 自由党の復活をもたらしたもの
 2017年10月総選挙は、オーストリアに二大政党ではなく三党鼎立、それも、国民党の「右旋回」と極右」自由党の台頭という「右傾化した三党鼎立」、という選挙結果をもたらした。このようなオーストリアの「右傾化」も他の欧州諸国と同様に移民問題に対する国民の不満が直接の契機となっている。国民党の「右傾化」も「欧州型ネトウヨ化」した国民を支持者層に取り込むためという正当戦略上至極当然の結果である。

 オーストリアの二大政党制及び最近のオーストリア自由党の復活を前提とすれば、国民党が支持者層を拡大するためには、二大政党の一角である社民党の支持者を奪うよりは、自由党の支持者を奪う方新規獲得支持者数が多い。また、政策位置的観点から見ても、かつて社会党と名乗っていた左派である社民党支持者層よりも、保守或いは右翼政党と言われた自由党の支持者層を奪う方が容易であったと思われる 。

 これらのことから、国民党の支持者を拡大するためには社民党の支持者を取り込むべく「左旋回」するよりも自由党支持層を取り込む「右旋回」の方が容易であったと考えられる。また、社民党が第一党である状況で大連立を組んでいた2006年以降、「左派」の社民党に対する反感(或いは大連立での埋没感)も後押ししたのかもしれない。

 一方、そのような国民党の「右旋回」により、国民党との支持者の競合が激しくなったとみられる自由党が社民党と同程度の得票を挙げたことは、国民党だけではなく、オーストリア国民全体の「右旋回」が明らかになったともいえる。

 ハイダー氏が自由党党首になって以降、反移民、EU懐疑という政策を訴えてきた自由党が、「親ナチ」と言われたハイダー氏の軛を脱し、州政府での連立実績も踏まえ「『老舗かつ政権担当能力のある』欧米型ネトウヨ政党」として体制内政党として認知されてきたのが大きいと思われる。

161キラーカーン:2017/12/27(水) 01:48:52
7. 結論:グローバル化とリベラル・左派への反発としての「ネトウヨ化」
7.1. 結論1:「ネトウヨ化」の正体
7.1.1. 「ネトウヨ(化)」の類型化
 「世界総ネトウヨ化」といっても、その様相は単一ではなく、類型化が可能である。ネトウヨ化には
① 経済的軋轢主導型か歴史認識問題主導型か
② 戦勝国か敗戦国か
という2つの軸があり、それによって、各国のネトウヨ化も4つに分類が可能である。ただし、敗戦国であることと歴史認識主導型というのは親和性がある。これは、「歴史認識論争」においてある国家・共同体の持つ「歴史認識」が批判されることによって引き起こされるが、その場合、批判される「歴史認識」は所謂「敗者」の歴史認識であることが一般的である。ナチスドイツを巡る「歴史認識論争」は言うに及ばず、日本における「歴史認識論争」もそのような側面を持つ。しかし、敗戦国であることと歴史認識主導型が同一ではないとの判断から、この2つの軸を基準としている(後掲図1参照)。

 2つの軸によるに時限座標では4つの象限が存在する。そのことは、「ネトウヨ化」も、理論上、4類型が存在することを意味する。しかし、これまで述べてきたように、現在確認されている「ネトウヨ化」は3つであり、4つではない 。

その3種類とは、
① 「欧米型ネトウヨ化」(経済軋轢主導型)
② 「日本型ネトウヨ化」(歴史認識論争主導型)
③ 「ドイツ型ネトウヨ化」(経済軋轢・歴史認識複合型)
の3種類である。

その「ネトウヨ化」の特徴を類型ごとに纏めると、
① 欧米型:移民受け入れによる移民との経済面の軋轢から、世代を跨いで定住した移民
  との社会面への軋轢へ発展
② 日本型:「歴史認識論争」において母国の側に立つ「移民(在日朝鮮人)」との軋轢か
  ら「在日特権」という経済的不公平感が絡む「反移民(在日朝鮮人)感情」
③ ドイツ型:移民受け入れによる経済面の軋轢に「歴史認識問題(ナチス)」が絡む反移
  民、反リベラル化
となる

 これらのいずれの形態においても、結果として現れるものは「移民への反発」である。だからこそ、これらの傾向はその結果から「右傾化」と言われ、或いは、その政治手法から「ポピュリズム」という語で一括りにされ、「同じ物」であると認識されて 。

 「日本型ネトウヨ化」は歴史認識主導型であるが、日本において「福祉排外主義」が存在しないわけではない。日本においてもデフレ不況などから、生活保護の需要が高まる一方で、生活保護の支給レベル及び支給決定に関する不公平感から「生活保護バッシング」が発生した。「生活保護バッシング」そのものは日本国民に対する福祉の「公平な充実」を求めるものであるため、福祉排外主義にはなり得ない。

 在日韓国人の生活保護受給率及び在日韓国人が生活保護を不正に受給していたという事例が発生したことにより、それまで「在日特権」と呼ばれていたものと融合して「福祉排外主義」というべき事象が発生した 。しかし、そのような「福祉排外主義」は、飽く迄、それまでにも存在して「嫌特定アジア」とりわけ「嫌韓」感情を増幅させるものであって、「福祉排外主義」が主要因というわけではない。

 このことは、移民が押し寄せた国家において、新たに流入した移民と旧来からの住民との間の軋轢に起因する社会不安リスクが増大することを意味する。移民との軋轢が社会不安の直接の契機である以上、その社会不安リスクを解消する方策として経済面及び社会面の両面から移民排斥を唱えるという結果に至る。したかって、その傾向が「極右化」或いは「ネトウヨ化」と称されることは然程不合理ではない。改めてネトウヨ化の類型を図式化すれば、次の図のようになる。

162キラーカーン:2017/12/28(木) 01:19:10
7.1.2. 日本型ネトウヨ化(アイデンティティー危機が発端)
7.1.2.1. 「ネトウヨ化」の主要因である「歴史認識論争」の発生

 繰り返しを厭わず言えば、日本のネトウヨ化は、移民受け入れによる経済的な軋轢からネトウヨ化した欧米とは異なり、「従軍慰安婦問題」に代表される「歴史認識論争」に端を発する。

 「日本型」及び「ドイツ型」のネトウヨ化は、第二次大戦の「敗戦国」で生じ、それらの国々による第二次大戦中の行為は侵略に付随する行為ということで「絶対悪」という烙印を押された。その「烙印」に権威を与えたのは、日本に対しては東京裁判であり、ナチスドイツに対してはニュルンベルク裁判であった。だからこそ「東京裁判史観」という語も生まれた。そして、その「戦後処理」を国際法上担保するものとして、国際連合に「敵国条項」が設けられ 、国際連合の公用語である中国語表記(=正式名称)は「連合国」である。

 第二次大戦の敗戦国、特に日本とドイツは、第二次世界大戦という総力戦における徹底的な敗戦により、戦争中の事象は「歴史上比類のない悪行」として否定された。敗戦国は自国の歴史に誇りが持てず、否定的な態度を示すことが「国際社会」から強制されることに対する反発として現れる。

 国家或いは民族集団という共同体のアイデンティティーを形成する核として歴史 は大きな役割を果たす。このため、ということで、「歴史認識」が「ナショナル」なものを想起させる引き金として「ネトウヨ化」に対して影響を及ぼす。

 ある共同体のアイデンティティーに直結する「歴史認識」ついて「部外者」から否定的言辞で語られ、かつ、その言辞が「国際社会」からの圧力という形でもたらされる場合、当該共同体の中から、そのような外部からの「歴史認識」の強制に対する反発が生まれ、その結果外国に対し厳しい対応を求める態度として現れることは十分に予想される。

 このような部外者による「歴史認識」への介入を「グローバル化」の一環として是認したのがリベラル・左派である。このような「集団としての自己決定権」でさえも、「グローバル化」の名の下に放棄することさえ厭わなかった。

 そのような、リベラル・左派の態度は、経済政策面においては、移民によって発生した「没落した中間層」(ドイツ)や産業空洞化によって発生した「失われた世代」(日本)に該当する人々を自己責任であるとして無慈悲にも切り捨てていくことに繋がっていった。その結果、リベラル・左派は「自国民よりも(在住)外国人を優先」するという共通認識を生み出していった。

 冷戦の終結と社会主義の敗北により、存在意義の消滅の危機に瀕した左派は、社会主義に代わる理論的根拠を「歴史」に求めた。そして、その「歴史」から導き出される「悪の大日本帝国」の復活阻止或いはその遺産の糾弾を「錦の御旗」。それを梃子に左派としての「運動体」としての生き残りを図った。そのための「錦の御旗」として用いられたのが「従軍慰安婦問題」であることは、これまでに述べてきたとおりである。

 その「歴史認識論争」を仕掛けた左派と在日朝鮮人が「大日本帝国という『悪の象徴』」を媒介として共闘したことから、歴史認識論争は在日朝鮮人問題という色彩も帯びた。戦後、外国からの移民を他国に比べて厳しく制限していた 。このため、移民の流入に苦慮する欧米諸国とは異なり、日本では在日朝鮮人が「移民」と称され得る事実上唯一の存在であった。したがって、日本においての移民問題或いは在日外国人問題は在日朝鮮人問題のみであるといっても過言ではなかった 。このため、日本における「移民問題」は、まず、歴史認識論争の形をとって現われた。

 しかし、「歴史認識論争」は、多分に理念上の論争であり、経済的利害に結びついた議論ではなく、「日本人としての原罪」を巡るものであった。また、在日外国人の絶対数及び人口比率も欧米と比べて格段に低いため、欧米で見られるような、民族集団通しの争いは生じることがなく、また、経済的利害で在日朝鮮人と敵対関係になることはなかった。

163キラーカーン:2017/12/28(木) 22:52:59
7.1.2.2. 経済のグローバル化(産業空洞化)は「ネトウヨ化」のきっかけではない
7.1.2.2.1. 産業空洞化及びデフレ不況による「失われた世代」の発生
 日本では他国と比べて、終身雇用制である事と解雇の要件が厳しいといわれていることから、一度正社員となれば、刑法犯などよほどのことがなければ解雇されることはない。これに合わせて、日本は外国からの移民や難民の受け入れ数が少なく、日本の中間層の職を奪うほどの数的規模ではなかった。この結果、欧米とは異なり、経済のグローバル化による移民の流入によって日本国民が職を奪われることはなく、ひいては「中間層の没落」は生じなかった。

 日本ではグローバル化の影響は、移民の流入とは逆に、企業が海外に進出するという「産業の空洞化」として現れた。つまり、移民の流入による「没落した中間層」は発生しなかったが、産業の空洞化の結果、そもそも就職できない若者が増大した(「就職氷河期」の発生)。

7.1.2.2.2. 日本において「グローバル化」は「反移民感情」を惹起させなかった
 デフレ不況と産業空洞化の結果、日本では、グローバル化の負の影響は「没落した中間層」ではなく、そもそも没落しようのない「就職できなかった若年層(所謂「フリーター」、「ニート」)」として現れた 。後に、彼らは「失われた世代」と呼ばれることとなる。

 この若者の就職難約10年に亘って継続したため、「就職氷河期 」と称されるようになった。このような長期の就職難の時代が発生したことにより、就職できなかった学生が社会に無視できない割合で存在することとなった。しかし、「最初から転落した若者」の存在による経済面での悪影響が社会全体で認知されるには相応の時間が必要であった。

 日本は、従来、国外からの移民受け入れ数は少ないといわれている。このため、他のG7諸国とは異なり、経済がグローバル化されても、移民の流入による社会不安はゼロではないが他のG7諸国と比べて低い水準にあった。

 日本において「福祉排外主義」が勃興するのは、その「失われた世代」が一定の規模となったことから、社会保障制度が社会的問題となった以後である。社会保障制度が社会的問題となる中で、「生活保護バッシング」に代表される社会保障制度の欠陥と「在日特権」が結びつくことで「嫌韓」或いは「嫌特亜」意識に裏打ちされた「福祉排外主義」が勃興してくるのである。

7.1.2.2.3. デフレ不況による「福祉排外主義」と「ネトウヨ化」への影響
 日本は他のG7諸国と比べて移民が少ないといっても、先に述べたような「福祉排外主義」が日本の「ネトウヨ化」を加速或いは従来のネトウヨ層を先鋭化させていったのは間違いのないところであろう。

 しかし、繰り返しを厭わずに述べれば、日本においては「福祉排外主義」とは関係なく「2002年の衝撃」により「ネトウヨ化」が進行していたということが欧米型ネトウヨ化と決定的に異なる点である

 このまま、所謂「アベノミクス」が軌道に乗り、日本の経済が回復し、福祉排外主義が無くなったと仮定しても、日本においては、最早、「ネトウヨ化」は止まらないと思われる。

 それは、「2002年の衝撃」から見ても明らかである。また、ユネスコの世界遺産認定を巡る対立に見られるように「嫌特定アジア」の主戦場は依然として「歴史認識論争」である。「従軍慰安婦強制連行説」が事実上破綻した今日では、新たに「関東大震災における朝鮮人虐殺」や「第二次世界大戦中の強制労働」を「錦の御旗」を変えて運動を継続しようとしている。そこには、欧州に見られるような「福祉排外主義」は見られない。

164キラーカーン:2017/12/28(木) 22:56:26
7.1.2.2.4. 「在日特権」と社会保障制度改善要求の混合物としての「福祉排外主義」
 バブル崩壊後の景気低迷は2000代半ばに一息ついたが、それもつかの間のことであった。2008年のリーマンショックで全世界的な不景気となり、日本も多大な影響を被った。リーマンショックによる不況と「2002年の衝撃」以後醸成されてきた「嫌韓(ネトウヨ意識)」とが結びつくこととなった。これにより、日本のネトウヨと欧米の「極右」のイメージがある程度重なるようになった 。具体的には、生活保護受給を巡る「不公平感」を巡る問題として表面化した。

 生活保護は日本国憲法第25条に規定された生存権の具現化であり、生活保護は現金が支給されるだけではなく、本来3割が自己負担となる保険診療も自己負担がゼロとなるなどの特典もある。

 これらを勘案した「実質支給額」を加味すると年金生活者はもとより、デフレと就職氷河期で低賃金に甘んじている若年層(その象徴として「年収300万円」という語がある )よりも支給水準が高い(実質年収400万円)ともいわれている 。

 このため、生活保護関連費の地方自治体財政負担は小さいものではない。このように、生活保護は一部(25%)が地方自治体負担(75%が国庫負担) となることから、自治体財政健全化の見地からは生活保護認定を極力制限するということが「適切な行政」となる。いきおい、生活保護の申請書を窓口の役人が受け取らないといった「水際作戦」というような手法を採ることもあったといわれている 。この結果、生活保護受給認定を受けることは「針の穴を通す」ように難しく、そのため、生活保護が受給できず、「餓死」するといった事件も発生していた。

 しかし、特定の勢力 の「後ろ盾」或いは「口添え」があれば、比較的容易に生活保護の申請が受理されるということも都市伝説的に言われている。また、生活保護の受給認定がなされず餓死するという事案が発生する一方で、本来なら受給されない者に対しても生活保護が受給されるという「不正受給」の問題も表面化した。

 行政(地方自治体)は、日本国民に対しては「あの手この手」で生活保護申請取下を求めるのに、在日朝鮮人に対しては甘い審査で申請を認めるという俗説が所謂ネトウヨ層の間に広まっていった。その俗説を裏付けるかのように在日朝鮮人世帯の生活保護受給率が日本国民との比較でも言うに及ばず、他の在日外国人 と比べても極めて高い水準にあるといったデータがネット上で発表された 。それが転じて、生保受給(認定)も「在日特権」として語られることもあった。

 このような、生活保護を巡る
① 年金生活者や若者の平均年収と生活保護支給水準との間の不公平感
② 生活保護申請すら認めない「水際作戦」と弁護士や地方議員の「口添え」或いは在日
 朝鮮人のような「弱者」には生活保護申請が認められ易いという生活保護認定を巡る
 生活保護認定を巡る不公平感
という2つの不公平感が醸成されていった。

 特に後者の不公平感は、不正受給の温床と言われてきた。この不公平感を裏付けるように、在日朝鮮人による不正受給や平均年収より遥かに高収入の芸能人による生活保護不正受給事案が発覚する一方で、真面目な日本国民には生活保護が受けられず餓死したという事例 も発生している。また、2014年4月には「反差別活動家」であった在日朝鮮人が生活保護不正受給容疑で逮捕(同年8月に有罪判決)されたことも、生活保護バッシングの一環で「福祉排外主義」が勃興する一因ともなった。

 この結果、「歴史認識論争」や「2002年の衝撃」を経た末の「嫌特定アジア」特に「嫌韓」感情の増幅装置として「生活保護バッシング」に代表される「福祉排外主義」が機能したことであった。

 生活保護受給に限らず、リーマンショック以前から、特別永住資格以外にも虚実が入り混じった「在日特権」 と言われるものが存在するといわれてきた。

 それは、生活保護に限らず、住民税減税など在日朝鮮人への「不当」な経済的利益の付与が「在日特権」であるという形で言説化された。「在特会」の「在特」は「在日特権」の略であり、同会の設立が2007年であったことから、「在日特権」そのものについては、リーマンショックの前から人口に膾炙し始めていた。

 結果として、生活保護受給を巡る問題は在日朝鮮人をはじめとする外国人の生活保護不正受給事案の発覚も日本国民と在日朝鮮人との「格差」ひいては「在日特権」の存在を認識させることとなった。国民国家或いは国民主権の建前から言えば、日本国政府及び地方自治体は「日本国民のため」が第一義である。最高裁判所の裁判例もそれを支持している 。したがって、外国人よりも自国民を優先して生活保護を行うべきとの世論すなわち「福祉排外主義」の勃興を促すこととなった。

165キラーカーン:2017/12/30(土) 01:18:20
7.1.2.3. 「1989年の衝撃」(「ネット右翼の発生」)
7.1.2.3.1. 冷戦終結と「歴史認識論争」のグローバル化と産業空洞化
 日本型ネトウヨ化にとって冷戦終結 によるグローバル化とは移民に代表される「人的移動」のグローバル化ではなく、国家、或いは民族共同隊のアイデンティティーに関わる「歴史認識論争」のグローバル化及び人件費等各種経費削減のために国内企業が生産拠点を国外へ移転するという産業の「空洞化」として現れた 。この結果、日本では経済のグローバル化に伴う移民の流入は欧米各国に比べると格段に少ないものであった。このため、日本においては、欧州各国で見られるような経済のグローバル化による「反移民感情」というのは殆ど発生しなかった 。

 最近では右派・保守の側から「歴史認識論争」を「歴史戦」と称することもある 。これは、「歴史認識論争」が一種の戦争であり、ひいては(歴史学の枠を超えて)国際紛争或いは閔則紛争という国際政治の文脈で語られることを示している。

 実際、日本を巡る歴史認識論争の主戦場は日本や中朝韓という当事国ではなく国際機関・会議や米国である 。これは、当事者ではない第三国を味方につけることにより、中朝韓三国が日本に対する有利な立場を得ようとしているからである。

 これまで述べたように、ソ連(当時)が冷戦に敗北したことにより、「社会主義」や「共産主義」は左派の結集軸(「錦の御旗」)としての効力を失った。この結果、日本の左派は左派的活動を継続するために社会主義や共産主義に代わる「錦の御旗」を必要とした。
7
.1.2.3.2. 昭和天皇穂崩御と戦後40年(昭和の「歴史化」)
 冷戦終結と前後して、昭和天皇崩御という歴史的事象も重ねて生じた。昭和天皇の崩御は昭和を「歴史」として扱うことを可能とした。昭和天皇の崩御時、第二次大戦終結から40年以上が経過しており、実際に軍隊経験がある人は既に60歳の定年となり、社会の第一線から退いていた。更に、終戦時に義務教育を終了した年齢層(昭和8年生まれ前後)もあと数年で定年となり、社会の第一線から退場することが見込まれていた。

 このことは、「第二次大戦の体験」が現在の人々が生きる「今」から、社会の第一線を退いた人たちの「過去」即ち「歴史」となる事を意味していた。そのため、昭和戦前期の日本を「歴史的に」捉えることに対する実社会での障害は格段に少なくなっていった。そして、「嘘」を重ねたとしても、「生き証人」から反発を食らう可能性が格段に減少することも意味していた。

166キラーカーン:2017/12/30(土) 01:20:39

7.1.2.3.3. そして左派は「歴史」を新たな「錦の御旗」に選んだ
 このような時代背景により、左派は、社会主義国家や共産主義国家の実現という「未来」よりも「歴史上類を見ない極悪・残虐な大日本帝国」という「過去」を「錦の御旗」とすることを選択した。
歴史という「錦の御旗」下で個別の「象徴的事実」として採用された個別具体的な歴史的事実は色々あるが、衆目の一致する代表的な「象徴的事実」は「従軍慰安婦問題」であるのは衆目の一致するところであろう。この「従軍慰安婦問題」を「エース」として、左派は「歴史認識論争」を仕掛けていった。

 先に述べたように、「従軍慰安婦問題」は冷戦終結とともに歴史の表舞台に躍り出たことは定説化している。知ってか知らずか「従軍慰安婦問題」は日本の左派の「自虐史観」と韓国の右派との「ディスカウント・ジャパン」という「連係」を生み出した。そして、以前から連携していた日本の左派と北朝鮮シンパの在日朝鮮人との連携も含めた日朝韓連携が日本において「反左派」及び「嫌韓」ひいては「反朝鮮半島」感情を生み出し、「日本型ネトウヨ化」へとつながっていった。

 しかし、そのような「反朝鮮半島感情」は、これまで「在日差別」と絡み合った「朝鮮半島タブー」のために1990年代ではあまり大きなものとはならなかった。「反朝鮮半島感情」が「公認」されるのは、日韓W杯及び金正日が日本人拉致を認めた「2002年の衝撃」を俟たなければならなかった。

 このように、1990年代前半の段階で所謂「自虐史観派」は歴史認識論争と冷戦終結により「敵」を見失った韓国の「ナショナリズム」や「東京裁判史観」或いは「戦勝国史観」を巧みに結び付けることに成功した。そのことによって、所謂「自虐史観派」は「歴史認識論争」を自身に有利な形で国際化することに成功した。そのような左派によって仕掛けられた「歴史認識論争」は、日本において、と在日朝鮮人の活動家とが結びついた「反日民族運動」となっていった 。

 この「歴史認識論争」に起因する「ネトウヨ化」(日本型とドイツ型)は基本的に「敗戦国」の側で生じていることが特徴である。というよりも、「勝者の正義」に立脚する戦勝国(特に国連安保理常任理事国)は「勝者の正義」によって「歴史認識論争」によって他国から批判を受ける理由が存在しない。従って、第1図においても、「戦勝国で歴史認識主導型」の象限は空欄となっている 。

167キラーカーン:2017/12/31(日) 02:05:17
7.1.2.4. 「2002年の衝撃」(「ネット右翼」から「ネトウヨ」へ)
7.1.2.4.1. 総説
 2002年は日韓W杯及び小泉総理の訪朝により、「南北朝鮮の『双方』が反日」であることが満天下に示されることとなった。これにより、「差別」という名目で維持されてきた「朝鮮半島タブー」が事実上解禁されることとなった 。

 これにより、これまで、「歴史認識論争」が主であり、反朝鮮半島意識が従という意識が逆転し、反朝鮮半島意識が主、「歴史認識論争」が従という意見が主流となっていく。この

反朝鮮半島意識が主、「歴史認識論争」が従

が主流となる契機が2002年に生じたので、本稿では「2002年の衝撃」と表現している。

 これ以降『嫌韓流』に代表される「嫌韓・嫌朝鮮」本が一つの分野として成立していくこととなる。これも、冷戦終結後に「仮想戦記」が一つの分野として成立したことと軌を一にしている。また、この「2002年の衝撃」をきっかけに一躍小泉後継争いに名乗りを上げ、小泉総理退任後の総理・総裁の座を射止めたのが安倍晋三現総理である 。

 この結果、「ネトウヨ」が「ネトウヨ元年」ともいえる年となった 。

7.1.2.4.2. 「2002年の衝撃」前史
 「従軍慰安婦」問題をはじめとする「歴史認識論争」は1990年代から盛んであった。1990年代半ばから、インターネットの普及により、「歴史認識論争」は市井の人々を巻き込み、更には国境を越えて市井の人々の間で活発に行われるようになった。「新しい歴史教科書をつくる会」には、そのような「インターネットを入り口に、保守/右翼的活動を始めた」人々 が参加していった。そのような「インターネットを入り口に、保守/右翼的活動を始めた人々」が「ネット右翼」と呼ばれるようになっていった。

 現実問題として、ネット上での「言論活動」と「リアル」での運動とは相性が良いとは言えない。このため、「ネット右翼」で「つくる会」などで実際に運動している人の割合は高くないと推測できる(自由時間の一部としてネットでの書き込み・議論などをしており、「野外」での運動に参加する暇がない)。

 したがって、「ネット右翼」には「ネット空間『だけ』で威張っている」という「ひきこもり」や「内弁慶」的な性向を揶揄する響きもある。それが「リアル」で「市民活動」を行ってきたリベラル・左派との大きな相違点となっている。

 そのような「ネット右翼」が「嫌韓」或いは「嫌南北朝鮮」意識を前面に押し出した「ネトウヨ」へ変化する契機となったのが、「2002年の衝撃」である。

168キラーカーン:2017/12/31(日) 02:05:38

7.1.2.4.3. 「2002年の衝撃」
7.1.2.4.3.1. 2002年W杯
 2002年は世界第歳のスポーツイベントの一つであるサッカーW杯が初めてアジアで開催された年でもある。当初、日本の単独開催が有力視されていたが、現代財閥のオーナー一族である鄭夢準氏が国際サッカー連盟(FIFA)の副会長であったことから、韓国側の巻き返しも強烈で、日韓共催となった。

 この開催地を巡る争いで単独開催を共同開催に「譲歩させられた」として、日本側で不満を持つ素地ができた。共催決定後は、韓国側が、「歴史認識」を梃子にして日本側に譲歩を迫る手法を採ってきた。その例として
① サッカーのピッチを題材としたポスターの図柄が「日」の字に似ているとして拒否
② 国名はアルファベット順という慣例を無視して、Korea, Japanの順にした
 (本来はCoreaだったのが、日韓併合時に日本の後に来るようにKoreaとされたと主張)
というものがあった。

 このような韓国側の主張は、どのような案件でも「歴史認識」を持ち出して日本より優位に立とうとするものとして、嫌韓感情がさらに醸成されていった。W杯では韓国が準決勝に進出するというアジア初の快挙を成し遂げたが、韓国戦絡みの「誤審」が相次ぎ韓国による審判買収も取りざたされるような事態となった。FIFA100周年記念DVD収録のW杯「10大誤審」のうち、日韓大会で5つ、うち4つが韓国戦である。

 このような状況であったのにも拘らず、日本のマスコミはこの「誤審」問題を全くといってよいほど報道せず、「日韓友好一辺倒」であったことも「マスコミ不信」が増加することとなった 。とはいっても、この結果、韓国に対する批判が抑えきれなくなっていき「嫌韓」の端緒となっていった。

7.1.2.4.3.2. 小泉総理訪朝
日韓W杯が「韓国批判の解禁」であったとすれば、小泉総理の訪朝と北朝鮮が日本人拉致を認めたことは「北朝鮮批判の解禁」であった。この両者が同じ2002年に起きたというのは象徴的である。つまり、「南北朝鮮タブー」が同時に取り払われたことも「嫌朝鮮半島」に拍車をかけたということは間違いない。

 冷戦時代、当然のことながら、韓国は資本主義陣営、北朝鮮は社会主義陣営の一因であった。このため、リベラル・左派が圧倒的優勢である日本のインテリ及びマスコミにおいては、韓国は「悪の独裁国家 」であり、北朝鮮は「地上の楽園」であった。

 したがって、同じ「朝鮮半島タブー 」といっても、北朝鮮のそれの方がはるかに厳しかった。特に、マスコミでは「北朝鮮」という略語すら単独で使用できず、最初に「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」と言わなければならなかった。国内においても北朝鮮に批判的な発言をすると、朝鮮総連から「強烈な抗議」を受けたりして日常生活に支障をきたすということが言われていた。

 冷戦が終結し社会主義の退潮が明確になり、更に、日本海側を中心とする日本人行方不明事件が北朝鮮の犯行であるとの状況証拠が揃っても、マスコミや有識者の「北朝鮮への肩入れ」は継続しており、拉致事件も「右翼の反北朝鮮キャンペーン」に利用されるとして表立って取り上げることが憚られる雰囲気であった 。

 そのような、「公開の場において北朝鮮に対してものが言えない雰囲気」が一変したのが、小泉総理訪朝時に金正日総書記が日本人拉致を認めたときであった。そして、小泉訪朝に随行していた安倍官房副長官(当時)が「拉致問題に言及がないならこのまま帰りましょう」と小泉総理に進言したとされている。

 拉致事件を北朝鮮が認めたことにより、これまで「抑圧」されてきた北朝鮮批判、ひいては北朝鮮を陰に陽に支援してきたリベラル・左派への批判が「解禁」されることとなった

169キラーカーン:2018/01/01(月) 02:28:19
7.1.2.5. 「日本型ネトウヨ」は安倍首相の存在により、既存政党に包摂された
7.1.2.5.1. 総説

 これまで述べてきたように、欧州においては、仏国の国民戦線や独国のAfDなどの所謂「極右政党」(本稿での「欧米型ネトウヨ政党」)が存在し、それらの政党が議会に確固たる地位を占めつつある。また、オーストリアの自由党は連立与党入りが取り沙汰されている。しかし、それらの「極右」政党は「アウトサイダー」化しており、議会内で「まともな政党」として扱われていない。それは、第一党が過半数を採ることがない国家、即ち、連立政権が常態である国家において、そのような「極右」政党は連立交渉相手として見做されていない。旧西側諸国においては、唯一、オーストリア自由党のみが連立与党となったことがあるだけである。

 その一方、欧米と同様に右傾化が進んでいるといわれる日本においては、欧米諸国とは事情を異にする。欧米諸国とは異なり「日本型ネトウヨ政党」である「日本のこころ」は事実上自民党に吸収され、政党としては消滅した状態にあるといっても過言ではない 。

 また、米国にも「ティー・パーティー」或いは「オルタ右翼」と言われるような日本でいう「ネトウヨ勢力」が存在するが、それらの勢力は自前の政党を有しておらず、予備選などを通じて共和党内部で影響力を行使する道を選択している 。このように、欧州各国では「極右」と称される「欧米型ネトウヨ政党」が存在しているのに対し、日本及び米国においては所謂「ネトウヨ勢力」が既成政党に包摂されている 。

7.1.2.5.2. 日本型ネトウヨ政党・勢力の現状

 現在「日本型ネトウヨ政党」としては「日本のこころ」があるが、2017年10月の解散総選挙を機に離党者が発生し、同党所属の国会議員が1名となった。この結果、国会議員数での政党要件である「5名以上の党所属国会議員」を満たさなくなった。更に、総選挙での得票数が全国で2%に達しなかったことから、政党要件を失うこととなった 。この総選挙で政党要件に届かないという結果及び国会内では自民党と統一会派を組んでいるという現状により、「日本のこころ」は政党としては事実上消滅状態にある。

 「2002年の衝撃」以降、日本社会では排外主義的な「ネトウヨ化」が着実に進んでいるといわれているのにもかかわらず、日本の政治において「日本型ネトウヨ」は可視化されず、組織化もされていない。わずかに、2014年の東京都知事選で田母神氏が60万票を獲得したという事例があるだけである。

170キラーカーン:2018/01/01(月) 02:28:38
7.1.2.5.3. 日本型ネトウヨを包摂した安倍自民党

 では、なぜ、日本では欧州各国とは異なり、「ネトウヨ政党」特に「日本型ネトウヨ政党」が存続できないのかが論点となる 。日本で所謂「ネトウヨ勢力」の活動が認知されだしたのは「2002年の衝撃」の後、となる。小泉政権時代の「強力」な自民党に陰りが見え、ねじれ国会となり、リベラル・左派政党である民主党が自民党に代わって政権に就くという可能性が無視できなくなっていった。

 そのような状況の中での「ネット右翼」の危機感が「在特会」の結成(2007年)など、所謂「ネトウヨ勢力」がネットだけではなく「リアル」の世界でも政治的活動を行うようになっていった。民主党が政権与党であった2009年から2012年は、民主党が明確な「敵」であり、また、中国漁船の海保巡視船への「体当たり事件」など、所謂「ネトウヨ勢力」が危機感を持つ事象が発生していた。

 2012年に第二次安倍政権が発足した後は、「安倍一強」ともいわれる政治情勢の中、安倍総理が所謂「ネトウヨ勢力」を自民党に繋ぎ止めている格好となっている。

 安倍晋三氏は「2002年の衝撃」を機会に頭角を表し首相にまで上り詰めた。また政治思想的にも「自民党の右」に位置する政治家であるとされており、月刊誌に寄稿した文章も「戦後レジームの打破」など「自民党の右」という世評に違わぬものであった。このため、安倍氏はリベラル・左派からは「ネトウヨの頭目」とみなされている 。

 このような経緯から、安倍総理はリベラル・左派からは「不倶戴天の敵」扱いされていることは容易に想像がつく。安倍総理は確かに「自民党の右」に位置する政治家であるが、実際の政策はそれほど「右」というわけではない。「特定秘密保護法」や「平和安全法制」や「共謀罪」の法定化は世界標準で見れば当然の法整備であり、それ自身が「右」と言われるものではない。そのため、外国では、安倍総理は「リベラル」な政治家と見られることもある 。

7.1.2.5.4. 安倍自民党以後に日本型ネトウヨ政党は復活するのか

 現時点において日本型ネトウヨ政党が一定の政治勢力まで成長していないのは、安倍晋三という個人に日本型ネトウヨ勢力が包摂されているという属人的事情が大きいと考えられる。このため、「安倍一強」が継続している限り、日本型ネトウヨ勢力は安倍自民党に包摂されたままでいると予想される。

 とは言っても、第二次安倍政権が行っている政策は月刊誌へ寄稿した文章より穏健なものであり、海外の識者からは「リベラル」と評されるようなものである 。このため、これからも自民党が日本型ネトウヨ勢力を包摂できるか否かは不透明である。

 例えば、自民党の「左」に位置する政治家が第二次安倍政権の後に総理・総裁となれば、或いは、旧民進党勢力が政権奪取に成功した場合、そのような日本政治の「左傾化」に危機感を抱いた日本型ネトウヨ勢力が自民党から分かれて独自の活動を立ち上げる可能性がある。そうなれば、都議選での田母神候補の「善戦」のように、政界のアウトサイダーとして一定の存在感を示す機会があるかもしれない 。

171キラーカーン:2018/01/03(水) 01:06:35
7.1.2.6. 他国における「日本型ネトウヨ化」と思われる例
 日本国外における日本型ネトウヨ化と思われる事例の中で最近の有名な例は、2017年8月に発生した米国のシャーロッツビルでの事件での左右両派の衝突事件である。この事件は、「南北戦争」を巡る歴史認識である。この問題は、日本でも大きく報じられたが、米国内戦に起因する米国内の問題であるため、排外主義的な主張には発展しなかった。したがって、ネオナチや在特会のような「分かり易い」例ではないが、「敗者の側」に属する共同体の歴史認識が問われた例であることから「日本型」の一例として見做すのが妥当であろう 。

 先に述べたように、この事件は南北戦争に絡む「南部側の歴史認識」が直接の引き金なっている。この事件の結果、リー将軍をはじめとする南軍関連の銅像が「南部史観」(⇒奴隷制の正統化⇒白人至上主義)の象徴として毀損されることを避けるために南軍関連の銅像を「非公開」にする事例が発生している。

 シャーロッツビルの事件は米国の国内問題の枠に収まるものであるが、日独の場合は論争が国外に波及し、国際問題となる。「主な敗戦国」ではないオーストリアの場合 でもナチスという「歴史」が絡めば、ハイダー氏が率いる自由党が連立与党入りした際にはEU域内での制裁論議にまで発展した 。

172キラーカーン:2018/01/05(金) 01:32:08
7.1.3. 欧米型ネトウヨ化(グローバル化による経済的不安が発端)
7.1.3.1. 総説
 欧米のネトウヨ化は、日本のネトウヨ化とは異なり、「歴史認識論争」からではなく、経済のグローバル化によって増大した移民によって引き起こされた国内経済状況の変化特に「中間層の没落(の恐れ)」による移民排斥感情が引き金となっている。

 先に述べたように、欧州各国における移民問題は、冷戦終結前からドイツ(旧西ドイツ)のトルコ人移民のように散発的に表面化していた。しかし、それは、移民の労働環境の劣悪さの告発が主題であり、現在の「没落した中間層」や「福祉排外主義」という文脈ではなかった 。

 冷戦終結後の経済のグローバル化の進展によって、経済的な裕福さを求めて外国から欧米先進国への移民の流入が増大した。さらに、冷戦時代のような米ソ超大国による「たが」が無くなり、(全世界的紛争に発展する可能性のない)地域紛争が増加し、難民保護の観点から欧米先進国にそのような戦災難民も流入するようになった。

 そのような難民や移民は肉体労働的な職に就くことが多かった。その結果、移民先の中間層の国民が担っていたが移民との競合にさらされ、多くは移民がその仕事を奪っていった。また、EU発足によって、加盟国間で移民に対する取扱の差異が残存しているのにも拘らず、EU域内における経済的国境が事実上撤廃されたことも、移民流入の増加傾向に拍車をかけることとなった 。

 このようにして移民に仕事を奪われた「没落した中間層」が、その対策として移民の流入制限等の施策を求めるのはミクロレベル或いは対症療法的には正しい。移民が増えることにより増大する社会的リスクは、その移民に仕事を奪われた「没落した中間層」の発生だけではない。移民増大によって彼らの声が無視できなくなり、旧来からの住民と新しく移住してきた移民との間でアイデンティティー摩擦が生じることである。特に、宗教的価値観の異なる国(例:イスラム圏からキリスト教圏である欧州)へ移住した場合、その摩擦は大きくなる

 このように、移民の流入や経済のグローバル化によって、経済的状況のみならず、所属する共同体のアイデンティティーといった欧州社会の安定を担ってきた層が「没落した中間層」となっていった。「極右」政党は、移民排斥だけではなく、経済のグローバル化によって祖国(ひいては欧州)がアイデンティティー危機に陥っているという点を訴えた。そして、そのような「没落した中間層」の声をくみ取る努力をしてきたのは「極右」政党のみであった 。その結果、「極右」政党は、「我こそが欧州社会の守護者」へと変革を果たし、主要政党の座にのし上がった。

 その後、「多文化共生」 の名の下に、移民増大による従来からの社会的アイデンティティーが揺さぶられることとなり、「極右」政党も福祉排外主義一辺倒ではなく、極右政党こそが「自由でリベラルな」欧州社会の担い手であるとして支持を伸ばしてきた。更には「福祉排外主義」により、先ず「没落した中間層」である国民の救済が第一という施策を掲げ、本来、左派の支持層である貧困層にまで支持が浸透してきた。それが、欧米における「右傾化」の実態である 。

 このように、欧米型ネトウヨ化は、経済のグローバル化とそれによる移民の流入による「中間層の没落」を契機として、移民の増大によって欧州社会のアイデンティティーが揺さぶられたことに効果的に対応できたことによって発生した。

 「極右」は移民排斥という処方箋を提示した一方、リベラル・左派の側は有効な対案を提示的なかった。リベラル・左派は、これまで、「多様化」や「グローバル化」の観点から、移民受け入れに賛成であり、それに反対する人々を「排外主義者」や「人種差別」として糾弾するだけであり、「没落した中間層」の救済へ意識を向けることはなかった。

 この結果、左派・リベラルは本来の支持者層である「没落した中間層」にそっぽを向かれ「極右」の台頭を指を咥えてみているしかなかった。これからは、左派・リベラルが彼らに対する「処方箋」を提示てきるか否かが焦点となる。それが、左派・リベラル復活のカギとなる。

173キラーカーン:2018/01/06(土) 01:44:05
7.1.3.2. 経済のグローバル化による移民の増加による「没落した中間層」の発生
 「資本主義の勝利」となった冷戦終結後、東西の壁が取り払われることとなった。この結果、世界経済はより一層の多国籍化・グローバル化が加速することとなった。いきおい、欧米先進国には豊かさを求めて、旧植民地や発展途上国からの移民が押し寄せることとなった。その一方、日本では、移民を受け入れる代わりに、国内企業が製造コストの低減のため、国外へ生産拠点を移すという事態も生じた 。

 そして、その移民の流入(欧米)にせよ、産業の空洞化(日本)にせよ、その結果は国内の中間層の職が奪われるというものであった。その典型例が米国の「ラスト・ベルト」と呼ばれる地帯に住む白人たちである。

 同じ仕事であっても移民の方が低賃金を苦にしないのが一般的傾向である(先進国では低い給与水準であっても出身国に比べれば十分に「贅沢」ができるだけの給与を移民が受け取れる)。この結果、移民を受け入れた国では、低賃金でも働く移民が仕事を奪い、産業が空洞化した国では経済・給与水準の低い進出先の国民が仕事を奪っていった。勿論、ある産業は移民が仕事を奪い、ある産業は空洞化により進出先の国民が仕事を奪うというように、国家レベルでは移民流入と空洞化が同時に発生しているという方がより正確であろう。

 移民や空洞化により職を奪われた、或いは、職にありつけなかった人々は経済的に困窮していく。この状況は「没落した中間層」と移民との間における経済的利益の対立関係と表現せざるを得ないものである。この移民と「没落した中間層」との対立の結果、限られた福祉予算を巡り移民や外国人を優先するのではなく、「国民共同体」或いは「国民主権」の論理から、国家などの公的団体が行う福祉施策については自国民を優先すべきとの「福祉排外主義」が生起してくる。その声を巧みに吸い上げたのが「極右」と言われる欧米型ネトウヨ政党であった。

174キラーカーン:2018/01/08(月) 02:13:54
7.1.3.3. 移民の増加による「外国人コミュニティ」の形成とアイデンティティー摩擦
 移民が流入することは、中間層から職を奪うだけではない。移民と旧来からの住民との間で生活集団を巡る摩擦を必然的に引き起こす。移民がもたらした問題は「没落した中間層」だけではない。移民が移民先の社会秩序に適合しないことによる社会不安及びアイデンティティー危機も発生する。「郷に入れば郷に従え」ということわざもあるように、移民側が少数であり、かつ、移民先の文化に「同化」する形であればこの問題は生じない(例:日系米国移民 )。たとえ摩擦が生じたとしても「制御可能」な範囲に緩和される可能性が高い。この点で移民の流入の制限にしている日本は極右にとっての手本になっているというのは先に述べたとおりである。旧植民地では「中〜上流」に位置する「エリート」が旧宗主国に移住する場合には、流入する移民の数も多くはなく、かつ、そのような「秩序ある平穏な移民」であることも期待できる。

 しかし、移住国の文化などに無関心な「一般庶民」の移民や宗教的戒律が絡む場合、外国からの移民が移民先の社会慣習に「同化」することは容易ではない。特に宗教が絡む場合、移民先への「同化」が往々にして「棄教」を意味することもあり、容易ではない。特に、内心と行動とが分離できない(宗教的戒律で日々の行動が細かく規制されている)イスラム教徒にとって、移民先の欧米の習慣に「同化」することとイスラム教の戒律との両立はかなり困難である。例として、1日5回の礼拝を挙げるだけで十分であろう。この礼拝の戒律が非イスラム圏で多数を占める人々との生活習慣との間で摩擦を生じさせることは容易に想像できる。

 宗教的戒律だけが問題ではないにせよ、欧州キリスト教圏とイスラム圏との間ではツール・ポワティエの戦いや十字軍など、イスラム教徒キリスト教は1000年以上にわたって争いを繰り広げている。現在においても、「イスラム国(IS)」といったイスラム過激派による欧州キリスト教圏でのテロは収まる気配がない。キリスト教徒とイスラム教徒との共存は現在においても困難な状況にある。

 このように、移民は「没落した中間層」の発生という経済的問題だけではなく、移民先のキリスト教文化に統合・包摂されない現代の「まつろわぬ民」という副産物をもたらした。このイスラム教徒の移民という「まつろわぬ民」を如何にして社会に統合・包摂するかという問題と移民によって発生した「没落した中間層」を如何にして救済するかという問題の二つが絡み合った複合問題に対する「処方箋」を持ちえたのは「福祉排外主義」と(イスラム教)移民移民の排斥(或いは、排斥できないまでも移民受け入れに関し「厳格な管理」を行う)という施策を打ち出した「極右」だけであった。

 このような経緯を経て、極右は経済のグローバル化によって動揺した社会を立て直すため、「極右」と言われながらも、欧米的な「自由主義」の護持者としての地位を固めていき、政治の舞台における地歩を固めていき、いくつかの国では連立与党として政権に参画するまでになっている。

175キラーカーン:2018/01/09(火) 00:10:06
7.1.3.4. 「維新系政党」は「欧米系ネトウヨ政党」か「ポピュリスト政党」か

 本稿においては、所謂「維新系政党」を欧米系ネトウヨ政党として扱ってきた。これは、「維新系政党」の政治手法が欧米諸国の「欧米型ネトウヨ政党」との類似点が多いためである。というよりも、移民に対する態度を除けば「同じ類型」であってもよいと言えるからであった。

 つまり、欧米型ネトウヨ政党とはポピュリズムに反移民感情が結合したために「極右」とみなされているが、日本の維新系政党は反移民感情と結合していないことから「極右」や「ネトウヨ」ではなく、単なる「(右派)ポピュリスト政党」ではないか説も成立する余地がある。

 確かに「欧米型ネトウヨ政党=ポピュリズム+反移民感情」という等式を全盛とするのであれば「欧米型ネトウヨ政党-反移民感情=ポピュリズム」という等式も成立する。また、「『維新系政党』=欧米型ネトウヨ政党-反移民感情」であるとすれば、前述の等式と併せれば「『維新系政党』=ポピュリズム」となる。

 しかし、日本においても維新系政党は、自衛隊や平和安全法制に対しては与党(特に自民党)の立場に近いことから、野党系「保守」政党として捉えられることが多い 。このため、リベラル・左派の側からは「維新系政党」や維新系政党の議員も「ネトウヨ政党(政治家)」と称されることがある。

 これまでに述べたことからの結論からすれば、「第三極」、「右派系ポピュリスト政党」と「極右」政党そしては本稿では触れることのなかった「左派系ポピュリスト政党」との境界線は
第三極:新自由主義○、ポピュリズム的手法×、反移民×
維新系(右派系ポピュリスト)政党:新自由主義○、ポピュリズム的手法○、反移民×
欧米型ネトウヨ政党:新自由主義○、ポピュリズム的手法○、反移民○
左派系ポピュリスト政党:新自由主義×、ポピュリズム的手法○、反移民×
ということになろう。

 また、マスコミなどの外国政治に関する記事においても、極右政党の特色として「反移民(感情又は政策)」が挙げられている。

 つまり、新自由主義的な政策志向を持つ第三極にポピュリズム的手法が付加されると「維新系政党(右派ポピュリスト政党)」となり、それに「反移民(感情・政策)」が付加されると「欧米型ネトウヨ政党」となる。したがって、明確な反移民(特に反在日朝鮮人)という政策志向を持たない維新系政党は「極右」ではない。

 これらのことから、「維新系政党」は右派ポピュリスト政党 であるとするのが妥当であろうというのが本稿の立場である。

176キラーカーン:2018/01/09(火) 23:46:45
7.1.4. ドイツ型ネトウヨ化(移民流入と歴史認識論争との複合型)
 日本と並ぶ「二大敗戦国」であるドイツにおいても、冷戦終結とドイツ統一により、歴史認識論争が生じている 。大きなものとしては、
① ナチスとは異なり、ドイツ国防軍は清廉潔白という「ドイツ国防軍神話」への疑義
② いつまでナチスのことを反省しなくてはならないのか
という2つである 。後者については、ドイツの極右政党AfDも政策綱領に入れている。

 このため、ドイツにおける「ネトウヨ化」においては、移民問題と歴史認識論争との「二本柱」となっているため、「日本型」及び「欧米型」とは異なる第三の類型として「ドイツ型(複合型)」とした理由である 。

 ドイツ型ネトウヨ化は日本型と欧米型の複合型という性質を持つので、その内容については、日本型ネトウヨ化及び欧米型ネトウヨ化の双方の特徴を持つ。最近における特記事項としては、2017年9月の総選挙において「極右」AfDが、ドイツ連邦共和国となって以降初めて所謂5%阻止条項を突破して連邦議会で議席を確保したことである。且つ、その議席数は、AfDより前に「5%の壁」を突破して連邦議会に議席を得ていた緑の党や自由民主党などを上回る第三党となったことである。「欧州」或いは「EU」の盟主であるドイツで極右政党が躍進したことは欧州の「ネトウヨ化」の流れが止められないというところまで来ているのかもしれない。

177キラーカーン:2018/01/10(水) 22:40:20
7.2. 結論2:「世界総ネトウヨ化」をもたらした原因
7.2.1. 総説
 日本型、欧米型、ドイツ型という差異はあっても、日本や欧米各国で「ネトウヨ化」或いは「右傾化」と言われる事象が進行していることは事実である。前節では、その類型化と歴史的経緯について述べたが、本節では、その原因についてまとめる。

ネトウヨ化の原因には
① グローバル化による「反移民感情」の醸成
② 大統領制化とポピュリズムの蔓延(「1ビット脳的政治」の広がり)
③ それらの事態に対するリベラル・左派の「自滅」
の3つが挙げられる。

 ネトウヨ化については「反移民感情・政策」がカギとなることから、その直接的原因となったグローバル化については、前節で触れたところである。しかし、「大統領制化」やリベラル・左派の「自滅」については断片的に触れただけであるので、本節で整理したいと思う。

178キラーカーン:2018/01/11(木) 23:39:06
7.2.2. 冷戦の崩壊によるグローバル化(「1989年の衝撃」)
7.2.2.1. 日本型ネトウヨ化:歴史認識論争のグローバル化
7.2.2.1.1. 「1989年の衝撃」
 冷戦の崩壊により、「社会主義」或いは「共産主義」がリベラル・左派の「錦の御旗」としての魅力を完全に喪失したといってもよい状況となった。冷戦の終結はリベラル・左派にとって「革命」という「未来」への希望を喪失したことを意味した。「歴史」という「過去」を新たな「錦の御旗」にすることを選択した。特に「従軍慰安婦」の「強制連行」問題は「女性への性的暴力」も絡む案件である事から、現代社会に与える衝撃も大きく、一躍、歴史認識論争の「大黒柱」となっていった。

 このような「日本初」の歴史認識論争に対し、反日闘争を「建国神話」としたい中韓朝の「特定アジア三国」、更には「戦勝国史観(≒東京裁判史観)」維持の観点から欧米各国が便乗した形で、「自虐史観」の国際ネットワークが形成されていった。「自虐史観派」が構築した国際ネットワークの成果の一例が「クラワスミ報告」であり、同報告によって「性奴隷」という語を一般化させたことである。

 この国際ネットワーク化の反作用として、中朝韓の中で突出して積極的に「歴史認識論争」を仕掛けてくる韓国に対する反感が日本国内において強くなっていったことが挙げられる。勿論、日本においては、韓国だけではなく、中国や北朝鮮に対する反感も存在するが、中朝両国は、独立以来、冷戦時代にはソ連圏の一員(社会主義国)として「日本の敵国」であったため、「1989年の衝撃」による中朝両国の「反日度」の変化は比較的小さいものであった。

 したがって、中朝両国は「1989年の衝撃」以前も以後も「反日」である事には変化がなかったため、「1989年の衝撃」の影響を真正面から受けたのは韓国だけであった。その結果、現在のインターネット圏域においては、日本と韓国が冷戦期間中において「反共の同志」であったという歴史的事実は忘れ去られた格好となっている。

179キラーカーン:2018/01/11(木) 23:40:33
7.2.2.1.2. 「2002年の衝撃」
 「1989年の衝撃」があった後も、反韓(中朝)傾向はネットの中、それも「従軍慰安婦」問題を筆頭とする「歴史認識論争」に付随したものに限定されていた。その一方、マスコミでは依然としてリベラル・左派の威力が強いものがあった。そのため「朝鮮半島タブー」が当時においても残存しており、南北朝鮮に対する批判的言説を述べるには「特別な配慮」が必要であった。また、「リアル」な社会では「韓流」といった「韓国ブーム」が生起しており、「反韓(中朝)」は「ネット限定のブーム」として社会的関心を引かない、或いは、「ネット発」ということで一段低く見られていた。

 このような状況が一変する契機となったのが、日韓W杯と小泉総理訪朝が契機となった「2002年の衝撃」であった。日韓W杯では韓国の日常としての「反日」が市井の人々の芽にも顕わになり、小泉総理の訪朝でそれまで「疑惑」に過ぎなかった北朝鮮による日本人拉致が北朝鮮の犯行によるものであったことが明らかになった。これにより、ほぼ時を同じくして南北朝鮮双方に関する「朝鮮半島タブー」が解禁された 。

 このような状況の中で、これまで「歴史認識論争」の附属物であった「嫌韓(中朝)」との関係が逆転する契機となった。また、それに付随して、冷戦時代から北朝鮮を支持してきたリベラル・左派の言説の信頼性が地に堕ち、リベラル・左派の落日が誰の目にも明らかになった瞬間であった。

 「2002年の衝撃」以降、出版界では「嫌韓本」というジャンルが成立し、「嫌韓」は完全に市民権を得た。そのような日本国内情勢を意に介さないかのように「特定アジア三国」は反日デモ(中国)、告げ口外交(韓国)、拉致問題へのおざなりな対応及び核・弾道ミサイル開発による日本への威嚇(北朝鮮)を繰り返している。そのような状況もあり、「自民党の右」に属する政治家の政権である第二次安倍政権が国政選挙で5連勝を果たし、2017年現在、衆議院で与党が2/3以上の議席を占めている。

180キラーカーン:2018/01/13(土) 00:09:52
7.2.2.2. 欧米型ネトウヨ化:経済のグローバル化と移民・難民の流入
 冷戦の終結により、日本では歴史認識論争に起因する「右傾化」が発生したが、日米欧では多国籍企業のみならず、経済全体のグローバル化が生起した。(巨大)多国籍企業自体は冷戦終結時には存在していたが、生産設備(工場等)だけではなく、人の移動に関しても国境を越えて多国籍化した。このような状況の中で、より良い暮らしを求めて、西欧諸国には外国からの移民の流入が増大した。

 それに加えて欧州はEUなど欧州統合の動きの中で、経済活動に関しては、事実上、欧州域内の国境を廃止したのと同様の状況となっていたため、EU域外からは、いずれかのEU諸国で移民が認められれば、そこを足掛かりにしてより経済状況の良いEU域内の国への移住が自由にできるようになった。更に、最近は、中東やアフリカの内戦などを避けて欧州へやってくる難民も増大している。

 移民の祖国は西欧諸国より経済水準が(各段に)低いため、西欧の基準では「低賃金」であっても彼らにとっては「高収入」である場合も多い。このため、西欧諸国における肉体労働などの分野では移民先の「現地人」から仕事を奪うこととなる。或いは、工場の海外移転(産業空洞化)によって解雇される労働者も発生する(日本において「失われた世代」が発生したのはこのパターン)。このような経緯で経済的に発展した先進諸国において「没落した中間層」が発生することとなる。

 移民によって発生するのは「没落した中間層」ひいては所得格差だけではない。移民が多くなれば、移民先の社会に同化しない(できない)人も増える。それでも、移民が少数であり、かつ、時間はかかっても移民が移民先の生活習慣などを尊重し、移民先の社会へ「同化」すれば摩擦も少なくなる。日本がこれに該当する。

 しかし、欧州において、イスラム圏からの移民や難民の流入が多く、彼らは、容易に移民先の社会へ同化しない。イスラム教はキリスト教や(大乗)仏教と異なり、日々の行動がイスラム教の戒律に結びついている(一日5度の礼拝やラマダンなど)。このため、キリスト教社会である欧州の生活様式とイスラム教の信仰を守ることが二律背反となる可能性が他の宗教と比べて高くなる 。この結果、冷戦終結後における欧州へのイスラム系移民の流入増加は従来からの住民から職を奪うだけではなく、生活共同体も破壊するという「二重の不利益」をもたらすこととなった。

 リベラル・左派は「(グローバル化する世界で)国境という概念は古い。(可哀想な)移民を受け入れよ、反対する者は人種差別主義者である。『没落した中間層』は自己責任」としか主張せず、「没落した中間層」の痛みを無視し目を背け続けてきた。

 それに対して「極右」は、「(国民国家の主権者である)あなたたちは国からの救済を受ける資格がある。我々は、欧州の自由な社会を守りたい。そのためには移民の流入を制御・制限するしかない」という主張を掲げ、民衆の支持を得てきた。これが、欧米型ネトウヨ化の本質である。

181キラーカーン:2018/01/14(日) 22:06:02
7.2.3. 「没落した中間層」を嘲笑し「差別主義者」となったリベラル・左派
7.2.3.1. 総説(「没落した中間層」や「ネトウヨ」を「存在しない」ことにしたリベラル)
 本節では、これまで述べてきたような「右傾化」或いは「ネトウヨ化」に対する左派・リベラルの対応はどのようなものであったのか、そして、リベラル復活の兆しはあるのか。その点について考察する。

 「欧米型」、「日本型」を問わず、ネトウヨ化の経済的背景としては、グローバル化による「没落した中間層」の存在が挙げられる。欧米型では移民の流入により職を奪われ、日本型ででは「産業空洞化」により職が存在しなかったことで「失われた世代」となった。彼らは、「グローバル化」による「他国民の救済」よりも国民主権に基づく「自国民の救済」を優先せべきであると主張し、それは「福祉排外主義」へとつながっていった。

 救済の対象が他国民であっても自国民であっても、経済的格差の是正のため、景気対策或いは失業対策による「没落した中間層」への手厚い支援が当面(短期的)施策としては主眼となる。古い言葉でいえば「大きな政府」路線への回帰である。

 しかし、グローバル化した経済の結果、冷戦後の主流派リベラル(≒中道左派)は「国際協調」或いは「グローバル化」に反するような施策は採りづらくなってきた。また、欧州ではユーロという国際通貨を導入したことから、各国の予算の収支にも制限が課せられ、財政赤字拡大を覚悟する「大きな政府」路線は採りづらくなっていた 。

 そのような情勢の中、「グローバル化」への選好を有する(≒「国境」には否定的)リベラル・左派は、「グローバル化」が進む世界の中で「勝ち組」となっていった。グローバル化は本質的に国際社会の基本構造の一つである「国境(国家主権)」の絶対性を否定或いは「国境(主権)」の相対化を目指す傾向にある。そのようなリベラル・左派にとって、難民や移民は「国境を超える」存在として救済の対象となるが、「没落した中間層」は「国境を越えられなかった」愚かな人間として、救済の対象とはみなされず、そして、リベラル・左派の視界から消えていった 。

 その一方、「極右」或いは「欧米型ネトウヨ政党・勢力」がそのような「没落した中間層」に光を当て、彼らの救済を図るべきと訴えた際には、「(『没落した中間層』に光を当てること自体が)国内に『分断』を持ち込もうとしている」として批判したのであった。

182キラーカーン:2018/01/16(火) 00:31:44
7.2.3.2. 欧米型(「没落した中間層」の救済から逃避したリベラル・左派)
7.2.3.2.1. 「没落した中間層」の発生と「国家」の復活と「極右」の台頭

 冷戦終結前から多国籍企業を代表格として「国境(国家主権)」の絶対性が揺らぎ始めているのではないかという議論は存在していた。そして、冷戦の終結以後、「唯一の超大国」となった米国や欧州統合の動きなどから、冷戦終結後の世界においてはグローバル化(≒国境の相対化)の動きも加速していており、その傾向は現在においても継続している。

 ナショナリズムを否定するリベラル・左派にとってグローバル化或いは国境(国家主権)の相対化は相性が良い。その逆に「国境の内側」でしか生きられない「没落した中間層」とは相性が悪い。彼らリベラル・左派にとっては「国境」という概念を相対化或いは消し去ってくれる難民や移民の方が「救うべき同胞」として認識することができる。

 また、貧困にあえぐ人を「国境を越えて」救済するというリベラル・左派としての自己満足も得られる。その一方で「国境の内側」の「没落した中間層」はリベラル・左派にとって「存在しない」人々とされ、リベラル・左派の視界から消え、「見捨てられた人々」 となっていった。

 そのようにしてリベラル・左派から「見捨てられた」存在となった「没落した中間層」を「(救済されるべき)同胞」としてとして扱ったのが極右政党であった。極右政党は「反移民」の側面が強調されるが、実際は、「反移民」と「没落した中間層」の救済とが「福祉排外主義」によって結合され、この両者は合わせ鏡のように表裏一体となっている。

 このようにして、リベラル・左派は、本来、彼らの支持母体である労働者階級を「見捨てた」ことにより、退勢に向かうこととなった。逆に、そのような「弱者」に救いの手を差し伸べることで「極右」は勢力を伸ばしてきた。

 現在において、「多様性」や「反差別」といった「政治的に正しい○○」(所謂「ポリコレ」や「ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアー(SJW)」は「金持ち(リベラル)の道楽」となっている。リベラル・左派から見捨てられた「没落した中間層」にはそのような「道楽」に付き合うだけの経済力はもはや残っていない。
そのような「インテリ左翼」は「没落した中間層」や自身の政策に賛成しない者を「我々の政策の良さを理解できない『知的に劣った』者」として蔑み、見下しているからである 。

 リベラル・左派は本来の支持者層である貧困や生活水準の低下に苦しむ人々を見捨て、「外国人」の救済に力を注いでいくことは、政治勢力としてのリベラル・左派の「自滅」を意味するものであった。

183キラーカーン:2018/01/19(金) 00:07:16
7.2.3.2.2. 「没落した中間層」を嘲笑し、見捨て、「差別されるべき者」としたリベラル

 そのような移民の増大によって疲弊し貧困や生活水準の低下に苦しむ「没落した中間層」に対し、リベラルは救いの手を差し伸べることはなかった。それどころか、経済のグローバル化に乗り遅れた「敗残者」とされ、国境を越えてくる難民や移民よりも救済する価値のない人々とされた。そして、彼らの存在を「なかったことにする」ことによって、「分断」の存在を否定した。

 この点からも、リベラル・左派は「没落した中間層」の救済はおろか、同じ「人間」として扱っていない「差別主義者」と言っても過言ではなかった。「グローバル化」は、そのリベラル・左派が「没落した中間層」を「差別」するためのイデオロギーとして機能した 。

 リベラルは、「グローバル化」の流れとともに「国境から解脱した」民として「国民共同体」或いは「国境」への対抗意識は高まっていった。EUという形で、実質的に国境を廃止した欧州はその到達点ともいえた(とはいっても、EUとそれ以外の地域という「国境」は存在する)。更に、WTOやTPPといった自由貿易の推進や関税の廃止などにより、経済面での「国境の無効化」は加速していった。

 このように「グローバル化」への志向を有するリベラル・左派は「国境の内側」で懸命に生きる「没落した中間層」を「グローバル化に対応できなかった『敗者』」、「愚か者」或いは「自己責任」による因果応報として嘲笑した 。

 このような「没落した中間層」に属する人々は冷戦終結までは、リベラル・左派が最も重要視していた支持者層であった。それは、英国をはじめとする少なくない欧米のリベラル・左派政党が「労働党」或いはそれに類する党名をつけていることでも明らかである。
しかし、冷戦終結後のグローバル化の流れの中で、リベラル・左派は彼らを見捨てた。そのようなリベラル・左派に「没落した中間層」をはじめとする国内勤労者階級の支持が戻ることは考えにくい 。

 その結果、「国境」を意識から消し去ったリベラル・左派は、「国境を超える」ことを意識させてくれる「国外」の貧困(移民・難民も含む)には手を差し伸べるが、「国境を意識させる」国内の貧困には見向きもしなかった。リベラル・左派が優位な国家では、国家は主権者である国民を救済せず、「赤の他人」である外国人の救済に血道を上げていると「没落した中間層」からは見られていた。

 このように、増加しつつある「没落した中間層」に対して
① リベラル・左派は、彼らを嘲笑し、「劣った」存在として差別されるべき存在とした
② 「極右」は彼らを「同胞」として見捨てないと訴えた
この「没落した中間層」に対する対応の差が現在のリベラルの衰退と「極右」の伸長とリベラル・左派の退潮という両者の明暗を分けることとなった。

184キラーカーン:2018/01/20(土) 00:33:21
7.2.3.2.3. 「没落した中間層」を直視したリベラル・左派(「極左(急進左派)」の誕生)

 欧米では、このような「極右」の伸長に危機感を持ったリベラル・左派の中から、これまでリベラル・左派が見捨ててきた「没落した中間層」に真剣に向き合うべきだという考え方が現れた。しかし、その考え方の担い手は、英国のコービン氏を除けば、ヒラリー・クリントン氏に代表される旧来の主流派である「インテリ左翼」或いは「セレブ左翼」ではなく、「極左(急進左派) 」と呼ばれるようになった 。

 コービン氏も英国における二大政党の一角である労働党の党首であるが、その政治的立場は労働党内の左派である。コービン党首はブレア元首相に代表される「ニュー・レイバー」ではなく、旧来の社会民主主義(オールド・レイバー)であるといわれている。その点では、国内の貧困に向き合うというリベラル・左派或いは「労働党」の原点を見つめなおすことがリベラル・左派復活の鍵であるのかもしれない。

185キラーカーン:2018/01/22(月) 00:27:52
7.2.3.3. 日本型(「反日運動」に資源を集中)
7.2.3.3.1. 総説
 繰り返しになるが、日本の「ネトウヨ化」は、欧米諸国(特に欧州諸国)の「移民の流入による経済的困窮」による「没落した中間層」の発生ではなかった。左翼活動家や「進歩的知識人」などのリベラルは、社会主義、共産主義が敗北した世界である冷戦後の世界においても左翼的活動を継続するための理論的支柱を「自虐史観」に見出した。そのような背景を持つリベラル・左派の「歴史認識論争」に対する反発である「反自虐史観」としてのナショナリズムの勃興が日本における「ネトウヨ化」の始まりであった。

 したがって、これまでにも述べたように、現在では「ネトウヨ」か否かの判断基準となっている「嫌韓」若しくは「反朝鮮半島」、「反特定アジア」感情の比重は少ないものであった。嫌韓」若しくは「反朝鮮半島」、「反特定アジア」感情は、飽く迄、その「歴史認識論争」の副産物であった。その「反自虐史観としてのナショナリズム」と「反特定アジア」感情との主客交代は「2002年の衝撃」を引き金とした「反朝鮮半島感情」を契機として生じ、現在に至っている。

 このため、現在において主流となっている「ネトウヨ」を対象としてきた言説は全て「2002年の衝撃」特に「日韓W杯」を起点としているといっても過言ではない。その結果、2002年より前の「ネット右翼」の時代は、「神代」として、当事者の記憶の中にしか存在し、その断片が稀にネット上の「思い出話」として流れてくる程度である。

 リベラル・左派の暴力化、不寛容化、独善化などに対する反動としての「ネトウヨ化」という点では「欧米型ネトウヨ化」と「日本型ネトウヨ化」の共通点はある(だからこそ欧米型ネトウヨと日本型ネトウヨとの差異をあまり意識せず、双方を同一の「ネトウヨ」としてまとめて論じることも発生するということである)。
このように、日本型ネトウヨ化は、「歴史認識論争」というイデオロギー論争から発生したという点で、移民の流入による「没落した中間層」の発生を契機として「ネトウヨ化」が生じた欧米諸国とは一線を画している。このため、日本のリベラル・左派は経済問題ではなく、「歴史認識」や「多文化共生」といった政治的或いは非経済的側面にその言論を集中させている。

 特に民主党左派(民進党左派⇒立憲民主党)は、新自由主義的な「小さな政府」具体的には「財政健全化」を志向する傾向が強い(これが、民主党・民進党も「第三極」的要素を持つという実際的な理由である)。

 その結果、日本のリベラル・左派は、欧米のリベラル・左派のように「大きな政府」或いは積極的な財政出動による経済刺激策は「小さな政府」や「財政健全化」という政策を唱えることはほとんどない。日本におけるリベラル・左派の活動は「反原発」、「反集団的自衛権」など、庶民の日々の暮らしに直結しない「イデオロギー論争」といったものが主流となっている。言い換えれば「安倍退陣が実現するなら飢えても構わない」ということである。

 したがって、「日本型リベラル・左派(≒「パヨク」)」は、「失われた世代」或いは「失われた20年」を生み出したデフレ脱却をはじめとする貧困対策(経済政策)には全くと言って興味がない。それどころか「貧困のために安倍首相を支持するのは『肉屋を支持する豚』であり、自殺行為である」言い換えれば「霞を食って生きることのできない者は愚かである」として、反安倍闘争のための飢えに耐えることのできない者に対して、「人間失格」という差別的嘲笑を行っている。

 リベラル・左派の支持層は、景気回復政策ではなく、かつての学生運動といった「左翼運動の夢よもう一度」や高度成長やバブル景気の果実を享受して「逃げ切り体制」に入った高齢者が主である。
このように、経済的側面に目を向けないリベラル・左派が、「左翼学生団体」としてのSEALDsなどという「若者」の運動を盛り上げても、リベラル・左派の訴求力は目に見えて落ちている。それに対する焦りもあって、「しばき隊」のような暴力行為に走る活動の先鋭化やマスコミの「角度をつけた」誤解を招くような「フェイク・ニュース」化を引き起こしている。

 そのような、「味方の暴走」をリベラル・左派の識者は咎めることをしないどころか、逆に、そのような運動と一体となって「暴走」しているという現状がある 。それによって、日本の多数を占める「ノンポリ層」(≒無党派層)の離反を招くというリベラル・左派にとっての悪循環に陥っている。

 これは、アベノミクスが一定の成果を挙げ、若年層の支持が高い安倍政権と対蹠的である。言い換えれば、雇用状況などの経済好転による恩恵を受けている層(主に若年層)の安倍内閣及び自民党支持率が高いということと対蹠的である。


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