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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば

1避難民のマジレスさん:2020/06/23(火) 08:14:59 ID:wCRrWiVM0
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5- なんでも避難所 -
URL: https://jbbs.shitaraba.net/study/8276/

73ウンコマン:2020/07/13(月) 21:55:46 ID:b/R.LjPg0
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/   糞スレって聞いて来たよ?
  " ̄ ̄ ̄"∪

74鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/13(月) 22:49:03 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティの言う精神とは、オショーの言うマインドと同じようなものじゃな。
それは知識と信念の集まりに過ぎないのじゃ。
既に記憶され知っている事が知識であり、まだしらないものごとを信念に拠って補っているのじゃ。
精神は知識の重荷を背負っている故に、真実であり、測る事のできないものを理解できないのじゃ。

75避難民のマジレスさん:2020/07/13(月) 22:50:21 ID:b/R.LjPg0
>>74
で、阿頼耶識は現量だろ?

で、僧侶じゃないのに何で僧侶って嘘つくの?

で、論破されたら宗教板去るって約束は嘘なのか?

76避難民のマジレスさん:2020/07/14(火) 19:42:18 ID:AToV857o0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 1
 私たちのほとんどにとって、私たちの生全体は努力に、何らかの種類の意志 [力] に基づいています。私たちは意志なき、努力なき行動を考えつくことはできません。私たちの生はそれに基づいています。私たちの社会的、経済的、いわゆる霊的 [・精神的] な生は一連の努力であり、いつも一定の結果に到達するのです。そして私たちは努力は本質的 [・不可欠] で必要であると思うのです。
 なぜ私たちは努力をするのでしょうか。それは単純に言うと、結果を達成し、何ものかになり、目標に達するためではないでしょうか。私たちは努力をしなければ、沈滞するであろうと思うのです。私たちは、それに向かって常に奮闘している [ところの] 目標について、観念を持っています。そしてこの奮闘が私たちの生の一部分になってしまったのです。私たちは自分たち自身を改めたいなら、自分たち自身に根本的変化をもたらしたいなら、古い習慣を除去しよう、習慣的、環境的影響などに抵抗しようと、ものすごい努力をします。それで私たちは、何かを見つけたり達成したりするため、そもそも生きるためのこの努力の連続に、慣れているのです。
 そういう努力すべては自己の活動ではないでしょうか。努力は自己中心的な活動ではないでしょうか。私たちが自己の中心から努力をするなら、それは必然的にもっと多くの葛藤・抗争、もっと多くの混乱、もっと多くの悲惨を産み出すにちがいありません。それでも私たちは努力に次ぐ努力をしつづけるのです。私たちのほとんどは、自己中心的な努力の活動が私たちのどんな問題をもきれいにかたづけないということを、悟っていません。反対に、それは私たちの混乱と悲惨と悲しみを増大させるのです。私たちはこれを知っています。それでも私たちは、何とかこの自己中心的な努力の活動を、意志の行動を突き破りたいと願いつづけるのです。
 私たちは努力をすることがどういう意味なのかを理解するなら、生の意義を理解するだろうと、私は思います。幸せは努力をとおして来るでしょうか。あなたは今までに幸せであろうとしたことがあるでしょうか。それは不可能なのではないでしょうか。あなたは幸せであろうと格闘しますが、幸せはないのではないでしょうか。喜びは抑圧をとおし、制御や耽溺をとおして来ません。あなたは耽溺するかもしれませんが、終わりに苦さがあるのです。あなたは抑圧したり制御したりするかもしれませんが、いつも隠れたところに闘争があるのです。ゆえに幸せは努力をとおして来ないし、また喜びも制御と抑圧をとおして来ないのです。にもかかわらず私たちの生すべてが一連の抑圧、一連の制御、一連の後悔に満ちた耽溺です。また私たちの激情、貪欲、愚かさとの常に圧倒される、常なる格闘もあるのです。それで、私たちは幸せを見つけたい、何か私たちに平和の感情、愛の感覚を与えてくれるであろうものを見つけたいと願って、奮闘し、格闘し、努力をするのではないでしょうか。けれども愛や理解は闘争によって訪れるでしょうか。私たちのいう格闘、闘争、努力とはどういう意味なのかを理解することが、とても重要であると、私は思います。
 努力とは、あるがままをあるがままでないものに、またはあるべき、なるべきものに変えようとする格闘、という意味ではないでしょうか。すなわち私たちは、常にあるがままに向き合うことを避けようと格闘しています。またはあるがままから逃げようとしたり、 [それを] 変容させたり修正したりしようとしています。真に満足している人は、あるがままを理解し、あるがままに正しい意義を与える人です。それが真の満足です。それは、所有物をほとんど持たないことや多く持つことに [関係しているの] ではなくて、あるがままの意義全体の理解に関係しているのです。そしてそれは、あなたがあるがままを修正したり変えたりしようとしているときではなく、それを認識するとき、それに気づくときだけ、訪れうるのです。
(´・(ェ)・`)つ

77避難民のマジレスさん:2020/07/14(火) 19:42:59 ID:AToV857o0
くまめも1-7-1
努力すべては自己中心的な活動。それは必然的にもっと多くの葛藤・抗争、混乱、悲惨を産み出す。私たちは、自己中心的な努力の活動が私たちのどんな問題をかたづけないということを、悟っていない。反対に、それは混乱と悲惨と悲しみを増大させる。
 私たちは努力をすることがどういう意味なのかを理解するなら、生の意義を理解するだろう。幸せは努力をとおして来るか。あなたは幸せであろうと格闘するが、幸せはないのではないか。喜びは抑圧をとおし、制御や耽溺をとおして来ない。耽溺→終わりに苦さ、抑圧、制御→隠れたところに闘争がある。私たちの生すべてが一連の抑圧、制御、後悔に満ちた耽溺。また私たちの激情、貪欲、愚かさとの、常なる格闘もある。それで、私たちは幸せを見つけたい、何か私たちに平和の感情、愛の感覚を与えてくれるであろうものを見つけたいと願って、奮闘し、格闘し、努力をする。けれども愛や理解は闘争によって訪れない。格闘、闘争、努力とはどういう意味なのかを理解することが、重要。
努力とは、あるがままをあるがままでないものに、またはあるべき、なるべきものに変えようとする格闘、という意味。すなわち私たちは、常にあるがままに向き合うことを避けようと格闘する。またはあるがままから逃げよう、変容させたり修正したりしようとする。真に満足している人は、あるがままを理解し、あるがままに正しい意義を与える人。それが真の満足。それは、所有物をほとんど持たないことや多く持つことに ではなくて、あるがままの意義全体の理解に関係している。そしてそれは、あなたがあるがままを修正したり変えたりしようとしているときではなく、それを認識、気づくときだけ、訪れうる。
(´・(ェ)・`)

78鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/14(火) 23:08:24 ID:1d4drIFg0
>>75 わしは既に名誉欲など無いから武勇伝を語る気もないが、そんなに知りたいならば教えてやるのじゃ。
 臨済宗の者は阿頼耶識は現量等という学者の妄想を真に受けてわしに注意されたのじゃ。
 すると臨済宗の者は学者の本に書いてあるとか反論したが、それがどのように書いてあるのか証拠となる文を一行も引用できずに逃げ去ったのじゃ。
 わしに一言も反論できず、泣き喚き、負け惜しみを述べ消えたのじゃ。

 臨済宗の者が僧侶でも無いのに僧侶と名乗るのはやはり金のためじゃろう。
 達磨一人の伝法では出家できず、明治の廃仏毀釈では仏教を捨てたのに葬式商売の金が欲しさに僧と名乗っているのじゃ。

 上記の如く臨済宗の者は証拠となる文の一行すら書けずに論破されてしまったが、宗教板を去るという約束も守らないのじゃ。
 以前には論破されたら腹を切るとか言いながら、自分で自分を論破したが、やはり腹を切ることはなかったのじゃ。
 
 以上の如く臨済宗の者は大悟徹底したわしに悉く論破され、僧侶でもないのに僧侶と嘘をつき、約束も守らないとわかったじゃろう。
 みんな騙されないようにするのじゃ。

79鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/14(火) 23:25:12 ID:1d4drIFg0
努力の全てがいかんのではないのじゃ。
食べるための努力は必要なのじゃ。
逃避や快楽を求める努力が混乱と悲惨を生み出すのじゃ。
それらを止めてあるがままの今ここに気付くことが解放なのじゃ。

80避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 13:44:54 ID:b/R.LjPg0
>>78
嘘つくなよ?
ちゃんと根拠は出してるぞ?


阿頼耶識が現量であることについて根拠を出しておくが、どうせ読んでも分からないだろう。
また、無理して読んで発狂でもされて事件でも起こされたら面倒だし、自己責任で読め。


阿頼耶識が現量であること。

 https://i.imgur.com/UkrhNYe.jpg
 https://i.imgur.com/Li9bdjN.jpg
 https://i.imgur.com/o42Qi3g.jpg
 https://i.imgur.com/9UuebOH.jpg

唯識三十頌並びに唯識三十頌釈

 https://i.imgur.com/c9pwM9R.jpg
 https://i.imgur.com/zlVVA0Y.jpg
 https://i.imgur.com/01ypAQE.jpg
 https://i.imgur.com/T0uOgKV.jpg
 https://i.imgur.com/utJTr77.jpg
 https://i.imgur.com/953OvxH.jpg
 https://i.imgur.com/hxipUz7.jpg
 https://i.imgur.com/FqXs57S.jpg
 https://i.imgur.com/V9PXcNn.jpg
 https://i.imgur.com/VIAr2Q9.jpg
 https://i.imgur.com/xTTMnWu.jpg

81避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 22:38:23 ID:1ImQedTk0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 2

 それで私たちは、努力とは、あるがままのものを、何かあなたがあって欲しいと願うものに変容させようとする闘争や格闘であることが、わかるのです。私は、純粋に技術的である工学や何かの発見や変容のように物理的な問題との格闘 [について] ではなく、心理的な格闘について話しているだけです。私は、心理的であり、いつも技術的なものに打ち勝つその格闘について、話しているだけです。あなたは、科学が私たちに与えてくれた無限の知識を使って、大いに注意を払ってすばらしい社会を築くかもしれません。しかし心理的闘争と格闘と戦いが理解されず、心理的響きと流れに打ち勝たないかぎり、社会の構造は、たとえどんなにすばらしく築かれても、何度も繰り返し起きてきたように、必ず潰れてしまうのです。
 努力はあるがままからの逸脱です。私があるがままを受け入れた瞬間、格闘はないのです。どんな形の格闘や闘争も、逸脱の表示です。そして心理的に、私があるがままを何かそれではないものに変容させたいと願うかぎり、逸脱-すなわち努力-が存在するにちがいありません。
 初めに私たちは、喜びと幸せは努力をとおして来ないということを、自由に見ることができなければなりません。創造は努力をとおしてあるのでしょうか。それとも創造は、努力の止むことをもってだけあるのでしょうか。あなたはいつ、書いたり、描いたり、歌ったりするのでしょうか。あなたはいつ、創造するのでしょうか。確かに、努力がないとき、あなたが完全に開いているとき、すべての水準で、あなたが完全な疎通 [の状態] にあり、完全に統合 [融和] しているときです。そのとき喜びがあるし、そのときあなたは歌ったり詩を書いたり絵を描いたり何かを作ったりしはじめのです。創造の瞬間は格闘から生まれません。
 おそらく私たちは創造性の問題を理解するなかで、私たちのいう努力とはどういう意味なのかを理解することができるでしょう。創造性は努力から出てきたものでしょうか。そして私たちは、自分たちが創造的であるそれらの瞬間において気づいているでしょうか。それとも創造性は、全くの自己忘却の感覚 [でしょうか] 、動揺がないとき、思考の動きに全く気づいていないとき、完全な満ち足りた豊かな存在だけがあるときの、あの感覚でしょうか。その状態は、苦労の [結果] 、格闘の、葛藤・抗争の、努力の結果でしょうか。あなたは何かをたやすくすばやくするとき、努力がなく、完全な格闘の欠如があるということに、今までに気づいたことがあるかどうか、私は知りません。しかし私たちの生はほとんど一連の戦い、葛藤・抗争、格闘なので、私たちは、 [そこにおいて] 闘争が充分に止んでしまった生、存在の状態を、想像できないのです。
 闘争なき存在の状態、あの創造的存在の状態を理解するには、確かに、努力の問題全体を探究しなければなりません。私たちのいう努力とは、自分自身を充実させよう、何ものかになろうとする奮闘という意味なのではないでしょうか。私はこれです。私はあれになりたい。私はあれではない。あれにならなければならない。「あれ」になるなかに、闘争があり、戦い、葛藤、格闘があるのです。この格闘において私たちは必然的に、目的の獲得をとおした充実に、関心があるのです。私たちは対象に、人物に、観念に自己の充実 [・自己実現] を求めるし、それは常なる戦い、格闘を、なろう、充実しようとする努力を要求するのです。それで私たちはこの努力を必然的と受け取ったのです。それは-この何ものかになろうとする格闘は、必然的なのかどうか疑わしいと、私は思います。なぜこの格闘があるのでしょうか。どんな程度でも、どんな水準でも、充実への欲望があるところ、格闘があるにちがいありません。充実が、努力の裏の動機、推進力です。偉い経営者にも主婦にも貧しい人にも、このなろうとする [戦い] 、充実しようとする戦いが続いているのです。
(´・(ェ)・`)つ

82鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/15(水) 22:41:43 ID:1d4drIFg0
>>80 臨済宗の者は世親が阿頼耶識は現量と書いたチベットからの翻訳文があるとか嘯いて、実際には一行も引用できなかったのじゃ。
 嘘を書き、それが暴かれると別の本を晒して詭弁を弄するのみなのじゃ。
 ありもしない伝統にしがみ付いてお釈迦様の禁じた葬式商売に励む者はわしのように正しく大悟徹底した者には到底敵わないのじゃ。

83避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 22:47:35 ID:1ImQedTk0
くまめも1-7-2
努力とは、あるがままのものを、あって欲しいと願うものに変容させようとする格闘。心理的格闘が理解されないかぎり、社会の構造は、たとえどんなにすばらしく築かれても、必ず潰れてしまう。
 努力はあるがままからの逸脱。あるがままを受け入れた瞬間、格闘はない。そして心理的に、あるがままを何かそれではないものに変容させたいと願うかぎり、逸脱-すなわち努力-が存在する。
 初めに、喜びと幸せは努力をとおして来ないということを、自由に見ることができなければならない。
 おそらく創造性の問題を理解するなかで、努力の意味を理解できる。創造的である瞬間は、全くの自己忘却の感覚、動揺がないとき、思考の動きに全く気づいていないとき、完全な満ち足りた豊かな存在だけがあるときの、あの感覚。その状態は、苦労の、格闘の、葛藤・抗争の、努力の結果ではない。生はほとんど一連の戦い、葛藤・抗争、格闘なので、闘争が充分に止んでしまった生、存在の状態を、想像できない。
 闘争なき存在の状態、あの創造的存在の状態を理解するには、確かに、努力の問題全体を探究しなければならない。努力とは、自分自身を充実させよう、何ものかになろうとする奮闘という意味。この格闘において必然的に、目的の獲得をとおした充実に、関心がある。対象に、自己の充実・自己実現を求めるし、それは常なる戦い、格闘を、なろう、充実しようとする努力を要求する。充実への欲望があるところ、格闘がある。充実が、努力の裏の動機、推進力。誰にもこのなろうとする戦い、充実しようとする戦いが続いている。
(´・(ェ)・`)

84避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 22:58:36 ID:b/R.LjPg0
>>82
wwwwwwwwwwwwwww

ぶぁ〜〜かw

そのすべてが現量についての説明だよ。。

読んでも分らないからって人のせいにするなよwww

85鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/15(水) 23:42:42 ID:1d4drIFg0
↑それが臨済宗の詭弁じゃな。
 おぬしはその主張を肯定するチベット語から翻訳した世親の文があると嘯いたのじゃ。
 しかし、今に至るまでそれを一行も書いていないのじゃ。
 引用は商業出版でさえ認められているのにおかしなことじゃ。
 チベット語からの翻訳は一体どこに行ったのじゃ?

 どうせわしには完全に論破されると思って逃げ回っているのじゃろう
 論破ありきで逃げていてはいつまでも無知なまま学者や性質の悪い老婆に騙されている人生なのじゃ。
 腹を切ってから出直すと善いのじゃ。

86鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/15(水) 23:48:21 ID:1d4drIFg0
どんな努力も格闘も無い状態、それをあるがままの状態というのじゃ。
努力無しに開放されているとき、喜びがあり、真の創造があるというのじゃ。
そうでなければ全ては繰り返しであり、何かにならねばならないという葛藤があるのじゃ。
それはありのままであることを受け容れてないからなのじゃ。

87避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 23:49:21 ID:b/R.LjPg0
>>85
書いてあることを書いてないとか云うのはキチガイだなwww

88避難民のマジレスさん:2020/07/15(水) 23:58:24 ID:b/R.LjPg0
瞬殺されたことを認めたくないからって、書いてあることを書いてないとか云うとか、人間として終わってるよ。

89避難民のマジレスさん:2020/07/16(木) 00:01:19 ID:b/R.LjPg0
仕舞いには写メで送った資料もそんなものは送られてないとか言い出すんだろ?

www

90避難民のマジレスさん:2020/07/16(木) 21:18:27 ID:y0myHUlI0
最初と最後の自由  第一部

   第七章 努力 3

 では、なぜ自己を充実させたいという欲望があるのでしょうか。明白に、充実したい、何ものかになりたいという欲望は、 [無である・] 何ものでもないことへの気づきがあるとき、生じるのです。私は何ものでもない [・無である] から、私は不十分で空っぽで、内側で貧しいから、何ものかになろうと格闘するのです。外側でも内側でも、私は人物やものごとや観念において自己を充実させようと格闘するのです。その空虚を充たすことが、私たちの存在の過程全体です。私たちは、空っぽで、内側で貧しいことに気づくと、外部に物を集めたり、内側の豊かさ [・富] を育成したりしようと格闘するのです。行動をとおし、観想をとおし、取得をとおし、達成をとおし、力などをとおして、その内側の空虚からの逃避があるときだけ、努力があるのです。それが私たちの日常の存在です。私は自分の不十分さ、自分の内側の貧しさに気づきます。そして私はそれから逃げ出そう、またはそれを充たそうと格闘します。この逃げ出すこと、空虚を避けること、覆いかくそうとすることが、格闘、闘争、努力を伴うのです。
 そこで逃げ出そうとする努力をしないなら、何が起きるでしょうか。その寂しさ、その空っぽとともに生きます。そしてその空っぽを受け入れるなかで、闘争、努力とは何の関わりもない創造的状態が来るということを、見つけるでしょう。私たちがその内側の寂しさ、空っぽを避けようとしているかぎり、努力は存在しているのです。しかし私たちはそれを見つめ、それを観察するとき、あるがままを避けずに受け入れるとき、闘争すべてが止む存在の状態が来ることを見つけるでしょう。その存在の状態が創造性です。それは闘争の結果ではありません。
 しかしあるがまま-すなわち空っぽ、内側の不十分さ- [について] の理解があるとき、その不十分さとともに生きて、それを充分に理解するとき、創造的真実、創造的智恵が来るし、それのみが幸せをもたらしてくれるのです。
 ゆえに私たちが知っているような行動は、ほんとうは反動であり、絶えざるなりゆき、すなわちあるがままの否定、回避なのです。しかし空っぽへの選択なき、非難や正当化なき気づきがあるとき、そのときそのあるがまま [について] の理解に行動があるし、この行動が創造的存在です。あなたは行動においてあなた自身に気づくなら、これを理解するでしょう。あなたが行動しているままにあなた自身を観察してください。外側だけではなく、またあなたの思考と感情の動きをも見てください。あなたはこの動きに気づくとき、思考過程-すなわち感情と行動でもあるもの-が、なるという観念に基づいていることがわかるでしょう。なるという観念は、不安定の感覚があるときだけ生じるし、その不安定の感覚は、内側の空虚に気づくとき来るのです。あなたはその思考と感情の過程に気づくなら、あるがままを変えよう、修正しよう、改めようとする常なる戦い、努力が続いていることがわかるでしょう。これがなろうとする努力です。なることはあるがままの直接的回避です。自己認識をとおし、常なる気づきをとおして、あなたは、なろうとする闘争、戦い、葛藤が苦痛に、悲しみと無知につながることを、見つけるでしょう。あなたが、とてつもない平静、組み立てられ、作り上げられていない平静、あるがままの理解とともに来る平静を発見するのは、あなたが内側の不十分さに気づいて、逃避せずにそれとともに生きて、それを全面的に受け入れてこそなのです。その平静の状態においてだけ、創造的存在があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

91避難民のマジレスさん:2020/07/16(木) 21:43:47 ID:y0myHUlI0
くまめも1-7-3
なぜ自己を充実させたいという欲望があるのか。何ものかになりたいという欲望は、 何ものでもないことへの気づきがあるとき、生じる。私は何ものでもない ・無であるから、私は不十分で空っぽで、内側で貧しいから、何ものかになろうと格闘する。外側でも内側でも、自己を充実させようと格闘する。その空虚を充たすことが、存在の過程全体。
逃げ出すこと、空虚を避けること、覆いかくそうとすることが、格闘、闘争、努力を伴う。
あるがまま-すなわち空っぽ、内側の不十分さの理解があるとき、その不十分さとともに生きて、それを充分に理解するとき、創造的真実、創造的智恵が来るし、それのみが幸せをもたらしてくれる。
行動は、ほんとうは反動であり、あるがままの否定、回避。しかし空っぽへの選択なき、非難や正当化なき気づきがあるとき、そのときそのあるがままについての理解に行動があるし、この行動が創造的存在。
あなたが行動しているままにあなた自身を観察しなさい。外側だけではなく、思考と感情の動きをも見なさい。あなたはこの動きに気づくとき、思考過程が、なるという観念に基づいていることがわかる。なるという観念は、不安定の感覚があるときだけ生じるし、その不安定の感覚は、内側の空虚に気づくとき来る。あなたはその思考と感情の過程に気づくなら、あるがままを変えよう、修正しよう、改めようとする常なる戦い、努力が続いていることがわかる。なることはあるがままの直接的回避。自己認識をとおし、常なる気づきをとおして、なろうとする闘争、戦い、葛藤が苦痛に、悲しみと無知につながることを、見つける。あるがままの理解とともに来る平静を発見するのは、内側の不十分さに気づいて、逃避せずにそれとともに生きて、それを全面的に受け入れてこそ。その平静の状態においてだけ、創造的存在がある。
(´・(ェ)・`)

92鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/16(木) 22:53:18 ID:1d4drIFg0
>>87 チベット語からの翻訳は何処に。

93鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/16(木) 22:57:23 ID:1d4drIFg0
内側が不十分で空っぽ貧しいという感覚は、孤独や恐れから起こるものじゃ。
それから逃れようとして努力するのじゃ。
それは逃避に過ぎないのじゃ。
逃避に拠って孤独や恐れがなくなることはないのじゃ。
孤独や恐れをありのままに認め観察する事で気付きが起こるのじゃ。
それによって孤独や恐れも消えるのじゃ。

94避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 14:03:14 ID:b/R.LjPg0
>>92
他スレで説明済

95避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 15:25:12 ID:b/R.LjPg0
面接官 「普段は何をされてますか?」

コジ  「はい、自宅でウンコを製造しております!」

www

96避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 21:13:36 ID:NgAX88aw0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 1

 私たちは自分たちのなかと自分たちのまわりに矛盾を見ます。私たちは矛盾 [の状態] にあるから、私たちのなかに、ゆえに私たちの外側に平和の欠如があるのです。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-があるのです。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらしません-それは単純な明白な事実です。この内側の矛盾は、何かの種類の哲学的二元論に翻訳されるべきではありません。なぜなら、それはとても安易な逃避であるからです。すなわち、矛盾は二元論の状態であると言うことにより、私たちはそれを解決してしまったと思うのです-それは明白にたんなる慣習、現実からの逃避に寄与するものにすぎないのです。
 そこで私たちのいう葛藤・抗争、矛盾とはどういう意味でしょうか。なぜ私には矛盾が-あるがままの私から離れた何ものかであろうとするこの常なる格闘が-あるのでしょうか。私はこれである。私はあれになりたい。この私たちにおける矛盾は事実です-形而上学的な二元論ではありません。形而上学は、あるがままを理解することにおいて何の意義もありません。私たちはたとえば二元論を、それは何なのか、それは存在するのかどうかなどについて議論するかもしれません。しかし私たちが自分たちに矛盾が-対立する欲望、対立する興味、対立する追求が-あることを知らなければ、それにどんな価値があるのでしょうか。私は善良でありたいが、そうあることができない。私たちのこの矛盾、この対立は理解されなければなりません。なぜなら、それは葛藤・抗争を造り出すからです。そして葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できません。私たちがおかれた状態について明確でありましょう。矛盾があります。それで格闘があるにちがいありません。そして格闘は破壊、浪費です。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみ以外の何も産み出せません。私たちがこれを充分に理解し、ゆえに矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらすでしょう。
 問題はこうです。矛盾は破壊的で浪費的であることがわかると、私たち各自に矛盾があるのはなぜでしょうか。それを理解するには、私たちはさらにもう少し進まなければなりません。なぜ対立する欲望の感覚があるのでしょうか。私たちは自分たち自身のそれに-この矛盾、この欲しがることと欲しがらないことの感覚、何かを憶えていて、何か新しいものを見つけるためにそれを忘れようとすること-に気づいているかどうか、私は知りません。ただそれを見守ってください。それはとても単純でとても正常です。それは何かとてつもないものではありません。事実は矛盾があるということです。ではなぜこの矛盾は生じるのでしょうか。
 私たちのいう矛盾とはどういう意味でしょうか。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいないでしょうか。私は自分が永久的欲望を持っていると思います。私は自分自身に永久的欲望を位置づけます。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じます。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらします。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つ [という] ことがあるのです。では永久的欲望といったものがあるのでしょうか。確かに、欲望「すべて」が非永久的 [・無常] です-形而上学的にではなくて現実にです。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼るのです。そしてそれを得るとき、不満です。私は経営者になりたい、それから所有者に [なりたい] などなどです。この世 [・世界] においてだけでなく、いわゆる霊的 [・精神的] 世界においても、です-教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆくのです。
(´・(ェ)・`)つ

97避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 21:20:19 ID:NgAX88aw0
くまめも1-8-1
私たちは矛盾の状態にあるから、私たちのなかに、外側に平和の欠如がある。私たちには常なる否定と主張の状態-私たちがありたいと思うものと私たちのあるがままと-がある。矛盾の状態は葛藤・抗争を造り出し、この葛藤・抗争は平和をもたらさない。この単純な明白な事実を哲学的二元論に翻訳するのでは安易な逃避。
なぜ私には矛盾があるのか。矛盾は葛藤、抗争を造り出す。葛藤・抗争、格闘 [状態] において、私たちは個人として創造できない。格闘は破壊、浪費。その状態では私たちは敵対、闘争、もっと多くの苦々しさと悲しみを産み出す。私たちがこれを充分に理解し、矛盾から自由でありうるなら、そのとき内側の平和がありうるし、それが互いの理解をもたらす。
矛盾とはどういう意味か。それは、一つの非永久的状態と対立しているもう一つの非永久的状態という意味を含んでいる。自分が永久的欲望を持っている。自分自身に永久的欲望を位置づける。すると、それと矛盾するもう一つの欲望が生じる。この矛盾が葛藤-すなわち浪費-をもたらす。つまり、一つの欲望によるもう一つの欲望の常なる否定、一つの追求がもう一つの追求に打ち勝つことがある。欲望すべてが非永久的・無常。私は仕事が欲しい。すなわち私は幸せの手段として一定の仕事に頼る。そしてそれを得るとき、不満。私は経営者になりたい、それから所有者になりたいなどな。この世・世界においてだけでなく、いわゆる霊的・精神的世界においても、教師は校長になり、司祭は司教・主教になり、弟子は師匠になってゆく。
(´・(ェ)・`)

98鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/17(金) 22:56:36 ID:1d4drIFg0
理想の自分のイメージと今の自分には常に矛盾があるのじゃ。
理想の自分になりたいと努力することが葛藤を生むのじゃ。
理想の自分になったとしてもやはり時と共に失っていくのじゃ。
老病死は免れないからのう。

99避難民のマジレスさん:2020/07/17(金) 22:59:38 ID:b/R.LjPg0
阿頼耶識が現量であることについて根拠を出しておくが、どうせ読んでも分からないだろう。
また、無理して読んで発狂でもされて事件でも起こされたら面倒だし、自己責任で読め。


阿頼耶識が現量であること。

 https://i.imgur.com/UkrhNYe.jpg
 https://i.imgur.com/Li9bdjN.jpg
 https://i.imgur.com/o42Qi3g.jpg
 https://i.imgur.com/9UuebOH.jpg

唯識三十頌並びに唯識三十頌釈

 https://i.imgur.com/c9pwM9R.jpg
 https://i.imgur.com/zlVVA0Y.jpg
 https://i.imgur.com/01ypAQE.jpg
 https://i.imgur.com/T0uOgKV.jpg
 https://i.imgur.com/utJTr77.jpg
 https://i.imgur.com/953OvxH.jpg
 https://i.imgur.com/hxipUz7.jpg
 https://i.imgur.com/FqXs57S.jpg
 https://i.imgur.com/V9PXcNn.jpg
 https://i.imgur.com/VIAr2Q9.jpg
 https://i.imgur.com/xTTMnWu.jpg

100避難民のマジレスさん:2020/07/18(土) 09:29:08 ID:b/R.LjPg0
      //
    / .人
    /  (__) パカ
   / ∩(____)    やぁ!
   / .|( ・∀・)_
  // |   ヽ/
  " ̄ ̄ ̄"∪

101避難民のマジレスさん:2020/07/18(土) 21:44:08 ID:U9p6ScNE0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 2

 この常なるなりゆき、一つの状態に続いてもう一つに達することは、矛盾をもたらすのではないでしょうか。ゆえになぜ生を一つの永久的欲望としてではなくて、いつも互いに対立しあう [・反対しあう] 一連のはかない欲望として見ないのでしょうか。ゆえに精神は矛盾の状態になくてもいいのです。私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はありません。
 精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じるのです。すなわち精神が欲望すべてを動いてはかないものとして見るのではなくて、一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする-そのとき他の欲望が生じる、そのときだけ、矛盾があるのです。しかし欲望すべては、常なる動き [の状態] にあります。欲望の固定はありません。欲望に固定点はありません。しかし精神は固定点を確立します。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うからです。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤があるにちがいありません。あなたは到達したいのです。あなたは成功したいのです。あなたは、あなたの永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたいのです。ゆえにあなたは真理を求めていません。あなたは神を求めていません。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった体裁よく聞こえる言葉をおおいかぶせるのです。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼びます。最低点は飲酒です。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間にたいした違いはありません。社会的に、酒は悪いかもしれません。しかし満足への [願望] 、獲得への内側の願望のほうが、さらにもっと有害なのではないでしょうか。あなたはほんとうに真理を見つけたいなら、たんに言葉の水準でだけではなくて全く、極めて正直でなければなりません。あなたはとてつもなく明晰でなければなりません。あなたは進んで事実に向き合おうとしないなら、明晰でありえません。
 そこで何が私たち各自に矛盾をもたらすのでしょうか。確かにそれは、何ものかになりたいという願望なのではないでしょうか。私たちは皆何ものかになりたいのです-世間で成功したい、内側で結果を達成したいのです。私たちが時間という見地、達成という見地、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾があるにちがいありません。結局、精神は時間の産物です。思考は昨日に、過去に基づいています。思考が時間の領域の中で機能し、未来という [見地] 、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾があるにちがいありません。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないからです。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因-すなわち矛盾-からの自由の可能性があるのです。
 ゆえに私たちの考える過程全体を理解することが [本質的・] 不可欠なのではないでしょうか。というのは、私たちが矛盾を見つけるのは、そこであるからです。思考自体が矛盾になってしまったのです。なぜなら、私たちは自分たち自身の総合過程を理解してこなかったからです。そしてその理解は、私たちが自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能です-自分の思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに [気づくの] です-それは極めて困難です。そのときだけ、こんなに有害でこんなに苦痛なその矛盾の解消が、あるのです。
(´・(ェ)・`)つ

102避難民のマジレスさん:2020/07/18(土) 22:02:00 ID:U9p6ScNE0
くまめも1-8-2
私が生を永久的欲望としてではなくて、常に変化している一連の一時的欲望として見るなら、そのとき矛盾はない。
精神が欲望の固定点を持つときだけ、矛盾は生じる。一つの欲望をつかんで、それを永久的なものにする、そのときだけ、矛盾がある。欲望に固定点はない。しかし精神は固定点を確立する。なぜなら、それはあらゆるものごとを、到達し、獲得するための手段として扱うから。それで、到達しようとしているかぎり、矛盾、葛藤がある。あなたは到達したい。成功したい。永久的満足になる究極的な神や真理を見つけたい。ゆえにあなたは真理を求めていない。あなたは永続する満足を求めているし、その満足に、観念を、神や真理といった言葉をおおいかぶせる。しかし現実には私たちは皆満足を求めているし、その喜び、満足を最高点に位置づけて神と呼ぶ。最低点は飲酒。精神が満足を求めているかぎり、神と酒の間に違いはない。ほんとうに真理を見つけたいなら、極めて正直で、明晰でなければならない。
私たちは皆何ものかになりたい。私たちが時間、達成、地位という見地に立って考えるかぎり、矛盾がある。精神は時間の産物。思考は過去に基づいている。思考が時間の領域の中で機能し、未来という見地、なる、獲得する、達成するという見地に立って考えているかぎり、矛盾がある。なぜなら、そのとき私たちはあるがままに正しく向き合う能力がないから。あるがままを悟り、理解し、無選択に気づくなかでだけ、その崩壊の要因-すなわち矛盾-からの自由の可能性がある。
ゆえに考える過程全体を理解することが不可欠。というのは、矛盾を見つけるのは、そこであるから。思考自体が矛盾になってしまった。なぜなら、自分たち自身の総合過程を理解してないから。そしてその理解は、自分たちの思考に充分に気づくときだけ、可能。思考を操作している観察者としてではなくて、統合的に選択せずに気づく。そのとき、有害で苦痛なその矛盾の解消がある。
(´・(ェ)・`)

103鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/18(土) 22:50:44 ID:1d4drIFg0
酒を求める欲も、神を求める欲も同じだというのじゃ。
それは満足だけを求めているからなのじゃ。
なにものかになりたいという願望に拠って矛盾があるというのじゃ。
そこには時間による制約があるからなのじゃ。む
それら全ての過程を全体として観察できれば全ての矛盾は消えるのじゃ。

104避難民のマジレスさん:2020/07/19(日) 21:55:05 ID:lyY6c8gM0
最初と最後の自由  第一部

   第八章 矛盾 3

 私たちが心理的な結果を達成しようとしているかぎり、内側に安全を欲しがるかぎり、私たちの生には矛盾があるにちがいありません。私たちのほとんどはこの矛盾に気づいているとは、私は思いません。または私たちは気づいているとしても、そのほんとうの意義がわからないのです。反対に、矛盾は私たちに生きる弾み [・刺激] を与えてくれるのです。まさに摩擦の要素こそが、私たちに生きていることを感じさせてくれるのです。努力、矛盾の格闘が、私たちに生命力 [・活力] の感覚を与えてくれるのです。そういうわけで私たちは戦争を愛しているのです。そういうわけで私たちは挫折の戦いを楽しむのです。結果を達成したいという願望-すなわち心理的に安全でありたいという願望-があるかぎり、矛盾があるにちがいありません。そして矛盾があるところ、静かな精神はありえません。精神の静けさは、生の意義全体を理解するに [本質的・] 不可欠です。思考は決して平静ではありえません。思考-すなわち時間の産物-は、時間のないものを決して見つけられません。時間を超えているものを決して知ることはできません。まさに私たちの考えるということの本性こそが矛盾なのです。なぜなら、私たちはいつも過去や未来という見地に立って考えているからです。ゆえに私たちは決して現在を充分に認識し、充分に気づいていないのです。
 現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業です。なぜなら精神はごまかさずに直接的に事実に向き合う能力がないからです。思考は過去の産物ですし、ゆえに過去や未来という見地に立って考えられるだけです。それは現在の事実に完全に気づくことはできません。思考-すなわち過去の産物-が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけですし、そういう考えはもっと多くの矛盾 [を造り出し] ゆえに葛藤・抗争、悲惨、混乱を私たちのなかに、ゆえに私たちのまわりに造り出すだけです。
 矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければなりません。あなたが事実と直面しているとき、どうして選択がありうるでしょうか。確かに、思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実 [について] の理解は不可能になります。ゆえに自己認識が理解の始まりです。自己認識なしには、矛盾と葛藤 [・抗争] は継続するでしょう。自分自身の過程全体、総体を知るには、どんな熟練者もどんな権威も必要ではありません。権威の追求は恐れを生み育てるだけです。どんな熟練者もどんな専門家も私たちに、自己の過程をどう理解するのかを教えられません。それは自分自身で研究しなければなりません。あなたと私はそれについて話しをすることにより互いに助け合うことはできます。しかし誰も私たちのためにそれを解き明かせません。どんな専門家もどんな教師も、私たちのために [私たちに代わって] それを探検できません。私たちは私たちの関係において-ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づけるのです。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見するでしょう。観念はたんに象徴としての思考の凝結化です。そして象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらすのです。
 こうして思考の様式があるかぎり、矛盾は継続するでしょう。様式を [終わらせ] 、そのため矛盾を終わらせるには、自己認識がなければなりません。この自己の理解は、わずかな者のために取っておかれた過程ではありません。自己は、私たちの日常の話し、私たちの考え [方]と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきものです。私たちはあらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解されるということがわかるでしょう。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうる [ところの] あの精神の平静の可能性があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

105避難民のマジレスさん:2020/07/19(日) 22:01:47 ID:lyY6c8gM0
くまめも1-8-3
心理的な結果達成や内側の安全を欲しがるかぎり、生には矛盾がある。その矛盾は生きる刺激を与えてくれる。
精神の静けさは、生の意義全体を理解するに不可欠。思考は決して平静ではありえない。思考は、時間のないものを見つけられない。まさに考えるということの本性こそが矛盾。なぜなら、いつも過去や未来という見地に立って考えているから。ゆえに決して現在を充分に認識し、充分に気づいていない。
現在に充分に気づくことはとてつもなく難しい作業。なぜなら精神は直接的に事実に向き合う能力がないから。思考が、それが造り出す矛盾と問題すべてを除去しようとするかぎり、たんに結果を追求していて、目的を達成しようとしているだけ。そういう考えはもっと多くの矛盾を造り出すだけ。
矛盾から自由であるには、選択なしに現在に気づかなければならない。思考が、なる、変える、改めるという見地に立って事実を操作しようとしているかぎり、事実についての理解は不可能。自己認識なしには、矛盾は継続する。自分自身の過程全体、総体を知るには、私たちの関係− ものごととの、財産との、人々との、観念との関係においてだけ、それに気づける。関係において私たちは、行動が観念に自らを近似させているとき、矛盾が生じるということを、発見する。観念はたんに象徴としての思考の凝結化。象徴に添って生きようとする努力は、矛盾をもたらす。
思考の様式を終わらせ、矛盾を終わらせるには、自己認識が必要。自己は、日常の話し、考え方と感じ方、他の一人を見る仕方において理解されるべきもの。あらゆる思考、あらゆる感情に、瞬間瞬間気づけるなら、そのとき関係において自己のあり方が理解される。そのときだけ、そこにのみ究極の真実が生じうるところのあの精神の平静の可能性がある。
(´・(ェ)・`)

106鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/19(日) 22:54:14 ID:1d4drIFg0
安全への欲望は却って戦争を生み出すというのじゃ。
敵がいなくなれば安全であるからのう。
そのような欲は悲惨と混乱を生み出すのみなのじゃ。
今ここに気付いていることがそれから逃れる道なのじゃ。

107避難民のマジレスさん:2020/07/20(月) 22:55:20 ID:uLoVuJFE0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 1

 私たちのいう自己とはどういう意味なのか、知っているでしょうか。観念、記憶、結論、経験、色々な形の名づけることのできる、名づけることのできない意図、あろうとする、あるまいとする意識的な尽力、無意識の [蓄積された記憶]- 人種、集団、個人、氏族の-蓄積された記憶、行動において外部に投影されていても、美徳として霊的・精神的に投影されていても、です。そのすべての全体が、それ [自己という言葉]により私のいう意味です。このすべてを求める奮闘が自己です。それには競争、ありたいという願望が含まれています。その過程全体が自己です。そして私たちはそれに向き合うとき、それが邪悪なものであることを現実に知っています。私は「邪悪」という言葉を意図的に使っています。なぜなら自己は分割するからです。自己は自己閉鎖的です。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させす。私たちはこのすべてを知っています。また私たちは、自己がない [ときの] それらのとてつもない瞬間をも知っています-そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きるのです。
 経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要であるように、私には見えます。私たちは熱心であるなら、この経験の問題を理解すべきです。そこで私たちのいう経験とはどういう意味でしょうか。私たちはいつのときも経験をします-印象です。そして私たちはそれら印象を翻訳します。それらに応じて反応したり行動したりします。私たちは計算高くてずるい、などです。客観的に見られるものとそれに対する私たちの反応との間には、常なる相互作用が [あり] 、意識と、無意識の [諸々の] 記憶の間にも相互作用があるのです。
 私の [諸々の] 記憶に応じて、私は自分が見るどんなものにも、感じるどんなものにも反応します。私が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きているのではないでしょうか。何か見られるものへの反応、応答が経験です。私はあなたを見るとき、反応します。その反応に名づけることが経験です。私がその反応に名づけないなら、それは経験ではありません。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守ってください。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はありません。私はあなたを認識しないなら、どうしてあなたに会う [という] 経験ができるでしょうか。それは単純で正しく聞こえます。それは事実ではないでしょうか。すなわち、私は自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験をしたということをどうして知ることができるでしょうか。
 それから色々な願望の投影があります。私は保護されたい、内側に安全を得たいと願望します。あるいは大師、導師(グル)、教師、神を得たいと願望します。そして私は自分が投影したものを経験します。すなわち私は形を取った [願望] 、それに名をつけた願望を投影したのです。それにたいして反応するのです。それは私の投影です。それは私の命名です。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」「私は大師に会ったことがある」「私は大師に会ったことがない」と言わせるのです。あなたは、経験に名づける過程全体を知っています。願望が経験と呼ぶものなのではないでしょうか。
 私が精神の静寂を願望するとき、何が起きているでしょうか。何が起きるでしょうか。私は色んな理由のために、静寂な精神、静かな精神を持つことの重要性がわかります。なぜなら、ウパニシャッドがそう言ってきたし、宗教書がそう言ってきたし、聖者たちがそう言ってきたし、また時々私自身も静かであることがどんなに良いかを感じるからです。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるからです。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなにすてきか、どんなに楽しいかを感じるのです。願望は静寂を経験することです。私は静寂な精神を持ちたいのです。それで、「私はどうすればそれを得られるのか」と訊くのです。私は、あれこれの書物が瞑想について言うことと色々な形の修練を知っています。それで修練をとおして、私は静寂を経験しようと求めるのです。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立したのです。
(´・(ェ)・`)つ

108避難民のマジレスさん:2020/07/20(月) 23:00:41 ID:uLoVuJFE0
くまめも1-9-1
 観念、記憶、結論、経験、意図、無意識の蓄積された記憶。その全体が、自己の意味。このすべてを求める奮闘が自己。それには競争、願望が含まれる。その過程全体が自己。自己は邪悪。自己は分割するから。自己は自己閉鎖的。その活動はどんなに高尚でも、分離的で孤立させる。私たちは、自己がないときの瞬間をも知っている。そこには尽力、努力の感覚がないし、それは愛があるとき起きる。経験がいかに自己を強めるかを理解することが重要。経験とはどういう意味か。経験する→その印象を翻訳する→それに応じて反応したり行動する。客観的に見られるものとそれに対する反応との間には相互作用があり、意識と無意識の記憶の間にも相互作用がある。記憶に応じて、自分が見るもの、感じるもの、知っているもの、信じているものへのこの反応の過程において、経験が起きている。何か見られるものへの反応、応答が経験。その反応に名づけることが経験。その反応に名づけないなら、それは経験ではない。あなた自身の応答と、あなたのまわりで起きていることを見守れ。名づける過程が同時に起きているのでないかぎり、経験はない。自分の記憶に応じ、自分の条件づけに応じ、自分の先入観に応じて反応しないなら、自分が経験したと知れない。
願望の投影がある。保護されたい、内側に安全を得たいと願望する 自分が投影したものを経験する。すなわち形を取った願望、名をつけた願望を投影し、それにたいして反応する。私に経験を与えるその願望が、私に「私は経験をする」と言わせる。
精神の静寂を願望するとき、何が起きるか。静寂な精神を持つことが重要。なぜなら私の精神が一日中あまりにおしゃべりであるから。時々私は、平和な精神、静寂な精神を持つことがどんなに楽しいかを感じる。願望は静寂を経験すること。私は、瞑想や修練をとおして、静寂を経験しようと求める。ゆえに自己、「私」は静寂の経験において自己を確立した。
(´・(ェ)・`)

109避難民のマジレスさん:2020/07/21(火) 20:00:37 ID:hp0r5VXk0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 2

 私は何が真理なのかを理解したいのです。それが私の願望、私のあこがれです。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が [後に] 続きます。なぜなら、私はそれについてたくさん読んできたからです。私は多くの人々がそれについて話すのを聞いてきました。宗教書はそれを叙述してきました。私はそのすべてが欲しいのです。何が起きるでしょうか。まさにそのほしがること、まさに願望が投影されるのです。そして私は経験します。なぜなら、その投影された状態を認識するからです。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばないでしょう。私はそれを認識するし、それを経験します。そしてその経験が自己、「私」に強さを与えるのではないでしょうか。それで自己は経験のなかに立てこもるのです。そのときあなたは、「私は知っている」、「大師は存在する」、「神はある」、「神はない」と言うのです。特定の政治体制が正しく、他のすべてはそうでないと、あなたは言うのです。
 それで経験はいつも「私」を強めているのです。あなたが経験のなかに立てこもるほど、ますます自己が強められるのです。このことの結果として、あなたは一定の性格の強さ、知識、信念の強さを持ちます-それを他の人たちに見せびらかすのです。なぜなら、あなたは彼らがあなたほど利口ではないことを知っているから、あなたは文筆 [の才能] や弁舌の才能を持っているし、ずるがしこいからです。自己がやはり作用しているから、それであなたの信念、あなたの大師たち、あなたのカ-スト、あなたの経済的体制はすべて孤立化の過程です。ゆえにそれらは争いをもたらすのです。あなたはそもそもこのことにおいて真剣または熱心であるなら、この [自己という] 中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければなりません。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならないのです。
 精神、自己が投影しないこと、願望しないこと、経験しないことは可能でしょうか。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかります。それでもそれらを肯定的行動と呼ぶのではないでしょうか。それが肯定的な生き方と呼ばれるものです。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定です。あなたはそれでいいのでしょうか。私たちは、あなたと私は個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるでしょうか。では何が自己の解消をもたらすのでしょうか。宗教 [的集団]と その他の集団は同一化を提供してきたのではないでしょうか。「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」 [ということ] が、彼らの言うことです。しかし確かに同一化もやはり自己の過程です。より大きなものは単に「私」の投影です-それを私は経験するし、ゆえにそれは私を強めるのです。
(´・(ェ)・`)つ

110避難民のマジレスさん:2020/07/21(火) 20:08:52 ID:hp0r5VXk0
くまめも1-9-2
何が真理なのかを理解したい。それが私の願望。そのとき、私が真理であると考えるものの投影が後に続く。そして私は経験する。なぜなら、その投影された状態を認識するから。もしも私がその状態を認識しなかったら、それを真理とは呼ばない。私はそれを認識するし、それを経験する。そしてその経験が自己、「私」に強さを与える。それで自己は経験のなかに立てこもる。そのときあなたは、「私は知っている」、と言う。
経験はいつも「私」を強めている。結果として、あなたは一定の性格、知識、信念の強さを持つ。それを他の人たちに見せびらかす。それであなたの信念はすべて孤立化の過程。ゆえにそれらは争いをもたらす。この自己という中心を正当化するのではなく、完全に解消しなければならない。そういうわけで私たちは経験の過程を理解しなければならない。
 精神、自己が投影、願望、経験しないことは可能か。私たちは自己の経験すべてが否定、破壊であることがわかる。それでもそれらを肯定的行動、生き方と呼ばれる。この過程全体を取り消すことは、あなたにとっては否定。私たちは、個人として、その根に遡り、自己の過程を理解できるか。何が自己の解消をもたらすのか。宗教的集団は同一化を提供してきた「あなた自身をより大きなものと同一化しなさい。すると自己は消えさります」という。しかし同一化も自己の過程。より大きなものは単に「私」の投影。それを私は経験するし、それは私を強める。
(´・(ェ)・`)

111鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/21(火) 23:40:20 ID:1d4drIFg0
観念により自己はあり、それは記憶に支えられているのじゃ。
そして経験に拠って強められるというのじゃ。
そうであるから伝統的な行はむしろ自己を強める作用をしてしまうのじゃ。
行の経験やその結果として起こる神秘体験などの経験が積み重なっていくからなのじゃ。

112避難民のマジレスさん:2020/07/22(水) 21:05:48 ID:dinx1qu20
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 3

 色んな形の修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけです。私たちは自己を解消するであろう要素を見つけられるでしょうか。それともそれは間違った擬問でしょうか。それが、私たちが基本的に欲しいものです。私たちは、何か「私」を解消するものを、見つけたいのではないでしょうか。色んな手段-すなわち同一化、信念等-があると、私たちは思います。しかしそれらのすべては同じ水準にあるのです。一つが他のものより勝れているわけではありません。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるからです。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ-が見えるでしょうか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力です。それは破壊的な力です。そして私はそれを解消する仕方を見つけたいのです。あなたは自分自身にこう訊ねたことがあるにちがいありません-「私は、『私』がいつのときも機能し、私自身にだけでなく私のまわりの皆に対していつも心配、恐れ、挫折、絶望、悲惨をもたらしているのがわかる。その自己が部分的にではなく完全に解消されることは可能だろうか」と。私たちはその根に遡り、それを破壊できるでしょうか。それが真に機能する唯一の道なのではないでしょうか。私は部分的に智恵があるのではなく、統合された仕方で智恵があるようになりたいのです。私たちのほとんどは [色んな] 層において智恵があるのです-あなたはたぶん一つの仕方で、私は何か他の仕方で、です。あなたたちのうち或る者は営業の仕事に、他の或る者は事務の仕事に智恵がある、などです。人々は違った仕方で智恵があるのです。しかし私たちは統合的 [融和的] に智恵はないのです。統合的 [融和的] に智恵があるということは、自己を持っていないという意味です。それは可能でしょうか。
 自己が今完全に不在であることは可能でしょうか。あなたはそれが可能であることを知っています。必要な要素、要件は何でしょうか。それをもたらす要素は何でしょうか。私はそれを見つけられるでしょうか。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信しています。それで私は、 [そこにおいて] 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないでしょうか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることを必要とします-そのためそれはすり抜けてしまわないのです。私はとても熱心です-自己を解消したいのです。私はそう言うとき、自己を解消するのは可能であることを知っているます。「私はこれを解消したい」と言った瞬間、そこにはやはり自己 [について] の経験があるのです。それで自己は強められるのです。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのでしょうか。創造の状態はそもそも自己の経験ではないということがわかります。創造は [そこに] 自己がないときです。なぜなら、創造は知的ではなく、精神の [もの] ではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるからです。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、 [そこに] 創造が起こりうる状態にあることは可能でしょうか-それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味です。問題はこれなのではないでしょうか。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験です。精神が認識しないことは可能でしょうか。それは、自己の経験である [静寂] 、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

113避難民のマジレスさん:2020/07/22(水) 21:13:00 ID:dinx1qu20
くまめも1-9-3
修練、信念、知識すべては、確かに自己を強めるだけ。自己を解消するであろう要素を見つけられるか。色んな手段-すなわち同一化、信念等-がある。しかしそれらのすべては同じ水準にある。なぜなら、それらのすべては自己、「私」を強めることにおいて等しく強力であるから。それで私は、「私」がどこで機能していても、それが見えて、その破壊的な力とエネルギ-が見えるか。たとえどんな名前をつけても、それは孤立させる力。破壊的な力。それを解消する仕方を見つけたい。統合された仕方で智恵があるようになりたい。
自己が今完全に不在であることは可能。必要な要素、要件は何か。私が「私はそれを見つけられるか」というその質問をするとき、確かにそれが可能であることを確信している。それで私は、 自己が強められようとしている経験を、すでに造り出してしまったのではないか。自己の理解は、多大の智恵、多大の見守り、鋭敏さ、絶えず見張ることが必要-そのためそれはすり抜けてしまわない。では、自己が経験しないことは、どのようにして可能なのか。創造の状態はそもそも自己の経験ではない。創造は自己がないとき。なぜなら、創造は知的ではなく、精神のものではなく、自己投影されたのではなく、何か経験すべてを越えたものであるから。では精神が全く静かで、無認識または無経験の状態にあること、そこに創造が起こりうる状態にあることは可能か-それは自己がないとき、自己が不在であるとき、という意味。肯定的でも否定的でも精神のどんな動きも、現実に「私」を強める経験。精神が認識しないことは可能か。それは、自己の経験である静寂、ゆえに自己を強める静寂ではなく、完全な静寂があるとき、起こりうるだけ。
(´・(ェ)・`)

114鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/23(木) 00:06:03 ID:1d4drIFg0
どんな修練も信念も知識も自己を強めるだけというのじゃ。
それをする自分という観念が起こるからのう。
完全な静寂の時に自己は認識されないというのじゃ。
精神の働きも静まった境地にまで至ればそれも可能なのじゃ。

115避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:33:26 ID:b/R.LjPg0
>>114
おい!猿!

阿頼耶識の件、またまた瞬殺されて逃走か?

wwwww

116避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:36:02 ID:b/R.LjPg0
1.漢文
 是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
 是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
 その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。

またまたまたまた・・・・・ 馬鹿鬼は瞬殺されたなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

117避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 00:37:20 ID:b/R.LjPg0
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       r┘└へ|  |二コ ┌'|  |二コ ┌|  |二コ ┌'|  |二コ ┌┘
      〈 〈]  ゚,、〈|  | o  ヽ| | o  ヽ|  | o  ヽ|  | o └「 ̄\
      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
       :, -‐ (_).        /     
       :l_j_j_j と)丶─‐┬.''´  キチガイだろwwww  
          :ヽ   :i |:     
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118避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 21:23:50 ID:tjv95wwU0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 4

 自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのでしょうか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的 [・精神的] 実体があるのでしょうか。私たちは [そういうものが] あると思うのではないでしょうか。ほとんどの宗教的な人たちは、そういう要素があると思うのです。唯物論者たちは言います-「自己が破壊されることは不可能である。それは政治的、経済的、社会的に条件づけられ抑制されうるだけである。私たちはそれを一定の様式の中にしっかりと抑えられるし、壊せる。ゆえにそれは高い生に、道徳的な生に導くように [することができる] 、何ごとにも邪魔しないで社会的様式に付いていくよう、たんに機械としてだけ機能するようにすることができる」と。それを、私たちは知っています。他の人たち、いわゆる宗教的な人たちがいます-私たちはそう呼ぶけれども、彼らはほんとうは宗教的ではありません-彼らは言います「基本的にそういう要素がある。私たちはそれと接触できるならなら、それが自己を解消するだろう」と。
 自己を解消するような要素はあるのでしょうか。どうか私たちが何をしているのかを、わかってください。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいるのです。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるだろうか、わかるでしょう。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素-すなわち神と呼ばれるもの-があってほしいと思うのです。では、精神が構想できるようなものはあるのでしょうか。あるかもしれないし、ないかもしれません。それは論点ではありません。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験ではないでしょうか。あなたが信じているとき、それが現実に起きていることではないでしょうか。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程ではないでしょうか。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影したのです。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をするのです。そういう経験は自己を強めるだけです。ゆえにあなたは何をしたのでしょうか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけです。自己はやはりあるのです。なぜなら、あなたがそれを経験したからです。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動です-ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけです。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能しているのです。
(´・(ェ)・`)つ

119避難民のマジレスさん:2020/07/23(木) 22:19:53 ID:b/R.LjPg0
1.漢文
 是無覆無記 触等亦如是
2.読み下し文
 是無覆無記なり。触等も亦た是の如し。
3.翻訳(中公文庫版71p)
 その(アーラヤ識)と一体になって存在している感情は、全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 そうしてその(アーラヤ識そのもの)は(倫理的に)無性であってかつ(根本無知などにも)覆われていないのである。

漢文の文章は非常に短くとも様々な意味がその中に含意されているんですよ。
さて、

>一体となっている感情が
 阿頼耶識が所縁によって見分と相分に分析されて感情になるって事で、両者の関係は非異非同って事です。

>全く平静(なる感情)(捨)であって(楽でもなく苦でもなく)、
 その所縁によって種子から現ぜられた相分である感情が、平静と見分されているんです。
 平静、つまり楽でもなく苦でもなくって事ですが、これは分別をしていない見分が現じられている、則ちこれが現量でしょ?

ここで、現量の定義と照らし合わせると

  直接知覚。現前にある対象の非言語的な認識。
  任運にして無分別なり
  諸分別の行解を離れて任運の境の事相に敵う
  境に任せてこれを縁ずる

上記とまさに合致してると思いますけどね。

上記を要約すると、境に任せてこれを縁じて無分別にして事相に敵うとなるでしょが、阿頼耶識が境に任せて、つまり所縁に依って見分と相分に分析されて、無分別、平静(楽でもなく苦でもなく)であると。

120鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/23(木) 23:06:01 ID:1d4drIFg0
自分から離れて自分を見たり、破壊できる実体はないというのじゃ。
破壊したと思ったらそれが自己なのじゃ。
そこにはまだ破壊する主体の観念が在るのじゃ。
違う名前をつけただけなのじゃ。

121避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 00:29:59 ID:MutNoc3w0
くまめも1-9-4
自己から離れて、自己を見つめ自己を解消する実体があるのか。自己を破棄して破壊し、脇へ置く霊的・精神的実体があるのか。
 自己を解消するような要素はあるのか。私たちは自己を角(すみ)に追い込んでいる。あなたは自分自身が角に追い込まれるのを許すなら、何が起きるか。私たちは、時間がなく、自己の [もの] ではない [要素] 、やって来て調停し、自己を破壊してくれるであろうと願う要素-すなわち神と呼ばれるもの-があってほしいと思う。では、精神が構想できるようなものはあるのか。あるかもしれないし、ないかもしれない。それは論点ではない。しかし精神が、自己を破壊するために行動し始めるであろう時間のない霊的 [・精神的] 状態を求めるとき、それは「私」を強めているもう一つの形の経験。あなたが信じているとき、それが現実に起きていること。あなたが真理、神、時間のない状態、不死があることを信じているとき、それは自己を強める過程。自己を破壊しに来るであろうとあなたが感じ信じているものを、自己が投影した。それで霊的 [・精神的]実体として時間のない状態にとどまるというこの観念を投影しておいて、あなたは経験をする。そういう経験は自己を強めるだけ。ゆえにあなたは何をしたのか。あなたはほんとうは自己を破壊したのではなくて、それに違った名前、違った性質を与えただけ。自己はやはりある。なぜなら、あなたがそれを経験したから。こうして私たちの行動は初めから終わりまで同じ行動。ただ私たちがそれは進化している、成長している、ますます美しくなりつつあると思うだけ。しかしあなたは内側で観察するなら、それは同じ行動が続いていて、同じ「私」が違ったラベル、違った名前をもって、違った水準で機能している。
(´・(ェ)・`)

122避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 21:43:32 ID:zr.JxX7M0
最初と最後の自由  第一部
   第九章 自己とは何か 5

 あなたは、自己の過程全体、ずるがしこい、とてつもない考案、智恵 [ がわかるとき]、同一化をとおし、美徳をとおし、経験をとおし、信念をとおし、知識をとおして、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき-精神がそれ自体が作った循環、檻のなかで動いていることがわかるとき、何が起きるでしょうか。あなたはそれに気づき、充分に認識するとき、そのときとてつもなく静かではないでしょうか-強制をとおしてではなく、どんな報賞をとおしてでもなく、どんな恐れをとおしてでもなく。あなたは、精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、あなたはそれを観察し、わかるとき、行動においてそれに完全に気づくとき、その地点に至るとき-イデオロギ-として、言葉としてではなく、投影された経験をとおしてではなくて、現実にその状態にあるとき-そのとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかるでしょう。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にあるのです。精神が創造していないとき、創造があるのです-それは認識できる過程ではありません。
 真実、真理は認識されるべきものではありません。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求-このすべては去らなければなりません。美徳の追求を意識している美徳の人は、決して真実を見つけられません。彼はとてもまともな人であるかもしれません。しかしそれは、真理の人、理解する人であるのとは全く異なっているのです。真理の人にとって、真理は生じたのです。美徳の人は正義の人です。正義の人は、何が真理なのかを決して理解できません。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから、彼は美徳を追求しているからです。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけです。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要なのです。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないでしょうし、すべての災いと悲惨の中心になるでしょう。しかしあなたと私が個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき私たちは愛が何であるかを知るでしょう。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革であることを、私はあなたに保証します。愛は自己の[もの] ではありません。自己は愛を認識できません。「私は愛している」とあなたは言います。しかしそのとき、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はないのです。しかしあなたが愛を知るとき、自己はないのです。愛があるとき、自己はないのです。
(´・(ェ)・`)つ

123避難民のマジレスさん:2020/07/24(金) 21:47:01 ID:zr.JxX7M0
くまめも1-9-5
自己の過程全体、それがいかにそれ自体を覆いかくすかがわかるとき、そのときとてつもなく静かになる。精神のあらゆる動きがたんに自己を強める形であることを認識するとき、現実にその状態にあるとき、精神が全く静かであり、創造する力を持っていないことがわかる。精神が創造するどんなものも、循環のなか、自己の領域の中にある。精神が創造していないとき、創造がある。それは認識できる過程ではない。
 真理は認識されるべきものではない。真理が来るには、信念、知識、経験、美徳の追求、このすべては去らなければならない。美徳の人、正義の人は、何が真理なのかを決して理解できない。なぜなら、彼にとって美徳は自己を覆いかくすこと、自己を強めることであるから。彼が「私は無欲でなければならない」と言うとき、彼が経験する無欲の状態は、自己を強めるだけ。そういうわけで世間のものごとにおいてだけでなくて、また信念と知識においても貧しいことがとても重要。世間的な富をもった人や知識と信念の豊かな人は、決して暗闇の他は何も知らないし、すべての災いと悲惨の中心になる。しかし個人として、この自己の働き全体がわかるなら、そのとき愛が何であるかを知る。それがなんとか世界を変えられるかもしれない唯一の改革である。愛は自己のものではない。自己は愛を認識できない。「私は愛している」とあなたは言う。しかし、まさにそれを言うことこそに、まさにそれを経験することこそに、愛はない。しかしあなたが愛を知るとき、自己はない。愛があるとき、自己はない。
(´・(ェ)・`)

124鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/24(金) 23:00:40 ID:1d4drIFg0
自己に気付いたならば静寂があるというのじゃ。
真理は認識されるものではなく、真理の人に生じるというのじゃ。
世界を変えられる心の改革とは自己を滅し、愛を知った時であるというのじゃ。
 愛がある時自己は無いからなのじゃ。
それは慈悲なのじゃ。

125避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 17:41:33 ID:b/R.LjPg0
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馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
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       :, -‐ (_).        /     
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126避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 22:24:19 ID:oeQgDAXg0
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 1

  恐れとは何でしょうか。恐れは、何かとの関係においてだけ存在できるのです、[それだけが]孤立して存在できません。どうして私は死を恐れることができるでしょうか。どうして私は知らないものを恐れることができるでしょうか。私は知っているものだけを恐れることができるのです。私は死を恐れていると言うとき、ほんとうは、知らないもの-すなわち死-を恐れているのでしょうか。それとも知っているものを失うことを恐れているのでしょうか。私の恐れは、死についての [恐れ] ではなく、自分に属しているものごととのつながりを失うことについての [恐れ] です。私の恐れはいつも、知らないものと [の関係において]ではなく、知っているものとの関係においてあるのです。
そこで私の探究は[今や]、知っているものへの恐れ―すなわち私の家族、評判、人格、銀行預金、欲望などを失うことへの恐れ-からどのようにして自由になるのか、です。恐れは良心から生じると、あなたは言うかも知れません。しかしあなたの良心は、あなたの条件付けにより形成されています。ですから良心はやはり、知っているものの結果です。私は何を知っているでしょうか。知識は、[せいぜい]観念を持つこと、ものごとについて意見を持つこと、知っているものとの関係における [継続性の] ように、継続性の感覚を持つことです-それ以上ではないのです。観念は、記憶であり、経験の結果です-それは挑戦に対する応答です。私は知っているものを恐れています-それは、 [こういう意味です-] 私は人々やものごとや観念を失うことを恐れている。あるがままの自分を発見することを恐れている。途方に暮れることを恐れ [ている] 、失ってしまったり、獲得しなかったり、もはや楽しみを得られないとき生じるかもしれない苦痛を恐れている、という意味です。
 苦痛への恐れがあります。身体的苦痛は神経的応答ですが、心理的苦痛は、自分に満足を与えてくれるものごとに取りすがるとき、生じるのです。というのは、そのとき私は自分からそれらを取り去るかもしれない誰でも、どんなものごとをも恐れるからです。心理的な蓄積物は、動揺させられていないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれるのです。すなわち、私は蓄積物、経験の束です-それらが、どんな深刻な形の動揺をも防いでくれるのです。そして私は動揺したくないのです。ゆえに私は、誰でもそれら[蓄積物]を動揺させる者を、恐れるのです。こうして私の恐れは、知っているものについて [の恐れ] です。私は物質的、心理的な蓄積物-私が苦痛をかわしたり、悲しみを防いだりする手段として集めてきたもの-を恐れています。しかし悲しみは、心理的苦痛をかわすために蓄積する、まさにその過程こそにあるのです。知識もまた苦痛を防ぐのを助けてくれます。医学的知識が身体的苦痛を防ぐのを助けてくれるように、信念もまた心理的苦痛を防ぐのを助けてくれるのです。そういうわけで私は自分の信念を失うことを恐れるのです―そういう信念の真実性について完全な知識や具体的証拠を持っていないにもかかわらず、です。私は自分に押し付けられてきた伝統的信念のうち或るものを拒絶するかもしれません。なぜなら私自身の経験が、私に強さ、確信、理解を与えてくれるからです。しかし、私が習得してきたそういう信念と知識は、基本的に同じものです―苦痛をかわす手段です。
(´・(ェ)・`)つ

127避難民のマジレスさん:2020/07/25(土) 22:28:45 ID:oeQgDAXg0
くまめも10-1
恐れは、何かとの関係においてだけ存在できる。孤立して存在できない。死を恐れること、知らないものを恐れることはできない。私は死を恐れていると言うとき、死についてのではなく、自分に属しているものごととのつながりを失うことについての恐れ。家族、評判、人格、銀行預金、欲望などを失うことへの恐れからどのようにして自由になるのか。恐れは良心から生じるか。良心は、条件付けにより形成される、から良心は、知っているものの結果。知識は、観念、ものごとについて意見を持つこと、知っているものとの関係における継続性の感覚を持つこと。観念は、記憶であり、経験の結果。それは挑戦に対する応答。私は知っているもの、人々やものごとや観念を失うこと、あるがままの自分を発見すること、途方に暮れること、失ってしまったり、獲得しなかったり、楽しみを得られないとき生じる苦痛を恐れている。
身体的苦痛は神経的応答。心理的苦痛は、自分に満足を与えてくれるものごとに取りすがるとき、生じる。というのは、そのとき私は自分からそれらを取り去るかもしれない誰でも、どんなものごとをも恐れるから。心理的な蓄積物は、動揺させられていないかぎり、心理的な苦痛を防いでくれる。私は蓄積物、経験の束。それらが、動揺を防いでくれる。そして動揺したくない。ゆえに誰でもそれら蓄積物を動揺させる者を、恐れる。しかし悲しみは、心理的苦痛をかわすために蓄積する、まさにその過程こそにある。知識もまた苦痛を防ぐのを助ける。医学的知識が身体的苦痛を防ぐのを助けるように、信念もまた心理的苦痛を防ぐのを助ける。そういうわけで自分の信念を失うことを恐れる。自分に押し付けられてきた伝統的信念のうち或るものを拒絶するかもしれない。なぜなら自身の経験が、強さ、確信、理解を与えてくれるから。しかし、習得してきたそういう信念と知識は、基本的に同じもの。苦痛をかわす手段。
(´・(ェ)・`)

128鬼和尚:2020/07/26(日) 00:14:43 ID:1d4drIFg0
死の恐れとは家族や資産などを失う恐れというのじゃ。
誰もが死を忘れて死に無知になっているからのう。
その恐れからの逃避として知識や信念にすがるというのじゃ。
それは金や薬や酒や権力に執りつかれるのと同じなのじゃ。

129避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 00:18:08 ID:b/R.LjPg0
      _| ̄|_| ̄|  | ̄|_| ̄|__| ̄|_| ̄|   | ̄|_| ̄|_| ̄|
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      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ

馬鹿じゃねーの?
                       頭悪そうwwww
  心療内科逝けよwwwww
                     生きてて楽しい?
    知育障害?
                        恥ずかしーwww     

まじキモ―!    ,, -──- 、._    智慧の声が聞こえた?
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:   偽僧侶の統失ナマポおじさんwww
        :/   o゚((●)) ((●))゚oヽ: 
      :|       (__人__)    |:          お薬飲んでるか??
      :l        )  (      l:     
      :` 、       `ー'     /:   仏教向いてないよ、お前w 
       :, -‐ (_).        /     
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130避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 18:45:17 ID:6kL7WP160
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 2

  恐れは、知っているものの蓄積があるかぎり存在しています-それ[蓄積 ] が、失うことへの恐れを造り出すのです。ゆえに知らないものへの恐れはほんとうは、蓄積された知っているものを失うことについての恐れです。蓄積はまちがいなく恐れを意味します―それ [ 恐れ]が今度は苦痛を意味します。それで「私は失ってはならない」と言った瞬間、恐れがあるのです。蓄積における私の意図は、苦痛をかわすことですが、苦痛は蓄積の過程において本来的にあるのです。まさに私の持っているものごとが、恐れを造り出すのです-それが苦痛です。
 防御の種が攻撃をもたらすのです。私は物理的[・身体的]な安全が欲しい。こうして私は主権[独立]政府を造り出します-それは武装した軍隊を必要とします-それは戦争を意味し、それは安全を破壊します。自己保護への願望があるところはどこでも、恐れがあります。安全を要求することの虚偽がわかるとき、私はもはや蓄積しません。それはわかるが、蓄積せざるを得ないと、あなたが言うなら、それは、本来的に蓄積には苦痛があるということが、ほんとうにわからないからです。
  恐れは蓄積の過程に存在しています。そして何かへの信念は蓄積過程の一部です。私の息子が死にます。すると私は心理的にこれ以上の苦痛を持つのを防ぐために、輪廻転生を信じます。しかし、まさに信じる過程こそに、疑いがあるのです。外に向かって私は物を蓄積して戦争をもたらします。内に向かって私は信念を蓄積して苦痛をもたらします。私が安全でありたい、銀行預金、楽しみなどを持ちたいと思うかぎり、生理的または心理的に何ものかになりたいと思うかぎり、苦通があるにちがいありません。まさに私が苦痛をかわすためにしていることこそが、私に恐れ、苦痛をもたらすのです。
  恐れは、私が特定の様式のなかにいたいと願望するとき、生じます。恐れなしに生きることは、特定の様式なしに生きるという意味です。私が特定の生き方を要求するとき、それ自体が恐れの源です。私の困難は、一定の枠のなかで生きたいという願望です。私はその枠を壊せないでしょうか。私は、真理 [がわかるとき] -枠が原因として恐れを引き起こしているということ、この恐れが枠を強めているということ-がわかるときだけ、そうできるのです。私は恐れから自由になりたいから、枠を壊さなければならないと言うなら、そのときたんにもう一つの様式を追っているだけです-それは [原因として] さらなる恐れを引き起こすでしょう。枠を壊したいという願望に基づいた私の方のどんな行動も、もう一つの様式を [造り出し] 、ゆえに恐れを造り出すだけでしょう。恐れを引き起こすことなく、すなわちそれ [枠] に関する私の方の意識的、無意識的などんな行動もなく、どのようにして枠を壊すべきでしょうか。これは、私が行動してはならない、枠を壊すためのどんな動きもしてはならない、という意味です。私が枠について何もせずに単にそれを見ているとき、私に何が起きるでしょうか。精神自体が、枠、様式であることがわかるのです-それは、それ自身で造り出した習慣的な様式のなかに生きているのです。ゆえに精神自体が恐れです。精神は何をしても、古い様式を強めるか、新しいものを進める方へ向かって行くのです。これは、精神が恐れを取り除くためにすることは何でも、恐れを引き起こす、という意味です。
(´・(ェ)・`)つ

131避難民のマジレスさん:2020/07/26(日) 18:49:48 ID:6kL7WP160
くまめも10-2
恐れは、知っているものの蓄積があるかぎり存在する。蓄積が、失うことへの恐れを造り出す。蓄積における意図は、苦痛をかわすことだが、苦痛は蓄積の過程において本来的にある。防御の種が攻撃をもたらす。物理的・身体的な安全が欲しい。自己保護への願望があるところは、恐れがある。安全を要求することの虚偽がわかるとき、もはや蓄積しない。それはわかるが蓄積せざるを得ないと言うなら、本来的に蓄積には苦痛があるということが、ほんとうにわからないから。
  恐れは蓄積の過程に存在する。何かへの信念は蓄積過程の一部。外に向かって物を蓄積して戦争をもたらし、内に向かって信念を蓄積して苦痛をもたらす。苦痛をかわすためにしていることが、恐れ、苦痛をもたらす。
恐れは、特定の様式(枠)のなかにいたいと願望するとき、生じる。恐れなしに生きることは、特定の様式なしに生きるという意味。枠が原因として恐れを引き起こし、この恐れが枠を強めているという真理がわかるときだけ、枠を壊せる。恐れから自由になりたいから、枠を壊さなければならないと言うなら、そのときたんにもう一つの様式を追っているだけ。それはさらなる恐れを引き起こす。枠を壊したいという願望に基づいた行動も、もう一つの様式を造り出し、恐れを造り出すだけ。恐れを引き起こすことなく、すなわち枠に関する意識的、無意識的などんな行動もなく、どのようにして枠を壊すべきか。枠について何もせずに単にそれを見ているとき、精神自体が、枠、様式であることがわかる。それは、それ自身で造り出した習慣的な様式のなかに生きている。ゆえに精神自体が恐れ.精神は何をしても、古い様式を強めるか、新しいものを進める方へ向かって行く。これは、精神が恐れを取り除くためにすることは何でも、恐れを引き起こす、という意味。
(´・(ェ)・`)

132鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/26(日) 22:24:32 ID:1d4drIFg0
蓄積したものを失うことが恐れになるというのじゃ。
金でも知識でも蓄積してきたものを失うのが恐れになるのじゃ。
そもそも金とか知識も恐れからの逃避として蓄積してきたものなのじゃ。
恐れからの逃避として蓄積すれば、今度はそれが恐れを生む悪循環になるのじゃ。

133避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 10:27:58 ID:s99CdGwQ0
和尚様
井上義衍の縁者の松本自證老師は悟られているのでしょうか?
認識に問題があることを分かっている気がします。

http://zenmasterjinen.blog.jp/archives/19341423.html

134避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 21:34:00 ID:hdQ2/nGg0
最初と最後の自由  第一部
   第十章 恐怖(恐れ) 3

恐れは様々な逃避を見つけます。普通の種類は同一化なのではないでしょうか-国との、社会との、観念との同一化です。あなたは軍隊の行進や宗教的行列など、行進[・行列]を見るとき、または祖国が侵略される危機にあるとき、自分がどのように反応するかに気づいたことはないでしょうか。あなたはそのとき祖国と、或る存在[神・人]と、イデオロギーと自分自身を同一化します。あなたは自分の子供、自分の妻、特定の形の行動や無行動と自分自身を同一化する他の時があります。同一化は[忘我の・]自分を忘れる過程です。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがあることを知っています。しかし何かもっと偉大なもの、何か価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避があるのではないでしょうか。私は「祖国」について話をするなら、一時的に自分自身を忘れるのではないでしょうか。私は神について何かを言えるなら、自分自身を忘れるのです。私が自分の家族、集団、特定の党派、一定のイデオロギーと自分自身を同一化できるなら、そのとき一時的な逃避があるのです。
 ゆえに 同一化は、一つの形の自己からの逃避です―まさに美徳が一つの形の自己からの逃避であるように、です。美徳を追求する人は、自己から逃避しているのです。彼は狭い精神を持っているのです。それは美徳のある精神ではありません。というのは美徳は、何か追求できないものであるからです。あなたは美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に、「私」に強さを与えるのです。恐れは、私たちのほとんどにとって、形は違っても共通していますが、いつも代用物を見つけるにちがいないし、ゆえに私たちの格闘を増加させるにちがいないのです。あなたは代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなるのです―あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができているのです。なぜならその裏には恐れがあるからです。
私たちは今、恐れとは何かを知っているでしょうか。それは、あるがままを受け入れないことではないでしょうか。私たちは「受け入れる」という言葉を理解しなければなりません。私はその言葉を、受け入れるために為される努力という意味で使っているわけではありません。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはありません。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込みます。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないことです。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私はどうして[それらを]越えてゆけるでしょうか。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるでしょうか。障害がないとき、なんととてつもない喜びがあるかを、私たちは知っています。あなたは、身体が完ぺきに健康であるとき、一定の喜び、幸福があることを知らないでしょうか。精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、一定の喜びを経験することを、知らないでしょうか。自己が不在であるとき、この状態を経験したことがないでしょうか。確かに私たちは皆 [経験したことが] あるのです。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめられるときだけ、理解と、自己からの自由があるのです。そして私は、願望-すなわちまさに思考の表現そのもの-から生まれた活動すべての過程全体を理解するときだけ、それができるのです-正当化せず、非難せず、抑圧せずに、です。というのは、思考は願望と異ならないからです。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の [諸々の] 制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知るでしょう。  
(´・(ェ)・`)つ

135避難民のマジレスさん:2020/07/27(月) 21:40:20 ID:hdQ2/nGg0
くまめも10-3
恐れは様々な逃避を見つける。国、社会、観念との同一化。同一化は忘我の過程。私は、「私」を意識しているかぎり、苦痛があり、格闘があり、常なる恐れがある。しかし何かもっと偉大なもの、価値のあるもの、美、生命、真理、信念、知識と自分自分を同一化できるなら、少なくとも一時的に「私」からの逃避がある。ゆえに 同一化は、自己からの逃避。しかし、たとえば、美徳を持とうとすればするほど、ますます自己に強さを与える。恐れは、いつも代用物を見つける。ゆえに格闘を増加させる。代用物と同一化されればされるほど、ますますそれにすがり付く強さが大きくなる。あなたはそのために進んで格闘し、死ぬ準備ができている。なぜならその裏には恐れがあるから。
恐れとは、あるがままを受け入れないこと。私があるがままを知覚するとき、受け入れるという問いはない。あるがままを明確に見ないとき、そのとき受け入れの過程を持ち込む。ゆえに恐れは、あるがままを受け入れないこと。これらすべての反応[反動]、応答、記憶、希望、絶望、挫折の束である [私] 、塞がれた意識の動きの結果である私-その私は、それらを越えてゆけない。精神は、この塞さがりと障害をもたずに意識できるか。障害がないとき、精神が完全に自由であり、どんな塞がりもないとき、「私」という認識の中心がないとき、とてつもない喜びがある。自己が不在であるとき、この状態を経験する。
私がそれを一つの全体として完全に統合的に見つめるときだけ、理解と、自己からの自由がある。そして私は、願望から生まれた活動すべての過程全体を、正当化、非難、抑圧せずに理解するときだけ、それができる。というのは、思考は願望と異ならないから。私はそれを理解できれば、そのとき私は自己の制限を越えてゆく可能性があるかどうかを知る。
(´・(ェ)・`)

136鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/27(月) 23:08:57 ID:1d4drIFg0
>>133 悟っていないのじゃ。
 ハッキリしただけじゃな。
 それは悟りではないのじゃ。

137鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/27(月) 23:26:41 ID:1d4drIFg0
恐れから人は国家や組織と同一化するというのじゃ。
それは一時的に恐れを忘れさせてくれるが、更なる悲惨をもたらすものじゃ。
私という認識の主体がなければ喜びと、幸福が在るのじゃ。
それは自己からの認識全体が観られるとき、起こるものじゃ。

138避難民のマジレスさん:2020/07/28(火) 21:40:28 ID:9Bjm15Z60
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)1

 私は、単純さとは何であるかを議論したいと思います。するとおそらくそこから、感受性の発見にたどり着くでしょう。私たちは、単純さとはたんに外側の表現、退くことであると考えるように、見えます-わずかの所有物しかもたないこと、腰布を着けること、家を持たないこと、わずかの服しか身につけないこと、少ない銀行預金を持つこと [であると] 。確かにそれは単純さではありません。それはたんに外側の表示であるだけです。単純さは本質的 [・不可欠] であるように、私には見えます。しかし単純さは、私たちが自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうるのです。
 単純さは、たんに様式への適応だけではありません。単純であって、たとえどんなに外的に価値があっても、たんに特定の様式に順応しないことは、たいへんな智恵を必要とします。不幸にも私たちのほとんどは、外側のものごとにおいて外的に単純であることより始めます。わずかのものしか持たないこととわずかなもので満足することは、比較的にたやすいのです-ほんの少しで満足することと、おそらくそのほんの少しを他の人たちと分け合うことは、です。しかし、ものごと、所有物における単純さというたんなる外側の表現は、確かに内側の存在の単純さという意味を含んでいません。なぜなら、世界が現在そうであるように、外側から、外的にますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているからです。生はますます複雑になりつつあります。それから逃避するために、私たちは断念したり、ものごとから無執着であろうとします-車から、家から、組織から、映画から、そして外側から私たちに押しつけてくる無数の境遇から。私たちは退くことにより単純であるだろうと、考えます。非常に多くの聖者たち、非常に多くの教師たちは世界 [・世間] を放棄してきました。そして私たちの誰に関しても、そういう放棄は問題を解決しないように、私には見えます。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけです。そこから外側の表現があるのです。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題です。なぜなら、その単純さは [人を] ますます敏感にするからです。敏感な精神、敏感な心は本質的 [・不可欠] です。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるからです。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているのですが、それらを理解することによってだけ、確かに、内側で単純でありえます。しかし私たちのほとんどは囚われることが好きなのです-人々により、所有物により、観念により。私たちは囚人であることが好きなのです。私たちは外側ではとても単純であるように見えるけれども、内側では囚人です。内側では、私たちは自分たちの願望、欲、理想、無数の動機づけの囚人です。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられません。ゆえに、それは外側でではなく、内側で始まらなければなりません。
 信念の過程全体を [理解する] 、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由があります。信念からの自由があるとき、単純さがあります。しかしその単純さは智恵を必要とします。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければなりません。気づくには、思考や行動のどんな特定の溝、どんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければなりません。結局、内側で何であるかが、外的なものに影響を及ぼすのです。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影です。そして内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がありません。それは一定の改善、一定の適応をもたらすかもしれません。しかし内側で何であるかが、いつも外的なものに打ち勝つのです。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒するのです。
(´・(ェ)・`)つ

139避難民のマジレスさん:2020/07/28(火) 21:46:13 ID:9Bjm15Z60
くまめも11-1
単純さとはたんに外側の表現、退くことではない。単純さは不可欠。単純さは、自己認識の意義を理解しはじめるときだけ、生じうる。
単純さは、たんに様式への適応だけではない。たんなる外側の表現は、内側の存在の単純さという意味を含んでいない。なぜなら、外側から、ますます多くのものごとが、私たちを駆り立てているから。生はますます複雑になりつつある。それから逃避するために、断念したり、無執着であろうとする。私たちは退くことにより単純であろうとする。そういう放棄は問題を解決しない。根本的で真実である単純さは、内側に生じうるだけ。そのとき、どのようにして単純であるべきかが問題。なぜなら、単純さはますます敏感にするから。敏感な精神、心は不可欠。というのは、そのときそれはすばやい知覚、すばやい受容の能力があるから。
人は、無数の妨害、執着、恐れに囚われているが、それらを理解することによってだけ、内側で単純でありえる。しかし私たちは人々、所有物、観念により、囚われることを好む。単純さは、内側で自由でないかぎり、見つけられない。ゆえに、それは内側で始まらなければならない。
信念の過程全体を、なぜ精神は信念に執着するのかを理解するとき、とてつもない自由がある。信念からの自由があるとき、単純さがある。その単純さは智恵を必要とする。そして智恵を持つには、自分自身の妨害に気づかなければならない。気づくには、思考や行動のどんな特定の様式にも確立されないで、常に見守っていなければならない。社会、またはどんな形の行動も、私たち自身の投影。内側で変容させることなきたんなる法制度は、外側でほとんど意義がない。内側で貪欲で、野心的で、一定の理想を追求しているなら、その内側の複雑さが、たとえどんなに気をつけて計画されていても外側の社会を、結局は転覆させ、打倒する。
(´・(ェ)・`)

140鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/29(水) 00:06:49 ID:1d4drIFg0
心の内側で単純であることは知覚を鋭敏にしてくれるというのじゃ。
執着や恐れを理解すれば単純にありえるというのじゃ。
信念への執着を理解する時、自由で単純になれるのじゃ。
そのようにして内側で変容することで真の改革はなされるのじゃ。

141避難民のマジレスさん:2020/07/29(水) 21:57:47 ID:IdZpVTSU0
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)2

 ゆえに、中で始めなければなりません-排他的にではなく、外的なものを拒絶するのではありません。あなたは、外的なものを理解することにより、どうして外側に抗争、格闘、苦痛が存在するのかを見出すことにより、確かに、内的なものに至ります。それをますます究明するにつれて、自然に、外側の抗争と悲惨を生み出すところの心理状態に入るのです。外側の表現は、ただ私たちの内側の状態の表示であるだけです。しかし内側の状態を理解するには、外的なものをとおして接近しなければなりません。私たちのほとんどはそうします。内的なものを理解するなかで-排他的にではなく、外的なものを拒絶することによってではなく、外的なものを理解し、そして内的なものに思いがけず出会うことによって-私たちは、自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になるということを、見つけるでしょう。かくも本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さです。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すからです。敏感でなく、鋭敏でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もありません。私たち自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にするのです。政府により、自分自身により、達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も-どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つにちがいありません。外側では、あなたは順応して、とても多くの宗教的な人たちがするように単純さの外観を装うかもしれません。彼らは色んな修練を実践し、色んな組織に加入し、特定の流儀で瞑想をする、などです-すべてが単純さの外観を装っています。しかしそういう順応は単純さに役立ちません。どんな種類の強制も決して単純さに導けません。反対に、あなたは抑圧すればするほど、代用するほど、昇華するほど、ますます単純でなくなるのです。しかしあなたは昇華、抑圧、代用の過程を理解すればするほど、ますます単純である可能性が大きくなるのです。
 私たちはとてつもなく博識で利口になることによってではなく、単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑なのです。単純な人は、複雑な人よりはるかにもっと直接的に見えて、もっと直接的な経験をします。私たちの精神は、事実について、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、私たちは単純である [能力] 、私たち自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまったのです。これらの問題は、新しい接近法を要求します。そしてそれらは、私たちが単純で [あり] 、内側で本当に単純であるときだけ、そのように接近できるのです。その単純さは、ただ自己認識をとおし、私たち自身を理解することをとおしてだけ、訪れるのです。私たちの考え [方]と感じ方、私たちの思考の動き、私たちの応答 [を理解する] 。いかに私たちが恐れをとおして世論に、他の人たちが言うことに、ブッダやキリストや偉大な聖者たちが言ったことに順応するか-そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示しています- [を理解することをとおして、です] 。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはないのです。
(´・(ェ)・`)つ

142避難民のマジレスさん:2020/07/29(水) 22:01:47 ID:IdZpVTSU0
くまめも11-2
外側に抗争、格闘、苦痛が存在するわけを見出すことにより、内的なものに至る。自分たちの存在の内側の複雑さの究明を進めるにつれて、ますます敏感に、自由になる。本質的 [・不可欠] であるのは、この内側の単純さ。なぜなら、その単純さは敏感さを造り出すから。敏感でなく、気づいていない精神は、どんな受容性、どんな創造的行動 [・作用] の能力もない。自身を単純にする手段としての順応は、ほんとうは精神と心を鈍く鈍感にする。達成という理想などにより課されたどんな形の権威主義的な強制も-どんな形の順応も、内側で単純であることにではなく、鈍感さに役立つ。抑圧、代用、昇華するほど、ますます単純でなくなる。しかし、昇華、抑圧、代用の過程を理解するほど、ますます単純である可能性が大きくなる。
私たちは単純であることによってだけ、それらを解決できるほどに、社会的、環境的、政治的、宗教的な私たちの問題は、あまりに複雑。私たちの精神は、事実、他の人たちが言ったことについての無際限の知識があまりに詰め込まれているために、単純である [能力] 、自身で直接的な経験をする能力がなくなってしまった。単純さは、ただ自己認識をとおしてだけ、訪れる。いかに私たちが恐れをとおして、世論に、他の人たちが言うことに、偉大な聖者たちが言ったことに順応するか-そのすべては、順応しよう、安心しよう、安全であろうとする私たちの本性を表示している − を理解することをとおして。安全を求めているとき、明白に恐れの状態にあるし、ゆえに単純さはない。
(´・(ェ)・`)

143鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/29(水) 23:02:09 ID:1d4drIFg0
外側での抗争、格闘、苦痛が何故起こるのか探求すれば必然的に心の内側に原因があるとわかるというのじゃ。
外で起こることは全て心の内側の表現に過ぎないのじゃ。
全ては心で作られるのであるからのう。
仏陀やキリストの言葉でさえただ従うだけでは安心を求める欲から起こる行いというのじゃ。
自分を観ることでのみ問題は解決できるのじゃ。

144避難民のマジレスさん:2020/07/30(木) 22:25:52 ID:UDC2l2O20
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)3

 単純であることなしに、敏感でありえません-木々に、鳥たちに、山々に、風に、世界で私たちのまわりで起きていることすべてに対して。単純でなければ、ものごとの内側の暗示に対して敏感でありえません。私たちのほとんどは、意識の上のほうの水準で、あまりに表面的に生きています。そこでは私たちは思慮深くあろう、または智恵を持とうとします-それは宗教的であることと同義です。そこでは私たちは強制をとおし、修練をとおして、自分たちの精神を単純にしようとします。しかしそれは単純さではありません。私たちが上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしないのです。私たちの意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難です。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、私たちの存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないからです-それは、あらゆるほのめかし、あらゆる暗示に目覚めている、という意味です-私たちの恐れ、希望に気づいて、 [それらを] 究明し、それらからますます自由になる [という意味です] 。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、私たちは自分たちが直面する多くの問題を解決することができるのです。
 知識は私たちの問題を解決しそうにありません。あなたは、例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれません。あなたは知っているかもしれません-あなたは知っていると、私は言いません。またはあなたはそれを確信しているかもしれません。しかし、それは問題を解決しません。死は、あなたの理論により、情報により、または確信によって棚上げできません。それ [死] は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的です。
 これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければなりません。なぜなら、私たちの問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけであるからです。そして直接の経験をするには、単純さがなければなりません-それは敏感さがなければならない、という意味です。精神は、知識の重みにより鈍らされます。精神は、過去により、未来により鈍らされます。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、私たちの環境が常に私たちに加えてくる強力な影響と圧力に対処できるのです。
(´・(ェ)・`)つ

145避難民のマジレスさん:2020/07/30(木) 22:34:29 ID:UDC2l2O20
くまめも11-3 
世界でまわりで起きていることすべてに対して、ものごとの内側の暗示に対して、単純であることなしに、敏感でありえない。意識の上のほうの水準で、表面的に生きている。そこで、思慮深くあろう、智恵を持とうとする。そこで強制、修練をとおして、精神を単純にしようとする。しかしそれは単純さではない。上のほうの精神を単純であるように強いるとき、そういう強制は精神を頑なにするだけで、しなやかに、明晰に、すばやくしない。意識の全体的、総合的過程において単純であることは、極めて困難。なぜなら、どんな内側の保留もあってはならないし、存在の過程を見出したい、探究したいという熱望がなければならないから。それは、あらゆる暗示に目覚めている、という意味。恐れ、希望に気づいて、究明し、それらからますます自由になるという意味。そのときだけ、精神と心がほんとうに単純であり、堅い外層で覆われていないとき、自分たちが直面する多くの問題を解決できる。
知識は問題を解決しない。例えば輪廻転生があること、死後の継続があることを、知っているかもしれない、それを確信しているかもしれない。しかし、それは問題を解決しない。死は、理論により、情報により、確信により棚上げできない。死は、それよりはるかにもっと神秘的で、もっと深く、もっと創造的。
これらすべてのものごとを新たに究明する能力を持たなければならない。なぜなら、問題が解決されるのは、ただ直接の経験をとおしてだけ。そして直接の経験をするには、単純さ、敏感さがなければならない、という意味。精神は、知識の重みにより、過去により、未来により鈍らされる。瞬間瞬間、継続的にそれ自体を現在に適応させる能力のある精神だけが、環境が常に加えてくる強力な影響と圧力に対処できる。
(´・(ェ)・`)

146鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/30(木) 22:57:00 ID:1d4drIFg0
世間でも断捨離という片づけが流行っているのじゃ。
身辺から物が無くなればすっきりして心身もよくなるのじゃ。
心から考えを捨てて単純に成れば敏感にもなるのじゃ。 
それには自らの存在を探求する熱意が必要というのじゃ。

147避難民のマジレスさん:2020/07/31(金) 20:47:17 ID:D8qZy99Q0
最初と最後の自由  第一部
十一章 単純さ(質素・簡素)4

 こうして、宗教的な人は、ほんとうはロ-ブ [聖職者の長い礼服] や腰巻きを着けたり、一日一食で生きたり、これであるべきで、あれであるべきでないという無数の誓いをたててきた人ではなくて、内側で単純である [人] 、何ものにもなろうとしていない人です。そういう精神は、とてつもない受容性の能力があります。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないからです。ゆえにそれは、恵み、神、真理または何であれ、受け取る能力があるのです。しかし真実を追求している精神は、単純な精神ではありません。捜し出し、探求し、手探りし、扇動されている精神は、単純な精神ではありません。内側でも外側でも、どんな権威の様式にも順応する精神は、敏感でありえません。そして精神が本当に敏感で、鋭敏で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやなろうとしていない [とき] 、もはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力があるのです。幸せがありうるのは、そのときだけです。というのは、幸せは [終わりの] 目的ではないからです-それは真実の結果です。精神と心が単純に [なって] ゆえに敏感になったとき-どんな形の強制、指令、または賦課をとおしてでもなく-そのとき私たちは、自分たちの問題にとても単純に取り組めることが、わかるでしょう。私たちの問題がたとえどんなに複雑でも、私たちはそれらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができるでしょう。それが、現在の時代に求められているものです-この外側の混乱、騒乱、敵対に、左翼のであれ右翼のであれ、理論でも定式でもってでもなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、です。あなたは単純でなければ、それに新たに出会えません。

 問題は、私たちがこのように接近するときだけ、解決されうるのです。私たちは、宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できません。ですから私たちは、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければなりません。そういうわけで、気づくこと、私たち自身の考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、これほど重要なのです。そこから、単純さが訪れます。美徳や実践ではない謙虚さが訪れます。獲得される謙虚さは、謙虚であることを止めます。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではありません。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけです-育成された謙虚さではありません。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないからです。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができるのです。
(´・(ェ)・`)つ

148避難民のマジレスさん:2020/07/31(金) 20:53:54 ID:D8qZy99Q0
くまめも11-4
宗教的な人は、ほんとうは、内側で単純である 人、何ものにもなろうとしていない人。そういう精神は、とてつもない受容性の能力がある。なぜなら、障壁がなく、恐れがなく、何かに向かってゆくことがないから。ゆえにそれは、真理を受け取る能力がある。しかし真実を追求している精神、扇動されている精神は、単純な精神ではない。権威の様式に順応する精神は、敏感でない。そして精神が本当に敏感で、それ自身の出来事、応答、思考すべてに気づいているとき、それがもはやそれ自体を何ものかであろうと形造っていないとき-そのときだけ、それは真理であるものを受け取る能力がある。幸せがありうるのは、そのときだけ。というのは、幸せは 終わりの目的ではないから。それは真実の結果。精神と心が単純、敏感になったとき-どんな形の強制、指令、賦課をとおしてでもなく-そのとき自分たちの問題にとても単純に取り組める。問題がたとえどんなに複雑でも、それらに新鮮に接近して、違ったふうに見ることができる。この外側の混乱、騒乱、敵対に、理論、定式でもってでなく、新たに、創造的に、単純に出会う能力のある人たちが、現在の時代に求められている。宗教的、政治的にせよそうでないにせよ、一定の思考の様式という見地に立って考えているなら、それに新たに接近できない。だから、単純であるには、これらすべてのものごとから自由でなければならない。そういうわけで、気づくこと、考える過程を理解する能力を持つこと、自分自身を総合的に認識する能力を持つことが、重要。そこから、単純さが訪れる。美徳や実践ではない謙虚さが訪れる。獲得される謙虚さは、謙虚でなくなる。それ自身を謙虚にする精神は、もはや謙虚な精神ではない。こんなに圧迫している生のものごとに出会うことができるのは、謙虚さを持つときだけ。育成された謙虚さではない。なぜなら、そのとき自分は重要ではないし、自分自身の圧力と重要感をとおして見ないから。問題をそれ自体で見るし、そのときそれを解決することができる。
(´・(ェ)・`)

149鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/07/31(金) 22:54:02 ID:1d4drIFg0
外見を飾るのではなく内面で単純な者にはとてつもない受容性があるというのじゃ。
しかしそれは順応することではないというのじゃ。
権威や伝統に順応すればそれは鈍感になるからのう。
すべてをありのままに見る精神が単純なのじや。

150避難民のマジレスさん:2020/08/01(土) 20:25:52 ID:Cm90o6.Y0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 1

 自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味です-観念と人々の世界とだけでなく、また自然と [の関係] 、私たちが所有するものごととの関係を、です。それが私たちの生です-生は全体との関係です。その関係を理解することは専門化を要求するでしょうか。明白に [要求] しません。それが要求するものは、全体としての生に出会うための気づきです。どのようにして気づくべきでしょうか。それが私たちの問題です。どのようにしてその気づきを持つべきでしょうか-私がこの [気づきという] 言葉を、専門化という意味を持たせずに使ってよければ。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきでしょうか-それは、あなたの隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との [関係] 、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの [関係]、 という意味です。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきでしょうか。確かにそれが私たちの生なのではないでしょうか。関係なしに生はありません。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではありません。反対にそれは、関係の総合過程 [について] の充分な認識や気づきを要求します。
 どのようにして気づくべきでしょうか。私たちはどのように何かに気づくのでしょうか。あなたはどのように人との関係に気づくのでしょうか。あなたはどのように木々に、鳥の鳴き声に気づくのでしょうか。あなたは新聞を読むとき、どのように自分の反応に気づくのでしょうか。私たちは内的な応答とともに精神の表面的な応答にも気づいているでしょうか。私たちはどのように何かに気づくのでしょうか。初めに私たちは刺激に対する応答に気づくのではないでしょうか-それは明白な事実です。私は木々を見ます。すると応答があります。それから感覚、接触、同一化、欲望 [があります] 。それは普通の過程なのではないでしょうか。私たちはどんな書物も研究せずに、現実に起きることを観察できます。
 それで同一化をとおして、あなたは楽しみと苦痛を持ちます。そして私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避なのではないでしょうか。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれるなら、即時に「能力」があるのです。即時に、その事実への気づきがあるのです。そしてそれが苦痛であるなら、「能力」はそれを避けるために開発させられます。私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗するだろうと、私は思います。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないからです。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術ではありません。この自分自身への気づきは、確かに関係の行動 [・作用] において試せるのです。それは私たちの話し方、ふるまい方において試せるのです。どんな同一化もなく、どんな比較もなく、どんな非難もなく、あなた自身を見守ってください。ただ見守ってください。するとあなたはとてつもないことが起きていることが、わかるでしょう。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく-なぜなら、私たちの活動のほとんどは無意識的であるから-あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づくのです。
(´・(ェ)・`)つ

151避難民のマジレスさん:2020/08/01(土) 20:30:47 ID:Cm90o6.Y0
くまめも12-1
自分自身を知ることは、世界と私たちの関係を知るという意味。観念と人々の世界、自然、所有するものごととの関係。生は全体との関係。その関係を理解することは、全体としての生に出会うための気づきを要求する。どのようにして全体としての生に出会う能力を持つべきか-それは、隣人との私的な関係だけでなくて、また自然との、あなたが所有するものごととの、観念との、精神が幻影、欲望などとして手作りするものごととの 関係。どのようにしてこの関係の過程全体に気づくべきか。関係なしに生はない。そしてこの関係を理解することは、孤立化という意味ではない。反対にそれは、関係の総合過程の充分な認識や気づきを要求する。
どのように何かに気づくのか。初めに刺激に対する応答に気づく。木々を見る→応答がある→感覚、接触、同一化、欲望がある。→楽しみと苦痛を持つ。
私たちの「能力・受容力」は、この楽しみへの関心と苦痛の回避。あなたが何かに興味があるなら、それがあなたに楽しみを与えてくれる→即時に「能力」がある。即時に、その事実への気づきがある。それが苦痛である→「能力」はそれを避けるために開発される。
私たちは自分たち自身を理解するために「能力」に頼っているかぎり、失敗する。なぜなら、自分自身の理解は能力に依存しないから。それは、あなたが時間をとおし、常に研ぎ澄ますことをとおして発達させ、育成し、増大させる技術でない。この自分自身への気づきは、関係の行動・作用、話し方、ふるまい方において試せる。どんな同一化、比較、非難もなく、あなた自身をただ見守れ。するととてつもないことが起きていることがわかる。あなたは無意識的である活動を終わりにするだけではなく、あなたはそれを終わりにするだけではなくて、探究なく、掘り進むことなく、さらにその行動の動機にも気づく。
(´・(ェ)・`)

152鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/02(日) 00:32:02 ID:1d4drIFg0
自分と自分にまつわる観念について全体として気づくことが自分自身を知ると言っているのじゃ。
全体を知らなければ自分自身を知ったことにはならないのじゃ。
知ることは本を読んだりして知識を蓄積することではないのじゃ。
現実に起きていることを観察してできることなのじゃ。

153避難民のマジレスさん:2020/08/02(日) 18:20:31 ID:Cu43pdJw0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 2

 あなたは気づくとき、自分の考えと行動の過程全体がわかります。しかしそれは、非難がないときだけ起こりうるのです。私は何かを非難するとき、それを理解しません。それが、どんな種類の理解をも避ける一つの仕方です。私たちのほとんどは意図的にそうすると、私は思います。私たちは即時に非難します。そして私たちは理解したと思うのです。私たちはそれを非難するのではなく、見守り、気づくなら、そのときその行動の内容・中身、意義が開き始めるのです。これを実験してみてください。するとあなたは自分自身でわかるでしょう。ただ気づいてください-どんな正当化の感覚もなしに-それはむしろ否定的に見えるかもしれませんが、否定的ではありません。反対にそれは、直接的行動である受動性の性質を持っています。そしてあなたはそれを実験してみるなら、これを発見するでしょう。
 結局、あなたは何かを理解したいなら、受動的な・無抵抗の気持ちでなければならないのではないでしょうか。あなたはそれについて考え [続け] 、それについて憶測し・思索し [続け] 、それを問い続けられません。あなたはそれの内容を受け取るほど充分に敏感でなければなりません。それは敏感な・高感度の写真の感光板と似ています。私はあなたを理解したいなら、受動的に気づかなければなりません。そのときあなたはあなたの物語すべてを私に語りはじめます。確かにそれは能力や専門化の問題ではありません。その過程において、私たちは自分自身を-私たちの意識の表面的な層だけではなくて、より深い [層] 、すなわちはるかにもっと重要であるものを-理解しはじめるのです。なぜなら、そこに、私たちの動機や意図、隠れた混乱した要求、心配、恐れ、欲望すべてがあるからです。外側では、私たちはそれらをすべて制御しているかもしれませんが、内側では、それらは沸き立っているのです。それらが気づきをとおして完全に理解されてしまうまでは、明白に自由はありえません。幸せはありえません。智恵はありません。
 智恵は専門化の事柄でしょうか-智恵は私たちの過程への総合的気づきです。そしてその智恵は、何かの形の専門化をとおして育成されるべきものでしょうか。なぜなら、それが起きていることであるからではないでしょうか。司祭、医者、技師、産業経営者、事業家、大学教授-私たちはその専門化すべての精神性を持っています。
 最高の形の智恵-すなわち真理、神、叙述できないもの-を悟るには、それを悟るには、私たちは自分たち自身を専門家にしなければならないと、思うのです。私たちは研究します。私たちは手探りします。私たちは探し出します。そして私たちは能力-すなわち自分たちの葛藤、悲惨を解きほぐすのを助けてくれるであろうもの-を発達させるために、専門家の精神性や専門家に頼ることをもって、自分自身を研究するのです。
(´・(ェ)・`)つ

154避難民のマジレスさん:2020/08/02(日) 18:29:39 ID:Cu43pdJw0
くまめも12-2
あなたは気づくとき、自分の考えと行動の過程全体がわかる。それは、非難がないときだけ起こりうる。私は何かを非難するとき、それを理解しない。それが、どんな種類の理解をも避ける一つの仕方。私たちは意図的にそうする。即時に非難する。そして理解したと思う。それを非難するのではなく、見守り、気づくなら、そのときその行動の内容・中身、意義が開き始める。ただ気づけ。どんな正当化の感覚もなしに-それは否定的ではない。それは、直接的行動である受動性の性質を持つ。実験してみれば、これを発見する。
 何かを理解したいなら、受動的な・無抵抗の気持ちでなければならない。それについて考え、憶測し・思索し、それを問い続けられない。それの内容を受け取るほど充分に敏感でなければならない。私はあなたを理解したいなら、受動的に気づかなければならない。そのときあなたはあなたの物語すべてを私に語りはじめる。それは能力や専門化の問題ではない。その過程において、自分自身を-意識の表面的な層だけではなくて、より深い、もっと重要であるものを-理解しはじめる。なぜなら、そこに、動機や意図、隠れた混乱した要求、心配、恐れ、欲望すべてがあるから。外側では、それらをすべて制御しているが、内側では、それらは沸き立っている。それらが気づきをとおして完全に理解されてしまうまでは、自由は、幸せは、智恵はない。
 智恵は私たちの過程への総合的気づき。そしてその智恵は、何かの形の専門化をとおして育成されるべきものはない。なぜなら、それが起きていることであるから。私たちはその専門化の精神性を持っている。
 最高の形の智恵-真理、神、叙述できないもの-を悟るには、自分自身を専門家にしなければならない。私たちは研究し、手探りし、探し出す。そして能力-すなわち葛藤、悲惨を解きほぐすのを助けてくれるであろうもの-を発達させるために、専門家の精神性や専門家に頼ることをもって、自分自身を研究する。
(´・(ェ)・`)

155鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/02(日) 22:28:49 ID:1d4drIFg0
気付きは非難が無い時に起こると言うのじゃ。
西洋人はものごとを観る時に批判的な精神で見るようにと教育されるからのう。
そのような条件付けされた見方では気付きは起こらないのじゃ。
自分自身を非難も肯定もせずに、見るのじゃ。
自分自身を研究するのじゃ。

156避難民のマジレスさん:2020/08/03(月) 21:24:20 ID:hkn8ohjE0
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 3

 そもそも私たちが気づいているとするなら、私たちの問題は、私たちの日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されうるのかどうか、 [ということ] です。それらが [解決] されえないなら、私たちがそれらに取り組むことは、どのようにして可能なのでしょうか。問題を理解するには、明白に一定の智恵を必要とします。その智恵は専門化から引き出したり、[専門化]をとおして育成したりできません。それは、私たちが自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じるのです-それは、選択なく、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくことです。あなたは受動的に気づくとき、その受動性-それは無為・何もしないことではなく、眠りではなくて、極度の鋭敏さです-の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかるでしょう。それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味です。あなたが常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうるのです。それが困難です。なぜなら、私たちのほとんどは受動的に気づく [能力] 、私たちが解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないからです。私たちはどのように問題を冷静に見るべきかを知らないのです。私たちは不幸にもその能力がないのです。なぜなら、私たちは問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているからです。または私たちは自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようとします。または私たちは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っているのです。ゆえに私たちは問題-すなわちいつも新しいもの-に、古い様式をもって接近するのです。挑戦はいつも新しいものですが、私たちの応答はいつも古いものです。そして私たちの困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うことです。問題はいつも関係の問題です-ものごととの、人々との、観念との [関係です] 。他に問題はありません。関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく出会うには、それに適切に出会うには-受動的に気づかなければなりません。この受動性は決意、意志、修練の問題ではありません。私たちが受動的でないことに気づくことが、始まりです。私たちが特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-確かにそれが始まりです。問題との関係のなかで私たち自身を知ること、私たちが問題をどのように扱うのか [を知ること] です。そのとき私たちは問題との関係のなかで自分自身を-その問題に出会うなかで私たちがどう応答するのか、私たちの様々な先入観、要求、追求が何であるのかを-知りはじめるにつれて、この気づきが、私たち自身の考える [過程] 、私たち自身の内部の本性の過程を開示するでしょう。そこに解放があるのです。
(´・(ェ)・`)つ

157避難民のマジレスさん:2020/08/03(月) 21:28:31 ID:hkn8ohjE0
くまめも12-3
そもそも私たちが気づいているとするなら、問題は、日常存在の葛藤・抗争と悲惨と悲しみが他の一人によって解決されえないなら、それらに取り組むことは、どのようにして可能か。問題を理解するには、一定の智恵が必要。その智恵は自分たちの意識の過程全体に受動的に気づくときだけ、生じる。それは、何が正しく何が間違っているかを選択せずに自分たち自身に気づくこと。受動的に気づくとき、その受動性の中から、問題が全く違った意義を持つということが、わかる、それは、もはや問題との同一化がなく、ゆえに判断がなく、ゆえに問題がその内容を開示しはじめる、という意味。常に連続的にそうすることができるなら、そのときあらゆる問題は、表面的にではなく根本的に解決されうる。それが困難。なぜなら、受動的に気づく、解釈することなく問題に物語を語らせる能力がないから。どのように問題を冷静に見るべきかを知らない。その能力がない。なぜなら、問題から結果が欲しい、答えが欲しい、目的に頼っているから。または自分たちの楽しみや苦痛に応じて問題を翻訳しようするまたは問題をどう扱うべきかについて、すでに答えを持っている。ゆえに新しい問題に、古い様式をもって接近する。挑戦はいつも新しいが、応答はいつも古いもの。そして困難は、適切にすなわち充分に挑戦に出会うこと。問題はいつも関係の問題 − ものごととの、人々との、観念との関係。他に問題はない。
関係の問題とともにその常に変化に富んだ要求に出会うには-それに正しく、適切に出会うには-受動的に気づかなければならない。この受動性は決意、意志、修練の問題ではない。受動的でないことに気づくことが、始まり。特定の問題に対する特定の答えが欲しいということに気づくこと-それが始まり。問題との関係のなかで自身を知ること、問題をどのように扱うのかを知ること。そのとき問題との関係のなかで自分自身を知りはじめるにつれて、この気づきが、自身の考える過程、内部の本性の過程を開示する。そこに解放がある。
(´・(ェ)・`)

158鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/03(月) 23:59:53 ID:1d4drIFg0
問題の解決には自分を知ることが大事だというのじゃ。
自分に気付けば問題との自己同一化がなくなり、解決できるようになるというのじゃ。
それが智慧というものじゃ。
自分自身に気付くことで解放も在るのじゃ。

159避難民のマジレスさん:2020/08/04(火) 22:37:35 ID:fO1sW.K20
最初と最後の自由  第一部

   第十二章 気づき 4

 重要であることは、選択なしに気づくことです。なぜなら、選択は葛藤をもたらすからです。選択する者は混乱 [の状態] にあります。ゆえに彼は選択するのです。彼が混乱 [の状態] にないなら、選択はないのです。混乱している人だけが、何をすべきか、すべきでないかを選択するのです。明晰で単純である人は選択をしません。あるがまま、です。観念に基づいた行動が、明白に選択の行動です。そういう行動は解放しません。反対にそれは、その条件づけられた考えに応じて、さらなる抵抗、さらなる葛藤を造り出すだけです。
 ゆえに、重要なことは、気づきがもたらす経験を蓄積することなく、瞬間瞬間気づくことです。なぜなら、あなたは蓄積した瞬間、その蓄積に応じ、その様式に応じ、その経験に応じてだけ気づくからです。すなわちあなたの気づきは、あなたの蓄積により条件づけられるし、ゆえにもはや観察はなくて、たんに翻訳だけがあるのです。翻訳があるところ、選択があります。そして選択は葛藤を造り出します。葛藤には、理解はありえません。
 生は関係の事柄です。その関係-すなわち静止していないもの-を理解するには、柔軟である気づき [がなければならない] 、攻撃的に活動的なのではなく、鋭敏に受動的である気づきがなければなりません。私が言いましたように、この受動的な気づきは、どんな形の修練をとおしても、どんな実践をとおしても来ないのです。それは、私たちの考えることと感じることに、瞬間瞬間、ただ気づくことです-目覚めているときだけではありません。というのは私たちは、それにもっと深く入ってゆくにつれて、夢を見はじめること、夢として翻訳するすべての種類の象徴を放棄しはじめることが、わかるでしょうから。こうして私たちは隠れたものへの扉を開くのです-それ [隠れたもの] は知られるものになるのです。しかし知られていないものを見つけるには、私たちは扉を越えてゆかなければなりません-確かにそれが私たちの困難です。真実は、精神が知ることのできるものではありません。なぜなら、精神は知られるものの、過去の結果であるからです。ゆえに精神はそれ自体とその機能、その真理を理解しなければなりません。そのときだけ、知られないものがあることが可能なのです。
(´・(ェ)・`)つ

160避難民のマジレスさん:2020/08/04(火) 22:43:55 ID:fO1sW.K20
くまめも12-4
重要なのは、選択なしに気づくこと。なぜなら、選択は葛藤をもたらすから。選択する者は混乱にある。ゆえに彼は選択する。彼が混乱にないなら、選択はない。混乱している人だけが、何をすべきか、すべきでないかを選択する。明晰で単純である人は選択をしない。あるがまま。観念に基づいた行動が、選択の行動。そういう行動は解放しない、反対にそれは、その条件づけられた考えに応じて、さらなる抵抗、さらなる葛藤を造り出すだけ。
 ゆえに、重要なことは、気づきがもたらす経験を蓄積することなく、瞬間瞬間気づくこと。なぜなら、あなたは蓄積した瞬間、その蓄積に応じ、その様式に応じ、その経験に応じてだけ気づくから。すなわち気づきは、蓄積により条件づけられるし、ゆえにもはや観察はなくて、たんに翻訳だけがある、翻訳があるところ、選択がある。そして選択は葛藤を造り出す。葛藤には、理解はない。
 生は関係の事柄。その関係-すなわち静止していないもの-を理解するには、柔軟である気づき、攻撃的に活動的なのではなく、鋭敏に受動的である気づきがなければならない。この受動的な気づきは、どんな形の修練をとおしても、どんな実践をとおしても来ない。それは、私たちの考えることと感じることに、瞬間瞬間、ただ気づくこと− 目覚めているときだけではない。というのは、それにもっと深く入ってゆくにつれて、夢を見はじめること、夢として翻訳するすべての種類の象徴を放棄しはじめることが、わかるから。こうして隠れたものへの扉を開く-隠れたものは知られるものになる。しかし知られていないものを見つけるには、扉を越えてゆかなければならない-それが困難。真実は、精神が知ることのできるものではない。なぜなら、精神は知られるものの、過去の結果であるから。ゆえに精神はそれ自体とその機能、その真理を理解しなければならない。そのときだけ、知られないものがあることが可能。
(´・(ェ)・`)

161鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/04(火) 23:30:46 ID:1d4drIFg0
気付くことには選択すらも妨げになるのじゃ。
それは分別をしていることになるからのう。
今ここに在るものごとをありのままに見るのじゃ。
選択すらも無く見る事が出来たならばそれが気付きなのじや。

162避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 22:27:49 ID:88HzfH7Q0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 1

 私たちのほとんどにとって、欲望は実に問題です-財産、地位、力、慰め [安楽・快適さ] 、不死、継続 [存続] への欲望、愛されたい [という欲望] 、何か永久的な [もの]、 満足させ持続するもの、何か時間を超えているものを持ちたいという欲望です。では欲望とは何でしょうか。私たちを駆り立て強制しているこのものは何でしょうか。私たちは持っているものやあるがままの私たちに満足すべきであると、私は提唱しているのではありません-それはたんに私たちが欲しいものの対極であるだけです。私たちは欲望とは何であるのかを見ようとしています。私たちは仮に、ためらいがちにそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの欲望の対象を用いるだけではない変容をもたらすであろうと、私は思います。これが一般に私たちのいう「変化」という意味なのではないでしょうか。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、私たちはその代用物を見つけます。私たちは、一つの欲望の対象から、私たちがより高くより高尚でより洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いているのです。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望です。そしてこの欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤があるのです。
 ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要ではないでしょうか。欲望とは何でしょうか。それは象徴とその感動 ・感覚ではないでしょうか。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚です。象徴とその感動を伴わない欲望があるでしょうか。明白に、ありません。象徴は、私に感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念であるかもしれません-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせるのです。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまるのです。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変えるのです。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈してしまいます。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求めます。私は古い感動を拒絶して、新しいものを採り入れます-新しい言葉、新しい意義、新しい経験をもったもの、です。私は古いものに抵抗して、より高くより高尚でより満足させてくれると考える新しいものに屈します。こうして欲望には、抵抗と屈することがあります-それには誘惑が関与しています。そしてもちろん、欲望の特定の象徴に屈することには、いつも挫折への恐れがあるのです。
 私は自分自身の欲望の過程全体を観察するなら、いつも対象 [がある] -私の精神が、さらなる感動のためにそれに向けられているもの-があるということ、そしてこの過程には抵抗、誘惑、修練が関与しているということが、わかります。知覚、感覚、接触、欲望があります。そして精神はこの過程の機械的な道具になります-そこでは象徴、言葉、対象が中心です-そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれるのです。その中心が「私」です。私はその欲望の中心を解消できるでしょうか-一つの特定の欲望、一つの特定の欲望や渇望ではなくて、欲望、あこがれ、希望-そこにはいつも挫折の恐れがあります-の構造全体を、です。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまいます。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がありますし、それがまた・さらに中心を強めるのです。そして革命は、その中心においてだけ可能です-表面にではありません-それはたんに逸脱・散漫の過程 [であり] 、有害な行動につながる表面的変化であるだけです。
(´・(ェ)・`)つ

163避難民のマジレスさん:2020/08/05(水) 22:28:49 ID:88HzfH7Q0
くまめも13-1
 欲望とは何か。私たちを駆り立て強制しているこのものは何か。私たちはそれに入ってゆけるなら、たんに一つの欲望の対象の代わりにもう一つの対象を用いるだけではない変容をもたらす。一つの特定の欲望の対象で満足しないと、その代用物を見つける。一つの欲望の対象から、より高く、高尚で洗練されていると考えるもう一つへと、永遠に動いている。しかしどんなに洗練されていても、欲望はやはり欲望。この欲望の動きには、終わりなき格闘、対極の葛藤がある。
 ゆえに、何が欲望なのか、それは変容させられうるのかどうかを見出すことが、重要。欲望とは何か。それは象徴とその感動 ・感覚。欲望は、その到達の対象を伴った感動・感覚。象徴は、感動を与えてくれる絵、人物、言葉、名前、イメ-ジ、観念-それが私にそれが好きだとか嫌いだとか感じさせる。その感動が楽しいなら、私はその象徴に到達したい、所有したい、すがりつきたいと思うし、その楽しみにとどまる。時々私は、自分の傾向と強烈さに応じて、絵、イメ-ジ、対象を変える。私は一つの形の楽しみに飽き、疲れ・うんざりし、退屈する。それで新しい感動、新しい観念、新しい象徴を求める。
 欲望の過程全体を観察。精神が、さらなる感動のためにそれに向けられている対象がある。この過程には抵抗、誘惑、修練が関与している。知覚、感覚、接触、欲望がある。精神はこの過程の機械的な道具になる − そこでは象徴、言葉、対象が中心 − そのまわりに欲望すべて、追求すべて、野心すべてが築かれる。その中心が「私」。その構造全体を解消できるか。私は挫折すればするほど、ますます「私」に強さを与えてしまう。希望、あこがれがあるかぎり、いつも恐れの背景・下地がある。それがまた・さらに中心を強める。そして革命は、その中心においてだけ可能 − 表面にではない − それはたんに逸脱・散漫の過程、有害な行動につながる表面的変化であるだけ。
(´・(ェ)・`)

164避難民のマジレスさん:2020/08/06(木) 20:02:54 ID:24iU9Zco0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 2

 私はこの欲望の構造全体に気づくとき、いかに私の精神が死んだ中心に、機械的な記憶の過程になってしまったかが、わかります。私は、一つの欲望に疲れてしまうと、自動的にもう一つ [の欲望] において自己を充足させたいと思います。私の精神はいつも感動という見地に立って経験しています-それは感動の道具です。特定の感動に退屈すると、私は新しい感動を求めます-それは神の悟り・実現と呼ぶものであるかもしれません-しかし、それもやはり感動です。私はこの世・世界とその苦労はもうたくさん(うんざり)なので、平和が、永続する平和が欲しいのです。それで私は瞑想し、制御します-その平和を経験するために、自分の精神を形造ります。その平和を経験することも、やはり感動です。それで私の精神は、感覚、記憶の機械的な道具、死んだ中心です-そこ [中心] から私は行動し考えるのです。私が追求する対象は、象徴としての精神の投影です-それ [精神]は、そこ [象徴] から感動を引き出してくるのです。「神」という言葉、「愛」という言葉、「共産主義」という言葉、「民主主義」という言葉、「国家 [・民族] 主義」という言葉-これらはみな精神に感動を与える象徴です。ゆえに精神はそれらにすがりつくのです。あなたと私が知っているように、あらゆる感動は終わりになります。それで私たちは、一つの感動からもう一つへ進むのです。そしてあらゆる感動はさらなる感動を求める習慣を強めます。こうして精神はたんに感動と記憶の道具になるだけです。その過程に、私たちは捕らわれるのです。精神はさらなる経験を求めているかぎり、感動という見地に立って考えられるだけです。そして自発的で創造的で命がけの・生き生きして心を打つほど・打ちのめすほど新しいかもしれないどんな経験でも、それ [精神] は即時に感動に還元し・縮小して、その感動を追求します-そのときそれは記憶になるのです。ゆえに経験は死んでいます。精神はたんに過去の淀んだ水たまりになるだけです。
 もしも私たちがとにかくそれに深く入って行ったなら、この過程に慣れ親しんでいるのです。そして私たちは [この過程を] 越えてゆく能力はないように見えます。私たちは越えてゆきたいのです。なぜなら、この終わりなき日課、この機械的な感動の追求に疲れているからです。それで精神は、真理の、神の観念を投影します。それは命がけの変化を [夢見] 、その変化において第一の役割・主役を演じること、などなどを夢見ます。ゆえに決して創造的状態がありません。私は、私自身にこの欲望の過程が続いていることが、わかります-それは機械的、反復的です-それは精神を日課の過程に拘束して 、[そこに] 創造的自発性のない過去の死んだ中心にするのです。また突然の創造の瞬間-精神のものではなく、記憶のものではなく、感動 [のもの] や欲望のものでもないものの [瞬間]- があります。
 ゆえに、私たちの問題は、欲望を理解することです-それはどこまでゆくのだろうかとか、どこで終わりになるのだろうか、ではなく、欲望の過程全体を-渇望、あこがれ、燃えたつ・燃えさかる欲求を、理解することです。私たちのほとんどは、ほとんど所有しないことが欲望からの自由を表示していると、考えます。それで、なんと私たちは、わずかなものしか持たない人たちを崇拝するのでしょう!腰布、ロ-ブは、欲望から自由でありたいという私たちの欲望を象徴しています。しかし、それもまたとても表面的な反動 [・反応] です。あなたの精神が無数の欲、無数の欲望、信念、格闘でもって損なわれているとき、なぜ外側の所有物をあきらめるという表面的な水準から始めるのでしょうか。確かに、革命が起こらなければならないのは、そこで、です-どれぐらい所有するかや、どんな服を着るかや、どれぐらい食事を摂るかに、ではないのです。しかし私たちの精神はとても表面的であるから、私たちはこれらのものごとに印象づけられ(感銘を受け)るのです。
(´・(ェ)・`)つ

165避難民のマジレスさん:2020/08/06(木) 22:10:38 ID:24iU9Zco0
くまめも13-2
欲望の構造全体に気づくとき、いかに精神が死んだ中心に、機械的な記憶の過程になってしまったかが、わかる。私の精神はいつも感動という見地に立って経験してる。
永続する平和が欲しい。それで私は瞑想し、制御する− そのために、自分の精神を形造る。その平和を経験することも、やはり感動.それで私の精神は、感覚、記憶の機械的な道具、死んだ中心− そこから私は行動し考える。私が追求する対象は、象徴としての精神の投影− 精神は、象徴から感動を引き出してくる。「神」、「愛」、「民主主義」という言葉-これらはみな精神に感動を与える象徴。ゆえに精神はそれらにすがりつく。あらゆる感動は終わりになる。一つの感動からもう一つへ進む。そしてあらゆる感動はさらなる感動を求める習慣を強める。こうして精神はたんに感動と記憶の道具になるだけ。どんな経験でも、精神は即時に感動に還元し・縮小して、その感動を追求する− そのときそれは記憶になる。ゆえに経験は死んでいる。精神はたんに過去の淀んだ水たまりになるだけ。
私たちは越えてゆきたい。なぜなら、この終わりなき日課、この機械的な感動の追求に疲れているから。それで精神は、真理の、神の観念を投影する。その変化において主役を演じることを夢見る。ゆえに決して創造的状態がない。突然の創造の瞬間-精神のものではなく、記憶のものではなく、感動や欲望のものでもないものの瞬間 − がある。
 ゆえに、問題は、欲望を理解することではなく、欲望の過程全体を理解すること。私たちは、ほとんど所有しないことが欲望からの自由を表示していると考える。しかし、それもまたとても表面的な反動・反応。あなたの精神が無数の欲、無数の欲望、信念、格闘でもって損なわれているとき、なぜ外側の所有物をあきらめるという表面的な水準から始めるのか。精神はとても表面的であるから、これらのものごとに印象づけられ感銘を受ける。
(´・(ェ)・`)

166鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/06(木) 23:15:29 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティも瞑想するというのじゃ。
もっともそれは自己を忘れるサマーディにまで達しなければ瞑想とは言われないというがのう。
瞑想の全てを否定しているのではないのじゃ。
瞑想に拠って精神から感動を引き出してくるという洞察も可能になるのじゃ。

167避難民のマジレスさん:2020/08/07(金) 21:30:15 ID:nELsQgfM0
最初と最後の自由  第一部
 
   十三章 欲望(願望) 3

 あなたの問題と私の問題は、精神がいったい欲望から、感覚から自由でありうるかどうかが、わかることです。確かに、創造は、感動とは何の関わりもありません。真実、神、何であれ、 [それらは] 感動として経験されうる状態ではありません。あなたが経験をするとき、何が起きるでしょうか。それはあなたに一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらしたのです。当然、あなたは憂鬱の状態を避けよう、脇へ置こうとします。しかしそれが喜び、得意の気分であるなら、あなたはそれを追求します。あなたの経験は楽しい感動を生み出しました。そしてあなたはそれをもっと(多く)欲しいと思います。もっと(多く)は、精神の死んだ中心を強めます-それ [中心] は常にさらなる経験を渇望しています。ゆえに精神は何も新しいものを経験できません。それは何も新しいものを経験する能力がありません。なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるからです。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造、真実ではありません。そういう精神は真実を経験できません。それは感動を経験できるだけです。そして創造は感動ではありません。それは、瞬間瞬間、何か永続的に新しいものです。
 そこで(今)私は自分自身の精神の状態を悟ります。それは感動と欲望の道具であること、というよりむしろ感動と欲望であること、それは決まった日課に機械的に捕らわれているということが、わかります。そういう精神は決して新しいものを受け取ったり、打診する・感じ尽くす能力がありません。というのは、新しいものは明白に何か感動を越えたものであるにちがいないからです-それ [感動] はいつも古いものです。それで、この機械的過程とともにその感動は、終わりにならなければならない、のではないでしょうか。もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければなりません。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能です-そこ [創造性の状態] に、新しいものがいつも生じうるのです。あなたは、言葉により、習慣により、観念によって催眠術をかけられることなく理解して、新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解するでしょう。そのときあなたは、本当に求めている人にとって、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめるだろうと、私は思います。明白に、一定の身体 [・物質] 的必要はあります-衣・食・住とその他すべてです。しかしそれらは決して心理的欲求に[なりません]- 精神が欲望の中心としてそれ自体を築き上げるものに-なりません。物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への [欲望も] -心理的過程になります。それ [心理的過程] によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強めます。
あなたはこの過程がわかるとき、反対なく、誘惑の感動なく、抵抗なく、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見するでしょう。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえません。それは 、[そこに] 招待なく、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態です-それが真実です。
(´・(ェ)・`)つ

168避難民のマジレスさん:2020/08/07(金) 21:45:20 ID:nELsQgfM0
くまめも13-3
 問題は、精神が欲望から、感覚から自由でありうるか。創造は、感動として経験されうる状態ではない。経験をするとき、一定の感動、得意や憂鬱の気分をもたらした。当然、憂鬱の状態を避けようとする。しかしそれが喜びの気分であるなら、それを追求する。経験は楽しい感動を生み出した。そしてそれをもっと欲しいと思う。もっとは、精神の死んだ中心を強める− 中心は常にさらなる経験を渇望する。ゆえに精神は何も新しいものを経験できない、なぜなら、その接近はいつも記憶をとおし、認識をとおしてであるから。そして記憶をとおして認識されるものは、真理、創造ではない。そういう精神は真実を経験できない。それは感動を経験できるだけ。創造は感動ではない。瞬間瞬間、何か永続的に新しいもの。
感動はいつも古いもの。それで、この機械的過程とともにその感動、もっと多くを欲しがること、象徴、言葉、イメ-ジに伴ったそれらの感動の追求-そのすべては終わりにならなければならない。そのときだけ、精神が、あの創造性の状態にあることが可能。新しいものをして常に精神に影響を与えさせることが、いかに重要であるかがわかるなら、そのときおそらく、欲望の過程、決まった日課、退屈、経験への常なる渇望を、理解する。そのとき、欲望が生においてほとんど意義がないということが、わかりはじめる。
物質的必要を越えたどんな形の欲望も-偉大さへの、真理への、美徳への欲望も− 心理的過程になる。心理的過程によって精神は、「私」という観念を築いて、それ自体を中心において強める。
あなたはこの過程がわかるとき、それを正当化したり判断したりすることなく、ほんとうにこれに気づくとき、そのとき精神は新しいものを受け取る能力があるということ、新しいものは決して感動ではないということを発見する。ゆえに、それは決して認識され、再び経験されえない。それは 、記憶なく、創造性が訪れる存在の状態 − それが真実。
(´・(ェ)・`)

169鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/08(土) 00:00:18 ID:1d4drIFg0
記憶を通して認識されたものは真理、創造、真実ではないというのじゃ。
クリシュナムルティも認識が記憶に依存していると観念の世界に陥ると理解していたのじゃ。
記憶への依存が無くなれば認識は真実を知る器官になるのじゃ。
そのような記憶に依存した認識が無い時、存在の状態が真実と成るのじゃ。

170避難民のマジレスさん:2020/08/08(土) 21:38:37 ID:QIfaqeEk0
最初と最後の自由  第一部
 
  第十四章 関係と孤立 1

  生は経験-関係における経験-です。孤立 [の状態] において生きられません。ですから生は関係ですし、関係は作用 [・行動] です。それでどうすれば関係すなわち生を理解するためのその能力を持てるのでしょうか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 [でもあるの] ではないでしょうか。生は関係です-それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現されます。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つでしょう。ですから私たちの問題は能力ではなくて―というのは、能力は関係から独立していない(関係に依存していないわけではない)からです―むしろ関係[について]の理解です-それ[理解]が自然に、すばやい柔軟性、すばやい適応、すばやい応答のための能力を生み出すでしょう。
 関係は確かに、あなたが [そこに] 自分自身を発見する鏡です。関係なくして、あなたはありません。有る[・生きる]ことは関係することです-関係することが存在です。あなたは関係においてだけ存在しているのです。そうでないとあなたは存在していません-存在は意味がありません。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではありません。あなたは関係しているから存在しているのです。それで葛藤を引き起こす [原因になる] のは、関係[について]の理解の欠如です。
今、関係[について]の理解はありません。なぜなら私たちは関係を、たんに達成を促進し、変容を促進し、なりゆきを促進する手段としてだけ使うからです。しかし、関係は自己発見の手段です、なぜなら関係は有る[・生きる]ことであるからです。それが存在です。関係なくして、私はありません。私自を理解するには、私は関係を理解しなければなりません。関係は、[そこに] 私自身が見える鏡です。その鏡は歪んでいることもあるし、有るものを映し出して「あるがまま」であることもあります。しかし私たちのほとんどは、関係のなかに、その鏡のなかに、むしろ見たいと思うものごとが、見えるのです。私たちはあるがままが見えないのです。私たちはむしろ理想化し、逃避したいのです-その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたいのです。
(´・(ェ)・`)つ

171避難民のマジレスさん:2020/08/08(土) 21:56:19 ID:QIfaqeEk0
くまめも14-1
生は関係における経験。孤立の状態において生きられない。生は関係、関係は作用・行動。どうすれば関係すなわち生を理解できるか。関係とは、人々との親しい交わりというだけでなく、ものごとや観念との親密さという意味 。生は関係。それは、ものごと、人々、観念との接触をとおして表現される。関係を理解するなかで、私たちは充分に、適切に、生と出会う能力を持つ。だから私たちの問題は能力ではなくむしろ関係についての理解−理解が自然に、すばやい柔軟性、適応、応答のための能力を生み出す。
 関係は確かに、あなたがそこに自分自身を発見する鏡。関係なくして、あなたはない。有る・生きることは関係すること。関係することが存在。あなたは関係においてだけ存在している。存在は意味がない。あなたが存在するのは、あなたが自分は有ると考えるからではない。あなたは関係しているから存在している。それで葛藤を引き起こす原因になるのは、関係についての理解の欠如。
今、関係についての理解はない。なぜなら関係を、たんに達成を、変容を、なりゆきを促進する手段としてだけ使うから。しかし、関係は自己発見の手段、なぜなら関係は有る・生きることであるから。それが存在。私自を理解するには、関係を理解しなければならない。関係は、そこに私自身が見える鏡。その鏡は歪んでいることもある。私たちはあるがままが見えない。私たちはむしろ理想化し、逃避したい − その関係を即時の現在において理解するより、むしろ未来に生きたい。
(´・(ェ)・`)

172鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/08/08(土) 22:56:41 ID:1d4drIFg0
関係とはつきつめれば自分と他人との関係なのじゃ。
自分がいるという認識は自分とは別の他人が居るという関係から起こるからなのじゃ。
自他の区別から自我も起こるのじゃ。
それを理解できれば自分の認識も理解できるのじゃ。


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