したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

戦争を考える

1管理者:2005/11/14(月) 06:01:53

憲法改正について、戦争について、不戦について、戦争と不殺生戒について、などの議論が活発に展開される事を期待して、「世界の情報ボックス」スレツドでの議論から「戦争を考える」内容の議論を分離独立させたいと思います。よろしくお願いいたします。

53匿名:2005/11/21(月) 00:05:39



>あなたが記したとおり、「最も平和愛する自衛隊」で、戦争に殺戮被害を被った人々に対する配慮がない点を言ったわけです。

これは、あなたの言い分も理解いたします。

>国家に殺された被害を受けた人々に何ら保障もしなかったというのは紛れもない現実ですよ。

国家に殺された…そのように思われているのですか。うーん。
あれ、ご家族は殺されたんでしたっけ?

>国家論ではありません。一人ひとりの思いです。

思いですか。で、国家論は?

>鹿鳴館に代表される当時の政府はそんなにご立派なものでしたか。

そりゃあ、非をあげればキリがないです。
開国を迫られたときに戦えばよかったですか?戦力からいって、戦えたんでしょうか。それこそ、国民が巻き添えです。そういうことは、考えませんか。

>廃仏毀釈に破壊された多くも当然のことであったというわけですか。
われわれ仏教徒は、この新たな政治に一切を蹂躙されたのです。

確かにそれは言い分としてあるでしょうね。政治に一切を蹂躙されたのは、明治維新からではなく、江戸時代からですし。

>しかし、わたしは、これらが同盟などという肩並びの関係になっていない点を言っているわけです。

言ってることがわかりません。

>あなたは日本とアメリカがフェアな関係にあると思っているわけですか。

先のレスの一番冒頭に書いたじゃないですか。日本が真の独立国家だと思ったら大間違いだと。
同盟は、フェアだと認識していらっしゃるのでしょうか。
それとも、これも合意点ですか。

>自衛隊が不殺生戒だとも取れるあなたの書き込みに対して

彼らが自衛隊の立場で「戒」を持っているわけではないでしょうけれど、不殺生戒は犯していないでしょう。誰か人を殺傷したのでしょうか。しかし、私はそれよりも、発足以来、一人も血を流していないことのほうを、大事に思いますね。

>こんなことをわたしが知らないとでも思っているわけですか。これはひどい侮辱ですよ。

知っていたら、身分がどうの、支配がどうのなんて書けませんよ。知らないからそう書いてしまうのでしょう。

>こんなわかりきった建前を論を書くから、まったく優等生の模範解答のようだ言いたくなるわけです。

とはいいますが、それを前提に書き進められないような記述でしたけど。

>この公務員の保障された生活と一般市民では格段の相違があります。

一般市民の中にも、格差はあるでしょう。一般市民をひとまとめにはできません。
歳費が云々であれば、まず、それだけの仕事が彼らには要求されているということでしょう。

>感覚が麻痺しているのではないかと疑わざるを得ません。

あのね、感覚の問題じゃないんです。まずは身分がどう規定されているかという原則から入ることは肝要です。
歳費をいっぱいとっているとして、じゃあ「支配」という言葉を記されたのは、何なんでしょう。

>これも侮辱に当たりますか

侮辱ではなくて、これはあなたの記さなかったことの詭弁です。

>以下、またわかりきったお話です。

いちいち、こういうことを書きますかね。
これを書かないことには、脈略のない話になってしまう場合もあるでしょう。

54匿名:2005/11/21(月) 00:06:46
>わたしはいまの日本、世界のどこにマルクス等がいった共産主義があるのだと問うているのです。

日本は答えましたけど。
世界的には、中国、ラオス、キューバ、北朝鮮といったところでしょうか。影響力のある国ではありませんが。

>ないでしょうね。

でしょうね。

>陰謀史観の類は物笑いのタネですから。

物笑いのタネを持ち出しのは、あなたです。

>無礼ですよ、あなた。

お互い様です。

>ですから、何をとくとくとわかりきったことを記しているのですか。
まだ、侮辱する気ですか。

知っているなら、聞かなければいいことです。
聞かれたからも答えたまで。
時間を割いて、答えたら、答えたで、わかりきったことだとか、無礼だとか言うわけでしょ。
だいたいが、横暴なんですよ。

>日本という社会、限らず、世界から共産主義はもはや、死滅してしまったと言っているのですよ。

だからそう思っているとしたら、甘いということです。

>『赤旗』は、ある面、仏教界の主張を伝えるという隔世の出来事も起きているわけです。

ふーん。変なことです。

>宗教的立場について、何度となく、問いかけたわけですが、それを「強要」などと見当はずれの反論で答えず、八正道、中庸を挙げたわけですから、それをあなたの信仰と見なすのは議論の流れから致し方のないことでしょう。

それで。

>あなたがわたしに対して「甘い」と記して書いた見当はずれの書き込みとともにお返しします。

正直に甘いものは甘いですよ。見当外れかどうかわかりませんが。

>わたしのほうこそ、軍隊の新聞検閲のような不快感がありました。

私の記述がですか?

>となれば、言論にチェックを加え、検閲めいたことを仕掛けたのは、そちらでしょう。

あの記述は、普通はクレームが出ますよ。

>人に知識がないと上から見下したような文章は実に不愉快であり、学ぶところなく、故に面倒なばかりで得るところなしというのが偽らざる印象です。

そっくり謹んでお返しいたします。

55匿名:2005/11/21(月) 00:09:20
>51

訂正
正)服従運動の前
誤)不服従運動の前

56匿名:2005/11/21(月) 00:11:26
>51訂正

正)独立を反故にされたイギリス人の怒りというものもあって
誤)独立を反故にされたインド人の怒りというものもあって

57犀角独歩:2005/11/21(月) 00:32:24

名さん、あなたに甘いだなんだ言われる筋合いはないですね。

そんなに自衛隊云々を言うのであれば、入隊して、イラクでも何でも行けばいいでしょう。こんなところで油を売っている必要はないでしょう。

入隊のお祝いをして上げますよ。日の丸の旗でもでも振って上げましょう。
そうして、言っていることが行動の一致する心意気を早く見せてください。

58犀角独歩:2005/11/21(月) 00:36:50

しかし、いまや中国は、世界でも有数の資本国家。
共産党国家であっても、共産主義国家ではありません。
どうやら、資本論一つ読んだことはないようですね。
共産党といえば、共産主義だと思っているわけですか。
いやはや。

59犀角独歩:2005/11/21(月) 00:44:34

共産主義といえば、共産党という小学生のような話が横行しては困るので、
簡潔な資料として

共産主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9

60匿名:2005/11/21(月) 21:24:45

>57

結局、私からの種々の質問は、このような「揶揄」がお答えであると、承りました。

それにしても、お身内やお知り合いに、自衛隊員の方がおられるというのに、よくこんな揶揄が書けるなあという思いです。
私は仏教徒だからこそ、このようなことを言いたくはないという思いを持ちますね。とても、残念なことです。


>58
>しかし、いまや中国は、世界でも有数の資本国家。
共産党国家であっても、共産主義国家ではありません。

これは、政治システムと経済システムを混同されているのではないでしょうか。
中国はいまでも、共産党一党独裁の共産主義国家です。
ですから、政治の決定の場に「議会」はなく、国民の「投票権」もありません。
いわゆる私たちの民主主義のシステムとは違い、人民民主主義という、よくわからないシステムです。
共産主義に基づく政治が、今なお行なわれています。
…などと書き記すと、また、わかりきったことで無礼だと言われるのでしょうね。
しかし、わかっていたら、「共産党国家であっても、共産主義国家ではありません。」なんて書けないものなんですけど。
そもそも、「わかりきったこと」なんて言われると、まるで「対話」になりません。

>どうやら、資本論一つ読んだことはないようですね。

こう書くところを見ると、あなたは、読まれたのですか。

>共産党といえば、共産主義だと思っているわけですか。
いやはや。

共産党は共産主義社会の実現を放棄したというのですか。これは驚きです。私は弱小政党になって、「共産主義革命」なんて大きなことが言えなくなっただけのことだと思っていました。

仏教徒が仏教にかなった理想郷の実現を目指すように、共産主義者は、資本主義が崩壊して共産主義社会になることを、今でも目指しているものだと思っていましたけど。違うのでしょうか。

ソ連やベルリンの壁が崩壊したからといって、イデオロギーそのものが消えたわけではないでしょう。
そもそもマルクスは、資本主義を否定したわけではないですし。発展段階説に従い、資本主義の崩壊を待っているのではないのでしょうか。共産党員も資本主義社会の恩恵を受けて、多少、信念がぐらついていることは考えられますけど。

最近の若い方はご存知ないかもしれませんが、共産主義者は、共産主義革命の実現に向けて「暴力」という手段を否定しませんでした。

ところで、その暴力闘争のデモに参加するというのは、不殺生戒を破ることにはならないのでしょうか。
ゲバ棒持って火炎瓶を投げる、そんな暴力集団の中に身をおきながら、自分だけは丸腰だから自戒は逃れる…そんな理屈、なんだか、自戒といいながら自分に甘い気がしないでもないです。


>59

向学のためにと、ご提示頂いたジャンプ先を読ませて頂きましたら、私の認識に間違いはありませんでした。

======以下抜粋。=============
共産主義の基本的革命理論を構築したマルクスとその同志であるエンゲルスは、その著書『共産党宣言』において、「共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。」として、暴力によってのみ共産主義革命が達成できると主張した(暴力革命必然論)。
=============================

「暴力革命必然論」ですよ。よくこんな主義の人たちと非暴力主義であるはずの仏教徒の方々は行動を共にされているなあと思います。
そりゃあ、ソ連崩壊で共産主義社会の実現は、当面は無理だろうとはしてもですよ、マルクスの「資本論」によるところの「発展段階説」によれば、やがて高度に発展した「資本主義社会」が崩壊して、「社会主義社会」を経て「共産主義社会」へと実現されていくというわけです。晴れてその実現のとき、真っ先に「粛清」されかねないのは、「宗教法人」だという認識や危機感というのははないのでしょうか。
信仰を持つ私には、信じられません。

もちろん、世間は広いですから、宗教的なものを一切受け付けられない唯物論者はたくさんいます。私の知人にもいます。そのような人に、宗教を信じろというのは大変酷なことです。それはそれで尊重し、唯物史観による「共産主義」という思想や信念を排除するつもりはありませんが、しかし、彼らの望む社会に、信仰者の居場所はないわけですから、これは排除なんてものじゃなくて粛清ですから、信仰を持つ私にはとても合わないことです。

61匿名:2005/11/21(月) 23:25:10
「デモ」からの発見

いろいろと「意見交流」をさせていただきながら、ふと思ったのですが、どうも最初から議論が噛み合わない。
これこそ、現在のお互いの最大の共通の認識、合意点、ある意味で、これが意見交流の「最大の成果」かもしれません。
しかし、これはもともと「想定内」のこと。
ですが、ひとつ新たな発見がありました。
当初、噛み合わないのは、自衛隊への見解の違いだけだと思っていたのです。
ところが、そうではなくて、実はもっと根本的な重用な相違点があった。
そう、それは、他でもない、最も根本的な思想・信条・イデオロギーの違い。
仏教への信仰はお互い共通点としてあっても、相手は革新・左翼系、私は保守・右翼系であった。
死語に近い古い言葉で書きました。思想や信条というのは、そうそう変わるものではありません。
基本的理念のスタートが違っていた。
噛み合わないはずです。
いま、ようやくそれに気がつきました。
これを埋め合わせていくことは、お互い不毛な時間を過ごすことでしょう。
仮に目指すところが同じだとしても、別々の道を行くのが賢明。というもの。
大きな発見でした。

63藤川一郎:2005/11/22(火) 08:50:27
たまには余談です。
我が日本国は「純正資本主義」でも「共産主義」でも「社会主義」でもありません。
まあ強いて言うなら「社会主義的資本主義」とでも申しましょうか(爆)?
イデオロギーと言うのは簡単に白黒では割り切れない部分があるのです。
この程度の見識は持った方が良いんでは・・・?

64犀角独歩:2005/11/22(火) 11:02:31

匿名さん、それ以前から、薄々思っていましたが、あなたの考えは、ベルリンの壁崩壊以前、ソ連邦、文化大革命当時の知識で物事を計っているのではないでしょうか。

わたしに『資本論』を読んでいるのかという質問を投げかけていますが、わたしの年齢で、そもそも資本論を読んでいない人間などいるのでしょうか。もちろん、読んでいます。ただ、苦しいあなたの言い返しを聞く限り、あなたは読んでいないことはわかりました。また、今回のレスを読み、あなたの“程度”がわかりました。このような書き方が揶揄、侮辱に当たるかどうか。これは、この際ですから、記すしかありませんが、もはや、そんなレベルの話でもありません。まあ、よく勉強されることですよ。

少し回顧談。
わたしは本格的な「折伏」を高校生の時から始めていました。ある相手の兄が過激派の闘志でした。「折伏」で待ち合わせたら、いきなりラチされ、アジトへ。ヘルメット、タオルでマスク。手には鉄パイプを握った学生の群でした。

「お前の仏教の話を聞いてやるから、話して見ろ。しかし、俺たちを納得できなかったら、帰さねえ。総括する」

わたしの共産主義との出会いでした。この時、「総括」が殺すという意味ともわからず、必死に話しまくったものです。結果、いわれたのは

「お前のいっていることはキルケゴール、実存主義と変わらない。違うというなら、ここで説明して見ろ。だいたい、そんなことじゃ、革命は出来ない。共産主義というのは…」と延々と、話し出したわけです。

その当時、わたしは、マルクス・エンゲルスは、名前は知っていたものの、読んでいませんでした。キルケゴール、実存主義といわれてもなんのことかもわからないような状態でした。

「総括だな」と、そうその人が語ると、ガシャンと鉄パイプが床を突く音が響いたことをいまも思い出します。

「しかし、しかし、まだ、子どもだ。今日は勘弁してやる」

そう言って、ぽんと肩を押されて解放されたという顛末。

あの当時、「折伏」をすることは命懸けであり、天皇・神道の右翼・マルクスの左翼、その極に仏教というものがあったわけです。

そのわたしをつかまえて、「革新・左翼系」、これは藤川さんならずとも爆笑を通り超えて、話にもなりません。

あなたの記していることは半世紀前の共産暴力革命に対峙する、あなたの自己定義を借りれば「保守・右翼系」反共専守防衛論。しかし、今時、右翼の活動家でも、こんな昔の知識で語るような人々はいません。藤川さんが笑うわけです。

65犀角独歩:2005/11/22(火) 11:03:08

―64からつづく―

しかし、共産党が勢力を巻き返したら、暴力革命を行うとか、ウィキペディアの記述を見て自分の考えは間違っていなかった、極めつけは

> 「暴力革命必然論」ですよ。よくこんな主義の人たちと非暴力主義であるはずの仏教徒の方々は行動を共にされているなあ

これでは、戦前の帝国主義の洗脳教育の優等生のようなことを言っています。
どうでもいいですが、では、あなたの愛する日本政府、いや日本という国家は、そんな、あなたの頭のなかではいまでも共産主義国家である中国、また、ソ連(ロシアではないでしょう)と、なんで、国交をしているのでしょうか。あなたの言葉は、わたしを含む日本の仏教徒を批判するように見えながら、実際は日本国とその政府、またそれを容認する天皇を批判することになっていることに気付けませんか。

まして、いまや中国では仏教は盛んです。僧侶もいますし、もちろん、信者もいます。それにも拘わらず、あなたは中国を共産主義国家であるといい、

> 晴れてその実現のとき、真っ先に「粛清」されかねないのは、「宗教法人」

と言うのは、あなたが認識する一党独裁の中国では、遠い昔話です。また、日本共産党が仏教界とも友好裡に会話が成り立つのも、かつての純粋共産主義を彼らが捨てたからに他なりません。

中国でも、彼らが共産主義(政治機構でも、経済機構でも、さらに人生を連ねる主義主張と見ても)を放棄して久しい。残ったのは、人民平等を訴えて、かつての特権階級を血祭りに上げた結果、それに成り代わった、共産主義を看板にした特権階級のみです。それでも中国は自由主義、資本主義を積極的に採り入れることにより、いまでは世界の一員になってきました。一方北朝鮮は、この共産主義を実現しているように見せ、専制君主という特権階級に支配されています。しかし、あんなものは共産主義でも何でもありません。ただ、独裁者支配に過ぎないわけです。共産主義は看板に過ぎない。もはや、ここには共産主義など存在していません。そんなことは、ここに書き連ねるまでもなく、当然のことですが、しかし、あなたはは、そうは思えないらしい。これではお話になりません。

あなたの言っていることは、アナクロニズム以外の何ものでもありません。そんな認識で現代の憲法改正を語る、いや、それ以前に、国を語り、世界を語ることは不可能でしょう。もう少しちゃんとした知識を持ち合わせてのことだと思いましたが、人と議論するレベルに達していません。これは批判でも、侮辱でもなく、あなたの現実です。まずは、自分の身の丈を知ることですよ。

まして、あなたは自分を仏教徒だというが、では、あなたのいう仏教とはどんなものであるのか、記していないことを批判したなどと快気炎を上げていましたが、あなたは、この仏教についても、語るほどの知識も持ち合わせていないように見えます。

もう一々にレスをしません。あなたが記すとおり、「お互い不毛な時間を過ごすこと」にほかならないからというより、議論するレベルにないからです。
なお、わたしはあなたと意見の交換をしたとは思っていません。ある時、突然、挨拶もなしに、因縁を付けてきた相手がながながと絡んでいる、そんな印象があるだけです。

いずれにしても、先にも記しましたが、あなたの自衛隊翼賛論はよくわかりました。急ぎ入隊して、お国のために戦ってください。それもできないのでしたら、自衛隊翼賛の掲示板に行ったらどうでしょうか。以上です。

66匿名:2005/11/22(火) 11:57:34
>62

はじめまして。
今日、戦後60年、日本は大きな転換期を迎えようとしており、将来の日本の姿を決めるとても大きな選択に迫られる時が来ます。
今から私たちの住む国、日本の憲法がどうあるべきかについては、ここでしっかり考えておかなければならないと思います。それが今を生きる私たちの、次世代への日本を継承する上での大きな責任であると思っています。そのことをまじめに考えています。

私はつい、議論の流れのなかで、護憲のために投稿したと書いてしまいました。
しかし、それよりもっと大事なことは、戦争というものを考えながら憲法と向き合う、その議論を投げかけてみたかったというのが正直なところです。
私は護憲だと書きましたが、まず護憲ありきではありません。そうあってはいけないでしょう。
私の結論をこの投稿で押し付けてはいけないと思っております。

ですから、戦争を体験なさっていらっしゃるお立場からの改憲すべきだというご意見も、大変貴重であり、拝聴したいと思います。
改憲に賛成の方であれ、自衛隊関係者の方であれ、もちろん戦争被害者の方も当然、靖国問題についても、それぞれのお立場で自由に投稿できることが望ましいと思います。
掲示板は「来るものは拒まず、去るものは負わず」の精神が肝要でしょう。
護憲か改憲か、その結論を先に決めるのではなく、まずは議論を試みる。掲示板のルールにも記されているようにそのことをタブー視してはならないと思います。

67匿名:2005/11/22(火) 11:58:22
>63

>まあ強いて言うなら「社会主義的資本主義」とでも申しましょうか(爆)?

マルクスの目指した社会の姿とは、実は日本にあったなんてことを聞いたことがあります。

中国は、政治システムは共産主義で、経済のシステムは共産主義経済が破綻し、資本主義経済を導入した、ということになるでしょうか。
日本は、政治システムは民主主義で、経済のシステムは、ご指摘の通り社会主義的資本主義経済ですね。しかしこれもアメリカからの圧力で段々と完全なる資本主義経済への改革が求められてきているのではないでしょうか。

経済の市場は、政治の思惑通りにはいかないものです。そこがソ連崩壊に象徴する共産主義国家の共産主義経済の破綻ということだろうと思います。

>イデオロギーと言うのは簡単に白黒では割り切れない部分があるのです。

そうですね。
イデオロギーなどという言葉を持ち出してしまいましたが、民主主義国家における政治では、共産主義であっても政党をつくることが許され、意見が述べられる、(憲法第二十一条 集会・結社・表現の自由、通信の秘密)で、その自由が認められているわけで、民主主義国家は共産主義を排除するものではない。事実、政党として存在しているわけです。
しかし、共産主義国家になった場合は、必ずしもそうとはならない。他のイデオロギーが否定・排除されてしまう。その違いがあるでしょうか。しかし、そのあたりも、共産主義のなかで変わりつつあるのかもしれません。
そのようなことをご存知であれば、どなたでも補足して頂ければ幸いです。

68匿名:2005/11/22(火) 11:58:46
>64
>65

参考にさせていただきます。

>あなたのいう仏教とはどんなものであるのか、記していないことを批判したなどと快気炎を上げていましたが、あなたは、この仏教についても、語るほどの知識も持ち合わせていないように見えます。

これは、稚拙な表現になるかもしれませんが、追々、投稿していくつもりです。

69犀角独歩:2005/11/22(火) 13:20:38

片瀬江ノ島氏

あなたは以前も投稿したことがありましたか。

> 平和ボケ戦士もどきが狭いカテゴリーの中で、身勝手な自己主義に垣間見る理想郷。抱く現実は、貴方の言う通り「甘い」

「平和ボケ戦士もどき」とは、わたしのことですか。無礼でしょう。

「甘い」というのは、憲法を改正して軍隊を増強すれば、世界治安維持に貢献でき、英霊に報いるなどという妄想、幻想を言うのです。
そんなことをしても世界の治安に役立つわけもなく、まして英霊は報いることになりません。

70犀角独歩:2005/11/22(火) 13:23:05

藤川さんが、言いたいことは、もはや世界は○○主義などという杓子定規でカテゴライズする時代は、とおに終わっていると言うことでしょう。
賛成ですね。

71片瀬江ノ島:2005/11/22(火) 18:51:36
匿名さん
>66
賛同いたします。私が一番に考えるのは戦地で今尚任務に着いている自衛隊諸
君が一体どれほどの攻撃権限があるのかに、憲法の限界を感じます。
情勢が安静と言われるサマワに派遣されようが、イラク全土は戦地と言っても
はや誰もが認知せざるを得ない事でしょう。夜の夜中の寝床に至近弾で打ち込
まれる迫撃砲や昼夜問わない自爆テロによる無差別攻撃に身を置く彼らの権利
は、お聞きしたいのはどの程度攻撃の指揮権を持っているのか。
また今後イラク以上に危険な任務が待っているかもしれない国際貢献に際し日
本も時代情勢から考えると無視は出来ますまい。私の息子や孫が行かなければ
ならない情勢ももしかしたら来るのかも知れない。送る側としてはその本人た
ちの尊厳をどう考えるのか。ざっくばらんで結構ですからあなたにお聞きした
い。よろしくお願いいたします。

73犀角独歩:2005/11/23(水) 17:06:55
TBS 戦後60年特別企画 ヒロシマを観た。
http://www.tbs.co.jp/sengo60sp/

日本を訪れたハロルド・アグニューが、被爆者2人の涙の訴えに拘わらず、「わたしは謝らない」との一言がすべてを語っていたように思う。

アグニューは原爆記念碑の前で言った、「核廃絶はできない。誰かがずるをするから…」

原爆は当初ドイツに対する“防衛”のために開発された。しかし、その防衛の道具は攻撃の道具として使用された。そして、60年、世界には当時の原爆とは比較にならない3万発の核爆弾が保有され、その拡散はテロリストに及んでいる…。

74犀角独歩:2005/11/24(木) 00:22:22

アグニューの発言を通じて、わたしがしっかりとわかったことは、一般市民が「被害」と感じていることは、軍人、政治家、科学者は「成果」「威力」と感じしていると言うことでした。

被爆者が「わたしたち、被爆者は、こんな被害に遭った」と語るとき、アグニューは「原爆にはこんな威力が発揮できたとほくそ笑んでいました」

戦争、軍備は、このように人間を狂わせることを、この人間の気味の悪いせせら笑いを通じて、わたしは学びました。

75犀角独歩:2005/11/24(木) 00:30:41

もう一点、アグニューに抗議した被爆者は、当時8歳の少年、17歳の少女でした。被爆で両親も失いました。そう本人にも切々と訴えたのです。そんな事実がありながら、このアグニューは、「罪もない一般市民はいない。戦争をやっている国の人間は、みな罪がある」「文句があるなら日本軍に言え。パールハーバーを忘れない」と言い切りました。

また、原爆投下を決定する要因に日本人が黄色人種であることが決定的な要素になっていたことが当時の関係者の発言から明らかになっています。
つまり、人種差別です。

この点は、いまのイラク問題でも何ら変わっていません。あの国が有色人種であるから、アメリカには何の躊躇いもないのでしょう。故に劣化ウラン弾を平気で使うのでしょう。おまけに日本もイラクもキリスト教徒ではない異教徒、彼らにとって、何の躊躇もないということが、この原爆投下の精神的な背景にあることがはっきりとわかりました。

76匿名:2005/11/24(木) 00:39:27


>71

的外れなお答えであったら、申し訳ありません。
自衛のための攻撃についてのマニュアルとでもいうのでしょうか、いわば反撃の規制ですね、大変細かく規定されているとのことは存じております。その詳細については、私は知り得ていなくて、これはテレビなどマスコミで一部公表されていたのを観た限りです。しかし私は、それを観たとき、大変愕然といたしました。ご存知のことと思いますが、ものすごく規定が細かかった。
相手からの攻撃は、一瞬の出来事ですので、その一瞬に、膨大細かなマニュアルに違反しないようにと、あれこれ考えている間に、恐らくきっと、やられてしまうことでしょう。そう思いました。
そのような中で、派遣されていく自衛隊員の心中がいかに複雑なものであるかは、ほとんどの国民には理解されていませんでしょう。ご懸念、拝察いたします。

米軍は、イラク戦争で、2000人もの兵士が死んでいると聞きます。日本の自衛隊員が1人の死者も出さずいることは、本当に奇跡だと思います。このままでは、海外に赴く、自衛隊員自身の人権が、現行憲法では保障されていないということになるということ、なるほど、その視点について、私にはいささか欠けていたかもしれません。

レスさせていただくまでの間、種々、考えてみました。
現行憲法のもとでは、自国において自衛のために攻撃する。これは当然の権利で、とやかく言われないでしょうけれど、海外ではそうはいきません。一方、自民党の改正案ながら、自衛軍になった場合、これは海外における攻撃は、自衛の為という範疇に留まらず、恐らく可能になるわけですね。この点が、一番、憲法改正の分岐点だと思います。日本の自衛軍が海外での攻撃が出来るようになるということ。

片瀬江ノ島さんは、ご子息やお孫さんが、もしかして自衛隊におられるのかもしれませんが、近いお身内に関係者がおられる方々は、ごく当たり前に国防について、これは国家とし当前のこととして自然に理解されているものかと思います。ところが近親者などに、そのような立場の方がいない場合、それはほとんどわからないものなんですね。まさに、私がそうでしたから。
この点について、つくづく最近、考えました。どうしてなんだろうと。
それは、もしかしたら、教育に原因があるのではないだろうかと思うのです。
私は、ほとんど国公立の学校で教育を受けてきました。
今にして思うと、やはり、どうしても日教組・高教組の影響を多分に受けてきたと思うのです。
そこに、国家における自衛隊という存在について考える機会が得られなかったとでもいいますか、そういったことを知り得る機会がほとんどないまま、「自衛隊反対」になってしまう。そういうことがいえるのではないかと思うのです。これは的外れなお答えかもしれません。

スイスの例をもってしても、仮に自衛隊を否定していけば、やがて国民皆兵に成らざるを得ないということでもあることに気がつきましたが、そんなことも考えないところで、ただ「反対」しているものだと思います。
私は、それではいけないと思うようになりました。自分の国の防衛問題は、自分の問題として考えなければならないと思います。
ただ、憲法を改正してまで、自衛隊に海外に行ってほしいとは、今のところ私は思いません。
だけど、致し方なく行かざるを得ない状況の中で、自衛のために攻撃もやむを得ないという現実は、誰よりも送り出す国民が理解しなければいけない点ではないかと思います。

>今後イラク以上に危険な任務が待っているかもしれない国際貢献に際し日本も時代情勢から考えると無視は出来ますまい。

本当は行かないに越したことはない。憲法を理由にアメリカに納得してもらいたいのがやまやま、と言うのが私の見解です。
私は安直ながら、憲法をいじるのではなく、しかるべき法律で補えられればそれに越したことはないと思っておりました。
しかし、そんなに簡単なことではないということなのかもしれませんね。確かにそういう現実があること、理解いたします。

77犀角独歩:2005/11/24(木) 00:50:13

管理者さん

お尋ねしますが一個人に対して「犀角氏…いかにも傷を負ったかのような平和ボケ戦士もどき」と侮蔑することは、この掲示板では、「一方的な個人攻撃」には当たらないのでしょうか。

62の削除を求めます。

78管理者:2005/11/24(木) 06:17:43

犀角独歩さん

>62の削除を求めます。

ルールに抵触しているか、スレスレか、微妙なレスであると考えます。表現は、確かに個人名を出していますが、「攻撃」とまでは言えないように思いますが、如何でしょうか。

79犀角独歩:2005/11/24(木) 07:12:53

攻撃ではないにせよ、わたしは戦士でもなければ、もどきでもありません。
このような不適切な表現をされる筋合いはないということです。

80犀角独歩:2005/11/24(木) 07:16:05

禁止事項、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止」にも該当しないと言うお考えでしょうか。

81管理者:2005/11/24(木) 07:59:42

犀角独歩さん

そうですね、文脈から名指しと取れますので、「平和ボケ戦士もどき」との表現は『禁止事項「非礼・無礼」の侮辱表現』に該当しています。削除対象ですね。

82管理者:2005/11/24(木) 08:02:05

62レスは禁止事項に該当していますので、削除させていただきます。

投稿に当たっては、当掲示板の投稿ルールに従って下さるようお願いいたします。

83犀角独歩:2005/11/24(木) 09:06:13

管理者さん、有り難うございました。

84犀角独歩:2005/11/24(木) 09:06:51

不殺生戒というのは「人を殺すなかれ」という範疇に留まる戒ではありません。生きとして生きる一切(一切衆生)を殺すなかれという戒です。

ですから、初期の釈迦教団において、出家が三つ持つことが許された袈裟・鉄鉢・濾水嚢の‘濾水嚢’とは、水を飲む際に水に棲む小さな生物を一緒に呑み込み、殺してしまわないためのものであったのでしょう。

不殺生戒の最大の影響は宗教典礼のなかから人身御供、生け贄という風習を廃れさせたことであり、また、社会一般に対して、殺すことを罪悪視するという観念を人類に植え付けたことにあったのでしょう。

仏教徒として、戦争を語るとは、不殺生戒の視点から、その行為が罪悪であることは明確にするところにあるのだろうわたしは考えます。

憲法改正を含む軍隊肯定論は、このような何が罪であるのかという感覚を麻痺させる副次的な悪影響がある点を見落としてはならないと思います。

ここでも、すでに始まっていますが、自衛隊(軍人)を特別視する賛美は、やがて、軍部を頂点にする軍事政権へ移行する危機を孕んでいます。

昨日、TBSで報道された特別企画「戦後60年ヒロシマ」を観ました。
このなかで、原爆が当初、防衛兵器として、予算計上され開発されたという点が重要であると思えました。防衛の相手はドイツでした。しかし、ドイツは降伏します。しかし、その開発は中止されませんでした。防衛の武器であった原爆は、やがて、日本を無条件降伏させる攻撃武器という名目によって、その開発は続行されます。ところが日本は無条件降伏を決め、その取りなしをソ連に委ねるという完全に相手を間違えた選択をします。平和使節として選んだ当のソ連は8月15日日本進撃を決め、そのアメリカに密談を伝えた。トルーマンは、ポツダムに向かう戦場で、日本がソ連に送った戦争終結モールス信号を傍受した報告を受けた。ここで、天皇制を保護することを約すれば、日本は無条件降伏し、戦争はそこで終わらせることができた。トルーマンが原爆実験成功の報告を聞いたのはまさにポツダムであった。しかし、アメリカは、戦後、世界にその威信を示すために、何より、対ソ連を威嚇するために、日本に原爆を落としてしまうわけです。軍部の一人は、原爆は落とさなければならなかったのではなく、落としたかったのだと語ったところに戦争に絡む人間心理の錯綜がもっとも端的に現れていたと思えました。

この特集は、原爆開発に直接関与し、エノラ・ゲイに乗り込み、そして、ヒロシマのキノコ雲を撮影した張本人アグニューが来日、広島を訪れ、被爆当時8歳であった‘少年’、17歳であった‘少女’と対談したところで終わっています。この2人は必死になって、自分達が受けた苦悩と広島の惨状を訴えます。しかし、その言葉は決して伝わりませんでした。惨状を訴えれば訴えるほど、この科学者は、自分が開発した武器が優秀で十分な威力を発揮したかを確認したのに過ぎなかった。つまり、市民が感じる惨状がひどければひどいほど、その武器、軍事行動が「威力があった」と思いを募らせるというまったく逆の心理となっている構造がそこにはっきりと現れていました。「惨状」が「威力」に翻訳されてしまうわけです。

85犀角独歩:2005/11/24(木) 09:09:55

―84からつづく―


「謝って欲しい。被爆し、殺されたすべての人達のために謝って欲しい」、2人は嘆願します。もし一言でも謝罪の言葉が、開発・投下・撮影した張本人から聞ければ、この2人の60年の苦悩は癒されたのだと思いました。ただ、癒されたかったのだとも思えました。しかし、この科学者は「わたしは謝らない」と何度となく、繰り返しました。「文句があれば日本軍へ言え。我々は「パールハーバーを忘れない」とまで言いました。

エノラ・ゲイの機長もそうでしたが、彼らは国家の命令を忠実に守った英雄であるというまったく被爆者が感じる人間像とは正反対の自画像を形成しています。彼らが謝るはずはないわけです。この軍に関与した経験のある人間の精神構造と実際に戦争被害に遭った一般市民の間にある大きな溝が、わたしはいま、ここでの議論でも同じようにあると思えます。

アグニューは「よく「罪もない市民が殺された」というが、戦争をしている国で、罪のない人間などいない」と広島の地でこの男は語りました。原爆投下を指示していったアメリカ人の間には色濃い人種偏見がそこにありました。いまのイラクもそうですが、彼らは常に有色人種に向けて原爆を使い、劣化ウラン弾という放射能被害のある武器を使ってきたわけです。有色人種、罪ある一般市民という感覚へのエスカレート、惨状を威力ととらえる感覚は原爆投下を肯定し、世界最大の悪魔を、その国最高の英雄へと祭り上げてしまう倒錯した人間心理もここにありました。たぶん、熱烈なアメリカの愛国者からすればトルーマンも、ティベッツも、そして、このアグニューも、もっとも平和と国を愛した英雄なのでしょう。しかし、日本人は、なにより、被爆した方々がこれら人間を、悪魔と思っても英雄と思うことはないでしょう。

不殺生戒を考えるということは、このまったく価値を正反対に見る会話なのだとという点を、わたしは考えているわけです。

ここのところの議論は、要は自衛隊(員)、軍(人)への、わたしの罪悪視に対する発言に対する過剰反応が、結局のところ、その根底にあるのでしょう。わたしは朝鮮半島、中国の日本の戦争被害者の声を聞いてきた経験から、日本の軍隊に対して、彼らがどんな思いを懐くかをある程度、客観的にわかります。彼らにとって、日本の自衛隊は、結局のところ、原爆を投下した機長・ティベッツへの我々の視線と何ら違わないと言うことです。自衛隊員が最も平和を愛する人々だとは彼らは思わない。かつて自分の国土を陵辱し、身内を殺した殺人者の延長戦としてしか、映じないでしょう。しかし、軍経験は英雄へと、転訛されるまったく正反対の心理構造の反比例がここにあります。

不殺生にを‘借りて’平和を訴える人は、まったく正反対になる決して相容れない二つの精神構造を熟知したところから考えています。しかし、自衛隊肯定者3人の発言を見る限り、これら軍人を英雄視するというまったく逆の心理構造から意見を発しているのだと思います。ここで起きることは、反対者への怒りと侮辱です。英雄崇拝は、その栄誉を貶すことを許さないという崇拝者によって護られ、反面、護ることによって弱者を陵辱している構造には気付けない社会構造を形成していきます。この点は戦争肯定がもたらす群集心理なのであろうと思います。この点は、しかし、E・フロムによってドイツ・ナチスの心理分析『自由からの逃走』(東京創元社)に詳しく、また、S・ミルグラムの『服従の心理』(河出書房新社)に詳しいわけです。

自衛(軍)隊経験者とその崇拝者という関係は、実のところ、カリスマ崇拝と群集心理と同一の心理構造によって支えられているという点は、わたしは看過できないわけです。しかし、残念ながら、ここで分析されるような心理下にある人々は決して自分を客観的に見ることはできない。できないどころか、常にエスカレートしていくポテンシャルが働いているということも、分析者達は知っているわけです。まあ、長くなりますので、続きは追って記すことにします。

86匿名:2005/11/24(木) 09:26:52
>しかし、自衛隊肯定者3人の発言を見る限り、これら軍人を英雄視するというまったく逆の心理構造から意見を発しているのだと思います。ここで起きることは、反対者への怒りと侮辱です。

私は、英雄視しているわけではないのです。反対者への怒りと侮辱というつもりもありません。
ただ、視点が違うことを書いてみたかった。

国家を考えたとき、自衛隊の存在は否定はできないだろうということです。
仏教徒としてそれを考えてはいけない。考えること、それ自体が既に「不殺生戒」を犯すことになるというのであれば、では、どのようにして国家の安全保障を守るのか。仏教徒としての国家論はいかにあるべきか、その理想郷の具体策が、教義から描かれているのであれば、それを伺いたいのです。
その質問をしてきたつもりです。
その前提として、自衛隊の存在について、書いてきたのです。

大変、大きなテーマですから。この質問は急ぎいただく必要はありません。もちろん、強要でもありません。

87匿名:2005/11/24(木) 10:11:34
>昨日、TBSで報道された特別企画「戦後60年ヒロシマ」

再放送されていたのですね。
私は、去年だったと思いますが、観ました。
最後のエノラ・ゲイの機長の言葉は、私もよく覚えています。
非戦闘員を攻撃してはならないのは、国際法で定められたことですが、アメリカはそれを違反して日本に勝った。
貴重の言葉は、これが戦争の現実なんだと思い知りました。
だからこそ、戦争を回避しなければならないと、心から思い願います。

88匿名:2005/11/24(木) 10:12:41
>87 訂正

誤)貴重の言葉は
正)機長の言葉は

89犀角独歩:2005/11/24(木) 10:45:11

> 87

多分、あなたがご覧になったのは違う番組でしょう。
わたしが挙げたものは、本年8月5日の放映されたものの再放送です。
http://www.tbs.co.jp/sengo60sp/

90匿名:2005/11/24(木) 11:00:15
>89

今年だったんですね。もう随分前に御田うな気がしていました。
でも、その番組です。観ました。最後は、原爆公園でしょうかベそこのンチで被害者の女性と機長が会話を交わしていました。そうではありませんか。

去年観たのは、NHKで放映されたものです。いや、これも今年だったかもしれません。
広島原爆投下直後から復興されていく市街地の様子を、米軍が航空写真で撮っていたのですが、それを、最新技術のデジタル処理で、大変細かく状況がわかったという番組でした。

原爆投下直後から、ものすごい勢いで復興がはじめられていたんでね。
それはなぜかというと、広島市民の大半は「負けてたまるか」という思いがものすごく強かったそうです。
映像には、生き残ったひとりの男性が、ぼろぼろになった大きな布に、「復興」と大きく書いてのぼりとして掲げている姿が、映像から確認できているんですね。これはアメリカ軍に向けてのメッセージだったんですね。
その人は今も生きていらして、当時の気持ちを語っておられました。
「やりやがったな。こんなことくらいで負けてたまるか」
そういう思いだったとのこと。
ちょっとびっくりしました。
今の時代の私たちの感覚で、当時の人の思いを想像すると、少し違う部分もあるような気がするんですね。

91匿名:2005/11/24(木) 11:01:21
>90 訂正

誤)もう随分前に御田うな気がしていました。
正)もう随分前に観たような気がしていました。

92匿名:2005/11/24(木) 11:02:47
>90 訂正 

誤)ベそこのンチで
正)そこのベンチで

93犀角独歩:2005/11/24(木) 11:07:21

> 女性と機長が会話

設定は似ているのですが、会話を交わしていたのは、アグニューという科学者と、被爆者の男性1人、女性1人でした。

94犀角独歩:2005/11/24(木) 11:12:30

> 英雄視しているわけではないのです。反対者への怒りと侮辱というつもりもありません。

では、あなたに限り、字句通り、承っておきましょう。
しかし、武器を握る軍人・軍隊と丸腰の市民ではそこに決定的な力関係の相違があります。この官・軍:民をあなたは同一視点から論じているように感じたわけですが、わたしはここには決定的なヒエラルキーがある点から批判している違いがあります。

> ただ、視点が違うことを書いてみたかった。

わたしの視点からすれば、84、85に書いた如くです。
まさに視点が違います。

> 国家を考えたとき、自衛隊の存在は否定はできない

できないでしょうね。
しかし、これは国民という自分が納得せざるを得ないのですが、仏教徒いう自分は受け入れられないダブルバインドがあります。

> 仏教徒としてそれを考えてはいけない。考えること、それ自体が既に「不殺生戒」を犯すことになる

考えてはいけないというより、むしろ、この点は良心的兵役拒否といった範疇に入る個人的な観点ではないでしょうか。

元来仏教は全体主義ではありません。国家全体を考えるようにはできていません。各人が各人の修行によって、平安を得、欲望を滅していく方途を考える個人に帰される教えです。しかし、中国における仏教受容は、ここに涅槃経、その他鎮護国家経典の存在価値を求めたわけです。ここで政教(王仏)は一致が計られたわけです。「殺」の肯定が仏教世界に持ち込まれました。国家正法護持のための「殺」は肯定されるにいたります。日蓮はこの系譜を引いています。そのために先の大戦では、戦争翼賛の肯定理論となったわけです。日蓮の家から出た一人として、わたしはこの過ちを繰り返す如何なる言説・行動も賛成できません。何故ならば、この戦争は数百万の被害者を出し、何ら保障すらなかったからです。せいぜい、保障されたのは軍人とその遺族ばかりでしょう。しかし、真の被害者に対しては、日蓮仏教関係者も、何より国家も何らそれに報いることはなかったからです。国家は国民に多大な被害を与えた当事者であった。それを支えた原理の一つに日蓮があったという現実を直視し、その過ちを2度と繰り返さないよう歴史的教訓としたいからです。

> 国家の安全保障を守るのか

これは、仏教の問題ではなく、国政の問題ではないでしょうか。

> 仏教徒としての国家論はいかにあるべきか

先に記したとおり、日蓮主義の罪科を考えるとき、わたしはこの主義者として、矜持があれば、この問題には触れられないという選択をせざるを得ないという思いがあります。故に西山茂師が本化のお立場から、「丸腰平和論」を言う気持ちはわかります。

仏教徒にある国家論とは非暴力、不殺生、不戦ということです。
仏教は国政実務ではありません。日本には国教はありません。故にこの問題を「仏教徒として」という枠組みで質問をすることは、はじめの一歩で躓いていると、わたしには思えます。

ただし、仏教徒も国民です。ですから、その国民という立場から考えるという二重性を実は日本という‘装置’は強いている結果の質問と言うことになるでしょう。

たとえば仏教徒というのを図式化すれば

仏の教え―<信仰者としての自分:国民としての自分>―政治―国家

という中間点に立っています。日蓮で言えば、日蓮仏教を原理主義的にとらえれば、この一切を一つのものにくるみ込み、政教一致、王仏冥合、富士門流でいえば、国立戒壇とやることになります。しかし、ここに大きなダブルバインドがあるわけです。純粋に「日蓮の教え」に基づこうとすれば、戦前の日蓮主義のようにならざるを得ない。また、富士門下的原理主義となれば、顕正会のように憲法改正・日蓮正宗国教・国立戒壇建立と言わなければならない。しかし、これは国家・国民の立場からすれば、両方ともNGです。

95犀角独歩:2005/11/24(木) 11:12:56

―95からつづく―

つまり、いまの日本という装置自体があなたの質問に、仏教徒、とりわけ日蓮仏教徒の答を門前払いしている構造があると言うことです。門前払いされていればこそ、かつての創価学会が、いまの顕正会が憲法改正で国教化を主張した所以があります。しかし、これに国も国民も賛同はしない歴史的経緯があります。

> その理想郷の具体策が、教義から描かれている

先に一字三礼さんも記されていましたが、一つ仏教と言っても多種多様でしょう。この質問はあまりにも漠然としています。

釈迦の教説と思われるもののなかで、該当する答はないでしょう。国家という家から出たところに、その教説があるからです。その極にある密教であれば、霊的国防論ということになるのでしょう。平安仏教と天皇の関係です。渡部昇一が仏教オカルティズムと批判した構造です。しかし、日蓮もその幻想を引きずっていたわけです。まず、この自浄作業が戦後60年の宿題として日蓮門下には課せられています。しかし、その答えすら出ていない現実があります。

ですから、ここ富士門流信徒の掲示板で「戦争を考える」というとき、以上のような議題とならざるを得ないわけです。

わたしは個人的には、憲法、自衛隊共に現状維持。国家独立、自主軍隊によるという幻想を捨て、あなたが例に引いたようにガンジーの糸紡ぎ、エネルギーに始まる自給自足をどのように確立していくかを‘政治’として考えていくことが先決であると思います。その民意が戦争賛成、暴力肯定ではなく、不戦・非暴力・不殺生であるという心の部分で担う範囲しか、実は、(国民であることをさっ引いた意味での)仏教徒には許されていないのが日本という国家だという現実を変える方法があるのか? 残念ながら、現時点ではないというしかありません。では、それでも仏教徒というとき、何が残り、許されるのか、それは、何から考え出すのかという観点の提供以上のものはないと思えます。何から考え出すかとはつまり、不殺生です。しかし、日本の仏教界は不戦、不殺生は言っても、ガンジーが言ったもう一枚の札を言いません。その一枚とは「不服従」という札です。アメリカに対する不服従。それは違背ではなく、言葉を換えれば真の独立の獲得ということでしょう。そのためには、あなたのというとおり、日本は自給自足を確立しなければならないでしょう。

また、昨日のヒロシマでも伝えていましたが、現在、核兵器は全世界30万発。たぶん、ソ連崩壊に関連するのでしょうが、テロリストに流出していることが最大の危機となってきているわけです。また、北朝鮮の核の問題もあります。もっと言えば、アメリカでは大統領がボタンを押せば、ミサイルは飛ぶという倒錯した民主主義の構造があります。65%のアメリカ人は近い将来、核戦争で世界を滅びると考えているということです。わたしは、この65%というパーセンテージは民意に基づく大統領の意志であれば、世界最終戦争の可能性を示す確率とほぼ一笑ではないのかと憂慮もしています。

日本の国防問題どころか、世界は30万発の核、もっとも危険な原子力発電、さらにその延長にある劣化ウラン弾という核の脅威によって地球と全生物を巻き込んでの絶滅の危機に瀕しています。

このような世界情勢のなかで日本が奇跡の不戦60年を歩めた‘実績’から、わたしは考えようといっているわけです。憲法改正、軍備増強、自衛から攻撃へという観点から今後の日本を考えることが、本当に国家安全保障なのか、そうではなく、この奇跡を可能にした実績を分析し敷衍するべきではないのかという選択肢です。しかし、これは仏教徒が何ができるという範囲の話ではありません。できることは、その理念までで、中間が抜け、その後の参画です。

日本の(国民であることをさっ引いた意味での)仏教徒は、以上のような状況から、理不殺生、非暴力、不戦という念として、それを主張する以上の政治的干渉は、実際、問題できない窮地にもあるということです。唯一、日蓮の名の下に国政に関与しているのは創価学会でしょうが、しかし、ここでも公明党は日蓮政党ではありません。昭和45年以降、日蓮の教えから離れ、党として、(日蓮・創価学会路線とは)別に、政治の側面から歩んでいるのでしょう。しかし、創価学会は宗教的に不寛容で、他宗派を認めませんし、また、他宗派も、過去50年の経緯から現時点で、歩みを共にすることは有り得ません。ただ、この公明党問題について言えば、日本がアメリカの属国になっているように、公明党が自民党の一派閥のようになってしまった以上、「仏教徒」という観点に収まるのかどうか、悩ましい問題となっているわけです。

以上、先ず、問題を整理しました。

96犀角独歩:2005/11/24(木) 11:16:27

【95の訂正】

誤)確率とほぼ一笑
正)確率とほぼ一緒

97匿名:2005/11/25(金) 01:07:27
>しかし、武器を握る軍人・軍隊と丸腰の市民ではそこに決定的な力関係の相違があります。この官・軍:民をあなたは同一視点から論じているように感じたわけですが、わたしはここには決定的なヒエラルキーがある点から批判している違いがあります。

これはお互いの受け止め方に、大きな相違があることに気付きました。
ヒエラルキーですか。うーん。
となると逆に、どうなれば理想的であると考えるのでしょう…という、どうしてもあなたの国家論をお聞きすることになるのですが。

まあ、ただ、犀角独歩さんの場合はご一族の流れというものが、横たわっていて、それがヒエラルキー批判という意識に向けてしまうのではないでしょうか。
個人的なことに立ち入って申し訳ないですが。世が世なら、統治する側の人間だったわけですから、「武器を握る軍人・軍隊と丸腰の市民ではそこに決定的な力関係の相違」というものを否応なしに意識してしまう。
ところが私の場合は、そのような意識には至りようがない。先にイデオロギー云々、これは私の行き過ぎた書き込みでしたが、それ以前に、国家に対する意識の違いというのがあるように思いました。

>仏教徒いう自分は受け入れられないダブルバインドがあります。

仏教徒に自衛隊をどう思うかという質問、また自衛隊員にあなたは仏教徒かという質問。これらは、いずれも不問にしておかなければならないことかもしれないと、ふとこの度の投稿で思いました。

>この点は良心的兵役拒否といった範疇に入る個人的な観点ではないでしょうか。

もう一点、お聞きしたい。スイスの例からいうと、仮に自衛隊のような職業軍人を少なくしていくとなれば、逆に国民皆兵の必要に迫られるという点、これはいかがお考えですか。

>元来仏教は全体主義ではありません。国家全体を考えるようにはできていません。各人が各人の修行によって、平安を得、欲望を滅していく方途を考える個人に帰される教えです。

私は、この姿はこれで、大変な存在感をもつものだと思います。
国家に物申すわけではない、兵士についても触れず、その代わり、どのような世間になろうとも、たとえ戦火に巻き込まれようとも、批判するでもなく、怒ることもなく、動じず、常に心の平静を保ち、自分の道を極めていく。この存在そのものが、力を持つものだと思います。「力」などという言葉は不適切かもしれませんが。
しかし、現代ではとてもそのようなことはかなわないでしょう。もし、このような仏教徒としての立場に自分を近づけるとすれば、国家に対しては黙して語らずという姿勢を守り貫くということになるでしょうか。

>この戦争は数百万の被害者を出し、何ら保障すらなかったからです。せいぜい、保障されたのは軍人とその遺族ばかりでしょう。国家は国民に多大な被害を与えた当事者であった。

この点は、ご返信ではなしに、別で投稿します。

>> 国家の安全保障を守るのか
>これは、仏教の問題ではなく、国政の問題ではないでしょうか。

ここは、私の考えとは大きく違います。
私は、国家という存在を、自分という個人と、切り離した存在のようには考えません。
国家の母体は、民族であり、国家の構成員は国民ですから、国家の構成員としての国民個人の視点から、国家のことを考えたいと思っています。私は、自分の生まれた日本がやはり好きですし、後世の人に責任をもって継承したいという、そのようなところから、国家がどうあるべきかという意識を一国民として心がけております。それを自分の信仰に引き寄せて考えてもいます。

98匿名:2005/11/25(金) 01:09:55
>仏教徒にある国家論とは非暴力、不殺生、不戦ということです。
仏教は国政実務ではありません。日本には国教はありません。故にこの問題を「仏教徒として」という枠組みで質問をすることは、はじめの一歩で躓いていると、わたしには思えます。

先ほどは、お釈迦さまの出家を極める仏教としての、国家との関係に触れました。
その後の大乗仏教の流れを受けて、鎌倉時代の日蓮聖人に至ると、国家に物申さぬ仏教から、国家に物申す仏教になる。
私は多くの御書や経文を読破しているわけではありませんが、国家に物申す姿勢の日蓮聖人は、なぜか心に響きます。
しかし、国家に物申す以上は、物申すだけの国家論をしっかり描いておかなければならない。私は、そう思います。
日蓮聖人に見習う点は、そこではないかと思うのです。
鎌倉時代を生きる日蓮聖人の国家論は、「政教一致、王仏冥合、富士門流でいえば、国立戒壇」ということになるのでしょうけれど、しかし、今は日蓮聖人が生きた時代とは違い、近代ですから、「政教一致、王仏冥合、富士門流でいえば、国立戒壇」これは思い切って捨て去るべきものだと思います。
もちろん、信仰の観念として、その理想郷を内心に描く、それを否定するものではありません。
しかしながら、たとえば「戦争を反対する」これは、国家に物申す立派な政治的発言ですから、それなりの国家論を描いておかなければならないと、私は思います。それこそ、ガンジーの糸紡ぎまで考え、実践する、そういうことが求められるのではないでしょうか。

>いまの日本という装置自体があなたの質問に、仏教徒、とりわけ日蓮仏教徒の答を門前払いしている構造があると言うことです。

この点は、よくわからない。もう少し解説していただけますか。

>一字三礼さんも記されていましたが、一つ仏教と言っても多種多様でしょう。この質問はあまりにも漠然としています。

確かにそうです。これは、私が個人の信仰を聞かれたように、「あなたにとっては」という意味を暗に含めたものでした。言葉が足りませんでしたが、あまり個人の内心のことを質問するのは、私の信条に合わないものなので、そんな文章になりました。

>その民意が戦争賛成、暴力肯定ではなく、不戦・非暴力・不殺生であるという心の部分で担う範囲しか、実は、(国民であることをさっ引いた意味での)仏教徒には許されていないのが日本という国家だという現実を変える方法があるのか? 残念ながら、現時点ではないというしかありません。

これもよくわからない。仏教徒に許されていないことというのは、どういうことを指しているのでしょうか。

>その一枚とは「不服従」という札です。アメリカに対する不服従。それは違背ではなく、言葉を換えれば真の独立の獲得ということでしょう。そのためには、あなたのというとおり、日本は自給自足を確立しなければならないでしょう。

かつて私もアメリカ追従の日本を情けないと思ったことがありました。しかし、エネルギー問題を考えたとき、これは選択の余地なしだという結論に至りました。
しかし、日本人の産業技術力は世界に誇れるものがあります。石油に代わる環境にやさしいエネルギーの開発は着々と進んできてもいるわけです。プラスティックなどの石油製品に代わる新素材も同様です。リサイクルにしても日本は得意分野ですし、資源がないからこそ、苦肉の知恵を出す。それが日本の強みといえるでしょう。

こういう環境問題に対応したテクノロジーの支援やリサイクル運動も、ガンジーの糸紡ぎに代わる不戦運動の象徴に成り得るものではないかと思います。

99匿名:2005/11/25(金) 01:13:39

>憲法改正、軍備増強、自衛から攻撃へという観点から今後の日本を考えることが、本当に国家安全保障なのか、

国家安全保障の問題で、今日のクローズアップ現代で放送された「東シナ海 水面下の攻防」が、大変参考になりました。
軍事的内容の投稿になりまずか、私はこのことは、たとえ仏教徒であっても日本の置かれた実情として知っておくべきことだと思い、これは、最後に別投稿いたします。

>日本の(国民であることをさっ引いた意味での)仏教徒は、以上のような状況から、理不殺生、非暴力、不戦という念として、それを主張する以上の政治的干渉は、実際、問題できない窮地にもあるということです。

これはどういうことを言っているのでしょう。もう少し、解説して頂けませんか。

>日本がアメリカの属国になっているように、公明党が自民党の一派閥のようになってしまった以上、「仏教徒」という観点に収まるのかどうか、悩ましい問題となっているわけです。

私は、当面、この姿を続けていくことが望ましいと思います。日本の石油、天然ガスの備蓄量から考えてみても、これは受け入れざるを得ない。
戦前は、日英米の良好な関係が続いていたんですね。ところが、いつしか日独伊になって、追い詰められてきた。
「鬼畜米英」が、あの戦争の合言葉だったわけですが、ですから私は、今、いたずらに反米感情というものを煽らないほうがいいように思うようになりました。あなたは確か「糞食らえ」と書かれてましたが、まあ、個々の国民が適当にガス抜きで言うのはいいとしても、あなたはここの掲示板では影響力が強い、その辺りの発言は、慎重を期されたほうがよいのではないかと、拝見しておりました。

負けるが勝ちという言葉があります。まさに日本の姿だと思います。属国だっていいじゃないかというくらいの気持ちでいます。体裁上は、一応独立国家ですから。軍事大国の道を捨て、経済大国となった日本は、今やアメリカの国債を400兆円も持っています。これを逆手にとろうとした首相もいましたが、そこは利口になって気持ちを抑え、この国債をもって、対等だと思えばいいのではないでしょうか。私は、そうと思うようになりました。

ただし、中国との関係も大切です。
今回の投稿をしながらふと気が付きましたが、政治上は、どうあっても日米関係を強化せざるを得ない。しかし、仏教界こそ政治に縛られない独自の外交ができるはずですね。

私の認識とは少々違っていますが、中国で仏教が盛んになっているということであれば、それが宗教法人的なものなのか、単なる文化としての存在なのか、私はそのあたりはわかりませんが、仏教の文化交流ということで、日本の仏教界が中国との友好関係を深めることは、政治が担えない分、非常に国益にとっても大変望まれることではないかと思います。

100匿名:2005/11/25(金) 01:14:16
NHKのクローズアップ現代で放送された「東シナ海 水面下の攻防」は大変興味深かったので、放送内容に触れて、少しレスしたいと思います。

中国は、急速な近代化に伴い、日本の何十倍もの人口をもって工業化し、世界の工場とまでいわれるところにまできて、ものすごいエネルギーを必要としています。
自国に石油が出るにも関わらず、それだけでは賄いきれないところまできており、日本と中国の間に広がる東シナ海にまで、天然ガスなどの資源採掘に乗り出すなど活動を活発化させています。日本と中国の中間線ギリギリの採掘は、日本の資源まで吸い上げる可能性があり、日本は中国に共同開発を提案していますが、中国側はこれを拒否し、あくまで独自の採掘権を主張し続けています。

去年11月には、中国の原子力潜水艦による日本における領海侵犯事件が起きました。
この原子力潜水艦は、グアムの周辺まで来ていたのを、米軍が密かに追跡。その後、石垣島まできたために、海上自衛隊の哨戒機に加え護衛艦も急行して、空と海から警告を発し、最後は政府による海上警備行動まで発したという、大変な緊張がありました。
このときの海上幕僚長は「攻撃を受ける最悪の状態も想定した」ということを話していました。

中国には深刻なエネルギー問題とともに、台湾を中国に統一するという国是もあり、今や東シナ海から太平洋にかけて軍事的活動を広めてきています。
もし中国と台湾をめぐる軍事的問題が生じたときには、アメリカの空母が台湾近海にまで派遣してきて中国を牽制することが予想され、そのことを想定して中国は攻撃力の強い潜水艦でアメリカの空母をとめようと、軍事演習を頻繁に行いはじめ、さらに、資源確保に向けた海底探索も行なわれているものと考えられます。

こうした状況の中、米軍は、自衛隊への軍事的協力を一層求めてきているとのこと。

石油資源のない日本の石油タンカーは、当然、この軍事的緊張にある東シナ海を通ってきます。この海域の安全確保がなければ、石油は日本には届かないわけです。その海域の安全確保の任にあるのが、当然、日本の自衛隊の重用な責務のひとつでもあるわけです。

戦前は、石油エネルギーより石炭が主流でした。その時代、ドイツプロイセンとフランスが戦争を繰り返してきました。スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦した普仏戦争が有名ですが、その本質は石炭という資源の奪い合いです。ところが、石油の時代になると、フランスとドイツは、戦争をする必要がなくなり、今では関係がとても良くなっているのです。
生存競争における資源争奪こそ、戦争の本質だといえるかと思います。

101通りすがり:2005/11/25(金) 03:29:57
日蓮聖人の説かれる法華経を基準とした仏教は、本仏釈尊の本果が示されることによって、迷いの九界もその意義を開顕されることです。即ち、軍人も軍隊も法華経本門の信念を受持していれば、地涌菩薩として社会の理想化に寄与していることになります。仏教を信仰している人は勿論ですが、仏教を信仰していない人でも戦争を好む人は、ますいないでしょう。軍人は最も戦争を嫌う職業にありますが、皆母国の平和のために命を捨てる覚悟があります。

102犀角独歩:2005/11/25(金) 10:09:30

本日は、これから出掛けなければならず、微にいるところまでは書けないのですが、「あ、やはり、ここだろうな」と思っていた点、要点のみ記します。

あなたとわたしの考えで違うのは、仏教観ということであると思います。
あなたがお書きになる外向的選択、また、政治的判断というのは、一つの選択肢と「あり」とも思うわけです。しかし、それは仏教が担うところではないという考えがわたしにはあります。政教分離です。

あなたのような仏教のとらえ方はある面、近代日蓮信仰のなかでは多数派に属するとは思います。もう少し正確に言えば、‘戦前の’と付したほうがよいかもしれません。つまり、あなたのとらえる仏教は、ご本人の自覚とは別に、近代、田中智学師的に解釈された日蓮信仰であるということです。

戦前の日蓮主義は、やはり、田中智学氏の絶大な影響をすべての日蓮門下は受けていました。しかし戦後、日蓮門下は、この田中智学氏の影響について、口を閉ざしました。その理由は、敗戦にあります。しかし、田中氏の影響が消えたわけではなく、形を変えてそれを継承したのは、実は創価学会、もっと言えば、戸田城聖氏でした。具体的な表現で言えば、日蓮正宗国教化・国立戒壇建立という目的です。創価学会の政治進出の理由もここにあったわけです。
しかし、いったん摂取された「田中智学」は、ここでは既に「戸田城聖」となっていきました。この考えは池田大作氏に継承され、当初は日蓮正宗・国立戒壇建立を目指し、邁進したかに見えました。この時点で、大石寺の僧侶、妙信講に至るまで、絶大な影響を受けていきます。

あなたが富士門流信徒である(あった)かは存じませんが、この範疇にある人々が考える日蓮仏教というのは、実は日蓮その人の教えであるというより、(教学的には日寛で、行動的には)それを解釈した田中智学氏、その影響によって大成した戸田城聖氏のものであるということです。この反省から、過去5年間、日蓮の原形の素描することを試みてきたのがわたしの投稿です。現代のわたしは、日蓮からさらに天台、羅什という中国漢訳仏教に言及し、さらにインドにいたり、西暦前後の経典創作の現場に戻り、さらにシャキャムニその人を見つめています。

あなたの考える「日蓮信仰は田中智学的だ」というのはラベリングということではなく、まず、議論の前提となる「仏教」という点につき、各自の違いを見ておかないとならないからです。批判ではなく、少なくとも昨晩のあなたの書いた仏教観は、そのように見えるという意味と取っていただければけっこうです。

以上のような日蓮門下、というより富士門流僧俗には一連の流れがあります。この流れは「田中智学」の思想という点で、実は日蓮門下全般一つにカテゴライズできるでしょう。日本に「仏教の戦争責任」というのは、大きなテーマの一つです。このような問題をあなたはお考えになってこられたか、また、その前提で歴史的な時系列で日蓮仏教を整理したうえで「仏教」と仰っているのかはわかりませんが、わたしが仏教というのは、そのような意味であると思ってください。

103犀角独歩:2005/11/25(金) 10:11:28

―102からつづく―

文中、あなたと記したのは匿名さんのことです。
一つ前に違う投稿が入っていたのに気付きませんでした。

このような歴史的な背景で、日蓮が国体に、いまで言えば、国政に嘴を挟まれることは2度と嫌だというのは、創価学会の言論問題事件ということであったとわたしは考えています。つまり、世論、換言すれば、大多数の国民は、仏教、取り分け、日蓮主義仏教は政治と分離していて欲しいという考えがあるということです。その後、この形で政教分離を計り、修正今日に至るのが創価学会・公明党でしょう。「政教分離」ということがここ数十年、呪文のように繰り返されるのは、そのためです。

創価学会が政教一致かと言えば、わたしは違うと考えます。
ここから、やや、あなたの先のご投稿と具体的に関連します。
いま、わたしは創価・公明が政教一致とは考えないといった理由は、きわめてオーソドックスです。つまり、創価学会は戸田氏が解釈し、それを継承した池田氏によってさらにアレンジされた「日蓮」を信じ活動しています。それに対して、公明党は憲法・法律によって活動しているという相違があるからです。

あなたはわたしに対して仏教徒しての国家論、また、政治的姿勢ということを仰ったが、わたしは、この点で、答としないのは、以上のような歴史的な推移と、政教分離という原則に基づくからです。「それは政治の問題である」と記したのは、その意味です。仏教徒は仏の教えによりますが、政治は憲法・法律による。この点は混同できないということです。

あなたにとって、国法と仏法は一致するのかどうかわかりませんが、わたしにとっては、この二つはまるで違うものです。(国法は仏法、また戒より、律に近いものでしょう)しかし、自分が日本国民である間は、日本国民として、国法を遵守します。しかし、わたしという個人、信仰信条、魂(心と言ってもよいですが)の問題としては仏教によるということです。あなたが使った「内心の自由」ということです。人間個人、生物としての自分、仏教的な言い方からすれば、生きとして生きる自分という問題において、政治・国家が関与できる問題は、全体のわずかな部分に過ぎないからです。
このような点で、あなたとわたしの考えは違っているのだと思えます。

あなたは日蓮が国家に対してものを申したと仰りましたが、しかし、日蓮は政治については口を出していません。為政者の信仰、また、当時は政教一致の時世ですから、その意味から日本国の信仰という側面からものを申したのに過ぎません。ここに日蓮の矜持はあったわけです。

もう一点、官・軍:民というヒエラルキーの問題、また、国家と国民という問題でもあなたとわたしは考えが違っています。わたしは、あなたを見ていると実に、政治的な、国家的にものを考える人だという印象を懐きました。団塊世代以前の人々、自衛隊など軍事に与した経験者と話しているような印象すらあります。その意味で、いまの20代から50代の感覚とはかなり違いがあるようにも思えます。

典型的なところでは、国家と国民は未分離なものである、国民が国家を考え、国益に供し、専守防衛に当たるのも当然である、まあ、極端な整理ですが、このような印象を受けます。

わたしは、このように考えていません。わたしはわたしです。生まれて落ちて以来、ここに済んでいますが、わたしは国のものではなく、わたし自身のものです。本来、自分の生命は自分で護るものである。ところが、この国にいる間は、自分を護る武器を所持してはいけない。丸腰でいろという。その代わり、国(警察・自衛隊)が護るという。しかし、ずいぶんと不満があると言った気分です。民は国の所有物ではないという厳とした考えがわたしにはあります。

104犀角独歩:2005/11/25(金) 10:11:58

―103からつづく―


敢えて脱線しますが、わたしの朋友が、今回のあなたとわたしのやり取りを見て、笑いながら言いました。

「なんであんなことに向きになっているの。僕は日本が戦争をすると行ったら、さっさと海外に行くけどな」

わたしは、この感覚をもっと日本人は持つべきだと思っています。
民を護ることのできないような国であれば、こちらから願い下げだという感覚は、わたし独立した個人としては、あってしかるべき考えであると思うわけです。ですから、「専守防衛が国民一人ひとりの問題だ」というのは国家側の勝手な押しつけであるとも感じます。各人が自主防衛をする手段を取り上げ、丸腰で自衛しろとしておきながら(警察は役に立ちません)、今度、国が危機になったら、武器を渡すから国を守れという理屈は、わたしも納得がいきません。人々は国の所有物ではないからです。

以上のような考えは、たぶん、あなたとは、まるですぐわないでしょう。それはしかし、相手方の問題であるというより、考えの相違であるということです。国家として考える、ではなく、個人として考える、その延長に国家という‘宿場’があるということです。しかし、日本人は国土と自分を分離して考える思考が育っていません。日蓮が「国を失ひ家を滅せば何れの所に世を遁れん」という感覚は、700年を経て、自由を獲得した段階でも育たず、あなたが仰るような議論ともなってくるのでしょう。

もう一つ。わたしの大切な師の一人、行明師は、いままた、インドを戻り、現時では、世界のある場所へ移動しています。この師はいつも言います。「インドといわず、日本以外の世界では宗教者(宗教における指導的な地位にある僧侶、神父、牧師といった人々)の発言力は日本とは比較にならないほど大きいのです。わたしたちは、主義主張、政治的地位、国家、経済という一切の利害関係から抜け出たところに立っていますから、あらゆる国のキーパーソンと会話をすることができます」

実際にこの師は、世界に歩き、自然が猛威を振るった災害地へ訪れ、時には戦禍を潜り、平和を訴えに行きます。これは「民間外交」ということではありません。‘宗教者にしかできない役割’を果たしていると言うことです。ヨーロッパでも中世以来、バチカンから派遣された特使が戦禍に和平交渉をしたようなことが、実はいまでも、継続しています。ただ、日本人はこのような点に目が向いていないだけです。日本の仏教が担えない、しかし、担うべき点であるとわたしは思い、師を尊敬してます。もちろん、わたしはこの師の信者ではありません。

以上、あなたとはかなり相違したお二人をご紹介しましたが、わたしは、その他、多くの選択肢、あいは複合的な方法論というものの可能性を睨んでいるわけです。

しかしながら、少数の個人ならともかく、日本に住む人々の大多数が、国が危険になったから他国へ移住すると言うのは、もちろん現実的ではありません。現実から考える必要があります。そこで政治があるのでしょう。

「国を失ひ家を滅せば何れの所に世を遁れん。汝須らく一身之安堵を思はば先づ四表之静謐を祈るべき者歟」

という日蓮の叫びに経巻が生じる所以でしょう。ただ、間違ってはいけないのは、日蓮が、このように主張したのは、民に対してではありません。為政者にたいしてです。また、日蓮は政治改革を訴えたわけではなく、その為政者の信仰対象を突いたのです。いわば、政治的側面ではなく、心の問題への論及であったという点です。

この点でも、多分、あなたが考える日蓮と、わたしが分析する日蓮は違っているのだろうと思います。

出掛ける時間になりました。続きは、また、追って記すことといたします。

105犀角独歩:2005/11/25(金) 10:25:10

【訂正】

> 102

誤)外向的選択
正)外交的選択

> 103

誤)ここに済んでいます
正)ここに住んでいます

> 104

誤)経巻が生じる
正)共感が生じる

他にもあろうかと存じます。
ご判読いただきたく存じます。

106匿名:2005/11/26(土) 00:22:27
>102〜104

>ご本人の自覚とは別に、近代、田中智学師的に解釈された日蓮信仰であるということです。

これは残念ながら、分析が外れています。
私は、日蓮聖人を思慕してはおりますが、日蓮主義者ではありません。日蓮国教化・国立戒壇建立という目的も、私の信念にはまるでありません。ですから、私はこの時点で、日蓮門下ではないといえるでしょう。

>このような歴史的な背景で、日蓮が国体に、いまで言えば、国政に嘴を挟まれることは2度と嫌だというのは、創価学会の言論問題事件ということであったとわたしは考えています。

戦前の日蓮主義運動で戦争を煽り、本来訴えるべき戦争反対が訴えられなかった戦争責任の一端、さらに創価学会の言論問題事件。
これらによって、ある種の政治アレルギーというものがあるのはわかります。ですから、私の投稿は皆さん、恐らく引いておられるのではないか、まあ、そう思います。その程度の「空気」は私にも読めますし、だからこそ、本当は自分の内心については語りたくなかったわけです。私は、できれば淡々と「戦争」を考えながら「憲法」について投稿したかった。しかし、それはもはや許されなかったようで、ここまで書いてしまいまったということです。

>以上のような歴史的な推移と、政教分離という原則に基づくからです。「それは政治の問題である」と記したのは、その意味です。仏教徒は仏の教えによりますが、政治は憲法・法律による。この点は混同できないということです。

とすると、あなたの政治批判というのは、日蓮聖人の影響を受けてのものではないということでしょうか。
書き込みを見ていると、権力に対する批判姿勢はよく見受けられるかと思われます。この度の私の投稿のキッカケであった流れにおいては、それが炸裂していたようにさえ思いました。しかしそれは、仏教徒としての自分からの批判ではなかったということなのでしょうか。

余談ですが、そんなあなたが、顕正会の問題では、権力による取り締まりを強化させることを是と考えておられるわけですね。そのことに関して別のスレッドで「匿名」が投稿した内容は、ご記憶でしょうか。私は、あのときのあなたの一連の投稿から、宗教トラブルの解決に権力の介入を是として煽る様子は、少々危険なのではないかと思いました。
ところが、この度は逆に権力批判が強い。この矛盾というか、アンパランスというか、それが気になりました。

>あなたにとって、国法と仏法は一致するのかどうかわかりませんが、

「国法」というか、それこそ「憲法」です。
国家の最高法規である「憲法」と「仏法」は、一致とまではいいませんが、目指す理念はかなり近い。そんな捉え方をしています。

>わたしにとっては、この二つはまるで違うものです。(国法は仏法、また戒より、律に近いものでしょう)しかし、自分が日本国民である間は、日本国民として、国法を遵守します。しかし、わたしという個人、信仰信条、魂(心と言ってもよいですが)の問題としては仏教によるということです。

「国法を遵守」という書き方をされていますが、そもそも「国法」が「憲法」に置き換えられると、遵守しなければならないのは、天皇、摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員、つまり「為政者側」になります。
私が、日蓮聖人への信仰の立場から、憲法に関心をもつのは、この点なのです。

>しかし、日蓮は政治については口を出していません。為政者の信仰、また、当時は政教一致の時世ですから、その意味から日本国の信仰という側面からものを申したのに過ぎません。ここに日蓮の矜持はあったわけです。

私は、国主諌暁は当時の国政批判及び政策提示と受け止めております。

107匿名:2005/11/26(土) 00:26:31
>「なんであんなことに向きになっているの。僕は日本が戦争をすると行ったら、さっさと海外に行くけどな」

戦争という非常事態において、どういうビザで海外に出られると思っているものなのでしょう。
平和な今の日本の状態で、海外に長期滞在できるのと同じようにいくとでも思っていらっしゃるのでしょうか。
戦争になろうというような状況の中では、簡単に長期滞在のビザが出るものではありません。

どこの国を想定しているかとわかりませんが、相手国が、戦争になっている国民をそうそう簡単に受け入れるものではないでしょう。
そのことについては、どう考えておられるのかわかりませんが、もし、長期滞在のビザが発給されなければ、亡命しかありません。
しかし、北朝鮮の脱北者を見てもおわかりのように、どこの国でも亡命者の受け入れは容易ではありません。場合によっては難民扱いです。難民扱いとなれば、いつ国外退去を命ぜられるかわかりません。
さらに言えば、亡命にしろ難民にしろ、長期滞在にしろ、はっきりいって、どこの国に逃げようとも、そこの国籍を持たない限りは、その国での人権は保障されません。そのことはわかっていらっしゃるのでしょうか。
コスモポリタン的思想はわからないてせもないです。しかし、それは自分の軸足としでも言える、自国が平和であればこそ可能な思想です。
しかし、先のフランスの暴動にしても、移民政策の失政があの暴動を招いているわけです。それだけ移民者は差別を受け著しく人権が害われていたかを示しているものです。いわば植民地政策のツケともいえるでしょう。
日本人が日本の国を出て、日本の国以上、もしくは同程度に人権を擁護してくれる国は、他にどこがあるというのでしょう。

現在のようなボランティア活動で海外に長期滞在する。これが出来るのは、今の日本が平和な状態だからです。もし戦争ということになったら、恐らく国外退去となるでしょう。戦前の満州引き揚げと同じです。もちろん、日本の同盟国なら受けいれてくれるでしょうけれど、その国が戦争を始めているとすれば、逃げ行く先も戦争なのです。その辺り、どう考えておられるのでしょう。

>わたしは、この感覚をもっと日本人は持つべきだと思っています。

これは、私は反対です。ビザの問題、どうお考えですか。とすると、あなたも同じ考えなのですか。

>各人が自主防衛をする手段を取り上げ、丸腰で自衛しろとしておきながら(警察は役に立ちません)、

警察は役に立ちませんという記述をみると、国内的な「治安」のことを言っているのでしょうね。

>今度、国が危機になったら、武器を渡すから国を守れという理屈は、わたしも納得がいきません。

これはスイスの例を言っているのでしょうか。あれもいや、これもだめ、ではわかりません。つまり、あなたは、どうであれば納得するのでしょう。それを示してみなければ、わからないことではないでしょうか。
私が、内心の信仰を語りたがらないように、あなたは国家のあるべき理想を語らない。そんな感じで結局噛み合わないのでしょうか。

108匿名:2005/11/26(土) 00:27:00
>個人として考える、その延長に国家という‘宿場’があるということです。

国家という「宿場」という表現は、私には馴染みませんね。

>「インドといわず、日本以外の世界では宗教者(宗教における指導的な地位にある僧侶、神父、牧師といった人々)の発言力は日本とは比較にならないほど大きいのです。わたしたちは、主義主張、政治的地位、国家、経済という一切の利害関係から抜け出たところに立っていますから、あらゆる国のキーパーソンと会話をすることができます」

私はこの言葉には、賛同します。このくらいの発言力を、発してほしいと思います。利害関係から抜け出たところ、これがまさに憲法でいうところの政教分離でもあります。しかし発言は利害関係ではありませんから、やっていただきたいですね。私としては。

>ヨーロッパでも中世以来、バチカンから派遣された特使が戦禍に和平交渉をしたようなことが、実はいまでも、継続しています。

ローマ法王は重用な政治的局面においては、必ず声明文を出してますね。私はこうしたことを、日本の仏教界でもしてほしいと思います。そうしたことは、「憲法」でいうところの「政教分離」で規制させていることではありませんから。

>「国を失ひ家を滅せば何れの所に世を遁れん。汝須らく一身之安堵を思はば先づ四表之静謐を祈るべき者歟」

ちょうど出してくださいました。私はこの一文で、政治と憲法への思いを信仰と重ねて、強くいたしました。
「立正安国論」の、この一文が最も好きです。

この一文から、日蓮聖人の「立正安国論」は、政治にものを言っていると、私は自分の信仰に引き寄せて解釈いたします。
国民(民衆)の生命・身体・財産を守る政治(まつりごと)を行いなさい。そう訴えているように思うのですが。

>ただ、間違ってはいけないのは、日蓮が、このように主張したのは、民に対してではありません。為政者にたいしてです。

そう。為政者に対して。
だから、私にとっては、それが「憲法」なんです。はっきりいえば、「立正安国論」が、「憲法」にさえ置き換えられるように思えるのです。これは私の信仰解釈として。

>また、日蓮は政治改革を訴えたわけではなく、その為政者の信仰対象を突いたのです。いわば、政治的側面ではなく、
政治改革ではないでしょう。私もそう思います。
信仰対象について云々した。これはそうだったかもしれません。ただし、これは中世の時代にこと、この点は現代に置き換える必要があるでしょう。

極めて政治的側面だと私は思っております。
なぜなら、国民の生命・身体・財産を守れと訴えているように読めたからです。

>心の問題への論及であったという点です。

心の問題というところ、為政者としての「心構え」と言い換えられませんでしょうか。

109匿名:2005/11/26(土) 01:06:54
近代憲法成立の歴史的経過

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kinndaiknnpoiseiritu.htm

以下抜粋
===========================
 王権の臣民に対する恣意(しい)的な課税と支出及び逮捕・拘禁を、議会がどうコントロールするかという深刻な対立と抗争の中にあったイギリスにおいて、1215年(建保3年=鎌倉時代の初期・3代将軍源実朝〈さねとも〉の時代)6月15日、国王(イングランド王ジョン〈即位=1199〜1216〉)は、貴族や聖職者に譲歩して普遍的な憲法の聖典を意味する大憲章=マグナカルタ(Great Charter。ラテン語 MagnaCarta=63ヵ条の法)を勅許(ちょっきょ=王の勅命による許可。王の許可)した。立憲制原理(人民の支配)の萌芽である。

そしてその12条には、国王の課税には一般評議会(議会)の同意が必要であり、かつ第39条は人身の自由と裁判に関する規定が置かれた(もとよりこの憲章の成立した背景には当時のジョン王の圧政があった)。また、第38条は、国王は、人民の自由や生命、財産を侵してはならないと規定犯している。
============================

過去、日本で制定された欽定憲法にしろ聖徳太子の十七条憲法にしろ、支配者から民への「義務と責任」の明記といった趣旨のものであるのに対して、近代憲法は、民から為政者への「権利の保障」を負わせたものです。
その精神性の歴史的はじまりが、この「マグナカルタ大憲章」ということです。
マグナカルタ制定が1215年に対し、遅れることわずか6年、日本は「承久の乱」を起こします。
憲法制定ではありませんが、マグナカルタ精神は、承久の乱と似ています。
鎌倉方の領民が汗水垂らしてせっかく開墾した土地を、朝廷が没収し、農作物にも重税をかけるという圧政からの解放、それが承久の乱だったからです。
洋の東西を隔てて、同じような動きがあったというのは因縁的です。
その承久の乱の翌年に生まれた日蓮聖人は、鎌倉の気質といえるでしょう。土地問題に絡む、今でいうところの弁護士のような役目もしているようですので。やはり権利意識が非常に強いという見方ができるのではないでしょうか。

110犀角独歩:2005/11/26(土) 01:55:53

匿名さん。
残念ですが、あなたはわたしが記したこと意味を、少しもとらえることはできなかったようですね。
どうやら、わたしは無駄なレスをしたようです。

111通りすがり:2005/11/26(土) 02:01:47
航空観閲式における総理大臣訓辞抜粋(10月30日)

「困難に遭遇したときに、どのような行動をするかによって、はじめて人間の価値が分かるといわれます。」
とても、日蓮聖人的です。現状を放棄して逃げるなんて思想は、日蓮聖人にも釈尊にも全くないでしょうね。

112犀角独歩:2005/11/26(土) 11:13:56

「立正安国論を上奏する」という言い方がされますが、これは正確ではないというのは、わたしは適宜な批判であると考えます。奏文とは天皇に提出する文書を言うからです。

日蓮の『立正安国論』は勘文です。
勘文とは、中尾師に依れば陰師(陰陽道)が執政者に上申する文書を言います。道(どう)の目的は吉凶を占うことですから、本来の勘文は、その意図に添うものでしょう。では、日蓮が陰師であったかというと、そうではなく、「天台沙門」という自覚であったことは、自称から窺えます。つまり、当時の政事の態勢で、為政者は自らが政を司ると共に吉凶占いといしての道(道教、陰陽道)・信仰としての教(調伏という実質を含む)、を、政治形態の一部としていたという点は、現在とはまるで違う点です。また、天皇は当然、国神を崇めて政(=祭:祭政一致)をここで神仏習合した形で仏教は採り入れられたのが、日本型の仏教の特色であったわけです。この延長に日蓮の『立正安国論』はあったわけです。

日蓮が『立正安国論』で

わたしが先に引用した文書を少し前から引用します。

「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで対治を加へよ…他国侵逼の難・自界叛逆の難…国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るゝが故に万民乱る…若し残る所の難悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば其の時何が為んや…国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん。
汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。就中人の世に在るや各後生を恐る。是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄に邪義の詞を崇めんや。若し執心飜らず、亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん」

ここで日蓮が悪法と言っているのは念仏のことです。
『立正安国論』の結論は

「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし」

です。すなわち、悪法(念仏)を停止(ちょうじ)し、実乗の一善(法華経)に帰依しなさい、そうしなければ、他国・自界二難が起こり、さらに死んだのちには無間地獄に堕ちるというのが日蓮の主張です。そして調伏の行は真言ではなく、天台(法華)で行わなければならない。その訳を日蓮に命ぜよという底意もあったのだろうと思います。しかし、これは日蓮が政治に関与するという意味ではありません。為政者の法華信仰と、調伏の行者としての登用を促した話でしょう。これは政治について、ものを言っているのではなく、信仰について言っているわけです。政教で言えば、教に関する進言です。

この法華経(南無妙法蓮華經)はしかし、決して、憲法、法律に言い換えられるものではありません。示しているものが違うからです。法華経が言うことを法華経典そのものへの信仰の勧めであり、それは日蓮において妙法蓮華經の五字へ信仰となります。

わたしがここで政治を語らないのは、ここが仏教の掲示板であるからです。
現代の日本の政治、社会という現場では、別段、靖国であろうと、キリスト教であろうと、念仏だろうと、法華だろうと、そんなことは問題になりません。信教は自由です。国法の定めに違反しない限り、そのようなことは問題にする必要もありません。ここで信仰を論じても始まりません。基準となるものは憲法・法律です。
政治の現場で、仏教を語ることは、クリスチャンの科学者が学界で聖書を引用して天地創造神話を話すようなものです。

113犀角独歩:2005/11/26(土) 11:14:40

―113からつづく―

ただし、国家が大量殺人の道を選ぶ(わたしの考える仏教で戦争を言い換えればこうなります)ようであれば、これに対して反対の意見を述べなければならない。人道に違反していると考えるからです。わたしの尊敬する弁護士の一人である滝本師は「悪意の殺人には限度があるが、善意の殺人には際限がない」と語りました。その善意の殺人の最たるものが「原爆」であったのでしょう。だから、彼らは謝らない。謝らないどころか彼らは「英雄」なのです。
このような倒錯した人間心理がどうして起こるのかという点から、考えるとすれば、政治と仏教は話にはなるでしょう。

しかし、何より、内心の自由を政治が侵犯する権限はありません。
また、仏教の信仰を政治から考えてしまうことは、仏教の本質を政治的に解釈してしまう脱線を起こしやすい。また、実際に起きています。

わたしは国家が悪国になれば、捨てる自由も個人にはあると考えます。
また、本来、仏教はそのような形で成立したものでもありました。しかし、日本人は、いや、もっと正確に言えば、仏教を政治と不可分と考える在り方は、その近代の起源は日蓮主義に還元します。また、そのように考えることが仏教なのだと思っている人もいるでしょう。しかし、これは仏教を歴史的、科学的に分析し、世界的に見ていけば、実に特別な‘仏教’であることがわかります。つまり、ここで、単に仏教と言われて語られているものは、実に日蓮主義的だということです。残念ながら、そのような自画像に気付けないほど、この日蓮主義が仏教だと思い込まれているということです。

その意味において、仏法が法律と同じように思われてしまったり、法華信仰を訴えた立正安国論が、政治・軍事の指南書のように思われてしまうのは、以上のように思われてしまった‘仏教’理解だからこそのことです。問題があると陳べても、「仏教とは何か」というテーマを語ることを避けてしまえば、この点が明瞭にできないということも、わたしは何度も記しました。

政治と仏教を語る、それは戦争と政治ということでもよいのですが、そこにある戦争というビジネス形態を闡明にすることは大義名分の建前論に騙されないために不可欠な点であるとわたしは考えます。しかし、このような点は、語られないわけです。ところが自衛隊、現行政治にものを申すことには、既にこの掲示板でも強い反発となって現れるという悪弊が生じています。この反発は何か、この点こそ、実は社会心理学が分析している点であるわけです。軍事という問題を語る前提として、先にも提示しましたが、最低限でも『服従の心理』『攻撃』の2冊ぐらいは読んでからとしたい。また、これら戦争・軍事に係る心理と信仰心理共通性を分析した『自由からの逃走』ぐらいは読んでいるという共通基盤がないと議論になりようがないという思いがあります。

いずれにしても、政治の‘技術的’側面を語ることは、ここの掲示板ではなく、相応の掲示板でやったほうがよろしいと思います。

なお、わたしが政府に対して批判的だというご意見がありますが、政府を批判して何が悪いという思いがわたしにはあります。また、自衛隊を批判的だという意見があります。自衛隊を批判して何が悪いという思いがわたしにはあります。何故か。それはわたしの内心の自由であり、日本には言論の自由があるからです。また、批判は「こうこうであるから、こうである」と説明するまでもなく、単に生理的に嫌いだということも含みます。わたし個人は、なんら報道管制される筋合いもなければ、思想統制される筋合いもありません。しかし、このようなことに過敏に反応し、その発言を封じ込めようとする、その心理こそ、分析されてしかるべき課題なのだということです。この点で、上記、挙げた3書は参考になるところ大でしょう。スレ違いではありませんが、強く、お読みになることをお薦めします。

114犀角独歩:2005/11/26(土) 11:21:50

【訂正】

> 112

誤)その訳を日蓮に命ぜよ
正)その役を日蓮に命ぜよ

誤)スレ違いではありませんが
正)スレ違いではありますが

115犀角独歩:2005/11/26(土) 11:30:00

一点のみ。

> 朝廷が没収し、農作物にも重税をかけるという圧政からの解放、それが承久の乱

この分析の是非はともかくとして、小松師の言を籍りれば、日蓮は「下克上」という言葉を使った歴史的人物ではかなり最初に属するということでした。日蓮は朝廷に対する以上のようなネガティブなとらえ方はないと思えます。むしろ、逆で、天台法華を捨て、真言密教によったことが天皇に起こった不幸の原因であるというのが日蓮門下一般の認識であろうと思います。

一方、日蓮は釈尊御領観と称される国家・政治観を有していたことは初期の真跡遺文から既に垣間見られるところです。

116匿名:2005/11/26(土) 22:21:05
>115

これは、ご指摘の通りです。
私の記述が大雑把だったと思います。

鎌倉武士が、朝廷に対して、自分たちの権利を主張する戦いをした。これが承久の乱。そう、下克上です。日蓮聖人が仏道に入る思いを強めたのは、この承久の乱だったとよくいわれます。

そして時が変わって、日蓮聖人の生きた時代は、権力の実権を朝廷に代わって幕府が握ります。
日蓮聖人は実権を握る幕府(執権)に対して、民衆の側に立って権利を主張した。

権利というのは現代的な言葉ですので、そもそも馴染まないと思いますが、度重なる天変地異により人々は苦しめられ、さらには蒙古襲来という危機も迫ってきている。なんとかしっかり民衆を救う政治を行なってくださいということで、正法を立てよという国家論をもって諌暁をされた。

その権力者に対する訴えの構図は、私には、マグナカルタと重なるということです。
権利の主張は、鎌倉武士の新しい特徴であろうという、ひとつの歴史的観測です。

これが正しいなどどいうことでは、まったくありません。
ひとつの歴史解釈が、私の内心の信仰の拠り所に影響を与えているということです。
教義的にどうこうというよりは、歴史的には、こういう見方もあるということです。

117犀角独歩:2005/11/26(土) 23:01:44

> 日蓮聖人は実権を握る幕府(執権)に対して、民衆の側に立って権利を主張した

たびたび異論を述べて恐縮ですが、これは民衆仏法解釈というものですね。
創価学会でも、よく見かける論法です。

立正安国論に限っていえば、日蓮は民衆の側に立ったわけではなく天台法華宗の側に立っていたのでしょう。
念仏停止・念仏者刎頭は、既に京都でその前例がありました。
つまり、日蓮は京都の朝廷と天台法華の有様を鎌倉で再現したということです。釈迦牟尼仏の側に立つということであるように映じます。

ただ、日蓮が鎌倉で寓居していた場所は、遺体遺棄が一般的な当時、そのような場所であったらしいこと、また、鎌倉大地震で、日蓮自身が罹災し、人々と苦難を共にしたようであること、また、板東武者にしても識字率が8人1人程度であったところで、唱題という称名に代わる方式を発案した、(字が読めなくても行ができる)民を意識していたことは事実であろうと思います。

また、「権利」の主張をしたわけではなく、捨邪帰正を主張したのでしょう。ただし、起請文などの起草などの事実を見るとき、辣腕ぶりを発揮しており、当時の僧侶の教養の高さを垣間見る思いがします。

「権利の主張が鎌倉武士の特徴」、おもしろい見解だとは思います。

118匿名:2005/11/27(日) 01:02:59
>わたしがここで政治を語らないのは、ここが仏教の掲示板であるからです。

いやいや、語っていらっしゃったじゃないです。でなければ、私は今回、投稿いたしません。

>たびたび異論を述べて恐縮ですが、これは民衆仏法解釈というものですね。

そうですか。

>創価学会でも、よく見かける論法です。

なんだか、今度は、私を創価学会員だとレッテルを貼りたいようですね。
論法と書かれてますが、くどいようですが、不本意ながら私の内心の信仰を書いたのであって、これは論法などというものではありません。
しかし、わざわざ、あなたが、私の信仰について聞いてきたその目的とは、このようなレッテル貼りにもっていく「論法」だったと思わざるを得ませんね。

>立正安国論に限っていえば、日蓮は民衆の側に立ったわけではなく天台法華宗の側に立っていたのでしょう。

これは読む人の感性によって、その受け止め方は違うものかと思います。
また日蓮聖人が天台法華宗側に立ったとして、それが「衆生を救う」道だと思ったからではないでしょうか。

>いずれにしても、政治の‘技術的’側面を語ることは、ここの掲示板ではなく、相応の掲示板でやったほうがよろしいと思います。

戦争を考えるうえで、政治を避けては語れません。
他の掲示板でということは、幾度となく向けられてきた言葉ですが、あなたは前にも記されたように、ただ、私の投稿が迷惑なだけでしょう。
それなら、私の投稿にとりあわなければすむ話です。
あなたはあなたの議論をお続けになればいい。
それだけのことです。

119犀角独歩:2005/11/27(日) 01:57:01

わたしは自分に投げかけられた議論について答えることをここでの信条にしています。116は115のわたしの投稿に対するレスですから、お答えしたまでです

わたしが政治を語らないといったのは、あなたの思いとは違いますよ。
政治という立場から仏教に、ああせい、こうせいはいうことは思想信条の自由を侵害することになるわけだから言えないだろうということです。
ですから、政治的見地から仏教に対してものを申すようないわれ方に屈する理由はないといっているのです。そのような政治と仏教は同一する論調では語らないと言っているのです。しかし、一国民として、思想信条の自由に基づいて、政府に意見を述べようが、自衛隊に異見を述べようがそれはわたしの自由に属する問題だということです。

また、別段、あなたに創価学会のレッテルを貼りたいわけではないですよ。
わたしは創価学会『第三文明』05年9月号に載った松岡氏の文章に以下のような感想を書きました。

「一点、さらにケチを付ける。創価学会ではよく語られるところだが、『立正安国論』では国の字が国がまえに‘民’と書く字を多く使われている。だから日蓮は民衆仏法などだという。これを松岡も臆面もなく語る」(敬称略)

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/29764673.html

これを書いたのは'05年8月6日のことです。
創価学会の文章を読めば、勝利、民衆、平和、生命といった単語のオンパレードです。故に日蓮解説で下手に「民衆」などと書こうものならば、「なんだか、創価学会の文章みたいだよな」という揶揄は飛んでくる経験は、仏教で文章を書くことを仕事にしている人であれば、わたしならずとも経験するところでしょう。

そもそも、法華仏法というのは人間(民衆)ばかりを扱うわけではなく、生きとして生けるものの一切、すなわち一切衆生に目を向ける故に十界をいうわけです。そこから人界、人間、民衆のみを切り出せば、人間主義の仏法といういわれ方をされるでしょうし、その典型は、創価学会だということです。だから、創価学会によく見る論法だといったまでです。
自分が記した文章が創価学会と同一論調になっており、それを指摘されたからと言って、文句を言われる筋合いはありません。似ているものを似ているといっただけのことです。

> 「衆生を救う」道だと

そう‘衆生’ですよ。しかし、衆生とはなにも人間、民衆のみを指す言葉ではないと言うことですよ。

> 戦争を考えるうえで、政治を避けては語れません

ですから、それは政治的な見地でしょう。仏法とは違います。
仏教者の考えを政治的見地から「ノー」を言うようなことが許されるとはわたしは考えません。むしろ、寄せられた批判を民意として受け止め、それを政治に活かすというのであればわかりますが、政治家が推進する憲法改憲に文句を言うことを罪悪視したり、エネルギーがどうだ云々という政治的見地からそれらの発言を封じ込めるようなやり方、また、自衛隊に異見を述べる軍人批判を厳しく取り締まるようなやり方は、まさに軍事、恐怖政治の軍靴が響く如くです。思想信条の自由を侵害される不快感があります。

> 私の投稿にとりあわなければすむ

これは、わたしのほうが言ったことでしょう。
これまた、何度も言っていますが、わたしの投稿に突然、意見を述べてきたのはあなたのほうなのであって、わたしは願ってのことではありません。

以下、匿名さんに示すというものではありません。
戦争を考える2000年来の仏門の話です。こんなことをアップされる寺院があるのだ感心したので紹介しておきます。

http://www.choushouji.com/bosatsu/bo_b/b_m.html

120藤川一郎:2005/11/27(日) 13:26:57
横レスです。
日蓮大聖人は初期は「天台法華宗側」=「天皇家の側」に立っていた思われます。
鎌倉幕府は知ってのとおり、アウトロー集団です。
今で言えば、暴力団が革命を起こし政権を握ったとお考えになられて結構だと思います。
それに対して、天皇家こそ正当なる政府です。
正当なる天皇家の側で、下克上暴力団国家の宗教政策をお責めになったと考えるのが宜しいかと思います。

民衆云々は近代的な考えです。そんなお考えなどは微塵もあられないと思います。
宗祖の御考えは天子(国主)御一人の御帰依ある仏法だと思います。
極端な話、有象無象が1億人帰依するよりも、天子御一人の帰依の方が効果百千万億倍ですから(笑)。

121匿名:2005/11/27(日) 13:37:40
>正当なる天皇家の側で、下克上暴力団国家の宗教政策をお責めになったと考えるのが宜しいかと思います。

それが民のためになると思われたのではないのでしょうか。
まあ、そうあってほしいという、私の思慕からの思いが強いのかもしれませんけれど。

122匿名:2005/11/27(日) 13:39:42
>政治という立場から仏教に、ああせい、こうせいはいうことは思想信条の自由を侵害することになるわけだから言えないだろうということです。

政治という立場から仏教に、ああせい、こうせいなど、誰が言っているというのでしょう。
当然のこと政治は言っていません。
とすると、私のことですか?

>政治的見地から仏教に対してものを申すようないわれ方に屈する理由はないといっているのです。

これは私のレスでしょうか。どれがそれにあたるのか、お示しください。

>そう‘衆生’ですよ。しかし、衆生とはなにも人間、民衆のみを指す言葉ではないと言うことですよ。

民衆と書いたのが不適切だったなら、「民衆仏法解釈」など持ち出さなくても、そのように正して補足すればすむことかと。
こういうことを持ち出すから、不毛な教団論争に議論がスライドしてしまうんですね。

>仏教者の考えを政治的見地から「ノー」を言うようなことが許されるとはわたしは考えません。

これはそうでしょう。何かそのような記述がありましたでしょうか。

>むしろ、寄せられた批判を民意として受け止め、それを政治に活かすというのであればわかりますが、

そういうことだと思いますよ。そういうことにおいて、仏教界が政治に意見をすることは、求められることだと思います。
政治の暴走を止める発言をする。これは、私が政治の立場で言っているのではなく、いち仏教徒の端くれとしての思いです。
>119

しかし発言する以上は、政治というものをある程度は精査しておかなければならないでしょう。

>政治家が推進する憲法改憲に文句を言うことを罪悪視したり、

誰が罪悪視しているのですか。

123匿名:2005/11/27(日) 13:40:24
>119

>エネルギーがどうだ云々という政治的見地からそれらの発言を封じ込めるようなやり方、

エネルギーの問題は政治的見地ではないでしょう。エネルギーなくして生活が成り立たないのは、私たち国民です。それこそ政治の問題以前に自分の問題でしょう。
お寺さんだって、教団施設だって、電気なくして日々は成り立たないはず。また、そこに参詣する人は、車にしろ電車にしろ、エネルギーを使って出向いてくるわけです。
衣食住すべて、石油の恩恵なくしては、成り立たないのが私たちの生活です。
また動物愛護から毛皮をやめようという運動は仏教の精神にもつながるとても良い運動です。その代用品として、「フェイクファー(人工毛皮)」が開発されているわけですが、これはアクリルなどの石油系科学繊維でつくられている。皮肉なことに石油争奪に関わる運動という見方もできるのです。

戦争を反対するということは、日ごろから、一人一人が自分の問題として石油のことを考えておかなければならないということではありませんか。それを書くことが、なぜ発言を封じ込めることになるのでしょう。

先にも書きました。日本は遠く中東から石油や天然ガスを、軍事的に緊張の多いシーレーンを通って運ばれてきているわけです。そのシーレーンの安全を確保に、領海域を守っているのは自衛隊であるということ、この程度のことは頭の片隅に置いておくべきではないでしょうか。何もそれが自衛隊翼賛ということではありません。

>また、自衛隊に異見を述べる軍人批判を厳しく取り締まるようなやり方は、まさに軍事、恐怖政治の軍靴が響く如くです。

失礼ながら、あなたは過剰反応しすぎかと思います。極端です。
自衛隊がどのような役割を担っているかということを、私はごく普通に書いたのです。
それをもって、「軍事、恐怖政治の軍靴が響く如く」というのは、過剰反応としか言いようがない。

もちろん、憲法改正については、「軍靴が響く如く」との危惧を私も持ちます。だからこそ、護憲の立場を明確にいたしました。

あなたの自衛隊嫌いはよくわかります。もうひとつ政治嫌いもいえるでしょう。
その嫌いが過剰になっては、世の中が正しく見えなくなりはしませんでしょうか。
嫌いは嫌いで構わないですから、せめてもう少し冷静に世の中をご覧になって、発言をされたほうが良いのではないかと思いますね。

124匿名:2005/11/27(日) 13:41:04
>119

>思想信条の自由を侵害される不快感があります。

これは、私も言いたいことなんです。
ご存知のこととは思いますが、確認の意味で記します。

憲法第十九条
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」

思想及び良心の自由は、ものの考え方や表現の自由を意味します。それを内心の自由と言います。
表現の自由には、沈黙の自由も含まれます。
つまり、自己の思想および良心について沈黙を守る自由を含むと解されます。

つまり人の内心について、やたらと書かせるように仕向けるほうが、よほど思想信条の自由を侵害していることにもなるのです。
ましてや、本人の意思に反して書かせた思想に対して、何かをただそうとする、これも侵害しているといえるでしょう。

あなたはレスのなかで、
「あなたの考えをただしているのです。」
と書かれていましたが、これこそが、思想信条の自由の侵害にみなされるものではないかと思います。

125匿名:2005/11/27(日) 13:41:29
それから、三島由紀夫のについて、投稿されておられました。
つぶやきスレッドでしたので、こちらで触れさせて頂きます。

>心底、自衛隊に絶望して、三島は腹を割いたのではないのか、わたしはいまでもそう思っています。


私も詳細を知っているわけではありませんので、何か大きな矛盾を感じましたので、少し触れさせていただきます。もし私の誤認があれが、正してください。

ご存知のこととは思いますが、このとき三島由紀夫は、市ヶ谷駐屯地に赴いて東部方面総監部に押し入り、総監を監禁、人質にした上で「自衛隊員の決起」の演説を始めます。その目的は、国会を占拠するという計画であったといいます。

自衛隊隊員たちに決起を訴える、その演説は自衛官のやじで消されたと書かれていましたが、正確には、事件を聞きつけて取材にきた上空のヘレコプターの音によってかきけされたのです。その三島由紀夫に自衛官はマイクを渡さなかった。そして自衛官たちは私語を始め、三島を野次り、演説には耳を傾けるものはなかったということです。

そのときの演説の趣旨とは以下のような内容だったといわれています。

『アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは白明である。あと二年の内に自主性を回復せねば自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう/今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる/もしおれば今からでも共に起ち共に死のう』

三島は、最後に蒼白になって訴えたといいます。
「諸君の中には一人でも俺と一緒に起つやつはいないのか」
三島は10秒ほど待ち。そして、
「一人もいないんだな。よし、俺は死ぬんだ。憲法改正のために起ち上がらないという見極めがついた。自衛隊に対する夢はなくなったんだ。(ゆったりした口調で)それではここで天皇陛下万歳を叫ぶ。(皇居に向かい正座し)天皇陛下万歳、万歳、万歳」

三島由紀夫の憂国への思いと無念さと、その壮絶な最期について、このことについては横に置き、コメントは私は控えます。
ただしかし、自主的軍隊へと自衛隊に決起を呼びかけた三島由紀夫の自衛隊絶望と、あなたの自衛隊嫌いとは、趣旨や理論が一致するものなのでしょうか。

126匿名:2005/11/27(日) 19:08:09
>125 訂正

誤)私も詳細を知っているわけではありませんので、何か大きな矛盾を感じましたので、少し触れさせていただきます。もし私の誤認があれが、正してください。

正)何か大きな矛盾を感じましたので、少し触れさせていただきます。私も詳細を知っているわけではありませんので、もし私の誤認があれが、正してください。

127匿名:2005/11/27(日) 19:57:46
こちらの掲示板では、ここ一年ほどでしょうか、犀角独歩さんの検証により、大石寺の板本尊が日蓮聖人の御作のものではないということに対する論証がなされてきました。これは大変な試みであったことと思います。
これを絶対のものと信仰していた信者にとっては、大きな動揺もあり、まだまだ心の整理がつかない人も多くおられることでしょう。
ただ、私にとっては、板本尊への絶対的信仰は最初から希薄であったせいか、この点についての動揺は正直なところ、さほどのものはありませんでした。

私のことを少し、振り返ります。
富士門以外で仏教を学ぶ機会を得ていない私にとって、約5年前、こちらの掲示板で最初に信仰の根幹から打ちのめされ瓦解させられたことは、他でもない、法華経が釈尊の教説ではなかったということでした。
こんなことは、近代における仏教の常識でありながら、まるで私は知らなかった。これはかなりのショックでした。同時に、日蓮聖人の波乱の人生そのものが、とても虚しいものにさえ思え、動揺とともに体中の力が抜けたのを覚えています。
その後は続けて、日蓮本仏論も敢え無く崩壊です。
しかし、今になってみると、私としては、瓦解・崩壊で、それでよかったと思っています。

それでも、なぜか日蓮聖人の存在は、私にとって、今もやはり心をとらえて離れないわけです。
きっとそれが、最後に残った私の内心の信じ仰ぐ「信仰」の拠り所なのでしょう。
何が私の心をそうさせるのか、それを考えたとき、やはりそれは、どうしてもマグナカルタ(権利の大憲章)として結びついてしまうのです。
恐らくそれは、ある富士門の教団に入ったのと、私が憲法や政治に関心を持った時期が、重なっていたということが大変大きいと思います。
だから、どうしても私の中では、「立正安国論」は「東洋のマグナカルタ」と思えてならないのです。
これを教義で論争というものではありません。あくまで主体的な私の内心の、最後に残った信仰の拠り所というものなのでしょう。
これは誰に何を言われようとも、ここだけは恐らく変わらないことと思います。
信仰とは、最後はそういうものだろうと思います。
誰に何と言われようとも、法華経が最高の教えだと信じる人もいるでしょう。誰に何と言われようと、南無妙法蓮華経こそ、真理だと思い続ける人もいるでしょう。また、何が証明されようとも、大石寺の板曼荼羅こそ日蓮聖人の出世の本懐だと信じ続ける人もおられるでしょう。
この点においては、科学的な立証とは別のところに、内心の信仰が存在してしまうものだと思います。

だからこそ、黙秘する自由がある。本人の意思に反して、無理やり暴き出そうとしてはならない。
私はそういうことは、とても大事なことだと思います。
もちろん、教義の論争の場合は別です。お互いの信仰の立場をはっきりさせた上で、論争しなければならないことです。
しかし、こちらのスレッドは、その類に限るものではないはず。
平和へのアプローチは、様々になされなければならないわけですから。

128犀角独歩:2005/11/28(月) 11:43:27

120 藤川さん

「有象無象」という表現はともかくとして、この観察は実に正確だと思います。日本史では「鎌倉時代」などという成句がなかば常識化していますが、こんな日本史は、すでに旧説になっていますよね。

要は軍事暫定政権の定着のようなもので、これを、いまの言葉で言う京都に代わる新たな政府としてしまう日本史解釈はおかしいわけですね。

日蓮の思想を端から終わりまで単一に見てしまうとわからなくなりますが、仰るとおり、立正安国論執筆当時

> 初期は「天台法華宗側」=「天皇家の側」

という意志に基づいていたことが窺われます。
しかし、迫り来る他国侵逼という問題を解決するために、京での念仏停止、法華帰命の前例をここ鎌倉、武士政権にも促したのが立正安国論でした。

その後、『法門可被申様之事』のことでは既に天皇御領観は示されるわけですが、これは「国の長」(天皇)を軽視したということではなく、天皇は過去に仏を供養することによって王となった故に法華を持した(比叡山)という過去の歴史をちゃんと踏まえろという弟子の戒めであったということですね。

初期の日蓮は、仰るように尊皇の立場から、国王が法華を持す日本の過去の佳例の実現を目指していたわけですね。これが本門戒壇という思想に晩年昇華していったと見ることはわたしは外れたことではないと考えます。これら日蓮の思想は民衆立という考えはなく、そこにあった考えは、真跡遺文に探れなくとも、やはり、「国主」への視線であったことは本尊抄の記述を通じてみてもわかります。

まあ、しかし、三島由紀夫がどんな気持ちで死んだのかをつぶやくと、それがわたしの考えと矛盾しているだどうだと書かれるのは困ったものです。三島を紹介するとわたしが三島と同じ考えだと思うわけでしょうか。一々に的外れ、言葉が通じません。ただ、三島のような人物は、人間的な意味では好きです。故父が愛した作家の一人としても思い出になっています。その思い出を語ると矛盾だどうだ、なんでこんなことまでけちを付けられなければいけないのでしょうかね。

わたしは藤川さんご承知のとおり、天皇制を批判しているわけではなく、また、何度も記したとおり、自衛隊の存在を否定しているわけでもない。また、政府という概念を否定しているわけでもありません。しかし、現行の在り方には異論があるといっているのに過ぎません。そして、それらに対するここ掲示板で投稿された意見とは異なると言っているわけです。このような微妙なニュアンスがどうも通じない。しかし、この点を適切に読み取ってくださり、横レスをくださる藤川さんには感謝いたすものです。

また、本日、御仁にはよろしくお伝えください。

129匿名:2005/11/28(月) 21:07:36
>128
>このような微妙なニュアンスがどうも通じない。

それは、あなたがすぐに怒るからでしょう。
怒りの感情にまかせたレスは、どうしても極端であり、微妙なニュアンスなどは、伝わりようがありません。
少しでも親交を交わされた人には、伝わるものかもしれませんが。

私は、そう長くは投稿しませんので、どうぞご安心ください。
どうしてもう少しだけ、投稿しておきたいことがあるのです。
それを終えれば、また元の気ままなロム専に戻ります。

130犀角独歩:2005/11/28(月) 21:12:03

ここのところのわたしのレスのどこが怒っているのでしょうか。
何とも不思議なことばかりを言われます。

131匿名:2005/11/28(月) 21:28:40
>130

いえいえ、過去の実績というか、まあ、経験則です。
私のほうが、言いたいこと言わせてもらっていますね。

皆様にもご迷惑をおかけしていることでしょう。
その点は、私なりに自覚もしております。

132匿名:2005/11/28(月) 22:28:23

国連に触れて少し記述をいたします。

国連の分担金は、アメリカと日本でほぼ40%を賄っています。
私は、国連は、敵国条項の日本はさておいても、常任理事国であり大スポンサーであるアメリカの意向にはなかなか逆らえないものだろうと最近まで思っていました。
ところが、どうも違う流れになりつつあったらしいということが、国連改革の裏事情などの表面化でわかってきました。

平和の殿堂といわれてきた国連ですが、その機能はいまだ冷戦状態時のまま動いているといわれていて、その点においても改革の必要に迫られています。
ところが、ここへきて、国際機関としての権威を失いかねないほどの腐敗の実態が露呈しているとのこと。
その一端は、イラクの石油を巡る国連職員の汚職といわれています。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/17/dga_0908.html

イラクのクウェート侵攻を発端とする湾岸戦争の後、イラクは経済制裁を受け、自国の石油が輸出できなくなっていました。
当然、イラクの国内経済は衰退します。
イラクの石油埋蔵量はサウジアラビアに次いで世界第2位、世界中で発見されている全埋蔵量の11%を占めるそうです。
ちなみに、第一位のサウジアラビアの石油埋蔵量は世界の24%で、イラクの2倍を占めます。

こうした状況のなか国連は、「Oil For Food Program(石油・食糧交換計画)」と銘打って、輸出できないでいるイラクの石油輸出を限定的に認め、その代金を国連が管理していました。
ところが、その管理に不正疑惑があったということが表面化してきたといいます。

人道支援の名目でイラクから買い上げた石油を、国連職員が世界各国に横流ししていたことが露見、さらにその石油代金のほとんどが、サダム・フセインの懐に入り、本来の目的であった人道目的などには使われることなく、イラクの軍事費増強につながっていたという事実も明らかになってきたとのこと。
こうした国連の不正には、アナン事務総長の息子が中心となっていたとされ、国連職員もコミッションやワイロを受け取っていたといわれ、さらに、アナン事務総長も関与していた疑惑まで取り沙汰されてきました。

イラクの経済制裁は、平成15年5月22日に解除されるまで続き、その後、イラクは石油の輸出決済について、ドル決済からユーロ決済へと転換すると発言し、そして、アメリカは攻撃を開始しました。

アメリカは世界最強の軍事力をもって、世界の覇権を手中に入れたいという思惑があるものとしても、石油産出国である中東各国には、アメリカに付け入れられるだけの問題が野放しになっています。その最たるものが、国内的な極端な経済格差、つまり日本ではおよそ想像もできないほどの貧富の差があるといえるでしょう。

とにかく、国際的な経済制裁というのは、その国を追い詰めます。かつて戦前の日本もそうでした。
イラクはエネルギー資源を持つ国として、輸出が出来ないという、経済制裁を受けた。
一方、戦前の日本は、エネルギー資源を持たない国として、輸入が出来ないという、経済制裁を受けたわけです。

戦争を考えるときに、このエネルギー問題は決して切り離せないことを、まず心して知っておくべきことかと思います。

133犀角独歩:2005/11/28(月) 23:10:56

せっかく、戦争を考えるというスレが立ちましたので、わたしはわたしの立場から少し記しておきます。

生まれながらの創価学会であったわたしは、自分が所属している組織というものがどのような歴史的経緯を辿り、社会のなかで他者と関わってきたかという、いわば、歴史から見た客観的な位置というものがわかりませんでした。この点は、しかし、石山末寺法華講に移った時点でもそれほど、意識していませんでした。さらにここを退し、ようやくと門派・宗派を問わず、宗教者と会うようになり、さらに公明党という投票権を得る前から支持政党から、法華講ではアンチ・公明党を経、ここでも自由なスタンスとなって、多くの人々と自分の立場を意識せず、会うようになったわけです。さらに右翼であるとか・左翼であるとか、そんなことも意識せず、誰とでも会ってきました。社会活動という側面、自分の家族との関連から、いわゆる社会的弱者の側に立ってきたという経緯はありました。「会う」とは、自分は自分という一人で何ら所属に執せず、自由に話すという意味を含みます。わたしがHNに犀角独歩を選んだ理由もここにあります。

まあ、そのような自分史のなかで、自分の信念体系圏が、ここの掲示板の名前が示すような「富士門流信徒」であるという自覚は、これら他者からの視線で自覚するに至ります。この自覚は、たぶん、異教者との自由な接点がない限り生じ得ず、また、接点があったとしても、自分の信念体系に固執している限り、見えてこない自画像でもあります。

そのような束縛を超えて、自分の立っていた富士門流信徒とは、その職業集団・つまり石山僧という脈絡のなかにあることは当然見えてきます。そこで、当初、自覚できる他門との差異は創価学会では「池田先生」という日蓮を解釈する砦があり、石山では「御法主上人猊下」という解釈の砦があります。これらは(揶揄でなく藤川さんが天皇を指した言葉を拝借すれば)神聖にして犯すべからず存在であり、この点は顕正会の「浅井先生」も同様なのでしょう。一応、参考の便宜に記せば、正信会辺りでは、これを「日興上人」から「日蓮聖人」を見ようという、(わたしからみれば中途半端な)復古主義となっているのでしょう。

このような宗教的ヒエラルキーから自由になる動きのいったんにわたしはこの掲示板はあると思えます。ここで、では、指導者に代わって「富士門流信徒」を主付けたものは何であったのか、それは、たとえば富士門ネットでいう「本門戒壇の大御本尊への帰一という大目標を掲げる富士門信徒同士が、法華講・正信会・創価学会・顕正会という組織の壁を乗り越え、精神的結束力を高めて、異体同心の戦いを誓い合う場」というスタンスであったのであろうと思えます。また、この基礎は人即法の本尊、すなわち、日蓮本仏論という教学的態度に他ならなかったのだろうと思います。

しかし、ここ数年の議論の結果、日蓮本仏論とは仙波壇林における中古天台本覚思想恵心流口伝法門の焼き直しであるという早坂鳳城師が近年、指摘した点から考えると、中世以降の教学運動であり、日蓮・日興に遡源できないものであったことが闡明になりました。ま

また、彫刻本尊に関しては、問答名人さんがいち早く河辺メモから日禅授与漫荼羅との類似性に着目され、わたしがそれを図形からの鑑別で闡明にしたとおり、日禅授与漫荼羅を原本に臨模・作為した模造品であったことはすでに明確になりました。すなわち、学会を含む石山の信仰対象である<人>日蓮本仏:<法>「本門戒壇の大御本尊」の二つは、ここに瓦解したわけです。

134犀角独歩:2005/11/28(月) 23:12:22

―133からつづく―

こうなると、この人即法本尊への信仰は、正信会のような厳正な真蹟研究、教学的態度から、信仰的態度を日興に求め、日蓮に至るという在り方は、極めて合理的であるとも、いったんはわたしは考えます。ただ、これを中途半端とわたしが言うのは、結局のところ、漢訳仏典は梵本との歪みがあり、それを意識することなく構築された天台教説を無謬のものととらえることはできないという問題が生じるからです。さらに梵本経典も釈尊滅後500年以上を経て創作されたものである以上、この点について、陳べる責務をこの信念体系下にある仏教徒は背負っている点が少しも反省されていない。以上のような教学的な責務は、ここでも永らく議論されてきたわけです。また、ここでは、そのような責務を真摯に受け持つ真面目な議論がされてきたとわたしは考えています。

さて、このスレ「戦争を考える」というテーマを、この自分が背負ってきた「富士門流信徒」という立場から考えるとどうなるのか、この点で大石寺とその職員である当寺並びに末の僧侶の責任については、たとえば過去に論考もありました。

しかし、そこから脱して日蓮信仰にある富士門流信徒の場合はどうなのか、とい点はあまり議論がされてこなかったわけです。
いま、わたしは「責任」という語彙を使用しましたが、信徒というとき、その構成を為す歴史的責任をわたしは負うと考えます。この歴史的認識がなければ、過ちは何度でも繰り返されるからです。

「日蓮主義は、過去の大戦の歴史的責任の一端を為している」という自覚は、わたしは正直で且つ慚愧ある態度である考えます。このような姿勢は、一面、左系日蓮のような批判を生み、実際のそのような矢面に、たとえば中野教篤師のような方々は立たされてきたとも思います。わたしはしかし、この内省的な姿勢には一定の評価をしています。

先の戦争責任を日蓮門下は負っているという自覚のなかで、では、「日蓮正宗」は埒外なのかといえば、そのようなことはありません。他の日蓮門下と何ら変わりません。

具体的にこの戦争責任を、では、どのような形で果たしていくのか。それは、あの原爆記念碑に刻まれた「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから」という誓いを破らないことにあるとわたしは堅く考えています。ですから、この誓いに背く如何なる発想からも、わたしは考え出しません。この誓いが一切の原点です。

仏教、その源流を辿るとき、戦争との関わり、政治との関わりという言い方でもよいと思いますが、それはやはりシャカ族の後継者であったゴータマ・シッダルタ太子の出家とシャカ族の滅亡から考え出すことになるのだろうと思います。

一つの国の後継者が出家してしまった。これは国家にとって、重大事であったことは容易に想像できます。ただ、この時点では、シッダルタ太子は、世継ぎラーフラの誕生を見届けてことでした。しかし、ブッダとなったのち、このラーフラもまた出家をしてしまうわけです。国家存続からいえば、この時点でシャカ族の未来は閉ざされたように思えます。そして、事実、シャカ族は滅亡します。仏教は国家防衛に何の役にも立たなかったという実例が先ずここにあります。ブッダは林棲期のバラモンを模した死に行く人の平安の境地を修行によって獲得する教えですから、ここに国家性を有するはずはありません。政治経済という人間集団の典型形態・国家から出たところにその理想を求めていたからです。

135犀角独歩:2005/11/28(月) 23:12:52

―134からつづく―

仏教を通説的に学んだ人であれば、大乗仏教の興隆が西暦前後のインドを蹂躙したゾロアスター教徒カニュシカ王と関連しながら、さらに大乗仏教という新たな仏教運動と共に仏像と経典を創作しながら世界に伝播したことを知っています。このカニュシカ王のインド征圧、還元すれば、ここでも戦争と仏教を並び語る歴史があります。さらに、13世紀のイスラム教徒によるビクラマシラー寺院の徹底破壊を最期にインド仏教は滅亡したというの通説を知っています。ここでも戦争と仏教は並び考えさせられます。やや、時代を経ますが、チベットの仏教徒大虐殺も、戦争と仏教が並び語られるテーマでしょう。

ここで、彼らがなぜ無抵抗であったのか。そこには「不殺生」というブッダの教えを頑なに護ろうとした信仰的実践があったからに他なりません。
国を護らなければ滅びてしまう。だから、戦うべきだったのではないのかという疑問は当然、起きるわけです。しかし、殺したものは、いつしかその報いを得て、殺されることになる。この連鎖を断ち切るという考えが彼らにはあったとわたしには思えます。

以上の歴史的経緯は仏教徒が、戦争の被害者であった歴史とも言えると思えます。

さて、法華経が、ついにインドで定着することがなかったのは何故かというテーマは、実に興味深いものですが、それは取り敢えず置くこととして、この法華経が重んじられるようになるのは羅什の漢訳とその学派的関係にあった慧思から智邈(天台山)の教学的大成と大きく関わっていることは、いまさら記すこともないわけです。わたしは、仏教が中国で定着していく過程で格義解釈を経ながら、習合していった中国思想のなかで、孝と共に鎮護国家思想は看過できないと考えるわけです。法華宗において、より具体的にいえば、涅槃経と束ねられていった一連の教学的な姿勢です。
何度も記してきたことですが、涅槃経における折伏は正法護持のために武器を持し、正法破壊の人を絶命させることが、むしろ、悪業を重ねさせないことになるという、オウム真理教のポアと起源を同じくする「殺」の思想が導入されたものでした。このような法華経の涅槃経解釈は、法華宗という体裁を取って日本に招来されます。

正法護持のための「殺」は殺ではないのか?ということは実は大きなテーマです。われわれはオウム真理教のポアを見て、「何と愚かな」と思ったわけですが、しかし、同様の教えは涅槃経にあります。換言すれば、法華宗に、日蓮法華宗あるということです。また、密教でいえば、調伏という呪法は、実質的に自国の安寧のために敵を滅ぼすことを目的にしているわけです。敵国が滅ぼうと敵国の民が死のうと、お構いなしという考えであるわけですが、理由の如何を問わず、いかなる殺生も殺と見る初期仏教とは根本的に質を異にしていることになります。それまでの歴史上で、常に戦争暴力の被害者であった仏教(徒)は、この時点では、むしろ、加害者としての位置に立っている点は看過できません。

当然、日蓮の仏法も、この脈絡にあるわけです。そして、先の大戦における戦争責任の脈絡もここにあります。果たして、本当にそれでよいのかという大きな疑問がわたしにはあります。そこでテーゼとなるのが「不殺生」ということです。また、サンサーラを仏法として考える人であれば、殺の輪廻を断つという点も重視されるでしょう。

わたしは、この事実を看過しないで直視することが、このスレのテーマである「戦争を考える」筆頭になければならないと考えるわけです。自己責任を考えるということは、わたしは過去半世紀の仏教としての自分を再点検するうえで重要な着眼点の一つです。この責任を具体的に記せば、先に挙げた原爆祈念碑の誓い、過去の過ちを二度繰り返さないためにはどうするのかという点に帰着するということです。これはまた「不殺生」という仏教の叡智とも大きく関わっています。

長くなりましたので、続きは追って記します。

136犀角独歩:2005/11/29(火) 00:49:20

エネルギーと戦争。
これを憲法改正、自衛隊、戦争と論じることはわたしには短絡と思えますし、仏教徒がというより、国民という側面での話なので、違和感はありますが、以下のようなサイトがあります。紹介しておきます。

財団法人 新エネルギー財団
http://www.nef.or.jp/enepolicy/

一つの予測から探る21世紀のエネルギー危機
http://mechsvr.isc.chubu.ac.jp/Mech_Labs/sumida/2030.html

ミスター・エネルギーなんていわれる人もいるわけですね。

http://www.meti.go.jp/discussion/topic_2003_03/window_01.htm

イラク問題
http://www.ide.go.jp/Japanese/Library/Ref/Iraq/IraqZaJa.html

わたしは、エネルギー問題>アメリカ共同>憲法改正>自衛隊>戦争などという連想ゲームはどうかと思います。なお、この書き込みは、先の投稿とは関係しない個人的な感想です。念のため。
また、上記のサイトを指示するというわけではありません。これも念のため。いずれにしても、エネルギー問題は、科学者、経済学者といった専門家によって、コンピューティングされたシュミレーションから未来を予測する資料を冷静に分析するところからはじめる必要を、これは仏教徒という立場ではなく、一国民として感じます。これらの問題を戦争、改憲、自衛隊と関連づけて語られることには危機感を懐きます。

137犀角独歩:2005/11/29(火) 01:03:01

もう一つ。
わたしは個人的には水素エネルギーに着目しています。

http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data4022.html

上記、ページのトップはエネルギーについては、中高生レベルでもわかるようによくできたサイトであると思っています。

http://www.iae.or.jp/energyinfo/index.html

138匿名:2005/11/29(火) 01:18:05
スレッドの趣旨から少々脱線しますが、私の向学のため、
藤川一郎さんと、犀角独歩さんに、お尋ね申し上げます。

>120
>民衆云々は近代的な考えです。そんなお考えなどは微塵もあられないと思います。

>128
>これら日蓮の思想は民衆立という考えはなく、

日蓮聖人の「立正安国論」は、民衆の立場でのお考えはなかったと言い切っておられます。
恐縮ですが、この根拠を、お示し頂けますでしょうか。
納得する根拠をご提示頂ければ、今後は私も、考えを改めようと思います。

139犀角独歩:2005/11/29(火) 09:11:08

> 138

この質問にお答えするために、言葉を定義しなければなりません。
あなたがいう「民衆」とは、どのような定義で使用されているのでしょうか。

140匿名:2005/11/29(火) 09:36:20
>139

憲法の立場からいえば、国民です。
日蓮聖人の時代に国民という言葉や概念はないでしょうが、拡大解釈をして、この国の「民」というところでしょうか。
為政者ではない「民」です。
その民の立場に立ってはいないのかということですね。

141犀角独歩:2005/11/29(火) 11:50:29

日蓮が「民衆」という成句を使用しているのは真蹟で見る限り『守護国家論』の「国主と成りて民衆の歎きを知らざるに依り…」という1回限りのようです。この用法は、国主・民衆という対比での使用でしょう。その他を調べてみると、「臣民」「万民」「民」「土民」「黎民」「国民」「小民」「魔民」「諸民」という用法が見られます。

日蓮が民という場合、これは「王・臣・万民」「上一人より下万民」(国主・国民)の関係で述べるのが、その用法です。

王臣とは、もちろん、日本国の、ということになりますが、当然ここでは天皇と臣下の意です。では、この国家観ということになりますが、『法門可被申様之事』に「日本国当世は国一同に不孝謗法の国なるべし。此の国は釈迦如来の御所領。仏の左右臣下たる大梵天王第六天の魔王にたわせ給い」とあり、これを門下教学では釈尊御領観などといいます。これを図式化すれば、

釈尊>梵天/第六天魔王>諸神>国王(天皇)>人臣>民

という構造が窺われます。

ご質問の趣旨は、では、日蓮は、このヒエラルキーのどこに立っていたのかということでしょう。民の家から出た日蓮は、同書において「我等が親父釈迦如来の御所領をあずかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此れ等が門まもり。又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其の上、日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし。長なんどにつかえん者どもに召されたり、上なんどかく上、面目なんど申すは、かたがたせんするところ日蓮をいやしみてかけるか」と厳しく、弟子・三位房を窘めるわけです。つまり、日蓮は、釈尊を親父と仰ぎ、その位置から、親の法を弘宣するという自覚であることが窺われます。つまり、立っている場所は釈尊の側であると、わたしが記したのはこの意味です。

釈尊の意志を継ぐ日蓮にとって、日本国王臣の領もまた、親父所従であるというわけです。その位置から、王に対して民の安寧をはかれというのが日蓮の意図でしょう。つまり、王・臣/民という当時の身分制度から、一段高い自覚があるわけです。日蓮がいう出家とはそのような意味です。

法華経の行者に日蓮とは釈尊(親)の子(菩薩・僧)であり、その済度の対象は、何も民衆ばかりにあったわけではなく、王臣をもその対象であったのでしょう。いやもっといえば、日蓮の済度の対象とは一切衆生であった。なんとなれば、『報恩抄』に「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」というからです。

現在、民主主義、民衆という起源は、デモクラシーに由来するわけで、このような経緯と、日蓮がいう「民」は根本的に意味を異にしています。「政」についても、現在の民主主義国家という概念と日蓮が懐いていた、政も国も意味を異にしていたということです。

なお、「民衆立」という造語は、当初、誰がなしたものかしりませんが、正本堂建立に就き、それまで、田中智学の造語「国立戒壇」に対して、現在は民主主義の時代であるから民衆立が相応しいということで生じた言葉でした。‘立’とは民衆に立つとか国に立つとかという意味ではなく、戒壇を立てるのが国主か・民衆かという分別に基づく用法です。

現代語「民衆」は以上の点で、日蓮がいう「民衆」とは違っていると言うことです。ただし、それは日蓮が民の済度を考えていなかったということでは、もちろん、ありません。一切衆生のうちの六道輪廻人界衆生として、神に程近い王とその臣が快楽(けらく)安穏とさせる対象としての民も仏教の救いの対象と見ていたことは当然のことであろうと存じます。

142匿名:2005/11/29(火) 22:47:31
>141

大変参考になりました。
ただ、

>ご質問の趣旨は、では、日蓮は、このヒエラルキーのどこに立っていたのかということでしょう。

これはちょっとニュアンスが違う気がします。
「天台法華宗側」=「天皇家の側」に立つことにおいて、民衆云々の立場は微塵もなかったと言い切れるものなのか、その根拠を知りたいということです。

このスレッドの最初の投稿で、あなたは私に、
「被害者の痛みから議論が出発できないところにあなたのいうことが机上の空論以上に聞こえない原因があるわけです。」
と書かれました。
私はこれを、「被害者の立場に立った議論でない」という意味に受け取りました。
「民衆の立場」というのは、この「被害者の立場」と同じ意味合いなのです。
ですから日蓮聖人がヒエラルキーのどこに立っていたのかというとは、少し意味合いが違う気がします。

「被害者の立場に立つ」「弱者の立場に立つ」といった意味での「民衆の立場」において「立正安国論」を書き上げたのではないかと、私は思っておりました。
しかしそれが、厳密には民衆の立場というものではなくて、「天台法華宗側」=「天皇家の側」というものであり、そこまでの根拠はなるほどわかったとして、ではそれが民衆云々などというお考えは微塵もないというなら、さらにその根拠が知りたいのです。

しかし、この度のあなたのレスによると、

>ただし、それは日蓮が民の済度を考えていなかったということでは、もちろん、ありません。一切衆生のうちの六道輪廻人界衆生として、神に程近い王とその臣が快楽(けらく)安穏とさせる対象としての民も仏教の救いの対象と見ていたことは当然のことであろうと存じます。

というのであれば、民衆云々は微塵も考えていなかったと、そう言い切って良いものなのでしょうか。

>鎌倉幕府は知ってのとおり、アウトロー集団です。
今で言えば、暴力団が革命を起こし政権を握ったとお考えになられて結構だと思います。

ということですが、そもそも鎌倉時代、「幕府」という言葉は政権を表す言葉としては一度も使われていないといいます。
鎌倉時代の人々は鎌倉の武士政権が「幕府」であるとは思っていませんでしたし、「鎌倉幕府」の呼称は江戸時代の学者によってつけられたものだともいいます。この時代の「幕府」とは将軍の住む館のことをさしたそうなのです。
「暴力団が革命」とはいっても、もともと平家も源氏も、天皇家とは縁戚関係ですから、革命とまで位置づけられるものではないでしょう。あの承久の乱のときでさえ、もし敵軍に天皇の姿があったなら、決して弓を引いてはならないと決められていたと言うくらいですから。
(そういえば、水戸藩の家訓も確かそういうものでしたね)

アウトロー集団というのは頷けますが。鎌倉幕府は執権政治になっても基本的には朝廷をたて、朝廷の権威を利用しながら、武士の権益を広げてきたわけです。
鎌倉幕府は江戸幕府のように、全国支配をした政権ではなく、その点においては、「この国の民」という意識はもともとなかったといえるでしょう。ただ蒙古襲来という局面を迎え、現代的にいえば、国家安全保障に対峙せざるを得ず、まだまだ脆弱な権力基盤の中で、否応なしに「国家」を意識せざるを得なかった時代といえるのではないでしょうか。

古く国王(天皇)や人臣の「政」は、民の立場にも立った政策もすすめられてきたはずです。日本の「政」は、特に聖徳太子以降、それこそ仏教により、民を救う政策が律令制度の中に取り入れられてきています。うまく機能していたかどうかはともかく、「義倉」などもそのひとつです。日蓮聖人が、天台の側に立つことも、天子の側に立つことも、いずれもそれは「民衆救済」を考える立場と捉えて考えることができるのではないかと、私は考えますが。如何でしょう。

日蓮聖人に限らず、平安末期から鎌倉にかけては、京セレブの仏教から、民衆救済をめざす仏教へと、新しいうねりが萌芽し隆起してきた時代といえます。そうした流れに加え、どんなに日蓮聖人が朝廷側に立つといっても、日蓮聖人の生まれは安房なわけです。安房の方言は独特だそうで、千葉よりはむしろ神奈川に近いといわれています。当時の鎌倉と安房の間は、恐らく陸路ではなく海路が中心だったことなども考えれば、日蓮聖人の生まれつきの気質は、ある意味で鎌倉武士団の気質に近いものだといえるのではないでしょうか。
鎌倉武士政権はその成立の時から、滅亡の時まで「関東武士の権益保護組織」としての性格が非常に強いものだったわけです。私はその点において、憲法に半ば強引に引き寄せて、日蓮聖人を注目してみているというところなのです。

143犀角独歩:2005/11/30(水) 00:02:54

> 「民衆の立場」というのは、この「被害者の立場」と同じ意味合い

これを、ですから、民衆に限定する理由は、では、いずこにあるのでしょうか。
日本が蒙古から襲来を受けるとなると、被害者は民衆だけでしょうか。
この時点で、日蓮は王臣万民の一切を救おうと考えたのであれば、単に民衆に立ったとだけとは言い切れないのではないでしょうか。ですから、その意味において、民衆仏法という言い方では、日蓮が王臣を思った気持ちは表現できないということです。

> 民衆云々などというお考えは微塵もない

わたしは、あなたの結論の出し方は極端だと思いますね。
先にも記したとおり、日蓮の民に対する言及は実に多岐に亘ります。
わたしがいっているのは、国家の秘術として仏教を考えるのは、単に民衆のためだけではない。王臣も含めている。となれば、民衆仏法という言葉では表現し切れていないではないか。また、日蓮の志は一切衆生に及んでいる。となれば、いわば「一切衆生皆成仏道」であれば、民衆仏法では全体を示していないということです。

> 民衆云々は微塵も考えていなかったと、そう言い切って良いものなのでしょうか。

わたしがいつそのようなことを言いましたか。
あなたは、どうも極端に走り、わたしが考えてもいないことを、さもわたしが言ったように質問しますが、これは誤読に基づくことなので、あなたの問題点でしょう。

>> 鎌倉幕府…アウトロー集団

ここ以下は、わたし文章ではなく、藤川さんの文章ですので、わたしは記さないことにします。

> 日蓮聖人が、天台の側に立つことも、天子の側に立つことも、いずれもそれは「民衆救済」を考える立場と捉えて考えることができるのではないかと、私は考えますが。如何でしょう。

せっかく、日蓮の「民衆」の語について、詳細に真跡遺文を調べて、記しても、やはり、意味はなかったようですね。残念なことです。日蓮といわず、大乗も、仏教も「一切衆生皆成仏道」を指標するのであり、それは民衆のみに限定されてのことではありません。

> 平安末期から鎌倉にかけては、京セレブの仏教から、民衆救済をめざす仏教へと、新しいうねりが萌芽し隆起してきた時代

では、それを一々の証拠を挙げて、ここに説明してください。

> 憲法に半ば強引に引き寄せて、日蓮聖人を注目してみている

どう見ようが、個人的にはかってですが、もし、このように言い切るのであれば、法華経の文々句々と憲法の一々を挙げて、対照を試み、その類似性を挙げてみては如何でしょうか。

あなたが日蓮をどのように見ようが勝手ですが、真跡遺文から垣間見られる、日蓮は法華経の、その題目を以て立正安国を考え、衆生済度も考えたのです。このような特定の経典、もしくは法華宗という特定の宗派を以て一切衆生皆成仏道を考えることと、憲法の信教の自由と、どこでどのようにつながるのか、説明していただきたいものです。

144匿名:2005/11/30(水) 00:35:48
>これを、ですから、民衆に限定する理由は、では、いずこにあるのでしょうか。

「政」においては、救う側は「王臣」であり、救われる側は「民」と考えますが。

>日蓮は王臣万民の一切を救おうと考えたのであれば、単に民衆に立ったとだけとは言い切れないのではないでしょうか。

「立正安国論」は、日蓮聖人が王臣万民の一切を救おうという趣旨の内容なのですか。

>また、日蓮の志は一切衆生に及んでいる。となれば、いわば「一切衆生皆成仏道」であれば、民衆仏法では全体を示していないということです。

そのことを「立正安国論」で説いているのですか。

>> 民衆云々は微塵も考えていなかったと、そう言い切って良いものなのでしょうか。
>わたしがいつそのようなことを言いましたか。

これは、あなたではありません。藤川一郎さんの記述です。ただ、同調されているようでしたので、同じ意見などだと思いました。

>日蓮といわず、大乗も、仏教も「一切衆生皆成仏道」を指標するのであり、それは民衆のみに限定されてのことではありません。

それはわかっています。
ただ、憲法では一切衆生の権利を明記することはできません。なぜなら、畜産業など殺生を生業としている人も国民にいるからです。その人たちの人権を考えるとき、一切衆生という意味合いのことは明記できません。職業的差別につながりますから。

仏教を志す立場でいえば、一切衆生の救済であることは当然です。しかし、日蓮聖人が生きた鎌倉時代は、天災飢饉が続き、人が人を食べるくらいの飢餓状態であったとさえいわれています。何も食べるものがなく、地べたを這う生きている虫を口にすることなど当たり前のことだったといえるでしょう。
そのような状況を前にしたとき、一切衆生よりは、まず民衆救済を訴えたのではないでしょうか。

>では、それを一々の証拠を挙げて、ここに説明してください。

わかりました。その前に、確認しておきたいのですが、このように求めるところをみると、あなたはこの一文には、異論の立場をとるわけですね。

>法華経の文々句々と憲法の一々を挙げて、対照を試み、その類似性を挙げてみては如何でしょうか。

勘違いしないでほしいのですが、私は「法華経」と「憲法」を重ねているのではありません。「立正安国論」と「憲法」を重ねているのです。

>このような特定の経典、もしくは法華宗という特定の宗派を以て一切衆生皆成仏道を考えることと、憲法の信教の自由と、どこでどのようにつながるのか、説明していただきたいものです。

繰り返しますが、法華経ではありません。その他の特定の経典でもありません。「立正安国論」です。それも「信教の自由」などと私がいつ特定しましたでしょうか。
私が「立正安国論」と「憲法」を重ねるのは、信教の自由も含めた「基本的人権」です。

145匿名:2005/11/30(水) 01:15:02
>144 訂正

>私が「立正安国論」と「憲法」を重ねるのは、信教の自由も含めた「基本的人権」です。

と「信教の自由」を含めましたが、これは含みません。訂正いたします。

146犀角独歩:2005/11/30(水) 01:42:14

> 「政」においては、救う側は「王臣」であり、救われる側は「民」と考えますが。

ですから、それは政においてではないでしょうか。仏に立つ日蓮とは違います。

> 「立正安国論」は、日蓮聖人が王臣万民の一切を救おうという趣旨の内容なのですか。

『立正安国論』で‘一切衆生’を言うのは「大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、竝びに一切の諸仏菩薩、及び諸の世天等を以て捨閉閣抛之字を置いて、一切衆生之心を薄す。是れ偏に私曲之詞を展べて、全く仏経之説を見ず。妄語之至り、悪口之科、言ひても比い無く責めても余り有り」という1回ですが、当然、以上のように一切衆生への視点があります。

>> また、日蓮の志は一切衆生に及んでいる。となれば、いわば「一切衆生皆成仏道」であれば、民衆仏法では全体を示していないということです。
> そのことを「立正安国論」で説いているのですか。

わたしは、この点については王・臣/万民の関係であると記したのであり、一切衆生については『報恩抄』の記述を挙げました。

>> 民衆云々は微塵も考えていなかった
> これは、あなたではありません。藤川一郎さんの記述…同調…同じ意見

この点については日蓮の語彙の用法について説明したはずです。
日蓮が言う民衆と、あなたが言う民衆は意味が違っています。
日蓮の考えは近代日本に導入された民主主義(デモクラシー)で言われるような民主主義の主体者である民衆(大衆)といった意味合いでは論じていないと言う点で、わたしは藤川さんに同意したのです。

> 憲法では一切衆生の権利を明記することはできません

ですから、同じとは言えないと言っているわけです。

> 一切衆生よりは、まず民衆救済を訴えた

ですから、視点の方向が、わたしが記していることからずれているのです。
民衆とは王臣に対概念としているのが日蓮の用法である。つまり、民衆の側に立つとか、王臣の側に立つとかというような考えではなく、仏教の僧侶は常に一切衆生に眼を向けているといっているのです。

> わかりました。その前に、確認しておきたいのですが、このように求めるところをみると、あなたはこの一文には、異論の立場をとるわけですね。

それはあなたの論証を読んでみなければわかりません。
ただ、論拠を挙げずには書くのではなく、証拠を挙げてみてはどうかと、まず促したと言うことです。

> 「立正安国論」と「憲法」を重ねているのです。

同じことでしょう。
日蓮は王政における政教一致を論じているのです。
『立正安国論』では、法華経を持つ以外に、国王が国を安ずる方法はないといっているのです。どこが憲法と一緒なのでしょうか。

> 繰り返しますが、法華経ではありません。その他の特定の経典でもありません。「立正安国論」です。それも「信教の自由」などと私がいつ特定しましたでしょうか。

ですから、立正安国論で、王が国を安じるのに持つべきは法華経であるというのが日蓮の主張だと申し上げているわけです。
あなたが、信教の自由を言っているわけではありません。
一切、信教の自由を認めない立正安国論、そして、法華経が、いったい、信教の自由を認める憲法とどこが同じなのかと聞いているのです。

> 私が「立正安国論」と「憲法」を重ねるのは、信教の自由も含めた「基本的人権」です。

もう一度、繰り返しましょう。立正安国論は法華経以外の一切の信教は認めていません。また、民衆の人権などを論じることを目的にしていません。そもそも、日蓮の時代に、人権に該当する概念、また成句とはいったいなんでしょうか。

ご自身が夢想した日蓮、立正安国論で語るのではなく、あなたがここを5年間ロムしてきたというのであれば、ここが厳正な挙証によって論議してきたことはご存じのはずです。あなたも、そうなさっては如何でしょうか。

147犀角独歩:2005/11/30(水) 01:57:50

145の訂正を読み落としていました。この点は了解しました。

149犀角独歩:2005/11/30(水) 02:51:40

答を待つべきところですが、匿名さんは、どうやら、日蓮は民衆の立場に立ったという前提から、日蓮の仏法は民衆仏法であると、こう言いたいようです。

では、以下の真跡遺文をどのようにお考えになりますか。

「日蓮は一閻浮提第一の聖人也。上一人より下万民に至る之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処する故に、梵と釈と日月・四天と隣国に仰せ付けて之を逼責する也。大集経に云く。仁王経に云く。涅槃経に云く。法華経に云く。設ひ万祈を作すとも日蓮を用ひずば、必ず此の国今の壹岐・対馬の如くならん」(聖人知三世事)

万民まで日蓮に害をなしたと責めています。民衆側に日蓮が立っていますか。おまけに梵天・帝釈、日天・月天、四大天玉と隣国に仏が日本に、逼(せま)り責めさせるというのです。専守防衛どころの話ではありません。
他国が日本を責めるのは仏の思し召しであり、神のはたらきだというのです。日蓮の言い分では他国から責められるのは、日本が法華経を持たず、日蓮に難に遭わせたからだ、その報いを得るというわけです。日蓮を用いなければ、壱岐対馬のように侵略され、人は殺され誘拐されるというわけです。

どうでしょうか。あなたが言う立正安国論=憲法、そして、自衛隊論と、日蓮の以上の記述は合致しますか。

150犀角独歩:2005/11/30(水) 08:35:51
「日本一州上下万民一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓竝びに天照大神等、隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか」(法門可被申様之事)

「梵王・帝釈・無量の諸天、天神地祇等、りんごく(隣国)の賢王の身に入りかわりて、その国をほろぼすべしと記し給へり。今の世は似て候者哉」(三三蔵祈雨事)

「法華経守護の梵帝等隣国の聖人に仰せ付けて日本国を治罰し、仏前の誓状を遂げんとをぼしめす事あり」(下山御消息)

日蓮の発想は、日本の為政者を愚王、隣国・蒙古の王を聖人と呼び、梵天帝釈が身に入れ替わりとまで言い、法華誹謗の日本を責め治罰することは仏の命令であるといいます。謗法の日本は他国が逼り責めるのことは仏教の道理であるというのです。そのうえで、本尊抄に

「此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」

この摂折、顕愚の王の解釈は門下においても、一様ではありませんが、上述の脈絡からするとき、聖人賢王たる蒙古によって日本が侵略され、広宣流布されると言っているとも読めます。

民衆仏法どころか、日蓮は隣国(蒙古)の側に立っている如くです。
しかし、それは表面的な見え方で実際は、法華信仰という側面から寿量本仏の立場であり、それに背く日本の他国侵略の必定(ひつじょう)を豪語しているわけです。

以上のような日蓮の発想は、『立正安国論』における北条時頼への進言に既に見られるわけです。法華に背くものは梵天帝釈が身に入れ替わった隣国、聖人・賢王=蒙古によって責められるべし、このような考えのどこが、日本の現行憲法の精神と似ているというのでしょうか。

151犀角独歩:2005/11/30(水) 08:47:28

【150の訂正】

誤)顕愚の王
正)賢愚の王

152犀角独歩:2005/11/30(水) 15:41:17

日蓮とは何かというテーマは実に大きい。時系列を踏みながら、原型の「日蓮」がどのように変化していったのかを見ないと、その時々の「日蓮」を見失います。

日蓮の姿勢は、純天台への復興運動で、原理主義と今風の言葉では表現できるのかもしれません。麻原彰晃は日蓮に似ているとは梅原・折口の共通認識でした。日蓮遺文を読み薦めると、たしかにそのような印象を懐く一面はあります。流罪・擬死罪に処された日蓮は、当時の一般民衆からすれば、どのように映じたか。民衆の側に立った宗教改革者。そうでしょうか? わたしは、まったく人々の支持を失っていったのだろうと思えます。実質的救済活動を続ける良観(真言律宗)の功罪はともかくとし、むしろ、こちらのほうが民衆の指示があったように映じたと思えます。

壮年時代の日蓮は世間一般から見れば、罪人であったからです。時宗は来る敵を迎え撃つ精神的鍛錬に禅を取り入れていきました。これもまったく日蓮とは違う方向でした。罪人となった日蓮は、王臣万民から捨てられた境遇となった。ここで、梅原・折口は、日蓮にルサンチマが生じたとみるようです。たしかにこの一面はあると思えます。しかし、その二極の一極であり、もう一極は、日蓮己心の宗教的昇華として結実していった。まさに一線を画する如く日蓮は佐前と佐後では、格段の相違を見せていきます。

現代、世界では宗教におけるテロリズムが問題になっています。しかし、わたしの世代ではテロといえば共産革命の代名詞でした。正確に言えば、信者側の認識ではテロというよりジハード(聖戦)なのであろうと思えます。滝本師の言葉を籍りれば「際限のない善意の殺人」ということです。関連して、近代の宗教テロリズムの一つとして、オウム真理教は世界的に認識されています。破壊と再生の神・シバを祀り、麻原が何を考えたのか。宗教に疎い人々でも、「ポア」はメディアを通じて知られるところとなりました。

ジハードとポア。一見、日蓮門下に関係のないことと認識されますが、それは「現在の日蓮では」という但し書きが必要です。この点は、創価学会に関連して、のちほど、記そうと思います。

まずは実在の日蓮から考えることにします。日蓮にジハードとポアに類似した考えがあったのか。わたしはあったと考えます。ジハード、それは、直前に記したとおりの隣国王が邪法・悪国・謗法の日本を責め滅ぼすというシナリオに見ることができます。一方、ポアは、涅槃経を根拠として、念仏者刎頭の主張に見ることができると考えます。

日本はついに蒙古に占領されることはありませんでした。その後、長らく内戦時代は続きますが、侵略は免れたわけです。この歴史過程で、わたしは大きな二つの変化が日蓮門下にはあったと考えます。一つはジハード教義の放棄、そして、もう一つはポア教義の放棄です。このほ二つの根幹の放棄の時点で、もう一つ、国主観は長い時間を経て変化していったと思えます。
一方、唱題利益と祈祷による祈願成就という形で一般民衆に浸透して言った「日蓮」はここでは、もはや、今の言葉で言う民衆仏法化の道を既に歩み始めています。

放棄されたはずの日蓮のジハードとポアが復活する日がやってきます。
わたしは、それを戦前の日蓮主義に見ます。世界最終戦争、大東亜聖戦における日蓮信仰です。(この時代、しかし、目覚しい日蓮研究の飛躍があったことも事実です。今は、この点は論旨の異なるので述べません)

国主観の変化、先にそう記しましたが、神仏習合という日本仏教は、本地垂迹説に基づき、日蓮の国主観とは理論的な基礎(正法護持=賢王)とは、また、違った展開をしてきました。要は、天皇に代表される国神は釈尊と同一であるという考え方です。これはまた、日蓮本仏圏では天照八幡=日蓮という教学的展開ともなったわけです。
かつて、鎌倉幕府下、愚王、謗国として、梵天帝釈が身に入れ替わった隣国の聖人から仏罰、武力行使と侵略を受けて国家滅亡するという被治罰側と日蓮が認識した日本は、いまや、全く、逆の本化聖天主を仰ぐ、治罰する側へと180度正反対の解釈をここで見ることができます。
ここでは日蓮とは全く正反対でありながら、ジハードとポアの思想が復活したわけです。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板