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エスペラント改造論

1やぱーの@管理人:2006/10/12(木) 17:46:51

申し訳ありません。すでに、このスレを立てたのですが、タイトルが「敢えて...」でした。
管理人初心者でしたので、お許しください。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1158318733/l50
改造論のスレを立てます。アルファングル以外は、こちらでどうぞ。

20ladio:2006/11/17(金) 18:32:31
http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/nutrlg.html
良いこといってます。(もしかしたら皆さんご存じかも知れませんが)
私はほぼ同意です。

特に、「
http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/trmnr.html
エスペラントでは、「生物学」「同音異義語」などの高級語を安易にラテン語からとっている。
造語法で作れるものは造語法でとことん作るべきだ。

と言う、意見です。一番下には、造語法による高級語が列挙されています。

21Nemaldekstremistocxjo:2006/11/17(金) 21:01:05
ladioさんの斬新な発想は大好きですが、ノシロのような失敗した人工言語を参考にされる意味は、まだ私にはよく分かりません。

22Nemaldekstremistocxjo:2006/11/17(金) 21:09:30
追伸
>>20
もちろん、私もこのページはお気に入りです。この中にもいらっしゃったり(笑)

23ladio:2006/11/18(土) 17:07:37
>>21
ノシロなどは失敗したのではなく、ただ広まらなかったのです。
あらゆる人口言語は大事な遺産であり、良いところは取り入れるべきだと思います。
新しい発想はなかなかでませんので、過去の優秀な人の思いつきをパクってしまいます。

24松戸彩苑:2006/11/26(日) 02:15:48
エスペラントというのは基本的に「書き言葉」として発達したものなので、「耳で聞いただ
けでは区別しにくい」という単語が、けっこうあるように思います。
できれば、そういうものも改善したほうが良いと思ってるんですが。

具体的に言いますと、matura と natura、multa と muta といったものです。
これらは「目で見る」場合にはまず間違えないのですが、「耳で聞く」場合には、かなり
紛らわしいと思うんですね。

で、私は matura を mjura としたら良いんじゃないかと考えています。
これはフランス語の mûr を参考にしたものです。
ほんとは mju なんて発音じゃないほうが良いんですが、mira や mura とするわけには
いかないので、こういう語形になったわけです。
スペイン語ふうに madura とすることも考えましたが、インドネシアには「マドゥラ族(人)」
という人たちがいますので、これも不採用としました。

それから muta は mjuta としたら良いと思います。
これは言うまでもなく、英語の mute の発音を参考にしています。

しかし笑い話のようですが、結局 mjura と mjuta も似てしまってますね。
これは最終的には、しばらく試験的に(話し言葉として)使ってみないことには、「改良」に
なってるのか、それとも「改悪」なのかが判断できませんね。
こういったことを考えますと、むしろ multa のほうをイタリア語ふうに変更して molta とす
るほうが良いのかもしれません。

こういった単語のペアはたくさんありまして、ほかにも ses と sep なんかが気になるとこ
ろです。
sep をギリシア語ふうに hep あるいは ep とするのは、どうでしょうか。

それから vidi と vivi というのも、耳で聞いた場合には、区別しにくいように思います。
私は今のところ vidi を vjui とするということを考えています。

ほかにも sama-sana、ankau'-antau'、al-au'、jam-iam、se-sed、mi-ni、el-en、sub-sur
なんかも気になっているのですが、これらについては、なかなか良い代案が思いつきま
せん。
今のところは「ゆっくりと丁寧に発音する」ということを心がけるしかないでしょう。

25松戸彩苑:2006/12/09(土) 09:46:10
エスペラントに対する批判や不満のひとつに「語彙が欧米中心である」という事が
ありますね。

もちろんエスペラントは、もともとフランス語やラテン語をもとに作ってあるので
「基礎的な部分」が欧米的なのはやむを得ないのですが、しかし「基礎的な部分」
以外の語彙に、もう少し、欧米以外のものがあっても良いのではないでしょうか。

欧米以外の文明で重要なものとしては、中国を中心とした極東文明、インド文明、
それにイスラム文明などがあると思うのですが、ここでは我々にとって最も身近
な「極東文明」に由来する語彙を提案してみたいと思います。

エスペラントにおいて「漢字」を表わすさいに最もよく使われるのは cxina ide-
ogramo という表現です。
しかし、言語学にくわしい一部の人たちからは「漢字は ideogramo ではなく logo-
gramo である」という指摘がなされています。
また、このほかにも cxina litero とか cxina signo という言い方もあるわけ
ですが、しかし考えてみれば、漢字というのは、現在、十数億人が使っている
文字なのです。
こういうことを考えれば、固有の語根で表わしても良いのではないでしょうか。

ということで、「hanzo = 漢字」という語根を提案してみようと思います。
これは、中国語の hanzi(漢字) から作ったものです。

26松戸彩苑:2006/12/09(土) 10:14:09
>>25
hanzo(漢字) という語根があれば、「日本で作られた漢字」という表現も
hanzo elpensita en Japanio と表現することが出来ます。

従来の表現方法ですと、cxina ideogramo(litero, signo) elpensita en Japanio
「日本で作られた中国文字」という、少々おかしな表現になってしまいますね。

なお余談ですが、かつてのベトナムでも、ベトナム独自の漢字が使われていました
し、また朝鮮にも、朝鮮独自の漢字があるらしいです。

それから「漢字の辞書(あるいは字書)」も hanzaro と表現することが出来ますね。

27松戸彩苑:2006/12/09(土) 13:00:21
>>26 で elpensita en Japanio と書きましたが、elpensita de japano のほうが
良いかもしれませんね。

あと、>>25 で出てきた ideogramo は「表意文字」、logogramo は「表語文字」という
意味です。

28松戸彩苑:2006/12/09(土) 16:08:03
>>24 で「耳で聞いただけでは区別しにくい単語が、けっこうある」と書きました
が、そういう例は、ほかにもあります。

それは、enlitigxi と ellitigxi のような例です。
この「en〜igxi」と「el〜igxi」というのが、なんとも紛らわしいと思いますね。

それで私は「en〜igxi」のほうを「〜enigxi」に換えたら良いのではないかと
考えてるんですね。
「liten」に「igxi」をつけて「litenigxi」とするわけです。
litenigxi と ellitigxi であれば、見た目も、発音も、適度に違っていて、区別
しやすいと思うのです。

もっとも、「el〜igxi」のほうを「de〜igxi」に換えるという方法もありますが、
私は上記の方法のほうが良いように思います。

29Kia-kablo-mi-estu:2006/12/11(月) 22:37:02
松戸さんのいう事には一理ありますが、耳を慣らすことが一番の方法だと思います。
エス語の単語には音韻論的には、一子韻の違いでその意味を区別する単語がたくさんあります。
例として、
bato, dato, fato, kato, rato, k.a.
これは、発話の「省エネ化」傾向から考えるとなるべく文の単位である意味を表す最小単位の
形態素を出来る限り短くする必要から来ています。お手本となる「自然言語」がそういう傾向で
「進化?」してきているのです。

実際、特に話し言葉(言語の本源)の場合は、発声器官に掛かる負担の軽減とその代償となる
意味の不明瞭化との攻め合いで決まるものなのですね。

この省エネ化のエス語の身近な例としては、人称代名詞の mi, vi, li, sxi などがそうでしょう。
これらは多くの印欧語にある動詞の活用の不規則性が学習を難しくしている事から導入された
ものでしたが、その代償として、時として情報の不正確さをもたらすものでもあります。
エス語を聞くのが不慣れな人にとっては、時として主語がはっきりと聞き取れないこともありますね。
それに反して、活用の違いが残っている言語(例えば、スペイン語、イタリア語等)では
主語を省略しても動詞を耳にしただけで主語(人称の違い)が明瞭です。

この例のように言語を学びやすくするためには、規則性と共に簡潔さも一つの要素となりますが、
場合によっては意味は不確実になる場合もあるということだと思います。
ところで、'en-litigxi'と'el-litigxi'も確かに耳で聞いた場合には区別しにくい語だと思います。
これが改められないでいるということは、実際にはTLO(tempo, loko, okazo)でその区別を理解して
いるか、あまり実際場面では使う機会がそれほど(修正が必要なほど)も今のところはない、
という事でしょうか。denaskaj esperantistoj に伺ってみなければなりませんな。。。

30Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 07:23:19
エスペラントにとってマイナスのような書き方をしましたが、実は、発話の
省エネ化傾向にブレーキをかけて来たのが書き言葉なんですね。正書法とか
伝統文法の様な権力による強制がなければ、話し言葉は所詮前回に述べた様に
意味の不正確という対価を払わなくても一定の共同体の中では、ダーウィンの
自然淘汰説を待つまでもなく落ち着くところに落ち着いたわけですね。
特に英語なんかは、長期に渡ってどちらかというと被支配者たちの言語傾向が
強かったので(今とは大違い)割と省エネ化が進んでいるんですね。

ザメンホフもエスペラントの創作には英語が大いに参考になったと語っていっている
位ですから。その代償として綴りとの乖離が矯正不可能な程となってしまいましたけど。
もう一つの例として、「民族的統一」を比較的早く行ったにも関わらず常に
ゲルマン言語の影響を受けやすかったフランス語の場合は権力により正書法等の
厳格な統制が長らくありましたしその傾向は今も続いたいます。にも拘らずですよ、
話し言葉では省エネ化が例外なく進んでいます。動詞の活用などは厳密に残っているのは
書き言葉においてだけで、話し言葉では単複の一、二人称の区別に縮小しています。

そういった意味で考えるとはザメンホフは天才でしたね。現在の科学としての言語学的
見解を先取りしているのですから。
時間がなくなりましたのでこの続きはまたの機会に述べさせていただきますが、
en-litigxi, el-litigxiの違いは話すときには、ハイフンで分けたようにelとen
の次の語との間に少し時間を入れるようです。具体的には所謂「曖昧母音」を間に
入れるようです。かなで書けばエヌリティージ、エレリティージのようになります。
en-iri, el-iriの場合は、文法書に書いてある通りというより、むしろ離さないで
話したほうがむしろ分かりやすいですね。

31Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 07:37:33
重要な事を書き忘れました。
何も印欧語に真似なくても日本語や中国語には人称による動詞の活用は存在しませんね。
しかも主語というか主題というか、その提示は義務的ではありません。
それに対しては論理的にどうのこうのと批判めいた事を言う人がおりますが、
話し言葉でも、実際その使用場面では不便を感じた事は少なくとも私には
ありませんでした。
上述の「むしろ、はなさないではなしたほうが.....」もTLOを考えれば誤解を
生じないでしょう。

32胡人:2006/12/12(火) 11:00:20
先日新しく出版された藤本達夫さんの「エスペラント語の入門書」を読みました。
長年、世界中の高名なエスペランチスト達と交流のある彼なりの、文法等の感じ方捉え方が、分かりやすく多くの例文で示され、大変面白かったです。正直、Enkonduka;入門書とは言えないと思いますが(^^)

彼が良く言われるのは、2,3時間外国の空港で耳を澄ませていると、必ず言葉として聞こえて来る、中には内容が分かって来る言葉もある。本当にそう思います。私はちゃんとした文章を書くのは苦手ですが、会話で苦労した事はあまりありません。

本当の初心者の時、往復2時間くらい、ロシア人エスペラチスト2人を人足替りにピアノを運んだ時、運転しながらだったのもあり、母音も聞き取れず、初めは彼らが何を言っているのか全くわかりませんでしたが、帰りの1時間は結構分かる様になりました。その場で「cxf-」という言葉を理解し覚える事が出来ました。私はその様にトニカク習うより慣れろという事と思わされました。

私が習った Gvidanto は良い意味で、いわゆる16か条というモノは、エスペラントを宣伝するための、ザメンホフの天才的宣伝用のキャッチコピーという言い方をされています。

以前、Ladio さんが 字上符の方法、ri 使用について等を改造と書いておられましたが、藤本さんや私の Gvidanto 的には改造ではなく、それがエスペラント採用されるかどうかは、その使用頻度(使用者による自然淘汰・自然選択的)だという考え方です。

33Kia-kablo-mi-estu:2006/12/12(火) 21:44:46
胡人さんの見解に概ね賛成です。
ただ私たちが心に留めておかねばならないのは、残念な事ですが人には個人差が
有るという事です。これを言うと直ぐ差別主義のように言う人もおりますが、
これは厳然たることで、エスペラントの聞き取りになれるのに要する時間は、人に
よってかなりの差が有ります。
私も含めて、私たちが陥りやすい傾向として仮に「言語学習に於けるエリート主義」
とでも言いましょうか。そういったものにかぶれないよう注意する事ですね。
ザメンホフの16ヶ条の文法ルールをを読んで直ぐに使いこなせるようになった
人達は、相当のインテリだったと思います。
我々(日本のエスペランティスト)の殆んどもすでに英語の洗礼を受けていたと
言うことには大いに留意すべき事だと思います。
私も小学生にエスペラントを教えた経験がありますが、とりわけ日本人であって、
平均的能力の持ち主にとっては英語の学習と同じく、エス語の習得は至難の技だ
と思っております。
主要な自然言語(歴史的に現代文明の持つ知識十分に耐えうる機能を全て有して
いるという意味で)が持っているあらゆる基本的素材を包含した言語には語彙や
その統語法において例外なくミニマム量が有るという事ですから。。。。

34松戸彩苑:2006/12/13(水) 05:10:59
>>29-31
ご意見、ありがとうございます。

「bato, dato, fato, kato, rato」の例ですが、たしかに一音の違いで意味を区別
するケースが多いのは事実です。
しかしですね、同じ一音の違いでも「聞き分けやすい」ものと「聞き分けにくい」
ものとがあると思うんですね。
私は「聞き分けにくい」と思われるものだけを挙げたつもりなんですけどね。

35Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 07:28:45
松戸さんの挙げた ses と sep なんかは、典型的な例ですね。最後に子音のみで終わるもの。
私は ses はむしろ最終的には英語の six を参考に sis に換えたほうが良いのでは、とも
思いますが、これはfundamento に抵触する事なので宣伝はしません。しかし、私と違って所謂「改造論者」
の人達が敢えて意識的に使い多くの esperantistoj がそれに習うようになれば、それはそれで
言語的進化だと言えるでしょうね。

36Kanva:2006/12/13(水) 08:57:44
梵語等を参考に ses を sxas に換える、或いは露語等を参考に sxes に、
というのはどうでしょう。

37Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 20:38:34
Kanva さんへ
結局、この問題は将来、エスペラントで生活する人達の判断で決まる問題でしょう。
すでにエスペラントの存在は少数の恣意的所有物というような物からとっくに離れた
ものとなっていますから。
言ってみれば、誕生は創作言語として、現状としてはすでに殆んど「自然言語」として
存在しているわけです。

38松戸彩苑:2006/12/13(水) 20:51:07
今まで私は、改造や新語根について論じてきましたが、今回は新しい合成語の話をし
ようと思います。

東京、ニューヨーク、ロンドンなどの大都市は「区」に分かれています。
この「区」をエスペラントでどう表わすかということを考えてみたいのですが、『日本語エ
スペラント辞典』の kvartalo の項の(2)を見ると

(2)【地理】〔大都市の行政上の区分〕区〔東京などの〕:la Latina K〜o 〔パリの〕カル
チェラタン.

と書いてあります。
これでめでたしめでたし…と言いたいところですが、じつは問題が2つあるのです。

1つ目は、そもそもパリのカルチェラタンは「行政上の区」では無いということです。
ご存知の方も多いと思いますが、パリ市は20の区に分かれており、1区、2区…という
ふうに呼ばれています。これが「行政上の区」です。
で、カルチェラタンというのは、パリ大学の周辺部のことを言うわけですね。行政上の区
で言いますと、5区から6区あたりになるそうです。
ということで、パリのカルチェラタンは『日本語エスペラント辞典』の kvartalo の項の(1)
にある

(1)〔都市・町の特定の〕区域、地区、市区、界隈(かいわい):

というのに相当するものなのです。

で、2つ目の問題は、Nova PIV の kvartalo の項を見てみますと、『日本語エスペラント
辞典』とは違って、定義が1つだけだということです。
つまり『日本語エスペラント辞典』の(1)の意味しか書いていないのです。
そして、ここにも la Latina K〜o が載っていました。もちろん、これは正しいわけです。

念のため、旧版のPIV の kvartalo の項も見てみましたが、やはり『日本語エスペラント
辞典』の(1)の意味しか書いてありませんでした。

ということで、Nova PIV(および旧版の PIV)と『日本語エスペラント辞典』とでは定義が
違っているということが判りました。
もちろん、kvartalo が「行政上の区」の意味で国際的に使われている、つまり『日本語エ
スペラント辞典』のほうが詳しくて Nova PIV のほうが不十分だという疑いもあるわけで
すが、私の場合、kvartalo を「行政上の区」の意味で使っている例は、日本人が書いた
エス文のなかでしか見たことが無いように思います。

また、Wikipedia エスペラント版の kvartalo の項には

Kvartalo

Kvartalo estas parto de urbo, sed gxi ne estas administra distrikto. Gxi estas ia ka-
rakteriza parto de la urbo ekz.: komerca kvartalo; la latina (studenta) kvartalo; cxina
kvartalo.

と書いてあります(原文では字上符を用いているが、筆者が代用表記に改めた)。

ということで、どうやら kvartalo には「行政上の区」の意味は無いみたいだって事になる
わけですが、しかし、これで一件落着というわけにはいきません。
「行政上の区」を表わす表現がないと困るわけです。

フランスの「区」は arrondissement というのですが、Nova PIV や『日本語エスペラント
辞典』にも arondismento という語根が収録されています。
しかし、ほとんど見かけることがないですし、また、この単語には「区」のほかに「郡」の
意味もあるらしいんですね(パリ、リヨン、マルセイユのような大都市の「区」と、それ以
外の地域の「郡」の両方を、ひとつの語で表わしてるみたいです)。
ということで、なんとか「区」を合成語によって表現できないかって考えたわけです。

で、私が最初に考えたのは urbero というものでした。
町をいくつかに分割したものだから urb-ero だというわけです。
で、けっこう良いかなって思ったんですが、しばらくして urbeto と(音声的に)似すぎて
いるということに気づいたんですね。
ほんとに困ってしまったんですが、でもそのうちに、そもそも区というものは大都市にし
かないということに気がついて、今度は urbegero というのを考え出しました。
我ながら名案だと思ったんですが、しかし、意味的には正確ではあるものの、音声的に
はあまり魅力的ではないですね。

みなさんは、どのようにお考えでしょうか。
もちろん「kvartalo に2つの意味があっても構わない」「言葉は少しずつ変わっていくもの
だ」といった考え方もあると思いますが、これはじっくりと考えてみるべき問題だと思いま
す。(完)

39Kia-kablo-mi-estu:2006/12/13(水) 21:52:21
所謂、Quartier latin ですか。懐かしいですね。日本にも「学生街の喫茶店」
という曲がガロの歌でヒットしましたが。
有名なSorbonne 大学がある界隈ですね。

>『日本語エスペラント辞典』の kvartalo の項の(1)
にある(1)〔都市・町の特定の〕区域、地区、市区、界隈(かいわい):

PIV より確かに親切ですね。
でも詳しく定義分けをすることで誤解も生じるという事でしょう。
文脈で、所詮、語の正確な意味が決まるわけですから、PIV の定義の方がより
「安全」といえるでしょうね。

それから行政区画を正確に表す必要に迫られた場合は(政治や法律等の関係文書以外
あまりないと思いますが)、何も無理に一語の単語を作る必要はなく、
la distrikto, Minato, とか Minato-distrikto といえば行政区画ということは
分かると思いますが。
どうしても kvartalo を使いたければ、administr(aci)a kvartalo で良いと思います。
最もあなたのお考えになった合成語を使いたければ、それは一向に構わない事です。
「便利だ」と多くの人に受け入れられれば、おのずと広まっていくでしょう。

40りょほう:2006/12/13(水) 22:11:07
松戸彩苑さんへ

私はエスペラント版ウィキペディアでkvartaloを「行政上の区」の意味で使い、既に記事を幾つか作っています。
kvartalo には「行政上の区」の意味がないってことはわかっていたんですが、かといって他に使えそうな単語があるわけでもなし・・・当然選択肢は無く使うことに。
ああ、こうやって使うことで1つの単語にどんどんいろんな意味が追加されていくんだなあって、しみじみ思いました。

http://eo.wikipedia.org/wiki/Curumi-kvartalo_%28Jokohamo%29
http://eo.wikipedia.org/wiki/Setagaja-kvartalo

41松戸彩苑:2006/12/16(土) 08:31:36
「行政上の区」のことですが、新たな発見がありました。

Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』の borough の項は、
次のようになっています。

borough, (district), (urbo)distrikto; (Br:chartered town), municipo

また Erich-Dieter Krause(編)『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』の Bezirk の項にも
urba distrikto という表現が載っています。

ということで「行政上の区」を表わすには urbo-distrikto あるいは urba distrikto という
表現が使えると言って良いようですね。
distrikto だけですと、市町村よりも大きいのか小さいのか、ハッキリしないと思われます。

…ということで、この問題は一件落着と言いたいところなのですが、しかしここで問題提
起をしてみようと思います。
問題とは、たかが「行政上の区」といった程度の表現を見つけることが、エスペラントで
はかなり大変だという事です。
また、どうして大変なのかと言えば、この程度の表現がハッキリとは決まっていないか
らなのです。

歴史をひもといてみれば、東京、大阪、京都などに区が設けられたのは、1878年のこ
とです。
欧米においては、もっと以前から区があったことでしょう。
そういう、エスペラントが発表されるよりも前からあり、文明国のふつうの住民なら誰でも
知ってるはずの「行政上の区」を表わす表現が、エスペラントではいまだにすんなりとは
出てこないということは、大問題だと思うのですね。
また、エスペラント界では、語彙・表現は「自然に決まる」ものとされていますが、この
「神話」にも疑問を感じざるを得ないわけです。

私は以前から痛感していたのですが、エスペランティストは「日常生活に必要な語彙」と
いうものに、ほとんど関心をもっていないという事があると思うのです。
たとえば「腕立て伏せ」「腹筋運動」「懸垂」といった表現を、エスペラントですんなりと表
現できるでしょうか?
英語ですと「腕立て伏せ」は push-up(米)、press-up(英)、「腹筋運動」は sit-up、「懸
垂」は chin-up、pull-up などというように、簡単に調べることが出来ます。

しかし、エスペラントでは、これがなかなか簡単には出てこないのです。
『日本語エスペラント辞典(第二版)』を見ると、次のようになっていました。

うでたてふせ【腕立て伏せ】 〜をする sin subteni per brakoj kaj piedoj.
ふっきん【腹筋】 〔解〕 abdomenaj muskoloj.
けんすい【懸垂】 pendado. 〜運動 pendgimnastiko. 〔鉄棒体操〕 rekgimnastiko. 〜線
katenario.

つまり「腕立て伏せ」で出てくるのは、地面に四つんばいになるポーズを表わすだけの表
現であって「動き」が表現されていません。
「懸垂」にしても、ぶら下がるだけで、ここにも「動き」は表現されておらず、「腹筋運動」に
至っては、まったく載っていません。

42松戸彩苑:2006/12/16(土) 08:32:29
>>41 の続き)

Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』を見てみると、push
の項にある push-up(腕立て伏せ)には lev-pusxo という訳語が与えられています。
また chin の項にある chin-up(懸垂)には mentonumo、mentonumi sin という訳語がつ
いています。このような表現は、新旧どちらの PIV の mentono の項にも載っていません。
press-up は収録されておらず、また sit-up、pull-up の項はありますが、運動を意味す
るものは載っていませんでした。

これが、エスペラントの実態なのです。
しかし、こういう話をしても、従来の考え方に染まりきったエスペランティストたちであれば
「大した問題ではない」「そのうちに自然に決まる」と考えることが出来るものなのでしょう。

このあたりのことがいい加減だから、エスペラントは発表から120年もたっているのに
Tok Pisin にも劣る二流の言語にとどまっているのだと、私は思うのです。
今のままでも、日常生活に必要な表現を「大ざっぱ」には表現できるのですが「正確」に
は表現できないのです。
そういうことに気づかない理由は、やはり「日常生活に必要な語彙というものに、ほとんど
関心をもっていない(詩をつくったり、抽象的な話をしたりすることだけが好きだから)」と
いうことと「(大部分のエスペランティストは母語でも使うことのないような)学術用語がた
くさんあるということで満足してしまっている」ということと「自然に決まるという神話がある」
ことなんかが原因なのだと思います。

エスペラント界には英語などの外国語が堪能な方が多いんですけど、そういう方たちは、
エスペラントがほんとうに他の民族語と比べて遜色ないと思っておられるんでしょうか?
私なんかは大して英語はできないんですけど、その私から見ても、遜色ありまくりなん
ですけどね。

また私は、周囲にいる人たちにエスペラントを勧めたことが一度もありません。
理由は、日常生活に必要な語彙でさえ不足しているので、他人に勧める気にはとてもな
れないからです。
専門家しか知らないような単語が無いのは許せますが、日常生活に必要な単語がアイ
マイなのでは、他人に勧めようが無いのです。

もちろん私は「エスペラントはもうダメだ」と言ってるのではなく、「日常生活に必要な語彙
を、みんなで整備していく必要がある」「それは可能だ」と言ってるのです。(終)

43胡人:2006/12/16(土) 12:08:19
「行政上の組織」の表現は、各々の国、地域によって結構違いがあり、それらはその歴史的文化的な背景からくるものです。

東洋においては、漢字を使用するため、かえって間違い易い点の一つとも言えます。例えば、韓国における、市、洞、里、中国の郡、県など、漢字を使いながらも、それぞれ基準が全く異なります。

そのためエスペラントは、橋渡し言語として、ヨーロッパだけではなく世界中に様々な言い方がある以上、世界的基準を勝手に決めない方が良いと思います。

urbo,vilagxo,kvartalo,bloko,gubernio等を,例えばkvartalo;"KU"(区)と表記し、注釈において説明するのが一番良いと私は思います。

44松戸彩苑:2006/12/16(土) 13:30:50
>>43
まぁ、国によってバラツキがあるということと、原語を添えるというのは、よく
判ります。

でも、どの国でも、英語で説明するときのために「訳語」が決まっていると思う
んですよね。
たとえば、日本の「区」は ward って訳されますよね。
(ニューヨークやロンドンの区は borough なんですけど、どうして日本の区だけ
ward って訳されるのか、よく判りませんね)

また、大都市の「区」くらいは、国際的に通用する語があっても良いように思っ
たんですけどね。

45樂々:2006/12/18(月) 20:55:11
「自然に決まる」はウソでしょう。百年かかっても決まらなかったんですから。

46胡人:2006/12/19(火) 07:07:50
正直、決める必要は?
公文書に記入の時は、urbo等大まかな表現で良いし、また必要なら"Ku"等注意書きで良いし。
郵便等は配達作業者が理解できる様に書くのが基本だし、様々な基準が本当に必要であれば決まるしょうが…

少なくとも現在までは必要がなかったのが本当のところでしょう(^^)V
必要な時には、決まるでしょうし決めるでしょう必要なところが…決め、発表する事になると思います。

47松戸彩苑:2006/12/24(日) 12:57:51
「エスペラントは、日常生活に関する用語でさえも不足・混乱している」という私の持論を、
さらに詳しく説明してみようと思います。

まず最初に「分割払い」と「割り勘」という表現をエスペラントでどう表わすかについて調
べてみます。
どちらも「分けて支払う」ということなので、よく考えて造語しないと区別がつかなくなって
しまうわけですが、結論から言いますと、やっぱり混乱してるんですよね。

『日本語エスペラント辞典』では

ぶんかつ【分割】 (中略) 〜払い partopago. 〜払いする partopagi. (後略)
わりかん【割勘】 〜で払った Cxiu kotizis; Cxiu pagis sian parton.

となっていました。
「割り勘」のほうは、これでは「みんなが支払った」ということしか判らないので、良い表現
だとは思えません。
しかし「分割払い」のほうは、これで良さそうな気がしますね。

次に『エスペラント日本語辞典』の pagi の項を見ると

partopago 手付け(金);分割払い(金)

となっています。
つまり、ここでは「分割払い(金)」の意味だけではなく「手付け(金)」の意味もあるんだと
いうことになってました。
しかし考えてみると「手付け(金)」と「分割払い(金)」の表現が一緒というのは、混乱しな
いでしょうか?

そんなことを考えながら Nova PIV の pagi の項を見てみると

parto〜o. Parta 〜o, farita kiel garantio de la pli malfrue pagota sumo: (後略)

と書いてありました。
つまり「手付け(金)」の意味しか無いというのです。
さらに、念のために旧版の PIV を見てみますと、parto〜e という副詞のかたちで副見出
しになっていて

Kiel ek〜o: (f) nur unu kiseton, parto〜e de nia edzigxo!

とあり、文末に z マークが付いています。
つまり、ザメンホフが使った用法なのですが、たしかにこれは「手付け」の意味だと思わ
れます。
Nova PIV も、このザメンホフの用法を踏襲しているわけです。

話をもとに戻しますが、どうやら『エスペラント日本語辞典』では、Nova PIV には書いて
なかった「分割払い(金)」の意味を付け加えたらしいのです。
まぁ、実際に使われているから付け加えたのでしょうか、しかし、先に述べたように「手付
け(金)」と「分割払い(金)」の両方を partopago という同一の表現で表わすというのは、
やはり問題だと思います。

ちなみに Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』の install-
ment(分割払い) の項には partopago が載っています。
つまり『日本語エスペラント辞典』と同じで、Nova PIV とは違っているというわけです。
また、この辞書の go Dutch(割り勘にする) のところには iri mempage と書いてありま
すが、この表現もやはり「自腹で支払う」という意味しかないと思います。

48松戸彩苑:2006/12/24(日) 12:59:27
>>47 の続き)

このように、いくつかの辞書を見てきたわけですが、ここまで来れば、これらの表現をも
っと明確に表わす方法はないだろうかと考えるわけです。
まずは「割り勘」ですが、いろいろと考えて思いついたのは egala pago という表現でした。
みんなで同額を支払うことなので egala を付けてみたわけです。

次に「分割払い」ですが、lau'grada pago あるいは grada pago というのはどうでしょうか。
po-parta(po-ioma、po-era) pago とか、「分割払い」を直訳した divid-pago なんてのも
考えたんですが、これらは「割り勘」と誤解される危険があるかもしれませんね。
---

次に「逆立ち」をエスペラントでどう言うかについて考えてみようと思います。

英語では handstand と言うらしいので、これを参考にして man-stari あるいは brak-
stari などと言えば良いと思われます。
さらに「逆立ちした状態で歩く」というのは man-pasxi、man-marsxi、man-iri (あるいは
man- の代わりに brak- としても良い)で表わすことが出来るでしょう。

このように考えていくと何でもないような気がしますが、しかし実際には man-star(ad)o
という表現が載っているのは(私が知るかぎりでは) Esperanta Bildvortaro くらいのも
のなのです(同書278−24)。

『エスペラント日本語辞典』の kapo の項にある surkape という副見出しのところには
「stari sur〜e 逆立ちしている」というのが載っています。
これはどうやら、ドイツ語の Kopfstehen、Kopfstand などの影響をうけたもののようです
が(英語にも headstand という表現がありますが)、しかし細かいことをいうと、頭を地面
につけるタイプの逆立ちならば良いでしょうが、頭をつけない場合にも surkape と言うの
はどうかなと思います。
もっとも「慣用句だ」と言われれば、それまでですが。

『日本語エスペラント辞典』を見ると

さかだち【逆立ち】 〜する starigxi kapmalsupren. 〔頭をつけて〕starigxi kappiede. 〜し
て歩く pasxi per manoj. (後略)

となっています。
「逆立ちして歩く」だけはすんなりと処理していますが、「逆立ち」のほうは、かなり難しい
表現をしています。
pasxi per manoj を参考にすれば starigxi per manoj という表現がつくれると思うのです
が、なぜかそうしていません。
---

このように、エスペラントを勉強していきますと、日常生活に関する用語の不足・混乱とい
うものが嫌でも目につくという事があるわけです。

一部の専門家しか知らないような単語は、無くても仕方がないと思いますが、いわゆる文
明社会の一般人なら誰でも知っているような事物を表わす単語・表現が無い(あるいは混
乱している)というのは、大問題だと思います。

もちろん、こういうものは、割合から言えば、ひじょうに小さいものですが、しかし「使ってる
うちに自然に決まる」と信じて、こういったものを放ったらかしにしておくのは良くないだろう
と思うのです。

(終わり)

49松戸彩苑:2007/01/04(木) 12:53:10
「上下が逆」「左右が逆」「前後が逆」「表裏(おもてうら)が反対」ってのを、エスペラントで
はどのように表現するんでしょうかね?

英語だと upside down(上下が逆)とか inside out(表裏が反対)のように言いますね。
(英語で「左右が逆」と「前後が逆」をどう言うのか知らないんですけど、ここではどうでも
良いことです)

自分で考えてみたんですが supro-sube、dekstro-live、antau'o-poste、interno-ekstere
なんてのはダメですかね?

50松戸彩苑:2007/01/06(土) 12:29:02
>>49 で「表裏が反対 = interno-ekstere」と書きましたが、これは洋服や手袋や靴下な
どの表裏(= 内側と外側)のことを念頭においたものですね。

紙やシートといった薄いものの裏表の場合ですと fronto-dorse とでも言えば良いんでし
ょうか?

また、こういった表現の仲間として「タテとヨコが逆」というのもあると思うんですが、これ
はどのように言えば良いのか、私には思いつきません。
---

私は、エスペラントを始めて3年くらい経ったころから、自分の身の回りにあるものを見て
「これはエスペラントでなんと言うのだろう?」と思うことがたびたびありました。

で、判らない場合は和エス辞典を引くわけですが、首をかしげるような訳語が載っていた
り、あるいは、まったく載っていなかったりということがよくあったのです。

もちろん、新しい事物であるとか、昔はあったが今は無いものとか、日本独自のものだと
か、民族語においても一部の人しか知らないようなものなどであれば、エスペラントの表
現が無いのは理解できます。

しかし、昔からあって、現代の文明社会に住んでいるふつうの人間であれば誰でも知っ
ているような、ごくごく日常的な事物なのに、訳語が無かったり、あるいは有っても、訳語
があまり適切だとは思えなかったり、または長すぎて使いにくそうだといったことに頻繁
に出くわしますと、現在のエスペラントのありかたそのものに疑問がわいてくるわけです。
---

たとえば「キャッチボール」をエスペラントでどう言うんだろう?と思って『日本語エスペラ
ント辞典』を見ても、まったく出てきません。

「キャッチボール」という見出しはありませんし、「キャッチ」と「ボール」の項はありますが、
キャッチボールは載っていません。

私はいろいろと考えて、自力で inter-jxetado という表現を考え出しましたが、このときに
思ったのは「このような合成語というのは、ふだんからみんなで作って発表していかない
とダメだ」ということでした。

少なくとも私は、ある表現が必要になったとき、即座にその表現を考え出せるほど、頭が
良くありません。
---

エスペラントはこのような状態だから、理論的には便利な言葉であるはずなのに、現実
には、理論上考えられるほど便利な言葉とはなっていないのだと、私は考えるのです。

また、eterna komencanto や、数年でやめてしまう人がたくさん発生するのも、これが一
因だと思います。
だいたい「学習容易」なはずの言葉なのに、身の回りの事物を表現するのがしばしば困
難なのでは、どうしようもないではないですか。

それから、エスペラント界には「エスペラントはすでに、政治・経済・学術などといった高度
な活動に使用することが出来るんだ」などと考えている人がいるようですが、私はかなり
危険だと思います。

もちろん、エスペラント界の内部で「試験的に使用」することは大事であり必須であるとさ
え思いますが、しかし、現在のエスペラントを過大評価するのは、やはりマズイと思うの
です。

>>47 で論じたことですが、現在のエスペラントは partopago に「手付け」と「分割払い」の
2つの意味があるような混乱した状態だということを忘れないでいただきたいのです。

こういうことは今のところ起こりうるとは思えませんが、もしも、どこかの会社でエスペラン
トを使って取引をすることになったのは良かったが、表現のマズさから大きな損害が発生
してしまった、などということが起こると困るわけです。

たとえエスペラント界に賠償が来なかったとしても、エスペラントの信用はがた落ちになる
でしょう。

世界中どこに行っても「あぁ、あの大損の元になった言葉か」と言われることになると思う
のです。

私が「日常生活」や「娯楽」のために使うことを奨励しているのは、そういったトラブルが起
きにくいだろうと考えたからです。

またそもそも、世間の人たちが、エスペラントを「高度な、失敗すると損害が大きい」ような
分野で採用することは、まずありえないと考えたからでもあります。
---

ということで、私は「日常生活に関する表現が不足・混乱している」ということを、エスペラン
ト運動の根幹の問題だと考えております。

これを読んで「単なる揚げ足とりだ」とか「くだらない」とか「そのうち自然に決まる」などと思
われる方もいらっしゃるかもしれませんが、けっしてそうではないのです。

「社会の問題」には敏感だが、「エスペラントの問題」には鈍感だというのでは、やはり困る
のです。

(終わり)

51松戸彩苑:2007/01/08(月) 12:00:53
mon-kolekto という表現がありますが、『エスペラント日本語辞典』の kolekti の項を見る
と「募金」という訳語がつけられています。

また Nova PIV で mon-kolekto を調べてみますと、この表現を「募金」の意味で使った
のはザメンホフだということが判ります。

でも考えてみると、世の中には「集金」ってものもあるんですよね。

「募金」は慈善事業のために集められるもので、絶対に出さなければならないという義務
はありませんが、「集金」は純然たる経済活動の一つであって、支払う義務のあるもので
す。

また英語でも、募金は fund-raise、fund-raising、whip-round などと言うのに対して、集
金は bill collecting、bill collection などと言って、両者を区別しているようです。

ということで、この2つの概念は区別したほうが良さそうですね。
ところが『エスペラント小辞典』の mon-kolekto の項には「募金」と「集金」の両方が訳語
としてあげてあったりします。

私の考えでは mon-kolekto を「集金」の意味に使い、「募金」は kvesti を使って表現す
るのが良いと思います。

もちろん、ザメンホフの用法を尊重して mon-kolekto を「募金」の意味で使っても良いの
ですが、その場合には「集金」を表わす表現を考え出さないといけません。
私には、そういう表現が思いつかないので「mon-kolekto = 集金」「kvesti = 募金」の
ほうが良いと考えたわけです。

Nova PIV で kvesti を調べてみると Grabowski が使ったということが判りますが、おそら
く「募金」を mon-kolekto で表わしたのでは「集金」と区別できないということに気がつい
て、これと区別するために新語根を導入したのでしょう。
---

『日本語エスペラント辞典』で「手抜き」の項を見てみますと

てぬき【手抜き】 〔意識的な〕 neglekto; saboto. 〔不注意による〕 forgeso. 〜をする
neglekti; saboti. 工事に〜が発見された Oni trovis (intence) preterlasitan parton en
la laboro.

となっています。
かなり頑張ってはいるのですが、しかし残念ながらイマイチな感じがします。

ということで、もっと良い表現はないだろうかと考えて、最初に思いついたのが malsincere
farita あるいは malsincera という表現でした。
「手抜きの仕事」を malsincera laboro のように表わそうというわけです。

しかし、もっと適切で短い表現はないだろうかと考えました。
「ラクをしよう、かんたんにしようとして不正をする」ということだなと考えて、facil-umi とか
simpl-umi などとすれば良いのかなと思ったりもしました。

しかしそのうちに sxpari に「出し惜しむ」という意味があることに気がついたので、sxpar-
umi あるいは sxpar-acxi といった表現で表わすことが出来るのではないかと思いました。

「sxpar-umi (あるいは sxpar-acxi) = fari ion kun tro da sxparemo de mono, peno kaj/
au' tempo」とでも説明しておけば、理解してもらえるでしょう。

もっと良い表現があるかもしれませんが、もしも思いつかれた方がおられましたらご教示
をねがいます。
---

先日、駅前を歩いていたら、目の前にハトが舞い降りてきたんですが、それを見て「(鳥が)
舞い降りる」ってエスペラントでどう表現するんだろう?と思いました。

『日本語エスペラント辞典』には「舞い降りる」の見出しは無く、「舞う」「舞い」「降りる」の項
にも「舞い降りる」はありませんでした。

「舞い降りる」は英語だと to swoop というらしいので、これを Peter Benson(編)『Compre-
hensive English-Esperanto Dictionary』で調べてみると、fal-flugi という表現が載ってい
ました。

fali は「落ちる」とか「倒れる」という意味があるのでイマイチかな?とも思いましたが、まぁ
「下にむかって飛ぶ」ってことだから、こんなものなのかなとも考えました。
でも、ひょっとすると、この fal-flugi という表現は「鳥が、地上にいる獲物をつかまえるた
めに急降下する」って意味なのかもしれないな、とも思ったのですが、実際のところはどう
なんでしょうか。

ちなみに fal-flugi は Nova PIV にも旧版の PIV にも載っていません。
Wells の辞書には載っています(英エスの部の swoop)。

私も自力でいろいろと考えたんですが、flugil-bat(ant)e al-ter-igxi くらいしか思いつきま
せんでした。
「羽ばたきながら着地する」ということですが、なんとも長ったらしく、ぎこちない表現ですね。
なんとかして「フワッと降りてくる」というニュアンスを簡潔に表現したいものだなと思ってい
るのですが…。

52松戸彩苑:2007/01/08(月) 12:01:58
>>51 の続き)

野良イヌ・野良ネコをエスペラントでどういうのか?と思って『日本語エスペラント辞典』を
引いてみると

のら【野良】 (中略) 〜イヌ sovagxhundo. 〔駄犬〕 hundacxo. 〜ネコ sovagxkato.

と書いてありますが、どう考えても sovagxhundo、sovagxkato は「野生のイヌ・ネコ」だと
思います。

私はどこかで sen-mastra hundo という表現を見たことがありますが、これのほうが良い
と思います。

このほかに私は vag-hundo とか nenies-hundo といった表現を考えたんですが、最近に
なって梶弘和(編)『和エス辞典』に vaganta hundo、sen-hejma hundo という表現が載っ
ていることを知りました。

長さという点から、私は vag-hundo がいちばん気に入っているのですが、みなさんはど
のように思われるでしょうか。
---

「ゴミを捨てる」のでも、「社会のルールにしたがって捨てる」こともあれば「ポイ捨て」や
「不法投棄」というのもあります。
こういった表現も、訳し分けることが出来ないと、環境問題について語ることが困難にな
ってしまいます。

『日本語エスペラント辞典』には「ポイ捨て」「ポイ」「捨て」の項は無く、また「捨てる」のとこ
ろにも「ポイ捨て」は載っていません。

「ポイ捨てする」を英語では to litter というので、Peter Benson(編)『Comprehensive
English-Esperanto Dictionary』を見てみると dis-rubi という表現が載っていました。

この表現は、Nova PIV にも、旧版の PIV にも、Wells の辞書にも載っていません。
これは Peter Benson 氏が自分で考え出したのでしょうか、それとも、どこかで使われて
いるのを見て収録したのでしょうか。
いずれにせよ、注目すべきだと思います。

「不法投棄」については、『日本語エスペラント辞典』の「投棄」の項ではシンプルに kont-
rau'legxe forjxeti と書いてあります。
私見では、一般人がゴミを捨てるのとは違って、大量に捨てるということを表現したほうが
良いと思うんですが、そうは言っても、なかなか良い表現が浮かびませんね。
---

今まで私が問題にしてきたものは、すべて、ごくごく日常的なものばかりです。
こういった言葉を母語で知らない人は、まずいないと思うんですね。
ですから、こういったことがすんなりと表現できないというのは、たいへん大きな問題だと
私は思うのです。

こういった日常的な表現について考えることは、大型のエスペラント辞典の何割かを占め
ている、エスペランティストの90%以上は母語でも知らないような専門用語なんかよりも
ずっと大事だと、私は考えています。

さらにここで強調しておきたいのは、こういったものも、本気で考えれば、かなりのていど
解決するんですよね。
ですから私は「現在のエスペラントには問題がある」とは言っておりますが、同時に「それ
は解決できるんだ」と言ってるわけであって、けっして「エスペラントは永遠にダメだ」など
と言ってるわけではないということをご理解ねがいたいわけです。

こういった例をつうじて「日常生活に必要な表現をナメてはいけないのだ」ということを身に
しみて感じていただきたいと思うのです。
---

それから、エスペラント界には「neologismo 論争」というのがありますが、私に言わせれば、
あれは完全にピントが外れているんですね。

neologismo 論争においては「文学的な表現のための新語根導入の是非」ということを論じ
ているわけですが、そもそもエスペラントは「日常生活に必要な表現が不足・混乱している」
のです。

もっとも私も neologismo をめぐる議論から多くのことを学んだわけですので、ああいった
議論がまったくのムダだとは考えていないのですが、しかし neologismo に賛成する人た
ちも、反対派も、いちばん大事なことが判っていないのだと思われてならないんですね。

私の立場はかんたんで「日常生活に必要な表現を確立することが大事であって、その作
業をしていくうちに新語根が必要だということが判れば新語根を導入するし、既存の語根
で表わすことが出来るのであれば新語根は必要ないということになる」というものです。

また、日常生活に必要な表現が十二分に確立されれば、わざわざ「文学」のためだけに新
語根を導入しようなどと考える人は、ほとんどいなくなるのではないかと思うのです。

(終わり)

53りょほう:2007/01/09(火) 22:30:17
松戸彩苑さんへ
私もエスペラントには日常生活に必要な表現が不足していることを痛感しています。

「使ってるうちに自然に表現が決まる」では結局ほったらかし。
ならば「使ってもらえるような表現を決める」ぐらいな方が良い。(たとえ決めた表現が定着しなくとも・・・)
で、この松戸彩苑さんの話の流れだと、この次には「辞書に不足している表現を決めて広めるにはどうするか・・・?」 っていう問題が出てくると思います。

ウィキペディアの姉妹サイトにウィキショナリーという「フリーの辞書をつくる」サイトがあるのですが、使用法によってはこれを「エスペラントに不足しているしている表現を作り出す場」としても活用できるのではないかと考えています。

1.参加者は辞書に不足している表現をウィキショナリーのサイト上で募集する。
2.不足した表現に適切な合成語や新語を、ノートでの話し合いで決める。
3.その結果は辞書という形で残り、無料でインターネット上で公開されだれでも使える。
4.その表現が不適切だと思うなら参加者は再度ノートで話し合い、適切な表現を決める。

まあ、現在エスペラント版ウィキショナリーは参加者が不足して全く機能していないので、私の計画は机上の空論に過ぎません。
http://eo.wiktionary.org/

54松戸彩苑:2007/01/11(木) 21:53:21
>>53
拙文を読んでくださって、ありがとうございます。

たしかに「どうやって決めていくか」について考えることも必要だと思います。
でも、今はネットがありますからね、私はこれについては、それほど心配して
ないんですよね。(考えが甘いかもしれませんが)

今はやはり「現在のエスペラントは、日常生活に関する表現が不足・混乱している」
ということを、具体例をあげて説明して、そこそこエスペラントができる人たち
によく知ってもらうことが大事だと思っております。

また、問題の具体例をたくさん見ていくことで、「問題とはどういうものなのか」
が判るようになり、その解決方法を考えるさいにも大いに役立つと私は考えて
おります。

ということで、今は、そういった例をあげていくのが良いんじゃないかなと思っ
ております。

しかし考えてみれば、今まで多くのエスペランティストたちが「言語問題」について
論じてきたわけですが、当のエスペラントそのものに深刻な「言語問題」がある
ことには、まったく気づいていなかったというのは、皮肉としか言いようがあり
ませんね。

55Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/13(土) 13:16:17
松戸彩苑さんへ
エスペラントには、日常生活に関する「共通の」表現が不足していることは、確かです。
さらに、EUの公用語を目指すべくその資格においては、実際問題として法律用語を始め
として政治経済社会に関する専門用語の充実とその細部に亘る正確な定義づけ等は
緊急の課題かと思われます。

ただ、私の経験から申し上げますと、あなたの言う二つの「言語問題」のうち、
「全く気づいていない(?)」と言う方はそれ程深刻とは思えません。
むしろ、あなたも言うところの

>今まで多くのエスペランティストたちが「言語問題」について論じてきた

その問題の方がエスペラントには優先課題なのです。

その理由として、エスペラントは、日常の営みを起源とする民族語とは異なっている
事がまず挙げられます。

我々が生まれてから順に獲得していく用語を考えてみてください。最初の用語としては、
「ママ」、「まんま(飯)」でしょうか。そのうち「オシッコ」とか「ウンチ」
に行きまして、自分自身を呼ぶ「僕、私、俺等」までの長い道のりがありますね。
そして、家庭外の遊び仲間、そして学校という具合に我等の生活範囲が空間的、
そして後を追いかけるように時間的にも広がっていく、その過程で沢山の語彙を
獲得していきます。

この過程は人間として生まれた以上は避けられない、極論すると、死活問題なのですよ。

そして最終的に獲得可能な母語としての語彙数の限界は、その母語である民族語が
使用されている我々個々人を含む社会のこれまでの時間的空間的な営みに規定される
のですね。

換言すれば、個人にせよ、社会にせよ、その発達段階において語彙の総体数が決まる。
我々の社会における営みが増えるたびに暫時不足している語が追加されていく。

わが国では、広辞苑にある「国語」として公に定まった(定められた)語彙に
代表されます。
勿論、この中には「社会的に認知された」新語も含まれます。反面、社会的に
不要になったと考えられる語の多くも所謂「文化的遺産」として含まれていますね。

エスペラントの場合は、民族語と違い当初から使用目的が定められていました。
それは、母語(民族語)の獲得が個人の成長をなぞるようなものであるとすれば、
全く逆で成長した個々人が意識的に獲得しなければならないものです。勿論denaska
という方もごく少数ながらおりますが、例外中の例外でしょう。

そして重要なことですが、その獲得の有無は、所謂、「少なくとも当面は」死活問題では
ないのです。(続く)

56Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/13(土) 21:03:41
denaskaj esperant-parolantojにとっては、成長過程のある時期において
死活問題と言うことも、勿論あるでしょうが、エスペラントに関しては、
まだ「残念ながら」そのような真剣な問題を引き起こすことはまれでしょう。

残念ながらといったのは、エスペラントの理想である共通語として、人が(たとえ
denaskaであったとしても)家庭を離れてもその学習の継続を余儀なくされる
共同体(民族・国家の枠をを超えた社会)がまだ実現されていないという意味に
おいてです。平たく言えばエスペラントには人が社会生活を営むために不断に
その習得を無条件で押し付け得る環境が自然的には未だ存在していないのです。

長くなりましたが、あなたが言う所の「日常用語の不足」と言うより用語が
定まっていないのは、私が上述したことを踏まえて解決策を考えて見ることのほうが
良いのではないでしょうか。

当然、放っておいてすむ問題ではありませんが、他の民族語にあるのにエスペラント
にはないからといって不足用語を沢山作り出せば済むといった問題でもありません。
勿論、国際共通語としてすべての民族語をカヴァーする語彙が必要であることは論を
待たないことです。

しかし、今私が思うに、問題は二つあります。
まず誰が不足語を作り出すかと言うことと、どのような過程を経てそれが今の
エスペラント界で認知されるかと言うことです。
(続く)

57りょほう:2007/01/14(日) 00:27:15
>>54
レスありがとうございます。

私も「日常生活の語彙と表現の不足」の現状認識について論じ、問題がいかに深刻なのかを訴えることはとてもいいことだと思います。

でも、私はそれと平行して「具体的な解決法」を論じるべきだと思います。

具体的な解決法を論じることは、実際に問題を解決するのに有益なのは言うまでもありません。
が、それよりも大きな問題があります。
もし議論が問題提起だけでストップしてしまった場合、
「エスペラントには日常生活の語彙と表現の不足という問題がある」という問題だけが残ってしまいます。
そして・・・「具体的な解決法が示せない」→「やっぱり自然に決まるのを待つしかないんだなあ」→「やっぱエスペラントはだめだ」
という変な方向にいってしまう心配があります。

もちろん私は問題提起が不要と言っているわけではありません。ただ、そろそろ具体的な解決法を論じないと問題提起だけで終わってしまうのが心配なだけです。
決して「松戸さんはエスペラントの欠点を挙げているだけ」と言っているわけではありませんので誤解のないようにお願いします。

あと、もし具体的な解決法の案をお持ちでしたら、聞かせていただければ幸いです。

58Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/14(日) 21:10:04
私が「日常生活の語彙不足」に括弧を付ける訳は、数少ないdenaskaj
esperant-parolantojの育った家庭に於ける当事者から語彙不足と言う様な話は
これまで耳にしたことがないからです。

それはお前の情報不足だ、と言われればそれまでですが、もしそういう情報が
日常的にエスペラントを使用している方々から具体的な話があったなら教えてください。

もっとも親達の方はそれぞれの母語(この場合は民族語)で育った方がほとんど
ですから不足を感じた場合はとっさに彼女または彼の母語を使用したかも知れませんし、
後に辞書で用語の確認を行ったかもしれない。またはエス語の潜在的造語力で
取り敢えずその家庭独自の新語を使用するようにしたかも知れません。

何れにせよ、そのことについてエスペラント界で重大な論議となったことはないと
思いますが。

勿論、欧州などでは、子供を含めて家族単位の参加が多いinternaciaj renkontigxoj
等の催しが一週間くらいに渡って行われていますから、そういった問題も、もしかして
話し合われているのかもしれません。

私は、当の会合にこれまで参加した事がありませんから断言できませんが、少なくとも、
今のエス界では「日常生活の用語不足」が緊急の解決事項とはなっていません。

まあ、切が無いのでやめますが、はっきり申し上げますと、失礼な言い方ですが重箱の
隅を突付くような語彙の詮索をする前にやるべきことがもっと他に在るでしょうと
私は、言いたいのです。
(続く)

59Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/15(月) 19:52:43
Fundamentoにあるように「不足語」を作り出す方法は二通りあります。

勿論、その前に自分が表現したい事柄を表す用語が本当に無いのかどうか、確認する
必要があるでしょう。この作業が結構難しい。現在最も権威ある辞書であるPIV
が近年更新されましたが、この更新作業を毎年行うには、エスぺラント界はまだ
まだ力不足です。

従って、世界で有力なエスペラント団体や個人等が出版した最新でしかも最も包括的だ
と思われる辞書を一冊ならず参照することになります。この作業はそう容易い事では
ないでしょう。

ただ、最初に言及した「不足語」の補足うちneologismoを作ることは、慎重を
要しますが、既存のvorto-elementojを使用してkunmetita vortoを「作る」事は、
それが論理的にkomunikeblaであるならば、誰にも認められていることです。
意外とkomenc/ant/int/ojの方が成る程なぁとベテランを唸らせる「新語」を用い
たりすることがあります。丁度denaskaの子供たちがベテランの親たちを唸らせるように。
最もその語が誰にも使われたことのない新語かどうかは、当面は、分かる術が
ありませんけど。

何れにせよ、その語がエスペラント界で市民権を持つためには幾つかの過程を経る
必要があるでしょう。
(続く)

60松戸彩苑:2007/01/20(土) 15:35:35
>>59 の末尾に「続く」と書いてあったので続きを待っていたのですが、いまだに書かれな
いようなので、私のほうから書かせていただきます。

まず最初に、私がねばり強く(あるいは、しつこく)エスペラントにおいて日常生活に関する
表現が不足・混乱していることを示すような実例をとりあげる理由について、説明すること
にします。

そもそもエスペラント界では「エスペラントはすでに一人前の言語になっている」というの
が通説となっているわけです。

そしてあとは、日々新たに現われる新しい製品や概念を表わす用語であるとか、専門用
語であるとか、または文学的な表現などだけが問題であると考えられているわけです。

私がやってるのは、このような通説を、実例をあげて批判するということです。
---

もっとも、Kia-kablo-mi-estu? さんがお書きになってるように、「現在のエスペラント界にお
いては、これらの表現が必要になることはあまり多くない」というのは事実でしょう。

また、エスペラントが発表されてから120年ものあいだ使われてきて、数万点の書籍と、
多数の定期刊行物が刊行されてきたわけですから、そんなにレベルが低いわけがないと
考える人が多いのは、当然といえば当然でしょうね。

これについては、日常生活に関する表現は、文明社会に住んでいるふつうの成人であれ
ば誰でも知っているということで「認知度」は高いのですが、実際に必要となる「頻度」はそ
んなに高くない、ということがあると私は考えております。

また、表現したいんだが、うまく表現できないという場合には

(1) 正確に表現するのをあきらめて、大ざっぱな表現をする。
(2) (エスエス辞書の記述のように)長々と説明する。
(3) その部分だけ、英語などの単語を交える。
(4) 絵に描いて説明する。

などという方法がありますし、また、同じ場所にいる場合には

(5) 実物を指さす。
(6) ジェスチャーで表わす。

などということも出来るわけです。

61松戸彩苑:2007/01/20(土) 15:36:42
>>60 の続き)

そして、こういう経験を何度かしても「自分の勉強が足りないんじゃないか」とか「そのうち
に自然に決まるんだろう」などと考えてしまえば、エスペラントにおける重大な問題に気が
つくこともないのでしょう。

しかし、どう考えても、現在のエスペラントに問題が無いということにはなりませんし、日常
生活に関する表現が不足・混乱していることを実例をあげて説明することが「重箱の隅を
つつく」ようなつまらない問題だということにはならないと思います。

だいたい、このような表現が不足・混乱していたのでは、気軽な会話や、文通やネットでの
やりとりをする際にも支障が出る可能性があります。
エスペラントに幻滅する人も出てくるかもしれません。

また、りょほうさんは、ウィキペディアの記事をエスペラントで書いたりする際に、ひじょうな
困難を感じておられるようだという事実もあるわけです。

こういったことを考えると、どうでもいい問題なわけがありません。

>>58 に「語彙の詮索をする前にやるべきことがもっと他に在るでしょう」と書いておられま
すが、「やるべきこと」とは具体的にはどんな事でしょうか。
ぜひとも、教えていただきたいものです。
---

そもそも、「エスペラントはすでに一人前の言語になっている」という前提があるから「エス
ペラントによって世界の言語問題を解決することが出来るんだ」という話になっているので
す。
つまり、エスペラントという「具体物」が、世界の言語問題の解決という「理念」を支えてい
るという構図になっているわけです。

その前提があやしいと言っている(そして、この問題を克服することは可能だとも言ってい
る)にも関わらず、つまらないことだと思ってしまうというのは困ったものです。

エスペラントという「具体物」に問題があるのに、「理念」を実現することが出来るとでも考え
ておられるのでしょうか。

「理論」と「現実」とが食い違っていた場合に「理論」を信じて「現実」を無視するというのは、
きわめてありふれた間違いですが、エスペランティストもこの種の間違いに陥っているよう
にしか、私には見えないのです。

すでに何度もくり返しましたが「日常生活に関する表現」を無視しないでいただきたいと思う
のです。

(終わり)

62Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/21(日) 15:36:58
大変、ご無沙汰いたしました。
松戸さんへ
優先順位としてやるべきことについて、申し上げましょう。
ただし、これは私の場合であって、一般化するには少し抵抗のある方もおられる
かも知れません。
市井の一エスペランチストとしてですの誤解の無いようお願いします。

1.言語の運用力を高める。
(私の場合はまずは、独学でした。エスペラント4週間を使いました。学生という
地位を利用させていただきましたので、謳い文句の通り4週間で読みきりました。
大学書林の4週間、五週間シリーズで私の頭でやれるのは、エスペラントだけ思い
ました。と同時に他の言語に関して言えば、並みの頭では4,5週間では読める訳は
ないし、ましてマスターなど到底出来るものでは無いと思いました。)
 ついで言わせて頂きますと、本の内容は古くなりましたが、私は今でも推薦したい
本の一つです。独学用としては、日本語で書かれている書としてあれ以上の本には、
めぐり合っていません。

2.エスペランチストやその組織と接触する。
(学習会に参加したり、文通を始めたりしました。先輩からエスペラント運動の歴史を
学んだことも大変有益でした。)

3.幾つかの組織に加入し活動の一翼を担うよう勤める。
(加入して約一年半後に講習会のGvidanto をやりました。おっかなびっくりでしたが、
文法および会話力が飛躍的に向上しました。会話力を身に付けるためには、耳の訓練が
大事と悟り聞くことにそれ以降は力を入れています。今の所、加入組織としては、UEA,
JEI,KLEG等です。)

4.エスペラントのみを使用する、または使用を余儀なくされる合宿や国際大会に
参加する。
(この経験はそんなに多くありませんので、大きなことは、言えませんが。日本における合宿
や日本人の参加者の多いUKでは、どうしても日本語が出てしまうので、アメリカや
オーストラリアの夏期講習に参加することを考えています。)

ざっと書きましたが、答えになっているでしょうか。
勿論、上記は順番通りと言うことにはならないと思います。たいていの場合1から3
の過程はダブったり重複したりするのが普通でしょう。私の場合は講師をやる前に
外国からのGasto を一人で案内する破目(Bonsxancoだったかも)になりました。

松戸さんがどれだけの経験をお持ちですか分かりませんが、私はあなたの提起している
問題を軽視しているのではありません。
ただ、私のエスペラント経歴から考えれば、まずエスペラント界を拡大する事が何よりも
優先して考えるべきだと思いましたので、敢えて異を唱えた次第です(もしこの掲示板に
イデオロギーの違いは別として少しでもエスペラントの宣伝に寄与する目的で存在価値を
見出していればこそ)。

上述した少ない参加の合宿で、一般の日常用語で分からない言葉も後で大きな和エス辞書を
引くと大抵載っておりました。従って「不足語」というより「実定着」、「未開拓」の
用語という方がむしろ相応しいと思っています。

>「具体物」が、世界の言語問題の解決という「理念」を支えてい
るという構図になっているわけです。
上記に最も近い言語はむしろ英語でしょう。
Fundamentoが採択された1905年の段階で「日常用語」をすべてカヴァー出来ましたかしら。
それが不足しているという理由が主で第一次大戦後の国際連盟でエスペラントが受け入れられ
無かったのかしら。

私の文通相手とのやり取りでも「不足」を感じたことはありません(むしろ語学力の不足を感じます)。

もしあなたが、私が考えているだけの事かも知れませんが、細かい問題に立ち入りたいのなら、
この掲示板を読んでいる非エスペランチストに誤解(エスペラントは欠陥品だという)を与えないよう、
他の専門のエス掲示板で問題提起をして頂きたいと願っています。
願っています。

私事ですが、今年になって貧乏暇なしで余裕がありません。
この次は水曜日以降に書かせていただきます。
Kia-kablo-mi-estu? Mi devas esti la kablo kun -pa- kaj -ul-.
Nun mi ne estas kapablulo, sed nur kablo.

63松戸彩苑:2007/01/25(木) 06:09:53
>>62
レスありがとうございます。

たしかに1〜4は、どれも大事なことばかりだと思います。
しかし、私と Kia-kablo-mi-estu? さんとでは、考え方が少々違うようですね。

私の場合「日常生活に関する表現を整備する」ことと「エスペラント界を拡大する」
ことを同時並行的に行なうべきだと考えているですが、それに対して Kia-kablo-mi-
estu? さんは、後者が大事で、前者は後回しで良いと考えておられるように思われ
ます。

しかし、それは良くないと思います。

例えば、りょほうさんは、エスペラントを始められて3年くらいだと、この掲示板
のどこかに書いてあったと思いますが、そういう人でも、すでに日常生活に関する
表現の不足を感じておられるのです。

考えてみれば私じしんも、そのくらいで(エスペラントを始めて3年くらいで)、
日常生活に関する表現の不足・混乱に気づいたものでした。
---

そもそも、今どきエスペラントをやろうなどと思うのは、ひとえに「エスペラント
ならば、自由自在に会話や文通ができそうだ」と考えるからではないでしょうか。

エスペラントの文献の量は、英語だけではなく、中国語・フランス語・ドイツ語・
スペイン語・日本語・ロシア語などと比べても、ケタ違いに少ないわけです。

これは、話者の数がケタ違いに少ないので止むを得ないのですが、それでもエスペ
ラントをやろうと考えるのは、やはり「自由自在に会話や文通ができるのではない
か」と考えるからでしょう。

どう考えても「エスペラントで文学作品や科学論文を読む(あるいは書く)」など
ということを第一目標としてエスペラントを始める人は、ほとんどいないと思う
のです。

となると、やはり「日常生活に関する表現の不足・混乱」は看過することが出来
ないと思うのです。

64松戸彩苑:2007/01/25(木) 07:54:03
>>57
りょほうさんが >>53 に書かれたような方法で良いんじゃないかと思います。
(もちろん Wiki 以外の場所でやっても良いわけですが)

しかし、今はとにかく「日常生活に関する表現の不足・混乱」を実例をあげて説明
して、この問題に対する正しい認識を持ってもらうということが必要ではない
でしょうか。

「日常生活に関する表現の不足・混乱というものが、エスペラントの潜在的な可能
性をどれだけ損なっているのか」、また「エスペラント界の力を結集すれば、十二
分に克服できる」といったことを判ってもらわないと、なかなか先には進まない
と思います。

65松戸彩苑:2007/01/25(木) 08:01:00
>>64 への補足ですが、私はこういった問題について10年以上前から気がついて
いたので、慣れっこになってしまってるんですよね。

こういう問題があっても、実際に必要になる機会はあんまり無いということも
知っているので、りょほうさんから見ると、ノンビリしているように見えるに
違いありません。

今は時間がないので、ここまでにします。

66Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/25(木) 09:52:37
松戸さんへ
ご指摘は、よく分かります。
確かに、見解の違いでしょう。
「自然言語」にある「ある成長期(ほぼ学齢期)」まで到達した人が使用する
一般の日常用語について言えば、エスペラントでも用語はほぼ定着していると
思います。
問題は、エスペランチストが実際に交流する語彙の頻度からいって余り使用されない
「日常語」と言うか「生活用語」でしょう。例えば、学齢期に至る前によく使われる
私が以前にあげた幼児語とか特に家族内部や夫婦特有の会話などでしょう。

私は、エスペラントの優位性を語学的観点から診てむしろ使い慣れない「日常語用語」
なども基本語彙と接尾辞を上手に使うことにより殆ど表現可能だということです。
より正確にいうと、諸民族語のような用語が決まって(定着して)いる「自然言語」
における日常用語(日常用語に限りませんが)と違って使用者が論理的に考案した語を
「表現可能」という受動的なものではなく、むしろ十分にそのような語の使用権を
有していると言うことです。

母語においては、用語や使用法が間違っているということで、親や学校の先生、または
物知りの友人や先輩から「正しい」用語の使い方を教えられますね。そしてその「正しい」
用語は云わば「定着した」ものですから社会的にその使用を余儀なくされるものです。
民族語に多数存在する、歴史的またはその言語を使用する文化圏特有の生活史から生じた
慣用句などはその良い例ですね。

また私の経験を持ち出して申し訳ありませんが、前述したようにむしろ論理的使用を
前提とするエスペラントの運用力、所謂、習得のレベルの方が重要であると言いたいのです。
その証拠には、以前にもdenaskulojの例でも言いましたように彼らは用意に「新語」を
作り出せます。
といっても、我々の様に第二言語としてエスペラントを学んでいる者にとってはそのような
運用力を完全に習得することは大変難しいでしょう。英語の様に学校で6年間も勉強できれば、
別ですがね。
そうは言っても、普通の「自然言語」に特有のすでに定着してしまっている用語や慣用句を
ほぼ暗記しなければ実用的には満足に使用することも出来ない諸民族語と違ってエスペラントは
遥かに容易な言語といえるでしょう。

>「日常生活に関する表現の不足・混乱というものが、エスペラントの潜在的な可能
性をどれだけ損なっているのか」、また「エスペラント界の力を結集すれば、十二
分に克服できる」

むしろ「エスペラント界の力を拡大(レベルアップも含めて)し結集していくこと」
の方が第一義的課題であって、それを通じてエスペラントの潜在力も十分に開花されて
いくものだと私は考えています。

用語の不足と混乱に関して敢えて指摘するならば、EUの公文書を全てカヴァー出来る
ように(必要によってはneologismoの採用も含めて)不足している専門用語の
供給とそれらの選定がさしあたって緊急課題かなとは思います。

67胡人:2007/01/25(木) 10:58:28
> 用語の不足と混乱に関して敢えて指摘するならば、EUの公文書を全てカヴァー出来るように(必要によってはneologismoの採用も含めて)不足している専門用語の供給とそれらの選定がさしあたって緊急課題かなとは思います。

先日、お聞きしたのですが、既に、EU議長国フィンランド(今年?昨年?)において、公用語問題の一環で、議長国の負担で、エスペラント語でのEUの公的議事録を作成しているそうです。

その意味でEU自体でエスペラントはその公文書をカバーする事は出来るという実験をしている段階の様ですが…

また日常語に関して、私は、やはり何も心配していません。
日常語は文語と異なって、一部文学作品を除いて口語中心だと思いますので、初心者時から(今での初心者ですが)今まで外国のエスペランチストとの交流で困った経験はないからです。

それよりも、ついつい難しい単語をより使いたがる傾向の方が私は心配です。

英語でも、日常語はドイツ英語系語源の単語中心で話され、逆に大学、役所等へ提出書類は、ラテン語系語源の単語を使用しなければ及第出来ないと言われている様に…

せっかく簡単な言葉として生まれたエスペラントが…
やはり500〜1000語の範囲ですべてが理解できる文章、その表現をより学んでいきたいと私は思います。
文学的表現、美しい表現はその言語としての存在文化として重要ですが、一方あらゆる段階での理解し易さを失くしてしまっては意味が無いとも思えるからです。

68松戸彩苑:2007/01/26(金) 02:04:17
私の言ってることを唯一100%理解してくれてるらしいりょほうさん、この
やりとりを見て、どう思われますか?

こういう問題は、判る人には判るんですが、そうでない人にちゃんと理解して
もらうのは、なかなか難しいのです。

私が予想していたように、エスペラント界全体に、この問題の意味を正しく浸透
させるのは、そう簡単なことではないみたいですね。

まぁ、これからも、今までにあげたような実例をあげていこうと思ってるんです
が、それ以外にどんなことをやれば良いんでしょうかね?

69りょほう:2007/01/26(金) 21:50:05
>>68
私に振ってきましたか・・・。振られてもね・・・。(ふっう・・・)
一応、「私は100%なんて理解してません。」と釘を刺しておきます。

Kia-kablo-mi-estu?さんが>>62で述べたこと(「エスペラント界を拡大する事」)と「日常生活に関する表現の解決」のどちらが大事なのかって話になっているような気がするんだけど、どちらが大事かなんて優劣を競う問題じゃないと思います。どちらも大事です。やりとりをみても「そりゃどっちも大事だよな・・・」ぐらいにしか思いません。

>私が予想していたように、エスペラント界全体に、この問題の意味を正しく浸透させるのは、そう簡単なことではないみたいですね

「この問題の意味を正しく浸透させる」の意味が、問題の重要性の順位において「生活に関する表現の解決」を「エスペラント界を拡大する事」よりも上位にもってくることだったら、それはやるべきではないと思います。

「エスペラント界を拡大する事」に重きを置くKia-kablo-mi-estu?さんのような人だって、別に辞書作り自体には否定的であるわけではない。ただ重要度の順位が松戸さんと違うだけです。
むしろKia-kablo-mi-estu?さんは「エスペラント界を拡大する事」とセットで辞書作りに協力してくれる人じゃないかと思います。そういう辞書作成予備軍に向かって、わざわざ「『生活に関する表現の解決』の方が大事だ!」なんて声高に叫ぶなんて逆効果だと思いませんか?

ここは素直に「みんなで辞書作りを一緒にやりませんか?」とさそってみるのが一番ではないでしょうか? 
もちろん、実際にやるとしたらコスト、時間、作業範囲の設定、作業場所の確保、作業方法など問題があるわけで、そういうのを踏まえたうえでみんなが参加してくれそうなプランを出す必要があります。

70松戸彩苑:2007/01/27(土) 02:48:59
>>69
レスありがとうございます。

まず最初に言っておかなければならないと思うんですが、私は >>63

> 私の場合「日常生活に関する表現を整備する」ことと「エスペラント界を拡大する」
> ことを同時並行的に行なうべきだと考えている

と書いております。
これは「どちらも大事」だということです。
---

それから >>67 で「フィンランドが、エスペラントでEUの公的議事録を作成して
いる」という話でしたが、現在のエスペラントでも議事録くらいは作れるのかも
しれません。

しかし、そもそも外交というのは、国際的な問題について、あれこれ議論すると
いうことだけではないんですね。

大使館や公使館などでは、しばしばパーティーを催したり、文化交流を行なったり
しているわけですけど、こういうことも大事な仕事なわけです。
つまり「私的な雑談」というのも必要になってくるわけです。

こういったことを考えれば、議事録を作成するというレベルであれば大丈夫かも
しれないのですが、外交の分野で本格的にエスペラントが使用されるようになる
と、「日常生活に関する表現の不足・混乱」が足を引っぱることになると思うの
です。

要するに、今の状態のままで、エスペラントが使われる分野が広がっていけば、
遅かれ早かれつまづくことになるだろうと思われるのです。

で、それはエスペラント運動にとってマズイことだと思うので、今のうちから
行動を起こすべきだろうと申し上げているわけです。

71松戸彩苑:2007/01/27(土) 09:10:23
>>70 でちょっとカン違いをしてたので、訂正させていただきますね。

EUにいるのは「議員」であって「外交官」ではないんですよね。
ですから、EUの議員と外交には、直接的な関係はありませんね。

もっともEUの議員たちも、国際的なパーティーを開いたり、文化交流のための
活動を行なったりしてるのかもしれません。
また、EUの議員たちにとっても「私的な雑談」は重要なのではないでしょうか。

それから

> 外交の分野で本格的にエスペラントが使用されるようになると、「日常生活
> に関する表現の不足・混乱」が足を引っぱることになる

というのは、まったく訂正する必要はありません。

要するに、以上の話は、厳密に言えば間違いがあるが、大ざっぱに見れば間違っ
ていないということです。
---

それから私が「日常生活に関する表現の不足・混乱」を放置しておくことに反対
する理由がもう一つあります。

それは、現在エスペラント界は「エスペラントは、ありとあらゆることに使えるんだ」
と言っていますが、それがウソだという事になってしまうからです。
やっぱりウソはマズイでしょう。

>>63 でも論じたように、今どきエスペラントをやろうなどと思う人たちは「自由
自在に話したり、文章を書いたりしたい」ということが動機になってると思うん
ですね。

ですから、短期間(3年くらい)でそういう目標が達成されないと、やめてしまう
だろうと思うんですね。
また、そういう目的でエスペラントを始めた初学者に、社会運動をおしつけたり、
あるいは詩を読ませようとしたりしても、やっぱり嫌がられると思います。

こういう人たちにとって必要なのは、やはり「日常生活に関する表現」のほう
だと思うのです。
--

そもそも、外交や学術などの難しいことには使えるが、日常生活に関する表現は
不足・混乱している言語というのは、ほとんどありません。

もちろん、まったく無いわけではなく、かつての国際語としてのラテン語や、
東アジアの共通語であった漢文なんかは、そういうタイプの言語でした。
また、ここに人工語のインテルリングァを入れても良いでしょう。

しかし21世紀において、こういうタイプの言語がもてはやされるとは、とても
考えられないのです。

交通や通信の技術が発達し、ふつうの人どうしが気軽に会ったり、ネットを介して
会話を楽しんだりできる時代に、どうして、日常生活に関する表現が不足・混乱
しているような言葉を使わなければならないのでしょうか。

72Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/28(日) 23:06:14
>そもそも、外交や学術などの難しいことには使えるが、日常生活に関する表現は
不足・混乱している言語というのは、ほとんどありません。

「不足・混乱」という松戸さんの認識が事実を正確に表現する用語としては不適切
なんですよ。

私が前にも申し上げたように「使用頻度の関連から未だ未定着」といった方が
余計な誤解を生まないで済む。

また、「自然言語」と全く同じようにエスペラントを鑑定し評価しようというのにも
無理があります。

言語の使用目的が違うのですから。
未来の人類が民族語の代わりに全面的にエスペラントを母語として使用するようになれば
話は違ってきますがね。

あなたが言われる様に困難(混乱ではない)は残るでしょう。
これまでの母語を介さない日常会話の機会というのは、一部の人達(denaskulojやUEAの
事務局員等)を除いては低頻度で、しかも特定の期間しかなかったわけで、その時の会話で
使用する用語はどうしても文化や個人の趣味や運動の現状紹介や情報の交換といったものに
偏りがちでした。
これからは、ネットを介して気楽に個人的会話を楽しむ機会も増えていくと思われますので
感情表現を始めとして日常の雑談に使われる用語の頻度が増してくるものと期待しています。

それにしても、今の私にはエスペラントのレベルアップの方が切実な問題です。

73松戸彩苑:2007/01/30(火) 02:08:55
Kia-kablo-mi-estu? さんに質問します。

>>62 の1〜4というのはたしかに大事なことですが、考えてみれば、こういった
ことは今までにも行なわれてきたわけです。

でも、日本をふくめ先進国といわれる地域では、エスペラント運動は衰退しつつ
あります。
ですから、今までと同じことをやっていたのではダメなのではないかと思うの
ですが、この点についてはどのようにお考えでしょうか。

74Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/30(火) 08:18:21
松戸さんのご心配は、よく分かります。
エスペラントを広めようとする運動はそれが世に出て以来、発展と衰退の波の繰り返しでした。
大まかに言って、最初の盛り上がりは、その発表から第一次世界大戦まで。戦後の立ち直りは
速いものでしたが社会主義運動とのかかわりで、運動の統一性はかなり削がれてしまいました。

そして、エスペラント運動における最初で最後とも思われる大弾圧は第二次世界大戦前後を
通じた時期に行われました。スターリン体制とナチス等による全体主義によるものです。
この弾圧は思想的には勿論、エスペラント活動家に対する肉体的抹殺という恐ろしいものでした。
この壊滅的な国家主義による弾圧は第一次世界大戦後ような運動の急速な復活を
望むべくものではありませんでした。それでもエスペラントの理念は消えることは
ありませんでした。東西冷戦にも拘らず、まず西側でそしてスターリンの死と共に
東側でも少しずつではありますが、エスペラントは息を吹き返してきました。
そして、その頂点は、皮肉にも冷戦の終結直前とも言える1987年のワルシャワ
UK でした。
その後は、皆様のご存知の通り米国の圧倒的な力の下でのグローバル化で英語の、
特に旧ソ連圏での、伸張は著しいものがあります。エスペラントの力はそれに反比例
するかのように衰退してきていました。

これからは私の考えですが、このように世界史的に見るとエスペラント運動の運命は
大きく地球上の国家や民族やその文化等というセクショナリズムの強弱という不規則
リズムに大きく依拠していると思います。
従って別な面から見てみると、地球人たちがセクショナリズムをいかにして克服して
いくかという人類史に大きくかかわっている問題提起がエスペラント運動を進める上で
当然必要になってくるものと思います。
(続く)

75胡人:2007/01/30(火) 11:42:01
すみません、私にも意見を言わせてください。

> 日本をふくめ先進国といわれる地域では、エスペラント運動は衰退しつつあります。ですから、今までと同じことをやっていたのではダメなのではないかと思うのですが、この点についてはどのようにお考えでしょうか。

この点では現在、「エスペラント」と、アインシュタインが世界に提唱し、日本では湯川秀樹、尾崎行雄が中心となって推進した「世界連邦運動」と同じ様な傾向があると思います。

戦後の焼け野原の中、日本では二度と悲惨な戦争をすまいと世界連邦運動に日本中の都市がその平和都市宣言をし、活動し盛り上がった時があります。国会議員連盟もあり百数十人の議員連盟を付くっていますし、全国の自治体を基とした組織があります。また昨年には国会決議もされました(ほとんど知られていませんが)。

その運動が現在国を挙げて盛んなのは、なんとリビアであり、また元ソ連連邦の諸国です。つまり戦争等(冷戦もその一種?)の悲惨さを味わった国の人々が、明るい平和な未来を目指して理想に燃えて活動しているわけです。

否応無く巻き込まれる戦争等の、或る意味人災を、幸せにも長年体験せずにすんできた日本や、自国での直接的な戦争を体験せずに済んできた先進国といわれる地域では、その恵まれた環境の故、人類全体の幸せを目指すという段階から、個人の幸せ(利益)を求める事が出来る段階になっているのは確かです。

その意味で、松戸さんのおっしゃっているように今までと同じやっていたのでは、日本国内では難しいと思います。

少なくとも日本では、「楽しく簡単な一般教養としての国際補助語を身に着けて、個性ある国際交流をしよう!自分自身で世界を知ろう!」という個々の人生を豊かに過ごすという観点を、より大きくしていかなくてはならないと思いますし、その方向でしか輪を広げて行く事は難しいと思います。輪を広げることが嫌いな人もいるのでしょうが…

76胡人:2007/01/30(火) 11:56:24
書き込んでから、Kia-kablo-mi-estu?さんが書き込まれて事がわかりました。
さすがに方向性に若干相違があります(^^)V

付け加えますが、私はエスペラントも世界連邦運動も、人として大切にしていきたい活動と思っています。
それと同様の方々もおられるでしょうし、まったく異なる方々もおられると思います。
それらすべてが現状であり、その正義感同士の戦いではなく、相互の認知の上での活動でなくては明るい未来というものは無いと思います。

77Kia-kablo-mi-estu?:2007/01/30(火) 18:45:38
まずセクショナリズムというものが何故維持されてきているのでしょう。
それは、国家なり民族なり、またそれを超えた文化圏(それを束ねる代表的な
ものが宗教と言語)というものが、その構成員である「多数派」の人達の生活
の精神的な拠り所となっているからです。
現代社会では、特に国家がその中心的役割を担うものとして益々大きな存在と
為ってきています。国際連合という組織も国家の意志を無視してそれを超える運営を
行うことは殆ど出来ません。それどころか国連は主に大国の利害を巡っての外交戦の
場と言っても過言ではないでしょう。
私は、別に国家の役割を否定するものではありません。
国家が地球規模で人類の共存共栄を目指す役割を積極的に担うようになれば、
地球規模での平和が実現されるはずです。

ところが現在に至るまで国家がそういう役割を担うどころか、そういう流れに
ブレーキをかけることがしばしばでした。何故でしょうか。

そこで、国家というものの本質的属性の研究が重要と為ってくるのですが、
この続きは、「エスペラントの思想と国家権力」のスレッドで書きます。
(続く)

78松戸彩苑:2007/02/03(土) 10:06:37
私は >>47-48 で「割り勘」を表わす表現について論じたのですが、藤本達生(著)『エスペ
ラントはこうして話す』の78ページに

Jes, jes, tamen nun cxiu pagu sian trinkajxon!
ええ、ええ。でも今日は割り勘にしましょう。

という文章があることに気がつきました。
これは >>47 であげた、『日本語エスペラント辞典』に載っている Cxiu pagis sian parton.
という表現によく似てるんですよね。

しかし私には、これらの表現は「めいめいが自分じしんの分だけ支払う」というふうにしか
読めないんですよね。
みなさんは、どのように思われますでしょうか。

それから気になるのは「この表現は、日本だけでなく、世界的に通用しているものなのか」
ということです。

著者の藤本氏は、エスペラント会話歴50年という人ですから、この表現は少なくとも「日本」
では通用するのだと予想されます。
しかし、この表現は「世界」的に定着しているものなのでしょうか?
こういった点が気になります。

藤本氏に直接問い合わせても良いかなとは思っているのですが、みなさんはどのように思
われますか。

79りょほう:2007/02/03(土) 15:11:41
>>78
こんな表現見つけました。
鶴ヶ島エスペラントクルーボ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~fukuto/kotowaza.htm

「ところで、酒を飲みに行きお勘定の段になって、割り勘することがありますが、これを頭割りにするといいますね。
これは、 dividi koston lau^kape  まさにその通りという感じ。」

これは「払う」ことではなく、「割る」ことを重視した表現ですね。

「この表現は、日本だけでなく、世界的に通用しているものなのか」が気になるのでしたら、日本人に聞くより、外国のエスペランティストで辞書を編集している人に聞いた方がいいとおもいます。
例えば、ReVoの編集者とか・・・

私の場合、エスペラント版ウィキペディアに「割り勘」の記事をつくって、ノートに意見を書いてもらうという手もありますが・・・
「割り勘」の記事を書くのは結構時間がかかりそうです。

80松戸彩苑:2007/02/04(日) 11:52:40
>>79
レスありがとうございます。

dividi koston lau'kape ですが、『日本語エスペラント辞典』の「あたま(頭)」の項の4に載
ってますね。
これなら、すんなりと通じそうですね。

ところで、もしウィキに記事を書くのであれば、英語の to split the bill(割り勘にする)であ
るとか、少し古い表現ですが to go Dutch(同上)といった表現をつけ加えておくと、理解し
てもらいやすいと思います。

81りょほう:2007/02/04(日) 12:21:16
>>80
英語版に載っている英語での用法と由来も載せるつもりです。
翻訳に時間がちょっとかかりそうです。

実際に作る場合、記事名は名詞にした方が記事をつくりやすいので、"Lauxkapa divido de kosto"あたりを考えています。

82胡人:2007/02/05(月) 09:02:57
> 78 松戸さま
それから気になるのは「この表現は、日本だけでなく、世界的に通用しているものなのか」
ということです。
著者の藤本氏は、エスペラント会話歴50年という人ですから、この表現は少なくとも「日本」
では通用するのだと予想されます。
しかし、この表現は「世界」的に定着しているものなのでしょうか?
こういった点が気になります。

私が思うに、藤本さんは日本語よりエスペラントの方がかえって、流暢に話される方だと思います(^^)
また、UEAの役員もしておられましたし(病気で辞任)海外体験は豊富です。日本より海外での評価の方が高いかもしれませんね。

その表現が定着しているかは難しいですが、少なくとも世界で能力有る有名なエスペランチスト達(言語学者、科学者、文学者、外交官等等)の中では通用する表現の様です。決して使って恥ずかしい表現ではないと思います。

また彼はエスペラントを一々日本語に置き直す事よりも、エスペラントをエスペラントで考えながら使用する方で、そうでないとスピードある会話の中でウィットある会話は難しいし、こっちからも切り替えさんと本当の会話にはならんと良く言っています。
世界中の有名なトップクラスの方々と話すうちに、そうかこのフレーズはこの様な意味で使用しているのか〜っと、日本語的にはこういう意味になるのかなぁ?というふうに思うんですよっと言っておられました。

彼から聞いた使用法で、へ〜、と思ったのは、
ある有名な魅力あるアメリカの婦人が"Bonvolu tre bele saluti al〜" って彼にある人の事を言っておられたので、なるほどこれは日本語で言う「〜さんにくれぐれも宜しく」という事なのかなぁ?と思ってその様に使用してみたところ、正しくその様で良かった様に思われる。と言っておられました。

かと言って彼は欧米中心主義者ではありません。地域地域のエスペラントがあって当然、自然だろうという考えだと思います。
ちなみに彼のあの本は韓国ですぐにエスペラント(韓国語版)出版されました。

83胡人:2007/02/05(月) 09:17:25
"Bonvolu saluti al〜" が「〜さんに宜しく」というのは海外のエスペランチストとの文通、メールでは当たり前ですが、
そのなかの「くれぐれも」という意味での強調表現について、その使用法の中で"tre bele"或いは"belege"がという意味です。

案外、魅力的な方が使用すると世界中に広がるかもしれないって笑っていました(^^)

84松戸彩苑:2007/02/05(月) 20:59:37
>>82-83
カキコありがとうございます。

藤本氏が国際的に活躍されている方だということは、私も多少は存じ上げている
のですが、しかし >>78 でも述べたように「cxiu pagu sian trinkajxon!」という
表現は、どう考えても「めいめいが自分じしんの分だけ支払う」という意味にしか
取れないんですよね。

どうしてこれが「割り勘にしましょう」になるのか、私にはよく判らないんですよね。

85りょほう:2007/02/05(月) 21:55:10
とりあえず、スタブ記事つくりました。
http://eo.wikipedia.org/wiki/La%C5%ADkapa_divido_de_kosto
みんなで内容を加えていきましょう。

>>84
gooの国語辞典(三省堂)で「割り勘」で調べると、
『〔「割り前勘定」の略〕費用を各自が均等に分担すること。また、各自が自分の勘定を払うこと。』
で2通りの意味が書いてありました。
新明解でも『何人かで食事などをした場合に、各自が△均等に(注文した分に応じて)代金を支払うこと。』
で意味は2通り。

つまり、藤本氏は「割り勘」を後者の意味で使っていて、2通りの使い方があることを知らなかった可能性が高いと思います。

86松戸彩苑:2007/02/06(火) 06:52:17
>>85
「割り勘」を「各自が自分の勘定を払うこと」の意味で使うことがあるんですね!

私もひょっとすると、「割り勘」を違う意味で使うことがあるのかな?と思って
『広辞苑』第4版を引いたりしてたんですが、ここには

わりかん【割り勘】(割前勘定の略)勘定を各人に平均に割り当てて支払うこと。

としか書いてなかったんですよね。
でも、ふつう「割り勘」と言ったら、こっちの意味ですよね。

藤本氏も、『日本語エスペラント辞典』を編纂した宮本氏も、関西の人ですので、
割り勘を「各自が自分の勘定を払うこと」の意味で使うのは関西弁なのかもしれ
ませんね。

いろいろと調べてくださって、ありがとうございますね。
ほんとに勉強になりますよ。

87りょほう:2007/02/06(火) 21:02:26
>>86
私は関西に住んでいますが、「勘定を人数で平均する」の意味で使っています。

「割り勘」で検索するとウェブ上では、やっぱり「平均する」の意味が圧倒的ですね。
ただ意味がどちらともとれないのも多い。

意外と、ウェブを使わないような年上の方が「各自が自分の勘定を払うこと」の意味で使っているのではないかと疑っています。
機会があったら、古い国語辞典やビジネスの用語辞典を調べてみるつもりです。

ちなみに私のお気に入りの「ジーニアス和英辞典」では「割り勘にする」でひくと・・・
『go Dutch (with O)《略式》各自が自分の金額を払う,(人と)割り勘にする;split the bill』
2つの意味が載っていました。

他の辞書はどうなっているのでしょうか?

88松戸彩苑:2007/02/07(水) 05:58:38
>>87
いずれにしても、藤本氏にこのことを教えておいたほうが良いでしょうね。

89胡人:2007/02/07(水) 09:07:24
私は友達同士でよく様々な小説や評論の中の難しい日本語表現を各々訳してみて、その千差万別の捉え方、訳し方を楽しんでいます。

毎回の様に、思わず国語辞典、漢字字典、ことわざ辞典など引いて自分なりに消化し、また地域独特の使いまわしに気づく事も大変多いです(^^)

あの本の日本語を見て、エスペラント訳への利用はあまり良い方法とはおもえません。
あくまでも、実際に良く使われる表現を、あくまで参考として日本語訳を併記してあると私は理解しています。
だからあの中の日本語文を読み拾うと、日本語で同じ表現なのに、様々なエスペラント訳となっています。
あの本の中心は、エスペラントでの会話表現で、特別、和エス的な使用方法とはなっていないように思われます。

あの本の書評が下記「Nova Vojo」誌の21頁の中に載っています、ご参考まで。
http://www.epa.jp/NV/2007/NV-0702.pdf

90胡人:2007/02/07(水) 10:47:48
辞書を使用する感覚が国によって結構違うのに気が付いた時があります。
日本は辞書をまるで聖書の様に使いますが、案外欧米では、あくまでも指針の一つでの様です。
ですから辞書は、ほぼ毎年更新されていきます。
日本での辞書の更新年に開きがあるのを聞いたドイツ人がとても不思議な事の様に言っていました。
言葉は生きているのに、なんで変わっていかないのか?と。

また最新版の辞書は著作者の意図が感じられ私はあまり好きではないとか、○○氏の辞書は結構好きだとか。
そんなものだと思います。辞書によっては、意味づけ自体が偏向していることもあるでしょう(^^)

とにかく辞書は万能ではなく、比べる事は難しいですが、自分で掴む事の方が結局良いと思います。

91樂々:2007/02/28(水) 12:13:21
Libere Folioで"na-ismo"が取り上げられてますが、どんなものなのでしょう。
どなたかご存知なら教えてください。

92胡人:2007/02/28(水) 18:36:47
私も興味深々で例文を見てみたら、
Mi lernas Esperanton. = Mi lernas na Esperanto.
となっていました。

目的格の「+n」使いを前置詞「na」使用にしようという改造案の様に思いました(^^)
違っていたら教えてくださいm(_ _)m

でそこに、もう終わってしまった「riismo」って書いてありましたね。
4、5年前くらいだったか結構、大きく主張されている方々が日本にもいたけど、結局世界的にはもう終わったんですね〜
いやはや〜(^^);

93樂々:2007/02/28(水) 22:33:28
>>92
対格の前置詞と書いてあるからそんなことなんでしょうけど、わからないのは
その理由なんです。riismoはその点、明解なんですが。

94松戸彩苑:2007/03/01(木) 05:13:34
>>93
na を導入する理由は、たしか

(1) エスペラント化されていない固有名詞は対格形にしにくいが、na があれば、そういう
    問題は無くなる。

(2) 〜ajn 〜ajn 〜ojn という語尾は、単調で、しかも長すぎる。
   na を導入すれば、こういう組み合わせは無くなる。

という事だったと思います。

95Kanva:2007/03/02(金) 14:10:13
他に私が理解したことは、
(3) 「A-o de B-o」という名詞句で、A-oが動作名詞、B-oがその
   意味上の直接目的語である場合、「A-o na B-o」という表現にして、
   意味構造を明確にする。
(4) 対格を含む名詞句全体を対格化するときに生じる<二重対格>を
   防ぐ。即ち、句全体を"na 〜"で対格化し、句内の対格は-n語尾にする。
(5) 無変化の代名詞(ambaŭなど)の対格の明示。
といったことです。

それから、松戸様投稿94での(1)ですが、ここで言う固有名詞とは、
単に人名・地名等だけでなく、書籍や映画の題名、特定の発言や表現の
引用など、それ自体を語形変化させたくない<固有名詞>を想定している
ように思われました。
そして、-o語幹普通名詞は自然な限り-n対格を維持し、-n対格を廃止は
しない、ということではないかと。

私の勘違いがあるかもしれませんが。

96Kanva:2007/03/02(金) 14:30:01
上記95の(4)ですが、この日本語文を例文にして言いますと、
’対格を含む名詞句全体’という表現は対格を含む名詞句で、
’対格を含む名詞句全体を’となると、その名詞句全体を対格にしている
わけです。
更に、’対格を含む名詞句全体を対格化するときに生じる<二重対格>’
は二重対格を内に含む名詞句で、
’対格を含む名詞句全体を対格化するときに生じる<二重対格>を’は
さらにそれを対格にしています。
こういう入れ子構造の理解を分かりやすくしよう、というのが(4)の
意図です。

97Kanva:2007/03/02(金) 14:50:23
「対格を示す場合にも、前置詞jeを使えばいいではないか」というのが、
反論の一つのようです。
そこで『エスペラント日本語辞典』p.493の"je"の項を見ましたら、
四番目の語義に、「動詞語幹から作られた名詞の意味上の目的語」と
あり、六番目の語義に「対象,その他」とあります。
その他の語義と紛れなければ、"je"を使っていいのでしょうが、初心者
なのでよく分かりません。

98樂々:2007/03/03(土) 07:21:28
naismoで書かれたテキストはネットで読めますか?

99松戸彩苑:2007/03/05(月) 20:12:36
『エスペラント日本語辞典』の klaso の項には

  (3) 〔学校の〕クラス,学級;学年: Mi kaj sxi lernis en la sama 〜o. 私と彼女は同じ
  クラスで学んだ / lernantoj de [el] pli alta 〜o 上級生.

と書いてあるんですが、考えてみれば「学年」と「学級」というのは、まったく別のものなん
ですよね。
英語でも「学年」は grade、「学級」は class と区別しています。

そこで、NPIVの klaso の項を見てみますと

  (3) Aro de cxiuj lernantoj, kiuj sekvas la saman kurson: la unua, dua, tria 〜o
  (kalkulitaj, lau' la landoj, de supre au' de malsupre); lernejkamaradoj el pli alta 〜o;
  (analoge) fari siajn klasikajn 〜ojn.

と書いてあります(原文では、3つの用例すべてに小さなZマークがついています)。
この定義と用例を見ると、明らかに「klaso = 学年」なんですね。
(旧版のPIVでも同様)

しかし、NPIV(および旧版のPIV)にこう書いてあるからといって『エスペラント日本語辞典』
の記述が間違っていると判断するわけには行きません。

泉幸男(著)『3分間エスペラント会話』の101ページを見てみますと

  > klaso には「学年」という意味と「学級」という意味とがあります。「彼は1年1組にい
  ます」は、訳せば、Li lernas en la klaso N-ro 1 de la 1-a klaso. ということになるでし
  ょう。

と書いてあります。
こういうことから判断しますと、おそらく klaso は実際に「学年」と「学級」の両方の意味で
使われているのでしょう。

しかし、これは要するに「混乱している」という事ではないでしょうか?
私には、そうとしか思えないのです。

だいたい、klaso が「学年」と「学級」の両方を表わすということになりますと、samklasano
という合成語は「同じ学年の人」と「同じ学級の人」の両方を表わすということになってしま
います。

また、『エスペラント日本語辞典』には klasanaro という合成語が載っていて「クラスの全
員」という訳語が与えられていますが、「klaso = 学年」と考えれば「ある学年の全員」を
も表わすことになるはずです。

100松戸彩苑:2007/03/05(月) 20:13:22
>>99 の続き)

おそらくは

(1) ザメンホフは klaso を「学年」という意味で使ったが、「学級」を表わす単語は提案し
    なかった。

(2) 英語の class は「学級」という意味なので、エスペラントの klaso を「学級」の意味で
    使う人間が少なくなかった。

ということで混乱してしまったのではないでしょうか?

私の考えでは、この問題を解決するには、まず最初に(英語のほかに)フランス語、ドイツ
語、スペイン語、ロシア語などといった主要な欧米語で「学年」と「学級」をどのように表現
しているのかを調べることが必要だと思います。

それらを参考にしながら、エスペラントでの表現方法を考えるということです。

残念ながら、私の語学力や、私のもっている外国語の辞書では、こういった事はよく判り
ませんので、これらの言葉を母語とするエスペランティストに訊ねてみると良いと思います。
---

klaso をふくめて、今までの議論から

(1) 現在のエスペラントは、この程度の表現でさえもアヤフヤである。
(2) 「使っているうちに発展する」という話を信じる気にはなれない。
(3) この程度の表現でさえもアヤフヤなのだから、文通や会話をするのにも支障が出る
    のは当然である。
(4) 日常生活に関する語彙・表現をなめてはいけない。

といったことは、もう言うまでもないでしょうね。
しかし、これとは反対に

(5) (1)〜(4)のような問題はあっても、すでにエスペラントはかなりのレベルに達してい
    るので、こういった問題をしらみつぶしに解決していけば、今以上に役に立つ、素晴ら
    しい言語になると考えられる。

ということも言えますので、頑張っていきましょう。

(終わり)

101松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:16:15
『エスペラント日本語辞典』の lerni の項には、mezlernejo という合成語が副見出し語とし
て載っています。

  mez/lern/ej/o 中学校、高等学校、= mez(grad)a 〜ejo 〔mez〜ejo は中等教育機関
  のことで、日本の中学校・高等学校どちらにも使える。必要があれば、中学を mal-
  supera mez〜ejo、高校を supera mez〜ejo と言えばよい〕。

と書いてあります。

また、泉幸男(著)『3分間エスペラント会話』にも、日本の(というよりは、アメリカ式の教育
システムにおける)「高校」をエスペラントでどう言うかについての議論があります。
かなり長いのですが、たいへん参考になりますので、全文を引用しておきます。

  supera mezlernejo 高等学校。「より上級の中等教育機関」ということ。筆者の私が、か
  ねて提唱している、日本の「高校」のエスペラント訳語です。

  「高校生」は、lernanto de supera mezlernejo と、随分長々とした言い方になりますが、
  文脈で「高校生」と分かれば、2度目からは単に lernanto といえばいいのですから、
  問題はないでしょう。supermezlernejano というような仰々しい造語は、いただけません。

  「高等学校」なのだから、altlernejo でよいではないか、というのは暴論です。altlernejo
  は、「高等教育機関」ということですから、「(単科)大学」および「専門学校」を指します。
  高等学校は、名前は「高等」でも、教育の分類としてはあくまで、中学校と同様に中等
  教育の場です。ちなみに中国語で"高校"といえば、エスペラントの altlernejo と同じく
  「大学・専門学校」を指します。日本語でいう「高校」のことは中国語では"高級中学"、
  略して"高中"といいます。

  日本の高校がちょうどフランスの「リセ」に相当するので、エスペラントでも「高校」のこ
  とを liceo といったらよい、という意見もあります。これだと「高校生」は liceano となり、
  随分スマートな感じです。しかし、エスペラントにおいて、liceo というのは純粋な普通
  名詞とは言いがたく、あくまでフランスの教育制度上の学校の呼び名です。いやしくも
  日本の学校をフランス流に liceo と呼ぶのは、まるで日本がフランスの植民地になっ
  てしまったみたいで、ちょっと筆者の私には耐えられないことです。
  (同書40〜41ページ)

  > 実は、「高校」を supera mezlernejo としたことについては、ドイツ人から「言わんと
  するところは、よく分かるが、同じ lernejo が meza でもあり supera でもある、というの
  はおかしいと思う」というコメントをもらいました。ではどうすればよいのか…は、残念な
  がら教えてもらえませんでしたが。

  ドイツでは、大学進学予定者は、いわば「中高一貫教育」の7年制のギムナジウム
  (gimnazio)にはいり、それ以外の生徒は中卒の段階で職業学校(profesia lernejo)に
  進学します。このドイツの制度では、日本のように「中等教育の第2段階を担当する学
  校」のことを何と呼べばよいか、と悩む必要はないわけです。

  さて、「高校」を supera mezlernejo と訳したのは、ロシア語で povysennaja srednaja
  skola (plialtigita meza lernejo)と訳しているのを参考にしました。

  あとで知ったのですが、イタリアでは実際に「高校」のことを、liceo[リチェーオ]ともい
  い、scuola media superiore (lernejo meza supera)ともいうのだそうで、後者はまさに
  supera mezlernejo ですね。supera mezlernejo が適切な言い方であることが証明され
  たような気がして、筆者の私もいささかうれしくなりました。

  とはいえ、supera mezlernejo というのは、耳慣れない表現のはずですから、Kio estas
  supera mezlernejo?と聞かれたら、Gxi estas japana liceo.「日本のリセです」と答えて
  おけばよいでしょう。ただし、スペイン語で liceo[リセーオ]は、チリでは「中学校」、メキ
  シコでは「小学校」のことなのだそうです。ご留意のほどを。

  「中学校」は、mezlernejo だけでも十分でしょうが、強いて「高校」と対照・区別する必要
  のあるときには baza mezlernejo といえばよいでしょう。イタリア語では、単に scuola
  media (meza lernejo)ともいい、scuola media inferiore (lernejo meza malsupera)とも
  いう由。
  (同書100〜101ページ)

102松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:18:53
>>101 の続き)

ずいぶん長い文章でしたが、たいへん参考になったと思います。
ところで、これらの引用文から、私(=松戸彩苑)は何を言おうとしているのか。

私の考えでは、supera mezlernejo というのは、たしかに意味的には「正確」だと思います。
しかし「高校」というのは日常的によく使われる言葉ですから、これでは「長すぎて不便だ
ろう」と思うのですね。

  「高校生」は、lernanto de supera mezlernejo と、随分長々とした言い方になりますが、
  文脈で「高校生」と分かれば、2度目からは単に lernanto といえばいいのですから、
  問題はないでしょう。

と泉氏は書いておられますが、現実には、教育問題について書いたり語ったりすれば、
小学生・中学生・高校生・大学生といった単語が、ランダムに何回も出てくることだってあ
るわけです。
そのような場合には、とても

  文脈で「高校生」と分かれば、2度目からは単にlernanto といえばいい

などといったやりかたで対応できるとは思えないのです。

また考えてみれば、英語では high school または high ですし、日本語では「コーコー」
と言いますし、中国語では「高級中学」を略して「高中(gao zhong)」と言うわけです。
やはり、日常的によく使われる言葉ですので、たいへんに短いわけです。

一方、先の引用文中に、ロシア語の povysennaja srednaja skola とか、イタリア語の
scuola media superiore といった表現が出てきましたが、私の予想では、これは日常的
に使われている名称ではないのだと思います。
もちろん、これらは間違いなく通じる表現なのですが、しかし、こんな長ったらしい単語を
日常的に使っているとは、とても思えないのです。

先に述べたように、「中学」「高校」というのは、アメリカ式の教育システムにもとづいた学
校であるわけです。
世界中のどのくらいの国や地域で、アメリカ式の教育システムを採用しているのか、私
はよく知りませんが、しかし決して「一部の地域の特殊な習慣」などではありません。
要するに、私の言う「現在の文明社会に住んでいる成人であれば、誰でも知っている概
念」なわけです。
そういうものを簡潔に表わすことが出来ないというのは、やはり困ったことだと思うんです
ね。
---

ということで「supera mezlernejo は長すぎて不便じゃないか」という私の意見はよく判った
と思いますが、しかしそうなると当然「では、何と言えば良いのか?」という話になってきま
す。

これだけ批判をしてきて、こんなことを言うのも何なんですが、「いろいろ考えてみたが、今
のところ、自信をもって勧められるような訳語は見つかっていない」と言わねばなりません。

しかし、私の問題意識そのものは間違っていないと思いますし、このように問題提起をし
ておけば、いつか誰かが、適切な訳語を考え出してくれるかもしれません。
逆に、問題提起をしなければ、いつまでたっても解決されることは無いでしょう。

103松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:21:55
>>102 の続き)

このような言いわけをしておいてから、私が考えたことを述べていきたいと思います。
結局は失敗だらけなんですが、それでも参考にはなると思います。

かつて私は、日本語の「高校」「高」や、英語の high (school) という表現から、alt-ejo と
してしまったら良いんじゃないかと考えたことがありました。

私は以前から痛感していたのですが、エスペラントというのは、略語がほとんど出来ない
言葉なんですよね。
エスペラントで略語ができるのは、エスペラント運動に関する語彙だけだという印象があり
ます。
エスペラント運動以外の分野の語彙について大胆な略語を提案した人というのは、(ほか
にもいるのかもしれませんが)私の知るかぎりではRüdiger Eichholz 氏と Karolo Picx 氏
くらいしかいません。

話を元にもどしますが、「高校」というのは日常的な語彙であり、なんとしてでも短くなけれ
ばならないから、altejo のような破格的な表現でも許されるんじゃないかと考えたわけです。

辞書で調べてみたところ、altejo = altajxo(高い所、高地、丘)とありましたが、altejo の
ほうは空見出し語になっており一般的ではないらしいので、altejo を「高校」の意味で使っ
ても大丈夫かな?と思ったのでした。

しかししばらくして、altejo は、発音のうえで「al TEJO」と区別がつかないということに気が
つきました。
ということで、この表現はまったくダメだと思ったわけです。
---

それから、supera mezlernejo から略して superejo ではどうかとも思いました。

「中学校」は malsupera mezlernejo ですが、これを略して malsuperejo としたのでは耳で
聞いたときに superejo と区別がつきにくいと考えたので、sub か infre を使って subejo か
infrejo とすることを考えました。

まぁ、「superejo = 高校」「subejo、infrejo = 中学校」というのは変だといえば変なんです
が、このくらい短くないと会話がスムースにいかないのではないかと思うんですよね。

なお、旧版のPIVには infre が収録されていたのですが、NPIVでは無くなって、その代わ
りに infra- という接辞として収録されています。
infre もあったほうが、今後、合成語を作っていくうえで便利なんじゃないかと思うんですけ
どね。
---

これでもダメだと言うのなら、いっそのこと hajo という新語根を導入しても良いんじゃない
かとも思っています。

「gimnazio とか liceo とかは固有の語根があるのに、どうして high school だけは supera
mezlernejo などという長ったらしい表現をしなければならないんだろう?」と考えれば、
high school を表わす語根を導入しても構わないような気がするんですけどね。

私が考えたのは、こういったことです。
ほかの人が考えれば、また違った案も出てくることでしょう。

104松戸彩苑:2007/03/07(水) 04:23:30
>>103 の続き)

つぎに「塾」について考えてみたいと思いますが、泉幸男(著)『3分間エスペラント会話』
の56〜57ページに

  vespera intensa kurso 塾。「夜間の集中講座」ということ。「塾」のことを簡潔に説明す
  るには、こう言うのが一番いいと思います。

  『日エス』には、privata lernejo 「私立学校」という訳が出ていますが、残念ながらこの
  テキストのような文脈では使いものになりませんね。「私立学校にいくために塾に通っ
  ています」などということもあるわけですから。

と書いてあります。

ということで、もちろん vespera intensa kurso でも良いと思うのですが、私は krom-
lernejo という言い方もできると思います。
krom- には「副次的な」という意味がありますので、krom-lernejo で「補助的な学校」とい
う意味になるわけです。
もちろん「なるべく短くしたい」という私の好みから言えば、これも kromejo としたいところ
です。

なお『日本語エスペラント辞典』の「予備」の項には

  〜校 propedeu'tika lernejo; prepar-lernejo.

と書いてありますが、この後者の prepar-lernejo という表現は、しっかり定義しておけば、
使えそうだと思います。
---

「日常よく使われる語彙は、短くなければならない」という観点から見れば、「小学校」を表
わす elementa lernejo なども長すぎるわけです。
ということで私が考えたのが elemo という略語でした。
小学校は bazlernejo と言われることもありますが、これを短くすれば bazejo となります。

また「大学」のことをドイツ語では Uni と略しますし、英語でも uni と言うことがあるようです。
そこでエスペラントの universitato を短くすることを考えるわけですが、uno では「国連」と
同じになってしまいますし、unio もすでにあります。
ということで univo ならOKだろうと思ったんですが、発音してみると unio と聞き分けにくい
ということが判りました。
ということで univeo ではどうかと思ったんですが、いかがでしょうか?

また instruisto というのも長すぎると思ったので、inso という形を考えてみました。

なんでもかんでも無闇やたらと短くしてるみたいですが、このくらい短くしないと会話がは
ずまないのではないかと思うのです。
たとえば「あなたは高校の先生ですか?」「いいえ、私は、高校生を教える塾の講師をして
るんですよ」というような会話は、私が提案した短い単語を使えば

Cxu vi estas inso de superejo?
Ne, mi estas inso de kromejo por superejanoj.

となりますが、正統的なエスペラントで言いますと

Cxu vi estas instruisto de supera mezlernejo?
Ne, mi estas instruisto de vespera intensa kurso por lernantoj de supera mezlernejo.

となります。

もちろん「こういった単語を今日から使え」などと言うつもりはありませんが、いろいろと考え
てみることが必要だと、私は思うのです。

(終わり)

105松戸彩苑:2007/03/11(日) 09:24:57
さて、今まで「学校」に関する語彙・表現について論じてきたわけですが、このほかにも
「入学」「卒業」「退学・中退・放校」…といった表現もあるわけです。

そこで今回は、『日本語エスペラント辞典』で、こういった表現にどんなエス訳が与えられ
ているのか調べてみることにします。

とくに問題なのは「退学・中退・放校」「休学」「停学」「早引け・早退」といった表現でしょう。
どれも「学業を中断する」という意味があるので、気をつけてエス訳を決めないと、区別が
つかなくなるおそれがあります。

  にゅうがく【入学】 lernantigxo. 〔大学の〕 studentigxo. 〜する esti akceptita de lern-
  ejo.

  そつぎょう【卒業】 la fino de la tuta kurso 〔studo〕; diplomigxo. 〜する fini la kursojn
  〔studon〕.

  たいがく【退学】 〔自分から〕 ekslernantigxo. 〔大学を〕 eksstudentigxo; forlaso de
  lernejo 〔universitato〕. 〔学校から〕 forpelo el lernejo 〔universitato〕. 〜処分にする
  (なる) forpeli (esti forpelita) de lernejo. 中途〜する interrompi la studon 〔lernadon〕.

  ちゅうたい【中退】 大学を〜する rompi sian studon en universitato; lasi universitaton
  sen finstudi; ne fini la kurson de universitato.

  ほうこう【放校】 forpelo 〔elpelo〕 de lernejo.

  きゅうがく【休学】 interrompo (de studo). 2年間〜する interrompi studon dum 2 jaroj.

  ていがく【停学】 3月間の〜 trimonata suspendo. 〜処分 suspendo.

  はやびけ【早引け】 〜する forlasi laboron 〔oficejon; laborejon; lernejon〕 antau' la
  regula horo.

  そうたい【早退】 ⇒ はやびけ

  ふくがく【復学】 〜する reveni al lernejo 〔klaso〕.

「退学」と「休学」の両方に interrompi が出てくるのが、ちょっとヤバイかなと思います。

  しんがく【進学】 〔大学への〕 studentigxo. 〔上級校への〕 enlasigxo en pli altan lern-
  ejon. 〜する esti akceptita 〔enlasita〕 de lernejo.

  しんきゅう【進級】 〜する avanci.

  りゅうねん【留年】 〜する resti en sama jarklaso.

  (侍の浪人などは省く)
  ろうにん【浪人】 student-aspiranto. 〜する malsukcesi en ekzameno kaj atendi la
  sekvantan. 目下〜中です Mi malsukcesis en enlasa ekzameno. 2年間〜する mal-
  sukcesi enlasajn ekzamenojn dum 2 jaroj.

「飛び級」は無し。

  とうこう【登校】 vizito al lernejo. 〜する viziti lernejon.

  げこう【下校】 〜する reiri de lernejo.

  きゅうこう【休校】 fermo (de lernejo).

  たんにん【担任】 ⇒ たんとう(担当). 〜である esti sxargxita 〔okupita〕 per io. 
  クラス〜の先生 instruist(in)o respondeca pri klaso.

106松戸彩苑:2007/03/11(日) 09:26:19
>>105 の続き)

ところで「放課後(に)」というのは、どのように言えば良いのでしょうか?
『日本語エスペラント辞典』の「放課」の項は、次のようになっています。

  ほうか【放課】 fino de lecionoj. 〜後 post la fino de kursoj 〔lecionoj〕.

「放課後(に)」は、英語では after school、フランス語では après la classe、ドイツ語で
は nach der Schule ですので、これを

Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』
Jacques Le Puil、Jean-Pierre Danvy(編)『Grand Dictionnaire Français-Espéranto』
Erich-Dieter Krause(編)『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』

で調べてみることにしました。

ところが調べてみたところ、これらの辞書に after school、après la classe、nach der
Schule という表現が載っていないということが判りました。

そこで、Carlo Minnaja(編)『Vocabolario Italiano-Esperanto』で doposcuola の項を見て
みると「postleciona tempo, postlernejo」と書いてありました。

さらに調べてみたところ、postlerneja という表現が、旧版のPIV、NPIV、そして『エスペラ
ント日本語辞典』の lerni の項に載ってることが判りました。
(postleciona という見出し語は、旧版のPIV、NPIV、『エスペラント日本語辞典』のいずれ
にも無し)

ということで「放課後(に)」のエス訳は postlerneje で良いのかな?と思ったのですが、み
なさんはどのように思われるでしょうか。

いずれにしても「放課後(に)」のような、ごくごく簡単な表現でさえも、いまひとつハッキリ
しなかったり、あるいはまったく調べられなかったりという状態だということが、お判りにな
ったことと思います。

(終わり)

107松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:14:59
『エスペラント日本語辞典』の trajno の項に

  regiona[distrikta]〜o ローカル列車

と書いてあります。
一見すると、これで問題ないように思えますが、私の考えでは、これは間違ってると思うの
です。

この regiona trajno という表現は、NPIVに載っているものです。
NPIVの trajno の項の2に

  ekspres〜o, rapid〜o, regiona 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on.

と書いてあります。
しかしこれだけでは、やっぱり『エスペラント日本語辞典』の訳で正しいように思えますね。

ところがです。
旧版のPIVの当該部分を見てみますと、次のようになっているのです(3番目の表現に注
目してください)。

  ekspresa, rapida, omnibusa, ekstra 〜o; konekta 〜o.

さらに、旧版のPIVの Suplemento にも trajno の項があって

  ekspresa 〜o, rapid〜, ordinara 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on.

となっているのです。
これでは判りにくいと思いますので、時系列にそって並べ替えてみますと、次のようにな
ります。

  ekspresa, rapida, omnibusa, ekstra 〜o; konekta 〜o. (旧版のPIV)

  ekspresa 〜o, rapid〜, ordinara 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on. (旧版のPIVの補遺)

  ekspres〜o, rapid〜o, regiona 〜o, koneksa 〜o, sxangxi 〜on. (NPIV)

これを見れば判るように、3番目の表現だけが omnibusa → ordinara → regiona と、コロ
コロと変わってるんですね。
ところで、この3番目の表現は、いったい何を表わしているのでしょうか?

私の考えでは、これは「各駅停車の列車」のことだと思います。
「各駅停車の列車」のことを、フランス語では train omnibus と言い、またイギリス英語でも
omnibus train と言うんですね。
それで、旧版のPIVに omnibusa trajno という表現が載ってたわけです。

しかし、おそらくこの表現は、フランスやイギリス以外の人たちからは「判りにくい」というこ
とで評判が悪かったのでしょう。
そこで旧版のPIVの補遺では、われわれ日本人にも判りやすい ordinara trajno という表現
が収録されたのでしょう。

しかし、どういうわけだかNPIVではさらに変更されて regiona trajno という表現になりました。
これは、アメリカ英語の local train などを参考にして作られた表現だと思います。

で、『エスペラント日本語辞典』の編者は、こういった事情に気づかずに、regiona trajno に
「ローカル列車」という訳語を当ててしまったというわけです。

日本語の「ローカル列車」という表現は、人口の少ない地域を走る列車のことです。
1両とか2両だけで走ったり、あるいは、1日に数本しか走らないといった鉄道のことですね。
一方、アメリカ英語の local train というのは、各駅停車であれば、たとえ大都会のなかを
走っていても良いんですね。
私の予想では、regiona trajno というのも、そういう列車を表わしているのだと思います。

108松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:16:43
>>107 の続き)

ところで、旧版のPIVの補遺には載っていたのに、なぜかNPIVでは変更されてしまった
ordinara trajno ですが、おそらく「臨時列車」に対する「通常ダイヤの列車」と区別がつか
ないのではないかということから変更されたのではないでしょうか?
もっとも、Erich-Dieter Krause(編)『Großes Wörterbuch Esperanto-Deutsch』の trajno
の項には、regula trajno という表現が「通常ダイヤの列車(fahrplanmäßiger Zug)」を表わ
す表現として載ってるんですけどね。

この「各駅停車の列車」を表わすエスペラント訳語は、ほかにも幾つかあります。
たとえば『日本語エスペラント辞典』の「鈍行」の項には

  どんこう【鈍行】 〜列車 cxiehalta 〔malrapida〕 trajno. 〜で行く veturi cxiehalte.

とあります。

また、Carlo Minnaja(編)『Vocabolario Italiano-Esperanto』の trèno の項には「loka
trajno」があります。
イタリア語でも「各駅停車の列車」のことを trèno locale って言うんですね。

もちろん、「各駅停車の列車」を表わす表現が複数あっても構わないとは思うんですけれ
ども、誤解を生じるようではダメなわけですね。
---

補足になりますが、『日本語エスペラント辞典』の「普通」と「列車」の項には「普通列車 om-
nibusa trajno」が、また「停車」の項には「各駅〜の列車 ordinara trajno」が載っていました。

あと、これは日本語に関することなんですが、一般的には「各駅停車の列車」のことを「普
通列車」と言いますが、JRでは「普通列車」というのは急行券や特急券を必要としない列車
すべてを表わすので、各駅停車であるとは限らないんだそうです。

(終わり)

109松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:31:55
>>107-108 への補足)

Erich-Dieter Krause(編)『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』の Personenzug (各駅停車
の列車)の項には、「ordinara (あるいは cxiustacia) [pasagxer]trajno」という記述があり
ました。

110松戸彩苑:2007/03/11(日) 12:32:10
>>107-108 への補足)

Erich-Dieter Krause(編)『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』の Personenzug (各駅停車
の列車)の項には、「ordinara (あるいは cxiustacia) [pasagxer]trajno」という記述があり
ました。

111りょほう:2007/03/11(日) 15:10:32
>>105
「飛び級」ですが、「進級する」promociiĝis を使ってこのように表現したことがあります。松戸さんならどう表現しますか?
Mihama Chiyo promociiĝis de 5-a grado de elementa lernejo al 1-a grado de altlernejo je 5 gradoj.

gradoは「学年」の意味、altlernejoは「高校」の意味で使っています。

112りょほう:2007/03/12(月) 19:04:50
しばらく留守にします。

113松戸彩苑:2007/03/13(火) 03:25:38
>>111
なるほど。
文脈から「飛び級」だということが判りますので、とりあえずはそれで良いんじゃないでしょ
うかね?

しかし、その表現方法だと、「〜年から〜年に」という部分がないと「飛び級」だということが
判らないんですよね。

ですから将来的には、日本語の「飛び級」や、英語の grade-skipping を真似て、(「学年
= grado」だとした場合ですが) grado-salto とか salti 〜 gradojn のように表現したほう
が良いと思いますね。

114松戸彩苑:2007/03/13(火) 21:25:57
今回は、『エスペラント日本語辞典』を見ていて気になったことについて、書いてみたいと
思います。
---

『エスペラント日本語辞典』の kesto の項に posxt-kesto が副見出し語として収録されて
いますが、ここには「郵便箱,ポスト; 〔門・戸口の〕 郵便受け; 郵便私書箱」という訳が
添えられています。

言うまでもなく「ポスト」「郵便受け」「私書箱」は、まったく異なるものです。

この記述は、おそらく三宅史平(編)『エスペラント小辞典』の posxt-kesto の項をそのま
ま受けついだのでしょう。

NPIVでは

  (kesto の項) posxt〜o. Granda 〜o, en kiun la publiko enmetas la ekspedotajn
  leterojn ks.

  (kesto の項) leter〜o. 〜o, cxe la pordo au' enirejo de domo, kien la posxtisto
  demetas la leterojn paketojn ks. SIN. leterskatolo.

  (fako の項) posxt〜o. Unu el la specialaj kestoj, signitaj per numero k instalitaj
  en posxtoficejo, de kiu firmoj au' privatuloj venas preni mem siajn korespondajxojn:
  posxt〜o 32.

となっています。
要するに「ポスト = posxtkesto」「郵便受け = leterkesto, leterskatolo」「私書箱 =
posxtfako」というふうに、完全に区別ができてるんですね。
---

ところがです。
旧版のPIVでは次のようになっていたのです。

  (letero の項) 〜kesto. Publika kesto diversforma, en kiun oni metas la deirantajn
  〜ojn, poste kolektotajn de posxtisto.

  (letero の項) 〜skatolo. Privata skatolo cxe dompordo au' vestiblo, en kiun 〜por-
  tisto metas la alvenantajn 〜ojn.

  (skatolo の項) leter〜o. 〜o, cxe la pordo au' enirejo de domo, kien la posxtisto
  demetas la leterojn, paketojn ks. ☞ posxtkesto.

  (kesto の項) posxt〜o. Unu el la specialaj 〜oj, signitaj per numero k instalitaj en
  posxtoficejo, de kiuj firmoj au' privatuloj venas preni mem siajn korespondajxojn:
  posxt〜o 32.

  (posxto の項) 〜kesto. Granda, diversforma kesto, kien la publiko enmetas la
  ekspedotajn leterojn ks. ☞ leterskatolo

整理しますと、PIVでは leterkesto が「ポスト」(NPIVでは leterkesto は「郵便受け」)、そ
して letero と skatolo の両方の項にある leterskatolo は「郵便受け」(NPIVでも同じ)で、
これは良いのですが、posxtkesto は kesto の項では「私書箱」、posxto の項では「ポス
ト」となっていたのです。

115松戸彩苑:2007/03/13(火) 21:27:09
>>114 の続き)

このような混乱があったため、PIVの Suplemento には

(1) posxto の項に posxtfako 「私書箱」を追加。
(2) posxto の項から posxtkesto を削除。「ポスト」は leterkesto。

という指示が載っています。

これに従えば、leterkesto が「ポスト」(NPIVでは leterkesto は「郵便受け」)、 leterskatolo
は「郵便受け」(NPIVでも同じ)、そして posxtfako が「私書箱」(NPIVでも同じ)ということに
なりました。

これで解決と言いたいところですが、kesto の項にある「posxtkesto = 私書箱」(NPIVでは
「ポスト」)という記述については、削除・変更の指示がまったくありません。
これについては、削除しわすれたのか、それとも、このままで良いと考えたのか、私には判
断できません。
このままで良いと考えたのであれば、わざわざ posxtfako 「私書箱」を追加する必要はな
かったように思うのですが、さて、どうだったのでしょうか。

ところが、この posxtkesto が、NPIVで再び「ポスト」を表わす唯一の表現として復活し、そ
の一方で、1970年以来「ポスト」を表わしていた leterkesto は leterskatolo と同じく「郵便
受け」を表わすことになったのです。

理由はよく判らないのですが、私の予想では、旧版のPIVの posxto の項に載っていた
「posxtkesto = ポスト」がすでに広まっていたので、補遺で削除しても効果がなかったの
ではないでしょうかね。
---

ということで、この頭のなかが混乱しそうな話は終わりですが、考えてみると、読んだあとの
手紙や葉書を入れておく「状差し」というのもあるんですよね。

で、『エスペラント日本語辞典』を見てみると、skatolo の項にある leter-skatolo に「書状差
し,文箱(ふばこ)」という訳がついてるんですよね。

あれっ、旧版のPIVやNPIVでは leterskatolo は「郵便受け」だったのに…。

ちなみに『日本語エスペラント辞典』の「状差し」の項には leterujo、そして「文箱」の項には
leterskatolo が挙げられています。

いつになったら、国際的に統一されるんでしょうかね。

(終わり)

116Bonsano:2007/03/16(金) 10:15:22
>いつになったら、国際的に統一されるんでしょうかね。

必要は発明の母という諺がありますが、エスペラントの日常使用者の多くが実感しないと
無理でしょう。
今のところは、用語の統一よりむしろエスペラントの表現力を駆使して説明するか、
話者たちの置かれている状況や会話の脈略で充分説明の用を足せるようです。
従って、Kia-kablo-mi-estu?さんの言うとおり多くのエスペラントの話者達にとって
緊急性を要するという認識はなさそうです。

それ以上にEsperantujoの停滞をどう打破していくかの方が緊急課題であると思います。
決して松戸さんの言うとおり日常用語の不備という不安がエスペラントの広まりにブレーキを
掛けているのではありません。
むしろEUの公用語問題を含めてエスペラントの拡大に全力を傾けるべきです。
エスペラントの使用領域の増大に伴っておのずとNeologismoや用語の統一やその定義
といった問題は解決されて行ったことは、例えば第一次大戦後の所謂社会主義の本質を
巡る論議等で語彙の深化が図られたことは既にエスペラントの歴史を通してに多くの事例を
見つけることが出来ます。

117樂々:2007/03/17(土) 07:42:39
>>116
松戸彩苑さんはエスペラント拡大の努力を否定されてませんし、日常語を整備
しさえしたらエスペラントが拡大するともおっしゃってませんが。
なぜ、"緊急課題"以外のことを語ってはいけないのですか。Bonsano さんが
興味をお持ちでないなら無視すればいいだけじゃないですか。
そもそもBonsano さんは"Esperantujoの停滞の打破""エスペラントの拡大"を
どうして実現しようとお考えなのですか。従来の運動や組織で充分だ、足らないのは
努力だけだとお考えなのですか。

118松戸彩苑:2007/03/17(土) 17:42:37
>>116
要するに「宣伝」と「学習」をどうすれば良いのかって事ですね。

そういった事については、私は「大衆迎合なエスペラント運動を考える」というスレにいろい
ろと書いておいたんですが(http://jbbs.livedoor.jp/study/7882/#5)、ここでかんたんに説
明しておきましょうか。
---

まず「宣伝」ですが、今までのような「理念や理論を説明する」というやり方では、エスペラ
ンティストの家族や知人でさえも納得しない、ということを知らなければなりません。

「言語の平等」なんてことは、いちど説明されれば、誰にでも判ることです。
それなのに、エスペランティストの家族や知人でさえもエスペラントをやろうとしないのは、
「カネにならない」「楽しそうに見えない」「世間から誉められない」からです。

人間というのは「カネになる」「楽しい」「世間から誉められる」ことくらいしかやらないものな
のですね。
もっとも、「世の中の役に立ちたい」という気持ちも無いわけではないのですが、そう思う人
は、環境問題だとか介護だとかといった、世間ですでに認められている活動のほうに行く
わけで、エスペラント運動のほうに来る人は、ほとんどいません。

それどころか、立川健二氏のように社会問題の解決のことしか考えていない人物なんか
ですと、エスペランティストの前で「もうエスペラントは絶対に広まらないんだから、そんな
ムダなことはやめて、もっと直接的に社会を良くするような活動をやるべきだ」などと言っ
たりしてるわけです。

また、エスペランティストでオーストリーの大統領になったフランツ・ヨナスという人がいまし
たが、この人は大統領になっても「エスペラントを学校で教えるようにする」といった事はし
ませんでした。
いくら大統領だとはいっても、国会議員や国民の支持を得られないようなことを強引に推し
進めることは出来ないからです。

エスペラントができる大統領でさえもこれですから、エスペラントのできない政治家にそれ
以上のことを期待するのは、現実的ではありません。
---

これでは完全に八方ふさがりのようですが、けっしてそうではありません。

たとえば和田誠一氏は、ふつうの人たちがエスペラントで会話している光景を見て、エスペ
ランティストになりました。

またサーノ葉子氏は、じつの父親からエスペラントを教えられたりしたにも関わらず、エス
ペラントに対してはむしろ反感をもっておられたようですが、さまざまな経験をへて、エスペ
ラントを「面白そう」だと感じてから、熱心に活動をされるようになったようです。

ということで、エスペラントの宣伝には

(1) 実際に、エスペラントを活き活きと使っているところを見せる。
    しかし、そういう機会はなかなか無いので、「エスペラントでこんな事をやっています」
    ということを話したり、あるいは文章にして読んでもらったりする。

(2) 「面白そう」「楽しそう」だと思ってもらえるようにする。

ということが大事だと思うのです。

はっきりいって世間では、エスペラントは、UFOや幽霊の話よりも見聞きする機会が少ない
のです。
そういう状態であるのに関わらず、理念や理論ばかりを滔々と論じても、世間の人はおろか、
自分の家族や知人でさえも、納得してはくれないと思います。
---

つぎに「学習」について考えてみますが、学習においてもっとも大事なのは「本人のやる気」
なんですね。

とくにエスペラントの場合は、勉強してもカネにはなりませんし、世間から誉められることも
少ないわけですから、「やる気を維持する」ということを最優先にしなければなりません。

もちろん、最初は初等教科書で勉強するしかないわけですが、これを終えたら、できれば
学習者のやりたいことに合わせて勉強できれば、やる気を維持しつつエスペラントの能力
をつけることが出来るのではないかと思うんですね。

今までは「本人のやる気」というものをあまり考慮せず、初等教科書を終えたら、いきなり
文学作品を読ませるなどという事をやってたわけですが、文学が好きな人であればそれ
でも良いのでしょうが、そういう人ばかりではないわけですので、このあたりを変える必要
があると思いますね。

119松戸彩苑:2007/03/17(土) 17:43:30
>>118 の続き)

このように考えてくると、どうしても「日常生活に関する語彙・表現の不足・混乱」というもの
は、看過できないわけです。

日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱していたのでは、先に私が述べたような宣伝・
学習方法はうまく行かないんですよね。

それにそもそも、発表されてから120年もたつのに「文明社会に住んでいるふつうの成人
であれば誰でも知っているような語彙・表現」が大量に不足・混乱しているというのは、これ
までのエスペラント界の常識が間違っていたということであって、大問題なわけです。

はっきり言ってしまえば、ザメンホフの見通しが甘かったという事なのです。
---

さて、Bonsano さんは「たしかに日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱しているかもし
れないが、それよりも宣伝や学習を熱心にやるべきではないか」と考えておられるようです
ね。

しかし私は「日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱しているから、宣伝や学習がうまく
行かないのだ」と考えているわけです。

私はエスペラントを始めてから十年以上たちますが、これまで一度もエスペラントを他人に
勧めたことがありません。
理由は「日常生活に関する語彙・表現があまりにも不足・混乱しているので、とてもじゃない
が勧められない」からです。

現在のエスペラントは、30年くらい前のパソコンみたいなものだと思っています。
当時のパソコンは、箱のなかにパーツ一式が入っているだけというものであって、自分で組
み立てなければならず、また、気軽に使えるソフトもありませんでした。
要するに、電子パーツやプログラミング言語と悪戦苦闘するのが楽しくて仕方がないと思え
るような、特殊な人でないと使いこなせなかったのです。

現在のエスペラントも、使いこなせるようになる人は限られています。
JEIには毎年、数十〜百数十人もの人が入会していますが、そのなかのかなり多くの人は
数年でやめてしまいます。
また、やめない人でも、自分で満足できるようなエスペラント能力がつかない人も少なくな
いわけです。

一部のマニアにしか使いこなせなかったパソコンは、どんどん改良されて、一般人でも使
いこなせるものになりましたが、エスペラント運動もこれと同じように、一般人の能力や嗜
好に合わせる必要があるわけです。
だいたい、パソコンを使いこなす能力は30年前でも世間で評価されていましたが、エスペ
ラントの場合は、かなりのていど普及・発展しないと、使いこなす能力は世間から評価され
ないと考えられますので、一般人の能力や嗜好に合わせることが、きわめて大事なのです。

それをやらなかったから、欧米で(また日本でも)エスペラントが見捨てられてしまったのだ
と、私は考えているのです。
---

ということで、現状を打破するには、やはり「日常生活に関する語彙・表現」を確立していく
こと(および、それらを楽に身につけられるような教材を開発すること)が必要不可欠だと思
うのです。

こういった活動によって、まず最初に、われわれのような現在すでにエスペラントを使って
いる人たちの言語活動のレベルが上がります。
エスペラントが、今まで以上に役に立つようになるという事です。

そうすれば、エスペランティストの家族や知人が、エスペラントを見直すことでしょう。
うまく行けば、そういう人たちのなかからエスペラントをやる人が出てくるかもしれません。

このように、自分の家族や知人のあいだに広まるようでないと、ぜったいに世間には広まら
ないと、私は思うのです。

自分の家族や知人が、揃いも揃ってバカだらけで「言語の平等」なんて理解できないとか、
あるいは全員英語が堪能で、英語にはまったく不自由しないとかいうのであればエスペラン
トが見向きもされないのも仕方がないのですが、そういうことはめったにないと思います。

「けっしてバカでもなく、英語が堪能なわけでもない自分の家族や知人が、エスペラントを見
直したり、あるいはエスペラントを学習したりするようにするには、どうしたら良いのか」という
ことを考えるべきなのです。

自分の家族や知人でさえも理解できないような理屈を、世間の人たちが理解してくれること
を期待すべきではないと、私は思います。

そろそろ酔いがまわってきましたので、このへんで終わりにしますが、できれば「大衆迎合
なエスペラント運動を考える」というスレもご覧になってください。

(終わり)


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