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日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

31荷主研究者:2006/10/09(月) 03:16:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200608190097.html
'06/8/19 中国新聞
石垣崩れ40年 福山城跡復元始動

 福山市教委は近く、国史跡「福山城跡」の本格的な整備に向け、計画策定を担う検討委員会の準備会を発足させる。城下町・福山のシンボルである城の石垣の一部は、四十年以上前に崩落し放置されてきた。その石垣は準備会発足により、ようやく復元への一歩を踏み出すことになる。(古川竜彦)

 崩落しているのは、天守閣の西南に位置する二之丸の石垣の一部。断続的に幅二百メートル以上にわたり崩れ、落ちた石は周囲に野積みされている。市教委によると、一九六四年に城跡(約三万三千平方メートル)が国史跡に指定された際、既に一部は崩れていた。しかし、崩落に関する記録はなく、野積みの中には城の周辺整備で出土した石も含まれているという。

 市教委が年内に発足させる準備会は、近世史や城郭建築などの専門家ら学識経験者で構成。崩落している石垣や関連遺構について調べ、復元に向けた課題を整理する。さらに伏見櫓(やぐら)や筋鉄御門(すじがねごもん)(いずれも国重要文化財)など文化財の保存状況も把握する。

 続いて市教委は二〇〇七年度にも、準備会のメンバーを中心に正式な検討委員会を設置。福山城跡の全体整備計画策定に入る予定でいる。

 福山城は一六二二年、初代福山藩主の水野勝成によって築城された。天守閣は一九三一年に国宝に指定されたが、四五年の空襲で焼失。伏見櫓などは戦災を免れた。市は六六年、市制施行五十周年記念事業として天守閣や月見櫓などを再建した。しかし、文化財としての史跡整備は未着手のままとなっていた。

 石垣の復元などを四十年余も棚上げしてきた点について市教委文化課は「天守閣などを除き、城の全景写真や実測図などの資料が戦災などで焼失し、原型を復元するような計画策定が困難だった」と説明する。

 一方で文化庁は最近、文化財保護の観点から安易な現状変更に歯止めを掛けてきた姿勢を軟化させた。「適切な調査、検討作業を経た現状変更の計画ならば、審議対象となる」(記念物課)としている。こうした動きを受け市教委は、福山城跡の整備計画策定に乗り出すことを決めた。

【写真説明】崩れたままとなっている福山城二之丸の石垣。右奥は伏見櫓(撮影・天畠智則)

32荷主研究者:2006/10/09(月) 03:30:08

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20060830002.htm
2006年8月30日 北國新聞
金沢城河北門復元、国事業に採択 平成の築城・第2幕本格化 来年度予算概算要求

 平成の築城第二幕が本格化する。金沢城の第二期復元整備事業で、国土交通省は二十九日、石川県が来年度着工する河北門の復元工事を同省の都市公園事業に採択する方針を固めた。来年度予算の概算要求に同事業費千二百八十八億二千九百万円(全国枠)を盛り込んだ。県は河北門の本体工事費として初年度に約六億円を見込んでおり、同省に河北門の整備計画を示し、事業費の補助率を協議する。

 河北門は石川門、橋爪門とともに「金沢城三御門」と呼ばれ、金沢城の実質的な表門だった。県は北陸新幹線が金沢まで開業する二〇一四(平成二十六)年度までに三御門の復元、改修を終えたい考えで、河北門については〇九年度末の完成を目指し、既に門の位置や形状などを確認する埋蔵文化財調査や基本設計に着手している。

 文献や絵図などを基に、年度内に実施設計を終え、来年度から基礎工事や石垣の積み上げなどに入る予定で、年末の予算編成までに、国交省に来年度から三年間の整備計画を示す。

 国交省などによると、都市公園事業の補助率は事業費の二分の一までとなっている。〇四年度に行われた金沢城新丸広場の植栽工事などでも事業費二千四百万円の二分の一が補助対象となった。

 今回のように「史実を尊重した復元施設」は一般的な公園に設けられる休憩所や園路などに比べて事業費がかさむため、補助率が通常より低く抑えられるケースも多いという。熊本城本丸御殿などの復元整備でも補助率は四分の一に抑えられた。

 河北門の総事業費は約十五億円となっており、県は県負担分をできるだけ抑えるため、河北門の復元工事が国の都市公園事業に採択されるよう要望していた。

33荷主研究者:2006/12/31(日) 13:31:10

http://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20061008002.htm
2006年10月8日 北國新聞
富山城石垣の遺構復元を視野に調査 富山市が来月から 藩政期の絵図には階段

 富山市は来月から、富山城の石垣のうち、裏門として利用されていた「搦手(からめて)門」横など二カ所で、遺構の復元を視野に入れた調査に乗り出す。江戸時代の絵図には、石垣に登るための階段が描かれており、階段の遺構が見つかれば復元する方針だ。市は五月から、富山城の別の個所で石垣の補修工事を実施しているが、遺構の復元は行われておらず、遺構が見つかれば藩政期により近い姿の石垣が平成の世に再現されることになる。

 来月から調査が行われるのは、搦手門側で佐藤記念美術館の東南にある石垣(九十平方メートル、高さ五・六メートル)と、大手門側で市郷土博物館の西にある石垣(百七平方メートル、高さ六・四メートル)で、補修工事に合わせて実施される。期間は今年度末までで、総事業費は約六千二百万円となっている。

 調査を担当する市埋蔵文化財センターによると、階段が描かれているのは江戸期後期の絵図「富山城図」(富山県立図書館所蔵)で、搦手門側の石垣二カ所に内部から石垣に登るための階段が描かれている。

 階段は現在、絵図に描かれている場所にはなく、一九五四(昭和二十九)年の富山産業大博覧会の際に埋められた可能性がある。このため、調査で石垣を崩す際に内部から遺構が見つかれば、復元する。

 富山城の石垣では、市が南側の正門「大手門」周囲と東側の石垣で実施している調査で、加賀藩主前田家の家紋「梅鉢紋」が刻まれた瓦が見つかるなどの成果が挙がっており、新たな埋蔵物の発見なども期待されている。

 調査に合わせて実施する補修工事では、石垣の石積みが安定して、きれいになるように解体した後に積み直す。割れていて再使用できない石などは、築造時に用いられた早月川の花崗(かこう)岩と取り換える。

34荷主研究者:2007/01/02(火) 11:49:16

http://www.hokkoku.co.jp/_today/E20061220001.htm
2006年12月20日 北國新聞
河北門の石垣修築へ 都市公園整備に補助金687億円 07年度政府予算財務省原案

 金沢城の第二期復元工事が本格化する。金沢城の実質的な表門だった河北門の復元工事が来年度、着工される見通しとなった。二十日内示の来年度政府予算の財務省原案に、都市公園整備事業費補助金六百八十七億七千四百万円(全国枠)が盛り込まれた。【5―7面に関連記事】

 河北門は石川門、橋爪門と並ぶ「金沢三御門」の一つ。県は今年度、三の丸ゾーンの埋蔵文化財調査を始めており、遺構の状態を確認したうえで、来年度、河北門の城内側にある二の門の石垣積み上げに着手する。

 河北門の復元費用は約十五億円。県は来年度の本体工事費として約六億円を見込んでおり、今後、国土交通省と事業費の補助率の協議を進める。

 県は北陸新幹線が金沢まで開業する二〇一四(平成二十六)年度末までに「三御門」の復元、改修を終えたい考えで、河北門は〇九年度末の完成を予定している。

 石川門の改修工事については国宝重要文化財等保存整備費五十三億二千百万円(全国枠)が計上された。引き続き附属右方太鼓塀の解体工事が進められる方向である。

35片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/02(金) 09:47:55
安東氏の「湊城」どこに 発掘調査で“土崎説”に懐疑
痕跡なし 秋田市教委困惑 讀賣秋田
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/akita/news006.htm

 勇壮な曳山(ひきやま)行事で知られる秋田市土崎港周辺で、道路拡幅に伴うある調査が行われている。一帯は、戦国時代に秋田平野を治めた安東氏の拠点「湊城」があったと長く信じられてきた場所。2005年度から満を持して、市教委の発掘作業が始まったが、出土するのは江戸期の町屋で使われた陶器ばかり。空振りに終始したこの2年間で、研究者や市教委内からは、“土崎説”の根拠となった古記録の信ぴょう性を疑う声が出始めた。(大須賀軒一)

■肩すかし■

 複数の古記録を総合すると、湊城は1436年(永享8年)、現在の土崎地区に築城され、1599〜1601年(慶長4〜6年)には大改修が施されたものの、安東氏国替え後の1604年(同9年)には廃城になったとされている。

 市教委の西谷隆・文化財保護主事によると、土崎説は「秋田史の通説、半ば常識」。城跡は南北約500メートル、東西約600メートルの範囲と推定されていたが、これまで発掘調査に入るチャンスはなかった。

 そこに持ち上がったのが、都市計画道路の拡幅計画。工事を前に緊急調査が実施されることになり、05年度は約170平方メートル、06年度も引き続き約330平方メートルの範囲で調査が進んだ。

 しかし、計250日近くを費やしたこれまでの発掘で、城の存在を示す痕跡はまったく見つからず、全容解明に期待をかけていた関係者を困惑させている。

■まゆつば■

 こうした中、疑いの目を向けられ始めたのが「秋田沿革史大成」。旧秋田藩士の手によるもので、築城年を明記した唯一の史料だ。

 しかし、市教委の湊城担当の神田和彦さんは「まゆつばの記録」と感じている。築城年を「永享八酉辰」と記述しているものの、同年は丙辰に当たるなど、誤記が散見されるうえ、編集が約450年後の明治時代というのも気がかりという。

 さらに発掘では、城跡どころか、1589年(天正17年)に起きた「湊合戦」に伴う焼土も出ていない。乱世だけに絵図面もなく、市史をはじめとする多くの歴史書が、疑わしい記述を引用し、いつしか定説化した可能性がある。

■“寺内”説■

 土崎でないとすれば、居城はいったいどこにあったのか。

 神田さんの仮説は「寺内後城か、飯島穀丁周辺」。低地の土崎は雄物川の水害を受けやすいが、穀丁には築城に適した小高い丘があり、隣接拠点であった脇本城(男鹿市)にも交通の便がいい。当時、穀丁と後城は川に面した港を抱えていた。過去には、戦国時代の陶器も出土している。

 「時代とともに移動した」との説を取るのは、「秋田県の歴史」(山川出版社)の著書がある歴史学者で、元市史編さん中世部会長の塩谷順耳さん(77)。塩谷さんの説はこうだ。

 戦国期は防御機能を重視したため、平地の土崎ではなく、後城、鵜ノ木、児桜といった丘陵地帯の寺内地区に築城した。湊合戦もこの周辺で起き、豊臣秀吉の天下統一後、平地の土崎に移転。これがいわゆる慶長年間の「大改修」で、長く土崎説の根拠とされてきた土崎神明社北東側のL字形水堀は、この段階で作られた内堀に当たる――。

■駅周辺も試掘■

 道路拡幅に伴う土崎周辺の発掘調査は07年度も継続される予定で、市教委は8日、JR土崎駅周辺で試掘調査を行う。「湊城の痕跡を探るには、飯島などを含む広範囲での調査が必要」との意見がじわじわと支配的になりつつあるが、すでに宅地などが広がっており、財政事情からも実現は難しい。安東氏の居城はどこに眠っているのか。謎は深まるばかりだ。

(2007年2月2日 読売新聞)

36片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/12(月) 22:35:05
金沢大学キャンパスの近くですね。

卯辰山に一揆勢の城?
http://www.chunichi.co.jp/00/ikw/20070210/lcl_____ikw_____002.shtml

 卯辰山には中世、一向一揆勢がこもった城があったという。二十年来、北陸地方の山城を調べている石川考古学研究会の南龍雄さん(66)=志賀町=が見つけたと聞き、現地に同行した。

 場所は金沢市東御影町の豊臣秀吉をまつった豊国神社。卯辰山中腹の標高一〇三メートル、浅野川にせり出した丘陵の先端にあるこの神社は、二代加賀藩主前田利長が山王社として創建した。

 南さんは昨年四月、南北朝時代の文献に見える“宇多須山城”を探して卯辰山を歩いていたところ、豊国神社の東斜面に、人工的に溝を掘った堀切(ほりきり)の跡を見つけた。神社は斜面を切り開いて築いた台の上にあり、南さんが示す堀切跡の高さは十メートル以上、二段に分かれていた。

 さらに、神社の境内を調べると、建物が建っていたと考えられる平らな郭(くるわ)が五つ見つかり、現在社殿が建っている本丸部分には外側の高さ三メートル、内側の高さ一メートル、幅一メートルの土塁も残っていた。

 石垣は見つからず、南さんは「一向一揆がこもった城と同じ特徴」と指摘。「一揆勢の拠点は、十五−六世紀の間に蓮如の息子蓮悟が築いた若松本泉寺(金沢市若松)から尾山御坊(現・金沢城公園)に移った。両方の間に位置する宇多須山城は中継地で、郭の数や土塁の高さなど規模が大きいことから、一揆勢にとって、非常に重要な城だったのではないか」と推測する。

 一方、文献史学では、この説に疑問を抱く研究者が多い。城で使われていた遺物が出土しているわけではなく、堀切や土塁もいつの時代に造られたかが分からないとの理由からだ。

 県立図書館史料編さん室の室山孝次長は「確かに一三六九(正平二十四)年、能登の武将得江季員が自らの手柄を記し、将軍に提出した軍忠状に宇多須山の城は登場する」としながらも、「卯辰山は一八六七(慶応三)年、十四代慶寧(よしやす)が西洋医学を取り入れた養生所や教育施設を整備し、豊国神社にも兼六園から卯辰天満宮を移している。堀切などは中世ではなく、幕末の産物ではないか」と話している。

記者から
 卯辰山にあった城はどこなのか。確定はまだ難しそうだ。豊国神社の河崎春夫神主によると、江戸時代、金沢城を見下ろす位置にあるため、くせ者が山に入ってもすぐ分かるように木が切られたはげ山だったという。いつの時代も重要な山だったことは間違いない。山城調査ではクマに出合う危険性も高いという。道なき山を歩いて城跡を探す南さんの努力には頭が下がった。 (高橋雅人)

37片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/17(土) 06:35:11
但馬山名説に一票。

秀吉か山名氏か 鳥取・天神山に戦国時代の城跡
http://www.nnn.co.jp/news/070216/20070216002.html

 鳥取市立川町四丁目の天神山(標高一八九・六メートル)の山頂一帯に、これまで知られていなかった大規模な戦国時代の城跡があることが、城郭研究家の吉田浅雄さん(82)=同所=の調査で分かった。規模の大きさや立地条件から専門家は「羽柴秀吉か但馬の山名氏が、鳥取城を攻めたときに築いた戦略的な城が有力」としている。因幡の戦国史を考える上で貴重な発見となった。

 この城跡は、天神山の山頂を主郭(本丸)として尾根沿いに東西約四百三十五メートル、南北約百五十メートルにわたり、堀切(尾根を掘って造った空堀)六カ所と、郭(くるわ。城の周囲に設けた陣地)十八カ所が確認された。

 発見者の吉田さんは、中世の城郭研究家として研究者の間で全国的に知られる。天神山に城があったことは、文献にも言い伝えにも残っていないが、戦国時代特有の堀切があったことから当時の山城跡と断定した。

 吉田さんは「堀切は幅が八メートルから十二メートルほどあり、かなりの大型。天神山の山頂は約二千平方メートルの広さがあり、城全体では相当な兵力が収容できる。これほどの規模がある城を造り、守れる武士は地元にはいない。羽柴秀吉が鳥取城を攻めた際に、補給ルートを監視するために築いた城では」と話している。

 山頂からは鳥取城の本丸があった久松山の頂上や、秀吉が一五八一年の鳥取城攻めで本陣を置いた本陣山が望める。さらに秀吉軍が進攻し、物資の補給に使った国府町、卯垣、小西谷、本陣山までの道が一望できる。

 鳥取城主・山名豊国についての著作があり、中世史に詳しい小坂博之さん(元鳥取西高教諭)=鳥取市美萩野一丁目=は「但馬か因幡の山名氏などの可能性もあるが、規模の大きさや立地条件から考えて秀吉の城が最有力。秀吉の本陣からは見えない補給ルートや包囲網が、天神山から見られる。補給ルートの確保や包囲網の一環として本陣に次ぐ重要な拠点だったのでは。秀吉の鳥取城攻めの戦略を知る上で新しい資料だ」と見る。

 「因伯の戦国城郭」などを著した中世史・城郭研究家の高橋正弘さん=同市湖山町北四丁目=は「秀吉の城は土塁を設ける例が多く、土塁がない天神山の城は、但馬の山名氏が鳥取城を攻める時に造った可能性がある」と推測している。

38荷主研究者:2007/04/30(月) 21:36:36

http://www.chunichi.co.jp/00/sga/20070306/lcl_____sga_____000.shtml
2007.03.06 中日新聞
安土城跡大手門周辺の整備完了 6日から一般公開

整備が完了した安土城跡大手門の周辺。石塁や通路のほか、案内板も設置された=安土町下豊浦で

 安土町下豊浦の安土城跡大手門周辺地区の整備が完了し、6日から一般に公開される。事業を進めてきた県安土城郭調査研究所の近藤滋所長は「安土城の実態解明に努めてきた。憩いと学習の場として活用してもらえれば」と期待している。

 安土城跡の発掘調査と整備事業は1989年、20年計画で着手。これまでの発掘調査で、大手門南側に内堀の石塁、大手門と内堀の間に広場(南北44メートル、東西100メートル)が確認された。

 大手門周辺地区(約7300平方メートル)の整備は2004年度から3カ年で実施。04、05年度は石塁より上部側、06年度は石塁南側の広場を中心に整備した。城の入り口「虎口」、郭などを再現し、総合案内板や解説板を設置した。

 06年度は、表街道から商人や職人を城下町に導く「下街道」、江戸時代の古絵図に描かれている「東内堀」を調査したが、いずれも遺構は確認できなかった。

 07年度から2年間で調査成果を見直し、報告書を作成する。

 (松瀬晴行)

39荷主研究者:2007/04/30(月) 21:38:45

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070314101.htm
2007年3月14日04時17分更新 北國新聞■石川のニュース
◎金沢城・鶴丸倉庫、国重文目指す 現存の江戸期城郭土蔵で最大 世界遺産へ厚み

国重要文化財指定を目指す鶴丸倉庫=金沢城公園

 金沢城公園内に現存する江戸時代の土蔵「鶴丸(つるまる)倉庫」は、全国で類似する建物が少なく文化財的価値が極めて高いことが、十三日までの石川県教委金沢城研究調査室の調査で分かった。これまで県文化財指定を視野に鶴丸倉庫の準備調査を進めてきたが、最終目標を国重要文化財指定に“格上げ”し、金沢の世界遺産暫定リスト入りへ核となる金沢城の価値を高めていく。県教委は近く、県文化財保護審議会に価値の評価を求める。

 鶴丸倉庫は、県と金沢市が世界遺産候補として提案した「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」で、構成する資産に含まれたが、文化財としての位置付けは「未指定」となっている。

 県教委は準備調査で全国の城郭に現存する江戸時代建造の土蔵をくまなく調べたところ、詳細が不明な一カ所を除くと二条城、大阪(大坂)城、高知城の六棟のみで、いずれも昭和二十年代までに国重文に指定されていることが判明。いずれも平屋建てだが、鶴丸倉庫は二階建てと際立っており、建築面積も三百三十三平方メートルと最大だった。

 城郭土蔵の国重文指定が昭和前半に相次いだ中、鶴丸倉庫だけが取り残された理由について、県教委は「当時は調査研究が不十分で、建造時期も江戸期でなく明治期に旧陸軍が建てたとの説が強かったため」とみられる。

 県教委によると、かつて全国の主要な城郭には数多くの土蔵があったが、天守閣や櫓(やぐら)ほど見栄えがしないこともあり、明治以降には大半が撤去されたとみられる。

 県教委は国重文指定への前段階として、今春の県文化財指定を目指しており、月内にも県文化財保護審議会に指定が適当かどうかを諮問する。金沢城公園内で現在、石川門、三十間長屋が国重文に指定されている。

40片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/30(水) 19:36:52
南砺に県内最高所の城跡 研究家・高岡さん(富山)発見
2007年05月30日 富山北日本
http://www.kitanippon.co.jp/contents/knpnews/20070530/5062.html

 戦国時代に五箇山地方を拠点とした一向一揆勢力(真宗勢力)が、織田信長勢の進攻を防ぐために築いた城跡が二十九日までに、南砺市城端、利賀地域などにまたがる高清水(たかしょうず)山系の杉山山頂(一、一一〇メートル)で見つかった。黒部市の鋲ケ(びょうが)岳砦(八六一メートル)を上回り、県内で最高所の城となる。同山系の中腹部などではこれまでに中世の城跡五カ所が確認されており、山頂の城は五箇山の本拠と各城を結ぶ中継・連絡拠点だったとみられる。織田勢と対峙(じ)する一揆勢の防御態勢が明らかになり、五箇山の戦国史をひもとく貴重な史料となる。

 長年、県内の中世城館を調査している城郭研究家の高岡徹さん(56)=富山市新屋、公務員=が昨年十一月、城端山岳会(中道伸雄会長)の協力を得て、現地で確認した。

 城跡は、高清水山系の稜線(りょうせん)を縦走する山岳古道上にあり、大きさは南北約四十メートル、東西約二十五メートル。人工的な急斜面で守られた平らな部分があり、見張りの兵士らが詰めていたとみられる。平らな部分の南北両端には、敵の侵入を防ぐ深さ二−二・六メートルの堀の跡がある。

 同山系西側の中腹部(六〇〇メートル付近)などでは、南砺の平野部と結ぶ山岳古道沿いなど五カ所で城跡が見つかっている。当時、織田勢が五箇山への進出をもくろんでおり、山頂の城は敵の監視をはじめ、本拠からの指示を各城に伝えたり、前線の城が陥落した際に撤収して立てこもる「詰めの城」の役割を果たしたとみられる。

 高岡さんは「一揆勢は、山頂の城を拠点に交通・軍事上の要衝である山岳古道を押さえた防御態勢を取り、織田勢が平野部から五箇山に入るのを防いだのだろう」と推測する。

 県史などの編さんにかかわり、越中の中世史に詳しい久保尚文さん=富山市堀川町=は「織田勢と一揆勢の高清水山系での対峙状況が浮き彫りになり、興味深い。千メートルを超える高所での城跡も全国的に珍しい」と話している。

◇風力発電施設は城跡避け建設へ

 杉山山頂で城跡が見つかった南砺市の高清水山系では、民間業者による風力発電施設の建設計画があり、市は「今後、史跡保存や影響などについて業者と協議したい」としている。業者は城跡と重ならない場所で施設を建設する見通し。

 計画はクリーンエナジーファクトリー(北海道根室市)が同山系の尾根約四キロに十三基の風車を設置するもので、三月定例南砺市議会で市は建設を支援する方針を示している。周辺に埋蔵文化財の未調査地域もあるため、詳細な建設地を決める際に協議する予定。

 同社は今春から現地で環境影響評価調査を行っており、早ければ来年五月に国への事業申請を行う。

41片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/06/15(金) 12:44:00
辰巳櫓再建、直前で幻に 金沢城 資材調達後に突然 幕末の財政難で断念か 石川北國
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070615101.htm

 一七五九(宝暦九)年の大火で焼失した金沢城本丸の辰巳櫓(たつみやぐら)の再建に向け、加賀藩が大火の八十年後に当たる一八三九(天保十)年、設計図を作製、木材などの資材を調達しながらも突然、断念していたことが十四日までの県金沢城調査研究所の調査で分かった。幕末の財政難によるものと見られるが、何本もの下書きの線の残る図面は、金沢城のシンボル復活へ知恵を絞った職人の苦闘を物語り、現在高まる再建論議の貴重な資料にもなりそうだ。
 「天保の再建計画」の断念を示すのは、金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する「清水文庫」の「巽御櫓御入用銀指引書(たつみおやぐらごにゅうようぎんさしひきしょ)」などの古文書類や二十二点の設計図。

 指引書は木材調達や資材購入を記録した調達簿で、城の普請などを担当した藩の作事所(さくじしょ)が、現場を担当する御大工方(おだいくかた)に古絵図の提出を求めたことも記されている。ただ、時期を示す文言が「亥(がい)年」とあるだけで、具体的な年が分からないままだった。

 県金沢城調査研究所は二〇〇二(平成十四)年から辰巳櫓関係の古文書類の精査を進めており、史料に示された「亥年」の特定を進めた結果、文書に登場する人物の名前などから一八三九年しかないことを突き止めた。これにより、設計図も天保の再建計画のために作られたことが分かった。

 再建計画は、宝暦以前の辰巳櫓を完全に復元する形で進められたが、土台となる石垣が大火後に大規模な改修が行われ変形していた。大工方は柱の位置などを巡って苦心したらしく、設計図には検証の痕跡を物語る複数の線が引かれている。

 辰巳櫓をめぐっては財団法人北國総合研究所が二〇〇五年から復元の可能性を継続調査している。復元調査検討委員会メンバーでもある県金沢城調査研究所の木越隆三副所長は「天保の再建」断念の理由について「加賀藩は財政難にあり、緊縮財政路線の影響を受けた可能性もある」と分析、他の史料による裏付けを進めたいとした。その上で「再建は大火以後の加賀藩の悲願であり、本丸に建物を作ってこそ、藩の威信を保つことができるという意見があったはず」と話している。

42とはずがたり:2007/07/11(水) 06:03:26
二条城はお城と云うより御殿だけど。

二条城本丸が耐震強度不足
5年間公開中止、震度6強で倒壊も
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007071000065&genre=M2&area=K1C

 重要文化財の二条城本丸御殿(京都市中京区)の耐震強度が文化庁の基準を満たさず、震度6強以上の大地震で倒壊する危険性のあることが10日、京都市の調査で分かった。瓦葺きの屋根の重量を減らすか、柱を補強するなどの補修工事が必要で、市は毎年春秋の特別公開を今秋から当面5年間中止。今後、文化庁や京都府と協議し、早急に修理計画を策定する。

 二条城は市が管理・運営し、観光客も多い。市は施設の安全性を確認するため、京都工芸繊維大に依頼し、昨年度に国宝の二の丸御殿大広間、重文の本丸御殿玄関、さらに、本丸御殿御書院、東大手門の4つの建築物の耐震調査を実施した。

 文化庁の重要文化財耐震指針では、集客施設の文化財は震度6以上で倒壊せず、震度5強で大きく建物がゆがまないことを基準にしている。調査の結果、本丸御殿玄関は必要な強度の36−68%、本丸御殿御書院も28−33%しかなく、震度6強以上の地震で倒壊する危険性があると判明した。

 市によると、本丸御殿の建物は1847年、京都御苑に建築されたが、明治時代に現在地に移築された。この際、柿(こけら)葺きから瓦葺きに改修したため、屋根の重量が増し、耐震強度が低下したという。本丸御殿玄関は1995年の阪神・淡路大震災で傾斜し、現在は支柱を設け応急補強している。

 また二の丸御殿も基準を下回り、震度6強でも倒壊する恐れはないが、震度5強程度で建物が大きな損傷を受ける危険があることも分かった。東大手門は土塀に倒壊の危険があるが、耐震性に問題はないという。

 市は二の丸御殿は常時公開し、本丸御殿も年3月と9月に約10日間に限って特別公開している。本丸御殿の耐震性を確保できるまで、特別公開を休止する。今後、瓦葺き屋根を柿葺きや銅板葺きなどに変えるなど修理計画を専門家とも協議する。
 世界遺産にも登録されている二条城には年間約130万人の観光客が訪れ、京都市内の観光客訪問地で8番目(2006年)に多い名所となっている。本丸御殿の特別公開には昨年約3万6000人が訪れたが「観光客数への影響はほとんどない」(市産業観光局)とみている。

43とはずがたり:2007/08/11(土) 12:53:05
おやかたさまに抱かれる際にむだ毛などあってはならぬからなってなもんですかね??

戦国武将もムダ毛処理? 室町時代の真鍮製毛抜き発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070811-00000083-san-soci
8月11日8時0分配信 産経新聞

 滋賀県湖南市の夏見城遺跡から、室町時代後期(16世紀半ば)の真鍮(しんちゅう)製の毛抜きが見つかり、県文化財保護協会が10日、発表した。鶴や植物が精巧に線刻されており、城主級の人物が身だしなみを整える際に使用したとみられる。

 毛抜きは、現在の毛抜きと同じ「撥形(ばちがた)」で、長さ8センチ、重さ15・6グラム。表面には、翼を広げた鶴と水生植物の沢瀉(おもだか)が特殊なノミを使って彫り込まれている。沢瀉は「勝ち草」といわれ、戦国武将が好んで用いた意匠。城主が出陣などの晴れの場で、身だしなみを整えるために使用した可能性もあるという。また、周辺からは当時としては珍しい信楽産の茶道具も出土した。

 夏見城は近江国の守護大名・六角氏の家臣で甲賀地域の一部を所領とする夏見家の居城とも伝えられているが、詳しい文献資料は残っていない。しかし、出土した遺物から、文化の中心の京都と強い結びつきを持ち、財政的に裕福な城主がいたと推測できるという。

最終更新:8月11日8時0分

44荷主研究者:2007/10/15(月) 02:54:29

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20070824/CK2007082302043492.html
2007年8月24日 中日新聞
浜松城 木造天守閣再建の方針 市が検討委設置へ

木造での再建が検討されている浜松城=浜松市中区で

 浜松市は23日の市議会建設委員会で、浜松城木造天守閣再建を検討する方針を表明した。市民を含めた検討委員会を設置し、市民の賛同を得られれば調査費(基本設計費)を計上する。20億円以上の予算が見込まれる上、江戸初期に取り壊されている天守閣の再建には歴史考証などの難関も予想されるが、歴史的建造物の再建が実現すれば、政令市の顔としても期待される。

 現在の天守閣は1958年4月に完成。鉄筋コンクリート3階建て地下1階で、延べ床面積は311平方メートル。市民の浄財などを含めて当時の総工費は約1300万円だった。

 市は当初、天守閣周辺の天守櫓門(やぐらもん)や富士見櫓門を復活させる方針を明らかにする一方で、木造天守閣の再建については「市民意識の醸成が重要」などとして、慎重な構えを見せていた。しかし、築後約50年を経て耐震性への不安が増し、石垣が変形するなど劣化の進行も指摘されていた。

 また、静岡市が6月、駿府城の天守閣再建の調査費として1000万円の補正予算を計上するなど、県内他市の動きを背景に、市内の17の自治会で構成する中央地区自治会連合会が7月26日、「政令市浜松にふさわしい本格的な木造天守閣再建が必要だ」として、市や市議会に再建を要請。市側は再建に向けての検討を迫られていた。

 委員の意見もおおむね賛同が多かったが、「市民への署名にあたってはどういう城を造ろうとしているか説明が必要だ」「公園整備の一環として全体的な構想が必要」とする声があった。

 天守閣再建運動を進める今村哲夫中央地区自治会連合会長は「(市の方針は)大変喜ばしい。今後多くの皆さんの賛同を得られるかが焦点だ」と話した。

45荷主研究者:2007/11/05(月) 23:56:43

http://www.hokkoku.co.jp/_keizai/K20070913301.htm
2007年9月13日04時45分更新 北國新聞■北陸の経済ニュース
◎金沢城跡、史跡指定の準備急げ 世界遺産暫定リストへ「極めて重要」 金沢経済同友会会員懇

 金沢経済同友会の会員懇談会は十二日、金沢市の金沢エクセルホテル東急で開かれ、飛田秀一代表幹事は、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産暫定リスト入りについて、金沢城跡の史跡指定が「極めて重要なポイント」とし、石川県、県教委に申請準備を急ぐよう求めた。その上で、暫定リスト入りに向け、文化庁に追加資料を出す年末までに、史跡指定への具体的計画を明示すべきだと指摘した。

 「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」については、今年一月の世界遺産暫定リストの追加選定で継続審議となり、石川県、金沢市は十二月二十八日までに追加資料を提出することになる。

 城下町金沢の文化遺産群のうち、金沢市が調査を担当している前田家墓所は来年度、辰巳用水は再来年度と、国の史跡指定を目指す時期が示されており、飛田代表幹事は「コア中のコアである金沢城跡も史跡指定に動かないと、暫定リスト入りはほとんど絶望的だ」と強調した。

 金沢城跡の史跡指定をめぐっては、史跡になれば、時代考証などの観点から櫓(やぐら)などの復元ができなくなるとの見方もあり、県側からは、石垣だけを史跡にすれば良いという声も出ていた。

 飛田代表幹事は「石垣という皮だけを史跡にして、あんこの部分を放っておくのはいかがなものか。史跡になると、復元に支障を来すという誤解があるが、逆に建築基準法の制約がなくなる」と指摘。文化庁は、建造物の復元について、史跡の価値を高め、史実に基づくものであれば認める方向であり、また、時代設定が統一されていなくても良いとの感触であることを紹介した。

 さらに、同代表幹事は「復元された菱(ひし)櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は江戸後期の建造物だが、時代設定を江戸前期・中期に広げれば、江戸後期に存在しなかった、本丸ゾーンの辰巳(たつみ)櫓、戌亥(いぬい)櫓の復元も可能になる。県外の人もあっと驚く。写真や絵図面が残っていれば、県民に夢を与える、いろんなプランを打ち出せる」と述べた。

 また、史跡指定を申請する際の課題として「史跡の範囲」を挙げ、「都市計画法に基づく都市公園である『金沢城公園』の範囲で申請するのが現実的だ」との見解を示した。その場合、県営丸の内駐車場、金沢中央ビルディング、北陸電力金沢中央変電所を移転または撤去する必要があるとした。

 飛田代表幹事は「金沢城跡の史跡指定をしない限り、金沢の世界遺産登録は、夢のまた夢で終わってしまう。金沢経済同友会が火を付けた世界遺産登録運動は重要な段階に差し掛かっており、われわれの要望を聞き、県も動いてほしい」と要請した。

 会員懇談会に先立って開かれた理事会で、山出保金沢市長との意見交換会を九月二十日午後一時から金沢全日空ホテルで、また、谷本正憲知事との意見交換会を十月二十四日午後二時から金沢スカイホテルで開くことを決めた。

46史跡探訪:2007/12/28(金) 06:16:24

国指定史跡「菅谷館跡」の一角にそびえる「謎の石柱」!

http://www.gyouseinews.com/local_administration/nov2007/003.html

47荷主研究者:2008/01/03(木) 00:06:50

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/saga/20071201/20071201_003.shtml
2007年12月01日00時56分 西日本新聞
名護屋城は大坂城級 規模・格式「秀吉の居城裏付け」 唐津市

 佐賀県唐津市鎮西町の県立名護屋城博物館は30日、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点とした名護屋城本丸御殿跡から、計10棟の建物群の遺構が見つかったと発表した。同博物館は、建物群の規模や配置が大坂城の本丸図と類似しているとして「大坂城に匹敵する規模と格式を備えた、秀吉の居城だったことが裏付けられた」としている。

 同博物館が行った今回の調査(2004‐07年度)では、建物の礎石や通路の玉石敷を新たに発見。1996年度に確認された2棟を含む計12棟の建物群の延べ床面積は約1500平方メートルとなり、本丸の中央付近に大小の建物が密集していたことが判明した。

 中庭と思われる広い玉石敷、排水用の溝などを伴う建物もあり同博物館は「それぞれの建物は連結して機能していた」とみている。発掘調査では中国産の染付(そめつけ)磁器、土師(はじ)器の皿、上質な鬼瓦の破片なども見つかった。

 当時の名護屋城の様子を伝える「肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)」(佐賀県重要文化財)には、本丸に書院造り風の建物が密集して描かれている。

 城跡の保存整備委員会会長の河原純之・元文化庁主任文化財調査官は「本丸に予想以上の建物があることが調査で分かった。屏風絵と方向が合致する建物もある。近世の城郭研究において、全国でも貴重な遺構だ」と話している。

=2007/12/01付 西日本新聞朝刊=

48荷主研究者:2008/01/03(木) 00:19:15

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071205/CK2007120502069728.html
2007年12月5日 中日新聞
岡崎城の隅櫓を再建 市が09年度木造での復元目指す

再建される岡崎城東曲輪隅櫓の完成予想図=岡崎市提供

 岡崎市は、2009年度に同市康生町の岡崎城東曲輪の隅櫓(すみやぐら)を再建する。当時と同じ木造建築による復元を目指している。4日開かれた市議会定例会の一般質問で、土木建設部の小野博章部長が答えた。

 同部緑地公園課によると、再建は2003年に策定した「史跡岡崎城跡基本計画」の一環として取り組む。現在、岡崎公園のバス駐車場の南東角付近に幕末まであったとされる隅櫓を再建する。

 江戸時代の城絵図をもとに広島大大学院の三浦正幸教授(文化財学)らの監修を受けて構想をまとめた。再建される隅櫓は、木造2階建て延べ約72平方メートルで、石垣部分を含めると高さは10メートル以上になる予定。2階部分は展望台、1階部分は休憩所などとして利用することを検討している。

 市教委生涯学習課によると、東曲輪の隅櫓は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて造られた。城の中核にあたる二の丸につながる切り通しの通路に、敵が侵入するのを防ぐ「最後の砦」としての役割があったという。 (相坂穣)

49荷主研究者:2008/05/12(月) 00:20:06

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20080419101.htm
2008年4月19日04時19分 北國新聞■石川のニュース
◎主計町、重要伝建地区に 金沢城の鶴丸倉庫は重文

重文に指定される金沢城土蔵・鶴丸倉庫

 文化審議会(石沢良昭会長)は十八日、金沢の三茶屋街の一つ、主計(かずえ)町(まち)地区を国の重要伝統的建造物群保存地区(重要伝建地区)に選定、金沢城の土蔵・鶴丸倉庫を重要文化財に指定するよう、渡海紀三朗文部科学相に答申した。いずれも石川県と金沢市が世界遺産候補に再提案した「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の構成資産であり、今夏に迫った暫定リスト追加の選定を前に、提案の価値や厚みが増すことになる。

 主計町地区は、明治末期―昭和前期に迎えた最盛期の茶屋街の範囲とほぼ一致する。東西約百五十メートル、南北約百四十メートルの規模で面積約〇・六ヘクタール。区域内に町家など伝統的な建造物が三十四棟あり、浅野川沿いに最盛期に行われた三階の増築が往時の繁栄を伝える。

 県内の重要伝建地区は、金沢市の「東山ひがし地区」、加賀市の「加賀橋立地区」に次いで三件目となる。

 鶴丸倉庫は一八四八(嘉永元)年に建築され、武具蔵として使われた。城郭内に残る近世の土蔵として全国でも希少価値が高く、二階建ても珍しい。広大な内部空間を有し、大きさは幅約十四メートル、奥行き約二十一メートルある。県内の重文の建造物は四十二件となり、金沢城公園内では石川門、三十間長屋に続く。

 いずれも答申通り、近く選定、指定される。主計町町会の松村光雄会長は「手本となるひがし茶屋街が近くにあり、互いに協力し合える点は協力したい」と話した。

50とはずがたり:2008/07/14(月) 22:28:49
戦国・安土桃山スレも兼ねてもええよね,ここ。
        ____   
       /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゜((●)) ((●))゜o      ミ ミ ミ   直江兼続の兜に愛wwwwそんなもんついた
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)  兜本物がかぶってるわけねえだろwww
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //   どうせマンガだからってふざけすぎだろwwwwwwwwww
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/       原哲夫捏造乙wwwww          
|     ノ     | |  |   \  /  )  /
ヽ    /     `ー'´      ヽ /    /     バ
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バ   ン
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、    ン
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))


         ____
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 |::::::::::::: l  u             | |http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f0/Noae_Kanetugu_Yoroi.jpg
 ヽ:::::::::::: -一ー_~、⌒)^),-、   | |_________.|
  ヽ::::::::___,ノγ⌒ヽ)ニニ- ̄   | |  |

51荷主研究者:2008/11/16(日) 23:59:58

http://www.kahoku.co.jp/news/2008/09/20080926t61007.htm
2008年09月26日金曜日 河北新報
鶴ヶ城「御三階」復元へ 整備計画方針を決定

天守閣再建50周年に向け、復元される御三階のイメージ

 国史跡に指定されている若松城(鶴ケ城)跡の整備を進めている福島県会津若松市は、本丸に「御三階」を復元するほか、天守閣の外壁塗り替え、黒瓦から幕末当時の赤瓦へふき替えるなどの方針を決めた。本年度から文献調査を始め、文化庁の了解を得て天守閣再建50周年に当たる2015年度までに完成させる計画だ。

 御三階は、かつて本丸東側にあった建物。明治初期に市内の七日町にある阿弥陀寺に移築された。外観が3階で内部は4階の構造。倉庫や密議の場として使われたとみられる。

 現在の建物は移築時に手が加えられていることなどから、市の「若松城整備審議会」は新たな建築で復元するよう市に答申していた。

 天守閣の赤瓦については絵図に描かれていて発掘調査でも出土している。史料などによると、1648(慶安元)年、会津本郷(現福島県会津美里町)で、雪国でもしみ割れしないうわぐすりを掛けた赤瓦が開発されたという。天守閣に採用されていたのは全国的に珍しい。

 10億円近くとみられる総事業費は、天守閣の入場料収入の一部などを充てている若松城整備の基金や国の補助金で賄う。さらに市はふるさと納税の中に「若松城整備」の項目を設け、寄付を募る。1万円以上を寄付した個人には「鶴ケ城通行手形」を贈呈。天守閣や茶室への入場料が1年間無料になる。

 菅家一郎市長は「御三階の復元とともに、史実にある天守閣に赤瓦を再現することで、史跡全体の魅力が増すと思う」と話している。

 市は1996年度に策定した「史跡若松城総合整備計画」に基づき、2001年に、食糧貯蔵庫の「干飯櫓(ほしいやぐら)」と武器庫の「南走長屋(みなみはしりながや)」を復元している。

52荷主研究者:2008/11/17(月) 00:45:13

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20081002/CK2008100202000001.html
2008年10月2日 中日新聞
佐和口多聞櫓を公開 彦根城で12年ぶり

12年ぶりに公開された佐和口多聞櫓。広々とした室内に自然光が注ぐ=彦根城の佐和口多聞櫓で

 国宝・彦根城の二の丸にある重要文化財・佐和口多聞櫓(やぐら)が1日、12年ぶりに一般公開された。

 櫓につながる安全な階段がなかったため1996年以降、非公開となっていたが、「井伊直弼と開国150年祭」に合わせ、仮設階段を設置。2010年3月まで公開する。入場無料。

 佐和口多聞櫓は、城主を迎え入れ、敵を迎え撃つ表門に通じる重要な城門「佐和口」を囲むように建つ。

 防火や防弾のため、壁は竹の骨組みの上に、漆喰(しっくい)などが塗り重ねられ、窓の格子は鉄砲が備えやすいように形作られてある。窓からは、いろは松に沿った登城道と外堀が見通せる。

 建立時期は分かっていないが、彦根城がおおむね完成した元和8(1622)年までに建てられたとされる。明和4(1767)年に火災で焼け、現在の建物は、その2−4年後に再建された。

 (伊藤弘喜)

53荷主研究者:2008/12/28(日) 23:01:32

http://kumanichi.com/news/local/main/20081109001.shtml
2008年11月09日 熊本日日新聞
熊本城入園者176万8千人、過去最多に

団体ツアー客らが相次ぎ訪れ、記念撮影などをしている熊本城の天守閣前広場=熊本市

 熊本市は八日、一月からの熊本城の累計入園者数(有料区域)が百七十六万八千三十八人に達し、過去最多とされる一九六五年度の百七十六万千五百二十四人を上回った、と発表した。

 本丸御殿大広間の完成など築城400年祭関連行事や、韓国などからの外国人旅行者がけん引。八月中旬には昨年の年間入園者百二十一万人を早々突破していた。

 ここにきて経済情勢が悪化。韓国人旅行客の動向を左右するウォン安などの“逆風”が吹くが、「国内ツアー客が増加傾向」と市熊本城総合事務所。「このペースだと、初の二百万人台突破も」と鼻息は荒い。

 この日は記念行事などなく、ツアー客らが本丸御殿などを見て回るいつも通りの風景。佐賀市の主婦(68)は「これだけの高さの天守閣はすごい」と感想を述べていた。

 六〇年の天守閣再建以降残る年度統計によると、入園者は長らく百万人台だったが、九九年度には最低の七十一万人台まで低迷。400年祭効果などで昨年度は十一年ぶりに百万人台に回復していた。(前田克)

もっと知りたい ニュースの「言葉」
熊本城(1998年3月10日)一六○七年、熊本藩主だった加藤清正が築城した。約九十八ヘクタールの敷地の周囲約五・三キロに石垣が築かれた近世城郭は、日本三大名城の一つともされる。西南戦争でほとんどの建物を焼失したが、第二次世界大戦後、天守閣が鉄筋造りで再建された。

54荷主研究者:2008/12/31(水) 21:33:40

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20081202/CK2008120202000037.html
2008年12月2日 中日新聞
名城の本丸御殿復元 自販機収益金一部を寄付

 「コーヒーやジュースを飲んで復元を応援しよう」。名古屋・栄で駐車場を運営するエンゼルパークは1日から、場内にある自動販売機12台の収益金の一部を、名古屋市が復元を目指す名古屋城本丸御殿の積立基金に寄付する取り組みを始めた。

 1年間にわたり、飲料の値段に関係なく1本売れるたびに1円を寄付する。復元は来月着工で、名古屋城開府400年に当たる2010年に玄関の一部を公開する。同社は同じ10年に会社創立45周年を迎えるため、寄付を決めたという。

 市が民間から集める寄付の目標額は50億円だが、10月末現在では38億5300万円。残る10億円余の協力を求めて、担当者が近く企業回りを再開する予定だが、金融不安や円高など経済情勢はさらに厳しく、前途多難も予想される。

 こうした逆風下での取り組みに、同パークの伊奈達二社長は「名古屋城はこの地方の誇り。不景気風は吹き荒れているが、わが社のような小さな会社の試みが、大きなうねりにつながったら」と話している。

 (豊田雄二郎)

55名無しさん:2009/02/17(火) 15:56:37

2009年02月16日(月)
「隠し金山は隠されていなかった」
県考古学協会が総会で講演会
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/02/16/13.html

 県考古学協会は15日、山梨学院大50周年記念館で第30回定期総会記念講演会「戦国期金山と黄金の世界」を開いた。
 帝京大山梨文化財研究所の萩原三雄所長が、戦国時代の金山や金の精錬方法について解説。「黒川金山(甲州市)や湯之奥金山(身延町)は『武田信玄の隠し金山』といわれるが、当時の最先端技術を結集し、商人や職人でにぎわった経済活動の場だった。隠されてはいなかった」と論じた。
 会場には甲府城下町遺跡や勝沼氏館跡(甲州市)で出土した金粒の付着した土器などを展示した。

57とはずがたり:2009/06/01(月) 14:19:16

大地震で一夜に消えた帰雲城 調査20年、見つからぬ物証
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20090601/CK2009060102000015.html?ref=rank
2009年6月1日

帰雲城をめぐる調査の流れ
1950年頃 白川村萩町の松古孝三さんが調査,研究を始める
1972年 松古さんの活動を基に帰雲城を追った「まぼろしの帰雲城」を出版。埋蔵金ブームに火が付く。
1981年 金沢大地質学部が現地調査。
1986年 白川郷埋蔵帰雲城調査会の前身,ひだ白川・帰雲城を考える会が発足。1993年に現在の調査会となる。

 400年前の大地震で一夜にして姿を消し「日本のポンペイ」とも称される帰雲(かえりぐも)城(白川村保木脇(ほぎわき))。城はどこにあるのか。村外者主体の有志グループが調査を続けて20年以上になるが、城郭遺構の手がかりはつかめない。最近、村内からこの活動を支援する動きが出始め、歴史ロマンはまだまだ途絶えそうもない。

 「地震でほとんどが土に埋まっているが、そこには間違いなく誰かが住んでいた。その物証を探し当てたい」。調査会事務局の野田秀佳さん(37)=羽島市=は力を込めた。地震で一瞬にしてのみこまれた幻の城。真の姿に少しでも近づきたいとの思いが粘り強い調査に駆り立てている。

 会員は36人で、ほとんどは県内各地や名古屋市など白川村以外から参加。帰雲城に関するさまざまな資料を集め、年に1、2回は現地へ。保木脇地区の帰雲山やそのふもとにある庄川両岸を中心に、城郭の遺構を目視で探している。

 今年も5月17日に現地調査を実施。「内ケ島氏が城の鬼門(北東)に白山神社を建てた」との記述がある資料を基に、神社があったとされる場所から城の位置を推定して訪れたが、強い雨のため中止を余儀なくされた。今秋に再び訪れる予定で、野田さんは「茶わんのかけらでもいい。人が生活していたことを示す証拠を見つけたい」と意気込む。

  ■   ■   ■


 帰雲城の本格調査は50年以上前にさかのぼる。その先駆けは白川村荻町で旅館を営んでいた故・松古孝三さんだ。名古屋市の古書店に嫁いだ妹が城に関する資料を見つけたのを機に一人で調べ始めた。

 1970年代に入ると、松古さんの活動を基に帰雲城を取り上げた本の出版をきっかけに全国から注目が集まった。根拠のない「埋蔵金」の話が一人歩きする騒ぎになり、松古さんは手を引いた。

 80年代、村内で古い館の遺構が発見されたのを受け、村は81年に金沢大地質学部に帰雲城や地質の調査を依頼した。帰雲城と断定できる物証は出なかったが、地震で崩れた帰雲山の土砂が庄川対岸の山に堆積(たいせき)していることが判明した。

  ■   ■   ■

 調査会は、地元の人とのつながりをもっと密にする必要があると3年前から、現地調査前日に開く総会に村関係者らを招いている。その一人、白川村商工会の山越一正会長(65)は、3年前に総会に出て初めて調査会の存在を知った。

 「いずれは地元の人の記憶からも消えてしまうかもしれない。何とかして地元の宝物にしたい」と山越会長。世界遺産の合掌集落以外の地域の活性化につなげたいとの思いもあり「調査会を元気づけたい」と話す。

 地元の関心を高めるため商工会として昨年6月、帰雲城などの歴史を学ぶ講座を開き、地元の21人を「語り部」に認定した。今後、宿泊者に地元の歴史を紹介していくことを目指している。

 (白山泉)

 【帰雲城】 白川村史や1600年以降に書かれた「飛騨鑑」によると、1465年ごろ、室町幕府8代将軍足利義政の命を受けた白川郷一帯を支配した内島為氏(うちがしま・ためうじ)が築城。天正年間の1585年、マグニチュード8.1の大地震で城と城主ら500人が土に埋まった。城の場所をめぐっては1985年、保木脇付近に「内藤城趾」と記した天保年間作製の地図が公表された。この地図で庄川西岸説が有力視されるようになったが、後世に書き足されたとする見方が出るなど、西岸か東岸か議論が絶えない。

【記者から】 
 「本当に城があったの?」。そう感じるほど現地は静まり返っている。しかし、そこに数百人もの人や牛馬がいた姿を思い描くと、興奮がわき上がってくる。大規模な発掘をしなければ、物証は見つかる可能性は薄いだろう。ただ、目先の利害にまみれた現代社会にあって、「分かるはずもないもの」にぶち当たろうとする調査会の人たちの姿は気持ちが良い。この熱が冷めないことを願う。

58荷主研究者:2009/07/12(日) 20:43:22

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20090610/CK2009061002000192.html
2009年6月10日 中日新聞
浜松城の天守門、富士見櫓復元へ 年内に発掘調査で確認

イメージ図・天守門

 徳川家康の入城で知られる浜松城(浜松市中区元城町)で、天守門と富士見櫓(やぐら)の復元が2012年度にも始まる。残された資料に加え、発掘調査によって建築状況を確認し、往時の姿を史実に忠実に再建する方針。市が9日の市議会5月定例会で、柳川樹一郎氏(自民党浜松)の一般質問に答えた。

 市は学識者の意見を聞き、浜松城公園の歴史ゾーンを整備する基本構想を策定。廃城令が出た1873(明治6)年ごろに存在した建造物の復元を目指し、資料が残る天守門や富士見櫓を優先することにした。

 天守閣に対し、天守門は東側、富士見櫓はやや離れた北東に位置していた。市公園課によると、年内に発掘調査が始まり、10年度に基本計画の策定、11年度に実施設計を予定している。

イメージ図・富士見櫓

 市の文化財担当者によると、天守門と富士見櫓は少なくとも17世紀後半(江戸時代前期)の「遠州浜松城絵図」に描かれており、それ以降の絵図にも記されている。

 さらに、城内の本格的な発掘調査は初めてとみられ、城の成り立ちを知る上で注目されそうだ。発掘状況によっては着工時期が遅れる可能性もある。

 一方、待望論のある天守閣の木造再建は現存する資料がなく、市は天守門などを復元後、機運の高まりをみて検討する考え。

 浜松城 戦国時代の1570(元亀元)年、徳川家康が岡崎から本拠を移し、増築を重ねた。家康が江戸に移った後、豊臣秀吉配下の堀尾氏が天守閣を建造したとされるが、江戸時代の絵図に天守閣は描かれていない。幕府の要職に就いた城主が多く、出世城とも呼ばれた。現在の天守閣は1958(昭和33)年、鉄筋造りで建設された。

59荷主研究者:2009/07/28(火) 00:02:40

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20090706101.htm
2009年7月6日02時53分 北國新聞
三階櫓に再建計画 金沢城の「代用天守」 天保期の史料発見 金沢工大・増田教授ら

三階櫓の再建計画を裏付ける史料図面を眺める増田氏(左)と正見氏=金沢市立玉川図書館近世史料館

 17世紀初頭から金沢城の象徴として本丸にそびえ、宝暦の大火(1759年)で焼失した「三階櫓(やぐら)」に天保年間(1830〜44年)、再建計画があったことが確実になった。金沢工大環境・建築学部の増田達男教授と石川県金沢城調査研究所の正見泰調査研究専門員が5日までに三階櫓の新たな図面を見つけ、計画を裏付けるものと確認した。現存史料が少ない三階櫓は謎が多く、辰巳櫓と同時期の再建計画確認は金沢城史の新発見となる。

 見つかったのは「中ノ重小屋指図(なかのじゅうこやさしず)」「上重(うえじゅう)小屋組図」「下重(しもじゅう)小屋妻小屋ノ図」などと題された建物構造図8枚。

 財団法人北國総合研究所の金沢城辰巳櫓復元調査検討委員の増田、正見両氏が昨年5月、辰巳櫓模型製作のため金沢市立玉川図書館近世史料館で「清水文庫」の「辰巳御櫓建物図」を調べた際、増田氏が「中ノ重−」と書かれた図面を発見した。

 正見氏が「2階建ての辰巳櫓に中ノ重があるはずがない」と気付き、「上重−」「下重−」と合わせた柱位置から一組の三重櫓を描いたものと分かった。

 この三重櫓は、金沢城に三つあった三重櫓のうち三階櫓を除く菱(ひし)櫓、橋爪門続(つづき)櫓とは形が異なる。書かれていた寸法が2000年に同市内や東京の建設会社で見つかった三階櫓図の寸法と一致したため、三階櫓と判明した。

 さらに、三階櫓図と同封の辰巳櫓図では文字の特徴が大部分で一致した。この辰巳櫓図は、天保年間に計画された再建のため加賀藩のお抱え大工を代々務めた清水又十郎家の人物が描いたもので、筆跡の一致はこの人物が同時期に三階櫓図の作製にも関与したことを示す。

 今回の図面と00年に発見された三階櫓図から、両氏は天保年間に三階櫓の再建が検討されていたと断定した。

 この発見は日本建築学会計画系論文集7月号で発表された。計画は結局、辰巳櫓と同じく藩財政の逼迫(ひっぱく)で断念されたと推測される。増田氏は「金沢城の天守閣に代わる象徴として本丸にそびえた三階櫓に、具体的な再建計画が存在したと証明できた点が最も重要」とし、正見氏は「計画は本丸の体裁を整えるためと考えられ、同時期に丑寅(うしとら)櫓などにも計画があった可能性が大きくなった」と述べた。

◆金沢城三階櫓 前田利家が天正年間(1580年代)に建てたとされる天守閣が慶長7(1602)年、落雷で炎上した後本丸に建てられ、宝暦の大火で焼失するまでの約150年間存在した天守代用の大型櫓。高さ約15・5メートルと推測される。江戸中期に建てられた石川門や菱櫓に見られる破風(はふ)屋根などの意匠がすでに見られ、後年の金沢城の基本デザインとなる象徴的建物だったとされる。

60名無しさん:2009/08/03(月) 16:13:22

尾張名古屋は城で持つ,だからねぇ。

名古屋城:本丸復元で討論 「賛成7割、重い」河村市長
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/06/15/20090615k0000e040069000c.html

公募により募集された多くの市民が参加して開かれた「河村市長の本丸御殿本音トーク」=名古屋市中区の名古屋市公館で2009年6月14日、大竹禎之撮影

 名古屋市の名古屋城本丸御殿復元事業に対する市民の意見を聞く討論会「河村市長の本丸御殿本音トーク」が14日、同市中区の市公館で開かれた。賛否5人ずつが討論。参加した市民約150人に尋ねた結果、計画修正も含め事業継続を求める意見が多かった。河村たかし市長は終了後、記者団に対し「(参加者7割の)賛成は重い」としつつも「6月議会でも議論が出る。議会を終えていっぺん冷静に考えてみる」と述べるにとどめた。

 討論会は「市民の意見を聞いて決める」との河村市長の考えで初めて開いた。まず市側が、復元事業の概要や名古屋城の入場者100万人増などで年間206億円の経済波及効果があること、事業中止の場合は違約金など12億円が必要で、中断でも現場維持費などに年間約1億円かかることを説明した。その後、河村市長が応募論文を読んで選んだ石田芳弘・元犬山市長、山口清明・名古屋市議(共産)ら賛否5人ずつの討論者が議論した。

 賛成意見は「名古屋市民の誇りになる」「街づくりの軸になる」など。財源に「寄付金を主体にすべきだ」と注文もついた。反対はしないものの「財政も厳しく、市民の機運もない」と一時凍結を求める意見もあった。

 反対意見は「寄付金を出したのは1万人余り。市民が本当に必要と思っているか疑問」「古い建物に興味はあるがコピーでは行く気にならない」など。

 最後に河村市長が会場に賛否を尋ねたところ「このまま続行」72人、「修正して続行」32人、「一時中断」37人、「中止」5人−−だった。【丸山進、岡崎大輔】
【関連記事】
日本の城

毎日新聞 2009年6月15日 14時10分(最終更新 6月15日 15時21分)

61荷主研究者:2009/08/09(日) 22:58:16

http://kumanichi.com/news/local/main/20090717009.shtml
2009年07月17日 熊本日日新聞
熊本城の入園者、3年連続100万人を突破

1月からの入園者が100万人を超えた熊本城。本丸御殿の落成効果は次第に薄れつつあり、新たな仕掛けが課題だ=熊本市

 今年の熊本城の入園者(有料区域)が17日、100万人を超えたことが熊本市熊本城総合事務所のまとめで分かった。3年連続の「大台」突破だが、本丸御殿の落成に沸いた昨年より11日遅い。

 同事務所によると、1月1日から7月17日までの入園者は100万2518人で、前年同時期と比べて5・2%減。

 昨年は4月20日に本丸御殿が一般公開されて入園者が急増。今年はその反動で4、5、6月がいずれも前年同月の7割にとどまった。以前の低迷期に比べると高水準とはいえ、「昨年度のような状況にはないようだ」と幸山政史市長。

 昨年1年間の入園者は203万人を突破し、年度集計では222万人と全国の城郭で入園者トップとなり、本年度の目標は200万人台の維持。本丸御殿の落成効果が薄れつつあるのに加えて、ウォン安の影響で韓国人旅行客が一時期より減る中、落ち込み幅をどれだけ小さくするかが問われている。

 「観光客に新たな魅力を感じてもらえるような仕掛けが必要」と財団法人熊本国際観光コンベンション協会の齊藤寛専務理事。幸山市長は17日の定例会見で「本丸御膳」の夜間提供という試みを発表したが、「お城のにぎわいを一過性に終わらせない」(同市長)という懸案への本格的な対応はこれからという段階だ。(前田克)

62荷主研究者:2009/08/12(水) 17:50:28

http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=514068004
'09/08/05 山陰中央新報
「松江城を国宝にする市民の会」設立

松江城を国宝にする市民の会の設立発起人会で意見を交わす出席者=松江市母衣町、松江商工会議所

 国の重要文化財・松江城の国宝指定を目指す「松江城を国宝にする市民の会」は5日、松江市内で設立発起人会を開き、9月に各種団体を集めて総会を開くことなどを決めた。今後、運動の機運を盛り上げ、国宝の実現を目指す。

 松江城天守閣は1935年に国宝指定されたが、50年の文化財保護法制定に伴い、重文に「格下げ」になった。

 再度の国宝を目指す同会は、学識経験者や観光関係者ら9人で結成。国宝の実現には幅広い市民の理解と協力が必要と判断し、今回の動きになった。

 発起人会で、会長に選出された島根県立大短期大学部の藤岡大拙名誉教授が「幅広い方々の支援をいただき、国宝化に結びつけていきたい」とあいさつ。22日に市内で開催のシンポジウムや10月の「お城サミット」など関連事業への市民参加を呼び掛け、支援の輪を広げていく活動計画を確認した。

63荷主研究者:2009/10/10(土) 18:36:58

http://www.business-i.jp/news/ind-page/news/200910100069a.nwc
2009/10/10 Fuji Sankei Business i.
45年ぶり大修理、姫路城で始まる

 世界文化遺産の国宝・姫路城(兵庫県姫路市)で9日、5年半かけて行う大規模な改修工事の一環として、城内の測量作業が始まった。

 本格的な工事は「昭和の大修理」以来45年ぶりで「平成の大修理」とも呼ばれる。愛称「白鷺城」の由縁でもある白しっくい壁の修復や瓦のふき替え、耐震補強などを行う予定だ。

 姫路市によると、今後は天守閣に資材を搬入するための足場作りなどの後、来年4月から天守閣を覆う工事用の巨大建屋の建設が始まるという。

 2011年夏ごろからは建屋内でしっくいの塗り替えなどがスタート。市は「半世紀に一度のせっかくの機会」として建屋内にエレベーターを設置し、観覧客が修復作業の様子を見られるようにする。

 工事は15年3月に終了する見通し。天守閣に登れるのは来年4月までという。

64荷主研究者:2009/11/11(水) 22:51:15

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20091101/CK2009110102000011.html
2009年11月1日 中日新聞
築城前の姿に近づく 彦根城一帯の植生

築城前の植生を取り戻しつつあり、照葉樹で覆われる彦根城=彦根市で

 彦根市の彦根城一帯の植生が、江戸初期の築城前の姿に戻りつつある。当時人為的に植えられ、一帯を覆っていたアカマツなどは数を減らし、それ以前に群生していたタブノキやアラカシなどの照葉樹で占められている。湖東地域の環境保全などに取り組む彦根自然観察の会は「人の手を加えて植生を変えることなく、大切に守っていきたい」と話している。

 会は、2004年10月〜05年9月の計16回、城山一帯を8区域に分けて調査し、ヤブツバキやサカキといった照葉樹など計661種の植物を確認。城を外部から守るため、築城に際して植えられた成長の早いアカマツは、西の丸三重櫓(やぐら)から天秤(てんびん)櫓までなど4区域内に点在していたという。

 会の村長昭義会長(56)=彦根市=は「タブノキなど日陰でも成長する陰樹が育ち、日なたを好むアカマツの苗などが育たなくなった」と話す。城の防壁を固めるなどの理由で、以前から城守林に人の手が加えられず、自然に植生の遷移(移り変わり)が進んだことも関係しており、江戸後期には現在に近い状態だったとみられる。

 市内を流れる犬上川の河川敷や荒神山などと比べても「(彦根城一帯の)植生は戻りつつある」と村長会長。海岸近くなど土壌が肥えた低地に育つタブノキが、両所でも見られるという。

 県立大環境科学部の浜端悦治准教授(植物生態学)は「タブノキは遷移の過程でも後期の方に見られるため、(地域の環境条件に合った安定的な)極相の状態に近い」と話している。

 ただ、彦根城一帯の植生などについて記した書物は多いとは言えない上、築城前の様子が分かる史料が見当たらないので「断定はできない」と、村長会長は慎重に受け止めている。

  ◆  ◆

 会は、これまでに市内の佐和山や雨壺山、犬上川の中・下流域など湖東地域で、さまざまな植物を写真に記録したり、標本にして保管するなど地道な調査を実施。彦根城では、200近い樹木に名札を取り付け、会員の案内で、樹木ウオッチングを開いたり、環境省のレッドデータブックの絶滅危惧(きぐ)2類に指定されているオニバスの保全活動を進めるなど、城山の森を守る啓発活動も展開している。

 村長会長は「彦根城の植生は、時間をかけて取り戻した貴重な文化遺産。観光目的で景観を保つために草木が切られる場合もあるが、できる限り手を加えないことが望ましい」と訴えている。

 (古根村進然)

65名無しさん:2009/11/23(月) 10:21:42
初めてのカキコ。
金沢城の丸の内駐車場の移転計画は具体的に進んでいるの?

66荷主研究者:2009/11/29(日) 22:17:02
>>58
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20091126/CK2009112602000203.html
2009年11月26日 中日新聞
浜松城の天守門、富士見櫓復元へ 発掘調査で礎石など遺構確認

礎石とみられる遺構(右下)が出土した天守門跡=浜松市中区の浜松城で

 徳川家康の出世城で知られる浜松城(浜松市中区元城町)再整備に向け、市が今月16日に着手した発掘調査で、天守門跡と富士見櫓(やぐら)跡からそれぞれ、建物の礎石とみられる遺構などが確認された。2カ所の発掘は今月中におおむね終え、市は詳しく成果を検証した上、天守門と富士見櫓を忠実に復元する計画だ。 (飯田時生)

 天守門と富士見櫓は17世紀後半(江戸時代前期)の「遠州浜松城絵図」に描かれ、それ以降の絵図にも登場する。

 これまでの発掘で、天守閣に備えられた天守門跡から4基の礎石が出土。防御や倉庫、物見などに使われたとされる富士見櫓跡からは2基の礎石が確認された。今回の発掘ではこのほか、軒瓦や平瓦の破片も出土した。

 礎石などの遺構から門や柱の幅、高さをはじめ建物の規模や形を推し量ることができる。市は専門家の意見を聞きながら基本設計などを進め、2012年度にも復元に取りかかりたいとする。

 市は12月5日午前10時と午後1時30分の2回、一般市民を対象に現地見学会を開く。天守門跡は5日までに埋め戻されるが、出土品や写真などで説明される。富士見櫓跡は発掘した状況が見学できる。

 市は策定した浜松城公園の歴史ゾーン整備基本構想に基づき、廃城令が出た1873(明治6)年ごろに存在した建造物の復元を進める。資料が残る天守門と富士見櫓から基礎調査に着手した。

67荷主研究者:2009/11/29(日) 22:39:16

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/134174
2009年11月13日 00:59 西日本新聞
復元工事終了の熊本城本丸御殿下 急こう配スロープ 危険 「好評」の仮設は撤去中 国は改善に消極姿勢

親類や警備員らの手助けを借りて急こう配のスロープを行き来する車いすの観光客 熊本城本丸御殿復元の工事車両用に設置され、一般観光客も利用していた仮設スロープの撤去が始まった。仮設スロープは使えなくなり、天守閣地区に行くには、新設された別のスロープを通ることに。ところが、このスロープは13度の急こう配。車いすの人が自力で通るのは難しく、足が不自由な人には危ない。早急な対策が求められるが、熊本城を所有する国は「文化財は現状を維持するのが原則」と改善に消極的だ。

 熊本市熊本城総合事務所によると、仮設スロープは2002年8月に設置。こう配は7・6度で、歩行者用の通路もあり、観光客が利用していた。周辺整備も終わったため、12月10日までに撤去することになった。

 撤去により、天守閣地区に行く歩行者は「闇(くらが)り通路」を抜ける必要がある。ところが、本丸御殿復元に合わせて整備された闇り通路の天守閣側出入り口に長さ3−4メートルの急こう配が出現した。整備前はなだらかな坂道だったが、工事中に建造物の基礎だったとみられる石垣がみつかり、スロープを新設することになったという。

 市はスロープの上下に警備員を一人ずつ配置し、観光客を介助している。雨が降った10日、福岡県朝倉市から孫夫婦と訪れた車いすの原野正重さん(95)が警備員と孫に手伝われながら、スロープを下りていた。

 「普段はつえで歩くが、急な坂で難しい。上る時は、周りの観光客に車いすを押してもらった」。孫も「ぬれた坂ですべったらと思うと怖い」と話した。

 なぜ、こんな急こう配になったのか。同事務所は「工事当時、救急車両がスロープを通れることは確認したが、人の昇降までは考えなかった」と話す。

 市は、仮設スロープに代わる歩行者用スロープ設置なども「将来的には検討したい」としているが、文化庁は「景観の大幅な変更を伴う建築物は基本的に許可できない」(記念物課)とする。

 08年度には全国の城郭で入園者数が1位となった熊本城。もしけがをする人が出たら、どうするのか。

=2009/11/13付 西日本新聞朝刊=

68荷主研究者:2009/12/10(木) 23:31:20
>>66
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20091204/CK2009120402000195.html
2009年12月4日 中日新聞
浜松城の富士見櫓は風雅な邸宅風 市の発掘調査で判明

 徳川家康が一時居城としたことで知られる浜松城(浜松市中区元城町)の「富士見櫓(やぐら)」が、櫓建築としては一般的な土蔵造りとは違い、邸宅風だったことが浜松市の発掘調査で分かった。造営は16世紀後半(安土桃山時代)か17世紀(江戸時代前期)で天下太平に向かう時期とみられ、富士山を見ながら茶の湯などを催す風雅な場だった可能性がある。

 市生涯学習課によると、天守閣のほぼ北東に位置する富士見櫓の跡から礎石(柱が乗る土台)3個が出土し、間隔を調べたところ、京間(六尺五寸=197センチ)を用いた構造と判明した。北側の石垣までのスペースでは庭園装飾に用いる玉砂利も多数見つかった。

 風流な櫓建築としては松本城天守閣の「月見櫓」が有名で、城主が自らの趣味で建てたとされる。

 富士見櫓の場合も風流を狙い、京間を選んで幕政期に一般化した江戸間(現在の一間に当たる六尺=180センチ)を使わなかった可能性がある。ただ、建築にかかわったのは家康ではなく、後の城主とみられている。

 同課文化財担当の鈴木一有さんは「高僧など地位の高い人をもてなしたかもしれない」と話している。

 市は富士見櫓の復元を目指しており、今回の成果を生かす。5日午前10時と午後1時半には現地見学会が開かれる。雨天時は出土品の見学のみ。

 浜松城 残存する資料が少なく詳細は未解明だが、戦国時代の1570(元亀元)年、徳川家康が岡崎から本拠を移し、増築を重ねたとされる。家康が江戸に移ると豊臣秀吉配下の堀尾吉晴が天守閣を建造し、江戸前期には譜代大名の高力氏や太田氏が入城、天守閣は17世紀には消滅した。幕府の要職に就いた城主が多く、出世城とも呼ばれた。天守閣は1958(昭和33)年に再建された。

69名無しさん:2009/12/12(土) 01:30:09
政宗は酒好きだった? 仙台城跡内に「造酒屋敷」木簡公開
http://www.kahoku.co.jp/news/2009/12/20091211t15031.htm

榧森与左衛門と書かれた木簡(仙台市教委提供)

 仙台市教委は10日、仙台藩主伊達政宗ゆかりの「造酒屋敷」が仙台城内にあったことを裏付ける木簡などの出土品を公開した。青葉区川内の仙台城跡内で発掘した。

 出土したのは木簡や瓦、陶器など約300点。18世紀当時の井戸跡から発見された。日用品の捨て場だったとみられる。

 造酒屋敷は政宗が1608年に奈良から城内に招き、「榧森(かやのもり)」と名乗らせた酒造技術者の屋敷。木簡には榧森家6代目当主の名前「榧森与左衛門」やコメの産地、酒量が記されていた。酒だるの側板、家紋を刻んだ瓦もあった。

 東北大の東北アジア研究センターの平川新・教授(近世史)は「文献で城内に酒造場があったことは知られていたが、これまで半信半疑だった。今回の発見は政宗が酒好きだったということも証明している」と話した。


2009年12月11日金曜日

70荷主研究者:2009/12/15(火) 00:12:23

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200912100005.html
'09/12/10 中国新聞
大手門復元へ 資料求め看板
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 松江城の「大手門」の復元を目指す松江市は、復元に必要な資料提供を求める看板を大手門跡前に設置した。市は200万円の懸賞金をかけているが、これまで有力な情報はなく、復元作業が難航している。

 看板は縦1・5メートル、横60センチのアルミ製。復元後のイメージ図を付けて、写真や設計図などの提供を呼び掛けている。

 市は今年8月から懸賞金をかけ、市のホームページや歴史専門誌などで募集。期間は2011年末までだが、資料が見つかれば応募を打ち切って専門家による審査会を開くとしている。

 市観光文化ブランド推進課の小山厚課長は「大手門は観光客を迎える松江城の正面玄関。国宝を目指す城の風格を高めるために、ぜひ復元したい」と話している。同課=電話0852(55)5632。

【写真説明】200万円の懸賞金をかけて復元資料の提供を呼び掛ける看板が設置された大手門跡

71荷主研究者:2010/01/02(土) 16:20:13

http://kumanichi.com/news/local/main/20091230004.shtml
2009年12月30日 熊本日日新聞
熊本城入園者、今年は177万人 去年下回る

 熊本城の2009年の入園者(有料区域)が約177万人と、過去最高だった08年の約204万人を13%下回ったことが29日、熊本市熊本城総合事務所のまとめで分かった。

 1月1日から12月28日までの速報値。昨年は築城400年に伴う復元整備事業の目玉である本丸御殿の落成などで“大入り”となり、年度集計でも222万人の過去最高を記録した。

 今年は本丸御殿落成効果が薄れつつあるのに加え、ウォン安による韓国人観光客の減少、新型インフルエンザの流行が追い打ちを掛けたとみられる。

 幸山政史市長は来年3月までの本年度目標を200万人台維持としており、さらなる魅力アップ策が急務。同事務所は九州新幹線の全線開業が迫る中、「熊本城のよさを広くアピールしたい」としている。(高宗亮輔)

72荷主研究者:2010/01/02(土) 16:27:20

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20100101101.htm
2010年1月1日03時49分 北國新聞
金沢城橋爪門、復元へ 県が新年度から 2014年度までに 玉泉院丸跡も加速

復元整備後の完成イメージ

 藩政期の文献に名が残る金沢城の「三御門」が再びそろい踏みする。石川県は新年度、橋爪門の復元に向けた埋蔵文化財調査に着手する。金沢城公園では市中心部をつなぐ新たな玄関口として玉泉院丸跡の暫定整備も計画されており、現存する石川門、4月中旬に復元が完了する河北門と合わせ、2014年度の北陸新幹線金沢開業を出迎える。

 橋爪門は、藩主が執務し、生活した二の丸御殿の入り口に位置する正門で、1881(明治14)年の火災で焼失した。一の門と二の門、土塀からなる枡形門で、このうち一の門は菱櫓(ひしやぐら)・五十間長屋・橋爪門続櫓とともに01年7月に復元された。

 新年度は二の門と枡形土塀の復元に向け、土塀や門柱の基礎、石垣などの遺構を調べる埋文調査に入る。庁内に有識者や専門家による復元整備専門委員会を設け、写真や古絵図を基に江戸後期の工法、構造に従って忠実に復元する方針だ。工期は4〜5年となる見通し。国重要文化財である石川門の本体改修工事は13年度中の完了を予定している。

 金沢城公園では、三御門の復元整備に合わせて、玉泉院丸跡の埋文調査も進められており、跡地からは庭園の中心となっていた泉水(大きな池)の護岸石垣や出島などの遺構が確認されている。

 県は玉泉院丸跡を石垣や泉水の眺望が楽しめる「もてなし空間」と位置付け、いもり坂口を含め、金沢城公園と市中心部をつなぐエントランスゾーンとして14年度までに整備する。これにより、玉泉院丸跡から金沢城公園に入り、橋爪門や石川門を通って兼六園に至るルートが整備され、同公園を中心とした回遊性がさらに高まることになる。

●金沢城三御門(かなざわじょう・さんごもん) 金沢城の実質的な正門だった河北門と、裏門の石川門、橋爪門の三つを指す。江戸後期の文献には、城内でも格式が高い門と記されており、門内には番所が置かれていたほか、通行の際には衣装や従事者の数など厳格な規則が定められていたとされる。

73荷主研究者:2010/01/02(土) 16:28:30

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20100101205.htm
2010年1月1日04時02分 北國新聞
富山城の鉄御門、石垣に固定用の加工跡 富山市埋文センター確認

仕口加工が施された石(富山市埋蔵文化財センター提供)

 藩政期、富山城本丸の入り口になっていた鉄(くろがね)御門の石垣で、門を固定するために特殊な加工を施した石が、現存する石垣の中に残っていることが、31日までに分かった。門の底面を水平に通した木材「蹴放(けはなし)」を受けた四角形の跡が刻まれた石で、江戸期に鉄御門が建った地点と異なる場所で確認された。調査した富山市埋蔵文化財センターは「鉄御門にまつわる唯一の歴史遺産で、石垣改修の変遷を考えるうえで貴重な発見」としている。

 四角形の「仕口(しくち)加工」が施された石は、同市郷土博物館の南西側で、同博物館正面から西側へ続く石垣が南側に折れて数メートルの地点で見つかった。地面に接し、仕口加工の跡は上半分程度だけ判別できる。

 同センターの古川知明所長によると、この石についてはこれまで、石垣の鎮め石や、石仏を彫る石を転用したものなど、用途をめぐって諸説あったが、真相は謎に包まれていた。同センターは石垣の試掘で石を掘り起こし、全体の加工跡を確認した。

 石は縦約50センチ、横約54センチの方形で、中央の彫り込みは縦約22センチ、横約32センチ、深さ約1センチ。彫り込みの底面の両端に、それぞれ下に約5センチ延びる溝があった。

 古川所長は、この2つの溝が、雨などで仕口にたまった水を流す排出口で、蹴放の劣化を防ぐ役割を果たしていたと推測。富山藩が1859(安政6)年に作成した「鉄御門正面之図・妻之図」(県立図書館蔵)で確認できる、石垣と蹴放の配置や大きさを考え合わせ、この石は鉄御門ゆかりの石と結論づけた。

 一方、藩政期から明治初期まで建っていた鉄御門の位置は、市郷土博物館正面から西に続く石垣が南に折れ、さらに東に折れた個所で、加工跡がある石の場所から南東側に約10メートル離れている。昭和初期には現在の石積みになっているため、明治から大正期にかけての改修で石が移動したとみられる。

 鉄御門は、復元された千歳(ちとせ)御門と同じく「薬医門型」で、屋根が付くなど木造の門としては格式が高い。古川所長は「貴重な痕跡が残る鉄御門の石とともに、千歳御門の仕口加工を見ることで、富山城の歴史を感じてほしい」としている。

74荷主研究者:2010/01/02(土) 16:28:58

http://svr.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010010109420294/
2010年1/1 9:42 山陽新聞
丸亀城天守、入場者が過去最多 2009年 ETC割引や歴史ブーム影響

ETC割引や歴史ブームの影響で2009年の入場者数が過去最多となった丸亀城天守

 国重要文化財の丸亀城天守(丸亀市一番丁)の2009年入場者が記録が残る1999年以降最多の4万6583人を記録した。関係者は「高速道路のETC割引と歴史ブームの相乗効果」と分析。土産売り場の開設や天守開館日の増加など、観光地としての魅力アップに努めている。

 1999〜2008年の天守入場者は、2003年の2万9764人が最多で、ずっと2万人台で推移してきた。しかし、2009年は一気に前年比約60%増となった。

 天守を管理している安井元春さん(67)は「ETC割引で週末の入場数が増えた上、大河ドラマの影響か、“歴女”といわれる歴史ファンの女性の姿が目立つようになった。歴史上の人物を主人公にしたテレビゲームの流行も追い風になっている」と分析する。

 入場者増を受け、市観光協会は昨年12月、城内の観光案内所に特産品を販売する「お土産ショップ」を開設。これまで1、2月は来場者が少なく天守を閉鎖していたが、昨年、試験的に開けたところ好評だったため、今年からは正式に元日から開放する。城内の舗装工事も進めている。

75荷主研究者:2010/01/07(木) 23:59:44

今日の帰宅時に電車の中で女子高生(中学生かもしれぬ、私服だったのでよく分からん)と思われる二人組が隣に居てペチャクチャ盛り上がっていたのだが、
突然そのうちの一人が、「あー上田城に行きたいなー。小田原城は行ったし。」みたいなことを言い出したので思わず二人組の会話に注目してしまった。
最近流行っているらしい歴女(れきじょ)のようで、自分でそんなことも言っていた。
見た目普通にかわいい少女だったのだが、普通に『上田城』とか知ってるのには驚かされた。もう片方の子は城に興味は無いらしく城トークはすぐに終了していたが…。

まぁ、戦国武将ではメジャーな真田幸村との関係で上田城を知っているのかと想像されるが。下見板張の渋い城郭で、堀の中を上田交通真田傍陽線が走っていたことでも有名だ。

歴女ブームってことで、をれもカノジョに城を教え込むチャンスかねぇ。付き合ってると意外と歴史に明るいなと思わせる瞬間もあるし、素質はあるのかもしれん(笑)。

76とはずがたり:2010/01/08(金) 01:22:36
>>75
>女子高生(中学生かもしれぬ、私服だったのでよく分からん)
話しは全く関係ないけえが最近俺も電車の中で女子高生と女子中学生の区別がつかなくなってきたけえが(俺など制服着てても自信ない),おじさん化の兆候じゃないだかやぁ。注意すること。

先日,横に坐った女の子が眠りこけて凄い勢いでもたれかかってきたまま暫く起きなくて嬉し恥ずかしだったが,多分中坊だったな。俺もガキがもたれかかってきたぐらいで修行がたりんのぉ。

78荷主研究者:2010/01/20(水) 23:15:36

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100114/CK2010011402000031.html
2010年1月14日 中日新聞
名古屋城の築城工賃、支払いは尾張藩

名古屋城築城にかかわった職人の工賃などが分かる書状「飯米・作料請取状」(名古屋市博物館提供)

 名古屋城の築城工事に加わった職人の工賃などを示す珍しい書状が、近く名古屋市博物館(同市瑞穂区瑞穂通1)へ寄付される。所有者の同市南区鳥山町、無職菅井和男さん(75)が「名古屋開府400年の記念に」と申し出た。同種の書状は2例目だが、博物館は「今回は支払い元が尾張藩と特定できた。築城時、石垣などの土木工事は諸大名、建築物は尾張藩(または幕府)が担当したとの史実を裏付けるもの」と評価している。

 書状は、「飯米・作料請取状(うけとりじょう)」。名古屋城本丸東側の東一之門(戦災で焼失)両脇にあった櫓(やぐら)(書状では「御長屋」)の壁塗りをした左官614人が、飯米(食料米)と作料(工賃)を1日当たり、1人4升ずつ受け取ったことが記されている。

 裏面のあて先には尾張藩蔵奉行(会計責任者)の安井弥左衛門らの名があった。

 名古屋城は1610(慶長15)年に築城が始まり、14年までに天守閣や本丸御殿が完成。翌年に初代藩主の徳川義直が入城した。請取状は築城真っ最中の11年10月25日付。博物館が所蔵する別の請取状は、同年10月11日付と時期も近く、本丸北側の建物工事に加わった大工への報酬として、1日当たり1人5升とある。学芸員は「職人別の工賃の違いが具体的に分かって興味深い」と話す。

 請取状は菅井さんの曾祖父の収集品。博物館で3月7日まで開催中の特別展「名古屋400年のあゆみ」で初公開されている。

 (嶋津栄之)

79荷主研究者:2010/01/24(日) 17:55:30

http://svr.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010012323024941/
2010年1/23 23:02 山陽新聞
岡山城から江戸初期の長屋門跡 岡山市教委確認

岡山城本丸下の段で見つかった長屋門跡。舗装された出入り口(中央)の両側に、建物部分の堅固な基礎が見える

 国史跡・岡山城(同市北区丸の内)の本丸下の段で岡山市教委が進めている発掘調査で、鉄砲蔵などを守る長屋門跡が23日までに確認された。石垣を思わせる堅固な基礎を持つ重厚な構造で、同市教委は「城内防衛の1つの鍵となる重要施設だった」とみている。

 同門跡は、天守閣のある本段南側に位置。岡山藩が元禄13(1700)年に製作した「御城内御絵図」(岡山大付属図書館蔵)に記載され、江戸初期の藩主池田光政(1609〜82年)時代の建築とみられる。

 遺構は、天守閣へと至る通路をさえぎる形で出土し、幅約35メートル、奥行き約7メートル。中央の出入り口(幅6メートル)はしっくいを混ぜた土で舗装されており、全体の幅は絵図と照合すると45メートル近くになると推測される。

80荷主研究者:2010/01/24(日) 22:06:35

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100121/CK2010012102000017.html
2010年1月21日 中日新聞
松本城土塁の一部を保存し公園に

復元工事が進む松本城総堀土塁跡=松本市大手で

 松本市は、同市大手に残る松本城総堀の土塁跡を復元し、「松本城西総堀土塁歴史公園」(仮称)の整備を進めている。貴重な土塁跡を保護すると同時に、市民や観光客に松本城の魅力を実感してもらう。3月の完成を目指す。

 総堀と土塁は、城の外周をぐるりと囲む防御施設。土塁は堀を掘った土を盛って築かれその上に塀が建てられていたという。本来総堀の内側沿い約2キロにわたって存在したが、明治維新後に次第に取り壊され、現在整備中の土塁跡を含め3カ所しか残っていない。

 土塁跡は民家の庭に残されており、市が保護のため買い取った。雨などで削れて小さくなった土塁跡に、保護シートをかぶせて新たに土で覆い、元の形状に戻す。復元される土塁は長さ約20メートル、高さ約4メートル。公園の総面積は約680平方メートル。

 復元土塁の断面には、埋められた本物の土塁跡の断面を描き、案内板で解説する。また堀や武家屋敷があった場所をカラー舗装で表示し、訪れた人が当時を想像できるようにする。

 整備を担当する松本城管理事務所の堀井亮彦さんは「松本駅から近く、新たな観光スポットになる。松本城について、より深く知ってもらえる機会になれば」と語った。

 (坪井千隼)

81荷主研究者:2010/01/24(日) 22:15:00

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100121/CK2010012102000151.html
2010年1月21日 中日新聞
県教委、飯山城跡に高校建設計画

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/PK2010012102100103_size0.jpg
新校舎建設候補地となっている市営城北グラウンド(手前)。小高い丘が県史跡の飯山城跡=長野県飯山市飯山で

 戦国武将、上杉謙信が築城した「飯山城」(長野県飯山市)の跡地に、県教育委員会が県立高校2校統合後の新校舎建設を計画していることが分かった。計画地は県史跡の隣接地で、城の施設があったとされるため市教委が遺跡に指定。計画を問題視した県考古学会は昨年12月、保存などを求める要望書を県教委に提出した。

 建設が計画されるのは飯山、飯山北両校の2014年統合後の新校舎。計画地は飯山城跡の北側で、現在は市営城北グラウンドとして使われている。

 17世紀前半の絵図によると、計画地には築城当時、北門があり、食事を作った「下御台所」や「下御長屋」などの施設があった。市遺跡内のため、工事の際は文化財保護法で文化庁への届け出が義務付けられている。

 考古学関係者は「城施設の遺構などが埋まっている可能性が高い」と指摘。県考古学会の会田進会長は「文化財保護を第一に考えなければならない県教委が計画したことが悲しい」と訴える。

 これに対し、県教委高校教育課の担当者は、同グラウンドを候補地の一つと認めた上で「正式に建設地に決まった場合は工事前に発掘調査を行う。どういう保存方法がいいのか考えていく」と説明。市教委は「城跡の一角にあることは無視できない。市民の意見を聞きながら対応を検討したい」との姿勢だ。

 文化庁記念物課の禰宜田(ねぎた)佳男主任文化財調査官は「工事前の調査など必要な手続きを取れば法的には問題ないが、遺構などが出土した場合は学校の敷地の中で保存し、教材として活用するという方法もある」と話している。

 【飯山城】 信濃一円に侵攻した武田信玄に対抗する「最後のとりで」として、上杉謙信が築城した千曲川河畔の丘陵に位置する平山城。江戸時代には有力諸侯の居城として、飯山市の基礎となる城下町が発展した。1868年の戊辰戦争で、旧幕府軍の攻撃を受け焼失。1965年に長野県史跡に指定された。

82荷主研究者:2010/02/01(月) 01:15:21

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/143592
2009年12月30日 09:37 西日本新聞
原城抜け穴 謎解明へ 天草四郎 脱出探った? 世界遺産登録見据え調査 南島原市 新年度から

原城の本丸があったがけの側面に残る「抜け穴」の出入り口。現在は土のうを積んで立ち入りを禁止している=長崎県南島原市

 長崎県南島原市は、江戸時代最大のキリシタン一揆「島原の乱」(1637−38年)で天草四郎率いる一揆軍が立てこもった国指定史跡「原城跡」(同市南有馬町)に残る「抜け穴」の発掘調査に新年度から着手する。抜け穴は落城時に一揆軍の一部が脱出に使ったとの説もあり、公的調査は初めて。乱をめぐる謎の解明を図るとともに、世界遺産登録をにらんだ城跡の整備にも反映させる。

 抜け穴は、有明海に面したがけの上にあった同城本丸の地下に存在。干潮時にしか近づけないがけの側面(海岸から高さ約6メートル)に、出入り口(高さ約1・4メートル、幅約1メートル)が残っている。

 穴の存在は古くから知られていたが、国史跡指定(1938年)により発掘を伴う調査も制約されており、建造時期や目的は不明。63年に地元郷土史家グループが測量調査などを行った直後、豪雨で内部が崩落し、人が入れなくなった。この調査で出入り口から約30メートル奥に3畳ほどの空間があることが確認され、中には乱当時のものとみられる瓦や刀片もあったという。

 今年9月、東海大の研究グループの小型ロボットカメラ調査で、これまで判明していた部分より奥に空間があることが判明。空間には石で人為的に埋めた形跡があり、一揆軍が埋めたか、幕府軍が埋めたかを調べることで、穴の用途解明の手掛かりとなる可能性も出ている。

 同城跡は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一つとして世界遺産登録を目指しており、同市は整備計画を策定中。松島世佳(つぐよし)市長は年明け、文化庁に発掘許可を申請する方針で「空間はキリシタンの祈りの部屋という説もある。当時の信仰の様子も分かるのではないか」と期待している。

=2009/12/30付 西日本新聞朝刊=

83荷主研究者:2010/02/01(月) 22:47:10

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100130/201001300922_9874.shtml
2010年01月30日09:22 岐阜新聞
岐阜城の城跡を国史跡に 岐阜市が指定申請

 戦国武将織田信長が天下統一の拠点としたことで知られる岐阜城の城跡(金華山一帯)について、岐阜市は29日、国史跡指定を文化庁へ申請した、と発表した。市教育委員会は「16世紀後半の中世から近世への転換期に当たる日本史上重要な城」として史跡指定に期待を寄せている。今春開かれる文化審議会で審査されるという。

 市教委によると、1984年から4次にわたって金華山ふもとの岐阜公園内を発掘調査。石垣や、庭園の可能性のある遺構、茶室とみられる建物の礎石などが見つかった。戦国時代に信長居館を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの書簡とも符合し、金華山の地形を活用した庭園と信長居館の全体像が浮かび上がりつつある。

 今回は、山全体が自然の要害として機能していたことから、金華山一帯209ヘクタールを岐阜城跡として申請した。08年には文化庁委員会から「価値を明らかにした上で国史跡になる遺跡」との高い評価を受けている。

 市教委では「(とりでのような)中世の城から(天守閣などのある)近世の城への移行期に当たるのが岐阜城」と説明。「フロイスの記述を投影できる点でも希少な遺跡」と話している。

84荷主研究者:2010/02/11(木) 00:30:57

http://www.oita-press.co.jp/localNews/2009_125055740884.html
2009年08月18日 10:01 大分合同新聞
珍しい城郭建築 隅櫓を日出町指定文化財に

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/2009_125055740553.jpg
北東に向いた隅を欠く(右手前)五角形構造の隅櫓

 暘谷城の遺構で、日出町が所有する町内東仁王の隅櫓(すみやぐら)=別名「鬼門(きもん)櫓」=が町指定文化財になった。今後、解体して歴史的風情のある町並みづくりをしている暘谷城跡の二の丸に移築する予定。

 町の史料によると、隅櫓(木造2階建て延べ約100平方メートル)は17世紀初期の建造とされる。暘谷城跡にあったが、1921年に町内の個人が買い取って現在地に移築、2007年に町に寄贈された。

 隅櫓は北東に向いた隅(角)を欠いた五角形の構造。江戸時代当時、陰陽道(おんみょうどう)で北東側は鬼門とされ、邪気が入らないよう隅が取り除かれたという。

 櫓の研究をしている熊本大学名誉教授の北野隆さんの所見によると、隅櫓自体ほとんど現存しない上、石垣部分だけ隅を欠いた一般的な隅櫓と違い、暘谷城の隅櫓は屋根も隅を欠いており「全国的にも珍しい城郭建築」としている。

 築400年余り経過した現在は、土壁がはがれ瓦屋根も一部紛失したり崩れ落ちており、すき間に草が生えるなど損傷が激しい。14日に町役場で文化財指定書交付式があった。町教委生涯学習課は「骨組みはしっかりしているので調査しながら慎重に解体し、当時の流れをくむ建築として復元したい」と話した。

85荷主研究者:2010/02/13(土) 18:29:59

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201002110020.html
'10/2/11 中国新聞
福山城遺構最終調査始まる
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 福山市教委は10日、JR福山駅前広場整備に伴う福山城遺構の最終発掘調査を始めた。かつての外堀部分で、地下送迎場の本体部分に当たる。

 駅前広場の中心部約2500平方メートルのうち、3カ所計180平方メートルを3メートル掘り、堀底の形状や埋蔵物などを調べる。初日は文化課職員が立ち会い、業者が重機で作業した。調査は2週間で終了する予定という。

 市教委は2007年2月以降、今回を含めて5回の発掘調査を実施。歴史的価値が高いとされる二重櫓(やぐら)跡や舟入状遺構などの全容をほぼ確認した。遺構からは福山空襲で焼け溶けたガラス瓶などが見つかり、保存・活用方法を検討している。

【写真説明】福山城遺構の最終発掘調査に臨む市教委職員

86荷主研究者:2010/02/15(月) 01:53:24

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20100211/CK2010021102000002.html
2010年2月11日 中日新聞
鳥羽城跡周辺の整備進む まち活性化の拠点に

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生い茂った草木が伐採されるなどし、石垣が姿を現した城山=鳥羽市で

 全国的にも珍しい海城の鳥羽城があった鳥羽市の城山周辺の整備を市が進めている。草木に覆われた城山は昨年秋からの本格的な伐採作業で石垣が現れ、城跡の面影がしのばれるように。3月末には玄関口に当たる東側にポケットパークも完成する予定だ。

 鳥羽城は、戦国時代に九鬼水軍として活躍した武将九鬼嘉隆が文禄3(1594)年、海に囲まれた小山に築いた。海側に正門の大手門があり、城の周囲は約1200メートル。明治時代の廃城時には本丸天守をはじめ、13の櫓(やぐら)があったといわれる。廃城以後ほとんどがなくなり、当時の城の石垣がわずかに残るばかりだ。

 現在は本丸跡に、昨年末に国登録有形文化財への登録を答申された鳥羽小学校旧校舎をはじめ、旧鳥羽幼稚園や市役所、城山公園がある。1965(昭和40)年に県史跡に指定されている。

 城山公園からは鳥羽湾を見下ろせ、海城を実感できるが、観光客らが通る近くの国道側からは城山全体が草木に覆われ、城跡であることが分かりづらかった。

 このため、市まちづくり整備室が市民とともに2007年度から「城山を美しく見せたいプロジェクト」を立ち上げ、歴史が詰まった城山を生かしたまちづくりをと整備の在り方を検討。ボランティアが草木の伐採にも当たってきた。

 整備中のポケットパークは、入り口を当時の大手門をイメージし高さ約2メートルの石垣で構成。あずまやや芝生広場を配し、城山公園に通じる108段の階段も設置する。従来あった7列の段々石垣は廃城後の築造物だが、整備し直して、夜間は照明を当て城山を演出する予定だ。

 市は、城山北側に当たる妙慶川沿いの遊歩道整備も進めていて「城山を拠点に観光施設が並ぶ海側から市街地までを動線でつなぎ、まちの活性化につなげたい」と話している。

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鳥羽城絵図(鳥羽市教育委員会提供)

 3月には、九鬼嘉隆などについて調べる鳥羽郷土史会も立ち上がる予定で、市民の中には「天守閣を再現したい」と、鳥羽の歴史を生かしたまちづくりに期待する声もある。

 (遠藤健司)

87荷主研究者:2010/02/20(土) 18:25:10

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/02/20100215t61010.htm
2010年02月15日月曜日 河北新報
鶴ケ城ふき替え赤瓦に 藩制時代再現、天守閣を修復へ

天守閣も幕末までの赤瓦にふき替えられる若松城(完成予想図)

 福島県会津若松市のシンボルで国史跡の若松城(鶴ケ城)が、3月下旬から約1年間の予定で修繕工事に入る。今回の工事の中心は天守閣の瓦の全面ふき替え。現在は黒い色だが、藩制時代の赤い瓦に戻し、観光客にかつての城の様子を知ってもらう計画だ。

 市によると、若松城は1648(慶安元)年ごろから赤い瓦だったと記録されている。うわぐすりを掛けて焼き、雪国でも割れにくいようにしたという。
 市の若松城総合整備計画では、想定する時代は江戸末期。幕末までは赤瓦だったためで、2001年に復元した食料貯蔵庫の「干飯櫓(やぐら)」と武器庫の「南走長屋」は既に赤瓦になっている。天守閣修繕で、城全体の瓦の色調が統一される。

 天守閣は1965年に復元されたが、40年以上経過し、外壁にひび割れや汚れも目立ってきた。外壁の塗り替え工事なども併せて行われる。工事期間中、天守閣はシートで覆われるが、内部の博物館には入場できる。

 修繕費用は約5億円で、国の補助金と天守閣の入場料収入などによる若松城等整備基金で賄う。
 若松城整備計画では天守閣再建50年に当たる15年度までに、かつて本丸東側にあった建物の「御三階」も復元されることになっている。
 会津若松市観光課は「史実に示されている赤瓦の天守閣を再現することで、史跡全体の魅力が増す」と期待している。

88荷主研究者:2010/02/24(水) 22:52:53

http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2010021902000150.html?ref=related
2010年2月19日 朝刊 中日新聞
信長居館庭園に室町文化の香り 池や水溜め遺構発見

 戦国武将織田信長が拠点とした岐阜城のふもとの居館跡を調査している岐阜市教育委員会は18日、居館付近にあったとされる庭園の池や手水(ちょうず)とみられる水溜(た)めの遺構が見つかったと発表した。室町時代の将軍邸のものと類似しており、市教委は「革新的なイメージが強かった信長が、室町将軍家の伝統や権威を継承しようとしていたことが見て取れる貴重な発見」と指摘している。

 発掘場所は岐阜市大宮町の岐阜公園内で、居館跡の中心部とみられる場所から東へ約100メートルの金華山山麓(さんろく)。出土した陶磁器の形などから、信長が岐阜へ入城した1567年から、廃城となる1601年までの遺構とみられる。

 市教委によると、池は約5メートル四方で深さ30センチ。石組みで護岸され、水が漏れないよう側面や底が粘土で固められている。池底には砂や小石が敷かれており、1569年に居館を訪れたポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの手記につづられている池の記載とも合致する。

 水溜めは池のすぐ南側の約1メートル四方。石で丸く周囲を囲って水をためる形状。居館の奥に手水を配置した構造が、将軍足利義政の別荘「東山殿」(京都市)と似ているという。このほか、巨石を用いた石組みや石垣なども出土した。

 市教委は「信長は、将軍足利義昭のために何度も京都に足を運び、義昭の邸宅建造に現場で指揮を執ったこともある。このときに学んだ室町文化を自らの居館にも取り入れたのでは」と分析した。

 京都造形芸術大の仲隆裕教授(日本庭園史)は「今回初めて姿を現した庭園からは、日本の頂点を目指した信長の強い意志や野望を感じる」と話した。

 現地説明会は2月27日午後零時半から3時まで。公園内のロープウエー乗り場の奥にある明治大帝像の前に集合。小雨決行。

89荷主研究者:2010/02/24(水) 23:03:35

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20100220/CK2010022002000003.html
2010年2月20日 中日新聞
彦根市が6件指定 歴史的風致形成建造物

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歴史的風致形成建造物に指定された足軽組辻番所=彦根市で

◆旧彦根藩足軽組辻番所など

 地域における歴史的な価値が高い「歴史的風致形成建造物」として、彦根市は、旧彦根藩足軽組辻番所(つじばんしょ)など6件を指定した。今後、国の補助を得て修復・保全を図り、まちづくりに生かす。

 昨年1月、「市歴史的風致維持向上計画」が国から認定されたことを受け、指定作業を進めてきた。ほかに指定されたのは、彦根藩校で唯一現存する建物「金亀会館」、中級武家屋敷の長屋門として貴重な「旧鈴木屋敷長屋門」など。今後10年間で計17件を指定する。

 市が、建物の修復や改築をする場合は事業費の2分の1、活用する事業などは3分の1を、それぞれ国が補助する。 

  (伊藤弘喜)

90荷主研究者:2010/02/24(水) 23:20:42

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201002210010.html
'10/2/21 中国新聞
遍照寺山城は豪族宮氏の城か
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 福山市神辺町の遍照寺山城跡が、中世の備後地方で最大の勢力を誇った豪族・宮氏の拠点だった可能性が高いことが、広島県東部の歴史愛好家グループ「備陽史探訪の会」の調査で分かった。同会は「幻の一族と言われた宮氏の歴史の解明につながるのでは」としている。

 昨年1月から約1年間をかけて測量などの現地調査をした結果、約6万平方メートルの敷地に、山を切り開いて平地にした大小43カ所の郭(くるわ)がある県内有数の中世山城であることが分かった。これまでの県調査では、本丸跡など一部城跡しか確認されていなかった。

 宮氏は、室町幕府初代将軍である足利尊氏に味方して現在の福山市北部から庄原市東部まで勢力を広げ、「備後殿」と呼ばれた豪族。毛利元就によって滅ぼされた。同会は、城の規模や、2つの本丸を持つ築城の特徴などから、遍照寺山城が宮氏の城だったとみている。

 遍照寺山城跡は、福山市神辺町西中条の遍照寺の西側。調査では、本丸跡近くの岩に防御施設を設置したとみられる2つの穴も確認した。

【写真説明】宮氏の拠点の可能性が高いとされる遍照寺山城跡の本丸跡を紹介する備陽史探訪の会メンバー

91荷主研究者:2010/02/28(日) 16:18:01

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100224/CK2010022402000030.html
2010年2月24日 中日新聞
小牧山頂上付近の石垣確認 階段状、壁のように連続

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発掘調査で出てきた石垣=小牧市の小牧山で

 織田信長が小牧市の小牧山に築いた小牧山城の石垣が、頂上付近を囲むように配置されていたことが同市教委の調査で分かった。市教委が23日、発表した。

 5年前の試掘で上下2層の石垣が見つかり「土の城」との定説を覆したが、今回の調査であらためて確認された。27日午前10時半から現地説明会を予定している。

 調査は、試掘で出土した石垣付近など頂上の周辺4カ所で実施。3カ所から信長築城時の永禄期(1558〜70年)の物と推定される石垣が出てきた。

 いずれも中腹から切り出したとみられるチャートという岩石で造られ、最も長い部分で長さ10メートル。1段目が1〜1・3メートル、2段目が1・8〜2メートルの高さに積み上げられた階段状の石垣で、頂上を囲む“壁”のように連続している。担当者は「清須から移った信長が本格的な居城として位置付けていたのではないか」と話している。

 現地説明会の問い合わせは、小牧市教委文化振興課=電0568(76)1189=へ。

 (神谷浩一郎)

92荷主研究者:2010/03/07(日) 14:49:26

http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20100304/news20100304346.html
2010年03月04日(木)愛媛新聞
排水路備えた庭池発見 松山城三之丸跡調査

 松山市と市教育委員会は4日、同市堀之内の松山城三之丸跡13次調査(2009年8月−10年3月26日)で、自然排水路を備えた武家屋敷の庭池遺構を確認したと発表した。市教委は、同様の遺構は県内初とし「池にたまった余分な雨水を外に流し、既に見つかっている堀端南西の貯水池にためて火災時などに用いた」とみている。

 調査は競輪場跡北側の234・5平方メートルで実施。北辺(約34・5メートル)と西辺(約37・5メートル)の柱穴列と礎石から武家屋敷境界が判明し、約1300平方メートルの敷地内の同じ場所で2つの時期に埋められた庭池跡を確認した。

 先に埋められた池は約50平方メートル、深さ約30センチで、池から塀を抜け屋敷外の側溝につながる排水路(幅約30センチ、長さ推定約2メートル)が設けられていた。底に瓦を敷き、両側に花こう岩を組んでおり、水が流れた跡もあった。

93荷主研究者:2010/03/11(木) 23:58:56

http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/administration/article.aspx?id=20100306000113
2010/03/06 09:55 四国新聞
丸亀城、完全復元へ最後の期待/市がはがき作成

情報提供を募るため、新たに作成した木図を刷り込んだ絵はがき

 丸亀城の完全復元を目指し、丸亀市が懸賞金総額1千万円をかけて2004年度から行っている同城の古写真や絵図など復元資料の募集は、10年度が最終年度となるがこれまで手がかりとなる情報は寄せられていない。このため市は、往事の姿の木図を刷り込んだ募集はがきを新規に作成、3月から天守来訪者に配布し一層の情報提供を呼びかけている。

 同城では国の重要文化財の天守を取り巻くように、隅櫓(すみやぐら)とそれをつなぐ渡櫓(わたりやぐら)がそれぞれ11棟建っていたことが分かっている。だが1869(明治2)年の火災で隅櫓1棟が焼失したのをはじめ、76〜77(明治9〜10)年ごろにすべて取り壊されたとされる。

 市は歴史を体感できる場として京極藩時代の丸亀城を再現しようと、両櫓の外観や高さ、内部の様子が分かる写真などの募集を始めた。取り壊しの時代にカメラが普及していなかったことなどもあり、これまで6件の問い合わせがあったが、有力な情報とはなっていない。

 1872(明治5)年に丸亀を訪れた明治天皇一行にカメラマンが同行していたという記録があるほか、高松城や城下を撮影した写真が英国ケンブリッジ大から発見された事例もある。

 市は「再現につながる未発見の資料がまだどこかに潜んでいる可能性はある」と、広く国内外からの情報提供に期待を寄せている。問い合わせは市教委文化課〈0877(24)8822〉。

94荷主研究者:2010/03/14(日) 15:20:37

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100304/CK2010030402000168.html
2010年3月4日 中日新聞
浜松市が安土桃山の城門確認 二俣城・本丸中仕切門の規模を確定

 浜松市は3日、二俣城跡(天竜区)の発掘調査で、本丸中仕切門(なかじきりもん)の規模を確定したと発表した。建物の柱を支えた礎石4カ所の間隔から、門の大きさは東西2・1メートル、南北3・2メートルという。安土桃山時代の瓦も出土しており、豊臣家配下だった堀尾氏の領有時代に瓦ぶき城門が存在したとみている。 (後藤隆行)

 堀尾氏時代の改修の跡が発掘調査で確認されたのは初めて。生涯学習課の辰巳均文化財担当課長は「石垣を持つ城の初期の形態とみられ、近世城郭の流れにつながる」と話している。6日に現地説明会を開く。

 同課によると、中仕切門は二の丸と本丸をつなぐ通路に位置し、昨年の発掘調査で北側の礎石2カ所を確認。1日からの南側の調査では、礎石と、礎石の抜き取り穴が見つかった。門の両側に石垣を築いたことも確認した。丸瓦や平瓦が多く出土し、市は瓦ぶきの城門とみている。

 築城は16世紀中ごろと伝えられ、今川氏や徳川氏が形づくったが、徳川氏のころは土塁をめぐらしていた。その後の堀尾氏時代(1590〜1600年)の改修は、現存する天守台が物語る程度だった。居城したのは浜松城主だった堀尾吉晴の弟、宗光という。

 現地説明会は、午前10時と午後1時30分の2回。雨天決行。

95荷主研究者:2010/03/14(日) 17:02:51
>>94
http://www.shizushin.com/news/local/west/20100304000000000021.htm
2010/03/04 静岡新聞
二俣城に本丸中仕切門 浜松市、発掘調査で発見

 浜松市は3日、二俣城跡(同市天竜区二俣町)の発掘調査の結果、城跡内に「本丸中仕切門」があったことを示す遺構が発見されたと発表した。市は「(豊臣秀吉の勢力下だった)1590〜1600年ごろに、石垣や瓦を使用した近代的な城に改修されたのでは」(同市生涯学習課)と推測している。

 本丸中仕切門は天守台のある本丸と二の丸を結ぶ門。市は昨年から城跡の発掘調査を始め、今回、門の柱を支える4つの礎石や石垣など門の全容を確認した。安土桃山時代の瓦も出土した。

 現在の城跡は16世紀中ごろに築かれたと言われているが、天守台以外の建築物の遺構はこれまで確認されていなかった。今回の調査を受け、市は秀吉勢力下の城主、堀尾宗光が浜松城のような近代城郭として一帯を整備したのでは、とみている。

 同課は「城の守りを固める、かわらぶきの立派な門があったということ。今後も調査を進めれば、櫓(やぐら)などの遺構を発見できるかもしれない」と話している。

 6日に発掘現場の現地見学会を行う。午前10時、午後1時半の2回。希望者は昨年発掘が行われた鳥羽山城跡の見学もできる。問い合わせは天竜区振興課<電053(922)3300>へ。

発掘された「本丸中仕切門」の礎石。奧は天守台=浜松市天竜区

96荷主研究者:2010/03/14(日) 17:08:04

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20100312/294206
2010年3月12日 05:00 下野新聞
烏山城の大規模拡張跡を確認 13日に現地説明会

 【那須烏山】市教委が本年度から実施している烏山城跡の発掘調査で、城の中枢にあたる古本丸部分で、大規模に拡張された跡が確認されたことが11日までに分かった。市教委によると、烏山城に関する本格的な調査はこれまで行われておらず、文献は残っているものの実態は分かっていないという。同市教委は13日午前10時半から、現地説明会を開く。

 烏山城は、室町時代の1417(応永24)年に沢村五郎資重によって、現在の烏山地区市街地北西の丘陵頂上部に築かれたとされる。調査は2012年度まで行う予定で、今回は1月から実施。1530年代に焼失するまで本丸として使われていた古本丸部分を発掘した。

 南北約70メートル、東西約60メートルある古本丸内を十字に試掘。その過程で、時期は不明ながら大きな城へと拡張するための城普請(土木工事)跡を確認したほか、戦国期とみられる土師質土器や陶磁器なども出土した。

 市教委生涯学習課は「実体解明に一歩近づくことができた。戦国時代の城の様子を見に来てもらえたら」としている。現地説明会は雨天決行。烏山高付近の現地事務所に直接集合する。問い合わせは同課電話0287・88・6223。

97荷主研究者:2010/03/14(日) 17:41:00

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki2/218615_all.html
2010年03/03 14:31 北海道新聞
松前城天守閣の復元を検討 町、可能性審議し年内結論

(上)現在の「復興天守」(松前城資料館)。左が国指定重要文化財の「本丸御(ほんまるご)門」(下)松前城全体の想像図。中央の三層建築が天守閣。周囲には御殿や土蔵、堀や多数の門などが配置されている

 【松前】1949年(昭和24年)に焼失した道内唯一の日本式城郭「松前城(福山城)」の天守閣完全復元の可能性について、町が検討に入る方針を固めた。前田一男町長が8日、議会で表明する。現在の鉄筋コンクリート(RC)建築が老朽化したためで、焼失前の木造建築復元か、RC構造のまま補修かを選択する見通し。5月にも史跡福山城保存整備審議会で具体的な調査検討を始め、年内に答申を得て町の最終結論を出したい考えだ。

 松前城の中核、天守閣は1854年(安政元年)に築造された。当時は地上3階木造しっくい造り。焼失後、現在のRC地上3階地下1階、延べ129平方メートルの「復興天守」が完成したのは1960年。外観はほぼ同じだが、部材や内部構造は全く異なる。

 現在は壁が劣化、屋根の銅板がはがれるなど老朽化が目立ち、町は「ほぼ耐用年数の築50年を迎えた今年、本格的な整備を考えざるを得ない」と判断。天守閣を中心とした城と寺町を含む約13ヘクタールの史跡全体の整備について近く文化庁の了承を求める方針だ。

 天守閣整備の本格検討は2度目で、初回は焼失の直前だった。その際に作成した実測図と詳細メモが保存されていることが昨年までに判明。柱の位置や屋根のこう配など詳しい情報も得られた。国宝指定時の外観写真なども見つかった。

 また、城の石垣などに使う緑色凝灰岩を切り出した江戸時代の石切り遺構(町内神明)が2005年に発見された。調査で保存区域と採石区域の区分が進み、城内遺構の復元に石を使うことが可能になった。

 松前の歴史の象徴である天守閣の復元は、半世紀にわたる町民の悲願。観光振興の起爆剤にもなる。

 町と町教委はこれらの資料や素材を駆使すれば復元は可能とみているが、文化庁が実際に復元を了承するかどうかは未定だ。

 また、復元には巨額の資金が必要。専門家の間では、設計費を除いた建築費だけで20億円前後との見方もある。

 国や道の補助額、RCで補修の場合との比較など詳細な検討はこれからだが、大規模整備に向け、まずは復元可能性を探るとともに復元の意義と負担を町民がどうみるか、今後の議論が注目される。(久田徳二)

98荷主研究者:2010/03/20(土) 18:40:41

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100318000198&genre=M2&area=S00
2010年03月18日(木)Kyoto Shimbun
三成の居城で内堀跡など見つかる
彦根市・佐和山城遺跡

 関ケ原の合戦で西軍の指揮をとった武将、石田三成の居城だ・た彦根市の佐和山城遺跡で内堀跡が見つかった。内堀の幅は少なくとも22メートルあり、安土城に匹敵する大きな規模だという。付近では城下町の町屋区画とみられる溝跡もあった=彦根市・佐和山城遺跡

 豊臣秀吉の重臣、石田三成(1560〜1600年)の居城だった佐和山城遺跡(彦根市佐和山町)の発掘調査で、内堀跡や、城下町の町屋区画跡が見つかったと、滋賀県教育委員会が18日発表した。内堀の幅は少なくとも22メートルあり、「内堀は安土城に匹敵する大きな規模だ。『三成に過ぎたるもの』と称された城の姿がうかがえる」という。

 調査は2回目で、前回に武家屋敷跡が見つかった佐和山の東北の山すそで約550平方メートルを発掘した。

 発掘された内堀跡は幅が東西10メートル、南北4メートル、深さ約0・5メートル。西側に内堀の一部と伝わる小野川や土塁跡があり、土塁跡から測ると内堀の幅は約22メートルだった。発掘した県文化財保護協会は「土塁は廃城後に削られたが、現存部でも1・5メートルの高さがある。当時はさらに高い土塁と幅広い内堀で城と城下町を隔てた」とみる。

 付近では約2メートルの道跡や幅3メートル、長さ約30メートルの溝跡も見つかった。また、鋳物で使うスズを一時保管する入れ物「とりべ」、炉に風を送る「ふいご」の一部、鉄かすも近くで出土し、鉄砲などを作る鍛冶職人が居住したとみられる。協会は「道は城下町の主要道だった可能性が高く、溝は町屋区画の仕切りだった」とみている。

 佐和山城は鎌倉初期に造られ、彦根城築城開始(1604年)前後に廃城になったとされる。今回の調査地では大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、瀬戸美濃焼の天目碗(わん)など16世紀後半の遺物が多く出土し、三成の居城だった時期にも使われた遺構とみられる。

 現地説明会は20日午後1時半から。雨天決行。県文化財保護協会Tel:077(548)9780。

99荷主研究者:2010/03/23(火) 22:50:44

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201003170041.html
'10/3/17 中国新聞
広島城の金鯱瓦、11月公開へ
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 広島市は11月、昨年1月に広島城(中区)の中堀跡近くで出土した鯱(しゃち)形の金箔(きんぱく)瓦を、天守閣で企画展示する。織田信長が築いた安土城(滋賀県)から出土した金箔瓦なども同時に展示する計画を進めている。

 開催期間は1カ月程度を予定する。広島城の鯱瓦をメーンに公開。安土城や大坂城(大阪市)、姫路城(姫路市)から出土した金箔瓦も各自治体から借りて飾る。展示が困難な金箔瓦は写真など資料を展示する。

 広島城の金鯱瓦は、雄が高さ約75センチ、雌は同70センチの雌雄一対で、いずれもほぼ完全形で出土した。胴と上あご、左右の下あごを組み合わせる過去に例のない構造が特徴。ひれや歯、目などに金箔が残る。発掘した測量会社パスコ(東京)が3月中に調査を終え、市に引き渡す。

100荷主研究者:2010/03/23(火) 23:18:25

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100319/CK2010031902000034.html
2010年3月19日 中日新聞
岡崎城東隅櫓を再建 27日から内部公開

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再建された東隅櫓(右)と城壁。左奥は大手門

 江戸時代の岡崎城(岡崎市康生町)で東側の防備を担っていた東隅櫓(やぐら)が、往時の工法で再建された。明治維新後に取り壊されて以来約140年ぶりに、優美さと機能性を兼備した姿がよみがえった。

 東隅櫓は、望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階建てで、白しっくい塗りの壁が映える。入り母屋造りの屋根は、岡崎藩主を務めた譜代大名本多家の家紋「立ち葵」が刻まれた本瓦ぶき。高さ約9・4メートルで、かつて「東曲輪」だった岡崎公園駐車場の南東角に位置する。

 詳細な設計図は残っていないため、旧岡崎藩士和田家が保存する1781(天明元)年の「岡崎城絵図」と、松山市に現存する松山城の櫓を参考に、江戸時代の工法を忠実に再現。城内で発掘された石材を使い、石垣も築いた。隣接して同時に整備した長さ約45メートルの城壁と合わせ、総工費は約1億円。

 直径60センチ以上の巨大なマツ材の梁(はり)や、ヒノキ材の柱の木組みが見学できるよう、27日から年中無休で内部を公開。公開は午前9時〜午後5時で、4月11日までは、特別に2階にも上れる。

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巨大な梁など構造が見学できる内部=岡崎市康生町で

 担当した岡崎市公園緑地課の加藤栄一主幹(54)は「東海道の名城・岡崎城の雄姿が復活した。市民の誇りになってくれれば」と話した。

 (中野祐紀)

101荷主研究者:2010/04/04(日) 00:37:12

http://www.shizushin.com/news/local/central/20100327000000000024.htm
2010/03/27 静岡新聞
駿府城の天守閣復元に否定見解 市検討委報告書

 駿府城天守閣復元の可能性について、静岡市の諮問を受け、検討を進めてきた市駿府城天守閣建設可能性検討委員会は26日、「現時点では天守閣復元を行うべきではない」との報告書をまとめ、小嶋善吉市長に提出した。

 会長の志田直正静岡英和学院大副学長が市役所静岡庁舎を訪れ、小嶋市長に報告書を手渡した。検討委は学識経験者や市民ら16人が、2年にわたり議論を重ねてきた。

 報告書は、天守閣全体の高さ、各階の高さを示す図面や記録などの原本がなく、現段階では史実に沿った再現ができないとした。ただ、確実な資料が残る天守台については復元を検討すべきとした。

 また、史跡としての価値を発信する観点から、駿府公園の名称を「駿府城公園」に変更することも提言した。

 志田会長は「今後も、市民の関心を呼び起こしながら周辺整備を進めてほしい」と強調した。小嶋市長は「(報告書の内容を)しっかり受けとめてやっていきたい」と答えた。

102荷主研究者:2010/04/04(日) 01:15:54

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201003230029.html
'10/3/23 中国新聞
蓮華山で室町末期の山城確認
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 岩国市文化財専門員の松岡睦彦さん(70)=考古学=と、同市玖珂、周東町の住民有志6人が、両町にまたがる蓮華山(576メートル)で室町時代末期の山城の遺構を確認した。頂上一帯に防御施設の廓(くるわ)跡があったとみている。

 蓮華山には地元の武将椙杜(すぎのもり)隆康の出城があったとされる。隆康は1555年、毛利氏の山口侵攻をめぐり近くで繰り広げられた「鞍掛合戦」で毛利氏側に加勢し、功績を残したと伝えられている。

 松岡さんは、山頂一帯の東西約500メートルに幅約70〜120メートルの平地が連続していることから、木の柵で囲んだ大小6カ所の廓(計約4万7500平方メートル)があったと判断。廓の周囲で2〜4重に張り巡らされた「武者走り」と呼ばれる小道の跡も確認した。

【写真説明】蓮華山の山頂で廓の説明をする松岡さん(右端)

103荷主研究者:2010/04/04(日) 01:26:54

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100328/CK2010032802000027.html
2010年3月28日 中日新聞
田中吉政の石像除幕 岡崎城下町発展の基礎築く

完成した田中吉政の石像=岡崎市籠田町で

 岡崎城下町発展の基礎を築いた岡崎城主・田中吉政(1548〜1609年)の石像が岡崎市籠田町の中央緑道に完成し、27日に除幕された。

 吉政の菩提(ぼだい)寺に残る肖像画を基に、岡崎石製品協同組合連合会の石工、磯貝泰隆さんが彫り上げた。あぐらをかいて座った姿と台座を合わせ、高さ185センチ。激しい戦歴を物語る顔面の刀傷もくっきりと再現した。

 城下の旧東海道「二十七曲り」を手製のわらじで練り歩くイベントに参加した小学生や石材工業、地元の関係者計70人が式典に集まり、加藤邦彦副市長らが除幕。子どもたちは「家康だけじゃなく、吉政のことも勉強しなきゃ。強そうで格好いい」と喜んでいた。

 豊臣秀吉に仕えた戦国武将の吉政は徳川家康の関東転封(1590年)後、約6万石の岡崎城主に。関ケ原の合戦(1600年)では家康方に付いて石田三成を捕らえる大功を立て、筑後(現福岡県)柳川32万5000石の城主に栄転した。

 岡崎在城時代に、東海道を城下町に引き込んで複雑に屈折させて防御力を高めた「二十七曲り」や大規模な「田中堀」、天守閣などを築いた。精巧な石垣を築くため、関西から招いた職人が岡崎石工の起源になったと伝わる。

 家康に比べ、いまひとつ知名度が低い「まちづくりの祖」を顕彰し、石工業をPRしようと、市が総事業費250万円で石像を作った。

 (中野祐紀)

104荷主研究者:2010/04/25(日) 03:08:18

http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0002875347.shtml
2010/04/15 09:15 神戸新聞
二之丸庭園の「西仕切門」復元完了 旧赤穂城内

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復元が完了した二之丸庭園の西仕切門=赤穂市上仮屋

 赤穂市が整備を進める、旧赤穂城内の国名勝、二之丸庭園にある「西仕切門」の復元工事が、このほど完了した。文献や絵図、発掘調査の資料から往年の姿をよみがえらせ、旧城内の新しい風景として親しまれそうだ。

 二之丸庭園は、1998年度から4年間に行われた発掘調査で、門や土塀の遺構が発見され、2002年、国名勝に指定。現在は復元整備が進んでおり、今回は、庭園の南限に位置し、二之丸を南北に仕切る「西仕切門」と周辺の土塀が完成した。

 西仕切門は、高さ約4・6メートル、幅約3メートルの棟門。一部に横板を張らず、向こう側が見通せる「透かし門」の構造になっている。周辺の土塀は、高さ約2・4メートルで、長さ約10メートル。石灰やにがりを混ぜた土を、何重にも圧縮し固めた版築工法が用いられている。

 いずれも瓦は、発掘調査で出土したものを参考にしており、構造や規模は、かつての絵図資料などを基本とした。また、姫路城や松山城(松山市)などの棟門も参考に、門扉の意匠を設計したという。

(黒田耕司)

105荷主研究者:2010/04/27(火) 21:56:09

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201004130037.html
'10/4/13 中国新聞
郡山城跡 説明板を一新
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 安芸高田市教委は同市吉田町の国史跡・郡山城跡の遊歩道の説明板や方向表示などを一新した。展望が利かなかった遊歩道も一部見晴らしを確保するなど改善している。

 説明板は毛利元就墓所入り口と、2年前に酉谷(とりたに)地点から出土した石垣付近の2カ所に設置。墓所入り口には、従来の戦国年表板に代わり、その後、周辺で発掘された大通院谷(だいつういんだに)遺跡や100メートルにわたる薬研堀の解説文を掲げた。

 遊歩道は、本丸への登り道で、雑木を除去。ベンチも設けた。城内の土塁などの遺構の指示板や、遊歩道の全体地図も設けた。

 道標は、本丸のほぼ南約450メートルにある旧本城への遊歩道を中心に13カ所新設した。

 旧本城跡は、約250年間の同城の歴史で城が全山に展開するまでの約190年間拠点だった。再評価機運が出ていて、道標整備はそれに応えた形。事業費は計409万円。

【写真説明】遊歩道入り口の薬研堀跡(右側の溝)と、新設された説明板

106荷主研究者:2010/04/27(火) 22:18:09

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100416/CK2010041602000185.html
2010年4月16日 中日新聞
戦国の面影『野面積みの石垣』が人気 09年度、浜松城天守閣の入場者が過去最多

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戦国の面影をとどめる野面積みの石垣の上に建つ浜松城天守閣=浜松市中区元城町で

 戦国時代や城への関心の高まりに合わせるように、この数年来、来場者を増やしてきた浜松城天守閣(浜松市中区元城町)は2009年度、14万3230人が来場し、過去最高を更新した。最近は、徳川家康が築いた当時のままの荒々しい野面(のづら)積みの石垣にあらためて光が当たり、本格的な城郭ファンも引きつけているようだ。(飯田時生)

 浜松城は徳川家康が武田軍の進攻に備えて築き1570年に入城。29歳から45歳までの17年間に長篠、小牧・長久手の戦いなどを経て、天下統一への足掛かりを築いた。野面積みの旧天守台の上に、1958(昭和33)年、市民の寄付金で天守閣が再建された。

 野面積みの石垣とは、自然石を、平らな面を表に出すように組み合わせて積み上げ、すき間に小さな石と砂利を詰めて補強してある。一見崩れやすそうだが、水はけがよく豪雨などの水圧にも強い。敵からの攻撃にも強く、堅固に造られている。

 「三方ケ原の合戦など、激動の青年期が刻まれた家康の浜松城。城郭が好きな者にとって、天守閣とそれを守る石垣を眺めていると戦国ロマンがかきたてられる」。昨年11月、国民文化祭しずおか2009の浜松城見学会で講師を務めた城郭研究家の中井均さんは魅力を話す。

 2009年度は国文祭のほか、浜松モザイカルチャー世界博(浜名湖立体花博)と大きなイベントが開かれたことも、来場者増の追い風になったとみられる。

 最近では、戦国の世の興亡に彩られた各地の城郭を見学することを、一部の歴史ファンは“城攻め”と呼ぶという。浜松城で来訪者の案内にあたる浜松観光ボランティアガイドの会員たちも「専門知識を持った人たちがくまなく見学していく姿に静かな熱気を感じます」と話している。

107荷主研究者:2010/04/27(火) 22:20:57

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100413/CK2010041302000145.html
2010年4月13日 中日新聞
西内惣構の復元整備完成 堀の幅拡大 江戸時代の規模に

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010041302100086_size0.jpg
堀や土居を復元整備した西内惣構=金沢市主計町で

主計町『緑水苑』

 金沢市が進めていた、同市主計町の公園「緑水苑(えん)」内の西内惣構(にしうちそうがまえ)の復元整備が完成した。堀の幅をこれまでの約二メートルから、藩政期当時に合わせて約十メートルに拡大。土を盛り上げた土居(どい)も復元し、江戸時代の規模に近い形で惣構を体感できる空間となった。(村上一樹)

 惣構とは、城下町を囲い込んだ堀や盛り上げた土居などのことで、金沢城では防衛のため内・外二重の惣構が造られた。緑水苑は城の西側にある内側の惣構(西内惣構)が浅野川に流れ落ちる地点で、市は二〇〇八年度に発掘調査を実施。調査結果に基づく復元整備を〇九年秋から進めていた。

 明治以降は埋め立てられて幅が約二メートルまで狭くなっていた堀を、長さ十八メートルにわたり、幅約十メートルに拡大。合わせて、高さ約三メートルの土居を設け、斜面にはコグマザサを植えた。土居の上部には見学所も設けた。

 また公園機能との共存を図るため、平たん部分をなるべく残し、大雨時に氾濫(はんらん)しないよう排水機能の強化も図った。復元したのは広さ約三百平方メートルで、整備費は約二千万円。

 市は週内には新たな案内板を設置する予定で「市民が気軽に立ち寄り、歴史遺産にふれ合える空間になれば」としている。

108名無しさん:2010/05/02(日) 03:15:11
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010050120390144/
岡山城特別展 会期終盤もにぎわう 幕末の動乱 史料で紹介

 岡山城天守閣(岡山市北区丸の内)で開催中の春季特別展「幕末の動乱 会津と長州そして岡山」(同市、おかやま観光コンベンション協会、山陽新聞社主催)は9日の閉幕まであと1週間。ゴールデンウイークが重なり、続々と訪れた歴史ファンが近代日本の夜明けに思いをはせている。

 黒船来航や会津、長州両藩の激突、官軍と旧幕府軍による戊辰(ぼしん)戦争終結ごろまでを約90点の史料で紹介。志士の心得を説いた高杉晋作の書をはじめ、土方歳三の愛刀や新式ライフル銃、官軍の隊長が頭に着けた赤い毛「赤熊(しゃぐま)」が目を引く。郷土関連では岡山市長に当たる岡山区長を務めた会津藩士手代木(てしろぎ)勝任(かつとう)の遺言状などが並ぶ。

 夫と旅行中の兵庫県宝塚市、主婦川口倫子さん(39)は「坂本竜馬ら志士の筆跡や白虎隊士の絵図から動乱の生々しさが伝わってきます」と話した。

 会期中無休。午前9時〜午後5時半。入場料は15歳以上800円、5歳以上400円。

【詳しくは山陽新聞紙面をご覧ください。】(5/1 22:30)

109荷主研究者:2010/05/06(木) 23:47:50

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20100423/CK2010042302000004.html
2010年4月23日 中日新聞
戦国期のガラス工房 福井・一乗谷朝倉氏遺跡で発掘

上級武家屋敷の一角にあったとみられるガラス工房の遺構(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供)

 県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館は22日、戦国大名朝倉氏の城下町だった福井市城戸ノ内町の同遺跡から、ガラス工房とみられる遺構や炉跡、原料、ガラス玉などが出土したと発表した。これまで鎌倉時代から江戸初期までは、国内ガラス生産の空白期と考えられていたが、覆る可能性が出てきたという。

 同資料館によると、工房跡が発見されたのは遺跡の玄関部に当たる南端の上級武家屋敷跡の一角。幅9・5メートル、奥行き3・8メートルの遺構からガラス片、原料の鉛や石英、鉱物を高温で溶解する炉が集中的に見つかった。

 昨年度の発掘調査でガラス玉など156点が出土した。ガラス玉は直径2・5〜4・5ミリ、中心に穴があり、色は紺、緑、水色など。奈良文化財研究所に鑑定を依頼し、奈良時代に奈良で作られていた製法と酷似していた。鎌倉時代初期に途絶えたとされていたガラス生産が、戦国期の地方で受け継がれていたことがうかがえる貴重な資料という。

 水野和雄館長は「日本のガラス史を塗り替える発見。装飾品や仏具だったガラス玉を武士が(職人らに)作らせていたのではないか」と推測している。

遺構から見つかったガラス玉やガラスの溶解片=福井市城戸ノ内町で(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供)

 同遺跡は朝倉氏が5代約100年間にわたって越前国(福井県の一部)を支配した城下町跡で、国特別史跡に指定されている。

 (原田晃成)

110荷主研究者:2010/05/06(木) 23:49:44

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100424/CK2010042402000138.html
2010年4月24日 中日新聞
130年ぶり いよっ三代目 河北門デビュー

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約130年ぶりに復元され報道関係者らに公開された河北門=金沢城公園で

職人500人 2年半かけ復元

 金沢城の三御門の一つで、四月半ばに復元が完了した河北門の報道関係者向け内見会が二十三日開かれ、一八八二(明治十五)年ごろに撤去されてから約百三十年ぶりによみがえった門の全容が披露された。(佐藤航)

 河北門は現存する石川門の北側に位置し、これまでの研究では金沢城の実質的な正門だったとされている。一七五九年の宝暦の大火で焼失した後に一度復元されたが、明治に入り旧陸軍が駐留していた約百三十年前に取り壊された。今回の復元で三代目の門になるという。

 二代目の門の絵図や明治初期の写真などを基に、約五百人の職人が二年半で仕上げた。石川門と同じ構造で、ケヤキ造りの「一の門」(高さ七・四メートル)、両側の石垣にやぐらを渡した「二の門」(同一二・三メートル)、双方の門をつなぐ「枡形(ますがた)土塀」などを備える。事業費は約十五億円。

 二十四日午前に完成の記念式典があり、同日午後六時半からはライトアップが始まる。

111荷主研究者:2010/05/10(月) 22:56:45

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20100429/CK2010042902000004.html
2010年4月29日 中日新聞
二階と三階を初公開 彦根城の西の丸三重櫓、29日から

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公開が始まる彦根城西の丸三重櫓と続櫓

 彦根城(彦根市)の西の丸三重櫓(やぐら)(国の重要文化財)が29日から公開される。

 櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北に位置する。3階建てで1階はすでに公開されており、2階と3階が初公開となる。高さは約11メートル。東側と北側の1階に、それぞれ続櫓(つづきやぐら)がある。

 市文化財課によると、彦根城が築城された当初は、筆頭家老の木俣土佐が毎月20日間ほど詰めていた。江戸後期の嘉永6(1853)年に実施された大修理で柱や梁(はり)などの部材の8割近くが取り換えられたという。

 櫓は、戦国武将の浅井長政の居城だった小谷城の天守を移した建物との言い伝えがあるが、昭和30年代に行われた解体修理では、その痕跡は見つからなかった。

 29日午前9時半から、公開を祝うために人気キャラクター「ひこにゃん」が登場する。

 (伊藤弘喜)

112荷主研究者:2010/05/21(金) 00:16:02

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/170337
2010年5月9日 01:10 西日本新聞
福岡城本丸の模型披露 復元目指して講演会 福岡市のNPO法人など企画

 初代福岡藩主・黒田長政が築いた福岡城(福岡市中央区)の復元を目指す市民講演会「ふくおかの歴史を見直そう! 蘇(よみがえ)れ!福岡城&黒田家の人々」が8日、同区で開かれ、本丸の模型などが披露された。

 市民団体「つくしの歴史を学ぶ会」とNPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」の共催で約130人が参加。市民団体「筑前城郭研究会」の小田原早嗣会長が制作中の福岡城の本丸模型が初めて展示され、関心を集めた。

 この日は、小田原会長がコンピューターグラフィックス映像で本丸の構造を解説。市教委職員がこれまでの復元整備の経過と展望について話した。夫と聞き入った大野城市の女性(58)は「郷土の歴史シンボルとして、福岡城の復元が進んでほしいですね」と話していた。

 福岡城復元をめぐっては3月、市と民間団体、有識者などによる官民共働勉強会が発足。「市民の会」の岡部定一郎事務局長は「市民募金につながるよう、機運を盛り上げていきたい」と参加者に呼びかけていた。

=2010/05/09付 西日本新聞朝刊=

113荷主研究者:2010/05/27(木) 22:30:38

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100516/CK2010051602000023.html
2010年5月16日 中日新聞
交通対策待ったなし 戦国ブームで活気の犬山観光

駐車待ちの車で埋まった城下町の本町通り=5月3日、犬山市犬山北古券で

 好天に恵まれた今年の大型連休期間中、犬山市の城下町や観光施設は近年にない人出でごった返した。半面、交通対策の“不行き届き”があらためて浮き彫りとなり、観光地としての弱点を露呈した。

 市観光協会によると、人出の指標となる1〜5日の国宝犬山城入場者数は2万284人。昨年同期間の入場者数1万2193人を66%上回る大幅な増加となった。天守閣登城まで1時間半待ちの日もあり、炎天下、城郭の外まで長い行列ができた。

 同協会は、城下町の観光客が増えた要因として▽最近の戦国ブームで“本物”である犬山城が注目された▽連休序盤の4月29日、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳さんが市の観光特使に任命され大きく報道された▽市と名古屋鉄道が展開している「犬山キャンペーン」の町歩き企画が浸透した−などを挙げる。

 一方で、駐車場不足に伴う渋滞、歩行者の安全確保といった以前から指摘されている交通に関する行政サイドの対応の遅れは深刻だった。

 城下町の狭い通りは一方通行が多く、駐車待ちの車であふれ、歩行者がのんびり散策するどころか、江戸情緒の“かけら”すら感じられない状況が続いた。近隣の学校やグラウンドの開放も進まず、車を止めるのに3時間以上も待たされた観光客らからは不満が噴出した。通りを生活道路にしている住民も渋滞の影響で不便を強いられた。

犬山城天守閣への登城を待つ観光客らの列=5月3日、犬山市犬山北古券で

 現場で対応した観光協会職員には「犬山市の交通対策は野放し」「歩行者の安全への考えがまったくでたらめ」「ここには『もてなしの心』がないのか」「これでは犬山城という宝が泣く」といった怒りの声が観光客から浴びせられたという。

 その職員は「特に有名観光地でもないのに、今は全国から大勢のお客さんが犬山を訪れてくれる。その人たちをがっかりさせないためには、どうすれば良いのか、もう話し合っている時間などない」と言い切った。

<記者の目>
 予測を上回る観光客にわいた連休中の犬山市。だが、ここ数年、犬山観光を取り巻く状況は劇的に変化している。特に「駐車場問題は限界を超えた」と言われて久しい。行政や観光の関係者には、変化に迅速に対応するスピード感が求められる。

 (野末幹雄)

114荷主研究者:2010/05/30(日) 10:35:01

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20100517/CK2010051702000011.html
2010年5月17日 中日新聞
入場者800万人突破 伊賀上野城、開館以来74年7カ月

福井専務理事(左)から記念の花束を受け取る安江さん一家=伊賀市上野丸之内で

 伊賀市の伊賀上野城の入場者数が16日、開館以来74年7カ月で800万人を突破した。800万人目の岐阜県白川町、会社員安江好博さん(42)一家に、城を管理する伊賀文化産業協会から記念品が贈られた。

 安江さんは長女の杏さん(7つ)ら家族4人で来場。協会の福井健二専務理事(73)から記念の花束と城のガイドブックを手渡され「偶然で驚いた。初めて来たが、岐阜の城と比べても立派で美しい」と話していた。

 伊賀上野城は伊賀を治めた大名の藤堂高虎(とうどうたかとら)が1611(慶長16)年に建造したが翌年の暴風で倒壊。1935(昭和10)年に3層3階建ての大天守閣が復興、開館された。入場者数は1989(昭和64)年に500万人を突破し、90年ごろに年間20万人以上とピークを迎えた。その後減少が続き昨年は10万五千人が訪れている。

 豊臣秀吉から高虎に贈られたと伝わる「唐冠形兜(とうかんなりかぶと)」(県有形文化財)など藤堂家ゆかりの武具を展示している。

 (河北彬光)

115荷主研究者:2010/06/16(水) 22:29:19

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/171710
2010年5月15日 00:27 西日本新聞
戦国末期の大名・龍造寺隆信 佐賀城内に居城遺構

初確認された戦国大名・龍造寺氏の居城「村中城」の建物跡。白いマークがついているのが掘立柱の柱穴=14日午後、佐賀市城内1丁目

 佐賀市教委は14日、佐賀藩鍋島家の居城・佐賀城の前身で、戦国大名龍造寺(りゅうぞうじ)隆信(1529−84)が拠点とした中世の平城(ひらじろ)「村中(むらなか)城」の関連建物遺構を、佐賀市城内1丁目で初確認したと発表した。佐賀城跡周辺は佐賀県が公園整備を進めているが、村中城の遺構は痕跡すら見つかっていなかった。同市教委は「九州で一大勢力を誇った龍造寺氏の実像に迫る重要な発見」としている。

 遺構が確認されたのは、佐賀城西堀に架かる西の御門橋付近の一角。約350平方メートルの調査区画から、東西に整然と並ぶ大型掘立柱(ほったてばしら)建物2棟の25の柱穴が見つかった。柱穴は江戸期の地層から約80センチ掘り下げた土中から、16世紀後半に製造された中国・景徳鎮や朝鮮半島産の磁器などと一緒に出土したことから、村中城関連遺構と判明した。

 同市教委によると、柱穴の直径は55−65センチで、当時、佐賀平野にあった建物では群を抜く規模。ただ、村中城に関する絵図や文書はないため建物の名称や用途は不明で、館や寺院など重要施設であることが推定されるという。

 龍造寺隆信は戦国末期の16世紀後半、薩摩の島津氏、豊後の大友氏と九州を三分する大名に成長。最盛期は肥前から筑後、肥後、筑前、豊前、壱岐・対馬に勢力を伸ばし、「五州二島の太守」と号した。隆信は島津氏との戦いに敗れ戦死するが、領国を継承した鍋島直茂・勝茂父子が江戸期の1608−11年、村中城を拡張。巨大な堀を有する佐賀城に整備した。

 丸山雍成(やすなり)・九大名誉教授(日本中近世史)は「幕末維新期に近代日本形成の一翼を担った佐賀藩のルーツを知る上でも、村中城関連遺構の確認は意義深い」と話している。

=2010/05/15付 西日本新聞朝刊=

116荷主研究者:2010/06/20(日) 14:54:04

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201006010079.html
'10/6/1 中国新聞
戦国の山城跡、住民が再整備
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 庄原市口和町大月の大月自治会が、戦国時代の山城だった黒岩城跡を再整備した。あずまやを設け、登山道には手すりなどを取り付けた。建設中の中国横断自動車道尾道松江線口和インターチェンジ(IC)=仮称=完成を見込み、通行客にも町に立ち寄ってもらう期待を込めている。

 黒岩山(456メートル)に築かれた山城跡は市史跡。かつて尼子氏と毛利氏の争いのときの最前線に当たり、領主は毛利方の和泉氏だったと伝えられる。

 頂上にあった旧神社(約10平方メートル)をあずまやに改修し、ベンチなどを置いた。南ルートと東ルートがある登山道(いずれも約150メートル)には、安心して訪れられるよう、手すりやプラスチック製の階段を設けた。

 ふもとには約500平方メートルの公園を整備し、トイレも改修した。桜とモミジの苗木計100本も植樹した。

【写真説明】山頂にあった旧金比羅神社を改装したあずまや

117荷主研究者:2010/06/20(日) 14:57:49

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20100602/CK2010060202000012.html
2010年6月2日 中日新聞
岐阜公園で発掘始まる 信長の居館跡

メーン通路の構造解明に向けて階段のコンクリートをはがす業者ら=岐阜市の岐阜公園で

 戦国武将の織田信長が、客人をもてなしたり政務を執ったりするための「居館」を構えたと伝わる岐阜市の岐阜公園で1日、本年度の発掘調査が始まった。屋外のメーン通路とみられる上り口の構造や、昨年度の調査で見つかった庭園遺構などの全容解明を目指す。

 市教育委員会が居館跡の発掘調査を始めたのは1984年で、現在は2007年度から始まった4次調査の4年目。本年度は、金華山ロープウエーの南東2地区約260平方メートルを掘り進める。発掘事業費は約4064万円。

 この一帯は、迎賓館や宣教師ルイス・フロイスが書き記した高層の建物、茶室などがあった“もてなしのエリア”とみられている。

 6〜9月は、迎賓館のように要人を接待する建物があったとされる明治大帝像の西側地区を重点的に調査。幅約4メートル、全長約30メートルとみられるメーン通路や、門の構造などを明らかにする。

 10〜3月は、昨年度の調査で、池や水溜めの石組みなど園池遺構が見つかった槻谷(けやきだに)の奥をさらに発掘。高層の建物の一部とみられる焼けた石垣の周囲の調査も進める。

 信長は1567年から9年間、岐阜城に住み、天下統一を目指した。城は1600年、関ケ原の戦いの前哨戦で、孫の秀信が徳川家康の東軍に敵対したため池田輝政らに攻められ落城。その際、現在の岐阜公園一帯に広がっていた居館も焼き払われたとみられる。

 発掘現場は9月まで、柵越しに常時公開されている。市教委社会教育課文化財グループの井川祥子さんは「ロープウエーの近くでやっているので、ぜひ見に来て、歴史に思いをはせてほしい」と話している。

 (森村陽子)

118荷主研究者:2010/07/06(火) 22:44:33

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100616/CK2010061602000006.html
2010年6月16日 中日新聞
110年前にも修復の記録 改修中の飯田城「赤門」

屋根材の一部から見つかった板書

 飯田市追手町の飯田合同庁舎敷地内で改修工事中の飯田城桜丸御門、通称「赤門」の屋根から、110年前に修復をしたと見られる年号や担当した大工の名前が書かれた板書が見つかった。この時期の改修の記録は確認されていないという。19日には、改修工事の一般見学会が開かれる。

 板書が見つかったのは5月下旬ごろで、瓦などをはずしたところ、屋根材の棟札に「明治33年8月3日 大工 筒井…」などと書かれていた。大工の名前はもう一人書いてあった。

 下伊那地方事務所によると、赤門は、1985(昭和60)年に、土台を中心に改修されたほか、40(昭和15)年にも改修された記録はあるが、それ以前については不明だった。

 板書が見つかった付近の屋根の構造を見ると、それ以前とは違った方法で改修されていると見られ、今後、元の状態に戻すかどうかも検討していく。

改修工事が進められている赤門=いずれも飯田市の飯田合同庁舎敷地内で

 今回の改修では屋根瓦を取り換えるほか、赤いベンガラを塗る工事が進められる。板書した屋根材も何らかの形で保存をしていく。

 工事の見学会は19日午後1時30分から同4時まで、現地で工事業者などから工事の状況の説明や当時の建築などについて説明される。

 (吉田幸雄)

119荷主研究者:2010/07/19(月) 21:17:34

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20100628001.htm
2010年6月28日 北國新聞
橋爪門一の門 しばし閉鎖 二の門復元へ埋文調査開始 金沢城公園

橋爪門二の門の復元工事に合わせて閉鎖された一の門=28日午前8時半、金沢城公園

 金沢城公園で28日、橋爪門二の門の復元に向けた石川県の埋蔵文化財調査が始まり、一の門の扉が閉鎖された。約2年間かけて埋文調査を行い、2012(平成24)年度の本体着工を目指す。二の門の完成は14年度を見込んでおり、同年度末の北陸新幹線金沢開業に向けて金沢城の風格に厚みが増す。

 埋文調査の対象範囲は、橋爪門続櫓(やぐら)の周辺約1千平方メートルで、一の門から二の丸広場につながる園路の一部は、橋爪門二の門が完成する14年度まで、通行が禁止される。

 この日は、県公園緑地課の職員2人が左右に開いた一の門の扉を内側からゆっくりと閉め、かんぬきを通して閉鎖した。一の門は01年9月に開門式が行われ、同年の全国都市緑化フェアなどイベント時を除き、常時開放されていた。長期間の閉鎖は開門以来初めてとなる。

 県は排水路の付け替え工事などを終えた上で、10月中に鶴の丸広場を経由して二の丸広場につながる迂回(うかい)路を設置する。

 橋爪門は二の丸御殿の入り口に位置した正門で、明治期の火災で焼失した。石川門、今年4月に復元された河北門とともに「金沢城三御門」の一つに数えられる。一の門と二の門、土塀で構成される枡形門で、一の門は菱(ひし)櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とともに01年7月に復元された。

120荷主研究者:2010/08/12(木) 21:24:07

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/182862
2010年7月7日 00:05 西日本新聞
中津城 民間売却へ 市と所有者 評価額で折り合わず

民間に売り出されることになった中津城の天守閣(中央) 大分県中津市の中津城の天守閣を所有する中津勧業(同市)が、市と進めてきた天守閣と敷地の売却交渉を打ち切り、近く民間に売りに出すことが、6日分かった。市と同社の双方が提示した評価額の開きが大きく、交渉が折り合わなかったという。

 中津城は、九州最古の近世城郭で日本三大水城の一つとされる。1877年の西南戦争で焼き打ちに遭うなどして、石垣だけが残った。鉄筋5階建ての天守閣は1964年、最後の城主だった奥平家の子孫が中心になり本丸跡に建設。現在、奥平政幸氏が代表取締役を務める中津勧業が建物を、代表役員を務める宗教法人「奥平神社」が敷地(2175平方メートル)を所有している。

 2007年7月に中津勧業側が突然、城と敷地を3億2千万円で売り出すという広告を出し、「市のシンボルであり、観光資源として必要」とする市と同年8月から売却交渉を進めてきた。

 関係者によると、昨年秋に双方が不動産鑑定したところ、市の評価額は1億3900万円だったが、中津勧業は1億9600万円だった。今年に入り、同社は1億5000万円まで譲歩したが、市は「1億3900万円しか出せない」と譲らず6月下旬、耐震診断し正確な評価額を出したいと申し入れた。

 同社は、耐震診断の結果、さらに減額される可能性があるとして断り、結局、交渉は決裂した。同社は、今月中に不動産会社を通してインターネット上に広告を出すという。

 奥平氏は「市は天守閣の文化的な価値や観光面での経済価値を認めなかった。市民のために市に買ってほしかったが、残念だ」と話している。

=2010/07/07付 西日本新聞朝刊=

121荷主研究者@新潟遠征中:2010/08/28(土) 10:00:05
なまこ壁が印象的で昔から好きだった新発田城についでに立ち寄る。しっかりと整備保存されボランティアガイドも常駐し、非常に好感の持てる城跡である。

122荷主研究者:2010/08/29(日) 13:06:10

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100821/CK2010082102000126.html
2010年8月21日 中日新聞
松波城跡庭園 構築 16世紀前半か 能登町教委調査で限定 火災で消失濃厚

16世紀前半の構築と推定される庭園跡の枯れ山水遺構=能登町松波で

 平らな小石を敷きつめて水の流れを表現した全国でも珍しい枯れ山水遺構のある松波城跡庭園跡(能登町)を発掘調査していた同町教委は二十日、庭園が十六世紀前半に構築され、同後半以降に消失した可能性が高いことが分かったと発表した。庭園は火災による落城とともに消失したと推測できるという。

 町教委によると、築造年代についてはこれまで「十五世紀後半から十六世紀代」と推定されていた。二〇〇九〜一〇年度の調査で新たに出土した珠洲焼や越前焼の破片などを調べた結果、十六世紀前半に絞られたという。

 さらに、枯れ山水遺構に隣接する建物跡の礎石が熱で赤く焼けていることから、町教委では建物が火災にあったと推定。意図的に庭園のあった場所を埋めた形跡もあり、地層などから十六世紀後半以降に庭園が消失したとみられる。

 火災の時期や原因は不明だが、文献によると一五七七(天正五)年に松波城が落城したとされており、消失時期ともほぼ一致しているという。

 庭園のある平たん面の段階的な造成方法、枯れ山水を構築する景石や平らな小石の配置や種類、建物の規模なども補足調査で判明。庭園の全容がほぼ明らかになり、〇六年度から進めてきた庭園跡の現場調査は今回で終了した。今後は現場から採取した炭化物で年代を詳しく測定する。また、金沢学院大の東四柳史明教授が文献資料を調査している。庭園跡の現地説明会は二十二日午後一時半から。問い合わせは真脇遺跡縄文館=電0768(62)4800=へ。 (中平雄大)

 ◇松波城跡庭園跡◇ 七尾城主畠山義統の三男義智が1474年に松波城を築城し、約100年続いたとされる。庭園跡は1962(昭和37)年に公園整備中に発見され、80年の発掘調査で枯れ山水遺構などが明らかになった。県指定史跡。

123荷主研究者:2010/08/29(日) 13:24:27

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201008170081.html
'10/8/17 中国新聞
城に隣接、和の新空間 松江
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 来年3月にオープンする松江市殿町の松江歴史館。7月末に本館工事が終了し、全容がほぼ姿を現した。「お城の見える博物館」をテーマに、松江城に隣接する絶好のロケーション。新たな観光、交流、歴史研究の拠点になりそうだ。

 開府400年の中心事業で、総事業費約39億円、敷地面積は約5500平方メートル。江戸時代の古文書や絵図などを展示する。

 武家屋敷をイメージした外観で、2007年に建設地から出土した江戸時代後期の瓦を再現し、使用している。和を感じてほしいと本館は畳敷き。中庭の日本庭園を眺められる「暮らしの大広間」は、くつろぎスペースとしてや、茶会、華道のイベントなど多目的に活用できる。

 耐火設備の収蔵庫3カ所計690平方メートルには、市が分庁舎や松江城などで管理している江戸時代の史料約2万点を選定し保管、研究を進めていく。

【写真説明】<上>松江城天守閣(手前)を見上げる場所に建設された松江歴史館(奥)<下>郷土芸能を催したり、喫茶店のテラスとして活用する「濡れ縁」

124荷主研究者:2010/09/27(月) 00:12:38

http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12841299300988&elem=kennai
2010年9月11日(土)茨城新聞
水戸城 二の丸御殿跡初調査

石組み用排水施設出土

【写真説明】初めての二の丸御殿跡調査により見つかった凝灰岩を使った石組みの用排水施設跡=水戸市三の丸

県教育財団は10日、水戸市三の丸の水戸城二の丸御殿跡の発掘調査結果を発表した。水戸徳川家の居城として知られる水戸城の中枢建物である二の丸御殿跡の調査は今回が初めて。凝灰岩を使った石組みの用排水施設跡や、井戸のような遺構などが見つかった。同財団は「初めての二の丸御殿跡の調査で、水戸城の全体像を探るきっかけになる」と話す。

調査地は県立水戸三高の敷地内で、同校図書館改築工事に伴い、6月から9月までの予定で調査が実施されている。調査面積は270平方メートル。

今回の調査では、江戸時代中期から幕末にかけての整地層を8面確認。用排水施設を持つ二の丸御殿の立っていた時代の層や、焼けて黒ずんだ土の見える1872年の建物焼失の時期の層、その後建てられた師範学校の土管などが残る層など。

ほとんどの層に同じ向き、並びで排水施設が張り巡らされている。のみで削った痕跡のあるふた付きの石樋(いしどい)や土管のほか、大量の瓦や古銭、常滑焼の陶器の破片などが見つかった。

同財団は「幕末以前から何度も建物の改修が行われ、以前の遺構を埋め、そこに同じ軸を利用して新たに建物を建てていたことが分かる。当時の基礎工事や排水施設の構築方法の一部を垣間見ることができる」と話す。

125荷主研究者:2010/10/03(日) 21:25:23

http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12845583226670
2010年9月16日(木)茨城新聞
土浦城櫓門の太鼓1770年製、国内3番目の古さ

墨書で判明

【写真説明】太鼓内部の墨書(左側2行)で製作年が1770年と判明=土浦市教委提供

江戸時代の土浦藩で城下の藩士、領民に朝夕の時刻を告げた、土浦市指定文化財「土浦城櫓(やぐら)門の太鼓」(刻(とき)の太鼓)が1770(明和7)年に製作されたことが、太鼓内部の墨書から分かった。市教委によると、現存する「刻の太鼓」で製作年が判明している中で3番目に古く、「歴史遺産としての価値を高める新発見」という。

市教委文化課によると、太鼓は胴部の漆がはがれ、革の張りも不均一になったのを受けて、現在の所有者の八坂神社(同市真鍋5丁目、鈴木健一宮司)が都内の業者に依頼して今年7月から修復。その際に、革を外して内部を点検したところ、墨書が多数見つかり、それにより製作年をはじめ、江戸・浅草の太鼓師が製作したこと、江戸時代に8回、大正時代に1回修理されたこと-などが判明した。

1770年の土浦藩主は土屋篤直。幕府では2年後に田沼意次が老中に就任している。製作年が明らかなものの中では、柏原(かいばら)藩(現兵庫県丹波市)の1668(寛文8)年、丸亀藩(現香川県丸亀市)の1751(寛延4)年に次ぐ古さという。

市教委文化課の萩谷良太学芸員は「修理の回数、間隔などから日常的に使われていたことが分かる貴重な発見」と評価している。

10月末に修復が終わる土浦城櫓門の太鼓は、11月3日に開かれる市制施行70周年記念式典で、「刻の太鼓の会」(須田義之会長)のバチさばきで240年の歴史の音を響かせる。

126荷主研究者:2010/10/03(日) 22:12:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009180042.html
'10/9/18 中国新聞
広島城から移築?土蔵復元へ
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ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20100918004201.jpg

 広島城から移築され、貴重な建築物とみられながら取り壊しの危機にあった江戸時代後期の土蔵(広島市東区愛宕町)を、修道中・高(中区)が譲り受ける。同校の前身で、かつて城内にあった学問所の蔵の可能性が浮上。調査のうえ、復元を検討する。

 土蔵は、間口3・8メートル、奥行き5・7メートルの2階建て。老朽化のため取り壊し、マンション建設の計画がある。15年近く独自に土蔵を調べてきた西区の建築士加藤早苗さん(63)が、江戸期の広島城の図面に同じ寸法の学問所の蔵を確認。同校関係者に伝え、保存の道が開けた。

 土蔵を所有する東区の重谷昌江さん(73)方には「明治期に城の蔵を譲り受けた」との言い伝えが残る。加藤さんは、広島大大学院の三浦正幸教授(日本建築史)と調べ、梁(はり)の作り具合などから「江戸後期、城内にあった蔵にほぼ間違いない」とみている。

 同校は土蔵を無償で譲り受け、市などの協力を得て近く解体、調査する。柱や瓦は保管し、学問所の蔵と同一かなど調査結果を見て同校敷地内への復元を具体化させる方針だ。

【写真説明】広島城内にあったとされる土蔵。修道中・高が保存に乗り出す(広島市東区愛宕町)

127荷主研究者:2010/10/23(土) 12:27:17

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20101009/CK2010100902000151.html
2010年10月9日 中日新聞
観光目玉に城郭群 浜松市が国史跡の指定を目指す

 天竜川流域に点在する戦国時代の代表的な城跡を、浜松市が全国発信に乗り出す。徳川氏と武田氏が争奪戦を演じた城郭群として、2011年度から発掘や文献の調査をさらに進め、散策道などの整備も急ぐ。14年度をめどに国史跡の包括的な指定を目指しており、観光誘客の目玉とする狙いだ。

 売り出しを図る城跡は浜松城(中区)大平城(浜北区)二俣城、鳥羽山城、高根城(天竜区)など10カ所。

 平山城の浜松城を含め地形を生かした山城で、武田氏が天竜川沿いに南進し、徳川氏と攻防を繰り広げた。武田氏の滅亡後は放置されたケースが多く、堀や土塁などが良好な状態で残るという。

 市は11年秋開催の全国山城サミットを誘致しており、その後も持続的に魅力を発信しようと振興策の検討を重ねている。

 国史跡は駿府城(静岡市)や名古屋城(名古屋市)クラスを除くと単独では難しく、包括的な指定を目指す構想が浮上した。

 市は「特定水系の範囲で城跡が指定されれば全国的にも珍しい」(文化財課)と意気込む。史跡整備などで国庫補助を受けられる利点もあり、県境をまたいだ三遠南信地域を結ぶ歴史資源としてアピールする考えだ。

128荷主研究者:2010/10/23(土) 14:52:05

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/201536
2010年10月4日 13:45 西日本新聞
中津城の売却先決定 埼玉の福祉会社に5000万円

売却が決まった中津城天守閣(左側)とやぐら=大分県中津市

 戦国大名の黒田如水(じょすい)が手掛けた大分県中津市の中津城を復元した天守閣とやぐらが4日、埼玉県の福祉事業会社「千雅(ちが)」に売却されることが決まった。天守閣を所有する「中津勧業」(同市)は、引き続き歴史博物館として運営することを条件に5千万円で売却すると発表。この日、同市で開かれた中津勧業の株主総会で承認され、13日に千雅側に引き渡す。

 中津城は、黒田如水が1588年築城を始めた九州最古の近世城郭。1871年に廃城、77年には西南戦争で焼き打ちに遭い、石垣だけが残った。鉄筋5階建ての天守閣と木造2階建てのやぐらは1964年、旧藩主・奥平家の子孫が中心となり本丸跡に建設した。

 施設は現在、観光博物館として一般公開され、武具や絵画などを展示している。売却後、展示物は、奥平家の子孫である中津勧業の奥平政幸社長が有償で貸し出す方向で調整している。

 中津勧業は2007年7月、施設の維持管理が困難になったとして、敷地(2175平方メートル)を含め3億2000万円で売り出した。中津市が購入に名乗りを上げたが、双方の評価額に開きがあり、今年6月に交渉決裂。民間の売却先を探していた。

 中津勧業によると、国内外の5社から購入の打診があったが、博物館として使用継続を確約したことが決め手となり、千雅への売却がまとまった。敷地は、奥平社長が代表役員を務める宗教法人が所有を続けるという。

=2010/10/04付 西日本新聞夕刊=

129荷主研究者:2010/11/08(月) 22:55:26

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/10/20101027t15028.htm
2010年10月27日水曜日 河北新報
桃生城跡、荒れ放題 市民「歴史的価値泣く」

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雑草が生い茂る桃生城跡

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桃生城跡の歴史などを説明する立て看板と案内板。右の山道を20メートルほど進むと、政庁跡にたどり着く

 古代多賀城の関連遺跡で、国の史跡指定を目指す機運もあった「桃生城跡」(宮城県石巻市)が、雑草が生い茂る荒れた状態で放置されている。歴史ファンや見物客が訪れており、市民からは「歴史的価値のある遺跡なのにもったいない。せめて政庁跡だけでも草を刈って、後世に残す工夫をしてほしい」との声が上がっている。

 政庁跡は石巻市飯野にあり、面積約4ヘクタール。現地にたどり着くまでの山道には案内板や桃生城の歴史を示す看板があり、誰でも立ち入れる。

 だが政庁跡には人の背丈を超す雑草が一面に生い茂り、わずかな踏み跡の先に「桃生城跡」と書かれた看板があるだけで、文化財の面影はない。

 2001年に終了した県の発掘調査の後、地元民がボランティアで草刈りをしていたが、高齢化が進んだこともあって、徐々に荒廃していったらしい。

 近くに住む女性(76)は「最近も埼玉や青森から見学に来た人が残念そうに引き返すのを見た。地元の誇りなのに、申し訳なく思う」と話す。

 石巻市教委歴史文化資料展示施設整備対策室によると、桃生城跡は市や県などの史跡には指定されておらず、扱いは一般埋蔵文化財。県や市による管理もされていないという。

 担当者は「一般埋蔵文化財はほかにも数多くあり、桃生城跡だけを特別扱いして管理することはできない」と説明する。

 桃生城跡は県の調査で規模が判明し、国の史跡指定を目指す動きもあったが、具体化はしなかった。土地の多くが私有地で、地権者から許可を得る手続きが煩雑だという事情が背景にあるとの指摘もある。

 東北大埋蔵文化財調査室の藤沢敦特任准教授は「中央国家の北進政策を考える上で非常に価値が高く、国史跡になり得る価値は十分ある。あらためて国の指定を目指すなど、行政として今後の活用策を検討してもいいのではないか」と話している。

[桃生城跡]1974、75年と92〜2001年、県多賀城跡調査研究所が計10回の発掘調査を実施し、政庁と城柵の規模や位置関係などが明らかになった。石巻市の旧桃生町と旧河北町地域にまたがり、規模は東西800メートル、南北650メートル。城は、北進政策を進める中央の律令(りつりょう)国家が、桃生・牡鹿地方(石巻市)を支配する拠点として建設した。完成は760年。続日本紀によると、城は774年、牡鹿郡などの蝦夷(えみし)によって焼き打ちされ、蝦夷が律令国家に反旗を翻した象徴とされる。

130荷主研究者:2010/11/14(日) 12:39:23

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20101103/201011031600_12057.shtml
2010年11月03日16:00 岐阜新聞
金華山と岐阜城、国史跡に 今月中旬にも指定

国史跡指定を受ける見込みとなった岐阜城と金華山一帯。観光客増加などが期待される=昨年11月、本社チャーターヘリから撮影

 岐阜市指定史跡の金華山と岐阜城が、国史跡に指定される見込みであることが2日、分かった。市のシンボルとして広く親しまれている史跡が国の財産と認められることで、観光資源としての魅力アップなどに期待が集まりそうだ。

 関係者によると、既に国の文化審議会での協議を経ており、今月中旬にも指定を受ける見通し。市は今年1月、「中世から近世への転換期に当たる日本史上重要な城」などとして国に指定を申請していた。

 国史跡となる見込みなのは、岐阜城と金華山を合わせた「岐阜城跡」。指定が金華山を含む広範にわたるのは、城だけではなく、急しゅんな地形を含めて山全体が城として機能していたためで、市の申請段階で範囲は計209ヘクタールとなる。

 岐阜市内の国指定史跡は、加納城跡、琴塚古墳、老洞朝倉須恵器窯跡に続き4カ所目。

 岐阜城跡は1957(昭和32)年に市指定史跡となり、市は84年からふもとの信長居館跡を中心に発掘調査を続けてきた。調査では庭園跡や門の礎石、石垣など、織田信長が天下統一の拠点としたとみられる居館の史跡が多数見つかり、山城としての全体像の把握が進んでいる。

 市は国史跡への指定を契機に、さらなる観光客の誘客などを目指す。金華山登山道の整備などを行っている市内のボランティア団体「十時会」の藤井義康代表は「岐阜の財産が国の宝となることで、多くの人の関心が高まり、周辺の保護活動にも追い風になる。誇らしく思う」と話している。

【岐阜城】

 金華山(329メートル)山頂にある、織田信長の天下統一の出発点となった城。1201(建仁元)年〜03年に二階堂行政が最初に砦(とりで)を築いたと伝えられている。斎藤道三が造ったとされる稲葉山城を織田信長が1567(永禄10)年に攻略し、岐阜城を置いた。1600(慶長5)年の関ケ原の合戦の前哨戦で落城して以後は廃城だったが、1910(明治43)年に復興、43年に失火で消失した。現在の城は56年に再建された。


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