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鷹目遊里史板
638
:
鷹目
:2011/02/05(土) 01:00:49
最中
そうそう、枚方でレッドさんと別れて、橋本で今里さんと合流。その後、中書島でしたっけ。
あの時、風邪で腹がやばかったんですよね、私w。
で、あれは太夫の・・・でしたっけ?
639
:
新今里X
:2011/02/05(土) 01:34:47
ウホッ!アレの最中
アレの最中は奈良か篠山では?
枚方・橋本・中書島のときの微妙な内容のDVDはレッドさんの手土産だったと…
640
:
鷹目
:2011/02/05(土) 01:38:58
アレ?
DVD?
641
:
T-レッド
:2011/02/05(土) 01:41:27
何のDVD?
確か、"●屋を探せツアー"というサブタイトルが付いた散策だったと思います。
参加者は当初5人で、夕凪さんやtadaさんが参加されてたと思います。
仕事の都合で私は先に帰りましたが、その後、皆さんは『王〇』に行かれたとか?
まだ旅館『玉光』が残っていた時でした。
廃業された『〇湯』、どうなったんでしょうか・・・
642
:
新今里X
:2011/02/05(土) 02:02:50
わんわん?
昨日お風呂屋さんの建物はありましたよ。
あの日ぼくが合流したのはやをりきの前やったと思います。
643
:
鷹目
:2011/02/05(土) 02:26:37
回り回って
姐さんとこ行ったやつですな。
644
:
新今里X
:2011/02/07(月) 15:14:59
枚方櫻新地協同組合
大和屋・政乃屋・竹乃屋・玉屋・玉光・鶴の屋・第二竹の屋・玉房・淀川・津の國屋・玉よし・上田屋・奥村屋・大梅・大芳・新大和屋・若松・第三玉房・奥野・住吉屋・?野・山下・大喜久・玉?・松和・春の家・馬野・松月・蔦屋・第二玉房・?屋 計31名 昭和28年12月
つたない記憶で間違いもあるかもしれませんが、以前にネット上のどこかで読んだ記憶では、蔦屋さんは枚方公園菊人形の造園の報奨金をもとに櫻新地で貸座敷を始められたそうで、もともとは現在の東大阪で造園業をされてたという話でした。
枚方の宿場の流れをくむ組合員さんが多いなか比較的新参だったために後ろの方の掲載なのかなぁなどと想像しています。
それにしても、造園・貸座敷・レンタルビデオと娯楽に関してすごく商才のあるお家柄のようですね。
645
:
膳所裏
:2011/02/08(火) 16:09:13
岐阜 手力園と国際園
先日、加藤政洋さんの“敗戦と赤線”に書かれている岐阜の手力園を訪れました。
名鉄の手力(てじから)で下車、踏み切りを渡って10分ほどで定規で線を引いたような区画(手力14〜36番地)に出会いました。本書によれば大戦中、柳ヶ瀬を当局に渡す形で、金津園の業者が移った為、時局をにらんで一般住宅への転用も見込んだため所謂妓楼建築はしなかったという経緯があるようです。
成程、遊廓跡と思える意匠は何もなく、それでも近所のひとに長屋と表現して教えて頂いた当時の建物が7〜8棟ありました。
手力園は娼妓さんだけの街で芸者さんはいなかったようです。
その後矢張り、同書に詳しい説明がある、同じような経緯で短い花をさかせた駅前の国際園を探したのですがまったく場所が分りませんでした。
現在の高砂町とのことで1丁目から4丁目までくまなく探し、地元の人にも尋ねたのですが全く分りませんでした。
ご存知の方いらっしゃったら情報お願いします。
646
:
:2011/02/08(火) 21:19:01
国際園について
膳所裏さんへ。国際園は,JR岐阜駅のすぐ北側(岐阜シティタワー43から北西)の西問屋町,花園町,日ノ本町の辺りだと思います。以前,歩いていてそのような雰囲気を感じました。
647
:
夕凪
:2011/02/08(火) 21:48:04
疎開移転した「手力」を訪ねる
ご存知かもしれませんが、こちらのサイトも参考になるかと思います。
ttp://tokaimanzoku.blog28.fc2.com/blog-entry-5.html
648
:
膳所裏
:2011/02/09(水) 17:44:44
園、荘、連
彷徨人さん、夕凪さん、早速情報頂き感謝しています。
近々岐阜は情報を元に再訪しようと思っています。
手力園には見るべき物は無かったのですが、園内の理容店に、赤線跡を巡るにも載っていた三国の貸し座敷の玄関のチューリップと良く似た彫りがあり郷愁をそそります。
それにしても東海地区の園、荘、連は面白いですね。
田原の共楽園にも二階の出窓一面に月や梅や雲やら一面の彫り物の中にチューリップが有る当時の建物がありますし、津島の新天地にも細かいタイルの円柱を含むタイルだらけ“昭和”の字を掲げた、素人さんのお宅では考えられない建物があったりしますし・・・色々興味はつきません。
649
:
新今里X
:2011/02/10(木) 15:21:08
京都にも
五條楽園とか寛■園とかありますね。(■は木偏に遊)
ちょっと違うか…(笑)
650
:
ぼわぞー
:2011/02/10(木) 16:29:09
岐阜駅
>膳所裏さま
岐阜駅北側エリアは繊維問屋街もあっておもしろいですね。
ハルピン会館などの名称が、岐阜の戦後の歴史を思わせます。
昭和40年〜50年頃は岐阜は日本一の繊維街であったそうですから、
歓楽街もたいそう賑わったことでしょう。
私もかつて出張帰りに駅近くの第一浴場で汗を流したことを思い出しました。
651
:
膳所裏
:2011/02/10(木) 19:04:17
ハルピン会館
ぼわぞーさま、
確か戦後に大陸からの引き上げ者が金神社辺りで通称ハルピン街という闇市に青線を形成したのですが、時局も落ちつき、何時までも不当占拠と云うわけにもいかず、業者が市長を抱きこんで名鉄車庫跡に土地をもとめたのが国際園だったいうのが“敗戦と赤線”での説明だったと思います。
それにしてもハルピン会館てちょっとすごく無いですか?
実は、岐阜で手力園、国際園の次に訪れたのが柳ヶ瀬近くの高岩町で、昨年18年ぶりに舞妓さんが店出しをされたと何かの記事を読んだからです。
ビルの一室ながら岐阜検番の看板も上がり、年季の入ったお茶屋風の建物もあり、それなりに花街の雰囲気を醸し出しているのですが、驚いたのは現役のお茶屋さんと思われるお店に、鍾馗と先客万来の注連縄が有ったことです。
鍾馗さんは今まで祇園や嶋原中心の京都市、橋本、今里、住吉新地、元院林と三重の旭遊廓で確認したのですが岐阜では始めてです。
千客万来と笑門の注連縄を年中掲げる風習は祇園と三重県だけだと聞いていたのですがまさか岐阜でお目にかかるとは思いもしませんでした。
652
:
新今里X
:2011/02/10(木) 19:16:46
線香代の貼り紙のある
有楽荘も年中注連縄したような…
653
:
ぼわぞー
:2011/02/10(木) 19:49:59
ハルピンと橋本
>膳所裏さま
確かにハルピン会館の看板を見たときは「なんで岐阜でハルピン?」と思いました。
岐阜検番も興味深いですね。
次回は岐阜遠征でいかがでしょうか。>鷹目さん
すみません、ちと話はそれますが、遊里史関連情報をご紹介しておきます。
***
京阪電車を利用される方にはおなじみの、
水津俊和さんの作品展が今年も開催されます。
駅貼りポスターでは橋本遊廓の絵が大きく扱われており興味津々。
「京阪沿線の建築物50選 水津俊和展」
場所:朝日新聞大阪本社アサコムホール
入場無料
日時:2月21日〜3月4日 10時〜18時(最終日は15時まで)
休館:土・日曜
http://www.okeihan.net/nakanoshima/
(サイトの右下に紹介文あり)
この方、京阪の社員さんやったんですね。初めて知りました。
橋本の風情は画家の絵ごころを誘うのか、
若手の日本画家の作品展でも歌舞練場や妓楼を
描いたものを見たことがあります。私も久々に訪れたくなりました。
654
:
楽天地
:2011/02/10(木) 23:57:50
(無題)
膳所裏さんへ
・・・加藤さんの本を読んでいないので、重複している部分もあるかもしれませんが
現在わかっている範囲で・・・
国際園はもともと別の場所にあったものが、昭和31年に移転され、移転後は実質1年
くらいしか営業をしていないそうです。その後、敷地内に従業婦がポッポ横丁という
おでん屋街をつくったものの、これもうまくいかなかったようです。
昭和32年時点で、赤線として金津園、青線として国際園、共栄街、ハルピン街、手力園
の4か所があったみたいです。
655
:
膳所裏
:2011/02/11(金) 16:03:49
年中注連縄
新今里Xさま
え〜有楽荘ですか・・・今まで祇園以外では古市、新古市、二見、関宿、つまり伊勢街道か東海道でしか見たこと無く、私なりにかつて尾張宗春公が名古屋に伊勢古市、祇園、大阪新町の大楼を集めた時、三重と祇園が有機的に結びついたと妄想していたのですが・・・都をどりのルーツも古市の亀の子おどりに有りますしね・・・岐阜までは中山道を通ってと勝手に辻褄をあわせたのですが豊橋だと説明つきません。
見なかった事にして頂けませんでしょうか?
ぼわぞーさま
橋本の歌舞錬場は廓の規模の割りに立派なのは驚かせられます。芸本位の町をめざした涙ぐましい努力の結晶だと思います。
以前近所の人に聞いた時も、京の花街にもひけを取らない建築と大変誇りに思っていらしゃいました。
中には医療施設もあったらしく、又当然舞台もあるはずで是非中を拝見したいと思いました。
現在は大阪の建設業者の資材置き場になっているとの事、
向のお店の人に尋ねたら、「中を見てもいいでしょう」と勝手に許可を出されたのですがやっぱり遠慮しました。
楽天地さま
ひょっとすると高砂町は候補にあがっただけで金神社からハルピン会館のあたりに移転したのかもしれませんね。
国際園は色んな国からの引き上げ者が集まったのが名前の由来だそうです。
いずれにせよ岐阜は面白い町ですね。昔岐阜の近鉄百貨店を訪れた時、各階段の踊り場に痰壺の様なポットがあり、一体何を捨てるのかと驚いた記憶があります。
656
:
新今里X
:2011/02/11(金) 18:01:49
逆方向
有楽荘はシンプルな一本の注連縄で大きさや全体の造りが1軒1軒微妙に違ってたりします。
何度も見かけてますので年中飾ってるようです。
これはこの地域だけの風習かも知れません。
豊橋の遊里は吉田宿が発祥ですが東海道とはいえ逆方向ですから。
ところで、千客万来や笑門の注連縄って京都で売ってるんでしょうか?
657
:
楽天地
:2011/02/12(土) 00:02:51
岐阜
>膳所裏さま
当時の資料をみると、移転場所は福住公園の敷地内とされていますが線路からも近く
やはり加藤さんの本の記述通り元々は名鉄電車の車庫だったのかもしれません。
公園内は露天商が占拠しており、それで移転が遅れたようです。
国際園の由来はそういうことだったのですね。
さっそく加藤さんの本注文してみます。ありがとうございました。
658
:
膳所裏
:2011/02/12(土) 19:15:01
夏でも注連縄
新今里X様
旧街道と遊里の関係も面白いですね。先日、御油〜赤坂間(五十三次で一番短い、徒歩15分ぐらい)を歩いたのですが、御油宿に飯盛女の墓が4基(これに纏わる涙、涙の話がありました。)、赤坂宿にも大橋屋さん(当時は鯉屋)という江戸時代から続く飯盛旅籠があり、現在もほぼ当時の姿のまま宿として営業されています。
僅かの見学料で2階(当時は飯盛女の部屋?)も見せてもらいました。
庄野、石薬寺間(2番目に短い、徒歩40分程)も広重の浮世絵に思いを馳せ歩きましたが、たまたま石薬寺で伺ったお宅が、榮楼と名乗った昔5軒あった妓楼うちの1軒で、ご主人によれば当時の建物は雨漏りが激しく昭和の後半に立て替えられたとの事でした。
また、石薬寺の業者自体もいつしか鈴鹿の神戸(かんべ)の遊廓に移ったそうです。
たぶん笑門は京都で売って居ないと思います。神具屋の多い伏見ならあるかもしれませんね。
楽天地さま
売防法が成立したのが31年の5月、施行まで2年あるとしても随分短い命ですね。
高度成長前夜、移転のごたごたを含め人々の記憶から薄れていったのでしょうか。
659
:
新今里X
:2011/02/13(日) 16:48:47
講
膳所裏さんの注連縄の話を聞かせてもらって、ぼくがふと思ったのはお伊勢講のことです。
遊里は共同体意識と義理堅さで、伊勢講・高野講・金毘羅講など比較的最近まで、あるいは今でも続いてるんやないかなぁと。
千客万来・笑門などの注連縄もお伊勢参りのおりに買ってくるのではないでしょうか。
それはそれとして年中飾るという伊勢の風習は宗春公名古屋サミット(笑)のときに伝わったのかも知れませんね。
660
:
膳所裏
:2011/02/13(日) 18:49:58
年賀
おっしゃる通りだと思います。
渡会恵介さんの“京の花街”に先斗町には伊勢講である丸寿組と高野山に詣でる鴨川組の記述があり、実際二見ヶ浦(夫婦石の少し手前)に先斗町が送った実に立派な一対の灯篭が、そして高野山にも苔むした納骨堂があります。。
30年前に書かれた本なので、いまさら講でもないだろうと思いつつも先斗町の歌舞錬場に恐る恐る聞いたことが有るのですが、何と今でも続いているそうです。
その昔、先斗町の芸妓さんや舞妓さんの後ろで、男衆さんが背中に大きな笑門を背負って歩く姿が目に浮かびます。
猶、高野山の奥の院には南地に大和屋帝国を築き上げた阪口祐三郎(すけさぶろう)の立派な像も有りますが、足を止める人は少ないようでした。
さて、宗春失脚の後、名古屋サミットは解散して長い暗闇の時代を迎えたわけですが、それが後年、鬱憤をはらす形で旭廓が誕生したのではないのでしょうか。
661
:
鷹目
:2011/02/13(日) 22:10:03
ハルピン街
あんまり遊里には関係ない話ですが、岐阜関係の本があったので補足がてら。
ハルピン街は、闇市が発送ですが、そこで統制品と知りつつも洋服や洋反物を店先に出すものが現れました。
そのうちミシン等で反物を加工し既製服をつくり、北海道などで現金売りするものも出始めたそうです。
そこで警察が取り締まろうとするのですが、一部行政有力者からヤミで流すことは悪い事だが、既製服を売ると言うことはアメリカ式で面白いと言う事、復興途上であり、商業行政の行く方へ協力してほしいと懇請し、警察のほうも黙認してくれました。
これにより岐阜の既製服が有名となり、ハルピン街にいた既製服業者は今日の問屋町へと
移転し、岐阜が繊維王国と呼ばれる所以となったそうです。
ちなみにハルピン街は当時駅前にありましたが、のちに駅西の広場に第二ハルピン街というのも出来たそうです。こっちはどんな職種が中心だったのか不明です。
そういえば注連縄って神社によって形や作り方違ったんじゃなかったでしたっけ??
662
:
膳所裏
:2011/02/14(月) 19:06:54
注連縄博士
しめなわ百科という本が注連縄研究所(あると思った!)から出ているようですが、私が調べた限りでは国学院大学の図書館に1冊あるのみです。
この幻の本さえ手にいれれば注連縄博士を名乗っていいですよね。
遊女を宗教と絡ませると、その昔、高級遊女が仏門に帰依したとか、あるいは新町、島之内、島原、祇園などの“ねりもの”、さらには室津、鳥羽、八王子、小松の串茶屋など数え切れないほどの神事、祭と遊女の関係があるようです。
また、周知の様に遊郭、花街に神社はつきものです。
妓楼、御茶屋の経営者や比較的恵まれていた芸妓が神に手を合わすのは分かるのですが、女郎さんは、普段から牛馬の扱いを受け、年季前に死ねば恩知らずと投げ込み寺に薦に巻かれ捨てられ、この世に神も仏も在るものかと思っていたとしても不思議ではありません。
遊郭跡をたずねると、時に神社やお寺に混じってある宗教の教会に出会うことがあります。
この土に関係のある宗教がその隙間を埋め、彼女たちの心のよりどころになった・・・という様な内容をどこかで読んだことがあり気になっていたのですが、それが何の本だったのか、残念ながら思い出せません。
663
:
:2011/02/16(水) 22:46:13
五条楽園のこと
鷹目様、お久し振りです。
五条楽園の解散、まさかと思いました。
昨年10月、京都新聞の朝刊であるお茶屋さんが売春防止法違反で検挙された事件の記事を読んで驚きました。
五条楽園を知りましたのは渡会恵介氏著の『京の花街』という本です。娼妓本位だった七条新地が芸妓本位の花街に転換された内容を読んで信じられない気分を抱きました。
それからこの町を歩き嶋原や五番町では失った遊廓の建築物が多く残され、旅館に転業されている建物も見て嬉しさも混じって感動しました。
一昨年はひと・まち交流館主催の街づくり調査の報告会の会場として使われた五条楽園歌舞練場の中を初めて入りました。ご存知でしょうが他の花街の歌舞練場に比べて古い形態を残しているのが貴重です。
この五条の花街と町並みが保存、修復、再生していくことを願います。
664
:
膳所裏
:2011/02/19(土) 17:39:22
横断歩道
昨秋始めてオフ会に参加させて頂き、楽しく過ごさせて頂いた帰りの電車でご一緒させて頂いた五条楽園の方(うかつにもお名前をお伺いしておりませんでした)に一本の横断歩道のお話をお伺いしました。
かつて木屋町通りと楽園を結ぶ1本の横断歩道が五条通りに有った事、そしてこの横断歩道を取り外すことにより木屋町から下がる人は河原町通りに流れ、五条楽園は陸の孤島になった事。
つまり五条楽園が最近まで存続し得たのは一本の横断歩道の有無かもしれないと云うお話です。
“旦那はん おいでやす ええとこどすえ 芸者ワルツで ステップか
五条楽園 花えくぼ 柳並木と ぼんぼりが ほのかに浮かぶ 恋の道”
かつて秀吉が灯したかもれないぼんぼりの火が、恋の道を照らすことももう無いでしょう。
665
:
T-レッド
:2011/02/20(日) 20:41:21
『〇和会』 〜ワンワン吠えられる〜
近いのに、なかなか行けてない所ってありますよね。
大阪・天王寺区で、唯一(?)かもしれない芸妓置屋『〇和会』さんを訪ねてみました。
谷町筋から少し入った所にあり、一般人ならおそらく誰もその存在に気付かないと思われます。
(ワンワン吠えられました!)
近くには、南地『大和屋』の分家であり、普茶料理で有名な料亭『阪口楼』がありますが、なんでこんな所に芸妓置屋が必要なんでしょうか?
(やはり阪口楼専属…?)
谷町筋沿いは、古くから遊所として有名ですが、この辺り一画も、ホテル街に混じって連格子の和風建築があったり、石畳が残ってたり、フリーランスの立ちんぼが立ってたりで・・・脈々と受け継がれている歓楽色を感じます。
※私は特に、宴会係ではないのですが・・・
阪口楼は、オフ会々場候補の一つだと思っております。
実は小学生の頃、茶臼山古墳の河底池で、よく釣りをしてまして、「何や、あの建物は?」と、子供ながらに思ったものですワン。
阪口楼には、茶臼山を臨む席もあるらしく、個人的には非常に興味がありますワン。
それより、貝塚『深川』のほうが先ですかね!
666
:
:2011/02/20(日) 23:04:54
続 五条楽園のこと
今日、ひと・まち交流館の帰りに五条楽園を通りましたら、唯一残っていた三階建てのお茶屋『A』の建物が解体されて更地になっていました! ついでにあのステンドグラスの建物も運命をともに・・・・・
その有様を見て悲しみました。ほかの建物は丁寧に修復されているになぜ、そうなったのでしょう。所有者が建物の維持が出来ずにそうしたのは致し方ございませんがこれはもったいない事です。これで歴史の生き証人が消えました。
いつか、花街、遊廓の建築物が復元(復原)、活用する機会が訪れることを願います。そうするべきです。悲哀に満ちた遊女たちの歴史が封印され、葬り去られ、滅ぼされる前に!
趣旨からそれてしまい申し訳ありません。この状況を見て感情を抑えられずにはいられませんので投稿いたします。
667
:
掛川のすずもと
:2011/02/24(木) 19:36:33
掛川の遊廓
一年前旧遊廓の旅館すずもとが解体された民間の住宅ができるそうで向かいにある元旅館萩の家のみが十九首遊廓の面影を残しています 旧遊廓の後地だけあっていまでも細い路地裏路や狭い曲がりくねった路地が当時を偲ばせます隣の菊川市の初咲新地にも古い遊廓の建物が残っているみたいそれとその当時まだ遊廓が現役だった頃の旅館すずもとにあった絵がきれいに修復され掛川市二の丸美術館に寄贈されその当時遊廓が華やかだった昔を偲ばせますもし掛川市にくる機会があったら一度御覧になられる事をおすすめします
668
:
膳所裏
:2011/02/27(日) 18:58:51
片山津検番
少し前ですが、片山津温泉で大正九年に建てられた検番にお邪魔しました。
紅柄格子の建物の中にあったのは大正ロマン香るホール、芸妓の名が入った稲荷提灯、温泉マークを形どったガラス障子、中でも目を見張ったのが芸妓札で、赤表、黒裏の名札をひっくり返して各芸妓のお座敷状況を確かめるという板組で、見盤が検番の語源では無いかと思える程合理的な物でした。
その後、かつての置屋さんも訪れ、かつて鴨と呼ばれた温泉芸者の話を聞くこともできました。
現役の鴨はもういないのですが、ご当地グルメの片山津バーガーの具に鴨肉を使ったものが有るそうです。
が、どうしても食べる気にはなりませんでした。
669
:
膳所裏
:2011/02/27(日) 19:41:38
温泉こんにゃく芸者
この片山津を舞台にして昭和四十五年に封切られたのが「温泉こんにゃく芸者」です。
女屋実和子が役する球枝が、勤めていたコンドーム工場が倒産したので片山津温泉でひょんな所から芸者となるが、瞬く間に超売れっ子になったのであれよあれよという間に関東、関西のスカウトマンによる引き抜き合戦。
優しい球枝はこんにゃく風呂を作るのに一生を捧げる養父の殿山泰司!!に親孝行をするため小松方正演ずるヌカ六(抜かずに六発撃てるという化け物)とセックス三番勝負!というすさまじい物語りです。
この設定を小気味良いテンポで展開する中島貞夫監督の職人技が冴えに冴えます。
さらに脇役陣がすごい。大泉晃、上田吉二郎、常田冨士男、小池朝雄、荒木一郎そして
片山由美子!
プレイガールに出ていた片山由美子、若い人は知らんでしょうな〜
670
:
T-レッド
:2011/02/28(月) 15:08:36
コンニャク男
飛田に、"コンニャク男"というのが徘徊してましたよね?
今でも目撃情報はあるんでしょうか・・・
671
:
鷹目
:2011/03/02(水) 22:11:33
鍋の材料
>膳所裏さん
先日、その一本の横断歩道を見てきました。
駅や線路の変更、道の変更などで客の流れが変わったと言うのは聞きますが、あの一本横断歩道が明暗を分けたかもしれないとは本当に寂しい限りです。
片山津で「温泉こんにゃく芸者」と言うのも凄いですね。小池朝雄や常田冨士男、味のあるいい役者さんですね。
『全国花街めぐり』では片山津の芸者についてはこう書かれています。
「鴨」というは元湯女の異名で、宿屋の仲居が客の酒の相手もし枕席にも侍ったのだが、 最近それが芸者に変りつつあるあるのである。
さてこんにゃくは芸妓や娼妓の異名で使われていたかというと実際、根室で私娼の異名で使われていたそうです。
ちなみに呉でも引っ張りの別名で鴨という異名が使われていました。
>今紫さん
件のA、個人宅かマンションなのか分かりませんが、更地に基礎の墨だしがありました。
ただ歌舞練場はしばらく大丈夫のようで怪談会や創作舞踊のイベントが催されるようです。
機会があれば何度でも足を運んであげてください。
>掛川のすずもとさん
はじめまして。貴重な静岡情報ありがとうございます。
2011年3月27日まで静岡にガンダムがいるようなので都合がつくようなら(現時点では厳しい状況ですが)、十九首遊廓、初咲新地、掛川市二の丸美術館共に見に行きたいと思います。
>T-レッドさん
5、6年うわさ聞かないですね。ゴム人間と同じく都市伝説??
672
:
膳所裏
:2011/03/05(土) 17:22:00
大阪六遊廓
秀吉の肝いりで、五条〜七条間の遊廓の歴史が始まったと五条楽園の廓内では密かに伝え続けられてきたそうです。
これを裏付けるものは何もないのですが、あの辺りは新日吉神社(いまひえじんじゃ)の氏子ですのでひょっとするとひょっとすればひょっとするかもしれません。
秀吉の幼名の日吉丸は後年創作されたものらしいのですが何か裏が有りそうです。
この新日吉神社より豊国廟にいたる参道に明治三十一年、大阪の六遊廓が寄贈した一対の大灯篭があり、新町、松島、北新地、堀江、南甲部、南乙部の名が台座に彫られています、南甲部は南地五花街として、乙部は明治末の焼失を受け、すったもんだのあげく飛田に移った難波新地のことなのでしょうか?
調べたのですが分りませんでした。
新町のフォーラムでパネリストの人見佐知子先生もこの事に触れられましたが、どうしても豊国廟と六遊廓を結びつけることが出来ないとの事でした。
実はここには秀吉=朝鮮出兵の先駆者=大陸進出を目論む軍部が豊国神社を再建=それに乗っかり海外での遊廓権益を目指すむ大阪の業者という図式がありました。
人見先生に是非このことをお伝えしたかったのですが、生憎その後ずーと立ち代りお爺さん連中が先生をブロックしていたので、とうとうその機会を逸しました。
私の人生で佐和子先生とお近ずきになれた、たった一つのチャンスだったはずなので、今思い起こしてもあのお爺さんたちがうらめしい・・・
ところで、温泉芸者シリーズには、温泉スッポン芸者、温泉みみず芸者、温泉ポン引き女中(白浜舞台)などがありましたが私は見ておりません。
673
:
夕凪
:2011/03/07(月) 01:02:52
南五花街遊廓組合
1932年の南五花街遊廓組合規約に下記の条項がありました。
本組合ハ組合員ヲ左ノ通リニ分チ事務ヲ処理スルモノトス
第一部 特殊料理屋、芸妓扱席(検番)、芸妓置屋、芸妓
第二部 呼揚貸座敷、娼妓扱所貸座敷、娼妓小方貸座敷
一つの組合を、芸妓関係の組合と、娼妓関係の組合に分けてたそうです。
膳所裏さんの書かれている、南甲部、南乙部と言う名称について、
直接触れた資料は見当たりませんでしたが
おそらくは、芸妓と娼妓関係の業者が各々寄贈したのではないでしょうか。
(参考)ttp://tenyusinjo.web.fc2.com/sinmatiyukaku/8meijigeigikaihou/meijigeigikaihou.html
674
:
膳所裏
:2011/03/08(火) 16:27:41
羊羹色の羽織男は要注意
さすが夕凪さん。昨日気になって調べなおしたら日本遊里史(465ページ)にこの件に関する記述がありました。
私の推測とはうらはらに難波新地乙部遊廓は南甲乙部とは別に存在していました。
ご推察の様に南地甲部は芸妓中心で乙部は娼妓と見てよいのですが、厳密に云うと、甲は送り込み、乙は居稼店(てらしみせ)として当局が区別をつけた事です。
つまり南地甲部にも送り込みの娼妓がいたことになります。
さて、大阪の六遊廓が灯篭を贈ったころから娼妓が自由廃業を求めた訴訟沙汰が盛んになったので、これに対する大阪の遊廓側の防御策も載っていました。
“先づ、南地甲部遊廓では事務所と置屋との内意を受けて娼妓は、
第一 客人の人相を見極むる事、
第二 言葉づかいに注意すること、
第三 羊羹色の羽織と古洋服を着し口ひげを蓄へたる者には最も注意すること、
第四 客人が寝所に入りたる時は娼妓との談話を立ち聞きすること、
第五 以上は一々事務所に届出ること を命じた、
同乙部遊廓(居稼店)では到底外面的の手段では不可能と諦め専ら自己反省を求むるために時々僧侶を聘して因果応報の道理を言ひ含めることゝし、又松島遊廓なる某楼では廃業の意思のあるものを密告したものには甲一円、乙五十銭、丙二十五銭賞与を出し・・・”
これではとても根本的な解決にはならなかったでしょうね。
ところで次の日曜に私も愛知の蒲郡を徘徊しようと思っています。
勿論、古着に羊羹色のジャケットを羽織り、無精ひげで・・・
675
:
鷹目
:2011/03/21(月) 20:32:27
生駒にて
さて前日、遊楽さんからお聞きした情報を元にオフの段取りで生駒新地の旅館へお話に行ってきました。
まずは生駒新地関連のお話。
・宝山寺の旅館街は、船場の旦那衆が聖天さんにお参りに来た時の宿としてが始まり。
・新地の芸妓は最盛期は200人ほどのいた。
・温習会も行っていたが、お稽古や着物代にお金がかかるので辞めた。
・いまはコンパニオン芸妓というべき感じ。
・自分ところで料理を作っている店は2軒ぐらい(うろおぼえです)。大体は仕出し。
・宴会からの予約花、泊まりもOK。
・旅館組合ではずれたこと(派手な営業活動のこと?)をしないよう申し合わせているとか。
で、次はオフの内容。
・開催日は日曜。時間は夕方5時ごろから3時間程度。
・料理は特製すき焼き(鍋+おつくり一品+漬物+ごはん)。飲み代入れて会費6000〜7000円程度。ただし、人数によって先方と相談いたします。
・遠隔地からの方には、そこで宿泊も可能です。朝食つきお一人様7000円。
今からの段取りだと5月開催が余裕ももててベターかと思います。
後は皆さんからの意見(メール、MIXI、伝言板などから)を考慮してまとめたいと思います。
平日の夕方からで急に冷え込んだ日だったからかもしれないが、むちゃくちゃ繁盛している印象はなかったです。
676
:
夕凪
:2011/03/26(土) 21:16:14
新千日歓楽街 (鶴橋)
大正9年(1920年)の天王寺、玉造間市電開通と、城東線桃谷駅の発展につれて、
郷土鶴橋の大阪市に接する地区を有望視する実業家があらわれ、
東大阪にこれといって歓楽街が無い点に着目、
市電細工谷停留所より鶴橋町の中央部に入る道路以前の沼地を埋め、
先ず土地の発展を期する為に大正11年ごろ(1922年)
アメリカ某サーカス団を呼び興行を行いました。
又今の野球場に当る一帯に納涼博覧会を2ヶ月にわたって開催し、
衛生、犯罪等の参考館や八幡のやぶしらず(化物屋敷、仕掛によって幽霊を出す)等
涼味をさそう催し物を行って好評を博しました。
又北部一帯は新千日と名づけ、劇場、温泉劇場を
新世界のラジウム温泉に対抗して建設に取りかゝり、常設映画館2ヶ所等も計画し
先ず東大阪隋一を誇る鶴橋劇場を完成しました。
(中略)
これと同時に、飲食店、呉服屋、月賦販売百貨店、カフェー等が立ちならび、
中でもカフェー富士軒、鰻まむし出雲屋支店等一流商人の進出を見たので、
東大阪隋一の歓楽街はこゝに完成するかに見られました。
しかし大正末期の産業界の不振により不景気の訪れるとことなり、
資金の行きづまりがあったものか、温泉劇場の建設は基礎工事を行ったのみで、
工事中止の止むなきに至ってしまいました。
?????????????????????????????????????????????? 1956年の資料より
677
:
夕凪
:2011/03/27(日) 21:01:51
新千日歓楽街の計画と鶴橋公園
温泉市場が開設せられて、
その後此の方面の盛況は持ちこたえるかとも思われましたが、
次第に衰微しはじめ太平洋戦争の開始と進展につれて、
疎開地帯に指定されたので
ついにあとかたも無くなってしまいました。
空き地は、当時戦争による食料不足から、
近隣の人々が自家農園に利用するところとなりましたが、
戦後は市の公園設置計画により
昭和23年(1948年)地元有志の努力によって、
公園及野球場の完成を見るに至り、
さらに北側には大阪府立聾学校が建設され、
道をへだたてゝ日本理容専門学校が設立せられるに至りました。
678
:
新今里X
:2011/03/29(火) 00:16:15
奈良新風土記 生駒
1982年の新聞に生駒を取材した記事があり、花街に関する部分を資料として少し転載させてもらいます。
『この町には、花街の風習がいまも根強く生きている。例えば「花代」。線香一本で時間を計っていた時代の名残か、いまも三十分きざみが守られている。三十分は一本と呼ばれ、夕方六時から十一時まで、一人の芸者さんを五時間拘束すると十本となる。
ところが、単純計算できない約束ごとがある。その一つが「入り花」。最初の一時間に限って二本を三本と計算する。さらに、六時から九時までの三時間に、他の客から指名がかかり、居残ろうとすると「もらい」「かえし」といって、六本が十二本にはね上がる。』
679
:
膳所裏
:2011/03/30(水) 14:50:40
生駒ぞめき
生駒市誌によりますと、生駒新地の誕生は大正三年、大軌鉄道(現近鉄)が生駒鉄道を設けたことが発端で、花街の歴史も大正四年に大阪南地の巴席がここに置屋をおいたことから始まりました。
この巴席の芸妓は「不破」や「呂之助」など、赤穂浪士にちなんで芸名をつけたそうです。
当初は大阪出身の業者大阪党と生駒出身の料理屋側の生駒党で何事も対立していましたが、松川生駒分署長のもとで、置屋側と料理屋側が共同出資して「生駒芸妓株式会社」が生まれました。
大正十年には旧新町演舞場の建物をそのままこの地に移転し、生駒座として新な生を受け、温習会もここで行われました。(現在は跡形もありません。)
昭和に入ると、洋式の舞踏場の建設が大阪府で許可されなかったこともあり、牧山と云う人が洋館のスマートなダンスホール「生駒舞踏場」を作ると、最盛期にはダンサーも百人を数え、大阪の会社の重役連中が連日押しかけたそうです。
戦後は生活環境の変化に加え、涼しい生駒もキャッチフレーズも冷房装置の普及でその意味を失いだんだん勢いを失いました。それでも昭和四十八年に芸妓はまだ百五十人もいたそうです。
現在の生駒で私がお勧めするのが元旅館を改装され雑貨屋&カフェとして若きご主人が営むナイヤビンギさんです。
2階の客室を利用した個室空間の窓際でコーヒーを啜りながら、浪花の恋の寅次郎の中で寅さんが松阪慶子扮する大阪芸者ふみと仲睦まじく歩いた宝山寺に続く参道を片肘ついて眺めれば、
“生駒新地は気楽なところ
三味や太鼓で日を暮らす”
野口雨情が作詞した「生駒新地流し」で歌われたかつての賑わいに思いを馳せるのも、そう難しくは無いようです。
680
:
夕凪
:2011/04/03(日) 22:24:59
和歌山の娯楽
●花柳界
和歌山市:東廓、番廓、新和歌検、不老園(芸妓224)、
カフェー街(元寺町、築地、その他を合せ女給593)
酌婦検番、天王新地、阪和新地、手平新地(その他を合せ397)
新 宮 市:大王地検番芸妓105、浮島遊廓娼妓95ほかに酌婦40、女給100
海 南 市:旭検番、寶検番、日の出検番(芸妓44、酌婦157)
歓楽街 黒江新地、名草新地、東新地
1936年の資料より
●ひょっとして、上記の手平新地が、例の“ 新天地 ”では ・・・・ !?
(参考)ttp://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:VdW08hzvbgoJ:www.nwn.jp/screen/waga1/text1/2.html+%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1+%E3%80%80+%E6%96%B0%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E3%80%80%E6%89%8B%E5%B9%B3&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp
681
:
夕凪
:2011/04/04(月) 00:00:58
尼崎の娯楽
●花柳界
尼崎検番(芸妓40)
西本町北通、神田新地はカフェー街として有名である。
1936年の資料より
682
:
膳所裏
:2011/04/04(月) 16:50:51
どうにもとまらない
又聞きの又聞きですが、岡山の西大寺に裸祭りの日にだけ遊廓になった建物が一軒現存しているとの噂を手がかりに、日本三大奇祭の一つが行なわれる瀬戸内の門前町を訪れました。
阪口祐三郎伝の全国花街所在地にも載る三業地の方は、色々お話を聞くことができた西大寺文化史料館の裏の新町通りにあり、今でもかすかにその色香を感じることができました。
遊廓の方はそこから3キロほど離れた大井川の河口の九蟠(くばん)にあったとの事なので行ってみました。
かつて新田開発の為、この辺りを一蟠から十蟠まで区画し互いに競わせることよりお上が開発を進めたらしいのですが、現在はこの九蟠と三蟠のみが地名として残っています。
実際建物の有った場所は地元のタクシーの無線ネットワークでも分からず、漸くお話し頂いたの九蟠の古老に記憶の隅をさぐって頂き、遊廓は土手下の住居地でなく、最上稲荷神社の辺りの川に入り込んだかつての舟付き場にあったという情報を得ましたが、当時の建物はどこにも見当たりませんでした。
どうも、西大寺にかつて遊廓があった。裸祭りの日にも男どもが押しかけた。
“遊廓で弁天様を拝めるのでわざわざ祭りにいかなくてもここで充分御利益いただける”
という様な話が何でも自分に都合よく聴いてしまう私の耳には今でも遊廓の建物が残っているというように響いたようです。
九蟠を後にするタクシーの中で、昔何気なく聞いたあの人の歌が頭の中に聞こえてきました。
うわさを信じちゃいけないよ
私のこころはうぶなのさ
いつでもでも楽しい夢をみて
生きていくのが好きなのさ
683
:
新今里X
:2011/04/04(月) 22:23:07
昭和42年のイコマ
昭和42年の雑誌記事より転載(伏字にて自主規制アリ)させてもらいます。
『聖天様を祭っている生駒は知る人ぞ知る大阪の××××の聖地である。これがまたいい。近鉄奈良線の生駒駅下車、ケーブルであがると紅燈の段々道に出るね。ここにいるのが生駒の芸者衆である。料理旅館の門をたたき、女将に依頼すればいいのである。
芸者の花代とか線香代とかは、いくら聞いてもさっぱり見当がつかないものだ。こういう時には食べて飲んでイクラ、と大ざっぱなとろを、総額でまとめてたのんでしまうほうがいい。
(中略)
芸者さんを午前零時以降に呼ぶようにアレンジしてもらえば料理ともで一万円ですむ。早くから来させるとやはりチト高いのが難といえば難。
やってきたのがポチャポチャとした芸者であった。いくら×××芸者とはいえ、一応はスソを引いてコンバンワー。差しつ差されつ、コタツのなかで指を握ったり、×の×に×を入れたり、はては×を××て××××××× (以下略)』
684
:
新今里X
:2011/04/05(火) 17:00:45
九蟠ストリートビュー
九蟠にもgoogleの魔の手がおよび昨年あたりにストリートビューが公開されてしまいました。(笑)
土手(防潮堤かな?)から撮影したらしき俯瞰気味の古写真と照らし合わせて見ると当時の建物は現存していない状態でした。
古写真をストリートビューで確認しただけなので自信はなかったのですが、膳所裏さんが書き込みしていただいた場所と合っているので確信できました。
常夜燈や稲荷神社の玉垣などには何か書かれてましたでしょうか?
西大寺の方は地名だけなら西大寺新地が気になるところです。(笑)
昭和37年に廃線になったそうで町並みから昭和のニオイが…というか時間が止まった感じですね。
ぼくの場合はロケ地めぐりをしてました。
685
:
新今里X
:2011/04/05(火) 21:15:20
廃娼県は新地だらけ!
昭和9年の市街地図で新天地となってるところは手平なので夕凪さんが書いてくれた昭和11年の手平新地と同一の可能性はありそうですね。
地図上では新天地の地名と都市計画道路の点線が隣接してて、現在では新天地の文字のところにちょうど国体道路があります。
都市計画は戦争をはさんでも受け継がれてますから、もし新天地が手平新地なら国体道路完成よりもかなり早い時期に立ち退きで姿を消したのでないかと思います。
名草新地は初耳ですが名草山からすれば紀三井寺あたりかな?
昭和15年に和歌山市に編入されたそうなので、昭和11年なら海南市に含めて書かれててもおかしくないです。
それとも、海南の歓楽街は大正初期まで市内に散在してたそうなので、その一箇所が名草郡から名草新地を名乗って残ってたとしてもおかしくないです。
後に海南検番組合になる「旭検番、寶検番、日の出検番」で、旭検番は黒江新地、日の出検番は東新地というのは分かってますが、そういえば寶検番はどこか、黒江新地だったような気もするけど、ちょっと記憶にないです。
検番の次に歓楽街として「黒江新地、名草新地、東新地」と書かれてるので書き順から寶検番が名草新地かな…と想像してしまいました。
686
:
新今里X
:2011/04/05(火) 22:07:50
尼崎は兵庫県ではないと思う
>夕凪さん
尼崎検番(芸妓40)が西本町北通ということですか?
神田新地は西本町北通ではないですよね。
だいぶ前に古地図を頼りに尼崎の検番か芸妓組合だったかを見に行ったのは大物の方でした。
そこから西本町北通に移転したのか、別にもあったのか…
西本町北通あたりも何もなかったような。
687
:
膳所裏
:2011/04/06(水) 20:00:06
はらたいらに1000点
>新今里Xさん
まさに常夜燈の辺りが遊廓だったのですが、常夜燈には何も刻まれてはいませんでした。
玉垣には寄贈した青楼や芸妓の名が彫られていることが有るので私も注意して見る方なのですが、何も無かったと思います。
ただ、最上稲荷神社の記念碑に
“この地は元禄五年岡山藩主池田綱政が時の郡代津田永忠に命じて干拓した沖新田の一部であり地名は干拓工事の番号を以って当初沖新田九番と呼ばれ今日の九蟠に至っている
九蟠港は吉井川河口という地の利を得て岡山藩の商港として江戸や大坂方面との往来も盛んに行なわれ繁栄を極めた”
とあり、この地が港型と開発造成型を併せ持った複合型遊廓であったことが窺い知れます。
ところで、日本遊里史の遊廓一覧に九蟠も載っているのですが、貸座敷二軒に対し娼妓数も二人になっています。
これは何を物語っているのでしょうか?
ここで三択です。
? 一つの貸座敷に一人ずつ鬼の様に客をとる伝説の二人の娼妓がいた。
? 鑑札を持つ娼妓は二人だが、何人もの芸妓がいて娼妓の仕事の分野にも入り込んでいた
? 昭和の始めには、大井川を高瀬舟で物資を輸送する時代は過ぎ、賑わいは失われ、遊廓渡世は風前の灯であった。
う〜ん ?を選んだ竹下景子に1000点!
688
:
新今里X
:2011/04/07(木) 22:58:07
どんな二人だったか気になる…
三択なら三蟠wですね。
ただ繁栄を「極めた!」ことがあったのかどうかは疑問です。
番付などに名前が出たことないのでは…?
689
:
新今里X
:2011/04/07(木) 23:41:09
尼崎の遊廓設置出願
明治29年9月、尼崎町内別所村字小役人町
大阪や西宮の遊廓に対抗するためと町中の私娼を撲滅するために出願
明治32年6月、尼崎町字築地町
尼崎町字築地町に限定するは不可なるにつき他の地域を撰定すべし
明治32年7月、大物村字田町
結局遊廓設置の出願は全部却下されたようですが、大物には昭和10年ごろの地図に尼崎芸妓共同組合や立花楼など料理屋らしい建物がありました。
先日、夕凪さんが書いてくれてた尼崎検番とは同じ年代なので、別の花街になるのかもしれません。
余談ですが駅前のジャンボって元トルコですよね。(笑)
690
:
膳所裏
:2011/04/10(日) 17:58:04
九蟠の番付
日本遊里史の遊郭一覧を基に廓番付を作ってみました。
まずこの遊郭一覧を見て思うのは娼妓側からのみ廓をみていることで、東京でも名古屋でも芸者のみの三業地は一切載っていません。
ところが関西には祇園甲部にもそこそこの娼妓が在籍しており、有名処の花街は殆ど名前を見ることができ、西と東の廓の仕組みの違いがわかります。
また、上七軒の貸座敷33軒に対し娼妓2人を見ればこの表にいわゆる芸妓のみの本茶屋が含まれているのは明らかです。
ですから順位のつけ方は一覧に載っていない芸者数を推測する為に、貸座敷数を娼妓数で割ったその指数が高いものから花街度が高いとしました。
もちろん無茶苦茶な論理なので突っ込まないでくださいね。
では、昭和の初めごろ、娼妓が在籍した花街の番付です()内指数。
東大関、上七軒(16.5) 西大関、金沢北廓(9,7) 東関脇、堺乳守(6) 西関脇、堺竜神(5.9)
東小結、先斗町(5.1) 西小結、祇園甲部(4.7) 東前頭一、金沢東廓(4.7) 西前頭一、四日市南町(2.2) 東前頭二、堀江(2.1) 西前頭二、金沢西(2)
なんとなくそれらしい名前が並ぶのが不気味です。
ちなみに飛田は0.1で洲崎は0.09でした。
尚、貸座敷数プラス娼妓数の合計が10を切った箇所は異常値が出る為対象外にしたので残念ながら番付に九蟠は載りませんでした。
691
:
鷹目
:2011/04/11(月) 16:14:45
オフ会の日時アンケートです。
春オフの日時アンケートです。
日時はスケジュール調整サービス伝助(下記URL)よりお願いします。伝言板からでもOKです。
オフの概略は以下の通りです。
・開催時間 未定 (候補日 2011年5月8日(日)、22日(日)、29日(日)
午後5時より3時間程度
・会場 生駒宝山寺 某旅館
・料理 特製すき焼きセット
・会費 約7000円
お願いします。
http://densuke.biz/list?cd=TErzu6e9Tz3gzscn
692
:
鷹目
:2011/04/20(水) 17:23:51
遊里史研究会、2011年恒例春のオフ会案内
春オフ会の案内です。
・開催場所:奈良県生駒市門前町宝山寺新地内 料理旅館古賀
・アクセス:近鉄生駒駅から生駒ケーブルに乗り換え宝山寺駅下車。徒歩約5分
・開催日時:2011年5月22日(日) 午後5時より3時間程度
・料理:特製すき焼きセット
・会費 約7000円
備考:宿泊される方は宿泊料(朝食つき)7000円
いつものメンバーには近日中にメールしますが、連絡先が変っていない方は下記出欠等幹事長の出欠登録のみ、この日記へのコメントだけでも結構です。
http://kanji.kodama.com/note.aspx?ac=duz501blo1ffgpyv
初めての方は、必ず下記よりお申し込みください。
http://form1.fc2.com/form/?id=172867
皆様のご参加をお待ちしております。
693
:
夕凪
:2011/04/24(日) 10:44:03
行こうか灘町帰ろうか茶町こゝは思案の道笑町
●米子花街
と云はれるだけあって、米子市灘町は米子市におけるたった一つの色街だ。
と云へば恐らく人間に性欲に自覚あるものは、
遊廓か、それとも芸妓が居る一角だと思うだろう。
いや御想像の通り灘町は公許された私娼窟だ。
○灘町遊廓
世間で一般には遊廓と呼んでいる。しかし形式的は私娼窟たるを失はない。
何故なら灘町30有余の遊廓に働く女性は娼妓としての鑑札でなくて
酌婦として許されているだけだ。だから公娼でなくて私娼だ。
しかし、灘町に遊ばれる人々達よ、私娼だとて軽蔑したり、危険がる必要は更にない。
安心して通ひつめるなり、一夜の享楽に耽るも御随意だ、
決してそのために警察の御厄介になる必要はない。
名称は私娼であっても実質は公娼の設備になって居り許されているのだ。
1936年の資料より
694
:
膳所裏
:2011/04/24(日) 19:49:52
米子
二年前に花園町遊廓(旧灘町遊廓)を訪れました。
町外れにかなり広めの胴筋をもつほぼ長方形の区画・・・典型的な新地様式です。
蝙蝠をかたどった壁がある印象的な料亭?をふくめ数件の当時の建物が寂しげに佇んでいました。
福の神の役瓦を持つ別の棟もありました。
そういえば福知山の猪崎でも同じ役瓦を見たことがあります。
明日は三重の田丸遊廓に行ってきます。
鬼が出るか蛇がでるか、 ちょっとワクワクしています。
695
:
夕凪
:2011/04/25(月) 07:33:53
神社三業組合の料理・特殊カフェー
・神社三業組合(宇治山田市神社湊):引本屋、真砂屋、丸万、小田屋、美咲家、愛国楼
・田丸支部(渡会郡田丸町):いろは
・尾鷲支部(北牟婁郡尾鷲町):嘯月、光月
1950年の資料より
696
:
膳所裏
:2011/04/26(火) 16:29:57
田丸
田丸は有りや無しやと問われれば・・・有りでした。
ネットで何も掛かってこないのであんまり期待はしていなかったのですが、実際行って見ると・・・これが大有りでした。
手がかりは全国遊廓案内の田丸駅西南二丁だけでしたが、下車後五分程ですんなりと勝田町にかつての色里を認めることが出来ました。
土地の人に現存する いろは、山一、小林、ナルセの各妓楼やかつての芸者置屋の位置を教えていただき、ここは値段の高い古市からあぶれた遊客がお値ごろ感で利用された事なども教えて頂きました。
その足で図書館に行き玉城町史に遊廓の1ページを見つけました。町史によれば、もともと新田町(シンデマチ)に文政二年、町奉行が客屋(茶屋ではありません)を許したことから遊廓の歴史がはじまり、幕末には常磐屋、川崎屋、大西屋、堺屋、瓦屋(新玉屋)、駒屋の妓楼と中井屋、二葉屋の揚屋があり、この辺りでは古市、松阪に次ぐ規模を誇ったそうです。勝田町の記述は町史全四巻の内“明治七年に、勝田町に姿を変え、貸し座敷として再開された。”のみ・・・遊廓の存在を隠そうとする意図がヒシヒシと伝わります。
その後、町史に詳しい人がいることを図書館の人に教えて頂き、連絡まで取って頂き公民館まで出向きました。迎えてくれた、皆が先生と呼ぶお爺さんがが膨大な史料から探すこと小一時間、とうとう大正から昭和初期の勝田町の全てのお店が書かれた地図を頂くことが出来たので再び現地に戻り地図を右手に再確認。
現存しないのが、遊廓…美よし楼、銀波、金波、丸一 旅館…登喜和楼、川合屋、山本旅館
置屋…お福屋、鈴の屋、丸屋、かじや、山田屋
ほぼそのまま残るのが妙見側から入ると
遊廓いろは(妙見の向かい、屋根下壁の紅がらと緑が印象的)
遊廓山一(クランクを曲がり右側路地手前Pの手前)
遊廓銀花(その路地かど、近所の人がナルセと呼んでいた店、見ごたえ有り)
旅館小林亭(銀花の斜め前、今は民家、二階の窓の前に松、笹、梅?の彫り)
そして外城田川にかかる大橋(現在架け替え)に至ります。
帰路伊勢市の神具店で火打ち石を買いました。家に帰りカチカチすれば、成程閃光が飛び銭形平次気分が味わえます。
ところが厄除けの切り火としては有りですが、発火装置としてはこっちの方は無しですね。
697
:
膳所裏
:2011/04/28(木) 16:15:17
お知らせ
“京都 舞妓芸妓の奥座敷”などでお馴染みの相原恭子さんが5月3日に京都駅ポルタプラザに於いてお話会を催します。
タイトル:「京都花街」格子戸うらのおはなし会
時間: 第一部 13:00〜13:40
第二部 15:00〜15:40
内容 舞の披露、おはなし会、記念撮影会
698
:
鷹目
:2011/05/02(月) 18:41:54
お知らせ 2
試験的にですが、心ある学生グループが中心になって大和郡山洞泉遊廓旧川本邸が一般に無料公開されます。
日時:2011年5月5日(木) 10:00〜16:00
ただ試験的な実施なので突然中止になる場合、今後どうなるかわかりませんが、お時間のある方は是非行ってみてください。
詳しくは下記ブログにてご確認ください。
*ttp://kmachi.narasaku.jp/
699
:
膳所裏
:2011/05/05(木) 16:26:50
町名変更
以前、福井市の足羽公園の近くに有ったといわれる遊廓跡を探し回ったことがあります。
渡辺寛によれば榮新地は(旧、畑方西・東と長居町)
全国遊廓案内では石場畑方(旧桃園)
上村行彰は玉井町(旧伊勢町、大将軍町)を挙げています。
この玉井町も今は無く、現在は、つくも2丁目、足羽3丁目、桃園1丁目、有楽町、左内町と毛矢3丁目に当ります。
情報は錯綜、私自身は福井市史も読んでいないので、上の遊廓が同じ場所なのか、移転したのか今でも分りません。
ただ、明治以降この地で複数以上の町名変更があったのは確かで、これが混乱の元であるのは間違いの無い所です。
結局、その日、寡黙で親切なお蕎麦屋のご主人に教えて頂き、更に車で送っていただき、現在の有楽町に丸窓で紅がらの貸し座敷とパッチワークの様なトタンで覆われた当時の建物を確認することが出来ました。
町名は歴史であり、そこに住む人の誇りです。ビルが乱立する都会ならまだしも、地方都市までそれに倣うのは文化の自殺行為と言えます。
ある市が町名変更の理由をホームページに載せています。
?もしもの時に、救急車、消防車等がすぐに来られない。(生命にかかわる場合がある。)
?郵便物、荷物がなかなか届かない場合がある。(時間や経費の無駄。)
?来客者がお宅をさがしたり、あなたがお宅の場所を伝える場合に苦労する。
?役所等の公簿の整理が煩雑になり、住民サービスに影響がでる場合がある
??は理由にすら成りません。慣れ親しんだ町名のほうが分かり易いのに決まってます。
?は手数かけて調べさせて、その為の郵便番号でしょうが。
そして一番最後に本当の理由をもってくるのが小賢しいというかズルイというか・・・
そんなに仕事を減らしたいのなら、いっそ町名を全て廃止して記号と数字にしたらどうか?
それは出来ない?
いや、あなた達がやってきたのはそれと同じことなのですよ。
何故こんなに怒っているかというと・・・洞泉寺に今日行けなかったからなのです。
700
:
膳所裏
:2011/05/06(金) 16:56:00
待合 津の国屋
>夕凪さん 有難うございます。まさか榮新地の絵葉書が存在するとは・・・数日前に新吉原の仮宅の内部の絵葉書がヤフーのオークションにあったのですが、入札が五千円なので迷っている内に終了したようです。 旧川本邸の動画も拝見しました。おかげさまで今日からゆっくり寝れそうです。
実は鳥羽の遊廓、津の国屋の内部を見せて頂いた事があります。商工会議所が管理されているのですが、内部の保存状態は大変悪く、自己責任ということで何とか二階に上がりましたがいつ床がぬけるかヒヤヒヤしながら、それでも荒れ放題の庭も含め一応拝見しました。
印象的だったのは二階上がり口の手すりに掘られていたJ、Q、Kとクラブ、ハート、スペードの彫りで、ダイヤだけが有りません。これはお金をもって登楼する客がダイヤという洒落ですかねー。
角屋に似せた外観は整備され状態は良く、楓をあしらった玄関はここでしか見たことがありません。
津の国屋の正面に建つ鳥羽みなとまち文化館は船上遊女“志摩のはしりかね”の筆者で知られる風俗研究家の岩田準一の家で、彼が師匠でもある竹久夢二のタッチで描いたハシリガネが津の国屋の二階で船を待つ様子を描いた屏風もあります。
その他、渡鹿野島がモデルといわれるパノラマ島奇譚を書いた江戸川乱歩の展示もあり結構楽しめます。私も始めて知ったのですが、岸本水府もこの辺りの人だった様です。
鳥羽の遊廓跡にはその他、立派な三層楼で現在スナックである旧白子屋やかつて海が三階から望めたという旧料亭、太平楽などの建物も有りました。
鳥羽の商工会議所としても、かつての遊廓の建物を街中の地図で示したり、津の国屋の内部修理の見積もりを考えたりされていた様なのですが、どうも“負の遺産として”という修飾句が付きまとい今ひとつ踏み込めないようでした。
しかし鳥羽はまだまだ理解がある方で
「これでは家族の為身を売って死んでいった遊女達も浮かばれぬわ!」
私が海原雄山なら目をかっと見開き、箸を置きその場を立ち去りたくなるような時もありました。
701
:
新今里X
:2011/05/06(金) 21:58:28
あまり参考にはなりませんが
8年ほど前になりますが有楽町に行きました。
昭和初期の地図で遊廓は現在の足羽2丁目付近だったので、有楽町から南の方も少し歩いてみたのですが、何かあったおぼえはないです。
702
:
膳所裏
:2011/05/07(土) 15:33:02
有楽町
私が訪れたのは2年前でした。JR福井から見ると花月橋を渡ってすぐ右手の区画なのですが、連れていってもらえなければ分りませんでした。
丸窓のお宅は建物が大きい割りには塀も無く玄関前に小さな庭が有るだけなので、料亭でも、旅館でもなく、そのものだったと思います。
紅がらは時代を経ており、周りから浮き出た一種異様な佇まいでした。
703
:
新今里X
:2011/05/07(土) 21:54:55
栄新地と有楽町
栄新地や有楽町で検索してみたらホームページやブログの記事が少ないですね。
ぼくも訪れた当時に資料がなくてこの掲示板にも書けず、そのまま忘れてホッタラカシになってました。
荷風歓楽のロザーナさんのリストはこの掲示板のログも取り入れて整理されてるはずですが、さきほど見てきましたがやはり掲載がなかったです。
偶然ながら駅から歩いてすんなりと有楽町に入ったもので、すぐ分かる場所だから最近ブログなどやってる人が多数取り上げてるやろうと思い込んでました。
現地での印象は栄新地と有楽町は戦災や都市計画などで少しだけ移動してるように思えました。
取り急ぎ近場の図書館で基本的な史料を集めて調べてみます。
704
:
新今里X
:2011/05/08(日) 00:00:12
『廓の子』
加藤てい子さんの『廓の子』、未読の方にはかなりオススメです。
地名や遊廓の名称を変えたりしてますが、おそらく栄新地を舞台にしてるのではないかと思われます。
遊廓の娘として育てられたヒロイン鳥見亜納の子供の頃の出来事から、成長して妓楼を廃業するまでの物語です。
廓内での事件や出生の秘密など通俗小説的なところもあって楽しめますし、初期のコバルト文庫のようなジュブナイルっぽい感じもあります。
NHKの連続テレビ小説でドラマ化してほしいくらいです。
705
:
膳所裏
:2011/05/08(日) 11:55:08
道を聞くなら蕎麦屋に限る
チャカ チャンリン チャンリン チャンリン デンデーン
「場所がわからねーとき、おめーならどーする」
「そりゃーおまわりさんにきくだろう」
「おまわりさんは頼りにならねー だいたい他の土地の巡査が地図をひろげてうーんと唸るか、第一 派出所はいつ行ったって空じゃねーか」
「なら、駅員か?」
「やつらぁ ボンクラさー こねえだも田丸で東西逆を教えやがって ひでー目にあったばかりよ」
「観光案内所なら間違えあるめー」
「ところがどっこい やつら知ってる事は知ってるが 知らねー事は何も知らねー」
「そりゃーそーだろ じゃあ おめーさんならどーする」
「蕎麦屋に聞くさ」
「えっ 蕎麦屋? おかしーだろ なんで蕎麦屋なんでィ」
「そりゃ 藪で迷ったら 蕎麦屋しかあるめー」
>新今里Xさん Googleでは分かりにくいのですが Yahoo地図で見ると有楽町に不自然なロータリーが有ります。
当時の遺構かも?
706
:
ぼわぞー
:2011/05/08(日) 15:12:54
奈良の舞妓さん
最近いろんなイベント続きでとても楽しいですね。
先日の川本邸見学の後は、久々に木辻を歩いてきました。
ビックナラのアーチ横の格子の家が建て替わっていてショック。
遠からず、静観荘だけが町の名残になってしまいそうです。
元林院を歩いていたら、ちょうど芸妓さんのお稽古の時間。風情がありますね〜。
で、こんなチラシも見つけました。春(初夏?)と秋の、年に2回やってはるそうです。
ならまちナイトカルチャー
奈良の舞妓と奈良の唄
ttp://www1.kcn.ne.jp/~narazai/nightspring.html
・日時/5月17日(火)・24日(火)20〜21時
・料金/500円
・定員/先着100名(予約可能)
・会場/ならまちセンター(猿沢池の近くです)
センターの方に聞いたら、まだ席は余裕があるとのこと。
でも、毎回、舞妓ちゃんの会は人気があるから、
前日までには予約してくださいね〜と、のどかなお返事でした。
17日に行ってみようかな〜と思います。
707
:
新今里X
:2011/05/08(日) 20:20:15
いろいろと
>>膳所裏さん
あのロータリー風の道路って真ん中に植え込みか噴水でもあったんでしょうか?
たしか善通寺の遊廓入口の広場も池があったとか、ここもそういう趣向を凝らしてたのかな?
ぼくが訪れた時は赤い旅館に看板があり「旅館 ●●● 泊750円」と書かれていました。
転業した時分の宿泊料だと想像するのですがいかがなもんでしょう?
気になるのが建物の減り方が早いようで、平成16年の福井豪雨で被害があったのかも知れません。
ぼくはなるべく地元で場所を聞かないようにしています。
地域によっては蔑まれてる場合もありますし遊廓や赤線だったところを調べたりするのに後ろめたさもあってちょっと聞きづらいです。
地元の方に話を聞く場合は、ある程度場所を把握してからにしてます。
同行者がいてて迷惑がかかりそうな時や、一日中歩き回って手がかりもないときなんかは仕方なく道を尋ねることありますけどね。
現役のところはタクシーで聞けば即ご案内ですけど、それも旅費をケチってタクシー乗る機会が少ないもので…(笑)
デジカメとブログが普及した頃からいろんな方の遊廓赤線跡巡りを読ませてもらってると観光案内所などに問い合わせをする方がけっこういるのに驚いてます。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥の諺もあるし効率の良さを考えてのことはよく分かりますが結果は同じでもスタンスの違いを感じてしまいます。
逆に後ろめたさを感じる自分の方が気にしすぎなのかなぁと思ったりもします。
>>ぼわぞーさん
ならまち情報おおきにです。
秋だけかと思ったら5月もやってるんですね。
500円は安すぎかも…
24日にしたら濃厚なスケジュールになりそうで。
-参考-
ありがたいことに去年の秋の分アップされてる方がいますよ。
ttp://www.youtube.com/watch?v=KgnC6DQckBw
ttp://www.youtube.com/watch?v=PdhxBRj_sjE
ttp://www.youtube.com/watch?v=CQbLUdTeEyM
708
:
鷹目
:2011/05/08(日) 23:49:12
軽薄短小の傾向
何もかもすっとばして結果だけ見ているという傾向のところが圧倒的の多いですよね。一部には文献当たったり、地図見たりとして、最終的に案内で聞いたりのところもありますが。
探すという楽しみ、もう一度見直してほしいです。
まあ、何も考えずに無茶やってあちこちに迷惑掛けている人には理解できないでしょうけどww。ホンマやりすぎ多すぎ。
709
:
新今里X
:2011/05/09(月) 00:31:23
和歌山市の遊里の変遷
『和歌山史要 増補4版』和歌山市役所1952年に和歌山市の遊里の変遷が6ページにわたって解説されてましたので、とりあえず下記に遊里名を古い順に書いておきます。
北新博労町(1624年頃)
中之島遊所
元市場信心講
新内日参講
萩原遊廓
安原遊廓
(明治維新)
新内
番丁遊廓
新和歌浦検番
和歌浦不老園
東廓
番廓
(戦災焼失)
東廓組合
和歌山市芸妓組合
新和歌浦社交婦倶楽部
阪和新地・天王新地・葦原区などに各社交婦組合(なぜか設立時期など記述がありません)
詳細は前後の増補版も調べて後日書こうと思います。
追記:新天地劇場(戦災焼失)
710
:
新今里X
:2011/05/09(月) 11:01:27
自分への反省も含めて
>>鷹目さん
判断のつきにくい一軒家の画像を指して「ここはそうかな」とか「ちょっとにおう」とかの曖昧なキャプションや掲示板での議論はいろいろと迷惑がかかるので表現に気をつけないといけないですね。
711
:
膳所裏
:2011/05/09(月) 11:18:40
廓の男
私の場合、旧廓の人とお仕事をしたりお話しをする機会が多く大分と感覚が麻痺している部分が有ると思います。結構訪れたさきで名紙交換したり、後から連絡を頂いたりすることが有ります。
ただ、この感覚が当然会の趣旨に合わないことも充分理解できまので、もしそうであれば影で応援する側に回りたいと思います。
>新今里Xさん 訪れた時はロータリの存在自体に気付きませんでした。後、昭和22年の福井大地震。お隣の丸岡の富田町はこの時に消滅したそうです。
712
:
鷹目
:2011/05/09(月) 16:00:02
(無題)
>膳所裏さん
なかなか名刺交換して後から連絡を貰うなんてなかなか出来ない行動だと思いますので是非続けてください。
それが記録に残す手段になるとます。
やはり一番問題なのが新今里Xさんの書いている方々ですね。
デリケートな問題だけに現状当会でも色々と議論や異論はでたり、話し合ったりします。いまだ答えのでないところであり、模索している部分もあります。
でも現役のところの屋号写ったままの写真アップしたりと、思慮のなさを感じるブログ等が多すぎます
問題提起以前の問題ですわ。
。
713
:
膳所裏
:2011/05/09(月) 20:03:18
観亀神社大祭
なんとも急な情報なのですが、ご案内頂いたのが今日で、私自身知ったのが今日です。
*ttp://gion-east.jp/top.html
万一いける方がいらっしゃれれば得がたい体験となるのは私が保障します。是非会社休む
か、なんなら離職して行ってください。
氏子総代は祇園東の取締りが努められます。
観亀神社はかんきじんじゃです。どなたかのブログでかんかめと書いてありました。
きっとバチがあたるとおもいます。
714
:
鷹目
:2011/05/09(月) 20:13:24
イベント
>膳所裏さん
情報ありがとうございます。何も仕事が入らなければ行ってみようと思います。
奈良の舞妓さんのほうは、夜予定がすでに入っているので行けません(泣)。
しかし、今年の五月は面白い催し物いっぱいですね〜。こんな年も珍しいなぁ。
715
:
:2011/05/12(木) 16:37:57
清娯園
先月愛知県の半田、亀崎を訪れ亀崎の名旅館、望洲楼さんのご主人とお話することが出来ました。
この望洲楼は伊藤博文も宿泊した創業安政年間、東海屈指の名旅館で、今でも松川二郎が絶賛した八勝館さんや十州楼さんと親交があるようです。
後日私の知る限りの情報(といっても阪口祐三郎伝にある半田の花街に関する数行の記載)をお送りしたところ隔月発行の「はんだ郷土史だより」を送っていただきました。
記事の中で半田、亀崎の「女の夜ばい」「色どころ」について情報や感想を求めています。
遊里史板の趣旨から離れる部分もありますがもし望洲楼さんに関する記述を含み何か資料等ございましたら教えてください。
“半田、亀崎女の夜ばい”の俗謡がいつごろから流布し、またどうして全国区になったのか? 郷土史だよりでは?この地は船乗りが多く、女房が留守中忍んでいった。?半島独特の住宅構造で若者は親と別に寝起きしたのが交際を容易にした。?この地は見合いを“呼び合い"と言うが、それが揶揄され“夜這い”となった、等の説を紹介しています。
√伊勢じゃ松阪 尾張じゃ名古屋ョ 半田亀崎や 色どころエ 一度は行ってこい!
ソリャおもしろい
もう一つは平成の今でも大島町で歌われる“色どころ”に関してです。
半田町案内によれば昭和三年、半田では六千人の人口で芸妓60名、亀崎にはそれ以上の芸妓がいたそうです。(望洲楼にお抱え芸妓がいたのは大正までだそうです)
清娯園に関しては半田、亀崎ともご存知の方はいらっしゃいませんでしたが興味は示しておられました。
気長に待ちますのでもし何かの折でも見かけましたらこの“色どころ”についても教えてください。
名古屋ですから“呼び合い”が“よびゃ〜い”ときこえるのですかね?
716
:
夕凪
:2011/05/16(月) 01:07:04
清娯園の有名舗
今里、香取、大安、千歳、春、お染、玉壽司、三日月、歌仙、美喜家、
福壽、お舟、宮壽家、ダリヤ、菊屋、喜美福、五月、明月、新広光
1950年の資料より
※半田市字南大股ってなんかヤラシイ !?
717
:
夕凪
:2011/05/16(月) 02:28:45
幻の 『全國花街めぐり』 後篇
ご存知『全國花街めぐり』(1929年)の巻末で著者である松川二郎氏は
具体的に花街名をあげて後篇の編述中であると述べています。
その中で同氏は、花街めぐりの興味は寧ろ後篇の方に在り、
前篇では三都を始めとして大物は殆ど網羅しているが、
後篇には、地方や外地の花街を収めるつもりであると述べてます。
しかし残念な事に未刊に終わってしまったようです。
ところが先日1930年に創刊された雑誌で下記の記事を発見しました。
●後篇 全國花街めぐり 松川二郎
これは昨年7月誠文堂から出した「全國花街めぐり」の続篇である。
いずれ本年11月頃には単行本として発行される筈なのであるが、
読者から頻りに其の出版を督促してくるので、
取敢ず本誌上に掲載することにした、
花街案内もまた旅行案内の一部だからである。
そして同誌には10頁にわたって伊勢松阪、伏見中書島、岩代郡山の
三花街が紹介されてました。
尚、この雑誌の編輯者・発行者・印刷者はすべて松川二郎となっています。
でもネットで調べた限りでは第2号以後はヒットしませんでした・・・・
718
:
膳所裏
:2011/05/16(月) 17:40:51
濡れ衣
>夕凪さん
さっそく有難うございます。ある程度資料まとまったら、先方にお送りしようと思います。
今、四日市のネットカフェで高速バスの時間待ちしています。
先ほど、鈴鹿神戸(かんべ)の旧十日市町と旧常盤町にてそれぞれ転業旅館一軒ずつ、
そして白子(しろこ)でも転業旅館三軒と妓楼名をそのまま冠したアパート(マンション)二軒を見てきました。
お昼を頂いた白子の旧廓内のおすし屋さんはもと玉突場だったそうです。
白子の隣の千代崎にも遊廓があったので行ってきました。土地の古老によれば漁港のそばに「ちょうかろう」
という建物があったらしいのですが明治、大正の話のようです。
千代崎のおばあちゃんに「そんなもんとっくの昔に無くなったわ!今頃きてもおそいわ!」と決めつけられました。
「ちがう、ちがう、遊びにきたんじゃ無いって。」
あきれた痴れ物と映ったようです。
719
:
膳所裏
:2011/05/26(木) 13:40:10
お知らせ
角屋さんでご主人が文化講座されています。
*ttp://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/
720
:
夕凪
:2011/06/05(日) 17:44:53
幻の 『全國花街めぐり』 後篇 その後
5月16日に書き込んだ雑誌について、もう少し調べてみましたが
やはり続刊の有無は確認できませんでした。
ただ第2号となる8月号の予告チラシを確認する事ができました。
残念ながら、そのチラシには 「 後篇 全國花街めぐり 」 の文字はありませんでした。
また松川二郎氏自身も様々な事業を興したりした為、
発行予告はしたものの、実際に8月号が刊行されたかどうか謎のままでした。
※このチラシの裏面全面は旅行時代社主宰による
2泊3日の『八丈島遊覧』ツアーの参加者募集広告となっています。
尚、このツアーのリーダーは松崎天民・松川二郎の両氏でした。
(参考)
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai05/tz0514.pdf
721
:
膳所裏
:2011/06/08(水) 15:16:58
鞆の浦
再訪しなくちゃ
*ttp://imawosetuniikiru.at.webry.info/201103/article_7.html
*ttp://ameblo.jp/arisorou/image-10810156958-11068495760.html
722
:
膳所裏
:2011/06/10(金) 15:05:56
八丈島のキョン
松川二郎が「全国花街めぐり」を出版した昭和4年に上村行彰の「日本遊里史」も出ました。さらに宮武外骨もこの年「売春婦異名集」「アリンス国辞彙」を上梓しました。
翌5年には「全国遊廓案内」が出版され、向島でダンス芸者がお披露目されたのもこの年の12月で、大阪でも大和屋の阪口祐三郎が芸妓の質を憂えて「芸妓読本」を出しました。
おりしもカフェーの最盛期、全国での芸妓と女給の総数が拮抗してましたので、大都市では女給が芸妓をかなり上まっていたことでしょう。
京都では先斗町の舞妓のレビュー団が東京の公会堂で開演してますし、この年京都だけでヤトナ倶楽部が43軒ありました。
祇園にも振袖花魁がいたり、太夫までいたり・・・
これに娼妓や私娼まで加えると・・・日本全国半ばこれ妓院
松川二郎でなくても、たまには本土を逃げ出し、八丈島でキョンと戯れたくなったことでしょう。
723
:
膳所裏
:2011/07/04(月) 12:51:29
和歌山 海南
昨日海南の旧二新地を歩きましたが両新地とも芸者のみの花街だった様です。
市の中心部にある西新地は現役のスナック街で30〜40の看板の中、由緒ありげな料亭、割烹、旅館などがあり、今は民家のお宅の玄関奥にタイル張りの丸窓(元芸者置屋さん?)なんかも有りました。
駅近く、矢張り川向こうの東新地は完全に退役されているのですが、民家の中でとてもいい味を醸し出しておられました。つた屋(廃屋)、末廣(民家)などの屋号がのこり、カフェ調のカラオケ、料亭、旅館などもありました。
近所の方にお聞きすると、芸者町としては両新地とも昭和40年頃まで賑わっていた様で、
東新地の芦原温泉(現役銭湯)は夕刻ともなると芸者衆でいっぱいだったそうです。
海南の名物ずぼら焼きという回転焼きの店がありましたが、なんとなく和歌山らしいと思いました。
724
:
膳所裏
:2011/07/08(金) 15:47:20
美濃太田
美濃太田駅の線路沿いに延びる大楽通りが赤線であったと複数の方がネット書いておられますが、私の伺ったところに拠りますと、旅館のある辺りは花街だった様で、遊廓の建物は一番奥の点滅信号のすこし先で現在ブラジル人経営の自動車屋のスペースに1軒だけありました。
地元に詳しい方を紹介いただきお聞きしたところ、そこからほど近い太田宿のほうにも遊廓があったとの事なので訪れてみました。
中仙道の宿場であり、木曽川の太田の渡しが江戸中期まであり、醸造地であり、花街が育つ条件は充分揃ってます。
江戸時代旅籠を営み現在公開されている小松屋さんも明治期を通じ遊廓の建物でした。さらに薬局の向かいのパーキングにもかつて建物があったそうです。
近所の方によれば、太田本町1の信号から音羽湯、上町の枡形あたりが芸、娼妓の町だったようです。
江戸期には太田宿辺りが栄え、鉄道が敷かれると大楽通りにも繁華街が出来たという推測はたやすいのですが、市史もなにも読んでいないので詳しい事は分りません。
また、両者の距離も近すぎますし、免許の件も有るでしょうし・・・
もう一度調べたい所でした。
725
:
新今里X
:2011/07/10(日) 20:45:44
鹿が散歩する元林院
夕方から奈良町に行って来ました。
まずは南に歩いて木辻の現状を見てきました。
旅館の静観荘と住宅で使われてる数軒のみ、錦市場の奈良劇場の部分も無くなっていました。
泉亭の名前が残っていた●●家住宅が取り壊されて雰囲気が変わってしまったように思います。
それから南市へ行くとスターミュージックの跡地にオシャレな感じのカフェが建ってました。
風俗店はコスチュームサロントップレディー・ホテルヘルス奈良町ロマン倶楽部・奈良で唯一の回春性感マッサージ夢咲姫が歓楽街の灯を守り続けています。
元林院に入ると稽古をしてるのか三味線の音色が聞こえてました。
そして4〜5匹の鹿とすれ違い、まんぎょくの前に来るとちょうど営業時間になったようで店の明かりが点灯しました。
残念だったのは数年前にまで残っていた奈良町では珍しい木造3階建ての笹乃屋旅館が無くなってました。
笹乃屋はもとは大正時代に建てられた2階建てのお茶屋で、昭和初期に3階建てに増築されたそうです。
<<参考>>
ttp://www.top-lady.net/
ttp://naramachi.gone.jp/
ttp://yumesakihime.net/
726
:
膳所裏
:2011/07/12(火) 14:07:31
元林院の鍾馗様
京都が発祥と言われ、家の軒先で睨みをきかす鍾馗さんですが、京、大坂、滋賀を中心に東海でも、特に花街や花街跡を中心に見かけます。
鍾馗さんが向かい合わせになると喧嘩をするので、向かいの家はしゃれでお多福を置き気をそらす場合が有るのですが、実際アパ祇園ホテルの裏にそんなお多福さんが有ります。
形は色々あり、今里と橋本に子鬼を足蹴にしている鍾馗さんがいます。
不思議なことに元林院のみ軒上でなく、どの家も屋根の上に鍾馗さんがいましたので何か曰くがあるのでしょう。
・・・お知らせ・・・
そろそろ祇園祭りですが甲部舞妓さんや芸妓さんに500円で「おおきに」といってもらいエビスの生ビールがジョッキで飲める大変たのしいイベントが7月15日(宵々山)、八坂神社前の四条通りで19:00から催されます。
今年でたしか4回目なのですが、告知も何もしないのでそんなに人も群がることもなく写真撮り放題ですよ。
727
:
膳所裏
:2011/07/27(水) 17:37:55
浜島
少し前になりますが、三重の浜島を訪れました。京都から高速バスで伊勢市まで行き、路線バスに乗れば片道3690円で充分日帰りができます。
実は勝手に寂れた漁村をイメージしていたのですが、古い建物を保存しつつも新築は伝統にのっとり建てられていますので、町全体に統一感が有り、人通りも盛んでした。
町の中央に町並活性塾があり、館内にある足湯につかっていたおばあちゃん達は九鬼氏の末裔が如く張りも活気もあるのですが、いかんせん方言が容赦なく、私には半分も理解できませんでした。
妓楼といえば、表通りの家の多くが木制の細工をもち、皆貸座敷に見えるのですが、実際は9軒あった妓楼の内、田端楼、一萬楼、三光楼、常磐楼、光月楼は既に替えられていました。それでも海辺に佇み、氷屋から水産業に転じた大成楼は現在人は住んでおられませんが貸座敷の姿を留めております。(大成楼は煉瓦の棟を持つ独特な構造なのですが、転業の際改築したと思われます)
芝居小屋の浜島座は現在浜島診療所で、その隣が足湯ですので、活性塾はかつて検番のような機能を持っていたのかもしれません。
お昼に殻付きの海老やら、出し巻きやら色んな具が入るうどんを頂いた喫茶店はかつてカフェだったそうで、その並びにある、かつての姿をとどめた吾妻楼と吉川楼を教えて頂きました。
かつてこの吾妻楼と吉川楼の間に半弓という名の射的場があったそうです。
この浜島に鼻欠けえびすがあります。漁師さんがハナを取る(一番を取る)為にゲン担ぎでエビス像の鼻を削るらしいのですが、このエビスさん、実は浜島の遊所で遊びすぎて鼻が欠けたのに違いありません。
728
:
膳所裏
:2011/08/02(火) 16:21:45
天竜二俣
日曜日に静岡の二俣の吾妻町に有った遊里跡を訪れました。天竜本町で降りると、メインストリートのクローバー通りの入り口より少し先がその場所で、廃業した銭湯も有り、そこそこ雰囲気もあるのですが、当時の遺構は無く、妓楼名を冠した転業旅館が1軒佇むのみです。
つい最近まで、通称三軒屋?と呼ばれた建物も有ったのですが、現在空き地です。こちらを教えて頂いた年配の方が、三軒屋には小部屋が沢山有ったと仰ったので「いよう大将、隅におけないね、この色男!」と言おうかと思いましたがやめました。
かつて二俣は芸者衆100人を数えた大花街でこの辺りでは浜松と勢いを二分していたそうです。
文献では見ないのですが、クローバー通りの先、横山町にも公許遊廓の一画があったとの情報があり訪れましたが、多分ここにも当時の建物は無い様でした。
ただ、途中の陣屋と呼ばれる立派な木造三層の旅館は見もので、今をときめく数寄屋橋二郎が昔ここで修行されたそうです。又、本田宗一郎もこの辺りの人だったそうです。
さて、十八切符を利用して日帰りのため往復10時間は電車の中です。
おかげさまでこの間“サンディ、リック、ユッカ、ブラース”と共に魔界をさまようもう一人の“ぜぜうら”もこの間バッタバッタとモンスターを倒し、レベルも30から32に上がりました。
“ぜぜうら”は私と同じ、失われた楽園を探す星の守り人で真の勇者なのです。
729
:
鷹目
:2011/08/05(金) 03:04:21
泉州楼
南海電鉄沿線の遊里といえば、堺と貝塚が有名ですが、その間、岸和田にも遊里がありました。花街として繁栄し、昭和の後半には消滅いたしました。
中心となった地区にはその痕跡が全く見えず、外周部にぽつりと小料理屋が残るのみです。花街があったということを知らなければ、なぜこんな場所にといぶかしむだけです。
さて中心になった地区には痕跡は残っておりませんが、かなりはなれたところの小さな神社の玉垣に僅かに痕跡がありました。
当時岸和田花街随一と呼ばれた料亭泉州楼。その銘が刻まれた玉垣が存在します。
たまたま偶然見つけ、神社前の年配のご婦人に聞いてもなぜ神社にの玉垣があるのか経緯は判りませんでした。
岸和田花街に関しては、岸和田在住の内田幸彦氏の著書での記述が比較的まとまったもので、あとは名称のみ本の少しの記事が『坂口祐三郎伝』等に見出せるのみです。
こうして忘れられていった、忘れられそうになっている遊里、日本にはまだまだあるのでしょうね・・・。
730
:
新今里X
:2011/08/05(金) 13:58:14
西中島・東中島
西中島・東中島での遊廓(娼妓貸座敷営業)許可された日が資料によっていくつかあるというのを以前に書いたような記憶がありますが一応下記が確実なところです。(西中島が明治12年2月2日となっているのは誤植だと思います)
●岡山県になってからの動き
芸娼妓渡世出願者情実取糺ノ為必本人ヲ出頭セシム…明治9年4月11日
売淫罰則ヲ定ム…明治9年4月13日
娼妓並貸座敷規則…明治9年4月22日
西中島許可…明治10年2月2日
東中島許可…明治10年10月8日
もちろん許可以前にそれなりの営業をしているのは間違いないところです。
現在は都市計画で公園にする予定になっています。
そのせいか、1995年、2001年、2002年と訪れましたが建て替わることなく空き地が増えていたように思います。
もともとの岡山港が中島の南辺りの西岸にあり、戦後まで瀬戸内海からの旅客船など汽船も旭川を上ってここに着いてたそうです。
昔の船着場と京橋の間には大阪の歓楽街に因んで名付けられた千日前という商店街があって、最近は寂れていますが雰囲気は大阪の千日前と通じるものがあります。
児島湾の入口にある九蟠の遊廓があまり栄えた風でないのは吉井川方面の積み降ろし以外は素通りだったのではないかと想像しています。
西中島に遊廓が許可された翌日の明治10年2月3日に芝居興行も西中島に許可され旭座という芝居小屋ができ、この旭座が後の木下サーカスの発祥となるそうです。
-花街の唄本より-
備前岡山小唄 渡る京橋中橋小橋 なぜに足りない戀の橋
岡山おどり あさひ川には白魚のぼる もゆる思いのかがり船 君に逢うとてきのうもきょうも 通う京橋中橋小橋
731
:
膳所裏
:2011/08/06(土) 18:31:59
(´Д`)
岡山県史で岡山市の遊廓史を補足させて頂くと、
明治12年 岡山区西中島町女紅場に金七拾四円を岡山区役所より下賜される。
同年 中島町娼妓の梅毒検査が月4回から8回になる。
明治17年 山陽新報の記事で客は芸者の芸を買わず、芸者も三味線を碌に弾けず、不器用な籐八拳を 一生涯の宝とする・・・などの記載あり。芸者は鯰猫と揶揄される。
明治33年 第六高等学校が岡山に設立されることになり、中島の移転問題もちあがれど実現せず。
明治40年 陸軍第17師団が岡山に設置され、中島遊廓も繁盛。
大正5年 岡山券番内で娼妓のみならず、芸妓にも検黴が行なわれるという噂が立つと、真っ先に?????????? 婆さん株がこれに反対、中古芸者や豆芸者まで「そんな阿保らしいことがおまへうか」 「人権蹂躙だわ」「姐さんどうしましょう」「ほんとうに情け無いわ」と雷同する。
同年 岡山券番南券が芸妓検黴反対の檄文を中券、神林券にもとばす。
同年 中島の移転問題が再発、中島は旭川の水路の要枢なので運送業や倉庫業に譲るべきという
のが趣旨
大正6年 芸妓検黴問題で芸妓叉々騒ぐ。
大正15年 娼妓外出許可に対し、これに反対した楼主側が陳述すれど警察側は自由外出許可の方針を固める。
昭和9年 室戸台風の被害で旭川大改修時にまたも中島遊廓の移転検討されるが移転せず。
以上二日前届いた“おかやま街歩きノオト、第6号”も参照・・・あ、ばれた、まさか本当に最後の一冊と
は・・・ごめんなさ(´Д`)うわ〜なぐらんでくれ、なぐらんでくれ〜 (´Д`)
732
:
新今里X
:2011/08/11(木) 19:57:06
築地小唄
築地絵の街 唄の町
生きた人形の 花の町
磯の香りに 風吹き寄せりゃ
岸の夜桜 花吹雪
色もほんのり 湯上り化粧
そぞろあるきの 仇姿
詣る弁天 築地の守り
奉納相撲に 人の波
船の焚火 赤々燃えて
和霊祭の 舟わたり
涼む夕辺の 屋形のすだれ
風がそろりと 覗き岩
積る想いを 鬼ヶ城
主に見せたや 今朝の雪
うつす鏡の 樺崎みなと
にくや別れの 舟が出る
膳所裏さん好みのネタだと思うんですが、写真板に書き込みしただけで過去ログに入ってないはずなので書いておきます。
最近某MK先生らしきブログで紹介されてるのとは違う歌詞もあり、お店が宴会用に用意してる小さい唄本に載ってました。
733
:
膳所裏
:2011/08/12(金) 18:38:11
花街 見るguy 人畜無害
小唄、端唄も好きですが、都々逸や川柳の方が好きです。
“三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい”という秀逸な都々逸がありますが、
“三千世界の鴉を締めて、主と朝寝がしてみたい”
京の花街では無粋な殺すを使いません。ちょっとした違いですが、こういった積み重ねが洗練された環境をつくりあげたのだと思います。
都々逸より好きなのが旧遊廓巡りです。
私の場合、観光案内所でダサめの自転車を借り、首から大きいカメラをぶら下げ、目的地で道端に自転車を停め、やはり案内書で頂いた地図をひろげ途方に暮れたりします。
こうすれば、地元のかたが「何処をお探しかな?」と声をかけて下さいます。
“この街の 女郎屋探し 面目ねえ”
とでも言った心境ですが、女衒じゃあるまいし・・・さすがに私でももうちょっと気の利いた聞き方をします。
いわゆる現役にはなるべく近づかないようにしているのですが、やっぱり気になる所は気になりますので、上記のスタイルで訪れます
“この人は 迷って来たのさ それだけさ”
無邪気で人畜無害な旅人を装うにはもってこいの方法だと思っています。
734
:
新今里X
:2011/08/22(月) 12:57:08
ちょっとお尋ね
>膳所裏さん
下記の岡山市の遊里史年表のことですが、どれが県史に記載されていたものでしょうか?
735
:
膳所裏
:2011/08/22(月) 14:41:36
まわし
遊女が泊まりの客に対して、複数の客を取ることを廻しといいますが、この風習は花魁と遊客との間に悲喜こもごもの物語を生み、江戸の吉原の性格に大きな影響を与え、落語の題材をも提供したのはご存知の通りです。
この廻しは関東以東の風習で、一般に東京式といわれ、廻しをとらない関西は大阪式と呼ばれました。それではこの東京式と大阪式の境界線が何処にあるのかを全国遊廓案内で調べてみました。
それによると昭和初期、関東58ヶ所の遊里で廻しをとらなかったのが平塚と大磯のみ、東北でとらなかったのが塩釜と一戸町北館の2箇所、北海道は全て廻しをとっていました。
中部地方を見ると豊橋を含め東方面は東京式で、お隣の岡崎以西が大阪式で廻しをとりませんでしたので境界はこの2都市の間に有ったようです。長野がすべて廻しをとってた一方、岐阜は全く廻しをとりませんでした。新潟は基本とらなかったのですが、新発田は馴染み客が登楼ればとり、中条は内緒でとっていたと有りましたので境界線上のグレーゾーンでした。
岡崎以西で唯一廻しをとっていたのが三重県なのですが、これは古市に遊客が多く、大阪式ではさばけなかったからなのでしょうか?いずれにしても愛知以外は基本県単位でとるか、とらぬかでしたので条例のような物があったのでしょうか?
そもそもなぜ関東は廻しをとり、関西は廻しをとらなかったのか?当然廻しをとれば楼主はうるおい、遊女の年季も早く明けれるのでしょうが、遊女側にも肉体的のみならず、精神的にも大変な苦痛を強いるわけですし、叉お客側も廻し制度は、多少料金は安いのですがあまりメリットが有る制度とも思えません。
この廻しについて情報あれば教えてください。
新今里Xさん>家のパソコンつながらないので明日までお待ちください。
736
:
膳所裏
:2011/08/23(火) 12:16:37
岡山県史
新今里Xさん>
下の年表、上から?〜?とすれば、???以外が岡山県史からの引用です。
かなり省略していますので、オフ会の時頂いた名刺宛にコピーお送りしておきます。
737
:
新今里X
:2011/08/23(火) 13:50:10
おおきにです。
お手間取らせてすみません、30巻でしたらコピーは結構です。
お気遣いおおきにありがとうございます。
お礼がてら既読かもしれませんが下記に九蟠の古写真や笠岡など遊里の記事がありましたよ。
『岡山県性信仰集成』岡山民俗学会 ほとんどは凸凹の集成ですけど…(笑)
5〜6年前に写真板に笠岡の報告をしたときの元ネタです。
738
:
櫻新地
:2011/08/23(火) 13:55:54
違います
東大阪ではなく“つたや”は東成の大今里です。
739
:
新今里X
:2011/08/23(火) 14:33:22
ア、ナルほど
ネットの記事をウロ覚えで書いてたものを修整していただきありがとうございます。
造園業増田組が東成郡大今里にあったということでしょうか?
もしそうなら地元発祥でちょっとうれしいですね。
740
:
新今里X
:2011/08/25(木) 01:22:30
西成ちゃうで東成やで
飛田遊廓は東成郡にできた遊廓…、といってもぼくは西成区から西成郡を連想してしまいます。
今さらという感じですが、日本橋に用事があったついでに、帰りのルートを南寄りに変えて見てきました。
飛田遊廓ができた頃の東成郡と西成郡の境界は単純に現在の飛田本通商店街(動物園前一番街)でした。
もちろん飛田側が東成郡、今池側が西成郡です。
その後、飛田遊廓の地域は1925年に大阪市住吉区になり、1943年に住吉区から西成区に編入されたそうです。
まぁなんというか、いつものごとく商店街をぶらついてきただけですが、東成郡と西成郡の境界だと思えば新鮮な感じで……やっぱしいつもといっしょか。
741
:
膳所裏
:2011/09/01(木) 19:01:05
串茶屋はいかにして廻しを取る様になったか その一
小松の串茶屋の遊女保存会が手作りで綴った“遊女を偲ぶ6”に、いかにして串茶屋がまわしを取るようになったかの経緯について書かれた興味深い文章があったので紹介させて頂きます。
小松のある石川県は金沢を中心に芸妓と娼妓の区別が曖昧であるという独特の廓文化を持った土地柄で、全国遊郭案内はこの辺りの雰囲気を主計町(かずえまち)を引き合いに出して次のような説明を試みています。
「(主計町は)貸座敷の許可地では無いが、さればとて検番制度でも無い。金沢百万石という偉大なる力が斯うした芸妓とも娼妓とも付かない一種変態的な物を生んだものと思われる。但し女は芸妓の鑑札を所持して居る。中には二枚(鑑札)の女も居る」・・・が、多少尋ねあぐんでいる様です。
他県の個々の遊郭に関しては、まわしの有る無しはお客にとって重大な関心であるはずなので、案内書としても出来るだけ触れているのですが、こと石川県の項では小木町に通し花制(=廻しをとらない)と有るのみで、大きく情報が欠如しています。
以上の独自性を理解して頂いた上、私なりに足したり引いたりして書いていきます・・・
742
:
膳所裏
:2011/09/02(金) 14:42:24
その2
まずは串茶屋の歴史から・・・北陸街道沿いの一寒村に過ぎなかった串茶屋に人が集まる様になったのは小松城主、前田利常が那谷寺の復興工事を命じたからで、その促進の為職人達の慰安所として串茶屋に「郭」の営業を許可したのが寛永17年(1640)頃といいます。
ただ、1678年刊「色道大鏡」中の日本遊郭惣目の25遊所で敦賀六軒町、三国松下、今庄新町が載るのに串茶屋が省かれているのは、北前船が寄港し物流の通り道だった敦賀、三国そして近畿と北陸を結ぶ今庄と違い、外様の加賀に向かう宿場町では地元の客が殆どで全国区の知名度は得られなかったのでしょう。
しかし文化文政には、お隣の大聖寺藩の若侍の利用も盛んで、水茶屋時代からの木屋、府中屋を始め中屋、駒屋、山屋を御三家とし、松屋、高瀬、新屋(あたらしや)、大新、小新等20数件が軒を並べ、昼夜弦歌の絶えない街道一の色里となり、遊女の数も100を超えました。
743
:
膳所裏
:2011/09/03(土) 18:09:38
その3
当初、遊女がブタコと陰口を叩かれたぐらい低級な遊郭だった串が江戸後期に北陸街道一の遊所と成り得たのは、徳川十一代将軍家斉が江戸文化の頂点を作りあげた頃、串ではその気運にのり木屋甚三郎という楼主が廓改革にのりだし、木屋を春雲楼と銘打ち、什器は輪島塗、九谷焼のみならず諸国の名器を集め、お職と言われた花魁には琴、三味線、笛、胡弓、舞踊の遊芸を習わせ、さらに茶の湯、生け花、和歌まで学ばせたので花魁の中には詩歌はもとより書画にまで達するものがおり、他の茶屋もこれを見習ったので廓は栄え、富田景州等の文人、墨客が集い、串茶屋はちょっとした文化サロンの様相を呈しました。
また、島原のなます言葉、吉原のありんす言葉の向こうを張り(!そう言えば向こうを張るも廓言葉からきたんでしょうか?)大聖寺の町人言葉を参考に、居ないーおんならん、行ったーいきなった、など“串のおんなる言葉”と言えそうな独自の言葉を編み出し遊女に使わせました。
串の都に対する思い入れはいじらしい程で、実際祇園祭りを勧請し八幡社に合祀し毎年7月15日には祇園祭りを催した事でも痛いほど伝わってきます。
吉原に太夫がいたのは遠い昔のことで、この頃の江戸の花魁は遊芸とは真逆の存在で、舞や演奏は廓芸者に任せきりでしたし、島原も既に享保年間(1800頃)には馬琴に“島原の廓、今は大いにおとろえへ、太夫の顔色万事祇園におとれり”とありますので、遊女に古式豊に遊芸をさせ、それを楽しむ等という文化は吉原では笑い話にすら成らなく、長崎の丸山や串のように中央から離れた一部の所の方に僅かに残ったのかもしれません。
744
:
膳所裏
:2011/09/04(日) 15:06:34
その4 まわしアルアル待つのが大事
さて、この串茶屋でちょっとした事件が起きたのが宝永の始めといいますから1705年頃、串に郭の認可がおりてほぼ半世紀が過ぎたあたりで、場所は茶屋街の中央辺り、かのう屋とよしだ屋の間にあった間口三間、奥行き八間、石屋根、紅格子、中二階造りの“よごの屋”でした。
*この話が収録されていたのは遊女の墓保存会が編んだ串茶屋遊女を偲ぶ(6)で筆者には池田、小柴両氏の名前があります。
この時代まで串ではまわしを取ることはご法度で、もし事が発覚すれば死罪になってもおかしくない程の重大犯罪でした。もし仮に一人の遊女に二人の馴染み客がかち合えば、遊女はより馴染みの方を選ぶ事ができ、あぶれた方は楼主を通して他の店に泊まらせるようになっていました。
その際、他の店に行く客に“お引き花”と称する屋号染めの手拭を渡す風習があり、これにより客どうしの女を取った取られたの遺恨は残らないと考えられていました。
この実話(と思われる)物語の登場人物は、よごやの女主人で先代の一人娘のおふで、今庄の荒物屋の使い走りをしていた時代によごや先代の助次に見込まれて婿養子になった弥六、よごやには、すて(28才)、よね(36)、まん(19)、おこん(27)、みつ(42)のひさぎ女と言われた遊女がいて、この話の基になる日記を残した21才のりんは三番格付けで、前部屋三帖床の間付きの六帖間で15才の飯盛り女おさいと寝起きしていました。
そしてよごやの一番格女郎すての常客で藩が設けた十飛飛脚の、25,6才の松任在住の新七という日に焼けた金払いもいい色男の新一、金沢の鷹匠町の水内左近の下回りで、季節毎、大聖寺の支藩に丁銀を届けて帰る斉木三佐という四十がらみの士分格の男、そしてみつの客でその夜居合わせた、年の項なら六十齢のご隠居で、「この無粋新参!なにをほざく」とわれがねの叱声で間一髪修羅場を収めた加賀藩横山家の従士頭、上坂何某という白髪の老人。
このよごのやの出来事の後、串に「士分の登楼のときは刀槍のたぐい下足帳場おあづけのこと、放歌高吟慎みのこと」そして「きざみ花以后お構いなきこと」つまり廻しをとっても罪にならないというお定めが支藩からのお触れで出ました。
果たして串茶屋の運命を変えたその事件とは!・・・オフ会の時プリントでお渡ししますね。(´Д`)
745
:
:2011/09/10(土) 01:59:22
ご無沙汰しております
たいへんご無沙汰しております。
最近、必要があって、2つほどレポートをまとめました。
「鳩の街 旧赤線カフェー建築の現状」
(その1:はじめに)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080000/
(その2:建物編1)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080001/
(その3:建物編2)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080002/
(その4:資料編1)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080003/
(その5:資料編2)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080004/
「欲望は電車に乗って ― 都電と赤線 ―」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160000/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160001/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160002/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160003/
いずれも未熟なものですが、ご覧いただけたら幸いに思います。
746
:
夕凪
:2011/09/25(日) 23:39:20
売春摘発第一号 (飛田の巻)
始発電車がそろそろ出るという午前4時近く、新地周辺のあちこちの家から、
首をすくめるようにして男たちが出てくる。一見して“朝帰り”とわかるその男たちを、
待ってましたとばかり、物陰から飛出してつかまえるのは、
前日から徹夜の張込みをつづけていた刑事だ。
朝帰りの客から「前夜泊まった場所」「あっせん者の人相」「相手の女の子の様子」
「支払額」などの情報をとるのだが、なかなか口を割らない男たちに対して、
強制力のない職務質問では詳しい答えを得るのことは困難で
折角の職務質問も徒労に終わることが少なくなかった。
廃業届以後は、新地の業者たちも自分の店で女に客をとらせるような
厚かましいことはさすがにしなくなった。
すべて出張売春。
この事実をつきとめるための張込みは一層困難だった。
女の出てくるのを待って、夜どおし土砂降りの雨の中を
コウモリガサに顔を隠して立ちつづけた事も再三。
こうしてキャッチ出来たのは、新地業者で相当数のものが今年になってから
阿倍野界隈の旅館を買取り、そこを根城に偽装売春を続けているという事実だ。
阿倍野付近は西成署の管轄ではない。
所轄がちがえば捜査がスムースにいかないのは当局の通弊、
これをねらったのが業者たちの作戦だが、
藤原係長ら6人の捜査本部員は2班に分かれて
新地→旅館の偽装ルートの確証をにぎった。
そして4月4日午前9時 ―― 。
阿倍野区阿倍野筋1の9●旅館「美空荘」から、しどけない格好で出てくる
2人の女を藤原係長は、連日の張込みで赤くはれた目にみとめた。
サンダルばきの2人の女は刑事に尾行されているとは知らず、小走りに道を急いだ。
行先は、果して、飛田新地内の旧特飲店「美空」だった。
2月28日で一斉に模様替えをした。
大部分の店が灯を消した中で執拗な何軒かの業者は、特飲店の看板を待合に塗り替えて
なお営業を続けた「美空」もその執拗な業者の一人だった。
「美空」の経営者は、新地の業者と一緒に廃業届は出したものの、
これまでの売春のウマイ汁が忘れられず、転業直前の2月中ころ、
阿倍野筋1丁目の旅館を買取り「美空荘」として娘に営業させていた。
ポン引が、「美空荘」に客を連れてくると、経営者の娘は「美空」に電話をかける。
「美空」から「美空荘」までは目と鼻の距離。
電話一本で、女が「美空荘」にやってくるまでは10分とかからない。
夜の大阪にはびこる偽装売春の手口は、しだいに巧妙化してゆくようだ。
1958年5月発行の新聞社系の週刊誌より
747
:
夕凪
:2011/09/26(月) 01:03:48
「まわし」 にみる 植民地的合理性
上方にまずあった公娼を、元和元年(1615年)江戸で吉原として起こすと、
各藩の城下町にもこれをまねるものが増えてきた。
そして五街道の宿場には原則として飯盛りと呼ばれる下女兼用の公娼が許可された。
関八州とよばれた関東各地も、城下町と宿場にはこうして遊女が公認されたのである。
ことに参勤交替が行なわれ、物資流通がさかんになると、
遊女の需要が増し、一方農民の零細化と貧窮が進むとその供給を増した。
ついに私娼もこれに加わって、だるま、ざるそば、草もち、牛人坊などと
関東地方で呼ばれた。江戸にまねて、けころ、よたかと呼んだ場合もある。
この伝統があったので、明治後の公娼数(大正末年調べ)も東京は5,778人に対し、
神奈川2,638人、埼玉109人、千葉259人、茨城231人、栃木773人と多数を抱え、
関東の習慣である「まわし」制により遊女の接客数は関西の2.7倍に達した。
関西の売春風俗は一応古い伝統にもとづいて仮結婚式の形を一部に取り入れているのに、
関東は全く徹底した性の商品化が行なわれ、まわし制などを行なったのは注目に値する。
これは、江戸での植民地的合理性の表れの広がったものであるが、
この習慣は関東にひろくひろがって、
三河の国を境に、東西性風俗の区別とさえなった。
1969年発行の新書より
748
:
夕凪
:2011/09/27(火) 01:08:11
売春摘発第一号 (尼崎の巻)
ここには 難波(ナニワ)新地、新天地、パーク、浮世小路、杭瀬新地など
市内数か所に赤線地帯があった。
これらはいずれも終戦時のドサクサまぎれに場所を構わず
自然発生的にできたものだが、
付近住民のゴウゴウたる非難が市や警察当局を動かし、
業者もついにたまりかねて、
数年前同市内初島、神崎の2か所に集結移転した。
しかし一部の横着な業者や、移転資金のないものがいぜん元の場所にとどまり、
青線、白線的営業を続けていた。
だから売春防止法発効の4月1日午前零時に行なわれた尼崎署の取締りは、
転業の意志を明らかにしている初島、神崎両赤線地帯の監視よりも、
むしろもぐりの多い、移転前の5新地に主力が向けられたのだが、
同夜はついに1件の違反も発見できずに終わった。
が、その日以後も当局は監視の手をゆるめなかった。
しかし県下の他都市では1件また1件と検挙の実績があがるのに、
尼崎市内だけはどういうものか1件も引っかからなかった。
ところがある日、難波新地からつい目と鼻の場所にある派出所へ、
同新地内のS子という女が「私を逃がしてほしい」と駆け込んできた。
これをきっかけとして、暴力による“ 管理売春 ”の事実が明らかになったので、
7日未明を期して正服警官を含む十数名の署員が踏み込み、経営者を逮捕、
同家に換金同様の身の上で残されていたM子ら3人の女性が助け出された。
こうして第1号の逮捕者が出たため、同市の業者に与えられた心理効果は大きく、
これで本気に転業を考えるものが増えるだろうと当局ではみている。
1958年5月発行の新聞社系の週刊誌より
749
:
夕凪
:2011/09/30(金) 22:04:51
業者の絞る知恵 (飛田編)
大阪の赤線飛田の業者はすでに周辺の阿倍野区松崎町で旅館買収、
総工費1,600万円でSホテルを建設、他に15軒ばかりが飛田資本で運営、
白線地帯がでかきあがるのではないかと見られている。
???????????????????? 1957年発行の別の新聞社系の週刊誌より
750
:
新今里X
:2011/10/01(土) 23:37:12
Sホテル?
ホテルSNWの前でおばちゃんが客を引いて女の子(もちろん熟女)が顔見世するシステムやったのは飛田の流派やったからかな。
751
:
夕凪
:2011/10/20(木) 09:40:08
ホテル三菱東京UFJ ?
記事の載ってた週刊誌にもイニシャルで「Sホテル」て書かれてます。
手許にある1963年の住宅地図で「Sホテル」を 探したんですが、
「S」と「ホテル」を信用するんやったら、場所柄からいっても
「 ホテル 鴻池・山口・三十四 」が「 Sホテル 」である
可能性が一番高いですよね。
( 記事が原因(?)で挙げられたとか無かったとして !? )
新今里さんの頃も顔見せしてたとは知らんかったです。
※住宅地図では「ホテル」が前に付いてました。
※余談 :「鴻池・山口・三十四」の合併で○○○!
阿倍野筋1丁目の「美空荘」も探したんですが
当然ながら見つかりませんでした。
また松崎町や阿倍野体育館付近で「唄子」も探したけど
こちらも残念ながら見つかりませんでした ・・・・・
752
:
T-レッド
:2011/10/22(土) 00:38:30
水中エアステーション♪
『美空』はありますが、『美空荘』が見当たりませんなぁ。
松崎町のSに関しては、ホテル『3〇』の他に、ホテル『シ〇〇』というのがアベノプールの近くにありました。
この辺りは、ホテル・旅館がかなり多かったようですね。
ちなみに、『3〇』跡の角には、(毎日ではないけど)今でも不審者が立ってますよ。
753
:
夕凪
:2011/10/03(月) 23:42:52
ポン引団と戦う青年会
赤線の灯も消えようというご時世に、
白昼堂々ポン引きが横行している街がある。
大阪市西成区飛田本通商店街界隈がそれ。
所轄西成警察署では特別巡ら隊15名と私服警官を何人か出すほか、
昨年8月からは大阪府警察本部から機動他30名の応援を得て
毎日午後2時から午前2時まで取締りに当ってきた。
ところがポン引きの方は一層組織化し、
取締りの眼をくぐって朝7時ごろから姿を現わし、
出勤者や学生まで引っぱるという悪質ぶりを発揮している。
このままでは通る人もなくなると、
たまりかねた商店連合会では、
この7月青年会を決成して街の浄化に乗り出し
「被害を受けそうなときは最寄の店へお入り下さい。お助けします。」
と通行人に呼びかける一方、
その暴行ぶりをカメラにおさめて警察へ届けるなど、
街をあげて暴力ポン引き一層に努力を続けている。
??????????????????????1957年12月発行の新聞社系グラフ紙より
●掲載写真の解説より
1.ポン引き団の手先はすべて婦女子だ
売春を勧誘すれば市条例違反、
つきまとえば軽犯罪法違反、
腕力で写真のように引っぱれば強要罪になる。
さらにこうした女を雇使し また売春させるボスは
売春防止法でまず懲役2年になる。
2.通行人が抵抗すれば見張りの用心棒がかけつけて
?? 通行人をどこかへ連れ去り金品を強奪するという。
3.私服刑事を見張るため自転車に乗った男がウロウロし
刑事を発見すると伝令に早変わりするそうだ。
4.売春防止法が発効すれば、ポン引き団のこれら手先は
同法第5条違反で6ヶ月以下の懲役になる。
5.西成署では管内を6つの警戒区に分け、
取締りにつとめた結果、この春約300人いたポン引きも
半減したが、まだまだ安全といえない。
※.大阪飛田遊廓付近の安宿はポン引き団の巣だ。
張込みの刑事は毎夜4、5人のポン引きの女を捕らえて
いるがあとを絶たない。
女たちは捕まりそうになると例外なく全力で逃げるので
女と刑事の追っかけっこが毎夜のように夜の街で展開
されている。 ※他ページの写真解説より
754
:
新今里X
:2011/10/05(水) 01:38:52
ウラ取り
昭和33年 阿倍野筋1丁目9xに「旅館美空荘」ありました。
昭和35年「旅館美空荘」のまま。
昭和37年「旅館美空荘」ではなくなり社員寮になってる。
自分の記録としては平成元年に「旅館美空荘」の北隣の近代建築らしき住宅と向かいの廃業したラブホは撮影してました。
まいどまいどのウロおぼえですが「旅館美空荘」敷地は立ち退きで建物が無かったような気がします。
「ホテル春日野」「南山荘」や「阿部野橋温泉」「錦飲食店街」「旭横丁」などは後まで残ってました。
2005年10月23日の「チャイナドレスを堪能したい!」オフ会のときに散策した一帯は、再開発の名の下に全部Q's MALLの餌食になってしまいました。
昭和33年の松崎町のSホテルですが「新大阪ホテル」というのもあったようで、のちに「新大鉄ホテル」に変わって、その後モータープールになってました。
レッドさんが指摘してくれてた「ホテル シ〇〇」は昭和40年頃から営業のようでした。
2軒のSホテル候補も含めて密集している宿泊施設の名前は「栄竹」「福久寿」「銀泉」「美山」「朝日」「三喜荘」「今一」「桃源荘」「すずらん」などなど。
話の分かる旅館(飛田直営)はどれなのかとても気になります。
ぼくが学生時代、天予備の向かいあたり遠目にオ×コみたいな楕円のネオンサインの旅館があったけどアソコはいったい…(笑)
755
:
T-レッド
:2011/10/12(水) 02:57:00
女工哀史
最近、何度か洞泉寺・K本邸にお邪魔する機会があったので、大和郡山の小話をひとつ。
やはり、この辺りの産業と遊所とは密接な関係があったようです。
大和郡山は金魚の養殖で有名ですが、他に紡績産業も盛んでした。
戦後、JR郡山駅前には大○○紡績工場があり、九州から大量の女工が働きに来ていました。
しかしその実情は、紡績工場の賃金では郷里に仕送りもできず、やむなく洞泉寺、あるいは東岡町で働く・・・
という女工も少なくなかったそうです。
洞泉寺・東岡町の両遊廓が現役の頃、婦女子は、夜の外出時には特に気を付けたとのこと。
二つの遊廓が至近距離にある大和郡山の町は、一部そんな雰囲気でした。
郡山の町も、紡績工場の存在により、発展・衰退という経緯があったようです。
また、箕山新地には検番がありましたが、新地内だけでなく
、少し離れた所にある料亭『O川』にも芸妓を派遣することが多かったそうです。
新地内では、(小)料理屋に呼ばれ、二階でドンチャン騒ぎ・・・
という遊び方でした。
※以上の話は、箕山新地(大和郡山市○○町)出身の方からお伺いしました。
756
:
夕凪
:2011/10/17(月) 02:18:02
尼崎のアオセン地帯
尼崎〜出屋敷ヤミ市地帯を構成する社会的要素として無視できないのは
アオセン*地帯(非公認の売春業者・地帯)であろう。
『尼崎の戦後史』によると、敗戦後市内に多数出没した接客婦(「パンパン」)について、
約150の業者がおり、1954年10月には中央警察署管内220業者、接客婦約1,000人とも
言われるほどに膨れ上がったという(348頁)。
Mさんによると、阪神尼崎駅から出屋敷駅にかけての地域では、
中央商店街より南、線路に沿った一画に、2階建てのこうした業者が集まっていたという。
市内のこうした業者は、昭和20年代末から、
売春防止法が制定・施行される30年代前半頃までに移転し、
新地で営業を再開するようであるが、
ヤミ市時代、こうしたアオセン地帯がこの周辺にどのような要素として存在していたのか、
客層や業者の性格などの事実を追いながら検討する必要があろう。
*ここでは当時の一般的な呼称であった「アオセン」を使用したが、
尼崎のこの周辺をアオセンと呼ぶことはあまりなかったようである。
Mさんによると、線路をはさんだ南側が寺町にあたるため
「テラマチへ行く」などと表現することはあったという。
1996年発行の地域史研究雑誌より
757
:
夕凪
:2011/10/17(月) 02:40:36
「 特飲街 」 と 竹谷派出所
戦後竹谷派出所のその北側とその東の周辺は、
パーク座などを中心とした「特飲街」と呼ばれた所で、
夜には売春婦が袖引きをしていた。
初島の遊郭を戸ノ内(神崎新地)に移した時(ママ)、
竹谷や杭瀬などの特飲街もいっしょに移した。
その時K○子議員が中心だった。
ここの派出所は「昭和29年、大洲橋派出所から分かれて開設。
特飲街の密集地。喧嘩・暴行・傷害・酔っ払いなど多い。
夜は売春婦が良民の袖を引き、うかうか夜道を歩けないといわれていた。
・・・・・ また付近には工場寮があって、給料日には、街がにぎわう」とある。
1997年発行の尼崎の戦後苦しかった時代の生活の記録集より
758
:
新今里X
:2011/11/18(金) 21:24:59
竹谷派出所の北側とその東の周辺 昭和30年代の地図より
北側というのは派出所の北の公園になってるあたりにひとつの歓楽街があったようです。
かほる・びわこ・一声・喜多八・白雪・江戸っ子・みや・千代鶴・風・二見帝・ツルカメ・琴の浦・天龍・みき
など。
その東の周辺というのはパーク飲食店街・現在のかんなみ街だと思います。
当時の屋号は、みさ家・とんねる・初の家・ピンク・朝日・小舟・水月・敷島・寿・富美家・すみれ・清美・ゆき・松の家・千代の家・しぐれ・大八・千成・衆楽など。
とんねるは現在の通称トンネルとはちがって前に果物など売っていた方の角がとんねるでした。
兵庫県警察史に掲載されている売春防止法施行当時のかんなみ街と思われる写真がありますが現在とさほど変わってないような…
あと出屋敷駅の駅前にもスタンド街があるのですが、現在は駅前の広場になっています。
759
:
新今里X
:2011/12/04(日) 23:55:19
かんなみ街の聞き書き
かんなみ街に組合があるのか疑問に思って10年ほど前に思い切って中で何度か聞いてみたことがあります。
結果としては組合というものはないということでした。
やはりあれだけの店の数で営業しているということは何らかの寄合はあると思うのですが、その辺はどこの誰だか分からないような人間に言うべきことではないのかも知れません。
以前に掲示板に書いていたこともあるかと思いますが下記が2003年頃までの聞き書きを整理したものです。
昭和25年、芝居小屋パーク座の施設としてパーク飲食店街が開業、建築されたのは昭和23年という人もいました。
開業当初から特殊飲食店であり、赤線だったそうです。(最初は許可されての開業だったのではないかと想像しています)
当時は出屋敷駅からかんなみ街付近までの間にも同様な営業をしている店が多数あっとのこと。
昭和33年の売春防止法施行以降も飲食店の建前で営業を続け、パーク座が廃業の折り土地建物を各々の店子が買い取ったそうです。
現在まで営業が継続できた一因に各店鋪の家主が違っていることもあるのではないかという話でした。
もうひとつ、●●小学校の東側、東●●町に新天地があったそうです。
ここは現在はとっくに廃業しており、普通の住宅街となっています。
760
:
夕凪
:2011/12/11(日) 15:33:04
2007年5月の活動 ― そして 12.13 (予習編?)
●5月「まちづくりひろば」のご案内 Date:2007-04-30 (Mon)
不思議の空間・飛田新地って、ほんとは何? なぜあそこにあるの?
釜ケ崎一帯とはどういう関係?釜ケ崎訪問者にどう説明したらいいの?
〜釜ケ崎の歴史見直しシリーズ続編〜
発表者:加藤政洋さん(立命館大学 文学部助教授)
5月は釜ケ崎地域に隣接する、いわゆる旧飛田遊郭を引き継ぐ
飛田新地の街についてもっときっちり基本的な視点を得るために、
これをテーマとします。
これは興味本位のものとか、勉強のための勉強とかではありません。
自分たちの地域を案内するときに
飛田地域についてはどう説明すればいいのか、
視点が定まっていないからです。
そういう実践上のニーズにこたえて、この機会をもうけました。
きちんと聞いてくれる方なら、どなたでも歓迎。
■加藤政洋さんのコメント
**************************
飛田新地誌ことはじめ
大正5(1916)年に開廓して以来、遊廓、特殊飲食店街(赤線)、
そして料亭街(?)と変遷してきた飛田新地。
この土地の歴史にはさまざまな出来事が織り込まれていますが、
90年という時間のなかで、あるいは現在の特異な風景に目を奪われて、
とかく忘れられがち、あるいは見落とされがちになっております。
今回は、飛田の来し方をたどり、基本的な事実関係を掘り起こしつつ、
地域のなかの位置づけについても考えてみたいと思います。
**************************
釜ケ崎のまち再生フォーラムのHPより(一部略)
761
:
新今里X
:2011/12/19(月) 18:42:52
2011年12月13日 釜ヶ崎のまち再生フォーラム 報告
当日都合よく参加できましたので、ほんまに簡単ですみませんが報告しておきます。
釜ヶ崎のまち再生フォーラム
定例「まちづくりひろば」
飛田の語り方を考える・その(2)
〜話題の新刊『さいごの色街 飛田』の著者をお招きして〜
ゲストスピーカー:井上理津子さん(フリー・ライター)
まったく混み具合がわからなかったので少し早めに到着。
開始直前には30〜40名で部屋がいっぱいでした。
参加者の自己紹介などあったようですが20分ほど抜けていたのでぼくの方ではどんな方々がいたのか不明。
以前に立命館大学の加藤政洋教授がゲストのとき、釜ヶ崎と飛田新地はセットに思われているが実際は別のものという話がありましたと前置き。
それから『さいごの色街 飛田』著者の井上理津子さんの紹介。
続いて井上理津子さんが語る出版されるまでの経緯・裏話。
興味を持つきっかけ
取材の糸口と試行錯誤
プロセス・ジャーナリズム
飛田新地での出会い
取材内容の虚実
書ける事と書けない事
新地組合への取材
警察への取材
某自由業の方への取材
ある経営者の思い
取材の終わりと出版
新地組合への報告…などなど
参加者からの質問や意見交換
新地の女の子の表情
相撲協会
新地に勤める事情…などなど
著書へのサイン会、並行して部屋の片付け。
散会後、三丁目百番で二次会 (都合により不参加)
忘れてる事もあるかと思いますが大体こういった流れでした。
762
:
遊楽
:2011/12/20(火) 12:47:23
東遊郭(×)⇒東新地(〇)
北浜に…とお尋ねしたのは、性格同様あまりにも雑把ですみません。
場所が場所だけに岡場所と推測するには失礼だし、高麗橋辺りの旦那衆が
「新町」まで歩いて行くとすると直線距離でも十丁以上はあると思います。
「酔うて、そこまで行くのしんどいなぁ」なんて感じで、こじんまりとした
花街もしくは遊興街として存在したんじゃないのかな?と勝手に推察して
いるのですがσ(^^;)、淡路町「御霊神社」付近という事で情報の方どうぞ、
よろしくお願いいたしますm(_ _)m
※今里Xさん、その節はありがとうございます。カメラはやはりあの方向で
購入を決めました(^_^)v
763
:
新今里X
:2011/12/20(火) 13:23:01
(無題)
南地から分裂したとこでもないですか?
764
:
遊楽
:2011/12/20(火) 13:57:16
南地六花街(!?)
飛び地にしてはちょっと遠いですものね…どこかの文献でもなく、
ネットで探してもやはり東新町といえば名古屋…○| ̄|_
昔、老松町界隈の古老にお聞きした話をノートに控えてあった
覚書程度のものなので、やっぱり私の聴き損じでしょうかねぇ(^^;)
お騒がせして申し訳ありません。もし、なんらかの関連情報が
ございましたら…ということで結構ですのでまたご教授よろしく
お願いいたします。
765
:
新今里X
:2011/12/31(土) 03:11:25
(無題)
南地から独立してその地域で営業してたらしいということは知ってますが何も調べてませんのでぼくの方では詳細は不明です。
あの辺りには古い店も何軒かありますので、一度聞いてみたらどうでしょうか?
並行して図書館で調査するなど、掲示板で聞くより楽しみが多いかと思いますよ。
766
:
新今里X
:2011/12/31(土) 03:18:44
○○○人もビックリ
最近××機能が危機的状況に陥ってる新今里Xです。
それはさておき、以前より調査中の松島新地の老舗料亭について報告させてください。
お年寄りから若い人までこの名前を聞けば松島新地が頭に浮かぶという料亭「■■▼ー▼」
はじめて足を踏み入れた●十年前にはもう印象的な名前の看板があったように思います。
しかし遠い記憶なので定かではありません。
それが気になって調べてみると昭和20年代には「■■▼ー▼1」と「■■▼ー▼2」が松島新地で営業していたようで「2」の方は喫茶店だったそうです。
古い地図などから推定すると現店舗は50年以上前からあの路地の角地で営業していたようです。
同新地では他にも数軒は同じ場所で50年以上続いてる老舗料亭があり、中には移転しながら続いてる店もあります。
特に料亭「■■▼ー▼」を調べていたのは昭和20年代にしたらちょっと先取りしたようなかっこいい店名だったからです。
なんだか南欧の響きがする名前なので料亭ではなくイタリア料理の店でもいけるかも…と思います(笑)。
特に語学が苦手だった自分としてはインターネットの翻訳をヤリマクルしか能がないので、いろんな言語を当てはめてみました。
イタリア・スペイン・ポルトガル語などは意外としっくりくる翻訳がありませんでした。
ロシア語では「コームナタ(部屋)」という単語もありましたがやはり店名としたら違和感があります。
もちろんスッキリするために以前から×ろ×ろと調査を進めてもいました。
その結果分かってきたことは、言い伝えによればインドの言葉で「癒しの家」「憩いの場所」などと言う意味を持つこと。
戦後の松島新地復興当時から営業していたのではないかということ。
某風俗BBSの書き込みに「宮殿」や「城」という訳を書いてる方がいるようですが、あれは違うはずですと証言もありました。
ウラ取りということで、ときどき立ち寄るインド料理の店の店員さんに「■■▼ー▼」という言葉がインドに無いか聞いてみたところまったく「???」という感じでした。
しかしまぁインドで使われてる多数の言語の中にうずもれているのかも知れません…
戦後南方より復員された方も多いのでインドはインドでもインドネシア語という可能性もあるかもと思ったりもします。
残×感のある報告ですみませんが、何か分かることがあればご意見いただければありがたいです。
肝心の店名が伏字なのはご迷惑がかからないようにとの配慮ですのでお察しください。(もちろん読めますよね)
767
:
夕凪
:2011/12/31(土) 12:38:44
カフエ指定街の誕生:長野新地
●カフエを集めて長野新地
南河内郡長野町内のカフエおよび関係業を長野遊園地に集めて
新歓楽郷を建設せんとする全国でも珍しいカフエ指定街の工事は
予定よりも遅れていたがいよいよこのほど着手された。
場所は遊園地の渓流に臨む景勝、民家や商店街から隔たった理想的の別天地で
地均しも地割りもすみ、まづ最初の十四軒を新築中である。
町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工
こゝ一・二ヶ月中に新名物「長野新地」もいそいそと新装をこらしてデビューする。
現在長野町内に散在するカフエおよび料理店は約35軒、毎月ふえる一方だが
これからが順次「長野新地」に移ることによって町民のカフエ苦情も解消される。
1933年4月の大阪※日新聞より
768
:
夕凪
:2012/01/10(火) 06:37:22
長野温泉郷の誕生:長野新地
●河内長野に? 温泉郷 ?
??河内長野市の長野観光協会では同市長野町、
府立長野公園下の石川ほとりからわき出る鉱泉で、
付近一体の温泉開発を計画していたが、
このほど府温泉審議会の許可が内定したと通知があった。
近く湯量調査をしたうえ工事にかかり、
来春には「長野温泉」の看板を掲げて開業したいといっている。
この温泉の中心は黄金橋と落合橋の間の石川右岸にあり、
明治の末から大正にかけ、
同市古野町の極楽寺が境内へ引いて「極楽寺温泉」と名づけていたもの。
その後、利用されぬまま放って置かれたのを昨年、
地元観光協会が同から使用権を譲り受け、
府温泉審議会へ温泉許可を申請していた。(中略)
将来は旅館や大衆浴場の誘致もはかり、
同市三日市、天美と肩を並べる温泉郷として売り出したいという。
1961年3月の※日新聞より
769
:
夕凪
:2012/01/10(火) 07:21:43
料理旅館業についての御願い:長野新地
●料理屋営業の継承願い(河内長野市長野町観光協会 → 大阪府公安委員会)
(前略)該氏は河内長野の名望家として之亦人格識見共に優れており
最近 旅館を譲受けられて現在旅館業を経営中であります。
両氏は今般何も料理旅館業の許可を受けたいと熱望して居ります。
かねてより同地区長野新地との悪名がありますが、
之は戦前に経営宣伝の方策として使用した一地名に過ぎず
一般に言う従来の遊郭地名と同一視され勝ちなものでは決してなく
その営業内容が証明されるのであります。
特に最近においては町名も公園通りと変更し
その経営方針も亦一新大いに見るべきものがあります。
(申請年月不明)
※今年末年始にかけての河内長野に関する一連の書込は
某郷土史研究会の資料からの引用です。
(=新聞記事等は孫引きになります。)
770
:
夕凪
:2012/01/20(金) 01:46:50
長野温泉と長野新地
●長野温泉の存在する場所は、天見川と滝畑川の合流点にあり、
山あいを貫流する石川の流れにそって、わずかの地にひらけた。
俗に『長野新地』といわれているところに湧出している。
温泉地には、歓楽的欲求を満たす施設は、欠くことのできない存在であるが、
長野新地にはこの点において多彩な条件をそなえており、
南海・近鉄両駅前には商店街・河畔には旅館、背後の東山一帯は長野遊園地として、
とくに夜桜時機のバルコニーは、独特の情調をかもし逍遥地に適している。
●長野新地の生まれたのはS・8年都市計画法ににもとづくもので、
用途地域として『住宅・商業・興業・遊園』の四地区に分けられ(内務省)、
カフヱ歓楽街長野新地としてデビューした。
当時、店の数は30軒、女給・仲居さんの常備が150人、
花見時や松茸狩時の非常時体制300〜400人であった。
その後第二次世界大戦を経て終戦をむかえ、
長野温泉として脚光を浴びたのは
S・38〜40年の『近鉄沿線温泉まつり行事』を大々的にやってからで、
当時は観光ブームもあって隆盛っをきわめた。
1974年発行の郷土研究会の資料より抜粋
771
:
夕凪
:2012/01/22(日) 21:34:50
明石遊廓
美人と景色を以て天下に名高き明石遊廓は
明石駅を下車し一直線に三丁錦江橋を渡り
中崎遊園地の西端にあり
三方を海に面し寝ながらにして
白砂青松の中崎遊園地を眺め
出船入船の和歌を聞き
淡路舞子は手に取る如くに見ゆ
遠望近景悉く捨て難きものヽみ
美人に於いては天下の名勝地たると共に
遊覧地に相応しき美人揃ひである
眞に明石の情緒を知らんとする者は
必らず一度此地を見舞はねばならん。
ねんねんしてみよ淡路の島が
浮つ沈みつ夢心地
いろは楼、一力楼、西榮楼、千歳楼、尾西楼、
可祝楼、花月楼、山本楼、榮楼、金波楼、
錦松楼、三洲楼、第一末廣楼、第二末廣楼
(いろは順)
1934年発行の明石の観光ガイドより
※「三洲楼」は1937年発行の他資料では「三州楼」とありました。
貸座敷数は同じく10件で名称もおなじでした。
772
:
夕凪
:2012/02/07(火) 00:32:45
みす・大阪の風貌
かふぇというものを、所謂いろまちといっていゝものか何うか知らないが、
伝統をの持った遊びに就いての約束を強ひない、自由主義的な魅力は、
あらゆる花街を脅かすに足る、情痴の雰囲気を持っているからであろうか、
新興かふえはぐんぐん花街を蚕食していった。
昭和5年飛田大喜楼が、始めて酒場式に改装し、
30分50銭の歓楽券を発行して、
ノンセンスな洋装の娼妓たちに、
寝室への遊興を直接交渉させる様式化した時は
遊客は街路に列を作って、その新しい歓楽を悦んだものであるが、
今日飛田、新町、松島などのチャブ屋化の先駆者として
逝く10月25日禁止されて終わったけれど、
大阪花街を述べる上に、絶対に漏すことのできない事柄である。
書きかけ・・・・です。
773
:
新今里X
:2012/03/15(木) 01:04:22
あべの伝説
「YOUごはんまだ?」のICHIGOちゃんを録画したVHSがないかと押入れを探していたら80年代のエロ本を発掘しました!(笑)
懐かしくなりつい手に取って読んでると興味深い記事が…
ルポライター独多宇一氏取材の「ヤッタネ!アベノ・スキャンダルの歴史!」という記事です。
昭和59年に書かれたもので独多宇一氏のことを「この店とは他のだれよりもゆ着しており、内情をすべて知りつくしている…」と紹介されています。
それだけにかなり信頼度の高い記事ではないかと思い、以下に要約を紹介させてもらいます。
ノーパン・トップレス喫茶期
オーナーA氏は電話をかけてもタダになる「マジックホン」を開発するが警察の圧力で製造中止、その秘密工場を改装して昭和55年12月にオープン。
京都下賀茂神社近くにあった「ジャニー」というパンチラ程度の店などに着想を得てノーパン喫茶を始める。
オープン一週間後には全国に先駆けてウェートレスをトップレスにしてノーパン・トップレスのスタイルを確立。
昭和56年に入るとスカート・パンストを取り払いバタフライ姿に、さらに陰毛を剃り落として局部をテープを貼って隠すスジ貼りにエスカレートするも警察の圧力で中止に。
ショー喫茶?期
露出が限界となりショー喫茶に路線変更、野球拳/ボディ・ペインティング/パンティ・オークション/なめクジ・ショーなど客が参加して楽しむショーを始める。
昭和56年5月またまた警察の圧力、ショーに客の参加するのは風俗店では○、飲食店では×ということで警告される。
当時、全国に多数営業していたノーパン喫茶はスキャンダルと同様にショータイムを規制されたことによりブームが終息に向かっていったとのこと。
ショー喫茶?期
客の参加がダメということで、ウェートレス同士・ウェートレスと従業員という形にショーを路線変更。
トップレス・ボクシング/レズビアン・ショー/ドテ相撲や、ウェートレスと客が一時的に雇われた形の従業員のマンツーマン・ダンス/アップダウン・ショーなど。
昭和56年12月、読売テレビの「イレブン大賞」受賞。
昭和58年、バナナ・ショー/オッパイ・プリンの試食会、同8月には第一回アマチュアヌード・コンテスト開催。
ノーパン喫茶ブームが衰退していくなか孤軍奮闘。
もちろん記事はもっと詳細に書かれていますし、モノクロページですが多数の写真が入っていて、ウェートレスも従業員もすごく楽しそうに写っています。
独多宇一氏が記事の最後に紹介してる参考文献は「ダ・カーポ」「月刊せんば」「おとこの読本」でした。
774
:
新今里X
:2012/03/15(木) 02:54:00
ミニスカ流行の終焉からパンチラ喫茶までの橋渡し
ノーパン喫茶ブームへつながる原型となった京都下賀茂神社近くのジャニーという喫茶店を検索してみると1978年(昭和53年)10月15日オープンと書かれてることが多いですね。
店名もジャーニーとされていたり1976年オープンという説もあるようですが、どちらもぼくの方では出典や詳細不明です。
ただ当時のジャニーはノーパンではなくパンチラ喫茶としてちょっとしたお色気がウリの店だったようです。
小学生の頃の記憶ですが超ミニスカートの制服を着たウェイトレスさんが給仕してくれるレストランをおぼえています。
子供ながら「流行過ぎたのにまだミニスカートなんや」と思って見ていたので1975年あたりから数年の間だと思います。
叔父さんがぼくに「晩ご飯食べに行こ」とよくその店に連れていってくれました。
子供を連れてエロ目的じゃないよとアピールしたかったのでしょうか?
その店の大半はお座敷だったので目の高さ辺りをウェイトレスさんの生足やパンストのフトモモが横切り、他のテーブルに置いたり下げたりするときに少しかがむとパンチラです。
自分の注文より他のお客さんの注文の方が気になり、見えやすいテーブルのお客さんが「もっと注文してくれへんかなぁ」と思ってしまいます。
ウェイトレスさんはいろんな人がいるので、かなり豊満なオバちゃんもいますがもちろん同じ制服です。
かがんでもパンパンに張ったミニスカートとムチムチの両フトモモしか見えず、パンティは肉に挟まれてしまってパンチラはビデオ判定のレベルです。
今では余裕をもってアリですが、子供の頃のぼくはあれはナイな…と思ってしまいました。
そのような経験をしたので、ミニスカートブームが去ってパンチラ喫茶ジャニーがオープンするまでの間にも、表立ってウリにはしないけど男性の目を楽しませて集客アップをしていた店がある程度は存在していたのではないかと想像します。
775
:
夕凪
:2012/03/18(日) 22:56:33
NOパン革命! (関西編)
●あっという間に全国に広がったノーパン喫茶ブーム
大阪・京都・東京の人気ノーパン喫茶50軒を紹介したガイドブック
これ1冊でノーパン喫茶のすべてが分かる!
01.ジャニー(京都・西鴨車庫)ここがノーパンの神聖なる発祥の地だ!
02.セクシー・ユー地下エミルマ(地下鉄野江内代前/南海天下茶屋駅前)
エミルマカナノトーカスってこれ店名?
03.プレイガールABS(寝屋川市初町)水そうの中をバストのあるお魚がスイスイ
04.アベノ・スキャンダル(阿倍野区阿倍野筋)ナメクジパーティーにお客はメロメロ!
05.ジャクリーヌ(大阪駅前)ハイ・ファッションのナウいギャルズ!
06.トップレス・シャッター(北区曽根崎)今はやりのポラロイドで撮影OKのお店
07.ファンシー・ハウス(?)日活のロケーションにも使われたお店!
08.アマゾネス(松原町)ブラジル美人ダンサーがショータイム!
09.エキサイティング(宗右衛門町)トップレスのバニーガールがフィーバー
10.パピヨン(戎橋)たぶんこの店の女の子がどこよりも若い
11.ナイトプラザ・ナンバ(?)ノーパンはこういった店で持続するかも
12.喫茶「S」(京都一号線沿い赤池)ポルノ映画館とビニ本とそしてノーパン
13.ウワサのスキャンダル(阪急東通商店街ちょいハズレ)
白の店内に黒人のバタフライとはスゴイ
14.PART?(上新庄)ノーパン喫茶をヤル喜びが店内に充満!
15.喜間暮(上新庄)下からのぞかなくてもヒップが丸出し!
16.ひまわり(曽根崎)ピチピチギャルがバタフライと網タイツ
17.赤い電話(千日前)鋭角バタフライが目の前を舞い踊る!
18.孫悟空(阪急東通商店街)はちきれそうな超ボインがユッサユサ!
19.セクシーユー(近鉄長瀬駅)モノホンのプロモデルがバイトで出勤中
20.クリスタル(炭屋町)ノーパンというよりもヌードそのもの!
21.ヤングレディ(天神橋四)パンティオークションにお客はムラムラ
22.紅花(千日前)1日1回10日で10回、ビニ本いただき!
23.ムーランジュール(千日前)シットリした大人のムードのギャル揃い
24.スキャンダル(ミナミ)店内の階段がなんともウレシハズカシ!
25.ピンク・パンサー(白梅町嵐電車庫スグ)農協の団体さんが時間を指定してドッと
26.モンロー・ウォーク(北区衣笠総門町)常連さんとノーパンを超えておつきあい
27.レッドハウス(玉屋町)虎の皮の超ミニでトップレスの大迫力!
28.ファンタジー(東三国)この先どこまでエスカレートするのかナ
29.モンロ(十三)マル秘ハッスルゴーゴーショーが売り物
30.ニュー初芝(梅田)お色気百パーセントで元気回復だもんね
31.ニュースカイラブ(東三国)ボディーペインティングOKでウハウハ
32.女神(難波)素人っぽい新人ギャルが妖しいお色気で
33.KOOL(阪急庄内)夜は外人ダンサーショーで興奮!
34.エクボちゃん(千日前)キュッと思わずヒップに力がこもります
35.セクシーUP(京都四条)ノーパン喫茶のキワメツキを目指す店!
36.セクシーUP/PART?(京都河原町)超鋭角バタフライってくい込むのです
1981年のノーパン喫茶ガイドより
●この本に掲載されてる『ジャニー』のオーナー(?)の土■さんへのインタビュー記事の
中出、1978年の7月に『ジャニー』をノーパン喫茶としてやってたて掻いてマス。
776
:
新今里X
:2012/03/19(月) 23:07:03
こんなとこまで
検索してみたらジャニーの開業が1978年10月15日としてるのがけっこう多いですよね。
なにかの本にでも書かれてるのがモトかな?
真相を探るべく「ノーパンの神聖なる発祥の地」を訪ねてみたいです(笑)
近所の猪飼野橋にもノーパン喫茶ができましたが残念ながら高校生だったので潜入できませんでした。
今里新地から少し離れた住宅と工場ばかりの場所だったので怪しすぎて誰も近寄らなかったのか数ヶ月で閉店してしまい、大人になったら入ってみようという高校生の夢ははかなく消えてしまいました。
777
:
掛川のすずもと
:2012/04/15(日) 08:20:50
藤枝新地残照
旧東海道沿いからほんの少し外れた場所で藤枝の市役所の裏の小川にそった辺りが藤枝新地があったとこです。今でも置屋さんだった建物が薬局として残っています。 やはり掛川の十九首遊郭跡のように狭く入りくんだ路地や古い旅館やそのあとがありその当時遊郭があった雰囲気が今でも感じとれます。
778
:
新今里X
:2012/08/20(月) 17:16:39
善通寺 砂古裏遊廓
善通寺の砂古裏遊廓に久しぶりに行ってみたところ十年以上前わずかに残っていた妓楼もなくなり普通の住宅街となっていました。
花街の方はまだ料理屋などがあり、スナックや飲食店がならんでいて雰囲気は残っていました。
廃娼運動や第11師団が作られたり乃木将軍の赴任などが理由で、たしか明治31年に遊廓が町外れに移転して街中に残った花街と分離したと思います。
779
:
新今里X
:2012/08/25(土) 22:34:45
敦賀 東遊廓
ぶらっと敦賀に行ってみました。
町の中心が戦災にあっているので古い町並みはほとんどなく遊廓のあった地域もなんの変哲もない住宅街となっていました。
代わりに気比神社横にスナックビルだらけの意外と大きい歓楽街が営業中です。
780
:
新今里X
:2012/09/09(日) 00:16:07
尾山飲食店街
1991年の金沢旅行で近代建築の神門がある尾山神社を参詣したときに知ったのですが後回しになってしまい先日やっとこさ再訪しました。
歓楽街のひとつとして書いておきます。
戦後に引揚者を優先的に入居させたところ飲食店街を形成。
娯楽の少ない時代だったためかなり賑わったそうで、昔はそれぞれの入り口にアーチがあったという話です。
現在は公園化が計画されていて石川県が管理する北側より金沢市が管理する南側の方の立退きが進んでいます。
いちばん南の入り口の建物は元美容院で午後4時頃には飲食街のホステスでいっぱいだったそうです。
781
:
新今里X
:2012/09/09(日) 00:24:42
丸岡町 富田遊廓
丸岡駅から徒歩小1時間、田んぼの中の一本道を歩くことになります。
駅からの地図をよく見てなかったので30分も歩けば…と思ってたら見えてるのになかなか辿り着きませんでした。
現地は広い範囲にパラパラと最近の飲食店があるくらいです。
782
:
新今里X
:2012/09/09(日) 01:29:14
加古川 関根新地
2年前に墓参りの途中で時間が無く下見だけでほったらかしにしてた加古川に行ってきました。
下見のときに何があるというわけでもないのに気になる地域があったので今回はその付近で聞き込みをしてみました。
戦後、それなりの営業をするものが街中に点在していたので、国の主導で業者を一箇所に集め3年の期限で営業を許可することとなり、田んぼの中に数軒の家しかない町外れに新地を作って袋小路の一本道の両側に13〜15軒の店が開業。
営業当時は行列ができる盛況で、ここで働く女の子は身売りで連れてこられた訳ではなく自分で稼ぎにきた人だっので朗らかな子が多かったそうです。
また、新地を作って営業許可を出した手前、街中での密売淫の取り締まりはかなり厳しかったそうです。
売春防止法施行とともに廃業、現在は宅地化しているので袋小路の道の他に痕跡はありません。
地元では単に新地と呼ばれ、関根は新地が作られた場所の比較的広い範囲の古い地名だそうです。
参考:以前の夕凪さんの書き込みです→
http://6402.teacup.com/takanome/bbs/874
加古川の花街の方は戦前の古地図や現在の状況からも分かりやすく、今でも検番の建物も残っています。
783
:
新今里X
:2012/09/10(月) 13:07:52
美川 南町遊廓
真新しい料理旅館が一軒あるだけ。
他も一見古そうに見えるけど良く見ると新しい建物ばかりで雰囲気も残ってない感じです。
784
:
新今里X
:2012/09/10(月) 13:26:58
松任 辰巳町遊廓
辰巳町と書かれた新しいアーチが2ヶ所の入口にあり、いたって普通の飲食店街になっています。
スナックの入ったビルと居酒屋・小料理屋などで中にはちょっと高級な店もあったりします。
当時の建物も散見されますが住宅として前が改装されてるため横から見ないとわかりません。
785
:
新今里X
:2012/09/10(月) 13:43:47
福井 栄新地
青春18きっぷで何度か北陸方面に日帰りで行ったついでに福井市内の栄新地がどうなってるのか見てきました。
2003年に訪れたときに残っていた新地の建物のほとんどがなくなっていました。
翌年の福井豪雨の影響があったのかもしれませんし、単に建物の耐用年数で建替えだったのかもしれません。
何軒か営業していたスナックも全部看板を下ろしたり建物自体がなくなってたりで歓楽街としては消滅していました。
786
:
夕凪
:2012/09/13(木) 01:05:11
羽二重屋の跋扈する福井花柳界
福井芸妓総数は263名で免許地は公園地に橋南、
花代は1時間(2本)76銭、舞子1時間(2本)60銭。
祝儀又はポチは婚礼の外は無いというわけ。
土地柄だけに実業家の花柳界に受ける事は甚だしく
殊に機業地として羽二重商人の仲間達が
殆ど市花柳界の覇権を握っている云うも不可なし。
福井市の免許地は公園地と橋南の2ヶ所に分かれて居るが
概して公園地は宴会芸妓として扱はれ橋南は低級扱を受けている、
数の上で分類すれば公園地が166名、橋南は97名
是は福井芸妓組合が統括して纏めて居る、
料理屋は、組合組織で組合?所有者が70名、無株者が62名、
そして芸妓は芸妓組合と料理屋組合の契約に依って
有株料理屋にのみ出入を許され
無料理屋は有株料理屋の名義に依って芸妓を客席に侍らせている。
料理屋は芸妓屋の花代の中その2割5分を手数料として収得している。
1919年の雑誌より
787
:
夕凪
:2012/09/15(土) 11:38:39
大阪市パノラマ地図
●ご存知かと思いますが『大阪市パノラマ地図』と言う
大阪市域第二次拡張(1925年)直前の大阪市の姿を描いた、
1924年発行に発行されたスゴイ地図があります。
もちろん松島遊廓もバッチリです!
ttp://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2431.html
実はこの地図には大阪市域第二次拡張後の1929年に発行された増訂版が存在します。
(参考)大阪市域の変遷 ttp://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000010265.html
先日、大きな期待を持って中之島図書館に行き新旧の地図を確認してきたました。
詳しく比較する時間はなかったのですが、
相違点は下記の3点だけのようでした・・・・
?第2次市域拡張により新しく大阪市となった地域の区名を元版に追記
?市電の延伸された路線を元版に追記
?地図の右上角の序文(?)に「増訂にあたって」を追記
増訂版 ttp://mozubooks.com/?pid=47863062
●しかし先日、某オークションに『大阪市パノラマ地図』が出品されており
その参考画像を見ると増訂版はおろか元版の右上角にあるはずの序文(?)が
見当たりません?
ttp://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r91719720
はたしてこの地図に異版が何種類あったのでしょうか?
P.S.落札者はボクではありません。
●なお、この地図には復刻版が作成されており、大阪くらしの今昔館や
大阪歴史博物館等で簡単に入手する事ができます。
ttp://www.digitalmaps.jp/order.html
788
:
新今里X
:2012/09/16(日) 00:14:53
Re:大阪市パノラマ地図
現物がどうなってるか見ないといまいち分かりませんけど、多色刷りなので何かのメリットがあって序文ナシの地図を刷っておいてあとで序文を刷り込むこともできますし、その後、増訂版の追記もノセ(オーバープリント)なら在庫の地図に印刷もできないことはないです。
やはりバリエーションが存在したのでは? あと、まさかの刷り忘れ(笑)
復刻版にも序文が入ってるんでしょうか?
789
:
夕凪
:2012/09/17(月) 07:52:10
大阪市パノラマ地図 ?
はい、復刻版は元版を底本にしているようで序文があります。
●なお復刻版には元版の版元である「ワラヂヤ出版(2002.10.8破産宣告)」版と
「デジタルマップス」版(2004.8.5販売開始)があります。
両社の版が同一のものかどうかを、機会があれば、
新今里さんのお知り合いの古本屋さんにお聞きしてみたいと思います。
※ぶよお堂さんで販売しているものはデジタルマップス発行のものです。
●昔の地図は袋(畳紙)に入っている事が多いのですが
『大阪市パノラマ地図』の袋のタイトルには複数パターンがあります。
確認できた袋のタイトルを以下にまとめてみました。
※元版の袋のデザインは同一のようです。
1.元 版:(1)大大阪パノラマ地図
??????????????(2)最新大阪パノラマ地図
??????????????(3)活きた大阪パノラマ地図
2.増訂版:大阪市パノラマ大地図
3.ヤフオク版:不明
なお増訂版には附図として「大阪市パノラマ地図包容区域図」が付いてるようです。
それにしても、全ての袋のタイトルが、地図のタイトルと異なっているのが不思議です !?
いずれにしろかなり売れたからいろんな版があるのではないでしょうか?
790
:
君人太夫
:2012/12/15(土) 19:55:35
島原松本楼の焼失
京都島原・松本楼が焼失した年について、輪違屋の主人の本に
伝聞ながら昭和20年とありますが、昭和7年より10年の間に
全焼したという記事や聞いたことがある人がありましたら
教えてください
791
:
夕凪
:2013/01/04(金) 02:13:54
島原廓 松本楼
君人太夫 様
手許の資料で松本楼の火事について調べてみましたが分かりませんでした。
また手許にある松本楼の資料としては、松本楼発行の絵葉書(5枚組)がありました。
(内訳)?松本楼表の図、?同太夫古式かし図、?同庭園遊興の図、
?同茶の間の図、?同太夫正装の図(発行年不明)
なお『京都遊廓見聞録』(田中泰彦編、1993年)には、
昭和7年(1932年)の松本楼の写真が掲載されてますよね。
792
:
彷徨人
:2013/01/05(土) 20:47:36
「百萬☆名古屋」について
以前,夕凪さんから何度も問い合わせがありましたが,今日,名古屋の「文化のみち」を歩いていたら,「二葉館」に現物が置いてありましたので,びっくりしました。本の後ろを見ると,2012.11.3に発行されたことが分かりました。島洋之助編著,1800円でした。樹林舎(052−801−3144)で発行されているようです。夕凪さんのことですので,すでに手元にあるかもしれませんが。
793
:
夕凪
:2013/01/05(土) 22:33:37
幻の都市案内本「百萬・名古屋」
彷徨人さんどうもありがとうございます。
ご推察の通り●部購入しました。
この復刻版は500部限定だそうで、
基本的には本屋さんでは販売しないとの事でした。
文化のみち二葉館とかで、こっそり販売されていたんですね!
また500部限定と言うのは、決して出し惜しみではなく、
復刻実行委員会の方々が頑張って販促しても
捌けるのは500部が現実的な数字だとの判断で決められたそうです。
ぼくが「百萬・名古屋」復刻の具体的スケジュールを知った時、
名古屋方面のメルアドの分かる方に御連絡をさして頂いたのですが
彷徨人さんのメルアドが分からず御連絡させて頂けませんでした。
申し訳ございません。
ところで巻末に発行予告のある
松村白子楼・島洋之助共著『名古屋艶笑史』って
発行されたんでしょうかね?
こんなんありました。ttp://sekomichi.net/urouro2011/2012/10/post-14.html
794
:
彷徨人
:2013/01/06(日) 21:11:02
百萬・名古屋
夕凪さん,いろいろと情報をどうもありがとうございます。
その場で少し読んでみたのですが,文章がやや軽いタッチで
読みやすそうでしたね。
795
:
君人太夫
:2013/01/26(土) 22:47:05
Re:島原廓 松本楼
夕凪さま、情報ありがとうございました。
松本楼の松本由之助氏は昭和十年一一月の全国貸座敷聯合会に
京都島原遊廊取締として参加しながら1935年12月7日大阪毎日新聞に
載った税務疑獄の記事では起訴された者の一覧に出ており、由之助氏が
刑務所に入る前に大火災が発生していたという話もあるなど、昭和10年以前
に全焼していたような気がしているもので。
「京都遊廓見聞録」全く知りませんでした。取り寄せて読んでみます。
796
:
彷徨人
:2013/06/09(日) 20:35:04
田丸と二見浦
膳所裏さんの報告(2011年)を頼りに,まず気になっていた田丸に行ってきました。山一
と思われる建物と銀花(後で述べる地図には,「遊廓錦花」となっていました。)は健在でした。とてもかつて賑わっていたであろうという面影は全くなかったです。銀花は大きな建物ですが,西の端に蔵があったのがすこし不思議でした。
私も図書館へ行ってきましたが,膳所裏さんがご覧になったであろうという全四巻の町史
はなく,新しく上下巻となっていました。そこには,膳所裏さんが言われるよりももう少し詳しく書かれていました。昭和初期の勝田町の賑わっている写真も掲載されていました。「夜の街は青年の心を揺さぶり,廓通いや入り浸りする若者,恋のもつれに傷害を起こす場
にもなって,近隣町村からは風紀の上から警戒された。……」などと現在としては結構具体的に書かれていました。そして,最後には当時(大正末から昭和初期)の勝田町の町並みの地図まで載っていました。
さて,二見浦ですが,実は2年前,当時(戦後)の住所を頼りに一度歩いてみたのですが,収穫なしでしたので,今回改めて行ってみました。今回は,JR参宮線の二見浦から入りました。旅館街を歩いて,あるおみやげ屋さんのおばあさんに聞くと,海花楼も松前家も
あったということは確認できました。しかし,場所となるとはっきりしません。裏道でおじさんをつかまえて聞くも,場所については分かりません。あきらめなくちゃいけないかなと思いましたが,もう1軒旅館街のほぼ真ん中辺りのお土産やさんに入って聞きました。そして,やっと分かりました。
松前家はなんとそのお土産やさんの真ん前だったのです。現在は駐車場になっていました。さらに,その向こうの砂利がひかれてあるところにヌードスタジオがあり,さらに,あの真珠家さんが海花楼,そして,もう1軒ちどりという家もあった………などといろいろ教えていただきました。話をしていただいたご主人は,3代目だそうです。「いい時代に店やってましたわ。店(赤線)の女の子たちは,うちへお菓子をよく買いにきてくれて,私もようかわいがってもらいました。」と話してくれました。
話を聞くうちに,実は私自身小学6年生の修学旅行で泊まったのがこの二見浦の旅館街でしたので,当時の出来事が少しずつよみがえってきました。確かにヌードスタジオがあり,その辺りがお土産を買ってもいいという端になっていましたが,「ヌード」という文字に惹かれて私たち少年数人は境を越えてしまい,呼び込みのおじさんに叱られた覚えがあります。
何はともあれ,田丸も二見浦もいろいろ分かってすっきりしました。そんな中で二見浦の土産やのおじさんの言葉が頭に残っています。「旅行は遊ぶために行く。景色みたり,見学したり,そんなもんはおまけ。遊ぶことが目的だ。お伊勢さん参りだって,あんなのは二の次。女の人と遊ぶために行って,おまけに参っただけ。」
797
:
夕凪
:2013/06/15(土) 02:00:09
島原 松本楼の焼失
1935年4月に発行された観光案内の“島原”の項に
下記の記述がありましたのでご紹介させて頂きます。
● 島 原
我国に唯一しかないあの古典的な太夫の居る事で知られた古い廓であるが、
其二、三の青楼を除くと娼妓本位の三流廓である。
然し三百年來焼けた事のない廓建築の国宝角屋も昔のまゝに現存し、
さびれたが輪違屋もあり、
松本楼は惜しくも2月に焼失して太夫2人焼死の惨があった、
此等の廓は一現をせず、祗甲の別荘の感がある。
然し他の140軒の青楼何れも一現客をするので簡単に行ける。
上記にあるように、松本楼は1935年2月に焼失したようです。
ちなみにこの資料の著作者は田中緑紅さんです。
798
:
君人太夫
:2013/06/26(水) 19:23:04
Re:島原 松本楼の焼失
夕凪様ありがとうございます。やっと消失した年がわかり
胸の痞えがとれました。
今度、京都に行って昭和10年2月の記事を漁ってきます。
799
:
萩間
:2014/03/24(月) 06:49:13
GOLDEN WEEK
奈良の木辻遊郭跡にある静観荘に宿泊予定です。
もと遊郭の建物をそのまま旅館にしたそうです。
名古屋の中村遊郭にもその手の建物がありますね。大阪市近辺にもありませんかね。 どなたか知っている方いませんか。
800
:
鷹目
:2014/04/06(日) 20:55:27
旅館
>萩間さん
大阪市近辺で一部怪しいのはありますがほぼ転業旅館というのはないと思います。飲食店に転業が多いですね。
泊まれるところは、京都に多いですね。
801
:
君人太夫
:2014/05/03(土) 19:38:46
松本楼焼失確認
以前教えていただいた松本楼の火災ですが、京都日出新聞昭和10年2月9日にバッチリ載ってました。ありがとうございます。(京都府立図書館で確認したのですが、ここ「女性トイレにいるな」とか「無許可で写真を撮るな」とかの張紙が多くあり、いつ犯罪が起こってもおかしくない感じです♪)
802
:
萩間
:2014/06/22(日) 01:58:09
(無題)
鷹目さまはじめまして。 >
>>1413
についてですが、転業旅館じゃありませんが、河内長野の新地跡には少しですが、雰囲気は残ってますね。もと遊郭建築が老人ホームになっていたりその後ろに隠れるようにカフェ調の建物の廃墟が残っていたりしてますよ。 現役の旅館八重もかつてその手の女給さんたちがいたし。
一番の見所はやはりスナック古都の廃墟だと思います。
ちょっと高い所にあるため駐車場の場所がないため住宅地として買い手がつかないためそのままの状態がつづいていると聞きました。 あとどのくらい残っていてくれることか…
803
:
鷹目
:2014/06/22(日) 21:46:28
河内長野
>萩間さん
長野新地は数年前からそんなに変わっていない感じですね。私は近くは通っていたのですが、いつでもいけるからと未見です。以前散策した方の話からそんなに変っている感じは受けません。
都市部から離れているのが幸いしているのでしょうか?
昨今酷いのは、京阪沿線の京都遊里跡でしょうか?中書島はじめ有名どころの建物が取り壊されたり、売りに出されたりしていますね。
それは関西だけの話ではなく、関東もだんだん跡の建物が消えていく傾向にあります。寂しいかぎりです。
804
:
夕凪
:2014/11/20(木) 00:34:03
渡辺 寛
『全国女性街ガイド』の著者である渡辺寛(1913年生)氏は、ご存知の通り、
その著作『詫びる』(1935年5月)が第1回芥川賞予選の候補作になると言うプロレタリア作家としての
顔を持っています。
(参考)ttp://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/pkogun/pkogun1WH.htm
そこで、渡辺寛氏には他に作品がないのか、先のHPにある、渡辺寛氏が同人であったと言う
“ 日本浪曼派 ” をキーワードして調べてみたところ、
新田満夫編 『 日本浪曼派とはなにか 』(1972年、雄松堂書店)に
渡辺寛氏に関する記述がありましたので御紹介させて頂きます。
●渡辺寛氏は同書の中で既に物故者として扱われている。 ※詳細不明
即ち、渡辺寛氏は1913年生まれであり、死亡は1972年以前と言う事にな
りますので、氏は60歳より前にお亡くなりになった事になります。
●同誌に掲載されている雑誌『日本浪曼派』の目次によると、
渡辺寛氏の著作が下記の通り掲載されていました。
1.1935年6月号 第04号 郷臭 (小説)
2.1935年8月号 第06号 退潮期の一挿話 (小説)
3.1936年4月号 第13号 大島紀行 (小説)
4.1936年9月号 第16号 水晶 (小説)
5.1937年3月号 第21号 弁慶橋 (小説)
●プロレタリア文学と日本浪曼派の関係については相容れないようなメイージがあるのですが、
同資料に緑川貢氏による下記の記述がありました。
尚、ここで一筆しておきたいことは、少なくとも郡山弘史、渡辺寛、緑川貢の3人は、
情勢におされて後退はしながらも、終始左翼の立場を捨てなかったことだ。
はたして渡辺寛氏は、その後どのような経歴を経て、『全国女性街ガイド』を執筆するようになったのでしょうか?
805
:
夕凪
:2015/01/07(水) 01:40:35
泊まれない旅館の謎?
以前『 原色寫眞版 京都島原太夫道中 島原 金?樓 』と言う袋に入った
6枚の絵葉書を購入しました。でも絵葉書の宛名・通信面のデザインが違っていたり。
角屋の紋章の入った行燈の前で写っているいる太夫の写真があったりと、
到底袋と中身が一致しているとは思えないものでした。
そこで考えました「これを金清楼がカフェとして生まれ変わった
“ 泊まれない旅館 きんせ旅館 ”に持って行き、
店の方に見てもらえば何か分かるのではないか?」と・・・・
早速きんせ旅館の方に見てもらったのですが、
残念ながら何も分かりませんでした。
そして言われたのです。「うちは以前“金清”で“金清楼”と
言う名前ではなかったですよ。」と ???????
インターネットで検索したら、きんせ旅館は昔金清楼と言っていたと
大勢の方が書き込まれています。果たしてその真実や如何に!?
806
:
夕凪
:2015/01/11(日) 01:22:01
『全国女性街ガイド』 の広告
●好評発売中『全国女性街ガイド』
20年以上二千人以上の体験記録です
渡辺寛著・全篇実地調査による空前の便利さ | 130円 送16円
| 芸者 女給 | 娼婦 街娼 | やとな パンマ | ヨルバイト 変り種 まで
此1冊で全国の女の相場と生態が判る
1956年1月16日 読売新聞 朝刊(一面下段)より
807
:
鷹目
:2015/01/12(月) 19:12:35
RE:泊まれない旅館の謎?
1 廓内の見世、お茶屋料亭だからという理由で外部のものが勝手に「楼」をつけた呼んでいた?
2 見世の尊称として「楼」をつけて呼ばれていた?
3 気まぐれ?
さて・・・。
808
:
夕凪
:2015/01/27(火) 00:41:18
(仮)渡辺寛著作リスト
●現時点で確認できた渡辺寛氏の著作リストを作成してみました。
原点(=『全国女性街ガイド』)に戻って季節風書店の出版した
『100万人のよる』を当たったら予想以上に寄稿していました。
大宅壮一文庫等で季節風書店関係の雑誌を閲覧できると
もっと出てくるのではないでしょうか。
※出版順で記載しました。
№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
15.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
16.旅の女 京の桜週刊サンケイ読物1956.04.08
17.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
18.『鄙びた湯・古い湯治場』1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
19.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
20.『温泉・女・風土記』1956.11.15
21.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
22.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
23.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
24.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
25.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
26.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
27.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
●やはり「№15 千人の職業女性に接した私の結論」(100万人のよる、1956.04.01)が気になります!?
809
:
鷹目
:2015/07/16(木) 15:07:01
再訪-堺
久々に堺の龍神栄橋を歩いた。
初見は2003年。
そのときはまだ4.5軒味のある建物が残いた。
それから数年後、六芒星窓の建物が取り壊されたときき、跡地の確認に訪れた。
そこからの荒廃ぶりがすさまじい。
通りにあった商人旅館もマンションに変わり、建物再利用のラーメン屋もすでになし。
(ラーメン屋はファサード大改装されているだけかも、昔の写真で確認しなければ)
昔、見落としていたであろう微妙な建物が里の端に一軒あるだけ。
もう昔の面影がまったく残っていない。
かつての名残を探すなら、神明神社の玉垣と川べりに設けられたと鳥瞰図の写しに載っている名前のみ・・・。
810
:
萩間
:2015/07/17(金) 14:44:28
龍神新地ですか…。
かつて、明治維新の頃堺事件の舞台になった所だったと思いますが、案外龍神新地や栄新地と関係があったのかも…。
龍神新地も栄新地も元々新地の名残が僅かだったのになぁ。
811
:
彷徨人
:2015/10/01(木) 20:56:33
洞川温泉
5連休に1泊2日で奥吉野の洞川温泉に行ってきました。あるHPで「門前に遊廓あり」
という内容があり,それがずっとひっかかっていたからです。ここは女人禁制の大峯山にの
ぼった男たちが,山を下りた後,「精進落とし」と称してこの旅館街で遊んだ,ということです。実際,旅館の主人などの話によると,その通りだったようで,そういう色町的な雰囲気は赤線後もだいぶ長く残っていたようです。20〜30年ぐらい前かな,と話されましたが,はっきりはしませんでした。その後,海外からの女の人たち(フィリピン人など)がスナックなどにいた,という時代もあったようです。もちろん,今は健全な温泉街になっていますが,そのような話を聞けただけでもよかったと思います。もし,もっと詳しいお話をご
存知の方は教えてくださるとありがたいです。
812
:
夕凪
:2015/10/02(金) 10:46:31
従是女人結界
彷徨人さんお久しぶりです。
手許にあった『奈良・大峰山「女人禁制」の解禁をめぐって』(2002年)と言う
冊子に下記の記述がありましたのでご紹介させて頂きます。
●資料5.「 大峰信仰を支えた『遊郭』」
大峰山と洞川の近代史は、大きな時代のうねりの中にあった、
それとともに、実は、男たちの大峰信仰には、もう一つの姿があった。
それは、龍泉寺の近くに7、8軒の「遊郭」があったことである。
「遊郭」の存在についても『ある聞き書き』で聞いたAさんやBさん、
さらにCさんの主張とは違う意味で、その歴史的事実を明らかにして
記録として残しておきたいと思う。
「遊郭」がにぎわっていた時代には、大峰山に登るのが目的ではなく、
大峰山にかこつけて洞川の「遊郭」で遊ぶのが目的であったという人も多くいたという。
彼らの中では「精進おとし」「筆おろし」「垢おとし」といった符牒で語られ、
堂々と行われていたのである。先の戦争までは、大峰山よりも、
洞川の「遊郭」のほうが知られていたのである。
また『 洞川全景 』(発行年不明)という刷り物には、
龍泉寺門前の川に架かっている橋を渡った、大峰山に向かう道沿いに
12軒の旅館が記されています。
その中には現在も営業されている旅館と、同じ屋号の店も見うけられます。
やはり料理旅館方式で、名目は“ 仲居 ”だったのではないでしょうか?
もちろん“ 女人禁制 ”は男性の修験者が女性性に惑わされること無く
修行するためのものであったのですが、そこはそれで“ 精進 ”した後には ・・・・
(参考)ttp://6402.teacup.com/takanome/bbs/979
813
:
彷徨人
:2015/10/02(金) 21:14:34
洞川温泉
夕凪さん,さっそくのご返信ありがとうございました。
温泉はまだ20年ぐらいしかたっていないそうです。
旅館街だけみると,やはりなかなかいい雰囲気なのです。
「縁側が開かれている」というのが,特徴のようですが,
提灯が道の上に並んでいたり,見方によっては,色町の
雰囲気のある建物がいくつかありました。
814
:
萩間
:2015/11/04(水) 16:02:43
一枚の古文書
お久しぶりです。
しばらく前ですが、ヤフオクで酌婦契約願い(警察への届け&雇人届け)の古文書を落札しました。
まあ昔に書かれた物で何が書いてあるか気にせずほっといたんですが、この前思い出して解読を試みたんですが、明治の四十年代のものだったんですけど名古屋出身の方でした。
その当時の社会背景の例によって今なら高校生くらいの方でした。お勤めになられた所が、いまの三重県??阿下喜 なのでそうでネットなどでそれらしきとこ探してみたのですがいまいちよくわかりませんでしたよ。
まあ三重と言えば伊勢神宮のお詣りなどの途中ですし遊廓などはっきりしたとこでなくてもちょっとした温泉や旅館なんかにも酌婦としてお勤めされていたのかもしれません。
鷹目さん三重なんかの遊廓や赤線などで先ほどの場所もしくはその近辺で明治期に栄えた遊廓や酌婦など置いていた旅館なんかお心当たりありませんか?
815
:
彷徨人
:2015/11/04(水) 23:13:26
阿下喜について
勝手に横入りしてすみません。阿下喜は,平成23年9月に訪れました。夕凪さんからいただいた資料では,赤線が1軒だけ載っていました。以下,当日の記録を簡単に書きます。
まず,図書館で郷土資料を探しました。手がかりは全くありませんでした。ただ,明治の
22年頃「料理クラブ」なるものができ,芸者をあげて飲んだり食ったりしていたという記述はありました。
本町,西町,栄町と歩きますが,面影は感じられません。そんな中,「新角屋」というまんじゅう屋へ入って話を聞きました。そのおばちゃんの話によると,明治から大正の時代には,歓楽街は西町の方にあった。その後,赤線の時代には「川原屋」という店が,まんじゅう屋のすぐ北隣にあったという。その「川原屋」があったという場所には,それほど古くはない八百屋をやっていたであろう家が建っていました。
もう1軒,本屋さんにも入って聞きました。ここのおばちゃんは,昭和14年生まれで,昭和30年頃は高校生だったと言う。川原屋について聞こうとしますが,「そんな名前だったかな?」と忘れているようです。でも,「飲み屋だったから……」と話すのを聞き,やはり,ここに元赤線の「川原屋」は確かにあったのだ,ということが分かりました。
ちなみにまんじゅう屋のおばちゃんと本屋のおばちゃんとは,知り合いであり,二人とも阿下喜にお嫁に来たということでした。以上です。
816
:
夕凪
:2015/11/05(木) 12:55:06
港楽園の阿下喜支部
さすが彷徨人さん、現地報告興味深く拝読させて頂きました。
ところで、あの資料で阿下喜は、
四日市の港楽園の“ 阿下喜支部 ”となっています。
でも阿下喜は、明治末より西桑名からの軽便鉄道が開通しており、
桑名との結びつきが強かったそうです。
そこで桑名の桑陽園の支部ではないかと考え、
資料を見直したのですが、やはり四日市の港楽園の
支部としか読めませんでした。
もちろん町としては四日市の方が、桑名より大きいのですが、
不思議な気がしました。
(参考)阿下喜はこんな町だそうです。
ttp://www.kyoshu-komichi.com/ageki.html
817
:
夕凪
:2015/11/05(木) 13:32:16
三重県の特殊カフェー (再掲)
01.水郷園(長島村) 02.桑陽園(桑名市) 03.朝明待合組合(富田町)
04.菰野東町待合組合(菰野町) 05.湯ノ山支部(湯ノ山) 06.神戸六郷園(十日市町)
07.江島組合(江島町) 08.亀山待合組合(亀山町) 09.藤枝待合組合(津市)
10.久居支部(久居町) 11.上野支部(上野市) 12.名張支部(名張町)
13.松坂貸席組合(松坂市) 14.山田支部(宇治山田市) 15.神社三業組合(宇治山田市)
16.田丸支部(田丸町) 17.尾鷲支部(尾鷲町) 18.紀伊長島組合(長島町)
19.鳥羽待合組合(鳥羽町) 20.二見浦待合組合(二見浦) 21.浜島待合組合(浜島町)
22.渡鹿野待合組合(的矢村) 23.木ノ本支部(有井村) 24.引本待合組合(引本町)
25.阿下喜支部(阿下喜町) 26.港楽園(四日市市) 27.一身田支部(一身田町)
1950年の資料より
818
:
萩間
:2015/11/05(木) 16:30:31
(無題)
彷徨人さま 夕凪さま
詳細なデータありがとうございます。
前掲の古文書は二枚ありまして、一枚は酌婦の勤務許可の警察署への届け出 もう一枚は雇人の身元の証明かつ雇いれの確認書
に相当するものです。
雇人の確認書には 雇用主の住所氏名がありそこから見ますと、料理旅館とありやはり旅館経営にその当時携わっていた方のようです。
当然ながら料理組合には加入されていたと思います。
ただ個人情報の関係もありあまり詳しいことは申し上げあげれませんが、明治期から住所も変わっていないとすれば、ご先祖が料理旅館に携わっていたかたも今は業種も変わってご健在のようです。
あえて私なりに推測しますと、やはり名古屋あたりに斡旋業者のかたに三重県の料理組合に斡旋してもらい地元の警察署に届け出をだして四日市の組合を通じて阿下喜の料理旅館に斡旋してもらったみたいですね。
それにしても明治の四十年代といえば交通も不便でまだ高校生くらいのこが一人で酌婦として旅館勤めをするなんて…。
819
:
夕凪
:2016/09/02(金) 07:46:22
(仮)渡辺寛著作リスト(更新版)
●現時点で確認できた渡辺寛氏の著作リストを作成してみました。
※出版順で記載しました。
№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
15.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
16.旅の女 京の桜週刊サンケイ読物1956.04.08
17.★ 遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
18.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
19.『鄙びた湯・古い湯治場』1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
20.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
21.『温泉・女・風土記』1956.11.15
22.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
23.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
24.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
25.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
26.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
27.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
28.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
820
:
鷹目
:2016/12/30(金) 22:46:43
2016年総括
総括といっても主に和歌山方面の話です。
下津 料理屋、転業旅館有り。ただし旅館は旧屋号で建物建替え済み。
箕島 古い商店街沿い、裏道にあり。派手な意匠の店は少ない。
御坊 北新地 転業旅館、料理屋あり。
御坊 南新地 北新地ほど残っておらず、見所はしいて言えば旧置屋。
串本 一二軒程度。
勝浦 旧遊廓、当時物かなという建物が2軒ぐらい。
勝浦 新地、旧検番、旅館有り。広範囲にぽつりぽつり。
田辺 火事により、アーチとその周辺の店消失。奥に現役の料亭、旧料亭が片手ほど。
821
:
萩間
:2017/07/23(日) 10:08:20
河内長野新地の歴史
最近 河内長野新地についてわかったこと。
戦前 河内長野には
陸軍関連の施設 陸軍病院 陸軍幼年学校etc・・・
その関係で兵隊さんたちや接待用の施設の
需要があったみたいですね。
昭和8年に新地ができてから終戦まで
新地が衰退 復興を繰り返したとあるのは
今の信太山みたいな感じだったのでしょうか?
戦後進駐軍もいたという(八重別館のご主人談話)
話も聞きましたがどうなんでしょうか(関西まちBBS河内長野市part112)
822
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:04:26
長野新地 (河内長野市)
●昔、投稿したものですが御参考までに(1)
楠公遺跡に近く景勝の地であった為、観光料理屋が繁昌したのであるが、
戦後派料理屋、飲食店は政令のため寂れたこともあった。
業者は昔の夢を忘れられ得ず、
季節的の行楽客の多い時の収入によって
辛うじて経営を維持してきているようであるが
一方仲居は大阪、堺などで食い詰つめた三流どころが多く、
収入も少ないので自然に売春を行うようになっていった。
昭和31年初めから、料理屋営業のみに切替を警察の指導によって行われた、
泊り客は減少してきたので、同年11月より青線地帯のリストより除外されたが、
売春法の実施により大阪その他売春婦らが同新地に移行してくることも予想され、
監視は続けられていたようであった。
長野市内には料理店が25軒あって、そのうち「14軒」が点々とあるが、
このうち4軒では従来より売春は行われていないようであったので
売春は14軒中の10軒で、売春婦として働いていた者も約50人位であった。
売防法施行後、長野新地の業者は行楽客等を対象としてきた料理屋として
営業を継続して来たものであったが、
同地方は大阪市内を離れた閑静な地域である関係もあってか、
遊客を相手に売春は密かに行われていたようで、
所轄河内長野警察署では、
昭和31年にかっての売春(青線)地域から除外されている関係もあって、
同地域を売春のない明るい地域にせんと
極力業者並びに従業員を指導して来たようであった。
1961年発行の公機関の資料より(再掲)
823
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:06:41
カフエ指定街の誕生:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(2)
●カフエを集めて長野新地
南河内郡長野町内のカフエおよび関係業を長野遊園地に集めて
新歓楽郷を建設せんとする全国でも珍しいカフエ指定街の工事は
予定よりも遅れていたがいよいよこのほど着手された。
場所は遊園地の渓流に臨む景勝、民家や商店街から隔たった理想的の別天地で
地均しも地割りもすみ、まづ最初の十四軒を新築中である。
町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工
こゝ一・二ヶ月中に新名物「長野新地」もいそいそと新装をこらしてデビューする。
現在長野町内に散在するカフエおよび料理店は約35軒、毎月ふえる一方だが
これからが順次「長野新地」に移ることによって町民のカフエ苦情も解消される。
1933年4月の大阪※日新聞より
824
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:11:51
長野温泉と長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(3)
●長野温泉の存在する場所は、天見川と滝畑川の合流点にあり、
山あいを貫流する石川の流れにそって、わずかの地にひらけた。
俗に『長野新地』といわれているところに湧出している。
温泉地には、歓楽的欲求を満たす施設は、欠くことのできない存在であるが、
長野新地にはこの点において多彩な条件をそなえており、
南海・近鉄両駅前には商店街・河畔には旅館、背後の東山一帯は長野遊園地として、
とくに夜桜時機のバルコニーは、独特の情調をかもし逍遥地に適している。
●長野新地の生まれたのはS8年都市計画法ににもとづくもので、
用途地域として『住宅・商業・興業・遊園』の四地区に分けられ(内務省)、
カフヱ歓楽街長野新地としてデビューした。
当時、店の数は30軒、女給・仲居さんの常備が150人、
花見時や松茸狩時の非常時体制300〜400人であった。
その後第二次世界大戦を経て終戦をむかえ、
長野温泉として脚光を浴びたのは
S38〜40年の『近鉄沿線温泉まつり行事』を大々的にやってからで、
当時は観光ブームもあって隆盛をきわめた。
1974年発行の郷土研究会の資料より抜粋
825
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:14:35
河内長野の季節仲居
昔、投稿したものですが御参考までに(4)
●ここには元赤線の長野新地があり、
川に沿って転業組の飲屋が20軒ばかりある。
“こつまなんきん”で知られたタコツボ女性が4・5人、
宵の口からキャアキャア嬌声を発している。
バーは『京美』『ますみ』『夕亀』『大陸』等があり、
飲屋では『想い出』『あづま』『一五夜』など。
どの店もイッパツ用のオンナが2・3人いて、マツタケ狩りに精を出している。
以前は店の2階へ誘っていたが、取締りがうるさいとかで
最近では店外デートの形をとっている。
ここで面白く遊ぼうと思ったら10時を過ぎて行くとよい。
河内長野はマツタケの産地としても有名で、マツタケ狩りのお客も多い、
そうしたお客を迎えるため、『八○』『山陽荘』といった料亭も3・4軒ある。
この種の料亭には季節仲居と呼ばれる女中さんがいる。
マツタケの季節には河内長野、牡丹のころは長谷寺というように、
季節によってあちこち渡り歩く女たちである。
こういう料亭に入り、スキヤキなどに舌づつみを打ちながら
季節仲居さんを口説いてごらん。
驚くほど簡単にOKする。
「今夜お泊りになって、仕事が終ってからお伺いするわ」
そう言って彼女は部屋を出て行く・・・・・・
1972年の成人雑誌より
※“河○長○の温泉街”で検索すると、チョットだけ雰囲気を味わえるかも・・・・・
※“こつまなんきん”は今東光原作の映画(1960年)のようです。
826
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:26:20
長野温泉郷の誕生:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(5)
●河内長野に? 温泉郷 ?
??河内長野市の長野観光協会では同市長野町、
府立長野公園下の石川ほとりからわき出る鉱泉で、
付近一体の温泉開発を計画していたが、
このほど府温泉審議会の許可が内定したと通知があった。
近く湯量調査をしたうえ工事にかかり、
来春には「長野温泉」の看板を掲げて開業したいといっている。
この温泉の中心は黄金橋と落合橋の間の石川右岸にあり、
明治の末から大正にかけ、
同市古野町の極楽寺が境内へ引いて「極楽寺温泉」と名づけていたもの。
その後、利用されぬまま放って置かれたのを昨年、
地元観光協会が同から使用権を譲り受け、
府温泉審議会へ温泉許可を申請していた。(中略)
将来は旅館や大衆浴場の誘致もはかり、
同市三日市、天美と肩を並べる温泉郷として売り出したいという。
1961年3月の※日新聞より
827
:
夕凪
:2017/07/28(金) 11:27:38
料理旅館業についての御願い:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(6)
●料理屋営業の継承願い(河内長野市長野町観光協会 → 大阪府公安委員会)
(前略)該氏は河内長野の名望家として之亦人格識見共に優れており
最近、旅館を譲受けられて現在旅館業を経営中であります。
両氏は今般何も料理旅館業の許可を受けたいと熱望して居ります。
かねてより同地区長野新地との悪名がありますが、
之は戦前に経営宣伝の方策として使用した一地名に過ぎず
一般に言う従来の遊郭地名と同一視され勝ちなものでは決してなく
その営業内容が証明されるのであります。
特に最近においては町名も公園通りと変更し
その経営方針も亦一新大いに見るべきものがあります。
(申請年月不明)
828
:
夕凪
:2017/12/10(日) 01:08:22
渡辺寛著作リスト(更新版)
●渡辺寛氏の著作リストを更新しました。
※出版順で記載しました。
№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14★旅の女 わらぐつ 週刊サンケイ読物 1956.02.05
15.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
16★旅の女 桃 週刊サンケイ読物 1956.03.25
17.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
18.旅の女 京の桜 週刊サンケイ読物 1956.04.08
19★旅の女 山王祭 週刊サンケイ読物 1956.04.15
20.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
21.『鄙びた湯・古い湯治場』 1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
22.遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
23.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
24.『温泉・女・風土記』1956.11.15
25.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
26.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
27.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
28.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
29.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
30.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
31.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
829
:
夕凪
:2018/07/18(水) 23:32:46
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
大正楼 京口新地 篠山 etc. をキーワードにしてネット検索すると
必ず角店でその四角い角を切り取ったあの建物の画像が出てきます。
でも、どうして画像のあの店が“ 大正樓 ”であると特定したのか、
その理由を述べた書込みを見た事はありません。
自明のように“ 大正樓 ”として扱われています。
googleマップでも、あの建物の場所を“ 大正樓跡 ”としています。
私の知る限り“ 大正樓 ”の建物を推定しようとする試みは
木村聡さんが『 実話ナックルズ 』(2010年7月号)に書かれた
「幻ではなかった 阿部定がいた遊郭」と言う記事のみです。
(または木村聡さんの記事を拠り所とした書込みばかりです。)
その木村さんの記事も、「(木村さんの訪問時に残存した)
この3軒のうちどれかがそうだとしたら、答えを出すのは簡単だ。」
と、慎重に前提を置いて書かれておられ、
丸山友岐子さんと言う作家が自著執筆の為に
タクシーの運転手に京口新地へ案内してもらい、
元「大正楼」の御主人にインタビューをされ、
著書の中で、大正楼の造りについて
四角い家の一角を切って多角形にし、
どの道から来る客もキャッチしようという娼家の知恵。
飛田だけでなく、松島も、篠山も
角店は殆んど例外なく、四角の角を切って玄関にしていた。
と、簡単に描写されているのを、その根拠とされています。
※丸山友岐子著『 はじめての愛−阿部定さんの真実を追って・・・ 』
(かのう書房、1987年2月25日発行)
でも『 はじめての愛 』の中には
「百年を経た床板はみがき込まれて黒光りしていた。」とか
明らかに誤った記述(誇張or省略?)も見られます。
∵同書発行(1987年)時、京口新地(申請時は池上村貸座敷)は
明治41年(1908年)開業から79年しか経っていません。
はたして、真実の “ 大正樓 ” は 何処に !?
(以下、続く)
830
:
夕凪
:2018/07/20(金) 11:36:02
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
徒然なるままにインターネットで遊んでいると、
たまに驚くような情報に出会います。
今回がまさにそれでした。なんと
“ 大正楼の宿屋兼特殊飲食店の営業許可証 ”に
巡り会ってしまったのです(赤い糸?)。
ttps://aucview.aucfan.com/yahoo/b158731794/
この許可証には 大正楼の住所が“ ▲77−4 ”と記載されています。
この住所をgoogleマップで検索すると、乃木ビンゴ!
京口新地の一角に赤い「ピン」が立ちました。
でも残念ながら、その場所は大正楼跡とされる地点ではありません。
大正楼跡とされる場所の対面(トイメン)の一画を指し示しました。
※大正楼跡とされる場所の住所は“ ▲79−26 ”でした。
篠山市役所にお聞きしたところ以下の事が分かりました。
?現在も篠山市には住居表示の制度がなく“ 地番 ”のみを使用している。
?1930年に旧篠山町が八上村等と合併し新篠山町となった時も、
旧住所以下の番地は、そのまま旧来の番地を引き継いだ。
以上の事より、現在、大正楼跡とされる場所にあるアノ建物は、
1946年大正楼に特殊飲食店としての営業許可が下りた
“ 大正楼 ”の建物では無い事になります。
(参考)
※京口新地の指定区域は“ ▲76〜▲79 ”です。
※ちなみに阿部定さんは1931年頃6か月間ほど大正楼にいたそうです。
はたして真実の“大正樓”は何処にあったのでしょうか?
また現在のアノ大正楼とされる建物は一体何なのでしょうか?
※正直、アノ大正楼とされる建物が何かについては分かりませんでした。
もっとも、ネット上では大正楼分店との情報があります。
中途半端な書き込みで不完全燃焼の思いをされた方もいらっしゃるかと
思いますが御容赦ください・・・・
831
:
夕凪
:2018/08/09(木) 03:01:09
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
●備忘録ノ−ト(1)
1.『はじめての愛 あべ定さんの真実を追って…』の著者である
丸山友岐子さんにお聞きしたかった ・・・・
丸山友岐子(1934〜1995)
ttp://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/40246.html
2.なんで「港公民館」なの? 「京口(きょうぐち)」と「港(みなと)」
ttps://www.city.sasayama.hyogo.jp/timei/timei24n.html
3.旧細見楼と旧大正楼分店(FBより)
投稿者は『秋田県の遊廓跡を歩く』を執筆された方です。
現地で、裏手の川を挟んで向かいにお住まいの方からお聞きしたそうです。
(1)旧細見楼 ttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=484323678309427&set=a.373223606086102.87016.100001953980021&type=3&theater
(2)旧大正楼分店 ttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=484324858309309&set=a.373223606086102.87016.100001953980021&type=3&theater
832
:
夕凪
:2018/08/09(木) 03:45:10
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
● 備忘録ノ−ト(2) 妓楼数の変遷
明治41年07月(1908年:開設時)1軒
?篠山楼(娼妓数 7名)
明治41年12月(1908年)12軒 娼妓数 79名
?吉野楼(14名)?小川楼(06名)?彦根楼(12名)?田中楼(08名)
?一力楼(08名)?常盤楼(05名)?金松楼(02名)?高森楼(02名)
?鬼楽楼(04名)?都 楼(07名)?藤田楼(05名)?戎 楼(06名)
昭和33年01月(1958年)10軒??※廃業:昭和33年03月30日(1958年)
? 旭 、?松月、?細見、?都一、?都二
?千草、?大正、?萬可、?昭和、?一楽
●赤線 八上新地 (篠山町)
明治40年(1907)、歩兵七十連隊の設置とともに形成された遊郭で、
翌41年許可されたもの。
昭和33年1月には、業者10人、売春婦14人、引き手13人がいたが、3月30日に至って閉鎖。
飲食店・・・2、住宅・・・2、自動車運転者・・・2、呉服商・・・1、農業・・・1、
公務員・・・1、郵便局員・・・1に転廃業した。
その後の動静は全く健全である。
兵庫県発行の1959年の資料より
●その他の京口新地に在った妓楼(年代不詳)
金瓶楼 ttps://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/syoukai/kyodo/5/120.html
美屋古楼(大正6年:1917年頃)ttps://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/syoukai/kyodo/5/122.html
833
:
夕凪
:2018/10/05(金) 01:10:32
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
入手した画像データより
●池上村貸座敷区域図面
明治41年1月15日貸座敷営業免許地に指定、仝上7月開業
この図面に記されてる中で最も早く(明治41年10月28日:1911)に
開業したのは高盛楼と言う妓楼でした。
※篠山楼の名前はありませんでした。
また大正楼は、当初、田中楼として明治44年11月8日(1911年)に開業し、
大正2年3月30日(1913年)に営業者が変わり、
名称も、新元号に因んだのか“ 大正楼 ”となったようです。
更に大正4年9月26日(1915年)に営業者がY氏に変更されたとあります。
この大正楼の場所は、現在、大正楼とされる現存する妓楼の対面の一角
かって2戸1のような建物(の内、向かって右側)の
あった場所のように思われます。
また現在“ 大正楼(分店?) ”とされる場所には
建物はなにも書かれていませんでした。
現在、“ 大正楼 ”とされる、現存するあの建物は
一体何なのでしょうか?
834
:
鷹目
:2018/12/30(日) 18:05:07
2018年総括
長野県
松本花街
松本城近く松本館を中心に6軒前後。
事前に書籍に乗っていた松本芸妓組合の電話番号を検索したがヒットせず。
長野鶴賀新地跡
神社に新地跡碑、まだ存在せり。
おまけ-2017年総括
白浜新地
10軒程度雰囲気のある建物存在。
一応白浜新地と明記するが、統一組織がなく、検番が複数存在状態だったそう。
まだ5名ほど芸妓さん健在。
新宮大王地
10件ほど建物現存。
建替えも屋号同じ店もあり
三本杉、浮島ともに痕跡なし。
835
:
夕凪
:2019/04/08(月) 21:08:32
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
YAHOO! ニュースの配信で“ 大正楼取り壊へ ”との記事を
目にした方も多いと思います。
そこで、何故、地元新聞はあの建物を“ 大正楼 ”として報道したのか?
まさか地元紙がネット情報を鵜呑みに?
何か根拠があるはずだと思い確認してみました。
やはり同紙はキチンと裏付けをとろうとしたようでした。
その方法とそれから分かった事をご報告させて頂きます。
1.地元の古老の方に取材を行い、3名から下記の証言を得た。
2.90歳位の方の証言:大正楼である ・・・・
????87歳の方の証言:大正楼の分店である。
????85歳の方の証言:大正楼の分店である。
3.上記から分店か否かは不明であったが、記事では「大正楼」と表現した。
4.本店が別にあるとしても、阿部定がどちらに居たのか、
????あるいは状況に応じて、本店・支店両方に出てたのかは不明
以上より、ネット上で大正楼とされる“ あの建物 ”は“ 大正楼分店 ”だったものとボクは考えます。
●(参考) 丹波新聞より
2019年03月04日:阿部定いた元遊郭、行政代執行開始 状況確認、本格的に取り壊しへ
ttps://tanba.jp/2019/03/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E3%80%81%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%BB%A3%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%80%E7%8A%B6%E6%B3%81%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%80%81/">
https://tanba.jp/2019/03/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E3%80%81%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%BB%A3%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%80%E7%8A%B6%E6%B3%81%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%80%81/
2019年02月26日:阿部定がいた元遊郭取り壊しへ 「大正楼」倒壊の危険性高く
ttps://tanba.jp/2019/02/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E5%8F%96%E3%82%8A%E5%A3%8A%E3%81%97%E3%81%B8%E3%80%80%E3%80%8C%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%A5%BC%E3%80%8D%E5%80%92%E5%A3%8A/">
https://tanba.jp/2019/02/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E5%8F%96%E3%82%8A%E5%A3%8A%E3%81%97%E3%81%B8%E3%80%80%E3%80%8C%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%A5%BC%E3%80%8D%E5%80%92%E5%A3%8A/
836
:
鷹目
:2019/07/02(火) 20:53:54
2019年前半
福原
神社の玉垣健在。
浜松鴨江
旅館も1社3軒のみ営業。
裏路地に古い家屋があるものの往年の面影なし。
一番奥の駐車場に石碑があるらしい。(ネット情報)
浜松花街
建て替え割烹料亭あり。
静岡花街
老舗料亭浮月楼が有名。
川辺
風俗店一軒あり。唯一の名残か。
三島遊廓
電柱のプレートに「新地支」
三島新開地
風俗店一軒あり。風俗店一軒あり。唯一の名残か。
三島本町
割烹料亭がちらほら。そんな中、一軒のピンサロ異彩を放つ。
御坊北新地
去年の台風の影響か、2軒ほど傷みが目立つ。
転業旅館料理屋も営業している風ではない。
御坊南新地
16年に訪れた時とさほど変わらず。
837
:
鷹目
:2019/12/28(土) 22:02:37
2019年後半
岩屋敏馬神社
閼伽井に料亭貸席であろうと思われる銘が入った石碑あり。
年号は明治39年。ただし敏馬花街・敏馬検との関係不明。
神戸花隈花街
町内の神社と地蔵尊の玉垣に昭和40年代に存在した料亭の屋号銘あり。
静岡二丁町
お稲荷さんに石碑「双街の碑」と解説あり。
838
:
夕凪
:2020/02/06(木) 20:14:34
渡辺寛著作リスト(更新版?)
●渡辺寛氏の著作リストを更新しました。
※出版順で記載しました。
№ タイトル 掲載誌 発行年 備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説) 文学評論 1935.05.01 新人推薦号
02★最近の新劇運動批判 脚本を中心に 文学評論 1935.07.01★
03.郷臭 (小説) 日本浪曼派 1935.06.XX
04.退潮期の一挿話 (小説) 日本浪曼派 1935.08.XX
05.大島紀行 (小説) 日本浪曼派 1936.04.XX
06.水晶 (小説) 日本浪曼派 1936.09.XX
07.弁慶橋 (小説) 日本浪曼派 1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
08.赤線区域の経済白書 東京案内 1954.01.30
09.赤線漫談 東京案内 1954.05.01
10.赤線凉談 東京案内 1954.07.01 新東京通信編集長 渡辺寛
11.あのまち・このはな花街めぐり 東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版 1955.04.20
12.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集 1955.05.20
13.『全国女性街ガイド』 1955.08.20
14.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集 1955.08.20
15.旅の女 わらぐつ 週刊サンケイ読物 1956.02.05
16.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
17.旅の女 桃 週刊サンケイ読物 1956.03.25
18.千人の職業女性に接した私の結論 100万人のよる 1956.04.01
19.旅の女 京の桜 週刊サンケイ読物 1956.04.08
20.旅の女 山王祭 週刊サンケイ読物 1956.04.15
21.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
22.『鄙びた湯・古い湯治場』 1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
23.遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
24.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉 100万人のよる 1956.10.01
25.『温泉・女・風土記』 1956.11.15
26.東西温泉千夜一夜 100万人のよる 1957.01.01 大鰐・道後温泉
27.『酒と女』 1957.01.25 ※著者氏名なし
28.東西温泉千夜一夜 100万人のよる 1957.02.01 沼尻・玉造温泉
29.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻 100万人のよる 1957.04.01
30.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻 100万人のよる 1957.05.01
31.私は知りたい 100万人のよる 1957.06.01 随筆家
---------------------------------------------------------------------------
32.女のいる全国避暑地ガイド 100万人のよる 1963.08.01 新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
839
:
鷹目
:2020/07/01(水) 20:32:39
2020年前半
尾久花街
大店はハイツ、駐車場に。
おそらく料亭料理屋もしくは旅館であったと思われる建物が片手5件ほど。
それも若干改装、ペンキの塗り替えをしている。
八幡神社の玉垣に料亭の銘あり。ただし摩耗が激しい。
沼津花街
神社玉垣に沼津芸妓寮組合、割烹の銘あり。
840
:
新今里X
:2020/12/05(土) 23:49:56
土橋
ご無沙汰してます。
寝かせて一回忘れてたネタをば…(笑)
「中の川整備 豊坂町から北柳井町にかけての通称中の川筋には、終戦直後の混乱期に、バラック建ての飲食店が、道の中央よりやや南寄りを流れる幅約三メートルの小川をはさんで立ちならび、当時で五〇軒が不法占拠していた。川の汚染で不衛生となり、火災、児童への悪影響や交通妨害などが心配されていたが、昭和三九年三月、付近の町内会長が中心となって「中の川を守る会」が結成され、市に対策を要求していた。七月になっても、具体的な対策を打ち出さない市の対応に業を煮やした守る会のメンバーの一人が、「不法には、不法をもって戦う」と、不法建築の飲食店街から約五〇メートル東側の市道にバラック二軒を建てはじめるという事件も起こったが、市もこの実力行使にようやく動かされ、問題解決のために諮問委員会を設置することを決めた。一〇月、市議会議員一一名からなる専門委員(中の川北通り線道路上建物除却臨時専門委員)が設置され、四二軒の不法建築を立ち退かせる方法が検討され、昭和四一年三月一〇日、四二軒の不法占拠者に五ヵ月以内の移転命令を出した。移転先について、市は市有地を賃貸借契約を結んで提供し、住宅建設資金のあっせんをするなどして、一〇月一四日までに全戸が移転することになり、翌一五日には道路として復元された。昭和四九年六月には地下駐車場が完成し、川幅も狭くなって昔の面影が失われたが、新しい中の川通りとなった。」松山市史 第4巻 現代
戦後の一時期、今は広い車道になってる中の川通りの真ん中にある中の川に沿ってバラックの飲食店があるというのを知り、どこにあったのか確認しようと昭和30年代の住宅地図から探したところ、松山市駅の目と鼻の先、末広町交差点から裁判所前通りと交差するところまで50軒近く並んでたようです。
昭和40年の地図が最後で、その後は記載がないので、松山市史の通りに移転により撤去されたのが地図でも確認できます。
ついでに市内の各地や今治などの地図を見て楽しんでたところ、土橋の始まりが意外と遅いのが分かりました。
赤線青線時代どころか昭和42年にはじめて掲載され全店埋まってない状態で、翌年の昭和43年で全店掲載。
そこでやっと中の川筋のバラック飲食店の移転先が土橋だと気付いて、屋号を比較すると昭和43年の地図で3分の2ほどが中の川筋のバラック飲食店と同じでした。
その後は地図上では昭和50年頃までが全盛期のように見えました。
土橋の建物は赤線青線時代のものかと思ってたのに自分より年下でショック。
建物のおとなしいデザインは行政側としては住宅として使ってほしかったのではと憶測しています。
https://twitter.com/maido728/status/1335058814429777920
841
:
ガーゴイル
:2020/12/19(土) 13:21:26
どこのドイツ
ノーパン喫茶やノーパンしゃぶしゃぶのブームの話は本当は北極や南極の島の話である。
842
:
鷹目
:2020/12/27(日) 21:20:50
2020年後半
泉佐野花街(再訪)再訪
置屋と言われている建物は存在。
街灯についていた新地通りの看板は、現在は一つもない。
貝塚近木新地(再訪)
2018年から特に変わりなし。
深川は建物は健在だが扉を閉ざしたまま。
京都橋本(再訪)
13軒ほど残っているが、空き地や建て替え、外壁等の改装が目に付く。
旧歌舞練場は夏に取り壊され、石碑だけが残っていたが、こちらも9月後半に撤去される。
843
:
鷹目
:2021/12/30(木) 19:59:04
2021年総括
かんなみ街
21年11月1日付で市役所と警察により行政指導・警告が行われたため営業停止。
11月半ばごろから飲食を提供する店へと転業、改装を行っている店もある。
河内長野
新地の痕跡ほとんどなしだが、雰囲気のある建物ある。
普通の料理旅館は現役で一軒あり。
電柱の表示が「ユウエンチ」。
あと現地確認はしていないが、火事により松島新地料亭2軒焼失。
844
:
夕凪
:2022/01/05(水) 17:18:49
新天地の隣は写真館?
●やっぱし和歌山の「新天地」は映画館みたいですネ。
昭和初期、手平地区には紡績関連工場が多数立地していて、
そこで働く女工さんの休日の楽しみの一つが
「新天地」で映画を見る事だったみたいです。
※下記リンク P.28(8/10)参照
ttps://www.hannan-u.ac.jp/doctor/tourism/matsumura/mrrf4300000091ub-att/mrrf43000000bgwy.pdf
紡績工場は女性が多かったけど、染色工場は男性労働者が多かったとの事です、
と言う事は・・・・
●また和歌川を挟んでだ西側の芦原新地の辺りは皮革産業が盛んだったようです。
(参考)ttps://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/zoomify/mapview.php?m=002455475_o
845
:
鷹目
:2022/07/30(土) 18:52:44
おしらせ
teacup.掲示板サービス終了に伴い、ログごとしたらば掲示板に引っ越し予定です。
引っ越し後ものんびりやっていきます。
https://jbbs.shitaraba.net/study/13448/
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